UPは山へのアタック帰還後ですね。急ぎましょう。今日の幽体離脱時の映像は鮮明でした。ブログ書く必要があります(祈)†

イヤーキビシイ作業ですが間もなくスキャン、そして明日のUPを目指します。早く描き上げてブログに戻らないといけません。っと、その前に山にアタックがありますね。インスピレーションは降ってます(祈)†

第10界の森林地帯の真っ直中に広大な空地があります。周囲を林に囲まれたその土地から四方へ数多くの道が伸びており、その道からさらに枝分かれして第10界の隅々まで連絡が取れております。

『ベールの彼方の生活④』その連絡網は、瞑想と他の界層との通信を求めてその空地へ集まってくる人々によく利用されています。その一帯を支配する静穏の美しいこと。茂る樹木、咲き乱れる花々、そこここを流れる小川、点在する池、群がる小鳥や動物たちが、修養を心がける者たちを自然に引きつけ、→

『ベールの彼方の生活④』→その静穏の雰囲気に浸らせます。が、これから述べるのはその中心にある空地の事です。空地といっても地上ならさしずめ平野と呼ばれそうな広大な広さがあります。そこには庭園あり、噴水あり、寺院あり、建物あり。それらがみな研究と分析・調査の目的に使用されています。→

『ベールの彼方の生活④』→そこは一種の大学ですが、その性格は“美の都市”とでも呼ぶにふさわしいものを具えております。というのは、そこでは美と知識とが全く同等の意図をもつに至っているかに思えるのです。形は長円形をしています。その片方の端には森の縁から巾の広い背の高いポーチが→

『ベールの彼方の生活④』→突き出ており、その両側に木が立ち並び、その樹木の上空に建物の翼廊が姿を見せています。その翼廊の壁の高い位置にバルコニーが付いていて、そこから空地全体を見晴らす事ができます。建物の残りの部分はすっぽり森林に包まれており、塔とドームだけがポーチより→

『ベールの彼方の生活④』→遙かに高く聳え立っております。それが無かったら森林の中に一群の建造物が存在する事に誰も気づかないでしょう。それほど周囲に樹木が密生しているのです。

『ベールの彼方の生活④』塔は5つあります。うち4つは型は違っていても大きさは同じで、その4つにかぶさるようにドームが付いています。残りの1つは巨大なものです。あくまでも高く聳え、その先端が美しいデザインの帽子のようになっています。あたかも天界のヤシの木のようで、その葉で→

『ベールの彼方の生活④』→王冠の形に線条細工が施され、それに宝石が散りばめてあり、さらにその上は銀河に似たものが同じく宝石をふんだんに散りばめて広がっております。これら4つの塔とドームと大塔には神秘的な意味が込められており、その意味は例の大聖堂を通過した者でなければ→

『ベールの彼方の生活④』→完全な理解はできません。それが大きな儀式の際に理解力に応じた分だけが明かされる。その幾つかは“顕現”の形で説明される事もあります。そのうちの1つをこれからお話するつもりですが、その前にそこの建物そのものについてもう少し述べておきましょう。

『ベールの彼方の生活④』ポーチの前方に左右に広がる池があり、その池に至る道は段々になっています。大学の本館はその水面から聳え立っており(※)、周辺の庭園と群立する他の小館とは橋でつながっており、その大部分に天蓋が付いています。ドームのあるホールは観察に使用されています。

『ベールの彼方の生活④』観察といっても大聖堂の翼廊での観察とは趣が異なり、援助を送ったり連絡を維持するためではなく、他の界層の研究が目的です。そこでの研究は精細を極めており、1つの体系の中で類別されています。それというのも、天界においては他の界との関連性によって→

『ベールの彼方の生活④』→常に情況が変化しているからです。ですから、こうした界層についての知識の探求には際限がありません。(※霊界の情況は地上の情況になぞらえて描写されるのが常であるが、地上圏から遠ざかるにつれてそれも困難となる。この部分もその1つで、一応文章のままに)→

