イエスの少年時代

2023年5月12日

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霊界通信 イエスの少年時代 貧窮の中の小さな王者

G・カミンズ著
山本貞彰訳

THE CHILDHOOD OF JESUS
By Geraldine Cummins
Psychic Press Ltd.
London, England
First Printed 1937
This Edition 1972

【目次】

絶好の訳者を得て 近藤千雄

ジェラルディン・カミンズといえば日本ではマイヤースの通信『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』で知られている。この2編がスピリチュアリズム思想に飛躍的な発展をもたらした重大な霊界通信である事に異論を唱える者はいないが、カミンズの評価が日本ではとかくこの2編のみで行われる事に私は密かに不満を覚えていた。

と言うのは、カミンズの自動書記通信にはその2編の他にキリスト教の根幹に関わる重大な通信が幾編か存在するからである。イエスの少年時代を扱ったThe Childhood of Jesus、同じくイエスの青年時代を扱ったThe Manhood of Jesus、バイブルの「使徒行伝」と「ロマ書」の欠落部分を埋めるといわれる年代記Scripts of Cleophas、同じく「使徒行伝」のパウロのその後の足跡を綴ったとされるI Appeal Unto Caesar、そして同じくパウロの晩年、暴君ネロの時代を描いたWhen Nero was Dictatorである。

私がこれらを重大な資料と見なす理由は、その通信内容をスピリチュアリズムに全く関心のない、否、むしろ内心は否定したく思っていたはずの第1級の聖書研究家や神学博士が徹底的に吟味して、これに“正真正銘”の折紙をつけている事である。

さて私もこれまで英国の霊界通信をいくつか翻訳してきた。当然の事ながらそれらはキリスト教的色彩が濃い。幸い私はキリスト教系の大学の英文科に学び、キリスト教について“常識的”な知識は具えていたので何とか訳す事ができたが深い専門知識を必要とする通信は、正直言って全く歯が立たなかった。そして原書は空しく書棚の片隅で眠り続けていた。

そんな時、昭和60年11月半ばの事であったが、私の訳書の1読者から1通の封書が届いた。20数年に亘ってキリスト教聖公会で司牧された経歴を述べ、さらに今スピリチュアリズム思想に出会ってキリスト教に対する観点が大きく変わりつつある旨を述べ、その上で今後の自分の進むべき道について私の助言を求めてこられたのだった。それが本書の訳者、山本貞彰氏である。

その後山本氏と文通を何度か交わしているうちに私は、この人こそカミンズのキリスト教関係の通信を訳すべきだという直感を得て、まず本書の原書を進呈してみた。私の直感は間違っていなかった。氏はその通信の内容上の重大性と同時に、その文学的な美しさに魅せられ、さっそく翻訳を思いたたれ、そしてこの度ついに完訳された。キリスト教界からすっかり身を引かれた今、氏はそのシリーズの翻訳を畢生の事業と心に決めておられる。私は氏はそれを最大の使命として生まれて来られた方だと信じている。これまでのキリスト教との縁もその布石だったに違いないのである。

日本はキリスト教国ではないとは言え、その信仰が大勢の日本人の人生に多大の影響を及ぼしている事は紛れもない事実である。私は在来の一宗教としてのキリスト教は忌避するが、キリストの説いた基本的真理はスピリチュアリズムと相通じるものであり、正しく理解すれば、日本にも無くてはならぬ存在価値を持つものと信じている。

イエスならびにその使徒たちの時代に関するこうした一連の霊界通信が“正真正銘”であるという事は、キリストをはじめとしてその使途たちが死後もなお存在し続け、ほぼ20世紀後の今、カミンズという秀れた通信回路を得て地上へ情報を送ってくれたという事を意味する。

願わくばキリスト教関係者がその事実を事実として素直に直視して、キリストの教えの真髄を理解する一助とされる事を切望してやまない。

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序文 エリック・パーカー

この本は、とても美しい物語です。私はこれを何と表現したらよいか分りませんが“幻の書”とでも言っておきましょう。

腕の悪い大工というイエスの見方は、おそらく伝統的考え方には見当りませんし、ヘリという浮浪者と旅をする事や、砂漠の部族に関しては、私が他の書物でお目にかかった事がなく、初めて知った事であります。

著者は、パレスチナ地方に関してかなり詳しく熟知しておられるようですが、私には、設定されている舞台が一種の霊界と呼べるところで語られているようにも思えるのです。

それにしても登場人物は、強烈な個性を持った人間として生きぬき、仲違いをする男女として描かれ、私たちと同じような行動様式が示されています。

中心的人物、イエスについて私が最初に感じた事は、実に“愛すべき人間”という事であり、実はこの事が物語の美しさを作り出す泉となっているのです。文体も又不思議な程美しく、話法も平易であるため、この作品は広範囲の大衆の心をとらえるのではないかと信じるものであります。

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※地図<新約時代のパレスチナ、新約時代のエルサレム> 主な登場人物

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主な登場人物

ゼリータ…マリヤの祖母
マリヤ・クローパス…ヨセフの実姉
キレアス…ゼリータの従兄弟
ベナーデル…ナザレの律法学者
ヘリ…異邦人、エジプトの人
シケム…神殿づきのパリサイ人
ハレイム…ナザレの魚問屋
ハブノー…流浪の部族の長

※イエスの弟妹
トマス
ヤコブ
セツ、ユダ(双生児)
レア(妹)

※クローパス家の息子
ヤコブ
ヨセフ
シモン
ユダ

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1 マリヤの誕生

ユダヤ民族がローマの支配下にあって大いに苦しんでいた頃、ある若い漁師と妻がガリラヤ湖の岸辺に住んでいた。舟と網を操る男とその妻は、2人とも素朴な人間で、お互い同士の事以外は何も考えず、近所付合いもせず親戚の所にも行かなかった。

2人だけで充分に満足していたからであった。深い愛の結晶として女の子を授かり“マリヤ”と名付けた。マリヤはこの夫婦を有頂天にさせたが、その後何年たっても子宝に恵まれず夫は悲嘆に暮れていた。それがもとで彼は仕事の張りをすっかり失くしてしまった。

ある日の事、マリヤの居る所で、父は母及び父の祖母ゼリータに彼の悲しみの原因をうちあけた。娘のマリヤは心を痛め、自分が何か過ちを犯して父の大きな重荷になっているのではないかと恐れた。マリヤは祖母ゼリータに言った。

「私が男の子でないためにお父さんを悲しませています。どうしたらお慰めできるんでしょうか」祖母は答えた。「お前はどんな事をしても聖書に書いてある事を変える事は出来ないよ。お父さんはね、ローマの支配を粉砕し、神の民イスラエルを苦しみから解放し、地上の諸国を立ち上がらせる事のできる息子が欲しいと願っているんだよ」

更にマリヤが尋ねると祖母は預言者(※1)の言ってる事を教えてくれた。なんでも救いのために1人の男が現われ、聖なるエルサレムを征服者の手から奪還しユダヤ人を偉大な民族にするというのである。

マリヤは言った。「そんなら私はだめね、女なんですもの」マリヤの表情は暗かった。ゼリータはマリヤを抱きよせて接吻し、微笑みながら言った。「神さまのなさる事はとても不思議なもので、誰にも分らないんだよ。

お前が大きくなったらユダス・マカビー(※2)よりもっと偉い男の子を産んでちょうだいね。立派な預言者になって異邦人を照らす光となりイスラエルの神の前に全ての人がひれ伏すようにさせるのよ。ああ早くそんな日が来たらいいのにね」マリヤは祖母が言ってる事が殆ど分らなかったが、とても嬉しかった。

それからというものはガリラヤの湖畔で遊ぶ子供たちの誰よりも喜々として日々を送った。マリヤは両親のしつけによく従い、他の子供たちとは遊ぼうとしなかった。月日がたつにつれて漁師の心を痛めた悲しみは次第にうすれていった。

彼は遂に男の子が授からないのは神の思し召しであると断言した。現在4人が仲良く暮らす事で満足した。そのかわりに神は他の面でふんだんに恵みを与えたのであろうか、この漁師の家は栄えた。彼の網さばきは絶妙で、銀色の魚が大量に取れ、飛ぶように売れたからである。

彼らは陽当たりのよい、沢山花が咲く所に住んでいた。冬の寒さにうたれる事はなく、夏の日差しに庭の植物が焼かれる事はなかった。その辺の土地は水利に恵まれていた。彼らは望むものは全て与えられた。マリヤはすくすく成長し花のような美しい乙女になって幸せな日々を送っていた

マリヤの母は歌いながら家事に専念し、祖母は愛にあふれている家族のためにいつも感謝の祈りを捧げていた。大抵の男女は貧乏や争い事のために苦労しているのだが、ゼリータの息子と嫁の2人は一心同体で何ひとつ心配の種はなかった。

初冬のある日の事、太陽は顔を出さず強い風が吹いていた、風は山の方から湖を横切って吹き荒れていた。一瞬湖面に変化が起こった。恰も目に見えない農夫たちが湖の上を竿で叩きながら横切って行くかのように、泡が踊り狂ったようにシューシューと音を立て、怒り狂った波が天に向かって跳ね上がる勢いであった。

ゼリータの息子の舟はとても古くて小さな穴があちこちに開いており、そこから水が浸入してくるのであった。漁師たちは勇敢に働いていた。突然激しい突風が山側から吹いてきて、まるで獰猛な鷹のようにゼリータの息子の船を襲った。あっという間に舟は荒れ狂った波の中にのまれてしまった。空は真黒で黒ずんだ雨が湖面に降り注ぎ、岸からは漁師たちの舟は全く見えなくなっていた。重苦しい夜の帳が唸り声を上げている地上に降りてきた。

女たちは1ヶ所に集まって、湖上で右往左往している男たちのために嘆き悲しみ、真剣に祈っていた。月や星のない陰うつな時が流れた。何の徴(しるし)もないままに東の丘に夜明けの気配を感じる頃、微かな望みがわいてきて、女たちの真剣な祈りがきかれたのではないかと思えるようになった。

夜が明けて風が静まり、漁師たちが岸辺に戻ってきた時はみんな感謝の祈りを捧げた。しかし彼らは悲しい報せをもってきた。ゼリータの息子の舟は前夜の夕暮頃波にのまれて沈んでしまったのである。太陽が天高く昇った頃、湖には再び静けさが戻ってきた。

天空はまるで神がまたいで歩かれたようにキラキラと光り輝いていた。世界が再び微笑みかける頃、5人の男たちがマリヤの住んでいる家に重い荷物を運んできた。彼らはひとことも語らずに頭を下げ、奥の薄暗い部屋へ進んで行った。

祖母が床の上に広げたリネンシーツの上に息子の傷だらけの亡骸を安置した。マリヤの母は激しい戦慄に襲われた。娘のマリヤが見ていて恐ろしくなるくらい激しく震えていた。マリヤも震えながら頭をたれていたが誰もマリヤが居る事に気付かなかった。

なぜならば母が父の亡骸の側に卒倒して動かなくなってしまったからである。この夫婦はガリラヤ中でこれほどまでに愛し合った者はいない位相思相愛の仲であった。生前すごしてきた2人の日々は、思いも心も全くひとつであった。彼らにとって天国は彼らの居る所であった。

だからこそこの瞬間はマリヤの母にとって暗黒と絶望であった。この2人は森の中の若樹のように強かった。だが遂に2人は逝ってしまった。夫が他界した直後に彼女の霊も間もなく暗黒に閉ざされた肉体を離れ去ったのである。

祖母は突然逝ってしまった息子夫婦のために香料と亡骸を包む布の用意を整えてやらねばならなかった。亡骸は岩を削って作られた墓の中に納められ永遠の休息に入った。

葬式が終ってからマリヤは祖母のところに行き、服の折り目の中に顔を埋めながら死んだ父母を生き返らせて欲しいとしきりに祈るのであった。祖母はマリヤを何度となく慰めてやり、これからは神様が父であり、祖母が彼女のお母さんになるんだよ、と言いきかせた。

(※1)旧約聖書のイザヤ書7・14 – “それゆえ主はみずから1つのしるしをあなたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を生む。その名はインマヌエルととなえられる。”(イザヤは紀元前8世紀に活躍した4大預言者の1人)

(※2)紀元前175 – 164、シリヤ王アンテオコス4世エピファネスは、ユダヤ人を迫害し、エルサレムの神殿に押し入り、異教の祭壇を築いてユダヤ人の怒りをかった。その時老祭司マタテアスが立ち上がり義勇軍を結成し、息子ユダスはシリア軍を撃退してユダヤに勝利をもたらした。以来ユダスの名はユダヤ救済の英雄として語り伝えられた。

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2 マリヤの悲願

ガリラヤ湖の岸辺にあった家を売って、ゼリータとマリヤはナザレにやってきた。(ナザレはガリラヤ湖の西方に広がる丘陵地帯で北部パレスチナに散在するガリラヤの町のひとつ。ルカ2・26参照 – 訳者註)

2人は野原に建っている羊飼いの小屋に住みついた。ガリラヤの人たちは皆親切で、たえ間なくゼリータのところに心暖まるものを運んできた。無花果や何匹かの魚をとどけたり、収穫のときなどには、小麦などをもってきた。死んだ父親は布にかなりのお金をくるんで残してくれたので、祖母とマリヤが貧乏をしていても大いに役立った。ゼリータは年をとるにつれ外出もできなくなっていた。

真昼の日差しが小屋の中にさしこんでいてもゼリータは手探りで歩かねばならなかった。このような苦しみの中にあっても彼女は悲しむことがなく、以前の元気な頃のように彼女は多くの恵みを神に感謝するのであった。そんな祖母を見てマリヤはたずねるのであった。

「愛する者がとり去られた上、視力を失い、働くこともできなくなり、自分で家の入口のところまで歩いていくのにやっとのことだというのに、どうして賛美の祈りなんかできるんですか?」そこでゼリータはおだやかに言った。

「苦しみが与えられるには、必ず目的があるのです。苦悩から本当の喜びと勝利が生まれてくるのです。イスラエルの民はエジプトによって随分多くの苦しみを受けたじゃありませんか。そのあとで乳と蜜のしたたる約束の地が与えられたのですよ」マリヤは祖母の話をきいておだやかになり、もっと先祖の話をして欲しいとねだった。

薄暗い小部屋の中で昔の偉大な人物について多くのことをマリヤは知ることができた。視力を失った祖母が聖書について語る内容があまりにもすばらしかったので、時々マリヤは目の前に本当の人物が現れて動きまわるように思えた。

少年ダビデが、まる腰で彼女の前に立ちはだかり、手には石投げ器だけを持ち、暗がりの中からペリシテ人の巨体がぬーと現れたかと思うと少年ダビデの投げた石に撃たれて倒れてしまい、小さな住まい一杯に巨体を横たえるのであった。

マリヤはガリラヤからまだ一歩も外に出たことがなかったが、金色の屋根に輝くエルサレムの神殿などを真近かに感じることができた。彼女はまた、ペリシテとの戦いや、バビロニアによる攻撃によって民族全体がバビロニアに捕囚となる悲劇や民族の嘆きなどを知ることができた。

さらに多くの預言者たちが1人ずつ目の前に現れては通りすぎて行った。イザヤ、エリヤ、エレミヤといった偉大な預言者や沢山のすばらしい人たちが、ゆったりとした衣を身にまとい、高貴な表情をうかべて語ったことは“乙女がみごもってイスラエルの救済者が生まれる”ということであった。ユダヤ人にとって忘れられないギリシャ人の征服についても詳しく語られた。(第1章註2参照)

そんなときは貧しい小さな部屋の中で祖母は珍らしく激しい口調で語った。祖母が若い頃、村の律法学者(モーセの律法を解釈する聖書学者で法廷判事の顧問をっとめる上流階級・権力者 – 訳者註)から聞いた話が、そのままマリヤにも語り伝えられた。こんな乏しい小屋の中でもマリヤにとっては、すばらしい夢を織りなす幻と喜びにあふれる場所となったのである。

今やギリシャ人にとってかわって、ローマ人が支配しユダヤ人の信仰心を堕落させようとしていた。“シオン”という聖都(エルサレムの別名)を汚そうとしていた。マリヤは祖母にたずねた。

救済者は何という町や村から出現するのか、そしてその方、即ちメシヤ(救世主)の母として誰が選ばれるのか、きっと預言者と言われた方ならば母となる人の名前や種族のこともわかっているのではないか。ゼリータはルーツに関することは全く知らなかった。

今でもエルサレムに於いてさえ、救世主に関する情報は全くないとのことであった。マリヤはこのような祖母の言葉で満足しなければならなかった。父を亡くしてからというものは、まるで森の中にひそんでいるファウヌス(半神半羊)のように、同じ世代の者と付き合おうとせず、その上ゼリータと世間話をしようとやってくる年増の女たちと口をきこうともしなかった。

祖母から多くの話を聞いてから、彼女は壮大な幻を描き、殊にメシヤ到来の年代的核心をつかもうと努力し、ローマを征服してくれるイスラエル民族の救済者のことで頭が一杯であった。

ある日のこと、マリヤはゼリータに自分自身のことではなくユダヤ全体のために祈れば神はそれをかなえて下さるかどうかをたずねてみた。すると祖母は即座に答えてくれた。

「もしお前が毎日お祈りし、自分をいつも清らかに保ち、他人と交渉を断って願い続ければ、きっと神様はお前の願いをききいれて下さるだろうよ。昔の預言者たちも何か特別な恵みを求めるときには、1人で荒野に退いてお祈りしたものだよ」マリヤは自分の夢を教えようとしなかった。他人に知られることによって夢が汚されやしないかと思ったからである。

それからは、マリヤがたった1人で丘や野をさまよい歩き大きな声をはりあげながら神に祈った。近所の人たちは祖母に言った。「マリヤはもう子供ではないんだから、そろそろ近所の娘たちと付き合って色んなことを勉強させたらどうだろうか。今のようにいつも独りでいるとだんだん世間知らずになってしまうよ」

冬が去り、春がやってきて、丘一帯に色とりどりの花が咲き乱れていた。葡萄の木は新芽をふき出し、木々の枝は緑の装いをまとっていた。鳥のさえずりが地上にひびき渡り、あらゆる生命の躍動が全面にみなぎっていた。

マリヤは祖母に挨拶してから毎日のように外出した。けれども友達をつくろうとはしなかった。彼女はどこかに立ち寄ることもなく山の上に登り、ただ独りで過ごすのであった。木陰のもとでひざまずき、魂の底からわき上る渇きが祈りとなって、昔父から聞かされた言葉がきっかけとなって芽生えた願いを神へぶつけた。

何回となく日の出を楽しみ、ほの暗い朝の静けさの中で鳥たちが射しこんでくる光の中を飛び回るさまを見つめていた。今や彼女の霊は喜びにみたされていた。彼女はすでに自分が神の選びにあずかったこと、来るべき時に、メシヤの母となるべきことを信じられるようになっていた。

美しい春の季節に彼女の夢は陽光と花々とで織りこまれていった。幻はガリラヤの蒼々とした水面に映り、遙か北方にそびえる白雪をいただいた山々や、こぼれるように微笑をたたえる湖の岸辺からは、誰もが否定できない希望と確信が贈られてきたのである。マリヤの夢が必ずかないますように、そして神は何ひとつ御出来にならないことはない…とマリヤは確信し、その度合いを増していった。

彼女にとって周囲の人々はすべて影に等しいものであった。彼らは彼女の人生と何のかかわりを持つことはなかった。彼女にとって、人生とは、暁に目覚め、透徹したすばらしい生活を毎日おくることであった。山々を散策し、神との交わりを続け、時として美しい花々を摘みとり、ひたすら祈りと夢に明け暮れていた。

(註1)紀元前1280年頃、イスラエル民族がエジプトの奴隷となり苦役に服した。預言者モーセが現れて民族をエジプトから解放し、シナイ半島を40年間放浪し、十戒を授かり、紀元前1240年頃パレスチナに入ることができた。旧約聖書、出エジプト記に詳述されている。

(註2)紀元前1000年頃、イスラエルの黄金時代を実現させたダビデ王が、少年時代に敵方ペリシテ人の巨漢ガテのゴリアテという勇者を投げ石器ひとつで倒してしまったというエピソード

(註3)ペルシャの前身、バビロニヤが、紀元前587年にエルサレムを陥落させ、イスラエル民族を捕囚としてバビロニヤに連れていったという古事。旧約聖書、エレミヤ書に詳述されている。

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3 神との出逢い

暫くすると町中にマリヤが毎日のように独りで森や丘に居ることが知れわたった。ある善良な女がゼリータを叱って言った。「何か悪いことがマリヤの上に起こらねばよいがね。なにしろ若い娘がたった1人で人里はなれた所をうろついているんだからね。全く利口じゃないよ。どうだろうか、マリヤをうちの娘と一緒に働かせてみないかね。そうすりゃ少しはまともになろうというものだよ」

祖母はそれを聞いて心を痛め、マリヤに言った。近所の娘たちと仲良くして一緒に働き、少くとも嫁入り前の娘が妻となり男を識るに必要なことを先輩たちから教わるようにと。けれどもマリヤは泣きふしてしまい、ゼリータはマリヤの妙な言動にただおろおろするばかりで、彼女の胸に抱きよせて祈るしかなかった。

「あたしね、丘の上の寂しい所で神様を呼び求めていたの」「そうかい、それで神様はお答え下さったかね」

「はい、ちゃんとお答え下さいました。それがね、ただの御言葉だけでなく、野原で長い間祈り続けているときに2度も神様が顕われて下さったのよ。そのとき私は試されていることを知りました。もし私が昔の預言者のように断食をして真実に生きるならば、きっとイスラエルを救う男の子を生む母親に選ばれるでしょう」

これを聞いた祖母は大声をはりあげ、だまりこんでしまった。夜がきて鳥や獣が寝しずまり、人の声や物音が全く聞かれなくなった頃、視力を失った祖母はだれよりも強い確信をいだいた。

「マリヤよ、きっとお前が選ばれるだろうよ、心の底から気高い目的のために続けて神様にお願いしてごらん。きっと主の天使があらわれて下さるだろうよ。でもこんなことは誰にもしゃべっちゃいけないよ。今までのようにお前のやりたいようにやりなさい。決してまわりの人が言うことを気にすることはないよ」

そこでマリヤは今まで通りやってきたことを変えずに進めることができた。曲りくねった道を歩いていて例の善良な女とばったりでくわしたとき、マリヤを家にさそい入れようとするのであるが、マリヤは見向きもしなかった。

彼女は腹を立て、マリヤに何にも注意を与えない祖母のことを責めた。そればかりか、マリヤが丘の上で何やら変なことをしているなどと悪口を言い始めた。それからは子供たちまでがマリヤのことを悪し様に言った。

「あの娘は私たちを馬鹿にしているのよ!」彼らはマリヤが通りすがりに聞こえよがしに言った。「ねえ、あの娘をからかってやろうよ」「あんな高慢ちきな奴の鼻をへし折ってお辞儀させてみようじゃない」

子供たちや若い女の子たちは一緒になって口汚い言葉をあびせかけ、あげくのはてには泥や土をマリヤに投げつけるのであった。マリヤはただ黙って不安な表情をたたえていた。マリヤが怖がっているのがわかると、ますます大胆になり、止まるところを知らない勢いであった。突然若者の声がして静けさがもどった。ヨセフという若者が駈けよってきてこのさわぎを静めてから言った。

「この恥知らずめ!この娘は父もなく母もなく、どんなに心を痛めているかわからないのか。それなのにお前たちはこの娘をいじめ、たった1人で歩いていることをいいことにしてからかっている。この娘は本当は聖なる人なんだぞ!」

「えっ、聖なる人だって?」「そうだ、僕の姉がちゃんと見とどけているんだ。彼女が独りで野を歩き、長い間祈り続け、聖なる御名につかえる道を探り、神様の御旨にかなう在り方を求め続けているんだ。実に見上げたもんだよ。彼女は崇高な目的に向かってつき進んでいるにちがいないんだよ」

ヨセフの言葉に女や子供たちは、きまり悪そうにいじめるのを止めてしまった。彼らは若い大工の威力に圧倒されてしまい、恥じ入るのであった。ヨセフの姉だけがマリヤの秘密の夢を知り弟に話していたのである。

それからというものは、だれが彼女に話しかけてもマリヤには苦にならなかった。マリヤは祈りに出かけるので、家に居る時間はとても短かかった。ある日のことマリヤは朝早く外出したが、突然わが家に帰ってきた。それは祖母が居るはずのわが家が急に空っぽになったように思えたからである。

マリヤが敷居をまたいでわが家に入る時、誰か見なれない人が彼女の傍をすれちがった。彼女は確かにそれを感じたのであるが家の中にはだれも居なかった。恐怖心が高まり、薄暗い部屋に集中した。そして命が脱け出るような脱力感を味わった。マリヤは急いで祖母のもとに駈けより、閉じられた目や、動かぬ手足にふれた時、即座に祖母が死んでいることを知った。

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4 羊飼いの不思議な話

1人ぼっちになったマリヤには友だちもなく、ただ若者ヨセフと姉だけが暖かく声をかけ、寂しいときに慰めてくれた。この兄弟は貧しかったので、なんとかマリヤを助けてやれる親戚はいないものかと探しまわった。1週間もたたないうちにヒゲもじゃ“キレアス”という男がナザレにいることをつきとめた。

彼は亡くなった祖母の従兄弟にあたる者で、マリヤをひきとってくれることになった。キレアスの妻は年をとっていて子供もなく、老夫婦2人だけでエルサレムへ通じる街道筋で旅館をやっていて、ちょうど家事全般の仕事を手伝ってくれる女中を必要としていた。

そんなわけでマリヤは遂になつかしい丘や、とても他人とは思えぬ程に親切にしてくれた2人の友ヨセフと姉とも分かれを告げねばならなかった。マリヤの新しい生活の場となったこの旅館は、エルサレムへ向かう旅行者や巡礼者が通る街道筋の谷の中にたっていた。

普段はあまり人通りがないが、大きな祭りなどがあるときには客でいっぱいになり、マリヤは朝早くから夜遅くまでこまねずみのように立ち働き、自分の部屋も客に提供して自分は隣接した馬小屋で寝る始末であった。客の面倒から旅館全体を掃除するのがマリヤの仕事であった。

そんなわけでマリヤは多くの客からよその土地のことや、とても珍しい冒険談などを聞くことができた。彼女はそれらをすべて夢という布地に織りこんでいった。暇なときは主人のキレアスと妻の老夫婦だけになることが多かった。

夕方になると羊飼いたちが丘のあちこちから集まってきて、楽しい歓談が始まるのであった。マリヤは野性的な労働者たちの世話をしながら彼らの話に耳を傾けるのがとても楽しかった。羊の世話や毛を刈りとる作業のこと、彼らや番犬が狼と格闘したときのこと、ペストの流行や泥棒の災難にあったときの話などであった。

彼女はそれらをすべて心の糧として吸収した。ハープの名手がたった1本の弦でも大事に弾くように、マリヤにはひとつの話が心に深く刻みこまれていた。それは預言者にょって語られた1人の王様のことで、ダビデ王の末裔として生まれ侵入者ローマから救い出してくださる方のことであった。

1人の若い羊飼いが目を輝かせながら言った。「そりゃひどい風が丘のあたりを吹きまくっていた夜のこと、真暗だった空が突然明るくなってね、ぶったまげたもんだよ。たき火のまわりで縮こまってブルブルふるえていてよ、どうなるのかと思っていただが、なんとも言えぬ喜びがいっぱいになってきただよ。

なんでだかさっぱりわからねえだが、おれたちは“どうだ!夜になったばかりだというのに、キラキラ光り輝く夜明けがきちまったぞ”てなことを言ってただよ。神様は時間をまちがえなすったのだろうか、この冬の真最中に、夜が世界の支配者として居すわっているときに、神様は東の空から太陽を呼び出しちまっただよ」

「おれたちはみんな物も言わず、小さくなったたき火に身をよせて、一睡もしねえでその光景にみとれちまっただよ。それからよ、静々と光が丘のあたりから動き始めてよ、そりゃすげえ輝きの輪になってよ、暗やみをおしのけちまっただよ。みるみるうちにその輪が大きくなってよ、でっけい星のような形になっちまったで、まるで大空が真ぷたつにぶち割れたみてえに見えただよ」

「ところがよ、そのでっけい輝いた星がよ、ものを言い出したからおどろいちまっただよ。“わたしは神の天使だ、わたしはイスラエルに喜びの音信をもってきた。見よ、お前たちの中から1人の女が選ばれた。その女は前から預言されていたように1人の男の子を生むであろう、その子はすべての人々を支配し、ローマ、ギリシャ及び異邦人をひざまずかせる者になるであろう”てなことを言っただよ」

「おれたちはみんなきもをひやしただが、天使さまの様子がとってもおだやかだったので、おれたちは少し大胆になってよ、頭をさげながらその救世主をみごもった乙女のところに案内してけれやってたのんだだよ。したらよ、おれたちの声が終らねえうちによ、光はきえちまい、天使様も消えちまっただよ。そしてもとのひでえ風が吹きまわる真暗な夜になっちまっただよ」

最後の羊飼いが目を輝かせながら言った。「あの夜からおれたちは何度も天使さまがおいでくだせえと祈って待っていただが、あらわれてもらえねえでよ、つかれちまっただよ。おれたちはどうしても救世主のおっかさんにあいてえだよ」

彼らの話には全く無頓着なキレアスは、うすめたまずい葡萄酒をのませていた。暫くして羊飼いたちは丘の方へと羊の群れのもとに帰っていった。マリヤは羊飼いたちに現れた天使の御告げのことを心に深く刻みつけていた。夜になって1人きりになってから、以前より一層熱心に彼女の願いを神に祈り求めるのであった。

(註1)イスラエル王国時代の第2代の王(紀元前1012~972在位)で国民に最も愛された偉大な英雄であった。(旧約聖書サムエル記上、下を参照)

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5 東方の星

さてこの旅館はエルサレムからあまり遠くない不毛の地に立っていた。このあたりは、まるで復讐の女神の崇りにでもあったように皺くちゃで、禿頭のような恰好をしていた。ただ春のほんの一時だけ緑っぽくなる程度で、それもチョビチョビと生えるだけであった。しかもまたたく間に萎れてしまうのであった。

夏になると、岩だらけの谷や断崖の丘には樹木も花もなく、むきだしの石は灼熱の太陽に焦がされて、行きかよう人々の足を痛めてしまうのである。マリヤはこのような苛酷な自然の中で生きのびねばならず、すっかり痩せおとろえ、心が挫けてしまうこともあった。

そんなときには彼女はガリラヤ時代のことを思い出し、葡萄の樹木で覆われた斜面の光景、美しい花畑、紺色に輝いている平和なガリラヤ湖を憧がれるのであった。しかし彼女は自分の願っている夢が次第に大きくなっていくのを感じていた。

収穫の季節がやってきて、この旅館の主人は大がかりな仕度を始めた。妻とマリヤには家全体の掃除を命じた。彼の考えでは“仮庵の祭”(幕屋の祭ともいう)が近づいていたので多ぜいの巡礼の旅人がここを通ってエルサレムへ向かうと思ったからである。

このときは多くのユダヤ人が聖なる都シオン(エルサレム)に熱い思いを向けるのである。旅館の主人の思惑は的中した。無数の旅人がこの前を通りすぎて行った。妻もマリヤも朝早くから夜おそくまで旅人の世話においまくられていた。

御客のなかに、遙か遠くのユーフラテス河の向こう側からやってきたユダヤ人がいた。彼らはマリヤに微笑みかけ、自分たちの世話をして欲しいと願い出た。彼らの様子は他の巡礼とはちがい、高価な衣服を身につけていた。

それで旅館の主人はこれらの珍客を丁寧にもてなした。マリヤは急いで食事の用意を始め、葡萄酒を髭を生やした人々の前に並べた。彼らが食事を終えてから互いに語り出した。「私たちはエルサレムに行ってヘロデ王様に逢おうではないか。彼に逢えば私たちの知らない部分を補ってくれるだろうよ」

そこで旅館の主人は、彼らに何の目的で旅をしているのかを尋ねた。しかも民衆から尊敬されていないヘロデから何をききだそうとしているのかを尋ねた。1人の白い髭を生やした賢人が答えた。「私たちは救い主が間もなく御生まれになるということを知ったのです。私たちは救い主の到来を告げる星を見たのです。私たちはどうしてもその救い主を見つけ拝みたいと願っているのです」

主人は尋ねた。「その御方は何処で御生まれになるのでしょうか」「預言者の言葉によりますと、その御方は、なんでもベツレヘムという所を誕生の地として御選びになったと言われています。“ああベツレヘムよ、汝はユダヤの町々の中でいと小さき町ではない”と記されているのです。そこで私たちはそこに行って救い主を探そうと思っています」

別の髭もじゃの客人が言った。「いやいや、ベツレヘムなんかじゃありませんよ、先生!あなたは賢い方でいらっしゃる。なぜイスラエルの王ともあろう御方がそんな辺鄙な町でお生まれになるとおっしゃるのですか」

3番目の者が言った。「その御方の誕生地については全く知られていないんですよ。とてもじゃないが、救い主の父君や母君のことさえわかっていないんですからねえ」

更に別な客人が言い出した。「そんなことはないですよ、その方の父君はダビデ王様の末裔なんですからね」

賢者たちは互いにゆずらず、激しい口調で救い主の到来についての論争を続けた。かの白い髭の賢者が彼らの激しいやりとりを心配しながら、小声でマリヤを呼んだ。

「叡知というものは、得てして赤子や清い心の持主によって語られるものじゃ。どうかね、お前さんは救い主がそこで御生まれになると思うかね」マリヤは大胆に答えた。「もちろんですとも、先生。主の御使いの方が丘の上の羊飼いに顕われて、メシヤの誕生を御告げになったそうですよ!」

これを聞いた賢者は、とびあがらんばかりに驚いた。そしてマリヤにその件に関する経緯について次から次へと質問し、彼女が救い主の誕生について語られた預言をよく知っていることに驚いた。

この老人は、別れの挨拶を言う前に、マリヤをつかまえて、至高なる神の御子を見出したときは、黄金と宝石を持参して御子の揺籠の前に拝みに来ると言った。それを聞いた灰色の髭の賢者がきいた。「

もし救い主が卑しい身分の家にでも生まれたらどうなさるんですか」「ああ、たとえ我が主、御民の王が星空の真下に生まれ、頭を覆うものが無くても、私はその方を拝みまするぞ!また、たとえその御方が羊飼いの帽子の中に寝かされていたとしても、私は拝みまするぞ!

実際のところ、誰が明日の偉大な出来事を知っているというのだろうか。たとえ羊飼いの息子が救い主の座にすえられようとも、私は驚きやせん。すべてが変えられていくのじゃ。此の世の誰が一体身分の卑しい者が民を治める座につかないなどと言えるであろうか。真実が語らんとしていることに耳を傾けてみるがよい!先なる者は後に、後なる者は先になるのじゃ!」

マリヤはこの老賢者が語った一句一句を全部心に刻みつけていた。その夜、彼女が馬小屋の藁ぶとんの上に体をよこたえながら、もうガリラヤのことを回想することなく、自分が救い主の母となった夢を見る程に成長していた。

(註1)「過越の祭」、「ペンテコステ」と共にユダヤの三大祭のひとつ。昔イスラエル民族が40年間モーセに率いられてシナイ半島を流浪し、天幕生活をしていたことを記念する。殊に果物類、油、葡萄の収穫が終ったことを感謝する祝祭となった。9月~10月にかけてエルサレムの神殿で行われた。(旧約聖書、出エジプト記23・16、レビ記23・33~36、民数記略29・12~39、申命記16・13~17を参照)

(註2)ヘロデ大王と言われたヘロデ王家の始祖。イエス誕生当時のユダヤ王で、性格残忍、血縁者も殺害する非道の人間で評判は悪かった。エルサレムに華麗な宮殿を建設し、紀元前20年同地に神殿の再建に着手した。赤子イエスを殺すためベツレヘム地域に生まれた嬰児を虐殺した。(新約聖書のマタイ伝2・1~18及び2・16以下参照)

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6 受胎のしらせ

冬が過ぎ去った。旅館の住人とくにキレアス老夫婦は厳しい寒さに完全に参っていた。若いマリヤでさえ、憂うつな気分で過ごした厳しい冬であった。マリヤはいつもガリラヤ地方の暖かい微風を思い出していた。ガリラヤの湖を覆う柔らかな空気、湖面から立ちこめる霧、そして周囲の山々は雪の帽子をかぶっていて丘から丘へと風が音をたてながら吹いていたのを思い出すのであった。

遂に春がやってきた。まるで森の中でじっとしている臆病な鹿のようにやってきた。一日一日が這い歩きでもしているかのようにやってきた。岩場でさえ、あちこちに緑の葉でかなでられる喜びの足音がきかれるようになり、石と石の間から春の挨拶をかわしていた。小さな灌木たちは緑の帽子をかぶり、燦々と春の陽が輝いていた。

春の訪れと共に、マリヤの魂も次第に目覚め、一刻一刻と神に近づいていった。このような季節には余りお客がなく、マリヤは昔ガリラヤで習慣となっていた瞑想をするために寂かな場所を探し歩いた。それからは彼女の夢は次第に膨れあがり、全く現実のものとなっていくのを感じていた。

ある晩のこと、身体をよこにして眠りにつこうとしている時に、主の御使いがあらわれて彼女にその使命を告げられた。マリヤは恐れることも驚くこともなく、そのときの模様を後になってからヨセフの実姉マリヤに語ったことがあった。

「私は直ぐに大天使ガブリエル様がやってきたことを知りました。私は跪いて掌を合せました。私が長い間熱望していたことを叶えて下さり、大天使様が神様の祝福を運んできて下さったのですから、ちっとも怖くなんかありませんと申し上げました。そうしたら大天使様がおっしゃいました。

“神様に愛されているマリヤよ、あなたは女のうちで最も祝された御方です。なぜならば、あなたは男の子を生むために選ばれたからです。その子にイエスと名付けなさい。彼は多くの人々の救い主となるでしょう。そして先祖ヤコブの御座とダビデ王の御座にすえられるでありましょう”」

夜は更けゆき、音ひとつきかれない静寂のなかで大天使ガブリエルは、跪いているマリヤのもとから離れ、閉まっている戸を通り抜け、石だたみの上を音も無く歩き、立ち去ったのであった。彼女はもはや自分が望んだものが空しくならず、又夢で終ることもなく、現実のものになったことを強く自覚した。実に彼女は全世界の女のうちより選ばれ祝されたのである。

大天使ガブリエルが訪れた明くる日のこと、1人の若い男と女が谷こえ山こえ、曲りくねった道を通ってこの旅館にやってきた。旅館の主人は早速この2人のために食事の準備をするようにマリヤに命じた。その若い男とは大工ヨセフであった。

彼が入ってきたときはマリヤがパンを揃えているところで、彼の方から「ヤー」と声をかけ挨拶をした。後ろからついてきたヨセフの姉マリヤは、マリヤのところに駈けより、両方の頬に接吻し、両腕をまわして抱き合い、久しぶりの再会を喜びあった。

食事をすませるとヨセフは騾馬に水と草をやりに外へ出て行った。2人のマリヤは谷間の道を散歩しながらお互いに胸のうちを明かし合った。「私ね、近いうちに商人のクローパスと結婚するのよ!」ヨセフの姉が言った。「彼ったら、何年も私のことを追いまわしたのよ。もうすっかり根負けしてしまったわ」

散々話し合ってからマリヤは大天使ガブリエルのことや、あの夜馬小屋の中で御告げを受けたことを話した。ヨセフの姉は遂にマリヤがイスラエルの救い主イエスの母となる約束を知って興奮した。2人の間に突然沈黙が流れた。そしてヨセフの姉の表情が硬張った。

「そんなことって本当にあるのかしら。だってあなたは肝心なこと何ひとつ知らないじゃないの!赤子がどんなふうに生れまてくるとか、どんなふうに神の御座から統治なさるとかそんなことぐらいは知っておくべきだわ」

「私はね、どんなふうに実現するのか知らないけど、神の御子を私が生むということは、太陽が東から上ると同じくらい確実に実現すると信じているのよ」

そこに突然ヨセフがやってきた。2人のマリヤは話題を変えてこのことについて話さなかった。暫くしてヨセフの姉はとても疲れたので少し休みたいと言いだした。そこでヨセフとマリヤの2人で散歩を続けることにした。マリヤは、あちこちで美しい小花を摘みヨセフにあげた。又とても楽しそうに歌った。

ヨセフは今でもガリラヤの丘や湖のことを思い出しては悲しんでいるのかをたずねた。「とんでもないわ、私はもうなにも悲しいことなんかないわ。だって私は神様から選ばれた女なんですもの。こないだ主の使いがあらわれて教えて下さったのよ。

だから私は毎日ばら色、夜は安らかな眠りが与えられ、昼間の労働もちっとも苦にならず、なにひとつ悩まずにすごせるの。私には直接感じなくても神様はいつも私と一緒に居て下さるんじゃないかしら。だから私の心はとってもおだやかなのよ」

ヨセフはこのとき初めてマリヤが大天使ガブリエルと直接話しあったことを悟った。けれども大天使が語った御告げの内容についてはひとこともふれなかった。なぜならば今は御告げの内容にふれないほうが自分の心の秘密を知っているヨセフの姉を傷つけずにすむと思ったからである。

そうこうしているうちに陽が西の丘陵地帯に沈みかけたころ、ヨセフはマリヤに自分の望みをうちあけた。彼はマリヤをナザレに連れ返って結婚したいと願った。マリヤは彼の突然の申し出をきいて驚き、手にしていた小花を道端に落とし足でふんづけてしまった。

ヨセフはマリヤの前に跪き、手をあわせ、ぜひ自分の望みを聞いてほしいと哀願した。そしてマリヤを愛していること、そしてどんなことでもマリヤを守り抜いていくという強い意志をあらわした。

「ここでの生活は1日中辛い思いをするだけだよ、あなたの主人はとても苛酷な男だと思わないかね。あなたにはいつも荒々しい言葉をはいて、こき使っているじゃないか。1日中働きづめで、こんな寂しい所で一生辛い思いをさせられるだけだよ。

ガリラヤに帰ろうよ。あなたの好きなガリラヤ湖にさ。そうすれば僕はあらゆる悩みや苦しみからあなたを守ってあげられるんだが。僕の妻になってくれないか。

ガリラヤでは今でも近所の人たちは、あなたのことを変人扱いをして本当に頭にくるよ。でも僕の妻になれば、いくらなんでもそんなことは言わせやしないよ。僕の姉もクローパスと婚約しているから間もなく家を出ていくしね、そうしたら僕1人になるんだよ」

マリヤはその言葉を聞いているうちに突然泣き出して、それはとても出来ないことだと言った。マリヤはヨセフのもとから足ばやに駈けだして、暗くなった谷間を走り、一気に自分の寝る馬小屋に帰って、泣きじゃくりながら恐怖に身をふるわせていた。そこヘヨセフの姉がやってきてマリヤを慰めいたわるのであった。

(註1)ヘブル語で「神の強い人」という意味で、ミカエル、ラファエルと並ぶ三位の天使である。洗礼者ヨハネの誕生をその父ザカリヤに告知(ルカ伝1・11、19参照)、マリヤにはキリストの母となることを告知した。(ルカ伝1・26参照)旧約聖書のダニエル書8・16、及び9・21にも記されている。

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7 大きな星

その夜は、まことに霊妙な輝きに覆われ、天空はあたかも神が無数の宝石をちりばめた衣をまといながら歩いておられるようであった。地上は青色の外套で覆われ、人々には平和なひとときが与えられていた。

雪解けの水は小川に溢れ、ごうごうという音をたてながら飛沫をあげ、その音は眠れる間中ひびき渡っていた。マリヤは2人に別れを告げた。彼女は天から見放されたかのように、再び孤独な生活が始まった。馬小屋の中で寝るとき、破れた屋根の隙間(すきま)から空が見えるのであった。

空を眺めているうちに、天空に輝く宝石(星のこと)がそれぞれペアになって楽しそうにダンスを踊ったり歌をうたったりし始めるのである。暫くして彼女は眠りに入った。目覚めたとき空が急に変化しているのを感じた。ひとつの大きな星があらわれて、彼女の真上に輝いていた。

腕を伸ばして挨拶をしようとするのであるが、彼女の口は固く閉ざされて動かず、喜びの言葉も発することができなかった。突然彼女はそれがあの白髭の賢者が東方で見た星であることに気がついた。暗い馬小屋の一帯が内側から光が照らし、1人ずつ東方の賢者が行列を作って通りすぎて行った。手には各々台付きの黄金杯、没薬(もつやく※註1)、乳香(にゅうこう※註2)などを持っていた。

