インぺレーターの霊訓

2022年1月19日

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インペレーターの霊訓

続「霊訓」インぺレーターの霊訓
W・S・モーゼス
近藤千雄訳

訳者まえがき

本書は英米をはじめとする西洋各国で“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて100年以上もロングセラーを続けている「霊訓」の続編である。

正篇は昭和12年に浅野和三郎の抄訳によって本邦に紹介され、このたび(60年)潮文社からその復刻版が発行されている。それとほぼ時を同じくして私による実訳版が国書刊行会から出ている。

「霊訓」の第一の特徴はキリスト教の牧師だったステイントン・モーゼスと、紀元前に地上生活を体験したという身元不明の霊との熾烈な論争という形で霊的真理が説かれている事である。主としてキリスト教の教義がその論争のテーマとなっているために、読者の側にキリスト教に関する基礎的知識が要求される点が、本書を西洋人にくらべて東洋人にどこか取っつきにくくしている事実は否めない。

しかし、キリスト教を熱烈に信仰し、みずからもそれを説き聞かせる職にあるモーゼス(のちに辞職して教師となる)の手がひとりでに動いて綴った文章(自動書記通信)が自分の信仰と真っ向から対立する内容であり、その事に悩み、苦しみ、それに反論し、かくして“目に見えざる存在”との論争をえんえん10年間も続けながらまったく正常な人格者であり続けたという事実が、この五感の世界以外に知的で理性的で愛を知る存在が実在している事を何よりも雄弁に物語っていると言えよう。

その熾烈な論争 – 一時は霊側の総引上げという形での決裂寸前にまで至ったほどの遠慮容赦のない激論を闘わせながら、モーゼスの側はあくまでも真摯な真理探究心を、霊側は真実の光明へ導かんとする温かい愛を最後まで失っていないところが、本書に稀有の価値を与えていると私は考えている。

私はこれを1日数時間、ほぼ300日をかけて完訳したのであるが、その間、訳者としての立場を忘れて思わず情的にその内容に巻き込まれ、感涙の流れるに任せざるを得なかった事が何度あったか知れない。今でも心が落着きを失いかけた時は必ず繙く事にしているが、その度に勇気百倍、生きる意欲を鼓舞される。「シルバーバーチの霊訓」「ベールの彼方の生活」と並んでこれを私が“英国の3大霊訓”の1つに数えるのはそのためである。

さて、この続篇はモーゼスの死後、恩師である医師のスピーア博士 S・T・Speer の夫人が、博士宅で催された交霊会(自動書記は自宅の書斎で、交霊会は博士宅で行われた。博士一家との縁については巻末「解説」を参照されたい)の筆記録の中から、ぜひとも公表すべきであると思われるものを選んで心霊誌Lightに掲載し、それにモーゼス自身が同じ心霊誌に発表していた記事の中から参考になるものを精選して、それと一緒に1冊にまとめたものである。

本書の特徴は、正篇が自動書記通信だけで構成されているのに対して、霊言現象による通信が紹介されている事である。霊言と自動書記の違いは、霊言が霊媒の発声器官を使用し自動書記が霊媒の腕を使用するという、形の上から言えばそれだけの事であるが、表向きは単純のようで裏面の原理はそれぞれに何種類もあって複雑である。

そもそも霊界通信なるものの入手方法は右の霊言と自動書記のほかにもう1つ、幽体離脱によって霊界を探検したり指導霊からじかに教わったものを持ち帰って綴る、あるいは語る、という方法がある。これは言わば霊界旅行記であるが、霊言や自動書記において霊が行っている役割を自分が行う – 言うなれば1人2役をするだけの事で、原理的には右の2つと同じである。

この場合でも本人の目には見えなくても大ぜいの背後霊が陰から指導し援助し、また危険から守ってくれている。この道の第1人者とも言うべき A・J・デービスは自分は霊の力をいっさい借りずに全部1人でやっているような事を述べているが、これはただ自分でそう思っていただけで、実際には蔭から指導と援助と保護を受けていたのである。本書の中でも通信霊の1人が、それには例外はないと断言している。

この事は地上と霊界との関係に限った事ではなく、霊界における上層界と下層界との関係においても同じである。「ベールの彼方の生活」の通信霊アーネルが部下とともに暗黒界を探検し、その間ずっと自分たちだけでやっていたと思っていたのが、帰還してみると、ことごとく上層界からの指示と加護を受けていた事を知る、という経緯が述べられている。

その点「私の霊界紀行」(潮文社)のスカルソープ氏は自分の行動はすべて背後霊団によって準備され案内され守られていると述べていて、デービスと対照的に実に謙虚である。見かけのスケールは小さいが、霊的にはひじょうに高い、あるいは深い事を述べていて、信頼度は抜群であると私はみている。

他に有名な人としてはスエーデンボルグが挙げられるが、実際に見たものを無意識のうちに潜在的な観念によって歪曲している部分が多すぎて、私はあまり、というよりほとんど価値を見出せずにいる。とくに初心者には妙な先入観念を植えつけられる危険性さえある。

