ベールの彼方の生活 2巻

※OCR変換の誤変換部分が修正しきれず本文に残されているものと思われますが、とてもやり切れませんのでこのままUPさせて頂きます。通読、霊的知識摂取には問題ないと判断します(祈)†

霊界通信 ベールの彼方の生活 2巻 「天界の高地」篇

G・V・オーエン著
近藤千雄訳

The Life Beyond the Veil
Vol.2 The Highlands of Heaven
by G.V.Owen
The Greater World Association
London, England

【目次】

1章 序説

2章 人間と天使

3章 天上的天上的なるものと地上的なるもの

4章 天界の“控えの間” – 地上界

5章 天界の科学

6章 常夏の楽園

7章 天界の高地

8章 祝福されたる者よ、来たれ!

推薦の言葉 ノースクリッフ卿

私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有(も)ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。

ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。出来るだけ名前は知られたくないとの気持を披歴され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。

(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe – 本名ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail(デイリーメール)の創刊者。死後、“フリート街の法王”と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリッフの帰還』Northcliffe’s Return と題して出版、大反響を呼んだ。 – 訳者)

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序 アーサー・コナン・ドイル

永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。

新らしい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。

今そのうちの1つ – 至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源(えんげん)をもつ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。

それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭(へきとう)から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

一字一句に捉(とら)われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新らしいものだから、珍らしいから、ということで無闇に有難がってもいけない。

地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、“霊的”であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分有りうることを銘記すべきである。

この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。神は2000年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。

それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応(ふさわ)しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。

驚異的と言われ不可思議とされた過去70年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手をもって目を蔽(おお)う者のみと言ってよいほどである。現象のものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。

がそれは実は吾々人間の注意を引きつけるための信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。

啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。

完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。

その内容は古き信仰を覆(くつがえ)すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘(こだ)わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味をもつに至った部分が幾つあることであろうか。

たとえば「父の家には住処(すみか)多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。

それはもはや捉え難き遠い世界の“まぼろし”ではなく、この“時”にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己(おの)れの道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ちうけるとの確信を植えつけてくれることによって、よろこびの時にはより一層そのよろこびを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。

言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を2冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。

オーエン氏の通信が私の2冊とは無関係に綴られたのと同じである。どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、このたび読み返してみて、私のものより遙かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは1つも見当たらない。

もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろか。

今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新らしい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず – 例えば第1次大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応(こた)え得た教会が有ったであろうか。今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。

新らしい時代が始まりつつある。これまで貢献して来た者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚(うぬぼ)れの誘因とはならない。目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。

しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持を抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。

(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle – 言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは“スピリチュアリズムのパウロ”の異名を取るほど、その普及に献身した。 – 訳者)

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まえがき G・V・オーエン

この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では4部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送って来た霊団が予(あらかじ)め計画したものであることは明白である。

母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。

それが一応軌道に乗った頃、新らしくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学者的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。

母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第1巻『天界の低地』を構成している。

この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(さすが)に高等である。第2巻『天界の高地』は全部このザプディエル霊からの通信で占められている。

第3巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。

その名のもとで綴られたのが第4巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前3巻のいずれにも増して充実しており、結局前3巻はこの第4巻のための手馴らしであったとみても差し支えない。

内容的にみて本通信が第1部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。

本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと –

私の母は1909年に63歳で他界している。アストリエルは18世紀半ばごろ、英国ウォーリック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。

アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが1896年に僅か15ヶ月で他界するその3年前に28歳で他界している。

さて、“聖職者というのは何んでもすぐに信じてしまう”というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。

が、私は声を大にして断言しておくが、“新らしい真理”を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

因(ちなみ)に私が本通信を“信ずるに足るもの”と認めるまでにちょうど4分の1世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適(かな)っていることをはっきりと得心するのに15年かかった。

そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じて、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。

正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持にもだいぶ変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが…。

が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、そのうち注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課(ばんか)が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。

最初の4、5節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、そのうち次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
1925年秋

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1章 序説

1 守護霊ザブディエル

1913年11月3日 月曜日

守護霊のザブディエルと申す者です。語りたい事があって参りました。

– ご厚意有難く思います。

ご母堂とその霊団によって綴られてきた通信(第1巻)にようやく私が参加する段取りとなりました。これまでに授けられた教訓をさらに発展させるべき時期が到来したという事です。貴殿にその意志があれば是非ともそのための協力を得たいと思います。

– 恐縮に存じます。私に如何なる協力をお望みでしょうか。

ここ数週間に亘ってご母堂とその霊団のために行って来られた如くに、私のメッセージを今この時点より綴って欲しく思います。

– という事は母の通信が終わり、あなたがそれを引き継ぐという事でしょうか。

その通りです。ご母堂もそうお望みである。もっとも、時にはその後の消息をお伝えする事もあろうし、直接メッセージを届けさせようとは思っています。

– で、あなたが意図されている教訓は如何なる内容のものとなりましょうか。

善と悪の問題、並びにキリスト教界および人類全体の現在並びに将来に関わる神のご計画について述べたいと思う。もっともそれを貴殿が引き受けるか、これにて終わりとするかは、貴殿の望む通りにすればよい。

と申すのも、もとより私は急激な啓示によって悪戯に動揺を来す事は避け徐々に啓発して行くようにとの基本方針に沿うつもりではあるが、その内容の多くは、貴殿がそれを理解し、私の解かんとする教訓の論理的帰結を得心するに至れば、貴殿にとってはいささか不愉快な内容のものとなる事が予想されるからです。

– 私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょうか。あのままで終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

さよう終わりである。あれはあれなりに結構である。もともと1つのまとまった物語、或いは小説のごときものを意図したものでなかった事を承知されたい。断片的かも知れないが正しい眼識をもって読む者には決して無益ではあるまいと思う。

– 正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってあの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は有りのままを公表するという事でしょうか。

それは貴殿の判断にお任せしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合はないと思うが…ただ一言申し添えるが、これまで貴殿が受取ってきた通信と同様に、今回新たに開始された通信も、これより届けられる一段と高度な通信の為の下準備である。それをこの私が行いたく思います。

– いつからお始めになられますか。

今ただちにである。これまで通り、その日その日、可能な限り進めればよい。貴殿には貴殿の仕事があり職務がある事は承知している。私を相手とする仕事はそれに準じて行う事にしよう。

– 承知しました。出来る限りやってみます。しかし正直に申し上げて私はこの仕事に怖れを感じております。その意味は、それに耐えて行くだけの力量が私には不足しているのではないかという事です。と言いますのも今のあなたの言い分から察するに、これから授かるメッセージには、かなり厳しい精神的試練を要求されそうに思えるからです。

これまで同様に吾らが主イエス・キリストのご加護を得て、私が貴殿の足らざる所を補うであろう。

– では、どうぞ、まずあなたご自身の紹介から始めて頂けますか。

私自身の事に貴殿の意を向けさせる事は本位ではない。それよりも、私を通じて貴殿へ、そして貴殿を通じて今なお論争と疑念の渦中にあり、或いは誤れる熱意をもって“あたら”無益な奮闘を続けているキリスト教徒へ向けた啓示に着目して貰いたい。

彼らに、そして貴殿に正しい真理を授けたい。それを更に他の者へと授けて貰いたいと思う。その仕事を引き受けるか否か貴殿にはまだ選択の余地が残されております。

– 私は既にお受けしています。そう申し上げたはずです。私ごとき人間を使っていただくのは誠に忝(かたじけな)い事で、これは私の方の選択よりそちらの選択の問題です。私は最善を尽します。誓って言えるのはそれだけです。ではあなたご自身について何か…。

重要なのは私の使命であり私自身の事ではない。それはこれより伝えていく思想の中に正直に表れる事であろう。世間というものは自分に理解できない事を口にする者を疑いの目をもって見るものである。仮に私が「大天使ガブリエルの顕現せる者なり」と言えばみな信ずるであろう。聖書にそう述べられているからである。

が、もし「“天界”にて“光と愛の聖霊”と呼ばれる高き神霊からのメッセージを携えて参ったザブディエルと申す者なり」と申せば彼らは果して何と言うであろうか。故に、ともかく私にそのメッセージを述べさせてもらいたい。

私および私の率いる霊団についてはそのメッセージの中身、つまりは真実か否か、高尚か否かによって判断して貰いたい。貴殿にとっても私にとってもそれで十分であろう。そのうち貴殿も私のあるがままの姿を見る日が来よう。その時は私についてより多くを知り、そしてきっと喜んでくれるものと信じる。

– 結構です。お任せ致します。私の限界はあなたもご存知と思います。霊視力もなければ霊聴力もなくいかなる種類の霊能も持合わせていないと自分では思っております。

– しかし少なくともこれまで綴られたものについては、それが私自身とは別個のものである事は認めます。そこまでは確信しております。ですからあなたにその意思がおありであれば私は従います。それ以上は何も言えません。私の方から提供するものは何も無いように思います。

それでよい。貴殿の足らざるところはこちらで補うべく努力するであろう。今回はこれ以上は述べない事にしよう。そろそろ行かねばなるまい。用事があるであろう。主イエス・キリストのご加護のあらん事を。アーメン†

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2 善と悪

1913年11月4日 火曜日

神の恵みと安らぎと心の平静のあらん事を。これより述べていく事について誤解無きを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいて欲しい。

すなわち我々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものは“しつこく”構わず、現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取り組み、処理し、確固たる地盤の上を1歩1歩前進して行くという事である。

もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬわけではない。“究極的絶対者”の存在と本質およびその条件等の問題をなおざりにしているわけではないが、今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩寵が待ち受けてくれているに相違ない事を確信するが故に、そうした所詮理解し得ない事は理解し得ない事として措(お)き、そこに不満を覚えないというまでである。

完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来について“しつこく”求める事はしないという事である。それゆえ、これより扱う善と悪の問題においても、我々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限る事にする。

それは、仮に虹を全真理に譬えれば、1滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れない事を承知されたい。“悪”なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば善が実在する如く悪もまた実在する。

たとえば夜という状態は存在しない – それは光と昼の否定的側面に過ぎない、という理屈が通るとすれば、悪なるものは存在しない – 実在するのは善のみであるという理屈になるかも知れない。が、善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち“神”に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その1つ1つの態度がそれに相応(ふさわ)しい結果を生むに至る必須条件となる。

ならば当然、神に対する反逆的態度はその反逆者への苦難と災害の原因となる。神の愛は強烈であるが故に、それに逆らう者には苦痛として響く。流れが急なれば急なるほど、その流れに逆らう岩の周りの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればあるほど、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。

神の愛をこうした用語で表現する事に恐怖を感ずる者がいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。

この事は地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめる事ができる。罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。

これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるのであろうか。

現実にその情況を目(ま)の当たりにしている吾々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみが降りかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかった事を知るのである。

が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人もまた実在する事になる。盲目は物が見えない事である。が物が見えない状態があると同時に、物が見えない人も存在する。また物が見えないという状態は“欠如”の状態に過ぎない。

つまり五感あるべき所が四感しかない状態に過ぎない。が、それでもその欠如には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠如を知る。そしてその欠如の状態について認識するほど欠如の苦しみを味わう事になる。

罪もこれと同じである。暗闇にいる者を“未熟霊”と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。“堕落霊”の方が否定的要素がある。そこで私は盲目と罪とを表現するに“無”とは言わず“欠如”と言う。

生まれつき目の見えない者は視力が“無い”のではない“欠如”しているにすぎないのである。罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない“欠如”しているにすぎない。

譬えてみれば災難によって失明した状態ではなく、生まれつき目が見えない人の状態と同じである。これは聖ヨハネが“真理を知る者は罪を犯すこと能(あた)わず”と述べた言葉の説明ともなろう。

但し論理的にではない。実際問題としての話である。と言うのは、真理を悟って光と美を味わった者が、自ら目を閉じて盲目となる事は考えられないからである。それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が“欠如”しているからである。

目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者 – 地上の指導者もしくは霊界の指導霊 – の導きなくしては罪を犯しかねないのである。

しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか – 貴殿はそう思うかも知れない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば色盲にも似た者たちである。つまり彼らは物が見えてはいても“正しく”見る事ができない。

そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気付かない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らないためには“勘”に頼る他はない。それを怠る時そこには危険が待受ける事になる。罪を犯す者もまた然りである。

が、貴殿は当惑するかも知れないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達霊の中に見出す事が実に多い。意外に思うかも知れないが、事実そうなのである。彼らは霊的能力の多くを発達させる事なく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠如に気付く。

知らぬ事とは言え、永きに亘って疎(おろそ)かにしてきた事について、それから徐々に理解していく事になる。それは色盲の人間が自分の視力の不完全さに気付く事なく生活しているのと同じ事である。しかも他人からもそうとは知られないのである。

– 何か好い例をお示し願えませんか。

生半可な真理を説く者は、こちらへ来て完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路である事は認めようとしない。

こちらへ来れば代って自分が – 資格が具われば – インスピレーションを送る側にまわり、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたかを思い知る。こうして彼らはまず自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上はそれからの事であり、それまでは望めない。

さて、悪は善の反対である。が、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれにも責任を取るのはあくまで自由意志に係わる問題である。その自由意志の本質とその行使範囲については又の機会に述べるとしよう。

神のご加護のあらん事を。アーメン†

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3 神への反逆

1913年11月8日 土曜日

これより暫しの間、貴殿の精神をお借りし、引き続き悪の問題と善との関係について述べたいと思う。善といい悪といい、所詮は相対的用語であり、地上の人間の観点よりすればいずれも絶対的という事は有得ない。

双方の要素を兼ね具える者にはそのいずれも完全に定義する事が出来ないのが道理で、ただ単に、あるいは主としてその働きの結果として理解するのみである。また、忘れてならない事は、ある者にとって善または悪と思える事が必ずしも別の者から見て善または悪とは思えないという事である。

宗教的教義の違い、民族的思想や生活習慣の違いのある場合にはそれが特に顕著となる。故に両者の定義の問題においてはその基本的原理の大要を把握する事で足れりとし、そこから派生する細部の問題は地上生活を終えた後に託する事が賢明である。

さて、悪とは法則として働くところの神への反逆である。賢明なる者はその法則の流れる方角へ向けて歩むべく努力する。故意または無知故にその流れに逆らう者は、たちまちにして行く手を阻まれる。そして、もしもなお逆らい続けるならば、そこに不幸が生じる。

生成造化を促進する生命は破壊的勢力と相対立するものだからである。故に、もし仮にその強烈な生命の流れに頑強に抵抗し続け得たとしても、せき止められた生命力がいずれは堰(せき)を切って流れ、その者を一気にし押流す事になろう。

が幸いにして、そこまで頑強に神に反抗する者あるいは抵抗し得る者はいない。故に吾々神の子の“弱さ”そのものが実はそうした完全なる破滅を防ぐ安全弁であると言えるのである。

比較的長期間 – 往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が如何なる人間も永遠にその状態を続け得る者はいない。そこに父なる創造神が子らの内と外に設けた“限界”があり、1人として神より見放され永遠にもどれぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである。

そこで、そうした神との自然な歩みから外(はず)れた生き方を観たからには、今度はその反対、すなわち全てが然るべき方角へ向っている状態に目を向けよう。確かに悪は一時的な状態に過ぎない。

そして全宇宙から悪の全てが拭い去られるか否かは別として、少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、後は栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊の後に続くに任せる事になろう。

この意味において、いつかは神の国より全ての悪が清められる時が到来するであろう。何となれば神の国も個々の霊より構成されているのであり、最後の1人が招き入れられた時は、今地球へ向けて行っているのと同じように別の天体へ向けて援助と救助の手を差し伸べる事になろう。吾々の多くはそう信ずるのである。

こうして地上に降り、今いる位置から吾々の世界との間に掛るベールを透して覗いてみると、1度に大勢の人間が目に入る時もあれば、僅かしか見えない時もある。彼らは各々の霊格に応じてその光輝に差異が見られる。

神より吾々を通して地上界へ流れ来る霊的な“光”を反射する能力に応じた光輝を発しているという事である。薄ぼんやりと見える者がいるが、彼らはこちらへ来てもそれ相応の、あるいはそれ以下の、薄ぼんやりとした境涯へと赴く。

それ故、そこに居る者は各自その置かれた環境と雰囲気の中で極めて自然に映る事になる。そこがその人の“似合いの場所”なのである。譬え話でもう少し判り易く説明しよう。かりに闇夜にいきなり閃光が放たれたとしよう。

暗闇と閃光の対照が余りに際立つために見る者の目に不自然に映る。閃光は本来そこに在るべき物ではなかった。ために暗闇に混乱が生じ全ての者が一瞬その動きを止める。暗闇の中を手探りで進みつつあった者は目が眩んで歩みを止め、目をこすり、しばらくして再び歩み始める。夜行性の動物も一瞬ぎょっとして足を止める。

しかし同じ閃光が真昼に放たれたとしたらどうであろう。当惑する者は少なく、更にこれを太陽へ向けて放てば陽光と融合して、そこに何の不調和も生じないであろう。

かくして強い光輝を発する高級霊はその光輝と調和する明るさをもつ高い境涯へと赴く。むろん高級霊の間にもそれなりの差があり、各霊がそれ相応の界に落ち着く。反対に霊的体質の粗野な者は、それに調和する薄暗い境涯に赴き、その居心地よい環境の中で修身に励むのである。

むろんそこが真の意味で“居心地のよい”環境ではない。ただ、より高い世界へ行けばその光輝と調和しないために暗い世界より居心地が悪いというに過ぎない。そこに居心地よさを感じるためには、自分の光輝を強めるほかはない。

地上を去ってこちらに来る者は例外なく厚い霧状の“とばり”に包まれている。が、その多くはすでに魂の内部において高い界に相応(ふさわ)しい努力の積み重ねがある。そうした者はいち早くより明るい境涯へと突入して行く。

今、遥か上空へ目をやれば、そこに王の道 – 地球の守護神の玉座の坐(ましま)す聖都へ通ずる道が見える。吾等はその道を1歩1歩進みつつある。そして1歩進むごとに光輝が増し、吾々も、そして吾々と共に歩む同志たちも、美と光輝とを増して行く。

その中途において特別の許しを得て、それまで辿ってきた道を逆戻りし期間はその必要性によって異なるが、地上の者を吾々の辿ってきた光と美の道へと導く仕事に携わる事ができるのは、吾々の大いなる喜びとするところである。

貴殿の守護霊として私は、貴殿が現在の心の姿勢で臨んでくれるかぎり、吾々霊団と共にこの仕事を続ける所存である。貴殿はそのつもりであると信じる。が、よくよく心してもらいたい事は、勇躍この仕事に着手したものの、新しい真理の光に目が眩み猜疑心を抱いてより暗い道、つまりは己れの魂の視力に相応しい段階へと後戻りする者が多い事である。

去る者は追わず。吾らはその者たちを溜め息と共に見送り、新たなる人物、吾々の光輝に耐え得る人物を求める。惜しくも去れる者は、時の経過と共に再び目醒めて戻って来るまで待つ他はないのである。

願わくば神の御力によって、貴殿が足を踏み外す事なく、また目を曇らされる事もなく進まれる事を祈る。たとえ地上の言語で書き表せない事も、少しでも多くを綴ってもらうべく吾らとしても精一杯の努力をするであろう。

貴殿を通じて他の多くの者がそれを手中にし、そこに真理を発見し、なお勇気があれば自ら真理の扉を叩き、その光輝と栄光を手にする、その縁(よすが)となればと願うからである。†

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4 統一性と多様性

1913年11月10日 月曜日

今この地上に立って見上げる私の目に、遥か上方まで、そして更にその向こうまでも、延々と天界が存在するのが見える。私はすでにそのうちの幾つかを通過し、今は第10界に属している。

これらの界は地上の“場所”とはいささか趣を異にし、そこに住む霊の生命と霊力の顕現した“状態”である。貴殿は既にこうした界層についてある程度の教示を受けている(第1巻・6章)ので、ここではそれについて述べる事は控えたい。

それよりも私は別の角度からその光と活動の世界へ貴殿の目を向けさせたいと思う。これよりそれに入る。善なるものには2つの方法によって物事を成就する力が潜在している。

善人は、地上の人間であれ霊界の者であれ、自分の内部の霊力によって、自分より下層界の者を引き上げる事ができる。現実にそうしているのであるが、同時に自分より上層界の者を引き下ろす事も可能である。祈りによっても出来るが、自分自身の霊力によっても出来るという事である。

さて、これは神の摂理と波長が合うからこそ可能である。と申すのも、神の創造した環境に自らを合わせる事が可能なだけ、それだけその環境を通して働く事ができる。つまり環境を活用して物事を成就する事が出来るという事である。

下層界を少し向上しただけの霊によってもそれは可能であり、その完成品がベールを通してインスピレーションの形で地上へ送り届けられた時、人間はその素晴しさに感心する。

例を挙げよう。こちらには地球の存在自体を支えるための要素を担当する霊と、地上に繁茂する植物を受け持つ霊とがいる。ここでは後者の働きの説明となる例を挙げてみる。即ち植物を担当する霊の働きである。

その霊団は強力な守護神の配下に置かれ、完全な秩序のもとに何段階にも亘って分担が存在する。その下には更に程度の低い存在が霊団の指揮のもとに、高い界で規定された法則に従って造化の仕事に携わっている。これがいわゆる妖精類(エレメンタル)で、その数も形態も無数である。

今述べた法則はその根源から遠ざかるにつれて複雑さを増すが、私が思うに、源流へ向けて遡(さかのぼ)れば遡るほど数が少なくそして単純となり、最後にその源に辿り着いた時は1つに統一されている事であろう。

その道を僅かに遡ったに過ぎない私としては、これまでに見聞きしたものに基いて論ずる他はないが、敢えて言わせて貰うならば、全ての法則と原理を生み出す根源の法則・原理は“愛”と呼ぶのがもっとも相応しいものではないかと思う。

何となれば、吾らの理解の及ぶかぎりにおいて、愛と統一とは全く同一ではないにしても、さして相違がないと思えるからである。少なくとも吾々がこれまでに発見した事は、私の属する界層を始めとして地上界へ至る全ての界層において数々の地域と各種の境涯が生じていくそもそもの原因は、最も厳密な意味における“愛”が何らかの形で欠如していく事にある。

が、この問題は今ここで論ずるには余りに困難が大きすぎる。と言うのは地上の環境に見る多様性の全てが、今述べた崩壊作用の所為(と私には思える)でありながら、尚かつ素晴しくそして美しいのは何故かを説明するのは極めて困難である。

それを愛の欠如という言い方をせず、統一性が1つ欠け2つ欠けして、次々と欠けて行くという言い方をすれば、統一性が多様性へと発展して行くとする吾々の哲学の一端を窺い知る事が出来るかも知れない。

こうした下層界の活動の全てが法則によって規制されているのであるが、それなりの枠内における自由はかなりの程度まで存在する。これ又吾々にとって魅力あることである。

何となれば、貴殿も同意することと思うが、その多様性に大いなる美が存在すると同時に、植物的生命を活動させる霊の巧みさにも大いなる美が存在するからである。

精霊界およびその上あたりの界を支配する法則には私に理解し難いものがまだまだ数多く存在する。中には理解し得るものもあるにはあるが、こんどはそれを言語で伝えることが至難のわざである。が少しばかり伝えることができるものがある。それ以上のことは貴殿自身こちらへ来てから、向上の道を歩みつつ学んで行ってもらうことになろう。

その1つは、一旦ある植物群の発達の計画を立てた以上は、その主要構成分子と本質的成分はあくまでも自然な発達のコースを辿らねばならないということである。群生する劣位種の影響もその不変の原則内に抑えなくてはならない。

たとえばカシの木が計画されると、あくまでもカシの木としての発達を遂げさせなくてはならない。亜種が発生することはあっても、カシとしての本性を失ったものであってはならない – シダになったり海草になったりしてはならないということである。この原則はこれまで大体において貫かれている。

もう1つの原則は、いかなる霊も他の部門の霊の働きに干渉し台無しにすることがあってはならないということである。足並みが揃わないことがあるかも知れない。現にしばしばそういうことがあるのであるが、なるべく一時的変異の範囲に留めるよう努力し、他種の発達を完全に無視することになってはならない。それは絶滅を意味することになるからである。

故に、同じ科の2つの植物を交配すると、雑種または混成種、あるいは変異種が出来るであろう。が別の科の植物と交配しようとしても成功しない。が、いずれにしても絶滅という結果にはならない。

また樹木に寄生植物がからみつくことがある。が、樹木はそれに抵抗し、そこに闘争が始まる。大抵の場合、樹木の方が傷(いた)められ敗北を喫する。が、簡単に敗けてはいない。

延々と闘いが続き、時には樹木の方が勝つこともある。が霊界において寄生植物の概念を発想し、そして実施した霊が大局においては競り勝っていることが認められる。

こうして植物の世界においても闘争が続けられているわけであるが、これをベールのこちら側から観察していると実に興味ぶかいものがある。

さて、ここで、さきに少し触れたことで貴殿には受け入れ難いとみたことについて述べておかねばならない。こうした生成造化における千変万化の活動の主な原則は全て私自身の界(第10界)よりなお高い界において、高い霊格と強力な霊力をもった神霊が、さらに高い界の神霊の指揮のもとに計画したものであり、その神霊も又更に高い界の神霊の支配下にあるということである。

私は今“千変万化”という言葉を用い“対立的”とは言わなかった。これは高い神霊界においては対立的関係というものが存在しないからである。存在するのは叡智の多様性であり、それが大自然の美事な多様性となって天界より下界へと下り、ついに人間の目に映じる物的自然となって顕現しているのである。

対立関係が生じるのは大源より発した叡智が自由意志をもつ無数の霊の存在する界層を通過する過程において弱められ、薄められ、屈折した界層においてのみである。

が、しかし、さまざまな容積を具え、幾つもの惑星を従えた星辰の世界を見てもらいたい。地球の自転と他の惑星の引力によって休みなく満ち引きする大海を見てほしい。また、その地表に押し寄せるエネルギーに反応してさらに重い流動体を動かすところの、より稀薄なエーテルの大気を見るがよい。

更には、無数の形体と色彩をもつ草、植物、樹木、花、昆虫類、さらに進化した小鳥や動物たちの絶え間ない活動 – 他の種属を餌食としながらも互いに絶滅しないように配慮され、各種属が地上での役目を全(まっと)うしていくその姿 –

こうしたことや他のもろもろの自然界のしくみに目をやる時、貴殿は創造神の配剤の妙に感嘆し、その感嘆は取りも直さずその配下の高い神霊の働きへの感嘆に他ならないことを認めずにはおれないであろう。

その神の御名において貴殿に祝福のあらんことを祈る。†

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2章 人間と天使

1 暗闇の実在

1913年11月12日 水曜日

もしお互いが物事を同じ観点から眺めることが出来れば、いま問題としている事も容易に説明できるのであるが、残念ながら貴殿は原因の世界と結果の世界の間に掛かったベールの向う側から眺め、私はこちら側から眺めているので、必然的に視野が対立する。

そこで何とか分かり易くしようとすれば、どうしても私の方が見地を変えて出来るかぎり地上的見地に立たねばならなくなる。そこで私は出来るかぎりそう努力しつつ、貴殿を吾々とともに高く創造の根源へ目を向けるよう呼びかけたい。

つまりは高き神霊の世界から発した思念が物的形態をとりつつ下層界へ至る、その自然な過程と流れを遡(さかのぼ)ってみたいと思う。界を遡ると、自然界の事物が下層における時とは様相が違うことに気づく。

言わば心理的映像へと変わり、内的視覚に訴えるようになる。が太陽と日没後の薄明との関係と同じく、物質界の事物、あるいは更に上界層の事物との間につながりがあることはある。

まずその光の問題から始めれば、地上では光は闇との対照によって知られる。つまり光の欠如した状態が闇であり、本質的には実体も価値も持たない。それ故、吾らが闇と言う時、目の網膜に外界の事物を印象づけさせる或る種のバイブレーションが欠如した状態を意味する。

さてベールのこちら側における霊的暗黒地帯においても同じ事情が存在する。つまり暗黒の中にいる者は他の者が外界の事物を認識する際に使用するバイブレーションが欠如している。

そのバイブレーションが受け入れられない状態下にあるということである。霊的感覚に変化が生ずれば、鮮明度は別として、ともかくも見えるようになってくる。

しかし同時に、そうした暗黒の下層界におけるバイブレーションは上層界に比して粗野である。そのために、暗黒界へ下りて行く善霊にとっては、たとえその視覚は洗練されていても暗闇はやはり暗闇であり、彼らに映じる光はぼんやりとしている。

これで理解が行くことと思うが、霊と環境との間には密接な“呼応関係”があり、それがあまり正確で不断で持続性があるために、そこに恒久的な生活の場が出来あがるのである。

この霊と環境との呼応関係は上級界へ上昇するに従って緊密となり、外界に見る光はより完全にそしてより強烈となって行く。故に、たとえば第4界に住む者が第5界へ突入しそこに留まるには、第5界の光度に耐え得るまで霊性を高めなければならない。

そして首尾よく第5界に留まれるようになりその光度に慣れ切ると、こんどは第4界に戻った時に – よく戻ることがあるが – そこの光が弱く感じられる。もっとも、事物を見るには不自由はない。が、更に下がって第2界あるいは第1界まで至ると、もはやそこの光のバイブレーションが鈍重すぎて事物を見るのが困難となる。

地上時代と同じように見ようとすればそれなりの訓練をしなければならない。こうして地上へ降りて人間を見る時、吾々はその人間のもつ霊的な光輝によって認識する。霊格の高い者ほど鮮明に見えるものである。

もしも視覚以外にこうした霊的鑑識力が具わっていなければ、吾々は目指す地上の人間を見出すのに苦労するものと思われる。が幸いにして他に数多くの能力を授かっているために、こうして貴殿との連絡が取れ、使命に勤しむことが出来るのである。

これで“いかなる人間も近づくことを得ぬ光の中に坐(おわ)す存在”という言葉の真意が理解できるであろう。地上にいる者にして、数多くの界の彼方まで突入しうる者はいない。そして又、その高い界より流れ来る光はよほど霊性高き人間の目をも眩ませることであろう。

考えてもみるがよい、この弥(いや)が上にも完全な光が天界の美について何を物語っているかを。地上には地上なりに人間の目にうっとりとさせる色彩が存在する。が、ベールのすぐこちら側には更に美しく、そして更に多くの色彩が存在する。これが更に高い界へ進んで行けばどうなるか。

色彩1つにしても思い半ばに過ぎるものがあろう。天界をわずかに昇って来たこの私が目にしたものですらすでに、今こうして述べている言語では僅かにその片鱗を伝え得るにすぎない。私にとっては地上の言語は今や外国語同然であり、同時に貴殿が蓄えた用語の使用範囲にもまた限度がある。

が、喜ぶがよい。美を愛する者にとって美は無尽蔵に存在し、また光と神聖さとは常に相携えて行くものであるから、一方において進歩する者は他方において大いなる喜びを味わうことになる。これぞ“聖なる美”であり、すべての人間的想像の域を超える。

とは言え、これは熟考の価値ある課題である。熟考を重ねる者には地上の美しきものが天界のより大いなる美を真実味をもって物語ってくれるであろう。天界において求めるのは生命のよろこびのみである。それは貴殿が誤らず向上の道を歩み続けるならば、いずれの日か貴殿のものとなるであろう。†

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2 天体の円運動の原理

1913年11月15日 土曜日

さて、もう1つ私の立場から見てもらいたいものがある。地上の科学者は天体について彼らなりに観察し、その結果をまとめ、他の情報と統合して推論を下し、それにある程度の直感力と叡智とを加味して生成の原理を系統だてているが、その天体の生成過程に霊的存在と霊的エネルギーとがどう関わっているか、その真相について述べてみたい。

そもそも“天体”という用語には二重の意味があり、その理解も個人の能力と人間性の程度によって異る。ある者にとってはそうした球体は物質的創造物に過ぎず、ある者にとっては霊的生命力の顕現の結果以外の何ものでもない。が、その霊的生命力の働きについても、皆がみな同じように理解しているわけではない。

霊的生命力という用語をきわめて曖昧な意味に使用している者もいる。“神が万物を創造した”と簡単に言う者がいるが、その意味するところは途轍(とてつ)もなく深遠である。

地上という薄暗い世界を超越して、より明るい世界を知る者にとっては、多分その言い方では真理を“表現している”よりむしろ“埋葬している”と言いたいところであろう。

最も偉大なものも、最も単純な叡智から生まれる。絶え間なく運動を続ける天体の見事な連動関係(コンビネーション)も、最も基本的な幾何学的計算から生まれる。何となれば、1つの縺(もつ)れもなく自由自在の使用に耐え得るものは、最も純粋にして最も単純なものしかないからである。

その至純にして単純な状態こそ恒久性の保証である。それは地球のみに限らない。遥か彼方の星辰の世界においても永遠に変らぬ真理である。何となれば、完璧なる理法のもとに統制されているからである。

さて、それら天体組織の各軌道は2種類の原理によって定められると言っても過言ではない。すなわち直線と曲線である。否、根源的にはたった1つの原理すなわち直線からできあがると述べた方がより正確かも知れない。

つまり全ての天体は本来直線軌道の上を直進している。ところが突き進むうちに例外なく曲線を画くことになる。その道理の説明は地上の天文学者にも出来るであろう。が、1つだけ例を挙げて説明しておこう。

地球を例にとり、それが今軌道上を発進したとしよう。すると先ず直線コースを辿る。それが本来の動きなのである。ところが間もなく太陽の方角へ曲りはじめる。そしてやがて楕円状に動いていることが判る。

結果的には直線は1本もない。曲線の連続によって楕円を画いたのであり、それが地球の軌道なのである。池の中京薬一方、太陽の引力は決して曲線状に働いたわけではない。やはり一直線なのである。

結局地球の軌道を直線から楕円へと変えたのは2種類のエネルギーの直線的作用 – 地球の推進力と太陽の引力 – だったのであり、その中に多種類の曲線の要素が入り、それが完全な楕円をこしらえたのである。

実はこれには他に多くの影響力が働いているが、貴殿の注意力を逸(そ)らさぬよう、1つの原理にしぼっている。これを定義づければこういうことになろ – 2本の直線的エネルギー作用が働き合って楕円軌道を形成する、と。

太陽の引力も地球の推進力も完全な理法に沿って働き、そこには美しさと驚異的な力がある。物体が自ら働くということ自体が驚異というべきであり、真実、驚異なのである。

その両者が互いに動きを修正し合い、また大なるものが小なるものを支配しつつ、しかも小なるものの本来の力と自由を奪うことなく、連動作用により – 明らかに対立した動きをしながらも – 2本の直線よりも遥かに美しい楕円を画く。これはまさに親と子の関係にも似ている。

貴殿はまさか両者が対立した運動をするからにはこの機構は誤っており“悪”の根源より出たものである、などとは思うまい。考えてもみるがよい。この両者は虚空の中を来る日も来る日も変わることなく連繋運動を幾星霜となく続け、今なお続けている。

