シルバー・バーチの霊訓 1巻

2022年12月12日

シルバー・バーチの霊訓 1巻

シルバー・バーチの霊訓 1巻

アン・ドゥーリー編
近藤 千雄(こんどう かずお)訳

Guidance from Silver Birch
Edited by Anne Dooley
Psychic Press Ltd.
London, England

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シルバーバーチ・シリーズの刊行に当って

私は、ほぼ1年半前(1984年5月)に「シルバーバーチ霊言集」全11巻を総集し た『古代霊は語る』を潮文社より上梓した。正直言って、その出版に際して訳者自身も潮 文社の担当者も、この種のものに対する一般読者の反応に一抹の懸念を禁じ得なかった。ところが、出版してみると、予想に反して全国各地から訳者と出版社の双方に感動と感謝の手紙が次々と寄せられた。英語の素養のある方からは原書の入手方法についての問い合わせもあった。そして、当然予想されたこととして、霊言集全11巻を全訳してほしいという希望が多く寄せられた。

『古代霊は語る』の“あとがき”の中で私は「今この全11巻を1冊にまとめて、何という無謀なことをしたのだろうと、恰も過ちを犯してしまった時のような気持がふと湧くことがある。が…(中略)決して弁解して言うのではなく、私の理解力の範囲で確信して言うが、シルバーバーチの説かんとすることは本書が一応その全てを尽くしていると考えていただいて結構である」と述べた。そして今もその確信に変りはないが、多くの読者からの希望を受け取るごとに、かなえられるものであれば全巻を訳しておくのも私の使命かも知れないという考えが深まっていった。そしてこの度潮文社のご理解を得て、幾つかの条件のもとにその実現に努力してみることになった次第である。

“条件”を考慮しなければならない最大の原因は、内容的に重複する箇所が多いことにある。『古代霊は語る』と題して“1冊にまとめた”理由もそこにあるが、“まとめる”という作業がエッセンスだけに絞ることになる傾向を避けられないことは確かで、現に読者から“もっと細々(こまごま)とした悩みごとの質疑応答はないのでしょうか”といった手紙も寄せられている。そして、確かにそれが豊富にあるのである。全訳によってそれが紹介できることを有難いと思う一方、重複はぜひ避けたい気持もある。そこで翻訳のシリーズは原典のシリーズのそのままの置き替えではなく、重複箇所を削除し、編者による冗漫な解説も省かせていただくことにした。その点をご了解ねがいたい。

霊言集は50年余りにわたって蓄積された膨大な量の霊言をハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーがそれぞれの視点から編集したものである。そのうち2人のメンバーが2冊ずつ出しているので、全部で9人によって11冊が編集されたことになる。先日、メンバーの1人でバーバネルの秘書だったパム・リバ女史に手紙で確かめたところ、これ以後新たに編集する予定は今のところ無いということであった。

いま改めてその11巻に目を通してみると、その扱い方は1冊1冊に特徴があり、実に多彩である。その中から本シリーズの第1巻としてアン・ドゥーリー女史の Guidance from Silver Birch (シルバーバーチの導き)を選んだのは、本書が全巻の中でもシルバーバーチの霊訓をもっとも平易な形でまとめてあり、また「まえがき」でシルバーバーチと霊媒バーバネルについての詳しい紹介があり、本シリーズの初巻を飾るものとしていちばん適当とみたからである。

また全巻の中で本書がもっともページ数が少なかったことが、巻末に私自身の長文の解説「霊的啓示の系譜」を載せる余裕を与えてくれることにもなった。これによって人類史の背後の霊的な流れの中における『シルバーバーチの霊訓』の位置を理解していただけるものと信じている。

熱心な読者のために、願わくば1冊でも多く、そして少しでも早く出せることを心から念じている。

1985年7月
近藤 千雄

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まえがき 古代霊シルバーバーチと霊媒モーリス・バーバネル

40年余り前(1920年ごろ)のことである。文人による社交クラブで司会役をしていた18歳の議論好きの青年が、思わぬ成り行きからスピリチュアリズム(章末注1)の研究に引きず込まれた。そしてある心霊家の招きでロンドンの東部地区で催されていた交霊会(注2)なるものに一種の軽蔑心を抱きつつ出席した。

これといった感動も覚えぬまま会の成り行きを見ていたその青年は、入神した人間の口をついてインディアンだのアフリカ人だの中国人だのが代わるがわるしゃべるのを聞いて苦笑を禁じ得なかった。そして列席者の1人から「あなたもそのうち同じことをするようになります」と言われた時もアホらしいといった気持で軽く聞き流した。のちにこれが現実となるとは神ならぬ身には知る由もなかった。

2度目に出席した時、青年は途中でうっかり“居眠り”をしてしまい、目覚めてから慌(あわ)てて失礼を詫びた。ところが驚いたことに他の出席者たちから「居眠りをなさっている間あなたはインディアンになっておられましたよ。名前も名のってましたが、その方はあなたがお生れになる前からあなたを選んで、これまでずっと指導してこられたそうです。そのうちスピリチュアリズムについて講演なさるようになるとも言ってました」と言われた。

この時も青年は一笑に付した。しかしどこか心の奥にひっかかるものがあった。そしてその後出席する度に入神させられ、そのたびに同じインディアンがしゃべった。はじめのうち片言英語しか話せなかったのが次第に流暢になっていった。

その青年の名はモーリス・バーバネル。(注3)そしてインディアンはシルバーバーチ(注4)とよばれるようになった。両者は顕と幽の相反する世界にいながら密接に結びついた仕事で世界的に知られるようになる運命にあった。前者は練達の宣伝家、著作家、編集者として、後者はハンネン・スワッハー氏(注5)の言葉を借りれば“他のいかなる説教家よりも多くの心酔者をもつ”雄弁な説教者としてである。

スワッハーの言葉には説得力がある。スワッハー自身がその会の司会者であり、今日までその交霊会はハンネン・スワッハー・ホームサークルの名称で知られているからである。それにスワッハーはジャーナリズム界では“フリート街の法王”の異名をとる反骨のジャーナリストとして長くその存在を知られている人物である。

そのスワッハーの勧めでシルバーバーチの霊言が心霊紙上で公表されるようになってからも、霊媒がバーパネルであることは内密にされた。バーバネルにしてみれば自分を通じての霊的教訓はいくら宣伝されてもそれだけの価値はあるが、それを掲載するサイキックニューズ紙とツーワールズ紙の主筆が実はその霊媒であるというのは、受け取られようではまずい印象を与えるのではないかという用心があったのである。そういう次第でバーバネルがシルバーバーチの霊媒であるという事実は20年余りも極秘にされていたが、いったい霊媒は誰なのかという次第に高まる一般のうわさを放置するわけにもいかなくなり、ついに1957年8月24日のツーワールズ紙上でバーバネル自ら公表したのであった。

シルバーバーチについてスワッハーはこう述べている。「シルバーバーチは実はインディアンではない。いったい誰なのか、本当のところは分からない。本来属する界は波長が高すぎて地上とは直接の交信が不可能であるために低い界の霊(霊界の霊媒)の幽体を使用している。シルバーバーチと名のるインディアンはたぶんその幽体の持ち主であろう。その証拠に彼はこう言っているのである。“いずれ私の身元を明かす日も来ることでしょう。私は仰々しい名前を使うことによって敬愛を受けたくはありません。私が語る真理によって私の真価を証明するためにあえて素朴なインディアンに身をやつしております。それが自然の理というものなのです”と。」

これらの教説が霊媒の潜在意識の仕業でないことをどうやって見分けるのかとの批評家の質問に対してスワッハーは、両者が別個の存在であることを示す決定的な事実がいくつかあると言う。例えばシルバーバーチは再生説(注6)を説くが、バーバネルは通常意識の時はこれを否定し、入神すると反対に再生説を主張する。

シルバーバーチ自身も自分が心霊家がよく持ち出す“霊媒の第2人格”でないことを示す証拠をこれまで何度も提供している。例えば霊媒の奥さんのシルビアに対してシルバーバーチが、こんどのエステル・ロバーツ女史(注7)の交霊会でかくかくしかじかのことを直接談話(注8)で言います、と約束したことがある。そしてその約束どおりのことが起きた。いっしょに出席していたバーバネルもはじめてシルバーバーチの声を直接聞いて感動を覚えたという。

「文は人なり」とは18世紀のフランスの博物学者ビュフォンの名言であるが、これはシルバーバーチに関するかぎり人間性のみならず教説の説き方についても言える。霊媒のバーパネルもシルバーバーチの説き方の巧みさをまさに“霊の錬金術”であると激賞してこう述べている。

「年がら年中ものを書く仕事をしている人間から観れば、毎週毎週ぶっつけ本番でこれほど叡智に富んだ教えを素朴な雄弁さでもって説き続けるということ、それ自体がすでに超人的であることを示している。ペンで生きている他のジャーナリスト同様、私も平易な文章ほど難しいものはないことを熟知している。誰しも単語を置き換えたり消したり、文体を書き改めたり、字引きや同義語辞典と首っぴきでやっと満足の行く記事が出来あがる。ところがこの“死者”は一度も言葉に窮することなく、すらすらと完璧な文章を述ていく。その一文一文に良識が溢れ、人の心を鼓舞し、精神を昂揚し、気高さを感じさせる。シルバーバーチの言葉には実にダイヤモンドの輝きにも似たものがある。ますます敬意を覚えるようになったこの名文家、文章の達人に私は最敬礼する。」

南アフリカにおけるスピリチュアリズムの中心的指導者であるエドマンド・ベントリー氏もその著書の中でシルバーバーチとバーバネルとの相違を“一目瞭然”であると評し、とくに弁舌のさわやかさと文体の美しさにおいて際立った対照を見せていると述べてからこう続ける。

「バーバネルも確かに優れた演説家である。公開の演壇上で、宴会の席で、選挙の応援演説で、あるいは何万人もの聴集を前にした集会の演説等々での体験から氏は実に弁舌さわやかであり、ユーモアのあるエピソードを混じえるのも巧みであり、なかんずく法廷弁護士にも似た理路整然とした説明にただならぬ才能を見せる。

しかしシルバーバーチはこうした人間的評価の域を完全に超えている。シルバーバーチには荘厳さと威厳があり、それに王者の風格とも言うべき高度な素朴さと情愛とが一体となった風合いが感じられる。あえて説明するに及ばぬこであるが、その表現力の幅広さ、用語の選択の適確さ、生気溢れるさわやかな弁舌をみれば、シルバーバーチと名のる存在が明らかにバーバネルとは別個の霊界からの訪問者であり、それが豊富な知識と叡智と才能を携えて訪れ、地上の人間の身体を借りて語っていることは明白である。」

そのシルバーバーチがバーバネルの身体を完全に使いこなすに至る過程をバーパネル自身が次のように語っている。

「はじめのころは身体から2、3フィート離れたところに立っていたり、あるいは身体の上の方で宙ぶらりんの格好で自分の口から出る言葉を1語1語聞き取ることができた。シルバーバーチは英語がだんだん上手になり、はじめのころの太いしわがれ声も次第にきれいな声 – 私より低いが気持のよい声 – に変っていった。

ほかの霊媒の場合はともかくとして、私自身にとって入神はいわば“心地よい降服”である。まず気持を落着かせ、受身の心境になって気分的に身を投げ出してしまう。そして私を通じて何とぞ最高で純粋な通信が得られますようにと祈る。すると一種名状し難い温かみを覚える。ふだんでも時おり感じることがあるが、これはシルバーバーチと接触した時の反応である。温かいといっても体温計で計る温度とは違う。恐らく計ってみても体温に変化はないはずである。やがて私の呼吸が大きくリズミカルになり、そして鼾(いびき)にも似たものになる。すると意識が薄らいでいき、まわりのことが分からなくなり、柔らかい毛布で包まれたみたいな感じになる。そしてついに“私”が消えてしまう。どこへ消えてしまうのか私にも分からない。

聞くところによると、入神はシルバーバーチのオーラと私のオーラとが融合し、シルバーバーチが私の潜在意識を支配した時の状態だとのことである。意識の回復はその逆のプロセスということになるが、目覚めた時は、部屋がどんなに温かくしてあっても下半身が妙に冷えているのが常である。時には私の感情が使用されたのが分かることもある。というのは、あたかも涙を流したあとのような感じが残っていることがあるからである。

入神状態がいくら長びいても、目覚めた時はさっぱりした気分である。入神前にくたくたに疲れていても同じである。そして1杯の水を頂いてすっかり普段の私に戻るのであるが、交霊会が始まってすぐにも水を1杯頂く。忙しい毎日であるから、仕事が終っていきなり交霊会の部屋に飛び込むこともしばしばであるが、どんなに疲れていても、あるいはその日どんなに変った出来ごとがあっても、入神には何の影響も無いようである。あまりに疲労がひどく、こんな状態ではいい成果は得られないだろうと思った時でも、目覚めてみると、いつもと変らない成果が得られているのを知って驚くことがある。

私の経験では交霊会の前はあまり食べないほうが良いようである。胸がつかえた感じするのである。また、いろいろと言う人がいるが、私の場合は交霊会の出席者(招待客)についてあらかじめあまり知らない方がうまくいく。余計なことを知っているとかえって邪魔になるのである。」

私(アン・ドゥーリー)にとっては1963年秋に初めて出席した交霊会は忘れ難いものとなった。格別目を見張るような現象があったわけではない。常連のメンバー6人に私を含む招待客6人の計12人が出席した。雰囲気は極めてリラックスして和気あいあいとしていた。部屋はロンドン近郊の樹木に囲まれたバーバネル氏の自宅の一階の居間で、書物の並ぶ壁で四方を取り囲まれた素敵な部屋であった。

聞いた話では交霊会は“テーブルの振動”によって始まるとのことであった。確かにそうなのだが、その時の印象は見ると聞くとでは大違いであった。死んだカエルの足がピクピク引きつるのを科学者が目撃したのが電気時代の始まりだそうだが、私にとってそんな言い草は、他の出席者と共に両手をテーブルの上に置いたとたんに消し飛んだ。テーブルに“生命”が吹き込まれるのをこの目で見ただけでなくこの手で感じ取ったのである。出席者が誠実な人ばかりであることは確信していたので、誰かが故意に動かしているのではないことは断言できる。そのテーブルがこちらの挨拶に応えて筋の通った反応を見せた時 に、私がこれまで抱いていた万有引力の法則の概念が崩れ去った。何の変哲もない無生物である木製のテーブルがギーギーと“きしむ”音を出しながら人間が頷(うなず)くような動作から、苛立(いらだ)つように激しく前後に揺れ動く動作まで、さまざまな動きを見せるのだった。

そうした現象がひと通り終って全員が着席すると、霊媒のバーバネルがソファに腰掛けて入神状態に入った。その瞬間から会が目に見えぬ一団によって進められている雰囲気となった。そして私は神秘家の言う“聖霊の降下”を垣間見ることとなった。

驚いたことにバーバネル氏の顔が急に変貌しはじめたのである。仕事の上で慣れ親しんでいるあの皮肉屋でいつも葉巻きを口にした毒舌家のジャーナリストに、一体何の変化が生じたのだろうか。フロイトに言わせると、精神病や夢の原因はことごとく潜在意識の仕業だそうで、われわれもそう思い込んできた。が、それから80分間にわたって私がこの目で見この耳で聞いたものは、そんな単純な説明ではとても解釈できるものではなかった。ジャーナリストとしてネタ集めに奔走してきた関係で、私は熟練の税関職員と同じように、話しぶりや挙動でその人の本性を見抜く才能が身についている。いま目の前でしゃべり始めたのが日ごろ親しくしているバーバネル氏とは別人であることを私はすぐに直感した。バーバネル氏の身体がしゃべっているのであるが、それはバーバネル氏その人ではない。話しぶりが全く違うのである。

その日、シルバーバーチは出席者の1人1人に個別に語りかけたが、その内容は万人に共通した普遍的なものであった。ただ序(ついで)に付け加えれば、その日この強(したた)か者の私を含む3人の女性が涙を流した。悲しみの涙ではない。感激の涙である。こう言うとまた否定論者の偏見を招くことになるかもしれない。が、ギリシャのデルポイの神託でリディアの最後の王クロイソスが何の変哲もないメッセージを受けたことがもとで、王国が根底から揺れ動いた例もあることを忘れてはならない。

さて長年の慣例に従い私もシルバーバーチに悩みごとの相談を許された。私はこう質問した。「私が今なお理解できないのはこの世に不可抗力の苦難が絶えず、それが私を含めて多くの人間を神へ背を向けさせていることです。」

シルバーバーチ「なるほど。でも神はその方たちに背を向けませんよ。いったいどうあってほしいとおっしゃるのですか。苦労なしに勝利を収め、努力なしに賞を獲得したいとおっしゃるのでしょうか。」

次に私は「当然の報いと慈悲との関係がよく分かりません」と尋ねた。

シルバーバーチ「報いは報いであり慈悲は慈悲です。地上で報われない時はこちらの世界(死後の世界)で報われます。神をごまかすことはできません。なぜなら永遠の法則が全ての出来ごとをチェックしているからです。その働きは完璧です。宇宙を創造したのは愛です。無限なる神の愛です。無限なる愛がある以上、そこに慈悲が無いはずはないでしょう。なぜなら慈悲心、思いやり、寛容心、公正、慈善、愛、こうしたものは全て神の属性だからです。

苦難は無くてはならぬものなのです。いったい霊性の向上はどうすれば得られるのでしょう。安逸をむさぼっていて得られるでしょうか。楽でないからこそ価値があるのです。もし楽に得られるのであったら価値はありません。身についてしまえば楽に思えるでしょう。身につくまでは楽ではなかったのです。」

このハンネン・スワッハー・ホームサークルにおけるシルバーバーチの霊言の全てが公表されれば、いま物質主義的文化の危険な曲り角に立つ人類が抱える諸問題についての注目すべき叡智が数多く発見されることであろう。

とりあえずその中から私なりに選んだ叡智の幾つかを紹介するに際し、読者の全てがご自分の人生において慰めとなり、あるいは思考の糧となる何ものかを見出されることを希望してやまない次第である。

1966年 アン・ドゥーリー

注釈

(1)スピリチュアリズム Spiritualism

狭義には、古来“奇蹟”または“超自然現象”とよばれてきたものを組織的に調査・研究した結果、その背後に“霊魂”つまり他界した先祖の働きがあるとする“霊魂説”およびそれを土台とする死後の生命観、道徳観、神に関する思想・哲学を意味するが、広義には、次の注(2)の交霊会を通じその死者との交信や心霊現象一般を指すこともある。ラテン諸国ではスピリティズム Spiritism とよんでいる。

(2)交霊会

霊媒を通じて死者の霊と交信したり心霊現象を観察したりする会で、出席者が10人前後の私的な集いと科学的調査研究を目的としたものとがある。西洋では前者を家庭交霊会(ホームサークル)とよぶが、日本では双方とも心霊実験会とよんでいる。

(3)モーリス・バーバネル Maurice Barbanell (1902~1981)

ミスター・スピリチュアリズムの異名をとった英国第1級の心霊ジャーナリストで、本文で紹介されている2つの週刊心霊紙(ツーワールズはのちに月刊誌となる)の主筆をつとめつつ、シルバーバーチの霊言霊媒として50年余りにわたって毎週1回(晩年は月1回)交霊会を開き、数え切れない人々に啓発と慰安を与えた。

(4)シルバーバーチ Silver Birch

バーバネルの遺稿「シルバーバーチと私」によると当初は別のニックネームでよばれていたが、それが公的な場で使用するには不適当ということで、本人自らこの名を選んだ。おもしろいことに、そう決まった翌日バーバネルの事務所にスコットランドから氏名も住所もない1通の封書が届き、開けてみると銀色の樺の木(シルバーバーチ)の絵はがきが入っていたという。常識では、距離的に考えてすぐ翌朝に届くはずはない。

(5)ハンネン・スワッハー Hannen Swaffer (1879~1962)

“フリート街の法王”(フリート街は英国の新聞社が林立する通り)とよばれた世界的なジャーナリスト。シルバーパーチの霊言を高く評価し、当初は自宅に呼んで交霊会を開き、のちにバーバネルの自宅で定期的に行われるようになり、その霊言を2つの心霊紙に掲載させる一方、自分の知名度を利用して各界の名士を招待して、スピリチュアリズムの普及と理解に大いに貢献した。

(6)再生説

いったん他界した人間が再び人体に宿って地上に誕生して来るという説。スピリチュアリズムの中でも賛否両論があり、従って定説とはなっていないが、シルバーバーチはこれを50余年にわたって首尾一貫して説き続け、その説に矛盾撞着(どうちゃく)はみられない。これを肯定する霊の間にも諸説があり、中には否定する霊さえいるが、その間の事情についてシルバーバーチはこう語っている。