この霊能において肝要なのは、異次元の世界で見たものをどこまで生のまま3次元の世界の言語で表現できるかであって、その純度が価値を決定づける。そこに背後霊団の援助と霊能者本人の霊格の高さが要求されるわけである。なおこの体外遊離現象はモーゼスも体験していて、わずかではあるが第3部で紹介されている。

次に霊言現象の原理であるが、これには4種類ある。

(1)直接談話現象 – これはエクトプラズムという特殊な物質によって人間の発声器官と同じものをこしらえ、それを霊が自分の霊的身体の口を当てがってしゃべる現象である。空中から聞こえる場合は肉眼には見えないほど希薄な物質でこしらえてある場合で、メガホンから聞こえる場合は、そのメガホンの中に発声器官がこしらえてある。

(2)霊媒の発声器官を使用する場合 – ふつう霊言現象というのはこれを指す場合が多い。この場合は霊媒の潜在意識(精神機能)の中の言語中枢を使用するので、霊媒自身の考えによって影響されないだけの訓練が要請される。モーリス・バーバネルを通じて50年にわたって霊言を送ってきたシルバーバーチ霊は、そのための訓練をバーバネルが母胎に宿った瞬間から開始したという。

(3)リモコン式に操る場合 – シルバーバーチのように霊媒の身体を占領するのではなく、遠距離から霊波によって操る。原理的にはテレビのリモコンやオモチャのラジコンと同じである。霊視するとその霊波が1本の光の棒となって霊媒とつながっているのが見られる。

(4)太陽神経叢を使用する場合 – みぞおちの部分にある神経叢が心霊中枢の1つとなっていて、そこから声が出てくる人がいる。また、なぜかこの霊能をもつ人がほとんどきまって米国のナイヤガラ瀑布の近辺の出身か、そこで修行した人であるという事実も興味ぶかい。

次に自動書記現象の原理であるが、これには大きく分けて3種類、細かく分けると4種類ある。

(1)ハンドライティング – 霊が霊媒の腕と手を使用する場合で、これはさらに2種類に分ける事ができる。

①霊媒の腕を直接使用する場合。ふつう自動書記といえばこれをさす。モーゼスの場合もこれである。

②リモコン式に操る場合。霊言の場合と同じで、霊波によって霊媒の言語中枢と筆記機能とを操作する。

(2)ダイレクト・ライティング(直接書記) – 紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られる。スレートライティングもこの部類に入る。多量のエネルギーを必要とするので長文のものは困難で、簡単なメッセージ程度のものが多い。

(3)インスピレーショナル・ライティング(霊感書記) – 霊感で思想波をキャッチすると自動的に手が動いて書く。原理的にはふだんわれわれが考えながら書くのと同じで、ただその考えがインスピレーション式に送られてくるというだけの違いである。オーエンの「ベールの彼方の生活」がこの方法によって綴られている。

さて、本書の第1部は最高指導霊のインぺレーターをはじめとして、他に数人の霊による霊言が集められている。そのインぺレーターの言葉に「私はいま皆さんからはるか彼方にいます」とあるところから、その時はリモコン式にメッセージを送っていた事が推察される。それでもインぺレーターが語る時は交霊会の部屋に厳(おごそ)かさと力強さがみなぎったという。そのインぺレーターが冒頭で紹介している霊団の組織と役割分担についての説明はひじょうに興味ぶかい。

第2部は、自動書記による通信で正篇に盛られていないものの中から、スピーア夫人がぜひともと思うものを選び出したもので、正篇を補足する形になっている。注目すべき事としては、ここで初めて“再生”の問題が取り上げられている事で、多くは語っていないがインぺレーターがそれを肯定する立場から含蓄のある事を述べている。

私の推察では、この再生問題はインぺレーター霊団の役目の中に予定されておらず、いずれ、ほぼ半世紀後にシルバーバーチ霊団が再生説を基本概念とした霊的進化論を説く事になっているという、全体の予定表ができていたのであろう。

第3部はモーゼス自身をテーマとして、まず他界後、心霊誌ライトに載った追悼の言葉、続いて交霊会で起きた珍しい物理現象、さらに、入神中の体外遊離体験、そして最後に、生前モーゼスがライト誌に投稿した記事の中から興味ぶかいもの、参考になるものを抜粋して紹介している。

モーゼスの人となり、及びスピリチュアリズムに関する見解を知る上でそれが非常に参考になるが、私はそれをさらに補足する目的で、ナンドー・フォドーの《心霊科学百科事典》から<ステイントン・モーゼス>の項目を全訳して巻末に紹介した。その内容がそのまま「霊訓」ならびに霊媒としてのモーゼスの解説となっているからである。

インペレーターを初めとする背後霊団の地上時代の身元についての調査資料も1般の読者の方には興味ぶかいテーマであろう。

なお第1部の構成者(編者はスピーア夫人であるが本書の構成者は別人である。名前は公表されていないが、たぶん当時のサイキック・ニューズ社のスタッフの1人であろう)が『はじめに』の中で述べているように、本書に集録されたものは断片的に抄出したものであって内容に連続性がない。

そこでその「断片」の合間に正篇から抜粋を挿入して、理解を深める上で参考となるように私なりの配慮をした。時には長文に及ぶものもあるが、読者はいちいち正篇を藩く手間が省けるであろう。