それを思えば、侮蔑どころか畏敬と崇敬の念を抱くべき事柄である。美しさと偉大さとを併せもつ叡智の存在を示している。これを考案された神へ讃仰の念を抱かずにはおれないであろう。偉大な叡智と偉大な力とを兼ね備えた存在であるに相違ないからである。むべなるかなである。

人間は神の御業をこのように正しく理解せず、見た目に映じた皮相な見解のもとに神および神の働きを安易に疑い過ぎる傾向がある。人間生活の中にさきの例のような対立関係を見ると、すぐに神が不完全であるかの如く言う。もっと良い方法があるはずであると思い、神の叡智と愛を疑う。

人間生活の画く大きな軌道の僅かな曲線のみ見て、あたかも全てが破滅に向かっているかの如く思いつめる。そうまで思いつめなくても、少なくとも全てが直線的、つまりは悲劇もなく苦難もないコースこそが正しい人生であると思い、対立的勢力の連動作用によって軌道を修正されることを好まない。

もとより、仮定の問題とすればそれ以外の働き方もあるかも知れない。が、もしそうなれば、神がその霊力によって実現させたところの、かの完璧な星辰の動きには及びもつかぬものとなるであろう。

人生における軋轢(あつれき)や悩み事や苦痛を生じさせるところの対立関係は、地球を無事軌道上に運行させているエネルギーの対立関係と同じなのである。完全なる全体像を見通す神の目から見ればそれで良いのであり、その成就へ向けて忍耐強く待つのである。

吾々とて全てが判るわけではなく、これから辿る道もさして遠い先まで見通せるわけでもない。ただ貴殿よりは遠くが見える。少なくとも現在の自分の置かれた事情に得心し、同じ道を歩む同胞に援助の手を伸ばし、これより先いかに遠く進もうとも、全てがうまく出来ているとの信念をもって向上へ励むのである。

と言うのも、こうして地上の霧に包まれ視野を閉ざされた状態においては、吾々はその道程について“しつこく”その価値を詮索することをせず、天界に
戻って煌々たる光の中において全体を眺める。

その高き視野より眺めると、完成へ向けて進む人生の軌道は実に美事なものである。あまりに美事であるために吾々はしばしば愛と叡智の神の尊厳に驚嘆と畏敬の念を覚え、思わず足を止めるのである。その威容の前にひれ伏す時の讃仰の念は最早や私の言葉では表現できない。ただ魂の憧れの中に表現するのみである。

アーメン。私からの祝福を。勇気をもって怖れることなく歩むがよい。先のことは私が全て佳きに計らうであろう。†

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3 ヤコブと天使

1913年11月17日 月曜日

「汝の見るところを書に著(しる)せよ」 – これはパトモス島にいたヨハネに天使が語った言葉である。彼は可能なかぎりその命に従い、書き記したものを同志に託した。そのとき以来、多くの人間がその解釈に苦心してきた。

そして彼らはああでもない、こうでもないと思案の末に、よく判らぬ、とカブトを脱ぐのである。が、彼らが解釈に戸惑うのは実は自業自得なのである。何となれば、もし幼子の如く素直な心をもって読めば容易に真理の扉を開く鍵はあったのであり、神の王国に入り、素直な人間の素直な言葉を受け取る者を待ちうける天界の美を見ることを得たはずなのである。

ところが人間はいつの時代にも“複雑”を好む。そして複雑さの中に真理の深遠さと奥行きとを求める。が、それは無駄である。何となれば、それは言わばガラスの表面を見て、反射する光の眩しさに目が眩むにも似た行為であり、その奥を見透し、そこに潜む栄光を見るべきだったのである。

かくして人間は複雑さにさらに複雑さを加え、それを知識と呼ぶ。が、知識には本来複雑さはない。知識を欠くことこそ複雑を生む要因である。故にもし私が貴殿に、そして貴殿を通して他の者に、何かを説明せんとする時、その説明のうわべだけを見てはならない。

自動書記という通信方法にこだわってはならない。つまり用語や言い回しに貴殿自身のものに酷似したものがあるからといって、それを疑って掛かってはならない。それは言わば家屋を建てるために使用する材料にすぎず、そのためには貴殿の記憶の層に蓄えられたものを借用するしかないのである。

更に言えば、貴殿のこれまでの半生は1つにはこの目的のための監督と準備のために費されてきた。すなわち、こうした自動書記のために貴殿を使用し、更に又、地上界とのつながりを深める上で吾々の及ばざるところをそちら側から援助してもらうためである。

吾々が映像を見せる、それを貴殿が文章として書き留める。かくして“汝の見るところのことを書き著(しる)し”それを世に送る。その受け止め方は各人の受容力の程度によると同時に、持てる才覚が霊的真理を感識し得るまでに鋭さを増しているか否かに関わる問題である。各々それで隹しとせねばならない。さ、吾らと共に来るがよい。出来るかぎりのものを授けよう。

– “吾々”という言い方をされますが、他に何人か居られるのでしょうか。

吾々は“協調”によって仕事を推進する。私と共にこの場に居合わせる者もいれば、それぞれの界にあって必要な援助を送り届けることの出来る者もいる。又そうするよりほかに致し方な性質の援助もある。

それは海底のダイバーのために海上から絶え間なく空気を送り込まねばならないと同じで、吾々がこうして仕事をしている間中ずっと援助を送り届けてくれる必要がある。

あたかも海底にいる如く、ふだん摂取している空気は乏しく光は遥か上の方に薄ぼんやりと見える、この暗く息苦しい地上界にあっては、そうした種類の援助を得ることによって高き真理を幾分なりとも鮮明に伝えることが出来るのである。

この点を考慮に入れ、吾々のこともその点に鑑みて考えてほしい。そうすれば吾らの仕事について幾分なりとも理解がいくであろう。かく申すのも、天使はなぜ曽てほど地上へ大挙して訪れなくなったのかという疑問を抱く者がいるからである。

この僅かな言葉の中に多くの誤解が存在するが、中でも顕著なのが2つある。まず第1は、高い霊格を具えた天使が“大挙して”地上を訪れたことは絶対にない。永い人類の歴史の中においても、あそこに1人ここに1人と、極めて稀にしか訪れていない。

そしてその僅かな事象が驚異的な出来ごとの年代記の中において大きく扱われている。天使が地上へ降りてその姿を人間に見せることは、よくよく稀にしか、それも特殊な目的のある場合を除いて、まず有り得ない。

万一そうするとなれば、さきに述べた吾々の仕事の困難さを更に延長せねばならない。つまり、まず暗く深い海底へ潜(もぐ)らねばならない。次にその海底で生活している盲目に近い人間に姿を見せるための諸々の条件を整えなければならない。

それは有り得ないことである。確かに吾々は人類のための仕事に携わり、人類と共に存在するが、そういう形で訪れることはしない。それぞれの仕事により規則があり方法も異る。そこに又、第2の誤解が存在する。

確かに吾々の身は今人間界にあり、繰り返し訪れているのであるが、この“訪れる”という言葉には、言葉だけでは表わせない要素の方が実に多いのである。

ベールのこちら側にいる者でも、あるいは吾々の界と地上界との中間の界層にいる者でも、霊の有する驚異的威力とその使用法については、向上の過程において意外に僅かしか理解していないものである。が、この問題はこれまでにして、次に別の興味ある話題を提供しよう。

例のジャボクにおいてヤコブが天使と会い、それと格闘をして勝ったという話(創世記32) – 貴殿はあの格闘をどう理解しているであろうか。そして天使が名前を教えなかったのはなぜだと思われるであろうか。

– 私はあの格闘は本当の格闘であったと思います。そしてヤコブが勝たせてもらえたのはパダン・アラムでの暮らしにおける自己との葛藤が無駄でなかったことを悟らせるためであったと思います。つまり“己れに勝った”ということです。そして天使が名を明かさなかったのは肉体に宿る人間に天使が名を明かすことは戒律(おきて)に反くことだったからだと思います。

なるほど。最初の答えはよく出来ている。あとの答えは今1つというところである。何となれば、考えてもみよ、名を明かさなかったのはそれが戒律に反く行為であるからというのなら、では一体なぜそれが戒律に反くことになるのであろうか。

さて例の格闘であるが、あれには真実味と現実味とがあった。もっとも、人間が行うような生身と生身の取り組みではなかった。もし天使に人間の手が触れようものなら、天使は大変な危害をこうむるであろう。確かにヤコブの目に映するほどの形体で顕現し、触れれば感触が得られたであろう。

が手荒らに扱える性質のものではなかった。天使の威力はヤコブの腰に触れただけで脚の関節が外れたという話でも想像がつくであろう。では、それほどの威力ある天使を組み伏せたほどのヤコブの力は一体何であったのか。実は天使はヤコブの力によって組み伏せられたのである。

と言って、ヤコブの念力が天使のそれを凌いだというのではない。天使の謙譲の徳と特別な計らいがそこにあったのである。天使が去ろうとするところをヤコブが引き止めると、天使はそれに従ったが、ぜひ帰らせてほしいと実に“いんぎん”に頼んでいる。貴殿はこの寛恕の心の偉大さに感嘆するであろう。

がそれも、イエス・キリストが地上で受けた恥辱を思えば影が薄くなるであろう。いんぎんさは愛の表現の1つであり、それは霊性を鍛える永い修行において無視されてはならない徳の1つである。

こうして天使はその謙譲の徳ゆえに引き止められた。が、それはヤコブが勝ったことを意味するものではない。新たに自覚した己れの意志の力と性格が、しばし、けちくさい感情を圧倒し、素直に天使に祝福を求めた。天使はすぐに応じて祝福を垂れた。が、その名は明かさなかった。

名を明かすことが戒律に反くという言い方は必ずしも正しいとは言えない。名を明かすこともあるのである。ただ、この時は明かされなかった。それはこういう理由による。

すなわち名前というものには或る種の威力が秘められているということである。このことをよく理解し銘記してほしい。なぜなら、聖なる名を誤って使用し続けると不幸が生ずることがあり、それに驚いてその名の主が忌み嫌われることになりかねないからである。

ヤコブが天使の名を教えてもらえなかったのは、ヤコブ自身の為を思ってのことであった。祝福をよろこんで求めた。章が、それ以上にあまり多くを求め過ぎぬようにとの戒めがあったということである。

ヤコブは天使の偉大なる力をほとんど直接(じか)に接触するところまで体験した。が、その威力をむやみに引き出すことは戒めなければならない。そうしなければ、その後に待ち受ける奮闘は己れの力によるものではないことになるからであった。

今、貴殿の心に疑問が見える。吾々に対する浅はかな要求が聞き入れられることがあるかということのようであるが、それは可能であるのみならず、現実にひっきりなしに行われている。

不思議に思えるかも知れないが、その浅はかな要求を吾々が然るべき形にして上層界へ送り届ける。が、往々にしてその結果は、当人自身の力をふりしぼらせ、そうすることによって霊界からの援助に頼るよりも一層大なる力を発揮させるべきであるということになる。

地上の人間が必死にある者の名を呼べば、それは必ずその者に届く。そして可能なかぎり、そして本人にとりて最良の形で世話を焼き活動してくれる。

思うにヤコブは兄エサウとの闘争、息子たちとの諍(いさか)い、飢饉との戦い、そして数々の試練によって自己の人間的威力を否応(いやおう)なしに発揮させられることで、たびごと天使の援助を頼りとした場合より飛躍的進歩を遂げたことであろう。

彼の要求はしばしば拒否され、それが理解できないために信仰に迷いを生じ当惑したことであろう。また時には援助が授けられたことであろう。がそれは歴然とした形で行われたであろうから、理解するに努力は要らず、従って進歩も必要としなかったことであろう。

この問題はこれ以上続けぬ。ヤコブの例を引いたのは、吾々の姿が見えず声も聞こえないからといって、それだけ貴殿が距離的に吾々から遠く離れているわけでもなく、また吾々が貴殿から遠くに居るわけでもないことを示すためであった。

吾々が語り貴殿が聞く。しかしそれは聴力で聞くよりも更に深い、貴殿自身の内奥で聞いている。貴殿の目に映像が見える。が、それは視力で見るより更に内奥の感覚にて見ている。貴殿は何1つ案ずるには及ばない。

吾々も少しも案じてはいない。そしてこれ以後も貴殿を使用し続けるであろう。故に平静さとキリストを通じての神への祈りの気持をもち続けてほしい。吾々はキリストの使者であり、キリストの名のもとに参る者である。†

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4 神とキリストと人間

1913年11月18日 火曜日

地上の全存在の創造が完了した時、最後に1つだけ最も偉大なものが未完のまま残された。それが人間である。人間はその後の発達に任された。驚異的な才能を賦与されていたからこそ向上進化の道を啓示され、その道を自ら辿るに任された。

1人ぽっちではない。天界の全政庁が、人間がいかにその才能を駆使して行くかを見守っていたのである。今ここで地上の学者の説く進化論や神学者の説く堕罪と昇天について改めて述べるつもりはない。それよりも、もっと広い視野に立って人間本来の向上心と現状について述べてみたい。

また吾々にも人間の未来を勘案し神の子全ての前途に横たわる、奥深くそして幅広い天界のその少し先くらいは覗き見ることを許されているのである。
またその考察に当っては、地上で説かれている神学的ドグマに捉われることがないことも承知されたい。

神学の世界はあまりに狭隘(きょうあい)であり、又あまりに束縛が多いために、広い世界に永く暮らしていた者が不用意に手足を伸ばせば、取り囲む壁に当たって傷を負いかねない。更に広く旅せんとしても、もっと苦しい災難がふりかかるかも知れないとの不安のために、つい躊躇してしまうのである。

よく聞くがよい。神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸の如く絶対的なものを思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかも知れないが、吾々にとっては、道を誤らぬために神より賦与されている人間本来の意志と理性の自由な行使を恐れ、ドグマと戒律への盲従をもって神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。

考えてもみよ。神の不機嫌に恐れおののかねばならぬとは、一体その神と人間とはいかなる関係であろうか。自らの思考力を駆使して真摯(しんし)に考え、その挙句にたまたまドグマから逸(そ)れたからといって、神がその者を不気味な笑みを浮かべて待ち受け網をもって捕らえんとしているとでも言うのであろうか。

それとも“汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する”と述べたというのはこの神のことであろうか。自由闊達に伸び伸び生き、持てる才能を有難く敬虔な気持をもって存分に使えばよいのである。

そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強くふりしぼって矢を射よ。1度や2度的(まと)を外れたとて少しも戸惑うことはない。恐れてはいけない。

神が却下されるのは自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。このことは自信をもって断言する。私はその二種類の生き方を辿った人間が地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、更には高級界へと進み行く門を探し求めるその経緯(いきさつ)を見て、その真実性を十分に得心しているのである。

さて、天界の大軍の一員としての貴殿によくよく心して聞いてほしいことがある。改めてこう申すのも、これから私が述べることの中には貴殿の思考にそぐわないものがあるかも知れないからである。願わくば私の伝えるままを記してもらいたい。

キリスト教徒の中にはキリストを神と認めない者が多くいる。実はその問題に関しては地上のみならずベールのこちら側にても軽々しく論じられている。と言うのも、地上にかぎらず、吾々の世界でも、真理を知るためには自ら努力して求めねばならないという事情があるのである。

吾々には啓示の奇蹟は与えられず、と言って自由な思考が上級界より抑制されることもない。人間と同様に吾々も導きは受けるが、あれこれと特定の信仰を押しつけられることはない。それ故に吾々の世界にもキリストは神にあらずと説き、そう説くことで万事終わりとする者が大勢いることになる。

この度の私の目的はそれを否定して真相を説くことではない。それを絶対のものとして説くつもりはさらにない。それよりも私はまずその問題の本質を明らかにしたい。そうすることで、用語の定義づけを疎(おろそ)かにしてはこの種の問題が理解できないことを説きたいと思う。

ではまず第一に、一体〝神"とは何を意味するかということである。"父なる存在"を想う時の、1個の場所に位置する個人、つまり人間のような1人物を意味するのであろうか。

もしそうだとすれば、キリストが神でないのは明らかである。さもないと、それは2重の人物つまり2個の人物が区別のつかない状態で一体となった存在を創造することになる。

キリストが“私と父とは1つである”と言ったのはそういう意味で述べたのではない。対等の2人の人物が一体となることは考えられないことであり、理性が即座に反する。

それともキリストは父なる人間として顕現したものという意味であろうか。もしそうだとすれば、貴殿もそうであり私もそうである。なぜなら、神は全存在に宿り給うからである。あるいはキリストにおいて父なる神の全てが統一体としてそのまま宿ったということであろうか。

もしそうだとすれば、これ又、貴殿にも私にも同じように神は完全なる形で宿っていることになる。なぜなら、神は不可分の存在だからである。しかしそれを、神の全てがキリストに宿り吾々には宿っていないという言い方をすれば、それは単なる1個の俗説に過ぎず、それ以上の価値は無い。これは非論理的でもある。

何となれば、もしも神がそっくりキリストの中に宿るとすれば、キリストが即ち神となって両者の区別がつかないことになるし、必然的にキリストに宿る神が神自身の中には宿らぬという妙な理屈にもなる。これでは理性が納得しない。

それ故吾々が第一に理解しなければならぬことは、“父”というのは神について吾々が考え得るかぎりの“最高の要素”を指すための名称に過ぎないということである。もっとも、吾々にはそれすら本当の理解は出来ていない。なぜなら、正直に申して、父なる神は吾々の理解を超えた存在だからである。

私には父なる神を定義することは出事ない。まだ1度もその御姿を拝したことがないからである。“それより以下”の存在にその全体像が見える道理がないのである。私が拝したのはその部分的顕現であり、それがこれまで私に叶えられた最高の光栄である。

ならばキリストと父との一体性の真意も又、吾々の理解を超えた問題である。キリスト自身が吾々より上の存在だからである。キリストは吾々に思考し得るかぎりのことを述べておられるが、吾々にはまだその多くが理解できていない。

地上においてキリストは父なる神を身をもって証言してみせられた。つまり人間の身体によって顕現し得るかぎりの神の要素を吾々に示されたということである。それ以上のことは判らぬ。が、謙譲の徳と敬虔なる愛が深まるにつれて知識も深まり行くことであろう。

キリストが父と一体であるのと同じ意味において吾々はキリストと一体である。“人間性”と呼ぶもの“神性”と呼ぶものとの融合したキリストの中に存在することによって、吾々は父なる神の中に存在する。

キリスト自身が述べておられるように、父はキリストより偉大なる存在である。が、どれほど偉大であるかは語られなかった。たとえ語られたとしても、吾々には理解し得なかったであろう。

さて、以上の説を読まれて、これでは私は人間が組み上げてきた足場組みを徒(いたず)らに取り払うのみで、しかも結局は建物すら見えないことになるではないかと言う者もいるであろう。

が、私の目的は当初に述べたように、建物を構築することではない。今何よりも必要なのは確固たる基盤づくりであることを指摘することであった。脆弱(ぜいじゃく)な基盤の上に建てたものは、見ているうちにも、あるいは早晩かならず崩壊して多くの労力が徒労に終ることは必定(ひつじょう)である。

実は人間はまさにそれに等しいことをこれまで延々と続けてきたのである。そして自らはそれに気づいていない。明確であるべき多くのことが未だに曖昧模糊(あいまいもこ)としている原因がそこにある。“よくは知らぬ、がしかし…”というせりふで始めて断定的な事を述べるのは賢明とは言えない。

高慢は得てして謙虚な心の美しさを見えなくする。また深遠な問題に対して即座に答える者が叡智に溢れていると思うのも誤りである。何となれば、確信は得てして傲慢と相通じていることがあり、傲慢から真実は生まれず、また愛すべきものでもないからである。

貴殿と、守護霊としての私とは、永遠なる生命であるキリストにおいて一体である。キリストの生命の中において吾々は互いに相見(まみ)え祝福し合う。では私から祝福を述べるとしよう。そして貴殿から届けられた厚意に深く感謝する。†

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5 第10界の住居

1913年11月19日 水曜日

そういう次第であるから、私が語る言葉は多くの者にとって受け入れ難いものであろう。が、このことだけは知っておいてほしい。キリストの祭日には東からも西からも大勢の信者がキリストの神性の真相を知らぬまま参列する。

が、その人間的優しさと愛ゆえにキリストに愛を捧げる。少なくともそこまでは理解できるからである。が、その神性の本質を理解する者は1人としていない。そこでこれより話題を変えて、まず肉体に宿る人間がキリストによって示された向上の道を歩む上において心すべきことを取り挙げてみよう。

何よりもまず人間は“愛する”ことが出来なければならない。これが第一に心がけるべきことであり、また最大のものである。難かしいのはこれを持続することである。互いに愛し合うべきであると言えば、誰しもその通りであると言う。

が、これを行為で示す段階に至ると、悲しいかな、能書き通りには行かない。しかし、愛なくしてはこの宇宙は存続し得ず、崩壊と破滅の道を歩むであろう。宇宙が今あるべき姿に保ち続けているのは神の愛あればこそである。その愛は、求める者ならば至るところに見出すことが出来る。

物事を理解する最上の方法はその対照を求めることである。愛の対照は崩壊である。なぜなら、崩壊は愛の行使の停止から生じるからである。憎しみも愛の対照である。もっとも、本質的には対立したものではない。憎しみは往々にして愛の表現を誤ったものに過ぎないからである。

人間についていえることはそのまま教義や動機についても言える。他の主義・主張を嫌うその反動で1つの主義に傾倒するという者が数多くいるものである。愚かしくもあり誤ってもいるが、必ずしも悪とは言えない。

が、人間は他を憎む時、憎むが故に愛することが出来ないことになり、ついには何ものをも愛することが出来ないことになることを知らねばならない。これが実はこちらの世界での面倒を増幅するタネの1つなのである。

と申すのは、誰しも憎まずして全てを愛することが出来るようにならぬかぎり、愛がすなわち光を意味するこの世界においての進歩は望めず、愛することを知らぬ者は暗き世界において道を見失い、その多くが身も魂も精気を失くし、ついには真理の鑑識力までが外界と同じくもうろうとしてくるのである。

一方には1つ1つの石材までが光輝を放つ“天界の住処(すみか)”が無数に存在し、あたり一円、はるか遠き彼方まで光を放っている。その光はそこに住む者の愛の純粋さが生み出すのである。

– そうした住居と、そこに住む人々について具体的にお教えねがえませんか。その方が一般的な叙述より判り易いと思うのですが。

それは容易なことではない。その困難さはいずれこちらへ来れば判る。たとえ要求に応じても、貴殿が得るものは結果的には真実からずれる – 少なくとも不適切なものになる。そのこともいずれ理解が行くことと思う。

が、たっての要求とあらば、何とか説明してみよう。何か特別に叙述してほしいことがあれば申すがよい。

– では、あなたご自身の住いから。

第10界においては低級界に存在しない事情、とくに地上ではまったく見られぬ事情がある。たとえ貴殿をその10界まで案内したところで、貴殿の目には何も映らぬであろう。霊的状態がその界の状態にそぐわないからである。せいぜい見えるのはモヤの如き光 – それもその界のどの地域であるかによって程度が異る。

9界そして8界と下ればより多くのものが見えるであろうが、やはり全ては見られない。しかも、目に映したものをすみずみまで理解することは出来ないであろう。

かりに1匹の魚を水を盛ったガラスの器に入れて町中を案内したとしよう。その魚には、まず第一にどれだけのものが見え、第二にそれがどれだけ理解できるであろうか。思うに、魚にはその住処 – 水つまり魚本来の環境からせいぜい2、3インチ先しか見えないであろう。

貴殿の顔を魚に見える位置に持って行き、次に手を見せてやるがよい。魚にはその2つの物がどう映るであろうか。人間が吾らの界へ来た時もそれと同じである。内在する霊的能力を活性化し、楽に使用できるようになるには、ただ“鍛錬”あるのみである。

さて、話をさらに進めて、たとえばその魚にウエストミンスター寺院を説明するとなったらどうするか。村の教会でもよい。それを魚の言語で説明しなければならない。その話を聞いた魚が貴殿の言うことが不合理であると言ったところで、それは魚の能力の限界のために貴殿の思うに任せぬからに過ぎない。

もし村の教会やウエストミンスター寺院のようなものがあるわけがないと魚が言ったところで、それは貴殿の説明がまずいのではなく、魚の方の理解力に原因があることをどうすれば納得させることが出来るであろうか。

が、たつての要望であれば、これより私の住居、私の寛ぎの場について出来るだけの説明を試みてみよう。が、終わってみれば多分貴殿はもっと何とかならなかったものかと思うであろうし、いっそのこと何も語らずにいた方が良かったということになるかも知れない。

吾らが住居を建立している国は数多くの区域にまたがっており、それぞれの区域からはその特質を示す無数の色彩が発散され、それが私と共に住む者たちの霊性とほぼ完全に一致している。

それらの色彩のほとんどは貴殿の知らぬものばかりであるが、地上の色彩も全て含まれており、それが無限と言えるほどの組み合せと色調をもっている。吾らが携わるその時その時の仕事によって調和の仕方が異り、それが大気に反映する。

また吾らの界へ届けられるさまざまな思念と願望に対してもその住居が反応を示す。それには下層界からの祈りの念もあれば上層界からの援助の念もあり、その最下層に地上界が存在する。

音楽も放送される。必ずしも口を使うとは限らない。大ていは心から直接的に放送し、それ近隣の家々に反響する。これも吾らによる活性化の一端である。周囲の樹木、花等の全ての植物もその影響を受け、反応を示す。かくて色彩と音楽という本来生命のない存在が吾らの生命力を受けて意識に反響することになる。
家屋の形は4角である。が、壁は4つだけではなく、また壁と壁とが向き合っているのでもない。すべてが融合し、また内と外とが壁を通して混り合っている。壁は保護のためにあるのではなく、他に数々の目的がある。

その1つはバイブレーションの統一のため、つまり吾らの援助を必要とし又その要請のあった地域へ意念を集中する時に役立てる。かくて吾々は地上からの祈りにも応えて意念を地上へ送り、他のもろもろの手段を講じて援助を授けることになる。

同じく上層界からの意念が吾々の界へ届けられ、それが吾々の家屋をはじめとして他に用意した幾つかの作用によって吾々の感覚に反応するものに変えられ、それを手段として高級神霊との連絡を取り、吾々を悩ませる問題についての指導を受けることもある。

更には、反対に下層界から使命を帯びて吾々の界へ訪れる者にこの界の環境条件に慣れさせ、

滞在中の難儀を軽減するために霊力を特別に授ける時にも、この家屋を使用する。また吾々と話を交わし、吾々の姿を見せ、声を聞くことが出来るようにしてあげるのにも、その家屋に具わっている作用が活用される。それなくしては彼らは使命が全う出来ないのである。

私の家を外部より眺めた様子を、地上に近い界の1住民による叙述によって紹介しよう。彼は私の家を見た時に“隠し得ぬ光に包まれし丘上の都”(マタイ5・14)という言葉を思い出したという。

見た時の位置は遥か遠くであったが、その光に思わず立ち止まり地面へ降下した。(そこまで空中を飛行していたのである)そこで暫し彼は目を覆った。それから徐々に遠くに輝くその建物が見えるようになったのであった。

例の塔(第一巻参照)も見えたが、その青い光があまりに強烈で、どこまで光輝が届いているか見分けがつかなかったという。天上へ向けて限りなく伸びているかに思えたのである。それから例のドームも – 赤色のもあれば黄金色のもある – その光輝があまりに眩しく、どこで終わっているのか、その全体の規模を見ることが出来なかった。

門も外壁も同じく銀色、青、赤、すみれ色に映え、眩(まばゆ)いばかりの光で丘全体と周囲の森を覆いつくし、それを見た彼は、そこへいかにして入りそして無事その光に焼き尽くされずに戻れるだろうかと思ったとのことであった。

が、吾らにはすでにその者の姿が見えていた。そこで使いの者を派遣して然るべき処置を施させたのであった。無事使命を終えて吾らに別れの挨拶をしに見えたとき彼はこう述べた。

「今お別れするに当たって私の心に1つの考えがつきまとっています。それは、私が戻れば仲間の者から私が訪れた都はいかなるところであったかと聞かれることでしょうが、一たん自分の本来の界層に帰り、再び元の限りある能力での生活に戻ったとき、この光栄をどう語ればよかろうかということでございます。」

私は答えた。「これ以後、あなたは2度と曽てのあなたに戻ることはないでしょう。何となればあなたの中にこの界の光と感受性とがいくらかでも残るはずだからです。あなたの記憶に残るものは仲間に告げるものより遥かに大きいことでしょう。

なぜなら、たとえ告げても理解してもらえないでしょうし、告げようとすればこの界の言語を使用せざるを得ないからです。それ故あなたは彼らにこう告げられるがよろしい – より一層の向上に鋭意努力することです。そうすれば自ら訪れて、語ってもらえないものを自ら見ることが出来るでしょう、と。」

聞き終ると、彼は大いなる喜びのうちにこの界をあとにした。同じことがいずれ貴殿の身の上にも訪れる日が来るであろう。彼に告げた最後の言葉をここで貴殿にも与えることにしよう。†

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3章 天上的なるものと地上的なるもの

1 古代の科学と近代の科学

1913年11月21日 金曜日

読むのが速い者が必ずしも正しく読み取っているとは限らない。そういう者は、見た目に重要に思えない事柄は落着いてじっくり考える余裕を持たないものだからである。

表面的なこと以外は目に止まらないのである。であるから、通信が判り易く書かれていると、大部分が軽るく読み流されてしまい、そのメッセージの重要性が目に止まらないことになる。

このことは人間が自然と呼んでいるもの、つまり霊力が物質を通して活動しているその表面的な現象に“書かれて”いる教訓についても言える。また人間なり民族なりがその本来の性格を基盤として繰り広げる運命の働きについても同じことが言える。

更にこのことは、程度こそ異るが、いわゆる科学の発見においても言えることである。ではこれより、この発見の問題を取り上げ、ざっと目を通すだけで深く読もうとしない大方の人間よりも深く踏み込もうとする人間に対して深く暗示されているものを観てみよう。

歴史と同じく科学もまた繰り返す。が決してまったく同じことを繰り返すわけではない。知識の探求にも常に大よその原理というものが支配しており、その原理が一定の役割を果たすと、他の原理にその場を譲って裏側へまわり、新たな原理が人類の注目を世界中で集中的に受けることになる。

が、時の経過とともにいつしか前の原理が再び表に出て来て – 順序は定まっていないが – 新しく人類の注目を集める。かくして人類進化の行進が続けられる。

発見そのものの種類も又、失われては新たに発見されることを繰り返す。まったく同じものではない。外観が変わり、新たな特徴が加わり、同時に古い特徴が失われている、ということがしばしば見られる。

以上述べたことを更に判り易くするために、例を挙げて細かく説明しよう。曽ては科学そのものが今日の科学とは異る意味をもった時代がある。つまり科学にも心があり、物質的現象は二次的な意味しかもたなかった。

錬金術がそうであり、星学がそうであり、工学ですらそうであった。当時すでに地上世界が霊的世界によって支配され、無数の霊団が自発的に一但し上層界から偉大な霊力と崇高な権威によって規制された限度内で – 監督に当たっていることが知られていた。

そして当時の人間はそうした霊的支配者の程度や階級、及び自然界と人間界の各部門における彼らの役割、更には各階級から行使される霊力の量まで知ろうとする研究が行われていたのである。

事実、彼らはおびただしい数の事実を発見し、分類した。ただ、そうした事実や法則、規制、条件等が地上的なものでなく霊的なものであったがために、彼らは己むなくそれを通常の言語とは別の形で表現した。

これが関心の異る別の世代が台頭してくると、先祖が伝承話の形に込めた知識の何たるかを考慮することなく、これは単なる譬え話であり象徴的なものにすぎないと断定してしまう。

そう断定することで裏に秘められた事実が輪郭を失い、やがて真実味まで失って行く。さまざまな民族における霊力の研究成果がそうした経過を辿り、これがヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語を生み出すことになった。それらは、まぎれもなく古代の科学が或るものを付加され、或るものを抜き取られ、さまざまに歪められながら生き残れる姿なのである。

が、そうした物語をいま述べたことに照らし、その本質と近代に至ってからの潤色とを選り分けて読めば、その底に、あたかも幾世紀ものあいだ土砂に埋もれたエジプトの古代都市の如く、太古の科学すなわち霊的観点より考究した知識を見出すことが出来る。†

– 何か顕著な例を挙げていただけませんか。

「ジャックと豆の木」という物語がある。まず名前を見るがよい。ジャックはJohnの愛称であり、このジョンを最初に用いたのは例の「黙示録」の著者(ヨハネ、英語読みでジョン – 訳者)である。豆の木は「ヤコブのはしご」(創成記)すなわち霊界の上層界へ辿り着くための階段の翻案である。

物語の意味は、天界に辿り着けばそこは現実の国であり、さまざまな地域があり、自然の風景があり、家々があり、素晴らしい知識がある。天使はその全てを人間に授けるつもりはないのであるが、時に大胆で能力のある人間が侵入して地上へ持ち帰ることがある。

天使はそれを取り返そうとし、人間がそれ以上に大胆になることによって獲得する所有権を奪おうとするのであるが、人間は生来の機智を弄(ろう)してそれを妨げることが出来るというのである。

さて、これはなかなか面白い話ではある。が、その深い意味を理解せぬ者によって幾世紀も語り継がれて来たために、話の筋が奇妙で滑稽にさえなっている。たとえば、もしも真の意味が理解されておればジャックという軽々しい愛称は用いられなかったであろう。

があのジャックのお馴染みの衣装を見れば分る通り、ジャックという俗称に変わったのは神聖なものや霊的なものが軽視された時代のことである。当時は霊的存在を理解することが出来なかったのである。悪魔に衣服を着せ、刃物のような耳やしっぽを付けたりしたのも同じ理由からである。

すなわちそうしたものは当時ではあくまで神話の世界だけの存在だったのである。従って悪魔の性格も神話的な架空のものに過ぎなかった。この物語は数多く存在する物語の1つに過ぎない。「パンチとジュディ」という物語も救い難き極悪人としてのピラトとイスカリオテ(ユダ)を風刺したものである(※)

がこの宗教的にして且つ恐ろしき事実を扱うその手法にも、当時の時代的軽薄さが歴然としている。(※「パンチとジュディ」はパンチという名のせむし男が子供を絞殺したり妻のジュディをいじめ殺したりする古い英国の人形芝居であるが、これはイエスの処刑を命じた残虐非道のローマ総督と、イエスを裏切ったユダを風刺したものとされる。 – 訳者)

まさに軽薄であり、これまで常にそうであった。が、今の時代に至って霊的なるものがようやく人間世界に戻り、その位置を見出しつつある。必ずしも正当な位置を得ているとは言えないが、少なくとも過去幾世紀における扱われ方に較べれば、より大きな考慮を払われていると言えよう。

かくして外面的には様相を変えてはいるものの、内面的にはかのエジプトの星学を支配した一般的原理、並びにモーセが学びそして活用した叡智に類似したものが今日再び人間界に戻りつつある。

