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-----2章01
『母と子の心霊教室』【第2章 「エーテル界」とはどんなところだろう】第1章では人間がどのようにできあがっているかということ、それからもうひとつ、「死ぬ」ということはどのようなものか、ということを学びました。人間は肉体とエーテル体と精神の3つからできています。
『母と子の心霊教室』では肉体を捨(す)てた人々がいくエーテル界とはいったいどんな世界なのでしょうか。第2章ではそれを勉強することにしましょう。【1 目覚(めざ)め】みなさんもよく知っているとおり、人間はいろんな死に方をします。
『母と子の心霊教室』ある人はながいながい病気のすえ、苦しみながら息をひきとります。ちょっと考えると気の毒な気がしますね。でもよく考えてごらんなさい。病気をしていたのはエーテル体ではなくて肉体なのです。エーテル体はけっして病気をしません。けがもしません。
『母と子の心霊教室』病気をしたり足が不自由になったりするのは肉体だけです。その肉体を捨(す)ててしまうのですから、気の毒ではなく、ほんとうはしあわせなはずです。
『母と子の心霊教室』みなさんだって歯がズキズキ痛(いた)むようなときは、眠(ねむ)っているときがいちばんらくだと思うでしょう。それは、エーテル体と精神とが肉体から離(はな)れるからです。苦しみながら死んでいく人が必ずしも気の毒ではないことが、→
『母と子の心霊教室』→これでわかるでしょう。もうひとつの死に方は交通事故や戦争などでアッという間に死んでしまう場合です。こういう死に方を即死(そくし)といいますね。即死(そくし)した人は病気した人とちがって、はじめのうち自分が死んだことに気づかず、→
『母と子の心霊教室』→まだ地上にいるような気持ちで、あちらこちらをウロウロすることがあります。しかし病死した人も即死(そくし)した人も、はじめのうちはしばらくゆっくりと休んで、無理なことをしないように気をつけなければなりません。
『母と子の心霊教室』それはちょうど、病気が治ったばかりの人が無理なことをしてはならないのと同じことです。ですからエーテル界にはそういう人たちのために病院のような建物が設けられております。病院といっても地上の病院とはだいぶちがいます。
『母と子の心霊教室』お医者さんも看護婦(かんごふ)さんもいますが、けっして注射(ちゅうしゃ)をしたり薬を飲ませたりするのではなく、これからの生活に使うエーテル体と精神とをつよくがっちりとしてあげるのです。
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-----2章02
『母と子の心霊教室』【2 サマーランド(常夏(とこなつ)の国)】このような休憩(きゅうけい)と準備をする世界を、サマーランド“常夏(とこなつ)の国”と呼(よ)んでいます。みなさんの中で、夏がきらいだという人はいないでしょう。
『母と子の心霊教室』野山は青々と茂(しげ)り、空には入道雲(にゅうどうぐも)が出て、みんな海水浴に行ったり遠足をしたりして1日中遊びまわります。常夏(とこなつ)の国では1年中そのような季節がつづくのです。
『母と子の心霊教室』いえ、実際に常夏(とこなつ)の国へ行ってきた人の話では、地上の夏よりもっともっとすばらしいのだそうです。緑の野原、美しい森、さわやかなせせらぎ、青々とした湖。野山へ出ると、地上では見られないような美しい花が咲き乱(みだ)れております。
『母と子の心霊教室』もちろん、家もあれば庭もあり、高いビルもあります。図書館もあります。音楽会や絵の展覧会(てんらんかい)を開くための大きなホールもあります。その上、エーテル体はおなかがすいたり、寒くて冷えたりすることがありませんので、→
『母と子の心霊教室』→みんな元気いっぱい、仲良(なかよ)くしあわせに暮(く)らしております。
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-----2章03
『母と子の心霊教室』【3 エーテル界の学校】今から約100年ほど前に、アメリカのアンドリュー・ジャクソン・デービス(口絵写真)という人がエーテル界を見物して、そのようすをたくさんの書物に著(あらわ)しました。
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『母と子の心霊教室』その中でデービス先生はエーテル界の学校のことを、だいたいつぎのように説明しております。エーテル界の学校は美しい庭園にかこまれていて、地上の学校と同じようにおおぜいの生徒がいくつかの組にわかれて勉強しています。
『母と子の心霊教室』みんな子どものときに地上を去った人ばかりです。もちろん各組には担任(たんにん)の先生がついておられます。また、それぞれの組にはその組を示す旗があり、生徒はみんな自分の組の目じるしになるバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』その旗の色とバッジを見れば、この人はどの組の生徒で、どんなことを学んでいる人だということがわかるようになっているのです。たとえば紫色の旗を立てた組があります。そして、生徒は“海”をあらわすバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』この組は神が人類の“父”であり、人間はみな兄弟であることを学んでいるのです。またある組は青色の旗を立て“灯台”をあらわしたバッジをつけております。この組では正しいことと悪いことの区別を学び、また神が自然の中でどのようにあらわれているかを→
『母と子の心霊教室』→勉強します。また音楽にあわせてダンスをしたり、遠くまでハイキングにいったり、あるいはゲーム遊びをしたり…。しかし、そうしているあいだにもいろんなことを勉強します。
『母と子の心霊教室』たとえば、ダンスをする時の一人ひとりの動き方は、1年中の星座(せいざ)の動き方にあわせたりして、ダンスを楽しみながら天体の動きを学ぶわけです。
『母と子の心霊教室』デービス先生はまた、ある学校の生徒がよその学校を訪問(ほうもん)するために、野を越(こ)え山を越(こ)えて、楽しそうに歌を歌いながら元気よく行進している光景も見たと書いておられます。楽しくなるではありませんか。
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-----2章04
『母と子の心霊教室』【4 デービス先生の心霊(しんれい)学園】エーテル界の学校のすばらしさに感心したデービス先生は、友だちをまじえて、ぜひ地上にも同じような学校を建てようと考えました。それにはつぎのような理由がありました。
『母と子の心霊教室』ひとつはキリスト教の日曜学校の子供たちが牧師さんの説くことを暗記するだけで、自分で考えることをしないこと。第2は、その牧師さんの説教の中には、心霊学(しんれいがく)からみてまちがっていることがたくさんあり、→
『母と子の心霊教室』→子どもたちがおとなになってから信仰心(しんこうしん)をなくしてしまう原因になっていること。そして第3番目には、真理を学んで心をつよく美しくするだけでなく、からだも丈夫(じょうぶ)にしなくてはならないこと。
『母と子の心霊教室』こうした考えは今のみなさんにはあたりまえのように思えるかもしれませんが、そのあたりまえのことが100年もまえにはとんでもないことのように思われたのです。当時は牧師さんの教えをよく守り、よく勉強することがいちばん立派(りっぱ)なことと→
『母と子の心霊教室』→されていたからです。しかし、デービス先生たちはこれを実行に移しました。そしてこれに「心霊(しんれい)学園」という名前をつけました。この「学園」という言葉はギリシャのアリストテレスという偉(えら)い哲学者(てつがくしゃ)が、→
『母と子の心霊教室』→アテネの町はずれの森の中に建てた学校につけたものです。心霊(しんれい)学園は日曜ごとに開かれ、先生も生徒もいっしょうけんめいでした。生徒たちは、おもに地上生活とエーテル界の生活についての真理を学び、→
『母と子の心霊教室』→また何ごとも自分自身で考え、人が言ったことや書物に書いてあることを、そのまま暗記するようなことは絶対にしませんでした。
『母と子の心霊教室』今ではアメリカやイギリスにはたくさんの心霊(しんれい)学園ができておりますが、どれもデービス先生の建てたものにならったものです。
