まずは昨日の山での撮影画像をUPですが(気合を入れていつもより枚数を多く撮りました)さぁ止まる訳にはいかないテキスト撃たなければなりませんが、インスピレーションは降っている事は降っているのですがどう撃ったらいいんだろう途方に暮れています。
もうアドリブだやるしかないしょうがない。ヤケで撃ちます。さっそく作業に取り掛かります(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
まずは昨日の山での撮影画像をUPですが(気合を入れていつもより枚数を多く撮りました)さぁ止まる訳にはいかないテキスト撃たなければなりませんが、インスピレーションは降っている事は降っているのですがどう撃ったらいいんだろう途方に暮れています。
もうアドリブだやるしかないしょうがない。ヤケで撃ちます。さっそく作業に取り掛かります(祈)†
つまりそれだけ暗闇の中での行動時間が増えるという事ですが、身体は別に大丈夫なのですがライトの電池が心配でした。が、ヘッドライト、ハンドライト、ともに最後まで照度を落とさず使い続ける事ができたので、スタート時間を1時間早めるアイデアは今後も有効かも知れません。
なぜ早めたのか、それは撮影をたくさんするためですが、今回はある山頂で天体撮影をしている方と遭遇。僕はやった事ないので分からないのですが、僕のヘッドライトでその撮影のジャマをしてしまったかも知れません。その方に何度も謝りつつも、僕も撮るべきは撮らないといけないのでいつもより多い枚数をガッツリ撮ってきました。
フゥゥ、で、明日の長文ブログが問題なんですよ。霊団がインスピレーション降らせてきているのですが「コレをどう書けと?」言った感じで、今から頭を抱えています。明日は大ピンチかも知れません、今のところ脳内で全く書く内容が決められずにいます、アタマ真っ白です。
今日は2回転倒して右ひざが痛いので早めに休んで何とか回復させたいですが1日2日では治りません。さぁ明日どぉぉ撃てばいいんだ(祈)†
僕は山の経験年数はかなりのモノがあると思っていますが、山に行ったら必ず撮影をして帰ってきますのでこれまでの積算撮影枚数は把握しきれないほど膨大な量となっています。しかし、その膨大画像をもってしても、今後の復刊の作業にあたって「何か足りない気がする」と思い始めています。
今までも十分撮影にチカラを入れて山のアタックに臨んでいましたが、さらに撮影頻度を上げる事も視野に入れないといけないかも知れません。そうなると山での行動時間を増やす以外に方法はない事になりますが、僕ももうジイサンなのであんましムリしない方がイイかなぁ。イヤァー(使える)画像が足りない困った。
霊団の仕事やる気ゼロの態度がムカムカしてどうしようもありませんが、明日は一応グラデーションが撮れそうな天候ですので、まずは撮影に集中中。ちなみに山の行動時のドリンクに問題を抱えていまして、ここ最近はずっと白湯でアタックしていたのですが、明らかにゴール間近になるとフラフラしてくるのを感じて「このまま行くと悲劇がやってくるかも」という危機感が襲ってきていました。
で、先週からテストでホットカルピスを導入したらガブガブ飲める。身体的、エネルギー的にも今のところ問題なさそうなので、しばらくホットカルピステストを続けてみるつもりです。このカルピスは山以外で飲んじゃダメ、日常生活もガブガブ飲むと100%太る。事実1kg増えました。で、飲むのやめて体重戻りました。そこだけ要注意。ハイ一旦切ります(祈)†
1913年12月12日 金曜日
背後から第10界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることが出来た。
その時の無上の法悦は言語に絶し、絢爛(けんらん)にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な眼を開かせてくれたのである。
あるとき私は同じ位置に立って自分の未来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時のことである。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。
守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んで来た。事実そのとおりであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。
きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。
そしてそのお顔は他の個所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変ろうとする銀色に輝いている。その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。
私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫(びまん)する生命に燃えるような、実に美しいものであった。
「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためではない。畏れ多さを覚えたからである。
そこで私はこう述べた。
「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難いかぎりです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中をずっと付き添ってくださっていたことは承知しておりました。
私の歩調に合わせてすぐ先を歩いて下さいました。今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることは出来ません。
この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足もとを危くします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝のために私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません。」
「その通りかも知れぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。
これまで汝と余とはよほど行動を共にして参った故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場へ来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった。」
そう述べたあと暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変しはじめた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。
ゴース(クモの糸のような繊細な布地)のような薄い衣服に包まれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇へ下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。そのとき不思議な現象が起きた。
立っておられる足もとから青とピンクの混じり合った薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を越えて2つの山の頂上に橋のように懸かったのである。高さは人間の背丈とほぼ変らず、幅は肩幅より少し広い。それがついに私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。
そのとき守護霊の言葉が聞こえた。「参るがよい。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むがよい。案ずるには及ばぬ。」
そこで私はその光り輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足もとは厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、1歩1歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びに溢れていた。
が、よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変らずじっと立っておられ決して後ずさりされたわけではなかったのであるが…
が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に2歩3歩進んだところでその手を掴むことが出来た。するとすぐに、足もとのしっかりした場所へと私を引き寄せて下さった。