彼らはマリヤには目もくれず、飼葉桶(かいばおけ)の前に立ち止まり、跪いて頭を垂れ、捧げ物を桶のわきに置くのであった。マリヤはただ黙ってこの光景にみとれていた。自分の息子が飼葉桶の中に寝かされているのを感じとった。ガリラヤ湖の上を吹きぬけて行く微風のように、大天使ガブリエルの囁く声が柔らかくひびいてきた。「至高なる救い主よ、ヤコブの御座(ござ)に永遠にすえられるであろう」

(註1)アラビア・アビシニアに産する樹からとる芳香の樹脂で、高価な香料。(旧約聖書、出エジプト記30・23参照)

(註2)かんらん科に属する乳香樹で、樹皮を傷つけて出る分泌物を乾燥して得る香料。主として祭儀用として使われていた。(旧約聖書、イザヤ書43・23、及びレビ記24・7参照)

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8 神秘の受胎

眠らずに過ごした夜が去り、朝がやってきた。陽は照らなかったが、地上はしごく御機嫌であった。花々は妙なる芳香を漂わせ、川の細流はひかえめな歌を奏で、鳥のさえずりは荒野にひびいていた。

マリヤは家の中の汚れ物を川辺に運んできて、きれいなつめたい水で洗濯をしていると、彼女をとりまく大地が話し始めるのを聞いた。草や木々でさえ、沈黙に向かって静かな喜びの物語を話しかけているように思えた。春の生命が楽しい日々に、すべてのものを躍動させていたからである。マリヤの頭上には、鳥の胸に生える白灰色の羽毛のような雲が空一面に広がっていた。

すると柔かな一条の光が神のもとから一瞬のうちに乙女に向けて発せられた。マリヤにとって、かつて味わったことのない喜びが胸いっぱいに広がっていった。これですべてのものが完了した。

マリヤは唯メシヤ到来の日を忍耐強く待たねばならないことを知った。マリヤはその夜、神の選びに与ったことを知った。彼女はこれから起ころうとしていることを幻で見ることができた。

霊という種が、処女という土壌に蒔かれた。その霊が成長し、解放者となり、彼の魂に触発された人たちは、彼の前に頭を垂れるのである。頭上に生命の冠を被り、望む者すべてに救いをもたらすのである。

その日の高原は風もなく、谷間にひびく客足の音もなかった。旅館の主人は旅に出かけていた。おかみさんは家の中で昼寝をしていた。マリヤがたった1人で戸外で働いているうちに、夢見心地となり、幻を見ていた。神の霊が彼女の魂に宿るのを感じた。

恐怖どころかむしろ神の御子が彼女の魂の中で休息し眠っておられるという実感を覚え、彼女が此の世に生まれて以来、かつて味わったことのない喜びが全身にみなぎってくるのであった。

彼女が昔1人で丘や野を歩いたときに、暖かく導いて下さった神様に感謝の祈りをささげずにはおられなかった。夕闇がせまる頃、空を覆っていた雲が西の方から切れてきて、黄金の冠のようなものが天から降りてきたかと思うとあたり一面を照らし、神の栄光の輝きを放つのであった。

岩の上に干しておいた洗濯物はすっかり乾いていた。マリヤはそれらを籠の中にとり入れ、夢心地でよたよたと歩き出した。谷間から吹き上げてくる暖かい春風は頬にあたって心地よく、かさかさと音をたてながら今日1日と共に去って行くのであった。

マリヤは途中で跪き、何度も感謝の祈りをささげた。この日には2度と味わえない甘美な霊的体験を味わい、生涯消えることのない神の栄光に与った。人っ子1人いないこの瞬間に、マリヤは遂に彼女の魂に神の純霊を宿したのである。このような神秘的な出来事は、おそらく賢いと言われる人々や理解の乏しい人々に悟られず、かえって幼な子や心の清い人々に受けいれられるのであろう。

谷間はすっぽりと夜の帷に包まれていた。マリヤは旅館に帰り、衣類を始末しているうちに、おかみさんはやおら昼寝から目をさました。おかみさんは、主人キレアスの夕食の仕度をすますと、パンと山羊の乳を平らげた。

それから窓側にローソクの火を点し旅から帰ってくるキレアスの目じるしとした。窓から馬小屋に目を向けたときには、マリヤはすでにその中で深い眠りについていた。その馬小屋には、苦しみを通して与えられたあらゆる思い出が留められていたのである。

(註1)ドイツの神秘家マイスター・エックアルト(1260~1337)は、「マリヤは胎内に御子を宿す前に彼女の魂に宿していた」と記している。

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9 死線をさまよう

ユダヤの丘陵地帯には、夏の強い日射しを避けるものが殆んど無かった。それで春が過ぎてから戸外での労働は、まさに疲労との戦いである。不運にも昼の間全く休めない連中の辛さといったら地獄の沙汰である。

年老いたおかみさんは病いに倒れ、死んでしまった。それでその分だけマリヤの仕事が増えてしまった。旅館全体の掃除はもちろんのこと主人やお客の世話までしなければならなかった。キレアスは年をとって気むずかしく、マリヤに対し口うるさく、朝から晩までのベつ小言を言い通しであった。

マリヤはもう夢を見るどころではなかった。彼女が一寸でも手を休ませようものなら、大声をだして彼女を責め立てるのであった。こんな状態が一年近くも続いたので、17才という娘盛りのマリヤの頬はこけ、骨と皮となり、涙も乾いてしまうほどであった。

ガリー船を漕ぐ奴隷のようにこき使われていたのである。一番悲しかったことは、夢がすっかり奪われてしまったことで、彼女の疲労はその極に達していた。神様の臨在感もうすれ、静かなひとときでさえ神様と話すこともできなかった。

マリヤは全く独りになることが出来ず、苦しみから逃れる術もなかった。彼女は遂に馬小屋の入口に躓いて藁の上に倒れてしまった。それでも主人に殴られるのではないかと思い、足をひきずるようにして仕事を始めるのであった。そんな状態で来る日も来る日も1日中牛馬のようにこき使われていたのである。

秋が近づいた頃、マリヤの体力は限界に達していた。妙な恐怖感が彼女の魂を襲った。夕闇がせまった頃、周辺の谷間には悪霊が行ったり来たりしているような気配を感じた。悪霊が彼女の耳元で囁いた。その悪霊はキレアスの下僕で、マリヤが馬小屋に居る間中見はるためにやって来たと言った。

マリヤは一睡もできず、ひと晩中悩まされ続けた。彼女は大声をあげて叫びたかった。悪霊が彼女のまわりをうろつき、棍棒で殴りつけるからである。彼女には、こんな恐ろしいときでも祈る力さえ与えられなかった。マリヤはひとことも口がきけなかった。神様は自分のことをすっかり忘れてしまったと思いこんでいたからである。

あくる日の夕方、ガリラヤ地方へ向かう旅人の一団がやってきて旅館にとまることになった。その中に“ミリアム”という女がいた。彼女は昔マリヤの家の隣りに住んでいて、マリヤが丘で祈っていた頃マリヤのことをひどく嘲笑した張本人であった。

マリヤがこの一団のため手早くもてなしている最中に、あやまって水差しを落としてしまった。主人はマリヤを呪い出し、ありとあらゆる悪魔の名前を挙げながら彼女を罵った。ミリアムは目ざとく引きつっているマリヤと知ると大声で言い出した。

「これはこれは、マリヤじゃないか!漁師の娘で、ナザレでは評判の悪い娘だったね。うちの娘がさ、この悪魔の娘とおしゃべりしても被害はなかったけどさ、本当に呪われているよ、この娘は!この家からおん出してしまいなよ。そうすりゃ、あんたも楽になるだろうよ」ミリアムはしきりに自分の娘をヨセフと結婚させたがっていた。

それなのにヨセフは、マリヤ以外の娘には目もくれないことをよく知っていたので、わざと大げさにマリヤの放浪ぐせを悪くののしったのである。マリヤはすっかり縮みあがり、まるで鋭い槍で胸を刺されたように呻き悲しんだ。ミリアムの亭主は旅館の主人に充分な金を払った。

この主人にミリアムの噂を信じさせるためであった。キレアスはミリアムを喜ばせようと思い、いきなり棍棒をふりあげ、マリヤを家の外へつきとばし、体中をめったうちにした。マリヤは気絶して石の上に卒倒してしまった。キレアスはそのようなマリヤに目もくれず家の中に入り、ガリラヤから来た連中の話に耳をかたむけていた。

夜になってマリアは目を覚まし、体中に烈しい痛みをおぼえた。這うようにして馬小屋に戻った。翌朝目を覚ましたときには高い熱を出していた。1週間が過ぎてようやくマリヤは藁の上に立ち上れるようになり、熱もさがった。しかし彼女には恐怖がおそった。

もう自分にはキレアスに仕える力がない、そんな自分は家から放りだされ、野原で野垂れ死にするのではないかと思った。それ程キレアスという男は非情な人間であった。

その日の夕方、キレアスはパンと水を持ってきて言った。「明日までに起きられなければ、おれはお前を野原にひきずり出してやる、そこで死んじまったらいいさ!もうおれは、ガリラヤで悪魔よばわりされていた奴の面倒を見てやるもんか」キレアスが出て行くと、マリヤは立ち上り、遂に舌のもつれが解けて神に祈り始めた。

余りにも心細かったので、叫ぶように神をよばわった。どうか天使をつかわして窮地からお救い下さいと祈った。マリヤは荒野でジャッカルや狼の餌じきになったら大変だと思ったからである。

キレアスの脅迫に怖れおののいて叫び声をあげていると、耳元で「マリヤよ、マリヤよ」という声がきこえてきた。その声が非常におだやかであったので、天使のささやきであると思った。彼女の祈りがきかれたのだと思った。ところが痛みは烈しさを増し、死の境を彷徨っていた。

もう駄目だと思った。自分は見捨てられ、救い主の母になれないと思ったからである。また耳元でささやく声がした。目を覚まして彼女が見たものは天使ではなく、若い大工のヨセフの顔であった。そのとたん、彼女の心から死の恐怖、暗黒の荒野、独りぼっちの心細さが消えていった。

ヨセフは死の恐怖に追いこんだ地獄のようなこの家にマリヤをおいておくことには、もう我慢ができなかった。彼はキレアスとかけあってマリヤは自分の許婚であるから今すぐナザレに連れて帰ると宣言した。

2人の男は散々ののしりあった挙句、キレアスはミリアムの話した醜聞や、若い大工を怒らせるような下品な言葉を使い、彼女を苛酷に扱ったわけを弁明した。

実際マリヤの体には棍棒で叩かれた生傷が沢山あり、彼女の両足は苛酷な仕事で老人の足のようになり、食物もろくすっぽ与えられなかったのである。これを知ったヨセフは初めこの旅館の主人を徹底的にぶちのめしてやろうと思ったのだが、老人の頭の白髪を見て我慢をした。

「全くこいつは悪魔のとりこになってしまった。こいつを独りにしておけば悪魔の餌食になるだろう、これ以上の天罰はないからね」と吐き出すようにヨセフは言った。はたしてこのことが、その年の冬がやってきたときに実現した。旅館の主人は悪魔の餌食になり、無残な最期をとげたのである。

(註1)櫂のある古代・中世期の帆船で、奴隷や囚人に櫂をこがせた。最も苛酷な労役であった。

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10 暖かい介抱

ヨセフはマリヤを連れて旅立った。彼は旅の最中に弱りきっていたマリヤが死んでしまうのではないかと心配した。それで道沿いから離れた丘の上に休息できる場所を探し求めていた。するとそこに数人の羊飼いが火を囲んで夕食をたべているのに行きあった。

早速挨拶をかわし、今までの経緯を話したところ羊飼いたちは暖かく歓迎してくれた。1人の羊飼いが言い出した。

「キレアスって奴は、大分前から悪魔にとりつかれていたようだ。おれはあいつが女を叩いているところを見たんだが、奴にやめろと言えなかったんだよ。奴は金持ちのおれの主人と友達なんだよ」別な羊飼いが言った。「マリヤはちっとも悪くはないぜ。おれたちは彼女が聖なる人と思っているんだよ」

3人目の羊飼いが言った。「彼女はきっと特別な目的が与えられているんだぜ!」こんな会話がうとうとしていたマリヤの耳にきこえてきたので、彼女は一旦消えかかった甘美な喜びが芽生えてくるのを感じた。

彼女の体の傷跡の痛みでなかなか寝つかれなかったが、目をあけて星を見ているうちに、きらめく星が一層身近かに感じられ、再び彼女の心を明るく照らす輝きとなっていた。更にそれは、神の衣にぬいこまれた宝石の輝きでもあった。
彼女はあくる朝、陽がのぼるまですやすや眠り、その間に羊飼いたちは囲いから出した羊の群れを犬に追わせながら立ち去っていった。

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11 悪女のたくらみ

ナザレにも秋がやってきた。樹々はすべて紅色、金色、銀色に変わっていた。秋の微風は清澄で肌寒く、砂漠やガリラヤ湖を越えて、真白で背の高い建物の立ち並ぶローマの街々にまで吹きぬけていくのである。

全く始めの数ヶ月は、陽の光がマリヤの目をたのしませた。丘から見おろす風景はすばらしく、どこを見てもすべてが懐かしかった。彼女は故郷に帰ってきたのである。その地は彼女に神々しい夢を与え、神と共に歩いていたという生きた証拠を与えてくれた所であった。

騾馬に乗ってゆっくりと高台から降りていった。夕陽が長い影をつくっていた。最初の暗闇が流れるように通り過ぎたと思うと、星屑や月の淡い光が射しこんできて、疲れている旅人の足元を明るく照らし始めた。

喜びが胸にこみあげてくるので、ひとことも喋ることができなかった。銀色に輝くガリラヤ湖を眺め、湖上に浮かぶ漁師たちの舟影を見ながら2人はただユダヤ教の規則に従った挙式ができればよいがと考えていた。しかし明くる朝まで何も話さなかった。ヨセフはこの旅ですっかり参っていた。

2人は結婚したばかりのクローパスの妻、ヨセフの姉に助けを求めることになった。姉はマリヤのために食事の世話をし、体じゅうに受けた打撲傷をきれいに洗浄し、オリーブ油で痛みを和らげた。

翌朝、早くからミリアムがやってきて戸を叩くのでヨセフが戸を開けた。ミリアムの顔付きはひきつっており、無情そのものであった。ミリアムは2人だけで話しあおうと目で合図した。家の外の庭までくるとミリアムは馬鹿なことを次から次へと捲し立てるのであった。

「漁師の娘のマリヤはね、おやじが死んでから野山をさまよって、野蛮人のような生活をしてたのさ。お前さんだってあの娘がガリラヤの丘でうろうろ歩きまわっていたのを知ってただろうよ!ありゃ、絶対悪魔の仕業にちがいないよ。従兄弟のやってた旅館に居たときも、同じことをしてたのさ。

逐一旅館の亭主から聞いちまったんだ。お前さんがいくら努力しても彼女から悪魔は追い出せっこないよ。お前さんあの娘を嫁さんにするなんて馬鹿なことはおよしよ!あの娘は本当に評判が悪いんだよ、今のうちにあの娘を追払っちまうんだね!」

これを聞いたヨセフは、かんかんに怒り、すんでのところでミリアムをぶちのめすところであった。愛するマリヤのためを思えばこそ、このお喋り者の口封じに挑戦した。

「あの娘はね、夜明けのしじまのように純情で潔い女なんだ。彼女は神と語り合い、丘の上を独り歩きするときは、いつでも神と共に歩いていたんだ。お前のように純情な心をふみにじる下衆の女にはわかるもんか。

さあ!とっとと出ていってくれ!しらがの生えた頭がぶちのめされないうちにな!これ以上おれの嫁さんになる娘のことを口にしたら承知しないからな。とっとと消え失せろ!」

ミリアムは無言でそこを立ち去り、家に帰ってから更に悪いたくらみを計画した。ヨセフはマリヤに惚れこんでいる、しかし式を挙げる様子も見られない、これは何かマリヤに他人に話せない罪を犯しているからだ。

そうだ、マリヤの醜聞をばらまいてやるに限る、とミリアムは巧妙な企みを実行した。それでマリヤはガリラヤでは全く村八分にされてしまったのである。誰からもかまってもらえず、道を歩けばひそひそと私語かれ、じろじろ見られるのであった。彼女に聞こえよがしに卑しいことが話されても、マリヤには何のことやらさっぱり解らなかった。

マリヤは本当に幼な子のように純粋で、汚れをしらなかった。ヨセフは自分の愛する人が散々貶され、傷つけられているのをじっとこらえていた。彼の顔付きは怒りでひきつっていた。姉のところへ行き、身も心も呑み尽してしまう疫病のような悪女どもをどうしたらよいか相談した。

姉は言った。「そんなことを言われたからといって、お前の愛が萎むわけじゃないでしょう。私がマリヤに話して、どんなことを言われても対抗できるように武装してあげるわよ」姉は無垢なマリヤに、悲しみの背後に喜びがひそんでいることを話してきかせるのであった。

(註1)トーラ(モーセの律法) – イスラエルの道徳律、礼拝儀式、民法を含む細則。殊に婚約中に他の男と関係した者は即刻死刑となった。ヨセフは懐妊しているマリヤを妻として受け容れるのにどれ程悩みぬいたか、余人の想像を絶するものがあったに違いない。

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12 赤子イエスに関する預言

ヨセフとマリヤは、ひっそりと結婚し、ナザレを出て見知らぬ所へ旅立った。旅の途中でマリヤは男の子を生んだ。それは恐ろしくもあったが、同時にうれしくもあった。赤ちゃんが死にそうになったので貧しい旅館を探し介抱した結果、死をまぬがれることができた。

衰弱しきったマリヤの体も日毎に回復し、ヨセフと口がきけるようになった。ヨセフはマリヤとの約束を守り、その子を“イエス”と名づけた。マリヤが懐妊する前に、大天使ガブリエルの御告げをうけていたからである。

マリヤが産後の潔めの式に与ろうとしている頃、大きな悩みごとで途方にくれていた。ヨセフは口数が少なくなり、すっかりふさぎこみ、目もよどんでしまった。彼らにはナザレに戻ってもそこに住むことができなかった。なぜなら町のおかみさんたちが2人のことをひどく中傷していたからである。

生まれた赤ちゃんは、ヨセフの子ではなく、見知らぬ男との間に生まれたという中傷であった。ヨセフとマリヤは、とある律法学者と相談をした結果、エルサレムへ上京し、神殿にお参りして、その子に関する神様の御託宣をきいてくることになった。

聖都エルサレムを目にしたとき、マリヤは小躍りして喜んだ。太陽の光に輝く塔がそびえたつ神殿を目の当りに見て驚いた。神殿の入口からきこえてくる祭司たちの祈の歌声や、トランペットの高尚な響きにうっとりとするのであった。

恰も胸に抱いている赤ちゃんに呼びかけているかのように思えた。もうマリヤは当惑することはなかった。彼女は信仰によって強められ、彼女とヨセフの間に重くのしかかっていた闇が取り除かれる日が近くやってくることを信じていた。

彼らは雉鳩の番を神殿に捧げ、帰ろうとするとき、早朝の祈のときに彼らに話しかけてくれた1人の老祭司とばったり出逢った。彼の名は“シメオン”と言い、高潔な人であった。彼の顔は霊の光に輝いていた。

シメオンは彼ら2人を呼び、古い偉大な神殿内の一室に案内した。そこで彼は朗々と神様を讃える美しい祈を捧げた。ヨセフとマリヤはそこに跪き、彼の口をついて出てくる感謝の詩篇や彼の気高い風貌に心をうたれた。

間もなく彼らはこの老祭司が、マリヤのだいている赤ちゃんのことを言っていることに気がついた。老祭司は大声でこの赤ちゃんをイスラエルの栄光である“メシヤ”と言って讃えるのであった。

疑いは晴れ、恥と苦悩はまるで夜鳥のように消え失せてしまった。ヨセフはもう投げやりになることもなく、又ガリラヤで近隣中から悪口を言われることに怖れをなすこともなくなった。

ヨセフはマリヤの方を見て、にっこりと笑った。その笑顔の中から、2人の仲には何の拘泥も無く、暗い影が消えてしまったことを彼女は知ることができた。
更に驚いたことには、老祭司シメオンが赤ちゃんをマリヤから受けとり、だきかかえながら祝福した。

そこへ老女アンナ(敬虔な女預言者 = 訳者)が入ってきて、いきなり大声をはりあげ、この赤ちゃんがメシヤとして来臨して下さったことを神様に感謝するのであった。老祭司が言った。「この子は、イスラエルの多くの人々を立ち上らせたり沈めたりするであろう。見よ、鋭い刃がこの子故に、母マリヤの胸を貫き通すであろう」

この預言めいた言葉を聞いたヨセフは、シメオンに近より、彼の耳元で心配そうに話しだした。マリヤのことで近隣の者がふれまわっている中傷のことや、大天使ガブリエルがマリヤに御告げをしたとか、あらいざらい今までのことを話した。

そして最後に、この子がメシヤなどと言いふらしたら、どんな非道い目にあわされるかわからないと言った。そこでシメオンはいい知恵を与えてくれた。

「このことは誰にも喋ってはならない。この子にも、物心がつくまでは教えてやらないがよかろう。ひっそりと暮らし、この子が少年になるまで見守ってやりなさい。きっと神様の使命を果すときが来るであろう。いつ、どんなふうに立ち上るかはわからないが、彼はイスラエルだけではなく、外国人、否全人類の救いのために立ち上るであろう」

この老祭司の知恵にあふれた言葉に心から感謝してヨセフとマリヤは神殿を立ち去った。彼らは貧しかったので、すぐにナザレへ引き返さなければならなかった。ヨセフにはナザレにしか仕事をするところがなかったからである。蓄えたわずかなお金も全部使いはたしてしまったので、ヨセフは毎日夜おそくまで働かねばならなかった。

エルサレムに別れを告げてから、マリヤの心には大きな喜びが満ちあふれていた。ナザレに帰ってきてからは、マリヤはどんな女とも口をきかなかった。赤子をだいている姿を見せれば、きっと彼女たちの好奇心を刺戟し、口うるさくなると思ったからである。

たまさかであるが、ヨセフの仕事が休みで家に居り、近所の連中が祭りで出払っているときには、独りでこっそり野原へでかけて行き、小川のほとりに腰をおろし、そよ風にゆらぐ樹々の葉音や、せせらぎの音に耳をかたむけていた。こんなひとときが、彼女の日頃の疲れをやわらげ、彼女の新しい人生に勇気を与えてくれた。

とかくヨセフが他人の噂を気にするあまり、仕事がとれず苦しい思いをすることもあった。ヨセフはいつでも彼女には優しかった。しかし大天使ガブリエルやシメオンの啓示のことは、一切口にするなと命令した。

「今はとても辛く、危いときだ。非難されないようになるまでがんばるんだ。本当にわかってくれるような友達ができるまで」とヨセフは言うのであった。マリヤも息子のイエスのことを思い、ヨセフの命令に従った。

このようにひっそりと身を縮めるような生活をしているにも拘わらず、大変なことがおきてしまった。赤子をだいて外出しているときを狙われて、数人の悪女共がマリヤのあとをつけ、しつこくからかったり嘲ったりした。マリヤは家に帰り、暫くの間ふるえがとまらず、泣きふしていた。純心無垢なマリヤにとって、わけのわからぬ狂暴な言葉の嵐は大きな傷痕となったのである。

(註1)旧約聖書のレビ記12・2の規程に従って、イスラエルの婦人は出産後、一定期間中(40日間)汚れているとみなされ、神殿内に入って礼拝に参列することが許されなかった。これは男の子の場合で、更に女の子を出産したときは、80日間も汚れているとみなされていた。汚れの日があけてから、定められた捧物を持参して清めてもらうことを“潔めの式”と言っていた。

(註2)モーセの律法を解釈する法律家のことで、現代の法廷判事顧問のような権威ある存在であった。当時のユダヤ人社会では、民衆から尊敬され、上流階級の意識が強く、“ラビ”(私の先生)と呼ばれることを好んだことから、第一世紀の終り頃から、ラビという称号は、律法学者を呼ぶのに用いられるようになった。

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13 村八分の4年間

4年の年月が流れた。ヨセフの姉、マリヤ・クローパスが帰ってきた。彼女はナザレを離れている間、大工の弟から何の便りもなかった。そんな訳で、マリヤが昔のままであるか、それとも別人のようになってしまったか、あれこれと想像しながら帰ってきた。いざ会ってみると、2人とも幸せそうではなかった。

「あら、お前たら、長い顎髭なんかつけちゃって、どうしちゃったのよ!あれからまだ4年しか経ってないのにね」彼女は大工の妻のことには全くふれなかった。なぜなら、マリヤは以前のような痩せこけた娘ではなくなり、とてもふくよかで美しくなっていたからである。

今ではもう立派な女となり、歳月が彼女の容貌を変えてしまった。手足もふっくらとなっていた。しかし彼女の額には悲しみの痕が歴然と刻みつけられていた。まるで昔の痩せこけたマリヤの席に全く別の女が座っているようであった。3人の子供たちが土間で遊びまわっていた。

彼女の手は休む間もなく、食事の仕度をしたり、糸紡ぎの仕事に夫ヨセフと共に働いていた。彼女は布を織り上げ、堂々たる風格で立ち働いているので、マリヤ・クローパスは少なからず驚いてしまった。「あなた、本当に変わったわね。マリヤ!心まで変わってしまったの?」「何も言えないわ!」とマリヤは答えるだけであった。

しかし返答の声には悲しみの響きがこもっていた。「そう自棄になるもんじゃないわよ!これからが花を咲かせる年代じゃないか。ねえマリヤ!あなた今でも夢を見るの?」

「とんでもない!1日だってそんな日があるもんですか。うちにはね、食べなきゃならない口が5つもあるんですから。それに、夫は病気で長いこと寝ていたんですよ。だから借金だらけでね、全部返してしまうまでは、こうして休みなく働かなくちゃならないんですよ」

マリヤ・クローパスは、マリヤが本心をつけていることを知った。そして弟がどんなに辛い思いでいるかも察知した。「姉さん、マリヤの深い愛情が無ければ僕はとっくの昔に死んでいるよ!マリヤは1日中夜おそくまで働いて、僕が立ち上れるまで、一家が餓死しないようにがんばっているんだよ」

とヨセフが言った。これを聞いて姉はとても悲しかった。すばやくマリヤに目を向けてみると、確かにマリヤの顔には苛酷な労働と苦労の痕が深く刻みこまれていた。

「じゃ、夢どころではなく、イスラエルの救世主になる息子のことも構ってやるひまはないわね!」と、姉はささやいた。「お祈する間もないのよ、もう何ヵ月もの間ナザレの道を歩くのがやっとで、あの丘の上には行けないんですものね」

「だけど、この3人の男の子のうちの1人は確かに大天使から選ばれたんでしょう。あなたは大天使様の約束を忘れてしまったのかい。あなたの処にあらわれて下さったあの方の約束を!」

「いいえ!!忘れられるもんですか!でも此の頃は、こんなに不幸が重なっても大天使様は来て下さらないんです。この子たちを餓死させまいと思い、いやいやながらも、あの非道いミリアムの所にパンをわけてもらいに行ったりして…」

「それじゃ、大天使様の約束はもうだめだというの?」「私の子供たちをよく見て下さい!そうすれば、ひとりでに答えはおわかりでしょう」遂にマリヤ・クローパスは、マリヤの辛い答えの中にイエスの母親として、何かつかえるものがあるのではないかと察し、優しく話しながら、ひとことひとこと頷き、マリヤの心に潜んでいる悲しい記憶を引き出すように努力した。

遂にマリヤが心に秘めていた心配事を彼女にうちあけた。それは、まるで体につきささった槍を引きぬくときのように苦しみ、全身をふるわせながら告白するのであった。「私たちは、初めの頃の生活はそんなに苦しくなかったわ。ひもじい思いもせず何とか食べられるだけで満足していたの。

ところが、あのミリアムが、いやがらせの材料を見つけては、それは口では言えないようなひどいいじめ方をするの。ミリアムはヨセフを借りきって自分の家の大工仕事や庭仕事をやらせるんです。

ある日の夕方、とってもむし暑い一日でした。ヨセフが何もたべないで働いていることを承知の上で彼を呼び入れ、新しい葡萄酒をのませたの。彼はあまりお酒には強くないのと、おなかが空っぽだったので、頭がくらくらし、口が軽くなってしまったから大変、私のことや、大天使ガブリエルの約束によってイエスが生まれたことをベラベラと喋ってしまったのよ。

それを知った仲間たちは、鬼の首でもとったように私のことを嘲けり、汚くののしったの。それからがもっと大変、それを伝え聞いた長老たちがかんかんになって怒り、神を冒潰するも甚だしい罪悪、言語道断であるとののしって、よってたかってヨセフをミリアムの家から放り出してしまったんです。

彼はよろめきながら歩いているのを若者たちが見てヨセフをからかったので、彼はかっとなって若者たちを殴りつけてしまったの。夏も終りに近づいていたので、ミリアムの庭にあった井戸の水は枯れ、蓋もしていなかったので、酔ったヨセフはその中に足をふみはずして落ちてしまったんです。

地上に引き上げるのに随分時間がかかってしまい、引き上げてみると、もう自分では動けない程衰弱していました。背中は傷だらけで、まるで死人のようでした。それからは、このあばらや屋の中で何週間も手当てを続け、パンを買うお金もなく、子供たちは泣き叫ぶのです。

おまけにその年は、収穫が思わしくなく、葡萄やオリーブが不作でね、いつも私たちに親切にして下さった近所の人たちも飢えてしまい、自分たちが餓死しないようにするのが精一杯なのよ。そこで意を決してパンをもらうためにミリアムの家に行き、戸口の前に立ったの。

ミリアムったら、まるで毒蛇が猛毒を唇の真下に溜めこんでいるみたいに、私やイエスのことを口汚なくののしり、それをじっとこらえて聞いている私をめがけてパンを投げつけるのよ。くやしくって…。

そうこうしているうちにヨセフの体はよくなっていっても、大天使様やイエスのことで受けた心の傷は直らず、ヨセフはいつも白い目で見られるようになったの。彼の腕はたいしたもので、彼程の職人はガリラヤでも見つからないと言われていたのに、この辺の人たちはそんな彼を嫌って、職人をわざわざテベリヤから高い金を払ってまで連れてくるしまつなのよ。

最近は人々の気持ちもやわらいできたので、このまま私たちが何ひとつ喋らなければ、なんとか暮らしていけると思うわ。この冬も飢えなくてよさそうなのよ」「そうだわよ!口にはよくよく注意しなくちゃね。とくに約束されたメシヤのことは絶対喋っちゃだめよ!」

「はい、そうなんです。そんなことしたら、もう生きていけないわ。またミリアムがろくでもない事を言いふらすんだから。私は馬鹿だから、つい冒濱めいたことを話してしまうんじゃないかと思ってびくびくしているのよ」

マリヤは頭をたれて、嫉妬に狂った1人の女の恨みによって蒙ったあらゆる苦悩や心配事を顔にあらわしていた。暫くしてマリヤ・クローパスが言った。

「何が冒涜なもんですか!とんでもない。私はマリヤのことを信じるわ!大天使様が夜中にあらわれて、あなたに約束された通り、きっと実現するわよ」マリヤは泣きながら言った。

「お姉様が一緒に居て下されば私もとっても心強いんだけど、なんだか私自信がないの。私には学もないし、律法学者が来ておっしゃるのよ、私の信じていることなんか当てになるもんかって。それはきっと、悪魔の囁きにきまってる、て言うの」

ヨセフが庭から声をかけたので、姉は彼の所へ行った。そしてマリヤが若い頃体験した不思議な出来事を弟が信じなくなっていることを知った。むしろそんな忌まわしいことなんか消えてなくなってしまえばよいとすら思っていた。ヨセフは姉に言った。

「そのおかげでおれは殺されるところだった。やっぱり、ありゃ悪魔のしわざだよ!」「じゃ、あの老祭司シメオンの預言はどうなの?」

「あれゃ偽預言者だよ!みてごらんよ、おれたちの抱いた馬鹿げた夢のおかげで散々な目にあったじゃないか。おれはそんなものに関わるなんて真平だよ。この忌まわしいことを心の奥探くたたみこんでしまうか、それともこんな思い出を抹殺できなけりゃ、どんな罰でも受けるつもりだよ。

この地上から殺されたっていいよ。もう2度とこんな恥ずかしいことを誰にも言わないって約束するよ、姉さん。おれたちはひとこともそれに触れさえしなければ、きっと幸せになれると思うよ」

マリヤ・クローパスは実に賢い女であったのでマリヤを呼んで、もう1度だけやさしく諭すのであった。「どんなに苦しくても、恥じたり怖がったりしたらだめよ。昔のことは誰にも言わないように用心しなくちゃね。

でも初子について与えられた預言は大事にしておいて、心の中でしっかりしまっておくといいわ。1人になって静かになったときには、そのことを深く思いめぐらして、あなたが若いときに丘の上で神様がおさずけになった賜物が本当であったかどうかを考えてごらんなさいよ」マリヤは黙って聞いていた。

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14 平和な7年間

「ガリラヤの商人のもとで働いていたクローパスは、とても誠実な人であったのでエルサレムやエリコ(エルサレムより東方へ18マイル、死海の北端より5マイルの所にあり、ヨルダン川西域の最古の町)の地域まで仕事をまかされていた。妻のマリヤ(ヨセフの姉)も夫と共にナザレから遠くはなれて暮らしていたので、ガリラヤの丘や湖のことをすっかり忘れていた。

そこに、旅人たちがヨセフとマリヤの消息をはこんできてくれたのである。クローパスの親戚の者がやってきて、ナザレの大工は今とても幸せに暮らし、家の者も皆平和に過ごしていることを伝えた。2人は全く別人のようになっているという。崇高な幻のことは一切触れなかったので、忌まわしい迫害は2度とおきなかったという。

旅人の報せによると、彼らの家の戸口に潜んでいた苦悩と恐怖という化け物はすっかり消え失せてしまったようである。それから7年の歳月が流れた。時間はまるで雇われた人のように、喜びや悲しみの下僕となってあらわれた。

ヨセフとマリヤにとって、それは一瞬のように流れていった。彼らは7年の間、大天使ガブリエルの約束事とか、初子に関する預言や幻についてはひとことも喋らなかった。

ある1人の金持ちの魚問屋がいて、クローパスにナザレで働いてもらいたいと申し入れてきた。それでクローパス夫妻は、曲りくねった道を騾馬に乗ってエルサレムからナザレに向かって旅立ったのである。彼女はへとへとに疲れてしまった。

と、向かうから小さな子供たちが夢中で話しながらこちらに歩いてくるのが目に入った。彼らはこの暑い日に、勉強を終えて学校から帰る途中であった。その中の1人がヨセフの息子であることを知った。その子のふさふさした黒髪や、胴まわりのがっちりしているところ、そして熟した葡萄のような暗黒色の目をしていたからである。

<この子は、たしかに最初の子じゃないわ、でも変ね、初子は威風堂々として美しくなければならないのに、この子ったら、まるで半病人みたいに貧弱だわね>とマリヤはブツブツ呟いた。がっちりしている子の側に、青銅色の肌をした少年が立っていた。

その子の目は木陰の池のような薄茶色をしており、気難しい顔付きで、髪は枯葉のような色をしていた。青ざめた頬は、強さや気力のようなものが見られず、後ろ姿はなんとなく弛んでおり、ほっそりとしたスリムな身体つきは、まるで樺の木のようであった。喋るときは全身をふるわせるので、強烈な霊にとり憑かれているようであり、自分では制御できないようであった。マリヤ・クローパスは夫に言った。

「本当にこの子ったら、人の魂を揺さぶり、燃え上らせる力をもっているんだわ。しばらくこの2人の子をじっくり観察しなくちゃね」彼女は旅で疲れている騾馬を休息させた。そのうちに薄茶色の目をした男の子が首をふってわめきだした。

「もうやめた!丘の上に行って1人遊びさせてくれよ!」黒い目をしたがっちりした子が怒り、仲間をけしかけてその子をいじめだした。沢山の蜂がたった1匹の蜂をせめたてるように、その子を叩き罵った。マリヤ・クローパスは見るに見かねて夫に止めさせるように頼んだのであるが、とりあわなかった。自分を呼んでくれた魚問屋の所へ急いでいたからでもあった。

夕方になってマリヤ・クローパスは大工の家に着いた。マリヤは愛想よく迎え入れた。彼女はすっかりガリラヤの女になりきっていた。顔付きも以前のようではなかった。夕食をたべているところに、2人の男の子が家の中に入ってきた。ナザレに入る前に出逢った子たちであった。がっちりとして背の高い子の名は“トマス”と言い、最初に生まれた子ではないことを知った。

エルサレムの神殿で告げられた老シメオンの言葉を以前耳にしていた彼女は安心した。なぜなら、彼女が思っていた通り、この黒髪の男の子は群れの中の1人であったからである。彼は逞しく強そうな身体をしているのであるが、どことなく品が無く、目は虚であった。もう1人の痩せた薄茶色の髪の少年を見上げながらマリヤ・クローパスは彼の腕をとりながらマリヤに言った。

「ひと目でこの子が“イエス”だとわかったわ、あなたの若いときとそっくりじゃないの。普通の人間とはどことなく違った不思議なムードを持っているわね」イエスは伯母の手をとってにっこり笑った。彼はひとことも喋らなかったが、慈悲深い顔付きや星のように輝いている神秘的な目つきに、伯母の心は深い感動をうけた。

そのとき何か突発的な出来事が起こって、恰も此の世からあの世に移り住んだような錯覚をもったのである。驚きの余り、体中を震わせ、不思議な感銘から徐々に平常な心に戻ることができた。日が暮れると、子供たちは眠りにつき、母マリヤが仕事を終えてから庭にいる姉のところにきて言った。

「イエスは優しそうな顔付きで、きゃしゃな体をしているけど、トマスの方は1つ年下なのに強そうでハンサムで、仲間うちのリーダーなんだから本当に驚いちゃうわ。夫ヨセフが言う通り、トマスは偉くなるんでしょうね。どんな人になるのかわからないけど、きっとみんなから尊敬される人物になるんじゃないかしら」

「イエスはどうなの?」とマリヤ・クローパスはすかさずきいた。「ヨセフが言うのよ、あいつは駄目だってね。ときどきヨセフが心配して悪霊に欺されないように見張っているのよ。大きくなったらきっと私たちに恥をかかせることになるからってね。

イエスはね、独り歩きをして浮浪者や乞食と仲よしになり、同じ年頃の子とは遊ぼうとしないの。そして髭を生やした浮浪者の足元に何時間も腰をおろして彼らの話に夢中になっているのよ、あの子ったら。おまけに何も知らないくせに、ナザレにいる律法学者のことを貶すんだから、本当にあきれてしまうわ」

マリヤ・クローパスはムッとして言った。「イエスは人々の心を刺戟して、きっと多くの人に義憤を感じさせ立ち上らせるのよ。だから私はイエスが好きなのよ」

「そうなのねえ、あの子ったら早口で、しかも私が日頃気を使っている町のお偉方のことになると、目茶苦茶にこき下ろし、お偉方の怒りなんかは全く頓着しないでやっつけちゃうのよ。今にきっとあの子は、みんなをそそのかして逮捕されるようなことになるんじゃないかしら。とても心配だわ」

「だけどイエスはとても大人しいし、私には丁寧だったわよ。私がナザレに帰ってきたとき道ばたで見かけたんだけど、弟のトマスに口のあたりを殴られても彼の腕を掴まえて、軽蔑の眼で彼をじっと見上げるだけで殴り返そうとしなかったのよ」

「だからトマスはもっとひどく怒るのよ、弟にやられたら殴り返してやるといいのにね。あの子ったら他の子のようになれず、自分勝手なことをしたり、かと思うと急に怒りだしたり、私の心はいつも穏やかじゃないのよ」

「イエスは、あなたが若いときに祈り求めて咲いた花なのよ!!イエスを責めちゃだめよ、そんなことしたらあなたの幻が台無しになってしまうわ」

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15 日の出の語らい

暫くの間マリア・クローパスは家事に忙殺されていた。子供はまだ幼く、毎日育児や家事に追われていた。彼女はイエスのことについて、とりわけ出生前の大天使の約束や誕生直後のことなどに注意深く思いを寄せていた。彼女は長男の幼いヤコブに言いきかせた。

「あなたの従兄弟のイエスと仲良く遊びなさい。そしてイエスのことを色々きかせてちょうだいね。イエスはね、自分の年令よりもずっと賢い子だから、お前の模範として真似るといいわ。でもイエスの悪口を言ったり、いじめたりする子とは遊んじゃいけないよ」

ヤコブは同じ年頃の子供の中では、平和を好む穏やかな性格であった。彼は喧嘩も言い争いもせず、とても謙虚であった。彼は母の約束を守り、イエスの言動をすべて記録した。マリヤ・クローパスが集めたイエスの物語は、すべてヤコブの報告に基づいたものであった。

ガリラヤ湖の北側は、なだらかな丘陵になっていた。何年かたつうちに、とても美しい森が丘の斜面に生い茂り、オリブの木立や葡萄畑が丘一面に広がっていった。ナザレの北側には高原地帯があって、そこから山々を眺めることができた。

朝早くイエスはその高原に通じる険しい道をよじ登って丘の頂上へ行った。ヤコブもそっとイエスの後についていった。ヤコブは自分よりも年上の従兄弟に不愉快な思いをさせまいと思って、自分の心を開かないようにしていた。イエスは後をふりむきもせず、目前に聳える丘を見すえながら前へ進んで行った。

住宅地から遠くはなれ、誰の目からも見られない所に来るまでは休もうとはしなかった。目的地に着いたとたん、イエスの顔付きが変わった。静かに歌をうたい、花を摘み、草の上に寝そべって飛びかよう鳥たちを見守っていた。静けさが心の中にみなぎったとき、彼はそこに跪き頭を低く垂れた。

ヤコブが見守っているうちにイエスの肩が大きく上下し、彼の体全体が心の嵐に出合ったように震えだした。その状態が去ると非常に静かになり、ヤコブがそっと近づいてみると、何と彼の顔は天を仰ぎ光り輝き、まるで天使の顔のようであった。イエスは膝をついたまま上体を挙げ、両手を大きく開いて、2度か3度挨拶をかわした。

大声をあげながら聖書の言葉を口にし、その言葉が真理に基づいているかどうかを質し、更に神の御意志を明確にあらわしている御言葉があるか否かを尋ねた。その光景は、まるで律法学者を目の前にして大事な教えを授けているかのように見え、賢者どうしが話しあっているようにイエスは振る舞った。周囲にはイエスしか居ないのに、誰かと熱っぽく話したり相槌を打つのであった。

ヤコブはイエスのまわりを見回し、生い茂った森の中をのぞき、あちこちを丁寧に探しても律法学者らしき人は見当らなかった。ヤコブの目には、ただ森や足元に生えている草むらや天空の青空しか見当らなかった。ヤコブは静けさの中で呟いた。

<彼は花や鳥と話しているんだろうか?>答えは得られなかった。ヤコブにとっては、イエスが神の知恵の御言葉を空中に描いているようにしか思えなかった。話しては止め、空中に耳を傾け、イエスの目つきなどからそうとしか思えなかった。人っ子一人住んでいない寂しい場所であった。

ヤコブの悩みは大きくなっていった。彼は次第に従兄弟に恐怖をおぼえるようになった。イエスは日の出に輝く空気に向かって語りかけ、遠い遙か彼方のカルメル山から吹いてくる微風に返事をし、ガリラヤ湖を横切ってきた風のように囁いていたからである。

ヤコブはイエスが語り合っている相手のことよりも、イエスが口にしている言葉の方に注意してみることにした。ヤコブはこのことを一部始終母に話した。母はヤコブにもっと接近して、イエスが石や草や空気と本当に話し合っているのかどうか調べるように言った。

「お母さん、イエスはね、石や草と話しているんじゃないよ。たしかに誰かが居るんだよ、もしかしたら悪魔かもしれないってナザレの律法学者が言うんだ。悪魔はよく子供たちにあらわれて変なことを囁くんだってさ。僕にも気を付けろって言われたんだ。そんなときには指を両耳にさし込んで逃げろっていうんだよ。悪魔と言葉をかわしたら忽ち地獄につき落とされてしまうんだって」

「イエスは悪魔となんか話すもんですか!!何も怖がることはありません!私が言った通りにイエスに近づいてごらんなさい。思いきって、イエスが誰と話しているかをきいてみるといいんだよ」

そこである曇った朝、空一面に雲が広がり、霧が湖の上を覆っているとき、ヤコブはイエスが跪いて静かに祈っている岩から数メートル離れた所にある樹陰に隠れていた。静かなひとときが流れ、ゆっくりと光が射し込んできた。薄暗い所では東の空を見上げながら囁いている人の顔ははっきり解らなかった。突然イエスは立ち上り熱心に叫んだ。

「主よ、御話下さい!私は此処に居ります」それから暫く沈黙が続き再びイエスが叫んだ。「だから私たちは、すべて神の子なのですね!ハイ、ハイ、その通りです。…悪人でさえも迷いの中に居る者も、そして…異邦人(ユダヤ人以外の民族を異邦人と称し、神の選びにあずからない罪深い民族と考えていた―訳者註)でさえ神の子なのですね、だからこそ神はすべての人々に憐みをかけられるのですね」再び沈黙が流れた。

すると突然腹の底から絞り出すような声を出して、イエスの質問が確かな返事として返ってきたような感じがした。知恵ある御言葉に接した者が見せる喜びの色がイエスの顔全体にみなぎっていたからである。

日の出の太陽がイエスの顔を照らし、イエスは立ち上り、誰かと一緒に居るかのようにあちこちと歩き回った。このようにして1時間程経った頃、ヤコブは遂に我慢しきれず、隠れていた樹陰からとび出して、ワナワナと震えながら叫んだ。「誰と話しているんですか?」

イエスが従兄弟のヤコブだとわかると、厳しい口調で静かにするように命令した。イエスの声があまりに凄かったのでヤコブはその場で竦んでしまった。イエスは一緒に居た人と思われる方にお辞儀をしてからヤコブのもとにやってきた。「私と話していたお方を見なかったかい?」

「いいえ、誰も見ませんでした」「あの方は預言者だった方で、僕に話しているのを聞かなかったかい?」「いいえ、なんにもきこえませんでした。律法学者は悪魔だけが子供の耳元で囁くとおっしゃってます」「私と話しておられた輝くような御方が暗黒の王子ベルゼブルだと思うかい?」

「とんでもありません。あの方が悪魔だと言っているんじゃありません、ただ、あの律法学者は何でも知っている学校の御方です、先生が律法学者の言う通りに従いなさい、て言われたのです」暫くの間イエスは黙っていた。彼は草むらに生えている白い花を摘みとってヤコブに言った。

「律法学者はこの百合の花がどうして成長し、美しい花を咲かせるか知っているだろうか?彼は生命の秘密を知っているだろうか?彼は茎を伸ばし、葉をつけ、蕾をならせ、美しい花を咲かせる種の不思議な秘密をみんな知っているだろうか?」

ヤコブは答えた。「いいえ、彼はそんなことは知らないと思います。神様だけが、それをお創りになったのですから御存知です。学校の先生はそうおっしゃいました。」「そんなら律法学者は何にも知らない訳だろう?」ヤコブは困惑した表情で頭をたてに動かし、イエスに同意した。イエスは続けた。

「この一輪の花のことすら解らない方が、それ以上の難かしいことを解るはずがないじゃないか」「そうですねえ」「律法学者は何も知らないからこそ、悪魔が僕の耳元で囁いたなどと言ってるんだよ。静かな早朝に、輝ける預言者と話していることなんか解るはずがないじゃないか!!」

「はい、それはそうですね。でも、律法学者は深く学問をした御方です。あなたがどなたと話していたかを言ってくれなければ、彼にはわかってもらえません。それに、あなたは僕よりも年上の少年ですが、学問をおさめたわけではないので…」「僕はね、丘の上で独りで居るときに、天におられる父上(神様)が私に直接話して下さったんだよ」

この言葉を聞いたとたん、ヤコブは地上に倒れ、がたがた震えだした。暫くの間頭もあげず、じっとしていた。彼は日頃長老たちから、至高なる神様の御名前を大声で口にしてはならないと厳しく教えられていたからである。それは絶対に口にしてはならない神聖な御方であり、至聖中の聖なる御方であるから、賢者や祭司のみが口にできることと教わっていた。

だからヤコブは、その御方のことを口にしたイエスは即刻撃たれて、地上に倒れ死んでいるのではないかと思った。そっと頭をあげて見ると、驚いたことに、イエスは彼の目の前に立っていて、ほほえんでいるではないか。「ヤコブ!お前は何をそんなにびくびくしているんだい」

「やっぱりあなたは悪霊にとり憑かれているんだ!ただ預言者や聖なる御方が至聖なる御方のことを口にできるって、律法学者の“ベナーデル”が言ってました」

「ベナーデルだって?こんな小さな花に隠されている秘密すら解らない方が!!ねえヤコブ!そんな人の話をどうして信じているのかい、彼は年老いて白い髭を生やしているだけじゃないか。神様は僕の父上なんだ。そしていつも僕の心の中に居て下さることを知らないのかい!