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-----2章05
『母と子の心霊教室』【5 考えたことがそのまま実現する】ふたたびエーテル界の話にもどりましょう。地上では生きていくためにはお金がいりますね。お金を得るためにはいっしょうけんめいはたらかねばなりません、ところが、エーテル界ではその必要がまったくないのです。
『母と子の心霊教室』たとえば、画家が絵をえがく場面を想像してみてください。まず、これからえがこうとする絵を頭の中で想像するでしょう。想像したら、こんどはそれをえがくのに必要な絵具を用意するでしょう。それから何日も何ヶ月もかかって画用紙の上にかきあげていきます。
『母と子の心霊教室』そのあいだには絵具が足りなくなることもあるでしょう。気に入らなくて最初からかきなおすこともあるでしょう。ところがエーテル界では、頭にうかべたことがそのまま目の前に実現するのです。絵具を用意する必要もありませんし、時間をかける必要もありません。
『母と子の心霊教室』必要なのは、“実現させようとする意思”、それだけなのです。この意思さえあれば、どんなものでもこしらえることができるのです。そういうとみなさんは、ではアイスクリームもチョコレートも自分で作れるのかな、と考えることでしょう。作れますとも。
『母と子の心霊教室』お菓子(かし)だけでなく服でも靴(くつ)でも、すきなものがすぐに作れます。ですが、エーテル界には「必要なもの」と「必要でないもの」があるのです。そのわけはみなさんにもわかるでしょう。そうです。肉体の性質とエーテル体の性質がまったく異なっているからです。
『母と子の心霊教室』第1に、エーテル体はおなかがすくようなことがありませんから、どんなにおいしい料理をこしらえても、それを食べる必要がないのですからつまりません。それに、あまりおいしいものばかり見ていると、いつの間にか少しもほしいと思わなくなってくるのです。
『母と子の心霊教室』つぎに、エーテル体は寒さを感じませんから、きちんとした服装(ふくそう)をしていればよく、オーバーなどを作る必要はありません。ずっと前のことですが、私はチョコレート工場を見学したことがあります。そのときに聞いたことですが、そこの工員さんはほしいだけ、→
『母と子の心霊教室』→チョコレートを食べてよいことになっているのだそうです。「いいなあ」「うらやましいなあ」みなさんはきっとそう思うでしょう。ところがそこの工員さんたちは、チョコレートなんかひとかけらもほしくありません、といっておりました。毎日毎日見ているからです。
『母と子の心霊教室』私もみなさんに負けないくらいチョコレートがすきですが、3時間もかかって工場を見学しているうちに、少しもほしいと思わなくなってしまいました。常夏(とこなつ)の国でも同じなのです。
『母と子の心霊教室』すきなものがいくらでも作れるようになると、いつの間にかそれがほしくなくなってくるのです。すると別のものがほしくなります。こうして自分のすききらいがつぎつぎに変わっていき、あとでふり返ってみると、地上にいたときとはぜんぜんちがった人間になっているものです。
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-----2章06
『母と子の心霊教室』【6 エーテル界の仕事】みなさんは大きくなったら、なにになりたいですか。学校の先生?飛行機のパイロット?それとも病院の看護婦(かんごふ)さん?それぞれ「ああいう人になりたい」とか「こういう仕事がしたい」とか、いろいろ希望があることでしょう。
『母と子の心霊教室』ですが、みんながみんな自分の思った通りの仕事につけるとは限らないようです。画家になりたくても絵だけでは生活できないので、しかたなしに銀行につとめたり、音楽家になりたいと思っていた人が、家の都合(つごう)で洋服屋さんになったりすることもあります。
『母と子の心霊教室』こういうことは、地上のように、食べなくては生きていけない世界ではしかたのないことです。では、だれひとり仕事をしなくなってしまうのではないかしら、と考える人がいることでしょう。ところが実際はそうではないのです。
『母と子の心霊教室』エーテル界の人はみんな自分がいちばんすきだと思う仕事に、いっしょうけんめい熱中しております。絵のすきな人は絵を、音楽のすきな人は音楽を、いっしんに勉強しております。
『母と子の心霊教室』遊んでいる人などひとりもいません。どんなに忙(いそが)しくても、みんな自分のすきな仕事をしているのですから、少しもいやな顔をしません。みんなしあわせそうです。
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-----2章07
『母と子の心霊教室』【7 ポチもミケもいる】みなさんの中には動物を飼(か)っている人がおおぜいいることでしょう。そういう人たちはきっと「犬(いぬ)や猫(ねこ)はどうなるのかなあ」と心配しているにちがいありません。でも安心してください。
『母と子の心霊教室』常夏(とこなつ)の国に住んでいる人に聞いてみますと、犬(いぬ)や猫(ねこ)もちゃんと生き続けているということです。ですが、それは人間にかわいがられているものに限るのだそうです。
『母と子の心霊教室』ということは、みなさんがかわいがってやりさえすれば、いつまでもその動物といっしょに暮(く)らすことができるということなのです。うれしいことですね。
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-----2章08
『母と子の心霊教室』【8 悪い人もいる】ところで、みなさんの中には「悪い人たちはどうなるのだろう。悪いことをした人も今までのお話のように幸福な暮(く)らしがゆるされるのだろうか。もしそうだとしたら、それは不公平なことだ」と不服をいう人がいるかもしれません。
『母と子の心霊教室』おっしゃるとおりです。私が今まで述べたことは、地上で善い行いをした人たちのことばかりでした。では、地上で悪いことをした人は、死んでからどうなるかということをつぎにお話いたしましょう。
『母と子の心霊教室』じつは、エーテル界というのは、目に見えない死後の世界のことを、ひと口にそういっているだけで、ほんとうはエーテル界にもたくさんの世界があるのです。地上の学校にも幼稚園(ようちえん)から小学校、中学校、高等学校そして大学というふうに→
『母と子の心霊教室』→たくさんあるでしょう。それと同じことです。地上生活はその中の幼稚園(ようちえん)のようなものです。地上を去って最初にいく世界を「幽界(ゆうかい)」といいますが、ここはエーテル界の小学校のようなところです。
『母と子の心霊教室』さっき説明した常夏(とこなつ)の国というのは、その幽界(ゆうかい)のそのまた1部分のことなのです。さて、みなさんの中には、よく勉強する人と、なまけてばかりいる人とがいるでしょう。そして、小学校で熱心に勉強していた人は、中学校へ上がっても先生から教わることが→
『母と子の心霊教室』→スラスラとよくわかりますが、なまけてばかりいた人はとても困(こま)ります。よくわからないのでますます勉強がいやになり、楽しいはずの学校が少しも楽しいところではなくなってしまいます。これと同じように、地上で悪いことばかりしていた人は幽界(ゆうかい)へ行った→
『母と子の心霊教室』→時にひじょうに困(こま)ります。地上でお友だちだった人からものけ者にされるし、新しいお友だちもできません。そのうちひとりぼっちで暗いところで暮(く)らすようになっていくのです。
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-----2章09
『母と子の心霊教室』【9 自分がまいた種は自分が刈(か)りとる】では、悪いことをした人は、いつまでも暗いところで暮(く)らさねばならないのかというと、けっしてそうではありません。みなさんだっていまの成績が悪くても、これから熱心に勉強すれば、→
『母と子の心霊教室』→高等学校にだって大学にだって行けるはずです。それと同じように自分の行いや心がけを反省して、これからは正しい人間になろうと一心に努力すれば、神様はいつでも救いの手を差しのべてくださり、明るく美しい世界へつれて行ってくださるのです。
『母と子の心霊教室』「だったら、悪いことをしても神様にお願いして、上の世界へつれていっていただけばいい」と考える人がいるかもしれません。しかし、それは絶対に許されないことなのです。そのわけをつぎに説明しましょう。