それが人間の意識を高め、生命力の産物 – 貝殻、石、化石 – をいじくりながらその生命力の根源の存在を認めようとせぬ過去の唯物思想に存在意義を賦与しつつある。曽ての唯物科学は大自然の法則の秩序ある働きを説いた – にも拘わらず、その秩序と働きの背後の唯一絶対の霊的始源の存在を否定した。

大自然の美を謳(うた)った – なのに、その美も人間に霊が宿ればこそ感識し得るものであること、そしてその霊も永遠なる神の生命が存在すればこそ存在を得ていることを忘れていた。

吾らは常に人間界を見守っている。そして許されるかぎり、好機の与えられるかぎりにおいて導いている。もし人間が吾らの働きかけに忠実に応えてくれれば、今まさに過ぎ去りつつある時代よりも更に多くの光と愛と生命の美に溢れる時代が到来する。吾々は人間はきっと応えてくれるものと確信する。

何となれば、新らしきものは古きものに勝るのが必定であり、更に、吾らが地上へ向けて働きかける時、背後に更に高い世界からの叡智と霊力とが澎湃(ほうはい)として迫り来るものを感ずるのである。そして吾らは、これぞ上層界の意図であり要望であると確信するものを実行に移す。

吾々とて、余りに遠き未来まで覗き見ることは出来ない。それにはそれなりの特殊な部門があり、それは現在の吾々の霊団の任務には組み入れられていない。

が、吾らはその努力が多くの人間に首尾よく反応を示してくれることに喜びを感じ、時の経過と共により多くの機会を得て、人間にとって吾らがいかに身近な存在であるか、又、人間が常に謙虚にして冷静さを保ち、最高の模範としてキリストを目指し、吾らの教説の中にたとえ走り読みにせよ見出せるであろう聖なる美を体現すべく努力しておれば、いかに大きな仕事を成就する潜在力を秘めているかを示すことが出来る – そう期待しているのである。

それというのも、キリストの霊的生命は、それをひと目見れば、美とは何かを知る者は恍惚の境へと誘われるほどのものだからである。キリストの名において吾らは愛し、キリストに向けて吾らは崇拝の念を捧げる。常にキリストの安らぎのあらんことを。アーメン。†

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2 守護霊と人間

1913年11月24日 月曜日

更に言えば、いついかなる時も吾らの存在を意識することは好ましいことであり、吾らにとって何かと都合が良い。事実、吾らはいつも近くにいる。もっとも、近くにいる形態はさまざまであり意味も異る。

距離的に近くにいる時は役に立つ考えや直感を印象づけるのが容易であり、又、仕事がラクに、そして先の見通しも他の条件下よりは鮮明に見えるように順序よく配慮することが出来る。

吾らの本来の界にいる時でも、人間の心の中および取り巻く環境で起きている事柄のみならず、その事情の絡み合いがそのまま進行した場合どういう事態になるかについての情報をも入手する手段がある。

こうして接触を保ちつつ吾らは監督指導が絶え間なく、そして滞りなく続けられるよう配慮し、挫折することのないよう警戒を怠らない。それが出来るのも吾らの界、および吾らと人間との間に存在する界層を通じて情報網が張りめぐらされているからであり、必要とあらば直接使者を派遣し、場合によっては今の吾々がそうであるように、自ら地上へ降りることも可能だからである。

更にその方法とは別に、吾らの如き守護の任にある者が本来の界に留まったまま、或る手段を講じて自分に託された人間と接触し、然るべく影響を行使することも可能である。これで理解が行くことと思うが、創造主の摂理は全界層を通じて一体となって連動し、相関関係を営んでいる。

宇宙のいかなる部分も他の影響を受けないところは1つとして無く、人間が地上において行うことは天界全域に知れ亘り、それが守護霊の心と思想に反映し、守護霊としての天界での生活全体に影響を及ぼすことになる。

されば人間は常に心と意念の働きに注意せねばならない。思念における行為、言葉における行為、そして実際の行為の全てが、目に映じ手を触れることの出来る人々に対してのみならず、目には見えず手を触れることこそ出来ないが、いつでも、そしてしばしば監視しながら接触している指導霊にも重大なる影響を及ぼすからである。

それのみではない。地上から遠く離れた界層にて守護の任に当る霊にも影響が及ぶ。私の界においても同じである。この先更にどこまで届くか、それは敢えて断言することは控えたい。が、強いて求められれば、人間の行いは7の70倍の勢い(※)をもって天界に知れ亘る、とでも答えておこう。

その行き着く先は人間の視野にも天使の視野にも見届けることは出来ない。何となれば、その行き着くところが神の御胸であることに疑いの余地はないからである。(※マタイ18・22。計り知れない勢いの意 – 訳者)

故に、常に完全を心がけよ。何となれば天に坐(ましま)す吾らが父が完全だからである。不完全なるものは神の玉座に列することを許されないのである。
では善と美を愛さぬ者の住む界層はどうなるか。実は吾らはその界層とも接触を保ち、地上と同じように、援助の必要があれば即座に届けられる。

縁が薄いというのみであって決して断絶しているわけではないからである。その界層の霊たちも彼らなりに学習している。その点は人間も変わらない。ただしその界の雰囲気は地上よりは暗い – ただそれだけのことである。彼らも唯一絶対なる神の息子であり娘であり、従って吾らの弟であり妹でもあるわけである。

人間の要請に応える如く彼らの魂の叫びに応えて吾らは援助の手を差しのべる。そうした暗黒界の事情については貴殿はすでにある程度のことを知らされている。が、ご母堂の書かれたもの(第1巻3章)にここで少しばかり付け加えるとしよう。

すでにご存知の通り、光と闇は魂の状態である。暗黒界に住む者が光を叫び求める時、それは魂の状態がそこの環境とそぐわなくなったことを意味する。そこで吾らは使者を派遣して手引きさせる。が、その方角は原則として本人の希望に任せる。つまり、いきなり光明界へ連れてくることはしない。

そのようなことをすれば却って苦痛を覚え、目が眩み、何も見えぬことになる。そうではなく暗黒の度合の薄れた世界、魂の耐えうる程度の光によって明るさを増し世界へ案内され、そこで更に光明を叫び求めるようになるまで留まることになる。

暗黒地帯を後にして薄明の世界へ辿り着いた当初は、以前に較べて大いなる安らぎと安楽さを味わう。その環境が魂の内的発達程度に調和しているからである。が、尚も善への向上心が発達し続けると、その環境にも調和しない時期が到来し、不快感が募り、ついには苦痛さえ覚えるに至る。

やがて自分で自分がどうにもならぬまま絶望に近い状態に陥り、自力の限界ぎりぎりまで至った時に、再び叫び声を上げる。それに応えて神の使者が訪れ、更に一段階光明界に近い地域へと案内する。そこはもはや暗黒の世界ではなく薄明の世界である。かくて彼はついに光が光として見える世界へ辿り着く。

それより先の向上の道にはもはや苦痛も苦悩も伴わない。喜びから更に大きな喜びへ、栄光からより大いなる栄光へと進むのである。ああ、しかし、真の光明界へ辿り着くまでに如何に長き年月を要することか。苦悶と悲痛の歳月である。

そしてその間に絶え間なく思い知らされることは、己れの魂が浄化しないかぎり再会を待ち望む顔馴染みの住む世界へは至れず、愛なき暗黒の大陸をとぼとぼと歩まねばならないということである。

が、私の用いる言葉の意味を取り違えてはならない。怒れる神の復讐などは断じて無い。「神は吾らの父なり」、しかして「父は愛なり」(ヨハネ)その過程で味わう悲しみは必然的なものであり、種子蒔きと刈り入れを司(つかさど)る因果律によって定められるのである。

吾々の界 – 驚異的にして素晴らしいものを数多く見聞きできるこの界においてすら、まだその因果律の謎を知り尽くしたとは言えない。全ての摂理が“愛”に発するものであることは、地上時代とは異り、今の吾々には痛いほどよく解る。

曽てはただ信ずるのみであったことを今は心ゆくまで得心することが出来ることも、憚(はばか)ることなく断言できる。が、因果律というこの厳粛なる謎については、まだまだ未知なるものがある。が、吾々はそれが少しずつ明かされて行くのを待つことで満足している。

それというのも、吾々は万事が神の叡智によって佳きに計られていることを信ずるに足るだけのものを既に悟っているからである。それは暗黒界の者さえいつの日か悟ることであろう。

そして彼らがこの偉大にして美わしき光の世界へと向上進化して来てくれることが吾々にとっての何よりの慰めであり、また是非そうあらしむべく吾らが手引きしてやらねばならない。

そしてその暁には万事が有るがままにて公正であるのみならず、それが愛と叡智に発するものであることを認め、そして満足することであろう。吾々はそう理解しているのであり、そのことだけは確信をもって言える。

そして私もその救済に当たる神の使者の1人なのである。私が気づいていることは、かの恐ろしき暗黒の淵から這い上がって来た人たちの神への讃仰と祝福の念を、その体験のない吾々のそれと比較する時、そこに愛の念の欠如が見られないことである。些かも見られぬのである。

と言うのも、正直に明かせば、彼らと共に天界の玉座の光の前にひれ伏して神への祈りを捧げた折のことであるが、彼らの祈りの中に私の祈りに欠けている何ものかがあることに気づいたのである。そこで思わず、私もそれにあやかりたいものと望みかけて、ようやく思い止まったことであった。

それは許されぬことであろう。そして神はその愛ゆえに、吾々の内にあるものを嘉納(かのう)されるに相違ない。それにしても、かのキリストの言葉は実に美しく、愛がその美しさを赤裸々に見せる吾々の界において如実にその真実味を味わうのである。

神はその愛の中にて人間と交わりを保つ。神の優しき抱擁に身を任せ、その御胸に憩いを求める時、何1つ恐れるものはない。†

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3 種の起原

1913年11月25日 火曜日

人間に少しでも信仰心があれば、こうして貴殿の精神と手を使って書き記したものを理解することが出来るであろうが、残念ながら物事の霊的真相を探り、それを真実であると得心しる者は多くは見当らない。これまでの永い人類の歴史においてそうであり、これからの遠き未来までもそうであろう。

それは事実であるが、更にその先へ目をやれば、吾々の目には遠い遠い未来において人間世界が今日より遥かに強い光の中を歩みつつあるのが見える。その時代においては吾々と人間とがいかに身近かな関係にあるかについて、書物の中のみならず実際の日常生活の中において理解し得心することであろう。

差し当たっては、警戒と期待のうちに吾々の力の及ぶかぎりの努力をし、たとえ吾々の望みどおりの協調関係が得られず、無念の思いを断ち切ることが出来ずとも、一歩一歩と理想の関係に近づきつつあり、万事が佳(よ)きに計られているとの確信を抱くのである。

さて現在の貴殿との仕事のことであるが、吾々としては成るべくならば物事が活撥に進行しているこの“昼”の時代に大いに進行させたい。何となれば“夜”の時代が到来すれば貴殿は明日の時代を思うであろうが、その明日はもはや今日とは異る。

いろいろと可能性を秘めてはいても今と同じほどのことが出来るとは限らない。故に現在のこの良い条件の整っている時期に出来るかぎりのことをしようではないか。そうすれば吾々2人により広き界層が開かれた暁に、更に良い仕事が為し得ることになろう。

人間が理解している科学は吾々の理解している科学と軌(き)を一にするものではない。何となれば吾らは霊的根源へ向けて深く探求の手を伸ばすからである。地上の科学は今やっと霊的根源を考慮しはじめたばかりである。

吾々は互いにようやく近づきつつあるわけである。と言うよりは、地上の現象の意味を探る者の中に、吾々の手引きによって、より高くそしてより深い意味へと近づきつつある者がいると述べた方が正しかろう。

このことを吾々は有難きことと思う。そしてそのことがこれまでの道を更に自信をもって歩ませてくれる。吾々は人間はきっと付いて来てくれるとの確信をもっており、それだけに賢明にそして巧妙に手引きせねばならないのである。

さて私はこれより、人間が“種の起原”と呼んでいるところのものについて、その霊的な側面を少しばかり説いてみたいと思う。が、結論から申せば、動物的生命の創造の起原は物質界にあらずして吾々の天界に存在する。

こちらへ来て吾々が学んだことは、宇宙が今日の如き形態の構成へ向けて進化の道を歩み始めた時、その監督と実践とを受け持つ高き神霊が更に高き神霊界より造化の方針を授かり、その方針に基いて彼らなりの知恵を働かせたということである。

その時点においては未だ天界には物的表現としての生命の形態と知能の程度に多様性があったと想像される。そして結果的にはその発達を担当すべく任命された神霊の個性と種別を反映させて行くことに決定が下された。そしてその決定に沿って神の指示が発せられた。

なぜかと言えば、計画が完了した時、総体的にはそれで結構であるとの神の同意が啓示されたのであって、その時点ですでに完璧ということではなかったのである。ともかくも宇宙神が認可を下され、更に各神霊がそれぞれの才覚と能力に従って神の意志を反映させていく自由を保証されたということである。

かくして動物、植物、鉱物のさまざまな種と序列、そして人類の種族と民族的性格とが生まれた。そしていよいよ造化が着手された時、宇宙神は改めて全面的是認を与えた。聖書風にいえば神がそれを“なかなか結構である”と仰せられたのである。

が、造化に直接携わる神霊はいかに霊格が高いとはいえ全知全能の絶対神には劣る。そして宇宙の経綸(けいりん)の仕事はあまりに大きく、あまりに広いが故に僅かな不完全さが造化の進展に伴って大きくなって行った。

それが単純な知能、とくに人間の如き低い階層の知能には事さらに莫大にそして巨大に見えたのである。何となれば、小さくそして未発達な知性には善と悪とを等しく見ることが出来ず、むしろ邪悪の方が目に止まりやすく、善なるものが余りに高尚にそして立派に思えて、その意義と威力を摑みかねるのである。

が、人間が次のことを念頭に置けば、その不完全さの中にも驚異と叡智とが渾然として存在することが容易に納得がいくことであろう。それはこういうことである。

海は海洋動物だけのために造られたのではない。空は鳥たちだけのために造られたのではない。それと同じで、宇宙は人間だけのために創造されたのではないということである。人間は海にも空にも侵入し、そこをわが王国のように使用している。

それは一向に構わない。魚や鳥たちのものと決まってはいないからである。より強力な存在が支配するのは自然の理であり、地上では人間がそれである。人間は自他ともに認める地上の王者であり、地上を支配する。神がそう位置づけたのである。

が、宇宙には人間より更に偉大な存在がいる。そして人間がその能力と人間性の発達のために下等動物や植物を利用する如く、さらに偉大なる存在が人間を使用する。

これは自然であり且つ賢明でもある。何となれば大天使も小天使も、更にその配下のもろもろの神霊も所詮は絶対神の配下にあり、常に発達と修養を必要としている点は人間と同じだからである。

その修養の手段と中身は、人間との霊格の差に応じて、人間が必要とするものとは本質と崇高性において自ずと差がなければなるまい。人間であろうと天使であろうと、内部に宿す霊力に応じて環境が定まり構成されていく点は同じなのである。

人間はその点をよく銘記し、忘れぬようにしなければならない。そうすれば自由意志という生得の権利の有難さを一層深く理解することであろう。これは天界のいかなる神霊といえども奪うことは出来ない。かりに出来るとしても敢えて奪おうとはしないであろう。

なぜなら、自由意志を持たぬ人間では質的に下等な存在に成り下がり、向上進化の可能性を失うことになるからである。さて、こうした教説を読んで、これでは人間は上級界の神霊が己れの利益のために使う道具に過ぎないではないかと思う者もいるであろう。

が、その考えは誤りである。その理由は今のべたことにある。すなわち人間は自由意志をもつ存在であり、これより先も常にそうあらねばならぬということである。

それのみではない。上級界において神に仕える者を鼓舞する一大霊力が“愛”であるということもその理由である。彼らを血も涙もなき暴君と思ってはならない。“威力”というものを“圧力”と並べて考えるのは地上での話である。

天界にあっては威力は愛の推進力のことであり、威力ある者はその生み出す愛も強力となるのである。更に申せば、悪との闘いの熾烈にして深刻な者には、その試練を経た暁に栄光と高き地位(くらい)とが約束されていることを教えてやるがよい。

何となれば、その闘いの中にこそ、人類が天界の政庁における会議への参列を許され、造化の仕事の一翼を担い、開闢(かいびやく)当初に定められた方針に沿って全宇宙の救済の大事業に参加する資格の確かな証(あかし)が秘められているからである。

その仕事は勇気ある人間ならば喜び勇んで取り組むことであろう。何となれば、その者は次のことくらいは理解するであろうからである。すなわちその者は高き神霊が天界において携わるのとまさに同じ仕事に、この地上において、そしてその者なりの程度において携わっているということである。

そうと知ればさぞ心躍(おど)ることであろうし、意を強くすることであろう。更に又、その者の仕事は吾々の仕事と一つであり、吾らの仕事がすなわちその者の仕事であることを知り、互いに唯一の目的すなわち地上の全生命、全存在の向上へ向けて奮闘していることを知れば、イザという時に思慮深く適度な謙虚さと素直な信頼心をもって援助を求めれば、吾々はすぐにそれに応ずる用意があることに理解がいくことであろう。

吾々はそういう人間 – 悪との闘争の味方であり宇宙の最前線における同志 – を援助することに最大の喜びを覚えるからである。この真理の大道を惜しくも踏みはずせる者たちのその後の見るも哀れな苦しみは、吾々が貴殿より多くを見ている。が、吾らは絶望はしない。

この仕事の意義と目的とが貴殿たちより鮮明に見えるからである。その視野から眺めるに、人間もいつの日かそれぞれの時を得てこの高き霊界へと至り、恵まれた環境の中にて更に向上し続けることであろう。

その時はその者たちも修身の道具として今吾々が使用している人材 – その者たちが今その立場にあるのだが – を使用することになるであろう。その時は他の人間が現在のその者たちの立場にあり、その者たちが指導霊の立場にまわることであろう。

キリストはかく述べている – “悪に勝てる者はわが座位(くらい)に列することを許さん。わが勝利の時、父と共にその座位に列したる如くに”(黙示録3)と。

心するがよい。神の王国は強き者のものであるぞ。首尾よく悪を征服せる者にして始めてその地位を与えられるであろう。以上である。この度はこれにて終りとする。

が、これはこの程度のメッセージにてはとても尽くせぬ大きな問題である。神の許しがあれば、いつか再び取りあげるとしよう。では健闘と無事を祈る。強くあれ。その強さの中より優しさがにじみ出ることであろう。吾々の界においては最も強い者こそ最も優しくそして愛らしさに満ちているものである。

このことを篤と銘記されたい。そうすれば人間を惑わす数々の問題が自ずと解けることであろう。躓(つまず)くことのなきよう、神の御光が常に貴殿の足もとを照らし給わんことを祈る。†

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4章 天界の“控えの間 – 地上界

1 インスピレーション

1913年11月26日 水曜日

語りたいことは数多くある。霊界の組織、霊力の働き – それが最上界より発し吾々の界層を通過して地球へ至るまでに及ぼす影響と効果、等々。その中には人間に理解できないものがある。また、たとえ理解はできても信じてもらえそうにないものもある。

それ故私は、その中でも比較的単純な原理と作用に限定しようと思う。その1
つがいわゆるインスピレーションの問題である。それが吾々と人間との間でどのように作用しているかを述べよう。

ところで、このインスピレーションなる用語は正しく理解すれば実に表現力に富む用語であるが、解釈を誤ると逆に実に誤解を招き易い用語でもある。たとえば、それは吾々が神の真理を人間の心に吹き込むことであると言っても決して間違ってはいない。が、それは真相のごく一部を述べているに過ぎない。

それ以外のもの – 向上する力、神の意志を成就する力、それを高尚な動機から成就しようとする道義心、その成就のための叡智(愛と渾然一体となった知識)等々をも吹き込んでいるからである。

故に人間がインスピレーションを受けたと言う場合、それは1つの種類に限られたことではなく、また例外的なものでもない。いかに生きるべきかを考えつつ生きている者 – まったく考えぬ者はまずいないであろうが – は何らかの形で吾々のインスピレーションを受け援助を得ているのである。

が、その方法を呼吸運動に譬えるのは必ずしも正しいとは言えない。それを主観的に解釈すればまだしもよい。人間が吸い込むのは吾々が送り届けるエネルギーの波動だからである。人間は山頂において深呼吸し新鮮なる空気を胸いっぱいに吸い込み爽快感を味わうが、吾々が送り届けるエネルギーの波動も同時に吸い込んでいるのである。

が、これを新しい神の真理を典雅なる言葉で世に伝える人々、あるいは古い真理を新たに説き直す特殊な人々のみに限られたことと思ってはならない。病いを得た吾が子を介抱する母親、列車を運転する機関士、船を操る航海士、その他にもろもろの人間が黙々と仕事に勤しんでいるその合間をぬって、時と場合によって吾々がその考えを変え、あるいは補足している。

たとえ当人は気づかなくともよい。大体において気づいていない。が、吾々は出来る範囲のことをしてそれで満足である。邪魔が入らぬかぎりそれが可能なのである。

その邪魔にも数多くある。頑(かたくな)な心の持ち主には無理して助言を押しつけようとはしない。その者にも自由意志があるからである。また、われわれの援助が必要とみた時でも、そこに悪の勢力の障害が入り込み、吾々も手出しが出来ないことがある。悪に陥(おとしい)れんとする邪霊の餌食となり、その後の哀れな様は見るも悲しきものとなる。

それぞれの人間が、老若男女を問わず、意識すると否とに拘らず、目に見えぬ仲間を選んでいると思えばよい。当人が、吾々霊魂(スピリット)がこの地上に存在していること、つまり目に見えぬ未知の世界からの影響を受けているという事実をあざ笑ったとしても、善意と正しい動機にもとづいて行動しておれば、それは一向に構わぬことである。

それが完全な障害となる気遣いは無用である。吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、吾々は喜んで援助する。なぜなら当人は真面目なのであり、いずれ自分の非を認める日も来るであろう – いずれ遠からぬ日に。

ただ単に、その時点においては吾々の意図を理解するほどに鋭敏でなかったということに過ぎない。人間が吾々の働きかけの意図を理解せず、結果的に吾々が誤解されることはよくあることである。

水車は車軸に油が適度に差されているときは楽に回転する。これが錆つけば水圧を増さねばならず、車輪と車軸の磨耗が大きくなり、動きも重い。又、船員は新たに船長として迎えた人が全く知らない人間であっても、その指示には一応忠実に従うであろうが、よく知り尽くした船長であれば、たとえ嵐の夜であっても命令の意味をいち速く理解してテキパキと動くであろう。

互いに心を知り尽くしている故に、多くを語らずして船長の意図が伝わるからである。それと同じく、吾々の存在をより自然に、そしてより身近かに自覚してくれている者の方が、吾々の意図をより正しく把握してくれるものである。

それ故ひと口にインスピレーションと言っても意味は広く、その中身はさまざまである。古い時代の予言者は – 今日でもそうであるが – その霊覚の鋭さに応じて霊界からの教示を受けた。霊の声を聞いた者もおれば姿を見た者もいた。いずれも霊的身体に具わる感覚を用いたのである。

また直感的印象で受けた者もいる。吾々がそうした方法および他の諸々の方法によって予言者にインスピレーションを送るその目的はただ1つ – 人間の歩むべき道、神の御心に叶った道を歩むための心がけを、高い界にいる吾々が理解し得たかぎりにおいて、地上の人間一般へ送り届けることである。

もとより吾々の教えも最高ではなく、また絶対に誤りが無いとも言えない。が、少なくとも真剣に、そして祈りの気持と大いなる愛念をもって求める者を迷わせるようなことには絶対にならない。祈りも愛も神のものだからである。そしてそれを吾ら神の使徒は大いなる喜びとして受け止めるのである。

またそれを求めて遠くまで出向くことも不要である。なぜなら地上がすでに悪より善の勢力の方が優勢だからである。そしてその善と悪の程度次第で大いに援助できることもあれば、行使能力が制限されることもある。

故に人間は、各自、次の2つのことを心しなければならない。1つは、天界にて神に仕える者の如くに地上にありても常に魂の光を灯し続けることである。吾々が人間界と関わるのは神の意志を成就するためであり、そのために吾々が携えて来るのは他ならぬ神の御力だからである。

人間の祈りに対する回答は吾ら使徒に割り当てられる。つまり神の答えを吾々が届けるのである。故に吾々の訪れには常に油断なく注意しなければならない。

実は吾々は、かのイエスが荒野における誘惑と闘った時、またゲッセマネにおける最大の苦境にあった時に援助に赴いた霊団に属していたのである。(もっともあの時直接イエスと通じ合った天使は私よりは遥かに霊格の高きお方であるが。)

もう1つ心しなければならないことは、常に“動機”を崇高に保ち、自分のためでなく他人の幸せを求めることである。吾々にとっても、己れ自身の利益より同胞の利益を優先させる者の進歩が最も援助しやすいものである。

吾々は施すことによって授かる。人間も同じである。イエスも述べた如く、動機の大半は施すことであらねばならない。そこにより大きな祝福への道があり、しかもそこに例外というものは無いのである。

イエスの言葉を思い出すがよい。「私はこの生命(いのち)を捨てるに吝(やぶさ)かではない。が私はそれを私の子羊のために捨てるのである」と述べ、その言葉どおりに、そして、いささかの迷いもな潔(いさぎよ)く生命を捨てられた。が、捨てると同時に更に栄光ある生命をもって蘇られた。

ひたすら同胞への愛に動かされていたからである。貴殿も“我”を捨てることである。そうすれば、施すことの中にも授かることの中にも喜びを味わうことであろう。これを完全に遂行することは確かに至難のわざである。が、それが本来の正しい道であり、ぜひ歩まねばならぬ道なのである。それを主イエスが身をもって示されたのである。

花の導管は芳香を全部放出して人間を楽しませては、すぐまた補充し、そうした営みの中で日々成熟へと近づく。心優しき言葉はそれを語った人のもとに戻って来る。かくして2人の人間はどちらかが親切の口火を切ることによって互いが幸せとなる。

又、優しき言葉はやがて優しき行為となりて帰ってくる。かくて愛は相乗効果によって一層大きくなり、その愛とともに喜びと安らぎとが訪れる。また施すことに喜びを感じる者、その喜び故に施しをする者は、天界へ向けて黄金の矢を放つにも似て、その矢は天界の都に落ち、拾い集められて大切に保存され、それを投げた者が(死後)それを拾いに訪れた時、彼は一段と価値を増した黄金の宝を受け取ることであろう。†

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2 一夫婦の死後の再会の情景

1913年11月27日 火曜日

前回述べたことに更に付け加えれば、地上の人間は日々生活を送っているその身のまわりに莫大な影響力が澎湃(ほうはい)として存在することにほとんど気づいていない。

すぐ身のまわりに犇(ひし)めく現実の存在であり、人間が意識するとせぬとに拘らず生活の中に入り込んでいる。しかもその全てが必ずしも善なるものではなく、中には邪悪なるものもあれば中間的なもの、すなわち善でもなければ悪でもない類のものもある。

よって私がエネルギーだの影響力だのと述べる時、必然的にそこには“それを使用する”個性的存在を想定してもらわねばならない。人間は孤独な存在ではなく、孤独では有り得ず、また単独にて行動することも出来ず、常に何らかの目に見えない存在とともに行動し、意識し、工夫していることになる。

その目に見えぬ相手がいかなる性質(たち)のものとなるかは、意識するとせぬとに拘らず当人自身が選択しているのである。

この事実に鑑みれば、当然人間はすべからくその選択に慎重であらねばならないことになるが、それを保証するのは“祈り”と“正しい生き方"である。崇敬と畏怖の念をもって神を想い、敬意の念をもって同胞を思いやることである。

そして何を行うにも常に守護・指導に当る霊が自分の心の動き1つ1つを見守り注視していること、今の自分、およびこれより変わり行く自分がそのまま死後の自分であること、その時は今の自分にとって物的であり絶対であり真実と思えることももはや別世界の話となり、地球が縁なき存在となり、地上で送った人生も遠い昔の旅の思い出となり、金も家財道具も庭の銘木も、その他今の自分には掛けがえのない財産と思えるものの一切が自分のものでなくなることを心して生活することである。

こちらへ来れば地上という学校での成績も宝も知人もその時点で縁が切れ、永遠に過去のものとなることを知るであろう。その時は悲しみと後悔の念に襲われるであろうが、一方においては言葉に尽せぬよろこびと光と美と愛に包まれ、その全てが自分の思うがままとなり、先に他界した縁故者がようこそとばかりに歓迎し、霊界の観光へ案内してくれることであろう。

では、窓1つない狭き牢獄のような人生観をもって生涯を送った者には死後いかなる運命が待ちうけていると思われるか。そういう者の面倒を私は数多くみてきたが、彼らは地上で形づくられた通りの心をもって行動する。すなわちその大半が自分の誤りを認めようとしないものである。

そういう者ほど地上で形成し地上生活には都合の良かった人生観がそう大きく誤っているはずはないと固く信じ切っている。この類の者はその萎縮した霊的視野に光が射すに至るまでには数多くの苦難を体験しなければならない。

これに対し、“この世的”財宝に目もくれず、自重自戒の人生を送った者は、こちらへ来て抱え切れぬほどの霊的財宝を授かり、更には歓迎とよろこびの笑顔をもって入れ替り立ち替り訪れてくれる縁故者などの霊は、1人1人確める暇(いとま)もないほどであろう。そしてそこから真の実在の生活が始まり、地上より遥かに祝福多き世界であることを悟るのである。

では以上の話を証明する実際の光景を紹介してみよう。

緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地よく漂う丘の中腹に、初期の英国に見るような多くの小塔とガラス窓をもった切妻の館(やかた)がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交い、さながら生を愉しんでいる如く見える。

地上の景色ではない。これもベールの彼方の情景である。こちらにも地上さながらの情景が存在することは今さら述べるまでもあるまい。ベールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美とを倍化されて存在する。この事実は地上の人間にとって1つの驚異であるらしいが、人間がそれを疑うことこそ吾々にとりて驚異なのである。

さて、その館の櫓(やぐら)の上に1人の貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に見当らぬ故に何色とも言うことが出来ない。黄金の深紅色とでも言えようか。が、これでも殆んど伝わらないのではないかと思われる。

さて婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に目をやっている。そこに見える低い丘は水平線の彼方から来る光に美しく照り映えている。婦人は見るからにお美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にもまして美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。

目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は心の変化に応じてさまざまな色調を呈している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の泉であり、その輝き1つが表情に和(なご)みと喜びを増す。この方は数知れぬ乙女(おとめ)の住むその館の女王なのである。

乙女たちはこの婦人の意志の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動きまわっている。それほどこの館は広いのである。実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。そのことは婦人の表情を一見すれば直ちに察しがつく。

やがてその麗わしい目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。そのことは、婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は、人間には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。

すると間もなく地平線の右手に見える樹木の間をぬって、1隻のボートが勢いよくこちらへ向けて進んで来るのが見えてきた。オールが盛んに水しぶきを立てている。

金箔を着せた船首が散らす水しぶきはガラス玉のような輝きを見せながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ちて行く。やがてボートは船着場に着いた。着くと同時に眩ゆいばかりに着飾った一団が大理石で出来た上(あが)り段に降り立った。その上り段は緑の芝生へ通じている。

一団は足どりも軽(かろ)やかに上って来たが、中にただ1人、ゆっくりとした歩調の男がいる。その表情は喜びに溢れてはいるが、その目はまだ辺りを柔らかく包む神々しい光に十分慣れていないようである。

その時、館の女王が大玄関より姿を見せ一団へ向って歩を進めた。女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差(まなざ)しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶をされた。

「ようこそジェームス様。ようやくあなた様もお出でになられましたね。ようこそ。ほんとにようこそ。」

が、彼はなおも当惑していた。確かに妻の声である。が昔とだいぶ違う。それに、妻は確か死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。いま目の前にいる妻は見るからに素敵な女性である。若すぎもせず老いすぎもせず、優雅さと美しさに溢れているではないか。

すると女王が言葉を継いだ。「あれよりこの方、私は蔭よりあなた様の身をお護りし、片時とて離れたことがございませんでした。たったお一人の生活でさぞお淋しかったことでしょう。が、それもはや過去のこと。かくお会いした上は孤独とは永遠に別れを告げられたのでございます。ここは永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリーも地上の仕事がればいずれこちらへ参ることでしょう。」

女王はそう語ることによって自分が曽ての妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗わしくも神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛(いと)しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。

再び甦った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえ、時おり垣間見つつ、1歩2歩と神々しき女王に近づいた。それを見た女王は喜びに顔をほころばせ、急いで歩み寄り、片腕を彼の肩に掛け、もう一方の手で彼の手を握りしめて厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意していた館の中へ入って行ったのであった。

さよう、その館こそ実に2人が地上で愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼が1人さびしく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。

私はこの家族的情景を、天界なるものが感傷的空想の世界ではなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知ってもらうために綴ったのである。家、友、牧場 – 天界には人間の親しんだ美しいものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭を捨てた崇高なる美を発揮する。

この夫婦は素朴にして神への畏敬の念の中に、貧しき者にも富める者にも等しく交わる良き人生を送った。こうした人々は必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予想もしなかったものなのである。

この再会の情景は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者の1人であった。そのころは私はまだその界の住人だったのである。

– 第何界での出来ごとでしょうか。

6界である。さて、これにて終りとしよう。私はしみじみ思う – 愛に発する行為を行い、俗世での高き地位よりも神の義を求める、素朴な人間を待ちうける栄光を少しでも知らせてあげたいものと。そうした人間はあたかも星の如くあるいは太陽の如く、辺りの者がただ側(そば)にいるだけでその光輝によって一段と愛らしさを増すことであろう。†

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3 “下界”と地縛霊

1913年11月28日 金曜日

人類の救世主、神の子イエス・キリストが“天へ召される者は下界からも選ばれる”と述べていることについて考察してみたい。下界に見出されるのみならず、その場において天に召されるという。

その“下界から選ばれる者”はいずこに住む者を言うのであろうか。これにはまず、イエスが“下界”という用語をいかなる意味で用いているかを理解しなければならない。

この場合の下界とはベールの彼方においてとくに物質が圧倒的影響力をもつ界層のことを指し、その感覚に浸る者は、それとは対照的世界すなわち、物質は単に霊が身にまとい使用する表現形体に過ぎぬことを悟る者が住む世界とは、霊的にも身体的にも全く別の世界に生活している。

それ故、“下界の者”と言う時、それは“霊的な意味において地上に近き界層”にいる者を指す。時に地縛霊と呼ぶこともある。肉体に宿る者であろうと、すでに肉体を棄てた者であろうと、同じことである。

身は霊界にあっても魂は地球に鎖(くさり)でつながれ、光明の世界へ向上して行くことが出来ず、地球の表面の薄暗き界層にたむろする者同士の間でしか意志の疎通ができない。完全に地球の囚われの身であり、彼らは事実上“地上的環境”の中に存在している。

