[こうした議論がこの後もひじょうな迫力と強力な影響力のもとに、ほとんど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたその影響力がいかに強烈にして崇高なものであったか、それを正しく伝えることは、拙い私の筆ではとてもできない。]

そなたはわれわれの教説が理神論であるか、純粋な有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで思いめぐらしているが、普段は正確な思考と知識とに事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本をみる思いがします。

すべての人間の心に通じる神、いかに堕落した人間の魂でさえ感応しうる神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しいかぎりの不毛な思想について、われわれはもはや言うべき言葉を知りません。

人間というものがみずからの目を被い隠すことすらするものであることを万一知らずにいれば、われわれは人間が一体なぜこうまで愚かなことを考えるのか、理解に苦しむところでしょう。

地上世界には絶対的真理は存在しない

申すまでもなく、われわれはすべての存在を支配する絶対神の存在を説きます。それは、人間が勝手に想像しているような気まぐれな顕現の仕方はしません。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在 – もっと厳密に言うならば、神の概念とその働きについての、より真実に近い見解を植えつけるべく働きかけてきた存在です。

イエスと同じくわれわれは、宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純の神を説きます。人間が想像するような人格神ではありません。真の意味における父なる存在です。エネルギーの化身でも具現でもありません。真に生ける実在です。

ただし、その本質と属性は、その働きと、人間が心に描く概念としてしか捉えることはできません。そなたの抱いている概念の中から全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつ又、さし当たって問題とするに足らない神学的教説を一応残しつつ、われわれは神について以上のごとく説いてきたのです。

われわれの教説を読んで、そこに絶対的真理が見当たらないと言うのであれば、われわれはむしろ、われわれの教説がそこまで理解してもらえるに至ったことを有り難く思うくらいです。絶対的完全性が有りえないように、今の未完成の状態においては、絶対的真理などというものは望むべくもありません。

最高級の霊にしてもなお目を眩まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届けられるようになることを期待してはなりません。限りあるその精神で、無限なるもの、不可知なるもの – 地上よりはるかに懸け離れたわれわれにとってもなお遠くより拝(おろが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が今すぐ理解できると思うのは、とんでもないことです。

万一できると思うようであれば、それこそそなたの置かれている発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかありません。

そなたにとっては真理はまだまだ断片的であり、決して全体像を捉えうるものではなく、また細目まで行きわたることは叶わず、あくまでもベールを通して大まかな輪郭を垣間見る程度にすぎません。われわれとしても決して真理のすべてをそなたに啓示してあげようなどとは思いも寄りません。

われわれみずからがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われた多くのものを少しでも深く理解したいと願っているところなのです。われわれに為しうることは、せいぜい、その神の概念 – これまでキリスト教において絶対的啓示として罷(まか)り通ってきた概念よりは、幾分か真実に近いものを仄(ほのめか)す程度にすぎません。

これまでのところわれわれは、そなたも筋の通った崇高なものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功したと見ております。今のところそれ以上のものを求めてはおりません。

神についても、そなたにとって崇拝と敬意の対象となりうる神を啓示しました。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露しました。道徳的規範として、そなたが聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理じいせず自然に理解できる、しかも説得力のある見解を確立しました。

罪はみずから償うべきもの

われわれの教説を根拠のない宗教と決めつけるに至っては、奇々怪々な誤解というほかはありません。地上生活というこのタネ蒔きの時期のひとつひとつの行為が、それ相当の実りをもたらすとの教え – 悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならないという教え – 過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺(もつ)れを、必ず“みずからの手で”解(ほど)かねばならないという教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説というのであろうか!

われわれは、人間の言動は池に投げ入れた小石のごとく、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には“最後まで自分が”責任を負わねばならないこと、ゆえに、ひとつの言葉、ひとつの行為には、その結果と影響とに計り知れない重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのですが、これが果たして下らぬ教説でしょうか。

また、その賞罰は、はるか遠い未来の、死にも似た休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によってその行為の直後から始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのですが、これも愚にもつかぬ言説でしょうか。これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならないのであろうか。

そうしたわれわれの教説と、そなたたちの信じている教説、すなわち自分の思うがままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずか)しめた人物が、たった1度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変節によって、一気に、眠けを催すような天国への資格を獲得するとのキリスト教の説、しかもその天国での唯一の楽しみが、魂の本性が忌々しく思うはずのものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よい仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。

堕落した魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られないにお構いなく、いつかは悔い改めねばならない時がくること、そして、他力ではなく自力で償わねばならないこと、それによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえないとの教えの方であろうか。

それとも、何をしでかそうと、天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか1度の叫び声によって魔法のごとく魂が清められ、遠い未来に訪れる審判の日をへて神の御前に召され、そこで、今なら退屈この上なく思うはずの、礼拝三昧(ざんまい)の生活を送るとの教えの方であろうか。

そのいずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、それはわれわれとしても、そしてそなたにとっても、明々白々のことです。

なのにそなたは、われわれの説くところが確固たるものを曖昧なものに、明確な賞罰の体系を何の特色もないものに置き替えようとするものであると言う。

否!否!われわれこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしのような天国や、残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはしません。

キリスト教こそ、いつのことやら知れない遠い未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の者でも、その者自身が信仰も有り難味も見出しえない教義に合意することによって、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得るなどと、不合理きわまることを説いている。

スピリチュアリズムは地球規模の啓示

あえて言おう。われわれの説く信仰の方がはるかに罪を抑制すべく計算され、人間に受け入れやすく説かれています。人間の死後についても、はるかに合理的な希望を与え、人類史上かつてない現実性に富む包括的信仰を説いています。

くり返しますが、これぞ神の教えです。神の啓示として今そなたに授けているのです。われわれは、これが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待も希望もしません。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢ができていないかぎり、それは叶わぬことです。その時節の到来を、われわれは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間はかつてのような、ケチ臭い救済を当てにしたがために犯す罪も減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいてその動機の源は、甘い天国と恐ろしい地獄などというケチ臭い体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言します。

子供だましの地獄極楽説は、まともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠のない、非合理で愚劣なものとして、灰燼に帰されることでしょう。

[総体的にみてスピリチュアリズムの影響は好ましくない – 少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して、1873年7月10日に次のような回答が届けられた – ]

スピリチュアリズムにも多くの側面がある

その点については、われわれの側にも述べたいことが多々あり、そなたが陥っている誤解を解くべく努力してみたく思います。まず第1に、そなたは人間の宿命ともいうべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映った限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムのすべてであると思い込んでいます。

その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムのすべてであると見なす一部の連中と同類です。

見よ、彼らは結果によってのみ知られる静かな流れが、その見えざる底流を音もなく進行していることに気づきません。そなたの耳に入るのは騒々しい無秩序な連中のみです。さして多くはないが、よく目立つのです。

そなたが、あのような連中に世の中の再生ができるはずはないと言うのも、もっともなのです。そなたの知性はそうした無責任な言説にしりごみし、果たしてこんな程度のものが神のものであり善の味方であろうかと訝(いぶか)るのですが、実はそなたの目にはそうした一部のみが映り、しかもその一部についても明確な理解ができているとは言えません。

そうした連中にも彼らなりに必要な要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解しやすい手段によって神から授けられている – そうした表に出ない静かな支持者たちの存在については、そなたは何も知りません。そなたの視界に入らないのです。

が、入らなくても現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに、彼らもまた霊界からこのスピリチュアリズムの普及のために一役買う日が来るのを待ち望んでいるのです。

このように、そなたは一方に喧騒、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会ゆえに、狭隘(きょうあい)な見解しか持ちえず、およそ見本とはいえない小さな断片をもって全体と思い違いをしています。

これよりわれわれは、そなたが下したスピリチュアリズムの影響についての結論を、細かく取りあげていきたいと思います。そうすることによって、そなたがその究極の問題について断定的な意見を述べる立場にないことを指摘したいと思います。

“真実”はひとりひとり異なるもの

と申すのも、そもそも“真実”とは何かということです。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず、他のすべての分野においても、不偏平等です。地上には善と悪とが混在しています。平凡な霊で事足りる仕事に偉大な霊を派遣するような愚は、神はなさいません。

未発達の地縛霊の説得に神々しい高級霊を当てたりはなさいません。絶対にしません。自然界の成り行きには、それ相当の原因があります。巨大な原因から無意味な結果が出るようなことはありません。

霊的関係においても同じことです。知能程度が低く、その求めるところが幼稚で、高尚なものを求めようとしない魂の持ち主には、その種の者にいちばん接触しやすい霊が割り当てられます。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟な知性に訴えるために物理的手段を講じます。精神的・霊的に無教養で未発達な者には、その程度に応じた、最もわかりやすい言葉によって語りかけます。死後の生活の存在を得心させるためには、目に見える手段でないとだめな者がかなり、いや、大勢いるのです。

この種の人間は、高級な天使の声 – いつの時代にもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高な霊の声 – によって導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち – その欲求と性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に訴え、最も受け入れやすい証拠を提供することのできる霊によって導かれます。

さらに、そなたによくよく心得ておいてほしいことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることです。本来は進歩性に富める魂が、その宿った肉体によって進歩を阻害され、歪んだ精神的教育によって拘束を受けることも有りえます。

同じ啓示がすべての魂の耳に届くとはかぎりません。同じ証拠がすべての魂の目に見えるとはかぎりません。肉体的性向と精神的発達の欠陥によって、地上生活における発達を阻害された霊が、死後、その不利な条件が取り除かれた後に、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくありません。

目的に応じて手段が講じられる

というのも、本性は魔法の杖によって1度に変えるわけにはいかないものなのです。性癖というものは徐々に改められ、1歩1歩向上していくものなのです。ゆえに、生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積んだ者の目には、当然のことながら、無教養で無修養の者のために用意された手段はあまりに粗野で愚劣に映じるでしょう。

否、その前に、彼らが問題としているもの自体が無意味に思えるでしょう。その声は耳障りでしょう。その熱意は分別に欠けるかも知れません。が、彼らは彼らなりに、その本性が他愛ない唯物主義、あるいはそれ以上に救い難い無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感じる新たな視野に、一種の情熱さえ覚えるようになります。

彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けしませんが、彼らなりに真実の喜びの声なのです。批判的なそなたの耳には不愉快に響くかも知れませんが、父なる神の耳には、親を棄てて家出した息子が放浪の末に戻ってきて発する喜びの声にも劣らず、心地よいものなのです。

その声には真実味がこもっています。その真実の声こそ、われわれの、そして神の期待するところなのです。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われわれの耳には届きません。

このように、霊的に未発達な者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではありません。それでは無駄に終ります。まず霊的事象に目を向けさせる手段を用い、それを霊的に鑑識するように指導します。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのです。

物理的現象についてはそなたもすでに馴染んでいる。そして、そうした物的手段が不要となる日は決して来ないでしょう。いつの時代にも、そうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからです。目的にはそれなりの手段を選ばなくてはなりません。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く、視野の狭い者です。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことです。それはあくまでも“手段”にすぎません。霊的発達への足がかりとして用意され、ある者にとっては価値ある不可欠の手段であるということです。

そこで、これより、右の例以上にそなたが腹に据えかねているもの、すなわち粗野にして無教養な低級霊の仕業について述べるとします。そなたにとってそうまで耳障りで不快を覚えさせる霊を、そなたは“悪の声”であると想像しているようであるが、果たしていかがなものであろうか。

悪の問題についてはすでに取りあげましたが、また改めて説くこともあるでしょう。が、ここでわれわれは躊躇なく断言しますが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いて、大抵の場合、そなたが想像するような悪の仕業ではありません。

粗野な真実の叫びは厚化粧したお上品ぶりに勝る

悲しいかな、悪は多い。そして、善に敵対する者が一掃され、勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはないでしょう。ゆえにわれわれは、決してわれわれとそなたとを取り巻く危険性は否定しないし軽視もしません。が、それは、そなたが想像するような性質のものではありません。

見た目に常軌を逸するもの、垢抜けしないもの、粗野なものが、必ずしも不健全とは言えません。そうした見方は途方もない見当違いというべきです。真に不健全なものは、そう多くは存在しません。むしろ、そなたらの気づかないところに真の悪の要素が潜むものです。

霊的にはまだ未熟とはいえ、真剣に道を求める者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上は、この地上における精神的・身体的・霊的発達にかかっていることを理解しつつあります。それゆえ彼らは身体を大切にします。

酒びたりの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控えます。そしてその熱意のあまり、同じことをすべての者に強要します。彼らは、人それぞれに細かい個人差があることまでは気が回りません。そして、往々にしてその熱意が分別を凌駕(りょうが)してしまうのです。

しかし、洗練された者に反発を覚えさせる、そうした不条理さと誇大な言説を振り回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも、霊的に不健全であろうか。

そうでないことは、そなたにもわかるはずです。前者は少なくとも自分の義務と信念とに目覚めて、必死に生きています。今や、かつての希望も目的もない人間とはすっかり違っています。死者の中から蘇ったのです。

その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのです。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補って余りあるのではなかろうか。

その叫びは確信の声であり、死にもたとえるべき無気力状態からの目覚めた魂の叫びなのです。それは、生半可な信仰しか持たない者が紋切り型のキザな言い回しで厚化粧し、さらには、世間的に体裁の悪いことは、たとえささやき程度のものでも避けて通ろうとするお上品ぶりよりも、われわれにとって、また神にとって、はるかに価値あるものなのです。

何となればそれは、新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われわれの使命にとっても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかないからです。

そなたは、俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。きっぱり申し上げるが、それもまったくの見当違いです。的確さと上品さには欠けていても、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他のものよりも大衆に訴える力があります。

