冷凍コーン、冷凍ポテトを解凍してタッパーに詰めたりしていました。かろうじて運転中にワンハンドで食べられる、コンビニでポテチを買うより安く済むという事で採用したのです。確実に節約になっていますが手間がかかる、ハッキシ言ってメンドクサイ、しかし脱出のためにはやるしかない。

アナログ絵380の描画が止まっていますが今日はしょうがなかったかなぁ、かろうじて少しスキャンしました。そして「Paul In Athens」英文見直し20%完成中、まだ全然終わりが見えない正真正銘の地獄。この書籍は今まで入手してきた全書籍の中で最強レベルの難しさかも知れません。

明日はグラデーション撮影はできそうもありませんがわずかな可能性にかけて標高を上げます。できる限りの撮影をしてくるつもりですがそれより帰還後の長文ブログがピンチです。いつものごとくというか何というかインスピレーション枯渇状態でほとんどネタがありません。霊団のやる気のなさが絶望的レベルとなっています。

やる気がないなら物質界の試練を終わりにしてくれ。何の成果にも到達せず試練だけを延々とやらされるのは死んでもガマンならぬ。理不尽の究極形、断じて認められぬ。なぜ何の成果にも到達してないのに毎日こんなに忙しんだ。これだけ忙しく作業を続けているんだから何かしらの結果に到達するはずだ。この人生は絶対におかしい。僕は認めない。まずは山に集中中(祈)†

■2021年3月26日UP■
「クスリとダマしてガン注射」僕の暗殺の超具体的方法を霊団が幽体離脱時映像として降らせてきました(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は(というよりコイツらの部下の下僕たちが)様々な毒物の開発製造を手掛けていて既に完成している。その中にはガン細胞そのものを注射するというものまである。その毒物を人々にバラまいて感染させる手段として、白衣を着て人々から「先生」など呼ばれている「医者」「学者」のような人間を使用して、人々に「これは治療薬です、予防薬です」と信じさせて次々と注射して回ってドンドン毒物を感染させる方法を取ろうとしている。僕に対してもこの「医者を使用したダマし戦法」で暗殺を画策しており、毒殺ではなく病気(ガン)で死亡したと見せかけ「我々は治療を続けたが残念ながら手が及ばなかった」などと言い訳できる殺し方をしようとしている。さらに職場の同僚を使用して僕に注射を撃たせようとしていたのは「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の「責任逃れ」の典型的パターン、何か不具合が発生したら「毒(ガン)注射を撃ったのはこの人たちです」と責任を擦り付け自分たちはすっとぼけられるようにしている…続きを読む→
■2021年3月24日UP■
「分かりません」これは間違いなく文仁の法廷での「すっとぼけ」発言という意味でしょう(祈)†
日本人は強姦殺人魔が大好きで強姦殺人魔に血税をプレゼントし続け強姦殺人ライフを守ってあげて、強姦殺人魔の事を陛下だの殿下だのと呼んでおだて上げ続けている、強姦殺人魔に笑顔で手を振ってキャーキャー言ってはしゃいでいる、犯罪者にとってこれほど住みやすい国が他にあるだろうか、いやない。明治維新から一体何年の月日が経ったのか、日本人はまだ目が覚めない、洗脳にやられ続けている、何とダマしやすい人間たちなのだ、大変優しい民族性なのは尊敬に値するが、邪悪に目を閉じ続ける様子は残念としか表現のしようがない。僕たち日本国民はおおざっぱに世界の方々からこのように思われているものと予測します。特に韓国の方々は僕たちの事を内心呆れ返って見ている事は間違いないでしょう「洗脳にやられっぱなしのお花畑民族」といった感じに…続きを読む→

[1874年3月15日。この頃までに、他人の名を詐称する霊が出没しているから用心するようにとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで、一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られてきたが、その中でただひとつ普遍的な内容をもつものを紹介する。]

進歩派と逆行派

このところわれわれの要請がしつこくなっているが、それは、人を騙すために他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまで再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからです。いわゆる”未熟霊”の暗躍です。

その種の霊がひき起こす面倒や困難の危険性がそなたの身近に迫っており、その餌食(えじき)とならぬよう、最近とくに注意を促したばかりであろう。いかにもわれわれに協力しているかに見せかける霊が存在することを、われわれは確かめている。その目的とするところは、われわれの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにあります。

この点については十分に説明しておく必要がありそうです。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に、熾烈(しれつ)な反目があります。

われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いです。

逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集します。憎しみに煽られる無知蒙昧(もうまい)な者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持から加担する者もいます。

要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界から光明の世界へと導こうとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる魂胆からこれを阻止せんとする連中です。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できないのは、どうやら彼らの暗躍の実情がそなたの肉眼に映じないからであるらしい。

その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類です。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさなかった。その意念の赴(おもむ)くところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示しません。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得ようとします。