さてイエスはその“下界”より“選ばれし者”を天界へ召されたという。その者たちの身の上は肉体をまとってはいても霊体によって天界と疎通していたことを意味する。その後の彼らの生活態度と活躍ぶりを見ればその事実に得心が行く。

悪のはびこる地上をやむを得ぬものと諦めず、悪との闘いの場として敢然と戦い、そして味方の待つ天界へと帰って行った彼ら殉教者の不屈の勇気と喜びと大胆不敵さは、その天界から得ていたのであった。そして同じことが今日の世にも言えるのである。

これとは逆に地上の多くの者が襲われる恐怖と不安の念は地縛霊の界層から伝わって来る。その恐怖と不安の念こそがそこに住む者たちの宿業なのである。肉体はすでに無く、さりとて霊的環境を悟るほどの霊覚も芽生えていない。

が、それでも彼らはその界での体験を経て、やがては思考と生活様式の向上により、それに相応しい霊性を身につけて行く。動かくて人間は“身は地上にあっても霊的にはこの世の者とは違うことが有り得る”という言い方は事実上正しいのである。

これら2種類の人間は、こちらへ来ればそれ相応の境涯に落着くのであるが、いずれの場合も自分の身の上については理性的判断による知識はなく、無意識であったために、置かれた環境の意外性に驚く者が多い。

このことを今少し明確にするために私自身の知識と体験の中から具体例を紹介してみよう。曽て私は特別の取り扱いを必要とする男性を迎えに派遣されたことがある。

特別というのは、その男は死後の世界について独断的な概念を有し、それに備えた正しく且つ適切な心がけは“かくあるべし”との思想を勝手に抱いていたからである。地球圏より2人の霊に付き添われて来たのを私がこんもりとした林の中で出迎えた。

2人に挟まれた恰好で歩いて来たが、私の姿を見て目が眩んだのか、見分けのつかないものを前にしたような当惑した態度を見せた。私は2人の付き添いの霊に男を1人にするようにとの合図を送ると、2人は少し後方へ下がった。男は始めのうち私の姿がよく見えぬようであった。

そこで、こちらから意念を集中すると、ようやく食い入るように私を見つめた。
そこでこう尋ねてみた。「何か探しものをしておられるようだが、この私が力になってさしあげよう。その前に、この土地へお出でになられてどれほどになられるであろうか。それをまずお聞かせ願いたい。」

「それがどうもよく判りません。外国へ行く準備をしていたのは確かで、アフリカへ行くつもりだったように記憶しているのですが、ここはどう考えても想像していたところではないようです。」

「それはそうかも知れない。ここはアフリカではありません。アフリカとはずいぶん遠く離れたところです。」

「では、ここは何という国でしょうか。住んでいる人間は何という民族なのでしょうか。さきほどのお2人は白人で、見なりもきちんとしておられましたが、これまで1度も見かけたことのないタイプですし、書物で読んだこともありません。」

「ほう、貴殿ほどの学問に詳しい方でもご存知ないことがありますか。が、貴殿もそうと気づかずにお読みになったことがあると思うが、ここの住民は聖人とか天使とか呼ばれている者で、私もその1人です。」

「でも…」彼はそう言いかけて、すぐに口をつぐんだ。まだ私に対する信用がなく、余計なことを言って取り返しのつかぬことにならぬよう、私に反論するのを控えたのである。何しろ彼にしてみればそこは全くの見知らぬ国であり、見知らぬ民族に囲まれ、1人の味方もいなかったのであるから無理もなかろう。

そこで私がこう述べた。「実は貴殿は今、曽てなかったほどの難問に遭遇しておられる。これまでの人生の旅でこれほど高くそして部厚い壁に突き当ったことはあるまいと思われます。これから私がざっくばらんにその真相を打ち明けましょう。

それを貴殿は信じて下さらぬかも知れない。しかし、それを信じ得心が行くまでは貴殿に心の平和はなく、進歩もないでしょう。貴殿がこれより為さねばならないことは、これまでの一切の自分の説を洗いざらいひっくり返し裏返して、その上で自分が学者でも科学者でもない、知識の上では赤子に過ぎないこと、この土地について考えていたことは一顧の価値もない – つまり完全に間違っていたことを正直に認めることです。

酷(こく)なことを言うようですが、事実そうであれば致し方ないでしょう。でも私をよく見つめていただきたい。私が正直な人間で貴殿の味方だと思われますか、それともそうは見えぬであろうか。」

男はしばし真剣な面持(おもも)ちで私を見つめていたが、やがてこう述べた。「あなたのおっしゃることは私にはさっぱり理解できませんし、何か心得違いをしている狂信家のように思えますが、お顔を拝見したかぎりでは真面目な方で私の為を思って下さっているようにお見受けします。で、私に信じてほしいとおっしゃるのは何でしょうか。」

「“死”についてはもう聞かされたことでしょう。」「さんざん!」「今私が尋ねたような調子でであろう。なのに貴殿は何もご存知ない。知識というものはその真相を知らずしては知識とは言えますまい。」

「私に理解できることを判り易くおっしゃって下さい。そうすればもう少しは呑み込みがよくなると思うのですが…」「ではズバリ申し上げよう。貴殿はいわゆる“死んだ人間”の1人です。」

これを聞いて彼は思わず吹き出し、そしてこう述べた。「一体あなたは何とおっしゃる方ですか。そして私をどうなさろうと考えておられるのでしょうか。もし私をからかっておられるだけでしたら、それはいい加減にして、どうか私を行かせて下さい。この近くにどこか食事と宿をとる所がありますか。少しこれから先のことを考えたいと思いますので…」

「食事を取る必要はないでしょう。空腹は感じておられないでしょうから宿も必要あり天ません。疲労は感じておられないでしょうから…それに夜の気配がまるで無いことにお気づきでしょう。」

そう言われて彼は再び考え込み、それからこう述べた。「あなたのおっしゃる通りです。腹が空きません。不思議です。でもその通りです。空腹を感じません。それに確かに今日という日は記録的な長い1日ですね。わけが分りません。」

そう言って再び考え込んだ。そこで私がこう述べた。「貴殿はいわゆる死んだ人間であり、ここは霊の国です。貴殿はすでに地上を後にされた。ここは死後の世界で、これよりこの世界で生きて行かねばならず、より多く理解して行かねばならない。

まずこの事実に得心が行かなければ、これより先の援助をするわけには参りません。しばらく貴殿を1人にしておきましょう。よく考え、私に聞きたいことがあれば、そう念じてくれるだけで馳せ参じましょう。それに貴殿をここまで案内してきた2人がいつも付き添っています。

何なりと聞かれるがよろしい。答えてくれるでしょう。ただ注意しておくが、さきほど私の言い分を笑ったような調子で2人の言うことを軽蔑し嘲笑してはなりません。謙虚に、そして礼儀を失いさえしなければ2人のお伴を許しましょう。貴殿はなかなか良いものを持っておられる。

が、これまでも同じような者が多くいましたが、自尊心と分別の無さもまた度が過ぎる。それを2人へ向けて剥(む)き出しにしてはなりませんぞ。その点を篤と心してほしい。

と言うのも、貴殿は今、光明の世界と影の世界との境界に位置しておられる。そのどちらへ行くか、その選択は貴殿の自由意志に任せられている。神のお導きを祈りましょう。それも貴殿の心掛け1つに掛かっています。」

そう述べてから2人の付き添いの者に合図を送った。すると2人が進み出て男のそばに立った。そこで3人を残して私はその場を離れたのであった。

– それからどうなりました。その男は上を選びましたか下を選びましたか。

その後彼からは何の音沙汰もなく、私も久しく彼のもとを訪れていない。根がなかなか知識欲旺盛な人間であり、2人の付き添いがあれこれと面倒を見ていた。が、次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。

そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。

そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。

やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†

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4 天使の怒り

1913年12月1日 月曜日

暗黒の中にあって光明を見出す者は少なく、その暗黒の何たるかを理解する者もまた多くはない。暗黒は己れの魂の状態の反映に他ならない。その中にあって真理を求める者には、吾々の界よりその者の魂の本性と能力に応じて然るべき援助を授ける。

それは今に始まったことではない。天地の創造以来ずっとそうであった。何となれば神は1つだからである。本性において1つであるのみならず、その顕現せる各界層を通じての原理においても1つなのである。

神は、現在のこの物的宇宙を創造した時、直接造化の事業に携わる神霊に、計画遂行に要する能力を授けると同時に、すでに述べたように、その能力の行使に一定範囲の自由をも授けた。

が、万物を支配する法則の1つとして、その託された能力の行使においての自由から生まれる細々(こまごま)とした変化と、一見すると異質に思える多様性の中においても、統一性というものが主導的原理として全てを律し、究極において全てがその目的に沿わねばならないことになっている。

この統一性と一貫性の根本原理は造化の大業の事実上の責任者である最高界の神霊にとっての絶対的至上命令であり、絶対に疎(おろそ)かにされたことはない。それは今日においても同じである。

人間はその事実を忘れ、吾ら天界の者が未発達の人間世界に関与し、こうして直接交信し、教えを説き導くという事実を否定し、それに関わる者を侮蔑する。
同時に又、これに携わる者が途中で躊躇し、霊と口を利くことは悪であると思い、救世主イエスの御心に背(そむ)くことになると恐れることこそ吾らには驚異に思える。

実はイエスが地上へ降りたそもそもの目的も、その大原理すなわち霊的なものと物的なものとは神の一大王国の二つの側面にすぎず両者は一体であることを示す為であったのだが…。

イエスの教えを一貫して流れるものもこの大原則であり、皮肉にも敵対者たちがイエスを磔刑(はりつけ)に処したのもそこに理由があった。つまり、もともと神の王国がこの地上のみに限られるものであったならば、イエスは彼ら敵対者たちの地上的野望も安逸と豪奢な生活も批難することはなかったであろう。

が、イエスは、神の国は天界にあり地上はそれに至る控えの間にすぎないことを説いた。そうなれば当然、魂の気高さを計る尺度は天界のそれであらねばならず、俗世が求める低次元の好き勝手は通じないことになる。

しかし人間はその大真理を説くイエスを葬った。そして今日に至るも、さきに述べたように、キリスト教会と一般社会の双方の中にそれに似通った侮蔑的感情を吾らは見ている。人間が吾ら霊魂による地上との関わり合いを認識し、神の王国の一員としての存在価値を理解するに至るまでは、光明と暗黒の差の認識において大いなる進歩は望めないであろう。

地上には盲目の指導者があまりに多すぎる。彼らは傲慢なる態度で吾々の仕事と使命を軽蔑し、それが吾々の不快を誘う。現今のキリスト教の指導者たちは言う – 「当時の人間がもし真実を知っていたら栄光の主イエスを葬ることはしなかったであろう」と。まさにその通りであろう。

が、現実には葬ったではないか。同じく、そのように嘆く者たちが、もしも吾々のようにこうして地上へ降りて来る者が彼らのいう天使であることを認識すれば、吾々と地上の烏合の衆より一頭地を抜く者との交霊を悪(あ)しざまに言うこともあるまいに、と思う。

しかし現実には、吾らと係わりをもつ者たちを悪しざまに言っているではないか。そして主イエス・キリストを葬った者たちと同じ趣旨の申し開きをして、己れの無知と盲目を認めようとしないではないか。

– おっしゃることはまさにその通りで、間違ってはいないと思います。ただ、おっしゃることに憤怒に似たものが感じられます。それに、イエスを葬ったユダヤ人を弁護したのはペテロであってユダヤ人自身ではなかったのではないでしょうか。

よくぞ言ってくれた。私は今たしかに怒りをこめて語っている。が、怒りも雅量のある怒り、すなわち愛に発する怒りがある。吾々が常に平然として心を動かされることがないかに思うのは誤りである。吾らとて時に怒りを覚えることがある。

が、その怒りは常に正しい。と言うよりは、そこに些かでも邪(よこしま)なものがあれば明晰な目をもって吾らを監視する上層界の霊によってすぐさま修正される。が、復讐だけは絶対にせぬ。このことだけはよく覚えておいて欲しく思う。

そしてまたよく理解しておいて欲しく思う。ただし、公正の立場、そして又、吾々の協力者である地上の同志への愛の立場から、不当なる干渉をする者へは吾々がそれ相当の処罰を与え、義務の懲罰を課すことはある。が、どうやら貴殿は私の述べることに賛同しかねている様子が窺える。

そこで一応その気持を尊重し、この度はこの問題はおあずけと致そう。が、私が述べたことに些かの誤りもないし、何か訴えるものを感じる者にとっては熟考するに値する課題であることを指摘しておく。

ペテロの弁護の問題であるが、たしかに弁護したのはペテロであった。が、もう1つ次のことを忘れてはならない。私はベールのこちら側より語り、それを貴殿はベール越しに地上において聞いているということである。人間と同じく吾々の世界にも歴史の記録 – ベールのこちら側の歴史 – があり、それは詳細をきわめている。

その記録より判断するに、彼らイエスを告発した者たちは、こちら側へ来てその迷妄を弁明せんとしたが、大して弁明にはなっていない。光明も彼らにとっては暗黒であり、暗黒が光明に思えた。なぜなら、彼らは魂そのものが暗黒界に所属していたからである。

イエスの出現を光明と受け取れなかったのも同じ理由による。無理からぬことであった。彼らはまさに真理に対して盲目であり理解できなかったのである。かくて死後の世界においては盲目とは外の光を遮断することによる結果ではなく、魂の内部に起因する。

外的でなく内的なのであり、霊的本性を意味する。故に真理に盲目なる者はそれに相応しい境涯へと送られる – 暗闇と苦悶の境涯である。

今は光明界の強烈な活動の時代である。地上の全土へ向けて莫大なエネルギーが差し向けられている。教会も教義も、その波紋を受けないところはまずあるまい。光が闇へ向けて射し込みつつある。修養を心がける者にとっては大いに責任を問われる時代である。

すべからく旺盛な知識欲と勇気とをもってその光を見つめ我がものとしなければならない。これが私からの警告であり、厳粛なる思いを込めて授けるものである。と申すのも、私が語ることの多くは、物的脳髄を使用するより遥かに迅速に学ぶことのできる、この霊界という学校における豊富な体験を踏まえているからである。

この種の問題についての真相を人間はすべからく謙虚に求め、自ら探し出さねばならない。真理を求めようとせぬ者に対しては、吾々は敢えて膝を屈してまで要求しようとは思わない。そのことも彼らに“しかと”伝えるがよい。

吾々は奴隷が王子へ贈物を差し出すがごとき態度で真理を授けることはしない。地上のいかなる金銀財宝によっても買うことのできない貴重な贈物を携えて地上へ参り、人間のすぐ近くに待機する。

そして謙虚にして善なる者、心清らかな者に、イエスの説いた真理の真意を理解する能力、死後の生命の確信と喜び、地上あるいは死後の受難を恐れぬ勇気、そして天使との交わりと協調性を授ける。

本日はこれにて終りとする。これまでと比べて気の進まぬことを書かせたことについては、どうか寛恕を願いたい。こちらにそれなりの意図があってのことだからである。又の機会に、より明るいメッセージを述べることでその穴埋めをすることにしよう。

心に安らぎと喜びを授からんことを。アーメン†

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5章 天界の科学

1 エネルギーの転換

1913年12月2日 火曜日

今夜はエネルギーの転換に関連した幾つかの問題を取りあげてみよう。ここでいうエネルギーとは上層界の意念の作用を人間の心へ反映させていくための媒体と理解していただきたい。

吾々が意図することを意念の作用を利用して、いわゆるバイブレーションによって中間界を通過させて地上界へと送り届けるよう鍛練しているのである。私がエネルギーと呼ぶのはこのバイブレーションの作用のことである。

さて、こうして地上の用語を使用する以上は、天界の科学を正確に、あるいは十分に表現するには不適当な手段を用いていることになることを理解していただかねばならない。それ故、当然、その用語の意味を限定する必要が生じる。

私がバイブレーションという用語を用いる時は、単なる往復振動のことではなく、時には楕円(だえん)運動、時には螺旋(らせん)運動、さらにはこれらが絡み合い、それに他の要素が加わったものを意味するものと思われたい。

この観点からすれば、最近ようやく人間界の科学でも明らかにされ始めたバイブレーションの原子的構造は、太陽系の組織、更には遥か彼方の天体の組織と同一なのである。

太陽をめぐる地球の動きも原子内の素粒子の動きもともにバイブレーションである。その規模は問わぬ。つまり運動の半径が極微であろうが極大であろうが、本質的には同じものであり、規模において異るのみである。

が、エネルギーの転換はいかなる組織にも運動の変化をもたらし、運動の性質が変われば当然その結果にも変化が生じる。かくて吾々は常に吾々より更に高級にして叡智に富む神霊によって定められた法則に沿いつつ、意念をバイブレーションの動きに集中的に作用させて質の異るバイブレーションに転換し、そこに変化を生じさせる。

これを吾々は大体において段階的にゆっくりと行う。計算どおりの質的転換、大きすぎもせず小さすぎもしない正確な変化をもたらすためである。吾々が人間の行為ならびに自然界の営みを扱うのも実はこの方法によるのである。

それを受持つ集団は鉱物・植物・動物・人間・地球・太陽・惑星の各分野において段階的に幾層にも別れている。更にその上に星の世界全体を経綸する神庁が控えている。

混沌たる物質が次第に形を整え、天体となり、更にその表面に植物や動物の生命が誕生するに至るのも、全てこのエネルギーの転換による。が、これで判っていただけると思うが、いかなる生命も、いかなる発達も、すべて霊的存在の意志に沿った霊的エネルギーの作用の結果なのである。

この事実を掌握すれば、宇宙に無目的の作用は存在せず、作用には必ず意図がある – 一定範囲の自由は許されつつも、規定された法則に従って働く各段階の知的にして強力な霊的存在の意図があることに理解がゆくであろう。

更に、物質自体が実は霊的バイブレーションを鈍重なものに転換された状態なのである。それが今、地上の科学者によって分析されつつあり、物質とはバイブレーションの状態にあり、いかなる分子も静止しているものは無く、絶え間なく振動しているとの結論に到達している。これは正解である。

が、最終結論とは言えない。まだ物質を究極まで追跡しきってはいないからである。より正確に表現すれば、物質がバイブレーションの状態にあるのではなく、物質そのものが一種のバイブレーションであり、より精妙なバイブレーションの転換されたものである。その源は物質の現象界ではなく、その本性に相応しい霊界にある。

これで貴殿も、いよいよその肉体を捨てる時が到来したとき、何の不都合もなく肉体なき存在となれることが理解できるであろう。地上の肉体は各種のバイブレーションの固まりに過ぎず、それ以上のものではないのである。

有難いことに今の貴殿にも肉体より一層実体のある、そして耐久性のある別のバイブレーションで出来た身体が具わっている。肉体より一段と精妙で、それを創造し維持している造化の根源により近い存在だからである。

その身体は、死後、下層界を旅するのに使用され、霊的に向上するにつれて、更に恒久性のある崇高な性質を帯びた身体へと転換される。この過程は延々と限りなく繰り返され、無限の向上の道を栄光より更に高き栄光へと進化してゆくのである。

そのことは又、死後の下層界が地上の人間に見えないのと同じく、下層界の者には通常は上層界が見えないことも意味する。かくて吾々は1界また1界と栄光への道を歩むのである。

まさしくそうである。貴殿もいつの日かこちらへ来れば、このことをより一層明確に理解するであろう。と申すのも、今のべたバイブレーションの原理も貴殿は日常生活において常時使用しており、他の全ての人間も同じく使用しているにも拘わらず、その実相については皆目理解していないからである。

吾らは持てる力を神の栄光と崇拝のために使用すべく、鋭意努力している。願わくば人間がその努力に一体となって協力してくれることが望ましい。一丸となれば、善用も悪用もできるその力が現在の人間の知識を遥かに超えたものであることを知るであろう。蠅や蟻の知能を凌(しの)ぐほどに。

吾々は、有難いことに、知識と崇高さにおける進歩が常に対等であるように調整することが出来る。完璧とは言えないが、ある範囲内 – 広範囲ではあるが確固とした範囲内において可能である。

もしも可能でないとしたら地上は今日見るが如きものでは有り得ず、また今ほどの秩序ある活動は見られないであろう。もっとも、これる人類に対する吾々の仕事の一側面にすぎない。そして人類の未来に何が待ちうけているかは私にも何とも言えない。

霊的真理の世界へこれより人類がどこまで踏み込むかを推測するほどには、私は先が見えない。まだその世界への門をくぐり抜けたばかりだからである。が、大いなる叡智をもって油断なく見守る天使によっても、こののちも万事よきに計らわれるであろう。天使の支配のあるかぎり、万事うまく行くことであろう。†

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2 “光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず”

1913年12月3日 水曜日

昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは“用語”の定義であり“本質”の説明ではないことをまず知って欲しい。

貴殿の身のまわりにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味ぶかいものが観察されるであろう。まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。

が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。

が、光が太陽を取りまく大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、一たん人間が“光”と呼ぶものでなくなる。その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、たとえば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び“光”に戻る。太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再びもとの性質に戻るということである。

「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を覚えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は1つであり、神の王国も又1つなのである。

光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整った時のみである。ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは"光"であることになる。

この比喩を更に応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の界層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

が、更に目を別の方角へ向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星の更に向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。

天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を一つとして観察したことはない。

曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団 – -私もその一員であった – が近くの大きな湖まで同行した。

訪れた時もその湖から上陸したのである。いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。吾々の国の指導者格の天使の1人がお付きの者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回しはじめた。

私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら – というよりはその天使 – の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。この界においては来客に際して互いに身につけた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せあうのが慣習なのである。

見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異る、従って色彩も異るバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。

それを従者が珍らしい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。2本の糸が交叉する箇所は宝石のような強烈な光に輝いている。またその結び目は質の異る糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使1人が残った。そして、出来あがった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは“美しい”の一語につきた。

さてその網は数多くの性質をもつバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落着いた。そこで、その中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声とともに道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。
こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例にすぎないもので、それ以上の深い意味はない。

私がこれを紹介したのは実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが – 強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の1つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。

聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。†

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3 光と旋律による饗宴

1913年12月4日 木曜日

いささか簡略に過ぎた嫌いはあるが、天界においてより精妙な形で働いている原理が地上においても見られることを、ひと通り説明した。そこで次は少しばかり趣きを変えて話を進めようと思う。

本格的な形では吾々の世界にしか存在しない事柄をいくら語ったところで、貴殿には理解できないであろうし、役にも立たないであろうが、旅する人間は常に先へ目をやらねばならない。これより訪れる国についての理解が深ければ深いほど足どりも着実となるであろうし、到着した時の迷いも少ないことであろう。

然らばここを出発点として – 物質のベールを超えて全てが一段と明るい霊的界層に至り、まず吾々みずからがこの世界の真相を学ぶべく努力し、そしてそれを成就した以上 – その知識をこののちの者に語り継ぐことが吾々の第1の責務の1つなのである。

他界後、多くの人間を当惑させ不審に思わせることの1つは、そこに見るもの全てが実在であることである。そのことについては貴殿はすでに聞かされているが、それが余りにも不思議に思え予期に反するものである様子なので、今少し説明を加えたいと思う。

と申すのも、そこに現実に見るものが決して人間がよく言うところの“夢まぼろし”ではなく、より充実した生活の場であり、地上生活はそのための準備であり出発点に過ぎないことを理解することが何よりも大切だからである。

何故に人間は生長しきった樫の木より苗木を本物と思いたがり、小さな湧き水を本流より真実で強力と思いたがるのであろうか。地上生活は苗木であり湧き水に過ぎない。死後の世界こそ樫の木であり本流なのである。

実は人間が今まとっている肉体、これこそ実在と思い込んでいる樹木や川、その他の物的存在は霊界にあるものに比して耐久性がなく実在性に乏しい。なぜなら、人間界を構成するエネルギーの源は全て吾々の世界にあるのであり、その量と強烈さの差は、譬えてみれば発電機と1個の電灯ほどにも相当しよう。

それ故人間が吾々のことを漂う煙の如く想像し、環境をその影の如く想像するのであれば、一体そう思う根拠はどこにあるのかを胸に手を当てて反省してみよと言いたい。否、根拠などあろうはずがないのである。

あるのは幼稚なる愚かさであり、他愛なき想像のみなのである。ここで私はこちらの世界における一光景、ある出来ごとを叙述し、遠からぬ将来にいずれ貴殿も仲間入りする生活の場を紹介することによって、それをより自然に感じ取るようになって貰いたいと思う。

この光あふれる世界へ来て地上を振り返れば、地上の出来ごとの一つ一つが明快にそして生々しく観察でき、部分的にしか理解し得なかったことにもそれなりの因果関係があり、それでよかったことに気づくことであろう。

が、それ以上に、こうして次から次へと無限なるものを見せつけられ、1日1日を生きている生活も永遠の一部であることを悟れば、地上生活がいかに短かいものであるかが判るであろう。

さて、スミレ色を帯びたベールの如き光が遠く地平線の彼方に見え、それが前方の視界をさえぎるように上昇しつつある。その地平線と今私が立っている高い岩場との間には広い平野がある。その平野の私のすぐ足もとの遥か下手(しもて)に大聖堂が見える。

これが又、山の麓に広がる都(みやこ)の中でも際(きわ)立って高く聳えている。ドームあり、ホールあり、大邸宅あり。ことごとくまわりがエメラルドの芝生と宝石のように輝く色とりどりの花に囲まれている。広場あり、彫像あり、噴水あり。

そこを、花壇を欺(あざむ)くほどの美しさに輝き、色彩の数も花の色を凌ぐほどの人の群れが行き交っている。その中に、他を圧するようにひときわ強く輝く色彩が見える。黄金色である。それがこの都の領主なのである。

その都の外郭に高い城壁が三か月状に伸び、あたかも2本の角(つの)で都を抱きかかえるような観を呈している。その城壁の上に見張りの姿が見える。敵を見張っているのではない。広い平地の出来ごとをいち速く捉え、あるいは遠い地域から訪れる者を歓迎するためである。

その城壁には地上ならば海か大洋にも相当する広大な湖の波が打ち寄せている。が、見張りの者にはその広大な湖の対岸まで見届ける能力がある。そう訓練されているのである。その対岸にさきに述べたベールのような光が輝いており、穏やかなうねりを見せる湖の表面を水しぶきを上げて往き交う舟を照らし出している。

さて私もその城壁に降り立ち、これより繰り広げられる光景を見ることにした。やがて私の耳に遠雷のような響きがそのスミレ色の光の方角から聞こえてきた。音とリズムが次第に大きくなり、音色に快さが増し、ついに持続的な一大和音(コード)となった。

すると高く聳える大聖堂から一群の天使が出て来るのが見えた。全員が白く輝く長服をまとい、腰を黄金色の帯で締め、額に黄金の環帯を付けている。やがて聖堂の前の岩の平台に集結すると、全員が手を取り合い、上方を向いて祈願しているかに見える。実は今まさにこの都へ近づきつつある地平線上の一団を迎えるため、エネルギーを集結しているのであった。

そこへもう1人の天使が現われ、その一団の前に立ち、スミレ色の光の方へ目をやっている。他に較べて身体のつくりが一回り大きく、身につけているものは同じく白と黄金色であるが、他に比して一段と美しく、顔から放たれる光輝も一段と強く、その目は揺らぐ炎のようであった。

そう見ていた時のことである。その一団のまわりに黄金色の雲が湧き出て、次第に密度を増し、やがて回転しはじめ1個の球体となった。全体は黄金色に輝いていたが、それが無数の色彩の光から成っていた。それが徐々に大きくなり、ついには大聖堂をも見えなくした。それから吾々の目を見張らせる光景が展開したのである。

その球体が回転しつつ黄金、深紅、紫、青、緑、等々の閃光を次々と発しながら上昇し、ついには背後の山の頂上の高さ、大聖堂の上にまで至り、更に上昇を続けて都の位置する平野を明るく照らし出した。気がついてみると、さきほど一団が集合した平台には誰1人姿が見当らない。

その光と炎の球体に包まれて上昇したのである。これはエネルギーを創造するほどの霊力の強烈さに耐え得るまでに進化した者にしかできぬ業(わざ)である。球体はなおも上昇してから中空の1点に静止し、そこで閃光が一段と輝きを増した。

それから球体の中から影のようなものが抜け出てきて、その球面の半分を被(おお)うのが見えた。地平線上の例のスミレ色の光の方を向いた半球はそのままの位置にあり、それが私に正視できぬほどに光輝を増した。見ることを得たのは、スミレ色の光から送られるメッセージに応答して発せられ平地の上空へ放たれたものだけであった。

そのとき蜜蜂の羽音のようなハミングが聞こえてきた。そしてスミレ色の光の方角から届く大オーケストラの和音(コード)と同じように次第にひびきを増し、ついに天空も平野も湖も、光と旋律とで溢れた。天界では、しばしば、光と旋律とは情況に応じてさまざまな形で融合して効果をあげて行くのである。

すでにこの時点において、出迎えの一団と訪問の一団とは互いに目と耳とで認識し合っている。2つの光の集団は次第に近づき、2つの旋律も相接近して美事な美しさの中に融合している。両者の界は決して近くはない。天界での距離を地上に当てはめれば莫大なものになる。

両者は何10億マイル、あるいは何100億マイルも遠く離れた2つの恒星ほども離れており、それが今その係留(けいりゅう)を解(ほど)いて猛烈なスピードで相接近しつつ、光と旋律とによって挨拶を交わしているのに似ている。これと同じことが霊的宇宙の2つの界層の間で行われていると想像されたい。

そうすれば、その美しさと途方もなく大きな活動は貴殿の想像を絶することが判るであろう。そこまで見て私はいつもの仕事に携わった。が、光はその後もいやが上にも増し、都の住民はその話でもちきりであった。この度はどこのどなたが来られたのであろうか。

前回は誰れそれが見えられ、かくかくしかじかの栄光を授けて下さった、等々と語り合うのであった。かくて住民はこうした機会にもたらされる栄光を期待しつつ各々の仕事に勤しむ。天界では他界からの訪問者は必ずや何かをもたらし、また彼らも何かを戴いて帰り住民に分け与えるのである。

それにしても、その2つの光の集団の面会の様子を何とかうまく説明したく思うのであるが、それはとても不可能である。地上の言語では到底表現できない性質のものだからである。実はこれまでの叙述とて、私にはおよそ満足できるものではない。

壮麗な光景のここを切り取りあそこを間引きし、言わば骨と皮ばかりにして何とか伝えることを得たにすぎない。かりにその断片の寄せ集めを10倍壮麗にしたところで、なお2つの光の集団が相接近して会合した時の壮観には、とても及びもつかぬであろう。

天空は嚇々(かくかく)たる光の海と化し、炎の中を各種の動物に引かれたさまざまな形態の馬車に乗った無数の霊(スピリット)が、旗をなびかせつつ光と色のさまざまな閃光を放ちつつ往き交い、その発する声はあたかも楽器の奏でる如き音色となり、それが更にスミレ色の花とダイヤモンドの入り混った黄金の雨となって吾々の上に降りそそぐ。

なに、狂想詩?そうかも知れない。単調きわまる地上の行列 – けばけばしい安ピカの装飾を施され、それが又、吾々の陽光に比すればモヤの如き大気の中にて取り行われる地上の世界から見れば、なるほどそう思われても致し方あるまい。

が、心するがよい。そうした地球および地上生活の生ぬるい鬱陶(うっとう)しさのさ中においてすら、貴殿は実質的には本来の霊性ゆえに地上の者にはあらずして、吾々と同じ天界に所属する者であることを。故に永続性のない地上的栄光を嗅ぎ求めて這いずり回るような、浅ましい真似だけは慎んでほしい。

授かったものだけで満足し、世の中は万事うまく取り計らわれ、今あるがままにて素晴らしいものであることを喜ぶがよい。ただ私が言っているのは、この低い地上において正常と思うことを規準にして霊界を推し量ってはならないということである。

常に上方を見よ。そこが貴殿の本来の世界だからである。その美しさ、その喜びは全て貴殿のために取ってある。信じて手を差しのべるがよい。私がその天界の宝の中から1つずつ授けて参ろう。心を開くがよい。来るべき住処(すみか)の音楽と愛の一部を吾々が吹き込んでさしあげよう。

差し当っては有るがままにて満足し、すぐ目の前の仕事に勤しむがよい。授かるべきものは貴殿の到来に備えて確実に、そして安全に保持してある。故にこの仕事を忠実にそして精一杯尽くすがよい。

それを全(まっと)うした暁には、貴殿ならびに貴殿と同じく真理のために献身する者は、イエスの“おん血”(ヘブル書9)を受け継ぐ王として或いは王子として天界に迎えられるであろう。聖なるものと愛する者にとってはイエスのおん血はすなわちイエスの生命なのである。

なぜならイエスは聖なるものの美を愛され“父”の聖なる意志の成就へ向けて怯(ひる)むことなく邁進されたからである。人間がそれを侮蔑し、それ故に十字架にかけたのであった。

主の道を歩むがよい。その道こそ主を玉座につかしめたのである。貴殿もそこへ誘(いざな)われるであろう – 貴殿と共に堂々と、そして愛をもって邁進する者もろともに。主イエスはその者たちの王なのである。†

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4 第10界の大聖堂

1913年12月8日 月曜日

前回のべた事柄について引き続き今夜も述べてみたい。前回はスミレ色の光の一団と吾々の界の一団が融合しそして繰り広げた人間の想像を絶する壮麗な光景を叙述した。その栄光が都の上に降りそそぎ、建物も樹木も住民も、全てがそのスミレ色と黄金色の雨の洗礼を受けて一段と輝きを増したのであった。

貴殿には理解がいくと思うが、その一団は吾らの界より一段と高い界からの訪問者であり、こうした際には例外なく贈物として何らかの恩恵を残して行くものなのである。

かくして彼らが去ったあと吾らは更に一段と向上するための力を授かり、都全体がそれまでとはどこか異る崇高さに輝くのであった。

さて、そのとき私はたまたま大聖堂への用事があったので、山道を通って行った。長い登り坂となっていたが、私はこうした時の常として、これから向かう仕事への準備のため、瞑想しつつ1歩1歩ゆっくりと歩んだ。

沿道の少し奥まったところに地上に見るのと同じような拝殿がそこここにあった。その1つ1つの前に少し離れて立ち、両手で目を蔽(おお)って瞑目し、主イエスの道を歩む者としての御力を授かるべく、主との霊的交わりを求めた。

それが終ってふと振り返ると、一見して私の界の者でなく、より高き界からの者と思われる、光り輝く2人の人物を見た。私はすぐに頭を垂れ、目を地面へ落とし、所用を言いつけられるのを待った。

ところが暫く待っても何のお言葉もない。そこで思い切って顔を上げ、まず腰のあたりに締められた帯へ目をやった。そして即座にその2人がその日の訪問団のリーダーに付き添った方であることを見て取った。貴殿らの言う将官付武官のようなものであった。