野蛮な投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石の方が、打算から慣習に
迎合し、体裁を繕(つくろ)う教養人の言説よりも、よほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのです。

現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのです。霊界から指導に当たる大軍には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されています。

“物”にしか反応を示さない唯物主義者には、物的法則を超越した目に見えない力の存在の証拠を提供します。固苦しい摂理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦(むつ)み合いの生活への信念を培(つちか)います。

筋の通った論証の過程を経なければ得心できない者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していきます。

さらに、そうした霊的心理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越した、より深い神秘への突入を欲する者には、神の深い真理に通暁した高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせます。

このように、人間にはその発達程度に応じた霊と、それにふさわしい情報とが提供されます。これまでも神は、それぞれの目的に応じて手段を用意してこられたのです。

スピリチュアリズムは霊界を総動員した働きかけ

今一度くり返しておきます。スピリチュアリズムはかつての福音のような散発性のものとは異なります。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教であり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。

が、実は、それだけと見なすのも片手落ちです。そなたにとって、そして又、そなたと同じ観点から眺める者にとってはそれだけでよいかも知れません。が、他方には意識程度の低い者、苦しみにあえぐ者、悲しみに打ちひしがれている者、無知な者がいます。

そうした人たちにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもちます。それは、死後における肉身との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安です。実質的には、五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋です。

肉体を棄てた者も、肉体に宿る者と同じく、その発達程度はさまざまです。そこで、地上の未熟な人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれます。ゆえに一口にスピリチュアリズムの事象といっても、程度と質を異にする種々様々なものが演出されることになります。

底辺の沈澱物が表面に浮き上がってくることもあり、それのみを見る者には、奥でひそかに進行しているものが見えないということにもなります。

今こそそなたも得心がいくことでしょうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生した“しるし”を見れば、その種の現象が決してこのたびの活動のみに限られたものとの誤解に陥ることもないでしょう。

それは、人間の魂を揺さぶるすべてのものに共通する、人間本来の性分が要求するのです。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせない要素でした。

人類の歴史において新しい時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに、霊的知識の発達にもそれが付随しているのです。が、それをもって神の働きかけのすべてであると受け取ってはなりません。

政治的暴動がその時代の政治的理念のすべてではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれわれの仕事の見本と考えてはなりません。

何事にも分別を働かさねばなりません。その渦中にある者にとっては、冷静な分別を働かせることは容易なことではないでしょう。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しい事情を振り返った時には、容易に得心がいくことでしょう。

そなたの提示した問題については、いずれ又の機会にさらに多くのことを述べるとしましょう。このたびは、ひとまずこれにて – ご機嫌よう。

†インペレーター

[注釈]

(1)死者はこの世の終末に神が下す“最後の審判”の日まで、休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰をさす。

死の直後は霊的調整のための無意識状態に入るのが通例であるが、この信仰を幼少時代から教え込まれ、そう信じきって死んでいった者は、やがて意識が戻っても、まだ最後の審判日は来ていないと知らされると、また眠りに落ちてしまうという。

西洋の高等な霊界通信はこの“最後の審判説”と“贖罪説”とを人間性を堕落させる最も悪質な教義として厳しくその間違いを指摘するが、これに似た弊害をもたらす教義ないし信仰としてすぐに私の念頭に浮かぶのが、仏教の“蓮のうてなの境涯” – いわゆる極楽浄土説である。

気候温暖、風光明美、病気も災害もなく、すべてが満ち足りた成果が存在することは事実で、これを西洋のある通信では“青い島”と呼んでいる。環境が青い色彩を帯びているのでそう呼ぶのであるが、実はそこは魂の慰安所ないしは療養所のような目的をもった世界で、そこで地上時代の悪戦苦闘の生活、胸をえぐられるような体験による魂の傷が癒やされる。

が、本来ならば、つまり地上時代に正しい霊的知識を身につけていれば、魂の自然な発露として、さらに向上進化を求めるようになる。その結果として、さらに次元の高い世界へと旅立つ者もいれば、指導霊として地上へ戻ってくる者もいる。それはひとりひとり事情が異なるので一概には言えないが、ともかく、そののんびりとした境涯からは去っていくべきところである。

問題は、地上時代の信仰の型から抜け切れずに、そこが自分が祈り求めていた極楽だと思い込み、半永久的に安住してしまう者が多いことである。それはそれで別に害はなさそうに思えるが、実は、霊的親和力によって結ばれている“類魂”に対してマイナスの影響を及ぼしていることを知らねばならない。つまり同じ霊系の地上の人間に無力感、非積極性、頑張りのなさとなって現れている。

おしなべて仏教には、キリスト教が“積極的”な害を及ぼす教義や信仰が多いのに対して、“消極的”な害を及ぼすものが多いようである。

「戦争」を正当化する理由などこの全宇宙に存在しない、という事を説明してみます(祈)†■2021年12月22日UP■
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ひょっとしたら本当に「視点外し戦争」が勃発して僕たちが戦地に赴かされそうになるかも知れません。その時は皆さま「霊的知識」を絶対的よりどころとして戦争参加を全力で拒否せねばなりません。僕たちにはそんなものやる必要性がないからです。やる必要性があるのは一部のワガママな人間たちだけであり、やりたいならそいつらが勝手にやって勝手に死ねばいいのです。僕たちがその無知な人間のワガママのために死ぬ必要は1ミリたりともありません…続きを読む→
「守護霊様が大ピンチ」何も知らない人間が守護霊様を侮辱するのだそうです(祈)†■2022年4月20日UP■
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あなたの愛する男性、女性は性格の優しい、正しい行いをする、あなたにとって愛すべき人物だとします。あなたはそれを長い年月にわたって共に生活してきた事によって知っており、その人物を愛するに至っています。また、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の、これまで歩んできた苦難の道のり、獲得してきた知識と叡智の深さ、経験から導き出される慈愛の態度を、これまでのお付き合いによって認識しており、あなたはその師に対して深い尊敬の念を覚えるに至っています。しかし、あなたの愛する人物、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の人格、性格、人となり、これまでの苦難の道程を全く理解していない赤の他人が、何も知らない分際であてずっぽうで「こいつはこういう最低の人間だ、こいつは頭の悪い、おかしな奴だ」と言いふらしたとしましょう。皆さまはそれをどのように受け止められますか…続きを読む→
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†■2022年7月27日UP■
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霊界側の真の目的は「霊的知識を物質界全土に普及させるためのインパクト」だったのではないかと思っているのです。確か以前どこかのブログで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を霊団が「客寄せパンダ」として活用しているというのが真相なのではないか、といった趣旨の事を書きました。コチラ「ベールの彼方の生活 3巻8章 暗黒界の探訪」にありますように、霊界上層界の高級霊の方々は、圧倒的優位なポジションに立っている事を利用して下層界の低級霊の未熟さ、無能さ、愚かさを逆説的に自分たちの目的成就に活用する、といったお話が紹介されています。イエス様もこの暗黒界の探訪と同じように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を手玉に取って自分たちの目的成就つまりスピリチュアリズム普及に徹底的に活用した、という事なのではないかと思ったりもするのです…続きを読む→

77冊超の霊関連書籍の全ページスキャン& OCR変換を完了させた時「ハァァやっとこれでこの地獄の作業をやらなくて済む」と思ったものでした。それがどうですか、ホワイトイーグル霊の英語書籍がスゴイたくさんある事が分かってしまって地獄継続…この物質界人生は一体何なんだ。なぜ絵のひとつも描けないんだ。

自分の心と正反対の状態に徹底的に閉じ込められて脱出も全くできない、これを刑務所と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。実は近藤千雄先生が「モーゼスの霊訓 下」のあとがきの中で「物質界が監獄とか言う御仁がいるが、とんでもない幼稚な発想である」と仰っています。はい、僕の事です笑。

近藤先生と僕では悟りのレベルが全然違いますので、僕には近藤先生の境地にはとても到達できそうもありません。先生にそう言われても僕は「物質界は地球圏霊界の刑務所」という言葉を前言撤回するつもりはありません。僕が置かれた状況から導き出される当然の心境だからです。

「I Appeal Unto Caesar」UP前の整形作業75%完了中、間もなくWordPressにUPできるかも知れません。カミンズ女史の書籍を最低あと3冊、できれば4冊入手するつもりなのですが、コレが何をどうググってもどこにもカケラすらない、入手できずに物質界人生を終える可能性も出てきました。まぁ無いものは努力のしようがありませんのでどうしようもない。手元の作業に集中中(祈)†

■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†■2024年3月23日UP■
■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†
オマケ – はい、今回の4巻は著者であり霊感書記霊媒であるオーエン氏の絵を描かせて頂きましたが、実は当初は別の表紙にするつもりだったのです。しかしその表紙の線画を描きながら「コリャどう考えてもマズいよなぁ」という事でボツにしたのです。そのボツの線画をせっかくですのでUPしてみましょうコチラです↓事実に反した絵という事が1発でお分かり頂けると思うのですがいかがでしょうか。霊体の僕がイエス様に怒られて泣いて逃げようとしてます。なぜこういう絵を描こうと思ったのかというと、僕なりに「霊的使命遂行のキビシさ」を表現しようと思っての事だったのですが、にしてもこれは宜しくないだろう、という事でボツにしたのです。何しろ僕は本気の本気で霊団に反逆しまくっていますので、その反逆をイエス様が怒っているという表現だったのですが、これは事実ではありません。高級霊であればあるほど、アタリがやわらかくなるはずです。心の中で僕の反逆に呆れ返っていたとしてもこのような叱責はしないはずです。僕の未熟をそっと悟らせるような手法を取ってくるはずです…続きを読む→
「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†■2024年3月27日UP■
「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†
「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→

WordPress霊関連書籍ヘッダーSPIRITUAL UNFOLDMENT FOUR

英文テキストと格闘するのが正真正銘の地獄で、ホワイトイーグル霊の英語書籍をできる限り翻訳するつもりでいるのですが、あまりの苦しさに途中で挫ける可能性も出てきました。

WordPress霊関連書籍ヘッダーPaulInAthens

というのも「Paul In Athens」の英文見直しを始めたのですが、もう行がガタガタのグチャグチャ、この行がアッチに飛んであの行がソッチに飛んで「コレもうムリとても見直せない…」という心境になってしまっているのです。

まぁこの書籍が特別に古くてボロボロの書籍だったからスキャン画像もグチャグチャだった、ホワイトイーグル霊の書籍はペーパーバックが多く新しいですからスキャン画像もキレイで、ここまでグチャグチャになる事はないのですが、とにかく絵を描く人生を送るつもりでいた僕が果てしなくテキストと格闘するハメになっているのがどうしても納得いきません。

ちなみに昨日ポケットラジオナンチャラカンチャラと書きましたが、さっそく車の運転中にテストしてみたところ、案外しっかり聞ける、これは使えるかも知れないという感触を得ました。(ロングドライブ時の眠気防止に使えるという意味)

イヤあの、このたきざわ彰人とかいう人は何言ってるんだろうなぁ、ラジオなんて車に付いてるだろう、と皆さまは思われる事でしょうが、イエイエ僕は使命遂行の影響でお金がありませんのでオプション的なモノは一切付いてない、ただ走るのみの素体みたいな車に乗っているのです。

ラジオもオーディオもナビも何にも付いてません。ナビが付くはずの運転席パネル部分は空洞になっていて中の配線が見えます。さっそく次回の山のアタックからこのポケットラジオで眠気防止のテストをします。効いてくれないと困ります。

「Spiritual Unfoldment」2、3、4まで手元に届きましたが「1」が来ない、注文して1ヶ月が経過しているのに発送もされていないようです。一体何がどうなっているのでしょうか。海外発送おそるべし。

さぁ霊団があぶないあぶない言ってきていますが、僕の現在の生活のどこをどう切り取ったらそういうセリフにつながるんだよ。あんたたちがああなるこうなる言ってきてその通りになった事がこの12年で1度もネィだろ。(もっとも危険を回避してくれているから1度もないという見方もできますが)

えー「十戒」DVDの中の主要シーンをキャプチャしてWordPress上に動画をUPするつもりでいたのですが、どうもそういう気になれずにいます。もっと霊的シーンがドッカンドッカン出てくるものとばかり思っていたのですが全然ないのでガッカリしているのです。

せめて有名な「海が割れるシーン」だけでもキャプりましょうか。この海が割れるシーンでも、神を賛美しつつ民が割れて出来た道を行進するのは賛成として、霊的説明のナレーションを挿入してくれよと僕は思うのです。例えば「宇宙刑事ギャバン」の蒸着シーンみたいに。

これは神の業だから何でもできるんだ、だから神を賛美するんだ、それは了解ですが現代は21世紀ですから合理的科学的説明をしてくれないと分かってもらえないじゃないですか。

モーセ氏の祈りによって海がドバァァァっと割れる、オォォォ!となって「説明しよう、この霊現象はモーセ氏の霊団メンバーが民から大量のエクトプラズムをあらかじめ収集しておいて、わざと民を逃げ道のない危機に追い込み、神への祈りを誘発させてからそのエクトプラズムを使用して物質(海の水)を操作したものである。危機なしにこの現象をおこなえば民の信仰心を醸成できなかったため危機的状況をあえて作り出したのである」みたいな。

