霊性を開く – あなたを支えるもの –

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霊性を開く – あなたを支えるもの –

ルース・ウェルチ著
近藤千雄訳

ルース・ウェルチ女史

Expanding Your Psychic Consciousness
by Ruth Welch
“CHIMES”Publishing Co.
California. U.S.A.

はしがき

本書は形の上では霊能開発の入門書となっているが、本当の目的はそれだけにとどまらない。その裏面には、各自が霊能を開発することによって広くかつ美しい心の境地を見出し、そのさとりのもとに自己の霊能を、金銭や名誉から超脱した愛と奉仕の精神で、広く人類の幸福のために活用していただきたいという切なる願いがこめられている。

もとより本書も限られた1冊の書物にすぎず、要所のすべてを尽くしているとは思っていない。ただ本書が熱心な心霊学徒にとって、より広く、より高い心の新境地への道しるべともなればと願うものである。

ルース・ウェルチ

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第1講 心霊現象と霊能者(霊媒)

心霊現象とは霊能者の肉体にそなわる特殊な磁気力と霊界からの力とが融合・調和した時に生じる現象で、知的能力とは無関係である。したがって霊能者それ自体は霊界人(スピリット)が使用する道具にすぎないわけで、その道具が立派で使いやすいものであればあるほど、それだけ現象も立派なものが生じ、反対にお粗末で使いにくいものであれば、そこに生じる現象は果たして信のおけるものであるかどうか疑わしくなってくる。

それゆえ霊能者あるいは霊媒としての大切な条件は、第1に受身的であること、第2に受容性が高いこと、そして第3になるべく高度な霊的バイブレーションがキャッチできること、この3つである。ただしこの3条件はあくまでも“必須”のものということであって、これ以外に、というよりは、これ以上に要求されることがまだまだある。

たとえば霊界からの高度なバイブレーションをキャッチしたら、こんどはそれを現界向きに調整し、またある時は現界からの通信を霊界向きに放送しなくてはならない。したがって霊能者は受け取る能力とともに、それを調整したり現界から霊界へ向けて放送したりする積極的な能力も要求されるわけである。

さて、心霊現象の研究からは概して明るく楽観的な人生思想が帰納されており、それが同時に健全な人間生活への指導原理ともなっている(後注1)。

確かに、無知がこしらえた恐怖と迷信の牢獄から人類を解放してくれたのは実にこの心霊現象の研究だった。また地獄さながらの苦しみと悲しみから救ってくれたのもこの研究だった。

人類は永遠の生命に目覚めたのみならず、“向上進化”こそ幸福の源泉であることを悟ったのである。したがってそこに希望に満ちた楽観的な人生観が生まれたのも、きわめて当然のことと言えよう。

とは言うものの、心霊家や霊能者の中にはまだまだ“子供の火遊び”にも似た、幼稚な一知半解者が少なくない。理性を忘れた無知な霊媒は往々にして自己の防御体制をおろそかにし、その結果、地縛霊・因縁霊(後注2)といった低級霊の影響を受けることになる。

直接の原因は健康の勝れない時に行ったためとか過労によるオーラの衰弱のためとか、いろいろあげられるかも知れないが、つまるところ無知が招いた“自然法則の無視”にあると言える。そういった点については追って説くことにする。

ところで、人間はみな霊能者かという質問をよく受けるが、これは“霊能”という用語の解釈次第で「イエス」とも「ノー」ともなる。すなわち、もしも霊能の意味を霊視能力とか霊聴能力といった、明確に顕現したものに限るとすれば、答えは明らかに「ノー」である。それは特殊な少数者に限られている。

が、霊能の意味の範囲を人間に潜在する未発達の霊的能力にまで広げれば、答えは「イエス」となる。つまり人間は1人の例外もなくみな霊能者であると言える。

最初に述べたように、霊能者というのは思想とか通信、あるいは各種のエネルギーの出入りする“通路”である。その意味でも人間はすべて霊能者であり、ただその通路の大きさや質の違いのためにいろいろ異った表現をしているにすぎない。

ある人は遺伝や環境あるいは背後霊(後注3)の特殊な影響でとくに発達した能力を発揮するが、そうした相対的な差異は別として、人間は努力次第で現在の能力をいくらでも発達させることができるのである。

もっとも“努力次第”とは言っても、遺伝的にどの程度まで発達した能力をもって生まれてくるかによって、ある人はわずかな努力で素晴らしい能力を発揮するし、ある人はわずかな能力のために言語に絶する修行を積まねばならないかも知れない。

それはともかくとして、人間の魂の奥に開発と善用とを待ちうけている無限の能力と叡知とが潜在していることだけは、断じて疑う余地のないところである。

一般的に言って、いかなる霊能者も自分の霊能が円熟の域に達した時はすでに人生の峠を越えているものである。しかし、しょせん千里の道も一歩より始めねばならない。

だれしも初めは霊能があまり単純なので、果たして霊能なのかどうか判断しかねるものである。中にはあまり単純すぎて、まったく意識せずに終ってしまう人もいる。しかし、霊能もそうした単純で幼稚な段階から始まり、人間的成長とともに徐々に発達していくものなのである。

注(1)これを西洋では、“近代スピリチュアリズム”Modern Spiritualism と呼んでいる。1848年に米国ハイズビル(ニューヨーク郊外)で発生した怪奇な心霊現象、俗にいう“ハイズビル事件”がきっかけとなって当時の英米の世界的科学者がこぞって超常能力をもつ人間を使って心霊現象の本格的な調査・研究に着手し、ほぼ全員が現象そのものの実在を確信するに至った。

これを“心霊研究”Psychical Research といい、その成果を学問的に体系づけたものを“心霊学”ないし“心霊科学”Psychic Science という。

が、それはあくまでも心霊現象が実際にあることを確認したということであって、その原因つまり何がそうした現象を起こしているかについては意見が分かれた。

“不明”とする懐疑派と“死者”の霊の仕わざとする、いわゆる“霊魂説”である。しかし割合としては後者が圧倒的に多く、その“霊”による自動書記通信や霊言を総合的に調査・分析する作業が行なわれ、死後の世界の実相や人間の本質についての本格的な思想が確立されるに至った。

これを“近代スピリチュアリズム”と呼ぶ。“近代”の文字を冠したのは、スピリチュアリズムつまり霊的な思想は古今東西を問わず太古からあり、これまでのものは神話・伝説が混じり、さらに人間的な迷信が加味されていることが明らかとなり、それと区別する必要性が生じたからである。その意味では“近代”は“科学的”と置きかえられる内容をもっているわけである。

参考までに米国スピリチュアリスト連盟の網領を紹介しておくと –

1、われわれは無限なる叡知としての神の存在を信じる。
1、わわれわれは物的・霊的のいかんを問わず大自然の現象はことごとくその無限なる叡知の顕現したものであることを信じる。
1、われわれはその大自然の現象を正しく理解し、その摂理に忠実に生きることが真の宗教であると信じる。
1、われわれは自分という個的存在が“死”と呼ばれる現象を超えて存続するものであることを確信する。
1、わわれわれは、いわゆる“死者”との交信が科学的に証明ずみの事実であることを信じる。
1、われわれは人生最高の道徳律が「汝の欲するところを他人に施せ」という黄金律に尽きることを信じる。
1、われわれは人間各個に道徳的責任があり、物心両面にわたる大自然の摂理にしたがうか否かによって、本人みずから幸不幸を招くものであることを信じる。
1、われわれはこの世においても死後においても“改心”への道はつねに開かれており、いかなる極悪人といえども例外ではないことを信じる。

●スピリチュアリズムは科学である。なぜなら霊界から演出する心霊現象や超能力を科学的に分類し分析しているからである。
●スピリチュアリズムは哲学である。なぜなら顕幽両界の自然法則を考究し、それを現在までの観察事実に照らして哲学的理論を導き出すからである。また過去の観察事実やそれに基づく理論も、それが理性的に納得がいき現代の心霊科学によって裏づけられたものであれば、これを受け入れるにやぶさかではない。
●スピリチュアリズムは宗教である。なぜなら宇宙の物的・道徳的・霊的法則を理解し、それに忠実たらんと努力するからである。それはすなわち神の御心に忠実たらんとすることにほかならない。

注(2)スピリチュアリズムによると死後人間は段階的に向上・進化していくことになっているが、人生における大きな失敗・挫折・怨恨等が足かせとなって、いつまでも地上的雰囲気から抜け切れずに人間に悪影響を及ぼしている霊も少なくないことが明らかとなってきた。その類いの霊を因縁霊とか地縛霊と呼んでいる。

注(3)スピリチュアリズムによると、人間が地上へ誕生してくるにはそれなりの目的ないし使命がある。ある人は前世の罪悪を償うために、ある人は人類の精神的ならびに霊的進化を促進する使命をもって生まれてくる。

が、この肉体という鈍重な物質的器官に宿ることによって、そこにはさまざまな制約や煩悩が生じ、所期の目的や使命を成就するのは容易なことではない。そこでそれを霊界から導き援助するための複数の霊がついている。それを総合的に“背後霊”と呼び、因縁霊などと区別している。

背後霊には大ざっぱに分類して守護霊と指導霊と支配霊とがいる。守護霊は魂の親のような存在で、切っても切れない関係にあって終生変わることがない。

その使命は自分の扶養家族ともいうべき地上の人間の霊的進化のために最も有効な体験を積ませ、それが過酷すぎる場合は霊的・精神的に援助して天命の全うに支障のないように計らうが、“守護”という用語からとかく想像しがちなように“何でも守ってくれる霊”と思ってはならない。

指導霊というのは地上生活を営む上での指導・援助をする霊で、先祖霊が多く、学問、芸術、技術、経済、健康等々、実生活全般にわたって面倒をみてくれる。当然、幼少時から成長に応じて適宜に入れ替りが行われる。国籍の異る霊である場合もありうる。

支配霊というのはとくに霊能者や霊媒について、その中心的責任者として支配する霊のことで、その使命が続くかぎり、そしてその使命に忠実であるかぎりは援助してくれるが、名誉心や金銭欲、色欲などがからんでくると高級霊は去ってしまい、あとは低級霊に支配されて、営業上は繁盛しても、霊的能力はあか抜けのしないものになってしまう。

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第2講 霊能開発に伴う危険性とその心得

人間生活に危険はつきものである。霊能開発もその例外ではない。しかし、危険だからといって「君子危きに近寄らず」では進歩は得られない。それはちょうど外出が危険だからといって子供を家に閉じこめておくようなもので、それでは子供は成長しない。

危険なのは外出することそれ自体ではなく外出中の注意を怠ることである。霊能開発もそれと同じで、霊能開発を試みること自体が危険なのではなく、それに必要な基礎知識と注意とを怠ることに危険が潜んでいるのである。

中でもいちばん危険なのが、知ったかぶりの見栄っぱりである。いい加減な知識と人一倍の見栄をもって無秩序に現象を求める。この種の人間は利己的な未発達霊に取り憑かれる危険がある。(後注(1))

人間は死の関門を通過して霊の世界へ行ったからといって、すぐに悪人が善人になるわけでもなければ、反対に善人が悪人になるわけでもない。感情も同じだし欲望も地上とまったく用じようにもっている。

物事の感じ方も考え方も地上にいた時と少しも変らない。皆が皆、立派な心がけと高尚な思想をもって行ってくれれば結構この上ないのであるが、実際はむしろその逆で、霊界には低劣な思想とあくどい欲望をもった亡者がウヨウヨしている。

そういった低級霊が右にのべたような軽薄な人間に取り憑き、思うように操るのである。危険この上ない話である。たとえ霊の側には悪意はないとしても、危険であることに変りはない。このことは霊能開発を志す人にかぎらない。いわゆる心霊家ないしは心霊研究家についても言えることである。

「まずその霊をためせよ」 – バイブルにこんな言葉が見えるが、これはそのまま心霊にたずさわる者の第1の心得とすべきである。(後注(2))そのためには心霊学の基礎をしっかりと勉強し、宇宙の自然法則の内外(物的と霊的)に精通し、道義の鏡とともに理性の鏡をも磨く必要がある。

次に大切なことは、いっしょにやる人 – 実験の場合なら列席者、養成会なら会のメンバー – を厳選することである。なぜかと言えば心霊実験の場合、低劣な人間や悪意をもった人間はそのオーラが破壊的なエネルギーを発散するために、霊媒とその背後霊との間の霊波の障害となり、そういった列席者が数を増すと、その倍加された悪想念が霊媒をトリコにして、思いも及ばない低級なことをやらされることがあるからである。

このことはとくに初心者に注意してもらいたい。価値ある高級な現象を得たいなら、いわゆる“志を同じくする者”を厳選することが先決である。

宇宙に内在する霊的法則に通じ、価値ある現象を得るための条件を整え、その上、心がけの立派な同志の援助を得ることができたら、あとは研究者自身、霊能開発を志す者自身の精神修養ひとつにかかっている。円満・清浄な人格と、神への崇高にして確固たる信仰をもって臨むならば、神の恩沢に浴せないはずはない。

“類は類をもって集まる”の例えの通り、そうした人たちの背後には志を同じくする高級な霊が結集し、危険から守ってくれるのはむろんのこと、進んで人類の福祉のために心ゆくまで援助してくれる。心霊能力も、やはりその段階までこなくてはスピリチュアリズムの一環としての意義をもったとは言えない。

霊媒・霊能者・心霊研究家 – 要するに心霊にたずさわる人はすべて、まず自己の精神修養を通じてできるだけ程度の高い霊の援助が得られるよう努力しなくてはならない。崇高なる愛と目的とをもった価値ある仕事は、高級な心霊の援助なしには到底成就できないものだからである。(後注(3))

注(1)米国の精神科医カール・ウィックランド博士は精神病患者を霊的に治療した30年間の成果を Thirty Years Among the Dead と題する厖大な書にまとめているが、その冒頭に紹介されている症例はみな、面白半分に心霊実験を試みた人たちで、とくに女性が多い。

それまではどこからどう見ても礼儀正しい常識人だった人が、心霊学の予備知識なしに単なる好奇心から自動書記やウイジャ盤遊び(日本のコックリさんに似ている)をしているうちに、ある日突然、変なことを言い出し、行動に理性がなくなり、家族の手に負えなくなって施設へ収容されるという経過をたどっている。

これは一種の憑依現象で、ことごとく因縁霊や地縛霊による。それをウィックランド博士が背後霊団との協力のもとに除霊して、その霊ともども患者を厚生させている。

注(2)“霊をためす”といっても、霊の姿は見えないのであるから、結局はその産物、自動書記ならばその通信の内容、霊言ならばその語り口の印象から直感的に洞察するほかはない。なまじ霊視能力があると悪知恵の働く邪霊によってそれを逆手に取られる恐れがある。

自動書記通信で手本とすべきものとしてはステイントン・モーゼスの『霊訓』(国書刊行会)がある。これはキリスト教の牧師だったモーゼスが、通常意識のまま自分の手が動いて綴るその通信内容がキリスト教を否定するものであったために、途中でそれに反論すると、それに対してインペレーターと名のる霊が回答するという形で、延々10年間も続いた論争をまとめたものである。

双方とも遠慮容赦のない、まさに“熾烈(しれつ)”という言葉がふさわしい、高等な内容の論争となっていて、自動書記を受け取る者はかくあるべきというお手本である。

次に霊言の手本とすべきものとしては同じく英国の霊媒モーリス・バーバネルの口を借りて週1回、実に50年にもわたって語り続けたものをまとめた『シルバーバーチの霊訓』(全12巻・潮文社)が挙げられる。

密室で行ったのではなく、英米各界の著名人を招待して遠慮なく質問させ、それにシルバーバーチ霊が何のてらいもなく淡々と、しかも平易な言葉で返答しながら、それでいてそのひびきには重厚味があり、内容は崇高な叡知にあふれ、読む者を感動させるものを秘めている。

ついでに日本の例を挙げれば、今から150年前に宮崎大門という宮司が記録した『幽顕問答』が真実味において群を抜いている。ある酒造家の長男がある日突然熱病で倒れ、40日ほどたっても一向に良くならず、いよいよ危篤状態に陥った時に宮崎宮司が最後の頼みとして呼ばれた。

宮司が神道流の刀加持をしているうちにその病人がやおら起き上がり、きちんと正座して「拙者は数百年前にこの土地で割腹自殺せる加賀の武士でござる」と言い出し、石碑を建ててほしいとの願いを述べると同時に、それからまる一昼夜にわたって死後の世界と現界とのつながりについて語ったものを宮司自身が書き留めたものである。

その内容もさることながら、宮崎宮司が徹底的に“霊をためして”かかった態度が審神者(さにわ)として見事であったこと、また霊媒の役をさせられた病人が心霊について何の予備知識も持ち合わせなかったこととがあいまって真実味を増し、世界にも類のない心霊現象として異彩を放っている。(『古武士霊は語る』潮文社)

注(3)霊能にも2種類ある。ひとつは五感の延長としての超能力、たとえば透視能力や念力による治病能力などで、これを英語で Psychic Powers(サイキックパワー)と呼んでいる。

動物が見せる不思議な超感覚能力もこの部類に属し、人類もいずれ何千年か何万年かのちには当り前の能力として五感とともに自由に使用することになるはずである。現代の超能力者はその“さきがけ”である。

もうひとつはそのサイキックパワーに高級霊の指導と霊力とが加わった能力で、これを英語では Spiritual Powers(スピリチュアルパワー)と呼んでいる。注(1)で紹介したウィックランド博士夫妻による精神病治療はその典型といえる。

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第3講 精神統一 その(1)

霊能の開発を志す者が第一に心がけなければならないことは、真理の言葉には素直にしたがえるように精神を修養することであろう。

いわゆる“この世的”な考えや煩悩にとらわれているようでは、まだまだ物的な自我から抜け出ていない証拠であって、そんなことでは持てる霊力を発揮して、たとえば交霊会に必要な霊的雰囲気を作り上げるなどということは望むべくもない。そのための精神的訓練を“精神統一”といい、その状態に入ることを“統一をトル”という。