『母と子の心霊教室』たとえば、いま私がチョコレートを口の中に入れたとしましょう。チョコレートはすぐにとろけて、あの甘(あま)いおいしい味がします。が、それは私の舌に「甘(あま)いなあ」「おいしいなあ」と感じるはたらきがそなわっているからであって、→
『母と子の心霊教室』→けっして私が善いことをしたごほうびではありません。また熱いストーブに手を触(ふ)れたらやけどをするにきまっていますが、これは私がなにか悪いことをした罰(ばつ)ではないでしょう。さわってはいけないものにさわった、そのまちがった行いによる→
『母と子の心霊教室』→結果がそうなったにすぎません。心がけの悪い人が暗いところへいって、ひとりでさびしく暮(く)らすのも同じことです。人間にはしてよいことと、してはいけないことがあって、いけないことをすると自然に苦しい状態になるのです。
『母と子の心霊教室』けっして神様が怒(おこ)って罰(ばつ)をあたえているのではありません。反対に、いつも善い行いをしておれば、心がますます美しく清くなって、いっそう幸福な境遇(きょうぐう)になります。
『母と子の心霊教室』むかしのことわざに「自分のまいた種は自分で狩(か)りとらねばならない」というのがありますが、これは真理であるだけでなく、とても大切なことを教えております。
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-----2章10
『母と子の心霊教室』【10 エーテル界はすぐそばにある】ところで、エーテル界といっている死後の世界は、いったいどこにあるのでしょうか。昔の人は、死んだ人は遠い西の果てにいくと考えたものですが、心霊学(しんれいがく)によって、→
『母と子の心霊教室』→それがまちがいであることがわかりました。であは、どこにあるのでしょう?驚(おどろ)いてはいけません。じつはエーテル界は私たちのすぐ身のまわりにあるのです。そうです。私たちの地球と同じ場所にあるのです。
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『母と子の心霊教室』むろん死後の世界の方が、地球よりずっと広くて大きいのですから、正確にいえば、エーテル界の中に地球が包まれているといった方がよいでしょう。これだけ説明すれば、死ぬということがただ肉体を捨(す)てるだけのことであることがよくわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』ちょうど潜水夫(せんすいふ)があの重い潜水服(せんすいふく)を脱(ぬ)ぐのと同じだと思えばよろしい。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。そうすると、死んだおじいさんやおばあさん、お父さんやお母さん、それから兄弟やお友だちなどは、→
『母と子の心霊教室』→いまもみなさんのすぐ身のまわりにいて元気に生活していることになるわけです。このことがまだよくわからない人がいるかもしれませんので、これをもっと別の方法で説明してみましょう。
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-----2章11
『母と子の心霊教室』【11 物体にはすきまがいっぱいある】私がいまこの本を書くために使っている机はカシの木でできております。持ち上げようとするとたいへん重いですし、たたいてみるととても固くて手が痛(いた)いほどです。
『母と子の心霊教室』ところが、物質のことを専門(せんもん)に研究している物理学者の話によりますと、物体は分子(ぶんし)という非常に小さな粒子(りゅうし)でできており、その分子(ぶんし)は原子(げんし)というさらに小さな粒子(りゅうし)からできているのだそうです(図を見て下さい)。
『母と子の心霊教室』両方とも、どんなに性能のよい顕微鏡(けんびきょう)によっても見ることができないほど小さなもので、このほんのページだけでも、何百万個という分子(ぶんし)と原子(げんし)とでできているということです。
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『母と子の心霊教室』では、みなさんはその原子(げんし)はいったい何からできていると思いますか。私も知って驚(おどろ)いたのですが、原子(げんし)は、電子(でんし)というさらにさらに小さな粒子(りゅうし)と原子核(げんしかく)とによってできていて、→
『母と子の心霊教室』→しかも、その電子は原子核(げんしかく)のまわりを休みなく回っているのです。さて、図を見てください。電子(でんし)と電子(でんし)とのあいだにはなにもありませんね。じつはそこがたいせつなところなのです。
『母と子の心霊教室』どのようにたいせつなのか、それを知っていただくためにつぎのような実験をしてみてください。みなさんは紅茶(こうちゃ)はすきですか。コーヒーの方がすきですか。いや、それはどちらでもよろしい。→
『母と子の心霊教室』→どちらにしてもみなさんは砂糖(さとう)を入れて飲みますね。よろしい、では、コーヒーでも紅茶(こうちゃ)でもいいですから、今日はとくに正確に分量をはかってカップに入れてください。つぎに、いつものように砂糖(さとう)を入れます。
『母と子の心霊教室』そして、その砂糖(さとう)が完全に溶(と)けてなくなるまでスプーンでよく混ぜてください。さて、舌の先でちょっとなめてみてください。甘(あま)いでしょう。そのはずです。砂糖(さとう)が入っているのですから。
『母と子の心霊教室』ではつぎにもう1度カップの分量をはかってみてください。どうです。増えていますか、それとも減っていますか。おそらく増えても減ってもいないはずです。ではいったい、砂糖(さとう)はどこへ行ってしまったのでしょう。
『母と子の心霊教室』たしかにカップの中に入れたのですから、カップの中のどこかにあるはずです。どこでしょう?そうなのです。いま説明したように、物体にはすきまがいっぱいあります。水も物体ですから、ちょっと見るとすきまはなさそうでも、実際にはすきまだらけで、→
『母と子の心霊教室』→むしろすきまの方が多いくらいなのです。そこで砂糖(さとう)は、そのすきまの中に入ってしまったのだということになります。けっして手品のように消えてなくなったのではありません。
『母と子の心霊教室』これでエーテル界が地球と同じ場所に存在(そんざい)できるわけがよくわかったでしょう。
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-----2章12
『母と子の心霊教室』【12 バイブレーションの話】みなさんはなにによって物を見ますか?「目です」―きっとそう答えるでしょう。なるほど目がなくてはなにも見ることができませんね。では、目があればかならず物が見えるのでしょうか。そうはいいきれませんね。
『母と子の心霊教室』だって、まっ暗いところではなにも見えないではありませんか。すると物が見えるためにはなにか別のものが必要であることになりますが、それは、いったいなんでしょうか。それは“光”です。光がなかったら、どんなに視力のいい目をしていてもなにも見えません。
『母と子の心霊教室』では、光とはいったいどんなものなのでしょう?みなさんの家には振(ふ)り子(こ)のついた時計がありませんか。あったら振り子の動くようすをよく観察してごらんなさい。右と左にいったりきたりして、休みなく動いていますね。
『母と子の心霊教室』また、もしピアノがあれば、あの大きなふたを開けて、キー(鍵盤(けんばん))をたたくと弦(げん)がどのように動くかを調べてごらんなさい。上下にはげしく動いているのがわかるでしょう。
『母と子の心霊教室』もっと気をつけてみると、高い音ほどはげしく振動(しんどう)していることにも気づくことでしょう。このような振動(しんどう)をバイブレーションといいます。つまり、ピアノの音はバイブレーションによって生じているのです。
『母と子の心霊教室』それと同じで、光もバイブレーションから生じているのです。つまり光も振動(しんどう)しているのです。ではつぎに、音はどのようにして聞こえるのでしょうか。それは、私たちの耳に音のバイブレーションを感じとる器官がそなわっているからです。
『母と子の心霊教室』そして音のバイブレーションには、はげしいものからゆるやかなものまでいく種類もあるのですが、私たちの耳はその1部分しか感じとることができません。