また場合によっては内容の重大性に鑑みて、『シルバーバーチの霊訓』や『ペールの彼方の生活』から抜粋して紹介してある。要するに私は本書を英国のいわゆる「3大霊訓」のダイジェスト版のようなものに仕上げたつもりである。

今後ますます霊的なものが輩出することが予想される日本において、その真偽の判断の拠り所として、こうした時代の荒波にもまれながら生き延びてきた、真の意味での聖典(バイブル)と言えるものをぜひとも座右に置いておく必要があると考えるのである。

はじめに紹介した霊言現象および自動書記現象による霊からのメッセージの入手方法の原理とあわせて、霊についての正しい常識と知恵を身につけていただくことになれば幸いである。

最後にひとこと、翻訳の文体について述べておきたい。この『霊訓』の原文は正続ともに古めかしい文体で書かれており、それは霊言の場合でも同じである。そこで国書刊行会からの完訳版ではなるべくそれを訳文に反映させるように工夫したために古い堅苦しい文体となったが、本書では霊言が主体となっていることも考慮して、思い切って現代文で表現してみた。

インペレーター独特の重厚味が欠ける憾(うら)みが無きにしもあらずであるが、広く現代の読者に読んでいただくためにはこの方が親しみやすくて良いと判断した次第である。

1987年6月
近藤千雄

More Spirit Teachings
by W.S.Moses
Spiritualist Press London, England(1952)

【目次】
訳者まえがき
第1部 霊言による霊訓
第2部 自動書記による霊訓
第3部 モーゼス自身の体験と所見
(1)珍しい現象(2)体外遊離による体験(3)心霊誌の記事から(4)モーゼスへの賛辞
解説 W・S・モーゼス – 生涯と業績
ナンドー・フォドー

第1部 霊言による霊訓

はじめに

この第1部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。

収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。カッコ「」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインペレーターで、とくに指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。

ライト誌上での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。「交霊会における現象の美事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
– 構成者

(注) – この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆

—–

「私こと Imperator Servus Dei(神の僕(しもべ)インペレーター)は49名から成る霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。

私は全智全能の神の意志を成就せんがために第7界(5頁参照)より参りました。使命達成の暁には2度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。

私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代って指揮し、とりわけ物理的心霊現象にたずさわる霊団の統率に当たります。レクターを補佐する3番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸(かも)し出すことを任務とする2人の霊です。この2人にとって抗し切れないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。

そこで霊界の悪の勢力 – 霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護する事を役目とする2人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの4人を入れた7人で第1の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は7人ずつのサークルで構成されており、それぞれに1人の指揮官がいて6人を統率しております。

第1のサークルは守護と啓発を担当する霊 – 霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほかに優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類いのものすべてを配慮します。

次のサークル – これも同じく1人が6人を主宰しています – は叡智を司(つかさど)る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します。叡智を吹き込み、かつ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。

次のサークルは知識 – 人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒のたどる困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身につけさせ、直感的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。

その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼らは崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤(うるお)いを与え、気品あるものにします。

次の7人は愉快さとウィットとューモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想が良く心優しい、魅力あふれる霊たちです。

最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事にたずさわっております。この霊媒およびわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類いに属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

このように、私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。

われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを」

「私がこの地上を去ったのは遙か遠い昔のことになりますが、このたび戻ってまいりましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻ってくる霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣(つか)わされたのです」

「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」

―あなたは神の僕(しもべ)ですか。

「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えたのちは2度と個的身体をまとって戻ることのできない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。

皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる…(とくに厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して…」

霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第6界に所属していたが、のちに第7界へと向上しているという。そのインペレーターがモーゼスを入神させて語るとき、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。

やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい“光の柱”となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後にたくさんの光が楕円形に群がっていた。その状態が30分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。

また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。インペレーターが出現している時はかならずサークル全体に厳(おごそ)かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前にいることを感じるのだった。インペレーター霊団の背後にはもう1人、強烈な影響力をもつ霊が控えていて(巻末“解説”参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。

その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育のために、言うなれば地上という学校へもう1度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長した者はやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。

インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かせずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。

そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その1つを紹介すると –

「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことができるよう、この今を生きられんことを」

「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。

死後、首尾よく2段階3段階と上っていった霊は人間的な意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。いま私は皆さんからはるか彼方にいます」

エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。

「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。

私の知るかぎり高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なるお方で、私をその影響力下に包み込んでおられます。

が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、1度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。私にとっては、こうして地上へ戻ってくることは一種の試練です。

たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界から濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くのにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」

「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へと行きわたることをお教えしたいのです。その霊的存在 – あなた方が天使と呼んでおられる存在です – が人類に影響を行使しているのです。

光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する – つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。

人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」

インペレーターに代わる。

「かつては“大使”と呼ばれ今日では“霊”と呼ばれている存在が人間と神との間を取りもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることもいたします。それが神と人間とを取りもつ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」

(注) – ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が“まえがき”で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人たちに猛省を促したいところである。「宇宙意識とか記憶の層から望みどおりの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にはまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。

この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思いうかべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐのだそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。

ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入ってくるが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。