見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向うに第10界が見える。私は天界の光とエネルギーで出来た橋を渡って来たのであった。
それから2人は腰を下ろして語り合った。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすればなお良かったかも知れぬなどと述べられた。褒めて下さったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をして下さったこともある。決してお咎めにはならなかった。
又そのとき2人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話して下さった。さらに、そのあと第10界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添っていることを自覚することがいかに望ましいかを語られた。
守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き聖純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについて、それまで以上に理解を深めたのであった。
帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわして力をお貸し下さり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第10界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。
思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気づいた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。
そのお姿はなおも薄れて行った。私は今一度さきの場所へ戻りたい衝動に駆られた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれきりお姿を拝することはなかった。
しかしその存在はそれまで以上に感じていた。そして私がよろめきつつも漸く頂上に辿りつくまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷越えに光輝あふれる11界へと目をやった。しかし、そこには守護霊の姿はすでに無かった。
が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝(づた)いに疾走して行く1個の影が見えた。さきほどまで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。それ太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。
そしてそれも徐々に薄れていった。が、その間も守護霊は常に私と共に存在し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。
あの光輝あふれる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながらも私の界の恵みを授けずにはいられないのが道理であろう。それを現に同志とともに下層界の全てに向けて行なっている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。
もっとも、私の守護霊が行なったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりに大きすぎるためである。しかし、イエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。
イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊より遥かに大きい。私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける聖純さと叡智は愛をもって補うべく努力している。
貴殿と2人して力のかぎり主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を越えて歩む吾々に常に付きそってくださることであろう。†
イヤ「悲しい」とは言ってきます。そう言われて一体どうしろというのか。僕はこれ以上はムリという限界の限界まで振り絞って努力している。「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」の書籍データ作成も開始しています。もうこれ以上がんばりようがないところまでやっているつもりですが、それで悲しい言われる。一体何がどうなっているというのでしょうか。
AffinityPhotoのアドオンが50%オフの間に入手しておくべきだという事で結局アドオンを4つ手に入れました。もうこれで止めます、これらを書籍表紙の描画にフル活用します。で、チョトアドオンに数字を取られてしまったのでおーふぁん的なモノがまた来月にズレ込んでしまいますが、いよいよ殺人的にメンドクサくてやりたくなかった作業に着手せざるを得なくなるでしょう。
一応目標としては5月末までに1冊目の書籍をAmazonでペーパーバック、電子書籍のふたつを揃えて販売開始状態にもっていくつもりです。たぶん次月にズレ込むでしょうがとにかくやる以外に脱出の方法がないので進めます。年間目標としては年5冊ペース、できるなら年6冊ペースで復刊し続けるという考えでいます。
というのも、年4冊ペースだと僕が物質界に残されている間に70冊超の霊関連書籍の復刊が達成されずに僕が帰幽してしまうという計算になってしまうからです。最低でも年5冊ペースを維持しないと70冊超全ての復刊が達成されないという計算なのでそういう目標にしているという事です。口で言うのと実際にやるのとでは天と地の差があるのですが。
次回長文ブログがピンチです、今のところ全然ブログネタとなるインスピレーションが降っていません。もうヤダこの人生、いつまでやらされるんだ。何としても打開してやる。
とはいえ僕の人生はもはや完全に霊団の手の中にあるので打開できず閉じ込められて終わる可能性が濃厚ですが、そう言われてあきらめながら下を向いて生きるのはまっぴらゴメンだ。最後の1秒まで悪あがきしてやる。「イエスの少年時代」の表紙を悩みつつも描きます(祈)†
どうしても宗教画のマネをしたくない、そういう雰囲気にしたくない(僕は宗教と名の付くモノを心底毛嫌いしていますので)しかしあまりにも現実とかけ離れている絵を描いてしまうのもどうなのか、本が本なだけに(イエス様を題材にした本なので)テケトーな絵を描く訳にもいかない。
今回の「イエスの少年時代」の表紙には「ある人物」をスゴク描きたかったのですが、その人物の資料が全くないので完全に僕の独断、あてずっぽうで描く事になってしまうため「さすがにそりゃマズいだろう」という事でその人物を登場させるのを泣く泣く取りやめました。描きたかったのに残念。
「イエスの少年時代」AffinityPublisherへのテキスト流し込みは完了してます、さらに作業スピードをアップさせる事に成功しています。あとは既にやった事ですがもう一度最終校正をやった方がイイでしょう、これがシチメンドクサイ。しかしやるしかない。
1913年12月11日 木曜日
前回の続きである。彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。
これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて吾々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使の御姿は一段と美しく映えるのである。
その空地から幾すじかの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、さらに歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰(あたか)もダリヤ、ボタン、バラ等の色あざやかな花々の中に混って咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高(せいだか)に咲いているのが目に止まる。
このほかにもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。
そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、あたりはあたかも美の星雲の観を呈し、見る者によろこびを与える。この界の花の美しさは到底言語では尽くせない。すでに述べたように、すべてが地上には見られぬ色彩をしているからである。
それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。このように – 少し話がそれるが – 貴殿の身のまわりには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。
この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音とが満ち溢れ、それが絢爛(けんらん)豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福のよろこびに近づいた時の“聖なる美”を誇示している。
やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に別れているが、吾々は左へ折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり是非そこへ案内したく思うからである。その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁(ふち)なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところの言わば“祝祭日の聖地”なのである。
地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いていないようであるが、つばめ1羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。
そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に1しずくの天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。
このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。
私自身はその仕事には関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明は出来ないが、クリスマス、エピファニー、イースター、ウィットサンデー(※)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。
(※これらは全て霊界の祝祭日の反映であり従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはステイントン・モーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい。 – 訳者)
また聞くところによれば“父なる神”をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうことも有りえよう。
かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである。貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳(そび)えるように高いものばかりである。
その中でもとくに他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁がいつまでも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。
色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色を濃縮したような茶色を呈している。見るもあざやかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。
それはあたかも芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊ならびに、全てを超越しつつしかも全ての存在を見届け知り尽している創造の大霊へ向けて放たれてゆく。
吾々はこの花にも似た美しい聖殿があたかも小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そしてさらに歩を進める。
さて、小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は上り坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこは吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極めるかは、開発した能力の差によって異るが、私に見えるままを述べよう。
私は今、連なる山々の1つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向うに別の山があり、更にその向うに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほどその山を包む光輝が明るさを増す。
が、その光はじっと静かに照っているのではない。あたかも水晶の海か電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述できぬ。
川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。
それでも、その景色全体に神の愛と、えも言われぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急(せ)かせる。なぜなら、その界へ進み行くことこそ第10界における私の生活の全てだからである。
託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(※)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参ることであろう。(※ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり、連綿として最後は守護神に至る。 – 訳者)
が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第11界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。
この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。ここで再び貴殿をさきの空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかりと上方へ向けるよう改めて願いたい。
案ずることは何1つない。足もとへ目をやらずとも決して躓くことはない。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足もとには吾々が気を配り事なきを期するであろう。
万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事佳きに計らわれているものと思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。
では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶(うっとう)しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。
それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美わしき楽園へと導いてくれることであろう。†
今日明日中に描き始めるつもりでいたのですが、キャラデザがまだ固まりませんのでモチョト時間がかかりそうです。「シルバーバーチの霊訓3巻」のテキスト見直しを続行しつつ「イエスの少年時代」の書籍データの作成を続行しつつ、表紙用のキャラデザを煮詰めましょう。
霊団からは絶望的な、突き放すような事を言われていますが、そう言われてどうしろというのか。僕は僕にできる事を最大限やっている、これ以上努力できない限界の限界までやっている。何を言っているのかサッパリ意味不明。次回長文ブログも暗雲が立ち込めていますがまずは眼前の作業に集中するより他にどうしようもありません。
書籍データはガンガン作り続けていくのです。作れば作るほどあとあと自分を助ける事になるはずだからです。先行、先行、とにかく作りまくる(祈)†
「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」この3冊の表紙の線画を一気に描いてしまおうかと思っているのですが、その表紙に描こうと思っている人物の大ざっぱな外観だけでも参考にしようという事でググるのですが、宗教画しか出てこない。僕は宗教臭の漂うモノが大キライなのです。これヤダ、参考にしたくない。