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『母と子の心霊教室』あまりはげしく振動(しんどう)する高い音や、反対にあまりゆるやかすぎる低い音は聞こえないようになっているのです。これと同じことが光にもいえます。すなわち、光にも細かく振動(しんどう)するものから大きく振動(しんどう)するものまで→
『母と子の心霊教室』→いくとおりもあって私たちの目に映(うつ)るのはそのごく1部だけなのです(図を見てください)。振動(しんどう)の波の大きすぎる光の中には、人間の目には映(うつ)らずに、皮膚(ひふ)にぬくみを感じさせるものもあります。
『母と子の心霊教室』これは光線といわずに熱線といいます。そのほかレントゲン写真に使うX線(エックスせん)とか、ラジオや電話、あるいは電報などに使われる無線(電磁波(でんじは))というのもあります。さて、ここでラジオのことを考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』みなさんがダイヤルをまわすと、いろんな放送局の放送が入ってきますが、スイッチを切ると、それきりなにも聞こえなくなります。では、聞こえないときは放送局が放送をやめているのでしょうか。そうではありませんね。
『母と子の心霊教室』放送局は放送を続けているのですが、みなさんのラジオがそれを受信するのを中止しているにすぎません。その証拠(しょうこ)に、もう一度スイッチを入れると、また放送が聞こえてきます。人間はちょうどこのラジオのようなものです。
『母と子の心霊教室』この地球上で生活している間は目・耳・鼻・皮膚(ひふ)・舌の5つの器官に感じられるものばかりを受信していますが、肉体を捨(す)ててエーテル界へ行くと、こんどはエーテル体に感じられるものばかりを受信するようになります。
『母と子の心霊教室』ですから、エーテル界にいる霊(れい)の姿(すがた)を見ようと思えば、肉体から出てエーテル界まで行かなければならないわけです。これで、ふだん私たちの目に死んだ人の姿(すがた)が見えないわけがわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』また、目に見えないからそんなものは存在しない、と考えるのはまちがいであることもわかったでしょう。しかし、中には肉体をもっていながら、エーテル体をはたらかせてエーテル界を見物したり、その世界の人たちと話をしたりすることができる人がいます。
『母と子の心霊教室』はじめに紹介(しょうかい)したデービス先生もそのひとりですが、そのような人を“霊能者(れいのうしゃ)”とか、“霊媒(れいばい)”と呼(よ)んでいます。第3章では、そういった人たちについてくわしく説明することにしましょう。
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-----2章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 心霊(しんれい)用語について―訳者(やくしゃ)】心霊学(しんれいがく)というのは、いまからおよそ140年前に、米国で発生した心霊(しんれい)現象がきっかけとなって発達してきたものです。
『母と子の心霊教室』そして現在までのところその用語は、古い神話や伝説の中で使われていたものに、新しい意味を加えて使用しているのです。そのために、古い用語についての先入観念(せんにゅうかんねん)が、正しい理解を邪魔(じゃま)することがあり、→
『母と子の心霊教室』→そのいちばんよい例が“霊(スピリット)”という言葉です。心霊学(しんれいがく)で霊(れい)といったときは、個性をそなえた実際の存在(そんざい)を意味しますが、一般の人は影(かげ)も形もないものとして受けとめる傾向があります。
『母と子の心霊教室』先祖の○○霊(れい)の供養(くよう)を欠かさない人が、心霊学(しんれいがく)でいう霊(れい)については、そんなものは存在(そんざい)しないといったりする、奇妙(きみょう)なことが生じるわけです。
『母と子の心霊教室』本書ではそうした点を考慮(こうりょ)して、死後の世界のことを「エーテル界」と呼(よ)び、そこで使用するからだのことを「エーテル体」と呼(よ)びました。英米でもそのように配慮(はいりょ)している人がいます。
『母と子の心霊教室』エーテルというのはetherealといい、“霊妙(れいみょう)な”とか、“天上的な”といった意味があります。じつをいうと、エーテル界には段階的に下から上へといくつもあり、それに応じてエーテル体にもいく種類かがあるわけです。
『母と子の心霊教室』そしてそれぞれに個別の呼(よ)び方をしているのですが、いまのべたとおり、その用語にはとかく先入観念(せんにゅうかんねん)がつきまといがちですし、本書は文字どおりの入門書である点を考えて、→
『母と子の心霊教室』→とくにやむを得ない場合をのぞいて、なるべく「エーテル界」「エーテル体」を使用しています。
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-----1章01
『母と子の心霊教室』第1章「人間」とはなんだろう【1 真理を学ぼう】みなさんの住んでいる地球上には、よくわからないことがたくさんあります。その証拠に、みなさんはよく「あれは何?どうしてそうなるの?」という質問をしてお父さんやお母さんを困らせることがあるでしょう。
『母と子の心霊教室』あまりつぎつぎとむずかしい質問をすると「これこれ、いい加減にしないか。お父さんは今いそがしいんだよ」といって逃げていく、ずるいお父さんもいることでしょう。ですが、ほんとうはそのお父さんやお母さんも、子どものころはみなさんと同じようにたくさんの質問をして→
『母と子の心霊教室』→おじいさんやおばあさんを困らせたことがあるのです。では、そのように物を知りたがるのは、みなさんたち少年少女だけでしょうか。けっしてそうではありません。おとなも子どもも、男も女もみんな、わからないことを聞いたり研究したりすることがだいすきです。
『母と子の心霊教室』そして、毎日わからないことをいっしんに研究している人を「科学者」といいます。科学者にもいろいろあります。空の星のことを研究している人、植物のことを研究している人、人間のからだの構造を調べている人、ほかにもまだまだたくさんいます。
『母と子の心霊教室』こういう人たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)や顕微鏡(けんびきょう)を使って、星や植物やからだについての正しい知識、つまり真理を学ぼうとしているのです。なぜ真理を学ぶのでしょう。
『母と子の心霊教室』それは、真理を知れば知るほど生活がゆたかになり、人間がしあわせになるからです。では真理を研究しているのは科学者だけでしょうか。けっしてそうではありません。美しい絵や楽しい音楽をつくっている人たち、この人たちもやはり絵や音楽についての真理を勉強しているのです。
『母と子の心霊教室』けっきょくみなさんのまわりにあるもの全部―机の上の本やえんぴつ、みなさんが着ている衣服、台所にあるガスやマッチ、壁にかかっている絵、これらはみな、真理を研究した人びとのおかげなのです。
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-----1章02
『母と子の心霊教室』【2 いちばんむずかしい問題】むかし、ある有名な詩人が「人間がまっ先に研究しなければならないものは“人間”である」といいました。少し変に思われますが、よく考えてみると、なるほどそうだと思います。
『母と子の心霊教室』人間については、昔から多くの偉(えら)い人たちがいろいろと研究してきましたが、これほどおもしろくて、これほどむずかし問題はありません。みなさんも人間について考えてみたことがあるでしょう。ない?そんなはずはありません。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、みなさんはこんな疑問(ぎもん)をもったことはありませんか。「いったい、自分はどこから来たのだろう?」「ぼくのからだが、知らないうちにだんだん大きくなっていくのはなぜだろう?」