『ベールの彼方の生活④』→(訳しておいたが、これでは地上の人間には具体的なイメージが湧いて来ないであろう。が、私の勝手な想像的解釈も許されないので、やむを得ずこのままに留めておいた―訳者)4つの小塔にはそれぞれ幾つかの建物が付属しています。それぞれに名称がありますが、→

『ベールの彼方の生活④』→地上の言語では表現できないので、取りあえずここでは“眠れる生命の塔”―鉱物を扱う部門、“夢見る生命の塔”―植物を扱う部門、“目覚める生命の塔”―動物を扱う部門、そして“自我意識の塔”―人間を扱う部門、と呼んでおいて下さい。大塔は“天使的生命の塔”です。

『ベールの彼方の生活④』ここはさきの4つの生命形態を見下ろす立場にあり、その頂点に君臨している訳です。その階段へ向けて全生命が向上進化しつつあるのです。それらの塔全体を管理しているのが“ドームの館”で、各塔での研究と分析調査の仕事に必要な知識はそこから得ます。

『ベールの彼方の生活④』つまりその館の中で創造・生産されるものを各分野に活用しています。4つの小塔は1つ1つデザインが異なり、平地から4つを一望するとすぐに、全体としていかなる創造の序列になっているかが知れます。そういう目的をもってデザインされているのです。

『ベールの彼方の生活④』内部で行われる仕事によって各塔にそれ特有の性格がみなぎり、それが滲み出て外形をこしらえているのです。大塔は見るからに美しい姿をしております。その色彩は地上に見出す事はできません。が、取りあえず黄金のアラバスターとでも表現しておきましょう。

『ベールの彼方の生活④』それにパールを散りばめた様子を想像して頂ければ、およその見当がつくでしょう。それは言うなれば液晶宝石の巨大にして華麗な噴水塔という感じです。水が噴き出る代わりに囁くようなハーモニーが溢れ出て、近づく者に恍惚状態(エクスタシー)に近い感動を→

『ベールの彼方の生活④』→覚えさせずにはおきません。周辺の水がまた美しいのです。花園をうねりながら流れるせせらぎもあれば大きな池もあり、その水面に5つの塔やドーム、あるいは他の美しい建物が映っており、静かな、落着いた美しさを見せています。その感じを貴殿に分かりやすく表現すれば→

『ベールの彼方の生活④』→揺りかごの中の天使の子供のようです。では、これより貴殿を大塔の中にご案内して、その特徴を2、3ご紹介しましょう。この塔は何かの建物の上にあるのではなく、基礎からいきなり聳え立っております。その内部に立って見上げたら、貴殿は唖然とされるでしょう。

『ベールの彼方の生活④』階が1つもなく、屋根のようなものもなく、ただ虚空へ向けて壁(四方にあります)が山の絶壁のように上へ上へと伸びているだけです。そしてその頂上は星辰の世界のど真ん中へ突き刺さっているかの如くです。その遙か遙か遠くにその塔の先端の縁が、あたかも塔そのものから→

『ベールの彼方の生活④』→離れてさらにその上にあるかのように見えます。それほど高いのです。その壁がまた決してのっぺりとしたものではないのです。四方の壁が二重になっていて、間が仕切ってあり、各種のホールや天使の住居となっております。外部を見ると通路あり、バルコニーあり、→

『ベールの彼方の生活④』→張り出し窓あり、さらには住居から住居へと橋がループ条につながっております。壁の上に対角線状に見えるものは、そこの部屋から部屋へ、あるいは楽しみのための施設から別の施設へとつなぐ階段です。庭園もあります。塔の側壁から棚状に突き出た広大な敷地に→

『ベールの彼方の生活④』→しつらえてあります。この方尖塔は実に高くそして広大なので、そうした付属の施設―中へ入ってみるとそれぞれに結構大きなものなのですが―少しも上空を見上げた時の妨げにならず、また1番先端の輪郭を歪める事もありません。また、よく見ると→