心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るからよいが、霊言、霊示、お告げの類いは、本当か否かを判断する手掛りは何1つない。たとえ間違いなく“霊”からのものであっても、こんどはこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は2つある。

1つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々(いいだくだく)として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。

もう1つは、その内容から判断して、それが“霊”から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だといって宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆

スピーア博士がキリスト教の教義について質(ただ)したのに対してインペレーターが –

「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、および罪についてのキリスト教の説は間違っております。

罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受けとめるようなことは有り得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。

罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。したがって無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということは有り得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の侵犯としての罰を含んでいるのです。

人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき1つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞(ぎまん)であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。

そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作をすべて無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも具えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は“神”の名のもとに説いてきました。

地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬(ごびゅう)を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、有るがままの真理を授けることになるでしょう。

霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が“信仰”と呼んでいるものを覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩をたどることになります。

それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固な者にとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。

見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、はたしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々(いいだくだく)として承(うけたまわ)ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。

この交霊会において皆さんが目のあたりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質において同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変わるところはありません。スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、どこかの宗派の教義としてではありません。

われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております – いずこかの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう、と」

(注) – 英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある – “わが国教会の最大の誤りは、神は紀元66年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである”と。

いつから何を根拠にこうした説が出来あがったのかは知らないが、もしもその通りだとすると、交霊会というものは有り得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆

「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い – 罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。

また底無しの地獄図絵など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としての義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死とともに死滅し、昇り行く太陽によって雲散霧消します」

スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」

「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」

スピーア博士「御子イエスの血がすべての罪を清める、という聖書の文句を解説してくださ
い」

「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖(あがな)いへの信仰を告白した者のみを永遠の火炎地獄から救い出すと解釈しています。いったいその御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。

その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によって高揚された生涯でした。皆さんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句どおりに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」

「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々(こうごう)しい人間神としてでもありません。全宇宙に漏漫(びまん)し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意ができました。

われわれは“愛”として顕現している神を説きます。愛 – いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれの使命の1つです。神は1個の人格を具えた存在などではありません。どこかの1地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。

肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得たかぎりでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや1個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑な魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。

一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片づけんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬよう注意しなければなりません。原初、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君のごとき神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。

本当の神とは、生命の本質として、全存在に活力を与える“霊”です。全存在を美化する光と愛とを供給する始源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。

神のことを宇宙に漏漫する根源的大霊と心得るがよろしい。“父なる存在”という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。

これまで、“父なる神”についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。

われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神 – わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱える者すべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。

もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証 – 天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることができれば – たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間みることができれば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが…。

願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。

父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです」

「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者は言うなれば霊的影響力の預り人であり、現在と未来とをつなぐ連結の輪の1つです。後続の者に引きつぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜てきされた霊たちです。

やがてその受信者たちが使命に目覚めます。神の使者が天と地とを急がしく往き来します。閉ざされていた扉がふたたび開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前6世紀のヘブライの予言者)、パプテスマのヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に囁いた声がふたたび聞かれる時が到来したのです。霊界がかってない規模をもって連絡を密にし、全知全能の神の声が中継の天使群を通じて届けられる時が到来したのです。

では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか – 否!かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。このたびもまた人間側の不信が、神の愛の意図を踏みにじっているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」

(注) – 50年にわたってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出てくるが、その中の1つに次のような箇所がある。

質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますが、それ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」

シルバーバーチ「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進はみなさん方の想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があるのです。そうした計画のもとに(19世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は2度と閉ざされることはありません」

訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう1つオーエンの『ベールの彼方の生活』を英国の3大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全4巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘してい“神の計画”について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。

そのリーダーをキリストという名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンがともにキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかってのクリスチャン、あるいは牧師だった人たちで構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが“各天体にキリストがいる”と言っていることからも、そう理解してよいであろう。

地球神界の上には太陽神界があり、さらにその上に銀河系神界があり、その銀河系がいくつか集まった規模の神界がまた存在し、たぶん中間にいくつかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後にようやく“造化の神界”がある。そこを始源として全大宇宙にシルバーバーチのいう“大霊”が漏漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその最後というのは無いと言うのであるが、ここまでくるともう人間の脳を通しての知性では理解できなくなる。

それは別の問題として、こう観てくると地球などは宇宙のチリほどの存在にすぎないが、もったいないことに、その地球の浄化のために、地上の全人口をはるかに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行っていることは、以上の3大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。☆

「人間とは何か?人間とはいかにもインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための手段にすぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高きものもすべて、守護霊の影響でないものはありません。

霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示のために適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというにすぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。また真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具にすぎません。

その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕 – 神のメッセージの受け皿としてとくに選ばれた者という点において、われわれの側にとって有難い存在という意味です。

その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、こんどは自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。

しかし、万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(わたくし)せんとする傲慢無礼(ごうまんぶれい)を働くようなことがあれば、さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害をこうむることになります。

それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍いが降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍いが彼に降りかかります。

それ故、そうした経歴の持ち主が他界したのちに万が一にも通信を送ってくるとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」

(注) – 正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文をいとわず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。

《われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るにふさわしい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見にとらわれぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想をいさぎよく捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。

まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。おのれの無知に気づかない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常にとらわれのない探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。

またわれわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精1杯ということになる。われわれが求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探求心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。

そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解していただけるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれわれは、見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛錬した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、おのれの知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。

そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの所期の目標に調和させていく。

ここに至って多くの者が脱落して行く。そしてわれわれも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それゆえ時の流れに任せるほかはなく、われわれにとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。

また真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われわれによる教化によって着実に培われていくものである。われわれは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれわれが神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐づよく待つ心構えを培う。

こうした心構えは、多くの霊媒に見うけられる苛立った、落着きのない不満と正反対である。この段階でまた多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がっけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖にたまりかねた者が脱落し、われわれにとって用のない存在となって行く。

それでもなおわれわれは、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、われわれは何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。われわれからの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、われわれには近づくことすら出来ません。

いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者たちはみな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。とくにイエスはその地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。

この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々はみな、おのれに課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物 – 我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人たちであった。いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人たちです。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲にとらわれていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さといちずさとがあったればこそ成就し得たのです。

われわれが求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据え、いっさいの地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。

が、友よ、平静にしてしかも誠実かついちずな哲学者の心を心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時もすすんで救いの手を差しのべる博愛主義者の心を心とされよ。さらに、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることであろう》☆

「皆さんは次のような間違った事実に気づいておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために生き自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かってそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらに又、その自分たちにのみ明かされた教義をインド、中国人、そのほかの異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。

そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることは有り得ぬことです。すべてを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願いごとだけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。

そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを1つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない1個の集合体としたのです。純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理がもっとも真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。

私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何ひとつ存在せず、単に憧れる程度に過ぎませんでした。そこヘイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。

当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこヘイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。それは、こうしてわれわれが他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」

「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼らは死後哀れな道をたどり、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼らも同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。またパウロが神について語ったときも、神は地上のすべての民族を同じ血によってこしらえられたと言い、したがって人類はすべて同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」

「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想はひとつの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。

キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以後も人類の霊的受容能力が開発されるにしたがってその影響力がますます広がって行くことでしょう。

われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお陰をもって語ります。そしてそのキリストの祝福をみなさんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを…」

(注) – ここでいう“前生”ととは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生にかかわる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは“物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか”という質問に答えて次のように述べている。

《霊界の上層部つまり神庁には、1度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることができるのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります》

これは次のインペレーターの霊言とも一致している。☆

「キリストの場合はかつて1度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のために一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、いまだかつて物質界に降りたことのない“真理の啓発者”から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。

本人はそれと気づいていなくても吸収することはできております。この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時をみて働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼らは俗世の問題についてはまったく無知であり、霊的知識以外は伝受し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕してくることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えたのち、特殊な存在の側面についての体験と知識とをたずさえて、本来の界層へと帰還していきます」

(注)① – 『ベールの彼方の生活』第4巻で、ある“双子霊”が各種の天体を遍歴しながら向上していく話のあと、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。

– 地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。

「再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう1度宿るということを意味するものと思われます。そうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を“再生”と呼ぶのは適切ではありません。というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、まったく同じ素材でできている天体は2つとなく、まったく異なるものもあります。

それゆえ貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質のものでないとして否定されることでしょう。そうではなくて、お2人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも、地上の場合と同じく、いま私が行っている方法で訪れたのです。

私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物的身体をまとうことはいたしません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく分かります。物的世界のことは、そこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりもはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです」

(注)② – これはわれわれ平凡人においても同じことで、肉体から脱け出て脳を通しての意識から解放されている間に、背後霊によっていろいろと指導を受けている。それが肉体に戻ってからどこまで脳の意識に反映されるかは霊的意識の発達程度(霊格)によるので、1人ひとり異なる。『シルバーバーチの霊訓』第7集の中で、ルースとポールという2人の子供(姉と弟)を相手にしてシルバーバーチが次のような話をしている。

ルース「あたしたちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」

シルバーバーチ「みなさんは毎晩その身体をあとにして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は2種類に分けることができます。1つは教育を目的としたもので、もう1つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」

ポール「2人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」

シルバーバーチ「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水ぜんぶをグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも夢を注意して見ていると好いヒントになるものが見つかるはずですよ」

ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」

シルバーバーチ「変な夢のことですか。あれは異次元での体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入りきれないのです。それをムリして押し込もうとするために、あのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」☆

「われわれはキリストの降誕に関して新しい視点を披露しました。これからそれを敷延(ふえん)したいと思います。

キリストの霊は地上へ降りることの可能な霊の中でも最高次元の霊です。そのキリストが地上人類の霊的更生のために自ら降誕したのです。

霊が降誕するのは地球ばかりとはかぎりません。ただ、地球には地球ならではの特殊な体験がいくつかあります。いずれの天体にも霊的発達のための利用価値があり、すべての天体で生活が営まれております。そこへ時として高級霊が降誕して、教化と高揚に当たります。