2人はなおも黙しているので、私はついにそのお顔に目を移した。笑みを漂わせた光り輝くお顔であった。愉しささえ感じられた。その時はじめてしっかりと見つめた。と言うのも、それまではお顔から発せられる光輝のために顔立ちまで見極めることができず、従って自分の知っている方であるか否かの判断がつきかねていたのである。

が、こうした時の手段としてよく行うのだが、そのお2人から霊力をお借りして、ついにはっきりと見極めることが出来た。そこで判った。実はお2人は私が地上近い界層での仕事に携わった時の僚友であった。暗黒界から多くの魂を救出し光明界へと案内した時にお2人に補佐役として仕えたのであった。

私の目にその記憶が蘇ったのを見て、お2人は近づいて両脇からそれぞれ手を取って下さって坂道を登った。そして大聖堂へ近づく途中でまず両頬に口づけし、続いて、それからの同行と会話のために更に霊力を授けて下さったのであった。

ああ、その道中の会話の喜びと愉しさ。曽て手を取り合って活躍した時代の話題に始まり、その日私の界を訪れるに至るまでの話、そして間もなく私が召されるであろう一段と明るく栄光に満ちた世界についての話を聞かせてくれたのであった。

やがて大聖堂に着いた。その道中はお2人の美しさと大いなる栄光の話に魅せられて、いつもより遥かに短かく感じられたことであった。実はお2人はその大聖堂の管理者へのメッセージを携えていた。

それは間もなく彼らのリーダーがその都の領主を伴って訪れ、大聖堂への表敬と礼拝を行い、同時に従者並びにこれより暫し逗留する都のために礼拝を捧げるというものであった。

– その大聖堂を説明していただけませんか。

私に駆使できる範囲の言葉で説明してみよう。聖堂の前面と断崖との間には何の仕切りも見当らない。それ故、都の城壁から少し外れた平地からでもその全容を拝することができる。岩場の平台に切り立つように聳え、アーチが下部から上方へ見事な調和(ハーモニー)を為し、その色彩が上部へ行くほど明るくなっていく。

中心的色彩は何と呼ぶべきか、地上に同じものが見当らないために言うことができない。強いて言えば、ピンクとグレーの調和したものとでも言うほかはない。それでも正確な観念は伝わらない。が、一応、外観はその程度にして、続いて構造そのものの叙述に入ろう。

地上の大聖堂には大きな柱廊玄関が1つ付いているのが普通であるが、それには5つある。1つ1つ構造が異り、色調も異る。それには実は礼拝者への配慮があるのである。もし全員が1つの玄関から入れば、霊力の劣る者が礼拝のためのエネルギーを奪われる虞(おそ)れがある。

そこで5つの出入口を設け、拝廊(ネーブ)において一たん霊力を整え、そこで最初の誓いと礼拝を行う。そのあと更に奥の聖殿の大ホールへと進み、そこで全員が合流する。その時はもはや霊力の弱い者も不快感を伴わなくなっているという次第である。

大ホールの上方は四角の塔になっており、天井が無く、空へ突き抜けている。そして上空には光輝性の雲状のもの、ユダヤ教で言うシェキーナ、つまり“神の御座”に似たものが動めいており、時おり聖堂の建物全体および礼拝者にキリストの生命と祝福を垂れる。

この大ホールのさらに奥にもう1つ、特別のネーブが設けてある。そこは特別の招待を受けた者が天使の拝謁を受ける場所である。そこにおいて招待者は天使より上級界の秘奥についての教えを受けるが、それを許されるのは余ほどの進化した者に限られる。

なぜなら、そこで教わることは神の属性に関する極めて高度なものだからである。しかもそれは僅かずつ授けられる。無節操に炎を求める蛾が身を滅ぼすごとく、神の高度な叡智は1度に多くを手にし、あるいは授かると、魂が危害をこうむることにもなりかねないからである。

私自身はまだその聖殿の内部を覗いたことはない。霊的進化がまだそこまで至っていないからである。その時が至れば、いつでもお呼びがあることであろう。十分な備えが出来るまでは召されぬであろう。

が、次の界へ進化する前には是非ともそこで教育を受けねばならないし、そこ以外には無いのである。目下私はそれに向けて鋭意奮闘しつつあるところである。

以上、その巨大な神殿を幾らかでも描写したつもりであるが、それも大いなる躊躇をもってようやく為し得たことである。何となれば、その実相は余りに荘厳すぎて人間の言葉では到底尽くせないのである。黙示録のヨハネが同志たちに語り聞かせたのも同じような光景であった。

が、彼が伝え得たのは宝石と真珠と水晶と光のみであり、それ以上のものは語り得なかった。今の私がまさにそれである。ためらいを禁じ得ぬのである。そこで私は、残念ではあるが、これにて大聖堂の叙述は終りとする。

どう足掻(あが)いたところで、この第10界の山上に聳える真理と叡智と霊力と祝福の大聖殿に漲る燦然たる壮観を述べ尽くすことはできない。そこはまさに、それら全ての根源であるキリストへ向けての進化において必ず通過せねばならない関門なのである。

– ザブディエル様、私はあなたによる連日の要請がいささか苦痛となってまいりました。できれば1日置きにしていただければと思うのですが、このまま毎日でもやって行けるでしょうか。

貴殿の思うようにすればよい。ただ、このことだけは銘記してほしい。すなわち今は霊力が滞りなく働いているが、このあとどうなるかは測り知ることができない。私は許されるかぎりにおいて貴殿の支えとなる所存であるが、それがもし貴殿の限界ゆえに叶えられないことになれば、もはや何も為し得ない。

が、今の受容的精神状態を続けてくれるかぎり、この通路を可能なかぎり完璧なものに仕上げる所存である。しかし、貴殿の思うようにするがよい。もしも毎日続けることに意を決したならば、その時は貴殿の教会の信者ならびに関係者への必要最少限の書きもの以外は控えてもらいたい。

必要と思えば運動と気分転換のために戸外へ出るがよい。あとは私が力のかぎり援助を授けるであろう。が、受ける側の貴殿よりも与える側の私の方が能力が大である。

それ故、書けると思えば毎日、あるいは職務の許すかぎりにおいて、私の要請に応じてくれればよい。これまでは1日として計画が挫折したことはない。そして多分この後も続け得ることであろう。†

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6章 常夏の楽園

1 霊界の高等学院

1913年12月9日 火曜日

私の望み通り今宵も要請に応じてくれた。ささやかではあるが、これより貴殿をはじめとして他の多くの者にとって有益と思えるものを述べる私の努力を、貴殿は十分に受け止め得るものと信ずる。

たとえ貴殿は知らなくても、貴殿にそれを可能ならしめる霊力が吾々にあり、それを利用して思念を貴殿の前に順序よく披瀝して行く。いたずらに自分の無力を意識して挫けることになってはならない。

貴殿にとってこれ以上は無理と思える段階に至れば、私の方からそれを指摘しよう。そして吾々も暫時ノートを閉じて他の仕事に関わるとしよう。

では今夜も貴殿の精神をお借りして引き続き第10界の生活について今少し述べようと思う。ただ、いつものように吾々の界より下層の世界の事情によってある程度叙述の方法に束縛が加えられ、さらには折角の映像も所詮は地上の言語と比喩の範囲に狭(せば)められてしまうことを銘記されたい。

それは已むを得ないことなのである。それは恰(あたか)も1リットルの器に10リットルの水は入らず、鉛の小箱に光を閉じ込めることが出来ぬのと同じ道理なのである。

前回のべた大聖堂は礼拝のためのみではない。学習のためにも使用されることがある。ここはこの界の高等学院であり、下級クラスを全て終了した者のみが最後の仕上げの学習を行う。

他にもこの界域の各所にさまざまな種類の学校や研究所があり、それぞれに独自の知識を教え、数こそ少ないがその幾つかを総合的に教える学校もある。そのこの都市にはそれが3つある。

そこへは“地方校”とでも呼ぶべき学校での教育を終えた者が入学し、各学校で学んだ知識の相対的価値を学び、それを総合的に理解して行く。この組織は全世界を通じて一貫しており、界を上がる毎に高等となって行く。

つまり低級界より上級界へ向けて段階的に進級していく組織になっており、1つ進級することはそれだけ霊力が増し、且つその恩恵に浴することが出来るようになったことを意味する。

教育を担当する者はその大部分が1つ上の界の霊格を具えた者で、目標を達成すれば本来の界へ戻り、教えを受けた者がそのあとを継ぐ。その間も何度となく本来の上級界へ戻っては霊力を補給する。かくて彼らは霊格の低い者には耐え難い栄光に耐えるだけの霊力を備えるのである。

それとは別に、旧交を温めるために高級界の霊が低級界へ訪れることもよくあることである。その際、低級界の環境条件に合わせて程度を下げなければならないが、それを不快に思う者はまずいない。そうしなければ折角の勇気づけの愛の言葉も伝えられないからである。

そうした界より地上界へ降りて人間と交信する際にも、同じく人間界の条件に合わさねばならない。大なり小なりそうしなければならない。天界における上層界と下層界との関係にも同じ原理が支配しているのである。

が同じ地上の人間でも、貴殿の如く交信の容易な者もあれば困難なるものもあり、それが霊性の発達程度に左右されているのであるが、その点も霊界においても同じことが言える。

例えば第3界の住民の中には自分の界の上に第4界、第5界、あるいはもっと上の界が存在することを自覚している者もおれば、自覚しない者もいる。それは霊覚の発達程度による。

自覚しない者に上級界の者がその姿を見せ言葉を聞かせんとすれば、出来るだけ完璧にその界の環境に合わさねばならない。現に彼らはよくそれを行っている。

もとより、以上は概略を述べたに過ぎない。がこれで、一見したところ複雑に思えるものも実際には秩序ある配慮が為されていることが判るであろう。地上の聖者と他界した高級霊との交わりを支配する原理は霊界においても同じであり、さらに上級界へ行っても同じである。

故に第10界の吾々と、さらに上層界の神霊との交わりの様子を想像したければ、その原理に基いて推理すればよいのであり、地上において肉体をまとっている貴殿にもそれなりの正しい認識が得られるであろう。

– 判りました。前回の話に出た第10界の都市と田園風景をもう少し説明していただけませんか。

よかろう。だがその前に“第10界”という呼び方について一言述べておこう。吾々がそのように呼ぶのは便宜上のことであって、実際にはいずれの界も他の界と重なり合っている。

ただ第10界には自ずからその界だけの色濃い要素があり、それをもって“第10界”と呼んでいるまでで、他の界と判然と区切られているのではない。天界の全界層が一体となって融合しているのである。

それ故にこそ上の界へ行きたいと切に望めば、いかなる霊にも叶えられるのである。同時に、例えば第7界まで進化した者は、それまで辿ってきた6つの界層へは自由に往き来する要領を心得ている。

かくて上層界から引きも切らず高級霊が降りて来る一方で、その界の者もまた下層界へいつでも降りて行くことが出来るのであり、そのたびに目標とする界層の条件に合わせることになる。又その界におりながら自己の霊力を下層界へ向けて送り届けることも出来る。

これは吾々も間断なく行っていることであって、すでに連絡の取れた地上の人間へ向けて支配力と援助とを放射している。貴殿を援助するのに必ずしも第10界を離れるわけではない。もっとも、必要とあらば離れることもある。

– 今はどこにいらっしゃいますか。第10界ですか、それともこの地上ですか。

今は貴殿のすぐ近くから呼びかけている。私にとってはレンガやモルタルは意に介さないのであるが、貴殿の肉体的条件と、貴殿の方から私の方へ歩み寄る能力が欠けているために、どうしても私の方から近づくほかはないのである。

そこでこうして貴殿のすぐそばまで近づき、声の届く距離に立つことになる。こうでもしなければ私の思念を望みどおりには綴ってもらえないであろう。では、私の界の風景についての問いに答えるとしよう。最初に述べた事情を念頭に置いて聞いてもらいたい。では述べるとしよう。

都市は山の麓に広がっている。城壁と湖の間には多くの豪邸が立ち並び、その敷地は左右に広がり、ほとんどが湖のすぐ近くまで広がっている。その湖を舟で一直線に進み対岸へ上がると、そこには樹木が生い繁り、その多くはこの界にしか見られないものである。

その森にも幾筋かの小道があり、すぐ目の前の山道を辿って奥へ入ってゆくと空地に出る。その空地に彫像が立っている。女性の像で天上を見上げて立っている。両手を両脇へ下げ、飾りのない長いローブを着流している。この像は古くからそこに建てられ、幾世紀にも亘って上方を見上げて来た。

が、どうやら貴殿は力を使い果たしたようだ。この話題は一応これにて打ち切り、機会があればまた改めて述べるとしよう。その像の如く常に上方へ目を向けるがよい。その目に光の洗礼が施され、その界の栄光の幾つかを垣間みることができるであろう。†

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2 10界より11界を眺める

1913年12月11日 木曜日

前回の続きである。彫像の立つ空地は実は吾々が上層界からの指示を仰ぐためにしばしば集合する場所である。

これより推進すべき特別の研究の方向を指示するために無数の霊の群れを離れて吾々を呼び寄せるには、こうした場所が都合が良いのである。そこへ高き神霊が姿をお見せになり、吾々との面会が行われるのであるが、その美しい森を背景として、天使の御姿は一段と美しく映えるのである。

その空地から幾すじかの小道が伸びている。吾々は突き当りで右へ折れる道を取り、さらに歩み続ける。道の両側には花が咲き乱れている。キク科の花もあればサンシキスミレもあり、そうした素朴な花が恰(あたか)もダリヤ、ボタン、バラ等の色あざやかな花々の中に混って咲いていることを楽しんでいるかのように、一段と背高(せいだか)に咲いているのが目に止まる。

このほかにもまだまだ多くの種類の花が咲いている。と言うのは、この界では花に季節がなく、常夏の国の如く、飽きることなく常に咲き乱れているのである。

そこここに更に別の種類の花が見える。直径が一段と大きく、それが光でできた楯の如く輝き、あたりはあたかも美の星雲の観を呈し、見る者によろこびを与える。この界の花の美しさは到底言語では尽くせない。すでに述べたように、すべてが地上には見られぬ色彩をしているからである。

それは地上のバイブレーションの鈍重さのせいであると同時に、人間の感覚がそれを感識するにはまだ十分に洗練されていないからでもある。このように – 少し話がそれるが – 貴殿の身のまわりには人間の五感に感応しない色彩と音とが存在しているのである。

この界にはそうした人間の認識を超えた色彩と音とが満ち溢れ、それが絢爛(けんらん)豪華な天界の美を一段と増し、最高神の御胸において至聖なる霊のみが味わう至福のよろこびに近づいた時の“聖なる美”を誇示している。

やがて吾らは小川に出る。そこで道が左右に別れているが、吾々は左へ折れる。その方角に貴殿が興味を抱きそうなコロニーがあり是非そこへ案内したく思うからである。その川から外れると広い眺めが展開する。そこが森の縁(ふち)なのであるが、そこに一体何があると想像されるか。ほかでもない。そこは年中行事を司るところの言わば“祝祭日の聖地”なのである。

地上の人間はとかく吾々を遠く離れた存在であるかに想像し、近接感を抱いていないようであるが、つばめ1羽落ちるのも神は見逃さないと言われるように、人間の為すことの全てが吾々に知れる。

そしてそれを大いなる関心と細心の注意をもって観察し、人間の祈りの中に1しずくの天界の露を投げ入れ、天界の思念によって祈りそのものと魂とに香ばしい風味を添えることまでする。

このコロニーには地上の祝祭日に格別の関心を抱く天使が存在する。そうして毎年めぐり来る大きい祝祭日において、人間の思念と祈願を正しい方向へ導くべく参列する霊界の指導霊に特別の奉納を行う。

私自身はその仕事には関わっていない。それ故あまり知ったかぶりの説明は出来ないが、クリスマス、エピファニー、イースター、ウィットサンデー(※)等々に寄せられる意念がこうした霊界のコロニーにおいて強化されることだけは間違いない事実である。

(※これらは全て霊界の祝祭日の反映であり従って地上の人間の解釈とは別の霊的意義がある。それについてはステイントン・モーゼスの霊界通信『霊訓』が最も詳しい。 – 訳者)

また聞くところによれば“父なる神”をキリスト教とは別の形で信仰する民族の祝祭日にも、同じように霊界から派遣される特別の指導霊の働きかけがあるということであるが、確かにそういうことも有りえよう。

かくて地上の各地の聖殿における礼拝の盛り上がりは、実はこうして霊界のコロニーから送られる霊力の流れが、神への讃仰と祈願で一体となった会衆の心に注がれる結果なのである貴殿はそのコロニーの建物について知りたがっているようであるが、建物は数多く存在し、そのほとんどが聳(そび)えるように高いものばかりである。

その中でもとくに他を圧する威容を誇る建物がある。数々のアーチが下から上へ調和よく連なり、その頂上は天空高く聳え立つ。祝祭日に集まるのはその建物なのである。その頂上はあたかも開きかけたユリの花弁がいつまでも完全に咲き切らぬ状態にも似ており、それに舌状の懸花装飾が垂れ下がっている。

色彩は青と緑であるが、そのヒダは黄金色を濃縮したような茶色を呈している。見るもあざやかな美しさであり、天空へ向けて放射される讃仰の念そのものを象徴している。

それはあたかも芳香を放出する花にも似て、上層界の神霊ならびに、全てを超越しつつしかも全ての存在を見届け知り尽している創造の大霊へ向けて放たれてゆく。

吾々はこの花にも似た美しい聖殿があたかも小鳥がヒナをその両翼に抱き、その庇護の中でヒナたちが互いに愛撫し合うかのような、美しくも温かき光景を後にする。そしてさらに歩を進める。

さて、小川の上流へ向けて暫し歩き続けるうちに、道は上り坂となる。それを登り続けるとやがて山頂に至り、そこより遥か遠くへ視界が広がる。実はそこは吾々の界と次の界との境界である。どこまで見渡せるか、またどこまで細かく見極めるかは、開発した能力の差によって異るが、私に見えるままを述べよう。

私は今、連なる山々の1つの頂上に立っている。すぐ目の前に小さな谷があり、その向うに別の山があり、更にその向うに別の山が聳えている。焦点を遠くへやるほどその山を包む光輝が明るさを増す。

が、その光はじっと静かに照っているのではない。あたかも水晶の海か電気の海にでも浸っているかのように、ゆらめくかと思えば目を眩ませんばかりの閃光を発し、あるいは矢のような光線が走り抜ける。これは外から眺めた光景であり、今の私にはこれ以上のことは叙述できぬ。

川もあれば建物もある。が、その位置は遥か彼方である。芝生もあれば花を咲かせている植物もある。樹木もある。草原が広がり、その界の住民の豪華な住居と庭が見える。が、私はその場へ赴いて調べることはできない。ただ、こうして外観を述べることしかできない。

それでも、その景色全体に神の愛と、えも言われぬ均整美が行きわたり、それが私の心を弾ませ足を急(せ)かせる。なぜなら、その界へ進み行くことこそ第10界における私の生活の全てだからである。

託された仕事を首尾よく果たした暁には、その素晴らしき界の、さる有難きお方(※)からの招きを受けるであろう。その時は喜び勇んで参ることであろう。(※ザブディエルの守護霊のこと。その守護霊にも守護霊がおり、そのまた守護霊がおり、連綿として最後は守護神に至る。 – 訳者)

が、このことは貴殿も同じことではなかろうか。私とその遥か遠き第11界との関係はまさに貴殿と他界後の境涯と同じであり、程度こそ違え素晴らしいものであることにおいては同じである。

この界につきてはまだ僅かしか語っていないが、貴殿の心を弾ませ足を急かせるには十分であろう。ここで再び貴殿をさきの空地へ連れ戻し、あの彫像の如く常に目をしっかりと上方へ向けるよう改めて願いたい。

案ずることは何1つない。足もとへ目をやらずとも決して躓くことはない。高きものを求める者こそ正しい道を歩む者であり、足もとには吾々が気を配り事なきを期するであろう。

万事は佳きに計らわれている。さよう、ひたすらに高きものを求める者は万事佳きに計らわれているものと思うがよい。なぜなら、それは主イエスに仕える吾らを信頼することであり、その心は常に主と共にあり、何人たりとも躓かせることはさせぬであろう。

では、この度はここまでとしよう。地上生活はとかく鬱陶(うっとう)しく、うんざりさせられることの多いものである。が、同時に美しくもあり、愛もあり、聖なる向上心もある。

それを少しでも多く自分のものとし、また少しでも多く同胞に与えるがよい。そうすれば、それだけ鬱陶しさも減じ、天界の夜明けの光が一層くっきりと明るく照らし、より美わしき楽園へと導いてくれることであろう。†

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3 守護霊との感激の対面

1913年12月12日 金曜日

背後から第10界の光を受け、前方から上層界の光を浴びながら私は例の山頂に立って、その両界の住民と内的な交わりを得ていた。そしてその両界を超えた上下の幾層もの界とも交わることが出来た。

その時の無上の法悦は言語に絶し、絢爛(けんらん)にして豪華なもの、広大にして無辺のもの、そして全てを包む神的愛を理解する霊的な眼を開かせてくれたのである。

あるとき私は同じ位置に立って自分の未来の国へ目をやっていた。眼前に展開する光の躍動を見続けることが出来ず、思わず目を閉じた。そして再び見開いた時のことである。その目にほかならぬ私の守護霊の姿が入った。私が守護霊を見、そして言葉を交わしたのは、その時が最初であった。

守護霊は私と向かい合った山頂に立ち、その間には谷がある。目を開いた時、あたかも私に見え易くするために急きょ形体を整えたかのように、私の目に飛び込んで来た。事実そのとおりであった。うろたえる私を笑顔で見つめていた。

きらびやかに輝くシルクに似たチュニック(首からかぶる長い服)を膝までまとい、腰に銀色の帯を締めている。膝から下と腕には何もまとっていないが、魂の清らかさを示す光に輝いている。

そしてそのお顔は他の個所より一段と明るく輝いている。頭には青色の帽子をのせ、それが今にも黄金色へと変ろうとする銀色に輝いている。その帽子にはさらに霊格の象徴である宝石が輝いている。

私にとっては曽て見たこともない種類のものであった。石そのものが茶色であり、それが茶色の光を発し、まわりに瀰漫(びまん)する生命に燃えるような、実に美しいものであった。

「さ、余のもとへ来るがよい」ついに守護霊はそう呼びかけられた。その言葉に私は一瞬たじろいだ。恐怖のためではない。畏れ多さを覚えたからである。
そこで私はこう述べた。

「守護霊様とお見受けいたします。その思いが自然に湧いてまいります。こうして拝見できますのは有難いかぎりです。言うに言われぬ心地よさを覚えます。私のこれまでの道中をずっと付き添ってくださっていたことは承知しておりました。

私の歩調に合わせてすぐ先を歩いて下さいました。今こうしてお姿を拝見し、改めてこれまでのお心遣いに対して厚く御礼申し上げます。ですが、お近くまで参ることは出来ません。

この谷を下ろうとすればそちらの界の光輝で目が眩み、足もとを危くします。これでは多分、その山頂まで登るとさらに強烈な光輝のために私は気絶するものと案じられます。これだけ離れたこの位置にいてさえ長くは耐えられません。」

「その通りかも知れぬ。が、この度は余が力となろう。汝は必ずしも気付いておらぬが、これまでも何度か力を貸して参った。また幾度か余を身近に感じたこともあるようであるが、それも僅かに感じたに過ぎぬ。

これまで汝と余とはよほど行動を共にして参った故に、この度はこれまで以上に力が貸せるであろう。気を強く持ち、勇気を出すがよい。案ずるには及ばぬ。これまで度々汝を訪れたが、この度、汝をこの場へ来させたそもそもの目的はこうして余の姿を見せることにあった。」

そう述べたあと暫しあたかも彫像の如くじっと直立したままであった。が、やがて様子が一変しはじめた。腕と脚の筋肉を緊張させているように見えはじめたのである。

ゴース(クモの糸のような繊細な布地)のような薄い衣服に包まれた身体もまた全エネルギーを何かに集中しているように見える。両手は両脇へ下げたまま手の平をやや外側へ向け、目を閉じておられる。そのとき不思議な現象が起きた。

立っておられる足もとから青とピンクの混じり合った薄い雲状のものが湧き出て私の方へ伸びはじめ、谷を越えて2つの山の頂上に橋のように懸かったのである。高さは人間の背丈とほぼ変らず、幅は肩幅より少し広い。それがついに私の身体まで包み込み、ふと守護霊を見るとその雲状のものを通して、すぐ近くに見えたのである。

そのとき守護霊の言葉が聞こえた。「参るがよい。しっかりと足を踏みしめて余の方へ向かって進むがよい。案ずるには及ばぬ。」

そこで私はその光り輝く雲状の柱の中を守護霊の方へと歩を進めた。足もとは厚きビロードのようにふんわりとしていたが、突き抜けて谷へ落ちることもなく、1歩1歩近づいて行った。守護霊が笑顔で見つめておられるのを見て私の心は喜びに溢れていた。

が、よほど近づいたはずなのに、なかなか守護霊まで手が届かない。相変らずじっと立っておられ決して後ずさりされたわけではなかったのであるが…

が、ついに守護霊が手を差し出された。そして、更に2歩3歩進んだところでその手を掴むことが出来た。するとすぐに、足もとのしっかりした場所へと私を引き寄せて下さった。

見ると、はや光の橋は薄れていき、私の身体はすでに谷の反対側に立っており、その谷の向うに第10界が見える。私は天界の光とエネルギーで出来た橋を渡って来たのであった。

それから2人は腰を下ろして語り合った。守護霊は私のそれまでの努力の数々に言及し、あの時はこうすればなお良かったかも知れぬなどと述べられた。褒めて下さったものもあるが、褒めずに優しく忠告と助言をして下さったこともある。決してお咎めにはならなかった。

又そのとき2人の位置していた境界についての話もされた。そこの栄華の幾つかを話して下さった。さらに、そのあと第10界へ戻って仕上げるべき私の仕事において常に自分が付き添っていることを自覚することがいかに望ましいかを語られた。

守護霊の話に耳を傾けているあいだ私は、心地よい力と喜びと仕事への大いなる勇気を感じていた。こうして守護霊から大いなる威力と高き聖純さを授かり、謙虚に主イエスに仕え、イエスを通じて神に仕える人間の偉大さについて、それまで以上に理解を深めたのであった。

帰りは谷づたいに歩いたのであるが、守護霊は私の肩に手をまわして力をお貸し下さり、ずっと付き添って下さった。谷を下り川を横切り、そして再び山を登ったのであるが、第10界の山を登り始めた頃から言葉少なになっていかれた。

思念による交信は続いていたのであるが、ふと守護霊に目をやるとその姿が判然としなくなっているのに気づいた。とたんに心細さを感じたが、守護霊はそれを察して、「案ずるでない。汝と余の間は万事うまく行っている。そう心得るがよい」とおっしゃった。

そのお姿はなおも薄れて行った。私は今一度さきの場所へ戻りたい衝動に駆られた。が、守護霊は優しく私を促し、歩を進められた。が、そのお姿は谷を上がる途中で完全に見えなくなった。そしてそれきりお姿を拝することはなかった。

しかしその存在はそれまで以上に感じていた。そして私がよろめきつつも漸く頂上に辿りつくまでずっと思念による交信を保ち続けた。そうして頂上から遠く谷越えに光輝あふれる11界へと目をやった。しかし、そこには守護霊の姿はすでに無かった。

が、その場を去って帰りかけながら今一度振り返った時、山脈伝(づた)いに疾走して行く1個の影が見えた。さきほどまで見ていた実質のある形体ではなく、ほぼ透明に近い影であった。それ太陽の光線のように疾走するのが見えたのである。やっと見えたという程度であった。

そしてそれも徐々に薄れていった。が、その間も守護霊は常に私と共に存在し、私の思うこと為すことの全てに通暁しているのを感じ続けた。私は大いなる感激と仕事への一層大きな情熱を覚えつつ山を下り始めたのであった。

あの光輝あふれる界から大いなる祝福を受けた私が、同じく祝福を必要とする人々に、ささやかながらも私の界の恵みを授けずにはいられないのが道理であろう。それを現に同志とともに下層界の全てに向けて行なっている。こうして貴殿のもとへも喜んで参じている。自分が受けた恩恵を惜しみなく同胞へ与えることは心地よいものである。

もっとも、私の守護霊が行なったように貴殿との間に光の橋を架けることは私にはできない。地上界と私の界との懸隔が今のところあまりに大きすぎるためである。しかし、イエスも述べておられるように、両界を結ぶにも定められた方法と時がある。

イエスの力はあの谷を渡らせてくれた守護霊より遥かに大きい。私はそのイエスに仕える者の中でも極めて霊格の低い部類に属する。が、私に欠ける聖純さと叡智は愛をもって補うべく努力している。

貴殿と2人して力のかぎり主イエスに仕えていれば、主は常に安らぎを与えてくださり、天界の栄光から栄光へと深い谷間を越えて歩む吾々に常に付きそってくださることであろう。†

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4 9界からの新参(ざん)を迎える

1913年12月15日 月曜日

さて私は、いずれの日か召されるその日までに成就せねばならない仕事への情熱に燃えつつ、その界をあとにしたのであったが、ああ、その環境ならびに守護霊から発せられた、あの言うに言われぬ美しさと長閑(のど)けさ。

仮りにそこの住民がその守護霊の半分の美しさ、半分の麗しさしかないとしても、それでもなお、いかに祝福された住民であることか。私は今その界へ向けて鋭意邁進しているところである。

しかし一方には貴殿を手引きすべき責務がある。もとよりそれを疎(おろそ)かにはしないつもりであるが、決して焦ることもしない。大いなる飛躍もあるであろうが、無為にうち過ごさざるを得ない時もあるであろう。

しかし私が曽て辿った道へ貴殿を、そして貴殿を通じて他の同胞を誘(いざな)う上で少しでも足しになればと思うのである。願わくは貴殿の方から手を差しのべてもらいたい。私に為し得るかぎりのことをするつもりである。

私は心躍る思いのうちにその場を去った。そしてそれ以来、私を取り巻く事情についての理解が一段と深まった。それは私が重大な事柄について一段と高い視野から眺めることが出来るようになったということであり、今でもとくに理解に苦しむ複雑な事態に立ち至った折には、その高い視野から眺めるよう心掛けている。

つまりそれは第11界に近い視野から眺めることであり、事態は立ちどころに整然と片づけられ、因果関係が一層鮮明に理解できる。貴殿も私に倣(なら)うがよい。

人生の縺(もつ)れがさほど大きく思えなくなり、基本的原理の働きを認識し、神の愛をより鮮明に自覚することであろう。そこで私は、今置かれている界について今少し叙述を続けてみようと思う。

帰りの下り道で例の川のところで右へ折れ、森に沿って曲りくねった道を辿り、右手に聳える山々も眺めつつ平野を横切った。その間ずっと瞑想を続けた。
そのうち、その位置からさらに先の領域に住む住民の一団に出会った。まずその一団の様子から説明しよう。

彼らのある者は歩き、ある者は馬に跨(またが)り、ある者は四輪馬車ないしは二輪馬車に乗っている。馬車には天蓋(てんがい)はなく木製で、留め具も縁飾りもすべて黄金で出来ており、さらにその前面には乗り手の霊格と所属界を示す意匠が施されている。身にまとえる衣装はさまざまな色彩をしている。

が、全体を支配しているのは藤色で、もう少し濃さを増せば紫となる。総勢300名もいたであろうか。挨拶を交わしたあと私は何用でいずこへ向かわれるのかと尋ねた。

その中の1人が列から離れて語ってくれたところによれば、下の第9界からかなりの数の一団がいよいよこの10界への資格を得て彼らの都市へ向かったとの連絡があり、それを迎えに赴くところであるという。それを聞いて私はその者に、ぜひお伴させていただいて出迎えの様子を拝見したく思うので、リーダーの方にその旨を伝えてほしいと頼んだ。

するとその者はにっこりと笑顔を見せ、「どうぞ付いて来なさるがよろしい。私がそれを保証しましょう。と申すのも、あなたは今そのリーダーと並んで歩いておられる」と言う。

その言葉に私はハッとして改めてその方へ目をやった。実は、その方も他の者と同じく紫のチュニックに身を包んでおられたが何の飾りつけもなく、頭部の環帯も紫ではあるが宝石が1つ付いているのみで、他に何の飾りも見当らなかったのである。

他の者たちが遥かに豪華に着飾り、そのリーダーよりも目立ち、威厳さえ感じられた。その方と多くは語らなかったが、次第に私よりも霊格の高いお方で私の心の中を読み取っておられることが判って来た。その方は更にこうおっしゃった。

「新参者には私のこのままの姿をお見せしようと思います。と申すのは、彼らの中にはあまり強烈な光輝には耐えられぬ者がいると聞いております。そこで私が質素にしておれば彼らが目を眩ませることもないでしょう。あなたはつい最近、身に余る光栄は益よりも害をもたらすものであることを体験されたばかりではなかったでしょうか。」

その通りであることを申し上げると、さらにこう言われた。「お判りの通り私はあなたの守護霊が属しておられる界の者です。今はこの界での仕事を仰せつかり、こうして留まっているまでです。

そこで、これより訪れる新参者が“拝謁”の真の栄光に耐え得るようになるまでは気楽さを味わってもらおうとの配慮から、このような出で立ちになったわけです。さ、急ぎましょう。皆の者が川に到着しないうちに追い付きましょう。」

一団にはわけなく追いつき、いっしょに川を渡った。泳いで渡ったのである。人間も、馬も、ワゴンもである。そして向こう岸に辿り着いた。そこから私の住む都市を右手に見ながら、山あいの峠道に来た。そこの景色がこれ又一段と雄大であった。

左右に堂々たる岩がさながら大小の塔、尖塔、ドームの如く聳え立っている。そこここに植物が生い繁り、やがて2つの丘を両肩にして、そのあいだに遠く台地が広がっているのが見えて来た。そこにも1つの都市があり、そこに住む愉快な人々の群れが吾々の方を見下ろし、手を振って挨拶し、愛のしるしの花を投げてくれた。

そこを通り過ぎると左右に広がる盆地に出た。実に美しい。まわりに樹木が生い茂った華麗な豪邸もあれば、木材と石材で出来た小じんまりとした家屋もある。

湖もあり、そこから流れる滝が、吾々がたったいま麓を通って来た山々から流れてくる川へ落ちて行く。そこで盆地が自然の岩で出来た2本の巨大な門柱の間を1本の道が川と並んで通っている。

その土地の人々が“海の門”と呼ぶこの門を通り抜けると、眼前に広々とした海が開ける。川がそのまま山腹を落ちてゆくさまは、あたかも色とりどりの無数のカワセミやハチドリが山腹を飛び交うのにも似て、さまざまな色彩と光輝を放ちつつ海へ落ちてゆく。