「知識と体験の多い少ないの差がそうした諸説を生むのです。再生の原理を全面的に理解するにはたいへんな年月と体験が必要です。霊界に何百年何千年いても再生の事実を全く知らない者がいます。なぜか。それは死後の世界が地上のように平面的でなく段階的な内面の世界だからです。その段階は霊格によって決まります。その霊的段階を1段また1段と上がって行くと、再生というものが厳然と存在することを知るようになります。もっともその原理はあなた方が想像するような単純なものではありませんが…。」

(7)エステル・ロバーツ Estelle Roberts

英国屈指の女性霊媒で、多彩な霊能を発揮したが、中でも霊視と霊聴の適確さは完璧であった。中心的支配霊はブラック・クラウドと名のるやはりインディアンで、直接談話(注(8)参照)でユーモア溢れる話術で列席者と親しく交わった。バーバネルは女史を英国最高の霊媒として敬意を表し、毎週開
かれる交霊会に出席して細かくメモを取り、それを中心的資料として名著 This is Spiritualism(邦訳「これが心霊の世界だ」潮文社刊)を著わした。

(8)直接談話

シルバーバーチは入神中のバーバネルの発声器官を使用した。これを入神談話または霊言現象とよぶが、媒の身体を使わず直接空中からメガホンを使って話しかけるのを直接談話とよぶ。この際も実際にはエクトプラズムという霊質の物質でメガホンの中に人間と同じ発声器官をこしらえている。

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1章 あなたとは何か

いったいあなたとは何なのでしょう。ご存知ですか。自分だと思っておられるのは、その身体を通して表現されている一面だけです。それは奥に控えるより大きな自分に比べればピンの先ほどのものでしかありません。

ですから、どれが自分でどれが自分でないかを知りたければ、まずその総体としての自分を発見する事から始めなくてはなりません。これまであなたはその身体に包まれた“小さな自分”以上のものを少しでも発見された経験がおありですか。今あなたが意識しておられるその自我意識が本来のあなた全体の意識であると思われますか。お分かりにならないでしょう。

となると、どれが普段の自分自身の考えであり自分自身の想像の産物なのか、そしてどれがそのような大きな自分つまり高次元の世界からの霊感であり導きなのか、どうやって判断すればよいのでしょう。

そのためには正しい物の観方を身につけなくてはなりません。つまりあなた方は本来が霊的存在であり、それが肉体という器官を通して自己を表現しているのだという事です。霊的部分が本来のあなたなのです。霊が上であり身体は下です。霊が主人であり身体は召使いなのです。霊が王様であり身体はその従僕なのです。霊はあなた全体の中の神性を帯びた部分を言うのです。

それはこの全大宇宙を創造し運用してきた大いなる霊と本質的には全く同じ霊なのです。つまりあなたの奥にはいわゆる“神”の属性である莫大(ばくだい)なエネルギーの全てを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発しそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つ起きない事を悟るからです。その悟りを得る事こそあなた方の勤めなのです。それは容易な事ではありません。

身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。“家”であって“あなた自身”ではないという事です。家である以上は住み心地よくしなければなりません。手入れが要る訳です。しかし、あくまで住居であり住人ではない事を忘れてはなりません。

この宇宙をこしらえた力が生命活動を司(つかさど)っているのです。生命は物質ではありません。霊なのです。そして霊は即ち生命なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。

あなた自身も生命そのものであり、それ故に宇宙の大霊との繋(つな)がりがあり、それ故にあなたもこの無限の創造進化の過程に参加する事ができるのです。その生命力は必要とあらばいつでもあなたの生命の井戸からくみ上げる事ができます。その身体に宿る霊に秘められた莫大なエネルギー、あなたの生命活動の動力であり活力であり、あなたの存在を根本において支えている力を呼び寄せる事ができるのです。

あなた方にはそれぞれに“この世で果たすべき仕事”があります。それを果たすためにはこうした知識を摂取し、それを活力としていく事が必要です。霊に宿された資質を自らの手で発揮する事です。そうする事は暗闇で苦悩する人々に光を与える小さな灯台となる事であり、そうなればあなたのこの世での存在の目的を果たした事になります。

宇宙にはある計画に沿った“摂理(きまり)”というものがあります。私たちはそれにきちんと合わさるように出来上がっているのですが、それに合わすか否かは本人の意志による選択の自由が与えられています。東洋の諺(ことわざ)に“師は弟子に合わせて法を説く”というのがあります。霊的に受入れる準備ができればおのずと真理の扉が開かれるのです。こちらから求めなくても良いのです。豁然(かつぜん)と視野が開き、そこから本当の仕事が始まります。

と言っても私どもはあなた方の生活から問題も悩みも苦しみもなくなるというお約束はできません。お約束できるのは全ての障害を乗り越え、不可能と思われる事を可能にする手段をあなた方自身の中に見出すようになるという事です。内部に宿る資質の中の最高のもの、最奥のもの、最大のものを発揮しようと努力する時、私ども霊界の者の中であなたに愛着を感じ、あなたを援助する事によって多くの人々の力になりたいと望む霊を呼び寄せる事になるのです。

悲しいかな、あまりに多くの人々が暗黒の霧に取り巻かれ、人生の重荷に打ちひしがれ、病める身と心と魂を引きずりながら、どこへ救いを求めるべきかも分らずに迷い続けております。私どもはこうした人々に救いの手を差し延べなければならないのです。

もし私どもが霊性の開発が容易であるとか、暗闇の中にささやかなりとも光明をもたらしたいと願う人々の仕事が楽に達成されるかのような口を利く事があれば、そのこと自体がすでに私どもの失敗を証言している事になりましょう。決してそんな容易なものではありません。歴史を見てもその反対を証言する事ばかりです。真理と誤謬(ごびゅう)とがいつ果てるともない闘いを続けております。たぶん“完全”が成就されるまで続く事でしょう。しかし完全ということは事の性質上絶対に成就される事はありません。その意味で私どもは長く困難で苦労の多い仕事に携わっている訳です。

これより先どれほどの偏見と反感と敵意と誤解と迷信と故意の敵対行為に遭遇しなければならないかは、あなた方には想像もつかないでしょう。怖(お)じけづかせようと思って言っているのではありません。事を成就するためにはそのあるがままの背景を理解しておく必要があるからです。私にはその大変さがよく分かるのです。

これまでも私は可能な限りの力を駆使して、克服不可能と思われた障害を克服して、あなた方の世界へ近づいてまいりました。私1人の力ではありません。私は地上へ戻るべく選ばれた霊団の1人です。なぜその必要があるのか。それは今、地上人類に降りかからんとしている苦難があまりに恐ろしいものであるために、霊界の力を結集して地上のあらゆる地点に橋頭堡(きょうとうほ)を築かなければ、人類自らが人類を、そして地球そのものを破滅に陥れる事になるからです。

人類は物質文明を自負しますが、霊的にはきわめてお粗末です。願わくはその物質文明の進歩に見合っただけの霊性が発達する事を祈ります。つまりこれまで“物”に向けられてきた人間的努力の進歩に匹敵するだけの進歩が精神と霊性の分野にも向けられればと思います。

進歩に霊性が伴わない今の状態では、使用する資格のないエネルギーによって自ら爆破してしまう危険があります。そこで私どもは、地上生活全体の根幹であるべき霊的真理に従って各自が生活を営めるように、という事を唯一の目的として努力しているのです。

嫉妬心、口論、諍(いさか)い、殺人、戦争、混乱、羨望、貪欲、恨み、こうしたものを地上より一掃する事は可能です。そしてそれに代って思いやりの心、親切、優しさ、友愛、協力の精神によって生活の全てを律する事ができます。それにはその根幹として、霊性において人類は1つであるとの認識が必要です。決して救いようのないほど暗い面ばかりを想像してはいけません。明るい面もあります。なぜならそうした障害と困難の中にあっての進歩は、たった1歩であっても偉大な価値があるからです。たった1人でいいのです。全てが陰気で暗く侘(わび)しく感じられるこの地上において元気づけてあげる事ができれば、それだけであなたの人生は価値があった事になります。そして1人を2人に、2人を3人としていく事ができるのです。

霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はない事になります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利と言えるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したとしたら、それが征服と言えるでしょうか。霊的進化というものは先へ進めば進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きながら後の者のために道標(みちしるべ)を残していく事だからです。そこに霊的進化の精髄があります。

【地上の人間が何かを成就しようとして努力する時、少なくとも同等の、あるいは多くの場合それ以上の援助の努力が霊界において為(な)されている事を強調して次のように述べる – 】

援助を求める真摯(しんし)な熱意が等閑(なおざり)にされる事は決してありません。衷心からの祈りによる霊的つながりが出来ると同時に、援助を受入れる扉を開いた事になります。その時に発生する背後での霊的事情の実際はとても言語では説明できません。元来地上の出来事を表現するように出来ている言語は、それとは本質的に異なる霊的な出来事を表現する事は不可能です。どう駆使してみたところで、高度な霊的実在を表現するにはお粗末なシンボル程度の機能しか果たせません。

いずれにせよ、その霊的実在を信じた時、あなたに霊的な備えができた事になります。すなわち一種の悟りを開きます。大勢の人が真の実在であり全ての根源であるところの霊性に全く気づかぬまま生きております。こうして生きているのは霊的存在だからこそである事、それが肉体を道具として生きているのだという事が理解できないのです。

人間には霊がある、あるいは魂があると信じている人でも、実在は肉体であって霊はその付属物であるかのように理解している人がいます。本当は霊が主体であり肉体が従属物なのです。つまり真のあなたは霊なのです。生命そのものであり、神性を有し、永遠なる存在なのです。

肉体は霊がその機能を行使できるように出来上がっております。その形体としての存在はほんの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。がその誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの内部の神性が目を覚ました事になります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出始めたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していく事になります。

そうなった時こそ地上生活本来の目的である霊と肉との調和的生活が始まるのです。霊性を一切行使する事なく生活している人間は、あたかも目、耳、あるいは口の不自由な人のように、霊的に障害のある人といえます。

霊性に気づいた人は真に目覚めた人です。神性が目を覚ましたのです。それは、その人が人生から皮相的なものではなく霊という実在と結びついた豊かさを摂取できる発達段階に到達した事の指標でもあります。霊の宝は地上のいかなる宝よりもはるかに偉大であり、はるかに美しく、はるかに光沢があります。物的なものが全て色褪せ、錆びつき、朽ち果てたあとも、いつまでも存在し続けます。

魂が目を覚ますと、その奥に秘められたその驚異的な威力を認識するようになります。それはこの宇宙で最も強力なエネルギーの1つなのです。その時から霊界の援助と指導とインスピレーションと知恵を授かる通路が開けます。これは単に地上で血縁関係にあった霊の接近を可能にさせるだけでなく、血縁関係はまるで無くても、それ以上に重要な霊的関係によって結ばれた霊との関係を緊密にします。その存在を認識しただけ一層深くあなたの生活に関わり合い、援助の手を差し延べます。

この霊的自覚が確立された時、あなたはこの世的手段をもってしては与える事も奪う事もできないもの – 磐石不動の自信と冷静さと堅忍不抜の心を所有する事になります。そうなった時のあなたは、この世に何一つ真にあなたを悩ませるものはないのだ – 自分は宇宙の全生命を創造した力と一体なのだ、という絶対的確信を抱くようになります。

人間の大半が何の益にもならぬものを求め、必要以上の財産を得ようと躍起になり、永遠不滅の実在、人類最大の財産を犠牲にしております。どうか何処(どこ)でもよろしい、種を蒔(ま)ける場所に1粒でも蒔いてください。冷やかな拒絶に会っても相手になさらぬ事です。議論をしてはいけません。伝道者ぶった態度に出てもいけません。無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づく所には時が来れば必ず根づきます。あなたを小ばかにして心ない言葉を浴びせた人たちも、やがてその必要性を痛感すれば向こうからあなたを訪ねてくる事でしょう。

私たちを互いに結びつける絆は神の絆(きずな)です。神は愛をもって全てを抱擁しています。これまで啓示された神の摂理に忠実に従って生きておれば、その神との愛の絆を断ち切るような出来事は宇宙のいずこにも決して起きません。

宇宙の大霊である神は決して私たちを見捨てません。従って私たちも神を見捨てるような事があってはなりません。宇宙間の全ての生命現象は定められたコースを忠実に辿(たど)っております。地球は地軸を中心に自転し、潮は定められた間隔で満ち引きし、恒星も惑星も定められた軌道の上を運行し、春夏秋冬も永遠の巡りを繰り返しています。種子は芽を出し、花を咲かせ、枯死し、そして再び新しい芽を出す事を繰り返しています。色とりどりの小鳥が楽しくさえずり、木々は風にたおやかに靡(なび)き、かくして全生命が法則に従って生命活動を営んでおります。

私たちはどうあがいたところで、その神の懐の外に出る事はできないのです。私たちもその一部を構成しているからです。どこに居ようと私たちは神の無限の愛に包まれ、神の御手に抱かれ、常に神の力の中に置かれている事を忘れぬようにしましょう。

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2章 なぜ生まれてきたのか

地上に生を享(う)ける時、地上で何を為(な)すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するには“こういう”環境で“こういう”身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がってこないだけの話です。

あなた方地上の人間にとっての問題点は、やむを得ない事かも知れませんが、人生というものを間違った視点から観ている事です。つまり、あまりにも“この世的”・物質的観点からのみ人生を考えている事です。人生には確かに地上的な要素がありますが、同時に霊的なものであり、“永遠に続くもの”なのです。その永遠なるものを地上的視野だけで眺めてはいけません。それでは十全な判断はできません。神の子には1人の例外もなく善悪ともに“埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮する事ができなくなります。

人生には目的があります。しかしその目的はそれに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の1人1人に分霊が宿っており、1人1人が無限の創造活動に参加できるのです。つまりあなた方には個的存在としての責任と同時に、ある限度内の自由意志が与えられているのです。自由意志と言っても、大自然の法則の働きを阻止する事ができるという意味ではありません。ある限られた範囲内での選択の権利が与えられているという事です。運命全体としての枠組みは出来ております。しかしその枠組みの中で、あなた方が計画した予定表(ブループリント)に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第という事です。

もしかしたら、そのブループリントさえ自覚できないかも知れません。でも魂は神性を宿すが故に常に活動を求め、自己表現を求めて波のようにうねります。時にはそれが悲嘆、苦悩、病苦という形をとり、無気力状態のあなたにカツを入れ、目を覚まさせる事になります。もし神があなたに創造活動へ参加させ、そうする事によって潜在的神性を開発させる事を望まないのであれば、あなたがこの世に生を享けた意味は無い事になりましょう。そこに“埋め合わせの原理”が働いている事を理解しなくてはいけません。つまり創造活動に貢献する仕事に携わりつつ潜在能力を開発していく生活の中で、あなたの人間的発達が促進されていくという仕組です。

つまり二重の仕組になっている訳です。進歩の誘発は内と外の両側から行われるのです。魂の奥には物質界のいかなるエネルギーよりも大きい威力が秘められています。宇宙の大霊の一部だからです。それが無ければ生命は存在しません。なぜなら生命は霊そのものだからです。物質はカゲに過ぎません。霊という実在の殻に過ぎません。この二重のエネルギーをどこまで活用できるかは、その魂の悟りの程度にかかっています。

霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊の無いところに生命はありません。物質は殻に過ぎません。霊という実在によって投影されたカゲに過ぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、勘案し、熟考する事が出来るのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最期、その身体は崩壊して元の土塊に戻ってしまいます。物質を崇拝する人間は間違った偶像を拝している事になります。そこに実在が無いからです。物質は一時的な存在に過ぎません。

霊は全ての存在物を形成する基本的素材であるが故に永続性があります。人間という形体によって表現されている生命力は、小鳥、動物、魚類、樹木、草花、果実、野菜等に表現されているものと同じ生命力なのです。いかなる形体にせよ、生命のあるところには必ず霊が働いております。

自覚の程度、意識の程度には様々な段階があります。霊の表現形態は無限だからです。無限なるものに制限を加える訳にはまいりません。その生命の背後の力をあなた方は“神”と呼び、私は“大霊”と呼びます。それは全ての霊の極致であり源泉であり頂上であるからです。いかなる形態を取ろうと、創造者たるその大霊の表現である事に変りありません。(※シルバーバーチはこの“大霊”Great Spirit の他に“白色大霊”Great White Spirit という呼び方をします。白色とは実は無色透明を意味しているのですが、やはり“神”God という言い方もよくしますので、本書では特殊な場合を除いてこの“神”に統一しました。 – 訳者)

残念ながら、人のために役立つ仕事はなかなか思うにまかせないものです。私が法則をこしらえたのではありません。宇宙の理法はこうなっているという事をお教えしているだけです。最大の貢献をなさんと心掛ける人は、困難や難問を避けようとしてはなりません。その困難、その難問こそが、そうした志を持つ人々の魂の奥底を掘り起こし、奉仕の仕事に役立つ道具としてぜひとも具(そな)えねばならない隠れた資質を活用させる事になるからです。

奉仕という名の硬貨(コイン)にもその価値を示す表示があるという事です。真に役立つ人間になるためには魂の最奥まで響く強烈な体験がなくてはなりません。魂が円熟の花を咲かせるためには奥深く耕されなければなりません。その事を思うと私は時として、その逆であってくれればいいのだが…と思う事があります。つまり自己犠牲の道を歩む人間がいうなれば“バラ色の人生”を歩む事ができればと思うのです。しかし、その美しいバラにもトゲがあります。

以上、霊についての真理を幾つか紹介しましたが、私がそれを変更する訳にはまいりません。できもしない事をあたかもできるかのように言う訳にはいきません。できないものはできないのです。無限なる霊である神の働きは完璧です。完璧なる公正のもとに働きます。完璧というものは、未完成の地上の人間だけでなく私どもの世界の多くの界層の霊にとっても理解できるものではありません。物事には必ず埋合せがあり、応報があります。その計量は完璧な天秤(てんびん)によって行われます。犠牲的生活によって魂が“損”をする事はありません。また利己的生活によっていささかも“得”をする事はありません。魂の進化の程度と悟りの指標はどれだけ“ゲッセマネの園(※)”に生き、どれだけ“変容の丘(※※)”に達するかにあります。そこに神の真の愛の働きがあります。(※キリストが最大の苦難と裏切りに遭った場所 – 苦難の象徴。※※キリストがこの世のものとも思えぬ輝ける姿に変容した丘 – 苦難克服の象徴。 – 訳者)

人のために己れを棄てる仕事にもいろいろあります。あるものは人目につく派手なものであり、あるものは人目につかない静かな聖域で行われます。いずれにせよ大切なのは人のために役立つ事です。霊的真理の悟りを1人でも多くの受入れる用意のできた人に施す事です。不安と恐怖に満ち、数知れぬ人々が明日はどうなるかと案じつつ生きているこの世においては、人生とは何かについて、表面的な事ではなく、真実の相を教えてあげなくてはなりません。

大切なのは、人間が永遠なる魂であり、地上生活はその永遠の巡礼の旅路のほんの短い、しかし大事な一部なのだという事実を知る事です。その地上生活を無知の暗闇の中ではなく叡智の光の中で、肩をすぼめず背筋を真っ直ぐに伸ばして、恐れを抱かず堂々たる落着きをもって生きるべきです。

あなた方は一時の勝ち負けのために備えているのではありません。目先の結果、一時の勝利ではなく、永遠なる目的、無窮の闘いに携わっているのです。成就したものがいかなる結果をもたらすかを安易に推し量ってはいけません。今日世界各地で、難攻不落と思われた城壁が崩れ落ち、特権階級が揺さぶられ、独占支配は崩壊し、迷信が減り、無知が次第に押し寄せる霊的真理によって追い払われていきつつあります。

あなた方の懸念は無意味であり根拠がありません。しっかりとした手に守られております。これまでもずっと、それによって支えられてきました。もしそうでなかったら、とうの昔に地上を去っている事でしょう。霊的なものにとって“恐れる”という事が何よりも強烈な腐蝕作用を及ぼします。恐怖心と心配の念は、私たちが特に不断の警戒を要する敵です。何となれば、それが霊力が作用する通路を塞(ふさ)いでしまうからです。

光の中ばかりで暮しておれば光の有難さは分かりません。光明が有難く思われるのは暗闇の中で苦しめばこそです。こちらの世界で幸せが味わえる資格を身につけるためには、そちらの世界での苦労を十分に体験しなければなりません。果たすべき義務を中途で投げ出してこちらへ来た者は、こちらで用意している喜びを味わう事はできません。少なくとも“永続的な幸せ”は得られません。

人生の目的は至って単純です。霊の世界から物質の世界へ来て、再び霊の世界に戻った時にあなたを待受けている仕事と楽しみを享受する資格を身につけるために、様々な体験を積むという事です。そのための道具としての身体をこの地上で授けてもらうという訳です。この地上があなたにとって死後の生活に備える絶好の教訓を与えてくれる場所なのです。その教訓を学ばずに終れば、地上生活は無駄になり、次の段階へ進む資格が得られない事になります。この事は地上だけでなく私どもの霊の世界でも同じ事です。