だからこそ日の出の静かな頃、このあたりで父上の神様と話ができるんだよ。ヤコブ!!お願いだからこのことは誰にも言わないでおくれ。特に律法学者のベナーデルにはね」

「もちろんですとも、僕は口がさけても言うつもりはありません、とっても恐ろしいことですから」ヤコブは目を地上におとしながら悲しそうに言った。「僕は此処に来なければよかったんです。そうすればあなたの暗い秘密も知らずにすんだのですから」

「ねえ、これは決して暗い秘密でもなんでもないんだよ。僕にとって最もうれしいことなんだ。天の父上とこうして話ができるときが1番幸せなんだよ。お前もせめてその御声を聴くことができたらいいのだが。夜明けの静けさの中から、あふれるような神様の御言葉が魂の中に流れこんできて、もう何も恐れるものが無くなり、喜びでいっぱいになれるんだよ!」

ヤコブは小さな声で弱々しくささやいた。「あなたは、まるで自分が神様にでもなったように話している。しかも天の父上と自分が全くひとつであるかのように」ヤコブの顔面は蒼白になり、ただイエスにあきれるばかりで、何とも言えない恐怖におそわれた。

「そうじゃないんだよ、僕はただ神様の子供だと言ってるんだ、子は父に似るように、僕は天の父上のようになりたいと願っているんだよ。預言者エリヤがこの丘の上で僕にあらわれて下さって、どうしたら神様と話し合えるかを教わったんだ。そのおかげで、こうして神様と出逢うことができるようになり、つとめて神様の御意志を実践しようと努めているんだよ」

ヤコブはイエスの話に耳を傾けているうちに、不思議にも次第と恐怖心がうすれ、逆に畏敬の念が心の中に充満してくるのを覚えた。「あなたこそ将来偉大な“ラビ”になられる御方です」「いやいや、僕はラビなんかになるつもりはないんだよ。ただ僕は天の父上の御意志を実践したいと思っているだけなんだよ」

その後、イエスは2度と口を開かなかった。彼は野原をどんどん歩いて行った。イエスの容姿は雲のようなものに包まれ、ヤコブから遠くはなれてしまった。
再び独りになったイエスは、瞳をきらきら輝せながら、ガリラヤ湖の風景や周囲の山々の間をぬうように流れる河を眺めていた。

西の方には慈悲深いカルメル山が聳え立ち、その向こうにはギルボアの山々の峯がかすかに見えていた。その手前には、丸みを帯びた乳房のようなタボル山があった。

目を遙か東の方にやると、起伏の無い高原が果てしなく広がっていた。南の方に目をやると、サマリヤの向こう側にかくれている聖都シオン(エルサレムのこと)があって、胸をふくらませながらあれこれと想像をめぐらしていた。赤子のときに行ったきりで、何ひとつ憶えていなかった。

イエスは、父上の都エルサレムを見上げる日を待ちこがれていた。彼は近いうちに偉大なる神の都に行けることを確信していた。聖都を歩き回り、神殿の庭々をめぐりながら、神と交わることを夢見ていた。後日になってこの夢のことをヤコブに語ったのである。

(註1)旧約聖書、歴王紀下1・3には、“バアル・ゼブブ”即ちエクロンの神と記されている。ゼブブとは地獄の神の意で、全体として神を冒濱する汚神のことを指している。

(註2)紀元前9世紀頃に活躍したイスラエル初期の預言者。ヤーヴェ(神の名)に忠実なあまり当時のアハブ王に追放された。救世主の先駆者としてイスラエルの民衆から絶大な期待がかけられていた。イエスが布教をしていた頃には、洗礼者ヨハネという傑物が預言者エリヤの再生と思われていた。

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16 ヨセフの悩み

マリヤ・クローパスがヨセフの家を訪ねると、ヨセフが腹をたてていた。彼女には直ぐイエスのことで腹をたてていることがわかった。イエスがしょんぼりしていたからである。イエスが何か悪いことでもしたということでもなさそうだった。ヨセフとイエスはお互いに愛し合っているのであるが、根深い誤解が両者を苦しめていた。

彼女はまもなくいざこざの原因を知った。彼女にとっては実に馬鹿馬鹿しいことと思われた。それは学校で授業中にイエスが居眠りをしていたことを先生から聞かされたからである。年齢順からいうと、イエスはクラスで最年長であったが、成績はビリだというのだ。ヤコブの話などから察してマリヤ・クローパスがヨセフに言った。

「イエスは一寸変わってるのよ。他の子とはちがう生き方をしているのよ、きっと。彼は偉大な底力を宿していると思うわ、ねえヨセフ、彼はきっとイスラエルの教師になる器かもしれないよ」「冗談じゃないよ、姉さん、奴は今日にでも聖書を勉強し、ヘブル語の書き方を憶えないと、ナザレ中の大馬鹿者と言われるにきまっているよ」

ヨセフは続けて言った。「奴はいつもトラブルを起こしやがって、苦痛の種をばらまくんだ。おれは奴と弟のトマスに仕事を教えこむんだが、奴は仕事の最中にでも居眠りをやらかすんだよ、ちっとも役立とうとしないんだ。トマスの方が年下なのに学問もやるし手先も器用なんだよ」

「へえ、そうかねえ。でもイエスには知恵があるじゃないか」「知恵っていうのは律法学者が持っているもので、あんな餓鬼にあるわけないじゃないか」「そんなことないわよ。イエスの友だちに逢ってきいてみてごらんよ、どうしてどうして彼は知恵の宝庫だっていうじゃないか!!言葉の持っている偉大な力なんて、驚きだよ、奇跡だよ!

「馬鹿言っちゃ困るよ。イエスはね、奴の無知と横柄のおかげで、おれたち両親に散々恥をかかせるんだよ」「イエスはね、私にはとっても礼儀正しいよ。それにいつでも私のために井戸から重い水がめを家まで運んできてくれるのよ。イエスは一体どんな悪さをしたっていうのよ?」「それじゃ、あのナザレの律法学者がね、…」

とヨセフは言いかけたのであるが、姉の質問にはこれ以上逆らわないことにした。イエスの肩をもっている姉を、とんでもない方向に追いやってしまうのではないかと恐れたからである。

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17 異邦人“ヘリ”の挑戦

律法学者という存在は人々から尊敬されていた。天使が彼らの学識を祝福していると考えられていたからである。どんな事柄について語っても称賛された。彼らがモーセの律法について講じるときには、ガリラヤ地方では、彼にたてつく者は1人もいなかった。

この地方の住人はみんな単純素朴であったからである。彼らは知恵というものがただ律法学者の口によって語られるものと信じこんでいた。律法学者への道は狭き門であった。エルサレムに群がっている多くの教師たちは、まるで巣箱の蜂のように聖都に集まっていた。

彼らは単純なガリラヤ人を軽蔑していたので、ナザレにはたった1人の律法学者しか居らず、住民の尊敬を集めていた。彼は“ベナーデル”と言って、ガリラヤ湖周辺の人によく知られていた。彼はまめにナザレを歩き回り、町や村を訪問した。

彼の地声は大きく、異邦の地テベリヤやピリポ・カザリヤの町々にもとどかんばかりであった。その弁舌は短剣のように鋭く、ローマ人の英知をも切り刻んでしまうと噂されていた。彼は昔ピリポ・カイザリヤで熱心に腕をみがいていたという。

ヨセフはそれをいつも得意そうに言っていた。<ナザレには誰にでも自慢できる律法学者がいるんだぜ。そりゃみんな頭をさげるし、彼の話はいつも立派なんだから>

最初の頃は、この町では噂通りの彼であった。ある日のこと、ナザレの旅館に旅人がやってきた。彼らは立派な見なりをした異邦人であった。その旅人の1人が律法学者に挑戦して、泉のほとりで話し合いたいと申しこんだ。なぜなら、この律法学者が本当の知恵を持っているのはイスラエルの子等だけであると公言していたからである。

ベナーデルが誇らしげに言いふらしていた。この申し出に対してベナーデルは、ギリシャ系の異邦人と自分の身をおとしてまで話し合う気はさらさらなかったのである。言うことがふるっていた。

<信仰の篤い者は、余程悲しい必要がない限り異邦人と食事をしたり話したりしないものである>と。それを伝え聞いた異邦人はあざ笑って言った。<律法学者はびくついているんだ。ユダヤ人だけが知恵を持っているなんて証明できないことを承知しているんだ。知恵というものは、流浪える鳥が到る所で木に巣を作るようなものであることを知っているのだ。彼は全く馬鹿なやつよ>

異邦人が言っていることを伝え聞いたガリラヤの人々は、そんなことを言われて黙っていることはない、直ぐにでも泉のほとりに行って話し合い、散々言いこめて恥をかかせ、ナザレから追い出してしまったらどうかと主張した。しかしベナーデルはその要求を容れなかった。

そのかわり彼は怒り狂った猛獣のように荒れ狂い、3日間もぶっ通しで妻にあたり続けた。律法学者に挑戦を試みた異邦人の仲間は立ち去って、彼1人だけ旅館にとどまった。彼はガリラヤの湖や山々の美しさに魅せられて、暫くそこに滞在したかったからである。

彼は“ヘリ”と言って、イエスと仲良くなり、ガリラヤの山々や湖畔をめぐり歩いていた。ヘリはイエスの顔の輝きをいち早く悟り、この少年が丘の上でどんな不思議な体験をしたのか熱心に耳を傾けた。ヘリはイエスに色々と質問をした。

その度にはね返って来る返答は鋭い刃のようで、うれしいことに彼の魂が真に求めていたものであった。ヘリはイエスに自分のことを“エジプトの人”と呼ぶようにたのんだ。エジプトで生まれたからである。「私の両親はギリシャ人であったが、エジプト生まれで、人生の土台を其処で築いたんだよ。だから私はギリシャ人ではあるが、エジプト人なのだよ。

私は随分あちこちと旅をしたんだが、ユダヤ人だけが住む所が変わっても自分の国籍や人種の名前を変えようとしないんだね。実にこの点は偉い民族だと思うよ。それで私は故郷に帰るまでにこのユダヤのことをうんと勉強しようと思っているんだよ」

「その理由はね、唯一の神様を拝んでいるから、どんな環境にいてもふりまわされないからなんです。ユダヤ人たちの信仰は、ガリラヤの山々に見られる岩のようにどっしりとしているのです」エジプトの人はイエスの言葉を聞いてとても喜んだ。彼はイエスの仲間たちと泉のほとりに集まって、熱心な知恵の交換会を開きたいと言い出した。

イエスは3、4人の仲間をつれてきて早速交換会を開いた。この異邦人は、平凡な人々と対等に話し合うことによって様々な知識が得られることを知っていたので、律法学者と話す機会を失っても、素朴な人たちから知識という宝物を手にしたことをとても喜んだ。

さてイエスは、自分が1人の偉大な賢者と話し合っているとは全然知らなかった。この人の話を聞いていると喜びがわいてきて、心の窓を開いて心中のすべての秘密をさらけ出したくなるような衝動をおぼえるのであった。まるで本当の兄のように、何でも相談相手になり、優しく、忍耐強く話を聞いてくれるので、丘の上での1人歩きのことを話しても決して嫌な顔をしなかった。

そんな訳で、この2人は互いに尊敬しあうようになり、真理探究意欲という確かな絆によってしっかりと結ばれていったのである。今まで参加していた交換会の仲間たちは次第にこなくなってしまった。この異邦人の言ってることが全然わからなかったからである。

イエスだけがこの英知の市場で、時代や民族を遙かに越えた知恵を交換することができた。ところが弟のトマスは、間もなくイエスと異邦人のことを嗅ぎっけて彼らの集会のことを律法学者に告げ口した。おまけに次のようなことを学校の先生に密告した。

<イエスは夜になると、淫らな話やギリシャの猥褻な物語に熱中して、ちっとも勉強をしていない>と。律法学者はヨセフの家にでかけて行った。ベナーデルは暗い表情で、息子イエスがとんでもないことをしていると話しだした。

「お前さんは我らの大切な律法を知っているだろう!律法では、豚を飼ってはならぬとな。だから豚をたべているような汚れたギリシャ人の知識を学んではならぬというのに、お前さんの息子は悲しいことに、この戒めを破って大罪を犯しとるというじゃないか!!彼は罰せられねばならぬわい。とにかくじゃ、あの異邦人めとつきあわないようにさせるんだね」

律法学者ベナーデルは、ヨセフの家から帰る途中、イエスはきっと泉のほとりで例の異邦人と別れを惜しんでいるにちがいないと思い、道ばたの陰で異邦人が行ってしまうのを見とどけてからイエスに近より、烈しく怒り、イエスをののしったのである。

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18 最初の受難

夕方になってナザレの人たちが泉のほとりにやってきた。群れの中にクローパスもいた。彼は正直な人間で、あの律法学者とは正反対であった。クローパスは妻からイエスの事を聞いていたので、よく承知していた。

目前で律法学者ベナーデルが猛り狂った蛇のように猛毒をイエスに浴びせかけ、少年をののしっているのを見て、クローパスは仲裁に入り、どうしてこんな酷い事をするのかと質した。

クローパスは立派な商人で、ナザレでは幾らか財産も持っていたので、ベナーデルは彼に対しては一目も二目もおいていた。そこでベナーデルは、大勢の人が集まっている事を悪用して、いきなりイエスの悪口を並べたてたのである。

<イエスは律法を破った大罪人である。モーセに逆らい、神に逆らった>と言いふらした。何も知らない人々はこれを聞いて恐れをなした。律法学者の酷い仕打ちを恐れたからである。居合わせた人々は、目の前で呆然と立ちすくんでいるイエスを眺めていた。

イエスはそれに対して一言も弁解しようとはしなかった。イエスには静けさと気高い雰囲気が漂っていた。これを冷静に観察できたのは、おそらくクローパスだけではなかったろうか。彼は商人として多くの異国の人々を相手に仕事をしてきたので、これはとても異常な事だと判断し、驚くばかりであった。

目前に立っているイエスの存在は、もうただの少年ではなく、ヨルダンの隠者とたたえられている灰色の髭の老人ベナーデルよりもはるかに偉大で清純に見えた。イエスは幼少の頃より、内なる霊の炎によって変容するのであった。律法学者も群衆もそんなイエスには気付かず、ある者は棒切れを振り回しながらイエスを脅し、他の者は腕を振り上げてイエスに襲いかかろうとした。

しかしイエスをとりまく静けさには勝つ事ができず、怒り狂うベナーデルを不動のまま睨みつけているイエスに近寄る事ができなかった。クローパスは体も大きく腕力もあった。彼は暴力をふるおうとしている群衆をなだめ、静かになってからベナーデルに向かって言った。

「あなたは、この子が律法を破り、神にそむいたと言ってお責めになりましたね。もっと公正に事を進めてはいかがです?彼にも弁明するチャンスを与える与えるべきではありませんか!私たちは全ての事が明らかにならないうちに人を審いたり罰したりする事はできないんですよ!!」

聴衆はクローパスの主張に賛成した。そこでイエスとベナーデルが聴衆の面前でお互いに話し合う事になった。イエスはみんなの前に手を上げながら訴えた。「僕は何の罪も犯してはおりません。もしこのラビが僕の質問に答えてくれるなら、僕が決して罪を犯していない事が解ってもらえると思います」

律法学者は小僧のような少年から挑戦されたので、更に大声でわめきたてた。<こいつはガリラヤ一の大馬鹿者で、わしと口のきける奴じゃない!こいつが犯した罪をみんなで懲らしめてやるんだ!!>クローパスが言った。

「あなたはこの子が正しかったと言われるのが怖いのですか?」「とんでもない、そんな事があるもんか!」「そうですか、そんなら勇気をもってこの子の言い分をお聞きになったらどうですか?」とりまく群衆も<そうだ!そうだ!それが公平なやり方だ!>と囁きあっていた。

律法学者は仕方なくイエスと対面した。イエスはたずねた。「あなたは僕が異邦人と話したという事で神に逆らったとおっしゃいます」「その通りだ、そりゃ大変悲しむべき大罪じゃ。お前はあいつらと仲良くしておったからじゃ、それも1度ならず頻繁につきあっていたではないか」

イエスは答えた。「ラビ、あなたは大変学問のある方でいらっしゃいます。そこで先生におたずねしますが、神様はこの世界と全てのものをお創りになったというのは本当でしょうか?」

「おお、その通りじゃ、だがその御方の名前を妄(みだ)りに口にしてはならんのじゃ、だのにお前の汚らわしい口でその方を冒涜したではないか」イエスはめげずに続けた。「それならば、この世界をお創りになった神様は、人類もお創りになったはずですが?」

「当たり前よ!神は手始めに、アダムの鼻の穴から息を吹き込まれ、全て生命ある者とされた事は、イスラエルの赤んぼでも知っておるわい!」ベナーデルは嘲笑った。「それならば僕と話した異邦人も神様の御手によって創られた方ではないでしょうか?」

律法学者はここで言葉がつまってしまった。彼の顔は歪み、イエスの質問の目的がわかりかけてきた。クローパスはすかさず言った。「そうだとも、神は全て生きる者をお創りになったのだ!あのエジプト人もそうなのだ!」イエスは言った。「神様がお創りになった方と僕が話しあったからといって、どうして僕が大罪を犯す事になるのでしょうか?」聴衆はざわめきだした。

その中に居合わせた旅の人が円陣の外側から叫んだ。「よくぞ言った!!本当にお前は勇敢な子だ!」聴衆もベナーデルも、熱気に包まれていたので誰が叫んだのか解らなかった。ベナーデルは完全にぶちのめされてしまい、この少年の知恵に腹を立てるばかりであった。

彼も負けずに言いがかりをつけてきた。「神の創られた者も堕落して、悪魔に魅入られる者だっているんだぞ!あの異邦人め、否、異邦人は全部だ!ベルゼブルの家来なんじゃ、だからあいつらはもう神の子ではないんじゃ。それなのにお前は、悪魔の血が流れている奴と話し合って大罪を犯したのじゃ」

「そうですか、もし異邦人があなたのおっしゃる通り悪魔の王子ベルゼブルに連れて行かれてしまったいうならば、連れ戻す努力をしたらいかがです?異邦人もきっと神様の驚くべき御力によって立ち帰る事ができると思うのですが、そうじゃないんですか?」

「そのためには、どうしても彼らと話し合う事しかないと思うのですが。羊の群れから迷い出た羊がいる時には、羊飼いは懸命に探し出そうとするじゃありませんか!あなたが上辺だけでなく、本当に知恵のある方ならば、異邦人から求められれば堂々と話し合って、彼の無知と堕落を改心させてあげられるではありませんか」

「いやあ、全くその通り!私はみんなの前であなたと話し合えるチャンスが来たようだ」とエジプトの人が群衆をかきわけながらベナーデルの前にやってきた。「もしこの論争に負けたら、私はあなたの教えや、おっしゃる事に何でも従いますよ」

この言葉を聞いて律法学者はわなわなと震えだした。ベナーデルはとても臆病で、自分があまり才知に長けていない事を承知していたからである。ベナーデルは、形振り構わずまるで狂った狼のように、エジプトの人を罵りまくった。

「このギリシャ人を見ろ!こいつはこの子をすっかり駄目にしてしまったのだ。それだけでは飽き足らず、偶像を拝ませようとしているのだ。奴を直ぐに追い出してしまうんだ!こいつをナザレから追い出さなきゃ、もっとたくさんの子供たちが堕落して、預言者が言っている地獄になっちまうんだぞ!」

クローパスの努力も空しく、律法学者とイエスを取り囲んでいた群衆が騒ぎ出した。この連中は途中からかけつけた野次馬で、初めからの経緯を知らなかったせいもあって、ベナーデルがエルサレムから来た律法学者というだけで頭からベナーデルを盲信していた。

だから群衆は、ベナーデルの命令に従い、この異邦人を取り囲んで烈しく罵り、彼をめがけて石を投げつけ始めた。遂に異邦人はその場から逃げ出し、群衆はまるで犬のように彼のあとを追いかけていったのである。

暫くして泉のほとりに残ったのは、律法学者とイエス、及びヨセフの3人であった。ヨセフは弟のトマスからイエスが律法学者につっかかって、散々侮辱していると聞かされて、急いでかけつけた。彼はトマスの悪意とでたらめな情報を信じこんでいたので烈しく怒り、道に捨てられている塵芥(ごみ)をやにわにひっつかんでイエスの頭に投げつけた。

それだけでは気がすまず、イエスを殴りつけた。ベナーデルはヨセフに命じた<イエスを棒でぶちのめし、絶食させ、1日中大工仕事をさせなさい>と。

気の弱いヨセフは、ベナーデルの命令は必ず守ると約束し、頭をかがめながらイエスを連れて帰った。家に帰ると、ヨセフは妻を呼び、家の中で遊んでいた子供たちを外に出してから、今日の出来事を詳しく話して聞かせた。特に律法学者から散々非難された事を強調した。

話が終ると母マリヤは哀れな目つきでイエスを見やり、悲痛な声で言った。「まさか!この子が神を冒涜するなんて!あなたはそんなに悪い事を本当にやったの?みんなの前で聖なる神様の御名を汚したのですか?」「ちがいます、お母さま。律法学者は間違っています。」

「彼の言った事は、ひとつを除いてみんな“ウソ”なんです。そのひとつというのは、僕があのギリシャ人と話し合ったという事です。この方はとてもためになる事を話してくれました。彼は賢い人で、本当にためになる事を沢山話してくれたのです」ヨセフが口をはさんだ。

「律法学者が間違っていたのなら、なぜお前は抗議しなかったのか?」「そんな事が役に立つと思いますか?お父さんだってあのベナーデルはウソをつかないと信じているんでしょう。いつもそうおっしゃっていましたね」ヨセフはうらめしそうに言った。

「ああ、あの異邦人めが、すっかりお前を目茶苦茶にしてしまったんだ。お前はまどわされているんだよ」イエスが言葉を尽して説明しても、単純なヨセフにはわかってもらえず、律法学者が彼に命じた通りにイエスがくたくたになるまで、イエスを棒で叩き続けた。

この時からイエスはヨセフにびくびくするようになった。全身に受けた打ち傷は治っても、ヨセフに対する不信感は簡単に癒されなかった。マリヤ・クローパスがヨセフの所を訪ねた時、彼女はすばやくイエスが受けた災難の疵(きず)の深さを知った。

イエスは、その時まで、どれ程父母を慕っていたか彼女はよく知っていたからである。両親ともイエスのいう事を信じないで、あの律法学者が並べたてたウソを信じてしまった。母マリヤは、隣近所で大恥をかく事になった。

彼らの目は冷たく、不快感を表わし、子供たちにはイエスから遠ざかるように言ったのでイエスは暫くの間、全く1人で過ごさねばならなかった。クローパスは、あの大騒ぎがあった夜、のっぴきならぬ用事ができて、ピリポ・カイザリヤに行っていた。

しかし帰ってくると、妻からイエスが律法学者から酷い仕打ちを受けて事態が悪化していた事を知った。そこでクローパスは、直ぐヨセフの所へ出かけて行き、あの時の経緯を詳しく話して聞かせ、ヨセフとマリヤに、イエスが言っている事が真実である事を信じさせようとした。

それに対してヨセフが言った。「あの子の受けた心の疵(きず)はもう治らないでしょうよ。律法学者がウソを言ったとしてもあれだけの尊敬を集めている権威者には歯が立ちませんよ。私に仕事をくれた人たちも今ではそっぽを向いてしまうし、すっかり信用を失くしてしまいましたよ」

「挽回するには、よほど時間がかかるでしょうよ」クローパスは言った。「この世は無情だね。何とかならんのかね」マリヤが言った。「全然らちがあきませんわ」ヨセフが続いて言った。「今の私たちにとって大事な事は、誰が子供たちを食わせてやるかなんですよ」

ヨセフの言葉が終らないうちにイエスが家の中に入ってきた。彼の顔には、ありありと悲哀が色こく表れているのをクローパスは見てとった。

母マリヤは彼をしっかりと抱きしめて目に涙をいっぱいにためながら、何度もイエスに接吻するのであった。この2人の母子は、ひとつ心になっていた。

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19 聖都への旅行計画

長い辛い時期であったが、ヨセフは爪に火をともすような暮らしの中から小銭を貯めていった。わずかばかりであったが、これだけあれば何とか目的が達成されると思った。彼の目的は、マリヤを連れて聖都エルサレムに行き、過越祭に参加することであった。

この2年間というものはその願いが果たせず、イエスの下に生まれた弟妹たちを養育するのに馬車馬のように働き通した。幸いなことに、彼が造った彫り物が例の異邦人の目にとまり、なにがしかのお金をもらったので3人分の旅費ができたのである。

イエスは体の傷もなおり、ようやく歩いて話せるようになったのでマリヤはイエスに語ってきかせた。イエスが生まれたとき、エルサレムの神殿に行き、そこで大いなる栄光を体験したことなどを語った。エルサレム行きが叶いそうになったので、彼女は言った。

「これは神様の思し召しよ。イエスが祝福を受ける年齢に達したからお前もいっしょにでかけましょうよ!!そうしたらきっと隣近所の人たちもお前を見直して、もう白眼で見られなくなり、友だちができるかもしれないね」ヨセフは反対してマリヤに言った。

「とんでもないよ、今度はトマスをエルサレムにつれていく番さ」仕事場で木工作業をしていたトマスは、ヨセフが大声をはりあげているのを聞いていた。マリヤは言った。

「トマスは年下です。この次にしましょうよ」「いいや、イエスは祭礼にはつれていかないよ、おれは、その方が賢明だと思っているんだ。あんな馬鹿な子をつれてってみなよ、神殿で大恥をかかされるにきまっているよ。友人や親戚の者が見て、あの馬鹿な子は一体誰なんだってきかれたら、何と答えりゃいいんだい」

「でもあなたの姉さんが言ってたわ。あの子は鳥のように賢く、ナザレの井戸のように思慮深いってね、測りしれないとも言ってたわよ」「笑わせるんじゃないよ。それはベタニヤの井戸のように水無しの井戸のことだろうよ。夏の終り頃に駱駝に水をのませようと井戸につれていって、1滴の水ものめず悲しませるようなもんだ。

あの子は本当に知恵なしもいいところよ、学校の先生が言ってたが、あの子は全然字も書けないというじゃないか。聖書もひとことも読めないなんて情無いやつだ。なんでも来週までに生徒の中から中央のお偉いさんがやってきたときに読んできかせる朗読者を選ぶんだそうだ。きっとトマスあたりが選ばれるんじゃないかって言ってたよ。

こんなにできる子をエルサレムに連れていかないてはないだろう。それにな、先生がとても心配していることは、イエスには相変わらず悪霊がとり憑いているから、あの子を旅にでもつれていったら最後、神殿の庭で悪霊が暴れだし大騒ぎになるかもしれないって言うんだよ」

「あの先生は腹黒い人だわ。そんなことあてにならないわよ。あの子が律法学者をやっつけたばっかしに、がんとしてイエスのことを受けいれないんだから」「とにかくイエスはな、聖書が全然読めないんだぜ!どの子もみんなそう言ってるぜ!」マリヤは内心とてもくやしかったが、やっつける材料がみつからなかった。

ィエスは仕事場の工具の上に柳のようにもたれかかり、暴風のようなヨセフの言葉に傷ついていた。その悲しみがマリヤにも伝わりとてもつらかった。トマスの快感とは正反対にイエスの悲しみは深かった。ヨセフは強情な夫であったから、そう簡単には折れなかった。そこでマリヤは賢い姉のマリヤ・クローパスのところに行って相談することにした。

(註1)イスラエル3大祭りのひとつ。ヘブライ語でPesach(ペサ)という。モーセの率いるイスラエル人をエジプトから救出するため、神はエジプト人の長子と家畜の初子の生命をうばい恐怖を起こさせたとき、イスラエル人は、屠殺した小羊の血を家の門口の両側の柱と鴨居とにぬり、自分たちは死をまぬがれた。殺して回る天使は、血を門口にぬった所を「過ぎ越した」ということから過越祭と名付け、エジプト脱出の記念として毎年春に祝うようになった。

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20 暁に預言者と語る

イエスと同じ年頃の子供たちは、律法学者を恐れて誰もイエスと遊んだり話したりしなかったので、彼は年下の子供たちとガリラヤの野辺で遊んでいた。年下の子供たちはこの大きな少年が大好きだった。イエスは彼らには大変優しく振まい、花や葉や石などで色々なものをつくっては喜ばせていた。ある時には、小さな子をおんぶしてやったり、退屈している子の相手をしていた。

車座になって座り、子供たちは幻の中からとり出してくるイエスの話に夢中になっていた。マリヤ・クローパスは遂に子供たちが木の下にたたずんでいる光景を見つけた。彼女も熱心に楽しそうな話に耳を傾けていた。それは天国のことや、ひとりひとりの子供たちを見守っている天使が危ない目にあわないように見守っていることなどが話された。

話が終り子供たちが帰って行ったあと、マリヤ・クローパスはイエスの腕をとって過去の忌まわしいことについて慰めようとしたが成功しなかった。彼はエルサレム行きを心から望んでいたが、母の約束もきっと実行されることはないと諦めていた。

「トマスをおしのけてまで僕が行きたいとは思いません。でもやっぱり巡礼の旅に行けないと思うと悲しいんです。お母さんが約束してくれたのですが、もう1人約束してくれた人がいるんです」

始めのうちはそれが誰であるか、その名前を明かさなかった。マリヤ・クローパスは、イエスがよく丘の上で瞑想するのを知っていることを彼に告げたので遂に打ち明けて言った。

ある夜明けのこと、1人の預言者が自分の前に現われて、来年は必ずエルサレムに行くであろうと言ったことを話した。しかし彼女には信じられないことであった。もう夜が明けようとしていたので、イエスは夢でも見ているのであろうと思っていた。

誰かの声がひびいている気配を感じた。声のする方へとゆっくり歩いて行った。声に吸いこまれるように進んで行った。声が止んだ地点に、細い小道があった。そこからは町が微かに見えた。間もなく彼女は誰かが歩いてくる足音に気がついた。それは少年が険しい道をよじ登ってくる足音であった。彼女の心には疑いの雲は晴れていた。視界が開け、夜という衣の裾が次第に西の方へ転がるように消えていった。

そこには棒立ちになっているイエスの姿があった。1時間以上も身動きもせず、息づかいの音もきこえなかった。日の出の輝きが増してきて金色の光と濃い影とがイエスの周囲に広がっていた。雲雀がさえずり、鴨がイエスの肩に止まっては素早く飛び立って行き、周囲の草の葉にとび降りるのであるが、鳥の体がとても軽いのか草の葉は、この愉快な歌い手が止まっても折れなかった。

亀があちこちと這い回り、小川はさらさらと音をたてて流れていた。そこに居たどんな生き物もイエスを怖がる様子は見られなかった。みんなイエスの友だちのように振るまい、歌い、飛び回り、餌をとってきて雛鳥に食べさせ、少年イエスの静かな姿のまわりに不思議な喜びの空気が漂っていた。

突然彼女は大きな変化が起こったのを見た。鳥も花も、なにもかも消えてしまったのである。白い髭を生やした老人が少年の側に立っていた。2人は親しそうに話し合っていた。マリア・クローパスは、もしかしたらこの方は天使かと思ったり、大天使ミカエルか大天使ガブリェルの御使いの者かと思った。

いや、この方こそ預言者にちがいないとも思った。マリヤはもう疑う余地はなかった。彼女はイエスに関する真実を知った。かってイエスが息子ヤコブに言ってたように、イエスは神の子であった。そうでなければどうしてこんな夜明けにイスラエルの昔の預言者と話し合うことができるだろうか。

じっと見つめていたマリヤ・クローパスは手で顔を覆った。そして再び2人を見ようとして顔をあげると、もはや預言者の姿はそこになかった。暫くの間彼女は、青い水をたたえたガリラヤ湖の光景を眺めていた。そして心の中で、イエスは選ばれた人として、今にきっとイスラエルの偉大な教師として大きな力をあらわすときが来るにちがいないと思った。

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21 王者の片鱗

学校の先生は、まるで羊の群れの周囲を嗅ぎ歩くように、イエスの周囲をうろつき回った。何か懲らしめてやろうと、恐ろしい目付きで彼を睨みつけていた。手には棒を持ち、悪意に満ちた眼光をたたえていた。生徒たちはその日の放課後、誰か1人が、こっぴどく罰せられそうな予感がしていた。

彼らは直ぐ先生の心の中にあるものを見抜いていた。それはみんなの前で、何か失敗をやらかす生徒は誰であるかが想像できたからである。なぜならば、先生はイエスの横まで来るとピタリと立ち止まり、射るような目付きで彼を睨みつけたからである。

どの生徒もみんなこの先生から睨まれるのを怖がっていた。しかしイエスは平然として頭を挙げ、じっと教師の顔を見上げていた。イエスの顔付きは教師の悪意に満ちた怨みと、力づくで脅そうとする残酷な態度に挑戦しようとする無言の返事であった。

丁度その日は、エルサレムから偉いパリサイ人が学校に来て、生徒が聖書を読んできかせる日になっていた。そのために、生徒の中から聖書の朗読者が1人選ばれることになっていた。こんなときに選ばれた生徒が、読み方をまちがえようものなら、町中に知れわたり、大恥をかくことになるのである。

遂に偉いお客様が入ってきて、演壇の側の席に腰をおろした。はたせるかな、教師は、棒で机を叩きながらイエスを呼び出し、聖書朗読の1番手を命じた。生徒たちは心配であった。イエスは余り勉強もしないし、いつでもヘブライ語には弱いことを知っていたからである。

その彼が今、口語体ではないヘブライ語に直面させられたのである。教師はわざと無差別に開かせたページの最初の行から読むように命じた。イエスは怖気ず、堂々としていた。生徒たちの方が却って怖れをなし、まちがいなく教師の手にしている棒が振り上げられると思っていた。

イエスが聖書をめくっていると、あの偉いお方が言い出した。「これは不思議な少年だ!きっと高貴な生まれのお方じゃろうて。わしは彼の態度が気に入った。彼の名は何というのかな、そして親の名前は?」教師が答えた。「はい先生、彼は貧しい大工の息子でございます」

「彼はまことにイスラエルの王、ダビデの子孫にちがいない!なぜなら、彼の姿は鷹のように凛々しく、小柄な貧弱な体つきをしているがとても高貴な顔付きをしているからじゃ!」

賢者の言葉は低い声で語られたので生徒たちにはよく聞きとれなかった。しかしダビデの子孫という言葉を耳にして、ひどく怒り出した教師の顔を見て、イエスに好意をよせていた2、3の友だちはふるえ上った。

<あの偉いお方がお帰りになったあとに、イエスはきっと背中の皮がはがれる程棒で叩かれるにちがいない>とヤコブは思ったとたん、目から涙が流れだすのであった。「イエスは頭を上げ、開かれた“詩篇”の題目を述べた。

「もうよい、早く読みなさい!ひとこともまちがえてはならんぞ!お前の年頃の子供は、それぐらいのところはみんな諸じているんだからね」と教師はせかせた。少年イエスは朗々と聖書を読み始めた。

“万軍の主よ、
あなたのすまいは如何に麗しいことでしょう。
わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、
わが心とわが身は生ける神にむかって喜び
歌います。
すずめがすみかを得、
つばめがそのひなをいれる巣を得るように、
万軍の主よ、わが王、わが神よ、
あなたの祭壇のかたわらに
わがすまいを得させてください。”
(詩篇第84篇、1 – 3)

つかえることなく、ためらうこともなく、イエスは朗々と読みあげた。その美しいこと、しかも主の宮を恋いしたう言葉の調子の美しいことに全員が感動し、腰のまがったパリサイ人も背すじをのばして直立し、読み手のイエスに大きな喜びを伝えるのに両手を挙げてサインを送った。

その日の朝のように、このような感動をもって聖書が語られたことはなかった。その声はハープのように響き、美しいメロディーが次から次へと湧いてくるのであった。教師が途中で止めさせようとするのであるが、かの客人がそれを許さず、続行を命じた。それは彼の言葉がまるで美しい音楽のようであり、客人のような老人にさえ、新しい幻が与えられるのを感じたからであった。

このことが後になって他の母親たちに伝わるや否や、生徒たちはみんなイエスは全く変わったことを証言した。以前には見られなかった目の輝き、あのすばらしい声の響きの前には、イエスの貧弱な体つきは問題ではなかった。従兄弟のヤコブだけはその秘密を知っていた。彼はイエスと一緒にナザレの山々を歩いていた頃のことを思い出していた。

遂に朗読が終り、聖書が閉じられると、パリサイ人はイエスに手招きをして彼の近くに呼び寄せ、イエスの腕に体をよせながら教師に向かって叫んだ。

「もうこれでよい。他の生徒に読ませなくてもよろしい。この子はずっとわしの傍に居るがよい!彼の声は何とすばらしいのじゃろう。わしはこのすばらしい楽器の背後に控えておられる偉大なる霊のことが知りたいのじゃ!!この聖なる御言葉に添えられた、うるわしいものは、人間の言葉ではなく、魂そのものの響きだからじゃ!」

石畳の上まで垂れさがっている帯をひきづりながら、威厳のあるパリサイ人は、イエスを伴って陽の当る方へ歩いて行った。2人はゆっくりと草原の上を歩き、老人が熱心に語り、少年は丁寧にゆっくりと受け答えをするのであった。この様子を見ていた単純なナザレの人々は「大工の馬鹿息子」で知られていたイエスに驚いてしまった。かの高名なイスラエルの師が褒めぬいたからであった。

それ以来、あの腹黒い律法学者、ベナーデルや友人たちは、イエスのことを褒めそやした。学校の中では、怒り狂った教師が生徒にあたりちらし棒をふりまわしていたが、もうそれはイエスに及ばないものとなってしまった。教師はもうイエスに対してふるってきた権威をすっかり失くしてしまったことを感じていた。

ただ彼は歯をくいしばりながら、今まで暗かった生徒たちの表情が急に明るくなったのを眺めるだけであった。パリサイ人がイエスに別れを告げるとき、もしエルサレムに来るようなときがあったら、ぜひ神殿にきて自分を訪ねるように言った。

イエスは悲しげに答えた。「きっと大きくなるまではお逢いできないと思います」「いいとも。時の流れは早いものじゃ。なあ、イエスよ、もう1度お前の胸に隠されている“リュート”の音と、賢い響きの御言葉を聞きたいもんじゃ」「はい先生、僕もそのつもりでいます」イエスは、ぺこんと頭をさげた。

(註1)紀元前2世紀におけるユダヤ教の1派で、サドカイ派と並んで勢力があった。従って神殿に於ける権限は絶大なるものがあった。律法の実践に熱心であったので、反対者から“ファリザイ”(分離者)と言われるようになった。

(註2)旧約聖書中の教訓書である。内容は、150篇からなる詩と祈りを集めた詩集である。大部分は、ダビデ王の手によって作られたと言われている。ユダヤ教でも、現今のキリスト教でも、典礼に多くとりいれている。ユダヤ人は会堂、神殿、祭日、巡礼のとき好んでこれを唱えていた。

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22 マリヤ・クローパスの証言

マリヤは川で洗濯をしていた。衣類を揉みながら近くの草むらで遊ばせている赤子の方を見守っていた。彼女は朝早くから夜遅くまで働き通し、エルサレム行きの旅の仕度に追われていた。しかし彼女にはその楽しみも消え失せてしまった。ヨセフがイエスのことをどうしても連れていかないと言い張っていたからである。

そのときのイエスの悲しそうな顔を忘れることができなかったからである。木陰のもとで佇んで休息をとり、ナザレの景色を眺めていた。すると急に道路ぎわで騒がしくなり、池で泳いでいた白鳥たちが羽をばたつかせていた。みると1人の女がこちらに向かって走ってきた。

髪をふり乱し帽子も横に捻れていても、そんなことにはお構いなく叫んだ。「ねえ!!あなた!耳よりな報せがあるのよ!!あなたが吃驚するような素晴しいニュースがあるのよ!」「そんなことあるはずないわよ」「それが本当にあるのよ!」とマリヤ・クローパスが近づいてきて言った。

「もうなんにも心配することなんかないわ!あなたはね、イスラエルの偉大な預言者の母なんだから」「まさか。そんなのは御伽話よ!」「そうじゃないのよ!!わたし見たの、私きいたのよ、だからそう言ってるのよ」「イエスったら、悲しませることばっかしやるんだから、どうして喜べると思うの」

「わたしがね、イエスのことを話してあげるわよ、よく聞いてちょうだいな、マリヤ!私がね、朝早く丘の上でイエスを見ていると、彼の様子が変わってきてね、天の空に不思議なものが現れたの。真白な衣を着けた方が地上に降りてきてイエスの傍に立ったの。2人が話し始めたのよ。近よってみると、その賢者は杖によりかかってイエスの相手をしてるじゃないの」