さぁ困ったな、テキストと格闘するのでめいっぱいでストーリーの線画に着手できません。脱出を実現させて作業時間を増やす事を真剣に考えないといけません。先ほどロードランもおこないました。山には一生行き続けますから鍛え続けるのは必須となります(祈)†
「キビシイ試練をやらせる上司です」知識としては理解しているのですが、心は…(祈)†■2021年12月29日UP■
「キビシイ試練をやらせる上司です」知識としては理解しているのですが、心は…(祈)†
「イヤ、奴隷の女の子を強姦殺人し続ける事で日本の平和と安定が保たれているのだから、女の子は強姦殺人し続けるべきだ」とあなたは仰いますか。あなたのような人間の事を霊界、物質界問わず【神】が経綸するこの全宇宙で何と呼ぶか知っていますか「偽善者」というのです。自分の考えの正当性を主張なさるのであれば、あなたは目に入れても痛くないほどかわいがっている愛する自分の娘を笑いながら強姦殺人して下さい。近所に住む笑顔のカワイイ女の子を誘拐して強姦殺人して下さい。そうすればあなたは逮捕されますが、あなた以上に信じられない人数の女の子を殺しまくっている「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が一向に逮捕されない事を全ての日本国民にどうやって納得させますか…続きを読む→
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†■2024年2月14日UP■
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†
「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→

[前節の通信は、私に少なからず影響を及ぼした。即座の反論ができず、次の交信まで何日かの間が必要だった。いよいよその交信をする気持になった時、私がまずこう反論した – ]

モーゼスの苦しい立場の開陳

キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってイエスの言説に耳を傾けている図は、私にも容易に想像できます。今の時点から言えば、そのサドカイ派の学者たちは間違っていたことになります。それはわかります。しかし、思うに、それは実に無理からぬことだったのです。

理性の光だけで判断すれば、イエスの言説はとてつもないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者連中が、虚言か妄想としか思えないものを拒否したのは無理もなかったでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度は無かったとしか思えません。

ただ彼らの場合は、そのとてつもないことを言う人物が目の前にいたということ – 姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が本人の実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べがついたということです。

その点、私の場合は、影も形もないただの影響力であり、もしかしたら自分の中だけの心と心との葛藤にすぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴(つか)みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それもきわめて曖昧で、しかも、往々にして軽蔑したくなるものばかりです。

啓示だと言われても、愚かというのが言い過ぎなら、得体(えたい)が知れないとでも言わざるを得ないもので、その名のもとで行なわれているものを見たら、ショックを受けることもしばしばです。

私はどうしてよいのかわかりません。あなたという存在についても、私は何も知らないばかりか、果たして1個の独立した存在なのかどうかもわかりません。あなたに関して得心のいく手掛かりは何ひとつありません。たとえ、かつて地上で生活をしたことがあると聞かされても、私には大した意味はありません。

一体あなたは個性をそなえた存在なのですか、それとも単なる影響力にすぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば、幾分かは救われる気がします。しかし、とにもかくにも、できることなら私のことはもう一切構わないでいただきたいという心境です。

[正直いって、その頃の私は、自分の強固な信仰と強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克(そうこく)によって頭が混乱をきわめていた。そしてそれが来るべき段階へのひとつの準備としての体験であることは明らかであった。]

イエスを取り巻いていた条件との比較

友よ、そなたが疑問に思うことはよく理解できます。われわれとしても、その疑念を解く手助けをしてあげたく思います。

まずそなたは、例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけに有利であると言う。なるほど、イエスは目に見える存在でした。が、そのことは有利であるどころか、むしろ困難を増すものだったのではなかろうか。

何となれば、目の前にいるイエスという若者はナザレの大工の息子です。それを神の新たな啓示者と結びつけるのは、そなたがわれわれを神の使者と結びつけること以上に困難だったのではなかろうか。

サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれわれのことを”果たしてこれが個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻な問題ではなかったろうか。

イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れることのできる明白なもので、しかも、およそ好条件とはいえないものばかりが揃っていました。

生まれは(当時のユダヤ社会通念として)卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところがすべての民衆から背を向けられる – こうしたことはすべて現実であり、どうしようもない不利な条件でした。

あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどでした。ゆえに、たとえサドカイ派の学者にイエスの言説が理解できず、イエスを神の使者として認めなかったとしても、その学者連中には何の咎もありません。それは単に彼らがより成長した後に再び訪れるであろう進歩の好機を逸したというに過ぎないと言えるでしょう。

そなたの場合はそれとは事情が違います。そなたには目を惑わす困難は何ひとつない。知的疑念と闘っていればよい。しかも、これまでそなたに語られた言葉が、神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるはずです。

そなたも必要性を痛感するものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさにあふれ、しかもそれを受け入れる用意のある者には、強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた以外の源から発していることは十分に得心しているはずです。

何となれば、もしもそなた自身の内部から無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向から衝突することが有り得ないことは、当然そなたも認めるはずだからです。

もしもわれわれの述べるところの言説がそなたの精神から自然に発するものであれば、そなたもその公表を控える余裕をもつこともできるでしょう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説は、そなたみずから納得できないでしょう。

そうでないことは、そなたもすでに得心しています。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではありません。

やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、なぜわれわれのことを、そなたと同じく“人間”と呼ぶ個体をそなえた知的存在であることを疑ったのであろうかと、不思議に思える日も到来するでしょう。

啓示そのものと啓示を届ける者との混同

さよう、今そなたに必要なのは“時間(とき)”です。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間です。

こうまでそなたの心を深く動かしている言葉 – その深さはそなたみずからの想像すら超えているが – それはそなたの思いに通じ、そなたの苦しい立場を理解し、さらには、それに劣らず、今そなたを悩ましている懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉です。

地上時代、わたしはイエスの出現に先立つ苦難、今ふたたびくり返されつつある苦難の世相の中で使命を担わされた者のひとりでした。歴史は巡り来るものです。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わりません。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになります。

が、昼のあとに必ず夜が訪れるように、神の概念が薄れ、真実味のないものとなる時代が訪れます。すると、より明確な知識を求める内部の神の火の粉が、ふたたび炎となって燃えあがり、天に向かって神のメッセージを求めます。そこに新しい啓示の必要性が生じます。人間の魂がそれを希求するのです。

古いものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中から新しいものが芽生えます。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉にほかなりません。

いつの時代にもそうでした。そのことはそなたも知っていたはずです。こうした神と人間との関係は全歴史を通じてたどることができます。それが何ゆえに今の時代にそうであってはならないのであろうか。人類が最もそれを必要としているこの時代に、何ゆえに神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのであろうか。

このわたしについて何も知らぬから、とそなたは言う。しかし、何ゆえにそなたは啓示そのものと啓示を届ける者とを混同するのであろうか。何ゆえに神の教えと、その教えを伝える通路にすぎない者とに同一価値を置かねば気が済まないのであろうか。

ぶり返すモーゼスの猜疑心

[こうした議論の末に、ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰にひとつの確信を得ることができた。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。

それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓と、それを伝える者(インペレーター)とを区別して考えることもできるようになった。
私はそうした一連の論議 – その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが – を、再度、初めから目を通し、そこに、まさしく新しい啓示といえるものをやっと見出すことができた。

通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没(まいぼつ)してしまった。私はその時に至ってはじめて、燃える炎のごとき強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持が、その確信の炎にかき消されてしまった。

が、そう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は、容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに、私の若き日の宗教的修行もそれを許さなかった。私の脳裏にふたたび神学的見地からの反論が甦った。その最初の波が去り、2日間の間を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。

その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを、くり返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去1年間にわたる交霊の体験の価値評価もしてみた。そして次の3つの明確な結論に到達した。すなわち –

(1)私に働きかけている“影響力”は私自身とは別個の存在である。

(2)その述べるところは真実であり首尾一貫している。

(3)その宗教的教説は純粋であり崇高さがある。

以上の3点は間違いないように思えた。そこでさらに私は、その身元の確認と主義・主張の問題を探ってみた。その他の問題は後回しにしてもよいように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今もなお誠実であるはずだと強く信じ込む気持になった。

が、そこで、ふと、猜疑心が頭をもたげた。これは、もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆(くつがえ)さんと企んでいるのでは?という猜疑心である。そこで私はこう綴った – ]

私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させていただけば、あなたの教説は、取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは – これは言い過ぎでしょうが無神論にもなりうる性向をもっていると言えないでしょうか。それは、神をただのエネルギーの一種と見下げることになり、人の心に、絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。

つまり神とは宇宙に瀰漫(びまん)する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示といっても、それは神から真理が明かされたのではなく、内部から、つまり人間の心の中で想像したものにすぎないことになります。

キリスト教もそうして生まれた信仰のひとつにすぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は、程度の差こそあれ、盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。

神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、ひとりひとりが自分だけの特殊な神をもつことになります。絶対的な真理は数学以外には存在しないことになります。

結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位にすぎないことになる – それも知性が硬直化しなければ、の話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性がある、という皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は、絶対的な神性を有するキリスト教の福音に取って代ろうとするものです。キリスト教の教説にはいささかの誤りもなく、その道徳性はほとんど誰にでも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。

それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることができなかったのです。なのに、あなたが説くような“善の影”ていどしかない思想、まさに影のみの存在で、漫然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代る未来への建設力をもたない教説に、どうしてそれが可能でしょうか。

その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教ですら手を焼いた反抗的民衆の心を捉えることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠って来るところが不明瞭であることについては、すでに述べたので繰り返しません。また、それが一般に普及した場合の危険性についても、改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先の話であり、ここで詳しく論じる必要性を認めません。

同時に、あなたの教説が広まると、道徳的・社会的・宗教的に人類にとって欠かすことのできない健全な結びつきを、多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。

万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄な軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。

こうした危惧はまったく私の杞憂にすぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代りになるものとは思えません。

たとえあなたの主張する通りの真正なものであるとしても、人間はエンゼルケーキ(スポンジケーキ)だけでは生きて行けないように、このような教説にしたがって生きることに耐え切れないでしょう。

その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣な面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。]

インペレーターの再度の説諭

神の御名において、われわれはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれわれの手に余るものがある。われわれの述べたところの真意を正しく理解してないようである。襲いくる感情の激動が精神を混乱させ、微妙な点の理解を不可能にしている。

それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことです。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行です。今は理解できないことも、そのうちわかるようになります。

衝動と情熱が、経験的知識と静かな確信へと変っていくでしょう。これまでの、理解して受け入れるというよりは、ただ単に同意したにすぎなかった信仰は、いかに崇高で有り難そうに思えても、入念な吟味と論理的分析から生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われわれの述べたところは、その吟味と分析に値するものばかりです。

これまで綴られたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもっていただきたい。そして、そなたとの交信に、一貫して流れるものを読み取ってもらいたい。われわれがいかなる素性の者であるかは、ぜひとも、そなたとの関わり合いの中で判断してもらいたい。

前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時に、われわれの言葉と態度、われわれの説く教えの道徳的印象によって判断してもらいたい。細かい分析によって論理上のアラ探しをするのもよいが、それと同時に、われわれから受ける霊的雰囲気によって判断してもらいたく思うのです。

さし当たっては、われわれが神の使者であることを、厳粛な気持でくり返し主張するに留めておきます。われわれが述べる言葉は神の言葉なのです。それはそなたにもわかっているはずです。その弁明に改めて言葉を費やすこともありますまい。

そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではありません。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもありません。悪魔なら、神についてわれわれのような説き方はしません。また、人間の脳からは、われわれの述べたような教説は出てこないし、われわれの与えたような証言も出てきません。精神が今少し穏やかになれば、そなたにもその事実が読み取れるようになります。

そなたの精神が今のような状態でさえなければ、神聖なものに悪魔的な要素を見出そうとしてしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところです。それはちょうど、イエスが地上の腐敗と災禍の中にあった時、彼によって追い払われた悪魔(低級な邪霊)がユダヤ教の狂信家たちの口をついて、イエスは魔王の手先であると非難したのと同一です。

われわれはそのような他愛ない非難には関わりません。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからです。じっくりと時間を掛けて熟考すれば、おのずとそなたの疑念に対する回答が出てきます。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切です。

祈る心が大切

友よ、祈るのです。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのです。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが、激情から発したものでもよい。とにかく、われわれとともに、啓発と耐える力を求めて祈ろう。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るのです。

光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのです。そして解き放たれた後も堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈るがよい。

そなたの求めるところが、低劣なものを求める者たちによって邪魔されることのないように祈るがよい。そなたにとって正しいものを選び出し、他人は他人なりに適切なものを選ぶに任せる、大らかな心を求めて祈られよ。

選択するにせよ拒絶するにせよ、その責任を明確に認識し、一方において頑固な偏見を避け、他方において安易な軽信に流れることのないよう祈られよ。なかんずく正直さと誠実さと謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷さと下劣さによって神の計画を損なうことのないよう祈るがよい。

かくしてわれわれの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手をさし延べんとして待機する、高級界の神の使者たちの愛と慰めを引き寄せることになるのです。スピリチュアリズムが一般社会にもたらす影響についてのそなたの批判に関しては、すでにその大半に答えてあるはずです。

表面的活動の底流には、そなたの目に映じない大切なものが存在することを指摘してあります。いつの時代であれ、神の知識の発達過程には、人目につかぬところで密かに新しい啓示をむさぼり求め、さらに高い真理を求めて着実に成長しつつある者が、必ずいるものです。

今の時代とて同じであることを述べているのです。そなたと同じく、酔狂に心霊現象をもてあそぶ者たちの存在を憂えつつも、それによっていささかも信念を揺るがされることなく、真摯にわれわれ霊の教えを心の支えとしている者がいる – 実に大勢いるのです。その信念には“事実”という基盤があるからです。(3)

交霊にも厳然たる摂理がある

さらにそなたに指摘しておきたいことは、われわれ霊界の者と地上との交霊は、地上の科学ではまだ捉えきれない法則によって支配されていることです。しかも、われわれの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われわれにすらよく分からないものが多々あるのです。