毛を刈取られたばかりの羊は冷たい風に当らないようにしてやるものです。神の帳簿は一銭の間違いもなく収支が相償うようになっております。つまり人間の行為の1つひとつについて、その賞と罰とが正確に与えられます。これを別の言い方をすれば、原因があれば必ずそれ相当の結果があるという事です。いかなる苦難にもそれ相当の償いがあり、体験を積めばそれ相当の教訓が身につきます。片方無くして他方は有り得ません。体験もせずにどうして教訓が得られましょう。そして教訓を学んだ時から、その教訓を生かす義務が生じます。何も知らずに犯した罪よりも、悪いと知りつつ犯した罪の方が重いに決まっています。

あなた方は内部に完全性を秘めそれを発揮せんとしている未完の存在です。地上生活においては物質と霊との間がしっくりいかず常に葛藤が続いている以上、あなた方は当然の事ながら罪を犯す事になります。私はこれを“過ち”と呼ぶ方を好みます。もし過ちを犯さなくなったら、地上にも私どもの世界にも誰1人存在しなくなります。あなた方が地上という世界に来たのは、霊的な力と物質的な力との作用と反作用の中においてこそ内部の神性が発揮されていくからです。

光を有難いと思うのは蔭と暗闇を体験すればこそです。晴天を有難いと思うのは嵐を体験すればこそです。物事の成就を誇りに思えるのは困難があればこそです。平和が有難く思えるのは闘争があればこそです。このように人生は対照の中において悟っていくものです。もし辿(たど)る道が単調であれば開発は無いでしょう。様々な環境の衝突の中にこそ内部の霊性が形成され成熟していくのです。

時として人生が不公平に思える事があります。ある人は苦労も苦痛も心配もない人生を送り、ある人は光を求めながら生涯を暗闇の中で生きているように思える事があります。しかしその観方は事実の反面しか見ておりません。まだまだ未知の要素がある事に気づいておりません。私はあなた方に較べれば遥かに長い年月を生き、宇宙の摂理の働き具合を遥かに多く見てきましたが、私はその摂理に絶対的敬意を表します。なぜなら神の摂理がその通りに働かなかった例を1つとして知らないからです。こちらへ来た人間が“自分は両方の世界を体験したが私は不公平な扱いを受けている”などと言えるような不当な扱いを受けている例を私は1つも知りません。神は絶対に誤りを犯しません。もし誤りを犯す事があったら宇宙は明日という日も覚束(おぼつか)ない事になります。あなた方が誕生するはるか以前から地球は存在し、あなた方が去った後も延々と存在し続けます。何億年の昔、まだ地上に何1つ生物の存在しなかった時から太陽は地球を照らし続け、人間が誰1人居ない時からエネルギーをふんだんに放射し続け、そのおかげで石炭その他の太陽エネルギーの貯蔵物を燃料とする事ができているのです。何と悠長な教訓でしょう。

せっかちと短気はいけません。せっかくの目的を台無しにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には1つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も自ら定めた摂理の枠から外(はず)れて働く事はできないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためにはそれまでの経験を活用しなくてはいけません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信を持つ事です。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。

故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にある限り万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信を持たなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し必ず道は開けるのだという自信を持つ事です。不動の信念をもてば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきた事です。真実だからです。実践してみればその通りである事を知ります。物質は霊の僕(しもべ)です。霊は物質の僕ではないのです。身体が1人で呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。

霊性を悟る事は容易な事ではありません。もし容易であれば価値はありません。その道に近道はありません。王道はないのです。各自が自分で努力し自分で苦労しなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。

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3章 なぜ苦しみがあるのか

この交霊会に出席される方々が、もし私の説く真理を聞く事によって楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いた事になります。私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そしていっそう力強い人間となってくださる事が私どもの真の目的なのです。

霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それはいったん身につけたらお金を落とすような具合になくしてしまう事は絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努める事です。耐え切れないほどの苦難を背負わされるような事は絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むという事が旅する魂の本来の姿なのです。

それはもちろん楽な事ではありません。しかし魂の宝はそうやすやすと手に入るものではありません。もしも楽に手に入るものであれば、何も苦労する必要などないでしょう。痛みと苦しみの最中(さなか)にある時は中々その得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとっていちばんの薬なのです。

私どもは、いくらあなた方の事を思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿をあえて手を拱(こまね)いて傍観する他ない場合がよくあります。そこから教訓を学び取り霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。知識には必ず責任が伴うものです。その責任を取ってもらう訳です。霊はいったん視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむ事はないはずです。燦々(さんさん)と太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身に沁みません。魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲垂れ込める暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。

地上の人生は所詮は1つの長い闘いであり試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもよいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と欠点が秘められております。すなわち動物的進化の段階の名残である下等な欲望や感情もあれば、あなた方の個的存在の源泉である神的属性も秘められております。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身を晒すためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには、ぜひとも厳しい試練が必要なのです。

運命の十字路にさしかかるごとに右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に敢然と立ち向かうか、それとも回避するかの選択を迫られる訳ですが、その判断はあなたの自由意志に任されています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点において取り巻かれている環境による制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されております。そのチャンスを前にして積極姿勢を取るか消極姿勢を取るか、滅私の態度に出るか自己中心の態度に出るかは、あなた自身の判断によって決まるという事です。

地上生活はその選択の連続と言ってもよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時にまた、寿命尽きて霊界へ来た時に待ち受けている生活、新しい仕事に対する準備が十分に出来ているか否か、能力的に十分か不十分か、霊的に成熟しているか否か、といった事もそれによって決まります。単純なようで実に複雑なのです。

その事に関連して忘れてはならないのは、持てる能力や才能が多ければ多いほど、それだけ責任も大きくなるという事です。地上へ再生するに際して各自は、地上で使用する才能についてあらかじめ認識しております。才能がありながらそれを使用しない者は、才能の無い人より大きい責任を取らされます。当然の事でしょう。

悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味を持つものです。悲しみはそれが魂の琴線に触れた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値のないものという事になります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

繰り返し述べてきた事ですが、真理は魂がそれを悟る準備ができた時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢ができるまでは決して真理に目覚める事はありません。こちらからいくら援助の手を差しのべても、それを受入れる準備の出来ていない者は救われません。霊的知識を理解する時機(とき)を決するのは魂の発達程度です。魂の進化の程度が決するのです。肉体に包まれているあなた方人間が物質的見地から宇宙を眺め、日常の出来事を物的モノサシで測り、考え、評価するのは無理もない事ですが、それは長い物語の中のほんの些細なエピソード(小話)にすぎません。

魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂がその秘められた力を発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。失意のドン底にある時は、もう全てが終わったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。あなた方にはまだまだ発揮されていない力 – それまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝む事ができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。他にあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。

人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改める事によって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくという事は、それこそ真の意味でのご利益と言わねばなりません。何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何1つ思い患う事のない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の武器庫の扉を開き、神の武器を持ち出す事、それが悟りを開くという事です。

困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中(さなか)にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこの上ない肥やしであった事を知って神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。これは酷(きび)しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。

神は一瞬たりとも休む事なく働き、全存在の隅々まで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日も神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなた方自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見る限り世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しか見えないでしょう。当然かも知れません。しかしそれは極めて偏った、誤った判断です。

地上では必ずしも正義が勝つとは限りません。なぜなら因果律は必ずしも地上生活中に成就されるとは限らないからです。ですが地上生活を超えた長い目で見れば、因果律は一分(ぶ)の狂いもなく働き、天秤は必ず平衡を取り戻します。霊的に見て、あなたにとって何が一番望ましいかは、あなた自身には分かりません。もしかしたら、あなたにとって一番イヤな事が実は、あなたの祈りに対する最適の回答である事も有り得るのです。

ですから、なかなか難しい事ではありますが、物事は物的尺度ではなく霊的尺度で判断するように努める事です。というのは、あなた方にとって悲劇と思える事が、私どもから見れば幸運と思える事があり、あなた方にとって幸福と思える事が、私どもから見れば不幸だと思える事もあるのです。祈りにはそれなりの回答が与えられます。しかしそれは必ずしもあなたが望んでいるとおりの形ではなく、その時のあなたの霊的成長にとって一番望ましい形で与えられます。神は決して我が子を見捨てるような事は致しません。しかし神が施される事を地上的なモノサシで批判する事はやめなくてはいけません。

絶対に誤る事のない霊的真理が幾つかありますが、その中から2つだけ紹介してみましょう。1つは、動機が純粋であれば、どんな事をしても決して被害を被る事はないという事。もう1つは、人のためという熱意に燃える者には必ずそのチャンスが与えられるという事。この2つです。焦ってはいけません。何事も気長に構える事です。何しろこの地上に意識をもった生命が誕生するのに何百万年もの歳月を要したのです。さらに人間という形態が今日の如き組織体を具(そな)えるに至るのに何百万年もかかりました。その中からあなた方のように霊的真理を理解する人が出るのにどれほどの年数がかかった事でしょう。その力、宇宙を動かすその無窮の力に身を任せましょう。誤る事のないその力を信じる事です。

解決しなければならない問題もなく、挑むべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」 – こうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私はただただ宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりです。1つとして偶然というものが無いのです。偶発事故というものが無いのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかも一目瞭然と分るようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。

あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身を委(ゆだ)ねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って神の御胸に飛び込むのです。神の心を我が心とするのです。心の奥を平静に、そして穏やかに保ち、しかも自信を持って生きる事です。そうすれば自然に神の心があなたを通して発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば、何事もきっと成就します。聞く耳を持つ者のみが神の御声を聞く事ができるのです。愛が全ての根源です。愛 – 人間的愛 – はそのほんのささやかな表現にすぎませんが、愛こそ神の摂理の遂行者です。

霊的真理を知った者は一片の恐怖心も無く毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にも必ずや神の御加護がある事を一片の疑いもなく信じる事ができなければいけません。苦難にも悲しみにも挫(くじ)けてはなりません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも勝るからです。

恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心を蝕(むしば)みます。恐怖心は理性を挫き、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼び起こします。

つとめて恐れの念を打ち消す事です。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信に溢れ、決して取り乱す事があってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。絶対的な叡智であり、絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力が控えているのです。

“はがね”は火によってこそ鍛えられます。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証です。夜明け前に暗黒があるように、魂が輝くには暗闇の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善を尽くし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置く事です。

霊的知識を手にした者は挫折も失敗も神の計画の一部である事を悟らなくてはいけません。陰と陽、作用と反作用は正反対であると同時に一体不離のもの、いわば硬貨の表と裏のようなものです。表裏一体なのですから、片方は欲しいがもう一方は要らない、という訳にはいかないのです。人間の進化のために、そうした表と裏の体験、つまり成功と挫折の双方を体験するように仕組まれた法則があるのです。神性の開発を促すために仕組まれた複雑で入り組んだ法則の一部、いわばワンセット(一組)なのです。そうした法則の全てに通暁する事は人間には不可能です。どうしても知り得ない事は信仰によって補うほかありません。盲目的な軽信ではなく、知識を土台とした信仰です。

知識こそ不動の基盤であり、不変の土台です。宇宙の根源である霊についての永遠の真理は、当然その霊の力に対する不動の信念を産み出さなくてはいけません。そういう義務があるのです。それも1つの法則です。恐怖心、信念の欠如、懐疑の念は、せっかくの霊的雰囲気をかき乱します。私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において初めて人間と接触できるのです。恐れ、疑惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざしてしまいます。

太陽が燦々と輝き、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は、辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスです。然るべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広がりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。

霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解した事にはなりません。実生活の場で真剣に体験して、初めてそれを理解するための魂の準備が出来上がります。どうもその点がよく分って頂けないようです。種を蒔(ま)きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりますまい。養分がそろっていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやく種が芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。

人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまくいき、鼻歌まじりの呑気な暮しの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験して初めて霊的知識を理解する素地が出来上がります。そしていったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮し始める事になるのです。そして一旦身につけたら、もう二度と失う事はありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり、真理なり美、なりを引き出せるようになります。魂が進化しただけ、その分だけ自由意志が与えられます。

霊的進化の階段を1段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使する事を許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超える事はできません。そこがあなたの限界と言えます。が同時にあなたは神の一部である事を忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害もきっと克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質に勝ります。霊は何ものにも勝ります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。

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4章 “物”に惑わされない生き方

その日その日の煩(わずら)わしい雑事に追いまくられ心配事や悩み事を抱えた生活を送っていると、時としてあなた方は、何故こんな目に遭わなければならないのかと思ったり、また、これもよくある事ですが、気持の通じ合った仲だと思っていた人から冷たい態度に出られたりして、理想を求める旅路で初めて光を見た時の感激をつい忘れてしまいがちです。

その感激的体験の純粋無垢の美しさは時の経過とともにある程度その輝きを失いがちなものであり、体験当初のあの喜悦を今一度味わう事は必ずしも可能ではありません。しかし、今私たちが携わっている仕事は、それぞれの持ち場において測り知れない重大性をもっております。肉体という物質の牢(ろう)に閉じ込められ意識を制限された状態で物的生活を送っているあなた方には、霊と心と身体の関係について明確な理解をもつ事は不可能です。気苦労の絶え間がありません。身体の要求を満たしてやらなくてはなりません。金銭の問題にも関わらなくてはなりません。そうした息つく暇もない生活の中であなた方はつい意識の焦点をはずし、支援しようとして待機している背後霊の存在を忘れがちです。

この交霊会での私の嬉しい役目の1つは、そうした状況下に置かれているあなた方が、初期の聖なる目的に向けて導かんとする愛の力によって、意識するしないにお構いなく見守られているという事を思い出させてあげる事です。その愛の光の証をお見せしたり、あなた方を取り巻いているところの霊の世界の美しさを披露する事は、たとえ要求されてもなかなか叶えられるものではありません。しかし事実、間違いなく存在するのです。

霧が視野をさえぎる事があるかも知れません。しかし、所詮は霧です。私どもの世界から光を射し込む事ができるし、現にこうして射し込んでおります。これまで何年もの準備期を経て、こうしてあなた方を奉仕の仕事に導いてきたように、これからもその光と力とがあなた方が道を迷わぬよう導き続ける事でしょう。そして万一迷ってもすぐ元の道に立ち戻らせ、神への道を歩み続けさせるよう配慮する事でしょう。

あなた方は本当の意味で祝福を受けられた方たちです。なぜならば、あなた方は地上のいかなる富も影が薄くなるほど高価な霊的知識の所有者だからです。こう申し上げるのは、あなた方もぜひ私どもと同じ視野から人生を理解して頂きたいからです。私どもは地上生活を物的視野でなく、価値観も異なれば判断の基準も異なる霊的世界から眺めております。その視野からの判断の方が遥かに真実に近いと信じています。

人間は物質の中に埋れた生活をしているためにバイブレーションが低くなっております。朝、目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちからあれやこれやと煩わしい事や心配事の波にのみ込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取越苦労に過ぎぬもの等々いろいろあります。が、いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと背後で霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素を閉め出してしまい、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

これは真理普及の仕事に携わる人にも“よくある話”なのです。奉仕の情熱、落胆、試練、そして悟り、このパターンの繰返しです。これは魂が自我に目覚め、内在する神性を開発せんとして必死にあがく一種のシーソーゲームのようなものです。神の使徒の1人ひとりが、先覚者の1人ひとりが、予言者の1人ひとりが、その他霊感鋭き男女の1人ひとりが辿(たど)った道なのです。悟りの道にも満ち潮と引き潮にも似た盛衰があるという事です。しかし大勢の方に申上げてきた事ですが、1人ひとりの人生にはあらかじめ定められた型(パターン)があります。静かに振り返ってみれば何者かによって1つの道に導かれている事を知るはずです。

あなた方には分らなくても、ちゃんと神の計画が出来ているのです。定められた仕事を成就すべく、そのパターンが絶え間なく進行しています。人生の真っ只中で時としてあなた方は、一体なぜこうなるのかとか、いつになったらとか、どういう具合にとか、何がどうなるのかといった疑問を抱くことがある事でしょう。無理もない事です。しかし私には、全てはちゃんとした計画があっての事です、としか言いようがありません。天体の一分一厘の狂いのない運行を見れば分るように、宇宙には偶然の巡り会わせとか偶然の一致とか、ひょんな出来事といったものは決して起きません。

全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです。その人生で遭遇する困難、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせる上での意味をもっているのです。価値ある賞ほど手に入れるのが困難なのです。容易にもらえるものはもらう価値はない事になります。簡単に達成したものほど忘れやすいものです。内部の神性の開発は達成困難なものの中でも最も困難なものです。

人生は全て比較対照の中で展開しております。光も闇もともに神を理解する上での大切な要素です。もし光と闇とが存在しなければ、光は光でなくなり闇は闇でなくなります。つまり光があるから闇があり、闇があるから光があるのです。同じく昼と夜がなければ昼は昼でなくなり夜は夜でなくなります。愛と憎しみがなければ愛は愛でなくなり憎しみが憎しみでなくなります。その違いが分かるのは相対的だからです。しかし実は両者は1本の棒の両端にすぎないのです。元は1つなのです。しかしその1つを理解するには両端を見なければならないのです。それが人生です。光と闇の両方がなければなりません。温かさと寒さの両方がなければなりません。喜びと悲しみの両方がなければなりません。自我を悟るにはこうしたさまざまな経験が必要です。

“完全”は絶対に成就できません。なぜならそれには“永遠”の時が必要だからです。私は謎めいた事を言っているのではありません。要するに完成へ向けての絶え間ない過程において、1歩前進すればそのまた1歩先が見えてくるという事です。知識と同じで、知れば知るほど知らなければならないことがある事を自覚するものです。知識にはこれでおしまいというものはありません。叡智にも真理にも理解にも霊的悟りにも、おしまいというものはありません。なぜなら、それらは全て無限なる神の一部だからです。

地上生活に何1つ怖いものはありません。取越苦労は大敵です。生命力を枯渇させ霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れる事を知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。それは無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きる事です。取越苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇がある事を示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れる事を知りません。

あなた方の“呼吸する”というなんでもない動作1つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根源的生命力と同じものです。その力はかつて1度たりとも働きを狂わせた事はありません。海の干満が止まった事が1度でもあったでしょうか。地球が回転を止めた事があったでしょうか。自然法則が機能しなかった事があったでしょうか。

物質界は生活の1側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識のうちに物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬという事は物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現しはじめるという事に過ぎません。

あなた方が直面する悩み事は私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないという事です。正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ物的要素に対して最小限度の考慮を払い決して偏る事はないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働きあなたを支配し生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲(みなぎ)り、ついに物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達する事でしょう。

永遠なるものを日常の出来事を基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取り巻く環境によって判断を下しがちです。そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。今と昔を較べるために過去のページを繙(ひもと)いてご覧なさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれる事なく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てない事をご存知のはずです。人間が神に背を向ける事はあっても、神は決して人間に背を向ける事はありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。

霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場を垣間見た事になります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任な事ができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎(おろそ)かにせず、また物的な事に心を奪われたり偏ったりする事もありません。安全も援助も全て“霊”の中に見出す事ができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。

この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ日常生活の1つひとつに正しい認識をもつ事ができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるという事です。霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤がある事を忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識はわが身を守る鎧(よろい)です。不安は魂を蝕(むしば)み錆(さび)つかせます。

もし神が私に何か1つあなた方へプレゼントする事を許されたとしたら、私が何よりも差し上げたいと思うのは“霊的視力”です。この薄暗い地上に生きておられるあなた方を私は心からお気の毒に思うのです。あなた方は身のまわりの見えざる世界の輝きがどれほど素晴らしいかをご存じない。宇宙の美しさがご覧になれない。物質という霧が全てを遮断しています。それはちょうど厚い雲によって太陽の光が遮られているようなものです。その輝きを一目ご覧になったら、この世に悩みに思うものは何1つない事を自覚されるはずです。

私たちは法則と条件による支配を受けます。その時々の条件に従って能力の範囲内の事をするほかはありません。が、目に見えようと見えまいと、耳に聞こえようと聞こえまいと、手に触れられようと触れられまいと、あなた方を導き、援助し、支えんとする力が常に存在します。人のために役立とうと心掛ける人に私はいつも申上げてきた事ですが、見通しがどんなに暗くても、いつかは必ず道は開けるものです。霊の力は生命の力そのものだからです。生命は霊なしには存在しません。生命 – の本質、活力、潜在力、こうしたものは全て“霊”であるからこそ存在するのであり、程度の差こそあれ、本質において全存在の創造主と同じものなのです。