吾々も道を通って下り、岸辺に立った。一部の者は新参者の到着を見届けるために高台に残った。こうしたことは全て予定どおりに運ばれた。それと言うのも、リーダーはその界より一段上の霊力を身につけておられ、それだけこの界の霊力を容易に操ることができるのである。

そういう次第で、吾々が岸辺に下り立って程なくして、高台に残った者から、沖に一団の影が見えるとの報が大声で届けられた。その時である。川を隔てた海岸づたいに近づいて来る別の女性の一団が見えた。尋ねてみるとその土地に住む人たちで、これから訪れる人々と合流することになっているとのことであった。

迎えた吾々も、迎えられた女性たちも、ともに喜びに溢れていた。丸みを帯びた丘の頂上にその一団の長(おさ)が立っておられる。頭部より足まですっぽりと薄い布で包み、それを通してダイヤモンドか真珠のような生命力あふれる輝きを放散している。

その方もじっと沖へ目をやっておられたが、やがて両手で物を編むような仕ぐさを始めた。間もなくその両手の間に大きな花束が姿を現わした。そこで手の動きを変えると今度はその花束が宙に浮き、1つなぎの花となって空高く伸び、さらに遠く沖へ延びて、ついに新参の一団の頭上まで届いた。

それが今度は1点に集まって渦巻きの形を作り、ぐるぐると回転しながらゆっくりと一団の上に下りて行き、最後にぱっと散らばってバラ、ユリ、その他のさまざまな花の雨となって一団の頭上や身辺に落下した。

私はその様子をずっと見ていたが、新参の一団は初め何が起きるのであろうかという表情で見ていたのが、最後は大喜びの表情へと変わるのが判った。その花の意味が理解できたからである。すなわち、はるばると旅して辿り着いたその界では愛と善とが自分たちを待ちうけていることを理解したのであった。

さて、彼らが乗ってきた船の様子もその時点ではっきりして来た。実はそれはおよそ船とは呼べないもので、筏(いかだ)のようなものに過ぎなかった。どう説明すればよかろうか。たしかに筏なのであるが、何の変哲もないただの筏でもない。

寝いすもあれば柔らかいベッドも置いてあり、楽器まで置いてある。その中で1ばん大きいものはオルガンである。それを今3人の者が一斉に演奏しはじめた。その他にも楽しむためのものがいろいろと置いてある。その中でとくに私の注意を引いたのは、縁(へり)の方にしつらえた祭壇であった。

詳しい説明は出来ない。それがの方にしつらえた祭壇であった。詳しい説明は出来ない。それが何のために置いてあるのかが判らないからである。さてオルガンの演奏とともに船上の者が一斉に神を讃美する歌を唱いはじめた。

すべての者が跪(ひざまず)く神、生命の唯一の源である神。太陽はその生命を地上へ照らし給う。天界は太陽の奥の間 – 愛の光と温もりの泉なり。太陽神とその配下の神々に対し、吾々は聖なる心と忠誠心を捧げたてまつる。そう唱うのである。

私の耳にはその讃美歌が妙な響きをもっているように思えた。そこで私はその答えはもしかしたら例の祭壇にあるかも知れないと思ってそこへ目をやってみた。が、手掛りとなるものは何も見当らなかった。私になるほどと得心がいったのは、ずっと後のことであった。

が、貴殿は今宵はもう力が尽きかけている。ここで一応打ち切り、あす又この続きを述べるとしよう。今夜も神の祝福を。では、失礼する。昼となく夜となく、ザブディエルは貴殿と共にあると思うがよい。

そのことを念頭に置けば、さまざまな思念や思いつきがいずこより来るか、得心がゆくことであろう。ではこれまでである。汝は疲れてきた。ザブディエル†

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5 宗派を超えて

1913年12月17日 水曜日

前回に引き続き、遠き国よりはるばる海を渡ってきた一団についての話題を続けよう。はるばる長い道のりを辿ったのは、新しい界に定住するに当っての魂の準備が必要だったからである。

さて、いよいよ一団は海岸へ降り立った。そして物見の塔の如くそそり立つ高い岬の下に集合した。それから一団の長(おさ)が吾々のリーダーを探し求め、やがて見つかってみると顔見知りであった。以前に会ったことのある間柄であった。2人は温かい愛の祝福の言葉で挨拶し合った。

2人は暫し語り合っていたが、やがて吾々のリーダーが歩み出て新しく来た兄弟たちへおよそ次のような意味の挨拶を述べられた。「私の友であり、兄弟であり、唯一の父なる神のもとにおいては互いに子供であり、それぞれの魂の光によってその神を崇拝しておられる皆さんに、私より心からの歓迎の意を表したいと思います。

この新たな国を求めて皆さんははるばるとお出でになられましたが、これからこの国の美しさを見出されれば、それも無駄でなかったことを確信されることでしょう。私は一介の神の僕に過ぎず、こうしてお出でになられた皆さんがこの国の生活環境に慣れられるようにとの配慮から、私どもがお出迎えに上がった次第です。

これまでの永い修養の道ですでに悟られたことと思いますが、あなた方が曽て抱いておられた信仰は、神の偉大なる愛と祝福を太陽に譬えれば、その一条の光ほどのものに過ぎませんでした。

その後の教育と成長の過程の中でそのことを、あるいはそれ以上のことを理解されましたが、1つだけあなた方特有の信仰形体を残しておられる – あの船上の祭壇です。

ただ、今見ると、あの台座に取り付けられた独特の意匠が消えて失くなっており、また、いつも祈願の時に焚(た)かれる香(こう)の煙が見えなかったところを見ますと、どうやら私には祭壇が象徴としての意義をほとんど、あるいは全く失ってしまったように思えます。

これからもあの祭壇を携えて行かれるか、それともあのまま船上に置いて元の国へ持って帰ってもらい、まだ理解力があなた方に及ばない他の信者に譲られるか、それはあなた方の選択にお任せします。では今すぐご相談なさって、どうされるかをお聞かせ頂きたい。」

相談にたいして時間は掛からなかった。そしてその中の1人が代表してこう述べた。「申しあげます。あなたのおっしゃる通りです。曽ては吾々の神を知り祈願する上で役に立ちましたが、今はもう私どもには意味を持ちません。

いろいろと教えを受け、また自分自身の瞑想によって、今では神は1つであり人間は生まれや民族の別なくその神の子であることを悟っております。愛着もあり、所持しても邪魔になるものでもないとは言え、自と他を分け隔てることになる象徴を置いておくのはもはや意味のない段階に至ったと判断いたします。

そこであの祭壇は送り返したいと思います。まだまだ曽ての自分の宗教を捨て切れずにいる者が居りますので。そこで皆さまのお許しをいただければ是非これよりお伴させて頂き、この一段と光輝あふれる世界および、これより更に上の界における同胞関係について学ばせて頂きたいものです。」

「よくぞ申された。是非そうあって頂きたいものです。他にも選択の余地はあるのでしょうが、私も今おっしゃった方法が1ばんよろしいように思います。では皆さん、私についてお出でなさい。これよりあの門の向こうにある平野、そして更にその先にあるあなた方の新たなお国へご案内いたしましょう。」

そうおっしゃってから一団の中へ入り、1人1人の額に口づけをされた。すると1人1人の表情と衣装が光輝を増し、吾々の程度に近づいたように私の目に映った。

そこへさらに例の女性ばかりの一団の長(おさ)が降りて来て、吾々のリーダーと同じことをされた。女性の一団は吾々と邂逅(かいこう)を心から喜び、吾々もまた喜び、近づく別れを互いに惜しんだ。

吾々が門の方へ歩み始めると長が途中まで同行し、いよいよ吾々が門をくぐり抜けると、その女性の一団による讃美歌が聞こえて来た。それは吾々への別れの挨拶でもあった。吾々は一路内陸へ向けて盆地を進んだ。さて貴殿は例の祭壇とリーダーの話が気になることであろう。

– 遮(さえぎ)って申し訳ありませんが、あなたはなぜそのリーダーの名前をお出しにならないのですか。

是非にというのであれば英語の文字で綴れる形でお教えしよう。が、その本来のお名前の通りにはいかない。実は、それを告げることを許されていないのである。取り敢えずハローレン Harolen とでも呼んでおこう。3つの音節から成っている。本当のお名前がそうなのである。これでよかろうと思う。では話を進めよう。

一隊が盆地を過ぎ、川を渡り、その国の奥深く入り行くあいだ、ハローレン様はずっとその新参の一団のことに関わっておられた。その間の景色は私はまだ述べていないであろう。私がハローレン様と初めてお逢いしたのはそのずっと先だったからである。

その辺りまで来ていローレン様がひとりと見られたので、私は近づいてその一団のこと、並びに海辺で話された信仰の話についてお尋ねした。すると、一団は地上では古代ペルシャ人の崇拝した火と太陽の神を信仰した者たちであるとのことであった。

ここで私自身の判断によって、そのことから当然帰結される教訓を付け加えておかねばならない。人間が地上生活を終えてこちらへ来た当初は、地上にいた時とそっくりそのままであることを知らねばならない。いかなる宗教であれ、信仰厚き者はその宗教の教義に則(のっと)った信仰と生活様式とをそのまま続けるのが常である。

が、霊的成長とともに“識別”の意識が芽生え、1界また1界と向上するうちに籾殻(もみがら)が一握りずつ捨て去られて行く。が、その中にあっても、いつまでも旧態依然として脱け切らない者も居れば、さっさと先へ進み行く者もある。そうして、その先へ進んだ者たちが後進の指導のために戻って来ることにもなる。

こうして人間は旧い時代から新しい時代へ、暗い境涯から明るい境涯へ、低い界から高い界へと進みつつ、1歩1歩、普遍的宇宙神の観念へと近づいてゆく。同じ宗教の仲間と生活を共にしてはいても、すでに他の宗派の思想・信仰への寛恕の精神に目覚め、自分もまた他の宗派から快く迎えられる。

かくしてそこに様々な信仰形態の者の間での絶え間ない交流が生まれ、大きくふくらんで行くことになる。が、しかし、全ての宗派の者が完全に融合する日はまだ遠い先のことであろう。あのベルシャ人たちも古いペルシャ信仰に由来する特殊な物の見方を留めていた。今後もなお久しく留めていることであろう。

が、それで良いのである。何となれば、各人には各人特有の個性があり、それが全体の公益を増すことにもなるからである。例の一行は海上での航海中にさらに一歩向上した。と言うよりは、すでにある段階を超えて進歩したことを自ら自覚するに至ったと言うべきであろう。

私が彼らの船上での祈りの言葉とその流儀に何か妙なひびきを感じ取りながらも、それが内的なものでなく形の上のものに過ぎなかったのはそのためである。だからこそ、ローレン様から選択を迫られたとき潔(いさぎよ)く祭壇を棄て、普遍的な神の子として広い同胞精神へ向けて歩を進めたのであった。

こうして人間は、死後、地上では何ものにも替え難い重要なものと思えた枝葉末節を一つ一つかなぐり棄ててゆく。裏返して言えば、愛と同胞精神の真奥(しんおう)に近づいて行くのである。どうやら貴殿は戸惑っているように見受けられる。

精神と自我とがしっくりいっていないのが私に見て取れるし、肌で感じ取ることも出来る。そのようなことではいけない。よく聞いてほしい。いかなるものにせよ、真なるもの、善なるもののみが残る。そして真ならざるもの、善ならざるもののみが棄て去られて行く。貴殿が仕える主イエスは“真理”そのものである。

が、その真理の全てが啓示されたわけではない。それは地上で肉体に宿り数々の束縛を余儀なくされている者には有りえないことである。が、イエスも述べているように、いつの日か貴殿も真理の全てに誘(いざな)われることであろう。

それは地上を超えた天界において1界また1界と昇って行く過程の中で成就される。そのうちの幾つかがこうして貴殿に語り伝えられているところである。それが果たしていかなる究極を迎えるか、崇高な叡智と愛と力がどこまで広がって行くかは、この私にも判らない。

ただこの私 – 地上で貴殿と同じくキリスト神とナザレイエスを信じつつ忠実な僕(しもべ)としての生涯を送り、いま貴殿には叶えられない形での敬虔な崇拝を捧げる私には、次のことだけは断言できる。

すなわち、そのイエスなる存在はこの私にとっても未だ、遥か遥か彼方の遠い存在であるということである。今もしその聖なるイエスの真実の輝きを目のあたりにしたら、私は視力を奪われてしまうことであろうが、これまでに私が見ることができたのは黄昏時(たそがれどき)の薄明りていどのものに過ぎない。

その美しさは私も知らないではない。現実に拝しているからである。が、私に叶えられるかぎりにおいて見たというに過ぎず、その全てではない。それでさえ、その美しさ、その美事さはとても言葉には尽くせない。その主イエスに、私は心からの献身と喜びをもって仕え、そして崇敬する。

故に貴殿はイエスへの忠誠心にいささかの危惧も無用である。吾々と異る信仰を抱く者へ敬意を表わしたからといって、イエスの価値をいささかも減じることにはならない。

なぜなら、全ての人類はたとえキリスト教を信じないでも神の子羊であることにおいては同じだからである。イエスも人の子として生まれ、今なお人の子であり、故に吾ら全ての人間の兄弟でもあるのである。アーメン†

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6 大天使の励まし

1913年12月18日 木曜日

吾々が通過した土地は丘陵地で、山と呼ぶほどのものは見当らなかった。いずこを見ても円い頂上をした丘が連なり、そこここに住居が見える。が、進み行くうちにハローレン様の様子が徐々に変化しはじめた。表情が明るさを増し、衣装が光輝を発しはじめた。

左手にある森林地帯を通過した頃にはもう、その本来の美しさを取り戻しておられた。その様子を叙述してみよう。まず頭上に光の表象が現われている。赤と茶の宝石を散りばめた王冠のようなもので、キラキラと光線を発し、その光輝の中にさらにエメラルドの光輝が漂っている。

チュニックは膝まである。腕も出ている。腰のあたりに黄金の帯をしめ、それに真珠のような素材の宝石が付いている。色は緑と青である。帽子も同じく緑と青の2色から成り、露出している腕には黄金と銀の腕輪がはめられている。
そうしたお姿でワゴンに立っておられる。

そのワゴンは木と金属で出来た美しい2輪馬車でそれが白と栗毛の2頭の馬に引かれている。私が受けた感じでは全体に茶の色彩が強い。際立つほどではないが、ワゴンの装飾も、見えることは見えるが派手に目立たぬようにと、茶色で抑えられている感じである。

霊界では象徴性(シンボリズム)を重んじ、何かにつけて活用される。そこで、そうした色彩の構成の様子から判断するに、ハローレン様は元来は茶色を主体とする上層界に属しておられ、この界での使命のためにその本来の茶を抑え、この界でより多く見られる他の色彩を目立たせておられると観た。

使命成就のためにこの界に長期の滞在をするには、そうせざるを得ないのである。が、その質素にしてしかも全体として実に美しいお姿を拝して、私はその底知れぬ霊力を感じ取った。

その眼光には指揮命令を下す地位に相応しい威厳を具えた聖純さがあり、左右に分け“こめかみ”の辺りでカールした茶色の頭髪の間からのぞく眉には、求愛する乙女のごとき謙虚さと優しさが漂っている。

低い者には冒し難い威厳をもって威圧感を与え、それでいて心疚(やま)しからぬ者には親しさを覚えさせる。喜んでお慕い申し上げ、その保護とお導きに満腔の信頼の置ける方である。まさしく王者であり、王者としての力と、その力を愛の中に正しく行使する叡智を具えた方だからである。

さて、吾々はなおも歩を進めた。大して語り合うこともなく、ただ景色の美しさと辺りに漂安らぎと安息の雰囲気を満喫するばかりであった。そしてついに新参の一団がそろそろ環境に慣れるために休息しなければならないところまで来た。

休息したのちはさらに内陸へと進み、その性格に応じてあの仕事この仕事と、神の王国の仕事に勤しむべく、その地方のコロニーのいずれかへ赴くことになる。

そこでハローレン様から“止まれ!”のお声があった。そしてその先に見える丘の向こうに位置する未だ見ぬ都へ案内するに際し、ひとこと述べておきたいことがあるので暫し静かにするようにと述べられた。吾々は静粛を保った。

すると前方の丘の向こうの或る地点から巨大な閃光が発せられ、天空を走って吾々まで届いた。吾々は光の洪水の中に浸った。が、1人として怖がる者はいない。

何となればその光には喜びが溢れていたからである。そしてその光輝に包まれたワゴンとそこに立っておられるハローレン様は、見るも燦爛(さんらん)たる光景であった。

ハローレン様はじっと立ったままであった。が、辺りを包む光が次第にハローレン様を焦点として凝縮していった。そしてやがてお姿がそれまでとは様相を変え、言うなれば透明となり、全身が栄光で燃え立つようであった。その様子を少しでもよい、どうすれば貴殿に伝えることが出来るであろうか。

純白の石膏で出来た像に生命が宿り、燦爛たる輝きを放ちながら喜悦に浸り切っているお姿を想像してもらいたい。身につけられた宝石と装飾の1つ1つが光輝を漲らせ、馬車までが炎で燃えあがっていた。

その辺り一面が生命とエネルギーの栄光と尊厳に溢れていた。2頭の馬はその光輝に浸り切ることなく、それを反射しているようであった。ハローレン様の頭部の冠帯はそれまでの幾層倍も光度を増していた。

私の目にはハローレン様が今にも天に舞い上がるのではないかと思えるほど透明になり、気高さを増されたが、相変らずじっと立ったまま、その光の来る丘の向こうに吾々には見えない何ものかを見届けておられるような表情で、真っすぐにその光の方へ目を向けられ、その光の中にメッセージを読み取っておられた。

しかし、次にお見せになった所作に吾々は大いに驚かされた。別に目を見張るような不思議や奇跡を演じられたわけではない。逆である。静かにワゴンの上で跪(ひざまず)かれ、両手で顔をおおい、じっと黙したままの姿勢を保たれたのである。

吾々にはハローレン様がその光を恐れられる方ではなく、むしろそれを、否、それ以上のものを思うがままに操られる方であることを知っている。そこで吾々は悟った。ハローレン様はご自分より霊格と聖純さにおいて勝(まさ)れる方に頭を垂れておられるのである。

そう悟ると、吾々もそれに倣って跪き、頭を垂れた。が、そこに偉大なる力の存在は直感しても、いかなるお方であるかは吾々には判らなかった。そうしているうちに、やがて美しい旋律と合唱が聞こえて来た。が、その言葉も吾々には理解できない種類のものであった。

なおも跪きつつ顔だけ上げて見ると、ハローレン様はワゴンから降りられ吾々一団の前に立っておられた。そこへ白衣に身を包まれた男性の天使が近づいて来られた。額(ひたい)の辺りに光の飾り輪が見える。それが髪を後頭部で押さえている。

宝石はどこにも見当らないが、肩のあたりから伸びる2本の帯が胸の中央で交叉し、そこを紐で締めている。帯も紐も銀と赤の混じった色彩に輝いている。お顔は愛と優しさに満ちた威厳をたたえ、いかにも落着いた表情をされている。

ゆっくりと、あたかもどこかの宇宙の幸せと不幸の全てを一身に背負っておられるかのような、思いに耽った足取りで歩かれる。そこに悲しみは感じ取れない。それに類似したものではあるが、私にはどう表現してよいか判らない。お姿に漂う、全てを包み込むような静寂に、それほど底知れぬ深さがあったのである。

その方が近づかれた時もハローレン様はまだ跪かれたままであった。その方が何事か吾々に理解できない言葉で話しかけられた。その声は非常に低く、吾々には聞こえたというよりは感じ取ったというのが実感であった。

声を掛けられたハローレン様は、見上げてその方のお顔に目をやった。そしてにっこりとされた。その笑顔はお姿を包む雰囲気と同じく、うっとりとさせるものがあった。やがてその天使は屈み込み、両手でハローレン様を抱き寄せ、側に立たせて左手でハローレン様の右手を握られた。

それから右手を高々とお上げになり、吾々の方へ目を向けられ、祝福を与え、これから先に横たわる使命に鋭意邁進するようにとの激励の言葉を述べられた。
力強く述べられたのではなかった。それは旅立つ吾が子を励ます母親の言葉にも似た優しいもので、それ以上のものではなかった。

静かに、そしてあっさりと述べられたのである。が、その響きには吾々に自信と喜びを与えるに十分なものがあり、すべての恐怖心が取り除かれた。実は初めのうちは、ハローレン様さえ跪くほどの方であることにいささか畏怖の念を抱いていたのである。

そう述べられたままの姿で立っておられると、急に辺りの光が凝縮しはじめ、その方を包み込んだ。そしてハローレン様の手を握りしめたままそのお姿が次第に見えなくなり、やがて視界から消えていった。光もなくなっていた。あたかもその方が吸収して持ち去ったかのように思えた。

そこでハローレン様はもう一度跪かれ、暫し頭を垂れておられた。やがて立ち上がると黙って手で“進め!”の合図をされた。そして黙ってワゴンにお乗りになり、前進を始めた。吾々も黙ってそのあとに続き、丘をわまり、その新参の一行が住まうことになる土地に辿り着いたのであった。†

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7章 天界の高地

1 信念と創造力

1913年12月19日 金曜日

「神はあなたがたの信念に応じてお授けになる – このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言できる。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法はさまざまであろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。

さて、これは地上世界にかぎられたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上して行く界層においても同じである。吾々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。

確信を得れば他を援助するだけの霊力を身につけ、その霊力の行使を自ら愉しむこともできる。イエスも述べたように、“施される”ことは喜びであるが、“施す”ことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。

が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれを至って曖昧に – 真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体の知れないものと受けとめているようである。

が、何事につけ本質を探る吾々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。その意味をより一層明確にするために、こちらでの私の体験を述べてみよう。

あるとき私は命を受けて幾つかの施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要なときは助言を与え、その結果を報告することになった。さて1つ1つ訪ねていくうちに、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。

そこには2人の保護者のもとで大勢の子供が生活している。お2人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取り合って向上の道を歩みつつある。彼らが預っているのは死産児、つまり生まれた時すでに死亡していたか、あるいは生後間もなく死亡した子供たちである。

こうした子供たちは原則として下層界にある“子供の園”には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を経た者、あるいは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱であるために、特殊な看護を必要とするからでもある。

お2人の挨拶があり、さらにお2人の合図で子供たちが集まって来て、歓迎の挨拶をした。が、子供たちは一様に恥ずかしがり屋で、初めのうちは容易に私の語りかけに応じてくれなかった。

それというのも、ここの子供たちは今のべた事情のもとでそこへ連れてこられているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけているうちに、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。

そのうち可愛らしい男の子が近づいてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍らしかったのであろう。もの珍らしげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出してみせようかと言ってみた。

すると初めその意味がよく判らない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。が、私がさらに何が欲しいかと尋ねると、「もしよかったらハトをお願いします」と言う。

なかなか丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、さらに、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことは必ず思いどおりになるものであることを話して聞かせた。

そう話してからその子を前に立たせておき、私は1羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見えはじめた。それが次第に姿を整え、ついにプレートからはみ出るほどになった。それを私が取り出した。

それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次にその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸のところに抱いて、他の子供たちのところへ見せに走って行った。

これは実は子供たちを誘(おび)き寄せるための一計に過ぎなかった。案の定それを見て1人2人と近づいて来て、やがて私の前に一団の子供たちが集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入っていた。が、私はわざと黙って子供から言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。

と言うのは、私は今その子たちに信念の力を教えようとしているのであり、そのためには子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。最初に勇気を出して皆んなの望みを述べたのは女の子であった。

私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチュニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、できたら…」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩のところまで抱き上げ、さあ言ってごらん、と促した。

その子が望んだのは子羊であった。私は言った。今お願いしてあるからそのうち届けられるであろう。何しろ子羊はハトに較べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。

彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、皆んなで信じてます。」私は思わず声を出して笑った。そして皆んなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。

(もっとも子供たちは毛のことを毛皮と言っていたが)それから私は腰を下ろして子供たちに話しかけた。まず“吾らが父”なる神を愛しているかと尋ねた。すると皆んな、もちろん大好きです、この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えて下さったのは父だからです、と答えた。

そこで私がこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供たちが父の生命と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望みどおりのものを得るための意念の使い方を教えて下さる。

動物も皆んなで作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。ただし初めてにしては子羊は大きすぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。そう述べてから、子供たちに心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分たちのところへやって来るように念じるように言った。

ところが見たところ何も現われそうにない。実は私は故意に力を抑え目にしておいたのである。しばらく試みたあと一息入れさせた。そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分でないようであるが、大きくなればこれ位のことは出来るようになる。ただし祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。

「あなたたちにも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。あとはあなた方の先生から教わりなさい。あなたたちにはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。このあたりに子羊はおりますか?」

この問いに皆んな、このあたりにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先ごろそこへ行ってきたばかりだという。そこで私は言った。「おや、あなたたちの信念と力によって、もう、そのうちの1頭が呼び寄せられましたよ。」

そう言って彼らの背後を指さした。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の小羊が草を食んでいるのが目に入った。その時の子供たちの驚きようはひと通りでなかった。唖(あ)然として見つめるのみであった。

が、そのうち年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊めがけて走って行った。子羊も子供たちを見て、あたかも遊び友だちが出来たのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄って来た。

「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供たちはそう叫んで、あとからやって来る者に早く早くという合図をした。そして間もなくその小羊はまるで子供たちがこしらえたもののように、もみくちゃにされたのであった。自分たちがこしらえたものだ、だから自分たちのものだ、という気持をよほど強く感じたものと察せられる。

さて、以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかも知れない。が、重要なのはその核心である。私は自信をもって言うが、こうして得られる子供たちのささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねたのちには、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。

いま宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛錬を始めたのである。私が子供たちに見せたのが実に“創造”の1つの行為であった。

そして私の援助のもとに彼らが自ら行ったことはその創造的行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、1歩1歩、吾々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。

そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解できなくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、みずからの成就を確実なものとするのである。貴殿も信念に生きよ。

ただし要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身につけねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして吾々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の1つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。そのイエスの名に祝福あれ。アーメン†

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2 家族的情愛の弊害

1913年12月22日 月曜日

子供のための施設と教育についてはこの程度にして、引き続きその見学旅行での別の話題にいるとしよう。そのあと私は数少ない家がそれなりの小さな敷地をもって集落を作っている村に来た。

そうした集落が幾つかあり、それぞれに異った仕事をもっているが、全体としてはほぼ同程度の発達段階にある者が住んでいる。その領土の長(おさ)が橋のたもとで私を迎えてくれた。その橋の架かった川は村を一周してから、すでに話に出た例の川と合流している。

挨拶が終ると橋を渡って村に入ったが、その途中に見える庭と家屋がみな小じんまりとしていることに気づいた。私はすぐにその方にその印象を述べた。

– その方のお名前を教えて下さい。

Bepel(ベペル)とでも綴っておくがよい。先を続けよう。ところがそのうち雰囲気に豊かさの欠ける1軒が目にとまった。私はすぐにその印象を述べ、その理由(わけ)を尋ねた。と申すのも、この界層においてなお進歩を妨げられるには如何なる原因(わけ)があるのか判らなかったからである。

ベペル様は笑顔でこう話された。「この家には実は兄と妹が住まっておられる。2人はかなり前に8界と9界から時を同じくしてこの界へ来られたのですが、それ以来、何かというと4界へ戻っている。

そこに愛する人たち、とくに両親がおられ、何とか向上させようという考えからそうしているのですが、最近どうも情愛ばかりが先行して、やってあげたいことが環境のせいもあって思うに任せなくなって来ています。

両親の進歩があまりに遅く、あの調子ではこの界へ来るのは遠い先のことになりそうです。そこで2人は近ごろはいっそのこと両親のいる界へ降り、いっしょに暮らすことを許す権限をもつ人の到来を待ち望んでいるほどです。常時そばに居てあげる方が両親の進歩のために何でもしてあげられると考えているようです。」

「お2人に会ってみましょう」私はそう言って2人で庭に入って行った。こうしたケースがどのような扱いを受けるか、貴殿も興味あるところであろう。ともかくその後のことを述べてみよう。

兄は家のすぐそばの雑木林の中にいた。私が声を掛け、妹さんはと尋ねると、家の中にいるという。そこで中へ入らせてもらったが、彼女はしきりに精神統一をしている最中であった。第4界の両親との交信を試みていたのである。

と申すよりは、正確に言えば援助の念を送っていたと言うべきであろう。なぜなら、“交信”は互いの働きかけを意味するもので、両親には思念を返すことは出来なかったからである。

それから私は2人と話を交わし、結論としてこう述べた。「様子を拝見していると、あなた方がこの界で進化するために使用すべき力がその下層界の人たちによって引き留められているようです。つまり進歩の遅い両親の愛情によってあなた方の進歩が遅らされている。

もしもあなた方がその4界へ戻られ、そこに定住すれば、少しは力になってあげられても、あなた方が思うほど自由にはならない。なぜかと言えば、いつでもあなた方が身近にいてくれるとなれば尚のこと、今の界を超えて向上しようなどと思うわけがないからです。

ですから、そういう形で降りて行かれるのは感心しません。しかし愛は何より偉大な力です。その愛がお2人とご両親の双方にある以上、これまで妨げになってきた障害を取り除けば大変な威力を発揮することでしょう。

そこで私から助言したいのは、あなた方は断じてこの界を去ってはならない。それよりも、これから私と共に領主のところへ行って、現在のあなた方の進歩を確保しつつ、しかもご両親の進歩の妨げにならない方法を考えていただくことです。」

2人は私に付いて領主のところまで行った。まず私が面会してご相談申し上げたところ、有難いことに大体において私の考えに賛同して下さった。そして2人をお呼びになり、2人の愛情は大変結構なことであるから、これからは時おりこの界より派遣される使節団に加わらせてあげよう。

その時は(派遣される界の環境条件に身体を合わせて)伝達すべき用件を伝える。その際は特別に両親にもお2人の姿が見え声が聞こえるように配慮していただこう。こうすれば両親も2人の吾が子のいる高い界へ向上したいとの気持を抱いてくれることにもなろう、ということであった。

これに加えて領主は、それには大変な忍耐力が要ることも諭(さと)された。なぜならば、こうしたことは決して無理な進め方をすべきではなく、自然な発展によって進めるべきだからである。2人はこうした配慮を喜びと感謝を込めて同意した。

そこで領主はイエスの名において2人を祝福し、2人は満足して帰っていった。
このことから察しがつくことと思うが、上層界においても、地上界に近い界層特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。

又、向上の意欲に欠ける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるために、その愛の絆(きずな)が足枷(あしかせ)となり、いつまでも地上的界層から向上できずにいる者も少なくないのである。

これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心をもって謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて背後霊と共に向上の道を歩み、いささかも足手まといとならぬどころか、掛けがえのない援助(ちから)となる者もいる。

これまでに学んだことに加えて、この事実を篤と銘記するがよい。すなわち地上の人間が他界した霊の向上を促進することもあれば足手まといとなることもあり得る、否、それが必然的宿命ともいうべきものであるということである。

この事実に照らして、イエスがヨハネの手を通して綴らせた7つの教会の天使のこと(黙示録)を考えてみよ。彼ら7人の天使はそれぞれが受け持つ教会の徳性により、あるいは罪悪性により、自らが責任を問われた。

イエスが正確にその評価を下し、各天使に賞罰を与えたのである。それは人の子イエスが人類全体を同じ人の子として同一視し、その救済をご自分の責任
として一身に引き受けられているように、各教会の守護天使はその監督を委ねられた地域の徳も罪もすべて吾が徳、吾が罪として一身に責任を負うのである。

共に喜び共に苦しむ。わが事のように喜び、わが事のように悲しむのである。イエスの次の言葉を思い出すがよい。曰く「地上に罪を悔い改める者がいる時、天界には神の御前にて喜びに浸る天使がいる」と。

私は1度ならず2度も3度も、否、しばしばその現実の姿を見ているのである。そこで、それに私からこう付け加えておこう – 明るき天使も常にお笑いになっているのではない。

高らかにお笑いになるし、よくお笑いになる。が、天使もまた涙を流されることがある。下界にて悪との闘いに傷つき、あるいは罪に陥る者を見て涙を流し苦しまれることがある、と。

こうした事を不審に思う者も多いことであろう。が、構わぬ。書き留めるがよい。吾々がも悲しむことが無いとすれば、一体何をもって喜びとすべきであろうか。†

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3 霊界の情報処理センター

1913年12月23日 火曜日

神に仕える仕事において人間と天使とが協力し合っている事実は聖書に明確に記されているにも拘らず、人間はその真実性が容易に信じられない。その原因は人間が地上的なものに心を奪われ、その由って来たる起原に心を向けようとしないからである。

物質に直接作用している物理的エネルギーのことを言っているのではない。ベールの彼方においてあたかも陶芸家が粘土を用いて陶器をこしらえるように、そのエネルギーを操って造化に携わっている存在のことである。それについては貴殿もすでにある程度の知識を授かっているが、今夜はベールのこちら側から見たその実際を伝えてみようと思う。

こちらのどの界においても、全ての者が一様に足並みそろえて向上するとはかぎらない。ある者は速く、ある者は遅い。前回の兄妹などはこの10界においては最も遅い部類に入る。ではこれより、それとは対照的に格別の進化を遂げた例を紹介しよう。

その兄と妹の住む村を離れてさらに旅を続ける途中で、私は他の居住地を数多く訪ねてまわった。その1つに次の第11界が始まる区域へ連なる山の中に位置しているのがあった。私が守護霊と対面した場所とは異る。

高さは同じであるが、距離的にかなり離れた位置にある。連山の中に開けた台地へ向けて曲りくねった小道を行ったのであるが、登り始めた頃から緑色の草の鮮やかさと花々の大きさと豊富さとか目についた。

紫色の花は影に包まれた森の中を通るビロードのような道のまわりには小鳥のさえずりも聞こえる。また多くの妖精たちが明るい笑顔で、あるいは戯れあるいは仕事に勤んでおり、私の挨拶に気持よく応えてくれた。

そのうち景色が変わり始めた。樹木が彫刻のようなどっしりとした姿になり、数も少なく葉の繁りも薄くなっていった。花と緑の木蔭に囲まれた空地に代ってこんどは円柱とアーチで飾られた堂々たる聖堂が姿を現わした。

光と影の織りなす美は相変らず素晴らしかったが、その雰囲気がただの木蔭とは異り聖域のそれであった。通る道の両側の大部分は並木である。その並木にも下層界のそれとは異り、瞑想の雰囲気と遥かに強力な霊力が感じられる。

そして又、登りがけに見かけた妖精とは威厳と聖純さにおいて勝る妖精たちの姿を見かけた。さらに頂上へ近づくと景色が一段と畏敬の念を誘うものへと変っていった。それまでの田園風の景色が消え、白と黄金と赤の光に輝く頂上が見えてきた。

それは上層界から降下してきた神霊がその台地でそれぞれの使命に勤しんでいることを物語っていた。かくて目的地に辿り着いた。そこの様子を可能なかぎり叙述してみよう。目の前に平坦な土地が開けている。