そなたの保護のために勝手に規則を定めるわけにはいかないのです。われわれ自身の保護すらままならないのです。そなたが関わっているこの仕事の遠大な重要性については、この仕事に興味を示す者にすら、本当のところはほとんど理解されておりません。多くの場合、ただの好奇心の程度を出ておりません。それよりさらに下劣な動機に動かされている者もいます。

霊媒の管理が適切さを欠いています。そのため、霊界との連絡がうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労ぎみの者もいます。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なります。

われわれもその条件の変化には必ずしも対処できるとはかぎりません。出席者の構成が適切さを欠いていることもあります。そうした諸条件の重なり合いが、交霊現象をつねに同質のものに保ち規則正しいものにすることを不可能にしているのです。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また、目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにしてしまう原因もそこにあります。

この問題についてはまだまだ言うべきことがあるのですが、今はそれ以上に大切なものが迫っております。これまで述べたところによって、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、多くの交霊会での下らぬ現象を寛恕の目をもって評価しなければならない理由の一端がわかってもらえると思います。

偽称霊の侵入する交霊会に至っては、今は述べる言葉を持ち合わせません。よほど低級な霊の仕業であり、すべて信じるに足らず、不愉快きわまります。

その点に関してそなたはわれわれの手助けができるはずです。愚かな好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいは、そなたに出来るはずです。と言うのは、そなたはわれわれのサークルにおいてわれわれの指図どおりに行ない、現象が次第に発展してきた経緯(いきさつ)を知悉(ちしつ)しているからです。

他の交霊会の者たちにも同じ指図を与えてほしいのです。やがて暗雲も晴れることでしょう。ともあれ、交霊会にまつわる問題の原因は、われわれの側と同様にそなたらの側にもあることだけは確かです。

†インペレーター

[注釈]

(1)Deism 理性と自然のみを拠りどころとする有神論で、宇宙は神によって創造されたが、創造後は法則のみで機能し、霊的啓示などはないとする説。18世紀のヨーロッパで流行した。

(2)Pantheism 森羅万象が神性の具現したものとする思想。スピリチュアリズムも汎神論と言えなくもないが、物質界は神性のごく一部の顕現にすぎず、内的世界でも無限の次元で神性が顕現し、今後も永久に顕現し続けるとするところが、従来の汎神論と異なる。

(3)スピリチュアリズムの基盤が心霊科学という実証性をもつ学問にあることを指摘している。人間が永遠不滅の霊性を有し、現在の個性をそのまま携えて死後もさまざまな次元で生活する – 地上生活はその出発点である、というのがスピリチュアリズムの基本思想であるが、もしもそれだけのものだったら世界中の太古の霊的思想もみなそうだったのではないかということになる。

が、1848年の米国ハイズビル村におけるスリラーもどきの心霊現象、俗にいうハイズビル事件をきっかけとして欧米の第1級の化学者・物理学者・天文学者・文学者・判事その他、あらゆる分野の専門家が大挙して、いわゆる“霊媒現象”の真偽性を追求し、調査・検討するという動きが起こり、それに真剣に取り組んだ人はひとりの例外もなくその真実性を確信するに至っている。

インペレーターのいう“酔狂に心霊現象を弄ぶ者”というのは、単なる好奇心から面白半分に交霊会を開く者たちのことで、その種の交霊会に呼ばれる霊媒は金儲けが目当てであるから、その背後で働く霊は低級霊であり、中には邪悪な考えをもつ者もいる。

ために、後でとかくの悪評(うわさ)が立つ。モーゼスがスピリチュアリズムを毛嫌いしたのは、その種の交霊会が念頭にあったからである。

現在のスピリチュアリズムの潮流は、世界的にみても現象的なものから霊言や心霊治療・因縁除去といった精神的なものへ移行しつつあるが、そうなったらそうなったで、その分野でもモノマネ専門や法外な金銭を要求する悪徳霊能者がのさばりつつあるので、警戒が肝要である。

「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†■2022年6月29日UP■
「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†
神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし(ガラテア6・7)神の摂理は絶対にごまかされません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染込んだ汚れが、それくらいの事で一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言で全てが赦されるとしたら果たして神は公正であると言えるでしょうか…続きを読む→
「怒られる」とずっと霊団から言われ続けているのです。本末転倒の究極形(祈)†■2022年6月8日UP■
「怒られる」とずっと霊団から言われ続けているのです。本末転倒の究極形(祈)†
物質界での行いがそのまま帰幽後の霊界における境涯を決定します。善い行いをした者は幸福な美しい境涯(上層界)に、私利私欲に走り他人を傷つけた者は暗黒の惨めな境涯(下層界)に赴きます。「神の因果律」の働きにより機械的自動的にそうなるのです。物質界における邪悪発生の原因は「人間は肉体が死んだらそれで終わり」と思っている事に全て起因します。肉体の死後も霊界で人生が継続される事、物質界での行いの賞罰が寸分の狂いもなく自分に降ってくる、自分の行いに全て自分で責任を取らされるという霊的知識の基本中の基本を全く理解していない事から物質界の邪悪が発生しているのです。奴隷の女の子を強姦殺人し続け、国民に延々とウソニュースを流し続け、国民の宝物を搾取し続けたその先に、どれほどの地獄が待ち受けているか。それを全く理解していない事が全ての原因なのです…続きを読む→
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†■2022年5月18日UP■
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†
とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→

メチャ安かったので「コレなら試してみるか」という事で電池式のごく小さなAM/FMポケットラジオを入手しました。

さっそく部屋で聞いてみるのですが、移動していない、固定された場所で聞くのもかなり苦労する、なら移動している車内ではこのラジオはほとんど聞けない、ザーザー音しか聞こえないのではないかと予測されますが、とにかく次の山のアタック時に使用してみましょう。たぶん使えないなコリャ。

それくらいロングドライブ時の眠気防止対策が窮地に追い込まれているという事なのです。もう限界の限界なのです。

ちなみにホワイトイーグル霊の英語書籍、だいぶ前に2冊注文しているのですが全く到着しません。海外発送での英語書籍入手は絶望感がハンパないですが、待つより他にどうしようもありません。まだ手元にテキスト化を完了させるべき書籍が恐ろしいほど殺人的に残されていますから、そちらの作業をやるしかないでしょう。

えー霊団は僕を物質界に何が何でも残し続けよう、刑務所に閉じ込め続けようとしてきますが、それとは反対に僕がいよいよ殺されるといった趣旨の事も言われています。過去の使命遂行者たちはみんなそうやって使命を果たし切って殺されているんだから僕もそれでイイだろと思うのですが、霊団は僕を何が何でも閉じ込めるつもりのようです。

ある脱出アイデアを実行するために徹底的に節約をおこなっていますが、あと数ヶ月以内にそれを実行に移すつもりで準備しています。そのアイデア(かなり大きい出費)を実行に移してもなお脱出できないという最悪のストーリーもありますが(霊団の方がチカラが上ですのでそのようにさせられる可能性があるという意味)しかしどうしてもこれ以上閉じ込められるのが耐えられないので、数字が大きくて苦しくてもそのアイデアを実行するつもりでいるのです。

節約続行中、テキスト化続行中、ストーリーの線画を描き始めないといけないのですが忙しすぎて着手できていません。作業時間を増やせる脱出は使命遂行にプラスに働くはずだ、なぜ止める(祈)†

「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→

あぁぁ苦しい、本当にこの作業は地獄です。何しろ書籍1冊丸々見直さないといけないのですから、しかもOCR変換した文章はかなり正確とはいえやはりところどころ間違っている部分があり、そこを見つけては修正していく作業が本当に地獄なのです。

その見直しを完了させてタグを挿入してWordPressにUPする作業をしている最中にも「あ!ここ間違ってる、あ!ここも放置されてる…」といった感じに修正箇所が見つかる見つかる…。見直し完了してるって言ってるのに、もういい加減にしてくれと言った感じ。

まだ修正箇所が残されているものと思われますがどうかご勘弁を。通読には問題ありません、霊的知識摂取に何ら障害はありませんので、どうぞ広い心でお読み頂きたいと思います。この下巻も重要な事がいろいろ書かれていますのでひとりでも多くの方に物質界生活中最重要の知識を獲得して頂きたいです。

あー苦しい作業ですが、僕はこれら書籍を「復刊」させるつもりでいたのです。それを物質界の意味不明の法律でダメにさせられて本当に頭にきているのですが、まだまだテキスト化しなければならない書籍がシャレじゃなく殺人的に残されていますので、思う事があろうと心境複雑だろうと「感情と手は別レイヤー」作業だけは何が何でも続行させなければなりません。

ホントつらいので一旦切ります。全文見返してもう一度修正をかけないといけないのですが今はチョトムリ。おなかすいたパン食べます(祈)†

[これまでに受け取った一連の自動書記通信を読み返してみて、私は文体といい内容といい、その美しさにこれまでになく心を打たれた。それというのも、私には何ら意識的思考もないまま、猛烈な勢いで書かれていくその速さ、それでいて文法上の構成に一点の誤りも見当たらないこと、さらに、全編を通じて一箇所の挿入も訂正もなされていないことなどを考え合わせると、ただただ、その美しさに驚きを覚えるばかった。

が、その主題の問題となると、私は相変らず受け入れに躊躇せざるを得なかった。共鳴するものも多かったが、同時に、もし受け入れたら、キリスト教会の信仰が根底から覆えされることになるという危惧は拭いきれなかった。どう言い換えたところで、そうなることは日を見るよりも明らかである。

用語と同時に、その根本理念を受け入れれば、キリスト教徒が絶対的箇条として信じることを誓ったものを、数多く捨て去らねばならなくなる。とくに、その中心的ドグマが崩れてしまうように思えた。

各種の神学上の著作 – ギリシャ正教、ローマ・カトリック、国教会、プロテスタンとくに近代ドイツ神学 – に幅広く親しんできた私には、その各説の枝葉末節における矛盾はあまり問題にしないだけの心の準備はできていた。こうした宗教的内容のものには多少の矛盾は避け難いことを認識していたのである。

また、神の啓示の奥深い神秘の前には、個人的見解は大して価値はないことも認識していた。要するに私は、この種の問題に関しては少々のことでは動揺しないだけの心の準備はできているつもりでいたのである。

ところが、インペレーターの言葉はまったく問題が別だった。集中砲火を浴びているのはキリスト教の根幹に関わることばかりだった。それをスピリチュアライズする、つまり霊的な解釈を施すということは、私の信じているいかなる啓示にも致命傷を与えかねないように思えた。

じっくりと考えに考え抜いた末の結論がどうしてもそこに落着する。しかもそれが、私のよく知らない、知ろうにも知り得ない、知的存在による“独断”である。これはとても受け入れるわけにはいかない。私は今少し考える時間を持たねばならないと考えた。

とにかく、たとえ内容的にどんなに美しかろうと、キリスト教ほどの証拠性もなく偶像破壊的でもない教義を受け入れるには、まだ私の心が熟していないと感じた。こうした主旨のことを述べると、次のような通信が届けられた – ]

背後霊の存在の認識がカギ

良いことを述べてくれました。こうした重大な問題については、深く考えるための十二分な時間を掛ける必要があります。われわれは、いずれはそなたが理解しその重大性を認識してくれるものとの確信のもとに説いてきた教説を、そなたの熟考にまかせるつもりです。

疑問があれば何なりと尋ねるがよい。われわれも喜んで答えよう。が、これまでの通信を十二分に考察するまでは、他の通信はあえて押しつけないことにします。すべからく忍耐と真摯な祈りが肝要です。

寒々として霊性を寄せつけない地上生活にあっては、人間の魂と、その欲求を叶えてあげようとして待機している背後霊との間の磁気的霊交が、真摯な祈りによってどれほど強く促進されるものであるか、そなたはご存知ない。

使うほどにその絆は強化され、交わるほどにその親密度を増すものです。祈りというものがどれほど豊かな霊的恵みをもたらすかを知れば、そなたもより多く祈るようになることでしょう。

博学な神学者たちは、祈りの価値についてその核心を知らぬまま論議を重ね、迷路をさ迷い続けております。彼らは神を求める魂の真の欲求を聞き届けんとして待ちうける背後霊の存在を知りません。無理からぬことではあります。現時点における科学では立証できない性質のものだからです。

そこで彼らは、愚かにも祈りの効用をその結果によって計らんとします。結果を分析し、統計の収集によってその効用を評価せんとするのです。

が、それでもなお、彼らは迷路をさ迷い続けております。何となれば、そうした努力によって摑みうるのは形骸のみであり、その真相は彼らの視界へは入らないからです。祈りの結果は、そのようなことで計れるものではありません。

人間の科学では捉えられない性質のものなのです。あくまでも霊的なものであり、個々の祈りによって結果もまたさまざまな形式をとります。背後霊が異なるように、祈りの結果の表れ方も異なるのです。

無言の願いが叶えられないままであることが、実は魂にとって最高の恵みであることが往々にしてあるものです。虚空に向けて発せられた悩める魂の叫び – 悲しみから絞り出される叫び – それが、それ自体が魂の救済となることがあります。

当人にはなぜかがわかりません。が、待機している背後霊が、その重荷に苦しんでいる魂に同情と慰めの芳香を注ぎ込まんと努力している姿を見れば、魂がふと覚える何とも不思議な安らぎと、神へ確信がいずこから来るかが理解できるでしょう。

それをもって祈りが叶えられたというのです。魂の奥底からの叫びが背後霊団とのつながりをもたらし、苦しみと悲しみに悶(もだ)える心が慰められるのです。

緊密な関係にある者に注がれるこの磁気性の芳香は、神を探し求める魂の切実な叫びがもたらす恩恵のひとつなのです。真の霊交はそれ以外の条件下では実現しません。

天使が住まわれる“神秘の間”に入る者は、よほどの霊性を開いた者にかぎられます。同時に、われわれの側から最も近づきやすい魂は、日ごろから霊的交わりを重ねている者です。

友よ、これ以外にはないのです。それが、人間の世界とのつながりを支配する不変の法則のひとつなのです。すなわち、霊性に目覚めた魂が豊かな霊的恵みを受けるのです。

願いごとと祈りとは別

願いごとへの回答は、かならずしも人間が無知ゆえに勝手に期待しているとおりになるとはかぎりません。往々にして、その願いごとを叶えてやることが、当人に悲しむべき害を及ぼすことにもなりかねないのです。

当人は真相を知らないまま、せっかちに愚かな願いごとをします。当然その祈りは無視されます。が、切実に祈るその心の姿勢が、待機している背後霊との連絡路を開き、その必要性にかんがみて、力と慰めを授けてくれます。

人間がもっと祈りの生活をしてくれれば、と思います。もっとも、その祈りは、為すべき義務を怠り、貴重な試練の生活を病的ともいうべき自己分析、不健全きわまる自己詮索、怠惰な瞑想、あるいは無理じい的かつ非現実的哀願のみに費す、礼拝一途(いちず)の生活のことではありません。

それは真の礼拝とはいえません。真実の祈りの生活はそれとはまったく別のものです。真実の祈りとは、守護せんとして待機している背後霊への魂の奥底からの叫びの直情的発露でなくてはなりません。

気まぐれな要求に応えて、変えられるはずもない法則をよろこんで変えてくれるかに期待する神への他愛ない幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっております。そのようなことは断じて信じてはなりません!