『ベールの彼方の生活④』→光が上昇しながら各部屋を通過していく際に変化したり溶け合ったり、輝きを増すかと思えば消滅していったりしております。例えば塔の吹き抜けに面したある住居のところでは真夏の太陽に照らされている如くに輝き、別の住居のところでは沈みゆく夕日が庭を照らし、→

『ベールの彼方の生活④』→夕焼空を背景にして緑の木々やあずま屋が美しく輝いて見えます。さらに別のところでは春のさわやかな朝の日の出の様相、さよう、そんな感じを呈しております。小鳥がさえずり、小川がさざ波を立てて草原へ流れていきます。この驚異の世界にも“流れる水”は存在するのです。

『ベールの彼方の生活④』音楽も流れています。あの部屋から1曲、この部屋から1曲と聞こえてきます。時には数ヶ所から同時に聞こえてくる事もありますが、塔の広さのせいでお互いに他のメロディの邪魔になる事はありません。

『ベールの彼方の生活④』さて、以上お話しした事―全体のほんのひとかけらほどでしかありませんが―を読まれて貴殿はもしかしたら、その大塔の中がひどく活気のないところのように思えて、建立の動機に疑問をもたれるかも知れません。が、先ほど私が各塔に名付けた名称を思い出して頂けば→

『ベールの彼方の生活④』→決してそうではない事が分かって頂けるでしょう。この大塔は4つの小塔を指揮・監督する機能を有し、そのためのエネルギーを例のドームから抽き出すのです。そこには極めて霊格の高い天使が強烈な霊力と巾広い経験を携えて往き来し、かつて自らが辿った道を→

『ベールの彼方の生活④』→いま歩みつつある者たちの援助に当たります。すなわち測り知れぬ過去において自分が行った事を、4つの小塔とドームの館に住む者が永遠の時の流れの中の今という時点において励んでいるという事です。進化の循環(サイクル)の中で、先輩の種族が去って新しい種族が→

『ベールの彼方の生活④』→今そこに住まっているのです。これでお気づきと思いますが、そこでの仕事がいかに高度なものであるとはいえ、そこはあくまでも第10界であり、従ってあくまでも物事の育成の場であって創造の界ではないのです。でも、創造へ向かいつつある事に間違いはなく、→

『ベールの彼方の生活④』→第10界では最高の位置にある施設の1つです。【アーネルさんご自身もその大学を卒業されたのですか。】しました。4つの塔を全部通過するコースを終えました。それが普通のコースです。【ドームの館もですか。】学徒として入った事はありません。

『ベールの彼方の生活④』別の形で同じ事を終了しておりましたから。実は私は4番目の塔を終えたのちに大塔直属の天使のおひとりに仕える身となったのです。大聖堂へ行けるまでに修行できたのもその方のお陰です。例の暗黒界への旅の間にずっと力をお貸し下さったのもその方で、その事は→

『ベールの彼方の生活④』→旅から帰って初めて知りました。その方はそうした援助の仕事を他の者にもしておられました。それがその方の本来の仕事だったのです。(※)神の祝福を。 アーネル†

『ベールの彼方の生活④』(※過去形になっているのは現在は別の仕事に携わっているからであろう。“その方”について何も述べていないが、同じ霊系の1人、つまり類魂の1人であるに違いなく、こうした関係は地上に限らず上級界へ行っても同じである事が分かる―訳者)

霊団は僕の「出発」を強調してきます。絵の方も急ぎましょう(祈)†

2020年7月13日

アナログ絵262、3ページ中1ページ完成中。で、昨日霊団が降らせたインスピレーションですが「逃がさないよ」これが強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の思念である訳がありませんね。コイツらは逃亡しまくってます。僕、たきざわ彰人から逃げまくってます。なのでこの「逃がさないよ」は霊団が明仁、文仁、徳仁、悠仁に対して言っているセリフという事になります。そして「勝ちですから」これも明仁、文仁、徳仁、悠仁のセリフの訳がありませんね。勝ちと言うなら僕をもっと攻撃していいはずですよね。