これは全てが夢幻(ゆめまぼろ)しに過ぎない物質界に生きているあなた方にとっては理解の困難な事です。しかしだからこそ実在が見えざる世界にある事、おぼろげに見ている世界を実在と錯覚しないようにと警告する事が私の任務である訳です。曇りのない視覚をもって実在が認識できるようになるのは、物質界から撤退して内的世界つまり霊界へ来た時です。私は地上の思想上の名称にはこだわりません。団体や組織にも頓着いたしません。霊力の顕現の道具であってくれればよいのです。受入れてくれる備えのある人であればどんな人でも導き、教え、私なりの体験から得た叡智を僅(わず)かでもお授けするのが私の仕事なのです。もう1つの側面として、こうして同志の協力のもとにその霊的真理をより分りやすい形で披露し、それによって1人でも多くの人が調和のとれた地上生活を送る事ができるようにしてあげる事です。

私にとって大事なのは“道具”です。霊が地上に働きかけるには人間という道具が必要です。そこで、確実に霊波を受止めてくれる霊能者を1人でも多く見出さねばならないというのが、いつもながら私どもにとって難題である訳です。霊力は無限です。然るに霊能者の数は限りがあります。霊力は無尽蔵ですから、霊媒はいくらいても多すぎる事はありません。しかし“師は弟子に応じて法を説く”と言われるように、霊力も霊媒の受容力に応じたものしか授けられません。能力以上のものは受けられないのです。

進化の法則は民族全体、国民全体、人類全体の単位で働いているように、個人単位でも働いております。となると当然あなたは、満ちては引き、引いては満ちながら進化していく霊力の流れによる様々な影響を受ける訳ですが、問題はその霊力の流れそのものと、霊力が顕現される“場” – 民族、国家等の組織の集合体をはじめ、その働きの場である建物とを混同しない事です。人間はとかく自分の関わった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても“独占”されるものではありません。人間側から勝手に“操る”事もできません。個人としてあなた方にできる事は、その霊力の流れる1個の場としてできるだけ純粋であるよう心掛け、できるだけ多くの霊力が顕現されるようにする – つまり人のために役立つようになる事です。

ついでに申せば、現代の地上には無数の“通路”を通してかつてなかったほどの霊力が注がれております。その通路は霊媒に限りません。それとは気づかぬままに通路となっている人も大勢います。また同じ霊力が他の分野においても活用されております。

神の計画が変る事はありません。あなた方が自らを変えてその計画に合わせなくてはなりません。神の霊力の流れに調和し、日々の生活をその流れに乗って送ればあなた方の地上での存在意義が完(まっと)うされます。霊力は地上的基準に従って働くのではありません。人間の勝手な打算的欲望で働きを早めたり自分の方へ引寄せたりはできません。“風は思いのままに吹く。いずこより来りいずこへ行くか汝らは知らず”(ヨハネ・3 – 8)

星は寸分の狂いもなくその軌道上を回り、潮は間違いなく満ち引きを繰返し、四季は1つ1つ巡りては去り、それぞれに荘厳にして途方もなく雄大かつ崇高なる宇宙の機構の中での役割を果たしております。今あなたがそれを変えようとしても変えられるものではありません。が、その大自然の営みの原動力である霊力と同じものを自分を通して働かせ、そうする事であなた自身もその営みに参加する事ができるのです。神からの遺産を受継いだ霊的存在として、あなたも神の一部なのです。神はあなた方1人ひとりであると同時にあなた方1人ひとりが神なのです。ただ規模が小さく、胚芽的存在にすぎず、言ってみれば神のミニチュアです。あなた方は神の縮図であり、その拡大が神という訳です。霊性の高揚と成長と進化を通じて無限の神性を少しずつ発揮していく事によって、1歩1歩、無限なる神に近づいていくのです。

徐々にではありますが光が闇を照らすように知識が無知の闇を明るく照らして生きます。生長、変化、進化、進歩、開発、発展 – これが宇宙の大原理です。一口に進化と言ってもそこには必ず潮の干満にも似た動きがある事を知って下さい。循環(サークル)運動、周期(サイクル)運動、螺旋(スパイラル)運動 – こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなた方も、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望します。それは人生全体を織りなすタテ糸とヨコ糸である訳です。

もし現在の自分に満足しはじめたら、それは退歩しはじめた事を意味します。今の自分に飽き足らず常に新しい視野を求めている時、その時こそ進歩しているのです。あなた方の世界には“自然は真空を嫌う”という言葉があります。じっとしている時がないのです。前進するか、さもなくば後退するかです。

霊は全生命の創造力であるからこそじっとしている事ができず、どこかに新しい捌(は)け口を求め、従って満足する事がないのです。何も霊媒現象を通して働くばかりが霊力ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現する事ができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々に何か役立つ仕事に携わる事です。看板は何でも構いません。関わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

神は絶対にごまかされません。法則は法則です。原因はそれ相当の結果を生み、自分が蒔(ま)いた種子は自分で刈取ります。そこに奇跡の入る余地もなければ罰の免除もありません。摂理は一分一厘の狂いもなく働きます。不変・不易であり、数学的正確さをもって作用し、人間的制度にはお構いなしです。地上生活では勝者がいれば敗者がいる訳ですが、霊性に目覚めた人間はそのいずれによっても惑わされてはなりません。やがてはその人間的尺度があなたの視野から消える時が来ます。その時は永遠の尺度で判断する事ができるようになるでしょう。

と言って私は、あなた方の悩みや苦労を見くびるつもりは毛頭ありません。それは私にも痛いほどよく分ります。ただ、もし私が現在のあなた方に評価できない永遠の価値を指摘せずにおけば、それは私が神界から授けられた義務を怠る事になります。永い歴史を振り返れば、あまりの悲劇に指導者も“世も末だ”と嘆いた時代が幾度かありました。万事休すと観念し、暗黒にのみ込まれ、全ての真理が埋れてしまうと思い込んだものでした。しかし宇宙はこうして厳然として存在し続け、これからもずっと存在し続ける事でしょう。

私にできる事は、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説く事です。それを受入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易な事ではありません。しかし、もし容易であったらそれだけの価値はない事になりましょう。霊的探求に容易なものは何1つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲りくねった道です。己を棄てる事 – これが進化の法則です。

もし霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは永遠の叡智を嘲笑(あざわら)う事になります。これは絶対的摂理として受入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善のみに宿ると述べた事はないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来事の一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。私はいつも宇宙は全て両極性によって成立っていると申しております。

暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生む力は同じものなのです。その根源的な力がどちらへ発揮されるかは神の関わる問題ではなく、あなた方の自由意志に関わる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるという事です。

地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているという事です。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発する事が個人の責務という事です。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由という事です。ただし忘れてならないのは、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないという事です。神の力とエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つ事を怠ってはなりません。

私たちは相互援助と相互扶助の縁によって結ばれ、お互いに役立つものを施し合っております。ここまで目を開かせて頂いた事を神に感謝しましょう。これを土台として、私たちを創造し育(はぐく)み続けて下さる御力の存在を信じましょう。その御力が自分より恵まれぬ人々に施されるための通路となるよう心掛けましょう。私たちは神の御前にいるのだという自覚を常に忘れず、手を差しのべさえすれば必要なものが能力に見合っただけ施される事を忘れないように致しましょう。それは無限の可能性を秘めた無限なる霊の無限なるエネルギーなのです。

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5章 霊的交信の難しさ

霊界の通信者の伝えたい事が100パーセント伝わる事は滅多にありません。ある事はあるのですが、よほどの例外に属します。あなた方が電話で話を交すような平面上の交信とは違うのです。その電話でさえ聞き取りにくい事があります。混線したり故障したりして全く通じなくなる事もあります。地上という平面上の場合でもそうしたトラブルが生じるのですから、全く次元の異なる2つの世界の間の交信がいかに困難なものであるかは容易に理解して頂けると思います。

霊媒に乗り移った霊は意識に浮かんだ映像、思想、アイデアを音声に変えなくてはなりません。それは完全入神の場合でも100パーセントうまくいくとは限りません。霊媒も人間です。その霊媒のオーラと霊のオーラとがどこまで融合するか – 完全か、部分的か、それとも全く融合しないか – によって支配の度合いが決ります。支配霊は霊媒の潜在意識を占領し、そうする事によって潜在意識につながった肉体機能を支配します。その状態の中で通信霊から送られるイメージ、思想、絵画、あるいはアイデアを言葉に変えて伝える訳ですが、霊媒も人間ですから疲れている事もあるでしょうし、気分の悪い時、機嫌の悪い時、空腹または満腹の度が過ぎる時、アルコールの飲み過ぎ、たばこの吸い過ぎ等々、それはもういろいろとあるものです。そうした事の1つひとつが支配霊と霊媒の融合の度合いに影響を及ぼします。

これとは別に、霊媒の精神をしつこく支配している潜在的観念があって、それが強く表現を求めている事があります。そんな時はとりあえずその観念を吐き出させておとなしくさせるしかない事がよくあります。時として支配霊が霊媒の潜在的観念を述べているにすぎない事があるのはそのためです。ひどい時は支配霊の方がその観念の洪水に押し流されて我れを失う事さえあります。霧の深い日はいけません。温度の高すぎるのもいけません。冷んやりとして身の引締まるような雰囲気がいちばんよろしい。

とにかく容易な事ではないのです。ですから地上世界へ戻って来るには大変な努力が要ります。あえてその大変な努力をしようとする霊があなた方に対する愛念を抱く者に限られるというのも、そこに理由があるのです。愛念こそが自然に、そして気持よく結ばれている地上の縁者を慰め、導き、手助けしようと思わせる駆動力なのです。地上を去り、全く次元の異なる世界へ行っても地上に残した者に対する愛念がある限りは、いかなる障壁をも突き破り、あらゆる障害を克服して愛する者との繋がりを求めます。私どもの世界からの地上への働きかけの原動力の1つにそれがあるのです。

ですから、あまり無理な事を要求しないで頂きたいのです。霊媒を責めないで頂きたいのです。また必ずしも支配霊に責任があるとも限らない事を知って欲しいのです。私どもは許される限りの手段を尽しています。今こうして私が行っている入神談話も、一種の変圧器にも似たものを使用した波長の下降操作を要します。そのために私の本来の個性が大幅に制限されます。その辺のところはお分りでしょう。これをもっと物的要素の濃い現象にしようとすると、さらに波長を下げなくてはなりません。物質化して出る時などは本来の霊妙で迅速でデリケートな波長から一気に地上の鈍重で鈍速で重苦しい波長へと戻さなくてはなりません。これも一種の犠牲、完全な個性の犠牲を強いられる仕事です。

その他にも霊媒の精神ないし霊的体質によるエクトプラズムの微妙な個体変差があります。エクトプラズム(※)は決して一様のものではありません。一番元になるものが霊媒から抽出されるからです。霊媒の体質が粗野であればエクトプラズムも精神的、霊的に程度が低く精妙度が劣ります。神的に霊的に垢抜(あかぬ)けした霊媒であれば、その性質がエクトプラズムにも反映します。(※元になるものをエクトプラズミック・フォースと言い、これに霊界の技術者が特殊な成分を混ぜ合わせてエクトプラズムをこしらえる。 – 訳者)

こちらの世界の霊が地上と交信したいと思えば誰にでも叶えられるかといえば、必ずしもそうではありません。折角そのチャンスを与えられても、思う事の全てが伝えられるとも限りません。その霊次第です。しっかりとして積極性のある霊は全ての障害を克服するでしょう。が、引っ込み思案で積極性に欠ける霊は得てしてそれに必要なだけの努力をしたがらないものです。

霊の世界では言語は使用しません。従って思念なり映像なりシンボルなりを霊媒に憑(のりうつ)っている霊を通じて、あるいは直接霊媒へ伝える操作がまた大変です。これを霊視力を使ってやるとなると実に入り組んだ操作となります。私がこうして楽にしゃべっているからといって、それが楽に出来ると思ってはいけません。こうしてしゃべっている間、私は霊媒との連携を保つために数え切れないほどの“糸”を操っているのです。そのうちの一本がいつ切れるとも限りません。切れたが最期、そこで私の支配力はおしまいです。

このように霊界と地上との交信を理解して頂く上で説明しなくてはならない事がたくさんあります。簡単にできる事のようにだけは決して想像しないでください。必要条件が全部揃えば簡単にできる事は、一応理屈では言えます。しかし実際にはそこにいろいろと邪魔が入るのです。その邪魔のためにうまくいかなくて、それを私どものせいにされてしまいます。実にデリケートでいわく言い難い条件をうまく運用する必要があります。ベテランの霊媒でも同じです。しくじらせる要素がいくらでもあるのです。

これで私が毎度行っている波長の転換操作つまり波長を下げる作業によって、美しさと光彩と輝きが随分失われる事がお分かりでしょう。しかし交信が霊と霊、心と心、魂と魂の直接的なものであれば、つまりインスピレーション式のものであれば、そういった複雑な裏面操作抜きの、霊界からの印象の受信という単純直截なものとなります。その成功不成功は背後霊との合体の確信に基づく静寂と受容性と自信に掛っていますから、不安の念に動かされるほど結果は良くないという事になります。いったん精神的動揺を来すと、その不安の念の本質的性格のために霊的通信網が塞(ふさ)がれてしまいます。

人間の心に浮かぶ思念が全て霊界からのものであるとは申しません。それは明らかに言いすぎでしょう。しかしその多くが、背後霊が何とかして精神と霊とを豊かにしてあげようとする努力の反映であって、少なくとも単なる心象として見過ごしてはいけない事だけは真実です。

その思念の伝達が地上における平面上の横のつながり、つまり同じ意識の次元での交信でない事を忘れてはいけません。霊的なものを物的なものへと、2つの全く異なる意識の次元での表現操作を要するのです。その上から下への次元の転換の際にいろいろと混乱が生じます。混乱なく運ぶようになる時代はまだまだ先の事です。こちらの世界では精神的レベル、物的レベル、治病レベル等々、ありとあらゆる交霊関係での実験と研究がなされております。より良い成果を挙げるための努力が常になされているのです。

何年か後に振り返ると結構進歩しているのに気づかれるのはそのためです。今こうして行っているようなサークル活動の裏側にはそうした目的も目論(もくろ)まれております。私たち霊があなた方の能力を開発しそれを大いに活用に供するためには、こうしたサークルによって活動の場を提供して頂く以外に方法がありません。その効果を高めるには第1に協調性が必要です。通信網が敷かれ、霊媒というチャンネルが開かれ、そこへ私たちが通信を送り届ける、という具合になる事が肝心です。かつては通信網もなければチャンネルが1つもないという時代がありました。

私が理解に苦しむのは、地上の人間はなぜ無知という名の暗闇を好み、真理という名の光を嫌うのかという事です。私たちはその真理の光を広げ、人に役立てるための手段となるべき人をいつも探し求めております。そういう人が1人でも増える事は、地上人類の進歩と工場へ向けて叡智と霊力を広げる手段が1つ増える事を意味します。これは重大な事です。私たちの携わる使命全体の背後には重大な目的が託されています。私はその使命達成を託された大勢の使者の1人に過ぎません。物的世界の背後の霊的世界において目論(もくろ)まれた遠大な計画の推進者の1人であり、霊的悟りを開く用意のできた者へ真理を送り届ける事を仕事としているのです。

ある時は魂を感動させ、ある時は眠りから覚まさせ、当然悟るべき真理を悟らせるのが私たちの仕事です。言ってみれば霊への贈物を届けてあげる事です。それが本来自分に具(そな)わる霊的威厳と崇高さを自覚させる事になります。その折角の贈物をもし拒絶すれば、その人は宇宙最大の霊的淵源からの最高の贈物を断った事になります。

私たちからお贈りできるものは霊的真理しかありません。がそれは人間を物的束縛から解き放してくれる貴重な真理です。それがなぜ恨みと不快と敵意と反撃と誤解に遭わねばならないのでしょうか。そこが私には分らないのです。いかにひいき目に見ても、敵対する人間の方が間違っております。判断力が歪められ、伝来の教えの他にも真理がある事に得心がいかないのです。どうやらそういう人々は、神がもし自分たちの宗教的組織以外に啓示を垂れたとしたら、それは神の一大失態であるとでも考えるに相違ないと思う事が時折あります。神の取る手段は人智の及ぶところではありません。大丈夫です。神が失態を演じる事は絶対にありません。

キリスト教会との関係となるとこれは厄介です。自分たちの教義こそ絶対的真理であると真面目に信じており、それをこの上なく大事なものとして死守せんとしています。実際にはもともと霊的であった啓示が幾世紀もの時代を経るうちに人間的想像の産物の下に埋れてしまっている事に気づいてくれないのです。中味と包装物との区別がつかなくなっているのです。包装物を後生大事に拝んでいるのです。こうした偏向した信仰が精神的にも霊的にも硬直化してくると、もはや外部から手を施す術(すべ)がありません。神は時として精神的ないし霊的大変動の体験を与えて一気に真理に目覚めさせるという荒療治をする事がありますが、それも必ずしも思う通りにいかないものです。もし困難や悲哀、病苦等が魂の琴線に触れて何かに目覚めたとしたら、その苦(にが)い体験も価値があった事になります。

霊の世界からこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的は、人間の注意を霊的実在へと向けさせる事にあります。ただそれだけの事です。地上世界の出来事に知らぬふりをしようと思えばできない事はありません。別段地上との関わりを強制される謂(いわ)れはないのです。また人間側には我々に対して援助を強要する手段は何もないはずです。ですから私たちの尽力は全て自発的なものです。それは人類愛ともいうべきものに発し、援助の手を差しのべたい願望があるからこそです。それも一種の利己主義だと言われれば、確かにそうかも知れません。愛というものは往々にして利己主義に発する事が多いものです。身を霊界に置いて、次から次へと地上生活の落伍者ともいうべき人間が何の備えも無いまま送り込まれて来るのを見ている訳ですから…。その人たちが、こちらへ来る前に、つまり教訓を学ぶために赴いた地上という学校でちゃんと学ぶべきものを学んで来てくれれば、どんなにか楽になるのですが…。

そこで私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとする訳です。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだという事を教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。それが肉体と共に生長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的生長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的生長に関心を抱く者は極めて小数に限られております。永続性のある実在は霊のみです。もし私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させる事に成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分という存在の拠(よ)って来る原因を知ります。これから辿(たど)る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送る事になります。至って簡単な事なのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。

霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、自惚れ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立する事でしょう。霊的真理を1つでも多く理解していく事が、あなた方と魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆(きずな)なのです。

地上との繋がりをもつためにはそれなりの道具がいります。つまり霊力を送込むための回路が必要です。心霊能力の開発や霊的発達は1つにはその霊力の受容力を増すという事でもあります。魂の本性がそれぞれの背後霊とうまく調和するという事がイザという重大事、困難、危機に際して霊力を授けやすくします。その霊力とは何かとなると、これは中々説明が困難です。物質的観点から見る限り手に触れたり目で確かめる事のできないものだからです。しかしあくまで実体のあるものです。生命力そのものであり神の一部であり、宇宙の全生命活動に意識と存在を賦与しているものと本質的に同一のものです。種子に芽を出させ、花を咲かせ、実をつけさせ、樹木を太らせ、人間の魂を開発させる力と同じものです。

その顕現の仕方は無限です。生気を取戻させるのも、蘇生(そせい)させるのも、活気を与えるのも、再充電するのも、再興させるのもそうです。霊感の形を取る事もあれば病を治す事もします。条件さえ整えば物的現象を演出してお目にかける事もできます。人を治す仕事のために治療所の奥に閉じこもる時、一方では霊力を授かるために霊的回路を開いている事でもあります。2つの仕事は常に合い携えて進行します。霊能開発のためのサークル活動に参加し、いつになっても何の変化もないと思っている時でも、実際には霊と物質との間のつながりを強化し一体化する作用が着々となされている事があります。霊力の伝導はそれはそれは複雑で微妙な過程なのです。

現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌(しの)ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になる事でしょう。それは間を繋ぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしない限り覚醒は得られません。物質性にすっかり浸りきり霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも霊である事には変りありません。酷(ひど)い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒(さ)まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目醒め、神を意識し、同胞と自然界とのつながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟る事ができるようになります。

いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざす事なくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力する事はできます。

世の中には、ここに集(つど)える私たちに較べて精神的・霊的な豊かさに欠ける人がいます。そういう人々に愛の手を差しのべる仕事は、あなた方の霊性が向上するほど大きくなっていきます。絶望の淵に落ち込んだ人を励まし、病める人にはいかなる病にも必ず治す方法がある事を教え、あるいは地上を美しく栄光ある世界にするために、霊力の流れを阻害している誤謬(ごびゅう)と迷信、腐敗した体制を打破していく、その基本的足場としての永遠の理的真理を説く事が必要です。

肉眼で見る事ができず、手で触れてみる事も出来ない私たち霊界の者が物質の世界と接触をもつ事は容易な事ではありません。人間側が善良な心と自発的協調性と受容的態度と不動の信念を保持してくれている限り、両者を結ぶ霊的回路が開かれた状態にあり、その人はあらゆる面において、つまり霊的に精神的に物質的に、より良い方向へと自動的に進んでまいります。多くの人になかなか分かって頂けないのは、そしてまた人間が望むように事が運ばないのは、その援助を届けるための回路が開かれていないという事です。本人自らが回路を開いてくれない限り他に手段がないのです。霊力が物質に働きかけるためには、それが感応して物質界に顕現するために何らかの連鎖関係がなくてはなりません。分かってみれば何でもない当たり前の事です。それには成就できないものは何1つ無い事を知って頂きたいのです。