祈り – 魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして、はるか上界との連絡の労を取らんとして待機している背後霊を通じての、神への直情的叫び – これは形式の問題ではありません。言葉で述べる必要もありません。音節の区切り方をやかましくいう必要もありません。ましてや、宗教的慣習や紋切り型の用語等によって拘束する必要など、さらさらないのです。

真の祈りとは魂と魂との直接の交わりであり、日頃から交信している見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念のような速さでもって送り返される、その一連の営みをいうのです。

言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒やすことのできる霊の手にゆだねることです。それには言葉も身構えも形式も無用です。むしろそうしたものへの“こだわり”が消えて自然に発せられた時こそ、もっとも真実味を帯びるものです。

必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみです。そのためには、日頃の訓練が望まれます。さもないと、日頃の使用を怠っている手足のように、その衝動に反応を示さなくなるのです。

それゆえ、日頃から霊性に目覚めた生活を営む者ほど、霊的世界の深奥に入ることができるわけです。その種の者にはわれわれの方からも近づきやすいのです。

外界の喧騒に影響されることなく、その者のみが有するところの、われわれにのみ反応する奥深い琴線に触れることができるのです。そういう人は、身は地上にありながら、きわめて高い霊性を発揮します。何となれば、日頃から霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからです。

彼らには、物的生活に埋もれている者には閉ざされている霊的真理の秘密の扉が開かれていることになります。そして、不断の祈りによって、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって必要不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのです。

動機の純粋性が大切

ああ、これほど素晴らしい摂理を地上の人間が知らずにいるとは、何と悲しいことでしょうか!この真相がより正しく理解されれば、人間は聖純にして気高い霊の雰囲気の中で暮らせるものを!

霊性の自覚によって、のぞき趣味的好奇心に駆られ、おのれの分際もかえりみずに心霊の世界に深入りする者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯な探究者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることもできるのです。(1)

たとえ完全には免れなくても、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間になしうる他のいかなる手段にもまして、われわれの力となってくれます。それはわれわれの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする、もっとも有効な力となるのです。

ゆえに、ひたすらに、祈られるがよい。ただし、心のこもらない紋切り型の嘆願とならぬよう心されたい。魂と魂の触れ合いの中でのわれわれとの交わりを求めるのです。ひたすら魂に関わる問題にのみ心を向けるのです。他のことは収まるべくして収まります。神学上の難解にして煩わしい問題は捨ておき、そなたの魂の安寧に関わる核心的真理に集中されよ。

単純素朴な霊的真理が、人間の無益な混沌によって幾重にも取り巻かれております。その収拾にそなたが関わる必要はありません。また、その中のいずれがそなたにとって不可欠か、いずれが不必要かの問題も、今はそなたが関わる必要はありません。

今のそなたに絶対重要と思える教説も、こののちには、その教説が啓示された一時代にのみ適用されるべき一面的教説にすぎなかったことを悟る日も来ることでしょう。

結論を焦るのは人間の弱点です。むしろ歩を緩(ゆる)めるがよい。ゴールへと焦らず、初期の段階でじっくり時間を掛けねばなりません。すべての秘密に通暁する前に、そなたが学ばねばならないことは幾らでもあります。

このことについてはなお言うべきことがありますが、さし当たって必要なことは述べたつもりです。願わくば神がわれわれとそなたとを守り給い、われわれが首尾よくそなたを導き、暗闇に迷うそなたの魂に真理の光を灯し、安寧をもたらすことを得さしめ給わんことを。

†インペレーター

[右の通信に対して私はすぐには抗弁せず、その内容に思いをめぐらした。そして、やがて聞いてみたいことが浮かんだので、それを書き留めようとした。そのとたん、私の手は強制的にストップさせられた。

そして、代ってその手が激しい勢いで別のことを書きはじめ、信じられない速さで次のようなことを述べてきた。その間、ただの1度も手を休めることがなかった。あまりの激しさに私は、書き終えるまで半入神状態になっていた。]

信仰はそれ自体に矛盾を含むもの

待たれよ!焦るでない!待つのです!今は議論の時ではない!真理をくり返し吟味するのです。そなたはせっかちに過ぎます。しかも、下らぬことばかり思いめぐらしている。

われわれの述べることが他の信仰と相容(あいい)れないからとて、それが一体そなたに何の意味があるというのであろうか。何ゆえに尻込みするのであろうか。信仰は大なり小なり他の信仰と相容れなくなるものではなかろうか。

否、信仰とはそれ自体の中に矛盾の要素を含むものではなかろうか。(2)それすら理解できぬようでは、先へ進む資格はない!

かつての古い教義や信仰 – 当時としてはそれなりに価値はありながら、往々にして未熟であったものに、人間は慰めを求めてきた。自分に都合のよい言説を拾い求めてきた。あるはずもないものを、わざわざ求めに赴いたのです。なぜ無いのか。

魂がそうした古い言説 – 時代には生命を失ってしまった言説 – を超えて生長したからこそです。

それはもはやそなたにとって益にはなりません。そなたの魂はもはやそのようなものでは感動しなくなっている。語りかける言葉を持ち合わせないのです。心を癒やす力を失っているのです。ある者にとっては生々しい声として聞こえながら、今のそなたには無意味に響く、遠くかすかな“こだま”に過ぎません。

しかるに、何ゆえにそなたはそのようなものに心を煩わせるのであろうか。何ゆえにそなたは、すでにそなたにとって何の意味を持たないものから意義を見出そうと、無益な努力を続け、さ迷うのであろうか。

なぜ霊の世界から語りかけるわれわれの生々しい、燃えるような、真実味あふれる声に耳を傾けようとしないのであろうか。滅びつつあるもの、あるいはすでに死物と化しているものの代りに、真実なるもの、霊的なるもの、崇高なるものを説くわれわれの声に、何ゆえに耳を傾けようとしないのであろうか。

一時の気まぐれとはいえ、何ゆえに生命なき過去の遺物を有り難がり、生々発展している“今”という時から絶縁し、霊との交わりとも絶縁し、神および人間の宿命について崇高なる真理を語る霊団との縁まで切らんとするのであろうか。

これは明らかに狂気の沙汰であり、魂を堕落させ地上次元へ引きずり下ろすことを愉(たの)しみとする邪霊の影響にほかなりません。われわれの啓示が古い啓示と相容れないからといって、一体それがそなたにとって何の関わりがあるというのであろうか。

われわれの啓示は生々しい響きをもってそなたの魂に訴えている – それはそなたにもわかるであろう。そなたはそれにて喉を潤し、その有り難い力に浴している。古い啓示はもはやそなたにとっては死物も同然です。

その生命なき形骸のまわりを、何ゆえにそなたはうろつきまわるのであろうか。かつては神の啓示に満ちた生ける存在であったとしても、今や朽ち衰えんとしている死骸に、何ゆえにすがりつこうとするのであろうか。

バイブルにも、イエスの墓のまわりに集まった悲しみの者たちの霊耳に、霊がこう語りかけたことが記されています“何ゆえにあなたたちは死者の中に生者を求めるのか。彼はすでにここにはいない。蘇ったのです(3)”と。

そこでわれわれもそなたに言う – 何ゆえに死せる過去、埋葬された真理の墓をうろつきまわり、もはや存在しないものを無益に求めるのか、と。それはもはや、そこには存在しないのです。蘇ったのです。かつて、変転きわまりない時代に神の真理を包蔵したドグマのもとを去ったのです。

残っているのは空(うつ)ろな宝石箱のみ。宝石はもはやそこには存在しないのです。生命は蘇ったのです。そして、見よ!われわれはそなたにその蘇った崇高な真理、より気高い教義、より聖なる神を説いているではありませんか。

神は昔と同じく今も働きかけている

かの古き時代に神の命(めい)を担(にな)って地上へ下りた使者とその世代に語りかけたのと同じ声が、今そなたとそなたの世代に語りかけているのです。いつの時代も同じなのです。

神は今も昔もまったく同じように人間を扱われます。すなわち、より多くの光、より高き真理へ導こうとされているのです。その神の声にしたがうか否かは、人間の意志に任されます。

神を求める崇高な志をもつ者にとっても、古いもの、それまで親しんできたもの、歴史あるものには棄てがたい魅力があり、それがひとつの関所となります。その最初の迷いの中で、彼らは古いもの、大切にしてきたものを全て葬り、新しいもの、未知なるものを受け入れねばならないことを悟ります。

それはひとつの死を意味するかに思えます。しかも、人間は死を恐れます。確かに、それはまさに死です。しかし、生へ向けての死なのです。暗い墓場を通り抜け、生と希望へたどり着く通路なのです。

肉体の死によって霊がその束縛から放たれて自由になるように、古い信仰の束縛から解放された魂は、自由の世界へと飛躍します。それはまさしくイエスの言える、唯ひとり間を自由にする“真理による自由(4)”です。今は理解できないかも知れませんが、そなたもいずれ悟る日も来ることでしょう。

これが、われわれの切なる声です。生気あふれる現在、そして輝ける未来があり、豊かな祝福を約束してくれているというのに、そなたは何ゆえに死せる過去へ目を向けるのであろうか。われわれの述べるところが古(いにしえ)の教えと矛盾するからとて、それがそなたに何の関係(かかわり)があるというのであろうか。

古い教えはすでにそなたにとって生命はなく、その失われた生命をふたたび吹き込むことはできません。それは、今なおその教えに意義を見出す者にあずけておけばよい。

そしてそなたは、より高き真理へ向けて、神が植えつけ給うた真理探究心の衝動にしたがって、迷うことなく歩を進めるがよい。死せる過去は、たとえ新しい現代を通って未来へ進むその通路ではあったとしても、もう、ここできっぱりと訣別することです。

もっとも、今のそなたにとっては、そうとも言えぬように見うけられる。そなたにとってはその過去が今だに魅力があり、われわれの説く新しい教説は、古い信仰を根底から破壊するとの説に加担しておられる。イエスがそう述べているとでも言いたいのであろうか。

イエスはモーセの教えの全廃を説いたであろうか。前にも述べたように、イエスの教えがモーセの教えに比して取り立てて驚異的なものではなかったように、われわれの教説は、イエスの教えに比して取り立てて驚くほどのものではありません。

われわれが理解を求めているのは、古い教説との矛盾ではなく、その完成です。より完全に近づけることです。より広き知識への発展です。

昔は昔、今は今の発想の転換が必要

イエスがその新しい信仰を説いた時の時代的背景をよく考察すれば、多くの点において今日と共通したものが見出せるでしょう。

くり返すことになるが、かのパリサイ派の形式主義やサドカイ派(5)の無関心主義に比して、イエスの教えが取り立てて驚くべきものではなかったように、れの説く教説は決して、今日宗教として流布しているものに比して取り立てて驚くべきものではありません。

当時は当時なりに新しい啓示を必要とし、今日は今日なりの新しい啓示を必要としているのです。ただ、古いものを愛し、慣れ親しんだ道に波風が立つことを望まない者にとってはわれわれの言説が忌々しいものであるように、当時の宗教家にとっては、イエスの教えが怪(け)しからぬものであったまでのことです。

今も同じであるが、当時その時代的要請に合わせて授けられた啓示のまわりに夾雑物がこびりつき、せっかくの啓示が意味も生命もない、ただの宗教的儀式の寄せ集めとなり果ててしまいました。以来、久しく神の声は聞かれることがなく、人間は新たなる啓示の出現を待ち望みました。今日とまさに同じです。

古い信仰は死物と化し、人間は新しい生きた神の声を欲したのです。それがイエスによってもたらされました。想像もしなかった人物 – およそ学究的パリサイ派からは敬意を払われず、傲慢なサドカイ派に容れられる見込みのない人物から、神の声がもたらされたのです。