『母と子の心霊教室』「わたしとポチやミケとは、どんなところがちがっているのかしら?」「ポチやミケは、なぜ言葉が話せないのだろう?」「死んだらぼくたちはどうなるのだろう?」こういう問題は花や魚の研究よりずっとおもしろそうですね。
『母と子の心霊教室』ですがまた、ずっとむずかしそうでもあります。では、これからみなさんといっしょに、人間について少しずつ勉強していきましょう。
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-----1章03
『母と子の心霊教室』【3 生きているものは変化する】みなさんはすでに学校で、私たち人間のからだの成長のしかたや、血液・胃・筋肉などのはたらきについていろいろと教わっているはずです。
『母と子の心霊教室』ところが不思議なことに、人間のからだは1日ごとに、いえ1秒ごとにすりへり、すりへると思うと、すぐそのあとから新しいものができているのです。皮膚(ひふ)や頭の毛などは、ほとんど休みなしに死んだり生まれかわったりしております。
『母と子の心霊教室』しかし、いちばんながい部分になると、すっかり新しくなるまでに7年もかかります。そうすると私たちのからだは7年ごとに、まったく新しいからだに生まれかわっていることになります。
『母と子の心霊教室』このようにつぎからつぎへと変化していくことは、それが生きていることの証拠(しょうこ)なのです。死んだものは変化しません。たとえば、カシの木を植えると、しだいに背が高くなり、枝(えだ)もぐんぐん太くなっていき、毎年春になれば新しい葉をつけます。
『母と子の心霊教室』ところが、ためしにその枝(えだ)を切りとって、それでおもちゃのポストでもこしらえてごらんなさい。いつまでたってもポストの大きさは変わりません。それはポストに、カシの木を“生きさせて”いた生命(いのち)というものがないからです。
『母と子の心霊教室』生きているものはつねに変化します。植物・魚・虫・小鳥、どれをみても必ず変化しています。では植物を例にとって、それがどのように変化していくかをいっしょに見てみましょう。
『母と子の心霊教室』まず私たちがタネをまくと、そのタネから芽が出て、明るい方に向かってぐんぐんのびながら枝(えだ)をだし葉をつけます。やがて花が咲(さ)き、実(み)をつけます。
『母と子の心霊教室』その実(み)の中には前と同じタネが入っていて、それをまくと、ふたたび同じように芽をだし、同じように生長して、またおなじ実をつけます。植物は昔からこういう生活を数え切れないほどくり返しているのです。
『母と子の心霊教室』こんどは蝶(ちょう)の生活を見てみましょう。図を見て下さい。蝶(ちょう)の生活は卵からはじまります。その卵は植物の葉について、やがて幼虫(ようちゅう)がかえります。これをみなさんは“毛虫”と呼(よ)んでおります。
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『母と子の心霊教室』しばらくすると、その幼虫(ようちゅう)は、自分の身体に糸のようなものをグルグルと巻(ま)きつけて、図3に見るような、まるい袋(ふくろ)をこしらえます。これをマユといい、毛虫の寝床(ねどこ)のようなものです。
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『母と子の心霊教室』その寝床(ねどこ)の中から、いよいよあの美しい蝶(ちょう)が出てきて、花から花へと飛びまわり、そのうち、どこかの植物の葉に卵を生みつけます。するとその卵からふたたび幼虫(ようちゅう)が生まれて、同じような順序をたどりながら最後にまた蝶(ちょう)になります。
『母と子の心霊教室』これが蝶(ちょう)の生活です。おもしろいことに、よく研究してみると人間にも蝶(ちょう)と同じような変化があるのです。私たち人間はお母さんのからだから生まれます。そのときは話すことも歩くこともできません。
『母と子の心霊教室』それが少しずつ歩けるようになり言葉も話せるようになって、ついには、地球上でいちばんすぐれた動物となります。もちろん大きくなっていくうちには、さっき説明したように、私たちのからだはつぎからつぎへと変化しています。しかし、その変化はいつまでも続くのではありません。
『母と子の心霊教室』いつかは、もうこれ以上新しくなれないという時期がやってきます。ところがありがたいことには、私たち人間は肉体だけでできているのではないのです。ためしにお母さんにたのんで、お母さんがまだみなさんぐらいの少女だったころの写真を見せていただきなさい。
『母と子の心霊教室』それをひと目みたみなさんはきっと「へー、これがお母さん?」といって、そのちがいに驚(おどろ)くことでしょう。顔・手・足、なにもかも今のお母さんとはずいぶんちがっております。
『母と子の心霊教室』なのに、お母さんはやっぱりお母さんであり、からだはすっかり変わっていても、どこかに少女のころと少しも変わっていないところがあることに気がつくでしょう。
『母と子の心霊教室』そうすると私たちは目に見える肉体のほかに、いつまでも変化しない“別のもの”があるにちがいないということになります。それはいったいどんなものでしょうか。
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-----1章04
『母と子の心霊教室』【4 人間は3つの要素からできている】じつは、心霊学(しんれいがく)が教えるところによると、人間には肉体のほかに「エーテル体」と「精神」のふたつの要素があるのです。肉体については学校で教わっているはずですから、→
『母と子の心霊教室』→ここではエーテル体と精神のふたつについて説明しましょう。まずエーテル体はふつうの眼(め)では見ることができませんが、肉体とそっくりの形をしていて、いつも肉体といっしょに動きます。
『母と子の心霊教室』生まれたときも肉体とおなじ大きさで、肉体が成長するにつれてエーテル体もいっしょに大きくなります。ただエーテル体には肉体にまねのできないふたつの大きな特徴(とくちょう)があります。第1は、けっして年をとらないことです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体は年をとるとしだいに元気がなくなってきますが、エーテル体はいったん形ができあがるとけっして年をとらず、いつまでも若々しく元気にあふれています。第2の特徴(とくちょう)は、いつも完全であることです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体はけがをすると傷(きず)あとができたり、事故のために足を折るとそのまま一生涯(いっしょうがい)不自由になってしまいますが、エーテル体はけっしてそういうことがないのです。さてこのふたつの特徴(とくちょう)をよく考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』エーテル体はけっして年をとらない。いつまでも元気である。けがもしない。片足がなくなってもエーテル体の足はちゃんと残っている。そうすると人間は、たとえ肉体がほろびて地上からいなくなっても、今度はそのエーテル体を使って→
『母と子の心霊教室』→どこかで生活しているはずだ、ということにならないでしょうか。事実そうなのです。肉体はなくなってもエーテル体はけっしてほろびません。ですから地上でからだに障害(しょうがい)のあった人も、死んでつぎの世界へいくと完全なからだに→
『母と子の心霊教室』→もどることができますし、生まれつき目が不自由だった人も、立派(りっぱ)に物が見えるようになります。ほろびた肉体はそのまま土にもどってしまい、やがては植物の栄養分となって、ふたたび生きもののからだになっていきます。
『母と子の心霊教室』さっき私は、お母さんの子どものころの写真を見ると、顔やからだはすっかり変わっているのにどこかに少しも変わっていないものがあるといいましたが、ではその変わっていないものというのは、いったいなんでしょうか。
『母と子の心霊教室』それがじつは「精神」なのです。精神のはたらきにはいろいろあります。物事を考えたり、覚えたり、真理を研究したり、知恵(ちえ)をしぼったりすることは、みな精神のはたらきです。精神がなかったら手足を動かすこともできません。
『母と子の心霊教室』「生きているものは変化する」といいましたが、つぎつぎと新しくなっていくのも精神のはたらきがあるからなのです。そうすると精神は非常にたいせつなものだということになりますね。そうです。人間がもっているものの中で精神がいちばんたいせつなのです。