暗闇にいる人に光を見出させてあげ、苦しみに疲れた人に力を与え、悲しみの淵にいる人を慰め、病に苦しむ人を治し、無力な動物への虐待行為を阻止する事ができれば、それがたった1人の人間、1匹の動物であっても、その人の地上生活は十分価値があった事になります。価値あるものを求める闘いに嫌気がさすようではいけません。これはあらゆる闘いの中でも特に偉大な闘いです。唯物主義と利己主義 – 地上世界を蝕み、何のために生まれて来たかを自覚せぬ大勢の人々を暗闇へと堕落させている、この2つのガンに対する永遠の闘いです。

善のための努力が徒労に終る事は決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終る事はありません。善行に嫌気がさすような事があってはなりません。成果が表れない事に失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して1人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、周りには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切る事のないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとする事です。物質の世界にはこれだけは安全というものは何1つありません。真の安全は人間の目に映じぬ世界 – 地上のいかなる器具をもってしても測る事のできない永遠の実在の世界にしかありません。

人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全てのものが形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的存在のみは不変・不易であり不動の基盤として存在し続けます。全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解する事が極めて困難である事は私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが永遠の実在でありそれ以外は重要でない事をお伝えする事ができ、流砂のような移り変りの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心の支えとして生きようとする志を抱いてくださる事になれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつある事になりましょう。

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6章 役に立つ喜び

人生において、自分が役に立つという事ほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖に慄きながら生きている世の中にあって、たった1人でも心の平静を見出し、自分が決して1人ぽっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせる事ができたら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げた事になります。

地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚める事です。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば“生ける夢遊病者”で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。そういう人たちの中のたった1人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻(くすぶ)る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせる事ができたら、それに勝る行為はありません。どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物 – 人間、動物、その他なんでもよろしい – の為になる事をする事によって神に奉仕する事が何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。

こうした仕事のために神の使節として遣わされている私たちは幸せと思わなくてはいけません。もっとも、絶え間なく続く悲劇を目(ま)の当たりにしていると、それだけの事で嬉しい気分に浸れるものではありません。現実に何かの役に立った時、例えば無知を駆逐し、迷信を打破し、残酷を親切に置き替え、虐待を憐憫(れんびん)に置き替える事ができた時、あるいは協調と親善の生き方を身をもって示す事ができた時、その時はじめて地上のすべての存在の間に真の平和が訪れます。真の平和は一部の者のみが味わうべきものではないからです。そこには霊の力の働きかけがあります。それを是非とも地上に招来しなくてはならないのです。教会が何を説こうと、学者先生がどう批判しようと、霊力はそんな事にはお構いなく働きます。そして、きっと成就します。

その霊力が、道に迷ってあなた方の元を訪ねて来る人々に安堵、健康、苦痛の緩和、慰め、指導、援助のいずれかを授けてあげる、その道具となる事ほど偉大な仕事はありません。無味乾燥な教義ばかりで霊力のひとかけらもない教会、礼拝堂、集会、寺院等よりもはるかに意義ある存在です。

病める人、苦痛を抱えた人、身も心も霊も悶(もだ)え苦しむ人、希望を失った人、寄るべない人、人生に疲れ切った人、迷える人、こうした人々にお説教は要りません。説く人自らが信仰に自信を失っている事すらよくあるのです。説く人にも説き聞かされる人にも意味を持たない紋切り型の説教をおうむのように繰り返しても、誰も耳を傾ける気にはならないでしょう。欲しいのは霊的真理が真実であるとの証です。あなた方が真に奉仕の精神に燃え霊的能力を人のために役立てたいと望めば、その霊力があなた方を通してその人たちに流れ込み、苦痛を和らげ、調和を回復させ、麻痺した関節ならばこれを自由に動かせるようにし、そうする事によって霊的真実に目覚めさせる事になるでしょう。

ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分の事よりまず人のためと考える人は稀です。大義のために一身上の事を忘れる人は殆どいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されている事を明確に認識されるはずです。これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

施しを受けるより施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞く事もなく、それでもなおこの道にいそしむ事ができる人は幸せです。あなた方の周りにはあなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差しのべる事を唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと好意と愛があります。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿(たど)るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につける上でそのコースが一番効果的である事を得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知の上で生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服する事が内在する資質を開発し、真の自我 – より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では“お気の毒に…”などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨する事もない訳です。こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が“魂は知っている”と言う時、それは細かい出来事の1つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているという事です。その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くという事は、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しない事があります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻ってくる事になります。それを何度も繰り返す事があります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断する事は、今のあなた方には無理な事です。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見る事ができず四六時中物的視角で物事を考えるために判断がことごとく歪んでおります。魂への影響を推し量る事ができない。そこが実は一番大切な点です。肉体が体験する事は魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強(じ)いする事は許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間 – 叡智を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡智に合わせていくようになります。

そうした叡智を身につける事は容易な事ではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この3つの要素のうちの2つが絡む事もあれば3つが全部絡む事もあります。霊性の開発は茨(いばら)の道です。苦難の道を歩みつつ、後に自分だけの懐かしい想い出の標識を残していきます。魂の巡礼の旅は孤独です。行けば行くほど孤独さを増していきます。

しかし、利己的生活や無慈悲な生活にそれ相当の償いがあるように、その霊性開発の孤独な道にもそれなりの埋め合わせがあります。悟りが深まるにつれて内的生命、内的輝き、内的喜び、内的確信が一層その強さを増していくのです。生命現象の全てが拠(よ)り所とする内的実在界の実相を味わい、神の愛の温もりをひしひしと実感するようになります。それが容易に成就されるとは私は一度も言っておりません。最高の宝、最も豊かな宝は、最も手に入れ難いものです。しかもそれは自らの努力によって自分1人で獲得していかねばならないのです。

私はかつて地上で何年も生活し、こちらへ来てからも(3次元の世界の数え方で言えば)何千年もの歳月を過ごしてきましたが、向上すればするほど宇宙の全機構を包括し大小あらゆる出来事を支配する大自然の摂理の見事さに驚嘆するばかりです。その結果しみじみと思い知らされている事は、知識を獲得し魂が目覚め霊的実相を悟るという事は最後はみな1人でやらねばならない – 自らの力で“ゲッセマネの園”に踏み入り、そして“変容の丘”に登らねばならないのだという事です。(第2章参照)

悟りの道に近道はありません。代りの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんな事を説くのは説教者ヅラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだ事を少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。

さらに私は一見矛盾するかに思えるかも知れませんが人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々 – 病める人、肉親を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいと願望に燃える人 – 要するに何らかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差しのべられるという事も知っております。

時には万策尽き、これにて万事休すと諦(あきら)めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられる事があります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うような事があってはなりません。

その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血縁の者 – その人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たち – ばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。そのおかげでどれほどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知る事はできません。しかし分らないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消える事のない影響を及ぼしております。その事を大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えてくださった事に関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事はほかにありません。

愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えない限り絶対に入り込めないように守られております。霊の力は避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡智は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。人間の心には裏切られる事がありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目には見えなくても常に導きを怠る事なく、愛の手があなた方のまわりにある事を忘れないでください。

私としては、たった一言であっても、私の述べた事の中にあなた方の励みになり元気づけ感動させるものを見出して頂ければ、もうそれだけで嬉しいのです。私たちに必要なのは霊の道具となるべきあなた方です。豪華なビルや教会や寺院や会館ではありません。それはそれなりの機能がある事は認めますが、霊の力はそんな“建物”に宿るのではありません。“人間”を通して授けられるのであり、顕幽の巨大な連絡網のつなぎ手として掛けがえのない大切なものです。その道具たらんとして謙虚に一身をなげうってくれる人間1人の方が、そうした建造物全部よりもはるかに大切です。頑張って下さい。そしてこれからも機会を逃さず人のため、人のため、という心がけを忘れないで下さい。世間の拍手喝采を求めてはなりません。この世に生まれてきたそもそもの目的を果たしているのだという自覚を持ち、地上に別れを告げる時が来た時に何1つ思い残す事のないよう、精一杯努力して下さい。

ここに集える私たち1人ひとりが同胞の幾人かに霊的啓発をもたらす事によって、少しでも宇宙の大霊に寄与する事ができる事の幸せを神に感謝致しましょう。人間として霊として、こうして生を享(う)けた本来の目的を互いに果たせる事の幸せを感謝致しましょう。人のために尽す事に勝る宗教はありません。病める人を治し、悲しむ人を慰め、悩める人を導き、人生に疲れ道を見失える人を手引きしてあげる事、これは何にも勝る大切な仕事です。

ですから、こうして神の愛を表現する手段、才能、霊力を授かり、それを同胞のために役立てる仕事に携われる事の幸せを喜ばなくてはいけません。神の紋章を授かった事になるのだと考えて、それを誇りに思わなくてはいけません。これから後も人のために役立つ仕事に携わる限り、霊の力が引き寄せられます。人生の最高の目標が霊性の開発にある事を、ゆめ忘れてはなりません。自分の永遠の本性にとって必須のものに目を向ける事です。それは人生について正しい視野と焦点を持つ事になり、自分が元来不死の魂であり、それが一時(いっとき)の存在である土塊(つちくれ)に宿って自我を表現しているにすぎない事、心掛け1つで自分を通じて神の力が地上に顕現するという実相を悟る事になるでしょう。こうした事はぜひとも心に銘記しておくべき大切な原理です。日常の雑務に追いまくられ、一見すると物が強く霊が弱そうに思える世界では、それは容易に思い出せないものです。ですが、あくまで霊が主人であり物は召使いです。霊が王様であり物は従臣です。霊は神であり、あなたはその神の一部なのです。

自分がこの世に存在する事の目的を日々成就できる事、つまり自分を通じて霊の力がふんだんに地上に流れ込み、それによって多くの魂が初めて感動を味わい、目を覚まし、健全さを取り戻し、改めて生きる事の有難さを噛みしめる機会を提供する事 – これは人のために役立つ事の最大の喜びです。真の意味で偉大な仕事と言えます。地上のどの片隅であろうと、霊の光が魂を照らし、霊的真理が沁みわたれば、それでいいのです。それが大事なのです。それまでの事は全てが準備であり、全てが役に立っているのです。魂はそれぞれの使命のために常に備えを怠ってはなりません。時には深い谷間を通らされるかも知れません。度々申し上げてきたように、頂上に上がるためにはドン底まで下りなければならないのです。

地上の価値判断の基準は私どもの世界とは異なります。地上では“物”を有難がり大切にしますが、こちらでは全く価値を認めません。人間が必死に求めようとする地位や財産や権力にも重要性を認めません。そんなものは死とともに消えてなくなるのです。が、他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わる事によって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し魂に消える事のない印象を刻み込んでいきます。

世間の賞賛はどうでもよろしい。人気というものは容易に手に入り容易に失われるものです。が、もしあなたが他人のために自分なりにできるだけの事をしてあげたいという確信を心の奥に感じる事ができたら、あなたはまさに、あなたなりの能力の限りを開発したのであり、最善を尽くした事になります。言いかえれば、不変の霊的実相の証を提供するためにあなた方を使用する高級霊と協力する資格を身につけた事になるのです。これは実に偉大で重大な仕事です。手の及ぶ範囲の人々に、この世に存在する目的つまり何のために地上に生まれてきたのかを悟り、地上を去るまでに何をなすべきかを知ってもらうために、真理と知識と叡智と理解を広める仕事に協力している事になります。

肝心な事はそれを人生においてどう体現していくかです。心が豊かになるだけではいけません。個人的満足を得るだけで終ってはいけません。今度はそれを他人と分かち合う義務が生じます。分かち合う事によって霊的に成長していくのです。それが神の摂理です。つまり霊的成長は他人から与えられるものではないという事です。自分で成長していくのです。自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造する事もできないのです。霊的成長にも摂理があり、魂に受け入れる備えが整って初めて受け入れられます。私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをお持ちしているだけです。それを本当に良い知らせであると思ってくださるのは、魂にそれを受け入れる備えの出来た方だけです。良さの分からない人は霊的にまだ備えができていないという事です。

イエスはその事を“豚に真珠を投げ与えるべからず”と表現しましたが、これは決してその言葉から受けるような失礼な意味で述べたのではありません。いかに高価なものをもってしても他人を変える事はできないのです。自分で自分を変えるしかないのです。私たちは同胞の番人ではないのです。各自が自分の行為に責任を持つのであって、他人の行為の責任は取れません。あなたが行う事、心に思う事、口にする言葉、憧(あこが)れるもの、求めるものがあなたの理解した霊的真理と合致するようになるのは、生涯をかけた仕事と言えるでしょう。

あなたにできるのはそれだけです。他人の生活を代りに生きる事はできません。どんなに愛する人であってもです。なぜなら、それは摂理に反する事だからです。そうと知りつつ摂理に反する事をした人は、そうとは知らずに違反した人よりも大きい代償を払わされます。知識には必ず責任が伴うからです。真理を知りつつ罪を犯す人は、同じ行為を真理を知らずに犯す人より罪の大きさが違うのです。当然そうあらねばならないでしょう。

一個の魂に感動を与えるごとにあなた方は神の創造の目的成就の一翼を担(にな)った事になります。これはあなた方にできる仕事の中でも最も重要な仕事です。魂に真の自我を悟らせてあげているのであり、これは他のいかなる人にもできない事です。ただし、この仕事は協調の上に成就されるものです。私ども霊側も強引に命令する事はしたくありません。あなた方の理性を押しのけたり自由意志を奪ったりする事は致したくありません。あくまでも導く事を主眼としているのです。あなた方が何か1つ努力するごとに、私どもがその目的に合わせ援助する事によって、より大きな成果を挙げるように協力しているのです。協力し合う事によって人生の全てが拠り所とするところの霊的基盤に関わる重大な仕事に携わる事ができるのです。

残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。いわば一種の退廃的雰囲気の中で生きております – それが“生きる”と言えるならばの話ですが。霊の光の啓示を受けた人は幸いです。私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれる事でしょう。

自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい知識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見、触れ、感じる事もできないかも知れません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。しかしやはり霊こそ全ての根源である事に変わりありません。あなた方は永遠の存在である事を自覚してください。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。

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7章 心霊治療と生命力

(本章は主として心霊治療の専門家グループを招待した交霊会での霊言である。―訳者)

あなた方には病気を治すだけでなく霊的真理へ向けて魂を開眼させる生命力について是非理解して頂きたいと思います。魂に霊的悟りをもたらせる事こそ心霊治療の真髄だからです。身体的障害を取り除いてあげても、その患者が霊的に何の感動も覚えなかったら、その治療は失敗した事になります。もしも何らかの霊的自覚を促す事になったら成功した事になります。内に秘められた神の火花を大きく燃え上がらせ輝きを増すのを手助けしてあげた事になるからです。

それが常に変わらぬ心霊治療の隠れた目的です。治療家としてこの世に生を享けたのは、その仕事を通して神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず何のために地上に生まれてきたのかも知らず、従って何をなすべきかも知らずに迷っている神の子等に、永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。たった1人でもよろしい。治療を通じて霊的真理に目覚めさせる事ができたら、あなた方の地上生活は無駄でなかった事になります。1人でいいのです。それであなた方の存在の意義があった事になります。

真理普及の仕事が次第に発展しつつある事、霊的威力に目を向ける人が増えつつある事を私は非常に嬉しく思っております。その人たちが困難に遭遇した時はいつでも援助の手を差しのべております。病気治療にはいっそう強力な生命力を注ぎ込みます。しかし忘れないで頂きたいのは、何事にも必ずそれ相当の原因があるという事です。霊界からいかなる援助の手を差しのべても、その原因と結果の間に割って入る訳にはいかないのです。手助けはできます。が、厳然とした原因に由来する結果を抹消してあげる訳には参りません。あなた方人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いた事を意味します。私どもは霊力によって手助けする事はできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。

要するに奇跡は起こせないという事です。大自然の因果律は変えられないという事です。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。全てを包含し、木の葉1枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。地上でそれまで巡り合ったいかなる力にも勝る力を身をもって体験した事になります。

その体験によって魂が何らかの感動を覚えたら – 本来そうあるべきであり、そうならなかったら成功とは言えないというのが私の考えですが – それは霊的自我に目覚めたという事であり、存在の意義を成就し始めた事になります。この根本的目標を理解していない人が一般の人はもとよりスピリチュアリズムの仕事に携わる人々の中にも大勢おります。スピリチュアリズムにおける様々な現象はそれぞれに意義があります。しかし、それはしょせんは注意を引くためのオモチャにすぎません。いつまでもオモチャで遊んでいてはいけません。幼児から大人へと成長しなければなりません。成長すれば、喜ばせ、興味を引くために与えられたオモチャは要らなくなるはずです。

一口に心霊治療といっても、内面的に見れば磁気的(マグネチック)なもので生理的とも言えるものと、心霊的(サイキック)ではあっても霊的(スピリチュアル)とは言えないもの、そして我々霊による最も程度の高いもの、即ち治療家と霊界の医師との波長が一致し、しかも患者の治るべき時機が熟している時に治療家が一切手を触れずに一瞬のうちに治してしまうものがあります。健康体のもつ磁気だけでも治る場合があります。その時は霊界とは何の関わりもありません。その方法と霊的方法との中間的なものがサイキックなもので、遠隔治療と呼ばれているものはたいていこれによります。その上にあるのが治療家を通して霊界の医師が症状に応じた治療エネルギーを注ぎ込むやり方で、患者の身体に一切触れずに一瞬のうちに治す事ができます。

その治療エネルギーは実は人間の全てに宿されているのです。霊的兵器庫の中にしまわれていて、努力次第で活用する事ができるのです。身体に自然治癒力があるように、霊的存在であるあなた方には霊的に治療する力が具わっております。ただ、それにはそれなりの摂理があるという事です。

そもそも健康とは身体と精神と霊の3者の関係が健全であるという事です。この3つの必須要素が調和のとれた状態にある事です。そのうちの1つでも正常に働かなくなると連係がうまくいかなくなり、そこに病が生じます。3者の調和を保つ方法はその3者がそれぞれに与えられた地上での機能を果たす事です。霊力は素晴らしい威力を発揮します。これには反駁(はんばく)の余地はありません。この事実を否定したり、この知識の普及を妨げんとする者は必ずその結果に対して責任を取らねばなりません。

霊的治療エネルギーの威力を目の当たりにされるあなた方は、宇宙の全創造物を支配する莫大なエネルギーのミニチュア版を見ているようなものです。同じ質のものが大海の動きを支配し、引力を支配し、星座の運行を支配し、人間、動物、植物、その他ありとあらゆる生命の千変万化の造化を支配しています。治療エネルギーはその生命力の一部なのです。身体に生命を賦与しているのは霊です。物質そのものには生命はありません。霊から離れた物質に意識的存在はありません。あなた方を生かしめている原理と同じものが、痛みに苦しむ人、精神的に病める人、そして身体を患う人の治療に際して、あなた方を通して働くのです。

このように、ある意味であなた方は、宇宙の大霊と共に宇宙的創造計画の中において、その無限の生命力を使用する責任を担っている事になります。その仕事に邪魔を入れんとする者は必ず後悔します。かつてはこれが聖霊に対する罪、霊力の働きを邪魔する大罪と見なされました。その霊力の流入を存分に受け入れるように心を開けば、その霊力と共に自動的に宇宙の根源的創造主から発せられる恩寵に浴する事になります。

物質的にも精神的にも霊的にも病的状態にある地上には、なさねばならない大切な事がいろいろとあります。私どもにとっても、あなた方にとっても、身体と精神と霊の病を駆逐し、混沌の霧の中を道を探し求めてさ迷う人々に愛の証をもたらす事が大切な仕事の1つです。それが全ての霊媒現象の究極の目的なのです。悲しみに心重く、目に涙を浮かべた人々に愛のメッセージを伝える事、これが大切です。痛みに苦しめられ、病気に悩まされ、異常に苛(さいな)まれる人々を癒してあげる事、これはまさに慈悲の行為であり、今こそ要請されている事です。

しかし、これもあくまで手段であって、その事が目的ではありません。目的は眠れる魂を目覚めさせ、霊的自覚をもたらす事です。魂が目を覚まし、地上に生まれてきた目的を理解しはじめた時、地上に霊的新生をもたらす膨大な計画の一翼を担った事になります。そこにこそ私たちが一致協力する理由があります。それが真理への扉を開くカギです。霊的自覚をもたらす事の方が、病気を治し悩みを解消してあげる事より大切です。それが神の目的を成就する所以(ゆえん)だからです。そこまで至らない限り成功した事にはなりません。