そして、それが全世界に広がり、1800年間にもわたってキリスト教界の宗教的生活を動かしてきたのです。しかるにその教義は、今や堕落し果てています。

ただ、イエスが身をもって示した犠牲的精神は今なお生きつづけております。今こそ要請されるのは、その精神に新たなる息吹きを吹き込むことです。そうすれば、金科玉条と思い込んできた夾雑物が取り除かれ、取り除かれた分だけ一層、真理の輝きを増すことでしょう。

われわれの説く神の真理は、あの時代 – 地位と身分のある教養人すなわちパリサイ派の支配階層の中にひとりでもお前の言うことを信じる者がいるか、と冷笑的に言われた時代 – そういう時代にイエスが説いたのと同じく、そなたたちにとっていささかも奇異なるものではないはずです。

どちらも連綿たる同じ真理の流れを汲むものであり、それを希求する者の要求と渇望に合わせて説かれているにすぎません。ニコデモ(6)の気持を察するがよい。そして、それをそなたらの時代の同じ立場にある人々のそれと比べてみるがよい。

ユダヤの死せる信仰に新生の息吹きを吹き込み、神の概念をより鮮明に啓示した同じ霊力が、今まさに瀕死の瀬戸際にあるキリスト教信仰に新しい生命を吹き込み、エネルギーと活力とを蘇らせることができることを信じるがよい。

全知全能の神の導きと祝福のあらんことを。

†インペレーター

[注釈]

(1)ここでは祈りの功罪の“功(プラス)”の面が強調されているが、祈り方次第で“罪(マイナス)”となりかねない要素もあるので、それを指摘しておきたい。

これは“時間”が長すぎることから生じる人間特有の危険性で、グループで行なう場合はそれほどでもないが、ひとりで行なう場合はせいぜい20分から30分もすると心身ともに緊張度が衰えはじめる – 言いかえれば波動が乱れてくるために、そこに邪霊がつけ入るスキができる。

その単純な反応が手先のシビレ、全身の震動などで、霊能養成会などですぐにそうした動きをみせる人がいて、本人は得意になるが、実際は低級霊のしわざか、存外、本人の潜在意識による暗示の反応にすぎないことが多い。要するに自己顕示欲の強い人である。

同じ原理に基づくものとして、座禅とか瞑想とかがあるが、こうした行を頭から“立派なこと”と思い込んで1時間でも2時間でも、場合によっては1日中座っている人がいるが、それがやむにやまれぬ事情のもとでの、真剣な動機に発するものであればよいが、心のどこかにカッコ良さを求める安直さがあると、邪霊・悪霊の影響を免れるどころか、逆にその“えじき”となる危険性があることを指摘しておきたい。

憑依されて体調を崩したり、精神病的な症状を見せるようになった人が少なくないのである。

私の師の間部詮敦氏は、ひとりで精神統一をする時は15分程度を目安にして、気持が良ければもう少し延ばしてもよいが、落着かない時はすぐに止めるように、と忠告されていた。

シルバーバーチ霊は、祈る気がしない時は無理して祈らない方がよいとまで言っている。理由は同じである。ご承知の通りシルバーバーチは“日常の行ない”をいちばん重要視している。

インペレーターも同じである。その一方で両者とも祈りないしは瞑想の時をもつことの必要性を説くのは、人間があまりにも、ただ生きるための生活、つまりはカネ儲けのためだけに終始し、しかも、そのことから生じる“どうでもよいこと”にあくせくしているからである。

それで、1日のうち1度でよいから、そうした俗世のことを忘れて、本来の霊的存在としての自分に立ち帰りなさい、と言っているのである。

(2)シルバーバーチが“真理とは自己矛盾を含むもの”と表現しているのと相通じるもので、要するに“甲の薬は乙の毒”の例えの通り、同じものを万人に押しつけることはできないことを言っている。

われわれはお互いに異なる進化の段階を歩んでおり、それぞれに異なる環境のもとで生活しながら、その条件下で霊性の向上を目指す – それが宗教なのであるから、組織を作り、同じ規範のもとに生活する、いわゆる宗教団体というのは、霊性の進化にとって害にこそなれ益にはならないことになる。

考えてみると、われわれの生活にはまず家庭があり、市があり、県があり、国家がある。これは社会秩序を保つための不可欠の組織である。このほか、学校にしろ役所にしろ会社にしろ、すべて一種の組織であり、それなりの束縛がある。せめて魂の世界だけは自由闊達でありたいものである。

(3)ルカ 24・5

(4)ヨハネ 8・32

(5)the Saducees パリサイ派と対立するユダヤ教の一派で、モーセの律法を字句どおりに解釈し、霊魂の存在は認めなかった。

(6)ユダヤ議会のメンバーでありながらイエスをひそかに信奉し、処刑後、没薬(もつやく)と香油を持ってきイエスの亡骸が野犬や禿げ鷹の餌食になるのを防ぐ処理を施したという。(G・M・エリオット著・山本貞彰訳「聖書(バイブル)の実像」)

「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†■2024年3月6日UP■
「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†
まず僕はいつものようにインスピレーションに備えてトランスを維持しています。(目は閉じた状態)すると突然僕の左肩に誰かが手を置きます。ちょうど僕のうしろから肩を叩かれて呼び止められたような格好です。で、僕は左後方に振り向きます。するとそこには全く知らない女性が満面の笑顔で立っています。ヨーロッパ系の女性のような感じでした。カラーリングの基調はゴールドで超鮮明な容姿でした。(香世子さんではありません、それだけは間違いありません)はい、今のこのお話は肉体のお話ではありません。この時、僕はふとんの中で目を閉じ、身体(肉体)はピクリとも動かしていません。しかしハッキリ左肩を叩かれ、左後方を振り向き、超鮮明な女性の笑顔を見たのです。全ては霊体でのお話です。※僕がその女性に向かって「あなたはどちらさま?」と言ったという事ですよ。そしてこの女性の件があった時、僕はトランスを維持しながら「自動書記の嘆願の祈り」を心の中で唱え続けていました。その僕の祈りを受けて女性が満面の笑顔で肩を叩いてきたのです。これはまるで「あたしが自動書記やるわよ」と言っているかのようなシチュエーションとなります…続きを読む→
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†■2023年11月15日UP■
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†
肉体は自動的に朽ち果てるようにできていますから、その肉体をまとっての人生で幸福を得ようと考える事がそもそも本末転倒であり近視眼の極致であり、歳をとる事もなく傷つく事もない永遠の若さを保っている霊体をまとっての霊界人生の方に真実の幸福があるのは至極当然の事であり、その霊界生活に備えて物質界で自分を鍛えなければならないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらはその「物質界の学び」を全てキャンセルしてワガママ放題で生活し、仕事もせず奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいます。つまり物質界で学ぶべき事を一切学ばずに帰幽する、霊界生活に何の備えもできていない人間という事になるのです。何の備えもできていませんからもちろん霊界生活に順応もできません、高級霊の方々から仕事を言いつけられる事もありません資格がないのですから。全く役立たずの人間、何の使い道もありませんから当然暗黒の底の底に落ちてそこで反省させられる訳です。それも物質界での苦しい期間をはるかに超える長い年月にわたって暗黒の中で悶絶する事になるので…続きを読む→
「何とも言えぬ光景だった」上層界から使命遂行を眺めての感想ですが、過去形で言うな(祈)†■2023年6月28日UP■
「何とも言えぬ光景だった」上層界から使命遂行を眺めての感想ですが、過去形で言うな(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に落ちるのは自己責任、アキトくんには何の責任もないし、キミが物質界生活中にこの者たちを滅ぼさなくても自動的に肉体が朽ちて帰幽して地獄に落ちるのだからどちらでも結果は同じである。奴隷の女の子たちに関しても自ら犯した過去の大罪の罪障消滅を目的として物質界に降下した人間なのだから、苦難の人生をやらされるのが当たり前(自己責任)それを助けてあげたら本人のためにならない、アキトくんの気持ちは分からないでもないが帰幽して我々(イエス様)と同じ視点から眺められるようになれば納得できるであろう。つまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を物質界生活中に滅ぼせなくてもそれは別にアキトくんの努力不足ではなく、奴隷の女の子を助けてあげられない事もキミのせいじゃない。我々(イエス様)は絶対的有利なポジションに立っているので、その人間たちをアキトくんの霊的進歩向上に大いに活用させてもらった…続きを読む→

インスピレーションで僕の霊聴に実際に日本語で語る担当の霊が数人いて、その数人は霊団上層部の指示を受けて僕に伝えるべき内容を日本語に変換して僕に分かるように降らせてくるという仕事を長年やっているものと思われるのですが、その霊団の声の中に聞き慣れないものが混じるようになっています。

ボイスボックス(肉体の声帯をエクトプラズムで拵え、そこに霊体の口をあてがって地上時代とそっくりの声で話す霊現象)で僕に語りかけているのではなくインスピレーションですから、声色などどうとでも操作できるはずで、いつもと違う声が聞こえたからと言ってあまり過度に気にする事はない、それより内容を重視すべきだと思うのですが、明らかに性格の違う事を言われています。(違う人物に思えるという意味)

モーセ氏のDVDを観て以降にこの変化が起こっています。僕はこのDVDは霊的にはあまり価値がないと判断していますが(霊関連書籍の方が断然価値は上)僕の予測では霊団内に新たな高級霊の方が参加しておられるとか、そういう事ではなくて、そういう空気感を演出する事によって僕を目くらましして何だかんだ言って僕を閉じ込め続ける事が目的だと思われます。

とにかく物質界の邪悪の事など何も考えていない、もはや霊団は僕を一生最悪の中に閉じ込める事以外何も考えていないと断言してもイイような事を言われているからです。その目的達成のための目くらましの声だと僕は思っているのであまり真剣に聞かないようにしているのですが、しかし言われている事は僕に突き刺さる内容なので困っているという状態です。

「I Appeal Unto Caesar」70%完成中「モーゼスの霊訓 下」98%完成中。間もなく「Paul In Athens」の作業にも突入します。そしてストーリーのネームは完成していますのでそろそろ線画を描き始めます。時間が足りない。あの最悪のところから脱出して作業時間を増やす事ができればモチョト使命遂行がスムーズに進行するはずなのです。脱出は何と言われても決行する。「感情と手は別レイヤー」ですから作業は続行中(祈)†

「じゃあねー♪」霊団が僕から離れるのだそうです、別にそれでイイですけど(祈)†■2023年9月27日UP■
「じゃあねー♪」霊団が僕から離れるのだそうです、別にそれでイイですけど(祈)†
「帰幽後に霊界で賜る霊的褒章」を人生目標としている僕にとっては、この霊団が降らせる物的苦難を乗り越えた先に得られる霊的喜びは想像を絶するものがあり、大いに耐え忍ぶ意味があるという事になるのですが、何かが引っかかるのは僕だけなのでしょうか。僕個人の霊的進歩向上の事は考えてくれているようだが、物質界の邪悪を滅ぼす気は全くない、強姦殺人され続けている奴隷の女の子たちの事など見向きもしない、この霊界上層界の人間たちの思考回路は一体何がどうなっているのか。やはり僕が公言している「物質界は地球圏霊界の刑務所」という言葉は正解だと思います。刑務所の生活環境を良くしてしまったら刑務所として機能しなくなってしまいます。やはりコイツら(霊団)は物質界の問題を解決するつもりが本当にないんじゃないのか。ただ僕のようにできるだけ多くの人間を向上させようとしている、そちらが上位の目的であり、物質界の邪悪性はその向上のためのトリガーとして必要だから改善させる訳にはいかないという事なのではないか…続きを読む→
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†■2023年6月21日UP■
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†■2024年4月17日UP■
「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†
訳者、近藤千雄先生が著書の中で何度も書いておられる事ですが、そもそも「守護霊」という言葉が間違いなのだそうです。この言葉はさも「人間を守ってくれる」かのような印象を与える言葉ですが、実際の守護霊の役割は全く逆で、守護を任された人間の罪障消滅をキッチリ完了させるために試練に立ち向かわせるのが仕事であり、守るどころか苦しめるのが仕事と言ってもいいくらいなのです。そういう意味では「守護霊」という名称より「監督霊」と言った方が正しいと近藤先生は仰っていました。僕も自分の体験からそのように思います。僕の守護霊様は僕が自発的に試練に立ち向かうようにウマく、本当にウマく仕向けました。そして僕は画家の試練Dreamworkと、山での修行というダブルの試練を自分に課す生活に突入し(イヤイヤやらされたのではなく自分の意思でノリノリで始めたのです)急速に向上を果たして一気に霊性発現にまで到達したのです。僕は守護霊様の事を「導きのプロ」と公言していますが、とにかく守護霊様は「やり方がウマすぎた」大大大Dai成功だった、という事です。それで霊団はムカついているが守護霊様は尊敬し永遠の恭順を誓うと言っているのです…続きを読む→

240821十戒DVD01

DVD2枚組、計4時間を観終わりましたが、ウソを書く訳にはいきませんので(この作品のファンの方には申し訳ありませんが)霊性発現を果たして12年間にわたって霊現象に浴させて頂きながら人生を送ってきた僕が、この作品を観ての正直な感想を述べさせて頂きます。

えー、まず演出面がイマイチと感じました。このストーリーを見ながら「僕ならこのシーンはもっとこうやってああやって、そうすればもっとおもしろくなるのに」とか思いながらフラストレーションの中で4時間を過ごした訳ですが、この映画(DVD)はエンタテイメント作品ではない、旧約聖書を忠実に映像化したモノだと考えるべきなのかも知れませんね。

大昔の事ですから記録もほとんど残されていない中で数少ない資料をもとにストーリー展開を考えておられるのでしょうから、事実と違う事をアレコレ盛り込む訳にもいかないという事情もあっての事なのかも知れません。おもしろいストーリー展開にするために事実に反するシチュを次々挿入とか、そういう事はできないのかも知れません。