その練習に先だって理解しておかねばならないことがある。それは統一状態というものが決して神秘的なものではないということである。つまり日常生活において呼吸したり歩いたりすることと同じく至って自然な状態であって、したがってその正しい活用はかならず人間を健康にするはずのものなのである。

またその過程は至って単純なものである。現代人は騒々しい文化生活に追い回されているためか、とかく単純なものを軽蔑し複雑なものに何かしら意味があるように錯覚しがちである。が、実際はその逆であって、宇宙最奥の力すなわち神に近づく道はむしろ単純素朴なところにあるものである。

さてその点の理解がいき、いよいよ精神統一を始める段階になったら、まず日常生活のことは一切忘れ去らなければならない。その日その日の出来事や悩み事が頭から離れないようではいけない。少なくともその練習中だけはすべてを神にまかせきり、期待と喜びをもって統一に専念しなくてはならない。

何もかも忘れた無我の境地は、肉体をくつろがせ疲れを取ってくれるばかりでなく、その境地で得られる悟りが一切の精神上の悩みや取り越し苦労を払いのけ、魂を安らかな満足の境地へと誘ってくれるのである。(後注(1))

そういった点から言えば、精神統一の時刻はなるべく1日の仕事が終ったあとがよいであろう。また時刻はなるべく一定させ、部屋もなるべく同じ部屋を使用した方がよい。また椅子も毎回同じものを使用するようにした方がよい。

なぜかと言えば、人間の身体からは一種の磁気(オーラ)が放射されているので、いつも同じものを使用していると次第に磁気を帯びてきて、統一に良い影響を与えるからである。

次にその椅子の形であるが、布でできたソファーのようなものより、木製で直角に作ってあるものの方が好ましい。直角であれば自然背骨がまっすぐになり、その結果いわゆる霊的中枢(後注(2))に霊力の流れが届きやすくなるからである。

さて、いよいよ席についたらまず第一に一切の煩悩を去らなければならないことは前にも述べたが、これは精神上のことであって、それと同時に身体的にもくつろぎと爽快さとを必要とする。

そのためには大きく深呼吸を反復するのがいちばん良い。ごく一般的なやり方で鼻から吸って口から出せばよい。これをせいぜい3、4回くりかえせば自然に体内が清浄になり、その結果爽快な気分になり、それがひいては精神的な落着きにも好影響を及ぼす。ただし深呼吸もあまり多く反復するとかえって疲労を生ずるものであるから、その点を注意して適度に行うべきである。(後注(3))

こうして心身ともに落着き、いよいよ無我の境地に入ろうとすると、はじめのうちは雑念や妄想が心中をよぎって邪魔しようとするものである。あるいは又、なぜか身体の機能の動きが気になってくるものである。

しかしこれは統一修行における初歩的な試錬であって、はじめに述べたように、精神を真理の命ずるままに従わせるためには、まずこの程度の障害は平気で乗り越えなければいけない。部屋に柔らかい灯りをつけるか、あるいは静かな音楽を流すことも補助的な方法のひとつであろう。

なお念のためであるが、ここでいう精神上ならびに身体上のくつろぎとは、睡気を催すような倦怠感をいっているのではない。もしもそういう気だるさを感じたら、その時は練習を中止した方がよい。

なぜかと言えば、そういう倦怠状態のまま無意識状態に入ってしまうと、そのスキに悪質のエネルギーを吸い込んで、初心者には処理できない悪影響を残すからである。くつろぎとは、言いかえると煩わしいことがないという意味であって、統一状態を消極的に言い表わしたにすぎない。

では積極的にはどうあるべきか。言葉で述べるのは難しいが、強いて言えば、身体はすっきりとして、精神ははちょっとした物音にも気づくほど鋭敏で、いわゆるスキのない状態でなければならない。言いかえると、手入れの行き届いた身体の中で精神がフルに活動している状態とでも言えばよかろう。

このように、統一練習もはじめは肉体意識のコントロールに費される。そしてこれが十二分の段階にくると、今度は心霊的能力がそろそろ出はじめる。それと同時に、何となく自分が多くの霊と音声とに取り囲まれていることに気づきはじめる。目に見えるのでもなければ耳に聞こえるのでもない。それでいてはっきりとその存在を感じ取る。やはり一種の悟りというべきであろう。

前にも述べたことであるが、練習の時刻は1日の仕事がぜんぶ終ったあとの方がよい。ヤレ、これで済んだ、という安心感とくつろぎがあり、もはや新たに用事がもち上がる心配もない。

それから、統一中は目を閉じるのが自然であろう。しかし中には閉じると睡くなるという人がいるので、そういう人は半眼に開いて適度に視覚を働かせておくのも一法であろう。なお目を閉じた方がやりやすいという人も、正常な無意識状態と半睡半夢の状態とでは大いに異ることを認識して、くれぐれも注意する必要がある。

やはり初心者は、なるべくなら相当修行を積んだ人といっしょにやるのが望ましい。なお目を閉じる閉じないの問題は初めのうちだけであって、霊能が伸びてくるとどちらでもかまわなくなる。つまり“第3の目”ができるわけである。

注(1)第2講の注(3)で背後霊の解説をしたが、説明だけを聞くといかにも万事がうまく行きそうに思えるが…という疑問をもたれた方も多いであろう。が、いくら立派な霊が控えていても、最後の選択をするのは本人自身であり、その自由意志は絶対的に尊重しなければならないのが霊的指導の大原則である。それに加えて因縁霊や地縛霊による影響もある。

そこで霊界通信の多くが、1日のうち1度でよいから世間の喧騒から引っ込んで静かな内省の時間をもってほしいと言っている。その受身の静寂の中で、背後霊との連絡が修復される、あるいは深められるからである。精神統一ないし瞑想はそういう意味でも大切である。

注(2)ヨーガでいうチャクラに相当し、眉間(みけん)、のど仏、みぞおち、丹田のあたりにあって、身体的にも大切なところである。その辺が霊力の出入りする場所であるらしく、たとえば同じ霊言でも、みぞおちから声がする霊媒もいる。

しかし、小さいながらもいちばん大切な心霊中枢は松果体である。これは今は亡き世界的心霊治療家のハリー・エドワーズが再三注意を促していたもので、脊柱の先端と2つの大脳葉に挟まれた直経4ミリ長さ6ミリほどの円柱形の器官である。その機能についてはまだ十分な解明がなされていないが、心霊中枢の中でも大切な中枢であることは間違いないようである。

注(3)次のエドワーズの“意識的深呼吸法”が参考になるであろう。「人体には内分泌腺というものがあって、つねに身体の調子を調節している。私はこれを心霊腺と呼んでいるが、その心霊腺の中の受け入れ所のようなものが鼻の後部にあり、そこから上下に2本の太い心霊腺が出ている。1本は脊髄を通っており、その腺から毛細血管のような支腺が出て、からだ全体に行きわたっている。

上へ向う心霊腺は頭部全体に行きわたって、最後は松果体および内分泌器官(甲状腺と脳下垂体)とつながっている。

宇宙エネルギーを摂取するのは実にこの心霊腺である。心霊腺の組織網が血管組織や神経組織と同じように身体の各組織へ行きわたっているのである。私のいう意識的深呼吸法を会得していただくためには、ひとまず以上のことを頭に入れていただかねばならない。

さてその呼吸法であるが、まずふつうの深呼吸のように鼻から息を吸い込む。1度に急激に吸ってはいけない。静かにゆっくりと、しかも“これ以上吸えない”というところまで吸い込む。これだけではふつうの深呼吸となんら変りないわけであるが、大切なのはその時の“意識”または“気持”である。

すなわち鼻からゆっくり吸い込みつつ心の中で今いった宇宙エネルギーがふんだんに流れ込んでくる状態を想像し、同時にそれが心霊腺を通って身体のすみずみまで行きわたって掃除をしてくれているような気持にならなければいけない。

要するにオゾンの味を噛みしめる時のような気持で呼吸すればよい。そして、エネルギーが全身に行きわたったと感じたところで口からゆっくりと吐き出す。

これを1度に4、5回、1日に数度、いつでもよいからする気になった時にやる。通勤時でもよいし、木蔭を通る時でもよかろう。これは一種の解毒法だと思っていただきたい。それゆえ喘息のような呼吸器系の病気を患っている人にはとくにおすすめしたい。

なおその折に心の中で神への祈りを捧げることも、背後霊の援助をいっそう促進することになろう。(心霊治療専門誌《スピリチュアル・ヒーラー》1959年8月号)

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第4講 精神統一 その(2)

ここでもう2、3とくに初心者に注意しておきたいことがある。まず第一は、言ってしまえば何でもないことであるが、焦ってはならないということである。

少しでも早く霊能を発揮したいのは人情であるから一生けんめいになるのは当然のことであり、その熱意は大いに結構なのであるが、しかしそれが過ぎて“焦り”になったら効果は逆になる。いたずらに遅らせるだけである。

最初は必ずしも毎日規則正しくやる必要はない。週に2、3回、それも短時間でよいから気の向いた時に行う。そうすると次第にそれが習慣となってきて、3回が4回、4回が5回となって、ついには日課となってくる。こうなったらしめたもので、長時間やっても大して苦痛でなくなってくる。

次に、これも当り前のことであるが、ただの好奇心から面白半分にやってはならないということである。あいつにできるのなら自分にだって…といった競争心や、お前もやってみないかと誘われて簡単にやり始めるといったような、要するに予備知識も心構えもできていない者が面白半分にやるのがいちばん危険である。

その理由は簡単である。類は類をもって集まるの道理で、同じような無責任な霊が寄ってたかってイタズラをするのである。これが取り返しのつかない禍いの原因となるので注意が肝要である。

それから統一中の心構えについてであるが、統一修行は言わば悪霊・邪霊との闘いと言ってもよいのであるから、少々の邪魔は軽くはね返すくらいの不敵な信念に燃えなければならない。イエス・キリストが修行中に“さがれ、悪魔め!”と叫んだというが、それくらいの意気はあってしかるべきである。

さて霊能が出はじめるまでの期間はもちろん個人によって差異がある。人によっては1、2回やっただけで物が見えたり手足が動いたりする。こういう人は実はそれまでに無意識のうちに生来の霊能が発達していたに相違ないのであって、決してその人だけが神の特別の計らいを受けているわけではない。

“自然は真空をきらう”といわれるが、これは言いかえると、物事はすべて因果律の支配を受けるということであって、霊能開発もその例外ではない。つまり、それ相当の修行を積まないと霊能は発揮されないということである。(後注(1))

そこで、いくら練習しても少しも兆候が見られないという人は次の事実を知っていただきたい。

それは、元来、統一練習というのは、前にも述べたように霊能開発だけが目的ではなく、たとえ霊能らしいものは出なくても、その間に魂そのものは無意識のうちに新しい生命力を摂取したり、身体に悪い箇所があれば背後霊が治してくれている場合もあり、また精神上の悩みについては慰安を得たり立派な解決策や示唆をいただいたりしているということである。

真面目でしかも心霊学を正しく理解している人、あるいはこれから勉強しようとしている人は、ぜひこの事実を念頭に置いて、統一練習をひとつの人間的修養と心得てもらいたいと思う。それに要する暇なら必ず神が与えてくださるはずである。

人間の特技、学問でいうならいちばん得意な学課というものは、そう幾つもあるものではない。それと同じく、いくら修行を積んでも霊能のすべてが発揮されるものではないことも心得ておかねばならないことである。

大ていは何かひとつの霊能が発揮されるだけであって、中には霊能らしいものは発現されずに、ただ統一中にさまざまなインスピレーションを受けるだけという人もいるが、これも立派に霊能である。(後注(2))

そういったものはすべて神から授かったその人特有の道具なのであるから、自分の期待どおりのものが出ないからといって不快に思ったりグチを言ったりするようでは幸福な生活は覚束なく、けっきょく損をするのは本人以外の何者でもない。ここにも、正しい悟りと神への崇高な信仰心が要請されるのである。

真に謙虚な心とは神からいただいたものは何でも素直に有難く思い、それを最大限に有効に使用する心をいうのであって、それが取りもなおさず真の宗教心に通じるのである。

おしまいに精神統一に関する注意事項をまとめて列挙しておく。

1、祈りにも似た真面目な気持で臨むこと。
1、適度の深呼吸によって気持を落着けること。
1、焦らずに週2、3回から始めて、徐々に回数と時間を増やしていくこと。
1、なるべく同じ部屋で同じ位置、同じ椅子を使用すること。
1、勝手な期待をしないこと。その意識が暗示現象を起こすことがある。
1、統一練習は悪霊との闘いであるとの覚悟のもとに、強い気魄をもって臨むこと。
1、なるべく経験を積んだ人の指導が受けられるサークルに通うこと。
1、練習後に具合が悪かったりする時は、考え方にどこか間違いがあるか、あるいは方法に欠陥がある証拠であるから、真剣に反省すること。
1、開発された霊能は神から授かった貴重な道具として有難く思い、それを人のために有効に使用すること。

注(1)霊能にも多分に遺伝的要素があり、霊能者の出やすい家系というのがあるようである。その点は芸術や学問の天才と似たところがある。

注(2)心霊能力には主観的なものと客観的なものとの2種類がある。客観的ということは要するに“目に見える現象”ということであるから、主観的なものとは対照的に非常に派手であり、いかにも奇跡といった印象を与える。

しかしそうした現象は実は本文でも最後に出てくるエクトプラズムという半物質を使用すれば低級霊でも、いやむしろ低級霊の方が上手に起こすことができる種類のものであって、能力としてはそう程度の高いものでもないし不可欠のものでもない。目に見えない霊の存在を知らしめるために演出されるだけのもので、それ以上の価値はない。

それに引きかえ主観的なものは第三者にはその真偽が見分けにくいという欠点はあるにしても、霊と霊との直接の関係であるからよほど程度が高く、中でもインスピレーション、直感力、洞察力などは最も程度が高く、かつ不可欠のものである。

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第5講 精神統一 その(3)

精神統一についてはすでに二講にわたって相当くわしく述べたつもりであったが、振り返ってみると、なお言い足りない点や言い落としたことがあるので、さらにもう一講付け加えることにした。

これほど紙面を割くのも、それほど精神統一というものが物心両面にわたって心霊研究の基礎であり第一条件であるからにほかならない。心霊研究だけに限らない。幸福な人間生活の鍵でもあるのである。

よく“子は親の鏡”と言われる。家庭生活における親の生活態度が知らず知らずのうちに子供の言動や性格に反映してくることを言ったものであるが、実はそれとまったく同じことが精神統一と家庭生活との関係にも言えるのである。

つまり日常の生活態度や習慣が精神統一の修行にそのまま反映されてくるのである。

たとえばサークルで統一会を行うと、大てい1人か2人はキザな見栄坊がいて、まだ練習らしい練習をしないうちから、ひどく身体をくねらせたり顔をしかめたり手を震わせたり、時には変な声を出して、いかにも霊能者ぶろうとする。

無意識というよりは、こんなことをされては回りの者が迷惑する。こういう人はたぶん日常生活でも見栄坊で気取り屋で自慢家であるに相違ない。見方を変えていうと、根気のない人であろう。

と言って、筆者は決してそうした現象がぜんぶニセモノだと言っているのではない。真面目で熱心な人でも時には無意識のうちに手が上下に動いたり、からだ全体が震動したりすることがある。

中でもいちばん多いのは、感電したみたいに手先がピリピリしたり、急に寒けとか温みを覚えたり、時にはクモの巣を頭から被せられたような、ネバネバしたものを感じることもある。これらは確かに原因のあることで、そのいちばん多い原因は、性質の異る霊が統一者のオーラに触れた場合である。(オーラについては次講で述べる)

しかし、そういった影響を感じ取ることと、それを動作で大げさに表現することとは別のことであって、そこには良識的な判断が必要である。影響されるままに身体をまかせていては、どんな霊にどんなイタズラをされるか知れたものではない。身をまかせる前にまずそうした“動”の世界を超越して“静”の世界に安住し、そこから冷静に判断の目を働かせるように修行しなくてはならない。

統一中だけにかぎらず、心霊に関心をもち始めたばかりの人はとかく霊の力を過大評価し、また何か偉くなったような気分になりがちなので、少し変ったことがあると何でも霊の仕業だと信じたがるものである。

しかし何度も言うように、人間は死んで霊界へ行ったからといって少しも偉くなるわけではない。死ぬということは、ちょうど家に帰ってきて重いオーバーを脱ぎ捨てるように、この厄介な肉体を捨てるだけのことである。

その事実を知らずに、霊というと何でも有難がってその為すがままにまかせる人がいる。筆者はこういう人を見ると、もしもあの人の背後で働いている霊が地上に出て来てあの人の家を訪ねたら、はたしてどんな応対をするだろうかと想像しておかしくなることがある。

恐らく薄気味わるくて追い返すに違いないのである。死後の世界にはそういった薄気味わるい亡者がうようよしているから、よくよくの注意が肝要である。

それから又、私の背後霊は本も読ませてくれないし研究もさせてくれないのですと、さも得意そうに言う人がいる。要するにその人の背後霊は自分たちの言うことだけを聞いておればよろしいと言っているのであろうが、それはあまりに量見の狭い、危険な考えではなかろうか。

常に進歩的で、真理を求めてやまないはずの研究家が、そのように知識の源を一定の狭い範囲に限定されて、それで別に反撥を覚えないというのはどうしたわけであろう。(後注(1))