もっとも裏から手は回してきていますが。「暗殺」 wp.me/Pa9cvW-1vQ 「放火」 wp.me/Pa9cvW-1WG 参照。この強姦殺人魔どもが勝ちだというなら「これが実はおもしろい」 wp.me/pa9cvW-1wQ こちらのように僕をトコトンコケにしてくるはずですが、明仁、文仁、徳仁、悠仁は僕の名前を一切公言せずすっとぼけ続けています。これだけ強姦殺人魔だと言われ続けているのに一言も反論しない、皆さま、究極に理性が反駁(はんばく)しますね。本当の事だから言えないんですよ、そんな事公言しようものなら一気に火が付き国民の洗脳が破られちゃいますからね。なのでこの「勝ちですから」も霊団が明仁、文仁、徳仁、悠仁に対して言っているセリフという事になります。で、いつもの事ですが霊団、あなた方は霊界上層界から霊眼で地上を見下ろしてそのように仰るのでしょうがココは物質界です!物的に「勝ち」の状況を招来してからこういうセリフを言ってもらっていいですか。早くコイツらにトドメを刺しなさいよ。いつもいつも同じ事言わせるんじゃないわよホントにもぅ(祈)†

www.youtube.com/watch?v=QqJPejYHS_I&t=56s

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キリストについての地上的概念の解体作業はこうして進行していきましたが、これはすでに述べた物質科学の進歩ともある種の関連性があります。とは言え、それとこれとはその過程が異なりました。

『ベールの彼方の生活④』しかし行き着くところ、吾々の目標とするところは同じです。関連性があるといったのは一般的に物的側面を高揚し、純粋な霊的側面を排除しようとする傾向です。この傾向は物質科学においては内部から出て今では物的領域を押し破り、霊的領域へと進入しつつあります。

『ベールの彼方の生活④』一方キリスト観においては外部から働きかけ、樹皮をはぎ取り、果肉をえぐり取り、わずかながら種子のみが残されておりました。しかしその種子にこそ生命が宿っており、いつかは芽を出して美事な果実を豊富に生み出す事でしょう。しかし人間の心はいつの時代にあっても→

『ベールの彼方の生活④』→ひとつの尺度をもって一概に全世界の人間に当てはめて評価すべきものではありません。そこには自由意志を考慮に入れる必要があります。ですからキリストの神性についての誤った概念を一挙にはぎ取る事は普遍的必要性とは言えません。イエスはただの人間にすぎなかった→

『ベールの彼方の生活④』→という事を教えたがために、宇宙を経綸するキリストそのものへの信仰までも全部失ってしまいかねない人種もいると吾々は考えました。そこで、信仰そのものは残しつつも信仰の中身を改める事にしました。でも、いずれそのうちイエスがただの人間だったとの説を耳にします。

『ベールの彼方の生活④』そして心を動揺させます。しかし事の真相を究明するだけの勇気に欠けるために、その問題を脇へ置いてあたかも難破船から放り出された人間が破片にしがみついて救助を求める如くに、教会の権威にしがみつきます。一方、大胆さが過ぎて、これで“キリストの謎”が全て解けたと→

『ベールの彼方の生活④』→豪語する者もいます。彼らは“キリストは人間だった。ただの人間にすぎなかった”というのが解答であると言います。しかし貴殿もよく注意されたい。かく述べる吾々も、この深刻な問題について究明してきたのです。教えを乞うた天使も霊格高きお方ばかりであり、→

『ベールの彼方の生活④』→叡智に長けておられます。なのになお吾々は、その問題について最終的解決を見出しておらず、高級界の天使でさえ、吾々に比べれば遙かに多くの事を知っておられながら、まだ全ては知り尽くされていないとおっしゃるほどです。地上の神学の大家たちは→