全ての霊媒現象と、その中でも重要な部分を占めるこうした霊的通信の背後にはそうした目的があり、その実現に全エネルギーを傾注すれば、それはあなた方の宿命を成就している事になります。それがこの世に生まれてきた目的だからです。

霊力は無限です。尽きる事がないのです。通過する道具によって制限されるだけです。道具なしには霊力は地上に発現されません。ですから、道具となるべき霊能者は受容能力を少しでも広く深くする努力をしなくてはいけませんし、そうする事によって霊性も発達させなければなりません。霊性こそが霊力の分量を決する事になるからです。霊性が高まればそれだけ多くの霊力が流入するようになります。尽きる事がありません。霊的潜在力には際限が無いのです。そうした人間的努力の背後では高級霊がそれぞれの霊媒についていろいろと試し、エネルギーの効果的な組み合わせを考えて、より素晴らしい、そしてより速やかな治癒が得られるようにと、研究を怠りません。こちらの世界には“これでおしまい”という事がないのです。ただこの道の仕事の宿命として、人間という道具を使用しなければならず、与えられた道具で最大の効果をあげるしかないのです。

心霊治療の真の理解には長い長い時間を要します。霊の威力を地上で見せつける方法は大勢の人間を1度に改心させる事ではありません。1度に1人の人間、1人の子供を治す事によって、いわば霊的橋頭堡(きょうとうほ)を築き、それをしっかりと固め、不朽のものとするのです。千種万様の形を取る霊力は、心霊治療にせよ、霊訓にせよ、公開での交霊会にせよ、魂にそれを受け入れる備えが出来た者によってその真価が発揮されます。受け入れ態勢が出来ているという事が絶対条件なのです。

人間が神の摂理を犯し、物質と精神と霊の協調関係を乱します。そこで心霊治療によって内部の霊的エネルギーにカツを入れて本来の協調関係を取り戻させます。こうして霊の威力による治療が次々と成就され、宣伝され、その霊的事実関係に関する理解が深まるにつれて、そこに一石二鳥の成果が得られている事が分かります。すなわち病気が減ると同時に、その分だけ霊力による目的成就が容易になるという事です。

人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得する事は神の計画の中にはありません。全ての病気にはそれなりの治療方法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視し動物実験による研究を続ける限り、人間の真の健康と福祉は促進されません。動物はそんな目的のために地上に生を享けているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。3つの機能が一体となって働くという事です。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりする事によって得られるのではありません。宇宙の摂理に調和した生き方を成就すれば自然に得られるのです。そういう生活を送れば人間は病気によって死ぬ事はなくなり、老化現象によって死を迎える事になります。肉体がそれなりの目的を果たし、次の世界の生活のための霊的準備が整った結果としてそうなるのです。

身体が病むという事は精神か霊のいずれかに不自然なところがあるという事です。霊が正常で精神も正常であれば身体も正常であるはずです。身体に出る症状は全て霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれば身体は当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

あなた方の治療によって患者の症状が取り除かれても魂に何の感動も及ぼさなかったとしたら、その治療は失敗であった事になります。あなた方の失敗であると同時に私どもの失敗であり、その患者は悟りへの道を失った事になります。絶好のチャンスを手にしながら、それを実りあるものにできなかった訳です。本当はその病気は当の患者に人生の目的と、存在の意義を成就するためになさねばならぬ事を啓示するための手段であったのです。魂の琴線に触れる体験をさせる事、これが最も大事な事です。真理は真理です。絶対に変える訳にはいきません。それが真理です。人間の1人ひとりに宇宙の大霊が宿っており、それが絶えず発現を求めます。より広く顕現する事によって初めて人生から豊かさを獲得できるからです。事は極めて簡単です。顕現しなければ悟りは得られないのです。

そこに苦の存在する理由があります。悲しみの存在する理由があります。光が暗闇の中にあってこそ見出せる理由がそこにあります。ただし、その体験による魂の顕現はそれから始まる大冒険の始まりにすぎません。その大冒険こそ神の意図する人生のあるべき姿なのです。疾風怒濤の霊的冒険であり、その体験を通して叡智と崇高さと美しさと光輝と威厳と気品と尽きる事のない霊的遺産を手にする事です。それが地上生活のあるべき本来の姿です。ところが現実はそうではありません。唯物主義がはびこり、利己主義が横行し、貪欲が支配し、奉仕の精神、協調の心、向上心、人助けの気持ちが失われております。

その事を思えば、こうして人の役に立つ機会が次第に広く開かれていく事を、あなた方は有難く思うべきです。そうです。身体の痛みを取り除き、悩む心を慰め、魂を鼓舞し、肉の牢から解放してあげる事が大事です。大切なのはそこなのです。なぜならば、魂が一度霊的自我に目覚め、神との霊的つながりを再構築すれば、その時から真の意味で“生きる”という事が始まるからです。治療家が障害物を取り除いてあげれば、霊力がふんだんに流れ込むようになります。障害とは無知であり、誤った生き方であり、誤った考えであり、高慢であり、うぬぼれであり、嫉妬心であり、失望です。人間は神と自己と同胞と調和しつつ、大自然の摂理に則(のっと)った生活を送るようにならなければなりません。

苦が全てという訳ではありません。しかし、苦のない世界はありません。苦しみと困難がある事が進化の必須の条件なのです。あなた方の住む世界は完全ではありません。身体も完全ではありません。ただし、魂の内部には完全性の種子を秘めております。人生の目的はその種子を発芽させ発達させ、その完全性を賦与してくれた根源へ向けて少しずつ近づいて行く事です。この巨大な宇宙組織の内面には進化の機構を操るエネルギーの相互作用があります。生命はじっとしておりません。生命の世界には絶え間なく増幅していく円運動または螺旋(らせん)運動の形での発達があります。その全機構がどう働いているかを察知できるようになるのは、人生の目的を悟った暁の事です。

霊的治療は魂がそれを受けるに値する段階に至るまでは何人(なんぴと)といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったという事です。全てが自然法則によって支配されています。トリックは利きません。いかなる治療家もその法則の働きを変えたり外(そ)らせたりする事はできません。

ですから、人間としての最大限の成果をあげるべく努力をする事です。それが私から言える唯一の助言です。背後霊との協調性が高まれば高まるほど、より大きな成果が得られます。この仕事は延々と続きます。人間は卸し難いものです。しょせん地上は完璧な世界ではないからです。完璧であれば地上には居ないはずです。寛容的でなければならない理由がそこにあるのです。自分が一般の人より先を歩んでいる事を自覚されるなら、なおのこと寛容的であらねばならない責任があります。

奉仕の仕事に嫌気がさしてはなりません。奉仕は霊の通貨(コイン)のようなものです。神が発行される万人共通の通貨です。あなた方の仕事にとって必要な力は用意されています。しかし1度に大きな仕事を成就しようとしてはいけません。今日は今日できる事だけをして、明日やるべき事は今日は忘れる事です。力に限界が来たら無理して出そうとするより補給する事を考えなさい。その方が無理をしてその乏しいエネルギーを使い果たし、結局は仕事を全面的に休止しなければならなくなるよりはましです。

限界があるのは実はエネルギーではありません。身体という機能の方です。いかなる機械も限界を超えた仕事を課せられると故障が生じます。人間の身体ほど多くの仕事を課せられながら休息の少ない機械は他にありません。霊の宿る貴重な神殿です。よく管理し、保護し、大切に使用すべきです。

どの分野であろうと、人のために尽くす仕事に携わる人が時には嫌気がさし、疲れを覚え、不快に思う事がある事は私も承知しております。もう駄目かと思える事もあるでしょう。しかし道は必ず開けます。霊的真理、霊的事実は最後には勝つのです。貪欲、利己主義、残酷、粗暴、過酷、邪悪、こうしたものは全て一掃されねばなりませんし、きっと一掃される時が来ます。そして人間同士の平和だけでなく、人間と他の創造物とが調和し一体となって進化の道を歩む事になるでしょう。

地上で自由を享受するのは人間だけではありません。創造物の全てが自由を享受する資格があるのであり、本来守ってやるべき立場にある人間によって勝手に捕らえられ苦しめられ利用されて良いものは何1つありません。その代償は必ず支払わされます。因果律は必ず働きます。人間に生命を賦与し地上での存在を可能にしているところの神性をごまかす事はできません。

全生命は不可分のものです。物的形態上の違いはあっても深奥での区別はないのです。生命は1つなのです。霊は1つなのです。そして霊とは神であり、全生命に内在しております。かなうものならば、あなた方の視界を遮るベールが取り払われ、背後で協力している光輝く霊的存在を一目お目にかける事ができれば、と思う事しきりです。立ちはだかる困難の1つひとつは、あなた方が是非とも迎えうち克服し、そうする事によって霊の力が物の力に勝る事を証明して行かねばならない、1つの挑戦でもあります。

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8章 愛の力

愛は大きさを測る事ができません。重さを測る事もできません。いかなる器具をもってしても分析する事はできません。なのに愛は厳然として存在します。宇宙における最大の力です。大自然の法則を機能させる原動力です。愛あればこそ全大宇宙が存在するのです。宇宙がその宿命を成就し、全存在がそれぞれの宿命を成就していく背後にはこの愛の力が存在します。生命活動の原動力であり、霊の世界と物質の世界の間に横たわる障害を克服していくのも愛の力です。辿(たど)り着いた高級霊界からの遼遠の旅路の末に再び地上に舞い戻り、古くかつ新しい名言“愛は死を乗り超える”を改めて宣言する事ができるのも、この愛あればこそです。

あなた方を今日まで導き、これ以後もより一層大きな霊的回路とするための受容力の拡大に心を砕いてくれている背後霊の愛に目を向けて下さい。昼の後には夜が訪れるように、春の後には夏が訪れるように、種子を蒔(ま)けば芽が出るように、霊は着実に開眼し一歩一歩その存在意義の成就に向けて階段を昇ります。日常の煩瑣(はんさ)な雑事の渦中にあって、時には僅(わず)かの時間を割いて魂の静寂の中に退避し、己れの存在の原動力である霊性に発現の機会(チャンス)を与えて下さい。

心に怖れを宿してはいけません。完全に拭い去らないといけません。誕生以来今日までずっとあなたを導いてきた霊が、今になって見捨てるはずがありません。これまで日夜あなたの生活の支えとなってきたのであり、これ以後もずっと支えとなる事でしょう。なぜならあなたに絶対成就してもらわねばならない仕事があるからです。霊がこの世へ携えてきた能力がこれからもその役目を果たしていきます。こちらから援助に当る霊の背後には宇宙の大霊すなわち神の力が控えております。それは決して裏切る事はありません。

宇宙は無限・無窮の神的エネルギーによって存在しております。しかし地上の人間の圧倒的多数はそのエネルギーのごくごく僅(わず)かしか感識しておりません。受け入れる条件が整わないからです。ですから、あなた方人間はその神の恩寵を存分に受け入れるべく、精神と魂を広く大きく開く方法を学ばねばなりません。それには信念と信頼心と信仰心と穏かさと落着きを身につけねばなりません。

そうしたものによって醸(かも)し出される雰囲気の中にある時、無限のエネルギーから莫大(ばくだい)な豊かさを受ける事ができます。それが神の摂理なのです。そういう“仕組み”になっているのです。受け入れ、吸収する能力に応じて、エネルギーが配給されるという事です。受容力が増せば、それだけエネルギーも増します。それだけの事です。悲哀の念が消えるに従って、魂を取り巻いていた暗雲が晴れ、確信の陽光がふんだんに射し込む事でしょう。

宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛あればこそです。全宇宙を経綸(けいりん)し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差し伸べんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差し伸べさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、より一層の表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そしていつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれる事になるでしょう。

好感を覚える人を愛するのはやさしい事です。そこには徳性も神聖さもありません。好感のもてない人を愛する – これが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人の元に赴く事、あなたの気に食わぬ人のために手を差し伸べる事、これは容易な事ではありません。確かに難しい事です。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人(ひと)にできない事をする、これが奉仕の奉仕たる所以(ゆえん)だからです。可哀想にと思える人に優しくする、これは別に難しい事ではありません。気心の合った人に同情する、これも難しい事ではありません。が、敵を愛する、これは実に難しい事です。

最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就する事である事を知るが故に愛する、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしい事です。しかし、奇形の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けではできません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するという事以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり自己のために何も求めません。向上進化の梯子(はしご)を登って行けば、己れのために何も求めず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿(たど)り着きます。ただ施すのみの世界です。

願わくばあなた方の世界も是非そうあって欲しいと思う事しきりです。私たちの事が理解できない人は色々と勝手な事を言ってくれますが、私たち自身はどう評価されたいとも思っておりません。手の届く限りの人々に手を差しのべたいと思うだけです。その意味でも、あなた方には霊の世界の最高レベルの界層と感応するよう努力して頂きたい。あなた方は決して孤軍奮闘しているのではない事、周りにはあなた方を愛する人々、手引きし援助し鼓舞せんとする霊が大勢取り囲んでいる事を認識して頂きたい。そしてまた、霊的開発が進めば進むほど、宇宙の大霊である神へ向けて1歩1歩近づきつつあり、より一層その摂理と調和していきつつある事を理解して頂きたいのです。

単なる信仰、ただそう信じているというだけでは、厳しい体験の嵐が吹けばあっけなく崩れてしまいます。が知識に根ざした信仰はいかなる環境にあってもゆるぎない基盤を提供してくれます。霊の力の証を授からなくても信じられる人は幸いです。が、証を授かり、それ1つを手掛りとして他の多くの真理を信じる事のできる人はそれ以上に幸いです。なぜならばその人は宇宙の摂理が愛と叡智そのものであるところの霊の力によって支配されている事を悟っているからです。

人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続く事は立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではない事、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないという事を自覚する事ができます。物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享(う)ける事です。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与する事ができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。

我欲を棄て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面があるものです。

家庭的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されている事がよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛する事ができる事です。その段階に至った時は神の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます。

霊の世界へ来た者がなぜ地上へ舞い戻ってくるかご存じですか。大多数の人間にとって死は有難い事であり、自由になる事であり、牢からの開放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。地上の住民を脅(おびや)かす老いと病と数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との間に横たわる測りしれない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私たちへ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏する事ができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。

これまでに得させて頂いたものを喜ぶべきです。浴し得た恩寵に感謝すべきです。愛は死よりも強いこと、立ちはだかる障害も愛によってきっと克服されるという認識を得た事を有難く思うべきです。あなた方を包む愛によって存分に慰められ、支えられ、励まされるがよろしい。その愛の豊かさはとても私には表現し尽くせません。時には何とか伝えてみようと努力することもあるのですが、あなた方の心臓の鼓動よりもなお身近にあるその愛の深さは到底人間の言語では表現できません。

あなた方はこれまで、愛に発する利他的行為、英雄的行為、奉仕的行為、滅私的行為による目覚ましい成果を見て参りましたが、霊界の高級霊が生命力そのものを集結してあなた方を温く包む、その愛の底知れぬ潜在力は到底推し測る事はできません。最も、それを受け入れる器がなければ授かりません。それが摂理なのです。理屈は分かってみれば簡単です。資格ある者が授かるというだけの事です。霊力は無尽蔵です。それに制限を加えるのは人間の受容能力です。人間が少しでもその受容能力を増せば、その分だけ授ける用意がこちらにはいつでも出来ております。が、それ以上のものは絶対に授ける事は出来ません。

常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行である事を忘れぬ限り、何が起きようと意気消沈する事はありません。霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。

神性こそ、その無限の愛の抱擁力によって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私たちは愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にある事を自覚しようではありませんか。

完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れる事がありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。これまであなたを包んできた愛が今になって見放す訳がありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力になります。気力喪失の時には力を与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたのまわりに張り巡らされた防御帯であり、決して破られる事はありません。神の力だからです。

私ども霊界の者が是非とも提供しなければならない証は、愛が不滅である事、死は愛し合う者の仲を裂く事はできない事、物的束縛から脱した霊は2度と死に囚(とら)われる事がないという事です。愛の真の意義を悟るのは霊の世界へ来てからです。なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。宇宙の大霊の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。邪(よこしま)なるもの、害なるものを知りません。愛は己れのためには何も求めないのです。

死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第2の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わう事を可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれる事は決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはその事です。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩 – 愚かさ、無知、依怙地(えこじ)、偏見等々を乗り超えて働きます。

2人の人間の愛の真の姿は魂と魂の結びつきです。神はその無限の叡智をもって、男性と女性とが互いに足らざるものを補い合う宿命を定めました。両者が完全に融合し合う事にこそ真の愛の働きがあり、互いに補足し合って一体となります。愛は無限なる霊の表現ですから、低い次元のものから高い次元のものまで、無限の形をとります。すなわち磁気的で身体的な結びつきから精神的な結びつき、さらには根源的な霊的な結びつきへと進みます。その魂と魂との結びつきが地上で実現する事は極めてまれな事であり、むしろ例外的な事に属します。が、もし実現すれば両者はその宿命を自覚し、一体となります。これが魂と魂との真の結婚の形態です。

これは、本来一体である親和性をもった魂が2つに分れて地上へ顕現しているという、いわゆる“同類魂(アフィニティー)”の思想で、古来からあります。それが再び一体となるには何百万年、何千万年もの歳月を要します。それが僅(わず)か50~70年の短い期間に地上という小さな天体上で巡り合うという事は極めて異例の事です。幸いにしてその幸運に浴した時は、それは神がそう図られたとしか考えられません。そしてそのアフィニティーの2人は死後も融合同化の過程を、人智を超えた歳月にわたって続けます。人間的個性を少しずつ脱ぎ捨て、霊的個性をますます発揮していき、その分だけ融合の度合を深めていく事になります。

愛は血縁に勝ります。愛は死を乗り超えます。愛は永遠不易のエネルギーです。それが宇宙を支配しているのです。神の意図によって結び合った者は生涯離れる事なく、死後も離れる事はありません。墓には愛を切断する力はありません。愛は全てのものに勝ります。なぜなら、それは宇宙の大霊すなわち神の一表現だからです。そして神の統一体(※)としての一部を構成するものは永遠にして不滅です。(※それを欠けば完全性を失う必須の存在。 – 訳者)

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9章 霊とは何か

霊とは何かを言語によって完璧に描写する事は絶対に不可能です。無限だからです。言語は全て有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかない事をご承知ください。

宇宙の大霊すなわち神が、腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような“人間的”存在ではない事は、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。

こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむ事ができます。全体を理解するにはあまりに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享(う)けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終る事のない道程です。なぜなら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大である事になります。

では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させる事ができるのでしょうか。

それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮(しず)め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。要するに物的混沌から抜け出させ、霊的静寂の中へと導く事を主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説く事には賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。

自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせる事を目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受ける事も多くなります。まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)、宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。(※サイキックとスピリチュアルの違いは、こうした自我の開発の他に心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第7章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、例えば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。つまり目の前に存在するもの – 地上にせよ霊界にせよ – しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。 – 訳者)

ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正する事ができるようになります。自我の全ての側面 – 霊と精神と身体の調和を成就する事ができます。かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って霊的叡智、霊的理解、霊的平穏、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真のつながりを自覚するようになります。

人間は霊的存在である以上、宇宙の大霊すなわち神の属性を潜在的に所有しております。あなた方1人1人が神であり、神はあなた方1人1人なのです。1人1人が神の無限の霊力の一翼を担っているのです。地上への誕生はその大霊の一部が物質と結合する現象です。その一部に大霊の神性の全てが潜在的に含まれております。いわば無限の花を開かせる可能性を秘めた種子と言えましょう。

その可能性の一部が霊界からの働きかけによって本人も気づかぬうちに発揮されるという事があります。むろん無意識よりは意識的の方が望ましいに決まっています。ですが無意識であっても、全然発揮されないよりはましです。人間が同胞に向けて愛の手を差しのべんとする時、その意念は自動的に霊界の援助の力を呼び寄せます。その、人のために役立とうとする願望は魂をじっとしていられなくします。そして、やがて機が熟して魂が霊性に目覚める時が来ます。その時からは自己の存在の意義を成就する目標へ向けて意識的に邁進(まいしん)するようになります。

さきにサイキックという用語を用いましたが、これは物質と霊との中間的段階をさします。悟りを求め、あるいは霊能を開発戦として精神統一の訓練を開始すると、まず最初に出て来るのが心霊的(サイキック)な超能力です。これはその奥の霊的(スピリチュアル)な能力に先がけて出て来ます。超能力の開発は霊性の発達を阻害すると説く人がいます。そう説く人は心霊的な段階を経ずに一気に、独力で、神との合一を求めるべきであると主張するのですが、私はこれは間違っていると思います。それもあえてできないとは申しませんが、大変な修行の要る事であり、しかも往々にして危険を伴います。