人間の心はプリズムのようなもので、神から放射された無色透明な絶対的真理がその人間というプリズムを通過することにより無限の色彩を帯びて放散されるのである。

したがって1個人、それが人間であろうと霊であろうと、とにかく1個の相対的な存在物を通して得られる真理というのは、あくまでも小さな一部分に過ぎないのであって、これが全てということは絶対に有りえない。

いろいろな所にいろいろな形と色彩を帯びて存在するそうした小さな真理をできるだけ多く集めて、絶対的真理すなわち“神”についての広くかつ深い理解を求めているのが、われわれ心霊学徒なのである。となると、どこから、あるいは誰の口から出たものであろうと、いやしくも真理である以上は進んで自分のものとすべきであろう。

こう言うと、ではどうやって真偽を見分けるのかという疑問が生じるであろう。もっともであり、これは実に大切な問題である。

しかし神は有難いことに人間の1人1人に絶対に誤ることのない判断の規準を与えてくださっている。これをある人は“心”と呼び、ある人は“神の声”と呼び、たんに“直感”と呼ぶ人もいる。

いずれにしても、それが是非・善悪・可否について即座に判断を下す、魂の規範をさしていることに変りはない。その判断力を鋭くしておくためにも、われわれは常に巾広く知識を求め、また精神統一や祈りを通じて、その判断力を妨げたり鈍らせたりする邪魔を排除するように修行しなければならないわけである。

祈りのことが出たので、ついでに述べておくと、とくに個人で統一練習をする場合には、黙禱でなく声に出して祈る方が、高級霊を引き寄せる良い方法である。もちろん真心がこもっていなければ何にもならないが、真心さえあれば、静かに声に出して祈った方が、黙って祈念するよりも強い念波が出るので、それだけ高級な霊波と感応することになる。(後注(2))

守護霊と人間との関係は言わば先生と生徒との関係のようなもので、いくら先生が立派でも生徒の方にやる気がなくては先生も手の施しようがない。助けてほしいのならこちらから手を差しのべるべきであって、そのためには1日にせめて1度くらいは統一をとって心を地上高く舞い上がらせ、背後霊との霊的な接触を保つ必要がある。

しかし、初めにも述べたように生活と統一修行とは互いに影響し合うべき性質のものであるから、統一をよくしようと思うならばまず日常生活そのものから立派なものにする努力をしなければならない。

要するに生活一切が統一修行ということになりそうである。言いかえると生活と統一修行とは表裏一体となるべきもので、生活態度はそのまま統一状態に現われ、また修行で得たものは必ず生活に現われてくる。

注(1)訳者のもとに手紙や電話で「私には霊能があるのです」と言って寄こす人がいるが、そういう人たちに共通して言えることは、霊能ないし自動書記でもたらされる霊信を無批判に有難く受取っていることで、少し探りを入れてみると、心霊学についてまったくといってよいほど無知であることも共通している。

中には心霊学を低次元のものと誤解し、○○ノカミとか○○ノミコトとか名のる霊からの霊信を、ただそう名のっているからというだけで有難く思い、大変な霊能者であると自惚れている。

本当の神さまが自分は神であるなどと名のって出てくるであろうか。自分をその神の立場に置いて常識的に判断すれば、おのずと解答は出てくるはずである。その種の霊信は誇大妄想に取りつかれた低級霊の仕業と思ってまず間違いない。

注(2)3000年前に地上で生活したことがあるというシルバーバーチ霊は、交霊会の冒頭と最後で必ず祈りの言葉を述べた。ある日の交霊会で出席者から「あなたはなぜ神に祈るのですか」と問われて、こう答えている。

「それは、私に可能なかぎりの最高の“神の概念”に波長を合わせたいという願いの表れなのです。私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑えがたい気持を外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。

本当の祈りは、利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。われわれの心の中に抱く思念は、神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前からすでに知れているのです。

なのに、なぜ祈るのか。それは、祈りとはわれわれの回りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせるための手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。

その間に高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに“本当に必要なもの”(欲しいものではない)が授けられる通路を用意したことになります。

利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄です。何の効力もないからです。何の成果も生み出しません。しかし自分をよりいっそう役立てたいという真摯(しんし)な願いから、改めるべき欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意とを授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。」

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第6講 人間の構成要素とオーラ

生物であろうと無生物であろうと、およそ形あるものは肉眼に映じない稀薄な光輝性の物質によって包まれている。これをオーラといい、霊視してみると物体によってそれぞれ異った色彩を帯びていることが分る。

また機能が単純なものは色も単純であり、機能が複雑になればなるほど色も複雑になってくる。したがって当然、無生物より生物の方が複雑であり、中でも人間が最も複雑である。ここでは人間にかぎって勉強することにする。

心霊学で人間を説明するとき、ごく大ざっぱに肉体とエーテル体と精神とで構成されているというが、このエーテル体というのはごく大まかな概称であって、これを科学的にさらに細かく分析すると、幽体、霊体、本体の三つに分類することができる(イラスト参照)

したがって人間の構成要素を心霊学的に説明するならば、肉体・幽体・霊体・本体の4つの機関と、これを使用する精神(自我)から成っているということができるわけである。オーラはその4つのエーテル体の皮膚だと思えばよい。それが心の変化に応じてさまざまな色を呈する。肉体の皮膚はあまりはっきりとした色は示さないが、他の3つのエーテル体の示す色彩は顕著で、しかも千種万様である。

ではその4つの身体について説明すると –

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MEN’S BODIES
本体 Mental
霊体 Astral
幽体 Etheric
肉体 Physical

(1)肉体 – これは日常使用してるものだから説明しない。皮膚が言わば肉体のオーラである。

(2)幽体 – これには次の2種類のオーラがある。

○磁気性オーラ(イラスト(A))
やや青味がかった白色をしており、心臓の鼓動とともに常に皮膚にそって静かな波をうっている。このオーラは防弾チョッキのような働きをもっていて、常に身体の保護に当っているが、いったん怒りや悲しみ、あるいは精神上の悩みなどで心が乱れると、抵抗力を失って細菌や病毒の侵入を許すことになる。

しかし回復力も旺盛で、いわゆる心霊治療家の中には自分の磁気力によって患者の回復力を増進させている人もいる。それともうひとつの働きは、自分と質の違ったオーラからも身を守ることである。

○電気性オーラ(イラスト(B))

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不健康時の放射状態 DADIATIONS From Skin-DEVITALIZED
健康時の放射状態 RADIATIONS From Skin-NORMAL

真夏の野のかげろうのように、右の磁気性オーラの中からニョキニョキと伸びているのが電気性オーラである。同じく青白い光を放ち、健康な時には元気よく真っすぐに伸びているが、具合の悪い時に霊視してみると、いかにも元気なさそうに萎(しな)びている。

このオーラの働きはその触手で生命の流れを探り、そこから生命素つまり生命のカロリーを摂取することである。

幽体は肉体の健康と密接な関係があり、したがって幽体の皮膚ともいうべきオーラには直接肉体に関係した欲望、たとえば食欲とか性欲などが強く反映している。肉体の皮膚を霊視すると、その穴からさかんにオーラが放射されているのが見られる。

(3)霊体 – イラストではきれいな卵形をしているが、これは円満に発達した時の形であって、実際は人によっていろいろである。おもに欲望や思念がよく現われるところで、したがって霊体を見れば大体その人の性格と、ふだんどんなことを考えているかが分る。

ただ人間の思念や欲求は常に変化しているので、このオーラが2度と同じ色彩を呈することはないといってよい。

(4)本体 – このエーテル体はとくに偉大な人格者や霊覚者にかぎって見られるもので、その色は夜空のあの澄み切った青色に似ていると言うよりほかに説明のしようがない。

ふつうの平凡人はほとんどこの機関を使用していない。イラストの形はすぐれた霊覚者の例であって、平凡人のはもっと貧弱である。

以上で4つの身体の説明を終わり、次にオーラに現われる色と心との関係について述べることにする。

●白と黒 – 白と黒は善性と邪性の両極端の象徴である。したがって、いかなる色でも白味を増すほど善性が強いことを意味し、黒ずんでくるほど劣悪であることを示す。暗雲のような様相を呈している時は憎悪などのとりこになっている時である。

●赤 – ひと口に赤といっても種類が多い。メラメラと燃え上がる炎のような赤は憤怒を表わす。しかし同じ憤怒でも我欲から出たものと、やむにやまれぬ正義感に燃え上がった時の義憤とがあり、前者の場合は火事のように黒ずんだところが見えるが、後者の場合はすっきりした深紅色をしている。

●青 – 宗教心の象徴である。しかし同じ宗教心でも程度の差があり、一切の名利を捨てた無欲の宗教心は見るからにあざやかな青色を呈し、盲目的であったりご利益を目的とした信仰の場合は、どことなく煤(すす)けている。

●黄 – 知性と知恵の象徴である。知恵のよく働く人とか、論理的な思考力の発達している人のオーラは、頭のあたりが黄色に輝いている。

●紫 – 愛の象徴である。情的な愛はバラ色を呈し、霊的な愛は白色に近くなる。

●橙(だいだい色) – 野望と高慢の象徴である。

●緑 – 概して融通性に富んだ性格を示す。その緑があっさりしている時は慈悲や憐みに富んでおり、黒ずんで見える時は狡猾なところがあることを示している。

●灰 – 憂うつな時とか意気消沈した時などに見られる色で、その極端なのが恐怖心である。(後注(1))

さてオーラの色はあくまでも心の反映であり結果であるが、イラストの4つの身体は層を成しているのではなく互いに滲透し合っているので、根本においてはぜんぶ肉体に根を置いていることになる。

となると、思想のように肉体と直接関係はないように思えるものでも、それが長期間持続されると、いつかは肉体にも何らかの影響を及ぼしてくることが予想されるわけである。

それゆえわれわれは、たんに外界から身を守るだけでなく邪心や低俗な思想のような、言わば“身から出るサビ”からも身を守る必要が生じるわけで、その護身術とでもいうべきものが、ほかでもない、前章まで説明してきた“精神統一”なのである。

注(1)英国の著名な女性霊媒アーシュラ・ロバーツの著書に『人間のオーラの神秘』という小冊子がある。誕生直後の赤ん坊の時代から感情が芽生え知性が発達し性欲を知って一人前の大人へと成長していく過程で、オーラがどう形成されていくかを解説し、さらに心霊現象におけるオーラの働き、食べものとの関係等にまで言及している。その中から“オーラのタイプ”という項目を抄訳しておく。ウェルチ女史の叙述と視点が違っていて興味ぶかい。

「オーラを霊視すると躍動する色彩の集合体であり、1人1人その色合いと大きさが異る。その色合いが各自の習性、思念、病気を正直に表現している。

大らかな人のオーラは広がりがあって柔軟性に富んだ色合いをしている。欲ばりな人間はドス黒くて縮かんだオーラをしている。好色な人間には朱と紅を混ぜたような放射物が見える。

金儲けのことしか考えない商売人は、オレンジ色の色合いをしている。献身的な性格の人はふじ色または青色をしており、これに宗教性が加わると、目も眩むほどの真珠色の輝きが身体から数フィートにも広がってみえる。

善人でも悪人でもない、ごく平凡な人間のオーラにはこれといった特徴はなく、その時どきの気分によって明るく輝いたり薄暗くなったりしている。

赤ん坊の時の燃えるような躍動するピンクのオーラが成長とともに複雑になっていくのは、持って生まれた個性に環境や体験が影響を及ぼしていくからであるが、もっとも警戒しなけれがならないのは、偏った欲求や性格、思想などがそのまま硬直化していくことである。

というのは、それは取りもなおさずオーラが柔軟性を失っていびつな形のまま固定してしまうことを意味し、それが肉体の死後もそのまま維持されるので、その後の向上・進化に大きな障害となってしまうのである。硬直したオーラにいったん閉じこめられてしまうと、みずからの自覚によって打ち破るほかには、それから脱け出る方法はなくなってしまう。

そういうわけで、地上にあっても死んでからでも、つねに明るさと陽気さを失わず、同時に知識にせよ財産にせよ、たとえわずかでも人に施すという行為を心掛けることが大切である。」

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第7講 霊界と地上界とのつながり

心霊学徒にとって何よりの魅力は言うまでもなく霊能をもつことであり、そこに一種の憧れのようなものを抱いている。これは未知なるものを求める人間の自然な欲求の現われであって、それ自体は決して悪いことではない。

が、注意しなければならないことは、物事の成就にはおのずから段階というものがあり、それを無視して一足跳びにやろうとすると、どうしても無理が生じ危険が伴うということである。

このことに関しては前にも注意してあるので理解されていることと思うが、それ以外にもうひとつ、修行段階にある者としてぜひとも理解しておかねばならないことがある。

それは、いわゆる霊能なるものには無数といってよいほどの程度と種類とがあって、各自が開発できるのはその中のほんの一部分であり、それもほぼ先天的に定められているということである。

先天的に定められているという意味は、持って生まれた遺伝的体質と潜在的能力、および現在の精神的発達状態(霊格)の3つの要素によって必然的に定まるという意味である。

こう言うと不審に思われる方がいるかも知れないので、現実界とエーテル界との関係について少しばかり説明しよう。それさえ理解がいけば一切の疑念が取り除かれるものと信じる。

すでに述べたように、心霊現象は人間と霊との共同作業である。そして、ここで留意しなければならないのは、イラストでご覧のとおり霊といえどもやはり人間の肉体に相当する何らかの表現器官をそなえているということである。だからこそ意志表示が可能なのである。

では、それら目に見えない存在との連絡はいかにして為されるかが問題となるが、それがいわゆるバイブレーション(振動)の原理によるのである。

宇宙は、顕幽の別を問わず、すべてがこのバイブレーションの原理によって出来あがっており、あらゆる存在がこの原理で動いている。バイブレーションというのは一定間隔内における波動のことで、波動が多い(細かい)ほど高級であり、少ない(粗い)ほど低級となる。

したがって人格の高潔な人は波長の短い高級なバイブレーションを放射しており、品性の賤しい人は波長の長い低級なバイブレーションを出していることになる。

そして、この原理のいちばん大切な特徴は、同じ波長のものだけが反応し合うこと、逆に言えば波長の異なるバイブレーションの間には何の関係も生じないということである。

さきに霊能の種類が霊格によって定まると述べたのはその点から述べたのであって、これを言いかえれば、バイブレーションの高低によっておのずと霊界との交渉範囲が定まるということである。

そうなるとわれわれは居ながらにして同等のレベルのスピリットと交渉していることになるのであるから、あとは肉体の体質と持って生まれた潜在的能力のいかんによるわけである。

したがって現象が起きたから、あるいは物が見えたからといって、ただそれだけで有頂点になってはならない。というのは、その現象または霊的能力がどういう性質のものであるかは、その人間の精身的発達程度つまり人格ないし霊格によって定まるからである。

同じ霊能でもその価値の上下はその人物の人間的性質およびその時の心掛けによって定まるのである。(後注(1))

霊能の開発に熱心なのは結構であるが、いたずらに現象のみを求めず、“より程度の高い”ものを求める態度が大切なゆえんである。

低級な心霊現象の好例はウイジャ盤現象であろう。ウイジャ盤というのはアルファベットやいろんな模様のついた板のことで、その上に仕掛けたプランセットに手をのせると、そのプランセットが板上の文字や模様の上で動いて意味を伝える仕組みになっている。一種の占いである。

この種の占い的な現象の背後で働くスピリットは概して低級であって、悪事までは働かないにしても、ふざけたイタズラをしがちで、したがって信用度も低い。世にいう幽霊屋敷とかポルタガイストというのも、やはりそうしたイタズラ霊の仕業である場合が少なくない。(後注(2))

と言って筆者はウイジャ盤現象がまったく無価値だというつもりはない。中にはこの現象を通じて立派な人生観を得た人もある。ただそういう人はごくまれであって、むし例外に属する。筆者としては、この種の現象は低級であり危険であることを、用心を促す意味でここではっきり断言しておきたい。

筆者があえてこうした低級な現象をまっ先にあげたことには理由がある。それは、何事も低級なものから高級なものへと徐々に進歩していくのが宇宙の原則であり、それは身のまわりの自然現象をみればわかる。

一夜のうちに種子から花を咲かせる植物はない。霊能も同じことである。初めのうちはどうしても単純な現象の段階をへなければならない。

しかし、われわれが求めるのは、霊能は霊能でも“高級な霊能”である。そのことを念頭においていないといつまでも低級な現象にひっかかって、無駄な道草を食ってしまうことになる。そういう無駄をなくす意味で、低級な現象と高級な現象とを前もって知っておく必要がある。

次講からその心霊現象を物理的(客観的)現象と精神的(主観的)現象の2種に大別して解説してみたい。

注(1) – このことに関連して実に興味ぶかい実話がある。訳者がこの道に入った20歳前後に間部詮信(まなべあきのぶ)・詮敦(あきあつ)というご兄弟そろって大へんな霊能者でかつ人格の高潔な方とのご縁があり、それがその後の訳者の人生を決定づけたといってよいほどの影響を受けた。すでにお2人とも他界しておられる。お兄さんを“老先生”、弟さんを“若先生”とお呼びしていた。

その老先生に関しての話であるが、毎月先生のもとに来ていたある小学校の先生が自慢げに最近霊視がきくようになった話をし始めた。生徒のその日の弁当のおかずがすーっと目の前に浮かんで見えるので、生徒に確かめるとその通りですと言う。

面白くなって次々に聞いてみると皆その通りだという。そのうち胃の中のものまで透視できるようになり、大変な霊能者になったつもりで話をしたのだった。

それを聞き終った先生が「ちょっとあちらをお向きになって下さい」とおっしゃるので背中を向けて座り直すと、その背中をポンと手のひらで軽く叩かれて、「ハイ、もう結構です」とおっしゃった。そしてそれきり透視も霊視もきかなくなってしまった。