で、演出面はそういう事情等もあり仕方ないとして僕がもうひとつガックシさせられたのが「霊的内容の記述がほとんどない」という事です。イヤ皆さまは「有名なあんなシーンとかこんなシーンとか、霊的展開が十分盛り込まれているじゃないか」と思われるのかも知れませんが、僕的にはハッキシ言って不完全燃焼でした。

というのもモーセ氏と言えば地球圏霊界に燦然と輝く偉大な霊覚者ですから、その物質界生活時の様子は徹頭徹尾霊的展開だったはずなのです。それを考えた時、このDVDは霊的内容が薄すぎる、事実に反すると僕は感じたのです。

例えば、モーセ氏は大勢の民を率いて砂漠、荒野を40年間も放浪の天幕生活をしておられた訳ですから(出エジプト記、ですか?読んだ事ないんですけども…)その間の食糧問題はどうするんですか。みんなを食べさせなきゃいけないでしょ。

その時イエス様もおやりになった「数匹の魚を何千匹に増やした霊現象」を当然やっているはずなのです。数枚のパンを何千枚に増やして皆に食べさせていたはずです。絶対にやっているはずです。逆に考えてみて下さい。砂漠のど真ん中で食べるものが何もない大勢の人間たち、このままでは暑さと飢えで死んでしまう、そのとき人間は生き残るためにどうしますか。

十戒に「人を殺してはならない」って書いてあるのに仲間同士殺し合いの人肉喰いになるに決まってるじゃないですか。モーセ氏の霊団は十戒を降らせて正しい生活を人間に説いているのに十戒の内容と正反対の状況が発生してしまうんですよ、そこは霊的に解決するに決まってるじゃないですか。もっとも「モーセ五書」にはちゃんと書かれていてDVDの中にはそのシーンがなかっただけなのかも知れませんが。

さらに、荒野をさすらうという厳しい生活で、しかも幼い子供や老人もたくさんいます。ケガや病気も多発していたはずです。そうなればイエス様もヘリと一緒に砂漠の民と生活していた時に砂漠の民たちを治療していたように、モーセ氏も心霊治療家として民を治療したり、治療しきれない時は安らかに帰幽させてあげたりしていたはずなのです。これも絶対にやっていたはずです。

そういう霊的シーンが全然ないじゃないですか。これはおかしい、という事になるのです。これもやはり「モーセ五書」にはちゃんと書かれている、僕が知らないだけという事もあるのかも知れませんが。

とはいえDVDの中に数が少ないですが霊現象と思われるシーンがいくつか登場します。が、そこに霊的説明を入れてくれよと、僕はスゴク言いたいのです。

何だかよく分からない感じでボンヤリそのシーンが過ぎ去って次のシーンに強制的に切り替わるみたいな感じで「イヤイヤ、今のは霊団のこういう方がこういう風にモーセ氏を使用して起こした霊現象で、この時はエクトプラズム量が不足していたので長時間はできなかった」とか、そういう解説のアナウンスが挿入されるべきだと思うんですよ。じゃなきゃ観てる側(僕たち)が分かんないじゃないですか。

ちなみに補足ですが、インペレーター霊によりますと「モーセ五書」はモーセ氏本人によって書かれたモノではなくて後世の人間が書いたものなのだそうですね。で、その書いた人間が霊的な事をあまり分かっていない人間だったとしたら、そういう霊的記述がスッポリ抜け落ちた書籍になっているという事は十分に考えられます。

つまりこのDVDのストーリーはそもそも正確ではない大昔の書籍を参考にして制作された不正確なストーリー、という事になると思いますので、あまり作者を責めるような事を言うのは酷だと思うのですが、たぶんこの映画の作者は霊関連書籍(つまりスピリチュアリズム)にあまり、イヤほとんど精通しておらず聖書のみを参考にしてこのストーリーを書いたのではないかと予測されます。

だから霊的説明がほとんど入っていない、つまり霊的知識としても頭に入っていなかったし自身が霊性発現している訳でもないので霊的体験もない、なので霊的ストーリーが書けるはずもない、知らないんだから、という事なのではないか、と思ってみたりみなかったり。

インペレーター霊が聖書の間違いをたくさん指摘して下さっています。僕たち物質界で生活している地球圏霊界の幼稚園児はインペレーター霊の言葉に何としても耳を傾け、間違った情報に毒されず正しい霊的知識を獲得するよう努めなければなりません。そういう意味ではこの映画の作者の方に申し訳ないのですが、霊的な事をお勉強したいと思っておられる方には僕はこのDVDはオススメしません。

このDVDを観るより「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍を通読した方がはるかにはるかに正確に霊的知識を獲得できます。それは僕が絶対の自信をもって断言させて頂きます。イヤ、あの、お安いので1枚手元に持っておくくらいはイイんじゃないでしょうか、とフォローを入れたりなんかして。

ハァァ、夏休みの読書感想文の状態になってしまいましたが、観た所感を僕なりに正直に述べさせて頂きました。不完全燃焼、霊的記述がペライ、もっと霊現象を盛り込んでくれ、ちゃんと霊的説明のMCを挿入してくれ、という感じですね。

ハァ疲れた、テキストの作業およびアナログ絵ストーリーの描画を進めます(祈)†

[本質においてプライベートな内容のものを公表するのは、決して私の本意とするところではないが、それを、あえてこうした形で公表するのは、1人の人間の思想的遍歴が他の大勢の人たちの経験となることも有り得るであろうし、私がたどってきた精神的および霊的な葛藤の過程が、同じような過程をたどりつつある人たちにとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、霊による宗教上の教えに関する通信が途絶えていたが、私の胸には、以前にもましてさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせてもらった。

当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んでは途方に暮れ、茫然(ぼうぜん)自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして、私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”だった。

その時の私の考えでは、霊の教説をうんぬんするよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。また、それくらいのことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えてもらえないことに焦燥を覚えたのである。

今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時(1873年7月)の私には理解できなかったのである。

さらに私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが、決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく、かつ、いい加減なものであるという印象を拭い切れないことだった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者の方が上だった。

また私には、霊の見解の中に大きな矛盾があり、いろんな思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもそのほとんどに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。

内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私は、さきに述べた疑問点を書き連ねた。それは、主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、およびスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものだった。次に掲げるのがそれに対する回答である – ]

神の啓示も人間を通じて届けられる

友よ、ふたたびそなたと対話を交えることをうれしく思います。そして、たとえこの機会にそなたの質問のすべてに答えることができず、またすべてを解決し得ずとも、神と人間との関係、ならびにわれわれの使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを正すことができるでしょう。

そなたの誤解の根源は、神および神と人間との関係についての間違った概念にあるように思えます。人類の歴史を通じて、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはありません。

が、人間がその啓示を理解しようとするうちに、愚かにもその本性と働きについて、真実から大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するにいたりました。

太古においては、そのお粗末な概念は何らかの物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬(いけい)され、叶えられなかったら即座に捨て去られることの繰り返しでした。

当時の人間は、目の前の物体そのものには何の霊力もなく、背後に霊が控えていて、筋の通る祈りは叶えてあげようとしている事実を知りませんでした。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのです。目に見え、手に触れるものにしか、神の概念を託すことができなかったのです。

この点を“とくと”注意してもらいたい。“彼ら自身の神の概念”を託したのです。神そのものではなく、彼らが精いっぱい想像した未熟な概念だったのです。いい加減な占いの結果からお告げを引き出し、それを基準にして勝手な祭礼の規範をこしらえ、あげくには、それをもって神まで裁くにいたりました。

自分たちの想像した神を裁いたのです。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えました。人間から切り離せない幾つかの弱点を、神も有するものと考えたのでした。

こうして出来あがった神は、何よりもまず、おのれの名誉の維持に腐心する神であり、ときに我慢づよく、ときには優しい慈悲心をもつ神でした。しょせんは神を語る者自身が、神はかくあるべきであると“想像したもの”だったのです。

要するにそれは栄光を授けられた“人間”、普遍絶対性と全知全能をそなえた“人間”だったわけです。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならばこうするであろうと考えたのでした。

かくして、いつの時代にも、神の概念にはその時代の特色が反映しているわけです。それは、しかし、人間の成長とともに進歩します。その知的発達と人間性の洗練の度合に応じて進歩したものとなっていきます。

ほかでもない、その通路となる霊媒(霊覚者)が無知の足枷から解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神についての正しい概念を把握することが可能となるからです。

人間の受容度を超えたものは届けられない

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるという事実は、これまでもたびたび述べてまいりました。当然そういうことになるのです。神も、人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示できないのが道理だからです。

それは、そなたには奇異に思われ、理解することは不可能でしょう。ゆえに、これ以後も、われらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入してまいります。そして、いずれは現在のそなたの概念の誤りに気づいてくれる日も来ることでしょう。

が、今はまだその時期ではなさそうです。神について人間各自が抱いている概念がすなわちその者にとっての絶対的な神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対に有りえないのです。事の本質上、それは不可能なのです。

それゆえ、そなたが神の働きの真意にまで言及して「そのような絶対に有りえない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神もそのような行為に出られなかったからである」と述べるということは、言い変えれば、「私の神の概念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の概念を受け入れるわけにはいかない。私の信じるところによれば、私の神はそのような態度を取られるはずはないからである」と述べていることになります。

われわれが指摘せんとするのは、まさにそこです。そなたは自分で自分の神をこしらえ、自分がふさわしいと考えるとおりの働きを、神に強要しているのです。そのうち – この地上にせよ、死後にせよ – そなたの視野が広がるにつれて新たな光が射し込み、「なるほど自分は間違っていた。神は自分が想像していたものとは、まるで違う。なぜあのような愚かな概念を抱いていたのだろう」と述懐する日も到来することでしょう。

これは、すべての進歩的人間に言えることです。その目覚めの時は、かならずしも地上生活中に到来するとはかぎりません。ある者は死後の新たな生活まで待たねばなりません。

が、この地上において洪水のごとき知識の恩恵に浴する者もいます。魂が古い信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求めます。干天の慈雨のごとく、生命を生き返らせる何ものかを求めるのです。

さて、そなたはそなたなりの啓示を得られた…いや、今まさに手にされつつあるところです。見方によれば、これはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の概念の入る余地ができたしるしと言えるでしょう。

さらに見方を変えれば、外部から新しい豊かな神の啓示 – 人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示 – が流入したと考えることもできましょう。

それはどちらであっても構いません。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にあります。受容力がそなわるまでは知識は授かりませんし、精神がその不足を意識するほどに進化するまでは、より高い啓示は得られません。その理由は単純です。精神そのものが啓示を受ける通路だからです。

バイブルの神は未熟な人間の精神の産物

そなたが抱いている神の概念は、すべて、人間の精神を濾過器として地上にもたらされてきたものです。神を求める人間的渇仰が具象化したものです。未熟な精神の産物であり、その精神の欲求はかならずしもそなたの真実の欲求とは一致せず、したがってその神は、というよりは、神についてのその見解は、そなたにとっては違和感があります。

それをそなたは何とかして自分の思想構造に適合させんとしておられるが、しょせん、それは叶わぬことです。何となれば、その概念たるや、発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからです。

よく考えていただきたい。そなたは、われわれの述べるところの概念が、そなたが“聖なる記録”から引き出す概念と相容れないことを理由に、われらを神の使徒とは認めないという。

ではお尋ねするが、われらの説く神は、いったいどの神と異なると言うつもりであろうか。アダムとともに人間の姿で地上を歩き、何も知らない者たちの犯した罪 – 今ではささいな過ちにすぎないとされている罪 – に恐ろしい報復をしたと、まことしやかに語られている神のことであろうか。

それとも、忠実な友にそのひとり子を供物として捧げることを命じたという神のことであろうか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍とともに戦場におもむき、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上ない法律と法規とを発令したという神のことであろうか。

もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。

それとも、自分が選んだ民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後100年にもわたって手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことであろうか。

さらに、われわれの教えは、バイブルの大予言者たちの説く神々のいずれと相容れないというつもりであろうか。イザヤの神であろうか。エゼキエルの神であろうか。それともエレミヤの病的な心の産物である、あの陰気な神のことであろうか。

それとも、かのダビデの神 – 半ば慈父のごとく、半ば暴君のごとく、残忍さと寛大さとを交互に見せ、つねに矛盾と不合理に満ちた神のことであろうか。それともヨエルの神であろうか、ヨハネの神であろうか。

それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢のごとき物憂(ものう)げな天国等々の幻想のことであろうか。それらのいずれと矛盾するというつもりであろうか。パウロかヨハネか、はたまたイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にも、その時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされております。言い換えれば、神の概念は、鮮明度の差こそあれ、それを受けた霊感者の考えであったと言えます。

精神に印象づけられた霊示が、その霊感者を取り巻く精神的環境によって形を賦与されていったのです。すなわち、その霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが当人の考えによって形を整えたのです。

真理のすべてを授かった者は1人としておりません。みな、その時代、その民族の特殊な要請にかんがみて、必要な分量だけが授けられたのです。今も引き合いに出したように、神の概念が種々様々であるのはそのためです。

むろん、われわれと、われわれの説く神とは、ヨシュアとその神とは異なります。パウロとその神とも違います。もっとも、神なるものを最も正しく理解し、その真近かで生活したイエスによって、何も知らない民に寓話に託して説かれた曖昧な神の概念を、われわれの説く神と同列に置いて比較しようとは思いません。

イエスは、弟子の誰よりも鮮明に神を認識しておりました。その説くところは、きわめて単純にして平易であり、そして真摯(しんし)でした。その神の教えもまた、平易そのものでした。“天に在(ま)しますわれらが父” – 無知な人間が勝手に神の属性ときめつけ、他愛ない要求を神に押しつけている神学上の教説に比して、これはまた何という違いでしょう!