『母と子の心霊教室』その精神は私たちが地上にいるあいだ、つまり肉体を使って生きているあいだは脳(のう)と神経によって肉体を動かし、いろんな生活をします。
『母と子の心霊教室』しかし、さっきもいったとおり、肉体はいつか使えなくなるときがきます。そうすると精神は肉体を捨(す)てて、こんどはエーテル体を使って生活するようになるのです。
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-----1章05
『母と子の心霊教室』【5 「死」とはなんだろう】それでは地上にいるあいだはずっと肉体の中にいるのかというと、そうではありません。私たちがこころよい眠(ねむ)りにつくとエーテル体は肉体から離(はな)れます。
『母と子の心霊教室』その離(はな)れる距離(きょり)は近いときもあれば遠いときもありますが、どんなに遠く離(はな)れても、かならず銀色をした「生命の糸」によってつながれております。
『母と子の心霊教室』そのふたつのからだ、すなわち肉体とエーテル体とが一体となったときに目が覚めるのです。肉体から離(はな)れているあいだ、エーテル体は地上の遠いところへ見物に出かけたり、エーテル界(エーテル体で生活するつぎの世界)を訪(おとず)れたりしますが→
『母と子の心霊教室』→そのときのことを目が覚めてからはっきり思い出すことはめったにありません。しかし、ある人はいつでも自分のすきなときに肉体からぬけ出て、自分の思う場所へ旅行し、しかもそのときのことをあとで肉体にもどったときにはっきりと思い出すことができます。
『母と子の心霊教室』こういう人を「霊能者(れいのうしゃ)」といい、そういう現象を「幽体離脱現象(ゆうたいりだつげんしょう)」といいますが、これについてはあとでくわしく説明しましょう。では、もしその生命の糸が切れてしまったらどうなるでしょう。
『母と子の心霊教室』もちろん2度と肉体にもどれなくなってしまいます。「死んでしまった」というのは、生命の糸が切れてしまったことなのです。ですから「死」とはエーテル体が肉体を捨(す)てて、そのままつぎの世界で新しい生活をはじめる、→
『母と子の心霊教室』→その出発点ということができるのです。ここでもういちど、蝶(ちょう)の生活を思い出してください。毛虫はいよいよ蝶(ちょう)になる前は小さなマユの中にいますね。その毛虫をみなさんはまさか、かわいそうだとは思わないでしょう。
『母と子の心霊教室』なぜなら、なるほどマユの中はきゅうくつですが、もうすぐあの美しい蝶(ちょう)になって、広々とした花畑を飛びまわることができるのですから…。
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『母と子の心霊教室』人間が死ぬということは、ちょうどこの蝶(ちょう)のように肉体というきゅうくつなマユからぬけ出るのと同じことなのです。別のたとえでいえば、夜に寝(ね)て翌朝(よくあさ)別の世界に目を覚ますのと同じようなものだと思えばよいでしょう。
『母と子の心霊教室』すると死ぬのが恐(おそ)ろしいという人は寝(ね)るのがこわい人ということになってしまいませんか。おかしいですね。そうです。死とはけっして恐(おそ)ろしいものでも悲しいものでもないのです。
『母と子の心霊教室』その反対にとてもしあわせな、すばらしいものなのです。なぜなら、こんどは地上よりはるかに自由で美しい世界で生活するのですから…。ところで、死んだらすぐに地獄(じごく)か極楽(ごくらく)へいくと説く人がいますが、これはまちがっています。
『母と子の心霊教室』私たちはただ肉体のかわりにエーテル体を使って新しい生活をはじめるだけです。その世界は地上よりずっと明るくて、気持ちのよい世界です。が、けっして遊んでばかりいる世界でもありません。さらに新しい真理を学びながら、いちだんと心の清らかな人間になるように努力するのです。
『母と子の心霊教室』かりにお友だちが亡(な)くなったとしましょう。きっと、みなさんは悲しくてならないでしょう。残念でならないでしょう。ですがけっしてそのお友だちのことを“かわいそう”だと思ってはいけません。
『母と子の心霊教室』なぜならば、お友だちはこの宇宙(うちゅう)から消えてしまったのではなく、今いったように、地上よりいちだん高い世界で、新しい生活を始めながら、いつかはみなさんも同じ世界に来ることを楽しみに待っているのですから…。これは非常にたいせつなことなのです。
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-----1章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈―この世でうけた生命(いのち)はたいせつに―訳者(やくしゃ)】“浜までは海女(あま)も蓑(みの)きるしぐれかな”という俳句(はいく)があります。海女(あま)というのは海にもぐって魚貝や海草などをとる女の人のことですが、→
『母と子の心霊教室』→その海女さんの1人がこれから海へ向かって出かけようとしたら雨が降(ふ)りはじめました。すると、どうせ海にもぐってぬれてしまうのに、浜まではきちんと蓑(みの)を着ていった、というのです。これはなんでもないことのようで、とてもたいせつな事を教えております。
『母と子の心霊教室』この本を読んで、死後の世界のすばらしさを知ったみなさんの中にもし“だったら地上で苦しい思いをしないで、さっさと死んだほうがいいのではなかろうか”と考える人がいたら、それはたいへんなまちがいです。
『母と子の心霊教室』この本の付録で紹介(しょうかい)するシルバーバーチという3千年も前にこの世を去った霊(れい)が、そのながい霊界(れいかい)生活で知ったいちばんたいせつなことは、地上生活には地上でしか学べないたいせつなことがあり、それをきちんと身につけないで死ぬと、→
『母と子の心霊教室』→その足らないところを埋めあわせるために、霊界(れいかい)でいろいろとやっかいなことが起き、人によってはもう1度地上へ生まれてこなければならないこともあると述べております。
『母と子の心霊教室』仏教のお経(きょう)の中にも「人間としてこの世に生まれてくるのはとてもむずかしいことなのに、自分たちはいまこうして生まれてきているではないか。また、正しい真理を知ることもなかなかむずかしいことなのに、今こうして学んでいるではないか。」
『母と子の心霊教室』「もしもこの世でしっかりと身につけなかったら、いったいいつ身につけるのだ。いまのうちにしっかりと修養(しゅうよう)しようではないか」と説いているところがあります。みなさんもぜひ、そういう心がまえでたくましく生きていただきたいと思います。
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-----訳者まえがき
『母と子の心霊教室』訳者(やくしゃ)まえがき 今から25年も前のことですが、私は英国から送られてきたこの本の原書を手にして、これはぜひとも翻訳(ほんやく)して、日本の少年少女のみなさんに読んでいただきたいと思いました。訳(やく)はその年のうちにできていたのですが、→
『母と子の心霊教室』→それがこのたびようやく単行本として出版していただけることになり、私は今うれしい気持ちでいっぱいです。出版までに、なぜそんなにながくかかったかといいますと、当時はまだ心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)していなくて、→
『母と子の心霊教室』→少年少女向けの心霊書(しんれいしょ)をだすには早すぎたということです。それでその年はガリ版ずりにして、スピリチュアリスト(心霊仲間(しんれいなかま))のあいだだけで読んでもらい、それから数年後に、日本心霊(しんれい)科学協会の月刊誌(げっかんし)→
『母と子の心霊教室』→「心霊(しんれい)研究」に10回にわたって連載(れんさい)していただき、そして今回、それに全面的に改訳(かいやく)をほどこしたものを出版していただくことになったわけです。
『母と子の心霊教室』では、この本の出版をお願いすることになったのは、もうすでに正しい心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)してきたからかというと、残念ながらそうではないのです。