「それ本当なの?その方はどなたなの?何ておっしゃる方なの?」「ただの人間じゃないのよ、何でも“エリヤ”て言ってたわ!」「何百年も昔におられた方とどうして話ができるの?それにその方がどうしてエリヤだってわかったの?」

「そりゃすぐわかるわよ!第一真っ白な髭を生やしていて聖書にある通りのお姿なんですもの、鳥でさえ囀るのを止めて、シーンとなってしまったのよ」「お姉さん1人だけだったの?」「そうよ」「ごめんなさい、私どうしても信じられないの。お姉さんは夢でも見てらしたんじゃないかしら。律法学者にはむかったり、聖書も読めないイエスがそんな偉い方と話すなんて」

「でも彼は立派に天使や預言者と話しているのよ!太鼓判を押してもいいわ。彼にはね、昔あなたにさずけられた神様の賜物があるのよ、あなたこそ昔天使ガブエリルと話したことを忘れちゃったの!あの丘の上を、天のお父様と一緒に歩いていたことを忘れてしまったの?救い主の母となるという大天使の約束をあきらめてしまったの、どうなの!」

「そのおかげでとても悲しい目にあったことをどうして忘れられるもんですか。私、大馬鹿だったのよ、高望みなんかして、苦痛の種をいっぱい集めることにしかならなかったんだから」「そんなことないわよ。もし本当にあなたが大天使様の言われたことを信じるなら、あなたが心の底から願ったような、とても心の清い息子がエリヤと話し合っても決して不思議じゃないと思うわ」

マリヤは手にしていた洗濯物を放り出し、両手で顔を覆った。暫くの間彼女は体を震わせて泣き通した。そしておもむろに姉の祈りに応えるかのように言った。「私が泣いたのは、あれ以来大天使ガブリエルが2度と私にあらわれて下さらなかったからなの。

それにイエスのことも怖くてね。昔私が幻を見たばっかしに、とんでもない目にあったので、きっとイエスも私と同じ目に逢うんじゃないかしら。あの子は他の子のように平凡であってくれればよいのにね」

「そりゃちがうわよ。彼はきっとすばらしくなるわよ。彼の内に秘めれらている深い知恵は誰も測り知ることなんかできないからね。そりゃそうと、私ね、主人と今度過越祭にエルサレムへ行くんだけど、イエスを連れてってもいいかしら?」

「それはとってもありがたいことですわ。でもヨセフが1銭だってあの子にかけるのはもったいないって言うのよ。彼は1銭だって恵んでもらうことをきらうと思うわ」「恵むなんてとんでもない!私たちはね、イエスを信じているのよ。だから神様におささげする献金のつもりでいるの」

「そんならすぐヨセフに話してみて下さい。きっと姉さんから話せば、いやとは言わないかもしれませんから」それからこの2人の女は衣類をかき集め、赤子をだっこしてナザレに帰ってきた。ヨセフは扉の上に張る横木を作っていた。姉の説得も上の空で聞いていた。

ヨセフは、イエスが学校でくだらないことばかりやるので大恥をかかされていることを繰り返し言うだけだった。彼は頑としてエルサレム行きを許さなかった。彼と姉とが話し合っているところに、近所の人たちがどやどや仕事場に入ってきて、にぎやかに話し始めた。

そしてさかんにヨセフのことを褒めそやすのであった。あのパリサイ人がイエスのことを褒めたことを聞きつけたからである。1人の者が言い出した。「あの大先生が言ってましたよ。お宅は、ダビデ王様の子孫にあたるんですってね。そうすると大変な御家柄になるんですね」

2人目の者が続いて言った。「エルサレムの律法学者でも、お宅のイエスのように聖書を朗々と読める者は居ないと言うじゃありませんか!」3人目の者が言った。「みんなが言うには、イエスが大きくなったら、きっと大学者ヒレル様のようになるんじゃないかって」

彼らが、わいわい話し合っている間に、マリヤは姉に言った。「お姉さん、えらいことになったわね。やっぱりお金を貸してください。イエスを過越祭に連れていくことにきめたわ。なあに、午前中は糸を紡ぎ、午後は一生けんめい働いて借金を返すわ。ねえ、お姉さん、私が失っていたものを昔のように戻してくださって本当にうれしいわ」

「そうこなくちゃね、マリヤ!イエスがエリヤと話したことを疑っちゃだめよ!」「はいはい、もう2度とそんなこと言いませんわよ。それに悲しむこともね。だって大天使ガブリエルの約束が本当に実現するんですもの。あのとき、みんなが言ってたような、嘘つきの悪戯天使の仕業じゃなかったんですね。本当に大天使ガブリエルだったんですね」

そこにイエスが入ってきた。母マリヤは彼のもとにかけより、イエスの肩に手をかけて言った。「イエスよ、あなたは私の喜びの泉です。私の日々の誇りです。今度こそあなたと一緒に過越祭にでかけましょうね。そこで街々や金色に輝く神殿の姿が見られるのです。そこで多くのことを学びとり、捧げ物をするのです。神様は心から私たちの巡礼の旅を祝福して下さるでしょう。2人の息子を連れて聖なる都に上京できるなんて、なんてすばらしいことでしょう」

マリヤはイエスを抱きしめた。近所の人たちが帰ってから、マリヤはイエスと2人きりになって最後の疑問をぶつけた。「どうして字が読めなかった子が急に賢者や学者のように完璧に聖書が読めたのかしら?」「僕が天のお父様とお話するときに、どうして字が必要なんでしょうか」

「そうじゃなくて、ほら、学校でのことだよ」「あのときのことですか。それは天のお父様が僕と一緒に居られたからですよ。僕は天の御父の子供じゃありませんか!」ヨセフが大声でマリヤのことを呼んだので、もうこれ以上イエスと話しておられず、話は中断された。

イエスの言っていることがよく解らなかったので、マリヤが姉のそばを通りぬけるとき姉の耳元でささやいた。「あの子ったら、またヨセフを悩ますような変なことを言い出すのよ、あの子が変なことを言い出したら、あっちの方へ連れ出して下さいね、もうやりきれませんからね」

姉のマリヤ・クローパスが言った。「そうだろうね、あの子が言っていることが解らないからだよ、でもね、私には解るの。あれはね、神様があの子の額に御自分の徴をおつけになり、将来神様の働きをするようになるとの思し召しなんだよ!」この言葉を聞いたマリヤは、改めて心に深く刻みつけるのであった。

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23 いよいよエルサレムへ

学校の教師は、このままでは治まらなかった。あちこちでナザレ中の子供たちを集めては次のようにふきこんだ。「お前たちは、あの偉いお方のおっしゃったことをそのまま親に話したと思うが、あれは冗談でおっしゃったんだと言いふらすんだ!前言を取消さなきゃ今度はお前たちをひどい目にあわすからな、よくおぼえておけよ!」

教師の粗暴な性格を知りぬいていた子供たちはふるえ上って答えた。「はい、そういたします。先生の命令通りにいたします」そこで彼らは家の者や親戚の者にふれまわり、あれはラビの本心ではなく、そうあったらいいなということを言ったまでだと吹聴した。それで事態は一変してしまった。

イエスは見向きもされなくなった。再びひどい噂が口から口へと伝わった。蛇の毒のような悪巧みは、すべてこの教師と律法学者によって仕組まれたものであった。それでヨセフは、イエスの自慢話をしなくなった。しかし彼はイエスにはとても親切になったのでマリヤは安心できたのである。

あの異邦人ヘリが再びやってきた。相変わらず汚いぼろぼろの着物を身につけて、道路ばたに腰をおろしていた。ヘリはイエスのよき理解者であった。彼は何時間も太陽、月、星など天体のことや、戦いのたえない地上のことを話してきかせた。さらに、この世界には、春に大きくなる穀物の葉のように、逞ましい有色人種があちこちに発生してくる様子などを話してくれた。

ヘリは砂漠に住んでいる遊牧民族のことにふれ、いつか必ず彼らにあわせてやると約束した。「あの人たちは本当に面白い連中なんだぜ。エルサレムにいる学者たちよりはずっとましなことを話してくれるんだ」

彼の話は心に深く刻みこまれていった。イエスは親から独立できたら、きっと遊牧者たちを探しに行こうと考えるようになった。しかし今度のエルサレム行きのことを考えているうちに、エルサレムに行ったら神殿に行き、学校で約束してくれた偉いラビを訪ねる計画などをヘリに話した。

「エルサレムに行ったらね、あの大先生が律法の知恵を教授してくれるんだ!!そしたら、そこに居すわって、もうナザレには帰らないんだ!神殿に寝とまりして、そこに出入りする学者たちから話がきけたらどんなにすばらしいだろうね」

「そりゃよした方がいいぜ。お前は、言ってみれば、野生の鳥みたいなもんだからな。お前はたちまち籠の中の鳥にされちまうぜ。お前の魂は根こそぎ骨抜きにされ、切角の霊力を失くしてしまうことになっちまうよ。ねえ、おれと約束をしてくれよ、絶対にナザレに戻ってくるとな。そのラビが神殿に止まれと言ったって絶対に断わるんだぜ!」

「うん、そうするよ。神殿の庭は天国の外庭みたいな所だろうから、そんなことをしたら、きっと追払われてしまうだろうね」

「ガリラヤの方がずっといいぜ。いや、それよりも砂漠の方がもっと賢いぜ。おれはなにもエルサレムにいる学者にケチをつける訳じゃないが。問題は、健全であるかどうかなんだよ。来世の生活に健全な影響を及ぼすもの、それは地上の高い処ばかりじゃなく、生きている勉強は道ばたでも得られるように、見知らぬ処で見知らぬ人々と話し合うことによって手に入るんだぜ」

イエスはヘリの言うことが正しいと理解できたので、今度の祭りに上京しても、家族と一緒に必ずガリラヤに帰ってくることを約束した。いよいよエルサレムに出発するときが近づくと、マリヤの心中には喜びが炎のように燃えさかった。歌ったり、笑ったり、一刻もじっとしてはおられず動き回っていた。

彼女の心には一点の曇りもなかった。彼女はマリヤ・クローパスのお陰で、若い頃に享受けた大天使の約束を再び待ち望むことができるようになった。彼女の愛情や優しさはすべてイエスに注がれた。夜明け頃、エルサレムへ出発するときには、イエスをしっかりと掴まえてはなさなかった。

巡礼の一団は、それはすばらしい世界で包まれていた。旅をする子供たちには、何と言ってその喜びを表わしたらよいか、その言葉がみつからなかった。彼らは言葉をはずませながら長老たちに質問の矢をあびせ、道中で見るものすべてが新鮮であった。

エスドラエロンの深い谷間にキシヨン川(列王紀上、8・40参照)が流れ、そこで預言者エリヤが偶像バアル神の預言者をやっつけてその預言者450人をその川に投げすてたと言われている場所や、遠くの方に聳えているギベオンの山や谷を眺めながら進んで行った。

長老たちは、くたくたになるまで先祖たちの物語をきかせるのであった。エルサレムに近づくと、少し様子が変化した。日が沈み、うす暗い道にさしかかったとき、遙か上の方から岩づたいに水がしたたり落ちてきて、みんなを驚かせた。

そこは“涙の谷”と言って、イエスの心の中にひとつの影のようなものが横切った。上の方に目をやると、そこには岩の狭間に沢山の墓があるのが見えた。イエスはそのとき、人間の生命の儚いことを感じていた。彼は<人間の肉体は、鳥がこのうす暗い谷間を飛び去っていくように消えていくのだ。それは何と目にもとまらぬ速さであろう>とヤコブに呟いた。

それから暫く喋らなかった。ヤコブはイエスに、どうして長い間歩いて足が痛くなっているのに、そんなにうれしそうな顔をしているのかと尋ねた。彼は答えた。「だって明日は、いよいよエルサレムなんだよ!どんなものが見られるかと思っただけでも胸がわくわくしてくるんだ。きっと天使だって僕以上に喜ぶことなんか出来ないと思うよ」

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24 大祭司アンナスの衝撃

朝早く目をさますと、土がむき出しになっている丘に冷たい風があたり、空はどんよりと曇っていた。幼いヤコブは、陽気に唄いながらエルサレムへ向かっている巡礼の群れの中にあって、1人でふるえていた。ヤコブは自分よりも大きなイエスの手をしっかり握りしめ、「ねえ、僕、怖いよ!もっときつく握ってよ!」と言った。

実は、エルサレムを囲んでいる外壁に沿って、かなりの数の十字架が立っており、その上に磔けになっている残酷な姿が目に入ったからである。死んでいる者もおり、まだ生きていて苦しみもがいている者もいた。禿鷲が彼らの周囲に飛来して鋭い口バシで死人の肉をついばんでいた。

まだ生きている者は、恐怖のあまり、うめいたり悲しんだりして、額から油汗をふきだしていた。ヤコブはイエスにしがみついていた。イエスは静かに立ち止まり、顔は真青になり、悲しみを隠しきれず、乱ぼうな口調で言った。「これが天の御父の町なのか!」

巡礼の一団は、男も女も、そこを通り抜けたとたん、再び大声ではしゃぎ出し、讃美の詩篇を声高らかに歌い、両手を神殿の方角に向けて楽しげなメロディーに酔いしれていた。クローパスとヨセフを中心とする一団は、道の曲りくねったあたりに横になる所を見つけ、その上にねそべった。そこは汚い穴の中で、日中でも太陽が当たらなかった。それでもねぐらにありつけた人は幸運であった。

その夜はみんなぐっすり眠れたせいか、明くる朝早くヤコブが目をさました。隣りで寝ていたイエスの寝顔を見ているうちに昨日の悲しみは跡形もなく消えていた。ヤコブとイエスは母からパンをもらってから外の狭い歩道で遊んでいた。ふとあたりを見回すと、遠くユフラテ河地域からやってきた髭を生やしたユダヤ人がいた。

アンテオケやアジアから来た人々もいた。男も女も子供たちもみんな疲れた目付きで起き上ってきた。顔にはありありと食物に飢えていることをあらわしていたが、同時に希望と夢に輝いていた。もうすぐ神殿で神を讃える喜びが近づいており、さらに其処では、たとえ一瞬であってもローマ人の支配から自由になれることがたまらなくうれしかったからである。

神殿の中庭には、イスラエルの人々が入ることを許され、外国人は、たとえローマの高官であっても入ることができなかった。それだけに、イスラエルの人々の喜びは大きかった。ヤコブもイエスもはしゃいでいた。ところが突然、赤子を抱いていた1人の女が泣き出して、通りの家の前で座りこんでしまった。

立ち上ろうと努めるのであるが、よろよろと後の方に倒れてしまうのである。彼女は夫に言った。「もう私は1歩もあるけないわ。疲れている上に何もたべていないんですもの。お乳も干からびてしまってこの子も飢えているわ。私ここで待ってるから、あなただけ神殿に行って、捧げ物をしてらっしゃいな」

夫の顔には明かに暗い怒りがこみあげていた。まわりの巡礼者たちがざわめいていた。「私たちはとても貧しく、その上昨夜エルサナムへ入った所で、なけなしの僅かなお金まで盗られてしまったのです。ですからひときれのパンでも結構ですから妻にたべさせてやりたいのですが」

「おれたちには、ひとかけらの食い物も残っとらんよ。おらが持ってる金も使えねえだよ、おれの妻や子供が飢えちまうからな」他の者が言い始めた。ひとりひとり、弁解を言い始めた。目の前にいる困っている人に対して、何もできない理由を並べたてた。

自分の町や村に帰れる分しか持ちあわせがないということであった。それに神殿に行ったら捧げ物もしなければならないとも言った。赤子は火がついたように泣き、女はそこで泣き伏してしまった。周囲の人たちは、もうこの夫婦には目もくれず、曲りくねった道を通って神殿の方へと立ち去っていった。

可愛そうな夫婦だけになったとき、イエスはその女の方にかけより、その日の分としてあてがわれていた食糧を全部さし出した。女はじっと見つめ、ひとことも言わず、冬の間飢えきっている狼のようにかぶりついた。女がたべ終ってから、厳しい表情をしたユダヤ人が、イエスを祝福しながら言った。

「小さな先生よ!あんたの捧げ物は神殿で捧げられるものより尊いものだね!」イエスは何も言わず、踵をかえして一行の方へ戻って行った。イエスはヤコブにきびしく言った。「このことは誰にも言うんじゃないよ!」「だって、あなたのほうが神殿につくころに空腹で倒れてしまうよ。僕の分は全部たべちゃったし、どうしたらいいの?」

「いいんだよ、ヤコブ!私の天のお父様がちゃんと養って下さるんだからね」「あなたのお父さんが知ったら、きっと怒りだすと思うよ。お父さんは、大切な自分の分を他の人にあげちゃだめだって言ってたじゃないか巡礼の中には食糧を持たずにやって来る人がいるんだってよ」

「僕が言ってるのは、天にいらっしゃる神様のことだよ。そのお父様が、あの人に僕の分をあげなさいとおっしゃったんだよ!これだけは、お父さんもお母さんも、律法学者やパリサイ人でもできない命令なんだよ。天の御父様に対しては、僕はただ“はい”と言って従うだけなんだ。此の世のお父様には、私のことについて審く権威はないんだよ、ヤコブ」

ヤコブはイエスの顔を見ながら黙ってしまった。始めのうちは、一行からはなれてしまったことを心細く思っていたが、イエスは清らかで真すぐな人だと信じて従っていた。ところが、あの見知らぬ女がわりこんできて、ヤコブからイエスの心がはなれてしまったように思った。両親から言いつけられたことを平気でふみにじってしまうイエスなんて、と思った。

いよいよ神殿の柱廊が見えてくると、そんなことはすっかり忘れてしまった。山あいの渓流のように、巡礼の一行はあちこちの小径からふき出してきた。大きなアーチの下をくぐり、ソロモンの柱廊や王の柱廊の前で礼拝した。あたり一面に、ざわめきが起こった。2人の少年には奇妙な言葉がきこえてきた。両替えする商人の罵声である。

イエスがヤコブの耳元でささやいた。「ごらんよ、いっか必ずこの商人たちのいる神殿が崩れる日がくるよ!もう2度とあくどい商売ができなくなるんだ。これらの柱はみんなゆれ動き、倒れ、大きな石は道の上に落下して粉々に砕けてしまうんだ。この商人たちはみんな死んでしまい、蝗の大群が通り過ぎた跡のように、緑地帯はすべて消え失せてしまうんだよ」

「何て恐ろしいことを言うんですか、そんなことが知れたら、いっぺんに投獄されてしまいますよ!」ヤコブは目に涙をいっぱいためながらイエスのことを悲しんだ。イエスはこのようなヤコブを見て優しく手をとって言った。

「そんなに怖がらなくてもいいんだよ。僕の時がまだ来ていないんだからね」イエスはおどけた口調でヤコブの涙をぬぐってやり、彼を笑わせるようなことを言って慰めた。すっかり機嫌が直った2人は、父たちが待っている神殿の中庭へ入って行った。そこは婦人が入れない神聖な場所であった。

何時間か祈りがささげられ、鳩や小羊などの捧げ物が潔められ、イエスもヤコブも有頂天であった。高貴な庭のすばらしさ、神殿で焚かれる香のかんばしいこと、行き来する祭司たちの着ている輝くような祭服、薄暗い至聖所のおごそかな光景、あちこちからやってきた信仰あつい人々の礼拝風景など、見る者すべてを圧倒していた。

昼をすぎた頃にはみんな疲れてしまい、女たちと逢うことになっている場所で待っていた。すると突然群衆をかきわけるように堂々たる馬車と一緒に、1人の大きな体つきのパリサイ人がやってきた。イエスはヤコブの耳もとでささやいた。「あの方は僕の友達だ。お父さんが来るまでここで待っててね。お父さんには、あのパリサイ人と話してると言ってちょうだい」

幼いヤコブは、うん、と返事をしたものの、イエスがパリサイ人という身分の高い人と話しこもうとする無茶な勇気にあきれていた。ところが髭を生やした老人が、にこにこしながらイエスの手をとり、親切な言葉をかけながら彼を歓迎しているではないか。度肝をぬかれたヤコブは親との約束事をすっかり忘れてしまい、パリサイ人とイエスのあとを追いかけていった。

群衆は大きな部屋のまん前に群がっていた。その中には数人の番人と、色模様をつけた服の長老がっめていた。パリサイ人はこの部屋の前でイエスと話していたので、パリサイ人の話を聞きたいと思って群がっていた人々は、ひとことも口をきかず辛抱強く待っていた。

すると突然大きな部屋の扉があいて、1人の男が出てきてどなりだした。「さあさあ、道をあけろ!神の大祭司様がお成りになりますぞ!道をあけろ、もっとうしろにさがれ!」あたりの人々から歓声があがった。堂々としていたパリサイ人の様子が急に変わった。彼の誇らしげな表情が消えていた。大祭司が彼の真ん前に立ち止まったからであった。

パリサイ人は、地上の石に額がつかんばかりに頭を低くたれた。周囲の人垣は神殿の柱の後に半分程かくれてしまった。それで背の低いヤコブは視界がさえぎられてしまい、やっと話し声だけがきこえてきた。パリサイ人と大祭司は、エルサレムの道にさらされている反逆人のことを話していた。

幼ないヤコブは、大祭司の御付きの者がみんな引きさがっているのに、イエスだけがパリサイ人の近くに立っているので吃驚りしてしまった。大祭司は額にしわをよせながら盛んにローマの支配者たちの馬鹿げていることについて話していた。

「彼らは私に酷い圧力をかけているのだ。こんな非常識な時代には、気狂いどもが反乱すれば必ず軍隊によって鎮圧されてしまうのだよ。先だっては、ローマ総督が、いっそのこと神殿の中庭にでもローマ軍が駐屯すればどんなにか皇帝はお喜びになるだろう、てなことを言いだすしまっだ。

彼の言葉には、いつも刺があるんだ。いつだって私と話すときは、我々を冒涜するような脅しをかけてくるんだからね。もうこの神聖な神殿も不潔極まる外国人の手から守られるという保証はなくなったようだね」

2人がこのような話をしていても、御付きの者たちには全然きこえていなかった。突然大祭司アンナスは、パリサイ人のすぐ傍に居るイエスに気がついて怒り出した。「この子は一体何者だ!ここにもぐりこんだ敵方のスパイではないのか?」「いいえ、ちがいます、大祭司様。この子は私の親しい知りあいです」「そんなことはどうでもよい。即刻ひっとらえて牢獄にぶちこんでしまえ!」

この声を耳にしたヤコブは震え上ってしまった。大祭司の激しいそぶりから、投獄とは死刑にあたることを察知したからである。大祭司は1人の家来に、子供をひっ捕えるよう合図をしていると、パリサイ人はイエスの体をしっかりと抱きかかえながら口早やに低い声で言った。

「この子はまだ子供です。あなた様が何をおっしゃっているかもよくわかっていないのです。どうか寛大な御慈悲をねがいます」「いや、ならん!この段に到って慈悲など必要ない!」「お言葉ではありますが、この子はナザレから遙々やってきた小僧っ子です。世の中のことは何にもわかっていない田舎者なんです。彼は祭りに詣でるために、初めてエルサレムへ上京してきたのです」

パリサイ人は真剣になってナザレで彼と初めて逢ったときのことを話しだした。彼の弁舌はさわやかであったので、大祭司の怒りは一陣の突風のように過ぎ去った。侮るような笑みをたたえながら大祭司はイエスの方をふり向いて言った。

「エルサレムに居る律法学者が、1年もかけて学んだものよりもずっと賢いことを、1時間足らずでこの大先生に注ぎこんだとは、本当に驚いたね。一体誰がそんなことを教えてくれたんだい?」イエスは答えた。「天の御父様です」

「こりゃすごい謙遜だ。自分の才能を隠すとは!知恵は稀なもの、乏しき者程大きなことを言いくさる。私はお前の賢いそのひとことが気に入った。わたしに知恵が与えられて以来、何と久しい年月が流れたことよ」この言葉を耳にした幼いヤコブには、どうしてもイエスをからかって、パリサイ人をいじめているとしか思えなかった。

「平和をつくり出す者は何と幸いでありましょう。彼らは神の子と呼ばれるでしょう」とイエスは小さな声で言った。この言葉を聞いた大祭司の顔色が変わった。さっきまでパリサイ人と話し合っていたローマ人の支配に心を痛めていたからである。

「おお、よくぞ言ってくれたな、少年よ!現実はなあ、誰にとっても平和を保つことは実にむずかしいのじゃ、敵が刃を向けてきたらどうやって平和を保てると思うかね?」イエスは言った。「敵を愛することですよ!そして迫害する者のために祝福を祈ることによって初めてできることです」

この言葉を聞いて、大祭司アンナスは頭を後に倒し、草むらのように生やしている髭の間から大きな笑い声を出し、高貴な大部屋がひっくりかえらんばかりに笑った。

「なあ、お前、やっぱり大先生の言ってる通り、人智から遙かに遠くにあるナザレの夢想家なんだねえ。昔、モーセが神の言葉として言われた“目には目を、生命には生命を”ということを知らんのかね」

「はい先生!しかし復讐は再び復讐を呼んで、それをくり返すことは本当の知恵といえるでしょうか。憎しみを以って征服者に勝てるはずはありません。でも先生なら愛によって征服者に勝つことができると思います」

「おお、小さな助言者さんよ!お前は人類のことをまるっきり知らないんだ」溜め息をつきながら大祭司は続けた。「たしかにお前の言う通りだ。でもお前には賢さと馬鹿が同居しているのじゃ。つまり、お前のような者が支配者になったら、お前の知恵は、たちどころに国民全体を破滅させてしまうだろうよ。小羊だと知った狼は、愛もへったくれもなく、貪るように自分の餌じきにくらいついてくるだろうよ」

イエスはなおも答えて言った。「狼も訓練次第ではないでしょうか。聖書にも、狼と小羊が共に暮らすと書いてあるじゃありませんか」(旧約聖書イザヤ書11・6)

「そりゃそうだ、預言者イザヤは、わしらの時代のことをさして言っているんじゃないぞ、でもお前は仲々賢いやつだ、それが夢想家の果実だとしても、わしは気に入った。でもなあ、征服者が手に手に武器を持って攻めてきたら、色々とかけひきをしながら、味方が生きのびることを考えるだろうよ。やっぱり武器を持っている者が主人なのだよ、この世では。そんな主人を馬鹿な奴と軽蔑するかもしれないが、そいつの言いなりになってしまうんだよ」

周囲の者は、はらはらしながらこの様子をうかがっていたが、イエスは堂々と大祭司の顔を見つめているうちに、大祭司の心の中に誰にも言えない深い秘密が隠されていることを察知した。それでイエスは静かに言った。「霊界に於いては、神ならぬ人間を“主人”と言ってはなりません」

このイエスの放った一撃は、大祭司アンナスの顔を素手で殴りつけるよりも大きな衝撃を与えた。「神ならぬ人間を主人と言ってはならぬ、とな!こんな単純なことが果して本当なのだろうか」と呻くように大祭司はつぶやいた。

暫くの間、この2人は、じっとお互いの顔を見つめ合っていた。イスラエルを支配しているこの大祭司の顔には深い悲しみが現れて、放心したように頭を垂れていた。突然頭をあげてパリサイ人に向かって言った。

「わしはこの奇妙な少年ともっと話したいのだが、今日はもうこれ以上話したくない!やっは知恵がありすぎて理解力をにぶらせているのじゃ。夢見る者の落ち行く宿命じゃ。だがなあ、奴の言っていることが本当なら、一国の破滅はおろか、ローマ帝国も根こそぎ壊滅してしまうだろうよ。何と恐ろしいことよ。お前も奴について行けなくなるだろうな」

これらの言葉を言い残して、大祭司は群がる人々の挨拶やお世辞をていねいに受けながら、部屋の中に消えて行った。大祭司の姿には威厳もなく、顔に憂いが漂っていた。イエスの放ったあのひとことが、彼の秘密の部分を抉ったからである。

かつて、青年時代に心から憧れていた真理と知恵の道を思い出していた。その道は、くねくねとした道であり、今ではその片鱗さえも残っていなかった。

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25 神と富との狭間に

そもそもマリヤが救世主を産みたいとの切なる願いをもって神に祈り、その実現を夢見たのは、ユダヤ民族の救済のためであった。彼女が若かった頃、ユダヤの国全体がローマ帝国の手によって大変悲しい思いをさせられていた。彼らの信仰は踏みにじられ、散々苦しめられたので、ユダヤ人はローマ皇帝を憎み、若者は革命の機会を狙い、軍隊と結託して秘かに陰謀を企て、ユダヤ及びその周辺からローマの勢力を撃退しようとした。

“ユダ”と名乗るゴール人が、ユダヤの青年を指導してシーザーの軍隊と真向から戦いを挑んだことがあった。彼らは勇敢に戦ったのであるが、力およばず、何百という多くの若者が殺されてしまった。

ユダは暫くの間身をひそめ、丘の上で態勢を整え、再びローマ軍と戦ったのであるが、遂にローマ軍に敗れ、滅ぼされてしまった。その後時々若者たちが軍を組織してはローマ軍を襲撃するのであった。このような徒輩は「反逆者ユダ」の手下として知られるようになった。なぜならば、ユダがローマからの自由を望むユダヤ人の心に、解放の火を点火したからであった。(新約聖書、使徒行伝5・37参照)

さて、ローマを悩ませた小刻みな反乱は、当時のローマ総督“キリニウス”の怒りをひき起こし、ユダヤ人の支配者階級の長老たちを震えあがらせる結果を招いた。“サンヒドリン(1)”のメンバーであった祭司たちは、力づくでは到底ローマ人をユダヤから放り出すことはできないことをよく知っていた。それだけに支配者たちは、反乱が起きないようにと厳重に監視した。

殊にローマ総督から、神殿内部の権力を直々にあずかっていたパリサイ人や祭司は、自分の権力の座を奪われないようにと、必死になって反乱を食い止める努力をしていた。そのうちの1人が、大祭司アンナスであった。彼は2人の“主人”に仕えねばならなかった。1人は、全ユダヤの最高の指導者たる、大祭司として仕える神であり、同時にもう1人は、ローマ皇帝であった。

ローマの寵愛を受ける代償として、皇帝の意志通りに従わねばならなかった。ローマに仕える代償は高価なものであった。アンナス家の富は益々豊かになった。彼の親族はすべてキリニウス総督の恩恵に浴し、大きな利益を享受していた。しかしアンナスの心は穏やかではなかった。

ひと晩でも安眠できる日は無かった。彼は常に神殿の長老たち、熱心党(極端な国粋団体)、パリサイ人、サドカイ人(親ローマ派の一大政党)の動きや、ローマからの直接の指令に悩まされていた。けれども彼が享ける莫大な報酬の故に、ローマ皇帝の命に服し権力の座を保ってきた。

しかし彼は悲しくも、過ちを犯していることを知っていた。だから彼は、少年イエスが彼の心をすべて見透かしていることに驚いた。少年イエスが口にした言葉は少なく、その内容は大祭司を驚かす程のものではなかった。しかしこの少年の稀に見る才能、即ち深い悩みを見透かし、過去の記憶をかき回す才能に唖然としたのである。

彼は若い頃、神と人とに忠実に仕える人間になりたいとの夢を持っていた。現実の彼は、毎日のように人々を裏切っていた。ローマ皇帝の言いなりになって、同胞のユダヤ人のためと言いながら自分の地位を保全していた。もし彼がローマ総督の命令に背くようなことをすれば、たちまち馘(くび)になることを承知していた。

大祭司のしもべたちは、大祭司の心境が穏やかでないことを感知していた。アンナスは部屋中を行ったり来たり歩き回っていたからである。アンナスの相談相手をしている1人の年老いた律法学者が突然入ってきて、心を痛めている大祭司に尋ねた。

こんなことをしたら、いつもなら大声でどやされるところであるが、この時には、もの和らかな調子で話しだしたので驚いてしまった。「馬鹿な少年めが!!ありゃきっとガリラヤの羊飼いか何かであろう。わしを責めおって、心の底までゆさぶりおった」

「そんな奴は番兵に掴まえさせて棒で叩きのめしたらよかったじゃありませんか、大祭司さま!」「いやいや、これはきっと神様の御指図だろう」彼は溜息をつきながら言った。「わしはなあ、この聖都エルサレムに反乱が起きないように努力をしてきたことは知っとるだろう。それを少しでも怠ってみろ、この神殿はたちまちローマ人に潰されちまっただろう」

「そうですとも大祭司様、あなたこそ立派にイスラエルのために尽しておられます。あなた様こそ真の平和論者であられます」大祭司は、ほほえみながらイエスの言った言葉を思い出して呟いた。

「そうか、だから神の子というのか。わしは平和を保とうとして罪を犯してきたのじゃ。口ーマ人がわしらの信仰を侮り、散々貶すのを秘かに助けてきたようなものじゃ。まるで草むらに隠れている毒蛇のように狡猾く立ち回っていたのじゃ」

律法学者が鋭い口調で言った。「大祭司様、あなたはずっと平和を探し求めてきたではありませんか」「そこだ!!ずっとだ、不名誉にもな!ガリラヤの一羊飼いが、わしの若い頃おぼえていた賢者の諺を思い出させてくれたのじゃ。<神ならぬ人間を主人と言ってはならない>とな。

聖なる大能の神の御名において、わしの本当の主人は、ユダヤ人やローマ人であってはならんのじゃ!おお、なんということか!明日は総督キリニウスから、わしの返事を迫られておるのじゃ。ローマ皇帝がエルサレムの神殿までも支配したいと言ってきてるのじゃ。もし羊飼いの助言に従って、それを拒否すれば、神の御意志に叶うことになり、神殿は聖なるものとして外国人に汚されずにすむという訳じゃ」

「そりゃいけません大祭司様、そんなことをなさったら、皇帝を怒らせてしまいますぞ」「神ならぬ人間を主人と呼んではならんという偉大なる教えに反するよりは、ローマ皇帝に反する方が良いではないか?」

「あなた様は、即刻、馘(くび)になり、同族の方々はすべて路頭に迷うことになりましょう。あなたさまは、大祭司の座を追われてしまうのですぞ。いやいや、それどころか、生命まで落とされることになりましょう。この件につきましては、大祭司様と総督のお2人以外の者は誰も知らないのですから、適当に処理されてはいかがでしょうか。外国人が勝手に神殿に入ってきて恥ずかしめたとしても、自分の預り知らぬことと言えばすむことではありませんか」

「へびの悪知恵め!わしが本当に神を主人として崇める者であれば、サンヒドリンを召集し、全議員の前でこの汚わしい問題をどう処理したらよいかを話すのじゃ。それから全議員の代表として総督の処に行き、次のようにぶっ放すのじゃ。<サンヒドリンの名に於いて宣言する。もしローマ帝国が、神聖なる神殿を汚すなら、我ら全員、死を以って迎える>とな」

「大祭司様、それは狂気の沙汰ですぞ」「おおそうともさ、正しい道とは、気狂いじみているものじゃ。だがなあ、その前に、もうひとつやっておくべきことがあるのじゃ。つまり、わしが総督の処へ行き、わしの考えを打ちあけてみるのじゃ。わしの出そうとしている命令を知れば、総督は真っ青になって、わしの言うことを聞くじゃろうて」

「それは名案ですね。でもそんな脅迫じみたことが本当に出来るのでしょうか」「あたりまえだ。わしが本気でやるという決意の程を示さなければ、誰がわしの言うことを信じると思うか!.」大祭司は、威厳のある手つきで、律法学者に直ちに立ち去るように合図をした。なぜなら、大祭司はもう彼の甘言に誘惑されることはないと思ったからである。

(註1)ユダヤの最高裁判所。サドカイ派、パリサイ派、長老の3派より各々代表を出し、大祭司が議長となって審議する。議員は全部で72人から構成される。(註2)ユダヤの極端な国粋主義者の団体で、ローマ帝国に反抗するために、テロ活動を展開し、口ーマを悩ませていた。

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26 アンナスとキリニウスの友情

ある日の日没頃、エルサレムに居る2人の支配者が窓辺に立ちながら街を見おろしていた。民衆の家々は雑然と建ち並んでいて、家々の間を細い路地が曲りくねっていた。2人は遙か遠くの方で動いている人の群れが、蚊の大群のように映った。大祭司が口火を切った。「この民衆の生命は、あなたの権力によって左右されているのですぞ、総督殿」

「そうですねえ。でも、あの人たちは一体なにを考えているのか、わたしにはさっぱりわからないんですよ。その意味では、野にいる獣よりも性質が悪いと言えませんか。あの人々は、我々には、判を押したように黙りこくって、ただ黙々と我らの支配に従っているのです。これでは、生き地獄のようであり、永遠の眠りのようでもあると思います。最も高貴であられるラビ殿、あの人たちはどうしてあれ程神殿やその名誉に強くこだわっているのですか?」

「それは我らの神なる主を重んじているからでございます」「それでは困るのです。あなたに全権を託しておられる方は、カイザル(ローマ皇帝)でありますぞ、大祭司殿。貴殿は先ず第一にカイザルに義務を果してもらわねばなりません」「カイザルに対しては、もちろん法的権威であられる方に従わねばなりませんが、神殿のことに関しては、我らの神に従うべきものと考えております」

「私は、あなたの良き友人としてそれを理解することが出来るのですが、どうしても、その御言葉は地上の主であられる皇帝を批判する響きを持っているのです。ローマ皇帝は、神殿でさえ支配する権力をお持ちのはずです。帝国内のあらゆる領土及び国民のものは、すべて私のものであると皇帝は言っておられます。ですから神殿も、帝国内に属するユダヤ人が集まる場所としてカイザルの支配下にあるものです」

大祭司は答えた。「総督殿、私に委ねられた権限で申し上げます。私は、口はばったいようですが、全議会のすべての議員を私の思うままに動かすことができるのです。総督も御存知の通り、ユダヤの国はサンヒドリンの議員たちの手で牛耳られています。この際ですから、はっきり申し上げておきますが、カイザルがどうしても聖なる神殿を我がものとしたいというのでしたら、ユダヤ人全員を1人残さず虐殺なさるがよいでしょう」

「なにをそんなに血迷っておられるのですか、大祭司殿。あなたの御言葉をそのままカイザルの耳に入れようものなら、あなたは、たちどころに今お召しになっている金色に輝く服装が剥奪されてしまうでしょう。権力だけが物を言うのですぞ。名を与え、またすげかえることができるのです。

あなたの同族はみんな全財産を没収され、この街に住む最も卑しい連中と全く変わらなくなってしまうでしょう。権力から離れた人間など、まことに哀れな存在なのです。それに、私も同様総督の地位を奪われてしまいます。あなたは高貴なラビとして私に深い愛情を示し、私を尊重して下さいました。そのあなたの愛情は今どこに行ってしまったのですか。友情の誓いを破り、サンヒドリンにかけこんで私を裏切り、完全な信頼関係をひっくりかえしてしまわれるのですか」

アンナスは、呻くように叫んだ。「私にローマの手先となって、支配者の思うがままになれとおっしゃるのですか!」アンナスは怒りと苦悩で彼の大きな体を震わせた。キリニウスは、柔かく口を開いた。

「私たちは初めてユダヤ人と外国人の間に友情を培ってきました。そのことは誰にも話さず、あなたと2人だけの秘密として守ってきました。だからこそ私たちには格別な喜びが与えられたのです。私たちの出逢いと友情は、民衆のだれとも較べることのできない高価なものでした。

あの当時、私たちはお互いに語り合ったじゃありませんか、死後も、地獄までも一緒に行きましょうと。それをあなたはあきらめろとおっしゃいます。もう私たちには苦しみも楽しみも失くなってしまいます。一塊の塵となってしまうのです。残り少ない余生をどうしたらよいのでしょうか。

私たちがいなくなったら、民衆に対するあなたの名誉や信頼は一体どうなるのでしょうか。権力の座に居る間は、もっと楽しく、1日の真昼のように明るくやっていこうじゃありませんか。あなたの神が我々をつくろうと、私たちの神々がつくろうと、それはたいした問題じゃありません。私たちの義務は、自分自身と子孫を守ることではないでしょうか。

子供たちだけが私たちに不滅の道を与えてくれるのです。そんな馬鹿げたことをすれば、あなたや私をも滅ぼしてしまいます。あなたは私のすべての喜びを盗みとり、私の老後までも奪いとってしまうのです。尊いアンナス様、どうか我が子孫の名に於いてお願い致します、我が最後の人生を栄えさせて下さい。

喜びと名誉にあずからせて下さい。今後の数年間は私にとって最後のものとなるでしょう。どうか酷い仕打ちをなされず、平和を破らないで下さい。それだけではありません。アンナス様の御子様方に対しても正しい配慮をなさるべきではありませんか。大祭司様、どうか彼らをも裏切らないで下さい」

アンナスは、思いがけない総督の哀願に驚いてしまった。大祭司のすぐ傍で待機していた例の律法学者は、2人の秘密会談が行われている間に、3回も口をはさもうと努力したのであるが、できなかった。高い塔の聳えている神殿は、夕陽をうけてきらきらと輝いていた。

白く塗られている部分は、夜になってもうす明るかった。祭司たちの歌う詩篇の流れが微風に乗って心地よく伝わってきた。その上、大勢の人々の話し声や歌声などが、まるでバベルの塔のように、ごちゃごちゃと混ざり合って聞こえてきた。大祭司は大声で言った。

「あれは我が民の声だ、見よ、風に乗ってわしの処へやってくる。わしはその声に耳をかたむけにゃならん。それは風に乗ってくる神の御声じゃ。わしはそれに従わねばならんのじゃ!」大祭司はキリニウスの方を向いて堂々と話し出した。

「私はユダヤ人です。あなたは外国人です。私たちは友情で結ばれてきました。でも、私の体の中に流れている血を変えることはできません。私たちはまた先祖の名を変えることもできません。大きな溝が、私とあなたの間にあるのです。そして両者をつなぐ橋はかけられないのです。あなたがおっしゃる通り、2人で一緒に地獄へ行くことはできます。しかし真実のユダヤ人は、神とその国家を裏切れないのです」

「しかし大祭司様、あなたは私が今願ったような些細なことでも実行してこられたではありませんか。あなた流に言わせていただくなら、あなたは民衆を裏切ってきたことになるのですぞ」

「おしゃる通りです。だからこそ、私はそれを修復したいのです。キリニウス殿!!襤褸(ぼろ)をまとった羊飼いの少年が神殿にやってきて、とても阿呆なことを言いました。でも彼が言ってることは神の御告げのようなものでした。それがひどくこたえましてね、こんなことを言うんです。

『神ならぬ人間を主人と言ってはならない』とね。これを聞いてから、なぜか、神殿のことや自分の子供たちへの愛情などは、どうでもよくなってしまったのです。こうして今あなたが寄せて下さる友情は、涙がでる程うれしいのです。この友情は、長い間誰にも知られず、ひたかくしに隠してまいりました。今でもこの友情の炎が消えないようにと祈っている程です。

けれども私はやはりユダヤ人であり、あなたは外国人という宿命を背負っているのです。大祭司として私1人だけでも神に頭をさげ、礼拝し、選ばれた民族にお仕えしなければなりません。これが私の心境なのです。カイザルに対する御処理に関しては、あなたの思う通りにやって下さい。カイザルからの公文書にはもう目を通す必要もありますまい。私の生涯は今終ったのです」

「キリニウスは、大祭司の両手を固くにぎりしめながら涙を流した。「おお、なんと偉大なるラビであろうか!!あなたの御決意には心から感激いたしました。しかしカイザルからの返事が到来するときには、私の生涯にとっても終りとなることでしょう」

それから何年か経ってから、カイザルの神殿支配に関する公式決定が発令された。キリニウス総督は、ローマ皇帝より厳しい指令を受け、大祭司アンナスに対しては、病気を理由にして大祭司のポストを退くよう命令されていたのであるが、キリニウスはカイザルの命令を無視し、アンナスを現職にとどめた。

総督キリニウスの勇敢な行為と大祭司に対する友情は、例の律法学者だけが知っているのみで、ユダヤ人やローマ人双方とも2人の間に何があったのかは知るよしもなかった。遂に総督も現職を剥奪され、ローマ本国へ送還された。しかし彼の名は、ユダヤの歴史には記録されず、ただ“ガリラヤの少年羊飼い”という文字だけが残されている。

彼の後任として、“バレリウス・グラーツス”が総督に任命され、彼は慎重な態度で臨んだ。赴任当初は、大祭司の追放策を直ぐに実施しなかった。アンナスは、イスラエルの長老や民衆から尊敬されていたからである。暫くして彼はその口実を見つけるのに成功した。それは、アンナスがこの神殿の支配を他の者にゆずろうとしていることをつきとめたからである。

アンナスにとってこの時期程悲しいときはなかった。彼には依然として<支配欲>が残っていたので、大祭司のポストをはなれたくなかった。そこで彼は実に巧妙な術策を計画し、彼の娘婿“カヤパ”を大祭司にすえて、背後から神殿を支配することになった。

そんな訳で、<神ならぬ人間を主人と呼んではならない>という言葉をすっかり忘れてしまったのである。一片の良心をも失ってしまったのである。その後、彼は、こっそりとローマに媚びへつらい、尊大なサンヒドリンの議員たちに<おべっか>を使っていたのである。