『ベールの彼方の生活④』→絶対神についてまでもその本性と属性とを事細かにあげつらい、しかも断定的に述べていますが、吾々よりさらに高き界層の天使ですら、絶対神はおろかキリストについても、そういう畏れ多い事は致しません。それはそうでしょう。親羊は陽気にたわむれる子羊のように→

『ベールの彼方の生活④』→威勢よく突っ走る事は致しません。が、子羊よりは威厳と同時に叡智を具えております。さて信仰だけは剥奪せずにおく方がいい人種がいるとはいえ、その種の人間からはキリストの名誉回復は望めません。それは大胆不敵な人たち、思い切って真実を直視し驚きの体験をした→

『ベールの彼方の生活④』→人たちから生まれるのです。前者からもある程度は望めますが、大部分は少なくとも偏見を混じえずに“キリスト人間説”を読んだ人から生まれるのです。むろんそれぞれに例外はあります。私は今一般論として述べているまでです。実は私はこの問題を出すのに躊躇して→

『ベールの彼方の生活④』→おりました。キリスト教徒にとっては根幹に関わる重大性をもっていると見られるからです。他ならぬ“救世主”が表面的には不敬とも思える扱われ方をするのを聞いて心を痛める人が多い事でしょう。それはキリストに対する愛があればこそです。それだけに私は躊躇する→

『ベールの彼方の生活④』→のですが、しかしそれを敢えて申し上げるのも、やむにやまれぬ気持からです。願わくはキリストについての知識がその愛ほどに大きくあってくれれば有難いのですが…。と言うのも、彼らのキリストに対する帰依の気持は、キリスト本来のものではない単なる想像的産物に→

『ベールの彼方の生活④』→すぎないモヤの中から生まれているからです。いかに真摯であろうと、あくまでも想像的産物である事に変わりはなく、それを作り上げたキリスト教界への帰依の心はそれだけ価値が薄められ容積が大いに減らされる事になります。

『ベールの彼方の生活④』その信仰の念もキリストに届く事は届きます。しかしその信仰心には恐怖心が混じっており、それが効果を弱めます。それだけに、願わくはキリストへの愛をもってその恐怖心を棄て去り、たとえ些細な点において誤っていようと、キリストの真実について考えようとする者を、→

『ベールの彼方の生活④』→キリストはいささかも不快に思われる事はないとの確信が持てるまでに、キリストへの愛に燃えて頂きたいのです。吾々もキリストへの愛に燃えております。しかも恐れる事はありません。なぜなら吾々は所詮キリストの全てを理解する力はない事、謙虚さと誠意をもって臨めば→

『ベールの彼方の生活④』→キリストについての真実をいくら求めようと、それによる災いも懲罰も有り得ぬ事を知っているからです。同じ事を貴殿にも望みたいのです。そしてキリストはキリスト教徒が想像するより遙かに大いなる威厳を具えた方であると同時に、その完全なる愛は人間の想像を→

『ベールの彼方の生活④』→遙かに超えたものである事を確信なさるがよろしい。【キリストは地上に数回にわたって降誕しておられるという説があります。たとえば(ヒンズー教の)クリシュナや(仏教の)ブッダなどがそれだというのですが、本当でしょうか】事実ではありません。

『ベールの彼方の生活④』そんなに、あれやこれやに生まれ変わってはおりません。その事を詮索する前に、キリストと呼ばれている存在の本性と真実について理解すべきです。とは言え、それは吾々にとっても、吾々より上の界の者にとっても未だに謎であると、さきほど述べました。そういう次第ですから→

『ベールの彼方の生活④』→せめて私の知る限りのことをお伝えしようとすると、どうしても自家撞着(パラドックス)に陥ってしまうのです。ガリラヤのイエスとして顕現しそのイエスを通して父を顕現したキリストがブッダを通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。