霊格が向上するほど生命活動が“協調”によって営まれている事を悟るものです。自分1個で生きているものは何1つありません。お互いが力を出し合って生きております。1人1人が無限の連鎖関係の中の1つの単位なのです。そんな中でなぜ初心者が熟練者の手助けを拒絶するのでしょう。私たちがこうして地上に戻ってあなた方を手助けし、手助けされたあなた方が同胞の手助けをする。そこにお互いの存在の理由がある訳です。1人だけ隔離された生活をするようにはなっていないのです。みんなと協力し合って生きていくように出来ているのです。この見解を世界中に広めなければなりません。すなわち世界の人間の全てが霊的につながっており、いかなる人間も、いかなる人種も、いかなる階級も、いかなる国家も、他を置き去りにして自分だけ抜きん出る事は許されないのです。

登るのも下るのもみんな一緒です。人類だけではありません。動物も一緒です。なぜなら生命は1つであり、無限の宇宙機構のすみずみに至るまで、持ちつ持たれつの関係が行きわたっております。独善的考えから他の全ての方法を軽蔑して独自の悟りの境地を開く事も不可能ではありません。が私はそうした独善的な生き方には反対です。私の理解した限りにおいて宇宙の摂理は協調によって成り立っており、他の存在から完全に独立する事は絶対に不可能です。他人の援助を頼まずに独力で事を成就しようとする気構えは、それ自体は必ずしも利己的とは言えません。私はただ、その方法はお勧めしないと言っているのです。自分を他人に役立てる事 – これが霊的存在の真の価値だと私は信じます。私はその心掛けで生きて参りました。それが宇宙の大霊の意志だと信じるからです。そうではないと思われる方は、どうぞご自分の信じる道を歩まれるがよろしい。

人類の手本と仰がれている人々は、病に苦しむ人には霊的治癒を、悲しみの人には慰めの言葉を、人生に疲れた人には生きる勇気を与えて多くの魂を鼓舞してきました。要するに己を犠牲にして人のために尽したのです。それが神の御心なのです。悲しみの涙を拭ってあげる。病を治してあげる。挫折した人を勇気づけてあげる。苦境にある人に援助の手を差しのべてあげる。それがたった1人であっても立派に神の意志を行為で示した事になります。そんな事をする必要はないと説く教えは絶対に間違っております。救いの手を差しのべる事は決して間違っておりません。それを拒絶する方が間違っております。

もちろんそこに動機の問題もあります。見栄から行う善行もありましょう。がそれも何もしないよりはましです。邪(よこしま)な考えに発した偽善的行為、これはいけません。魂にとって何の益もありません。摂理をごまかす事はできないのです。完璧なのです。イエスが“慈悲の心は耐え忍ぶもの(※)”と語ったのは神の意志の偉大さを説かんとしたのです。善行はそれ自体の中に報酬が宿されております。(※コリント前書13・4 – この言葉は聖書では“愛は寛容である”と訳されております。イエスの言葉はこのあとさらに次のように続きます。“愛は慈悲に富む。愛は妬(ねた)まず、誇らず、高ぶらず、非礼をせず、己れの利益を求めず、憤(いきどお)らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、全てを許し、全てを信じ、全てを希望し、全てを耐え忍ぶ”。 – 訳者)

霊力の道具として働く霊能者は多くの魂へ何らかの影響を及ぼしています。そこが霊的現象の大切な点です。悲しみの人に慰めを与え、病の人に治癒を与え、主観・客観の両面にわたって霊力の証を提供する事も確かに大切ですし、これを否定できる人はおりません。が、真の目的は現象的なものを超えたところにあります。魂に感動を与え、実在に目覚めさせる事です。地上は未だに“眠れる魂”でいっぱいです。生命の実相をまるで知らず、これから目覚めていかねばなりません。

霊的現象の目的はそうした個々の魂に自我への覚醒をもたらし、物的感覚を超えて自分が本来霊的存在である事を自覚させる事です。いったん霊性を悟れば、その時から神からの遺産として宿されている神性の種子が芽を出して生長を開始します。その時こそ全大宇宙を競輪する無限の創造力のささやかな一翼を担う事になります。

こうして霊力の道具として役立つだけの資格を身につけるまでには、それなりのトレーニングが要ります。それは大変な事です。なんとなれば、その結果としてある種の鍛練、確信を身につけなければならず、それは苦難の体験以外には方法がないからです。霊力の道具として歩む道は厳しいものです。決して楽ではありません。容易に得られた霊能では仕事に耐え切れないでしょう。魂の最奥・最高の可能性まで動員させられる深刻な体験に耐えるだけの霊性を試されて初めて許される事です。そうして身につけたものこそ本物であり、それこそ霊の武器と言えます。

その試練に耐え切れないようでは自分以外の魂を導く資格はありません。自ら学ぶまでは教える立場に立つ事はできません。それは苦難の最中(さなか)、苦悩の最中、他に頼る者とてない絶体絶命の窮地において身につけなければなりません。最高のものを得るためには最低まで降りてみなければなりません。こうした霊的覚醒、言いかえれば飢えと渇きに喘(あえ)ぐ魂に霊的真理をもたらす事は実に大切な事です。それが地上での存在の理由の全てなのです。なのに現実は、大多数の人間が身につけるべきものをロクに身につけようともせずに地上を素通りしております。

ですから、イザこちらの世界へ来た時は何の備えも出来ていないか、さもなければ1から学び直さなければならないほど誤った思想・信仰によってぎゅうぎゅう詰めになっております。本来そうしたものは地上の方がはるかに学びやすく、その方が自然なのです。悲しみの人を慰め、迷える人を導き、悩める人を救うためには、自らが地上において苦難の極み、悲哀のドン底を体験しなければなりません。自分自身の体験によって魂が感動した者でなければ人に法を説く資格はありません。

教える立場に立つ者は自らが学ぶ者としての然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦(かんなんしんく) – 辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばねばなりません。それが真の人のために役立つ者となるための鉄則です。そうでなければ有難いのだが、と私も思う事があります。しかし側(はた)の者には分らないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散(けち)らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。

これも神の摂理として定められた1つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておればそれは成就とは言えません。楽に得られるものであれば得るだけの価値はありません。人のために役立つにはそれなりの準備が要ります。その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊性を開発し、心霊的能力を可能な限り霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を具(そな)えた人は大勢います。がそれを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)のもつ能力、つまり五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなにおもしろい実験(※)をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味がります。(※ここではESPつまり超感覚的能力の実験を指していますが、シルバーバーチの説を総合すれば、ヨガや密教における超人的な術、未開人における“まじない的”な術、雨を降らせる術なども同類に入ります。 – 訳者)

地上には、自分を変えようとせずに世の中の方を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、全ての発展、全ての改革はまず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てる事が出来なければ、他の人を改める資格はありません。地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっている事は事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。

宗教的呼称や政治的主義主張はどうでもよろしい。私はその重要性を認めません。もし何かの役に立てば、それはそれで結構です。が本当に大切なのは神の子として授かった掛けがえのない霊的遺産を存分に発揮する事です。その光輝、気高さ、威厳の中に生きる事です。いかなる名称の思想、いかなる名称の教会、いかなる名称の宗教よりも偉大です。神の遺産は尽きる事がありません。地上に誕生して来る者の全てが、当然の遺産としてその1部を無償で分け与えられております。

人生の重荷を抱えた人があなた方のもとを訪れた時、大切なのはその人の魂に訴える事をしてあげる事です。他界した肉親縁者からのメッセージを伝えてあげるのも良い事には違いありません。メッセージを送る側も送られる側もともに喜ぶ事でしょう。しかし喜ばせるだけで終ってはいけません。その喜びの体験を通して魂が感動し、宇宙の絶対的な規範であるところの霊的実在に目覚めなければなりません。慰めのメッセージを伝えてあげるのも大事です。病気を治してあげるのも大事です。私がこうしておしゃべりする事よりも大事です。が霊界において目論(もくろ)まれている目的、こうして私どもが地上へ舞い戻って来る本当の目的は、地上の人間の霊的覚醒を促進させる事です。

その仕事にあなた方も携わっておられる訳です。困難に負けてはいけません。神の道具として託された絶大なる信頼を裏切らない限り、決して挫折する事はありません。嵐が吹きまくる事もあるでしょう。雨も降りしきる事でしょう。しかしそれによって傷(いた)めつけられる事はありません。嵐が去り太陽が再び輝くまで隔離され保護される事でしょう。煩(わずら)わしい日常生活の中に浸り切っているあなた方には、自分が携わっている恵み深い仕事の背後に控える霊力がいかに強力で偉大であるかを理解する事は難しいでしょう。ですからあなた方としてはひたすらに人の役に立つ事を心掛けるほかはないのです。あなた方を通して働いている力はこの宇宙、想像を絶する広大な全大宇宙を創造した力の一部なのです。

それは全ての惑星、全ての恒星を創造した力と同じものなのです。雄大なる大海の干満を司(つかさど)るエネルギーと同じものなのです。無数の花々に千変万化の色合いと香りを与えたエネルギーと同じものなのです。小鳥、動物、魚類に色とりどりの色彩を施したのも同じエネルギーです。土塊から出来た人間の身体(からだ)に息吹を与え生かしめている力と同じものです。それと同じエネルギーがあなた方を操っているのです。目的は必ず成就します。

真摯(しんし)な奉仕的精神をもって然るべき条件さえ整えれば、その霊力は受入れる用意のできた人へいつでも送り届けられます。怖(おじ)けてはいけません。あなた方は神の御光の中に浸っているのです。それはあなた自身のものなのです。

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10章 質問に答える

シルバーバーチの交霊会では開会の祈りと講話の後“何かお聞きになりたい事がありますか。もしあれば私の知る限りで精一杯お答えしましょう”と述べる。質問はあらかじめまとめておいて司会者が述べる事もあるが(投書による質問もある)、招待客がその専門分野、たとえば心霊治療について直接質問する事もある。そのうちの幾つかを紹介する。

問「もう1度やり直すチャンスは全ての人に与えられるのでしょうか。」

答「もちろんです。やり直しのチャンスが与えられないとしたら宇宙が愛と公正とによって支配されていない事になります。墓に埋められて万事が終るとしたら、この世は実に不公平だらけで生きてきた不満の多い人生の埋合せもやり直しも出来ない事になります。私どもが地上の人々にもたらす事のできる最高の霊的知識は人生が“死”をもって終了するのではないという事、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直す事が出来るという事。言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるという事です。人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時にまた愚かにも摂理を無視し他人の迷惑も考えずに横柄(おうへい)に生きてきた人間は、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。神の公正は完璧です。騙す事も、ごまかす事も出来ません。全ては神の眼下にあります。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目(まじめ)に生きてきた人間が何を恐れる事がありましょう。恐れる事を必要とするのは利己主義者だけです。」

問「祈りに効果があるでしょうか。」

答「本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分りになると思います。御利益信心は利己的な要求ですからこれを祈りと呼ぶ訳にはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネがほしい、家がほしい – こうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても当人の霊性の開発、精神的成長にとって何のプラスにもならないからです。一方、魂の止むに止まれぬ叫び、霊的活動としての祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に必死に父なる神の加護を求めます。その時の魂の状態そのものが既に神の救いを受入れる体制となっているのです。ただこれまでも何度か述べた事がありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておく事が実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。こちらからあれこれと手段を講じる事がかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛の絆(きずな)によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。」

問「唯物主義者や無神論者は死後の世界でどんな目に遭うのでしょうか。」

答「宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが人間を永い間迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上する訳ではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それが全てのカギです。祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い“選ばれし者”の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった宗教とは無縁の人の方が遥かに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は“何を信じるか”ではなく、これまで“何を為してきたか”です。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

問「霊界の医師にはガンの治療法が分っているのでしょうか。」

答「あらゆる種類のガンが治せるという意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ原因から発生しているのではないからです。身体的なものに由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。その全てを同じ方法で治す事は出来ません。私たち霊界の者が地上の問題に関わるにはそれなりの制約がある事を理解して下さい。人間から頼まれて“ああ、その問題ですか。じゃあ、こうしなさい”といった調子で受け合う訳にはまいりません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。ただし人生観が誤っていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません。

霊界からの援助は2重に行われます。真摯(しんし)で献身的な治療家が正しい霊的法則に則(のっと)って治療に当っている時、霊界からそのチャンスを窺っているその道の専門家が自動的に引寄せられます。次にその患者に受入れる用意が出来ている時、霊的治療エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。霊界からの治療は全てこの霊力によってなされます。決して“魔法の杖”を使う訳ではありません。霊力は患者の魂によって引寄せられます。ですからその魂が霊力を受入れない限り反応は生じません。魂が窓を開けてくれない限り霊力と魂とを繋(つな)ぐものがないのです。閉切った魂とは接触は得られません。この他にも幾つかの要素があります。ガンの直接の(物的な)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的に関わる問題もありますし、誕生以前に地上人類以外の何らかの身体での生活の体験があるかどうかも関わってきます。決して単純な問題ではないのです。」

問「生まれ変りは本当にあるのでしょうか。」

答「これは非常にややこしい問題です。というのはこの問題に関してはこちらの世界でも事実を知る者と知らない者とで意見が様々に分れているからです。知らない者はあくまでも“ない”と主張し、知っている者は自分の体験から自信をもって“ある”と断言します。私は後者の1人です。私にも体験があるからです。ですから再生が事実であるという点は問題ないとしても、その真相の説明となるとこれは大変厄介です。なぜかと言えば何度も述べてきたように再生するのは“同じ霊”ではあっても物質界に顕現するのは“同じ面”ではないからです。」

問「霊的法則は霊界でも地上でも同じ作用をするのでしょうか。」

答「違います。こちらでは同一レベルにまで進化した者同士の生活が営まれており、霊格による区別がはっきりしているからです。ですから地上のように比較対照というものがありません。各自がその霊格に合った界層で生活しており、程度の低い者と高い者とが一緒に暮すという事がありません。地上では精神的ならびに霊的発達程度の異なる者が毎日のように顔を合わせますが、こちらではそういう事はありません。ただし使命を受けて(地上的言い方をすれば)低い界層へ“降りて”行けば別です。そうでない限り同じレベルの霊同士の生活が営まれます。やがてそのレベル以上に向上してくれば次のレベルへ進んで行きます。ですから一つの界層で対照的な生活が営まれる事が無い訳です。

とにかく私たちの世界には光と闇といった対照がなく従って影もありません。光だけです。光の中だけで生きていける段階まで到達した霊は、光とは何かについて完全な理解が出来ております。そうでなかったらその界層にはおれません。その界層に至るまではやはり光と闇の“錯覚の世界”である幽界に留まります。進化していくとそういう比較対象を必要としない段階に至ります。そうすれば実在の真相をより正しく理解するようになり、実相をあるがままに知る事が出来ます。

たとえば一輪の花にしても、もし霊眼によってその“全体像”を見る事ができれば地上では見られない美しさが鑑賞できます。霊眼には全ての物の内側と外側とが見えるのです。内側には地上のような外側だけの世界に見られない無限の種類の色彩があります。色調も無数にあります。そして物的感覚では理解できない霊的な実体感を有しております。私たちは地球の引力の作用を受けません。また永遠の光が存在します。魂が開発されるにつれて、その程度に相応しい美しさも開発されます。こちらは創造進化の世界です。そこに生活する者自らが創造していく世界です。」

問「昨今のスピリチュアリズムの動向をどう観られますか。」

答「潮に満ち潮と引き潮があるように物事には活動の時期と静止の時期とがあるものです。いかなる運動も一気に進める訳にはいきません。なるほど表面的にはスピリチュアリズムはかなりの進歩を遂げ、驚異的な勝利を収めたかに見えますが、まだまだ霊的真理について全く無知な人が圧倒的多数を占めております。いつも言っているようにスピリチュアリズムというのは単なる名称にすぎません。私にとってそれは大自然の法則、言い替えれば神の摂理を意味します。私の使命はその知識を広める事によって少しでも無知を無くする事です。その霊的知識の普及に手を貸して下さるのは、それが一個人であってもグループであっても、私はその努力に対して賞賛の拍手を送りたいと思います。神の計画はきっと成就します。私の得ている啓示によってもそれは間違いありません。地上における霊的真理普及の大事業が始まっております。時には潮が引いたように活動の目立たない時期がありましょう。そうかと思うとブームのような時期があり、そして再び無関心の時期が来ます。普及に努力するのがイヤになる人もおりましょう。が、こうした事は神の計画全体から見ればほんの部分的現象にすぎません。その中でも特に力を入れているのが心霊治療です。世界各地で起きている奇跡的治療は計画的なものであって決して偶発的なものではありません。その治癒の根源が霊力にある事に目覚めさせるように霊界から意図的に行っているものです。私は真理の普及に関して決して悲観的になる事はありません。常に楽観的です。というのは背後で援助してくれている強大な霊団の存在を知っているからです。私はこれまでの成果に満足しております。地上の無知な人々が我々の仕事を邪魔し、遅らせ、滞らせる事はできても、真理の前進を完全に阻止する事は出来ません。ここが大切な点です。遠大なる神の計画の一部だという事です。牧師が何と説こうと医者がどうケチをつけようと科学者がどう反論しようと、それは好きにさせておくがよろしい。時の進展と共に霊的真理が普及していくのをストップさせる力は彼らには無いのです。」

問「死後の世界でも罪を犯す事がありますか。」

答「ありますとも!死後の世界でも特に幽界というところは地上と非常によく似ています。住民は地上の平凡人とほぼ同じ発達程度の霊たちで決して天使でもなければ悪魔でもありません。高級すぎもせず、さりとて低級すぎもせず、まぁ普通の人間と思えばいいでしょう。判断の誤りや知恵不足で失敗もすれば、拭い切れない恨みや憎しみ、欲望などに囚(とら)われて罪悪を重ねる事もあります。要するに未熟である事から過ちを犯すのです。」

問「弱肉強食の自然界を拵えた創造主がどうして全てを愛する神であり得るのでしょうか。」

答「限りある知恵で無限の叡智を理解する事は出来ません。宇宙規模の問題を肉眼だけを通して覗(のぞ)いてみても、つまり限られた知性でもって理解しようとしても解決は得られません。全体のごく限られた一部しか見えないからです。確かに自然界には弱肉強食の一面があり、腹が空(す)けば互いに食い合う事もしますが、それは自然界全体としては極めて些細な話であって人間界と同様に動物界にも調和と協調の原理が働いております。チャンスに恵まれればその原理を如実に見る事ができます。

それとは別に人間としての責務に関わる一面もあります。つまり上に立つ者が低い進化の過程にある者にたいしてもつ責務です。人間も動物も、樹木や果実、花、野菜、小鳥などと共に、ひとつの生命共同体を構成しているからです。全生命は進む時は共に進み、後戻りする時は共に後戻りします。ですから人間が愛と慈悲と同情の心を発揮すれば、それこそオオカミと小ヒツジが相寄添って寝そべるようになるでしょう。」

問「人間1人ひとりに守護霊がついているのですか。」

答「母胎内での受胎の瞬間から、あるいはそれ以前から、その人間の守護の任に当る霊が付きます。そしてその人間の死の瞬間まで与えられた責任と義務の遂行に最善を尽します。守護霊の存在を人間が自覚するとしないとでは大いに違ってきます。自覚してくれれば守護霊の方も仕事がやり易くなります。守護霊は決まって1人だけですが、その援助に当る霊は何人かおります。守護霊にはその人間の辿(たど)るべき道があらかじめ分っております。が、その道に関して好き嫌いの選択は許されません。つまり、自分はこの男性にしようとか、あの女性の方が良さそうだ、といった勝手な注文は許されません。こちらの世界は実にうまく組織された機構の中で運営されております。」

問「地上で犯す罪は必ず地上生活で報いを受けるのでしょうか。」

答「そういう場合もあれば、そうでない場合もあります。いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活期間中に成就されるとは限りません。しかし、いつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり両者を切り離す事はできないのです。しかし、いつ成就されるかという時間の問題になると、それはその原因の性質いかんに関わってきます。すぐに結果の出るものもあれば地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)といったお情けはなく機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それなりの結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分りません。それは様々な事情の絡(から)んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である“霊性の進化”にある事だけは確かです。」

問「死とは何かを子供にどう説かれますか。」

答「その子供に理解力があればの話である事は無論ですが、死とは小鳥が鳥カゴから放たれて自由に羽ばたくように肉体から解き放たれて、より大きな生活の世界へ進んで行く事であると説明しましょう。」

問「いたいけない幼児が不治の病で苦しむのは何か原因があるのでしょうか。これで神が公正と言えるだろうかと思う事がありますが…。」

答「本来霊的な問題を物的尺度で解決する事は出来ません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断する事は出来ません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけでもって理解する事は出来ません。小さな者が自分より大きい者を理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解できるでしょうか。

宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡智によって創造されているからです。法則が狂うという事は絶対にありません。時に不公平のように思える事があるのは全体の一部だけを見ているからです。全体が見えるようになれば考えが変ります。地上にいる限り、その短い期間で無限を理解する事は出来ません。

埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬(たと)えるべきものが地上に無いのですから人間には理解する手掛かりが無い訳です。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。