キリストは新しい時代を切り開かんとして、単純素朴さと誠実さとを教えるために地上に参りました。いま皆さんが見とどけておられるのは、さらに一段と高等な真理、より神性に富んだ真理を霊界から届ける新世紀の夜明けです。決して一過性の現象ではありません。人類を霊的方向へ導き啓発せんがための首尾一貫した大計画の一端なのです。現世紀は主として霊団の活躍による影響を受けていますが、少ないながらも、身をもって降誕している“進化せる霊”が地上にも存在しています。

キリストの霊がそれ以前に地上へ降りたことは1度もありません。高級霊といえども肉体に宿ることによって前生の記憶を失うものです(後注①)。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは“国籍離脱”にも似た行為です。皆さんがいま生活しておられる地球は、ほぼ最低に近い次元の存在の場です。地球よりはるかに発達した天体が数多く存在します。形成の段階にある天体もあります。(太陽系では)水星がもっとも低く、木星がもっとも進化しています。

キリストは“無”の境涯(超越界)へと入って行かれました(後注②)。が、われわれの仕事の完遂の暁にはみずからお出ましになられることでしょう。その刈り入れ時の到来までには幾多の為さねばならぬことがあります。種子まきと成育には長い期間を要するものです。いま遂行されつつある仕事の大きさ、開かれつつある眺望の広さは皆さんには理解できません。

神の愛がかくも強烈にほとばしり出たことはかつて1度もありません。地上人の心に静かな影響力が働きかけております。今こうしてお持ちしている教えの受け入れ態勢が地球上いたるところで準備されつつあります。さらに多くの援助が必要となれば、新たに偉大なる天使の軍勢が差し向けられ、その霊力が地球へ届けられることでしょう。今はまだその必要はありません。計画どおりに順調に進渉しているからです。

皆さんは今、地球の歴史上有数の画期的世紀のひとつに生きておられます。新たな教説が受け入れられるに先立って古い教説を一掃しなければなりません。が、そう易々と一掃されることはないでしょう。何となれば、その教説のまわりを、幾世紀にもわたる付着物が取り巻いているからです。しかし今や、それも急速に取り払われつつあります。そして2度と生き返ることはないでしょう。この時代に生をうけ、こうした新しい真理を学ぶことのできた皆さんは幸せ者です。もっともその恩恵を正しく理解し活用すればのことですが…。

私の教えは(同じく超越界に入っている)私の大先輩(紀元前9世紀ごろのヘブライの予言者だったエリヤの霊)から授けられます。私はその方と直接お会いすることができます。その方もまたその大先輩(紀元前12世紀ごろのヘブライの予言者モーセの霊)から教えを受けておられます(後注③)。

私はまだ瞑想界へ入ることはできません。が、その方が私のもとに降りてこられて、このたびの使命を私に授けられたのです。われわれの1人ひとりが大いなる系譜の1単位であり、その先をたどれば最高神にまで行きつきます。

私の指揮のもとにある霊団は私の命令をうけ、時おり私との交わりを求めて会合をもちます。われわれの仕事にとって秩序がすべてであり、身勝手は許されません。人間が思うがままに振舞えるのは、行為の及ぼす結果について人間が鈍感で、われわれと違って知らないでも平気でいられるからです。

もっとも人間は気づいていないようですが、人間も真の意味では自由ではありません。人間の意志は、良きにつけ悪しきにつけ、かならず何らかの霊的影響力によって導かれております。ひと口に霊といっても、その進化の程度によってさまざまな種類が存在します。他の天体に所属する霊がこの地球を訪れることは、あることはありますが、滅多にはありません。地球所属の霊にしても、地上より他界した人間の霊のほかに数々の種類が存在します。その中には自然界のエネルギーを支配する霊もいます(後注④)。

(注)① – 『霊訓』に次のような箇所がある。

《地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることができました。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していました。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、1人の時はほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていました。長時間にわたる入神も苦にならなかったのです》

(注)② – 同じく『霊訓』の中で、魂が向上発達していく“試練”もしくは“浄化”の境涯と、そのあとにくるいわゆる超越界、いったん突入したらよくよくの場合を除いて2度と戻ることのない“無”の世界との間に大きな懸隔があると述べてから、さらに次のように綴られた。

《7つの試練界の最高界から超越界の最底界への突入は人間の死にも似ている。が、その超越界についてはわれわれもほとんど聞かされていません。ただ、われわれがこうして人間を見守っているごとく、その世界の至聖なる霊もわれわれを援助し導いてくださっていることは承知している。が、それ以外の具体的事実については何も知りません。分かっているのは、その世界の霊はいよいよ神性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、大神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。

われわれとてその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。霊といえども自分が得た経験と知識にしたがって語っていることを承知する必要があろう。奥深い問題についても、それまでに知り得たかぎりの範囲で解答を出します。ゆえに、真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはなりません。が、霊の世界について間違いなく言えることは、地上界が7つの下層界のうちの最高界であり、その上に7つの“動”の世界があり、さらにその上に7つの超越的“無”の世界が存在するということである。ただしその7つの各界には無数の“境涯”が存在する》

(注)③ – 古来“啓示”にも霊的系譜があることを、同じく『霊訓』の中でインペレーターが次のように述べている。

《古き時代においてわれわれと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程についてこれより述べようと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきました。その1人 – 神が人間に直接的に話しかけるとの信仰が今より強く支配していた時代の1人に、メルキゼデクの名で知られた人物がいた。(中略)

そのメルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者 – イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体とを確立した指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大な人物でした。すでに当時としては最高の学派において、すぐれた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引きつける彼の強烈な意志が、支配者としての地位にふさわしい人物としたのです。彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界へと広がって行きました。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。その時代はユダヤ民族にとっては、他の民族も同様に体験している段階、そして現代も重大な類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。(中略)

メルキゼデクがモーセの指導霊となったごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今われわれはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示すために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。またその巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去ったのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、今の貴殿には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な流れこそ最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘(きょうあい)な宗閥心だけは捨て去ってもらわなければなりません。

偉大なる指導者エリヤ – イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。(中略)そのエリヤもまた後の世に地上へ戻り、指導に当った。貴殿も知るごとく、かの“変容”の山上にてモーセとともにキリストの側にその姿を見せました。2人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとあります》

(注)④ – いわゆる“精霊”のことで、『ベールの彼方の生活』ではそれを“半理知的原始霊”という呼び方で次のように説明している。

《これは個性をもたない自然界の霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種属ごとの類魂として働いているものとがあります。鉱物の霊はこの分野を担当する“造化の天使”によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。が、植物の霊になるとその分野の“造化の天使”から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。

同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状況にすぐ表れます。たとえば性質の相反する2種の鉱物、あるいは共通した性質をもつ2種の鉱物を化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も、ともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。

ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。しかし、これが動物界になると、その類魂も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また“造化の天使”も整然とした態勢で臨んでおります》☆

「他の天体に降誕した霊が、のちに地球へ降誕することもあります。地球上の生命の創造は霊力によって行われました。高級霊になれば、地球の大気から摂取した成分を加工し生命の要素を吹き込むことによって、新しい創造物を形成することが出来ます。霊の創造は今なお、地上においても霊界においても、絶え間なく続けられております。生殖本能は地球のみに限られているのではありません。

新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の付属物ではなく、別個の誕生と創造の起原を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行われます。その凝縮した成分がわれわれ霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、および地上期間中にいかなる陶冶を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今みなさんが迎えつつある時代に属する課題です。そのためには多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえできれば、その後に訪れる光明は真昼の太陽のごとく皓々(こうこう)たる輝きに満ちていることでしょう」

(注) – 『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。

《すでに聞き及んでいようが、今貴殿を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈な反目がある。われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い変えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。

それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)

そうした集団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念のおもむくところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同類の地上の人間に憑依(ひょうい)し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)

こうした現実が身のまわりに実在するのです。それに人間は1向に気づかない。そうした悪疫の巣がある – あるどころか、ますます繁栄し、のさばる一方でありながら、それを批難する叫び声がいったい地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。

なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》

「皆さんは霊力のひとかたならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、1歩1歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行きわたりつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれよりのち、キリストがもたらした教えのごとく(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。

今日キリストの御名のもとに教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。われわれが今あらたに神の始源からお持ちしている真理も、すべての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。われわれが恐れるのはわれわれの使命への反抗よりも、むしろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱くほどの関心すら持たない、感覚のマヒした、冷ややかな、生命のない無関心です」

このあとインペレーターは、この民主主義の時代においてはキリストのような巨大な予言者が1人だけ出現しても効果はないこと、これからの時代は真理がさまざまな手段でさまざまな人間に届けられること、精神構造が異なれば真理もまた異なった種類のものが必要であること、これからスピリチュアリズムに対する大きな反抗が予想されるので、それに対する備えがなければならぬこと、新しい真理の啓示に抵抗はつきものであることを語った。

セオフィラス Theophilus と名のる霊が語る。

「神はさまざまな表現形式をとり、さまざまな媒介者を通して顕現しておられます。そしてその顕現にあずかった者は、大ていその媒介者と啓示とを自分だけのものと思い込む間違いを犯します。時代ごとにそれ相応のメッセージが授けられているのですが、いずれの時代においてもそれを最終的な神のメッセージと受けとめる間違いを犯します。神は何度も語りかけて来られました。が、最後の語りかけというものはなさっておりません。すでに知っての通り、現人類のための啓示はメルキゼデクに始まり、今なお連綿として続いているのです。

またキリスト教界のみが神の啓示の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ伝道していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんのひとかけらのみが授けられたのです。現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の実在を信じず律法を字句どおりに解釈した者たち)とよく似た者、キリスト教徒の中にはあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者たち)とよく似た者が見うけられます。一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。

今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義とによって埋めつくされて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。信仰心が薄れてゆく第1の徴候はその霊的概念が忘れられることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、まったく無意味な形式ばかりをいじくり回すようになります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰微し始めることは確実です。

今人間が決断を迫られているのは、霊的啓示を受け入れるか拒否するかです。受け入れる者もいれば拒絶する者もいるでしょう。

これまでは真理が傑出した1人の人物に集中的に啓示されてきましたが、これからはそういうことはありません。1つの流れに偏り、こじつけられ、そして窮屈なものになるということはなくなり、大勢の霊媒を通じて与えられ、それだけ私的な偏りから免れ、世界中へ行きわたり、受け入れる魂を鼓舞するようになります。排他性の時代は過ぎ去りました。開かれたビジョンの時代 – 特権階級による一方的支配の時代から民主主義が主導的原理となる時代が到来したのです。神の真理はその流入の場を常に特権意識をもたない人達に求めます。そこには自尊心が少なく、見栄と高慢に振り回される可能性が少ないからです。