『ベールの彼方の生活④』またキリストという存在が唯一でなく数多く存在するというのも真実ではありません。イエス・キリストは父の1つの側面の顕現であり、ブッダ・キリストはまた別の側面の顕現です。しかも両者は唯一のキリストの異なれる側面でもあるのです。

『ベールの彼方の生活④』人間も1人1人が造物主の異なれる側面の顕現です。しかし全ての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストとブッダ・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさから言うとイエス・キリストの方が→

『ベールの彼方の生活④』→ブッダ・キリストに優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この2つの名前つまりイエス・キリストとブッダ・キリストを持ち出したのはたまたまそうしたまでの事で、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、その全てに右に述べた事が→

『ベールの彼方の生活④』→当てはまります。貴殿が神の心を見出さんとして天界へ目を向けるのは結構です。しかしたとえばこのキリストの真相の問題などで思案に余った時は、バイブルを開いてその素朴な記録の中に“兄貴として”また“友人として”の主イエスを見出されるがよろしい。

『ベールの彼方の生活④』その孤独な男らしさの中に崇拝の対象とするに足る神性を見出す事でしょう。差し当たってそれを地上生活の目標としてイエスと同等の完璧さを成就する事ができれば、こちらへ来られた時に主はさらにその先を歩んでおられる事を知る事になります。天界へ目を馳せ憧憬を抱くのは→

『ベールの彼方の生活④』→結構ですが、その時にも、すぐ身の回りも驚異に満ち慰めとなるべき優しさにあふれている事を忘れてはなりません。ある夏の事です。2人の女の子が家の前で遊んでおりました。家の中には祖母(ばあ)ちゃんがローソクの光で2人の長靴下を繕っておりました。

『ベールの彼方の生活④』そのうち片方の子が夜空を指さして言いました。「あの星はあたしのものよ。ほかのよりも大きくて明るいわ。メアリ、あなたはどれにする?」するとメアリが言いました。「あたしはあの赤いのにするわ。あれも大きいし、色も素敵よ。ほかの星のように冷たい感じが」→

『ベールの彼方の生活④』→「しないもの」こうして2人は言い合いを始めました。どっちも譲ろうとしません。それでついに2人はばあちゃんを外に呼び出して、どれが一番素敵だと思うかと尋ねました。ばあちゃんならきっとどれかに決めてくれると思ったのです。ところがばあちゃんは→

『ベールの彼方の生活④』→夜空を見上げようともせず、相変わらず繕いを続けながらこう言いました。「そんな暇はありませんよ。お前たちの長靴下の繕いで忙しいんだよ。それに、そんな必要もありませんよ。あたしはあたしの一番好きな星に腰かけてるんだもの」→

『ベールの彼方の生活④』→「これがあたしには一番重宝してるよ」 アーネル†

2020年7月13日

アナログ絵262、ストーリー最終話を描いてます。このストーリーが心に響くのは物質界で僕ひとりという事になりますので使命遂行のプライオリティは低いですが、一応描かせて頂きます。で、昨日のトランス時に「良かったね」「秋山失敗」と霊団が霊聴に響かせてきました。僕は秋山という知り合いはいませんし使命遂行と関係ないメセを霊団が降らせる訳がありませんので、タイトルにありますように「文仁が失敗」と言っているのでしょう。えーたぶん、強姦殺人魔の分際で自分の事を象徴などと言っている明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分の事を「富士山よりエライ」とか思っているという意味で「山」なのかも知れません。