『母と子の心霊教室』最近たしかに心霊的(しんれいてき)なことが、テレビや雑誌(ざっし)などでさかんに報じられるようになりましたが、困ったことに、正しい心霊(しんれい)知識よりも間違った心霊知識、あるいは危険(きけん)な心霊知識の方が多いように思えるのです。
『母と子の心霊教室』しかも、意外に多くの青少年が心霊的(しんれいてき)なものに関心があることもわかってきて、このままでは、日本の青少年がまちがった先入観(せんにゅうかん)を植え付けられてしまうのではないかと→
『母と子の心霊教室』→心配し、その正しい基礎(きそ)知識を教えてくれるものとして、この本を出版する必要性を痛感(つうかん)したのです。何ごとも基本が大事です。心霊的(しんれいてき)な基礎(きそ)知識を学ぶ本として、このパーマー先生の本は最高だと信じます。
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『母と子の心霊教室』先生は英国のパブリックスクールでながいあいだ教えられ、最後は校長先生までなさった方です。私はこの本を手に入れてから、翻訳(ほんやく)の許可(きょか)をいただくための手紙を書いたのがきっかけとなって、その後パーマー先生と数え切れないほど文通を交わしました。
『母と子の心霊教室』「日本語版に寄せて」を書いてくださったのもそのころのことでした。「日本は自然の美しい国だと知人から聞いて、私もぜひいちどこの世に生きているうちに行ってみたいと思っているのですが、ずいぶんお金もかかりそうですし、それに私もだいぶ年なので…」
『母と子の心霊教室』と、いかにも質素を第一とした、スピリチュアリストらしい手紙をいただいたこともありましたが、それから間もなく、今から10数年前に亡くなられました。しかし、先生の青少年への希望は、この本の中に、立派に生き続けていると思います。
『母と子の心霊教室』私は翻訳(ほんやく)にあたって、その中に書かれている心霊(しんれい)知識といっしょに、先生の青少年への温かい愛情を伝えたいと思って、訳(やく)し方にいろいろと工夫をこらしました。
『母と子の心霊教室』ところで、心霊学(しんれいがく)のことはこれがはじめてという方にとっては、信じられないことや理解できないことが多いことと思います。そこで理解のむずかしそうなところは、私が“注釈(ちゅうしゃく)”という形で初心者向けに解説をほどこしておきました。
『母と子の心霊教室』それから、こうしたことが信じられないという方には、私からつぎのことを申しあげたいと思います。人類はこれまでさまざまな“信じられないこと”を発見してきました。地動説(ちどうせつ)がそうですし、原子(げんし)エネルギーがそうですし、→
『母と子の心霊教室』→宇宙(うちゅう)ロケットがそうですし、電子工学(でんしこうがく)の分野にいたっては日進月歩(にっしんげっぽ)の勢いで発明・発見がなされております。みなさんは別に驚きは感じないかもしれませんが、それはそうしたことが常識となった生活環境の中にいるからです。
『母と子の心霊教室』しかし私たちの生活環境(せいかつかんきょう)は、よく考えてみると、大宇宙(だいうちゅう)から微生物(びせいぶつ)にいたるまで不思議なことだらけなのです。その中でもいちばんの謎(なぞ)はじつは“人間そのもの”なのです。
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『母と子の心霊教室』人間については、はっきりとわかったことはなにひとつないといってもいいのです。たとえば、なぜ人間は物ごとを“考える”のか。なぜ“よろこび”、なぜ“悲しむ”のか。夜“寝て”朝なぜひとりでに“目が覚める”のか。
『母と子の心霊教室』その人体ができあがるいちばん最初は、目に見えないほど小さな細胞(さいぼう)でした。それが大きくなって科学を研究し、芸術を鑑賞(かんしょう)し、文学を語りスポーツを楽しむという、じつにさまざまな活動をするようになる、→
『母と子の心霊教室』→その知性と才能とエネルギーはいったいどこから生まれてくるのか、みな謎(なぞ)ばかりなのです。そうした謎(なぞ)について、ああでもない、こうでもないと思いあぐねていたときに、それを見事に説き明かしてくれる新しい思想が生まれました。スピリチュアリズムがそれです。
『母と子の心霊教室』そのくわしい内容は、これからパーマーさんが説明してくださいますが、それを読むにあたってのたいせつな心構えについてひとこと述べておきます。
『母と子の心霊教室』地動説(ちどうせつ)を最初にとなえたコペルニクスは、それまでの天文学者がみな地球を中心に考えていたのを、心の中で自分を太陽へと運んでいき、太陽に立って各天体の動きを観察したら、すべてがあっさりと解決したといいます。
『母と子の心霊教室』そこから地動説(ちどうせつ)が生まれたのです。つまり太陽が地球のまわりを回っているのではなくて、地球が太陽のまわりを回っていることがわかったのです。これは、当時の人にはとても理解がむずかしかったはずです。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、その地動説を支持したガリレイが宗教裁判(しゅうきょうさいばん)にかけられ、その説を改めるように強迫(きょうはく)された話は、みなさんもよくごぞんじでしょう。さて、これまでの人間の科学は、物質科学の1分野として扱われてきました。
『母と子の心霊教室』つまり人間は物質であって、それから精神が生まれるのだと考えてきました。が、スピリチュアリズムによってそれはまちがいであり、人間はもともと“霊(れい)”であって、その霊(れい)が肉体を道具として地上生活を送っているのだと考えるようになりました。
『母と子の心霊教室』そう考えてみると、すべてがなるほどと納得(なっとく)がいくのです。いってみれば、現代人はコペルニクスと同じ発想の転換(てんかん)が必要となってきたわけです。今までのような物質中心の物の考え方をしていては、スピリチュアリズムは理解できないでしょう。
『母と子の心霊教室』私は高校生のときにスピリチュアリズムを知ってから、30年にわたってこの思想を勉強してきました。数え切れないほどの原書を読み、そのうちの重要なものを翻訳(ほんやく)してきましたが、青少年向けの心霊書(しんれいしょ)としてはこれが最初で、→
『母と子の心霊教室』→しかも最高のものであると信じます。本書によって、みなさんが正しい心霊(しんれい)知識を身につけ、今後ますます多くなっていくことが予想される心霊(しんれい)情報を、正しく判断できるようになってくださることを望んでやみません。
『母と子の心霊教室』それがこの本を書かれたパーマー先生の願いでもあるのです。 1986年5月 近藤千雄(こんどうかずお)
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-----原著者のあいさつ
『母と子の心霊教室』【日本語版に寄せて―原著者(げんちょしゃ)のあいさつ】私は英国のある学校の校長先生です。ながいあいだ8才から18才までの少年少女を教えてきましたので、みなさんが“物を知ることがたいへんすきであること”、そしてまた、よくわからないことは→
『母と子の心霊教室』→“何でも聞いてみようとすること”もよく知っております。また私は“人間とは何か”ということを研究する「心霊学(しんれいがく)」について、おとなの人たちにたびたび教えてまいりました。
『母と子の心霊教室』ところがたいへん残念なことに、おとなのための心霊(しんれい)の本はたくさんあるのに、みなさんのような少年少女のための心霊(しんれい)の本がほとんどといってよいほどないのです。これではいけないと思って書いたのがこの本です。
『母と子の心霊教室』ほんとうのことをいうと、私がこの本を書き始めた時は、英国の少年少女のことばかり考えておりました。まさかこの本が、遠い日本のみなさんにまで読んでいただくことになるとは、夢(ゆめ)にも思わなかったからです。
『母と子の心霊教室』ですが、英国の子どものためになるものは、きっと日本のみなさんにもためになるにちがいありません。おしまいにひとつだけお願いがあります。それは、ひと通りこの本を読みおわったら、こんどはこの本に書いてあることを基礎(きそ)として、自分自身でどしどし勉強して→
『母と子の心霊教室』→いただきたいということです。この本に書かれたことは、人間についての知識のほんの一部にすぎません。私にも、書きたいと思いながら書けなかったことが山ほどあるのです。どうかみなさんも自分で本を読んだり実験したりして、人間についてなるべく多くのことを学んでください。