ペテロが“私には金銀はない”(使徒行伝3・3)と述べた時、彼は失われてしまった高等な真理を指摘したのです。当時の聖職者たちが金銭的に恵まれた地位を得ようと躍起になっている様を見て、ペテロが強く戒めたのです。霊的影響力は当時の教会からはすでに消え失せ、物的影響力が支配していました」

1875年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。

「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の1つであるこの日に、われわれ霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は“人の子”イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体をたずさえたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しておまます。しかるに皆さんの先達の1人は、血と肉では神の御国を継ぐことはできないと説いております。

今世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリストほどの霊力を具えた霊が一時的に物質をまとって姿を見せることができて何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストにくらべて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、いつの時代にも霊の世界と交信できる者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。

キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後さらに奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死してのちに弟子たちに姿を見せたことは事実です。が、弟子たちとともに過した時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。また同じ日、弟子たちにやさしく別れを告げたあと一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。

人間はイエスが物的身体をもって現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)すでに見ておられます。残酷な死を遂げたのちに見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子たちに見せたのでした。

大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、あるいは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体のまわりにその霊的生成物が保持されるのです。

以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解してほしく思います。1つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を1つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。

かくして調和よく形成されたサークルにおいていわゆる心霊現象が発生します。それなくしては何ひとつ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間もさまざまな方法で援助することができます。たとえば手と手をすり合わせるのもよいし、歌をうたうのもよろしい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気をかもし出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。

イエスの12人の弟子はみな霊媒的素質を具えており、何よりもその素質ゆえに選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネがとくにイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった70人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)

イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開くために地上へ派遣され、1度も地上へ生を受けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することは出来ません。それは人間が足もとの草の葉と交信できないのと同じ程度において不可能なことです。

イエスの任務と使命について地上の人間がこれほどまでに誤解するに至ったことは、われわれにとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことはできます。たとえば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔りがあることが人間には洞察できないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時どきの状態に合わせて摂取されるべきのです。それはちょうど肉体の体質のその時どきの状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。

イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のままいったん天国と呼ばれるところへ運ばれたあと、同じ肉体をまとって地上へ戻り、生者と死者ともどもに最後の審判を下すものと想像しました。

今日われわれが人間に祝ってほしく思うのは、イエスの純粋な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」

(注①) – キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。

○クリスマス(キリスト降臨祭) – これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとして、人類愛から己れを犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。

○エピファニー(救世主顕現祭) – これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれてくるすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を1人ひとりに持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めたものがそれを求めに訪れるように、高揚するのである。

○レント(受難節) – これはわれわれにとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。

○グッドフライデー(聖金曜日) – これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。ただし新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。

○イースター(復活祭) – これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。

○ペンテコステ(聖霊降臨祭) – キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさゆえに自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理のいっそうの豊かさを祝う日である。

○アセンション(昇天祭) – これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。

(注②) – 同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。《今日なお存続している「十戒」は変転きわまりない時代のために説かれた真理の一端にすぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、すでにその段階を通りすぎた者に字句どおりに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の頂上においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊のためには完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かるためには低次元の煩雑な外的影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることができるのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として70人もの長老 – 高き霊性を具えた者 – を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高い者が役職を与えられたのである。モーセはそのための律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となったのちも、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》☆

イエスの生涯のうち記録にない青年時代について―

「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くの記録と同じく、ただの作り話に過ぎません。“神の声”として受け取られている出所不明の記録の中の出来ごとをたどって行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。そのひとつが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永いあいだ拘束してきました。すべて作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得るためには、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を抹消しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身につけなければいけません。

主イエスは、かって一度も地上へ生をうけたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力はすべて主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。

高級霊が今われわれがこの霊媒を支配しているごとくに直接的に支配することは極めて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することは出来ます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。

イエスほどの進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体をまとったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙のために向けられております。天体のひとつひとつにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」

(注①) – 本来の所属界においてはイエスが“主”でその霊団が“従”の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。

(注②) – 各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の1人と考えられる。☆

「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化神として人類救済のために降誕し、かの磔刑(はりつけ)をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。

しかし実はこの身代りの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものは全ての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び 覚まされるほどに霊界からの導きをうけ向上していくものだからです。人間キリストにおいて その霊的原理が最高に発揮され、まさしく“神の子”と呼ばれるにふさわしい人物でした。すなわち地上に生をうけた人間の中でもっとも神のごとき人間という意味において“神の子”でした。

仏陀の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数がたってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者たちが祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、さらにその時代を通して後世にまで啓示したのです。

その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうし た者がかならず遭遇する運命をたどりました。まず貶(けな)され、つづいて見当違いの告発をうけ、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)

伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、ならびにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思う通りのことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」

※以下、作業続行中(祈)†

2022年1月19日

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)