だからこそ、将来再びイエスと再会したときには、イエスに対して最も残酷な判決、即ち“十字架刑”をくだすことになったのである。かくして、アンナスの麗わしい反省の念もローソクの火のように、あっけなく吹き消されてしまったのである。

(註1)十字架を重罪人の磔刑の道具として用いたのは、おそらくフェニキア人が最初であろう。ローマ帝国がその方法をとり入れるとき、それがあまりにも残酷なので、奴隷や凶悪犯人のほかは適用しなかった。

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27 燕の羽を生やそうとする雀

幼いヤコブは大きな柱の陰から抜け出し、脇目もふらず、大祭司の入っていった部屋の前から逃げ出した。あのときには、イエスの勇気に惚れこんでいて、恐怖を感じていなかったのであるが、やがてその気持ちもふきとんでしまった。

巨大な神殿を目前にして大きな街にいる夥しい群衆を意識したとたん、自分がまるで荒野を彷徨う人間というよりも、狼の洞穴に放りこまれたような恐怖におそわれた。薄暗くなった街の中をさまよい、怖い気持ちを押し殺し、唇を強くかみしめていた。口のまわりから鮮血が流れていた。

遂にヤコブは母親を探し当て、顔を埋めながら大声で泣きじゃくった。みんなはヤコブに尋ねるのであるが、イエスのことは一切聞き出すことができなかった。なぜならば、幼いヤコブの心には、あの偉大な大祭司の怒声が耳にこびりついていたからである。

ひとことでも見たのことを話そうものなら、首ねっこを捕まえられて、地獄の燃えさかる火の中に放りこまれてしまうと思いこんでいたからである。イエスの弟、トマスが言った。

「お父さん、イエスとヤコブが立っていた大きな柱から、もどってきなさいと言われたので僕はちゃんと言うことをきいたのですが、あの2人はちっとも言うことをききませんでした。特にイエスは、厚かましくて、ラビの後にのこのこついて行き、内庭に入ってしまいました。

それで僕は2人とも見失ってしまったのです。それからヤコブがどの辺をうろついていたのかわかりません。でも急いで行ってみると、イエスがあのパリサイ人のうしろにぴったりくっついているじゃありませんか。僕もどうしたらよいか困ってしまいました。

お父さんの言いつけを思い出して、あの大きな柱の下で待っていたのです。お兄さんは、また変な病気にとりつかれているのかと心配になって、しらずに内庭へ入ってしまったのです。そうしたら護衛の者がひどく怒り、此処は一般者が入ると罰せられると言われたのです。

ですから僕は再び柱の処にもどり、お父さんが来るのを待っていたんです。僕は兄を見守るために、偉い人しか入れない場所に足をふみ入れてしまったんです。僕のせいじゃありません!」ヨセフは言った。

「そうだとも!!お前の兄が、お前ぐらい知恵があって、従順ならいいのだが。あいつは親の言うことをきかず、おまけに聖なる場所に入りこんで。ひどいことをやってくれたね、全く手がつけられやしない!」

2人の女は、何か恐ろしいことがイエスの身の上に起こりゃしないかと心配でたまらなかった。この2人は心からイエスを愛していたからである。「ここに平安がありますように!」と言って聞きなれた声がひびいてきた。みんながその方を見ると、細身のイエスが夕陽に輝く金色の光の中に立っていた。

彼の顔付きは、実に美しく、神秘的で、両眼の輝きは王者の風格を備えているように見えた。パリサイ人と話し合ってからのイエスの風貌は一変していた。父のヨセフでさえ、後ずさりする程であった。ヨセフはイエスをひどく叱るつもりで言いだした。

「お前は聖なる場所に入りこんで、汚していたと聞いてるが、それは本当か?」「とんでもありません。僕がどうして聖なるものを汚すというんですか。清らかな心の持主がどうして汚すことができるのですか?」

「昔の病気がまた始まったようだな、しかも幼いヤコブまで巻き添えにして、今まで何をしてきたか全部話してごらんなさい」イエスは頭を横にふって何ひとつ答えようとしなかった。そんなイエスを見て、ヨセフは烈しく怒りだした。イエスはなおも沈黙を続け、なにひとつ語らなかった。

周囲の者は気が気でなく、何でもいいから話すように強く迫った。それでもイエスは口を開こうとしなかった。例のパリサイ人との固い約束を守っていたからである。脅してもすかしてもイエスの固い口を割らせることができないと知ると、今度は幼いヤコブに鋒先を向け始めた。

怯えたヤコブは、口がきけず、ただベソをかいて泣きじゃくるだけであった。困り果てた家族の者は夕方になったので、神殿から街へ出て行き、宿探しを始めた。ヨセフは一家の長として何とかイエスの口を割らせる懲罰はないものかと考えあぐんでいた。

マリヤに夕食の仕度をさせ、イエスの分だけは別に用意させた。そしてヨセフは頑固な気持ちを和らげ、両親の言うことを聞いたら夕食をたべさせてやると言った。母マリヤは色々とイエスに意見をするのであるが、かくも深く愛している母親に対しても頑として口を閉ざすのであった。

マリヤはひと晩中ねむれず、ヨセフの懲罰を無視して息子に食物を与えたいと思っていた。夜明け頃、一条の光が射しこんできた頃、マリヤは起き上り、ヨセフがぐっすり眠っていることを見とどけてから、這うようにして戸の傍で横になっているイエスの処に行った。イエスは眠っていなかった。

薄暗い部屋の中で、彼の顔は青白く見えた。マリヤが耳もとでささやいた。「イエス!!起き上って外に出てきなさい。音をたてるんじゃないよ。何かおなかに入れるものを用意してあげるからね」

イエスは母の言う通りにやってみたが、体の方が弱っていて、いうことをきかず、地上に倒れてしまった。「僕もうだめだよ。断食と疲れで立ち上れないんです。お母さん、僕のことを構わないで下さい。お母さんこそ眠った方がいいですよ」

マリヤは、時々ひどくびくついて、ヨセフにさからったときに見まわれる癇癪玉を怖れた。ヨセフは気の短かい人であった。井戸に転落してから彼の健康は勝れず、病める体は彼の魂を蝕み、ますます八つ当りをするようになった。マリヤは彼の機嫌を損ねないように気を配ってきたのであるが、息子を思うあまり、恐怖心をふりはらって、ぐっすりねこんでいる夫の傍へにじり寄った。

ヨセフの腰にしっかりと結びつけている葡萄酒の入った靴袋をそーっとはずしてから、家族の者がねている間を忍び足でまたぎながらイエスの処へ運んできた。イエスに葡萄酒をのませ、パンを食べさせてから戸外へ連れだした。

「ねえ、お前は今日神殿に行くのを止めておくれ。お父さんが目をさましたら、昨日のことをあやまって、何もかも全部話してしまったらどうだい。そうでもしなきゃ、私たちの楽しみが目茶目茶になってしまうんだよ」

「お母さん、それはどうしてもできないんです。僕はそのことを絶対に誰にも言わないと約束したのです」「一体誰とそんな約束なんかしたの?」母は悪友でなければよいがと、怖れながら質問した。「とても偉い賢者です。それ以上僕に言わせないで下さい」

母はイエスのためになるのだということを懇々と諭した。母は、イエスとヨセフの関係が日ましに悪化していることを恐れた。そしてその溝は次第に大きく広がってきて、父のイエスに対する偏見が抜き差しならないところまで悪化し、目を覆いたくなるようなひどい折檻をするようになっていた。

イエスは母から少し離れて言った。「お母さんは、うちのお父さんの名誉を大切にするようにおっしゃいますが、その前に、天におられる本当の御父様のことを大切にしなければならないんじゃないでしょうか。僕が嘘をつき、大事な約束を破ったらどんなに天の父上を裏切ることになるでしょう。僕たちは、天の父に似せられてつくられたんじゃないのですか?僕は絶対に口を開きません」

マリヤは答えた。「よくわかりました。そのかわり、明日からは、自分勝手に出かけることは許しません!!私たちから離れないように、いつも一緒にいてちょうだい。ねえ、おねがいだから、なんでもお父さんの言うことをきくと約束しておくれ」「出来ないことを約束しろとおっしゃるのですか?」

「両親の言うことがきけないのですか?」「そうではありません、僕はどうしてもやらねばならないことがあると言っているのです、お母さん」2人が話し合っていると、宿の中からヨセフの呼ぶ声がしたので、母は急いでヨセフの処へとんで行った。マリヤはもう臆病な妻ではなかった。勇敢な母として何もかも自分がイエスに対して行なったことを告白した。

ヨセフが肌身はなさず持っていた葡萄酒は、病気で倒れたときや、旅の疲れで動けなくなったときの非常用として大切にとっておいたものであった。その葡萄酒をイエスに飲ませたことを正直に話したのである。マリヤのやったことを知ったヨセフはひどく機嫌が悪かった。

それからの2日間というものは、2人の間に冷戦が続いた。ヨセフが口を開くときは、マリヤにあたるようなことしか言わなかった。でも殆んど黙りこくっていた。それがかえってマリヤには辛かった。それまでは、エルサレムという大きな聖都にきて新しい体験や様々な喜びを分けあっていた。それでも俗人であったが、ヨセフは心の優しい男であった。

夜になってから彼は小さなプレゼントをマリヤにさし出して、おれが悪かったと詫びを入れ、マリヤの御機嫌をうかがった。彼はもうイエスのことを持ち出すことをきらい、又ひどく折檻したことを詫びる気もなかった。昔の古傷がもたげてきて、イエスのことを誤解していたことや、大恥をかかされたことを思い起こしていたからである。

ヨセフは同行しているクローパスに嘆いて言った。「イエスは時々阿呆な霊にとりつかれ、とてつもない馬鹿なことをやらかすんですよ。ナザレでは律法学者なんかにたてついて自分の馬鹿をさらけ出すんだから、始末におえないやつですよ」

クローパスは彼に意見した。「あなたは、まるで燕の羽を生やそうとする雀のような御方だ!あなたには遙か遠い彼方にまで飛んで行ける羽をつけたイエスには到底追いつけないでしょうよ。すべての点でイエスはあなたと違うからです。あとになって悔まねばならないような審判はなさらない方がよいですね」

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28 先なる者が後に

それから2日間というものは、イエスは母の一行の中にあって、1時間たりとも母のもとを離れなかった。婦人が入れない神殿の中庭の前でもイエスは中庭に入らず、母たちと行動を共にした。きっと中庭に入って祈りたかったことであろうが、一切それもしないで、女たちと同行した。

母マリヤは鳥のように明るくお喋りし、時々唄ったり、はしゃいだりしていた。イエスとマリヤ・クローパスがお互いに尊重し合っている様子がとてもうれしかった。彼らが市場にさしかかって商人たちが売りさばく様子を眺めていた。店頭では、色取りどりに美しく刺繍された布地が人目をひき、殊に単純なガリラヤの女たちの心をとらえた。

その他蜂蜜、穀物、ワイン、豪華な服、食品類、ゆたかな果物などが並べられていた。女たちが店頭の珍しい商品を見ている間、イエスは通り過ぎて行く群衆を見つめていた。店頭の品々を物欲しそうに眺める飢えた乞食、遠くからやってきたユダヤ人、エチオピア人、ギリシャ人、エラム人などがいた。さらにアラビヤやローマからやってきたユダヤ人もいた。

ある人の顔は枯葉のように茶褐色をしており、別な人の顔は熟した葡萄のような黒ずんだ色をしていた。若者たちの髪の毛は美しく、周囲の山々からやってきた羊飼いや農夫などもいた。これらの人々はみんなエルサレムの一大行事である過越祭に参加するためにやってきたのである。

母マリヤはこのような雑踏の中では、到底イエスは夢見るひまなんかないだろうと思った。イエスは目の前を通り過ぎて行く人々の顔を丹念に見入っていた。まるで通行人の数をかぞえ、1人1人の顔の特徴を念入りに臓もうとしているのであった。マリヤ・クローパスは目ざとくそれに気付き、イエスに何をしているのかときいた。イエスは答えて言った。

「この人たちの胸のうちに何が潜んでいるのかを見ていたんです。人の額を見ると、その人の性格や過去が封印されていますが、目を見ると何を求めているかが解るんです。物質的なものか、霊的なものか、あるいは、権力的なものか、奉仕的なものかといった具合にね。でもね、僕がこうしてこれらの人々が何を求めているかを読みとっていると、やはり天の御父様が僕に与えようとしておられる御仕事はこれなのだということが解ってきたのです」

すかさず母マリヤが言った。「お前は本当に変な子ね、こっちにきて一緒に楽しみましょうよ。他人様の秘密なんか探るよなことはおよしなさい」イエスは母のあとについて行った。一行は笑ったり、冗談を言い合ったりしながら1日中あちこちを歩きまわった。

みんなはくたびれたが、母とイエスは本当に楽しむことができた。彼らは、見るもの聞くものすべてに感動をおぼえ、お互いに喜びを分かちあった。この喜びにあふれた平和をかき乱す2人の者、ヨセフとトマスが一緒でなかったことを幸いして、此の世のものとも思えぬ程の喜びを味わった。それは人間が地上を離れて赴く最初の世界に共通する無垢なる意念が支配していたからである。

夜になってガリラヤ勢が集まってきて、その日にあったことを互いに話し合った。親族の1人がイエスを詰ってヨセフに言った。「お前さんの子供はまだ一人前に成長しとらんようだね。それにとても女々しい男の子のようだ。あの子はいつも母親と伯母にくっついているんだから」

みんなが、どっと笑いイエスのことを嘲った。するとヨセフが眉をひそめながら言った。「みんなが言う通りだ。こいつは大工の腕も上らないし、おやじの言うこともきかない。こいつはもう子供じゃないのに年下の子供と遊んだり、年上の女どもとしか話さないんだよ」

イエスは憤然として言った。「僕はね、人の心の中に隠されているものが何であるかを知りたいのです。普通の大人よりも、女性や子供たちの方がとっても正直に教えてもらえるのです。彼らは僕らと違ったやり方で“生命”のことを感じとっているのです。

僕が大人になる前に、子供や善良な女性の心の中に秘められている無垢な清らかさや美しさを知っておきたいのです。さもなければ、僕の心は盲目になり、霊的に乏しくなってしまいます。ですから幼い子供たちや、か弱い女性の方がみなさんよりも偉いのかもしれません。“先なる者が後になり、後なる者が先になる”のです」

ヨセフは嘆くような調子で言った。「馬鹿もいい加滅にしろ、いつになったらお前から阿呆な霊が立ち去るのだ!!ナザレの律法学者も言うはずだよ。親の誇りも喜びも消しとんでしまうような馬鹿者だってね。何だって、先の者が後になり、後の者が先になったりするんだ!!子供が大人よりも偉かったり、乞食がサンヒドリンの大先生たちより偉いなんて!なんてこった、この馬鹿息子めが、頭でも冷やしてきたらどうだ」

イエスがむきになって反論しようとしたが、母親の合図で彼は黙ってしまった。後日マリヤ・クローパスがイエスに質問した。「あの時あなたが言ってたことはどういう意味なの?ええと、最初の者が最後になったり、最後の者が最初になるとか言ってたけど。それから、か弱い者や乞食が支配者や大先生よりも偉いとか、それ本気で信じているの?」

「僕はね、この世のことではなく、霊界のこと、それに、これからやってくる“とき”のことを話そうとしてたのです。僕はあの日、クレテ島(地中海第4の島)からやってきたユダヤ人の巡礼者が、もう1人の巡礼者に一片のパンを与えていたのを見たのです。パンを求めた巡礼者はお金が無くて、食べるものが買えず、せめて子供にだけでも食べさせてやりたいと叫んでいたのです。

パンを与えたクレテ人は、弟から何て馬鹿なことをしたのかと責められていました。天の父なる神様の目からごらんになれば、どうしても此の貧しいクレテ人の方が最初に神様から迎えられる人であり、飢えた子供の泣き声をききながらも知らん顔をして通りすぎて行った金持ちは、神様から迎え入れられるのは仲々むずかしいということです」

「でも金持ちの中にも善意を大切にしている人がいるかもしれないわ。あなたが見かけたけちな金持ちがそうだったからといって、みんながそうだと決めっけてはいけないわ」

「でもね、伯母さん、金持ちが霊的に向上したり、愛の業をすることは、とても難しいのです。自分の財産のことしか頭にないからです。だから金持ちは、飢えた子供たちの叫び声が耳に入らず、霊界のことを考える余地も無く、まして人々の心に宿っている愛のことがわからないのです。支配者や金持ちの商人は、一見して偉そうに見えますが、神様から見たら、決して偉くはないということです」

マリヤ・クローパスは、この言葉をきいて黙りこくってしまった。イエスの言ってることが、地上のものではなく、霊界の知恵であることを感じとったからである。そういえばガリラヤの丘でイエスが預言者エリヤと共に歩いていた光景や、それよりもずっと前に、彼の母マリヤが同じ丘の上で神様と対話していたことを思い出していた。

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29 イエスを見失う

ヨセフの心には重苦しい雲がたなびき、イエスに近寄るのが苦痛であった。支配者や偉い人々に向けられたイエスの言葉が妙に胸につかえて、ヨセフの心は荒々しくなっていた。ヨセフとイエスの仲がこれ以上険悪になっては大変だと感じているマリヤは、クローパスの処に行ってこのことを打ちあけた。

賢い商人クローパスは何か困ったことがあるときには、自分の顎髭をひっぱりながら妻の方を眺めるのであった。妻は彼に提案した。「ねえあなた、ヨセフの泊っている宿はせまいので、エルサレム滞在の最後の2日間はイエスをうちで引き取りましょうよ。私たちはイエスを愛しているからとてもうれしいわ」

話は直ぐまとまり、クローパス夫妻はイエスの面倒を見ることになった。ヨセフの態度は一変した。彼の陰うつな気分はたちまち消えてしまい、マリヤとトマスと3人で愉快に街を歩き回った。神殿に行ったり、あちこちを見物した。昔の仲間の処を訪ねて挨拶をしたり、エルサレムに引越した連中と旧交を温めたりした。

神殿に来て、ヨセフとトマスの2人が大きな礼拝堂の中に入り祈りをささげた。壮厳な讃美歌に耳を傾け、香炉からたちこめる煙が堂内に満ちて芳香を放ち、うっとりとして彼らの心がなごむのであった。3人は満ち足りた気分で神殿を立ち去った。翌日も神様の御守りのうちに幸せに過ごせることを信じながら。

さて、イエスはクローパスに連れられて行動した。イエスは森の中の仔鹿のように温和しく見えたが、同時に野性的でもあった。クローパスはしきりにヨセフとイエスの間にわだかまっている誤解の原因をイエスから聞き出そうと努めるのであるが、彼は全然心の扉を開かず何も言わなかった。

それでもクローパスはとても楽しかった。イエスの心にある麗わしい愛と強さをひしひしと感じるからであった。それは実に澄みきった清らかさと機智に富んでおり、まるで大きな鳥が目にもとまらぬ速さで山や平地を飛びかけるようであった。

イエスの話を聞いていると、クローパス夫婦の心に次から次へと豊かな幻が浮かび、2人がもう少し若かったらきっとイエスに立派な相談役になって欲しいと願い出たであろうと思える程であった。彼は心から尊敬される律法学者のようであったからである。

ガリラヤの一行が、いよいよエルサレムを去ろうという前日になって、ベタニヤに住んでいるクローパスの下僕から1通の手紙が届けられた。それには、折角エルサレムまでおいでになったので、数キロしか離れていないベタニヤの実家に立ち寄って欲しいと書いてあった。クローパスと妻は相談の末、予定よりも1日早くエルサレムを発つことにするとヨセフに知らせた。

次の朝、クローパス夫婦は、イエスと話しているのが楽しいので、ヨセフの宿にはやらず、出発間ぎわまでイエスを留めおいた。クローパスはイエスに両親が泊っている宿に行き、両親が最後の神殿訪問を終えて帰ってくるまで待っているように言った。

クローパスの妻マリヤが言った。「またこの子は仔鹿のようにどこかへ行ってしまうんじゃないの」「とんでもない、彼はそんなことはしないよ、マリヤ!彼はちゃんと言われた通りヨセフの宿に行くとも。僕たちと一緒になってからはイエスはなんでも言うことを聞いたじゃないか」妻マリヤは溜息をつきながら言った。

「そうだわね、でも天のお父様から話しかけられたら最後、誰がなにを言っても聞きやしないんだから」クローパスは笑った。「お前も世の母親と全く同じだね、子供にはあまり必要もないことをくどくどと言うんだから。イエスに関しては全く心配ないよ!」

「そうだわね、イエスは私の本当の子供のように可愛いいのよ。だからイエスがヨセフやマリヤのもとに居るときには、とても落ち着かなくて心が休まらないんだわ」

一条の柔かい光が、クローパスの妻の顔をよぎった。夫が目を見張るような美しい妻の顔を見て、2人の間は再び新鮮な仲になるのであった。この夫婦はお互いに罵り合ったことがなく円満な良きカップルであった。

イエスはクローパスに言われた通り、曲りくねった道を歩いてヨセフの宿に行った。そこには誰も居なかった。暫く宿にいてから彼は考えた。これでいったんクローパスの言うことは果したのだと。彼は再び足の向くままに歩き始めた。足はひとりでに神殿の方へ向かった。

後になってヤコブに打ちあけた話によれば、彼はそのとき、幻に導かれていたということである。<天のお父様が私を導いて下さったのです。それで父母のことは全く頭にはありませんでした。やがて祭司の庭の入口にも行くように言われました。そこで用事が告げられるであろうとも言われました。>

イエスは待っている間中、広い神殿の中にいて多勢の巡礼者が出たり入ったりしているのを眺めていた。余程綿密な打ち合せでもしない限り、親族や友人と逢える場所ではなかった。しかし例のパリサイ人が心配そうな顔付きをしながらイエスの目の前を通っていくではないか。

イエスは小おどりしながら見守っていると、彼はまるでイエスにはもう用はないといわんばかりに入口の方へ歩いて行った。すると急に立ち止まり、ぐるっとこちらを向いてイエスの方を見た。目に輝きがともったと思うとイエスの方に歩いてきて両手を差し出しながらイエスに挨拶した。

「イエスじゃないか!お前を探していたのじゃ!」彼は自分のことをすっかり忘れてしまったかのように、大声をはりあげて自分について来るように言った。2人は秘密の道を通り神殿を抜け出し、ひとことも喋らずにパリサイ人の家にたどりついた。パリサイ人はイエスを客として迎え入れたのである。

「夕方になると親たちが僕の帰りを待っているんですが」「そうだね、わしの召使いを出して、わしと一緒に居るからと知らせてあげよう」パリサイ人の胸のうちには、多くの心配事が詰まっていた。それで彼は遂にヨセフとマリヤに召使いを遣ることをすっかり忘れてしまった。

ヨセフとマリヤは、クローパスがひとあし早く出発したことを知っていたので、イエスも一緒について行ったと思いこんでいた。2人は何ひとつ心配することなく、明くる朝早くガリラヤの一行と共にガリラヤに向けて出発した。連日の観光や巡礼の旅でみんなの足は痛んでいた。

彼らがクローパス夫婦に追いついたときには、足が折れそうに疲れきっていた。クローパスがたずねた。「イエスはどこに居るのかね」ヨセフは言った。「お兄さんと一緒じゃなかったんですか?」

「そうじゃないんだ、僕たちが発つ前に、あなたの宿へ行かせたんだが」「まさか!私たちは全然見かけませんでしたよ」「そんならイエスは、私どもの言うことを聞かず、エルサレムに残っていて、今頃街の中をさまよっているんじゃないだろうか」

マリヤは大声をはり上げて叫んだ。「どこへ行ってしまったの?もう帰ってこなかったらどうしましょう!悪人にさらわれて奴隷にでも売りとばされているんだわ!」マリヤの深い悲しみを感じたヨセフは、イエスへの怒りを通り過して懸命にマリヤを慰めようとしたが無駄であった。夜になってもマリヤは眠れず、ひと晩中彼女は喚き続けた。

「私の大切な宝物、私の愛する息子よ、もう2度とお前に逢えなくなってしまったんだわ!奴隷に売りとばされたか、熱心党に掴まって反逆分子にさせられたか、どちらかにきまってるわよ!ああ!あの子が私からもぎ取られるくらいなら、だれか私の右手を切りおとしてちょうだい!!あの子を取り戻してくれたら、喜んで私の目をくりぬいてもいいわ」

マリヤはひと晩中喚き通し、体を捩らせながらのたうちまわった。ヨセフはもう手がつけられず、クローパスに助けを求めた。クローパスは堰を切ったようにヨセフに言った。

「今直ぐエルサレムに引き返すんだ!!僕の驢馬を使いなさい、絶対に歩いてはだめだ!このままぐずぐずしていたらマリヤが悶えて死んでしまう。母親の愛情とは、こんなにも強いものとは今まで知らなかった」ヨセフが言った。

「マリヤとイエスの絆は特別なんですよ。マリヤはイエスのことを何も知らないんですよ。奴は苦痛と悲しみの因をつくるだけなんですから」ヨセフの言葉をさえぎるようにクローパスは言い放った。「マリヤが冷静になったときを見はからって、一刻も早くエルサレム行きのことを話してあげなさい、きっと落ち着きをとり戻すと思うから」

クローパスは、イエスのことを理解できないヨセフの心を嘆いた。何を言っても聞く耳を持っていないことが悲しかった。ヨセフとイエスは、まるで言葉が通じない外国人のようであった。

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30 大いなる知恵を語る

エルサレムに戻ったヨセフとマリヤの目には、この街がアラビアの荒野よりもひどい不毛の地に見えた。彼らは方々を歩き回り、知らぬ人や巡礼者を片端しからつかまえては、細身で浅黒い少年を見かけなかったと尋ねた。しかし全くつかみどころが無かった。2人は万策つきて何をしたらよいかわからなかった。次男のトマスはクローパスに預けてきた。

そうこうしているうちに、まる2日が過ぎてしまった。イエスに関する手がかりは何ひとつ得ることができなかった。マリヤは、まるで強い陽差しに照りつけられた花のように萎んでいった。

ふと、ヨセフは大工や石工が寄り集まってつくっている組合のことを思い出し、その親方の処にでかけてみる気になった。その親方は、今ではかなり高い地位にあげられ、パリサイ人や祭司の間でも結構重んじられていた。恐る恐るとの親方を訪ねた結果、ガリラヤ人の噂を耳にすることができた。

愚か者はべらべら喋り、賢い者は相手の言うことに耳を傾けるものである。御多聞にもれず、ヨセフは愚者の役割を発揮した。彼はイエスのことについて不必要なことまでも、ベらべらと喋りまくった。

「やつは近頃こんなことまで言うんです。偉い者程卑しいんだ、なんてぬかすんです。ひどいことを言うじゃありませんか、国の支配者や長老たちは、庶民よりも下衆な人間だとか、祭司さまや議員の大先生でも奉公人同然だなんて言いくさるんでね」

これを聞いていた親方は顔をしかめながら言った。「お前の息子がそんな馬鹿げたことを言ってるんじゃ、確実に、熱心党の連中にとっつかまっているよ。やつらはあの丘の上にうようよいるんだよ。そんな噂きいたことないかね」ヨセフは知らないと答えた。親方は続けた。

「とても馬鹿げた話だから、本当かどうかわからないんだが、なんでも祭になると熱心党のやつらが街中をうろつき、エルサレムに上京してくる阿呆な小僧たちを掴まえていくそうだ。やつらの手口というのは、お前たちを立派な兵隊にして軍と戦うイスラエル軍の将校にしてやると言って欺すんだそうだ。

きっと同じ手口でお前の息子もエルサレムでしょっぴかれちまったんだよ。今頃は、やつらの隠れ家にしている洞穴にでもいるんじゃないか。やつらは、イスラエルの救済てな恰好いいことを口実にしてるんだよ。実際にやってることは、商人たちの行列を狙って、盗人を働いているんだ。そういえば家の手あいの者が昨日の夕方、街の外で西の方へ連れていかれる若者たちを見かけたそうだ、イエスもその中にいたんじゃないか。

なんでも水がほしいって言ってた若者が、さかんに“イエス”と呼んでいたそうだ。お前が話してくれた息子のイメージとそっくりな気がするね。権威にたてついて支配者や長老たちを罵ったんだよ、お前の息子は。金持ちの商人を襲って、とっつかまって、今頃エルサレムの城壁の外で樹に吊りさげられているんじゃないか」

親方の最後の言葉をきいた途端、マリヤは卒倒してしまった。ヨセフは身をかがめてマリヤを抱き上げ、親切な親方の家に運んだ。おかみさんが甲斐甲斐しく介抱した。泥をふきとってくれたり、気付薬などを与えてくれた。徐々にマリヤは回復したが、いっぺんに老けこんでしまった。ひとことも口をきかず、ただ言われるままに身を委せていた。

その夜は親方の家に泊めてもらうことにした。次の日になって、もう1日だけでもゆっくりするように勧めてくれたのであるが、マリヤは次の日の朝には、ナザレに帰りたいとヨセフにせがんだ。マリヤは淡々とヨセフに言った。

「ナザレに帰ったらきっとよくなると思うわ。この街はとてもやかましくて居たたまれないわ。私が愛しているイエスの性格からは、どうしてもあの子が泥棒の仲間になって、洞穴の中で住んでいるとは思えないの。きっと何か不運な罠にひっかかっているんじゃないかと思うわ。

今私の目の前に天使があらわれて、イエスが悪霊にとりつかれていると言っても私は絶対に信じないわ。ねえ、ヨセフ!!今から親方が言ってた城壁の外に行き、本当にあの子が樹に吊り下げられて死んでいるか見に行ってみましょうよ。この目で確かめなきゃ、死んでも死にきれないわ」

親方の家を出るとき、彼らはもう1度神殿に立ち寄って、イエスが悪者から救い出されるように祈ろうということになった。単純なガリラヤ人は、尊敬を集めている親方の言ったことを一言一句疑うことを知らなかった。

親方は金持ちで雄弁だったので、このガリラヤ人は彼が言ってることが最も正しいと思いこんでいた。ヨセフとマリヤが神殿に通じる石階段を登りかける頃は、もううす暗くなっていた。むしあつい風が街の中を吹いていた。ヨセフとマリヤは、よろめくように歩いていた。もう2度と帰ってこない息子のことを思いつめながら。

マリヤとヨセフは、離ればなれになって祈った。2人は神殿のどまん中にいて、そこから動こうとしなかった。ヨセフは自分を責めながらマリヤに言った。

「おれがまちがっていたんだ。軽卒なことばかり言ってイエスの心を傷つけちまったんだ。だから臍を曲げたんだよ。あんなにどやしつけなければイエスは泥棒の仲間などにならなかったのに、なんとおれは馬鹿なことをしてしまったんだろう!マリヤ!おれを許してくれ。おれは、腕のいい大工としてあいつが誇りに思えるように一生懸命やってきたつもりなんだよ」

ヨセフは頭を低く垂れ、おし黙ってしまった。マリヤは彼を慰め、彼の弱さや失望を救おうと努めた。マリヤは静かな道を選びながら群衆から遠ざかった。ヨセフはマリヤの腕に引かれ、慰めの言葉をきいていた。2人はいつのまにか聖所の中に踏みこんでいるのを知らなかった。

1人の老人が手を叩いて大声を出すまでは解らなかった。そこは祭司や長老以外の者は一切入ってはならない聖所であったからである。2人が目をあげてみると、そこには美しい色の祭服を着て、髭を生やした賢者たちの顔が多勢いて、その前に1人の細身の少年が石のブロックの上に立ち、お互いに話し合っている様子が見えた。

ヨセフとマリヤには、長老たちの質問や少年の賢い返答のやりとりの内容がさっぱり理解できなかった。2人が少しずつ近づいて顔の輪郭がわかる所まで来たとたん、マリヤは叫んだ。「あれはイエスよ!私の愛するイエスだわ!」

マリヤはすんでのところで、目の前にいた白髭の老師をつきとばしてイエスのところにかけよろうとしたが、ヨセフはマリヤをしっかり押さえつけながらささやいた。「静かにしろよ、マリヤ!この方たちは、お偉い方々だ。支配者、長老、律法学者の方々だ。さあ、地べたに頭を押しつけてお辞儀をしなくては」

1人の少年が白い祭服を着せられて、長老賢者の真只中に立ち、預言者のような風格で語り出す偉大な知恵を耳にして、彼らは大いなる喝采をおくるのであった。その様子を見ていたヨセフとマリヤは、再び穏やかになっていった。

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31 パリサイ人の不吉な夢

ろうそくの火が灯っている部屋の中で、パリサイ人はうろうろと歩きまわっていた。彼の手と唇は常に忙しそうに動いていた。親しい律法学者や少年イエスが立っている前で、ぶつぶつ呟いていた。机の上には沢山の本が積んであった。パリサイ人は言った。

「平和について調べてみたが、この聖書からは何にも解答が得られなかった。一体どうしたらよいのじゃ。どんなふうに読んだらよいのじゃ。我が民族が異邦人に対して膝をかがめ、カイザルに頭を下げねばならないとは」

パリサイ人は不平をならしていた。そばにいた律法学者は、てっきり自分の主人であるこの方が少年イエスのことを嫌っていらいらしているのかと思った。彼は主人の耳もとでささやいた。

「上さま、お心の中を隠さず御告げ下さい。この少年を部屋から追い払いましょうか?」パリサイ人は立ち止まってイエスの力を眺め、ニヤリと笑った。「乞食少年だと!ばかを言うでない。この方は計り知れない宝物の持主じゃ。しかもわしの不注意な発言を絶対外部にもらさぬ立派な鍵を持っておられる方じゃ」

居合せた律法学者は、次第にイエスの容ぼうから信頼と平和を感じとっていた。パリサイ人は大きな独りごとを言った。「そうだ!平和だ。我々が住む地上にかって平和があっただろうか」

彼はきびしい調子で律法学者に言った。「もう行ってもよろしい。イエスよ!こっちに来て、わしのそばにかけなさい」律法学者は部屋のすみに行ったが、部屋から出ようとはしなかった。自分の主人が、神殿内をうろついていた少年を余りにも大切にするので、すっかりうろたえてしまった。

イエスはパリサイ人の足もとに座った。このパリサイ人は豊富な知識を持ち、しかも「選民の旗手」とまで言われた程の人物であった。彼は大祭司の怒りやサンヒドリンの反対をものともせず、ローマに対して柔軟な姿勢をとり続けてきたからである。しかし彼を悩ませる問題が山積していた。

「外国の勢力が武器をもって我がユダヤ民族を征服してしまった。彼らは徹底的にローマ型に変革しようとしているのじゃ。だがのう、我がユダヤ民族は、たとえ捕虜になっても唯一の神への信仰は捨てないだろう。我々にはメシヤが速やかにやってきて、ローマ人を我が領土から追い出し、我がユダヤ民族が地上を支配するという言い伝えがある。

なあイエスよ、わしはこの祭の間、2度も同じ夢を見たのじゃ。1人の男がやってきて、わしを外につれ出し、エルサレムの街が見えるところまで行ったのじゃ。空が白みかける頃、ものすごい光があらわれて、そこら中の景色が一色になってしまったのじゃ。わしがオリブ山の頂上に立っていると、沢山の人が集まっているのが見えたのじゃ。

戦いの叫び声がきこえてきて、嘆きの声がみなぎり、死の翼がわしのそばを通り抜けていったのじゃ。夜があけると、あの死の翼が神殿めがけて突進し、金色の塔を粉々に破壊してしまうのじゃ。わしはそのものすごい光のことや、それがどこからやって来たのか知るようになったのじゃ。

高い天空に暗い穴があいていて、そこから煙のようなものが舞い降りてきたのじゃが、実は、それが何と、悪霊の頭ベルゼブルが率いる軍団だったのじゃ。夢の中の幻が段々と細くなってきて再び1本の大きな炎となり、天空に昇り消えていったと同時に、エルサレムの街やうごめく人々の姿も消えてしまったのじゃ。

それからまた戦いの叫び声がきこえ、ベルゼブルがあらわれおった。この光景が際限なく繰り返されてから、遂に神殿の金色の屋根が吹きとんでしまい、大きな支柱は目茶苦茶に崩れ落ち、祭壇が破壊され、大きな壁は粉みじんになり、全部地中に呑まれてしまったのじゃ。イエスよ、この恐ろしい夢の解きあかしをしてくれないか」

暫くしてイエスは口を開いた。「ラビ、その夢は神の御告げです。それは先生にとって悲しみではなく、平和の訪れです。世の終りが近づいています。時が熟しているのです。メシヤが間もなく現れて、神の王国をお建てになるでしょう。その時が来たら、この神殿も、先生が夢でごらんになったように滅びてしまうのです。その夢はまさにその時が近づいていることの徴なのです」

「神殿が滅びるのは我々ユダヤ人が滅びること、いや、イスラエルの神への信仰が滅びることになりはせんか?わしはなあ、この夢は、昔わしが怖れていたことが実現するのではないかと心配しとるんじゃ。

つまり、我がユダヤ民族が滅びるのではなくて、異教徒にやっつけられて、異教の神々を拝まされるようになるということじゃ。そんな夢にどうしてわしが落ち着いておられると思うのじゃ。それこそ大変な痛みなのじゃ」

イエスは続けて説明した。「この夢はたしかに天国が間近かに実現するという兆です。私の天の父上様が私にそのようにおっしゃっているのです。今の神殿が亡くなったあとには、人の手にて造られない神殿が、神の御手によって建てられ、我が民族の栄光になるであろうと、おっしゃっています」

パリサイ人は驚いてイエスを睨みつけながら尋ねた。「なんて変なことを言うのじゃ、手にて造らぬ神殿などあるものか。神殿が亡くなったらどうやって神を讃え崇めるのじゃ」

「それはちゃんと聖書に記されているじゃありませんか。“主の民は牛のように閉じこめられ、荒廃と飢餓がやってくる。主の民は嘲けられ、拒否され、長老たちは刃にかけられる”と。また別なところで預言者が言っているではありませんか。

苦難の後、これはおそらく口ーマの支配のことを言ってるのだと思いますが、“主なる神は再びシオン(エルサレムのこと)を建てられ、そこではもはや戦いも荒廃もなく、祭司や長老が人類を治めるであろう”と。その上、この預言者はすばらしいことを言ってます。

“太陽はもはや昼間の光とはならず、月も我らを照らす明かりとはならない。主なる神御自身が永遠に我らを照らす光として輝き、栄光となる。嘆きの日が終るとき、あなたがたはその地を嗣ぐであろう”と。(旧約聖書イザヤ書60・19~21)」

パリサイ人は言った。「それはそうだが、神殿が滅び、我々が飢え死にしたら、もうなにもかもおしまいになるんじゃないか?」「太陽が消え失せ、月も光も失うというのは、この世の終りを指して言ってるとお考えでしょうが、そうではないんですよ、先生!預言者が選民イスラエルに約束したのは此の世のことではなく、破滅の後にやってくる“神の国”のことを指しているのです。

エルサレムが深められ、民が救いに与るのは、全く新しい世界、新しい時代になされるのです。神御自身が光となって治められる王国は、此の世を超えた、天の御父の国なのです。

それは肉眼には映らず、霊眼で見ることのできるすばらしい王国なのです。“永遠の光のうちに過ごす”と記されているように、神の光のうちに歩いている人間には、手で拵えたような鈍重な神殿はもう必要ないのです。真理と愛のための殿堂と言っても、手のかわりに理性によって、大工の道具や人力のかわりに霊の力によって建てられる殿堂です」

パリサイ人は悲しそうに頭を振りながら言った。「それはとっても美しい夢だね、イエス!!でもわしはねえ、本気で考えているんだがね、ユダヤ人がみんな立ち上って、ローマ人をわしらの領地からつまみ出したら、どんなに痛快なことじゃろう。

わしは本当のところ、死んでからどうなるのかわからんのじゃ。お前はきっとわしのことを頼りないと思っておるじゃろうが、預言者が言われたように、死の向こう側にはすばらしい王国が在ればどんなにうれしいことかのう。イスラエルはきっと今年の夏の終り頃には萎れた草の葉のようになっちまうだろう。

サドカイ人や大祭司などは、この国をローマに売りとばそうと虎視眈々としているようじゃ。いずれ此の国は裏切られ、祖国の名も地上から抹殺されてしまうだろう。民衆が決起したら、彼らは反乱のかどで死刑にされたユダのように、みな殺しにされてしまうじゃろう」

イエスは言った。「ラビ、剣をとる者は剣で滅びます」「わかっとる。けれどもいったい救いはどこからやってくるのじゃ、一体全体!」

老賢者“シケム”は少年イエスを見つめながら優しく尋ねた。イエスはあたかも親が息子に対して同情を示すときの柔和な眼差で老賢者を眺めていた。老賢者は吃驚りした。これでは、まるで立場が全く反対ではないかと思ったからである。

老賢者が若い長老の足もとにひれ伏して、知恵と慰めを得ようとしているかのように振る舞っていたからである。イエスが再び話し出すと、その声は以前にナザレの学校でこのパリサイ人の心を虜にしてしまったときの美しい旋律と同じように響き出した。

「ラビ僕がこうして座っていても、本当の僕のことがお見えにならないのです。先生が僕の頭に手をおき、僕が先生の手をつかんでいても、それが本当の僕ではないんです」

「お前は何と馬鹿なことを言い出すんじゃ?わしは、ちゃんとお前が見えるし、うす暗いろうそくの光の中でもお前のことがはっきりわかっとるぞ」イエスはすかさず言った。

「ラビ!!僕の顔は、ただのお面(マスク)です。僕の手や頭は、被(カバー)です。僕はこの頭や体でもありません。この手足でもないのです。本当の僕とは、ここに来いとか、あそこに行けとか、僕に指示を与える理性なんです。

本当の僕とは、僕の唇を開いて話をさせたり、色々な言葉を出させる霊の力なんです。でも先生の目にはその僕の本体は見えないのです。先生が僕のことが解るというのは、僕と話しているときに働く理性のおかげなのです。この体は本当の僕ではありません。本当の僕は、僕のことを動かしている支配者なんです。僕の言ってることに賛成していただけますか、先生」

「もちろんだよ、イエス!わしは、唯物主義のサドカイ人のやつらとはちがうからな、お前の言っていることはよくわかるとも、でもな、今は国民のことで悩まされ、神殿の崩壊という不吉な夢におびえているわしに、それがどんな助けになるんじゃ?」

イエスは答えた。「先生は目に見える外面的なものが崩壊することを恐れていらっしゃいます。外面だけのものはすべて失われていきます。人間の寿命は、せいぜい60年ぐらいでしょう。でも魂の寿命はどれくらいでしょうか。恐らく永遠ではないでしょうか。私たちが本当に神様から選ばれた民族であるならば、私たちは立派な神の子等ではありませんか。

魂が永遠に生きながらえるということは、私たちの知識では捉えることができません。それを考えれば、地上のひとときに於ける<誇り>だの<権力>なんて一体何でしょうか?