次の月にお会いしたとき先生は「あれはぜんぶ動物霊の仕わざだったんですよ。あんなものが見えてどうするんですか」とおっしゃったという。

注(2) – ステイントン・モーゼスの『霊訓』に次のような一節がある。「邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がある。

元来、地上をあとにした人間の多くは格別に進歩的でもなければ、さりとて格別に未熟ともいえぬ。肉体より離れていく人間の大半は霊性においてとくに悪でもなければ善でもない。そして、地上に近き界層を一気に突き抜けていくほどの進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは戻ってこぬものである。

地縛霊の存在についてはすでに述べた通りであるが、言い残せるものに、もう1種類の霊団がある。それは、悪ふざけ、茶目っけ、あるいは人間を煙にまいて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙(かた)り、意図的に間違った情報を伝える霊たちである。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠け、霊媒と列席者とを煙にまいて、いかにも勿体ぶった態度で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては面白がっているに過ぎぬ。

列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく対応するのも彼らである。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりと聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕わざである。

求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、いたずら半分でやってみせる。その時どきの面白さ以上のものは求めぬ。人間を傷つける意図はもたぬ。ただ面白がるのみである。」

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第8講 物理的心靈現象

これより数講にわたって心霊現象を解説する。最初の二講で物理的並びに精神的心霊現象についてその大体の性格を紹介し、続いて中でもとくに詳しい解説を要すると思われる現象を取りあげて、ひとつずつ細かい説明を施していきたい。

さて本講では物理的心霊現象を概説するわけであるが、数ある現象もその裏面を探ると結局ある一定の法則に基づいているから、現象ぜんぶをいちいち取り上げていくことは無駄である。

そこで筆者はその中でもとくに顕著なもの、あるいは一応知っておく必要なものだけを選んで、簡単な説明を施すことにした。したがって本講と次講の主旨は、個々の現象よりはむしろ、その解説を通じて物理的心霊現象というもの、精神的心霊現象というものの大よその性格を知っていただくことにあることを銘記せられたい。

(1)叩音(ラップ)現象

これは大ていの物理現象につきもので、机とか床のような音の出やすい所から、物を叩くような音がする現象である。そもそもスピリチュアリズム思想の発端がこのラップ現象であったことは周知の事実である。(後注(1))

音の原因はテーブル現象(テーブルが傾いて脚が床を叩く)のように霊力によって物を動かして起こす場合もあれば、エクトプラズム(第15講で詳説)という特殊な半物質を使用して霊側が新たに棒のようなものをこしらえて叩く場合もあり、それ以外にもあるが、いずれにしても人間とスピリットとの共同作業であることに変りはない。

このラップ現象は大ていの物理現象につきもので、いわば付随的なものであって、現象自体はあまり高等なものではない。しかし、それだけに起こしやすい現象でもあるわけで、多くの家庭交霊会で利用されているのはそのためである。

その代表的なものがテーブル現象で、4人ないし5人くらいでテーブルを囲んで着席し、両手を軽くテーブルに置いて統一をとるだけである。すると、ややあってテーブルが左右に傾きはじめ、やがて床を叩くようになる。

そこで、1つ叩いたら「そうです」、2つ叩いたら「違います」、3つ叩いたら「よく分りません」といった一種の暗号を霊側と取りきめる。

この通信法で1つ1つ話を進めていく。非常に手間のかかる通信法であるが、心霊現象としてはごく単純なものであり、複数の人間といっしょに行なうので、危険性は少ない。

(2)物品移動現象

目に見えない力によって物体が移動する現象で、これには、カギの掛かったドアが開くとか新聞紙が宙を飛ぶとか、机が部屋中を動きまわるといった、要するにひとつの家ないし部屋の中だけの現象と、もうひとつ、距離のいかんを問わず、屋外から物体が持ち込まれる場合とがあり、後者をとくに物品引寄現象(アポーツ)と呼んでいる。

前者の場合は大たいラップ現象と同じ原理、つまり人体から引き出したエクトプラズムを化学的に利用して(“(4)直接談話現象”参照)物体を動かすのに便利な用具をこしらえるにすぎないようであるが、後者の場合はもっと高等で複雑らしい。

いろいろと説があるが、現在のところ最も広く認められているのは、いわゆる“波動の原理”によるとする説で、まず物体をその場で潜在エネルギーに還元し、それを目的地の室内で復元する、というものである。要するに波動を3次元から高次元へ、高次元から再び3次元へと変化させるというのであるが、目下のところこれがいちばん妥当な説と思われる。(後注(2))

(3)心霊写真現象

これはふつうに撮った写真に霊魂の顔とか通信文、記号、動物の姿などが写っている現象で、誰がシャッターを切っても写るというものではないところに、やはり人間側の特殊な心霊能力、霊側のエネルギーの共同作業であることが窺われる。

これには、スコトグラフと呼ばれる別の写真現象がある。カメラを一切使用せずに、ただ感光板を光が入らないように包んで暗い部屋に置いておくというだけである。これもやはり誰にでもできるというものではなく、その霊能者がそばにいなければならない。

(4)直接談話現象

主としてメガホンを通して霊側が人間と同じ音声で話をする現象であるが、この場合メガホンは2つの機能を果たしていると見られる。ひとつは霊側から放射される霊波を集中させる一種の凝結器として、もうひとつはそこに集中された霊波が音波として放送される時の拡声器としてである。

その時メガホンの中でどんな操作が為されているかについては、アーサー・フィンドレー氏の著書に具体的な説明が見えるのでその一部を拝借する。

「霊界の化学者は霊媒と列席者の身体から俗にいうエクトプラズムを取り出すと、それに霊界側が用意したオートプラズムという化学的物質を加える。そうやって出来た物質をテレプラズムと呼ぶが、それを使用してこんどは霊界の技師がまず人間の手と同じものをこしらえ、次にその手を使って口とか舌、喉といった器官を大ざっぱにこしらえる。

そこまで準備が整うと、いよいよ話をする霊がその物質をマスクのように被り、霊体の口とか喉にぴったりと合わせる。初めのうちはなかなかうまく話せないが、やがて慣れてくると生前と少しも変らないほどラクに話せるようになる。声の出る原理は人体と少しも変らない。すなわち意志と音波の作用である」

右のやり方はオーソドックスな方法であって、すべてがこの方法で為されるとはかぎらない。中にはマスクを使用せず、ただ霊媒の呼吸運動だけを利用する場合もあるらしい。いずれにせよ、この現象はよく起きるものだし内面操作も面白いので、第10講で詳しく説明する。

(5)物質化現象

物理的心霊現象の中でもいちばんドラマチックなものといえば、何といっても物質化現象であろう。

何しろ頭のてっぺんから足の先まで生前そっくりの姿で現われ、歩いたり話したりするのは無論のこと、歌う、踊る、食事をする – とにかく人間のすることを一通りやってみせるのであるから、肉親の者がうれしさを通りこして、夢を見ているのではなかろうかと思うのも無理からぬことである。

こんな話がある。ある家庭交霊会(ホームサークル)に父親が物質化して得意そうにキャビネット(後注(3))から出て来た。するとその姿を見て娘さんが急に吹き出した。父はハッと気づいてキャビネットへ戻り、やがて2、3秒もしないうちに再び得意そうに出て来た。

実はその父親は生前、鼻の下にピンとそり上がった立派なヒゲをたくわえていたのであるが、最初に出て来た時はそのヒゲが口の両端にダラリと垂れ下がっていた。その様子があまりに父親に似合わなかったので娘さんが吹き出したわけであるが、再び出て来た父親が弁解していわく –

「イヤ、どうもあまり全身のことばかり気にしていたもんで、ヒゲの格好までは注意が届かなくてね」

この話からも分るように、物質化というのは決して人形のように形体だけをこしらえるのではなくて、その物質が霊の性格と思念とによって霊の身体と融合同化するものなのである。であるから、この現象を本質そのものの面からいえば“物質の霊化現象”とでも呼ぶべきところであろう。

なお、この現象に使用する物質はフィンドレー氏のいうテレプラズムであるが、それには普通の人体と変らないほど硬い場合と、モヤのように稀薄な場合とがある。手を当ててみると、前者の場合はたしかに物質的感覚が強く、骨格まで感じ取れるほどであるが、波動的には低級なので動きが鈍い。

それに引きかえ後者の場合は波動的に高級であり、動作が素早い。また、いかなる物体も障害とならない。

この現象はとくに人体からの特殊物質を多量に使用し、とりわけ霊媒は昏睡状態に陥るほどエネルギーを奪われるので、経験豊富な指導者なしには決して行なってはならない。

注(1) – 米国ニューヨーク州のハイズビルという小さな村の1軒家にフォックスという名の家族が引っ越してきたら、なぜか家中で原因不明の音が聞こえる。

初めのうちは気のせいにしたり風の音だろうくらいに思っていたのが、そのうちその音は2人の娘すなわちケート(a)とマーガレット(b)のいる部屋にかぎって起きていることが分った。

そこでその姉妹がある日「これ鬼さん、あたしたちがする通りにやってごらん」と言って指先でパチン、パチン、パチンと3回鳴らすと、驚いたことに空中から同じように3回音が聞こえた。そこで「では、あたしたちの言うことが当ってたら1回、はずれていたら2回、どっちでもない時は3回鳴らすのよ」と言って、1つ1つ質問を出していった。

その結果判明したことは、その音の主は地上にいた時に行商人をしていて、数年前にこの家に立ち寄った時、当時そこに住んでいた人がカネ目当てに自分を殺して、死体を地下に埋めた、というミステリーじみた話だった。

そこで警官の立ち会いのもとで発掘してみたところ、まさしく地下から白骨死体が出て来た。1848年のことだった。

この話は米国中の話題となり、一体そのフォックス姉妹というのはどういう子供なのかという関心が高まり、当時の第1級の科学者が自分の研究室に引き取って本格的に研究したり、各地にいる同じような超能力者、異常能力者も次々と研究の対象とされるようになった。

これが心霊研究の始まりで、霊媒(ミーディアム)という用語もその頃から使われるようになった。

スピリチュアリズムというのは霊的な思想を総体的にさすのであって特定のセクトのものではない。右のいわゆるハイズビル事件以後の霊的思想をとくに近代スピリチュアリズムと呼ぶことが多い。

注(2) – ハリー・エドワーズが若い頃にジャック・ウェバーという物理霊媒を研究した記録が『ジャック・ウェバーの霊現象』(国書刊行会)という書物となって刊行されているが、その中に、背後霊が霊媒の口を通じて隣の部屋の真ちゅうのツルをこの部屋に引き寄せてみせると言って、カメラまで用意させて、出る瞬間を写させた話がその写真とともに紹介されている。

エドワーズはこう述べている。「その真ちゅうの置き物は高さ5センチ重さ60グラム足らずのものであるが、それが現実に壁とドア、もしくはそのいずれか一方を貫通して部屋から部屋へと持ち込まれたわけである。

そのためには、音声がレンガ塀を通過するように真ちゅうが固体を貫通するほどの高い波動状態にいったん分解されたに相違ない。その状態で霊媒の身体を通過し、身体から出ると同時に再び物質化されたのである。

その、いよいよ身体から出る瞬間のエクトプラズムの状態というのが、他の物質化現象の場合と同じく、この再物質化の際のもっとも重要な要素であることに疑問の余地はない。」

その“波動の変換”が超常現象を解くカギのひとつであると思われる。たとえばUFO(ユーホー)の中には何万光年も離れた遠い星(光の速さで飛んでも何万年もかかる距離)からやってくるものがあると言われるが、このアポーツと同じ原理を利用していると考えれば納得がいく。霊的波長になると、事実上、時間も空間も超越するからである。

注(3) – 実験室の片隅をカーテンで仕切ってこしらえる暗室のことで、言うなれば母胎の子宮に相当する役目を果たしている。それを必要とする理由は要するにエクトプラズムが光線に弱くて物質化しにくいからで、したがって部屋の照明は弱い赤色光を使用することが多い。

物理的現象ではどの現象も多かれ少なかれエクトプラズムを使用する。霊媒からだけでは不足する場合は列席者からも引き出される。終了すると各自に戻されるが、それはゆっくりとした過程で行われるので、霊媒が完全に元の状態に戻るのに2、3日から1週間はかかる。

そのエクトプラズムは白色光に弱いので、出現している最中に無断で写真のフラッシュをたくと、一気に戻ろうとするので無理が生じ、霊媒の口や喉の粘膜から出血することがある。時には生命にかかわるほどの重傷を負わされることすらある。

なお、ジャック・ウェバーは余計な疑いを嫌ってキャビネットを作らず、列席者といっしょに座り、しかも両手両足を椅子に縛りつけることまで許した。

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第9講 精神的心霊現象

本講では精神的または主観的心霊現象について概説する。これは要するに客観ないし物理的な形成を経ずに、本人特有の霊覚でもって感識する現象をいう。

したがって当然、同じものでも人によってその感識の方法や感度が異るわけで、それだけにこの種の霊能者は自分の霊能の性格や表現形式を熟知して判断を誤まらないように心掛ける必要がある。

(1)サイコメトリ

これはあるひとつの物体に手を触れたり持ったりするだけで、その物体の歴史や所有者の性格、思想等を感知する能力である。そうやって感知する歴史や性格がどこに記録されているかという、それが第6講で説明したオーラである。

人間もそうであるが、とくに無生物のオーラは無制限に外部からの影響を受け入れるので、人間がふだん使用している道具は言うに及ばず、たとえ直接手を触れないものでも、人間の放射する意念が次から次に刻み込まれている。

したがって多くの人が使用した道具などは複雑すぎて判断しにくいことがある。やはり同じ人間が大切に使っているものの方が判断は容易であり、また適確である。

その感識方法は人によって異なるが、大体においてシンボル(記号・映像)の形式をとることが多いようである。そうなると、そうしたシンボルをどう解釈するかが問題となってくる。ここらあたりが客観的な物理現象と大いに異なるところで、往々にしてこの種の霊能者の言うことが食い違うのは、そこに原因がある。

(2)テレパシー

これは、ある人が放射した意念や感情を五感の助けを借りずに直接感知する能力で、もちろん時間や空間の制約を受けない。

たとえば家で縫いものをしていた奥さんがふと、遠く外国を旅行しているはずの夫の声を聞いた。あとで分ってみると、その時刻がちょうど夫が遭難した時刻だったという場合は、明らかにテレパシー現象である。意念や思念が伝達される現象なので“思念伝達現象”と呼ぶこともある。

この能力を伸ばすいちばん良い方法は、よく気の合った友人と代わるがわる放送者となり受信者となって、数字とか絵を当てあうやり方である。この訓練は背後霊との連絡をよくする上でも役に立つ。

普通インスピレーションといわれているものは背後霊とのテレパシーである場合が多い。このインスピレーションの内面機構、その具体例としての入神講演、自動書記現象、それに入神現象そのものの内面機構については、それぞれに別講を設けて解説する予定である。

(3)霊視現象

これは普通の肉眼に映じないもの、たとえばオーラとか霊の顔あるいはシンボルなどが見える現象のことであるが、内面機構はかならずしも同じではない。

厳密にいえば十人十色、百人百様であるが、大ざっぱに分類すると主観的なものと客観的なものとの2種類に分けることができるようである。

主観的というのは背後霊によって“見せられる現象”だと思えばよい。この場合はシンボルまたはイメージ(像)の形で見えるわけで、そこに判断と解釈の適確さが要求される。

これに対し客観的というのは肉眼の視力の延長で、この場合は直接背後霊の援助にはあずからない。見えているのはエーテル界の実在物であり客観的存在である。この能力は下等動物においてよく発達しており、人類はまだそこまで進化していない。

中にはエックス線と同じような能力をもっている人もおり、それによって人体の病状を診察した鉱脈を発見したりする。(後注(1))

(4)ビレット・リーディング

肉眼では絶対に読めないように封をした手紙や短文、記号などを読み取ったり、それが質問であれば即座に回答を与えたりする実験をビレット・リーディングという。

この場合、ただ単に文章を読むだけであれば透視現象にすぎないが、質問に答えたり、それを書いた人の性格とか現在の身の上について言い当てたりすることもあることを考えると、霊視能力のほかにサイコメトリやテレパシーその他の霊能が働いているものと推察される。ことに質問に答える場合などは背後霊団の援助が相当あるものと思われる。

(5)幽体離脱現象(体外遊離)

これは主として睡眠中などに幽体が肉体から脱け出て地上またはエーテル界を見物したり霊と語ったり、しかもそのことを覚醒後もありありと意識される現象のことで、その印象の強さや合理性などにおいて、単なる夢とはまったく異なる。すでに他界した肉親や知人あるいは自分の背後霊などに出会い、助言や忠告などを授かることが少なくない。(後注(2))

なお、その間つまり幽体が肉体から脱け出ている間は、肉体と幽体は幾本かの紐によってつながっており、これを俗に“生命の糸”とか“シルバーコード”(銀色のコードの意味。霊視すると銀色に輝いているから)と呼んでいる。“死”とはその糸が永遠に切断されることである。

幽体離脱については別講を設ける予定であるが、ここで一言注意しておきたいことがある。

それは、第7講で述べたように、霊能というものは持って生まれた遺伝的体質、潜在的能力、および現在の霊的進化の程度の3つの条件によって自然に種類や程度が定まるものであるから、それを最近はやりの麻薬や催眠術などによって無理に引き出すと、当然、その無理からくる障害が生じ、かりに障害とはまでいかなくても、ちょうど熟さないうちにもぎ取られた果物のように、まるで利用価値がない。

とくにこの幽体離脱現象は肉体を留守にするのであるから、もしも催眠術などで脱け出ている間に肉体が危害をこうむるようなことがあると、心身ともに取り返しのつかないことになる – うっかりすると生命の糸が切れて永久に戻れなくなることもある。