先生※はお前らの事など相手にもしないよ、山をナメるな(※僕は“山は先生”とずっと公言していますので富士山の事も先生と表現させて頂きました。さらに“山をナメるな”は以前イエス様に言われたキビシイお言葉です)はい、その自分の事を山とか象徴とかぬかしているバ〇ヤロウ、文仁が失敗なのだそうです霊団によると。その失敗が何であるか、皆さまもちろんお分かりですね。奴隷の女の子たち(赤ちゃん)を国民から盗みまくっているのと全く同じ手法で、ピーチピチも赤ちゃんの時に盗んで娘として登録した事が「失敗」と言っているのです。「カッパ、怒られる」 wp.me/pa9cvW-nI も書きました。間もなく粛清されるとも書いてありますが本当にそうなって欲しくて仕方ありません。どんなに皆さまに嫌われようとも公言し続けますが、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは女の子を盗みまくって強姦殺人しまくっているのです。その殺害人数は天文学的数字にのぼります。だから「死刑」以外に有り得ないと言っているのです。えーアナログ絵262の完成を急ぎましょう(祈)†

www.youtube.com/watch?v=QqJPejYHS_I&t=56s

前回はキリストについて語り、キリスト教徒がそうと思い込んでいるものより大きな視野を指摘しました。今回もその問題をもう少し進めてみたいと思います。実は吾々キリスト教界を担当する霊団は→

『ベールの彼方の生活④』→いよいよ地球に近づいた時点で一旦停止しました。吾々の仕事の様々な側面をいっそう理解するために、全員に召集令が出されたのです。集合するとキリスト自らお出ましになり、吾々の面前でその形体をはっきりお見せになりました。中空に立たれて全身を現されました。

『ベールの彼方の生活④』その時の吾々の身体的状態はそれまで何度かキリストが顕現された時よりも地上的状態に近く、それだけにその時のキリストのお姿も物的様相が濃く、また細かいところまで表に出ておりました。ですから吾々の目にキリストのローブがはっきりと映りました。

『ベールの彼方の生活④』膝のところまで垂れておりましたが、腕は隠れておらず何も付けておられませんでした。吾々は一心にそのローブに注目しました。なぜかと言えば、そのローブに地上の人間が様々な形で抱いているキリストへの感情が反映していたからです。それがどういう具合に吾々に→

『ベールの彼方の生活④』→示されたかと問われても、それは地上の宗教による崇拝の念と教理から放出される光が上昇してそのローブを染める、としか言いようがありません。言わば分光器のような働きをして、その光のもつ本質的要素を分類します。それを吾々が分析してみました。

『ベールの彼方の生活④』その結果分かった事は、その光の中に真の無色の光線が1本も見当たらないという事でした。いずれもどこか汚れており、同時に不完全でした。吾々はその問題の原因を長期間かけて研究しました。それから、いかなる矯正法をもってそれに対処すべきかが明らかにされました。

『ベールの彼方の生活④』それは荒療治を必要とするものでした。人間はキリストからその栄光を奪い取り、代って本来のものでない別の栄光を加える事をしていたのです。が加えられた栄光はおよそキリストにふさわしからぬ“まがいもの”でした。やたらと勿体ぶったタイトルと属性ばかりが目につき、→

『ベールの彼方の生活④』→響きだけは大げさで仰々しくても、内実はキリストの真の尊厳を損なうものでした。【例を挙げていただけませんか。】キリスト教ではキリストの事を神(ゴッド)と呼び、人間を超越した存在であると言います。これは言葉の上では言い過ぎでありながら、その意味においては→

『ベールの彼方の生活④』→なお言い足りておりません。キリストについて2つの観点があります。1つの観点からすれば、キリストは唯一の絶対神ではありません。至尊至高の神性を具えた最高神界の数ある存在のおひとりです。父と呼んでいる存在はそれとは別です。それは人間が思考しうる限りの→

『ベールの彼方の生活④』→究極の実在の表現です。従って父はキリストより大であり、キリストは父に所属する存在であり神の子です。しかし別の実際的観点からすれば、吾々にとってキリストは人間が父なる神に帰属させているいかなる権能、いかなる栄光よりも偉大なものを所有する存在です。