地上のものはすべて溶けて亡くなってしまうものばかりです。ですから地上的な勝利だとか財宝なんかに目を奪われてはなりません。それよりも盗人や征服者などのいない、したがって、戸に鍵をかけることも、逃げまわることも必要ない天に宝をつみ上げようじゃありませんか」

老賢者“シケム”は溜息をついて言った。「せめても、わしが死ぬ前に、エルサレムを治めるイスラエルの救済者を見たいもんじゃ。我がイスラエル民族だけが地上に正義の王国を築くことができると信じておるのじゃ。預言者もそう言ってるのだが、まさか嘘を言ってるわけじゃあるまい」

「もちろんですとも、ラビ!私たちが生きている時にそれは実現すると思いますよ。誰が一体時の徴を読みとることができるでしょうか。天の父なる神様が僕に告げて下さいました。“正義の王国は、ここにある、あそこにあるというふうに建てられるものではなく、人の心の中に築かれるものだ”とおっしゃいました。別な言葉で言いますと、人の心の中に、愛と喜びの王国が築かれていなければ、決して神の王国は地上にやってこないということです」

イエスの話を聞いているうちに、このパリサイ人の心には、イエスのいだいている幻の意味が少しずつ解りかけてきた。彼はイエスの頭に手をおいて言った。
「本当にお前は、わしの先生じゃ。一体どこからそんなすばらしい知恵を仕入れてきたのじゃ。ガリラヤには、これ程勝れた学者や長老がおらんのじゃないか」

「僕の知っていることは、みんな天のお父様からいただいたものなんです。ガリラヤの山々を、夜明けごろ歩き、お父様とお話しするんです。天のお父様こそ僕の生命、力の泉なんです。だから僕はお父様と全くひとつになっているんです」

老賢者がやさしくイエスに言った。「明日の朝、わしと一緒に神殿に行こう。そして威張りくさっている律法学者たちに、お前の話をきかせてやろう。彼らは、わしが今晩混乱したように、お前の話を聞いて、きっと混乱するじゃろう」

民衆から最高の権威者として尊敬されてきたこの老賢者は、少年イエスの中に秘められている、あふれるような知恵に接し、小躍りした。その夜も次の日も、このパリサイ人は、まるで我が子のようにイエスと共に居る喜びを味わった。自分の本当の息子に関しては、ただ悲しい思い出しか残っていなかった。彼の息子は、ユダに従って、ローマに敵対行為をとったため、あえなく死刑の露と消えていったからである。

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32 私の息子をお返しください

ナザレの少年は神殿で語り始めた。その言葉は両刃の剣のように鋭く、百戦練磨の論客をヘこましてしまった。最初のうちは陽気に話をしていたが、段々と学者たちが真剣になり、どんな注解書から引用しているかを質し始めた。イエスの返答が余りに単純で意味深いので、居合せた学者たちは、ただ驚嘆するばかりであった。

2日目には、1人の長老がみんなと相談して、イエスを中央の石台の上に立たせて言った。「もう我々は何を言ってもイエスにはかなわないので、もっと充分に時間をかけて彼の話を聴いてみたいと思う。それから彼の知恵について正当な判断をくだそうじゃないか」

老賢者たちは笑いながら同意した。心の中では、どうせこの小僧めがボロを出すにちがいないと思っていたからである。質疑応答だけでは、その人の真意を理解することができない、演説させれば学識内容や欠点が顕れると考えたからである。

しかしイエスは、全く怯む様子もなく、神の子として少年時代をすごしてきたときに天の御父より示された人間の理性の働きのすばらしさについて語った。聴衆は、ただただ舌をまくばかりであった。ある部分は、ラビ・ヒレル(当時尊敬されていた学者)の言葉に置き換えて彼らの理解を助けた。

しかしイエスの話は、他の引用だの、参考資料だの、まわりくどいことが無く大胆に語ったのである。彼は次のように語った。

『天の王国は、畑に隠されている宝のようなものです。人がそれを発見すると、持っていた全財産を売りはらってその畑を買うのです。天の王国は、また、種子の中で1番小さな、ひとつぶの芥子種のようなものです。土に蒔かれ育つと、大きな木になって地上に陰をつくって、鳥がかくれ家に利用できるほどになります』

イエスは、このような警話を用いながら、深遠な意味を解き明かすのであった。天の王国は、善人の心に蒔かれると大きく育って大木となり、多くの人々がそこにやって来て慰めを得ることを示したのである。人間というものは、最初どんなに小さな存在であっても(芥子種のように)、偉大な存在になれることを説いたのである。

イエスは多くの知恵ある言葉を語った。並居る律法学者や権威者たちが、うっとりとして彼の知恵に聴きいっていた。彼が疲れたように見える頃になって、遠くからこの様子を見ていたマリヤがヨセフに言った。「ねえ、ヨセフ、イエスのところに行きましょうよ。この人たちに息子だということを知らせてやりましょうよ」

「いや、だめだよ。おれの服と言葉の訛で、すぐガリラヤの田舎者だということがばれてしまうから、いやなんだよ!」ヨセフはあとずさりをした。マリヤはイエスを愛していたのでそんなことにはお構いなく、学者たちの間をくぐり抜けながら前の方へ進んで行った。

彼らはそんなマリヤには気付かず、熱心に話し合っていた。マリヤは下からイエスの衣の裾を掴まえたが、イエスは全く気が付かなかった。マリヤは声を大きくして言った。「息子よ!私たちは、3日間もお前を探し回ったんだよ!お前はどうして私たちをこんなひどい目にあわせるんですか?」

くるりとふりかえってイエスはマリヤを見つめていたが、イエスには全く見知らぬ人が居るように思えた。彼の心は遠くにあって、偉大なラビを相手にしていたからである。イエスは即座につぶやいた。『僕は今、天のお父様の仕事をしているのが解らないのですか!』

この言葉にマリヤはがっくりして、そこにしゃがみこみ、泣きだしてしまった。白髪の大勢の賢者たちに圧倒されていたマリヤは、イエスの呟きの意味も解らずに、すっかり度胆をぬかれてしまったからである。例のパリサイ人“シケム”がやってきて言った。

「あなたがイエスのお母さんですか?」やさしく声をかけられたのでマリヤは胸をなでおろした。「ああ、先生、私の息子をお返しください。私たちは空しい思いをしながら3日のあいだイエスを探し回ったのです。山のふもとにたむろしている盗賊に捕まって泥棒にでもなってしまったのかと心配してました」

パリサイ人は言った。「彼はもう1日、イスラエルの偉大なる教師を務めるでしょう。それがすんでから、イスラエルの誇りと栄光という“お土産品”を添えてお返し致しましょう。ここにおられる大勢の学者、長老たちも、お父さまの名誉をほめたたえるでしょう」

こう言ってからパリサイ人はイエスに尋ねた。「このまま、ずっとわしの家にとどまってもよいのじゃよ。それともガリラヤへ帰って御両親にお仕えするか、どうかね」

「先生、それはとてもむずかしい質問ですね。でもやはり、先生の御指図に従います」暫く考えてからパリサイ人はゆっくりとした調子で話しだした。

「そうだなあ、もしお前がわしの家に止まって神殿の中で勉強を続けていったら、お前の磨ぎすまされた知恵をねたむやつがきっとでてくるじゃろう。それよりは、わしのシャッポを脱がせた知恵をお前に授けられたガリラヤの山々に戻ったほうが、はるかに賢明じゃ、やっぱり帰りなさい!

そして大人になるまで御両親に仕えるのじゃ。その間にガリラヤの美しい湖や野山で、もっともっと輝くような知恵の宝を積みあげるのじゃ。そのかわり、大人になったら、必ずわしの処に来て、わしの息子になるのじゃぞ」

マリヤは怯えているヨセフをパリサイ人のところに連れてきた。この老賢者“シケム”は、マリヤとヨセフを自分の家に案内した。彼はこの家族のために、旅に必要なものを用意し沢山の御土産品を持たせた。彼はイエスのことを褒めちぎったので、ヨセフは感極まって地に平伏してしまった。

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33 腹黒い教師の罠

流れ行く時間の扉に、誰も掛け金をおろすことは出来ない。ましてや、時代の変化や気まぐれを止めることはできない。イエスがガリラヤに戻ってきて再び両親と一緒に暮らしていると、隣近所の人たちがみんな彼に好意をよせてきた。見ず知らずの者まで交際を求めてくるしまつであった。

それは、エルサレムでのイエスの功績と名声が燎原の火のごとくにナザレ中に知れわたったからである。おまけに、例のパリサイ人が、相当な金額を贈り、イエスが苛酷な労働をしなくても、ゆったりと学ぶことができるように配慮してくれたのである。

この特別な恩賜金の話は、イエスの名声をいやが上にも高くして、前に散々貶していた者までもイエスを褒めるようになった。彼らはイエスのところにやって来て親友になってほしいと要求した。それだけではなく、色々な相談事をもちこんできて、彼の話を熱心にきこうとした。

単純な連中は、こんなにも態度を急変させる偽善者に対して目を白黒させていた。昔は散々馬鹿よばわりしていた者が、急にイエスのことをもち上げるからである。こんな連中は、なんでもかんでも権威さえあればよいのである。馬鹿よばわりを率先してやっていたナザレの律法学者、ベナーデルも例外ではなかった。

なんの躊躇もなく、大工の息子は必ず賢者になって、イスラエルの大先生になるであろうと宣伝した。さらに、相当な金額の恩賜金までもらったということで、ナザレの者はわれわれもとイエスの友人になりたいと願い、それを自慢する程であった。

ヨセフの家族がエルサレムから戻ってきた1週間後に、学校の教師がヨセフの仕事場に姿をあらわした。ひねくれ者の教師が言った。

「ヨセフさん!私はあなたの息子さんが大変な名誉を受けられたそうで、本当にうれしかったよ。ところでね、私は決して威張れるような者じゃないが、こう言うのも何だが、イエスが示した知恵というのは、みんなこの私が教えこんだものなんだよ。彼が学校に通い始めた頃からずっと教えてきたのは、この私なんだよ。

そうだろう。言ってみれば、神殿に集まった学者先生たちを驚かせた知恵の言葉は、みんな私が教えてやったものなのさ!!私がイエスに教え、イエスがそれをものにして、学者先生たちの前で披露したというわけさ!!ねえ、ヨセフさんよ、私はあなたから御礼を言ってもらうつもりはサラサラないんだよ。あなたの息子さんを通して与えられた名誉がうれしいだけなんだよ」

単純な大工ヨセフは言った。「いやいや、まことに先生のおかげですよ、あれは。なにはともあれ、先生には深く感謝しておりますとも」「私はね、ヨセフさん、褒美なんか欲しくて言ってるんじゃないんだよ。私は本当に不束者なんだからね」

ヨセフは、うろたえながら彼に尋ねた。「ねえ先生、ちょっと教えていただきたいのですが…実は、イエスがエルサレムの神殿で、盛んに“父親”とか“父上”といったことを口にしていたのですが、この父親とは一体誰のことでしょうね?あんなに力ある知恵の言葉を授けた父親のことですよ。この私ではないことぐらい、よく解っているつもりですが」

「そのことだよ、ヨセフさんそりゃきまってるだろう!!それは、ほれ、このわたしなんだよ!イエスはね、そんなまわりくどいことを言ってるが、私のことを褒めてくれたんだよ。知恵に関しては私が彼の父親同然なんだよ。それとも誰かほかにそう呼べる人を知っているかね?」

ヨセフは、すっかり彼にのせられてしまい、マリヤを呼んで教師をもてなすように言った。老獪な偽善者は酒をのまされ、陽気に振る舞った。そこにイエスが入ってきた。「やあ、よくやったね、イエス!」と言いながら教師は彼に接吻して挨拶をした。彼は学校の生徒として実に勤勉であり、ガリラヤ中で最も賢い少年であると褒めあげた。

イエスはひとことも言わず、この教師の顔を見つめていたが、くるりと背を向けて外に出て行こうとした。マリヤが呼びとめて言った。「ねえ、イエス、エルサレムでお前がラビたちに話してた“父親”とは一体だれのことなの?今ここではっきり言ってごらん。ここにいるお父様のことではないでしょう?」

「はい、そうではありません、お母様」ヨセフが口を入れた。「やっぱりそうだろう。お前が隠したっておれにはちゃんとわかっているんだ。それはここに居られる先生のことだろう」ヨセフは上機嫌の教師を指差しながら言い放った。突然イエスの顔に怒りがこみあげてきた。

イエスは急いで教師の方にふり向くと、烈しく教師を睨みつけて言った。「あなたは、私がエルサレムでラビたちに申し上げた天のお父様と呼ばれたいのですか?」

「もちろんだとも。どうしてそんな怖い顔をしているのだ?私はとってもうれしいんだよ、お前が示した知恵の言葉は、みんな私のものであることをよくおぼえていてくれたね!」

イエスは憤然として言った。「偽善者は、ベチャベチャとよくお喋りするものです。偽善者がどんなに多くを語っても、それは全然知恵とは無関係なのです」イエスは、まるで他人がものを言っているような調子で続けた。

「私が言っているお父様とは、あなたのことではありません!!はっきり言っておきますが、あなたのその弛んだ唇で物言う言葉はすべて、反対に、神の御名を汚しているのです。昔あなたは、私を馬鹿者と呼んでいましたね。そして今になって、馬鹿者である私の父親になりたいとおっしゃる…

もし、本気でそんなことをおっしゃるんでしたら、何と恥しらずなことでしょう!言うこと為すことすべてが、全く馬鹿げていると思いませんか!ガリラヤ中のどこを見回しても、私ほど愚鈍な子供は見あたらないと、あちこちで宣伝なさったことに対して、何と言い訳をなさるつもりですか?ぜひ聞きたいもんですね!」

ヨセフとマリヤは、息子の語気にすっかり圧倒されてしまい、口を大きくあけたまま、恐る恐る教師を見守るばかりであった。やおらヨセフが立ち上って言った。「イエス、お前は頭にきおったな!何と馬鹿なことを言ってるんだ!!お前はこの先生を尊敬していないのか?」

「偽善を内に隠し持っている人間を尊敬するわけにはいきません。年齢には関係ないのです。人はすべて素直で、真心を持っている人が敬われるのです。名声や財産によって言うことをねじ曲げるのは最低の人間です。

でもお母さん、烈しい口調で人を傷つけてしまって、ごめんなさい。でもこんなふうに、はっきりと教師に言えたことをうれしく思っています。どんな人間でも、蒔いた種は自分で刈り取らねばならないんですからね!」

こう言い残してイエスは戸口から出て行った。仔鹿のように素早く出て行ったので、ヨセフも止めることは出来なかった。教師の名誉は、これで全く無に帰してしまったのである。

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34 野性の仔鹿のように

1日が暮れようとしていた。月が静かに湖の上に登ってきた。幼いヤコブは母と手をつなぎながら細い道を通り、藪のところで立ち止まった。ヤコブは鶇のような鳥声をまねて、3回口笛を吹いた。古い木の枝につかまっていたイエスが、マリヤ・クローパスの通る道に飛び降りてきた。

静まりかえった中で突然枝の折れる音がしたので、マリヤ・クローパスは小さな悲鳴をあげた。彼女はイエスに言った。「ねえ、ヤコブを許してあげてちょうだい。私が、いらいらしていたので、見るにみかねてお前の隠れ家に案内してくれたんだから」

「許すも何もありませんよ、でもどうして僕と逢いたかったんですか?」彼女は野性の仔鹿に口早やに言った。「とにかく私の言うことを聞いてちょうだい。ねえ、イエス、私はいつもあなたの味方なんだから」「いいですよ伯母さん」

「お前のお母さんから聞いたんだけど、今日のお昼頃、学校の教師がやってきて、お前のことを褒めていたそうね。そこにお前が入ってきて、ヨセフが言うには、お前がとても生意気なことを言ったんだってね。お父さんはお前を見つけ次第教師の処に連れてって、教師に謝らせると言ってたよ」

「僕があの教師から学んだことは、苦痛に耐えることでした。でも知恵や知識は何ひとつ与えてくれませんでした。だから僕はあの教師を知恵の父と呼んで嘘をつきたくないんですよ。どうしても言えというなら、僕は偽善者の父と叫びたいんです」

「まあ、なんとひどいことを言うのだね、お前は」「時として、ひどい言葉によって治ることもあるんです」「それはそうと、今晩お前が家に帰ると、お父さんは無理矢理にもお前を教師に謝らせるんじゃないかしら」「僕は断然そんなまちがったことはやりません」

「でもね、イエス。お父さんの言うことを聞かないと、お母さんがとっても傷つくと思うのよ」「お母さんは、できるだけ傷つけたくないと思っています。でも僕はこのことで屈服してしまったら、もうなにもかも駄目になってしまうんです。真理として大切にしてきた光、それはいつまでも消えることがなく、私たちすべての人々の心の中に灯されている光に対して大きな罪を犯してしまうのです」

イエスは熱をこめて話した。すかさずマリヤ・クローパスが言った。「お父さんを先ず大切にすべきじゃないの?これも天の神様の命令ではないのかい、イエス」

イエスは黙ってしまった。胸のうちで苦しみ悩んでいた。あちこち歩き回り、足もとでカサカサと草や小枝の音がきこえていた。「お父さんの言う通りにしたら、僕は罪を犯してしまうんだ。そうなったら何もかも他人の言うなりになってしまいます。僕の喜びも平和もふきとんでしまいます」

「お前の平和って何なの?」「それは天の御父様の御心を行うことです」「ねえ、イエス、もうそろそろ私にお前の本心を打ちあけてもいいんじゃない?お願いだから、他人には天のお父様のことを口にしないでちょうだい!そうでないと、今度はもっとひどい目にあうわよ。

ナザレの人たちはそれを狙っているのだわ。お前が今までのように天のお父様のことを言い続けたら、きっとお前のことをこの町から放り出し、お前の両親がとても恥ずかしい思いをするわよ」

「御忠告ありがとう、お伯母さん。僕の言っていることが真実であると認められるのは、まだ先のことです。でも僕はこの件に関してお父さんの言いなりにはなりません。もう僕は学校には行きません。だから教師に対して謝罪したり、彼の虚栄心をくすぐるような“偽り”を犯さなくてもよいのです」

「ああ、なんて悲しいことを言うんだい。きっとヨセフはお前を折檻して、お母さんはますます苦しむことになるわ」「もう私は家には帰りません。僕は森の中で暮らします」「ねえ、私の家にいらっしゃいよ、私がお前をかくまってあげるわ」「そんなことしたら、お父さんが怒りますよ」

イエスは微笑をうかべながら彼女に言った。イエスの顔からはもう厳しい表情が消えていた。マリヤ・クローパスは尋ねた。「それもそうね。ヨセフを怒らしたら、主人も心おだやかじゃないわね。でもお前今晩はどこで寝るつもりなのかい?」

「狐には穴があります。鳥にも巣があります。でも僕には寝る処がないのですよ」「やっぱりお父様の処に帰ったら」「いいえ、それはできません。山の中で木の葉や草で自分の塒(ねぐら)を作ります。どうか心配なさらないで下さい。必ず旨くやりますから」

「でも山には食物に飢えた野獣がうろついているというじゃないか」「僕はとてもすばしこいのです。それに僕には、あなたが聞こえない音でも聞くことができるんです。その音によって何がやってくるかがわかるんです。どんな鳥が飛んでいるか、その大きさも。たけり狂っている野獣もわかります。さらに羽をつけた昆虫や草むらの中を這いまわる蛇の言葉も解るんです。ちっとも心配はいりません。野の生き物はすべて私の友だちなんです。人間だけが僕を憎んでいるのです」

マリヤは長い間イエスと話してから、イエスに約束させた。1日の終りには必ず逢うということを。マリヤ・クローパスは、パンと肉を彼に与え、3人は寂しい場所であることを忘れてしまう程楽しく話しあった。イエスは、父ヨセフとぎくしゃくする前までは、とても快活で、話すときも朗らかで、よく冗談をとばしていたものである。それも思い出になってしまった。

3人が食べ終ると、イエスは口笛を吹き、歌った。森の音楽とでもいうのか、野獣の声や、鳥の声などを上手にとり入れながら、うっとりするようなメロディをマリヤ・クローパスとヤコブにきかせた。彼女にとって、自分の息子以上に可愛いがってきた少年イエスと別れるのが辛かった。

遂に彼女は腰をあげ、月に照らされた小道を通って湖畔の方に向かって立ち去った。イエスは名残り惜しそうに別れを告げ、茂った草原の中に2人の姿が消えるまで見送っていた。妻が居ないので、夫クローパスが探しにやってきた。ちょうど曲り角でばったりと出逢った。

夫は彼女に小言を言ったが、彼女は弁解ひとつしないで、森の中の野性の仔鹿のことを包み隠さず彼に話してあげた。あとになって、母マリヤも遠くから息子のことを見守っていたことがわかった。この2人の女は、くよくよ思っているヨセフの前では、なるべくイエスのことを話さないようにしていた。

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35 自然を我が家に

初めのうちは雨露をしのぐ納屋も全く無い所で、星の真下でイエスは眠っていた。真暗闇の中でたった1人で居ても彼は怖くなかった。蛍が飛び交って、イエスの頭上でダンスを踊っていた。蝙蝠(コウモリ)が羽をばたつかせながら飛び回り、哀れな鳴き声を立てながら藪から藪へと渡って行った。時折、動物たちが枝の間をざわつかせて歩き、目を覚ます事もあった。

初夏の夜は風も無く、平和な空気が大地や星空を覆っていた。イエスは急いでオリーブ畑のある険しい坂道を駆け上り、農家が点々と並んでいる地域から離れた荒野へ出てきた。彼はまだ薄暗いオークの森の中へ入っていった。突然彼は立ち止まった。ジャッカルの咆える声を耳にしたからである。

そのうちに鳥たちが羽をばたつかせ、あたり一面を照らしていた月も雲に覆われて真暗になってしまった。その夜はいつもの緊張感が緩んでいた。知恵の面では豊かでも、賢い少年は、すっかり子供に戻ってしまい、すすり泣きをしながら暗い木立の中でうろうろしていた。

彼はじっと息を殺しながら恐怖におびえ、葉の生い茂った小枝を掴み縮こまっていた。再びジャッカルが咆え出すと今度は鳥の鳴き声は止まり、全ての生き物も鳴りを潜めてしまった。イエスは絶望しながら細々と口を動かした。<天に在すお父様、悪魔から私をお救い下さい。今夜のような恐ろしい夜から私をお守り下さい>

暫くして心地よい一条の光が差し込んできた。遠くで輝いていた古参の星々は、地上に沢山の光を撒き散らし、地上の靄(もや)を吹き飛ばし、まるで沢山のろうそくの火が灯っている様に荒野を明るく照らしていた。イエスは立ち上がり、額の汗を拭い、感謝の言葉を口ずさんだ。

彼の体からは震えがとまり背筋を伸ばす事ができた。再び賢さが舞い戻った。棒を使いながら歩けそうな道を探し、ようやくの事で林の中の空き地に辿り着いた。枝の間に寝られそうな場所を見つけ、そこに葉をもぎ取ってきては積み重ね、恰好な塒(ねぐら)を作った。

木の幹がとても大きいので彼はゆったりと寝転んで休む事ができた。もうジャッカルや狼は怖くなかった。彼はぐっすり眠った。夜明けという“お喋り屋”が眠っている少年の魂を揺さぶった。イエスはゆっくりと目を覚まし、辺りを見回すと、何と1つの小屋が目に入った。

野獣や悪魔の恐怖は早朝の美しい光によって消えていった。あたり一面がパラダイスのように思われた。はしゃぎ回る鳥のさえずりも加わって暫しの間夢心地になっていた。孤独な生活ほど此の世で素晴らしいものはないと思った。

太陽が真上にさしかかった頃、イエスは丘から降りてきて、一気に湖畔まで歩いた。彼は水泳が得意であったので、銀色に輝く浅瀬であろうと深い処であろうと、自由自在に泳ぎ回った。長い間泳いだので疲れをおぼえ、湖畔に生えている“ギンバイカ”や“タチジャコウ草”の間にねころんで空の雲を見つめ、ゆったりと空中を舞っている鳥を眺めていた。突然、うしろの葦の中から声がした。

「こりゃ驚いた、イエス!!お前はまるで魚だね!!人間の子じゃないね、道から見てたんだが、まるで魚みたいに泳いでるじゃないか」イエスは吃驚りして後をふりかえると、懐かしい“ヘリ”が立っていた。彼は天下の風来坊であった。

2人は早速、ヘリが棕梠の木の下につくった、ギンバイカの小屋に直行した。砂漠の放浪者ヘリと若い弟子イエスの2人は、別れてから今日に到るまで、自分にふりかかった出来事を語り合った。ヘリはイエスの話を聞きながら、心の中ではイエスの味わった経験を年代順に整理していた。

暫くの間沈黙してからイエスに言った。「暫く私と一緒にここですごすといいよ。そうしたらお前に病気を癒す薬草の作り方を教えてやろう。体と理性の働きを使って癒す方法もね。夏の間、ここにいれば飢えることもないし、お前もじっくり勉強して、もっと人のために役立つ知恵を身につけたらどうかね」

イエスは顔に昔の傷跡のあるこの賢者の申出を心から喜んで、彼の指示に従う生活を始めたのである。

(註1)南欧産のふともも科の常緑灌木。夜は芳香を放つ白色の木で、愛の象徴として古くヴィーナスの神木と見なされた。

(註2)ヨーロッパ原産の小低木。薬用、香料などに用いられる。せんじ薬またはエキスとして、せき止めにし、ソース、カレーその他の調味料に加えて賞味される。

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36 可愛いい妹レア

ガリラヤ地方にも、沢山の貧乏人と僅かな金持ちとが住んでいた。たいていの人々は楽しそうに暮らしており、明日のことを余り心配しなかった。食物が足らなくなっても、どうにかこうにか飢えをしのいでいた。

貧しい漁師たちは、ローマの権力で莫大な税金を徴られても、何かと楽しみを見つけ、太陽に輝くガリラヤ湖を眺めては、様々な夢を描いて気持ちをまぎらすのであった。彼らは月夜に森で鳴くナイチンゲールのように唄い、朝から晩までメロディーと共にすごすのであった。

ヨセフは、ガリラヤ人の楽観的な気質を持ちあわせていないようだった。いつも取越苦労をして、眉にしわをよせていた。彼は悲観的な幻想に悩まされるのである。そのヨセフが、エルサレムから帰ってきてからは、例の教師とはぎくしゃくしていても、とても機嫌がよく、冗談をとばしては楽しそうに暮らしていた。仕事が順調に運んでいたからである。

イエスが家出した最初の頃は、腹をたててはいたが、それもかえってイエスのためになるだろうと考えるようになっていた。それから家の中は平和になった。イエスがエルサレムで大変な評判になったおかげで、ヨセフと息子トマスには沢山の仕事がもちこまれるようになった。

仕事の量が俄かにふえたので、三男のヤコブにも手伝わせ、セツには使い走りをさせた。ナザレの人々は、猫も均子もヨセフに仕事をたのみ、ヨセフのことを煽てあげた。よほど高貴で、才能に恵まれた父親でなければ、あれ程すばらしい息子イエスは育てられない、とまで言った。

単純なこの大工は、すっかりのぼせてしまい、イエスのことを思い浮かべては、うれしそうにしていた。マリアがどんなに頼んでも、イエスの扱い方については、自分の考えを曲げなかった。ヨセフはマリアに口ぐせのように言った。

「お前の生んだ放蕩息子が帰ってきても、教師に詫びをいれなければ、絶対に家には入れてやらないぞ」マリヤはそれを聞くたびに涙を目にためて言うのであった。「そんなら、あの子はいつまでたっても家に入れやしないじゃありませんか」

「そんなのは、おれのせいじゃない。イエスには、学校に行かせたが、うちはもっと生活をきりつめて、3人の息子たち、トマス、ヤコブ、セツには、せめて読み書きぐらいは家で教えてやらなくちゃ。それに今までに随分苦労をしてきたから、3人の息子たちにも仕事をさせて金を儲けようじゃないか」

「まあ、あきれた!今でも随分お金が入ってくるじゃありませんか。あなたの名前がナザレ中に有名になったのも、イエスの知恵のおかげじゃありませんか。それでもあなたは不足なんですか。あなたがもう少し賢ければ、もうあの子に命令なんかすべきじゃないわ。かえってあの子に耳をかたむけるべきよ」

ヨセフの顔色が変わった。そのとき末娘のレアが手に沢山の花をかかえてヨセフの処にやってきた。レアが入ってこなかったら、どんなにひどい言葉で罵っていただろう。レアはヨセフの大きな手のひらに花をおいた。レアが幼児語で、だっこしてくれと強請ったので、彼はレアを肩車にして外に出て行った。

この幼い末娘レアは、とても明るく可愛いらしかった。ヨセフは、ことのほかレアを愛し、彼女のことを“金の宝”と呼ぶほどであった。ヨセフの目は輝き、レアを地上に降ろして胸に抱きよせ、優しくレアの耳もとでささやいた。レアが頼むと、天気の日には仕事場から出て来て散歩にでかけた。

小川のほとりでは、水をとばしたり、泥んこ遊びをした。レアと遊んでいると、ヨセフは辛いことをみんな忘れてしまい、レアの言うなりになる、優しい父親となるのであった。マリヤは満足していた。子供のことに関しては、ヨセフは実に親切で理解のある父親であった。

レアは全く例外で、目に入れても痛くない娘であった。彼女の金髪の頭は、彼にとって言い尽せぬ神秘であり、彼女の可愛らしいお喋りは、無限の喜びであった。仕事が順調にはかどり、レアが彼の傍に居るときは、喜びの杯があふれるばかりであった。彼はマリアに言った。

「神様は私たちに沢山の祝福を与えて下さった。いつまでもこの幸せが続くとよいのだが。子供たちはこのまま大きくならず、僕の仕事もそこそこで、お前とレアがそばに居てくれて、来る日も来る日も今のように歌ったり遊んだりできるといいんだが」弾んだような声でマリヤが答えた。

「この金髪のお嬢さんをさらっていくお婿さんがあらわれたら、あなたの顔は仏頂面になり、やきもち父さんになるわね。きっとあなたは気狂いのようになるわよ」

マリヤはこれ以上何も言えなかった。ヨセフの唇が彼女の口にふたをしてしまったからである。ヨセフは、こんなふうにして丘の上を独りで歩いていた少女マリヤに恋をしていた青年時代の愛をあらわすのであった。

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37 神霊治療の業を磨く

夜が訪れた。太陽という金色の稜(織物に使う道具)が、弛んだ縦糸を使って多色の衣服地を織ろうとしているかのように、ガリラヤの山々や湖の様子が無気味な色に見えていた。

ヘリとイエスは、岩だらけの道に立ってカルメル山の方角を眺めていた。少年イエスの心には、様々な疑問が浮かんでいた。海をへだてた向こう側にある外国はどんな処なのだろうかと。ヘリにきいてみた。ヘリは答えた。

「私には悲しい思い出があるのだよ。一体どんな人の中に真実があるのか、一生けんめい探し求めていたのだよ。こいつは本当に大変なことでね、ダイヤやオパールを探すよりもむずかしいのだよ。法律学者やパリサイ人にも逢ってみたが、全然だめだった。

私が若いころ決心して、色んな人間に逢って勉強したいと思ってね。石工として働きながら、あちこちの町々に行ってみたのさ。テベリヤ、それからピリポ・カイザリャなどではね、異教の神々を祀る神殿の土台造りをやってみた。また、船員になって、アンテオケ、アテネ、アレキサンドリヤ、エペソといった大きな町にも行ってみたのさ。

ある期間中にその町々に住んでみて、色々な人と逢ってみたのだが、誰1人として幸せや平安を教えてくれたものはいなかった。ところがね、ある日のこと、東方からやってきた1人の男に私にその人の国に来てみないかとさそわれてね。もしかしたらお前の探しているものがみつかるかも知れないと言うのだよ。それで私は軍人になって、ある金持ちの商人に雇ってもらったんだよ。

この商人は、たいした方で、沢山の隊商を動かし、没薬、乳香、その他沢山の高価な商品をアラビヤ砂漠の向こうから運ばせていたのだ。それで宝物を泥棒から守る護衛に任命されたという訳さ。私はある時、インドの大きな町にやってきたとき、これが東方の世界だなと思ったのさ。

けれども私には、そこに喜びも平安も感じられなかったのだ。私は青春時代のすべてを賭けて探しだそうとしたのだが、段々とやる気を失ってね、いやになってしまったんだよ。大きな町には神様が住んでおられるとは思えなかったのだ。

王宮の周辺には、きらめくような寺院が並んでいた。王や支配者の華麗な建物とは裏腹に、狭くて汚ない小路をはさんで、飢えた人々や、障害者が住んでいるのだよ。曲りくねった道端には、目のない乞食が、あちこちにいて、両足をふるわせながら嘆き声をあげているんだよ。

主人の手で肢体をもぎとられた奴隷たちが路上に座っており、汚れきった小さな部屋の中には、病人がうずくまっているんだよ。どんな悪いことをしても、この町ではとるに足らぬ小さなこととして処理されてしまうのだ。

町がどんなに美しくても、私は苦悩している人々、貧しい人々、奴隷の流す涙などに目をつむることができなかったのだよ。しかもこの様な人々が浜の真砂のように沢山いるんだよ。イエスよ、人々が集まる町という所は、強盗と悪人の巣のようなものなんだ。喜びの代りに絶望が待ちうけているんだよ。

私は遂に荒野に出て、流浪を続ける一部族とばったり出逢ったのだ。この部族の人々はとても強く、烈しい性格で、時折お互いに斬り合ったり、旅人を襲ったりするんだ。彼らはまるで砂漠や岩山の陰に潜むハイエナみたいなやつなのだが、町の人々には見られないすばらしいものを持っているんだ。

自分がどんなに喉が渇いていても、水を求める人には水筒の水をそっくり飲ませてしまうような人類愛は、まさに王侯貴族に勝る気高さを感じさせるんだ。私自身がアラビヤの不毛な地を旅して死にかけていたとき救ってくれたのも、この砂漠の流浪部族だ。

そのおかげで、今まで失いかけていた神への信頼が呼び戻され、この連中と一層親しくなってしまったんだよ。烈しいこの人々には私が町の人々に発見できなかった知識と知恵があるんだよ。それで私はもう石工や船員や兵隊などをやめて、この連中と一緒に暮らすことにしたんだよ。流浪の旅というやつは、とても辛いものだが、ようやく今までの苦労がむくいられたという訳なんだ」

イエスはすっかりおどろいて尋ねた。「彼らはどんなすばらしいものを持っているんですか?」ヘリは答えた。「私が町でこせこせと暮らしていた時には、エホバ(神)の道は隠され、私の心は病んでいた。あの砂漠の中で流浪の部族と暮らしている時には、エホバの道は明るく私を導き、心のうちに喜びがあふれるのだ」

イエスはこの話を聞いてヘリに懇願した。「ねえ、僕もそこへ連れていって下さい」「今はだめだ、イエス。とにかくお前が今すぐやるべきことは、御両親と和解することだよ。お前の体は柔らかだから、到底やけつくような日射しのもとで、飢えの連続という厳しい生活は無理だ。3年がまんしろよ。

そうしたらきっとお前を連れてってやるよ!きっとお前は砂漠の古老から、エルサレムの律法学者や文献などでは得られない知恵を受けるだろうよ。神殿にたむろしている学者が口にすることは、まるでアジアの苦い葡萄酒のようで、我々の理解力を鈍らせるばかりか、世界の靄(もや)の中で手探りさせるばかりだよ」

イエスは力強く言った。「わかった。ヘリの約束を信じて待っています」「そうとも。必ず約束を果してやるよ。私はこの流浪人から始めて信仰の道を学ぶことができたんだからね。彼らは烈しく残酷なところがあるが、町の連中のように偽善はやらないぜ!彼らが口にする言葉は、まるで山に横たわる不動の岩山のように、真実そのものなんだよ」

2人は暫くの間沈黙しながら、金色に輝いているカルメル山が次第に夕闇に包まれていく光景を眺めていた。山の輝きが雲に蔽われていくさまは、実に神秘そのものであった。

2人は森まで降りると、夕食の仕度にかかった。火を熾し、魚を焼いた。水は小川からくんできた。月が頭上高くあがる頃、2人は残り火の上にポットを載せて薬草を入れ、煮だした。ヘリはイエスに病気の癒し方を伝授した。ひとつは、何種類かの草を混ぜ合せ、薬草の効力を高める方法と、もうひとつは、意識の働きによって治療者の体の中に治癒力を湧出させる方法であった。

夏の間、ヘリの董陶を受け、遂にイエスは自分の体の中に治癒力が湧き出るようになるのを感じた。そしてその力を病人に与える方法や、その力が尽きた時に補給する方法も会得することができたのである。

ヘリは、この少年が常ならぬ若者であることを感じ取っていた。彼の魂は強靱で、肉体は治癒力の倉庫にふさわしく清らかであった。彼は、医者として求められる、生命力の増強に適したあらゆる条件を備えていた。ヘリは細心の注意力をこめてイエスに言った。

「お前は、大人になったら、さぞかし大きな働きをするようになるだろうよ。でもな、断わっておくが、お前の力は、お前に心を開き、お前を信じようとしない限り癒すことができないよ。だから病人を見て、どうしたらこの人に信仰を持たせることができるかどうかをよく見極めた上でやることだね」

朝早く、日の出の頃をみはからって、ヘリはイエスを座らせ、治癒力を豊かに備えている目に見えない体(霊体、幽体)に刺戟を与え、その力をひき出す業を施した。この業を通して語られた知恵の言葉によって、イエスは、此の世のものではない天の知恵に充ち満ちた平和と甘美を味わったのである。

イエスは、週に3回ほど、陽が沈んでから、ナザレの丘のふもとまで降りてきて、マリヤ・クローパスと幼いヤコブと逢い、食べ物と様々な情報を受けていた。ある日のこと、幼いヤコブからとても悲しい報せを聞かされた。多くの人々が高熱にうなされているという報せであった。

ヨセフが可愛がっていたレアまでも高熱にやられ、危篤状態になっていた。イエスはころげるようにヘリの処へやってきて、ヘリに薬草を持ってナザレに行ってくれないかと哀願した。ヘリはうつむきながら答えた。

「私がナザレに行けば、みんな私めがけて石を投げつけるだろうよ。私がナザレを出るときには、私のことを砂漠の犬と罵ったくらいだからな。どうして私を軽べつした人々の手で私の平和をこわそうとするんだ。私は2度と町や村には行かないと心に誓ったんだよ。では、こうしようじゃないか。私がこの小川で休んでいる間、レアのことを観察してはどうだろう」

「此処から5キロ以上もある所で寝ている子供を、しかも4つの壁に囲まれている部屋の中をどうやってみることができるんですか?」「しっ!だまって。レアがこの小川の水面に映るかもしれないぞ!」ヘリはそう言いながら小さな岩で囲まれた池の水面を見おろしていた。

ひな鳥が母親の翼の陰でゆったりとしているような1日が流れた。やがて夜になってから、ヘリが頭をもたげながら言った。「こんな馬鹿げた連中には、レアの病気なんか治せっこないさ。みんなレアの周囲をびっしりとりまいているだけなんだ。

レアの熱はどうも最高に達しているようだが、僅かばかり体力が残っているから、もう3日間ぐらいはもつだろうな。今週の終り頃、安息日(土曜日)が来るまでは、死の天使の手にはかけられないだろうよ」とのことを聞いていたイエスは、もっと強くヘリに行ってほしいとたのんだが、頭をたてにはふらなかった。

「そうだ、お前の体に治癒力をみたしナザレに行かせよう!水がいっぱい入っている水差しのように、お前の体の中に治癒力が充満していれば、きっとお前が妹の生命を救えるかもしれない、少くとも死の道をたどっている苦しみを和らげてやれるはずだ」

イエスは、否応なしに彼の言うとおりに従った。それからヘリは、一昼夜の間、少女の体を蝕んで死に追いつめようとしている悪霊に打ち勝てるだけの強い力をイエスに授けるのに全力をかたむけた。ヘリは1時間程やすみを入れ、空飛ぶ燕のように心を解放した。弟子もよく師の言うことに従った。

もう一度あの小川の池を覗きこんだ。「ああ!レアがひどい熱にうなされているのが見えるぞ!お前の母さんがレアの部屋には居ない。馬鹿な連中が大勢レアのベッドの周囲でベチャクチャお喋りしてやがる、一体病人をなんだと思っているんだ。野性の驢馬のように大声で喋っていやがるんだ。お前の父さんは、どうしたらよいかわからずに、家中をうろうろしているだけだ」

イエスは言った。「ねえ、僕もう行ってもよいでしょう?」「いや、まだ早い」「レアが死んでしまったらどうするんですか。ただ、じっとここで彼女が死ぬのを待っているんですか」「お前が彼女を救うときがまだこないのだ。お前の体は疲れている。それじゃなんにもならないんだ。治癒力がまだ充分じゃないんだよ」

「愛するレアが死んでしまう!」イエスは両手をねじり、頭を垂れ、初めて味わう深い悲しみにわなわなと手足をふるわせていた。ヘリは鋭い口調でイエスに言った。「私の言う通りにしなさい!そうすればレアは助かるだろう。私にさからえばレアの生命は保証できない!」

イエスはもう何も言わず、賢者の後に従って山から降り、湖の岸辺までやってきた。ヘリは何時間も黙っていることがあった。この夜ばかりは彼の無言はこたえた。2人は無言のまま歩き、小山の処に来て乾いた葉を敷いた。ヘリはただひとこと「ねなさい!」と言った。イエスはそこで横になった。湖畔の柳の樹々が星の光をさえぎっていた。深い眠りが彼の瞼を閉じさせた。

イエスが目をさましたときは、あたかもリンゴの花の満開のときのように、熟睡のあとの爽やかさを味わった。そのとき、ヘリが遂に口を開き、イエスに命令した。

「ただちにナザレに行きなさい。右にも左にも曲がらずに、真っすぐお父さんの家に急ぎなさい。お前が悪霊をたたき出すんだ!お前が偉大な霊の力から流れ出る美しい旋律の容器となって働くのだ。ひとつだけ忠告をしておこう。恐れないことだ。

恐れることは霊力の援軍を裏切る行為なのだ。怒ってはいけない。また悲しみに負けてはならない。感情に負けて理性を失わないように気をつけるんだ。感情でぐらついた体や心は、偉大な霊の力に仕えることができないからだ」

イエスは頭をたてにふり、彼の親切な忠告に充分気をつけますと返事をした。イエスはまたたく間に姿を消した。イエスに知恵を伝授したこの流浪の人は溜息をついて、独り言を言った。

<彼は自分では気付いてはいないが、もうすでに1人前の教師になっている。何年も苦労し、食を断って修業した私にも、まだ与えられていない大きな霊力がすでに備わっているようだ。彼ほど心の美しい汚れのない人間は他に見たことがない。娑婆で汚されなきゃいいのだが>

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38 最初の奇跡…妹レアのために

レアの部屋は女たちでいっぱいだった。彼女たちは、なんだかんだとお節介をやいていた。ある女は、田舎で知られている様々な療法を施していた。しかしどれもみな効き目がなかった。熱はますます高くなり、レアはうわごとを言い出し、頭は焼けるように熱かった。

ヨセフはレアの傍に座り、頭を低くたれ、目はどんよりとして無気力であった。ヨセフは苦しむレアをまともに見ることができなかった。回復の望みは一切断たれてしまった。彼はまるで墓場の幽霊にでもとりつかれたような姿であった。うめき声が止み、瞼を閉じて少女は静かになった。

「もう臨終だわ」と女たちがささやいた。クローパスがお祈りをしようと言ったので、みんながひざまずいた。静まりかえった部屋で、ヨセフのすすり泣きだけがきこえた。マリヤは小部屋に居た。そのときイエスが家の敷居の上に立っているのに気がついた。

マリヤの目には喜びと絶望が去来していた。イエスは、ひざまずいて祈っている女たちの間をくぐり抜けてレアの傍に立ち、両手をゆっくりとレアの腕においた。彼女を慰め、癒しを施した。すべてが順調に運んでいった。誰も彼がするのを止めなかった。

ただ、何れ我が家にもやってくるかもしれない死の天使に戦いているのであった。イエスはレアの手をにぎりながら話し出した。樵が斧をふり上げて、樹に打ちこむように、あたりの静けさを破った。「レア!目をさまして起き上りなさい!」

そのときレアは、両目を開けてベッドのわきに降りて真すぐに座った。そして呆気にとられている父母の方を見ながら長い髪の毛をかきあげた。イエスはもう一度言った。「レア!床につきなさい!もう病気はなおったよ!」

レアは彼の言う通りにした。なごやかな表情がありありと顔にあらわれていた。ほっぺたは色づき、傍に立っているイエスの顔を見つめていた。イエスはなおもレアを見すえたまま唇を動かし、額からは大粒の汗がにじみ出ていた。男も女もひとことも語らず、イエスがいつ死の天使と格闘して捻じふせたかも知らなかった。

ただ最後の方で、イエスが身をかがめて妹の顔を拭いてやったり、手足をきちんとなおしてやってから、「さあ、レアはもう直ぐ元気になるよ!病気が治ったんだよ!」とイエスが言ったときに、ようやく我に返ったのである。

よろけるようにイエスは出口を探し、土の上に寝そべって、じっと動かないでいた。呆気にとられて黙っていた人々は騒めき出し、イエスの仕草を見つめていた。幼いレアはぐっすりとねむっていた。ヨセフが手を額に当ててみると、もうすっかり熱がさがり、平熱になっていることがわかった。また耳をレアの口元に当ててみると、呼吸も正常にかえっているのがわかった。

「イエスは、私たちのためにレアを返してくれたのだ!!」ヨセフは夢心地であった。「イエスに歓迎の挨拶をしましょうよ」「いや、歓迎どころじゃないよ!おれはイエスに謝らなくちゃね!」

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39 ヘリとの固い約束(神癒の禁止)

マリヤの3番目の息子“ヤコブ”は外見の好い少年であった。彼は目上の人の言うことにはなんでも従った。そのためにはいつも自分を殺していなければならなかった。それで彼は学校の教師はもちろんのこと、彼を知っている人々からは模範的な少年と言われていた。

細面で薄い唇の少年は熱心に教師の言うことに耳をかたむけていた。彼は聖書の言葉をすばやく暗記してしまったのである。しかし彼の知識は、ただ機械的に暗記したものであったので理解とは程遠いものであった。

レアの神癒が行なわれた翌日には、家族の順番が一変していた。従来は、イエスに対するヨセフの悪感情から1番末席であったのが、突然最大の待遇をうけ、父の右側に席がもうけられた。今までイエスの悪口を言ってた隣近所の人々からは、とても親切で優しい言葉がかけられた。彼はいち早く人気者になり、あちこちから相談をかけられるようになった。

父ヨセフも弟たちにイエスを大事にするように命じた。家の中には、まるで別の主人が居るようであった。けれどもイエスは決して思い上ることなく、穏やかな徴笑をうかべながら彼らのもてなしを断わった。

ある日のこと、三男のヤコブがイエスに話しかけた。「お兄さんは、今まで散々悪口を言われていたのに、今度の奇蹟でみんなから崇められるようになり、先輩の長老たちまでお兄さんの言うことに耳をかたむけるようになりました。一体だれからそんな力をいただいたのですか?僕なんかは、ただ聖書を暗記しているだけで、どこから引用されているかは全然わからないんです」

「その通りだよ、学校の教師は言葉の意味なんかは教えてくれないよ。僕は前から、こんなことでは何にも勉強にはならず、聖書の意味を識ることはできないと思っていたんだ。だから学校に通っていた頃は、教師のことなんか眼中になかったんだ。

全く馬鹿げていたのでがまんできず、遂に教師も僕のことを悪く言いだしたという訳さ。それに反して、あの流浪者ヘリは、すばらしい知恵の主であることがわかったんだ。彼からヘブル語で聖書を読むことをおそわり、聖書の解釈をならい、遂にエルサレムからやってきた偉いパリサイ人の前で堂々と聖書を読むことができたんだよ。その上、レアが死にかかったときも、病気を治す業を教えてくれたんだ」

このことを知ったヤコブは倒れんばかりに驚いて言った。「僕は、癒しの霊力は欲しいけど、あの乞食みたいなヘリとつきあうなんてごめんだな!どんなに聖書のことが明るくなっても、あいつの仲間だと思われたくないですよ。だってヘリは、罪人で悪魔と一緒に暮らしているそうじゃないですか」

イエスは言った。「善人はとかく悪人よばわりされるもんなんだ。ヘリを非難するやつは一体誰なんだ?彼の本来の姿を教えてやらなくちゃ」

「ナザレの律法学者が言うには、流浪の民族は碌なことしかやらないんですって。モーセを通して顕われた神様を拝まないというではありませんか。ヘリは漁師の家で食事をするときには手も洗わず、お祈りもしなかったので土間に座らされたそうですね。

なんでも僕たちが尊敬しているエルサレムの偉い人たちを散々こきおろしたそうです。あのミリアムおばさんも、ヘリの目には悪魔が住んでいると言ってましたよ。ミリアムおばさんの子供をにらみつけたとたん、悪魔が体の中に入りこんだそうです。お兄さんたちがエルサレムに行っている間に、ミリアムおばさんが音頭を取って、ヘリをナザレから追い出そうとみんなが石の雨をふらせたんですよ」

「あの女の口には猛毒があることをみんな知ってたくせに」「でもね、今度ばかりはナザレの律法学者も後押しをしてね、ヘリは悪魔と通じ合っていると言いふらしたんですよ。それに最初に石を投げつけたのも律法学者だったんだそうですよ」「昔の預言者も同じ目にあったんだ」

「でも僕はヘリから教わるのはいやなんです」「滅多にないチャンスじゃないか。ヘリこそ100年に1人しかあらわれない人物だよ。これから僕はヘリの処へ行かなくちゃ。お前も一緒においでよ。お前の夢が叶うように祈ってあげようではないか」

「僕の夢ですって?」「そうとも、お前は、エゼキエルかあるいはイザヤのような立派な預言者になりたいんだろう?」「そうだけど…でもやっぱりヘリから教わるのはいやです!あれは悪魔ですからね」イエスはささやくように呟いた。

「民衆と律法学者だけがヘリのことを悪人だと言っているんだよ。昔から正義をおし進めようとした預言者たちも全く同じ目にあったんだよ」ヤコブはイエスの言った最後の言葉には耳をかさず、自分の本心を口にするだけであった。イエスは悲しそうにこの少年を見つめ、吐きだすように言った。

「どうしたらお前に大切な知恵を分けてあげられるだろうか。お前の心は全く閉ざされてしまっているんだ。お前には、此の世のことしか眼中になく、知恵者と称する偽善者の言うことしか耳に入らないんだ。ヤコブ!お前の心がきれいにならなければ、お前の正しい理解力を縛りつけている鎖を解きほぐすことはできないんだよ」

「もうそんなことは沢山です。ヘリは悪魔なんです。長老たちもみんなそう言っています。砂漠をうろつくような放浪者はみんな放蕩者なんですよ!」

イエスが再びヘリに逢いに行ったとき、彼は荷物をからげて旅に出るところであった。イエスはあわててたずねた。「どこへ行かれるんですか?」「もうこれ以上は長居できんのだ。仲間も待っているからね。焦げつくような夏になると、干からびた砂の中に隠れている水脈を見っけてやらにゃならんのだ。それに病人を治したり、薬草を岩山のごつごつした処に育ててやらねばならんのだ」

イエスはヘリに、1日も早く戻ってきてほしいとたのんだ。「私はもう3年は帰ってこないだろうな。その間は、お父さんに仕えるんだよ。近所の人たちがお前に病気を治してほしいとたのまれても、決してひきうけてはならんぞ。お前に伝授した薬草でも使ってはいかん」

イエスはどうして力を隠し、悲しんでいる人たちに背を向けなければならないかときいた。「将来、お前が大人になったら、きっと大勢の病人を癒すことになるだろうよ。手足の不自由な人たちを歩かせ、目の見えない人たちに見えるようにしてやるだろうな。今お前がそれをひき受けたら、必ず失敗するということをよく憶えておきなさい!