大体、霊能を不自然な方法で開発しようとする人は、まだまだ心霊学とその意義についての理解が十二分にできていないことを反省していただきたい。いかなる学問も同じことであるが、ことに心霊学が究極において教えているのは“魂の進化”が人生の目的であることである。

言いかえると、地上生活の目的は魂を磨くことだということである。そしてこの際いちばん大切なことは、神への絶対的な信仰心を身につけることである。

今まで何度も述べてきた霊能発揮の3大条件、すなわち生来の肉体的素質と潜在的能力と現在の霊的進化の程度というのは、これを宗教的に表現すれば、自分にとって適切でしかも必要なものは神はちゃんと用意して下さるということである。

この信仰ないし信頼心が身につかないかぎり、たとえ霊能そのものは発揮されても、魂の向上進化という人生の究極の目的にとっては無意味、否、むしろ有害かも知れない。要は現在自分がもっている能力は – たとえそれが霊能でなくても – 神の賜物として感謝し、謙虚な気持で活用することに精進していれば間違いはない。

では最後に、以上の精神的心霊現象の一般的性格を裏づける説明として、心霊研究家のオースチン氏の言葉を借用しておこう。

「霊能者にかぎらず、一般にわれわれが平常うけている影響の中には、単に人間界にとどまらず、われわれの身辺に内在するエーテル界からの影響も少なくない。

日頃の精神的変化を注意していると、その変化の動機がかならずしも自分の頭の中だけでないことに気づかれるであろう。考えつづけていた一連の思索の中に突如として異質のものが入り込んでくることがあり、時には到底いつもの自分の頭では考えつきそうもない、高尚な思想が入ってくることがある。

ふだん確信しきっていた考えとまったく反対の考えが邪魔することがあるかと思えば、まだ理論的な準備ができていないうちにポッカリとひとつの結論が湧いて出て、理論的証拠はまるでないのに、それが脳裏にしつこくこびりついて離れないことがある。

わけも分らず楽しく愉快になる時があるかと思えば、急に面白くなくなって、1日中うっとうしい気分に包まれることもある。時にはそれが危険の知らせである場合もある。こうしたことはすべてエーテル界からの影響であると考えてさしつかえない。」

要するにここでは、精神的現象も物理現象も同じくほとんどが霊界のスピリットと人間との共同作業であることを知っていただけばよい。

注(1) – これを日本では“透視力”と呼んで“霊視力”と区別している。霊的能力としてはむろん後者の方が高等であるが、この場合は原著者が述べている通り“見せられる”ものであるから、それを“見せてくれる”霊がどの程度の霊格の者であるかが問題となる。

高貴な姿をしているからといって、それをすぐに高級霊と思ってよろこんではならない。低級霊がそのように見せている場合があるからである。(第7講(1)参照)

注(2) – 実際はほとんどすべての人間が睡眠中に幽体離脱をしていると思ってよい。ただ、その間の体験を肉体の意識中枢へもち帰れないだけである。言いかえれば霊的次元の意識で体験したものを物的次元の意識へ転換できるか否かの違いであって、霊そのものとしての体験は両者とも同じことをしている。

いわゆる不眠症というのは幽体が肉体から離れられなくなった状態で、原因は不安とか不幸、悩み等が神経を高ぶらせ、それが幽体を引きとめる結果となっているのであるが、その点は体外遊離の体験者がよく経験することとも共通している。

いちばん多いのが、ふと気がつくと部屋の天井あたりをふわふわと浮いていて、下を見ると自分の身体が眠っている。“怖い!”と思った次の瞬間にはもうその身体に戻っていた、というもので、“怖い”という感情が引き戻したのである。

こうしたことは、不健康な感情、言いかえると“この世的”な悩みごとや悲しみは肉体的感覚に執着させる傾向があるということを教えている。

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第10講 直接談話現象

物理現象のところで説明したように、この直接談話現象の内面機構は意外に複雑で、霊媒の中にはこの現象だけを専門にしている者が少なくない。そういう霊媒のことを俗に“メガホン霊媒”(後注(1))と呼んでいる。

本章ではとくにこの種の霊媒を志す人のためにその養成法と実習上の心得について述べることにする。

まず実習に先だってぜひ心得ておくべきことが2、3ある。それを心霊学の大家であるピエーネ博士の著書から引用させていただくことにする。博士はこう述べている。

「真剣な努力なしには何事も成就しないことは今さら言うまでもないことであるが、中でも、ただやってみたいという程度の安易な気持や、やろうかやるまいかといった中途半端な気持、あるいは面白半分で始めるのがいちばんいけない。最後までやり抜く強い覚悟と、それ相当のプランを立てて慎重に修行することが何よりも大切である。

次に大事なことは、人間各個にその人なりの能力が先天的にそなわっていて、こればかりは人間の力ではどうしようもない宿命であることを理解し納得することである。出そうにも、無いものは出せるはずはない。

背後霊もその人間の潜在能力にしたがってその専門の霊がつくのであり、それ以外のことはできないし、また、してくれない。霊なら何でもしてくれると思ったら大間違いである。霊にもそれぞれの専門分野があるのである。」

ある養成会が解散することになった。その原因はただ現象が起きることばかりを望んで、人間生活に大切な霊的摂理の勉強をおろそかにしていたので、ついに霊団の中心的指導霊がその会に見切りをつけたのだった。

そしてそのあとに新たに結成された養成会では地上生活にかかわる霊的摂理と死後の向上についての理解を第一の課題とした。

目的と願望とが本当にマッチした霊団の援助を得るには大へんな忍耐力がいる。そして同時に、常に意欲的に新しい目標に向っての努力を怠ってはならない。もうこれくらいでよかろうといった生ぬるい態度では、人間側だけでなく霊団側にとっても退歩の始まりとなる。

いくらやっても何の反応もないと無駄なことをしているのではないかと思いがちであるが、これはとんでもない間違いである。その間にさまざまなインスピレーションと導きと高揚を得ているに違いないのである。

中には体質的ないし感覚的に直接談話には向いていない人がおり、意外な霊能が出はじめることがある。が、それを不満に思ってはならない。神の賜物としてよろこんで受け入れ、発達させるべきである。

他の現象と同様に、この直接談話現象においても、健全でまともな常識的判断を失ってはならない。センセーショナルなものや不気味なもの、人を煙にまくようなものを求めてはならないということである。

歴史にその名を留めるほどの偉大な霊能者はみな単純・素朴で正直だった。その代表がイエス・キリストである。彼の思想も言葉も行為も、すべてが純朴のエッセンスだった。

では実修上の注意を述べてみよう。まず用器に水をたっぷりと入れて部屋の片隅に置いておく。水は電気の良導体であるから、霊の発する音声が部屋中によく響くようになる。音波はまわりの空気に電気性の衝撃を与えるのである。他の現象の場合は別として、メガホン現象にはぜひとも水を用意すべきである。

次に部屋の中を、入っただけで落着きを感じるように配慮する。グループで行なう場合は座席の配置にも調和を考慮する。これは精神統一の場合も同じである。

以上が整ったらいよいよ統一に入るのであるが、この場合はただ統一をトルこと自体が目的ではなく、目指すのは直接談話現象であるから、十分に精神が統一できたと感じたら意念をメガホンに向けて放射する。これでメガホンが磁気を帯び、同時に、メガホンを支えるエクトプラズムの棒ができやすくなる。

精神統一の講で説明したように、自分の使用する道具に自分の磁気を吹き込むことは非常に大切なことであるから、自分のメガホンはいつも自分が使用し、グループでやる時も家で1人でやる時もかならず同じものを使用することが大切である。

ここで初心者が心配することは、グループでやると背後霊から受ける援助が分散されるのではないかということであるが、これは心配ない。1人の場合もグループの場合も、各自の背後にはそれぞれ専属の霊が付いてくれて、その霊は他の実習者の面倒はみないことになっている。この点ははっきりしているので心配は無用である。

さてメガホンの置き方であるが、これは一概には言えない。ある霊媒の背後霊はかならずテーブルの上に横にして置いてほしいと注文するし、またある霊は口の大きい方を下にして立てて置くようにと言ってくる。これはそれぞれの背後霊の都合によるものであるから、言われる通りにしなくてはならない。

大体の傾向としては初心者は横にして置く方が多いようである。これは、メガホンを持ち上げるのにも相当なエネルギーがいるし、これを使って話すにはさらに大きなエネルギーがいるので、初めのうちはテーブルに置かれたまま使用する方がラクなわけである。

いよいよ現象が起きる段階に入ると、いきなりメガホンが天井近くまで上がったまま、なかなか下りてこないことがある。これはエネルギーの調節がうまく行かなくて度が過ぎた結果で、やがて慣れてくると、なるべく列席者が聞き取りやすいように工夫してくれる。

たとえば白昼の実験では大てい口の小さい方を列席者に向けて、なるべく近づけて話してくれる。これは音声が散らないようにという配慮をしてくれているのである。暗室になると今度は天井から口の大きい方を向けて話す。なるべく声を広く行きわたらせるためである。

おしまいに再びピエーネ博士の著書からメガホン霊媒の心得を引用させていただく。

1、実験の前は刺激性の飲食物を避ける。同時に大小便をすませておくこと。

1、寒さの厳しい日とか何となく寒けがするような調子の時は、太陽神経叢(みぞおちのあたり)を温かくして身体の凝りを防ぐこと。さほど寒くない時でも腹部をマッサージして血液の循環をよくしておく。

1、着席する直前に冷たい水をコップ一杯、ゆっくりと飲む。ふつうの水でよい。人工的に冷やした水や氷水などはいけない。

1、ふだんから身体を清潔にしておくこと。不潔な体臭は高級な霊波を妨げる。

1、とくに足を冷やさぬように。湯に浸すかマッサージなどをして血行をよくしておくこと。

1、なるべく老練の霊媒に同席していただくこと。

1、指定の時刻は厳守すること。時刻に遅れることは霊的にも大きな障害となる。

1、信頼できる霊媒がいない時はまじめで気心の合った者でグループを結成し、週1度ないし2度、特定の部屋で実習会を開くこと。むろん個人での実習も怠らないことが先決である。

1、1人での実習の場合も必要なことであるが、いよいよ実験に入る前にアルコールに浸したガーゼまたは脱脂綿を床の上に置き、その上に被せるようにメガホンを置く。これは部屋中に声を行きわたらせる上で効果がある。水の入った用器を置いたりメガホンを水に浸しておくよりも効果がある。アルコールは汚れを落とす時に使用するものでもよい。床がいたむ心配があれば、その下に油紙でも敷くとよい。

1、メガホンの選び方 – 作りがガッチリしていること。軽いこと。均整が取れていること。つぎ目が完全であること。伸縮の装置が施してあること。

注(1) – 英語では“トランペット霊媒”となっているが、トランペットというと日本では楽器を連想させるので、ここではメガホンとした。それが日本では一般的である。

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第11講 インスピレーション

文明人であろうと未開人であろうと、学問があろうと無かろうと、いやしくも人間である以上は1人の例外もなく何らかのインスピレーションを受けていると思ってよい。なぜなら、インスピレーションとは物的波長を超えた霊的な電気性の衝動が人間のオーラに感応する現象であり、オーラのない人間はいないからである。

感応した衝動はそのままオーラに吸収され、神経組織を通って全身の生命の中枢に行きわたる。人によってこれを意識できる人とできない人とがいるだけである。

インスピレーションを意識し、その有難さを知ることのできる人は幸せである。なぜなら霊界との交信法としてはインスピレーションがいちばん正常なものであり、人生の旅路でいちばん人間を元気づけてくれるのもこのインスピレーションだからである(後注(1))。

少し本題からそれるが、“心に思うこと”とそれを“口に出すこと”との関係について簡単に述べておきたい。

心に思うこと、つまり意念とか思想が一種の電気性の“波動”を起こすことはすでに確認されているが、それを発声器官を通じて外部に出すと、その波はさらに密度と力とを加えて、静かな池に石を投げ込んだ時の波のように次第に外部へ広がっていく。

さきに電気性の衝動といったのはこの波のことで、これが各自のオーラに吸収されていく。人によって感受性に差異があるので、ある人は全部そっくり吸収してしまうが、ある人は何の反応も示さないといったことになる。

オーラには防御本能がそなわっていて、あまり質の違いすぎるものや有害なものは受けつけようとしない。しかし反面、暗示にかかりやすい性質もある。

たとえば演説などを聞いていると、初めのうちは聞く気がしなかったのが次第に身を乗り出して聞くようになったりするのは、一種の暗示にかかったのである。これも霊的法則のひとつであって、逆に言えば、これをうまく利用するところに演説家のコツがあるということになる。

演説家の中にはほとんど全部をインスピレーションによって行っている人がいる。実はこれにも2種類あり、ひとつは背後霊に発声器官だけを貸して、自分は意識を失わずに思想の流れ、つまり演説そのものは自分も聞いている場合、もうひとつは背後霊から送られてくる思想波をキャッチし、それを正確に言葉で表現していく場合である。

前者は半入神講演とでも言うべきもので、後者が純粋のインスピレーション式講演である。

入神講演については別講を設けてくわしく説明する。ここではインスピレーション式の講演霊媒を志す人のために、その心得と養成法について述べておきたい。

まず何より難しいのは、インスピレーションを乱さずにキャッチすることである。これがうまく行くようになれば、こんどはその表現方法を工夫しなければならない。上手な表現方法、つまりその時その時の聴取者に合った表現の仕方を考える必要がある。

練習方法としては少数の友人または家族の者に聞き手になってもらい、初めは講演の大体の要旨を紙に書いて、それを頼りにしながらゆっくりと話していく。これを辛抱づよく何回もくり返し、全然紙を見ないでも思想が流れ出るようになるまでやる。

一応の自信がついたら、今度は壇上での作法を知らねばならない。壇上にはそれなりの作法がある。あまり苦しい態度も不快な感じを与えるものである。その辺のことは各自の研究にお任せする。

次に講演霊媒としてとくに心得ておくべきことを幾つか挙げておくと、まず第1は、背後霊を買いかぶることは結局はうぬぼれることに通じ、うぬぼれることは人間としての精進を怠ることにつながるということである。

すでに注意したことであるが、霊にもピンからキリまでおり、そのうちのどういう霊が背後で援助してくれることになるかは、人間の力量と心がけによって定まることである。

初めは立派な霊がついてくれても、うぬぼれてその後の精進を怠るようでは、将来が危ぶまれる。物的・霊的の両面にわたる真理をできるだけ多く探求し、よく理解し、またそれを日常の生活に忠実に実行する努力を怠ってはならない。

第2は、毎日きまった時刻にきまった場所で精神統一を励行すること。これは講演霊媒にかぎらず、あらゆる霊能開発に必要不可欠の条件である。

第3に注意すべきこととして、神話に出てくる神々の名や歴史上の大人物や著名人の名を名のるような霊は、例外なく低級であるとみて間違いないということである。反対に、名前を明かそうとしない霊は大体においてまじめで謙虚な高級霊か、少なくとも高級霊の監督下にある霊とみてよさそうである(後注(2))。

名前を明かそうとしないのは別にやましいところがあるからではなく、名前とか宗派といった表面的なことよりも、自分の説く思想そのものに注意を向けさせたいという意図があるからである。

しかし、背後霊が間違いなくまじめな霊である、あるいは高級霊であると確信しても、その霊を絶対視して、それのみに偏ることは好ましくない。それは他の霊媒を通して働いている立派な霊を無視することになり、不敬であると同時に自分の精神的発達を制約することになる。

いかに勝れた霊でも無数にいる勝れた霊の中の1人にすぎないこと、他にもまだまだ立派な霊がいくらでも地上に働きかけている事実を忘れてはならない。

高級な霊になるとその辺のことはよく理解しており、一身上のことはなるべく避けたがるものである。名前を打ち開けたがらない理由はその辺にもあるようである。

注(1) – 人間は生まれ落ちた時から五感を主体にした生活を送っているために、心霊現象にしても霊能にしても、とかく目に見えるもの、耳に開こえるもの、触れてみることのできるものに魅力を覚え実在感を感じる。

見る者は感動し、それを行う者は大へんな人物になったような気分になりがちである。事実、大小無数にある宗教は、洋の東西を問わず今も昔も、そうした霊能者が自分は神あるいは仏の化身である、申し子である、生まれ変りであると言い出し、まわりの者もきっとそうに違いないと思いはじめることから成立し、肥大していくという過程をへている。

しかし心霊学的にみると、そうした現象はハデなものほど質的には低級であり、それを背後で演出している霊も大して高級ではない。むしろ低級で物質性が抜け切っていない霊ほど、そういうことが得手(えて)である場合が多い。

それに反して高級霊になると物質性が抜け切って物的波長には感応しにくいので、物的手段よりもインスピレーションのような霊的波動を使用した方法を交信手段とすることになる。

これは人間側に心霊的知識のあるなしに関係なく行われるのであるから、そのインスピレーションの質の高い低いは、最後はやはりその人の人間性の高さ、純朴さによって決まることになる。

注(2) – この“高級霊の監督下にある”という点が大切である。注(1)で述べたように、心霊現象のうち物質性の強い現象の演出にかかわっている霊は概して低級霊で、言いかえると物質的なアクが抜け切っていない霊が多い。

中には、それまで罪ぶかいことにかかわっていて、やっとその間違いに気づいて、厚生を目的として地上人類のためと思ってその仕事にたずさわっている霊もいる。が、みな高級な指導霊の監督のもとにあり、やって良いことといけないこととを心得ているので、危険性はない。

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第12講 自動書記現象

スピリチュアリズムの根本思想や教訓は、そのほとんどが自動書記の産物である。その意味では心霊現象の中でこの自動書記現象がいちばん大切といえる。

が、現象そのものは通常の意識とか意志の作用なしに手が動いて文章ないしは記号などを書くにすぎない。初期の兆候としては、わけも分らずに鉛筆などを握りたい衝動に駆られる。その衝動に逆らわずに素直に鉛筆をとって精神を統一していると、手先または腕がしびれたり震えたりしはじめる。時には電気を通されたような感じがすることもある。