1マイルの四方もあろうかと思われる広大な土地で、一面に大理石(アラバスター)が敷かれ、それが炎の色に輝いている。その様子はあたかも炎の土地にガラスの床が敷かれ、その上で炎の輝きが遊び戯れ、さらにガラスを通して何100ヤードも上空を炎の色に染めている感じである。むろん炎そのものが存在しているのではない。

私の目にそのように映じるのである。その中に高く聳える1個の楼閣がある。側面が10個あり、その各々が他と異る色彩と構造をしている。数多くの階があり、その光輝を発する先端は周囲の山頂遠いのもあれば近いのもある – の上空へ届けられる光を捉えることができる。

それほど高く、まさに天界の山脈に聳える望楼の如き存在である。その建物が平坦地の8割ほどを占め、各々の側面に玄関(ポーチ)がある。と言うことは10個の入口が付いているということである。まさに第10界の中で最も高い地域の物見の塔である。が、ただ遠くを望むためのものではない。

実は10個の側面はその界に至るまでの10個の界と連絡し、係の者が各界の領主と絶え間なく交信を交えているのである。莫大な量の用件が各領主との間で絶え間なく往き来している。資料の全てがその建物に集められ統一的に整理される。

強いて地上の名称を求めれば“情報処理センター”とでも呼べばよかろうか。地上圏と接する第1界に始まり、第2界、第3界と広がり、ついには第10界まで至る途方もなく広大な領域内の事情が細大もらさず集められるのである。

当然のことながらその仕事に携わる霊は極めて高い霊格と叡智を具える必要があり、事実その通りであった。この界の一般の住民とは異っていた。常に愛と親切心に溢れる洗練された身のこなしをもって接し、同胞を援助し、喜ばせることだけを望んでいる。

が、その態度には堂々とした絶対的な冷静さが窺われ、接触している界から届けられる如何なる情報に対しても、いささかの動揺も見せない。すべての報告、情報、問題解決の要請、あるいは援助の要請も完璧な冷静さをもって受け止める。

普段とは桁はずれの大問題が生じても全く動じることなく、それに対処するだけの力と誤ることのない叡智に自信をもってその処理に当る。私は第6界と接触している側面の玄関内に腰かけ、その界の過去の出来ごとと、その出来ごとの処理の記録を調べていた。

すると肩越しに静かな声で「ザブディエル殿、もしその記録書で満足できなければどうぞ中へお入りになって吾々のすることをご覧になられては如何ですか」という囁(ささや)きが聞こえた。振り向くと、物静かな美しいお顔をされた方が見つめておられた。私は肯(うなず)いてその案内に応えた。

中へ入ると室内は3角形をしており、天井が高い。それが次の階の床(フロア)である。壁のところまで行ってみると床と壁とは直角になっている。案内の方が私にそこで立ったまま耳を傾けているようにと言う。

すると間もなく色々な声が聞こえてきたが、その言葉が逐一聞き分けられるほどであった。説明によると、今の声は5つ上の階の部屋で処理されたものが次々と階下へ向けて伝達され、吾々のいる部屋を通過して地下まで届けられたものであるという。

その地下にも幾つかの部屋がある。私がその原因を聞くところ説明された。その建物の屋上に全情報を受信する係の者がいて、彼らがまず自分たちに必要なものだけを取り出して残りをすぐ下の階へ送る。そこでまた同じようにその階で必要なものだけを取って残りを下の階へ送る。

この過程が次々と下の階へ向けて続けられ、私のいる地上の第1階に至る。そこで同じ処理をして最後に地下へ送られる。各階には夥(おびただ)しい数の従業員が休みなく、しかも慌てることなく、手際よく作業に当っている。

さて貴殿はこれをさぞかし奇妙に思うことであろう。が実際はもっともっと不思議なものであった。例えば私が言葉を“聞いた”という時、それは事実の半分しか述べていない。実際はその言葉が“目に見えるように聞こえた”のである。地上の言語でどう説明したものであろうか。こうでも述べておこう。

例の壁(各種の貴金属と宝石をあしらってあり、その1つ1つが地上でいう電気に相当するものによって活性化されている)を見つめていると、どこか遠くで発せられた言葉が目に見えるように私の脳に感応し、それを重要と感じた時は聴覚を通じて聞こえてくる。

この要領でその言葉を発した者の声の音質を“内的意識”で感得し、さらにその人の表情、姿、態度、霊格の程度、携わる仕事、その他、伝えられたメッセージの意味を正確に理解する上で助けとなるこまごまとしたものを感識する。

霊界におけるこうした情報の伝達と受信の正確度は極めて高く、とくにこの建物においては私の知るかぎり最高に完璧である。そこで私が見たものや聞いたことを言語で伝えるのはとても無理である。

なぜなら、全ての情報は地上からこの10界に至るまでの途中の全界層の環境条件の中を通過して到達しており、従って一段と複雑さを増しており、とても私には解析できないのである。そこで案内の方が次の如く簡略に説明して下さった。

例えば、あるとき第3界で進行中の建造の仕事を完成させるために第6界から援助の一行が派遣された。と言うのは、その設計を担当したのが霊格の高い人たちであったために、建造すべき装置にその界の要素ではうまく作れないものが含まれていたのである。

これを判り易く説明すれば、例えばもし地上の人間が霊界のエーテル質を物質へ転換する装置を建造するとなったら、一体どうするかを考えてみるとよい。地上にはエーテル質を保管するほど精妙な物質は見当らないであろう。

エーテル質はいわゆる物質と呼ぶ要素の中に含有されている如何なるエネルギーにもまさる強力かつ驚異的なエネルギーだからである。第3界においても幾分これと似通った問題が生じ、如何にすればその装置の機能を最大限に発揮させるかについての助言を必要としたのであった。

これなどは比較的解決の容易な部類に入る。さて、これ以上のことは又の機会に述べるとしよう。貴殿はエネルギーを使い果たしたようである。私の思う通りを表現する用語が見当らぬようになってきた。貴殿の生活と仕事に祝福を。確信と勇気をもって邁進されよ。†

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4 宇宙の深奥を覗く

1913年 クリスマス・イブ

以上、私は天界の高地における科学について語ってみたが、この話題をこれ以上続けても貴殿にとりてさして益はあるまい。何となればそこで駆使される叡智も作業も貴殿には殆んど理解できぬ性質のものだからである。

無理をして語り聞かせてもいたずらに困惑させるのみで、賢明とは思えない。そこで私はもう少し簡単に付け加えたあと別の話題へ進もうと思う。

あのあと私は次の階へ上がってみたが、そこでは又ひきも切らぬ作業の連続で、夥(おびただ)しい数の人が作業に当っていた。各ホールを仕切っている壁はすべて情報を選別するため、ないしはそれに類似した仕事に役立てられている。

地上の建物に見る壁のように、ただのっぺりとしているのではない。さまざまな色彩に輝き、各種の装置が取り付けられ、浮彫り細工が施されている。すべてが科学的用途をもち、常に監視され、操作の1つ1つが綿密に記録され検討を加えられた上で所期の目標へ送り届けられる。

その建物の中の他の部門だけに限らない。必要とあれば上の界へも下の界へも届けられる。案内の方が屋上へも案内して下さった。そこからは遠くまでが一望のもとに見渡せる。下へ目をやれば私が登ってきた森が見える。

その向こうには高い峰が連なり、それらが神々しい光に包まれて、あたかも色とりどりの宝石の如くきらきらと輝いてみえる。その峰の幾つかは辺りに第11界から届く幽玄な美しさが漂い、私のような第10界の者の視力に映じないほど霊妙化された霊的存在に生き生きと反応を示しているようであった。

そうした霊は第11界から渡来し、第10界のための愛の仕事に携わっていることが判った。それを思うと、吾が身を包む愛と力に感激を禁じ得ず、ただ黙するのみであった。それが100万言を弄するより遥かに雄弁に私の感激を物語っていたのである。

こうして言うに言われぬ美をしばし満喫していると、案内の方がそっと私の肩に手を置いてこう言われた。「あれに見えるのが“天界の高地”です。あの幽玄な静寂にはあなたの魂を敬虔と畏敬と聖なる憧憬で満たしてくれるものがあるでしょう。

あなたは今あなたの現時点で到達しうるぎりぎりの限界に立っておられます。ここへ来られて、今のあなたの力では透徹し得ない境涯を発見されたはずです。しかし私たちは聖なる信託として、そして又、思慮分別をもって大切に使用すべきものとして、ベールで被われた秘密を明かす力を授かっており、尋常な視力には映じないものを見通すことが出来ます。

如何ですか、あなたもしばしの間その力の恩恵に浴し、これまで見ることを得なかった秘密を覗いてみたいと思われませんか。」

私は一瞬返事に窮した。そして怖れに似たものさえ感じた。なぜなら、すでにここまで見聞したものですら私にとってはやっと耐え得るほどの驚異だったからである。しかし、しばらく考えた挙句に私は、すべてが神の愛と叡智によって配剤されているからには案ずることは絶対に有るまいとの確信に到達し、"全てお任せいたします"と申し上げた。その方も“そうなさるがよい”と仰せられた。

そう言うなり、その方は私を置きざりにして屋上に設けられた至聖所の中へ入られた。そししばし(私の推察では)祈りを捧げられた。やがて出て来られた時にすっかり変身しておられた。衣装はなく、眉のあたりに宝石を散りばめた飾り輪を着けておられるほかは何1つ身につけておられない。

あたりを包む躍動する柔らかい光の中に立っておられる姿の美しいこと。光輝はますます明るさを増し、ついには液体のガラスと黄金で出来ているような様相を呈してきた。私はその眩しさに思わず下を向き、光を遮ったほどであった。その方が私に、すぐ近くまで来るようにと仰せられた。

言われるまま前に立つとすぐ私の後ろへ回られ、眩しくないようにと配慮しつつ私の両肩に手を置いて霊力を放射しはじめた。その光はまず私の身体を包み、さらに左右が平行に延びて、それが遠方の峰から出ている光と合流した。つまり私の前に光の道ができ、その両側も光の壁で仕切られたのである。その空間は暗くはなかったが、両側の光に較べれば光度は薄かった。

その光の壁は言うなれば私のすぐ後ろを支点として扇状に広がり、谷を横切り、山頂を越えて突き進み、私の眼前に広大な光の空間が広がっていた。その炎の如き光の壁は私の視力では突き通すことは出来なかった。そこで背後から声がして"空間をよく見ているように"と言われた。

見ていると、これまで数々の美と驚異とを見てきた、そのいずれにも増して驚異的な現象が展開しはじめた。その2本の光の壁の最先端が、針の如くそそり立った左右の山頂に当たった。

するとまずその左手の山頂に巨大な神殿が出現し、そのまわりに、光の衣をまとった無数の天使が群がり、忙しく動きまわっている。さらに神殿の高いポーチの上に大天使が出現し、手に十字架を携え、それをあたかも遠くの界の者に見せるように高々と持ち上げている。その十字架の横棒の両端に1人ずつ童子が立っており、1人はバラ色の衣装をまとい、もう1人は緑と茶の衣装をまとっている。その2人の童子が何やら私に理解できない歌を合唱し、歌い終ると2人とも胸に両手を当て、頭を垂れて祈った。

次に右方向を見るように促されて目をやると、こんどは全く別の光景が展開した。遥か彼方の山腹に玉座”が見えたのである。光と炎とが混じり合った赫々たる光輝の中に女性の天使が座し、微動だにせぬ姿で遥か彼方へ目をやっておられる。

薄地の布を身にまとい、それを通して輝く光は銀色に見える。が頭上にはスミレ色に輝くものが浮いており、それが肩と背中のあたりまで垂れ下がり、あたかもビロードのカーテンを背景にした真珠のように、その天使を美しく浮き上がらせていた。

そのまわりと玉座のたもとにも無数の男女の霊の姿が見える。静かに待機している。いずれ劣らぬ高級霊で、その光輝は私よりも明るいが、優雅な落着きの中に座しておられる女性天使の輝きには劣る。お顔に目をやってみた。

それはまさに愛と哀れみから生じる緻密な心遣いが漂い、その目は高き叡智と威力の奥深さを物語っていた。両の手を玉座の肘掛けに置いておられ、その両腕と両脚にも力強さが漂っていたが、そこにはおのずから母性的優しさが程よ混じっていた。

その天使が突如として動きを発せられた。そこを指さし、あそこを指さし、慌てず、しかし機敏に、てきぱきと命令を下された。それに呼応して従者の群れが一斉に動き始めた。ある一団は電光石火の勢いで遥か遠くへ飛び、別の一団は別の彼方へ飛ぶ。馬に跨って虚空へ飛翔する一団もいる。

流れるような衣装をまとった者もいれば、鎧(よろい)の如きもので身を固めた者もいる。男性のみの一団もあれば女性のみの一団もあり、男女が入り混じった一団もある。それら各霊団が一斉に天空を翔けて行く時の様子は、あたかも一瞬のうちに天空にダイヤモンドとルビーとエメラルドを散りばめたようで、その全体を支配する色彩が、唖然として立ちすくむ私に照り返ってくるのであった。

こうして私の前に扇形に伸びる光が地平線上を1周して照らし出して行くと、いずれの方角にも必ず私にとって新らしい光景が展開された。その1つ1つが性格を異にしていたが、美しさはいずれ劣らぬ美事なものであった。こうして私は、曽て見てきた神の仕事に携わる如何なる霊にも勝る高き神霊の働く姿を見せていただいた。

そのうち、その光が変化するのを見て背後に居た案内の方が再び至聖所へ入られたことを悟った時、私はあまりの歓喜に思わず溜め息を洩らし、神の栄光に圧倒されて、その場にしゃがみ込んでしまった。

吾々が下層界のために働くのと同じように、高き神霊もまた常に吾々を監視し吾々の需要のために心を砕いて下さっている様を目のあたりにしたのであった。

かくして私が悟ったことは、下界の全界層は上層界に包含され、1界1界は決して截然と区別されておらず、どれ1つとして遠く隔離されていないということである。私の第10界には下層界の全てが包含され、同時にその第10界も下層界と共に上層界に包含されているということである。この事実は吾々の界までは瞭然と理解できる。

が、さらに1界又1界と進むにつれて複雑さと驚異とを増して行き、その中には、僅かずつ、ほんの僅かずつしか明かされない秘密もあると聞く。私は今やそのことに得心がゆき、秘密を明かしていただける段階へ向けての一層の精進に真一文字に邁進したいものと思う。

ああ、吾らが神の驚異と美と叡智!私がこれまでに知り得たものをもって神の摂理の1かけらに過ぎぬと言うのであれば、その全摂理は果たしていかばかりのものであろうか。そして如何に途方もないものであろうか。

天界の低い栄光さえも人間の目にはベールによって被われている。人間にとっては、それを見出すことは至難のわざである。が、それでよいのである。秘宝はゆっくりと明かされて行くことで満足するがよい。

なぜなら、神の摂理は愛と慈悲の配慮をもって秘密にされているからである。万が一それが一挙に明かされようものなら、人間はその真理の光に圧倒され、それを逆に不吉なものと受け取り、それより幾世紀にも亘って先へ進むことを恐れるようになるであろう。

私はこの度の体験によってそのことを曽てなかったほど身にみて得心したのである。生きに計らわれているということである。万事が賢明にそして適切に配剤されているということである。げに神は愛そのものなのである。†

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5 霊格と才能の調和

1913年12月27日 土曜日

さて、こうして私の界を遥かに超えた上層界の驚異を目のあたりにすることを許されたことは、実に有難き幸せであった。私はその後いろいろと思いをめぐらせた。そして私にその体験をさせた意図と動機とをある程度まで理解することができた。

が、目のあたりにした現象の中にはどうしても私1人の力では理解できないものが数多くあった。その1つが次のような現象である。

2つの光の壁によって仕切られた扇形の視界の中に展開したのは深紅の火焰の大渦であった。限りなく深い底から巨大な深紅の炎の波が次から次へと噴出し、その大きなうねりが互いに激突し合い、重なり合い、左右に揺れ動き、光の壁に激突しては炎のしぶきを上げる。

世紀末的大惨事はかくもあろうかと思われるような、光と炎の大変動である。その深紅の大渦のあまりの大きさに私の魂は恐怖におののいた。「どうか目を逸(そ)らさせて下さい。お願いです。もう少し穏やかなものにして下さい。私にはあまりに恐ろしくて、これ以上耐え切れません。」

私がそうお願いすると、背後からこういう返答が聞こえた。「今しばらく我慢するがよい。そのうち恐ろしさが消えます。あなたが今見ておられるのはこの先の上層界です。その最初が第11界となります。この光が第何界のものであるかは、あとで記録を調べてみないことには、私にも判りかねます。

その記録はこの施設にはなく、もう1つ、ここからかなり遠く離れたところにある別の施設にあります。今あなたが恐怖をもって眺めておられるこの光は第13界かも知れないし第15界かも知れない。それは私にも判りません。

ただ1つだけ確かなことは、主イエス・キリストが在(ましま)すのは実にあの光の中であり、あなたの目に映じている深紅の光彩は主と、主に召された者との交わりの栄光の反映であるということです。

しっかりと見つめられよ。これほど見事に見られることは滅多にありません。では私がそのさらに奥の細かいところを見させてあげましょう。」

そう言い終るなり、背後からのエネルギーが強化されるのが感じられ、私もその厚意に応えるべく必死に努力をした。が、空しい努力に終った。やはり私の力の及ぶところではないことを悟った。

すでに叙述したもの以外に見えたものと言えば、その深紅の光の奥に何やら美しい影が動くのが見えただけであった。炎の人影である。ただそれだけであった。私は目を逸らせてほしいと再度お願いした。もう哀願に近いものになっていた。

そこでようやく聞き入れて下さった(光が変化したと述べたのはその時である)。それ以後、何も見えなくなった。見たいという気持も起きなかった。辺りはそれまでとは対照的に、くすんだ静けさに一変している。

それを見て私は心ひそかに、あの世界へ行かれぬ自分、さぞかし美と生の喜びに満ちあふれていることであろう世界に生きる神霊の仲間入りができない自分を情けなく思ったことであった。それから次第に普段の意識を回復した。

そして案内の方が至聖所から普段のお姿で出てこられた時には、私のような者にこれほどの光栄を給わったことに厚く礼を述べられるほどになっていた。

さて、その高い楼閣での仕事について述べられるものとして、他に一体何があるであろうか。と言うのは、貴殿もよく心得てほしいことであるが、吾々の生活と出来ごとで人間に理解できることは極めて僅かしかないのである。それ故、貴殿に明かすものについて私は細心の注意を払わねばならない。

つまり貴殿の精神の中において何とか再現し、地上の言語で表現できるものに限らねばならないのである。その驚異的現象が終ったあとも2人は暫し屋上に留まり、下方の景色へ目をやった。遥か遠く、第9界の方角に大きな湖が見える。

樹木の生い茂った土地に囲まれ、そこここに島々が点在し、木蔭に佇(たたず)む家もあれば高く聳え立つ楼閣もある。岸に沿った林の中のそこここに小塔が聳えている。私は案内の方にそこがいかなる居住地であるかを尋ねた。その配置の様子が見事で、いかにも1つのコロニーに見えたからである。

するとこういう返答であった。実はかなり昔のことであるが、この界へ到来する者の処遇にちょっとした問題が生じたことがあった。それは、皆が皆、必ずしも全ての分野で平均的に進化しているとは限らない – たとえば宇宙の科学においては無知な部門もある…いや、どうもこういう説明の仕方ではすっきりしない。

もう少し分り易く説明しよう。魂に宿された才能を全てまんべんなく発達させている者も居れば、そうでない者もいる。もとより、いずれ劣らぬ高級霊である点においては異存はない。だからこそこの第10界まで上昇して来たのである。

が中には、もし持てる才能をまんべんなく発達させておれば、“もっと速やかに”この界へ到達していたであろう者がいるということである。更に、そうした事情のもとでようやく到達したこの界には、それまでの才能では用を為さない環境が待ち受けている。

それ故、いずれは是が非でも才能をまんべんなく発達させ、より円満にする必要性が生じてくるのである。さきのコロニーの設立の必要性を生ぜしめた問題はそこにあった。あそこにおいて他人への援助と同時に自己の修養に励むのである。

貴殿にはそれがなぜ問題であるのか不審に思えるかも知れないが、そう思うのは、この界を支配する諸条件が地上とは比較にならぬほど複雑さをもった完全性を具えているからに他ならない。

あのコロニーの住民の霊格はある面ではこの10界の程度でありながら、他の面ではすでに11界あるいは12界の程度まで進化していることもある。そこで次のような厄介な問題が生じる。

すなわち霊力と霊格においてはすでに今の界では大きすぎるほどのものを具えていながら、さりとて次の界へは行かれない。無理して行けば発達の遅れた面が災いして大失策を演じ、それが原因で何界も下層へ後戻りせざるを得なくなるかも知れない。

そこはそこで又、居づらいことであろう。以上の説明で理解してもらえるであろうか。たとえば魚が水から出されて陸(おか)に置かれたら大変である。反対に哺乳動物が森から水中へ入れられたら、これ又死ぬに決まっている。両生類は水と陸の両方があって初めて生きて行ける。陸地だけでは生理に異常を来すし、水の中だけでもやはり異常を来す。

無論あのコロニーの生活者がこれとまったく同じ状態であるというわけではない。が、こうした譬えによって彼らの置かれた特殊な境遇について大よその理解がいくであろう。彼らにとって第10界にいることは、あたかもカゴに入れられた小鳥同然であり、さりとて上層界へ行くことは炎の中へ飛び込む蛾も同然なのである。

– 結局どういう取り扱いを受けるのでしょうか

自分で自らを律していくのである。私の信ずるところによれば、彼らは今まさにその問題点に関する最高の解決策を見出しつつあるところであろう。首尾よく解決した暁には、彼らはこの10界に対しても貢献したことになり、その功績はこののちのために大切に記録されることであろう。

こうしたことが各種の分野において行われており、思うに、彼らは今では自分の得意とする能力に応じて組分けされ、一種の相互補完のシステムによって働くことが可能となっているであろう。

つまり各クラスの者が自分たちの所有している徳と霊力とを、それを欠く他の
クラスの者に育(はぐく)ませるよう努力するということである。全クラスがそれぞれにそう努力し、そこに極めて複雑な協調的教育が生まれる。

極めて入り組んだ教育組織となっているため、高地に住む者さえ分析不可能なほどである。いずれそこから何ものかが生み出され、機が熟せば、この界の霊力と影響力とを増すことであろう。それも多分、極めて大規模な形で寄与することになるものと私には思えるのである。

かくして相互的な寄与が行われる。進化の真の喜びは自らの向上の道において同胞を向上の道に誘(いざな)うことの中にこそ味わえるものである。そうではなかろうか。†

では祝福とお寝みを申上げよう。

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8章 祝福されたる者よ、来たれ!

1 光り輝く液晶の大門

1913年12月29日 月曜日

例の高地での体験についてはこれ以上は述べない。地上近くで生活する人間や景色について“地上の言語”で述べるのは容易であるが、上層界へ行くほど何かと困難が生じてくる。私の界は天界においても比較的高い位置にある。そして今のべたことはこの界のさらに高地での話題である。

それ故、前に述べたように、この界の景観も栄華もきわめて簡略に、従って不十分な形でしか述べることが出来ない。そこでこれから差し当たり今の貴殿にとって重要であり参考となる話題を取りあげようと思う。

これは私が10界の領主の特命を受けて第5界へ旅立つことになった時の話である。その説明をしよう。私はその界の首都を訪ね、領主に面会し、そこで私の訪問の用件を聞かされることになっていた。領主にはすでに私の界の領主からの連絡が届いていたのである。また、私1人で行くのではなく、他に3人のお伴を付けてくださった。

5界へ到着してその首都を見つけるのは至って簡単であった。曽てその界の住民であった頃によく見聞きしていたからである。それにしても、その後の久しい時の経過と、その間に数々の体験を経た今の私の目に、その首都は何と変わって映じたことであろう。

考えてもみよ。5界をあとにして6界へ進み、さらに向上を続けてついにこの10界に至って以来、こうして再び5界へ戻るのはその時が初めてだったのである。その途中の界層の1つ1つに活気あふれる生活があり、そこでの数々の体験が私を変え発達を促してきた。

そして今、久方ぶりにこの界へ戻ってきたのである。この界での生活は他の界ほど長くはなかったとはいえ、今の私の目には一見すべてが物珍らしく映る。が、同時に何もかもが馴染みのあるものばかりである。

物珍らしく映るのは、私が第4界よりこの界へ向上してきた頭初、あまりの栄華に圧倒され目を眩まされたほどであったのが、今では逆にその薄暗さ、光輝の不足に適応するのに苦労するほどだからである。

4人は途中の界を1つ通過する毎に身体を適応させて降りてきた。6界までそれを素早く行ったが、5界の境界内に入った時からは、そこの高地から低地へとゆっくりとした歩調で進みつつ、その環境に徐々に慣らしていった。

と申すのも、多分この界での滞在はかなりの長期に及ぶものとみて、それなりの耐久性を身につけて仕事に当たるべきであると判断したからである。山岳地帯から平地へと下って行くのも、体験としては興味あるものであった。行くほどに暗さが増し、吾々は絶えず目と身体とを調整し続けねばならなかった。

その時の感じは妙なものではあったが不愉快なものではなかった。そして少なくとも私にとっては全く初めての体験であった。お蔭で私は、明るい世界から一界又は一界と明るさが薄れてゆく世界へ降りて行く時の、霊的身体の順応性の素晴らしさを細かく体験することとなった。

貴殿にもしその体験が少しでも理解できるならば、ぜひ想像の翼をさらに広げて、こうして貴殿と語り合うために、そうした光明薄き途中の界層を通過して地上へ降りて来ることがいかに大変なことであるかを理解して欲しいものである。

それに理解が行けば、人間との接触を得るために吾々がさんざん苦労し、そのあげくにすべてが無駄に終ることが少なくないと聞かされても、あながち不思議がることはあるまい。

貴殿がもしベールのこちら側より観察することが出来れば、そのことを格別不思議とは思わないであろうが…吾らにとってはその逆、つまり人間が不思議に思うことこそ不思議なのである。

では都市について述べよう。位置は領主の支配する地域の中心部に近い平野にあった。大ていの都市に見られる城壁は見当らない。が、それに代って一連の望楼が立ち並んでいる。さらに平野と都市の内部にもうまく配置を考えて点在している。領主の宮殿は都市の縁近くに正方形に建てられており、その城門はとくに雄大であった。

さて、これより述べることは吾々上層界の4人の目に映った様子ではなく、この界すなわち第5界の住民の目に映じる様子と思っていただきたい。その雄大な門は“液体の石”で出来ている。文字どおりに受け取っていただきたい。石そのものが固くなくて流動体なのである。色彩も刻一刻と変化している。

宮殿内での行事によっても変化し、前方に広がる平野での出来ごとによっても変化し、さらにその平野の望楼との関連によっても変化する。その堂々たる門構えの見事な美しさ。

背景の正殿と見事に調和し、色彩の変化と共に美しさも千変万化する。その中で一個所だけが変わらぬ色彩に輝いている。それが要石(かなめいし)で、中央やや上部に位置し、愛を象徴する赤色に輝いていた。

その門を通って中へ入るとすぐに数々の広い部屋があり、各部屋に記録係がいて、その門へ寄せられるメッセージや作用を読み取り、それを判別して然るべき方面へ届ける仕事をしている。吾々の到着についてもすでに連絡が入っており、2人の若者が吾々を領主のもとへ案内すべく待機していた。

広い道路を通って奥へ進むと、往き交う人々がみな楽しげな表情をしている。このあたりでは常にそうなのである。それを事さらに書くのは、貴殿が時おり、否、しばしば心の中では楽しく思ってもそれを顔に出さないことがあるからである。

吾らにとっては、晴れの日は天気がよいと言うのと同じほど当り前のことなのであるが…それから宮殿の敷地内の本館へ来た。そこが領主の居所である。

踏み段を上がり玄関(ポーチ)を通ってドアを開けると、そこが中央広間(ホール)になっている。そこも正方形をしており、大門と同じ液状石の高い柱で出来ている。それらがまた大門と同じように刻一刻と色調を変え、一時として同じ色を留めてはいない。

全部で22本あり、その1本1本が異った色彩をしている。2本が同じ色を見せることは滅多にない。それがホール全体に快い雰囲気を与えている。それらが天井の大きな水晶のドームの美しさと融合するように設計されており、それが又一段と美しい景観を呈するのであった。

これは貴殿の想像に俟つよりほかはない。私の表現力の限界を超えているからである。吾々はそのホールで待つように言われ、壁近くに置かれている長椅子に腰を下ろして色彩の変化の妙味を楽しんでいた。

見ているうちにその影響が吾々にも及び、この上ない安らぎと気安さを覚え、この古く且つ新らしい環境にいてすっかり寛いだ気分になった。やがてそのホールに至る廊下の1つに光が閃めくのを見た。領主が来られたのである。吾々の前まで来られるとお辞儀をされ、私の手を取って丁重な挨拶をされた。

彼は本来は第7界に所属するお方であり、この都市の支配のためにこの界の環境条件に合わせておられるのであった。至ってお優しい方である。吾々の旅の労をねぎらったあと、謁見の間へ案内して下さり、ご自分の椅子に私を座らせ、3人の供の者がそのまわりに、さらにご自分はその近くに席を取られた。

すぐに合図があって、女性ばかりの一団が白と青の可憐な衣装で部屋へ入ってきて丁寧な挨拶をし、吾々の前に侍(はベ)った。それから領主が私と3人の供に今回の招待の趣意を説明された。

女性たちは吾々上層界の者の訪問ということで、ふだん身につけている宝石を外していた。が、その質素な飾りつけの中に実に可憐な雰囲気を漂わせ、その物腰は数界の隔りのある吾々を前にした態度に相応(ふさわ)しい、“しとやかさ”に溢れていた。

私はそれに感動を覚え、領主に話を進める前に許しを乞い、彼女たちのところへ下りて行って、1人1人の頭に手を置き祝福の言葉を述べた。その言葉に、そうでなくてもおずおずしていた彼女たちは一瞬とまどいを見せたが、やがて吾々見上げてにっこりと微笑(ほほえ)み、寛ぎの表情を見せた。

さて、そのあとの会見の様子は次の機会としよう。この度はこの界層の環境と慣習を理解してもらう上でぜひ告げておかねばならないことで手一杯であった。この度はこれにて終りとする。私はその女性たちに優しい言葉を掛け手を触れて祝福した。そして彼女たちも喜びにあふれた笑顔で私を祝福してくれた。

吾々はこうして互いに祝福し合った。こちらではそれが習慣なのである。人間もかくあるべきである。これは何よりも望ましいことである。そこで私も祝福をもって貴殿のもとを去ることとする。礼の言葉は無用である。

何となれば祝福は吾々を通して父なる神より与えられるものであり、吾々を通過する時にその恩恵のいくばくかを吾々も頂戴するからである。そのこともよく銘記するがよい。他人を祝福することは、その意味で、自分自身を祝福することになることが判るであろう。†

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2 女性ばかりの霊団

1913年12月30日 火曜日

前回の続きである。女性の一団は私の前に立っていた。そこで私がこの度の訪問の目的を述べようとしたが、私自身にはそれが判らない。そこで領主の方へ目をやると、こう説明して下さった。

「この女性たちは揃ってこの界へ連れて来られた一団です。これまでの3つの界を一団となって向上して来た者たちです。1人として他の者を置き去りにする者がおりませんでした。進歩の速すぎる者がいると、遅れがちな者の手を取ってやるなどして歩調を合わせ、やっとこの界で全員が揃ったところです。

そして今この界での修養も終えて、更に向上して行く資格もできた頃と思われるのですが、その点についてザブディエル様のご判断をお聞かせいただきたい。彼女たちはその判断のために知恵をお借りしたいのです。と申しますのも、十分な資格なしに上の界へ行くと却って進歩を阻害されることが、彼女たちもこれまでの体験で判ってきたのです。」

この詳しい説明を聞いて私自身も試されていることを知った。私の界の領主がそれを故意に明かさずにおいたのは、こうして何の備えもなしに問題に直面させて、私の機転を試そうという意図があったのである。これはむしろ有難いことであった。

なぜならば、直面する問題が大きいほど喜びもまた大きいというのがこちらの世界の常であり、領主も、私にその気になれば成就する力があることを見抜いた上での配慮であることを知っておられるからである。

そこで私は速やかに思考をめぐらし、すぐさま次のような案を考えついた。女性の数は15人である。そこでこれを3で割って5人ずつのグループに分け、すぐさま都市へ出て行って各グループ1人ずつ童子を連れて来ること。

その際にその子がぜひ知っておくべき教訓を授け、それがきちんと述べられるようにしておく、というものであった。さて、話は進んで、各グループが1人ずつ計3人の童子を連れて帰って来た。男児2人と女児1人であった。

全員がほぼ時を同じくして入ってきたが、全く同時ではなかった。そのことから、彼女たちが途中で遭遇することがなかったことを察した。と言うのは、彼女たちの親和力の強さは、いったん遭遇したら2度と離れることが出来ないほどのものだったからである。

私は3人の子供を前に立たせ、まずその中の男の子にこう尋ねた。「さあ坊や、あの方たちからボクがどんなことを教わったか、この私にも教えてくれないだろうか。」この問いにその子はなかなかしっかりとこう答えた。

「お許しを得て申し上げます。ボクは地球というところについて何も知らずにこちらへ来ました。お母さんがボクに身体を地上に与える前にボクの魂を天国へ手離したからです。それでこのお姉さま方が、ここへ来る途中でボクに、地球がこちらの世界の揺りかごであることを知らねばならないと教えて下さいました。

地球には可哀そうな育てられ方をしている男の子が大勢います。そしてその子たちは地球を去るまではボクたちのような幸せを知りません。でも、地球もこの世界と同じように神様の王国なので、あまり可哀そうな目に遭っている子や、可哀そうな目に遭わせている親のために祈ってあげないといけません。」

この子は最後の言葉を女性たちから聞かされてからずっと当惑していたのか、そのあとこう付け加えた。「でも、ボクたちはいつもお祈りをしています。それがボクたちの学校の教課の1つなのです。」

「そうだね、それはなかなかよい教課だね」 – 私はそう言い、さらに、それは学校の先生以外の人から教えられても同じように立派な教えであることを述べて、今の返答がなかなかよく出来ていたと褒めてあげた。

それからもう1人の男の子を呼び寄せた。その子は私の足もとへ来て、その足を柔かい可愛らしい手で触わってから、愛敬のある目で私の顔を見つめ「お許しを頂き、優しいお顔の天使さまに申し上げます」と述べ始めた。

が私は、もう感動を抑え切れなくなった。私は屈み込んでその子を抱いて膝に置き頬に口づけをした。私の目から愛の喜びの涙があふれた。その様子その子は素直な驚きと喜びの混ざり合った表情で見つめていた。

