コチラの書籍はパウロの晩年の伝道記となります。ほとんど牢屋に入れられっぱなし、鎖につながれっぱなし、サウロ時代にイエス様の使途を大勢殺すという大罪人でしたからその悪行の因果律としてそういう晩年だったと思われるものの、その苦難を耐えて最後までやらせた霊団がスゴイと思います。

こんなヒドイ目に遭わされれば普通逃げるだろと思うのですが、要所要所でパウロは天使の顕現に浴させて頂いており、それが抑止力、使命遂行への決意維持につながったのだろうと思います。

僕がいちばん印象に残っているシーンはイエス様の実母マリア(この時かなり高齢)がルカに連れられて獄中のパウロに面会したシーンです。その時、パウロはマリアのうしろに立つイエス様を霊視で見たそうです。これは素晴らしいシーンですね。(20章、21章)

Google翻訳の読みにくい文章かも知れませんがどうかそこはご勘弁頂いて、ぜひとも多くの方にお読み頂きたいと思います。近藤千雄先生も山本貞彰氏も翻訳しなかった書籍となります。まだ未翻訳の書籍を入手するつもりでいるのですが何をどうググってもどこにも存在しておらず、現状入手は絶望的状況です。

さぁもう明日の山のアタック準備ですので今日の作業はココまで。明日はグラデーション撮影は絶望的、しかし置かれた環境で撮れる限りのモノを撮ってきます。もはや僕の山での撮影は仕事であり使命遂行の一環なのです。どんなヒドイ状況だろうと何が何でも撮影しなければなりません。

帰還後の長文ブログの事を思うと気が重くてどうしようもありません。本当にテキスト撃ち続けるのが苦しくなっているからです。まさか本当に霊団はこの状態をいつまでもどこまでも続けさせるつもりじゃネィだろうな何の結果にも到達させずに。ジョォォダンじゃネィよ。ホンの10分でも自分を助ける作業をしましょう。霊団は何もしませんからね(祈)†

[思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて、逆に次のような通信が届けられた。]

魂は自由であるべきもの

これまで述べてきたところをまとめる意味で、今少し述べてみたいと思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたないものであることを十分に理解していないようです。

われわれの述べる言説こそ人類の必要性と願望を満たす要素をもつことも理解していない。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ないものを、ここで指摘しておく必要がありそうです。

人間界に蔓延している死後の問題への関心が実にいい加減であることも、そなたにはわかっていない。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかないということ、それだけです。

理性的にみれば、絶対的啓示として信じるよう教え込まれた“神の啓示”には人工の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準にさえも耐え切れないこと、そして又、理性は啓示の判断基準ではないのだから知的追求の枠外に置き、ただひたすら信ぜよとの牧師の詭弁は、実は、決して誤らないはずの福音の中に数多く発見される誤りと矛盾を被い隠すための巧妙な言い逃れの手段であることは容易に知れます。

理性という試金石を使用すれば、それくらいのことは立ちどころに知れます。理性をもたない者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていくのです。

そして、教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから1歩も出ようとしません。それもただ、それに疑念をはさむことが恐ろしいからに過ぎません。

宗教上の問題についての理知的思考を禁じることほど、精神を拘束し魂の発育を歪めるものはありません。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害します。魂が、その欲求を満たす満たさないに関わりなく、ひとつの因習的宗教によって縛りつけられてしまうからです。

これでは、魂の成長の糧をみずから選択する自由が皆無となります。遠い祖先にとってはそれで良かったかも知れないことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては、まったく無意味なことも有りえます。ゆえに、その自由を奪われては、魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになります。

キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたたちのいう異教徒となるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになります。

その神がインディアンのいう大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも – 要するに、その宗教的概念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的な拘束力をもつことになります。

何となれば、いずれの国にあっても、古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからです。

真理のすべてを包含する宗教は存在しない

この事実は、そなたにとって熟考を要する問題です。いかなる宗教といえども、地上のある地域の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示のすべてを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む、作り話にすぎません。

今地上で全盛を誇っている宗教も、あるいはかつて全盛をきわめた宗教も、どれひとつとして真理を独占するものではありません。完全な宗教など、どこにも存在しません。

それが発生した土地、そして又、それを生み出した者の必要性を満たす、それなりの真理を幾つかそなえてはいても、同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけられるべきものではありません。

それは神からその民族のために与えられた霊的栄養なのです。それをもって普遍絶対性を主張すること自体が、すでに人間らしい弱点をさらけ出しております。

人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものです。その妄想にしがみつき、われらこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して、他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込んでいる姿を見ていると、われわれは、その“けなげな”気持には微笑(ほほ)えまずにおれません。もっとも、その思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちですが…。