そうした兆候は霊がその手または腕を使用しようとしている反応であって、恐れる必要はない。その反応は次第に穏やかになり、やがて赤ん坊のイタズラ書きのような意味のない線や文字らしきものが出はじめる。

これも初期的兆候のひとつであるから、怖がったりバカバカしいと思ってあきらめたりしないで、そのまま成り行きにまかせる。すると次第にその線が文字になり、バラバラに現われた文字を組み合わせてみると文章になったりする。以上が初期の段階であって、そこを無事なんとか通過すれば、あとは急速に発達していく。

ただ、この初期の段階でとくに警戒を要する兆候がひとつある。それは、最初は手先だったしびれが少しずつ広がって、それが肘(ひじ)より上までのび、さらには胴体にまで及ぶような時である。

これを放っておくと全身に及んで、いわゆる憑依状態となる恐れがあるので、そのような時はきっぱりと中止した方が無難である。

初期の段階を過ぎて2次的段階に入ると、統一中だけでなく道を歩いている時に衝動を覚えたり、ひどい時には寝ている間にむりやり起こされ、わけも分らず書きなぐり、翌朝読んでみると見事な文章だったりする。

変り種としてはタイプライターを使用するのもあるが、原理は同じことである。慣れてくると、何が書かれつつあるのか分らないほどスピードが速くなってくる。

その段階を過ぎていよいよ本格的になってくると、背後霊との連絡がうまく取れるようになって、午前何時とか午後何時から何分間といった具合に時刻や時間が一定してくる。

また、『霊訓』という有名な霊界通信を残した英国のステイントン・モーゼスのように、両手両足に1本ずつ鉛筆をもち、1度に同じ内容の通信を4か国語で書いたりする芸当まで出来るようになる。

むろんモーゼスの場合は遊び半分にやったわけではなく、通信が自分の潜在意識によるものでないことを立証する目的でやったことであり、背後霊もそのつもりでやっている。それだけ背後霊との連絡が緊密で、しかもひとつの目的に統一された慎重なものとなってくる。

『霊訓』の“序論”の中で、執筆中の様子をモーゼスはこう書いている。

《しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきた。文字はますます小さくなったが、同時に非常に規則的で字体もきれいになってきた。あたかも書き方の手本のような観を呈するページもあった。

私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていた。神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、うやうやしげに綴られた。

通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりだったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びていた。1873年に始まって80年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実なあるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当らなかった。

知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわないものは、およそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して私は、この霊団は各霊がみずから主張してきた通りの存在であったと断言して憚らない。その言葉のひとつひとつが誠実さと実直さと真剣さに満ちあふれていた。》(後注(1))

このモーゼスも通信の内容が重大な意味をもつものであった時などに、あとで頭のシンがズキズキ痛むことがあった。そこで次の機会にその理由を聞くと、通信にふつう以上のエネルギーが要って、それをモーゼスの身体から引き出す時の出し方が急激すぎたからだと説明している。

極度の疲労を覚えるもうひとつの原因は、背後霊(通信霊)の方に思いやりが足りなくて、霊媒の体力の限界を無視して酷使する場合があげられる。

もちろん霊能の本質から言うと、順当な段階をへた、無理のない修行を積んでおれば、異常なほどの頭痛や疲労を覚えるものではない。しかしその理想の極致、つまり霊能を五感と同じように自由自在に活用してしかも疲労も苦痛も覚えないという段階まで到達するには、並々ならぬ忍耐と努力と要する。

そのためには霊能発揮の修行だけでなく日常生活における心掛けにも真剣さが要求される。続いて、修行時における方法・心得・注意といったものを列記しておこう。

(1)鉛筆はなるべく濃いものを使用する。太さは握りやすいということを目安にする。それを軽く握って先端が用紙に触れるように構える。手首や腕は用紙に触れない方がよい。用紙は固めで広いのを使う。

(2)初めは15分程度を限度とする。それ以上続けると危険が生じやすい。まともな文章が出るようになり通信霊との連絡が取れるようになるまでは、どんなにやりたくても15分程度できっぱりやめること。

また、どんなに調子よく文章が綴られても、疲労を覚えはじめたら、あっさり切り上げること。途中で止めたからといって通信霊の方で不都合が生じることはない。この習慣はその後の発達に大きく影響するものであるから、必ず励行すること。(後注(2))

(3)言うまでもないことであるが、執筆中は自分の主観を混ぜないこと。どんなに意外なことを書いてもそのまま書くにまかせて、ひと通り書き終わるまで続けること。

主観を混ぜない工夫としては、手の方は放ったらかしにして、何か面白い本でも読むのがいちばんよい。誰かに話し相手になってもらうのもひとつの方法である。要は意識を自動書記から離しさえすればよい。(後注)

(4)かなり良い文章が出るようになってからでも、時として文字なのか絵なのか判断しかねるものが書かれることがある。そんな時に不信がって捨てたりするような早まったことは慎しむこと。時には太古に使用されたシンボルとか古代文字が出ることがある。

学者も解読できないものが出ることがあるが、筆者の住んでいるカリフォルニアだけでも今だに学者にも解けない古代文字の刻まれた遺跡が数か所あると聞いているから、そういった不可解なものが出てきた時は大切に保存しておくことである。後になってその読みを教えてくれることがある。

(5)座り方はただ“ラクな姿勢”ということに気を配ればよい。もちろん精神的にも寛いだ気持にならなくてはいけない。

(6)真剣な気持で始めても、あまり低俗なことばかり書かれるような時は止めた方がよい。低級霊というのはスキに乗ずることにかけては実に敏捷であるから、慎重の上にも慎重を期した方がよい。

(注(1)) – 『霊訓』については第2講の注(2)でも少しばかり紹介したが、通信の大部分を占めるインペレーターと名のる霊は49名から成る霊団の中心的指導霊で、“司令官(インペレーター)”という名もそこから来ている。

その49名は7人ずつのグループに分かれていて、それぞれに役割分担があり、いちばん下の物理現象を担当したのは、地縛霊の状態からやっと目覚めたばかりの低級霊であったという。

低級霊とはいえその働きのおかげで霊の実在を立証することができたのであり、その確固たる基盤があったればこそ高等な霊的教訓も価値が倍加されたと言えるのである。霊界通信は通信霊が仰々しい名前を掲げたからといって高等となるわけではない。

注(2) – これを裏側から言えば邪霊につけ込まれないための用心ということになる。霊能に関するかぎり、霊と人間との関係は霊と霊との関係と同じ、つまりバイブレーションによるつながりである。

言いかえれば地上の実験台のように密室で行なうわけにはいかないのであるから、疲労からくるイライラや気のゆるみは邪霊にスキを与えることになる。初歩の段階では本文で述べられている通りの用心が肝要である。

注(3) – モーゼスが両手両足で書いたりしたのもその目的からで、『霊訓』の“序論”の中でそのことに関してこう述べている。

《通信の中に私個人の考えが混入しなかったかどうかは確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なほどの配慮をしたつもりである。最初のころは筆致がゆるやかで、書かれていく文をあとから確かめるように読んで行かねばならなかったほどであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。

しかも、間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中、つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行たんねんに読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。》

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第13講 入神現象(トランス)

ウェブスター英語辞典はトランスを次のように定義している。

《一種の忘我状態。魂が肉体から抜け出て天界へ行ってしまったような状態。医学では強硬症といい、心臓の鼓動、呼吸運動、筋肉運動および地球引力との関係を維持しながらも、精神的ならびに意識的な活動が完全に休止する状態》

右の定義に誤りはないが、十分とは言えない。これは心霊研究以前の概念であって、すでに心霊学が体系づけられた現代では –

《霊の世界の存在がその状態下の人間の肉体的機能および精神的機能の一部または全部を使用する状態》

という心霊学的定義を付け加える必要がある。

さて、このトランス状態には本人の意志による場合と背後霊の意志による場合との2種類がある。心霊学者のハリー・ボディントン氏はその点を次のように説明している。

《すべてのトランス状態は霊媒の意識の限定か解放かのいずれかに分類できる。トランス霊媒としての必要条件には次の2つが挙げられる。ひとつは肉体的機能が背後霊に使われやすいこと。もうひとつは、精神的機能が通信霊の波長に敏感に反応すること。これは経験を積むにつれて練成されていくが、最終的に価値づけするのは、その状態を意識できるか否かである。》

ここで“限定”といっているのは本人の意志による場合のことであり、“解放”といっているのは、背後霊の援助によって個人的存在としての範囲を超越した場合のことである。ふつうトランス状態という時はこの後者をさすものと思って差しつかえない。

なおここで“超越”といっているのはむろん日頃使用している肉体および精神による制約からの離脱をいっているのであって、限定にせよ解放にせよ、何らかの形で日頃の心身の機能を使用せざるを得ないのであるから、そこから得られる産物は多かれ少なかれ霊媒の個性によって脚色されることは免かれない。

トランスの程度が浅ければ浅いほど脚色される可能性が大きく、反対に深ければ深いほど背後霊の個性が強く出てくることは言うまでもない。

そのいちばん深い状態がデッドトランス(仮死状態)で、呼吸回数が減り、心臓の鼓動もほとんど感じられなくなる。この時、霊媒の霊は完全に肉体から離脱し“生命の糸”によって繋がっているにすぎない。また肉体はほとんど無感覚となり、ふつうなら悲鳴を上げるほどの危害を受けても何の反応も示さなくなるので、霊媒は大変な危険下にさらされていることになる。

こういう時は列席者はあくまで霊媒の背後霊の指示に従わねばならない。また、立派な指導者の出席なしに行なってはならない理由もそこにある。

次に本人の意志によって行なわれる場合について少しばかり説明しておくと、この場合の特徴はただ自分でトランス状態に入るというだけでなく、その入っていく所が自分の潜在意識に限定される点にある。

その状態下にあって本人は潜在意識の中から通信に必要な材料をかき集め、それを放送するわけであるが、通常意識に戻った時にその間のことを記憶している場合もあれば、まったく思い出せない場合もある。

これと同じことを睡眠中に行なうこともある。いずれにせよ当人の潜在意識の産物なのであるが、だからといって別に価値が落ちるわけではない。要はその産物の中身の問題である。現象そのものは背後霊による場合と同じく立派に“霊的”である。

なお、このトランス状態を催眠術によって誘導してもらう人がいるが、これは霊能の養成という点からみて甚だ好ましくないばかりでなく、無防備な身体を他の人間にあずけてしまうということは非常に危険であるから気をつけた方がよい。

といって筆者は催眠術そのものを排斥するつもりはない。催眠術には催眠術なりの意義があることは十分に認めるが、これをトランス状態に誘うために使用することは、右に述べた理由から好ましくないと言っているのである。

もうひとつこれに似たものに、霊媒の身体をマッサージすることによって誘導する方法があるが、この場合はマッサージする人の磁力によって心身を寛がらせるのであるから、何ら危険性はない。むしろ霊能の発達を助長する上で効果がある。

なお、実習を重ねていくうちには色々と変った体験をさせられるものである。ある人は頭部をベルトのようなもので締められるような感じを覚え、ある人はぶかぶかの帽子をかぶされたような感じを覚える。これらはホンの一例にすぎず、一人前になるまでには苦楽、快不快を伴なった体験をいろいろと、また何回となく味わわされるものと覚悟していただきたい。

そうした体験の中には悪霊やイタズラ霊の仕業もあるにはあるが、これまで重ねて説明してきた養成上の注意や心得さえ守っていれば、どんなに奇妙な体験をしても不安や恐怖心を抱くには及ばない。

要するに心身ともに最良のコンディションで臨めばよい。あとは最後の成功を信じてやり抜く、その信念いかんに掛かっている。

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第14講 幽体離脱(体外遊離)現象

この現象については筆者自身が実に印象的な体験をしているので、まず初めにその体験を紹介して、続いてそれを参考にしながら現象の一般的原理あるいは特徴といったものを説明し、最後に養成の仕方について述べてみたい。

その体験というのは、忘れもしない、私が重病で危篤状態にあった時のことで、時刻は朝4時頃だったと記憶している。ふと目を覚ますと意識がもうろうとして、今にも死んでしまいそうな気がする。

これは危ないと感じて必死になって助けを求めたつもりだったが、衰弱しきった身体からは声らしい声は出なかったらしく、すぐ近くで寝ている家族の者は身動きひとつしない。

しかし何とかして誰かに知らせなくてはこのままあの世へ行ってしまうと思った私は、最後の力をふりしぼってベッドから下り、隣りのベッドへ向って2、3歩足を進めた。が、そこで意識が急に遠くなっていくのを覚えた。

これはいけないと思った私は、すぐに向きを戻してベッドへ帰ったのであるが、どうにかベッドに手が届いて横になろうとした時に最後の意識が途切れて、それきり何も分らなくなってしまった。

それから何分たったか知らないが、ふと意識が戻ったので急いで周囲を見回すと、奇妙なことに自分の目の前に自分の身体が横たわっている。こんな体験はむろん初めてなので、その時の驚きはひと通りでなかった。

すると間もなく、また奇妙なことが起きた。目の前に横たわっている自分の身体から、それとそっくりの形をした“あるもの”がすーっと浮き上がってきて、1フィートばかりの高さの位置に身体と平行して静止した。

よく見るとその“あるもの”と身体とは光輝性の紐でつながっていて、ちょうどアドバルーンが風に揺れるような格好で左右に静かに揺れている。

私は不思議さと驚きとに目を見はって一心にその様子を見つめていたが、そのうち突如として意識がなくなり、次に意識が戻った時は、なんとその“あるもの”の中に入っていた。

その中に入ってからは意識が前よりはっきりしたように感じた。同時に驚きや恐ろしさが消えてしまった。するとまた新しいことが起こりはじめた。“光の毛布”とでも言いたいような温かいものが私を包み、それが温(ぬく)みと寛ぎとエネルギーとをふんだんに与えてくれるのである。私は一瞬、これが生命の実感だと悟った。

その“毛布”はしばらく私を包んでくれていたが、続いて起きたことは、それにも増して私を驚かせた。強く締めていた鉢巻きをほどいた時のように眉のあたりが急にラクになり、それと同時に何とも名状しがたい喜びと晴ればれした気持とが洪水のごとく流れ込んできたのである。

その生々しい生命感はとても限りある言語では形容できない。身体のありとあらゆる細胞にひしひしとみわたるのが感じられるほどの鋭い反応を覚えたのだった。

これで私は心身ともにすっかり元気を取り戻した。そして間もなく身体に引き戻されたのであるが、この体験を通じて私は、死というものがいかに単純なものであるか、言いかえると少しも恐れるには及ばないものだということを、しみじみ悟ったのである。

体験というのは以上のようなものであるが、では続いてこの体験を参考にして幽体離脱現象の一般的原理を説明してみよう。

まず最初に体験談の中で“あるもの”と言っておいたものの正体であるが、これは心霊学でいう幽体の“殻”に相当するもので(後注(1))、肉体とそっくりの形体を有し、常に肉体と一体になって働く幽質の機関である。その本質については今のところ最終的な結論を出すまでに至っていないが、物質に近い性質をもっている点に異論はない。

さて、幽体が肉体から遊離すると、睡眠・放心状態・気絶・感覚脱失症などが生じるが、こうした状態にあって地上または幽界を“意識的に”見物でき、覚醒後もはっきり思い出せる人が霊能者と呼ばれるのであって、無意識的には実は誰もが毎晩のようにやっていることなのである。

つまり普通一般の人はその体験が思い出せないというにすぎない。幽体が肉体から遊離している間は、両者はいわゆる“生命の紐(コード)”によって繋がれており、その長さは精神の緊張の度合に応じて伸び縮みする。

寛いで寝るとコードも柔らくほぐれて、よく伸びる。したがって熟睡する。反対に悩みごとや気がかりなことがあるとコードがコチコチになって伸びにくくなる。したがって幽体が離れにくくなり、ウトウトとして睡れないということになる。

睡眠中はいったい何をしているのかとよく聞かれるが、霊能者のようにはっきりとした意識を保持しながら自由自在に行動できる人は別として、普通の人間は大体において潜在意識の命令によって行動していると思ってよい。その様子は夢遊病者の行動に似ている。この現象の専門家のマルドゥーン氏はそれを“幽体的夢遊現象”と呼んでいるが、面白い表現である。

ではこの霊能の養成法つまり自由に肉体から脱け出て意識的に地上または幽界を見物できるようになるための方法を2つ紹介しておく。

第1の方法は、まず部屋を完全に閉鎖し、ドアもノックされる心配のないように工夫する。幽体は五感で感じられる範囲のあらゆる物質を貫通するから、ドアにカギを掛けても問題はない。

また、そうまでして邪魔を排除する理由は、さきに述べた生命のコードと精神状態との関係で理解できるであろう。幽体は肉体を守ろうとする本能があるのである。(後注(2))

次に統一をトル。統一状態が深まったら、四方を見下ろせる高い山の頂上に立った気持になって、そこで静かに日頃の生活を反省し、その生活の中から数知れない神の恵みを見出して、そのひとつひとつに深い感謝の念を捧げる。

それからまず東方を向いて、その方角の全人類と大自然に神の祝福のあらんことを祈る。さらに西、南北を向いて同じことを祈る。それが済んでから初めて自分自身の成功のための神の知恵と指導とをお願いする。

続いて再び気持を部屋に戻し、あひとつの目標地点を定める。定めたらそこへたどり着くまでの一挙手一投足を心の中で画いていく。

まず立ち上がってドアのところへ歩いて行く。カギをあける。ドアを開く。閉める。道路に出る。そして(自家用車で行くつもりなら)車のドアに手をかける。開く。車内に入る。ドアを閉める。キーをまわす。スターターを踏む。そして目的地へ向う。