『母と子の心霊教室』そうすれば「死ぬ」ということがつぎの世界への入り口であること、また、今でもその世界のお友だちがみなさんを助けてくれていることが、ますますはっきりとわかってくることでしょう。 1960年4月 チャールズ・パーマー
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「イエスの弟子達」より→22 サウロの回心「さて、私は暗黒と冷酷のうちに閉ざされていたサウロの魂が、主イエスの教えによって息を吹き返した事をお伝えしよう。これはまさに全人類にとって有益であるからである」
「イエスの弟子達」より→「この話は、人間がどんなに多くの罪を犯しても、どんなに邪悪な事をしても、精霊のお恵みによって清められれば、予言者、教師となり、異邦人に真理を伝える器に選ばれる事を示すものである」
「イエスの弟子達」より→「サウロと数人の者がダマスコに向かって出発した。旅行の季節ではなかったので沿道に人影は少なかった。サウロは太陽の暑さにヘトヘトになっていた。何日も眠らずに歩きとおしたからである。その上、出がけには長老達からエルサレムでの失敗を責められて頭にきていた」
「イエスの弟子達」より→「ガマリエルも彼に言った“お前はキリストを根絶しているどころか信奉者があちこちにうろついているではないか。急いで手を打たなければお前の方がやられてしまうぞ!”そんな訳でサウロはくさりきっていた。まるで嵐で折れ曲がった樹の枝の様に彼の魂は参っていた」
「イエスの弟子達」より→「彼に殺された四人の若者が彼のために祈っている姿が目に焼き付いて離れなかった。彼も同行の者も一口も口をきかず目だけが血走っていた。ダマスコに近付いた時、同行の者が殆ど同時に地上に倒れてしまった。彼らは大きな叫び声を聞いた」
「イエスの弟子達」より→「見ると、サウロは両手を挙げ体は地上に倒れていた。サウロの周りには誰もいなかったので同行の者が救助しようと近付くと、穏やかな声が響いてきた“サウロよ!お前はどうして私を迫害するのか”この様な声が三度繰り返された。そして三度目にようやくサウロは答えた」
「イエスの弟子達」より→「しかし彼の言う事は支離滅裂で、何を言っているのか分からなかった。そして再び穏やかな声が響いているのを同行の者が耳にした。彼らは一体誰がサウロに話しかけているのか辺りを探したがそのような者は見当たらなかった」
「イエスの弟子達」より→「周辺には一本の樹もなく視野を遮る物もなく、ただ一本の道路が走っているだけであった。それで彼らは恐怖に襲われサウロを起き上がらせながら言った“先生、一体どうなさったのですか。あの変な声は何者なんですか。先生!私達に教えて下さい!”」
「イエスの弟子達」より→「サウロは目を開いて彼らを見上げながら叫んだ“真っ暗だ!お前達の声は聞こえるが何も見えないんだ!主が私に話しかけたのだ。私は、私が迫害しているキリストをこの目で見たのだ!”彼は今見たばかりの幻について語って聞かせた。同行の者は言った」
「イエスの弟子達」より→「“先生は頭がいかれちまったんじゃないか、ともかくご機嫌を損ねないようにしようぜ”彼らはダマスコのユダスの家にサウロを運んだ。彼らはとにかく数時間か、あるいは一晩過ぎれば良くなると思っていた。次の日になってもサウロの目には何も見えなかった」
「イエスの弟子達」より→「急に襲った暗黒の世界は何よりも恐ろしいものであった。彼の霊性は健全でなかった上に良心の戦いをあまりしなかったので、常に怒りの感情に支配されていた。三日間の間彼は暗黒の世界に横たわったままで、食物は一切のどを通らなかった」
「イエスの弟子達」より→「その間彼は人間の存在の深さをずっしりと感じ取っている。この苦難に耐える事によって少しでも主イエスに償いが出来るならば、たといこのまま死んでもよいと考えるようになった。しかし時として彼に襲い掛かるものは絶望であった」
「イエスの弟子達」より→「彼は自分が犯した悪事を何とか払いのけたいと強く願っていたからである。彼が迫害した人々は皆この世を去っていった。今一番恐ろしい事は、イエス・キリストを信ずる言葉を表明できずに死んでしまうのではないかという事であった。三日目に変化が現れた」
「イエスの弟子達」より→「彼の耳元で再びあの声が響いてきた。その声は彼が異邦人のために主の福音を伝える道を選ぶか、それとも彼のために備えられている道を拒むか、どちらかを選ぶようにとの事であった。彼の霊は躍った。受け入れる用意はできていると叫んだ」
「イエスの弟子達」より→「再び見えるようになるならば、声の命ずる使命を果たすために地の果てにまで参りますと答えたのである“お前が私の重荷を背負って行こうというのなら、お前の行くべき道を指示しよう。それまでは誰とも口をきいてはならない!”」
「イエスの弟子達」より→「一晩中これから起こる未来の幻が次々と与えられた。それはとても奇異なものではあったが今の彼にはその意味を十分に理解する事ができた。ところがある幻の中に、彼が十二使途殺害の密約を結んだ若者たちが出てきた。彼らは、一晩中サウロを呪い続けた」
「イエスの弟子達」より→「彼らはサウロを殺すまでは眠る事も食べる事もしないと誓い合っていた。サウロが多くの人々に、キリストこそ救世主であり死人から復活した事を懸命に教えているサウロに憤慨したからである。他の幻も次々と現れては消えていった」
「イエスの弟子達」より→「それらの幻は全部彼を責めるものであり、彼が縛られムチで打たれ唾を吐きかけられ叩かれるといったものばかりであった。更に幻はどんどん展開し、ついに荒野で飢えに苦しみ悶え、教会を敵視する者から死の苦しみを受けるのであった」
「イエスの弟子達」より→「自分の残酷な死に様が現れ、辺地で殉教の死をとげるのである。全ての苦悩や災難は主イエス・キリストのためにこそ身に負うものである事が示された。一連の幻が終わるとなおも暗闇が続き、再び例の声が響いてきた」
「イエスの弟子達」より→「“サウロよ!選びなさい!お前はこの重荷が背負えるか。お前を待ち受けているものを見たであろう。再び見えるようになった時、お前は課せられた人生を歩むか、それとも今の苦しみから逃げるために死の道を選ぶか”サウロは答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“主よ、私の心は定まっています。私に光を与えて下さい。そうすればあなたに従ってまいります”声は二度と聞かれなかった。その夜のうちにアナニヤという者がユダスの家へやってきて、サウロの顔と目の上に手を当て、見えるようになれと祈った。見よ!」
「イエスの弟子達」より→「たちどころに彼の目は開け、アナニヤの顔が目に映った。サウロは直ちに洗礼を受けたいと懇願した。自分は大罪を犯した人間である事を悔いており、主イエスに帰依したいと熱心に願った。昨日までのサウロは死んでしまった。彼の頑なな心は砕け、心に平和が訪れた」
「イエスの弟子達」より→「彼はキリストに仕える者となった。奉仕の中に真の自由を見出し、霊の憩いを得たのである。サウロが一心になって悔い改めている頃、主イエスはアナニヤに語りかけ、直ちにユダスの家に行ってサウロと名乗る人の目を開くように命じた。アナニヤは言葉通り実行したのだ」
「イエスの弟子達」より→「アナニヤを通して霊の力はサウロの両眼を開き、罪深い魂をすっかり癒してしまった。このようにしてキリストの教えに全く触れなくても一人の男が幼子のような単純な信仰によって救われたのである」
「イエスの弟子達」より→「昔、神殿で学び、パリサイ人としての学問を修めた者が、主イエスの教えの中に真の知恵を見出したのである。以上がサウロの心が癒された物語である。彼が洗礼を受けた時、周りの者がサウロにこれから何という名で呼んだらいいのかと訪ねた。彼は答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“私は卑しい人間です。名乗る値打ちもない男です。しいて名付けるとすれば若き日に私の魂が小さく臆病で愚かであった事を表すものにしたいのです”それで彼は自ら「パウロ」と名付けた。(“小さき者”“小柄な人”の意)」
「イエスの弟子達」より→「後に彼が異邦の地で布教に専念している時、みんなは彼の事を先生と呼んでいた。そう呼ばせる事によって彼は主イエスの前では小さな存在である事、そして兄弟の誰よりも最も卑しい者であろうと努力したのである」