すぐれた学識をそなえているはずの神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせていますが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条にすぎないことに、今まで気づかず今なお気づかずにいることは、われわれにとって驚異というほかはありません。

神の真理は太陽のごとくあまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できません。それはぜひとも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要があります。

つまり、光に慣れない目を眩まさないように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばなりません。その中間的媒体を通さずに直接(じか)に真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て、天上高く舞い上がった時でしかありません。

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

地上のすべての民族にそれ相当の真理の光が授けられております。それを各民族それなりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもあります。

いずれにせよ、結局はその民族固有の必要性に応じて変形されてきております。それゆえ、地上のいかなる民族といえども、真理独占を誇り、それを他民族に押しつけんとす無益な努力が許される道理はないのです。

これまで地上に発生したどの宗教も – バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も – それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ人間が勝手にそれを真理のすべてであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続人であると自負したにすぎません。

その過ちを最も顕著に示しているのが、ほかならぬキリスト教です。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じていながら、その実、教会内部において対立する宗派がいちばん多いのもキリスト教であるという事実が、その過ちを何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。

内部の分裂、その支離滅裂の教義、互いに愛を独占せんとして罵(ののし)り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことは、キリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かな自負への絶好の回答です。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつあります。その新しい啓示の普及による啓発によって、そうした宗閥的勢力争いも消滅するでしょう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意ができているのです。

その暁には、各宗教には中心的太陽ともいうべき神の光の一条のみが与えられているにすぎないこと、しかも、その光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知ることでしょう。

それゆえ人間は、他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、自分たちの欲求にそぐわないと思い込んでいたものの中にも、神聖なものを認識しなければいけません。

宗教としてあるまじき内部事情

われわれがその普及を使命として担わされている壮大な霊的教訓は、理性的観点からすれば合理的であると同時に崇高なものをそなえており、その普及によって、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の物笑いのタネとしてしまった宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上から払拭(ふっしょく)される日も間近に迫っております。

それにしても、ああ、何たる醜態でしょう!本来ならば神の本性を明らかにし、神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学 – それが、事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しい感情をむき出しにする不毛の地と化し、神についての無知を最もあらわに曝け出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う、佗しい荒野と化してしまうとは!

神学!これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っています。神についての無知の証ともいうべき退屈きわまる神学書は、見苦しい悪口雑言(あっこうぞうごん)、キリスト者と
して最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりです。

神学!聖なる本能のすべてをかき消し、敵に向けるべき攻撃の刃(やいば)を同志に向け、聖者の中の聖者ともいうべき霊覚者を火刑に処し、あるいは拷問にかけて八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし、あるいは追放し、人間としての最高の本能を堕落させ、自然の情緒をかき消すことを正当化するための口実とされてきたではありませんか。ああ、何たる醜態でしょう!

そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界から1歩でも出ようとする者を押し止めんとします。“退がれ!退がれ!神学のあるところに理性の入る余地などあるものか! – これが神学者の態度です。

真摯な人間を赤面させる人間的煩悩のほとんどすべてがそこにあり、自由な思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化しております。本来ならば神について語るべき叡知を、人間はそのような愚劣な目的のために堕落させてきたのです。

しかし友よ、われわれの目的成就の日も間近です。こうした風潮をいつまでも放置しておくわけにはいきません。今はまさにイエスの降臨前と同じです。夜明け前の漆黒(しっこく)の闇と同じです。

無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつあります。聖職の権能によってがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸した愚行、無知が生み出す偽善、そして曖昧模糊(もこ)の思索の産物に代って、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れるでしょう。

その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しい見解を手にすることでしょう。人間が死者と呼んでいる者も、地上時代と少しも変らず、否、むしろ、より実感をもって生きていること、しかも、地上時代に交わった時と変らぬ情愛をもって加護に当たっていることを知ることでしょう。

イエスは生命の本質と不滅性の真理を地上にもたらした、とバイブルにあります。その言葉は、筆録者が意味したものより、もっと広い意味において真実です。

イエスによる啓示の成就は – 今まさにそれが成就されんとしているところですが – 真実の意味における“死の観念”の撲滅であり、“生命の不滅性”の実証にほかなりません。

その偉大な真理、すなわち人間は永遠に死なないということ、たとえ死にたくても死ぬことはできないという事実の中に、未来へのカギが託されています。信仰のひとつとしてではなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実のひとつとして、生命の不滅性は未来の真実の宗教の基調であらねばなりません。