こうした要領で、ふだん行なっている動作ひとつひとつ心の中で画いていく。そうすると次第に幽体が肉体から離れ、いつの間にかその幽体で目的地へ向かうようになる。

この方法でとくに注意を要することは、そうやってひとつひとつ心の中で演じていくうちに、ふと危険に遭った場面を想像してしまうものであるが、そんな時にも決して恐怖心だけは抱いてはならないということである。

前にも述べたように幽体には肉体を守ろうとする本能があるので、五感を強く働かせたり緊張したりすると、幽体はたちまち肉体に戻ってしまうのである。

第2の方法は、睡眠に入る直前に潜在意識に命令するやり方である。起床時刻を命令するのも同じようにやればよい。すなわち床に入ってから睡眠中に訪ねる場所を定めて、そこへ行ってコレコレのことを確かめてくるように、と“声を出して”自分に言いつける。

続いて、そのことを朝起きたらすぐに知らせるように、と言いつける。バカげているようで、実はこの方法で成功している人が意外に多いのである。

以上の2つの方法に共通した特徴は、いずれも“意識の作用”に重点を置いていることである。これは体外遊離のそもそもの原理が意識の焦点の移動、すなわち肉体から幽体へ焦点が移動することにある以上、きわめて当然のことと言えよう。

それだけに又、たった1度や2度やってみただけでは、とてもこの霊能を開発することは不可能ということでもある。統一ある生活を営みつつ、一切の言動が何らかの形でこの霊能の養成につながるように心がけることが大切である。

なお実習中は部屋を真っ暗にした方がよいという人がいるが、肉体から離れると物的生活の感覚、とくに方向感覚が狂ってしまって、肉体に戻った時に一時的な感覚の混乱を来して当惑することがある。これは霊能の発達にとって害こそあれ益はないと思われるので、最初から弱い豆球くらいは灯けておく方がよ

注(1) – これを英語では double(ダブル)と呼び、これに“複体”という日本語を当てる人がいるが、“複”の字が理解を妨げるきらいがあるので、私は原語のまま“ダブル”でよいと考えている。

これは幽体のサヤのようなもので、機能的には肉体と幽体との接着剤の働きをしていると思えばよい。およそ物質的なものと霊的なものとは“直接的”には引っ付かないもので、そこには必ずエーテル質の中間物質(半物質)が介在して接合させている。ダブルもその一種で、肉体の死後ほどなくして分解して消滅する。

注(2) – スカルソープという無名の霊能者の著書に『私の霊界紀行』(潮文社)というのがある。その中に“肉体と幽体との相関係”という項目があり、ここで非常に参考になるので一部を紹介しておく。

《初期のころの離脱はきまって夜中にベッドに横になって行なったが、その後、日曜日の午後などにひじかけ椅子に座った状態で離脱できるようになった。そしてさらにその後は時間と条件が揃えばいつでも出来るようになった。

そんな時私はただ背後霊に離脱の希望を念じるだけでよいのであるが、それがすべて叶えてもらえるとは限らない。これまでどう念じても離脱できない日が何日もあった。ある時私はしびれを切らして自力で離脱してやろうと思ったが、どうしてもできなかった。

そのことは誰にも口外しなかったのであるが、ある日、霊媒をしている友人のところへ行った時に、その友人が突然真顔になって“もしかして最近自力で離脱しようとしたんじゃないの?”と聞いた。私が正直に認めると、厳しい口調で2度とそういうことをしてはいけないとたしなめられ、“背後霊がいちばん“いい時”を知ってるんだから”と諭された。

たしかに、私が離脱している間は背後霊の中の誰かが私の肉体を監視してくれているようである。しかも私の家庭内の出来ごとを逐一確認してくれている。肉体に戻れなくなったことがないのはそのお蔭である。

万一家庭の用事で私が必要になった時は背後霊によって“おだやか”に連れ戻され、やがて私を家族の者が呼びに来る足音が聞こえてくる、といった具合である。

背後霊による保護はほかにもある。霊的身体が傷つけられることは有りえないが、肉体が受けた不快や苦痛は“生命の紐(コード)”を通じて霊的身体の同じ箇所に感じられる。

肉体がセキをしたり、いびきをかいたり、しびれを切らしたり、窮屈な思いをしたために旅先から連れ戻されたことが何度かある。大きな音がしても戻されることもある。いずれも自力で動けない肉体や防御本能がそうするのである。時には次のような奇妙な体験もある。

ある時霊界のある通りを歩いていると大きないびきをかきはじめた。変だなと思いながらも止めることができずに困ってしまった。その“困った”という感情が霊的法則にしたがって私を肉体へ引き戻してしまった。戻ってみると仰向けになって寝ており、カゼのために大きないびきをかいていた》

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第15講 エクトプラズム

エクトプラズムは物理的心霊現象を解明する最後のカギと言われる。そのほとんど全部が多かれ小なかれエクトプラズムによって演出されていると見られるからである。

“見られる”と控え目な言い方をしたのは、エクトプラズムの本質あるいは正体がまだ解明されていないからである。物質的現象などで実際に肉眼に映じるのは実はエクトプラズムそのものではないのである。

そこで本講ではエクトプラズムの本質を直接論じることは避けて、まず今日エクトプラズムの研究家として最も権威のあるJ・ライト氏から提供していただいたエクトプラズムに関する諸事実を簡条書きにしてみよう。

本質を解明するにはまずあらゆる研究結果を総合的に検討することが先決だからである。そしてそのあと、ライト氏の研究成果から筆者が学び取ったことをまとめてみたいと思う。

ライト氏の研究成果

1、エクトプラズムそのものを五感で実際に感じ取った人はいない。エクトプラズムの現象はエクトプラズムそのものではない。

2、エクトプラズムは“物体”というよりは現象の“一過程”である。

3、その過程はエーテル界(霊の世界)で行なわれる。従ってそれを地上の言語で説明するのはきわめて困難である。

4、重さと大きさを有し力の作用を受けるものを“物”と呼ぶが、もしもエクトプラズムがその3条件を有していることが判明した時は、これを“物”と呼んでよい。

5、実験中、霊媒の身体のある要素が分解して半物質体を構成する。コナン・ドイルはこれを“物質と物質との中間宿”と呼んでいる。

6、その半物質体はわれわれがふつう言うところの物質とは性質を異にする。

7、霊媒の体内で分解された半物質体は、ガス体となって身体の“穴”(耳、鼻、喉等)から体外へ出る。

8、“穴”だから出やすいのではない。そこの粘膜が表皮より通過しやすいからである。

9、粘膜を通過して体外へ出るとすぐ、ガス体から粘着性の液状体に変化する。

10、その液状体は物質としての要素をいくつか具えているが、引力との関係になると現段階では確答は出せない。なぜなら上下左右の運動が自由自在だからである。われわれが腕を高く上げて力を抜くと、腕は引力の作用をうけて下に落ちる。もしもこの液状体を“物”とするならば、これは正に“生き物”である。

11、その色も今のところ確答は出来ない。なぜなら、色はそれに当てる光線(ライト)によって変化するからである。

12、これまで写真に写った色を見ても、まばゆいほど白いものから真っ黒いものまであって一定しない。

13、但し、その出る場所と色との間には顕著な傾向が見られる。すなわち、頭部から出るものは“白”、太陽神経叢のあたりから出るものは“薄黒”、ヒップの周辺から出るものはほぼ“黒”に近いといった具合である。

14、マージャリー(米国の女性霊媒)の実験会に出て来たウォルター霊の“手”はほとんど真っ黒であった。

15、液状体は出る場所と同じ組織形態を取る傾向がある。すると色もその出る場所の組織と同じ色になる傾向があるのかも知れない。いずれにせよ写真に写った色が照明の性質のみによるものでないことだけは明確である。

16、それ自体が発光性の生き物なのかも知れない。というのは、ホタルの例でわかるように、発光性の生物は自分で自由に光度を変えることが出来るからである。白い衣服をまとって出て来た物質化霊の白さは、単なる白色の物体にはとても見ることの出来ないものである。列席者のワイシャツの白さなどは比べものにならない。

17、物質化現象のときに限って床に水が散っていることがある。半物質体が霊媒の身体から出る際に多量の水分を含んでいると推察される。床に散っている時はそれが多すぎた時であろう。

18、霊媒の体内で分解され、ガス体となって体外へ出た直後と、それが使用され始めた時とでは、その硬度に差がある。たとえば物体を浮揚させる場合、その物体に近づくにつれて硬度が増していく。

19、長く伸びて中間が肉眼に映じないほど希薄になっていても、そこで途切れているのではない。かならず何ものかによって補充されているのであるが、その何ものかは固体でもなければ液体でもなく、ガス体でもない。ガス体よりも一段やわらかい何ものかである。にもかかわらずガスのように形が崩れることはなく、その安定性はまるで管にきっちりと詰められた液体のようである。が、実際は管に詰められているのではなく、ただその何ものかだけである。

20、その“何ものか”こそ、われわれが究めんとしているエクトプラズムである。これまで説明したものは“物質化されたエクトプラズム”の現象であってエクトプラズムそのものではない。

21、物質化霊の身体や衣服に触ってみると、ふつうの人間と少しも変わったところがない。にもかかわらず、体重を計ってみると想像の1/5であったり1/6であったりする。この事実によって物質化霊の中身が何か異質のもので出来ていることを知ることが出来る。

22、右に述べた“何ものか”と同じものが物質化霊の形体を支えているものと推察されるが、われわれは以下この“何ものか”をエクトプラズミック・フォースと呼ぶことにする。

23、エクトプラズミック・フォースは電気の良導体である。

24、赤外線を当てるとその70パーセントまで反射する。

25、バリウム・シアン化白金を塗ったスクリーンを背後に置くと影が映る。

26、あらゆる金属を貫通し反応を示さない。

27、絶縁体には反応を示す。(以上は物理化学的考察)

28、生物学的に考察すると、物質化現象は“出産”の過程と同一である。すなわち霊媒が物質化する霊に形体を提供する現象である。

29、すべての出産または発生の過程が暗闇の中で行なわれるように物質化現象も暗室の中で行なわれる。科学者の説によれば地球の大気層がもう少し希薄だったら地球上に生命が発生することはおそらく不可能だった筈だという。ということは、生命の発生にとって光線が有害であることを物語るものである。われわれが現在太陽光線に耐え得るのは皮膚の細胞に光線に対する抵抗力が具わっているからである。いずれにせよ、心霊現象が暗室で行なわれることは異常でもなければ変態でもない。あくまで自然の理法にかなっている。

30、あまり経験を積んでいない霊媒による実験では、現象が起きる直前に冷たい風が漂うことがある。これは、現象を起こすために室内のどこかでエネルギーの転換作業が行なわれていることを示す。

31、部分的物質化現象にかぎって極度に温度が下がる(4℃程度まで)ことがあるが、これは霊媒の力不足を補うために室内からもエネルギーを吸収するためではないかと推察される。

32、物質化されたものは、その大小・形態・種類の如何を問わず、かならず“へそのお”状の紐によって霊媒とつながっている。

33、暗室は母胎の子宮に相当する。キャビネット内での準備は子宮内での胎児の発育に似ており、なるべく時間をかけることが望ましい。赤外線の発見によってキャビネットのカーテンにあまり神経質になる必要がなくなった。

34、人間の出産に危険と恐怖とが伴うのと同様に、物質化霊がいよいよ出現する際にも非常な危険と恐怖(物質化霊自身の)とが伴うもので、列席者はそのことをよく心得て、勝手なことをせぬよう気をつける必要がある。危険を感知すると物質化霊はすぐ消えてしまう。

35、人間の物質化現象はいわば“再創造”であって、決して“新たに創造する”のではない。従ってギリシャ神話などに出てくるような、半分が人間で半分が馬といった架空のものを創造することは出来ない。

36、物質化現象において物質化霊の生前の指紋を取ることが出来た。

37、この指紋作製の事実によって物質化現象の基本原理が明らかになった。すなわち物質化現象とは霊魂の形体と同じものを拵えるのではなく、霊魂の形体そのものの内部および外部にエクトプラズムが充填される現象である。

38、霊魂の形体といっても、その霊魂の現在の形体ではなく、死に際して地球圏に残した“型”または“殻”である。その古い型の中に現在の霊魂が入ってエクトプラズムをまとうわけである。何十年あるいは何百年も前に死んだ子供がその頃のままの姿で出てくるのは右の原理に基づいている。

39、が、その原理にも例外がある。死産、流産、発育不全等のため“地上生活を体験せず”に他界した霊魂の場合である。この場合はその後エーテル界で発育した現在の身体のまま出てくる。

40、心霊現象はエーテル界と物質界との協同作業であるが、物理的法則が無視または超越されるようなことは絶対にない。たとえば物質化霊の体重が50ポンドである場合には霊媒の体重がきっちり50ポンド減っているといったごとくである。

41、また物体が浮揚した場合にはかならずそれを支えているもの、あるいは吊り下げているものが存在する。その場合、浮揚した物体の重量は霊媒にかかってくる。物体が30ポンドであれば霊媒の体重が30ポンド増している。(列席者に分散されることもある。 – 訳者)

42、物質化霊の体重が霊媒より重い時は、列席者その他から抽出して補わねばならない。

43、液状体は無定形の状態の時でも、すぐに組織化せんとする傾向を秘めている。

44、液状体が霊媒の身体のむき出しの裸の部分に出来た時はセロハンのように透明なシーツを構成する傾向がある。

45、反対に全身にきっちりと衣服をまとっている場合、あるいは液状体が衣服の内側に出来たときは、その液状体はチーズクロス(目の粗い薄地の綿布)のようになり、その形体も感触も霊媒の衣服に似る傾向がある。

46、液状体が霊媒から離れた場所で構成された場合は、その液状体の組成および感触はその部屋にある織物(カーテン、ジュウタン等)に似る傾向がある。極端な場合はその織物の修繕箇所がそのまま現われることがある。

47、聖書にはわずかなパンが幾千個にも増え、数匹の魚が幾千匹にもなったという話が出ているが、右の事実によって、これと同じことが実験室内で起きることが理解される。たとえば列席者のハンカチの同一のものを拵えようと思えば、そのハンカチを“鋳型”にして液状体の上にプリントすればよい。ビールスの繁殖もこれと同じようにプリンティングによって簡単に出来る(心霊実験におけるビールスの繁殖は分裂によるのではない)。これによって聖書の奇跡が物品引寄現象でないことがわかる。もしもその奇跡の原料となった数個のパンが小麦粉であったなら、増えたパンも小麦粉で出来ていたはずである。同じように、最初の数匹の魚がタラであったら、増えた魚もタラだったはずである。

48、シーツに透明なものと繊維質のものとがあるのにはわけがある。透明なシーツは現象の過程を列席者に見せるためであり、繊維質のシーツは物質化霊の“出産”に際して、それを保護するために使用される。いかなる生命の誕生にも保護嚢(のう)はつきものである。

4、以上によってエクトプラズムの素材が室内の装飾品からも摂取されることが明らかとなったが、それ以外に列席者の身体からも抽出されることがある。何度も列席したことのある人が極度の疲労を覚えた経験があるのはそのためである。

50、仮に赤い花を室内に生けておけば物質化霊の衣服にその花とそっくりの色が現われる。女の人に赤い服を着てもらっても同じことが見られる。

51、寝間着のまま立ち会えばその寝間着とそっくりの柄が出る。背広で出席すればその背広と同じ色が出る。

52、インディアンの酋長が出る時は色とりどりの布切れをたくさん用意しておくとよい。そういうことをすると“擬装”の嫌疑をかけられるかも知れないが、物質化するためにはそれ相当の原料がいるのであり、しかもその原料はなるべく近くにあることを要するのである。

53、右の3項はエーテル化現象には適用できない。エーテル化現象は物質化現象とは別である。エーテル化現象については74で説明する。

54、物質化霊の口から自分の声が聞こえたり、隣に座っている人の声が聞こえたりすることがある。この事実によって、声もコピーすることが出来ることがわかる。

55、また列席者の指紋もコピーすることが出来る。

56、出現した物質化霊といちばん密接な関係にあるのは、言うまでもなく霊媒である。

57、物質化霊と霊媒とは文字どおり一心同体である。言ってみれば霊媒の身体が膨張して、その一部を霊魂が占領している状態と思えばよい。

58、このように物質化現象は典型的な“霊媒現象”である。すなわち霊媒の身体と精神とを利用することによって生じる現象である。霊媒というひとつの機構を霊媒自身と出現霊とが共同で使用していると言ってもよい。このことは、霊媒の口からアルコール、玉ねぎ、ハッカ、タバコ等の臭いがする時は、物質化霊の口からも同じ臭いがすることによって知れる。また物質化霊の指紋が霊媒または、列席者のうちでいちばん多量にエクトプラズムを貸している人のものに似ていることもある。

59、物質化霊が汚れた場所や黒色の顔料にさわって手を汚すと、霊媒の身体のどこか、とくにその汚れた部分と同じところ、あるいはその近くに、同じ汚れが現われる。

60、また右の原理と同じで、物質化霊に与える危害は霊媒あるいは立会人に及ぶ。その逆も同じである。それ故、許可なくして物質化霊あるいは霊媒、又はその物質化霊と関係ありと見た立会人に触れてはならない。(その立会人からもエクトプラズムが抽出されている場合 – 訳者)

61、物質化霊に触れること、ないしはその身体の一部、たとえば頭髪を切り取ることを許された場合にも、その場かぎりの模造品といった気持ちで手荒な取り扱いをすることは禁物である。58で説明した如く、たとえ形の上では摸造品であっても、実質的には霊媒と密接不離、まさに一心同体の関係にあるのであるから、物質化霊の髪を切り取ることは霊媒の髪を切り取ることと同じ気持ちで丁重に扱わねばならない。衣服の一部を切り取る時も同じことである。