『ベールの彼方の生活④』キリスト教徒にとって最高の存在は全知全能なる父です。この全知全能という用語は響きだけは絶大です。しかしその用語に含ませている観念は、今こうして貴殿に語っている吾々がこちらへ来て知るところとなったキリストの真の尊厳に比べれば貧弱であり矮小です。

『ベールの彼方の生活④』その吾々ですらまだ地上界からわずか10界しか離れていません。本当のキリストの尊厳たるや、果たしていかばかりのものでしょうか。キリスト教ではキリストは父と同格である、と簡単に言います。キリスト自身はそのような事は決して述べていないのですが、→

『ベールの彼方の生活④』→さらに続けてこう言います―しかるに父は全能の主である、と。ではキリストに帰属すべき権能はいったい何が残されているのでしょう。人間はまた、キリストはその全存在をたずさえて地球上へ降誕されたのであると言います。そう言っておきながら、天国の全てを→

『ベールの彼方の生活④』→もってしてもキリストを包含する事はできないと言います。こうした事をこれ以上あげつらうのは止めましょう。私にはキリストに対する敬愛の念があり、畏怖の念をもってその玉座の足台にひざまずく者であるからには、そのキリストに対して当てられるこうした→

『ベールの彼方の生活④』→歪められた光をかき集める事は不愉快なのです―たまらなく不愉快なのです。そうした誤った認識のために主のローブは全く調和性のない色彩のつぎはぎで見苦しくなっております。もしも神威というものが外部から汚されるものであれば、その醜い色彩で主を汚してしまった→

『ベールの彼方の生活④』→事でしょう。が、その神聖なるローブが主の身体を守り醜い光をはね返し、それが地球を包む空間に戻されたのです。主を超えて天界へと進入する事態には至らなかったのです。下方へ向けて屈折させられたのです。それを吾々が読み取り、研究材料としたのです。

『ベールの彼方の生活④』吾々に明かされた矯正法は、ほかでもない、“地上的キリストの取り壊し”でした。まさにその通りなのですが、何とも恐ろしい響きがあります。しかしそれは同時に、恐ろしい現実を示唆している事でもあります。説明しましょう。建物を例にしてお話しすれば、→

『ベールの彼方の生活④』→腕の良くない建築業者によって建てられた粗末なものでも建て直しのきく場合があります。全部取り壊さずに建ったまま修復できます。が一方、全部そっくり解体し、基礎だけを残して全く新しい材料で建て直さなければならないものもあります。

『ベールの彼方の生活④』地上のキリスト観は後者に相当します。本来のキリストの事ではありません。神学的教義、キリスト教的ドグマによって“でっち上げられたキリスト”の事です。今日キリスト教徒が信じている教義の中のキリストは“本来のキリスト”とは似ても似つかぬものです。

『ベールの彼方の生活④』ぜひとも解体し基礎だけを残して、残骸を片づけてしまう必要があります。それから新たな材料を用意し、光輝ある美しい神殿を建てるのです。キリストがその中に玉座を設けられるにふさわしい神殿、お座りになった時にその頭部をおおうにふさわしい神殿を建てるのです。

『ベールの彼方の生活④』この事―ほんの少し離れた位置から私が語りかけている事を、今さらの如く脅威に思われるには及びません。この事は既に幾世紀にもわたって進行してきている事です。ヨーロッパ諸国ではまだ解体が完了するに至っておりませんが、引き続き進行中です。

『ベールの彼方の生活④』地上の織機によって織られた人間的産物としての神性のローブをお脱ぎになれば、天界の織機によって織られた王威にふさわしいローブ―永遠の光がみなぎり、愛の絹糸によって柔らか味を加え、天使が人間の行状を見て落とされた涙を宝石として飾られたローブを→

『ベールの彼方の生活④』→用意しております。その涙の宝石は父のパビリオンの上がり段の前の舗道に蒔かれておりました。それが愛の光輝によって美しさを増し、その子キリストのローブを飾るにふさわしくなるまでそこに置かれているのです。それは天使の大いなる愛の結晶だからです。 アーネル†