子供の身体(からだ)は両親の血と肉で拵えられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受継がれていくに決まっています。ですから子供は両親の身体的欠陥まで頂戴する事になります。

しかし子供は誕生という行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌(しの)ぐ事はできません。物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意が出来た時に初めて得られるものです。私たちの説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それに何らかの感動を覚えた時、その人はその後に待受ける数々の真理をりかいしていく用意が出来た事を意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すような事をしてはいけません。」

問「心霊的能力の発達は人類進化の次の段階なのでしょうか。」

答「霊能者とか霊媒と呼ばれている人が進化の先駆けである事に疑問の余地はありません。進化の梯子(はしご)の1段上を行く言わば先遣隊です。そのうち心霊的能力が人間の当り前の能力の一部となる時代が来ます。地上人類は今“精神的”発達の段階を通過しつつあるところです。この後には必然的に“心霊的”発達の段階が来ます。

人間が五感だけを宇宙との接触の通路としている哀れな動物では無い事をまず認識しないといけません。五感で知り得る世界は宇宙のほんの一部です。それは物的手段で感識できるものに限られています。人間は物質を超えた存在です。精神と霊で出来ているのです。その精神と霊にはそれなりのバイブレーションが備わっており、そのバイブレーションに感応する別の次元の世界が存在します。地上にいる間は物的なバイブレーションで生活しますが、やがて死を経て高いバイブレーションの世界が永遠の住処(すみか)となる日が来ます。」

問「霊界のどこに誰がいるという事がすぐに分るものでしょうか。」

答「霊界にはそういう事が得意な者がおります。そういう霊には簡単に分ります。大ざっぱに分類すると死後の霊は、地上へ帰りたがっている者と帰りたがらない者とに分けられます。帰りたがっている霊の場合は有能な霊媒さえ用意すれば容易に連絡が取れます。が、帰りたがらない霊ですと、どこにいるかは簡単に突き止める事ができても、地上と連絡を取る事は容易ではありません。いやだというのを無理やり連れて来る訳にはまいりません。」

問「永遠の生命を考えると、地上でのこんな限られた物的体験に意義があるのでしょうか。」

答「永遠も無数の小さな体験の総計から成立つのです。1つの体験、1つの行為、1つの言葉、1つの思念にも、それがいかに小さなものであってもそれなりの意義があります。そうした細々とした体験の寄せ集めが永遠を作るのです。そのうち1つが欠けても完全性を失います。例えば2、300名から成るオーケストラの中でトライアングルを1度だけ鳴らす人がいるとします。分量から言えば全くささやかな存在ですが、もしその人が、そのたった1回の演奏で音階を間違えたらどうなりますか。あるいは音が弱すぎて聞き取れなかったらどうなりますか。オーケストラ全体が台無しになるでしょう。分りますね。あなた方の地上生活での体験もそれと同じ事です。1つひとつが魂の陶冶(とうや)のための一部 – 大切な一部を担っているのです。その体験は永久に魂に刻み込まれていきます。」

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11章 おしまいに

地上の人間は“身体(からだ)”を中心に物事を考えます。私たち霊界の者はその身体を通して自我を表現しなければならない“霊”の事を第1に考えます。その霊が正常に自我を表現しておれば、身体との関係も自然にうまくいきます。なぜなら物質は常に従者の立場にあり、主人ではないからです。霊が王様で物質はその従臣だという事です。

この真理が今日ここにお集まりの方々の人生を明るく照らし、大きな革命をもたらして参りました。自分とは何かを見出されました。地上の言語では表現できない真理、地上の富では評価できない悟りを得てこられました。

霊こそ実在であるという真理は永久に不変です。これが全ての謎を解き、全てをあるべき位置にあらしめるカギです。大切なのは身体への影響ではなく、魂の琴線に触れる体験です。ですから、私はこれより先のあなた方の生活に問題が生じないとは決して申しません。苦労がないとも申しません。障害やハンディを背負う事がないとも申しません。もしそんな事を言えばウソになります。

地上生活は内部の完全性が不完全な環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落としていく試練の場です。霊的開発と成就への道においては困難と苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。もし霊的な宝が容易に手に入るものであれば、それはもはや手に入れるほどの価値はない事になります。自己鍛錬、自己制御、自己開発、これを成就するのが人生の目的です。これは容易にできるものではありません。王道はないのです。

悪戦苦闘する事、暗闇の中に光を見出さんと努力する事、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わう事 – 魂はこうした体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍する事ができるのです。“ゲッセマネの園”を通らずして“変容の丘”へ辿りつく事はできません。ナザレ人イエスの生涯は地上の人間の全てが体験するものと本質において同じものです。敗北も勝利もともに必要です。敗北の味を知らずして勝利の味が分るでしょうか。

私は日常生活で是非とも活用すべき教訓をできるだけ簡潔に述べようと苦労しているのです。決して難解な哲学ではありません。いたって実用的な霊的教訓なのです。それが人生から然るべきものを体得する方法を教えてくれます。魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表れます。即ち真の自我を見出した事から生まれる魂の平安と自信です。魂がその状態になった時を“悟った”というのであり“神を見出した”と言うのです。そうなれば人生のいかなる苦しみにも悲しみにも負ける事はありません。なぜなら悟りを開いたあなたはいついかなる時でも神の兵器庫の扉を開ける事ができるからです。また、あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほど重い荷を与えられる事はありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです。

私はこうした真理をあなた方だけでなく他の多くの方々の説いてまいりました。それが常に心に住みついているようになれば何ものにも脅(おび)えることがなくなる事を知っているからです。霊の力は絶大です。しかし、その力も通路のあるところにしか流れません。あなた方がその通路なのです。あなた方がその通路を提供して下さり、その通路を通って霊力が地上に流入する。具体的に言えば、喜んで人のために役立とうとする心と精神と霊とを用意して下さる事が、その霊力の流入する条件を提供する事になるのです。かくして霊力があなた方を通過する際に必ずその一部があなた方の中に蓄積されてまいります。そしてそれが、あなた方自身の霊的な糧となりましょう。そうなった時のあなたは、自分の方から心の隙を見せない限り、この世に悩みなど全くなくなります。

あなた方はいろいろと多くの教訓を学んでこられました。教訓は自分で学ばねばなりません。私が代りに学んであげる訳にはいきません。私たち霊界の者にとっていちばん辛(つら)いのは、愛する人間が困難の中にあって必死に頑張っているのを傍観する事です。傍観と言っても何もしないという意味ではありません。できる限りの援助はいたします。しかし魂の成長にとって掛けがえのないチャンスを奪うことになる事だけは許されないのです。

イエスは「神の御国はあなた方の中にある」(ルカ17・22)と言いました。実に偉大なる真実です。神はどこか遠く離れた近づき難いところにおられるのではありません。実にあなた方1人ひとりの中にあり、同時にあなた方は神の中にいるのです。という事は自分の霊的成長と発達にとって必要な手段は全て自分の中に宿しているという事です。それを引き出して使用する事が、この世に生まれてきたそもそもの目的なのです。

私はこれまでの身をもっての体験から、宇宙を支配する霊力に不動の信頼を置いております。一分一厘の狂いもなく、しかも深遠なる愛の配慮のもとに、全大宇宙の運行を経綸(けいりん)する神的知性に私はただただ感嘆し、崇敬の念を覚えるのみです。もし地上人類が、その神の心を我が心として摂理と調和した生活を送る事ができれば、地上生活は一変する事でしょう。その力はいくらでも授かる事ができます。神がわが子に施す恩寵ほど気前のよいものはありません。

ですから決して絶望してはいけません。落胆してはいけません。くよくよしてはなりません。心に不安の念を宿してはなりません。恐怖心を近づけてはなりません。取越苦労は蹴(け)ちらしなさい。そんな憂鬱な有難からぬ客を絶対に魂の奥の間へ招き入れてはなりません。

人生の背後に秘められた目的を悟り、それと一体となった時、一時的にせよあなたの魂に霊的な静寂が訪れます。内と外からあなたを守る霊の力に身を委ねる事です。きっと援助を授けてくれます。歩むべき道を明確に示してくれます。問題に遭遇した時は、地上の雑踏、混乱、かんかんがくがくの論争から身を退き、魂の静寂の中へ引きこもり、霊の啓示を待つ事です。

霊の宝石は決して色褪(あ)せる事がありません。地上的財産をふんだんに所有している人は、自分がその財産の管財人にすぎない事に気づいておりません。本当は自分のものではない気づいておりません。霊的真理を悟った人にとっては、知識に責任が伴うように、財産にも責任が伴います。あなた方は宇宙最大の霊力の道具です。大司教(※)の礼服を着る必要もなければ、枢機卿(※)の指輪をはめる必要もありません。それはただの装飾品にすぎません。

実在とは何の関係もありません。あなた方を通路として働いているところの霊力は全ての法王、全ての大司教、全ての枢機卿より偉大です。宇宙最大の力なのです。(※ともにカトリック系キリスト教会の最高位の聖職。 – 訳者)

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12章 シルバーバーチの祈り

ハンネン・スワッハー・ホームサークル、すなわちシルバーバーチ交霊会は決まってシルバーバーチの祈りの言葉で始まり、終わりも必ずシルバーバーチの祈りの言葉で締めくくられる。祈りの内容は大同小異であるが、その表現は1つひとつ違い、出席者はその妙味に感嘆させられるのが常である。その中から典型的なものを紹介する。

神よ – 天地の創造主、至尊至高の絶対的な力、全存在の宿命の統括者にまします神よ、私たちはこれまであなたの得さしめ給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。

私たちの為に暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私たち自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私たちを栄光と光輝とによりて温く包んで下さったその叡智に対して深く感謝いたします。

私がこうして存在する事の真の理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私たちをお導き下さるその愛に深く感謝いたします。

また、私たちのために真理普及の道を切り開いて下さった先達(せんだつ)の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者たち、その他、宗教家、哲学者、賢聖 – そのうちのある者は地上にて名も知られず、死して漸(ようや)くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかずにおりますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。

これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。皆々と共に感謝の言葉を捧げると共に、代りて私たちがあなたの御力の通路となり、あなたの御計画推進の一翼を担い、御子たちのために役立つ事ができますよう導き給わん事を。

ここに、ひたすらに人のために役立つ事をのみ願うあなたの僕(しもべ)インディアンの祈りを捧げ奉ります。

(注釈 – 祈りの初めあるいは途中で神に呼びかける時、シルバーバーチは必ず Great White Spirit という言い方をします。普段の霊言の中では神の事を Great Spirit – 時に God – と言っており、これを文字通りに訳せば“大霊”という事になります。我々1人ひとりが“霊”で、その生みの親である神を“大霊”というのは理屈では分かりますが、これでは日本人にとって古来“神”という“文字”およびそれを口にした時の“響き”から受ける崇敬の念が感じ取れません。そこで私はこれまで、ある時は神と訳しある時は大霊と訳したりしましたが、これにさらに white という形容詞がつくと、もはや日本語では訳せなくなります。と言うのは、シルバーバーチはホワイトという用語を“無色”の意味で用い、それによって“無垢”を象徴させているのですが、英語ではそれでよいとしても、これを“白い”とか“白色の”とか“無色の”とかの日本語に直すと、日本語特有の感覚的な“味”が強く出て理解の妨げになります。

その点、カミという言葉は、言霊的にみても響きの上からもシルバーバーチの説く God あるいは Great Spirit とぴったりであるとの考えから、私は祈りの冒頭の Great White Spirit もあっさりと“神”と訳しました。

またシルバーバーチは祈りの最後に必ず“あなたの僕インディアン”your Indian servant と言うのですが、このインディアンがシルバーバーチ霊その人でない事は「まえがき」で編者がハンネン・スワッハーの言葉を引用して解説しています。しかしこのインディアンの霊も紀元前の古代霊であり、神界 – 少なくとも地球圏の最高界 – の波長を受信できるほど進化した高級霊である事は間違いありません。

霊界の霊媒として元インディアンだった霊を使った事は、インディアンが民族的に心霊能力が優れている事も理由のひとつでしょうが、私は、これまで白人中心の文明思想に毒されてきている地球人類への戒めが込められていると観ております。それはシリーズを読み通していただけば、きっと読み取っていただけるものと思います。)

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訳者あとがき

本書はハンネン・スワッハー・ホームサークルのメンバーの1人アン・ドゥーリー女史が編纂した Guidance from Silver Birch(シルバーバーチの導き)の全訳である。

巻頭で紹介したように、霊言集は11冊あり、1冊1冊に編纂者の特色が出ていて興味深い。交霊会は開会の祈り – 講話 – 質疑応答 – 閉会の祈りというパターンになっているが、その質疑応答は主に招待客との間で行われるから、そのつど新鮮味があり、シルバーバーチも巧みに質問者に合った説明をするので聞く者を退屈させない。その相手が著名な学者である事もあれば、心霊研究家や心霊治療家である事もあり、青年牧師である場合もあれば、幼い子供たちである事もあり、それが霊訓の内容を多彩なものにしている。

本書に収められたのは大部分が講話の部分であり、質疑応答も割に平凡なものを1つの章にまとめており、全体としてみればシルバーバーチ霊訓のエキスのようなものになっている。『古代霊は語る』を読まれた方には少し物足らなさを感じられるかも知れないが、シリーズである以上は全体としてのバランスを考えねばならず、その意味で本書は初めての方にとっての格好の“入門書”であるとみて選んだ。巻末の「霊的啓示の系譜」はこれに物足らなさを感じられる方への配慮と受け取って頂きたい。

近藤 千雄

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解説 霊的啓示の系譜

歴史的に辿(たど)れば、人類全体としての啓発に寄与するほどの霊的啓示は、各民族固有の宗教の起原となった聖典に求める事ができよう。モーセの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。

これらの中でも日本の古神道いわゆる神ながらの道の思想は人工的夾雑物(きょうざつぶつ)が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起原においては霊的であっても、時代と共に人間的主観によって歪められていくという事である。

“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて今なお欧米においてロングセラーを続けているモーゼスの『霊訓』の中で、インペレーターと名乗る最高指導霊(実は旧約聖書に出てくる予言者マラキ)がこう述べている。

「…聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然(さんぜん)と輝く偉大なる霊の数々がある。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去りてのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その1人 – 神が人間に直接的に働きかけるものとの信仰が今より強く支配せる書記の時代の1人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキゼデクがいる。彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用するために世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲(ゆず)ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれた事を意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当りては事実の記録と単なる信仰の表現にすぎぬものとを截然(さいぜん)と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄(つじつま)の合わぬ言説が豊富に見受けられる。それらは伝えられるがごとき秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めにすぎぬ。それ故、確かに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の1つひとつに無条件の信頼を置く事は用心せねばならぬ。」

こう述べた後、キリスト教を例にしてその啓示の系譜を明らかにする。

「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者 – イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者 – モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強力なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位にふさわしき人物とした。その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界各地へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては、他の民族も同様に体験せる段階そして現代も重大なる類似性をもつ段階、すなわち古きものが消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階であった。

ここでもまた、推理を過ってはならぬ。モーセの制定せる律法は汝らの説教者たちの説くがごとき、いつの時代にも適応させるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。

(中略)

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた、真理の一面にすぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えたる者に字句通りに当てはめるべきものにはあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。

(中略)

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤの指導霊として長く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんが為に他の分野における多くの霊的事象に言及する事を意図的に避けている。またその巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後もなお地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。がそれは今の汝にはかかわりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘(きょうあい)なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ。」

さてスピリチュアリズムは、人類が知性の飛躍的発達とともに霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回しはじめた19世紀半ば頃に勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手する事に成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』並びに『霊媒の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全11巻である。

以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙にいとまがないほどであり、内容的に貴重なものも少なくない。もっと言えば、立派な通信を入手しながら、様々な事情から公表をあきらめたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方の生活』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。

「さて、“聖職者というものは何でもすぐに信じてしまう”というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”というものを生命とする職業である以上は、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。が、私は声を大にして断言しておくが、“新しい真理”を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。ちなみに私が本通信を“信じるに足るもの”と認めるまでにちょうど4分の1世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信というものが実際に存在する事を認めるのに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適(かな)っている事を明確に得心するのに15年もかかった。」

国教会の牧師だったオーエンはこれを出版した事で教会長老の怒りをかい、“回心”を求められたが頑として聞き入れず自ら辞職している。可能性としては身の安全のためにそれを公表せず焼却処分にする事も有り得た訳であり、現実にそういうケースが他にいくつもあったであろう事は十分に推測される。

さて『霊訓』の一節に人類の進歩とともに啓示の内容も進歩するという件(くだ)りがあるが、右に紹介した霊界通信にしぼってみてもそれがうかがえる。例えば『霊訓』の中においては“再生”の問題は一切見あたらず、モーゼスの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅(わず)かに散見される程度である。この続編はモーゼスの恩師であるスピーア夫人が審神者(さにわ)となって得た霊言を主体に収録されているが、の中に次のような箇所がある。

「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずる事の出来る問題である。大神のご臨席の元に神庁において行われる神々の協議の中身につきては、神庁の下層部の者にすら知る事を得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その1つが霊魂の究極の運命である。神庁において神議(はか)りに議られしのちに、1個の霊が再び地上へ肉体をもって生まれるべしと判断されるか“否”と判断されるかは誰にもわからぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては良きに計らわれるであろう。

すでに述べたごとく、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実にはあらず。また偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送る事はある。他にもわれらなりの配慮により公言を避けている一面もある。まだその機が熟していないからである。霊なら全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう公言する霊は自ら己れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ。

これはインペレーターの霊言である。末尾“他にもわれらなりの配慮により云々…”という言葉から伺えるように、再生は“あるにはある”といった程度に止めている。

これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対的条件として前面に押し出し、“人間の言語ではその真相がうまく伝えられないが…”と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。本書(アン・ドゥーリー編)では再生に関する具体的な霊言は収録されておらず、僅(わず)かに第10章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の10巻の全部で詳しく説かれている。

霊媒のモーゼスもバーバネルもともに英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする2つの霊的啓示が、一方は“まだその時機でない”という態度を取り、他方が“今こそその時機である”という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに“啓示の進歩”を物語るものと観てよいであろう。

今も述べたように、さきに列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求める事ができるという意味である。すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で1つのクライマックスを迎え、それがいったん埋もれたあと、19世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言あるいは自動書記の形で地上へ奔出し始めたと観る事ができる。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。

「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんがために物質界へ降りた多くの神の使徒の1人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮のもとに成就されつつあるところです。

(中略)

イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今なお、2000年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働きかけております。その間イエスの霊は数え切れないほど何度も“はりつけ”にされ、今なお毎日のようにはりつけにされております。」

– あなたが“ナザレ人イエス”と言う時、それは地上で生活したあの人間イエスの事ですか、それともイエスを通して働いている霊的威力の事ですか。

「あの人間イエスの事です。ただしその後イエスも向上進化し、地上時代よりはるかに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わさざるを得なかったのです。それでもなお、地上の人間でイエスほど霊の威力を発揮した者はおりません。イエスほど強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません。」

– この2000年の間に1人もいないのでしょうか。

「いません。前にも後ろにもおりません。地上という世界があの時代ほど偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私たちは地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのは、どれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合いが決まるのです。」

– 霊界には今後イエスのごとき人物を地上へ送る事によってさらに奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。

「様々な民族の必要性に応じて、様々な手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているという事です。各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他もろもろの制約があります。が、啓示の由(よ)って来る究極の淵源はみな同じです。」

100年を生きるのがやっとというわれわれ地上の人間にとって2000年とか5000年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い1時期にすぎないのであろう。巷間にはこれから後の僅か100年200年について、やたらに悲愴感を煽(あお)るもったいぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖(お)じけつかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。もっとも、悠久の目をもって見れば“悪質なイタズラ”程度のものなのかも知れないが。

純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的啓示の系譜の中に如実に見られる一大特質である。

筆者が今携わっている仕事は西洋的系譜の啓示を日本へ輸入する事であるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。私見によれば、それはたぶん神道的色彩を帯びる事であろう。そしてそれを西洋へ逆輸入する形になるのかも知れない。そうする事によって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、いわゆる地上天国が築かれるのではなかろうか。

ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識をもつのは、1人筆者のみではないと信じている。

では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。“新しい啓示”と“古い啓示”との間の矛盾の問題に言及してインペレーターはこう述べている。

「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と矛盾するという事は有り得ぬ。ただしその真理は常に時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入してはせっかくの品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純であり“この世的なもの”となってしまう。

やがて新しき啓示が与えられる。がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はない。が、矛盾せるがごとく思わしめるところの古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

神は決して押し売りはせぬ。このたびの啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者を見るがよい。自国民に受け入れられた者が1人でもいたであろうか。

神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意の出来ている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。」

新装版発行にあたって

多くの読者に支持され、版を重ねてきた、このシリーズが、この度、装いを新たにして出される事になりました。天界のシルバーバーチ霊もさぞかし喜ばしく思っていてくれている事でしょう。

平成16年1月
近藤 千雄

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2022年12月12日

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†