なぜなら、お前の近所の連中は、お前を赤子のときから知っているからだ。連中の心の中に信仰をひき出すことはできないからなんだよ。霊力による癒しの業は、神を信じる者に与えられるんだ。お前のことを褒める者がいても、それは必ずお前を憎む集団になるんだよ。それは嫉妬のなせる業なのだ。

嫉妬という毒には、何ものも敵わず、病気を回復する力さえ失わせてしまうのだ。お前の時が来るまでは、丘の上で天の御父と交わりを続け、独りでお前の理性と体を立派に鍛えあげるんだ。私が再び戻ってきたときには、お前はきっと、自由に癒しの力を駆使できる者になっているだろうな。我が兄弟よ!さらばじゃ!」

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40 金持ちの依頼を断わる

ひと夏の間、熱病は多くの人々を襲った。ナザレは日に日に嘆き悲しむ声で充満していた。女たちの泣き声や嘆きは頂天に達し、若者も老人もすべて明るさを失い家の中に閉じこもっていた。そんな状況の中で、イエスの話が伝わった。正直言って、その頃はナザレの人々にとってヨセフや家族のことはどうでもよかったのである。イエスのことを耳にした連中がやってきて言った。

「なんでもあんたの息子さんが、癒しの術を弁えておられ、妹さんの病気を治されたとうかがいましたが」ヨセフは鼻を高くして言った。「あそこをご覧なさい。庭で飛んだり走ったりしているでしょう。あの子がひどく熱病にゃられ、危篤状態までいったのです」

この言葉を聞いた人たちは、喜びと驚きの声をあげた。彼らはヨセフに哀願した。是非その時に使った薬草で病人を治してほしいと言いだした。ヨセフは説明した。

「息子イエスは、その薬草で治したのではありません。妹の病気を治したのは、彼の体とその中に宿っている霊の力によるものだったのです」1人の客が言った。「そんな馬鹿な!薬草と患者の血が混じり合って熱を追い出したんですよ」

ヨセフはむっとして言った。「レアの病気を治したのは、イエスの霊力だったんですよ!私は嘘は言いません!」「いやいや、どうも。私たちはただ、お宅の息子さんに来ていただいて、我が家から忌まわしい熱病を放り出してほしいんですよ。ぜひ息子さんにたのんでくれませんか」

ヨセフは答えた。「あれは今外出しています。でも帰ってきたらたのんでみましょう」「息子さんが病気を治して下さったら、もちろん、たっぷり御礼をするつもりなんです」近所の人々はイエスに期待して帰っていった。

ヘリが与えた忠告は、イエスにとって彫刻刀のように鋭くひびいた。ヘリと別れを告げて帰ってくると、父ヨセフが先程のいきさつをイエスに伝えた。イエスはきっぱりと答えた。「僕はどんな病人のところにも行きません。僕はもう2度と病気を治すようなことはしません。別に医者を探すように言って下さい」

「お前、まさか失敗することを恐れているのかい?お前はレアの生命を立派に救ったじゃないか」「はい、それは本当です」魚問屋の“ハレイム”さんがやってきてな、急いでお前に来てくれと言うんだ。今にも若い細君が死にかけているんだ」

「僕はもう病人なんかで煩わされたくないんですよ」「ハレイム…て言えば、ナザレ中に聞えた金持ちだ。あの方の要求だけでもきいてやれば、きっと舟の建造をこのわしにやらせてくれるにきまっているよ」

「僕のときがまだ来ていないんですよ、お父さん」イエスはやるせなく、溜息をついた。随分大勢の人々が熱病で苦しんでおり、イエスの助けを欲しがっているのを知っているだけに、ヘリの忠告がイエスの心にずっしりとのしかかっていた。

ヨセフは苛立ってきたが、命令することもできず、マリヤと一緒になって絶望のどん底に喘ぐ魚問屋の名をあげながらイエスに哀願した。イエスは、つっ立ったままで、額から大粒の汗が流れだした。両手をきつく握りしめ、静かに祈っていた。マリヤもヨセフの傍に居て、何とか良い返事をひき出せないかとイエスの顔をじっと見ていた。

「やっぱり、僕には、僕には、できないよ!」イエスは、ヘリとの約束に板ばさみになって、どうすることもできなかった。ヨセフはなおもイエスに哀願した。

「お前がやらなきゃ、近所の連中がどんなになるか、わかってくれ。お前が変な意地を張って、困っている人たちを無視すれば、どんなに私たちがひどい目にあうかわかりゃしない。お前には立派な治癒力がそなわっているじゃないか。レアを死の淵から引きあげて、恐怖を吹き飛ばしてやったじゃないか」

「あれはね、レアが僕のことを天使のように信じてくれたからなんですよ。でもこの人たちは僕のことをただの大工の息子と思い、しかも、中には、昔教師や律法学者が散々悪口を言ってた息子だと思っているんですよ。そんな人たちに効き目があるはずがないじゃありませんか」

こう言い残してイエスはヨセフとマリヤの前から立ち去った。2人はただ呆然と空を見上げ、空しく星空を眺めているだけであった。

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41 慈悲の父ヨセフ

魚問屋のハレイムは、別の大工に船の建造を依頼した。しかしヨセフの設計を生かしてくれたので、からくもヨセフは仕事にありつけた。マリヤは言った。「これは神様の思し召しですよ。これだけでも感謝しなくちゃね」

イエスが立ち去ってから7日が過ぎた。彼からは何の音沙汰もなかった。8日目の朝になって、ヨセフの姉マリヤ・クローパスがヨセフの処にかけこんできた。着物が乱れており、ベールもくしゃくしゃだった。夫クローパスが職を失ったことを告げにきたのである。

「夫に仕事をくれていた商人が、次から次へと流行病で死んでしまったの。だから今では夫に仕事をくれる商人が1人もいなくなって…パンを買うお金もないのよ」悲しみながら彼女の話を聞いているうちに、マリヤは昔何回も自分たちが困っているときに助けてもらったことを思い出していた。

そこでヨセフに、昔彼の知らない様々な助けを受けていたことを話し、先頃エルサレムでパリサイ人からもらったお金を用立てたらどうかと言った。ヨセフはじっと考えてから言った。

「そりゃいい考えだ。クローパスが仕事が見つかるまで、それでなんとかやりくりするといいね」マリヤ・クローパスが言った。「でもあれはイエスの勉強のためにいただいたお金じゃないの。どうしてそれを勝手に手をつけるの?」

ヨセフの表情が暗くなった。マリヤがすかさず答えた。「その中から私に預けた分があるの。なんでもイエスが言うのには、本当に困っている人がいたら、このお金をあげてちょうだいって」

これを聞いてマリヤ・クローパスは、そのお金をおしいただくように受け取って帰っていった。マリヤとヨセフは2人きりになり、互いに深い悲しみに襲われるのであった。<イエスはまだ帰ってこない>と溜息をついて2人はひとことも口をきかなかった。

9日目になってイエスは家に帰ってきた。顔にはありありと空腹感があらわれ、骨と皮になって現れた。全身が空腹と疲労でわなわなとふるえていた。ヨセフは手にしていた道具を放り投げ、急いでかけより、<よく帰ってきた!>といたわりの言葉をかけ、マリヤに熱いスープをつくるように言い、急病人のためにとってあった少量の葡萄酒をもってきた。

マリアが急いで食事の仕度をしている間、ヨセフは水差しに水をくんできて彼の血がにじんでいる泥足を洗い、額を冷やし、そーっと床の上に寝かした。暫くして彼は眠り始めた。

「だいぶたってからマリヤはイエスを起こし、食物を与え、葡萄酒をのませると、彼はすっかり元気を回復した。マリヤは、イエスが草も木も生えていない荒野をさまよって、わずかな野いちごしか口にしていないことがわかった。イエスはどうしてこんな寂しい荒野をさまよったかを言おうとしなかった。

トマスが入ってきて両親に言った。「お兄さんが荒野をさまよっている間、僕はずっとお父さんの仕事を手伝っていたんだ。いつでも僕はお父さんの言いつけを守っているのに、どうしてお兄さんは勝手に出ていってお父さんの言うことを聞かないんですか。

挙句のはてには疲れはて、お父さんのベッドに寝かされ、僕たちにはひどいパンしかくれないなんて。お兄さんには肉とおいしいパンをあげ、家の中にあるいいものはみんなお兄さんにあげちまうんだから。何のために僕が一生けんめい働いているのかわかりゃしないよ。全く頭にくるよ!」

マリヤが言った。「私たちはね、イエスがもう2度と帰らないんじゃないかと思ったのよ!」ヨセフもすかさず言った。「その通りだ!野たれ死にしたんじゃないかと思った者が見つかったんだ。再び生き返ったんじゃないか!」

トマスはなおもふくれながら不平を言った。「まずいパンと濁ったミルク、これが僕たちが一生けんめい働いた報酬なんですか?もう僕はがまんできません。僕はピリポ・カイザリヤかティベリヤの町へ行って、誰かにやとってもらいます」

ぶっとして家をとび出したトマスの後を追ってヨセフはトマスの服をきつく掴んだ。父の強い力に引っ張られたトマスは立ち止まった。父はトマスに戻るよう説得した。

「トマスや、わたしのものはみんなお前のものではないか!何か欲しいものがあるなら言ってみなさい。きっとお母さんが心配してくれるだろうよ。お前は我が家の大黒柱なんだ。今からなんでもお前の思う通りにするがいいさ。だから家に戻っておいでなさい。お前が心を広くしてくれさえすれば、イエスも家からとび出さないで、みんなと一緒に暮らすようになるんだから」

トマスは不承不承家に帰ってきた。しかし兄弟とは口もきかず、両親の楽しそうな会話には、そっぽを向いていた。この時から、トマスとイエスの関係は決定的に悪くなった。

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42 ヨセフの重い病気

ガリラヤの喜びの歌声は飢えに苦しむ叫び声に変わり、笛やコーラスはすすり泣きに変わってしまった。熱病が猛威をふるった夏が過ぎ、きびしい冬がやってきた。いたる所大飢饉にみまわれた。外国から役人が食糧を買いあさりにやってきて、ほんの僅かな収穫でも多額の金で買いとった。

町中の欲ばり連中は、畑の隅から隅まで血まなこになって落穂を拾い集めた。貧乏人は寒さと飢えで次から次へと死んでいった。まことにひどい冬が荒れまくったのである。

ヨセフには沢山の仕事が舞いこみ、金持ちになっていった。飢えた羊飼いや農民がやせおとろえているのに、ヨセフは豊かであった。しかし彼は稼いだ金を貯めようとはせず、穀物や無花果を高い金を出して買い求めては、常時彼を頼ってくる旅人や孤児たちに与えていた。親戚の者がそんな鷹揚なふるまいを諌めようとすると、ヨセフは反論するのであった。

「貧しい隣人たちを忘れてはならない。もしも母子だけの家庭や孤児が困っているのを忘れるくらいなら、小麦のかわりに薊が生え、大麦のかわりに麦撫子が生えればよいさ。もしも飢えている旅人を見て彼を入口からしめ出すくらいなら、私の鋸の歯がまるくなり、のみが錆びつき、プラタナスの木々が倒れ、斧の刃が私や息子たちを切りきざむほうがましだよ」

ヨセフの親戚たちは呆れかえり黙って立ち去った。しかし陰では<あんなことしていると、いつかは乞食みたいになるさ!あのお人よしには全くあきれたもんだ>とささやいていた。

ヨセフは息子のトマスやイエスと一緒に金持ちの農夫のために、夜中まで働いていた。その日の仕事が終るとき、賃金を受けとるのであった。マリヤは、山から訪ねてくる飢えた人々や、困っている子供、さらに漁師の家族たちに食物を与えていた。その冬は特に不漁が続き、小さな魚さえとれず漁師たちは毎晩空っぽの網を浜辺に広げ、腹をすかせていたのである。

春がやっときて悪夢のような飢饉も去っていった。ヨセフは過労がたたり、重い病気にかかってしまった。昔うけた背中の傷が痛みだし、腰の痛みも劇しかった。やはり井戸に落ちて重傷を負ってからは、彼の体は完全ではなかった。

今度ばかりは余りの痛さのために、遂に寝こんでしまい、立ち上ることができなかった。そこで風在のよい若者、トマスが父の代りに親方になり、木工技術に関するすべての采配を振るった。もちろん兄であるイエスも彼に従った。

しかしイエスの技巧は未熟で、どちらかといえば木工作業には余りむいていなかった。鋸で真っすぐに切ったり、鎚を上手にかけることができなかった。弟であるトマスには彼がグズで、頓馬に思えた。トマスは口の悪い礁たちと付き合っていたので、心の底までひねくれていた。

トマスは兄に向かってどなるのであった。「このうす馬鹿者めが、鋸の背中で木が切れるとでも思うのかよ!おめえがそれを使うと、歯がボロボロになっちまうよ」こんなふうにイエスに八つ当りしていることを聞いたヨセフは、床の中からトマスに言った。

「トマス、そんなふうに兄を責めないでおくれ。彼は母さんの若いときに似ていて、いつも夢を見ているので、手の方がうまく働かないんだ。そこへ行くとお前は本当に私の子だ。わしに似て手先きも器用だし、大工として立派な才能も備わっている。わたしは本当にうれしいよ。

お前がそうやって働いてくれるので私の唯一の慰めであり、弱っている私の支えになっているんだ。だからお前も、もっと賢くなって、その熟練の腕をふるい、イエスには優しくしてやってくれないか。

これでも母さんがやっきになってイエスの腕を磨こうとしているんだが、あまり効果がないとは思うがね。兄をいたわってあげなさい。彼は商売の経験もないし、腕もないから、きっとこの家の家長にはなれないだろうな。なにしろ家長は、一家を支えていかねばならんからねえ」

ヨセフの忠告があってから、トマスはますますつけあがってしまった。彼は公然とイエスを軽蔑し、彼の弟たち、ヤコブ、セツ、ユダをひきこんで、彼を嘲った。遂にイエスの仕事といえば、材木はもとより、ときには重い石材を運ばせるようになった。それを弟たちは手伝おうとはしなかった。

ヘリが立ち去って1年が過ぎた頃、イエスは母に言った。「冬の間中お世話してあげた羊飼いが僕に山へ来ないかと誘って下さるんです。僕を1人前の羊飼いにしてやるというのです。お母さんが許して下さるのなら僕は喜んで彼の言う通りにしたいんですが。山は僕にとって本当に良い友達ですし、空の星は人の手で作った屋根よりもずっと親切なんです」

マリヤはそんな荒野に行かないでほしいとイエスに懇願した。「強盗にでも襲われたらどうするのかい。第一、羊の番なんかは、大工の息子が手がけるにはとても卑しい仕事じゃないのかい。お父さんだってきっと賛成しないと思うよ」それでイエスはその話は思い止まって、大工の仕事を続けていた。相変らず弟たちから馬鹿にされながら。

セツがトマスに言った。「お兄さん、イエスはあんなに馬鹿にされても、よくも毎日あんなに愉快そうにしていられるね」ヤコブが答えた。

「そうだとも。やっはいつも真理をまじめに追究し、自分の欠点なんか棚にあげてやっているんだから、ニコニコしていられるんだよ。第一、やっは安息日なんかそっちのけなんだ。仕事が終ると伯母さんの家に行って、従兄弟のヤコブやヨセフと一緒に働いて、クローパス家の手伝いなんかしているんだ。この3週間とも、やっは安息日に会堂の礼拝にも行かないで、日の出から夜まで山の中をほっつき歩いているんだからね」

弟たちは口を揃えて父の前でイエスのことを非難した。さき頃、貧しい農夫の山羊が病気で弱っているのを見て、ちょうど安息日というのに、薬草を煮出して山羊にのませていたとか、独り暮らしの老人のために、またもや安息日だというのに、林の中で木を伐り出し、重い材木を運んでいたことなどを話した。

この話を聞いた父はイエスを呼んで、どうしてそんなことをしたのかと尋ねた。イエスは答えて言った。「困っている人たちを悲しませたくないんです。与える喜びはどんな宝石にも及ばない値打ちがあるんですね」

ヨセフは頭ごなしに言い放った。「6日間働いて、7日目には必ず安息日を守りなさい。働いて休むんだ。モーセの十戒を大切に守って、変な噂をたてられないようにしなさい!お前は安息日の掟を破った罪がどんなに重いかを知っているだろう!」父はきびしい調子でイエスに説教した。彼は黙ってきいていた。それ以来、弟たちから直接非難されることはなくなった。

トマスとヤコブの2人の弟は、次第にまともな考え方をするようになった。彼らにはあるひとつの目標があり、それが1本のローソクの火のように彼らの心を照らしていた。トマスは自分の夢を実現させるために、稼いだ金を貯えていた。彼はナザレを離れエルサレムに行って職人の親方になりたいと思っていた。

ヤコブは一家の家長としてすばらしい家庭と財産を築き、衣食住を豊かに暮らす夢を描いていた。彼もまたエルサレムにあこがれてはいたが、トマスとは少しちがっていた。彼はとてもまじめな少年だったので、彼は神殿の中に住みこんで毎日エホバの神に祈りをささげ、イスラエルの救済をねがうことであった。

この2人の兄弟は1本の軛(くびき)につながれている2頭の雄牛のようであった。2人とも1日も早く重荷をおろして自分の夢が叶うことを望んでいたからである。しかしイエスはこんな軛(くびき)につながれてはいなかった。彼は心の中に光を持ち、働くことを喜び、弟たちから馬鹿にされてもユーモアで応対していた。

長い間病床にあったヨセフもイエスにはもう説教などはしなかった。弟たちは父をあきらめてナザレの律法学者に相談していた。律法学者は必ずイエスを見張っているように命じていた。そして彼は、そのうちイエスが大罪を犯して失脚するだろうと預言していた。

ある日のこと、母マリヤはイエスを呼びよせて言った。「この2年間、お父さんは病気で苦しみ、春がきたというのに痛みはますますひどくなってね、とても気の毒なのよ。お願いだから、レアを生き返らせたお前の秘密の力をかしておくれでないか」

イエスは母の要求をきいて悩み始めた。母を心から愛していただけに、断わるのがとても辛かった。ヘリからあれほど警告されていたにもかかわらず、彼はひき受けてしまったのである。週の始めの日(日曜日)の夕方、弟たちが仕事に出ている間に神癒を施すことになった。

病人の寝ている部屋では、マリヤとヨセフの姉の2人が準備をととのえていた。2人の敬虔な女が見守る中で、イエスは静かに祈っていた。イエスが口にする言葉は彼女たちには全く解らなかった。

暫くしてイエスがヨセフの方に近寄り、ヨセフにとり憑いている悪魔に向かって、<出て行け!!もう2度とこの肉体に入るな!>と言った。2人の女は、そのときイエスの体から太陽の光線のようなものが発射されるのを見た。イエスは体をかがめながら、その光を懸命にヨセフの体に注ぎこんだ。

暫くすると姉のマリヤ・クローパスは、弟の体の上に雲のようなものが覆ってイエスの発射した光を呑みこんでしまうのを目撃した。折角の光が、その雲にさえぎられて患部に届かないのである。ヨセフの心の中に、イエスに対する信頼が失せていたからであった。

トマスやヤコブから散々イエスの悪口をきかされていたので、ヨセフの心は疑惑の重みにあえいでいたのである。イエスは烈しく呼吸をしながらもう1度悪魔払いを試みた。汗と涙がイエスの頬を伝わり、彼の顔面は蒼白となった。いかなる努力も空しく、ヨセフは横たわったまま苦痛の声をあげ、不信の目でイエスを見上げていた。

「僕には出来ません。父と私をつなぐ橋がどうしてもかからないんです」イエスは呟きながら炉端のそばにうずくまり、べたんと座りこんでしまった。戸口には、トマスやヤコブが立っていた。彼らは2度目にイエスが試みた悪魔払いを目撃した。天界よりの恵みの光をイエスが発射したにもかかわらず、父の不信によって悲しくも神癒は成功しなかったのである。

(註1)週の7日目(土曜日)のことを“サバト”(安息の意)と称し、ユダヤ人はこの日に一切の労働を休み、会堂に集まって神に礼拝をささげることが義務づけられていた。携帯する重量や歩行距離にも厳格な制限が加えられ、殊にパリサイ派の人々はこれらの掟を重視し実践に努力した。

従ってこれを破る者は重罪のひとつとみなされ、厳罰に処せられた。新約聖書の福音書では、イエスが十字架刑に処せられた最大の根拠として、安息日の掟を破ったことが直接の引き金となったと記されている。

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43 神様は何処に

母マリアでさえ、義姉から多くのことを知らされているのに、イエスのことを疑うようになった。彼女はトマスが彼を非難しているのを聞いていた。兄は偽善者だと。彼はもっともらしいことを言っているが、独善的であり徒らに時間を無駄にしているといって非難した。

そこにナザレの律法学者がヨセフのところにやってきた。「イエスからは目を離すんじゃないよ。あの子は安息日を守らずに風来坊の異邦人と附き合っていたんだからな。

やつらは札付きのごろつきどもで、捕まえようとしても仲々つかまらないそうだ。イエスは従兄弟のヤコブやヨセフまでもまきこんでいるようだ。だからマリヤ・クローパスにもこのことを教えてやったほうがいいと思うがね」

これを聞いた単純なヨセフは、血が頭にのぼった。しかし厳しく叱れば今度こそはイエスは家出して、羊飼いになりさがってしまうだろうと考えた。それから数日たってから、トマスが父の処に入ってきて早口で喋りまくった。

「ねえ、お父さん、イエスはまた安息日を破ったんだぜ。まずいことに今度はみんなに知れちまったんだ。もうはずかしくってたまったもんじゃないよ。会堂に来ていた連中がみんなおれたちのことを軽蔑し、おれたちの信用はこれでがた落ちだぜ」

トマスが喋っているところにイエスが部屋に入ってきた。ヨセフはトマスに部屋を出るように促してから、静かに話しだした。「トマスが言うには、又お前は安息日の掟を破ったそうだね」イエスは答えて言った。

「熱にうなされていた1人暮らしの老婆がいてね、どうしても見のがせなかったんです。僕がそばで見守っているうちに段々と熱がさがってきたのですが、今度は反対に体温がさがって冷えてくるんです。

このままだと死んでしまいますから、小枝を拾い集めてきて火をもやし暖めてあげたんです。それでこの老婆は生命をとりとめたのです。僕が薬草を煮出して飲ませたら手足の痛みもひいたのです。僕のやったことは悪魔の業でしょうか?神様に対して罪を犯すことになるのでしょうか?」

「安息日には、住まいの中で火をもしてはならんと記されているではないか!それなのにお前はその掟を破ったのだ。大罪を犯したとは言わぬが、安息日のを破ったと言ってるんだ」「安息日の掟は、人のためにつくられたものです。人は安息日の掟のためにつくられたのではありません!!」

イエスはそれ以上のことは何も言わなかった。突風が木々をゆさぶるような激しい怒りがこみあげてきて、イエスの体をわなわなと震わせるのであった。部屋の外でこれを盗み聞きしていたトマスが部屋に入ってきた。父がとめるのを無視して、興奮しながら早口で言った。

「この恥知らずめ!お前のお陰で家中が滅茶苦茶にされちまったんだ。お前のいやらしい台詞は誰かさんの受け売りにきまってるわい。あの小汚い乞食や札付きのごろつきと付き合ってるからこうなるんだ。

おれたちは町の人から仕事をもらってメシの種にありついているんだ。みんなお前のことを知ったら、おれたちはメシの食い上げだ、その上このナザレからたたき出されちまうさ」

トマスが息急切ってここまで怒鳴りちらすと、まるで犬同士がキャンキャン吠えるような勢いで、ヤコブが怒鳴り始めた。「あんたは3週間も安息日をさぼって、山に行き、会堂に行かなかったんだよ!」すかさずイエスは言った。

「神様は、山の頂上と会堂と、どちらに近くおられると思うのか?はっきり言っておくが、僕はいつも山の高い処におられることを体験しているんだ。会堂にはいつもおられるとは限らないんだ。神様はね、日の出の静けさの中におられるんだよ。

聖霊は野の百合のような静けさの中に注がれ、銀色に輝く湖の上を渡ってこられ、ギルボアの連山からも、カルメル山の白雪からも、ガリラヤの谷からも、高い青空からもやってこられるんだ。神様は、夜明けと共に、静かな所で深い交わりを与えて下さるんだ。神様と全くひとつになるときは、人から離れていなければできないんだよ」

ヤコブとトマスは、同時に口を開こうとしたので父ヨセフは手で彼らを黙らせ、2人の弟の訴えを取り上げるつもりで言った。「イエスや、私は、お前が家をほったらかしてどこへ行こうが、かまいやしない。大目に見てきたつもりだが、かえってそれがよくなかったようだ。

結局、弟たちを困らせる結果になってしまったのだ。お前は病気の老婆を救うために小枝を拾い集め、安息日を破ったと言うが、どうして安息日以外の週日にそれをやらなかったのかい。こないだなんか、弟たちが一生懸命働いていたのに、2日間も朝から山を歩きまわっていたそうではないか。一体それはどういうわけなんだ」

「僕の仕事は一応義務を果しているつもりです。ノコの目立てをしたりして」しかしヨセフはイエスの言い分には耳をかさず、イエスがどんなに怠け者であるかを責めたて、弟たちの精勤ぶりを褒めるのであった。しかし火を吐くような熱弁をふるうイエスの前では、やかましいトマスでさえ自分の言いたいことを喋ることができなくなってしまった。

イエスは続けて語り続けた。トマスに言った。「直ぐにくさってしまう此の世の糧のために日々労する者は、永遠の生命を保証する“天の糧”を失ってしまうんだよ!お前はこの町で、腹を満たす食物を得ようとしているが、僕はあの山の上で、神様からの食物を得ようとしているんだ。

トマスよ、よくききなさい!僕はお前の心の中に記されている筋書きがちゃんとわかっているんだ。お前は1日の稼ぎでは満足できず、1枚1枚銀貨を貯わえ、将来職人の頭になって、エルサレムで旗揚げようと計画をしているようだ。

そう、ヤコブもだ。お前は、それこそ見当ちがいな慾のために働いているようだ。お前もトマスと同じようにこつこつと小金を貯めてエルサレムに行き、神殿の中に住みついて長い祈りをささげ、沢山の献金をしたいと計画しているようだ。お前は、ヘブル語を暗承しただけで、ちっとも聖書の内容を理解していないのだ。

祈りだって同じだ。成文祈橋(他人が作った祈りを文章にしてあるもの)を暗記してただ機械的にとなえているだけで、ちっとも心の底から祈ってやしないんだ。神殿という聖なる所に行かなければ至高なる神様に近づくことができないのかい?

神様を神殿の中に閉じ込められるとでも思っているのかい?山の上には来られないというのかい?ガリラヤの野辺ではたやすくお逢いできないというのかい?湖畔もかい?“平和”と“静けさ”があれば、どこにでも、神様に通じる道があるんだよ」

ヤコブはがっくりと頭をたれ、恥ずかしくて身がちぢむ思いがした。イエスが自分の心をすべて読んでいたからである。しかしトマスはピンとこなかった。自分の欲にとらわれていたからである。それでなおもイエスの悪口を言いだした。

「お前はなまけ者だ、ただ自分の楽しみだけを追っかけまわしているだけじゃないか」イエスは悲しそうに弟を眺めながら言った。「同じ母の胎から生まれ、しかも1歳しかちがわないトマスよ、なぜ同じ幻を見ることができないんだ。情けないことだ。僕に逆らってどんな得があるんだ。僕に答えてごらん、理性は肉体より勝っているんではないのか?生命は労働よりも価値があるのではないのか」

トマスはうす笑いをしながら言った。「そんな愚にもつかぬ謎に答えられるかよ、馬鹿馬鹿しい。おれはお前みたいなへそまがりな生き方は真っ平ごめんだぜ。父さんがおれをとるか、お前をとるか父さんに選んでもらおうじゃないか。もうお前となんか同じ屋根の下で仕事をやるもんか」

トマスはこんな捨てぜりふを残して戸口に立ち、サンダルのほこりをはたき落として家から出て行った。彼はナザレの律法学者のところへ向かったのである。

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44 父とは誰か

ある晩のこと、月が煌々と照らす頃、ナザレの中心にある井戸のまわりに若者が集まってきた。1日の仕事を終えてから生き生きするものを求めてやって来た。彼らはグループ毎に集まって話し合っていた。イエスがサークルを移動しながらみんなの話に耳をかたむけていた。

農夫のグループでは、鋤や種の植えつけなどが話題となっていた。牛飼いたちは、牛や草原のこと、あるいは荷運びの運賃のことを話し合っていた。葡萄畑の栽培をしている青年は、ぶどうの気まぐれなこと、ぶどうの収穫、ぶどう酒づくりのことを話していた。

ある者は、折角の稔りを邪魔された害虫のことや果物の減収のことをぼやいていた。オリーブ畑を持っている者は、樹木に関する豊かな知識を披露し、鍛治屋はかまどの温度のこと、陶工は、土のこね方や焼物の形のことを話していた。

そこに漁師たちがやってきた。彼らや古くなった舟や穴だらけの網のことをぶつぶつ言いながら、来年にはいいことがあるかもしれないなどと話し合っていた。昔は大漁で舟が沈まんばかりの魚を売って、かなりの収入があったのだが、今では漁師のとり分が少なく、魚問屋に売買をまかせているという。

職人たちがめいめい自分たちのことを話している間、イエスは黙って彼らに耳をかたむけているのであった。このサークルの輪が広がって、誰言うともなくナザレにやってくる旅人たちも井戸のまわりにやって来るようになった。旅人たちは自分の故郷のことや、ローマ軍の戦争、外国の町々の風俗などを語っていた。

そんな訳で、偉大な霊力の持主であるイエスにとっては願ってもない情報を得ることができた。イエスの唇は、閉じられたままではおかなかった。集まってきた若者たちに、それは実に機知に豊む譬話を話して聞かせるのであった。

マリヤ・クローパスの息子たち、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダなどもイエスの話がおもしろいので、夜の会合には欠かさず顔を出すようになった。イエスは、鳥や獣や花など身近なものを通して神様のことを説明し、争いのたえない此の世界に関する譬話を語るのであった。

マリヤ・クローパスの息子たちは全く夢中になり毎晩出席した。賢い農夫や職人と愚かな農夫や職人の見分け方とか、種蒔きの譬話、金持ちと貧乏人、乞食、孤児、多くの家畜を持っている人等々、実に豊富な話が沢山とびだすのであった。そうこうしているうちに、この噂が若者たちの間に広がり、おしかける人数も激増し、一体誰が来ているのかわからないほどになっていた。

さて、イエスが弟たちから悪しざまに言われた日の夜、いつものように重い気持ちで井戸のそばにやってきた。その夜には、まさか魚問屋ハレイムが来ているとは全く知らなかった。ハレイムがイエスに質問した。

「ナザレの丘の上で、夜明けにあなたの前に現われる御方がいると聞いていますが、その方はどなたでしょうか?」イエスは一瞬調子はずれの質問がとび出したのでためらったが、即座に答えた。

「私の天のお父様です。山に居るときには私の近くにいらっしゃるのです。町に居るときよりも一層身近かにいて下さるのです。本当に天のお父様とは静かな所でお逢いできるのです。その御陰で沢山のことを教わり、生き生きとさせてもらえるのです」

「あなたは、天のお父様のおっしゃった通りに実行していますか?」「はい、私はいつでも神様の戒を守り、愛のうちに住んでおります」驚いたことに、またもやそこにナザレの律法学者が来ており、ハレイムが続けて質問するのを押しとどめて言った。「その父とはどこに居るのじゃ?」

「父は私の中に居られます。私も父のうちに居ります。此の世の人々はその父を御存知ありません。しかしいずれ多くの人がこの静かな山の中で天の御父の知恵を探しにやってくるでしょう。そして私が御父と出逢ったように、彼らも天の御父を見出すようになるでしょう」

イエスは、まるで夢みる者のように話していた。天の幻が彼の魂を満たし、神の平和が彼を覆っていたからである。しかし彼の足元には2人の狡猾い男が蛇のように這いずり回っているのに気がつかなかった。イエスは、なおも言葉を続けて天の御父に関する秘密を語るのであった。

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45 弟トマスの家出

ヨセフとマリヤは暗い部屋の中でお互いの手を取りながら話し合っていた。話はもっぱら過ぎ去った若い頃のことで、子供がまだ与えられず、病気で苦しめられなかった時代のことであった。ひとしきり話した後で、突然ヨセフは、自分によく似ている息子トマスを呼んで言った。

「イエスはきっと羊飼いにでもなるだろうよ。このあいだもそう言ってたからね。イエスは家に居つくような子ではなさそうだ」マリヤがすかさず口をはさんだ。「そんなことは許しませんよ、最初に生まれた子を青年になるまでは我が家で育てなくちゃ。

トマスさえ寛大であれば、イエスだって家に戻ってくるわよ」「おれは絶対許さない!」とヨセフは怒鳴った。マリヤは続けて言った。「たった1人の息子でも家から追い出されたなんて思われたくないわよ!家は子供たちにとって巣のようなものでしょう。そんなことされたら、死ぬまで傷つくじゃないの!」

「イエスは他処へ行けばいいんだよ」ヨセフはベッドの横に立てかけてある杖で床の上を叩きながら大声をはりあげた。マリヤも負けていなかった。「私たちはみんなひとつになって此の屋根の下で暮らすのよ。イエスがいなければ、私たちは真二つに割れてしまうのよ!そんなこと許せるもんですか!」

マリヤは延々とまくしたて、ヨセフに迫るのであった。マリヤの話が終る頃にはヨセフの心もおだやかになり、イエスを呼んで言った。「お前はたしか羊飼いになりたいと言ってたね。私は今ではお前のやりたいことをさせてやろうと思うんだが」

「お父さん、もうあの話は済んでしまいました。ベタニアの若者がきまってしまいました。もう、空きがないんです。だから僕は家に居て仕事をすることにしたんです」

その日の夜、イエスはある人たちから耳よりの噂をきいた。井戸のそばでイエスの話をきいていた若者たちが、悪い習慣を捨て、とても善い生活を始めたという噂であった。イエスはうれしかった。彼らは、天の御父によって導かれた最初の果実であったからである。

マリヤも、イエスが家にとどまることを知ってとても喜んだ。マリヤは夫にたのんでイエスに忠告した。「息子イエスよ、もう放蕩は止めなさい。もっと賢くなって弟たちのように働きなさい。私が平和の祈りをしている間、お前は炉辺で休んでおればよいのだ」

ヨセフは、マリヤの意向を叶えてやったので、次にトマスを呼ぶように言った。ところがトマスの靴はあったが彼の腰には旅仕度ができあがっていた。大工道具の一式が入っている荷物が床の上に用意されていた。ヨセフは、ひとことも語らずに、彼の手をとり、トマスの顔をみつめた。

年齢に似あわず髭は長く真黒で、肩幅は広くがっちりとして、まるで樫の木のようであった。ヨセフは言った。「お前は私にとって長男のように思えてならんのだ。お前を誰よりも愛し信頼しているよ」トマスが父に言った。

「お父さん、僕はこの家の職場に居残って、お母さんや妹のために働きたかったのです」「わたしの職場は永久にお前たちのためにあるんだぞ。体を休める処もな」そこまでヨセフが言いかけたとき、トマスはそれを遮って言った。「でも僕は出て行くんだ!テベリヤ街道が僕を待っているんだ」ヨセフは叫んだ。「やめろ!やめろ!」

「お父さん、あなたがこうしたんじゃありませんか!」この若い大工は荷物をとりあげて入口の方へ向かった。彼はイエスの方を振り向いて、まるで毒蛇のようなひどい捨て台詞を吐いた。「おやじの家には、もうおれとおめえの居場所はねえんだよ!!おれたちは他人同然で、一緒に住める間柄じゃねえんだぜ」

イエスは何も言わなかった。トマスの顔をじっと見すえていたが、トマスは目を伏せながら、そそくさと門から出ていった。

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46 ねじ曲げられた出生の秘密

その後トマスからは何の消息もなかった。ヨセフは1日中愛する息子を失ったことを嘆いていた。イエスや三男のヤコブは腕が悪く、双生児の兄弟、セツとユダはまだ幼なかったので、誰も大工として1人前の働きができる者がいなかった。ヨセフは弱音をはき、乞食にでもなりたいと喚くのであった。マリヤは嵐で折られたような小枝のようにもみくちゃにされていた。

夫は1日中マリヤに当り散らした。イエスは母を慰めながら言った。「明日のことは何ひとつ心配しないで下さい。雀を見てごらんなさい。彼らは軒の上にとまって元気に暮らしているではありませんか。

種を蒔くこともせず、収穫を刈りとる作業もいたしません。今日1日に必要なものだけを集めてくるんです。私たちも鳥や木や花のように、すべてを天の御父さまにおまかせするんです。天の御父は決してお見捨てになりませんからね」

これ以上イエスは語ることができなかった。ヨセフが大声でイエスに、だまれ、と命令したからである。夕暮れになって灯がともされる頃になってもヨセフの声は嵐のように吹き荒れた。すっかり怯えてしまったマリヤは、入口の戸に鍵もかけず、誰かが訪ねてくるのを待っていた。

突然、ナザレの律法学者とトマスが入ってきた。トマスは偉そうな口調で母とイエスに、部屋の外に出ろ、と命令し、父のいる所へ律法学者を案内した。長い間2人はヨセフの部屋に居た。マリヤは悲しい思いで静かに見守っていた。彼女は、自分が怯えていることに気付いていなかった。

昔、食べるものがなくなって、鬼のような女ミリアムの戸口の前に立ち、乞食をしていた頃の辛い時代が去ってから長い歳月が流れたからであろう。暫くして律法学者と若者が何かささやきながら庭の方へ行った。

トマスだけが戻ってきて入口に鍵をかけ、イエスに向かって命令した。「お父さんの処へ行きな!お前に言いたいことがあるってさ」マリヤも一緒に行こうとしたが、トマスが母の肩を両手でおさえながら居間の方にひき戻して言った。

「だめだよ母さん、お父さんがイエスに言おうとしていることは、女の耳には入れられないんだよ」こう言ってトマスはその部屋に鍵をかけ、母をその中に閉じこめてしまった。

その部屋には妹が寝ていた。母は冷静に苦痛を受けとめ、数をかぞえながら、ゆっくり歩いたり、壁に映る自分の影の長さを測ったりしていた。彼女は余りの恐ろしさに、口にする言葉もなく、お祈りすることもできなくなっていた。

イエスが小さなヨセフの部屋に立っていると、ヨセフはまるで他人のような目付きでイエスを見ながら言った。「お前は大変な悪事を働いてくれたね。それがどんな結末になるか、わかっているのか?」「一体僕がどんな悪事を働いたというんですか?」

「とに角、私の話を聞きなさい。私が昔お前の母さんと結婚しようとしていた頃、母さんはすでに、お腹に子供ができていたんだ。ナザレにいた質の悪い女共がそれを言いふらしたので、ある人は、いっそのこと公開してしまったら、と忠告した。

しかし私は彼女を見知らぬ所に連れてって、其処でお産をさせたんだ。それがお前だったのさ。当時は、これでもちょっとした腕前の大工としてナザレ中に聞こえていたので、本当はナザレに帰ってきてメシの種にありつきたかったのだ。でもこんな事情では直ぐに帰れず、噂の熱が冷めるのをじっと待っていたんだ。

善良なおかみさん連中が亭主に口止めさせて、私の仲間には知られないようにしてくれてね。時というのは、眠りのようなもので、時がたつにつれてみんなの記憶から汚らわしい噂が消えていったので、遂にナザレに帰ってきて平和に暮らせるようになったのだ。ところがだ、お前の馬鹿なお喋りが眠れる昔の蛇をさまさせてしまったんだ」