62、切り取ったその一部はエクトプラズムそのものではない。エクトプラズミック・フォースという不可思議な力によって支えられた物質にすぎない。従って重さと大きさを有し、力学的作用にも反応を示す。

63、切り取ったものを顕微鏡で細かく調べてみると、組織的には身体から取ったもの(頭髪等)は霊媒の表皮組織に酷似しており、衣服から取ったものは室内にある繊維製品(とくに霊媒の衣服、カーテン等)の組織と全く同一であった。又、性質的には窒素化合物の性質を有し、フィラメントは単一であった。

64、物質化霊の体重は概して霊媒より軽いのが通例であるが、時には霊媒の体重をはるかにオーバーすることがある。これまでの最高記録としては約135キロというのがあった。こうした場合はきまって列席者の数も多い。この事実によっても、その原料が列席者からも相当抽出されていることが知れる。

65、物質化霊はまた霊媒には到底出しきれないような“ばか力”を出すことが出来る。そのような時は物質化霊以外の力が加わっているとみることは妥当であるが、ただそれだけ、つまり外部から他の力が加わっただけと断定するのは早計である。なぜなら試しに扇風機を使用して物質化像に強烈な風を当ててみたところ、その物質化霊が軽衣服の上に掛けていた一見しなやかな布が微動だにしなかった事実があるからである。これによって液状体の内部には特殊なエネルギー組織があるものと推察される。

66、霊媒およびその周辺に存在しないもの(色など)は物質化霊に現われないことはすでに述べたが、たとえ存在しても現われないことがあるのは、心理的要因も含めて、何らかの理由があるものと推察される。

67、霊媒が白人である場合、出現する霊が有色人種であってもメラニン色素がないのが普通である。

68、アポーツはドラマチックな効果の演出のため、又は証拠品として引寄せられることがあるが、霊媒現象にとって不可欠の現象とは言い難い。引寄せられたものは用が済めば消えて無くなることがある。

69、アポーツの事実は、現在まだ地上にいる人間が直接談話に出る事実によって立証できる。人間には人体とそっくりの複体(ダブル)というものがあり、声の主は肉体から脱け出て(幽体脱離現象)複体の姿で実験室を訪れ、霊媒から抽出した液状体を複体の咽喉(のど)の型にはめ込んで話す。

70、物質化霊が鏡像(反射像)の形で出現することがある。すなわち地上で右ききだった人が左ききとなって出現し、頭髪を左に分けていた人が右に分けて出てくる、といった現象である。指紋が逆に映る場合もある。指紋の場合は単に平面的に反対になっているだけでなく、凹凸(おうとつ)まで逆になっていることもある。この鏡像現象の内面機構は今後に残された重要な課題である。

71、時として口に入れても入りそうな縮小物質化像が練り粉のようなエクトプラズムの中に出現することがある。それほど小さいにもかかわらず一切の形体と機能を具えており、決していい加減な模造品ではない。日本には樫の木を縮小して保存する技術があるが、人間が死に際し残す“殻”も、それと同じ原理で縮小されて保存されるのではないかという説もある。ともかく、これは物質化現象の解明のカギを握るものも思われる。

72、以上は純粋の物質化現象 Materialization についての研究であったが、このほかにも物質化現象の部類に属するものが3つある。すなわち変貌現象 Transfiguration、擬装現象 Simulacrum、そして前にも述べたエーテル化現象 Etherealizationである。

73、変貌現象 – これは液状体が霊媒の顔面から滲み出て来て、それが次第にある霊魂の顔立ちに変わっていく現象である。ある霊魂とは霊媒に憑依している霊魂のことである。液状体が滲み出て来た時の様子は、ちょうど霊媒の顔を練り粉で塗りつぶしたみたいである。そのお化けのような顔が変化して憑依霊の顔立ちがすっかり出来あがると、キャビネットから出て来る。

74、擬装現象 – これは出現しようとする霊媒が前もって自分とほぼ似た形体を拵えておき、あとでその形体の中に入って自分の霊体に合わせる現象である。ちょうどわれわれがコートを着るのと同じようなものだと思えばよい。コートを着るとわれわれはまず襟を合わせ、しわになったところを手ではたいたりして体裁をつくろう。それと同じように、ほぼ出来あがった形体の中に侵入した霊魂は、出来るだけ生前の自分に似せようとして内側からも外側からも細工を施し、まずまずの体裁が整ったところでキャビネットから出てくる。それ故その物質化像はあくまで“自分に似せて作ったもの”であり、平面的に似ているだけで立体感がないことが多い。それが“作られる”ものである以上は、それを“作る”技師が背後で働いているに違いない。

75、エーテル化現象 – これは一口に言えば透き通って見える物質化像のことである。その内面機構は他の3種よりよほど単純なものと思われる。と言うのは、前の3種の物質化現象に見られる物質化像の原料はかならずその室内に発見されるのに反し、エーテル化現象ではアメリカン・インディアンのあの派手な装束やインド人の宝石のついたターバンのような、実験室内に原料のないものまでまとっていることがあるからである。エーテル化像はめったにしゃべらない。たとえしゃべっても、口が動いているのが判るだけで、声は全然と言ってよいほど聞こえない。物質化の程度が希薄で声帯の粘膜がないためである。

76、以上がエクトプラズムに関する今日までの研究結果である。五感と知能とを駆使して得た人間的努力の産物である。霊界人から教わったものは殆どない。結果(現象)から原因(内面機構(メカニズム))を探るほかはないからである。

77、同時に霊界人もメカニズムがよくわからないままやっていることもあるようである。それはちょうどわれわれが腕が上がるメカニズムを知らないまま上げ下げしているのも同じである。また食べたものがどういう具合に消化されるのか、なぜ物が見えるのか、なぜ聞こえるのかもよくわからないまま生活している。物質と霊質との関係はわれわれだけでなく霊界にもよくわからないことがあるのであろう。ただ霊質の方が物質にまさる威力を秘めていることだけは確かである。が、確かなのはそこまでである。
(“Ectoplasm”by J. G. E. Wright)

ライト氏の研究が教えるもの

以上でわれわれは今日までに明らかにされたエクトプラズムに関する最大限度の資料を手にしたことになる。今日の段階において、これだけの資料は他では得られないことを断言しておきたい。

さてその資料を一読して受ける第1の印象は、エクトプラズムというのは単なる物質ではなく、それ自体が立派に生きているもの、つまり“生物”の一種であり、しかもその生物は意念や記憶の力によって自由自在に操ることができるものだということである。

他の細かい点は別として、まずこの事実だけは誰もが感じ、またそう認めねばならない確定的事実であると言えよう。われわれの今後の研究は右の事実つまりエクトプラズムは生きているということを第一の前提としなくてはならない。

エクトプラズムが単なる物質とは違うことから、心霊学者の中にはこれをサイコプラズム Psychoplasm と呼ぶ人がいる。(psycho には霊または精神の意味がある)その1人が第13講のトランスの説明の中でも紹介したハリー・ボディントン氏で、次のように解説している。

《われわれを取り巻いている自然界はすべて、物質の範疇を超えたある不思議な力(フォース)が凝縮したものである。有機体である人間もやはり同じである。

人間においてはその力は神経組織の中に収められていて、われわれが食するものを肉体の一部となし同時にその体躯を支えるエネルギーに転換し、精神的には感性や思想、あるいは表現機能の発達を促す。

その意味ではわれわれの体内で常に物質化現象が起きていることになり、人間は居ながらにして立派な物質化霊なのである。その力をサイコプラズムという》

ここまで来るとエクトプラズムの研究は単に実験室における物質化現象の解明にとどまらず、物質そのもの、人体、あるいは生命の誕生などの本質の解明にまで手を伸ばしかけている。いや、すでに一歩踏み込んでいる。

たとえば人間の出産について考えてみると、もしもボディントン氏の言うように人間がいながらにして物質化霊であるなら、その物質化霊である人間の中から心霊実験と同じ原理でさらに新しい物質化霊が生まれても少しも不思議ではないわけである。

これは正(まさ)しく自然界の因果律、すなわち原因が結果を生みその結果が新しい原因となって次の結果を生んでいくという不変の摂理を教える絶好の例である。自然はことごとく心霊現象なのである。心霊現象は決して摩訶不思議な異常現象ではないのである。ここまで来ればもはや心霊現象すなわち自然現象と断定して差しつかえない。

かくしてエクトプラズムの研究は図らずも生命の謎を教えてくれた。しかし生命の謎といっても、それは大海の一滴にも相当しないであろう。その奥にさらにどんな謎がどれだけ山積しているかは、正に神のみぞ知るである。

れわれ地上の人間としてはあくまで謙虚に、忠実に、与えられた知識、開かれた窓を通して、1歩1歩たゆまぬ研究の歩を進めていくほかはないのである。

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第16講 霊能と“松果体”の機能

松果体(松果腺)というのは脊柱の先端と2つの大脳葉にはさまれた直経4ミリ、長さ6ミリほどの円柱形の器官で、これが霊界との交渉に大切な機能を果たしているので、参考までに説明しておくことにした。

脊柱の先端と2つの大脳葉にはさまれた所というと頭部のほぼ中心に位置するわけで、そこでごく小さな糸状の茎の上にタテになって乗っかっている。

松果体の内部は小さな袋がぎっしり詰まっており、その袋の中味は上皮細胞と脳砂と石灰分とから成っている。脳砂は松果体を乗せている糸状の茎のまわりにもこびりついていて、これが急激な衝激をうけた時などに擦れあって閃光を発する。“眼から火が出た“というのはその反射を見たわけである。

さて松果体の機能であるが、完全な究明は医学でもなされていないが、心霊学的には少なくとも生命の発生と透視能力とに密接な関係があるというのが目下の観察である。生命の発生との関係は別の機会にゆずり、ここでは透視能力との関係をみてみたい。(後注(1))

地上に住む脊椎動物はかならず松果体をそなえている。ただ海中動物のナメクジウオは唯一の例外で、これには脊索はあるが、それが脊椎にまで発達しておらず、脳髄も松果体もない。

さて博物館へ行って実際に観察するとよく分るが、有史以前の動物の頭蓋骨には必ずといってよいほど“穴”があいている。これは当時の動物が松果体を第3の眼として実際に使用していたことを示すもので、肉眼の発達とともにそれが次第に使用されなくなり、今日、とくに人類においてはほとんど退化してしまっている。

今日なおその機能を維持しているのは蛇類で、しかも2つもそなえている。ひとつは頭部のいちばん奥、もうひとつは表面にあり、透明に近い薄い表皮で被われている。

人間の頭蓋骨にもその“第三の眼”の名残りが見られる。生まれて間もない赤ん坊の上頭部の前あたりを軽くさわってみると、1箇所だけとくに柔らかい所がある。

人類発生後の初期の段階ではそこが第3の眼の穴として使用されていたのであるが、肉眼をはじめ肉体機能の発達とともに次第に使用されなくなり、今ではほとんど完全に退化してしまっている。その退化の過程は今いった赤ん坊の柔らかい部分が成長とともに次第に固くなっていく過程と同じだと思えばよい。

しかし退化したといっても松果体そのものは依然として残っているのであるから、訓練ひとつで再び第3の眼としての機能を甦らせることができるはずである。

いちばん良い方法は精神統一による呼吸法である。心をよく落着けてからゆっくりと深呼吸をする。すると右の手から一種の宇宙エネルギーが流れ込み、それが頭の中核まで行きわたって松果体を刺激する。そこでちょっと息をとめる。

するとその間に、いったん松果体に集まったエネルギーが全身の心霊中枢に行きわたる。それからゆっくりと息を吐き出す。すっかり出し切ったところで再び同じ要領で吸い込む。すると今度は左の手から同じエネルギーが流れ込む。

大切なのは、たとえエネルギーの流入が感じ取れなくても、それが流れ込みつつある状態を想像しながら、あるいはそう信じながら呼吸することである。

これを規則正しく毎日続けるのであるが、深呼吸は度が過ぎると疲労を覚えるし、時には不快感を催すこともあるから、長さも強さも回数も、腹八分ということを心がける必要がある。

注(1) – この器官には“松果腺腫”という思春期の男子に多い病気があり、これにかかると早熟現象が起きることから、医学ではこれを性器の発育を“調整する”働きをもつ内分泌腺のひとつであるとされている。

参考までに世界的心霊治療家のハリー・エドワーズ氏の観察を紹介しておく。

《医学はもう少し松果体の機能に目を向けてほしいと思う。現在のように無知であることは遺憾である。なぜというに、松果体こそ全身のバランスを受けもつ中枢器官だからである。脳下垂体はいわばその行政機関のようなものであって、あくまで松果体という政府の従属機関である。

また松果体は身体の健康をつかさどると同時に、人間的機能と霊的自我との連絡係のような役目も果たしている。言ってみれば、霊的世界と物的世界との中間にある無人地帯のようなもので、そこで霊的体験と物的体験とが会合しているような図を想像していただければよい。》

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第17講 サークル活動のあり方

グループ活動ないしサークル活動というものは、中に1人でも心ない者がいるとかえって効果を損うものであるが、上手に運用すれば1人でやるよりはずっと効果があり、それに何より重宝なことは、グループ全体が完全に調和した時はその調和がすぐれた指導者の代用となりうることである。

古来、霊能の実習にかぎらず、グループでの活動には必ず人数が問題にされる。西洋人はイエスの弟子が12人だったことから12という数字を何かにつけて縁起のよい数字として有難がり、それに指導者を加えた13を理想とする傾向があるが、かりにその数字そのものに意味があるとしても、グループ活動のいちばん大切な点は全体の調和なのであるから、数字にこだわって無理やり13人にするのは考えものであろう。

筆者としては人数に関しては“なるべく少数の気心の合った人たち”ということを心がけるようにアドバイスしている。

初めに述べたようにグループ活動がうまくいくと、つまり全員が完全に調和すると必ずしも指導者を必要としないものであるが、その調和は人数が多いほど困難となり、結局は“まとめ役”が必要になってくる。それゆえ、とくに勝れた指導者が得られない時は、できるだけ人数を少なくし、それも気心の合った者に限ることである。

もっとも、グループによる活動である以上は、たとえ指導者格の人がいなくても、誰か1人そのグループのまとめ役と、もう1人、そのまとめ役の補佐のような役とを決めておく必要があろう。

人数と役とが決まったら、次に、ふだんあまり使用しない部屋を選んで、そこを実習専用の部屋に定める。人体から一種の磁気が発散されていることはすでに述べたが、一定の部屋を続けて使用していると、その磁気で部屋全体が磁気を帯びてきて、背後霊との連絡を促進する。

それゆえ実習に入ってから部屋をあちこち変えることは大きな損失であるから、前もって都合のよい部屋を定めてしまうのが賢明である。

さて、いよいよ実習に入ってみると、思わぬ不都合が生じてくるものである。いちばん困るのは時刻の問題である。一定の時刻に遅れることによって他の全員が待たされることになり、その待ち時間が長びくと心身に退屈感を催し、いよいよ始めた時に調和が取れにくくなる。そういった不都合を避けるために、定刻はなるべく遅く、つまり1日の仕事が終ったあとにするのが望ましい。

次にありがちなのは、誰かが病気で出席できなくなることである。病気によっては欠席もやむを得ないこともあるが、軽いものなら次の要領でグループ全員が協力すれば驚ろくほどの即効がある。

まず円座を作って隣りどうしが手のひらを組み合わせる。組み合わせ方は、片方の手のひらを上へ向け、もう一方を下に向けて、お互いが握り合えばよい。

次にその調子の良くない人 – かりに病人と呼んでおく – のちょうど向い側に当る者を境として、病人の右側にいる人は左へ、左側にいる人は右へ向けて念を送る。こうすれば病気が治せるばかりでなく、その病人がいるために部屋に漂っていた陰気な雰囲気を消してしまうことにもなる。

おしまいにもうひとつ、実習に入る前には軽い食事を取るか、あるいはむしろ何も食べない方がよい。満腹はいけない。食べものについてはあまり神経質になる必要はない。

個人によって体質と習慣があり、好みというものもあって、それはある程度尊重しなくてはならない。あまり理屈にこだわって、その時だけいつもと違う食事をとると、かえって害を招くことがある。要は中道を守ることである。

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訳者あとがき(新装版発行にあたって)

本書は、米国の月刊心霊誌『CHIMES』の編集長夫妻による共著でロングセラーを続けた名著である。日本語版としては、1988年に訳者の手により、『霊能開発入門』というタイトルで、付録として同著者による「心霊治療の理論「と実際」という一文を添えて出させて頂いたものが最初になる。

このたび、潮文社の意向を取り入れて、付録の「心霊治療の理論と実際」を割愛し、さらに訳者の意向を取り入れていただいて、タイトルを変更して復刻することになった。

霊能は授かって生まれてくるものであって後天的に開発できるものではない、というのが訳者の持論であり、著者のルース女史も、それを納得していることは明白に読み取れるからである。

新しい装いで、新しい読者の皆さんに出会うチャンスが与えられたことを著者も嬉しく思われることと思っている。


近藤千雄(こんどう・かずお)

昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり、明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1984年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。主な訳書―バーバネル『これが心霊の世界だ』『霊力を呼ぶ本』、テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』、『シルバー・バーチの霊訓』『古代霊は語る』アルフレッド・ウォーレス『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』、オーエン『霊界通信・ベールの彼方の生活』(以上潮文社刊)、モーゼス『霊訓』、レナード『スピリチュアリズムの真髄』、エドワーズ『ジャック・ウェーバーの霊現象』(以上国書刊行会刊)


新しい自分の発見!!
霊性を開くというのは、人間を開くことではないか – 一夜明けた朝のように新しくなっている自分 – 肝心なことは、その、もう1人の人間の発見ということではないか!!

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†