神!そなたはまだまだ神の何たるかをご存知ない!そのうちそなたも、その目をさえぎるベールの内側に立った時、それまで愚かにも想像していた神の概念の誤りを知って驚くことであろう。

真実の神は、およそそなたが想像しているものとは異なります。もしも神がキリスト教の説くとおりのものであるとすれば、その神は、創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけた傲慢無礼なる人物に報復すべきところです。

神の本質は人間の理解力を超えている

が、神はそのようなものではありません。人間の哀れな奴隷根性などで捉えられる性質のものではないのです。神はそうした卑屈な想像しかできない愚昧な人間の無知を哀れみ、赦されます。けっして咎めだてはなさいません。無知は、故意でさえなければ、けっして恥ではありません。

が、神は、低劣な概念をいつまでも御生大事にする愚かさ、おのれの偶像を宿す暗くカビ臭い心に、新たな光を入れようとしない態度をこそ、お咎めになります。

闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟な幻想にしがみつき、イエスの説いた単純素朴にして雄大な神に美を見出すことができずに、その崇高な概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木しないと承知できない者たちをこそ咎められるのです。

それ以上の崇高な教えを受け入れられない者は今なお、けっして少なくありません。が、まさかそなたはその1人ではありますまい!

もしもそなたが、軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしては次のように答えるほかはありますまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような、腹を立て嫉妬するような人間的暴君に仕立てた、古い不愉快きわまる教説とは大いに矛盾するであろう。

が、イエスを通じて授けられた神聖そのものの啓示とは完全に軌(き)を一(いつ)にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手な欲求によって堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けさせるに至ったのである(2)、と。

もしもわれらの述べる神、および死後の生命についての言説に何ひとつ心に訴えるものを見出しえないとすれば、それは、そなたの魂が、かつて喉を潤(うるお)した雄大にして単純素朴な概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ありません。

多分そなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間をさえぎる暗雲が、そなたに恐ろしい影響を及ぼしつつあるということであるに相違ありません。願わくばわれらがその暗雲を取り払い、今一度、感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことができればと思います。

永遠に拭(ぬぐ)いきれない危害がそなたに及ぶとは危惧しておりません。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思いません。それも無益ではないでしょう。

“悪魔”も人間の産物

さしたる意味もない、ささいな問題に囚(とら)われることは止めることです。大きな問題、神についてのより明瞭な啓示の必要性、神およびわれわれ使徒について今地上にはびこっている冷ややかな無関心と無知の問題、われわれが明かす生命躍如たる来世観を十分に検討してもらいたい。

想像の産物にすぎない“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることです。真摯な心の持ち主、純真な心の持ち主、誠意ある心の持ち主にとって、神学がまことしやかに説く悪魔も魔王も存在しません。悪は近づけないのです。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となるのです。

そのまわりは天使によって保護され、明るい霊の支配を受け、進むべき正しい道へと導かれます。彼らの前途には限りない知識と、彼らの知性を高揚し気高くするものが待ち受けております。

悪魔などは、みずから創造しないかぎり、恐れるに足りません。善性への親和力が善なるものを引き寄せるからです。まわりには守護にあたる霊たちが控え、みずから求めぬかぎり、邪霊の餌食(えじき)とはなりません。

と言って、悪の誘惑や罠(わな)が特別に免除されるというのではありません。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることはできません。魂が悲しみと懊悩(おうのう)の暗雲におおわれ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れません。すなわち、辺りに見る不幸と悪におのれの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあるでしょう。

が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは、絶対にありません。そうした懊悩も悲しみも、良心の呵責も、しょせんは魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上していきます。

それは進歩の手段として背後霊が用意した試練であり、ゆえに細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのです。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏った者のみが、肉体を捨てたのちもなお肉体的欲望を捨てきれない同質の未発達霊を引き寄せるのです。悪の侵入の危険性にさらされているのは、そうした類いの人間のみです。その性癖そのものが悪を引き寄せるのです。

“招かれた悪”が住みつくのです。そうした人間が地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのです。

さきに、そなたは軽率にも、霊界通信なるものがいい加減で益になるとは思えないと述べたが、それはすべて、その種の低級な邪霊の仕わざなのです。

人間的愚かさが悪を生む

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級な人間がみずから招いている低級な霊の仕わざをもって、われわれを咎めてはなりません。咎められるべきは、聖純なものや高尚なものを嫌い、低俗にして下劣なものを好む、他愛ない人間的愚行の方です。

かの愚かな法律をまず咎めるべきです。単なる慣習と流行によって助長されたにすぎない愚行と罪状によって行く手を阻まれ、堕落の道へと引き下ろされた数多くの人間を、何の予備知識もないまま死後の世界へ追いやる法律を、まず咎めるべきです。

さらには酒場、精神病院、牢獄、そして、そういうものによって増幅された情欲と悪魔のごとき強欲(ごうよく)を咎めるべきです。無数の霊が永遠に火刑に処せられるとは、実にこのことです。キリスト者が想像した物的な炎ではありません。死後もなお消えやらぬ強欲が、炎のように魂を焼き続けるのです。

燃えるだけ燃え、その強欲を焼きつくせるだけ焼きつくして、ようやく魂が清められるのです。さよう、咎められるべきは、善霊を偽って人間をたぶらかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる、低級霊たちです。

これ以上のことは又の機会としよう。すでにわれわれは予定していたもの以上のことを述べました。それに、わたしの耳に、神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえます。これより、わたしもその礼拝の儀式に参列することになっております。(3)

願わくばわたしの祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこから流れ出る御恵みの流れのひとすじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がその悩める魂を癒やし、慰めとなるよう祈ります。

†インペレーター

[注釈]

(1)John Calvin 16世紀のフランス生まれの神学者。スイスにおける宗教革命家。カルビンとも。

(2)イエスの実像に関しては本書のいたるところで述べられており、端的に言えば、インペレータ霊団はイエスとバイブルに関する誤った認識を改める作業を通じて基本的な霊的真理、いわゆるスピリチュアリズム思想を説くことを使命としていたと言えよう。

それと同じことを英国の元牧師のモーリス・エリオットが心霊科学とスピリチュアリズムの観点から行なった著作が、同じく元牧師の山本貞彰氏によって翻訳され、『聖書(バイブル)の実像』のタイトルでコスモ・テン・パブリケーションから出版されている。

新約篇と旧約篇とがあり、その内容は本書で述べられていることと完全に一致している。とくにバイブルが原典から翻訳される際の誤訳にまで言及しているところは、学問的な説得力がある。

たとえば、“マグダラのマリヤ”といえば売春婦だったというのが通説だが、“マグダラ”という用語には“癒やされた”という意味があるという。つまり、イエスによって奇跡的に癒やされた女性で、それがきっかけで生活物資の面でイエスを援助したというのが真相らしいのである。

その他、イエスとバイブルの実像が納得のいく形で鮮明に描き出されていて、キリスト教に関心のある方にとって画期的な必読書といえる。

(3)これはシルバーバーチの霊言の中にもたびたび出てくる霊界の上層界での行事のことで、世界各地で行なわれている地球を霊的に新生(スピリチュアライズ)させるための活動、いわゆるスピリチュアリズム活動の指導霊が一堂に会して行なう、審議と祈りの集会のことである。

が、これ以外にも、上層界へ行くほど讃仰(ごう)の祈りがしばしば行なわれているらしい。参考までに2つの例を挙げておく。

ひとつは“コスモのテン・ブックス”の1冊となっている『妖精世界』の著者ジェフリー・ホドソンが霊視したもので、それを日本のスピリチュアリズムの先駆者・浅野和三郎氏が「心霊と人生」誌に訳出しておられるので、それを漢字・かなを一部修正して紹介しておく。出典は Coming of the Angels。

≪天使たちは太陽を全組織の大中心、一切の生命の大本源と考える。ただし、天使たちが太陽について抱く神秘的な意義は、一般の人類には十分にわかっていない。太陽は実に最高級の天使たちの大本営であり、それより以下のすべての天使、すべての自然霊にとって、実に憧憬・渇仰の中心なのである。一切の活力、一切の指導方針はみなそこから賦与される。

むろん最高級の天使においては、全組織の中に遍在する霊気と合流融合してしまっているから、外部的に具体化した神の姿を特別に崇拝することはしない。彼らは万有に宿れる神と合一し、彼らにとって神は随所に存在するのである。要するに神とは力・光・生命および意識の没人格的大中心なのである。

しかし、それは最高の理想の境地であって、その域に達することは、わずかに少数の天使たちにのみ可能である。ふつうの天使はみな、太陽を崇拝の中心とするのである。

これがため、彼らは時として地界から遠く離れた天空に留まり、各自の神格に応じて、秩序整然たる幾重の円を描いて、感謝と祈願の誠を捧げる。円の層は一段また一段と次第に高くなり、末は渺茫(びょうぼう)として無形の世界へ消える。

天使たちの身体はいずれも光り輝いているので、かくして造られた集団は、宛然(えんぜん)、生きた光のさかずきである。すべての心は愛と絶讃とに満ち、すべての眼は、生命の本源たる日の大神にさし向けられ、それらが渾然(こんぜん)融合して、ここに清き尊き力の凝体ができ上がる。

その中から奔流のようなすさまじさをもってほとばしり出る光の流れは、上へ上へと上昇して太陽神の御胸に達する。

俄然として虚空にいみじき音楽が起こる。礼拝者たちの胸の高鳴りが加わるにつれて楽声もまた強さを増し、ここに歓天喜地の、光と音との、世にも妙(たえ)なる世界ができ上がる。

それにつられて、いかなる天使も、日ごろ住むおのれの領域よりはるかに高き境涯に進みのぼりて、太陽神の荘厳無比の御姿を目(ま)のあたりに拝するのである。

かくて全てが随喜渇仰の最高潮に達した瞬間に、大神の御答えが初めて下される。それは黄金の光の洪水となって、すべての天使の魂にひしひしとしみ込む。前後左右、天上天下、辺りはただ澎湃(ぼうはい)たる光の海。

そしてその真っただ中に、いちだん清く、強く、そして美しき日の大神の御姿が浮かぶ。むろん神の御姿は見る者の霊格によってそれぞれに異なる。いかなる者も、自己の器量だけしか拝むことはできないのである。≫

もうひとつは、ジョージ・オーエンの霊感書記通信『ベールの彼方の生活』の中で、アーネルと名のる通信霊が、暗黒界の探訪を終えて、その報告のために上層界に戻ってきた時の体験をこう綴っている。

≪その界を取り囲むように連なる丘の上でわれわれは一団の出迎えを受けました。みんな大喜びでわれわれの帰還を待ちわびており、みやげ話を熱心に聞きたがりました。

そこでわれわれは、いっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ“聖なる山”の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて“聖なる山”をのぼり、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。

そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来てみると、そこに大群集が集まっており、跪(ひざまず)いて、姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。

われわれはそこを通り抜けて最後部で待機していたのですが、われわれの動きに一べつすらくれる者は1人もいませんでした。

地上の人間は真の静寂というものを知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。が、あの大聖堂での讃仰の祈りの時は、まさしく静寂そのもので、荘厳さと畏敬に満ちておりました。≫

「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†■2024年4月3日UP■
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†
僕に情報拡散をさせてきっかけを作るところまでは許されたが、それ以上の干渉は許されていないという事なのではないか。で「今回では達成されません」というインスピレーションもありますように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する情報拡散は進み、人々の洗脳は相当に破られて真実の理解が浸透するが、僕の物質界生活中に邪悪の滅亡までは到達しない。その実現は僕の帰幽後に別の使命遂行者によっておこなわれるか、もしくは特定の人物によるものではなく人々の認識の広まりによって自動的にそういう風になっていくとか、そういう事を霊界側は考えているのかも知れません。平たく言うと「無血解決」1滴も血を流さずに邪悪を滅ぼすという事です。僕の物質界生活中に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼそうとすると僕なり誰かなりの血が流されてしまうので霊界側はそこまでゴリ押ししようとしない。何しろ霊界には時間の概念がありませんので僕だろうが次の使命遂行者だろうがそんなモノは大した問題ではないはずです。が、僕から言わせてもらえればその生ぬるい考えがムカつくんだよ。決める時にバシッと決めろよ…続きを読む→
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†■2024年3月20日UP■
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に鉄槌を喰らわせる事もしなければ奴隷の女の子たちを助けてあげる事もせず、ただ半笑いで僕が苦しむところを見ているだけで終わらせるつもりなんじゃないだろうな。で、次世代降下チーム(霊界側で同じ時代に同じ地域に降下するチームがあらかじめ結成されるという事)が、僕が一生かけて蒔いたタネを活用してそこでようやく物質界の諸問題が解決されるとか(つまり僕の帰幽後のお話、今から50年後、100年後とか)そういうストーリーか。僕は前座か。本当に損な役回りだな。フゥゥ、僕なりに霊的知識を果てしなくお勉強していますが、確かに偉大な功績を残した先駆者の方々というのは、物質界では認められず帰幽後に霊界にて真の評価を下され、向上を果たし上層界に召されていると理解しています。※つまり逆に物質界で偉人とされて歴史に名を残している人物というのは霊界では全く評価されておらず暗黒の底に落ちているという事です。戦争勝利将軍とか、慈善家とか、富豪とか、そういうたぐいの人間です。「後なるものが先に」これは偉大な真理なのですが、物質界ではこの意味が全く理解されていません…続きを読む→