私が話を続けなさいと言うと、下におろしてくれないと話しにくいと言う。これにはこんどは私の方が驚いて慌てて下ろしてあげた。するとその子は再び私の衣服の下から覗いている足に手を置き、ひどく勿体ぶった調子で、さきの言葉をきちんとつないで、こう述べた。

「天使のおみ足は見た目に美しく、触れた手にも美しく感じられます。見た目に美しいのは天使が頭と心だけでなく、父なる神への仕え方においても立派だからであり、触れた手に美しいのは、優しくそっと扱われるからです。

過ちを犯した人間が心に重荷を感じている時にはそっとお諌(いさ)めになり、悲しみの中にいる人をそっと抱いてこの安らぎと喜びの土地へお連れになります。ボクたちもいつかは天使となり、子供でなくなります。

大きく、強く、そして明るくなり、たくさんの叡智を身につけます。その時にそうした事を思い出さないといけません。なぜなら、その時は霊格の高いお方が、勉強と指導を兼ねてボクたちを地上へ派遣されるからです。

ボクたちのように早くこちらへ来た者には必要のないことでも、地上にはそれを必要としている人が大勢いるのです。お姉さま方からそのように教わりました。教わった通りであると思います。」

童子の愛らしさには私はいつもほろりとさせられる。正直を申して、その時もしばし頭を下げ、顔を手でおおい、胸の高まりと苦しいほどの恍惚状態に身を任せていたのである。それから3人の子供を呼び寄せた。3人とも顔では喜びつつも足は遠慮がちに近づいて来た。

そして2人の男の子を両脇に、女の子を膝の前に跪かせた。3人に思いのたけの情愛をこめて祝福の言葉を述べ、可愛らしくカールした頭髪に口づけした。それから2人の男の子を両脇に立たせ、女の子を膝に乗せて、お話を聞かせてほしいと言った。

「で・は・お・ゆ・る・し・を・い・た・だ・い・て」と言い始めたのであるが、一語一語を切り離して話しますので、私は思わず吹き出してしまった。と言うのも、さきの男の子の時のように、私が感激のあまり涙を流して話が中断するようなことにならないように、“優しいお顔の天使さま”といった言い方を避けようとする心遣いがありありと窺えたからである。

「お嬢ちゃん、あなたはお年よりも身体(からだ)の大きさよりも、ずっとしっかりしてますね。きっと立派な女性に成長して、その時に置かれる世界で立派な仕事をされますよ。」

私がそう言うと、けげんな顔で私を見つめ、それから、まわりで興味ぶかくその対話を見つめている人たちを見回した。私が話を続けるように優しく促すと、さきの男の子と同じようにきちんと話を継いてこう話した。

「女の子はその懐(ふところ)で神の子羊を育てる母親となる大切なものです。でも身体が大きくそして美しくなるにつれて愛情と知恵もいっしょに成長しないと本当の親にはなれません。

ですから、あたしたち女の子は、宿されている母性を大切にしなくてはなりません。それは神様があたしたちがお母さんのお腹の中で天使に起こされずに眠っている間に宿して下さり、そしてこの天国へ連れてきて下さいました。あたしたちの母性が神聖なものであることには沢山の理由があります。

その中でも1ばん大切なのは次のことです。あたしたちの救い主イエス・キリスト(と言って、くぼみのある可愛らしい両手を組み合わせて恭(うやうや)しく頭を下げ、ずっとその恰好で話を続けた)も女性からお生まれになり、お生みになったその母親を愛され、その母親もイエス様を愛されたことです。

あたしたちは今お母さんがいなくても、お母さんと同じように優しくして下さる人がいます。でも、あたしたちと同じようにお母さんがいなくて、しかも優しくしてくれる人がいない人のことを、大きくなってから教わるそうです。

その時に、自分が生んだ子供でない子供で、今のあたしのように、お母さんの代りをしてくれる人を必要としている子供たちのお母さん代りをする気があるかどうかを聞かれます。その時あたしははっきりとこう答えるつもりです。

“どうかこのあたしをこの明るい世界からもっと暗い世界へ行かせて下さい。もしあたしにその世界の可哀そうな子供たちを救い育てる力があれば、あたしはその子供たちとともに苦しみたいのです。なぜならば、その子供たちも主イエス様の子羊だからです。その子供たちのためにも、そして主イエス様のためにも、あたしはその子供たちを愛してあげたいと思います”と。」

私はこの3人の答えに大いに感動させられた。全部を聞き終るずっと前から、これらの女性たちは上級界へ向上して行く資格が十分あるとの認識に到達していた。そこでこう述べた。

「皆さん。あなた方は私の申しつけたことを立派に果たされました。3人の子供もよくやりました。とくに私が感じたことは、あなた方はもうこの界で学ぶべきものは十分に学び、次の界でも立派になって行けるであろうということです。

同時にあなた方は、やはりこののちも、これまで同様いっしょに行動されるのがよいと判断しました。3人の子供を別々に教えても答えは同じ内容 – 地上の子供たちのことと、その子供たちの義務のことでした。

これほど目的の一致するあなた方は、1人1人で生きるよりも協力し合った方がよいと思います。」そこで全員に祝福を与え、間もなく吾々4人が帰る時にいっしょに付いて来るように言った。

実はその時に言うのを控え、いっしょに帰る途中で注意したことが幾つかあった。その方が気楽に話せると考えたからである。その1つは、彼女たち15人があまりに意気投合しすぎるために、3人の子供への教え方の中に義務と奉仕の面ばかりに偏りが見られることである。

3人の子供ならびに死産児としてこちらへ来る子供の全てが、いずれは地上の子供たちの看護と守護の仕事に携わることになるが、その子供たちは本来なら地上で為さねばならない他のもろもろのことを失っていることを知らねばならない。

さらにもう1つは、実際に地上へ赴くのは彼らの中のごく僅かな数にすぎないということである。その理由は性質的にデリケートすぎるということで、そういう子供には実際に地上に来るよりも、ほかにもっと相応(ふさわ)しい仕事があるのである。

が、今はこれ以上は述べないことにする。神の愛と祝福が貴殿と貴殿の子羊とその母親の上にあらんことを。神の王国にいる守護者は優しき目をもって地上の愛する者を見つめ、こちらへ来た時に少しでも役に立つものを身につけさせんと心を砕いている。このことよく心に留め、それを喜びとするがよい。

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3 女性団、第6界へ迎えられる

1913年12月31日 水曜日

話を進める前に、前回に述べた面会が行われた都を紹介しておこう。と言うのは、私の知るかぎりでは、第5界にはこの界特有の特徴が幾つかあるのである。例えば大ていの界全てとは言わないが – には中心となる都が1つあるのみであるが、この5界には3つあり、従って3人の領主がおられることになる。

この3重統治の理由は、この界の置かれた位置が、ここまで辿り着いた者がこのあとどちらの方向に進むかについて重大な選択を迫られる位置にあるからである。一種の区分(くわけ)所のようなものであり、住民はここでの生活中にそれぞれに相応しいグループに配属され、最も相応(ふさわ)しい仕事に携わるべく上層界へと進む。

3つの都は途方もなく広い平担な大陸の境界域近くに位置し、その3つを線で結ぶと2等辺3角形となる。それ故、それぞれの都から出る何本かの広い道路が扇状に1直線に伸びている。こうして3つの都は互いに連絡し合っている。その3角形の中心に拝殿がある。森の中央の円形広場に建てられている。

各都市から伸びる広い道路は途中で互いに交叉しており、結局全てがこの拝殿とつながっていることになる。そうして、折ある毎に3つの都市の代表を始めとして、その統治下にある住民の代表が礼拝を捧げるために一堂に会する。その数は何万あるいは何十万を数え、見るからに壮観である。

三々五々、みな連れだって到着し、広場に集合する。そこは広大な芝生地である。そこで大群集が合流するわけであるが、5界にある全ての色彩が渾然一体となった時の美しさは、ちょっとした見ものである。

が、それ以上に素晴らしいのは多様性の中に見られる一体感である。それぞれの分野でもうすぐ次の界へ向上して行く者がいて、決して一様ではない。が、その大集団全体を通じて“愛の調べ”が脈うっている。

そしてそれが不変不朽であり、これよりのち各自がいかなる道を辿ろうと、この広き天界のいずこかにおいて相見(まみ)えることを可能にしてくれることを全員が自覚している。それ故だれ1人として、やがて訪れる別れを悲しむ者はいない。そのようなものは知らないのである。

愛あるところには地上でいう別れも、それに伴う悲しみもない。それは“人類の堕罪”さえなければ、地上においても言えるところである。人間がその資質を取り戻していくのは容易ではあるまい。が、不可能ではない。

なぜなら、今は目覚めぬままであるとは言え、よくよくの例外を除いては、その資質は厳然と人間に宿されているからである。さて吾々は旅の次の段階、すなわち例の女性の一団を第6界へと送り届け、そこの領主へ引き渡す用事へ進まねばならぬ。

いよいよ第6界へ来ると、首都から少し離れた手前で歓迎の一団の出迎えを受けた。あらかじめ第5界との境界の高地において到着の報を伝えておいたのである。歓迎の一団の中には女性たちの曽ての知友も混じっており、喜びと感謝のうちに旧交を温めるのであった。

女性たちのしばしの住処(すみか)となるべき市(まち)に到着すると、明るい衣装をまとった男女に僅かばかりの子供の混じった市民が近づいて来るのが見えた。あらかじめ指定しておいた道である。両側に樹木が生い茂り、ところどころで双方の枝が頭上で重なり合っている。

一行はそうした場所の1つで足を止め、吾々の到着を待った。あたりはあたかも大聖堂の如く、頭上高く木の葉が覆い、その隙間を通して差し込む光はあたかも宝石の如く、そして居合わせる者はあたかも聖歌隊の如くであり礼拝者の如くでもあった。

出迎えの人々は新参の女性たちのための花輪と衣装と宝石を手にしていた。それを着飾ってもらうと、それまでの“くすんだ”感じの衣装が第6界に相応(ふさわ)しい新らしい衣装に負けて立ちどころに消滅した。

それから和気あいあいのうちに全員が睦み合ったところで、出迎えの市民が市の方へ向きを変え、ある者は手にしていた楽器で行進曲を演奏し、ある者は歌を合唱しつつ行進しはじめた。沿道にも塔にも門前にも市民が群がって歓迎の挨拶を叫び、喜びを一層大きなものにしていった。

新参者はみなこうした体験を経て自分たちへ向けられる歓迎の意向を理解していくのである。そして界を2つ3つと経ていくうちに新らしい顔と景色の奇異な点が少しも恐れる必要がないこと – 全てが愛に満ちていることを悟るに至るのである。

さて、門を通過して市中へ入ると、まず聖殿へ向かった。見事な均整美をした卵形の大きな建物で、その形体は2つの球体が合体して出来たものを思わせる。1つは愛を、もう1つは知識を意味する。それが内部の塔を中央にして融合しており、その組み合わせが実に美事で巧みなのである。

照明は先日叙述した液晶柱のホールと同じく一時(とき)として同じ色彩を見せず、刻一刻と変化している。全体を支配しているのはたったの2色 – 濃いバラ色と緑と青の混じったスミレ色である。

やがて新参の女性たちが中へ案内された。中にはすでに大会衆が集まっている。彼女たちは中央の壇上に案内され、そこにしばらく立っていた。すると聖殿の専属の役人がリーダーの先導で神への奉納の言葉を捧げ、すぐそのあと会衆が唱和すると、場内に明るい光輝をした霧状の雲が発生し、それが彼女たちのまわりに集結して、この第6界の雰囲気の中に包み込んでしまった。

やがてそれが上昇し、天蓋の如く頭上に漂ったが、彼女たちは深く静かな恍惚状態のままじっと立ちつくし、その美しい雲がさらに上昇して他の会衆まで広がるのを見ていた。すると今度は音楽が聞こえてきた。

遥か遠くから聞こえてくるようであったが、その建物の中に間違いなかった。そのあまりの美しさ、柔らかさ、それでいて力強さにあふれた旋律に、吾々は神の御前にいるような崇高さを覚え、思わず頭を垂れて祈り、神の存在を身近に感じるのであった。

やがて旋律が終ったが、余韻はまだ残っていた。それはあたかも頭上に漂う光輝性の雲の一部になり切っているように感じられた。実は、貴殿には理解できない過程を経てそれは、真実、雲の一部となっていたのである。

そしてその輝く雲と愛の旋律とが一体となって吾々にゆっくりと降りてきて吾々の身体を包み込むと、聖なる愛の喜びに全会衆が一体となったのであった。私を除く全会衆にはそれ以上の顕現は見えなかった。

が、修行をより長く積んできた私には他の者に見えないものが見え、上層界からの参列者の存在にも気づいていた。また旋律の流れくるところも判っていた。祝福の時に授けられる霊力がいかなる種類のものであるかも判っていた。それでも他の全ての者はこの上なく満足し、ともに幸せを味わった。15人の女性たちはいうまでもなかった。

– その間あなたは何をなさっていたのでしょうか。そこではあなたが1ばん霊格が高かったのではありませんか。

ただお世話をするために同行したに過ぎない私自身について語るのは感心しない。この度の主役は15人の女性であった。私の界からは他に3名の者が同行し、それより上の界の者は1人もいなかった。吾々4人に全ての人が友交的で親切で優しくしてくれた。それが吾々にとって大いなる幸せであった。

いよいよ15人が落着くべき住処へ案内されることになった時、彼女たちは是非もう1度礼を述べたいといって戻ってきて、感謝の言葉を述べてくれた。吾々も言葉を返し、そのうち再び戻ってその後の進歩の様子を伺い、多分、助言を与えることになろうと約束した。彼女たちからの要請でそうなったのである。

そこに彼女たちの立派な叡智が窺えた。私もそうすることが彼女たちにとって大きな力となるものと確信する。こうした形での助言は普通はあまり見られない。そうたびたび要請されるものではないからである。

「真理は求める者には必ず与えられる」 – このイエスの言葉は地上と同じくこちらの世界にも当てはまることが、これで判るであろう。この言葉の意味を篤と考えるがよい。†

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4 イエス・キリストの出現

1914年1月2日 金曜日

ここで再び私の界へ“心の中で”戻ってもらいたい。語り聞かせたいことが幾つかある。神とその叡智の表われ方について知れば知るほど吾々は、神のエネルギーがいかに単純にして同時にいかに複雑であるかを理解することになる。これは逆説的であるが、やはり真実なのである。単純性はエネルギーの一体性とそのエネルギーの使用原理に見出される。

例えば創造の大事業のために神から届けられるエネルギーの1つ1つは愛によって強められ、愛が不足するにつれて弱められていく。この10界まで辿りつくほどの者になれば、それまで身につけた叡智によって物事の流れを洞察することが可能となる。

“近づき難き光”すなわち神に向けて歩を進めるにつれて、全てのものが唯一の中心的原理に向かっており、それがすなわち愛であることが判るようになる。愛こそ万物の根源であることを知るのである。

その根源、その大中心から遠ざかるにつれて複雑さが増す。相変らず愛は流れている。が、創造の大事業に携わる霊の叡智の低下に伴い、必然的にそれだけ弱められ、従って鮮明度が欠けていく。

その神の大計画のもとに働く無数の霊から送られる霊的活動のバイブレーションが物的宇宙に到達した時、適応と調整の度合が大幅に複雑さを増す。この地上にあってさえ愛することを知る者は神の愛を知ることが出来るとなれば、吾々に知られる愛がいかに程度の高いものであるか、思い半ばに過ぎるものであろう。

しかし、吾々がこれより獲得すべき叡智はある意味ではより単純になるとは言え、内的には遥かに入り組んだものとなる。なぜならば吾々の視野の届く範囲が遥かに広大な地域にまで及ぶからである。

1界又1界と進むにつれて惑星系から太陽系へ、そして星団系へと、次第に規模が広がっていく世界の経綸に当たる偉大な霊団の存在を知る。その霊団から天界の広大な構成について、あるいはそこに住む神の子について、更には神による子への関わり、逆に子による神への関わりについて尋ね、そして学んでゆかねばならない。

これで、歩を進める上では慎重であらねばならないこと、1歩1歩の歩みによって十全な理解を得なければならないことが判るであろう。吾々に割り当てられる義務はかぎりなく広がってゆき、吾々の決断と行為の影響が次第に厳粛さを帯びてゆき、責任の及ぶ範囲が一段と広い宇宙とその住民に及ぶことになるからである。

しかし今は地球以外の天体には言及しない。貴殿は未だそうした地球を超えた範囲の知識を理解する能力が十分に具わっていない。

私および私の霊団の使命は、地球人類が個々に愛し合義務と、神を一致団結し敬愛する義務についての高度な知識を授け、さらに貴殿のように愛と謙虚さをもって進んで吾々に協力してくれる者への吾々の援助と努力 – つまり吾々はベールのこちら側から援助し、貴殿らはベールのそちら側で吾々の手となり目となり口となって共に協力し合い、人類を神が意図された通りの在るべき姿 – 本来は栄光ある存在でありながら今は光乏しい地上において苦闘を強いられている人間の真実の姿を理解させることにあるのである。

では私の界についての話に戻るとしよう。ある草原地帯に切り立つように聳える高い山がある。あたかも王が玉座から従者を見下ろすように、まわりの山々を圧している。その山にも急な登り坂のように見える道があり、そのところどころに建物が見える。

四方に何の囲いもない祭壇も幾つかある。礼拝所もある。そして頂上には全体を治める大神殿がある。この大神殿を舞台にして時おりさまざまな“顕現”が平地に集結した会衆に披露される。

– 前に話されたあの大聖堂のことですか(5章4)

違う。あれは都の中の神殿であった。これは“聖なる山”の神殿である。程度において一段と高く、また目的も異る。そこの内部での祈りが目的ではなく、平地に集結した礼拝者を高揚し、強化し、指導することを主な目的としている。

専属の聖職者がいて内部で祈りを捧げるが、その霊格はきわめて高く、この10界より遥かに上の界層まで進化した者が使命を帯びて戻って来た時にのみ、中に入ることが許される。

そこは能天使(※)の館である。すでにこの10界を卒業しながら、援助と判断力を授けにこの大神殿を訪れる。そこには幾人かの天使が常駐し、誰ひとり居なくなることは決してない。が、私は内部のことは詳しくは知らない。霊力と崇高さを一段と高め、11界、12界と進んだのちのこととなろう。

(※中世の天使論で天界の霊的存在を9段階に分けた。ここではその用語を用いているまでで、用語そのものに拘わる必要はない。 – 訳者)

さて平地は今、10界の全地域から召集された者によって埋めつくされている。地上の距離にしてその山の麓から半マイルもの範囲に亘って延々と群がり、その優雅な流れはあたかも“花の海”を思わせ、霊格を示す宝石がその動きに伴ってきらきらと輝き、色とりどりの衣装が幾つもの組み合わせを変えて綾を織りなしてゆく。

そして遠“聖なる山”の頂上に大神殿が見える。集まった者たちは顕現を今や遅しと期待しつつ、その方へ目をやるのであった。

やがてその神殿の屋根の上に高き地位(くらい)を物語る輝く衣装をまとった一団が姿を現わした。それから正門と本殿とをつなぐ袖廊の上に立ち並び、そのうちの一人が両手を上げて平地の群集に祝福を述べた。その1語1語は最も遠方にいる者にも実に鮮明に、そして強い響きをもって聞こえた。

遠近に関わりなく全員に同じように聞こえ、容姿も同じように鮮明に映じる。それから此の度の到来の目的を述べた。それは、首尾よくこの界での修行を終え、更に向上していくだけの霊力を備えたと判断された者が間もなく第11界へ旅立つことになった。

そこで彼らに特別な力を授けるためであるという。その“彼ら”が誰であるのか – 自分なのか、それとも隣りにいる者なのか、それは誰れにも判らない。それはあとで告げられることになった。そこで吾々はえも言われぬ静寂のうちに、次に起きるものを待っていた。ポーチの上の一団も無言のままであった。

その時である。神殿の門より大天使が姿を現わした。素朴な白衣に身を包んでいたが、煌々と輝き、麗わしいの一語に尽きた。頭部には黄金の冠帯を付け、足に付けておられる覆きもの黄金色に輝いていた。腰のあたりに赤色のベルトを締め、それが前に進まれるたびに深紅の光を放つのであった。

右手には黄金の聖杯(カリス)を捧げ持っておられる。左手はベルトの上、心臓の近くに当てておられる。吾々にはその方がどなたであるかはすぐさま知れた。他ならぬイエス・キリストその人なのである。(※)

いかなる形体にせよ、あるいは顕現にせよ、愛と王威とがこれほど渾然一体となっておられる方は他に類を求めることが出来ない。その華麗さの中に素朴さを秘め、その素朴さの中に威厳を秘めておられる。

それらの要素が、こうして顕現された時に吾々列席者の全ての魂と生命とに沁み込むのを感じる。そして顕現が終了した後もそれは決して消えることなく、いつまでも吾々の中に残るのである。(※その本質と地上降誕の謎に関しては第3巻で明かされる。 – 訳者)

今そのイエス・キリストがそこに立っておられる。何もかもがお美しい。譬えようもなくお美しい。甘美にして優雅であり、その中に一抹の自己犠牲的慈悲を漂わせ、それが又お顔の峻厳な雰囲気に和みを添えている。その結果そのお顔は笑顔そのものとなっている。といって決して笑っておられるのではない。

そしてその笑みの中に涙を浮かべておられる。悲しみの涙ではない。己れの喜びを他へ施す喜びの涙である。その全体の様子にそのお姿から発せられる実に多種多様な力と美質が渾然一体となった様子が、側に控える他の天使の中にあってさえ際(きわ)立った存在となし、まさしく王者として全てに君臨せしめている。

そのイエス・キリストは今じっと遠くへ目をやっておられる。吾々群集ではない。吾々を越えた遥か遠くを見つめておられる。やがて神殿の数か所の門から一団の従者が列をなして出て来た。男性と女性の天使である。その霊格の高さはお顔と容姿の優雅さに歴然と顕われていた。

私の注目を引いたことが1つある。それを可能なかぎり述べてみよう。その優雅な天使の1人1人の顔と歩き方と所作に他と異る強烈な個性が窺われる。同じ徳を同じ形で具えた天使は2人と見当らない。霊格と威光はどの方もきわめて高い。が、1人1人が他に見られない個性を有し、似通った天使は2人といない。

その天使の一団が今イエス・キリストの両脇と、前方の少し低い岩棚の上に位置した。するとお顔にその一団の美と特質と霊力の全てが心地よい融和と交わりの中に反映されるのが判った。

1人1人の個性が歴然と、しかも渾然一体となっているのが判るのである。さよう、主イエスは全ての者に超然としておられる。そしてその超然とした様子が一層その威厳を増すのである。

以上の光景を篤と考えてみてほしい。このあとのことは貴殿が機会を与えてくれれば明日にでも述べるとしよう。主イエスのお姿を私は地上を去ってのち1度ならず幾度か拝してきたが、そこには常に至福と栄光と美とが漂っている。

常に祝福を携え、それを同胞のために残して行かれる。常に栄光に包まれ、それが主を高き天界の玉座とつないでいる。そしてその美は光り輝く衣服に歴然と顕われている。

しかも主イエスは吾々と同じく地上の人間と共にある。姿こそお見せにならないが、実質となって薄暗い地上界へ降り、同じように祝福と栄光と美をもたらしておられる。が、そのごく一部、それもごく限られた者によって僅かに見られるに過ぎない。

地球を包む罪悪の暗雲と信仰心の欠如がそれを遮るのである。それでもなお主イエスは人間と共にある。貴殿も心を開かれよ。主の祝福が授けられるであろう。†

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5 ザブディエル11界へ召される

1914年1月3日 土曜日

主イエスは黙したまましばし恍惚たる表情で立っておられた。何もかもがお美しい。やがて天使団に動きが生じた。ゆっくりと、いささかも急ぐ様子もなく、その一団が天空へ向けて上昇し、イエスを中心にして卵形に位置を取った。

後部の者は主より高く、前方の者は主の足より下方に位置している。かくして卵形が整うと、全体が一段と強烈な光輝を発し、吾々の目にはその一人一人のお姿の区別がつかぬほどになった。今や主のまわりは光輝に満ち満ちている。にもかかわらず主の光輝はそれよりさらに一段と強烈なのである。

但し、主の足もとのすぐ前方に1個所だけ繋がっていないところがある。つまり卵形の1ばん下部に隙間(すきま)が出来ているのである。

その時である。主が左手を吾々の方へ伸ばして祝福をされた。それから右手のカリスを吾々の方へ傾けると、中から色とりどりの色彩に輝く細い光の流れがこぼれ出た。それが足もとの岩に落ち、岩の表面を伝って平地へと流れ落ちて行く。

落ちながら急速に容積を増し、平地に辿りつくと一段と広がり、なおも広がり続ける。今やそれは光の大河となった。その光に無数の色彩が見える。濃い紫から淡いライラック、深紅から淡いピンク、黄褐色から黄金色等々。それらが大河のそこここで各種の混合色を作りつつ、なおも広がり行くのであった。

かくしてその流れは吾々の足もとまで来た。吾々はただその不思議さと美しさに呆然として立ちつくすのみであった。今やその広大な平野は光の湖と化した。が、吾々の身体はその中に埋没せず、その表面に立っている。だが、足もとを見つめても底の地面まで見通すことはできない。

あたかも深い深い虹色の海のような感じである。しかも吾々は地面に立つようにその表面にしっかりと立っている。が、表面は常に揺らめき、さざ波さえ立てている。それが赤、青、その他さまざまな色彩を放ちつつ吾々の足もとを洗っている。何とも不思議であり、何とも言えぬ美しさであった。

やがて判ってきたことは、その波の浴びかたが1人1人違うことであった。群集のところどころで自分が他と異るのに気づいている者がいた。そう気づいた者はすぐさま静かな深い瞑想状態に入った。側の者の目にもそれが歴然としてきた。

まず周囲の光の流れが黄金色に変わり、それがまず踝(くるぶし)を洗い、次に液体のグラスのような光の柱となって膝を洗い、さらに上昇して身体全体が光の柱に囲まれ、黄金色の輝きの真っ只中に立ちつくしているのだった。

頭部には宝石その他、それまで付いていたものに代って今や11個の星が付いている。それまた黄金色に輝いていたが、流れの黄金色より一段と強烈な輝きを発し、あたかも“選ばれし者”を飾るために、その11個の星に光が凝縮されたかのようであった。

その星の付いた冠帯が1人1人の頭部に冠せられ、両耳のうしろで留められていた。かくして冠帯を飾られた者はその輝きが表情と全身に行き亘り、他の者より一段と美しく見えるのであった。

そこで主がカリスを真っ直ぐに立てられた。と同時に流れが消えた。光の流れにおおわれていた岩も今やその岩はだを見せている。平地も次第にもとの草原の姿を現わし、ついに光の海は完全に消滅し、吾々群集は前と同じ平地の上に立っていた。

さて、その“選ばれし者”のみが最後まで光輝に包まれていたが、今はもうその光輝も消滅した。が、彼らはすでにもとの彼らではなかった。永遠に、2度ともとに戻ることはないであろう。表情には一段と霊妙さが増し、身体もまた崇高さを加え、衣装の色調もまわりの者に比して一段と明るさを加え、異った色彩を帯びていた。11個の星は相変らず光り輝いている。

包んでいた光の柱のみが今は消滅していた。その時である。“聖なる山”の神殿からもう1人の天使が姿を現わし、優しさを秘めた力強い声で、星を戴いた者はこの山の麓まで進み出るように、と言われた。それを聞いて私を含めて全員が集結し – 実は私も星を戴いた1人だったのである – そして神殿の前に立たれる主イエスのお姿を遥かに見上げながら整列した。

すると主がおよそ次のような趣旨のことを述べられた。「あなた方は託された義務をよくぞ果たされた。父なる神と余に対し、必ずしも完璧とは言いかねるが、出来るかぎりの献身を為された。

これより案内いたす高き界においても、これまでと変わらぬ献身を希望する。では、ここまで上がって来られたい。あなた方を今や遅しと待ちうける新たな館まで案内いたそう。さ、来るがよい。」

そう言われたかと思うと、すぐ前に広い階段が出来あがった。1ばん下は吾々の目の前の平野にあり、1ばん上は遥か山頂に立たれる主の足もとまで伸びている。その長い階段を吾々全員が続々と登り始めた。

数にして何万人いたであろうか。が、かなりの位置まで登って平野を見下ろして別れの手を振った時、そこにはそれに劣らぬ大群集が吾々を見上げていた。それほどその時の群集は数が多かったのである。

かくして吾々全員が神殿の前の広場に勢揃いした時、主が下に残った群集へ向けて激励と祝福を述べられた。かりに吾々と共に召されなかったことを悲しんだ者がいたとしても、私が見下ろした時は、そこには悲しみの表情は跡形もなかった。主イエス・キリストの在(ましま)すところに誰1人悲しむ者はあり得ず、ひたすらにその大いなる愛と恩寵を喜ぶのみである。

そのとき吾々と同じ神殿の前から幾人かの天使が階段を降りはじめた。そしてほぼ中途の辺りで立ち止まった。全員が同じ位置まで来ると“天に在す栄光の神”を讃える感謝の賛美歌を斉唱した。平地の群集がこれに応えて交互に斉唱し、最後は大合唱となって終わった。

聖歌隊が再び上がって来た。そして吾々と同じ場所に立った。その時はすでに階段は消滅していた。どのようにして消えたか、それは私にも判らなかった。見た時はもうすでにそこに無かったのである。

そこで主が両手をお上げになって平地の群集に祝福を与えた。群集はただ黙って頭を垂れていた。それからくるりと向きを変えられて神殿の中へとお入りになった。吾々もそのあとに続いたのであった。

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ザブディエル最後のメッセージ

さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申し置きたいことがある。別れの挨拶ではない。これよりのちも私は常に貴殿と共にあり、貴殿の望みに耳を傾け、そして答えるであろう。いついかなる時もすぐ近くに居ると思うがよい。

たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、吾らにとってはすぐ側に居るのも同然であり、貴殿の考えること望むことそして行うことにおいて、常に接触を保ち続けている。なぜなら、私にはその全てについて評価を下す責務があるからである。

それ故、もしも私が友として援助者として貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私が下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るがよい。7つの教会の7人の天使のこと(7章2)を思い出し、私の立場に思いを馳せてほしい。

更に又、いずれの日か貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

では祝福を。もしかして私は再び貴殿と語る手段と許しとを授かることになるかも知れない。同じ手段によるかも知れないし、別の簡単な手段となるかも知れない。それは私も今は何とも言えない。貴殿の選択に任されるところが多いであろう。

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強くもち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心をもって事に当ることである。
神の御恵みのあらんことを。私はこれをもって終りとするに忍びないが、これも致し方ないことであろう。

主イエス・キリストの御名のもとに、その僕(しもべ)として私は常にすぐそばに居ることを“つゆ”忘れるでないぞ。アーメン†

ザブディエル

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訳者あとがき

第1巻はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占めた。その親子関係が醸(かも)し出す雰囲気には情緒性があり、どこか“ほのぼの”としたものを感じさせたが、この第2巻は一転して威厳に満ちた重厚さを漂わせている。文章も古い文語体で書かれ、用語も今日で“古語”または“廃語”となっているものが数多く見受けられる。

が、同時に読者はその重厚な雰囲気の中にもどこかオーエン氏に対する温かい情愛のようなものが漂っていることに気づかれたであろう。最後のメッセージにそれがとくに顕著に出ている。もしそれが読み取っていただけたら、私の文章上の工夫が一応成功したことになって有難いのであるが…

実は私は当初より本書を如何なる文体に訳すかで苦心した。原典の古い文体をそのまま日本の古文に置きかえれば現代人にはほとんど読めなくなる。それでは訳者の自己満足だけで終わってしまう。

そこで、語っているのがオーエン氏の守護霊である点に主眼点を置き、厳しさの中にも情愛をこめた味を出すことを試みた。それがどこまで成功したかは別問題であるが…

さて、その“厳しさの中の情愛”は守護霊と人間との関係から出る絶対的なもので、第1巻が肉体的ないし血族的親子関係であれば、これは霊的ないし類魂的親子関係であり、前者がいずれは消滅していく運命にあるのに対し、後者は永遠不滅であり、むしろ死後においてますます深まっていくものである。

ついでに一言述べておきたいことがある。守護霊という用語は英語でもGuardian(ガーディアン)と言い、ともに“守る”という意味が込められている。そのためか、世間では守護霊とは“何かにつけて守ってくれる霊”という印象を抱き、不幸や苦労まで取り除いてくれることを期待する風潮があるが、これは過りである。

守護霊の仕事はあくまでも本人に使命を完(まっと)うさせ宿命を成就させるよう導くことであり、時には敢えて苦しみを背負わせ悲劇に巻き込ませることまでする。

そうした時、守護霊は袖手(しゅうしゅ)傍観しているのではなく、ともに苦しみともに悲しみつつ、しかも宿命の成就のために霊的に精神的に援護してやらねばならない。そうした厳粛な責務をもたされているのであり、その成果如何によって守護霊としての評価が下されるのである。

そのことは本文の“7つの教会”の話からも窺われるし、シルバーバーチの霊訓が“苦難の哲学”を説くのもそこに根拠がある。

守護霊にはその守護霊がおり、その守護霊にもまた守護霊がいて、その関係は連綿として最後には守護神に辿り着く。それが類魂の中の一系列を構成し、そうした系列の集合体が類魂集団を構成する。言ってみれば太陽系が集まって星雲を構成するのと同一である。

その無数の類魂の中でも1ばん鈍重な形体の中での生活を余儀なくさせられているのが吾々人間であるが、それは決して哀れに思うべきことではない。苦難と悲哀に満ちたこの世での体験はそれだけ類魂全体にとって掛けがえのないものであり、それだけ貴重なのであり、それ故人間は堂々と誇りをもって生きるべきである、というのが私の人生観である。

ただし1つだけ注意しなければならないのは、この世には目には見えざる迷路があり、その至るところに見えざる誘惑者がたむろしていることである。大まじめに立派なことをしているつもりでいて、その実とんでもない邪霊に弄(もてあそ)ばれていることが如何に多いことか。

では、そうならないためにはどうすべきか。それは私ごとき俗物の説くべきことではなかろう。読者みずから本書から読み取っていただきたい。それが本書の価値の全てとは言えないにしても、それを読み取らなければ本書の価値は失われるのではなかろうか。

(1985年)


新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

平成16年2月
近藤千雄


霊界通信
ベールの彼方の生活
第2巻「天界の高地」篇 – 新装版 –

近藤千雄(こんどう・かずお)
昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1984年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。主な訳書 – M.バーバネル『これが心霊の世界だ』『霊力を呼ぶ本』、M.H.テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』、シルバー・バーチ霊訓『古代霊は語る』、『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』、(以上潮文社刊)、S.モーゼス『霊訓』、J.レナード『スピリチュアリズムの真髄』、H.エドワーズ『ジャック・ウェバーの霊現象』(以上国書刊行会刊)

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†