AffinityPublisherでひとつ新たな作業法を試しています。コレをする事によりこれまでより若干作業スピードが向上するものと思われます。何しろ僕が復刊しようとしている冊数が70冊以上ありますので、少しでも自分で自分を助けるアイデアを出していかないと苦しいばっかりになってしまいますので。
で、おーふぁん的なモノはサイトを見た限りで言うと正味1ヶ月程度かかるとの事ですので、一応目標を「5月末までにまず最初の1冊目をペーパーバック、電子書籍、両方揃えた状態でAmazonで販売状態にもっていく」という風に設定する事とします。まぁたぶんズレ込むと思いますがとにかくまず1冊販売開始状態にする事を目指します。
1913年12月9日 火曜日
私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿をはじめとして他の多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信ずる。
たとえ貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝して行く。いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。
貴殿にとってこれ以上は無理と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。
では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第10界の生活について今少し述べようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、さらには折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲に狭(せば)められてしまうことを銘記されたい。
それは已むを得ないことなのである。それは恰(あたか)も1リットルの器に10リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。
前回のべた大聖堂は礼拝のためのみではない。学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスを全て終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。
他にもこの界域の各所にさまざまな種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。この都市にはそれが3つある。
そこへは“地方校”とでも呼ぶべき学校での教育を終えた者が入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解して行く。この組織は全世界を通じて一貫しており、界を上がる毎に高等となって行く。
つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級していく組織になっており、1つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することが出来るようになったことを意味する。
教育を担当する者はその大部分が1つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。かくて彼らは霊格の低い者には耐え難い栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。
それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。
そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わさねばならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上層界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。
が同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難なるものもあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界においても同じことが言える。
例えば第3界の住民の中には自分の界の上に第4界、第5界、あるいはもっと上の界が存在することを自覚している者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。
自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合わさねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。
もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮が為されていることが判るであろう。地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、さらに上級界へ行っても同じである。
故に第10界の吾々と、さらに上層界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基いて推理すればよいのであり、地上において肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。
– 判りました。前回の話に出た第10界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。
よかろう。だがその前に“第10界”という呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。
ただ第10界には自ずからその界だけの色濃い要素があり、それをもって“第10界”と呼んでいるまでで、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。
それ故にこそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。同時に、例えば第7界まで進化した者は、それまで辿ってきた6つの界層へは自由に往き来する要領を心得ている。
かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りて来る一方で、その界の者もまた下層界へいつでも降りて行くことが出来るのであり、そのたびに目標とする界層の条件に合わせることになる。又その界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。
これは吾々も間断なく行っていることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第10界を離れるわけではない。もっとも、必要とあらば離れることもある。
– 今はどこにいらっしゃいますか。第10界ですか、それともこの地上ですか。
今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかはないのである。
そこでこうして貴殿のすぐそばまで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう。では、私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。
都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、ほとんどが湖のすぐ近くまで広がっている。その湖を舟で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木が生い繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。
その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入ってゆくと空地に出る。その空地に彫像が立っている。女性の像で天上を見上げて立っている。両手を両脇へ下げ、飾りのない長いローブを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世紀にも亘って上方を見上げて来た。
が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。その像の如く常に上方へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間みることができるであろう。†