われわれの説く深遠な真理も、崇高な義務の概念も、壮大な宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すべてその生命の不滅性の上に成り立っているのです。

今のそなたには理解できないことかも知れません。炎に慣れていないそなたの魂は、目が眩むことでしょう。が、友よ、よく心されよ、やがてわれわれの言葉の中に真理のしるし、神性の一面を認めるようになる日が必ずきます。

†インペレーター

[注釈]

(1)キリスト教についてこれほど遠慮容赦のない批判を、罵倒に近い調子で投げつけた節も珍しい。訳者としても訳語の選択に戸惑うほどである。

キリスト教に愛着をもたれる方にとっては不愉快きわまる言説かも知れないが、これが、オックスフォード大学で徹底的に神学を叩き込まれ、しかもそれを唯一絶対のものと信じ、みずからも説いてきた、ステイントン・モーゼスという牧師自身の手が本人の意志を無視して自動的に動いて綴ったものであるという事実が、ここで大きな意味をもつことになる。モーゼス自身がその内容に反発し、反論し、健康を害するほどまで悩まされたのである。

ところで、ここで“堕落させてきた”とインペレーターが言っているその源をたどっていくと、325年のニケア会議(ニケアはニケーアと表記されることもあり、古代ではニースといった)での“歴史上最大の陰謀”(一聖書学者の言葉)に至るというのが常識的結論であろう。

そのニケア会議の全容を記した古書 History of the First Council of Nice, by D. Dudley(第1回ニケア会議の真相・初版1886年)を英国の古書店に依頼しておいたのであるが、不思議にも、この一節を執筆している最中に、突如、届けられた。

1年近くも前に注文し、すっかり忘れていたので驚いたが、その内容を一読してさらに驚いた。どこかの国の乱闘国会よりもっと見苦しい醜態の中で、キリスト教を国教とする採択がなされた経緯が、非難攻撃といった態度でなしに、一種の学術的資料の公表といった形で、整然とまとめられている。

いずれバイブルとキリスト教に造詣の深い方によって全訳されることになろうが、その著書の第7版(1925)に寄せられた大学教授ヒルトン・ホテマ氏の“序”がその概要を簡潔に説明してくれているので、それを≪参考資料≫として巻末に掲げておいた。

■2021年9月15日UP■
「いよいよ存在価値がなくなっていく」お分かりですね、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事ですよ(祈)†
日航ジャンボ機を墜落させて自分たちの邪悪の正体を公言しようとした人間を一気に殺したのも、その他いくらでもある事と思いますが、それらの行動には全て「動機」があるという事になります。その動機こそ霊団が言ってきた「人生イコールS〇X」この言葉ひとつに集約されるのです。コイツらの人生の目的、行動の動機は「S〇X1本」です。幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」で四肢切断、強姦殺人し続けるために全てのウソをついているのです。抵抗する術を知らない盗んできた(パレットから買ってきた)女の子たちをレイプし続けるために生まれてから死ぬまで自分の人生の全てをウソで塗り固めるのです。コイツらは何もかも全てがウソなのです。そこまでしてウソをつき続ける理由が「S〇Xを守るため」という事なのです…続きを読む→
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†■2021年11月10日UP■
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†
「この強姦殺人魔どもに対してこれ以外の感情が湧くというのであれば、どういう事なのか説明してもらいたい」という事になります。人間としてこれ以上当たり前の感情はないという意味です。その当たり前の感情がなぜこれほど長い年月にわたって公の場で語られる事が無かったのか、それが「洗脳」と「脅迫」と「視点外し」という事になると思います。まず「洗脳」ですが、世界中の強姦殺人魔は総じてメディアを牛耳っています。そのメディアを駆使して徹底的に自分が善人で国民に人気があって親しまれているという趣旨のニュースを休みなく流しまくり認識を捻じ曲げ続けてきます…続きを読む→
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†■2021年12月15日UP■
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†
とにかく何が何でも100%殺されるのだそうです。僕が赴くかも知れなかったその場所は、僕を殺したい人間(つまり「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を何が何でも守り通そうとしている人間)であふれかえっていますから、みんなで一致協力して僕を完全に殺しにかかってくるのだそうです霊団によると。これは以前からずっと言われ続けていました。毒殺だのうしろから銃で撃って来るだの日本刀で切りつけてくるだの、これまでありとあらゆる映像を見させられてきています。何しろその敷地内の全員が僕を殺そうとしていますから霊団も到底かばいきれないという事のようなのです。もちろんその僕を殺そうとしているメンバーの中にピーチピチ(佳子)も含まれているという事になります…続きを読む→