イエスは叫んだ。「僕の出生については何ひとつ知らされていないのに、どうして僕が罪を犯すことになったんですか?」「それで、金持ちのハレイムのやつが、近所中に言いふらしているんだそうだ。

お前が丘の上で、お前のお父さんと一緒に歩いていたことを、井戸のまわりに集まっていた多くの若者に堂々と話したというではないか。それが大変な醜聞にふくれ上り、お前がナザレ中の若者を悪魔の道にひきずりこもうとしていると言うんだ」

イエスは反論して言った。「僕は地上の父親のことはなんにも言ってはおりません。僕は至高な気高い天の神様のことを御父と言っていたのです。天の父なる神様が静かな丘の上に居る私のところにあらわれて、将来僕が果さねばならない大切な働きについて話し合ったと言ったのです。

そのような天の御父の尊い御言葉をナザレの若者にわけ与えることがどうして大罪にあたるんですか?律法学者やハレイムは僕の言うことをねじまげて、僕をこの町から追い出そうとしているんです」

「お前はな、もうナザレには住めなくなったんだ」「そんなことはありません。僕はここに居てあの偽善者たちの化けの皮をひんむいてやりたいのです」

「そんなことはどうでもよいのだ。それよりもお前のお母さんのためを思うなら、今直ぐにナザレからこっそり出て行かねばならないんだ。ハレイムのやつが、母さんの恥をさらけだしてしまったんだよ!」

あまりの恐怖に襲われたヨセフはもうイエスの言うことが聞けなくなり、ただ、イエスに夜明け頃この町から出てゆくことを命じるだけであった。イエスは静かに答えていった。「ではもう今までの兄弟は赤の他人となり、私の母親も他人となることをお望みなんですね」ヨセフは大声で叫んだ。

「ああ、そうだとも。でもそれは、暫くの間だけなんだ。多分時が来たら又戻ってきてお前を歓迎しようと言ってるんだ。でもこんな恥さらしの噂がかき消えるまでは絶対に帰ってきてはならんぞ!」「そこまでおっしゃるなら僕は直ぐナザレから出て行って、他人の中に僕の兄弟や母を見つけることにいたします!」

イエスはすばやく戸口のところにかけよった。そして暫くそこに立ち止まっていた。背後から、きっと父の最後の言葉か祝福が与えられるかもしれないと思った。だが何にも与えられなかった。母の部屋を通るとき、母から熱っぽく聞かれたが何ひとつ答えなかった。

ただ唇をあわせながら母の平安を祈り、誰も居ない部屋を探して横になった。やがてトマスが入ってきて彼のそばに横になったが、2人はひとことも口をきかなかった。まだ鶏が鳴く前のうす暗い中をイエスが家から出て行くのをトマスだけが眺めていた。彼は細い道を、暁の靄の中に姿を消していった。

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47 クローパス夫妻イエスを匿まう

その朝、ナザレの腹黒い連中は、イエスが町から出ていったことを知った。それから1週間近く、イエスのことでもちきりだった。特に律法学者、ハレイム、教師らが口をそろえて彼の出生の秘密をばらまいた。もちろん、手がつけられぬ程ねじまげて語られた。

彼らはイエスの弟たちのことを褒めそやした。良い父親を持ち、仕事に精を出す働きぶりは、ナザレの模範であると言いふらした。イエスのことを悪く言うことによって、この兄弟は町の人々の人気をかい、殊にトマスは有頂天になっていた。

マリヤだけは深い悲しみに沈み、ただ黙々と耐えぬいた。ヨセフは、あの晩律法学者が部屋に入ってきて何を言ったのかは話さなかった。マリヤは2度と物を言わなくなった。彼女は何か悪いことでも起こりそうな予感に怯えていた。目の前に昔の忌わしい光景が横切った。

旅館でキレアスにいじめられたこと、求婚された頃のこと、最初の子供を生んだ直後の不幸な日々のこと、どれもこれもみな彼女の心を八つ裂きにするものばかりで、もうイエスを探し出そうという気力も、外に出て働く意欲もみんな失くしてしまった。

イエスが家を出てから7日目になると、彼女はナザレをぬけ出して、クローパスの家を訪ねた。マリヤ・クローパスの注文の衣服が織りあがったからである。真から善良なマリヤ・クローパスを相手に次から次へと悲しい出来事を話した。

彼女は本当に思いやりの深い女であったので、どんな野性の鳥でも彼女にはなついてしまうのだった。慈愛に満ちた心をもってマリヤの語ることを聞いた。どんなときでもマリヤ・クローパスは、怯えているマリヤにとって慰めであった。

「イエスは此処に居るのよ、マリヤ!!彼が家出してからずっとよ」母マリヤはびっくりして大声で叫んだ。しかしマリヤは、まるで真昼の太陽で萎んでしまった花のようにうなだれていた。2人は長い間黙ったまま座っていた。マリヤは打ちのめされ、不吉な幻だけが去来していた。マリヤは何をしてよいのか全くわからなくなってしまった。突然彼女は叫び出した。

「私の夫と4人の息子は結束してしまい、私の最初の息子が孤立してしまったのよ!彼らの間には決定的な溝ができてしまったわ。だから私は、イエスの運命をとるか、ヨセフの方に行くか、どちらかを選ばなくてはならなくなったの」

マリヤ・クローパスが答えた。「私は堂々とイエスの味方になるわよ!彼がどんなひどい目にあっても、私の家をいつでも提供するわ。だけど主人が言うのよ、きっと彼の敵は多くの人を煽動して彼を石打ちにするってね。だからあと2日間はイエスを家に匿(かくま)っておくの。

明後日、クローパスが仕事でエルサレムに行くから、イエスを連れてってもらうのよ。夫があそこの商人たちにかけあってイエスを雇ってもらうのよ。そうすればあなたはいつでもイエスに逢えるでしょ?。こんな処でひどい目にあわなくてすむわよ」マリヤが急に声をふるわせて言った。

「私こわい!イエスの顔をまともに見られないわ。きっと私を責めるんじゃないかしら」「なにを言ってるのよ。あなたは。あの大天使ガブリエルの約束をすっかり忘れてしまったの?あの時、あなたは救世主を生むって預言の御言葉をもらったことを憶えていないの?独りで山の中を歩き、神様と交わったときのことを思い出してごらんなさいよ!」

「私には、あの夢から悲劇が始まったのよ。でもあのときは、とてもうれしい不思議な体験だったの。ああ!もうイエスと顔を合わせるのが怖いわ、私行かなくちゃ。もしもトマスやセツと一緒に祭にでかけていって、エルサレムで逢えればね、今はやめておくわ」

「イエスはね、全く別の世界に行ってしまうのよ。見ず知らずの人に雇ってもらうんだから。そりゃ寂しいと思うけど。だから今息子の頭に手をおいて祝福し、顔に接吻ぐらいしてあげてもいいじゃないの」マリヤは頭で頷いた。マリヤはただ接吻をするだけで、急いで我が家へ帰って行った。

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48 汚(けが)れた町の塵(ちり)を足から払い落とす時

ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ(クローパス家の息子)は、ナザレの連中の噂をイエスに伝えた。毎晩イエスの話を聞いて改心した若者たちが全く散ってしまったという情報である。周囲の圧力に屈伏して、若い先生イエスを裏切ったということである。

しかも律法学者、魚問屋ハレイム、教師、数人のお喋り女によってばらまかれたイエスの中傷によるものであった。マリヤ・クローパスの息子たちは、彼らの従兄弟を歓迎しイエスに尽した。彼らはイエスを兄弟として迎えたのである。

そんな暖かい心尽しを受けても、なおイエスの心を襲った“ふさいだ気持ち(メランコリ)”は晴れなかった。最近のイエスは、しょぼんとして、すっかり精気を失っていた。マリヤ・クローパスは、きっと不本意な旅をして商人につかわれるのがとてもいやなのだろうと察していた。

実のところ、彼は悪魔的な考えがはびこっている物質的世界から逃げ出したかった。イエスはマリヤ・クローパスに語った。

「此の世は真理の御霊(みたま)を受けることはできません。此の世は“それ”を見たこともなく、“それ”を全く知らないからです。これからは“はい”と“いいえ”しか言わないことにします。ですからもう2度と天の御父のことは語りません」

マリヤ・クローパスは賢明にも常におだやかにふるまい、へたな慰めの言葉をかけなかった。彼女はイエスの額に手を当てたり、見つめたり、彼と心がひとつになるように努め、彼の悲しみを分けあったのである。彼女は夫に言った。

「思春期に体験する悲しみほど深く、大きいものはないわね。ねえ、あなた、私とても心配なんだけど、やっぱり彼をエルサレムに連れていかないでちょうだい。商人にもまれ、彼は又傷つけられてしまうわ。こんなときには本当の母親のようにいたわってあげなくちゃね」

「彼だってすぐ1人前になり、不屈な人間になれるよ!こんな所で甘やかさず自立させてみたらどうかね。うちの息子たちにもよくないじゃないか」マリヤ・クローパスはこの件については夫に反対できないことを知っていた。そこで彼女はイエスに夫の意志を伝えた。イエスはなんにも言わず、ただ頭をうなだれているだけであった。

突然けたたましい鳥の声のような口笛がきこえてきた。段々と大きくなり、人間の歌声のようになり、家の前でぴたりと止まり戸を叩いた。部屋の中にひそんでいたイエスは、急に外へとび出していった。イエスはその口笛や歌声を知っていたからである。

なんと、ヘリが家に入ってきて荷物を床の上におろし、イエスの手をとった。「どうして此処に居ることを知ってたの?前に別れるとき3年て言ってたのに、あれからまだ2年しかたっていないじゃないか」「お前がわしを呼んだんだ」

「だって僕の声があんな遠い砂漠に届くはずないじゃないか」「毎晩お前はわしのことを呼びつづけておったね。わしが火の傍に座ると必ずお前の呼ぶ声がきこえてくるんじゃ。初めのうちは余り気にもしなかったんだが、3度目からはもうのっびきならぬ祈りの声に変っているではないか。それで遙か彼方から旅を続け、此処にきたのじゃよ。随分つかれたが、お前を見つけ出せて本当によかった」

「今度こそ砂漠に連れてってくれるの?」「そうともさ、今度こそわしと一緒についてくるがいい。だが一体全体何事が起こったのかい。先ずそれを聞かせてくれ」「僕、今は話せないんだ」イエスは溜息(ためいき)をつきながら言った。

「わしが汚れた町の塵(ちり)を足から払い落とすときは恐ろしかった。エホバの神への道が見えなかったからじゃ。わしが砂漠に行って、浮浪者の仲間と生活する時は楽しかった。エホバの神へが煌々(こうこう)と見えていたからじゃ」

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49 灼熱地獄の旅(アラビアの砂漠)

ヘリのすすめで、イエスは小さな財布に数枚の銀貨を用意した。旅をするにあたって、1本の杖と着古した上着1枚と2日分の食糧を持って出発した。

さて2人の旅人がシリヤの町を通り過ぎた頃、ヘリの知恵が段々とイエスに解るようになってきた。まずは、何と言っても、イエスの足から血がふき出してきて夕方には精根(せいこん)尽きて卒倒してしまったのである。ヘリは砂漠に入る入口付辺の旅籠(はたご)で彼をねかせ、彼が元気になるのを待った。

翌朝、イエスは元気をとりもどしたが、足のほうはすっかりむくんでいた。それでヘリは一枚の銀貨をとり出して一頭の驢馬(ろば)を買い求め、イエスを驢馬に乗せた。

ヘリはまた袋の中に棗椰子(なつめやし)の実や蝗(いなご)を詰め、飲み水をビンに入れ、バターミルクの入った容器を驢馬の鞍にくくりつけた。これだけの用意ができたので、いよいよ“砂漠の犬”とか“廃虚”という名で知られている『流浪(さすらい)の部族』を探しに2人は出発した。

流浪の部族は、ヘリが言っているように、1か所で長い間とどまるようなことはなかった。草の多い牧草地を見つけては野性動物を捕獲し、その肉を食べていた。季節はとても良いときで、日中は暖かく夜は寒かった。イエスは、陽が沈むと上着を着こんでうれしがっていた。彼はまた騙馬の背中に敷かれた毛織物が気に入った。

たら腹夕食をとると昼間の疲れがでてきてその場で寝こんでしまった。しかし砂が冷えてくると、1時間もたたないうちに寒さで震えあがってしまい、目があいてしまうのであった。イエスはもう我慢ができなくなって、彼と一緒にくっついて寝ているヘリをゆさぶりおこした。ヘリは目をさまして言った。

「砂を堀って寝ないと、お前は病気になっちまうな。ここは温暖なガリラヤとは違うからすぐまいっちまうぜ」ヘリとイエスは50センチ程の穴を掘り、2人はその中でぐっすり寝た。ヘリは優しい母親のように彼を労(いたわ)った。彼の休む処には毛織物を敷いてやったり、バターミルクを飲ませたりするのであった。

このようにして砂漠での第一夜は何事もなく過ぎ去った。ヘリは彼から片時も目を離さず、注意深く体の健康に気を配っていた。彼は次第に朝夕にやってくる激しい温度差に耐えられるようになってきた。

砂漠は一見、町に住む人々にとっては全く無情な所のように思われている。食物も飲物もなく、見た目には荒涼たる砂の荒野で、キラキラと砂が光り、砂の山があり、あるいは塔もあり、砂の欄干(らんかん)が続き、所々に岩の断崖があり、神の創造以来全く変化がなかったようにそそり立っていて、気の弱い旅人には本当にすさまじい光景として迫(せま)ってくるのである。

しかし此処になれ親しんでくると反対に理性の働きを高め、人間の心を造り主(神)に一層近づける役割を果してくれるのであるから不思議なものである。ひとときの間、神はイエスに以前よりも一層近くにおられ、全くひとつになり、偉大にして永遠なる平和の内に一体となっておられた。

この偉大なる神との合一こそイエスに絶大な霊力を与え、後になって目覚ましい奇蹟を行ない、耐え難い苦しみに耐え、珠玉のような数々の言葉となっていくのである。イエスの示した喜びや苦しみの鋭い感覚は、奇しくも荒野で過ごした第1週に養われていたのである。

しかしながら砂漠は果てしなく広がっていて、一向に目指す部族の手がかりはつかめなかった。遂に驢馬がへたばってしまった。この驢馬は野性でない上に、あまり丈夫ではなかった。ある暑い日に、驢馬はとうとう地上に倒れてしまった。

もうこれ以上生きられないことを察知したヘリは、ナイフをとり出し、驢馬の心臓を刺して楽にしてやった。そのときのヘリはいつもと違って、喋りまくった。

「わしは何にも恐ろしいものはないんだ。わしは、水もなく、生き物が居ない荒涼たる荒野や砂漠にいても平ちゃらなんだ。けれどもわしはお前がこわくなってきたのじゃ。イエスよ、お前は今でも穏やかな性格を保ち、雨水をいっぱい吸いこんだガリラヤの牧草地のような豊かさを失っていない。何と不思議なことじゃろう」

イエスは答えて言った。「僕は天の御父に祈っているから、耐える力を与えて下さるんだよ、ヘリ」2人はなおも先へ進んで行った。今までのように休息をとることができなくなっていた。歩いている所がまるで地獄のようであった。

焼けつく砂の上は、灼熱地獄であった。それでも先へ先へと喘(あえ)ぐようにつき進んで行った。遂にイエスは砂上に倒れ、苦しい息づかいとなり、ヘリに水をのませて欲しいと言った。善良なヘリは、明日のことは考えなかった。

今この水を彼に与えなければ、イエスの生命は危ないと思った。しかし、もしも流浪の部族に出逢えなかったら…イエスは完全に死んでしまうであろう。

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50 地獄で仏に出逢う

イエスの体がかすかに動いた。ヘリは急いで彼のもとに走りよった。唇はどす黒く、目は窪み、頬はこけていた。低い弱々しい声がした。「僕にかまわず急いで先へ進んで下さい。僕はもう無用の重荷ですから…」

「とんでもない。わしはお前を見捨てやしないぞ。お前の額には、高貴な運命が印されているんだ。灼熱の毒蛇もお前の生命を呑み込むことはできないだろうよ。お前の体をまるめてボール玉にし、苦しみもだえているお前の魂と一緒に地獄に投げこんでしまえ!」

ヘリは立ち上り、怒りで全身を震わせ、彼の太い脚と拳(こぶし)をふり上げて、東から登ってきた太陽に向かって戦いを挑むのであった。「生ける神の御加護により、おれはこの子をお前からもぎ取ってやる!おれの頭上の冠にかけて誓ってやる!お前の禿頭(はげあたま)をひっつかんで無情の苦しみを投げとばし、炎の舌をやっつけるんだ!!」

ヘリはなにやら沢山の呪文を次から次へと口走った。言いたいだけ言ってしまうと、彼の怒りは沈まり、気分も爽快となった。でもイエスの方は身動きひとつしないで呻(うめ)きながら言った。「空が僕を押しつぶしてしまう。ヘリ、ヘリ、まわりが真暗だよ!」

ヘリは彼の弱々しい訴えにはひとことも答えず、遠くに生えている草むらの方へ歩いて行った。彼はやわらかな砂山の傾斜面にさしかかって、身ぶるいする程驚いた。よく見ると小さな足跡が残っているではないか。

風に吹きとばされる砂は、足跡を消してしまうのであるが、目の前に何と人間と駱駝(らくだ)の通った足跡がはっきりと残っているではないか。ヘリは無我夢中でその足跡を辿って進んでいった。真昼近くになって、彼は平地から盛り上っている砂利の先端が見える所に辿りついた。そのあたりから、ちらほらと草が生い茂り、土の表面が隠れていた。

焼けつくような陽光を浴びながら1時間も歩かないうちに彼の声はかすれ、遂に荒野で倒れてしまった。彼はじっとしているわけにはいかなかった。イエスの命が彼にかかっていたからである。彼の生命を救うためにはどうしても砂漠の奥地に住んでいる『流浪(さすらい)の部族』を探し出さねばならなかった。

風が一瞬やんだかと思うと、突然ある音がきこえてきた。人間ではない何ものかが、駈けずり回っていた。ヘリは草むらの中に身をひそめ、耳を大地に押しつけながら様子をうかがっていた。突然、叫び声が静けさを破った。

それは、ガゼルの一群が草むらからとび出して傾斜面を駈け降りて行き、東へ西へと散って行った。(ガゼルは、レイヨウ(かもしか)の一種で、アフリカ、西アジアに産する小形で足の早い動物 = 訳者註)

ガゼルの一群が通りすぎてから、ヘリは地面の上に大の字になった。そのとき空中に槍が飛んで行く音がきこえ、動物の体が石の上にどさっと倒れる音がした。ハンター(狩人)の叫び声がして獲物の方へとんで行った。間もなく数人の男たちが、笑ったり話し合いながらヘリのそばまでやってきた。

彼らは獲物以外には目もくれなかった。近くまでやってきたときにヘリを見て、用心深く見守っていたが、彼らは盗賊ではなく、ヘリが血まなこになって探していた友人『流浪の部族』の仲間であった。跳びあがらんばかりにうれしかった。

彼らもヘリであることがわかり、有頂天になってヘリを肩にのせ、ヘリの指図に従って死にかけていたイエスの所に運んでもらった。「早く行って下さい、イエスはもう死んでいるかもしれないが」と、ヘリは叫んだ。野性の男たちは答えた。

「わかった、わかった。おれたちは全力で走っているんだよ!」彼らは野性のガゼルのようにつっ走った。彼らには灼熱の太陽などはへいちゃらだった。疾風のようにイエスの所へ来てみると、イエスは気絶していたがまだ息をしており、彼の霊は肉体を離れていなかった。

彼らは自分たちの息子でもあるかのように優しくイエスを担(かつ)いで彼らのテントまで運びこみ、女たちに介抱させた。まる2日間苦しんだ後、安らかな眠りに入っていった。彼は遂に安らかに目を開き、薄明かりに光る砂漠のマントを見たのである。

さて『流浪の部族』はアラビヤからやってくる盗賊の群れを恐れていた。最近では、随分物持ちになっているそうである。砂漠の狼たちは、仔牛、山羊などを全部かっさらっていき、驢馬や家財道具まで持ち去っていくからであった。だからヘリが血まなこになって彷徨(さまよ)っている時期には、わざと泥棒でさえよりつかない水無し地帯を選んで生活をしていたのである。

盗賊もそんな処では渇(かわ)きのために忽ち死んでしまうことをよく知っていた。ところが、この部族は、砂漠の民として古くから暮らしているので、神からおそわった特別の知恵により、驚くべきことに、砂の中に隠されている宝物(水)を見つけることができるのであった。

水は、荒野に隠された宝物と呼ばれていた。しかも、この人々だけが水無しの土地で水を探し当てることができた。“水無しの土地”とは、アラビアの中心にあって盗賊や旅人、さらに野獣からも恐れられている名称であった。この部族だけが砂漠の知恵を持っており、そこに住むことができたのである。

部族の長(かしら)である“ハブノー”が言った。「ヘリ!本当によく来れたな!天使がお前と一緒に歩いてくれたんだよ。この夏の真昼間に、この水無しの土地へ案内できるのは、天使だけだからね」

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51 失明の父

この部族の中では、イエスはよそ者扱いにされていた。彼の話すことが一風変わっていたからであった。それに彼らは町の者をひどく嫌っていた。時々彼らは市場に手造りの道具類や、駝鳥の毛、壺、鉄製器などを売りに行くと、町の者から野次られたり軽蔑(けいべつ)されたりした。

それでイエスも彼らが嫌っている町の住人の1人のように思われていたが、うわべでは愛想よく応対していた。イエスは“神の旅人”と呼ばれ、部族の長の食卓にすわった。彼らの食事はとても貧弱で卑しいものであったが、この神の旅人に対しては、おいしいバターなど、とっときの栄養物が与えられた。

イエスはみんなと同じ食物、蝗(いなご)やなつめ椰子を食べたいと言ったので彼らを怒らせてしまった。ヘリはイエスに「お前は彼らに恥をかかせるのか」と言いながら、彼らの厚意を素直に受けるように教えた。イエスは何事もヘリの言う通りに従った。

3日目の夜になってから、ヘリはイエスに部族の規則(きまり)について説明した。「彼らはお客を1週間だけかくまうことになっている。1週間がすぎたら、水筒に水を入れ、旅に必要なものを入れた袋を持たせ、神の御加護を祈りながら出発させるのだ。

しかし、お前が彼らのために、何か役立つものを持っていることが証明されたなら、彼らは居残ることに同意して部族の1人として迎えてくれるのだ。そこでお前はどうするかね。部族の1人として残ってもいいし、出ていってもよいが」

「僕はここに残っていたいんです。そして彼らの生活の知恵を全部吸収したいんです。そうしたら僕はその御礼に、彼らのために尽します」ヘリは言った。「そうか、それがよかろうな。しかし彼らは何らかの特技か、霊的な力を要求するだろうがね」

さて、イエスは早速仕事場に連れていかれた。部族の者たちは、駱駝の鞍を木で作る仕事を与えた。粗末な道具しか無く、削り損った鞍は凸凹(でこぼこ)が多くて到底生きた駱駝の背中にはのせられなかった。木工作業はみごとに失敗した。

次に鍛治屋の仕事にまわされた。そこでは牧者が牛の飼料を運ぶ道具や女たちが薪を伐採する斧を作っていた。そこでもイエスの手伝いは必要ないと言われた。そんな訳で、部族の長(かしら)は、イエスに部族の仲間にはなれないという宣告を下した。それで1週間以内に此処を出て行くように言い渡された。

ところがその頃になって、イエスはとても大切なことを発見していた。かなりの子供や若者が、強い太陽光線や不潔な蠅で目をやられ、失明していることに気がついた。そこでヘリと一緒に不毛な荒野を歩き回り、鳥が殆んど食いちらした裸山の裂け目の間に薬草が生えているのを見つけた。

この薬草をつんできて、これを鍋で煎じ、その汁を失明した人たちの目にぬった。次の朝になると瞼(まぶた)の上に鱗(うろこ)のような薄い膜ができており、膜がおちるとすっかり見えるようになっていた。彼らには信じられない奇蹟であった。

救われた者たちが喜びの声をあげながら、イエスを肩の上にのせ、部族の長、ハブノーの処にやってきた。12人の失明者がこの客人の手によって奇蹟的に救われたことを知ったハブノーは、わざと心を鬼にして彼らに言った。「これはあの少年に薬草のつくり方を教えたヘリの手柄だよ」

ハブノーは、イエスを部族の仲間に加えたいと言っている12人の要求をがんとして退けた。これは実に無慈悲な判決だった。一族をひきいる指導者にとって、この暑い夏の日々には、乏(とぼ)しい食糧と水は黄金よりも大切なものであった。余程の才能の持主でない限り同居は許されなかったのである。

ハブノーのテントの中には、洗いたての羊毛のような真白い髭と頭髪をはやした老人が座っていた。額(ひたい)のしわは深く、かなりの高齢者であることがひと目でわかった。昔は立派な顔立ちであったが、今では目が見えなくなり、暗い所でじっと座り続けていた。

ハブノーがイエスに言った。「私の父があなたに大変興味を持っています。私が席をはずしますから、どうか父と話し合って下さい」イエスは老人の足もとに座り、かさかさと木の葉がゆれるような声を聞きいっていた。この老人は、どうやら平和について語っているらしく、様々な質問をイエスになげかけるのであった。

遂にイエスの口はゆるみ出した。イエスはナザレを出て以来、ナザレ人から悪しざまに言われてきた霊の働きや理性のことは、2度と口にすまいと決心していた。しかし、この失明した穏やかな老人は遂にイエスから言葉をひき出したのである。

イエスは間もなく、農夫の話やガリラヤの葡萄畑やオリーブ畑の話を始めた。老人の心は大きな高まりを覚えた。彼の息子ハブノーが戻ってきたとき、老人は息子に尋ねて言った。「お前はこのお客様をどうするつもりかな?」「私は彼の家に帰そうと思っています。彼は我が部族には余り役立たない職人のようですからね」

「この御客様をわしのそばにおいてくれないか。彼は私に黄金のような立派な話をしてくれたのじゃ。しかも彼の手がわしの体に触れると徐々に力が湧いてくるのじゃ、不思議なことじゃ。本当に彼の話はすばらしい!!わしの僕(しもべ)として迎えたいのじゃが」

ハブノーは父を喜ばせたいと望んだので、イエスを部族の長(かしら)のテントの中に住まわせることにした。日が経つにつれて、イエスはこの部族の隠された部分を知るようになった。彼らの短所と長所は、町の人々とは違っていた。ひどく荒れると、彼らはお互いに殴ったり蹴ったりして烈しい気性をあらわすのである。

ある晩のこと、イエスは鍛治屋がパンを盗んだ泥棒に槍をふりまわして脅迫するのを見ていた。怒りのあまり彼はその男を殺してしまった。しかしこの鍛治屋はすぐれた職人であったので、その行為は不問になった。ハブノーはこの鍛治屋が造った道具、草刈鎌、槍、斧などがよく売れることを承知していた。それでカインのように親族を殺害したにもかかわらず、無傷のまま不問となった。

部族が流浪の途中で数日間の休息をとる夜には、音楽を奏で、メロディーに合わせてとびまわり、異常な興奮状態になるのであった。奇声を発し妙なステップをふんで踊るのである。ある者は女を求めて欲情をあらわにした。イエスはこのような邪悪なことは、ガリラヤでは見たことがなかった。

このように荒々しく、平気で罪を犯す連中ではあるが、この部族の人々の心には一片(ひとかけら)の悪意も見出すことができなかった。彼らは卑しい言葉を口に出さず、イエスには親切で、彼を心から褒めたたえた。彼ほど歴史に詳しい者を知らないといって驚嘆していたからである。その上彼は、多くの病人を癒(いや)し、女や子供たちには優しくふるまった。

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52 砂の上に書いた文字“メシヤ”

流浪の部族は、イスラエル12支族の子孫であったが、ユダヤ人の間では大変嫌われ、浮浪者と呼ばれていた。彼らは自由気儘に暮らしていたので一般の厳格なユダヤ人の目には汚らわしく思えた。彼らはモーセによって与えられた形式的な儀式や祈祷を守らなかった。

失明した老人は、いつしかイエスに心を許すようになり、遂に今まで滅多に口にしなかった先祖のことについて話し出した。「わしはエルサレムで生まれた、れっきとしたユダヤ人で、しかもパリサイ派の家で育った。ところが此の地に移住した者は何もかも失くしてしまったようで本当に悲しんでおるのじゃ。

祭の日は守らず、祈りもせず、モーセの律法による潔めも全くやらないしまつじゃ」イエスは、ゆっくりとした調子で答えた。「そんなことを悲しまなくてもよいんです。内面的なお恵みは、先ず神様から与えられ、その後で外面的に“徴”として現われてくるものです。

あなたの部族は断食や長たらしい祈りはささげませんが、とっても気高い幻を持っておられます。悔いる心も持ってるし、とても謙虚です。それは多くの誇り高いパリサイ人でも足元にも及びません。いや、エルサレムにいるパリサイ人だけではありません、ガリラヤにいる律法学者や敬虔な人と言われている人たちも及びません」

老人が言った。「わしは失明を理由に、あの連中が何をしているのか、わざと知らないふりをしているのじゃよ。けれども彼らは憎み合ったり、色事に耽(ふけ)ったり、ろくなことしかしていないとハブノーが教えてくれるのじゃ」

「たしかにそうかもしれません。でもそれだけではないようです。なかにはとても気高い幻を持った者がいることも事実です。僕がここに来た最初の頃ですが、2人の男が喧嘩をして倒れてしまいました。2人とも激昂し、刃物で相手の胸を刺しあったのです。

それからというものは、この2人はしょっちゅういがみ合っていました。僕は2人に言いました。「敵を愛するのです。あなたを害する者を祝福してあげなさい。そうすれば部族の長ハブノーやみんなに神様のお恵みが与えられるんですよ!」

彼らは憮然として私をにらみつけていました。それから暗い表情で2人とも歩き出したのです。どんどん歩いているうちに最初の男は疲れてしまい、砂の上にねころんで眠ってしまいました。いがみ合っていた相棒は、この時とばかり寝ている男の水筒を盗んだのです。

水筒には彼が大事にとっておいた最後の飲み分しか入っていませんでした。夜になってから目をさました男は、自分のパンを相棒にわけてあげました。相棒は食糧をひとつも持っていなかったからです。相棒はひったくるようにパンにかじりつきました。たベ終った男は笑いながら言いました。

「お前は馬鹿なお人好しだ」それからまたパンをくれた男を殴りつけたのですが、殴られた男はそのまま寝こんでしまいました。夜になりとても寒くなりましたが、下着しか身につけていないこの男はすっかり風邪をひいてしまい、あくる朝には熱をだしてしまいました。

そこに部族の者がやってきて、殴りつけた男に言いました。<お前は我々の仲間にひどいことをしたもんだね>と言って軽蔑のかぎりをつくして彼をなじったのです。すると彼は突然人が変ったように、熱を出している男のそばに行き、彼に水を飲ませ、暖かい食べ物をつくり、一生けんめい介抱をしたのです。

遂にこの2人は、敵だった2人は、お互いに愛し合うようになり、部族に大きな影響(平和)をもたらしたのです。ハブノーのお父さん!僕に答えてくれませんか?この2人は祭や断食を守らず、長い祈りをしなかったからという理由で、最後の審判の日に裁かれるでしょうか?

それとも私が知っている律法学者が、同じ審判の日に、彼の思いや言葉には一片の慈悲もなく、自分以下の者を軽蔑したり憎んだりした者が、モーセの定めた儀式や祈祷を忠実に守ったからといって神様の救いにあずかれるのでしょうか?さあ!僕に答えていただけませんか!」

老人は顔面に微笑をたたえながら言った。「審判の日には、もちろんこの2人の男の方が先に救いにあずかれるとも!お前は大変な目利きのようじゃ。おねがいだから、あんたの本当の名前と正体をわしにあかしてくれないか。わしが思うに、きっとお前さんは、この悩める時代にイスラエルの光として再生してきた立派な預言者ではないのかね?」

イエスは何にも答えなかった。そのかわり、手にしていた杖で砂の上に字を書いた。しかしそこに居あわせた者は誰1人としてその名前を読める者はいなかった。その文字は、メシヤ(キリストの意)を意味する隠語であった。

後になって、その文字を見た弟子は、2度とそれを口にすることも見ることもしなかった。その意味があまりにも恐ろしかったからである。

(註1)当時は箱の中に砂を入れて、教師が砂の上に字を書き、生徒がその上をていねいになぞって字を憶えていた。従って推測ではあるが、イエスはこのとき砂の入った箱の中に字を書いたものと思われる。大事に保存されていたのであろう。(訳者註)

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53 感動の奇跡

夏が終ろうとしている頃、この部族は盗賊に襲われた。多くの者が負傷し、2、3人の者が殺された。牛や駱駝も略奪された。その後食糧不足の時期に入り飢えに苦しめられた。しかし着るものや食べ物をすべて平等に分け合って危機をのりこえるのであった。

彼らは砂漠と町の接する地点に移住して、稼ぎの仕事を始めた。壺や鍋を作っては町の人に売るのである。みんな一生けんめいに働いた。そうこうしているうちに春がやってきて、再びアラビヤの奥地へと帰って行くのである。彼らには砂漠が本当の我が家であったので大変うれしかった。

失明の老人はイエスに自分の本心を打ち開け、深い悲しみに苦しんでいることを語った。「長い年月の間、暗黒に閉ざされ、孤独のどん底につき落とされ、神を疑うようになりました。わたしはこんな年齢になっても、まだ失明をあきらめることができないんです。

ひょっとしたら、日の出や日没の美しさ、荒野の絶景、勇敢な男たちの姿、女の愛らしさ、働く喜び、愛と談笑の喜びなどが見られるかもしれないってね。でもこのような人生の豊かさや喜びも失明によってすべて奪われてしまいました。

なんと苦しいことか、その言葉もありません。そんなことで、わたしは造り主であられる御方の慈悲というものを疑うようになり、神様はなんと惨(むご)い御方かと思うようになりました」

イエスは何度も説得するのであるが、老人の憂愁を払いのけることはできなかった。それからというものは、イエスはみんなから離れ、1人で祈り、断食を始めた。今や彼は、再び癒しの霊力をよび求める準備を開始したのである。

彼は、あの忌わしい公衆の面前で、天の父よと口に出して祈ってから久しい間ひとことも天の御父のことは口を閉じて語らなかった。しかし今度だけは、砂漠の谷や禿山の頂上に立って、大声で“天の父よ”と叫び続けた。

ある晩のこと、ヘリはイエスの後を追い、大きな石の陰から彼を見守っていた。暫くすると声がして、イエスが1人しか居ないのに、2人の人影が見えた。2人はあちこちと歩き回っていた。ヘリは耳を長くして話し合っていることを聞きとろうとしたが、なま温い微風(そよかぜ)にさえぎられてよく聞きとれなかった。

そのうちイエスの方が仲間から離れ、足早に駈け出していった。夕暮れの陽光が見知らぬ人のまわりを包み、その方と光が溶けあったかと思うと人影が消えて光だけになってしまった。ヘリの目は幻映を見損うような節穴ではなかった。

イエスの体からは、星の光のような輝きが発射され、ヘリは我を忘れて見とれていた。イエスは、ヘリが感嘆の叫び声をあげたのも気付かずに、一目散に駈けおりて、夕陽に赤く染まっている流浪(さすらい)の部族のテントに向かっていた。

ヘリもイエスの後を追いかけた。イエスは一気に部族の長ハブノーのテントにやってきて中に入り、失明の老人の手をとった。いつもは薄暗いハブノーのテントの中が星のきらめきのように明るく輝いていた。

イエスの手が老人の目玉に3度触れた。触れる度に彼は鋭い命令を発した。「開けよ!!汝を愛する人々並びに汝が愛せし大地を見よ!!」

それからイエスは、老人をテントの入口まで連れて行き、3度目の命令を発したときは、その声が余りに大きいので、集まってきた人たちが、しーんと静かになってしまった。みんなが一斉に敬愛してきた老人の方を見守った。みんなは総立ちとなった。老人は両腕を大きく広げながら彼らの方に歩いてきた。

「我が子らよ!!わしは再び見えるようになったのだ!!このガリラヤの若者が、わしの目の上に手をおいてくれたのだ!!見よ!たちどころにわしの目が見えるようになったのだ!!」

大きなどよめきが起こった。喜びのどよめきであった。老人は部族の1人1人に名前を言いながら挨拶をかわした。彼らの服の色、目の色、背丈の大きさなどを口にしながら。部族の長は、最初のうちは我と我が目を疑っていたのであるが、この段になって、イエスが本当に父の目を開けてくれたことを信じた。

よく晴れた夜、人々は踊り、歌い、この偉大なる奇蹟を祝う祭を行なった。このときに初めて彼らはイエスを兄弟として賞賛し、彼を抱擁(ほうよう)し、真に部族の1人として容認した。

イエスが寝ようとしているときにヘリが彼に尋ねた。「あの山でお前のそばに立っていた御方は誰だったのかい?その方は何という御方なのかい?」「僕はその方の名前は知らないんだよ、ヘリ」

「では、どうしたら、あの輝きの正体を探し出せるのかを教えてくれよ」「自分自身で探すしかないよ、ヘリ!あふれる生命と喜びが、今ようやく僕のものになったんだよ!この生命と喜びが、人々の理解をへて平和を生み出すんだよ」

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54 あなたの名は?

星屑が空で光を失い始めた頃、老人はむっくりと起き上った。音をたてないように、眠っている息子のそばを通り、部族のテントへ向かった。

誰も起きている者はいなかった。見張番の2人の男も、消えかかった焚火のそばでうたた寝をしていた。老人は足取りも軽やかに、雑魚寝している者の中にイエスを探し歩いた。イエスを見付けると腰をかがめ、耳元でささやいた。2人は静かにそこから離れ、砂漠を通って例の山に登った。

東の空が明るくなってきた頃、老人は立ち止まり、顔を東方へ向け、造り主なる神に感謝の叫び声をあげた。長い歳月の末に、自分の肉体の窓を開けて下さったこと、こうして日の出の栄光を崇めることができたことを深く感謝した。

「わたしは2度とあなたのことを疑うことはいたしません!!私は心からあなたを崇めます。私はあなたの御前にひれ伏します。聖にして、言葉に尽せぬ御方よ!!たとえ今この瞬間にお迎えが来ても、私は文句を言わず、喜んで参ります。

あなたの計り知れない慈悲によって、あの山々や、人々の顔、あらゆる美しい大自然を再び見させて下さったのですから。まことに私はあなたを信じ、心安らかに喜びをもって、眠りにつくことができます!」

これらのことを語り、祈ってから、2人とも沈黙を続けていた。畏敬の念が2人をすっぽりと包みこんでいた。東の空は燃え始め、大輪の花のように色付き、全天がきらきらと輝いていた。

突然、老人がイエスに向かって尋ねた。「あなたの名前を聞かせて下さい」「もう御存知ではありませんか!僕の名は、ナザレのイエスですよ」「そうそう、ナザレのイエスとは、救世主(キリスト)となられるイエスだね」

老人がこう言ったとき、若いナザレの少年の顔が暗くなった。「そうではないんです!今はまだそうではないんですよ!」少年は悲痛な声を出し、体を震わせながら、光が射しこんでくる東の方に向き直った。暫くして再び平和が戻ってきた。彼は、ぽつりと語った。

「あなたの御意志(みこころ)が行なわれますように!!私のではなく!!」

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訳者あとがき

著者のジェラルディン・カミンズ(1890~1969)は、厳しくも美しい自然に恵まれたアイルランドで、大学の先生をしていたアシュレー・カミンズ教授の娘として誕生した。カミンズは、英国に於ける今世紀最大の霊能者の1人として欧米のスピリチュアリズムに貢献した人物である。

その代表的著書として『不滅への道』(国書刊行会、世界心霊宝典第2巻)があり、霊界を語った白眉として尊重されている。(抄訳としては浅野和三郎訳『永遠の大道』が潮文社から出ている)

イエスの伝記というものは、正確な意味で何ひとつ存在していないと言ってもよい。新約聖書中の福音書は、元来イエスの受難物語(十字架上の死と復活)に重点を置いて書かれたものであるから、イエスの重要な背景をなす「生いたちの記」が完全に欠落していることになる。

カミンズは、彼女の偉大なる霊能によって「母マリヤの背景」と「イエスの成育史」というもっとも重要な部分を提供してくれたのである。聖書に全く見られない人物や出来事をも加えながら、イエスの少年時代を中心に展開されている雄大なドラマは、読む者の魂をゆさぶり、救いに導く大切な霊的養分をふんだんに注入してくれる。

多感な少年イエスが、あらゆる苦渋をなめさせられても、真の救いを求めて修業をつんで行く姿には、感涙相むせぶ場面が幾度もあり、読む者の魂を浄化してくれる不思議な力がこもっている。

歴史的には、マリヤに関する解釈が2つに分かれていて、未だに決着がついていない。ひとつは、ヘルヴィディアン説で、イエスの兄弟はマリヤが生んだとするものである。それに対してエピファニアン説があり、イエスの兄弟は夫ヨセフの先妻の子であると主張する。

どちらの説にせよ、マリヤに関して明確なことは、第1に、処女懐妊であり、第2は、重労働に耐えた女であったということである。水汲み、洗たく、粉ひき、はた織りは女の仕事で苛酷な労働であり、本書でのマリヤは多産(6人の子供)であるから、彼女はかなりがっちりとした体格の女性であったにちがいない。

さて本書は一体何を言わんとしているのであろうか。イエスは最初期待していた神殿(ユダヤ教)には救いが無いことを知らされた。ユダヤ教を代表する大祭司アンナスは、ローマの金権政治の犬になっており、ユダヤ教のラビ(教師)は徹底した教条主義で、少なくともイエスにとっては腹黒い偽善者であり、稀に見る善人として登場する老パリサイ人シケムでさえ、神殿という建造物にしがみついている憶病者であった。

結局イエスは、組織としての宗教や儀式的教条主義に救いが無いことを見抜いて、名もない異国の浮浪者ヘリを真の指導者と仰いで山野に於いて修業を続け、遂にアラビヤの「流浪の部族」、もとをただせば皮肉なことに脱ユダヤ教の人々に兄弟として迎えられるのであった。

では一体なにが救いであったのだろうか。学者の高邁な哲理でもなく、組織的伝統的宗教団体でもなく、…それは賢明なる読者にお委せするとしよう。

本書の中で、マリヤもイエスも「山野をよく“歩く人”」として描かれていることに気付いておられることと思う。ギリシャ語で歩くことを<ペリパテオウ>と言い、しっかり生きぬくという意味を持っている。

人生は旅であることを暗示している。“独りで”歩くのである。何のためか。瞑想のためである。しかも“日の出”に瞑想した。神と出逢い、神と語り、霊の力を得た。

これを基盤としていたからこそ、ミシュナ(ユダヤ教の細かな規程、例えば安息日など)など怖くなかった。逆にミシュナが少しでも差別や人間性無視の原因となったとき猛然と反対した。第18「最初の受難」で外国人ヘリをかばってリンチにあったように。

最後にこのようなすばらしい著書を進呈して下さり、翻訳に関するあらゆる御世話と忠告を与えてくださった近藤千雄氏に深甚の感謝と敬意を表したい。同氏は我が国に於ける数少ないスピリチュアリズムの研究者の1人であり、その正しい発展のために全力を尽しておられる方である。

更に拙い翻訳を出版にまでこぎつけて下さった潮文社の社長、小島正氏の御厚意にも心から感謝する次第である。このような一種の「幻の書」によって1人でも多くの方々が、霊的に豊かになっていただければ本当にうれしく思う。本書を読んだある英国人は、次のように述べている。

「予期せざる発想という列車に乗って、未知の国に向かい、此の世ならぬ旅をしているような美しい物語である」と。

(1986年)


新装版発行にあたって

この世は愛によって創られ、愛によって支えられているにもかかわらず、人間だけが、この重大な真理を無視した生き方を続けている。この事実を最も露骨にえぐり出してくれたのが「イエスの少年時代」である。

テロや憎しみが世界中に広がっている今日、1人でも多くの人たちがイエスの生き様を知って、愛に目覚めた生き方を始めてほしいと願っている。「イエスの成年時代」と合わせて読んで頂きたい。

平成16年5月
山本貞彰


霊界通信 イエスの少年時代 – 貧窮の中の小さな王者 – 新装版 –

山本貞彰(やまもと・さだあき)
昭和5年生まれ。昭和30年、立教大学英米文学科を卒業。昭和34年、英国教会系、聖公会の司祭に叙任され、沖縄伝道区を振り出しに諸教会を司牧。昭和60年、スピリチュアリズムとの出会いが起因となって牧師を引退。

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2023年5月12日

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†