肉体的煩悩から抜け出せない霊たち

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失った後も、肉欲のみは失うことのできない、そうした哀れな霊たちは、感応しやすい同類を地上に求め、深みに追いやることをもって生きる拠(よ)り所とします。それをおいて他に楽しみを見出すことができないのです。

地上では肉体はすでに病に蝕まれ、精神はアルコールによってマヒされていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑(つ)きやすい呑んだくれを見つけては、けしかける。

けしかけられた者たちは一段と深みにはまる。それが罪もない妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるべき都会の片隅に、不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに、彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのです。

こうした“現実”がそなたたちの身のまわりに“実在”するのです。それにそなたたちは一向に気づいていない。そのような悪疫の巣がある – あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。

なぜか – 実はそこにも邪霊の働きがあるのです。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声がマヒされているからにほかなりません。その悪疫は歓楽街のみに止まりません。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのです。

かつての呑んだくれは – そなたたちの目には死んだと思えるであろうが – 相も変らず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変らず地上の同類の人間の魂を蝕みつづけているのです。

死刑制度の犠牲者

一方、人間の無知の産物である死刑の手段によって肉体から強引に切り離された罪人の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではいません。

毒々しい激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみを抱き – その罪は往々にして文明社会の副産物にすぎず、彼らはその哀れな犠牲者なのですが – その不当行為への仕返しに出ます。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽ります。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図ります。

一体いつになったら人間は、毎日のように、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑した都会生活の産み出す必然の副産物にすぎないことを悟るのであろうか。根本の腐敗の根元をそのままにして、何ゆえに醜い枝や葉のみを切り落とすのであろうか。

協同責任において産み出した哀れむべき仲間を、何ゆえに無慈悲に処分するのであろうか。それは生者の側の利己主義的手段であるのに、その利己主義者がなぜ憎悪に燃える霊を敵にまわして自業自得をくり返すのであろうか。

ああ、友よ、そなたたちの旧時代的刑法が誤った認識の上に成り立っており、犯罪防止どころか、むしろ悪用を産み出していることに気づくまでには、そなたたち人間は、まだまだ幾多の苦難を体験しなければならないでしょう。

こうして地上社会の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上界に舞い戻る邪霊の群れは、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵です。われわれの敵であり、われわれの仕事への攻撃の煽動者となります。至極当然の成り行きであろう。

久しく放蕩と堕落の地上生活に浸りきった者が、死後一気に聖にして善なる霊に変わるであろうか。肉欲の塊(かたま)りが至純な霊に、獣のような人間が進歩を求める真面目な霊に、そう易々と変われるものであろうか。

それが有り得ぬことくらいは、そなたにもわかるはずです。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙(ねら)いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれわれの敵です。

真理の普及がしつこい抵抗に遭うのは彼らの存在のせいであり、そなたにそうした悪霊の影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力を無視して彼らに攻撃のスキを見せることだけはないよう心掛けてもらいたい。

われわれはその危険性を、声のかぎり警告するものです。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのです。地上の罪悪と悲劇の多くは、そうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果にほかなりません。

地上の名誉を傷つけ、体面を辱(はずか)しめるところの、文明と教養の汚点ともいうべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業です。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも、彼らなのです。

諸悪の根元 – 物質文化と大都会

そなたたち文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇ります。文明を誇り、自国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと、大真面目で奔走しています。

いや、それどころか、それを“そなたたちだけ”に授けられた神の万能薬として、他国へ押しつけんとしています。その押しつけんとする宗教と文明がもたらしている現実については、言わぬが華であろう。

繰り返し説いてきたように、そなたたちの説く宗教は、真実のキリスト教の名に値する単純素朴にして純粋な信仰の、退廃的所産にほかなりません。誇りとしている文明も文化もうわべのみの飾りにすぎず、化膿した傷口はとうてい隠し切れず、霊眼には歴然として正視できません。それが人間性に及ぼす影響に至っては、その本来の崇高な感覚を汚し、空虚さと欺瞞と利己主義しか産み出せません。

その点においては、人間本来の感性を文明によって矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民アラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜きペテンにかけることに長けた文明国の狡猾な商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙な弁舌家、淫乱きわまる文明人よりはるかに高潔であることが、往々にして見受けられます。

地上の大都会は、まさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲のるつぼです!魂は真理に飢え、打ちひしがれる思いの中で途方に暮れています。霊的影響力を受けつけない雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静な雰囲気を求めて悶え苦しんでいます。

が、その悶えも、取り囲む闇の帷(とばり)を突き抜けることはできません。必死の向上心も、繰り返される悪の誘いに打ち砕かれます。折角の決意も邪霊に奪われます。

かくして彼らは、次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失っていきます。その段階に至れば、自暴自棄の念を吹き込むのは、いとも簡単です。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされます。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷 – 実はすぐ目と鼻の先の、そなたの同胞の住む都会であり、そこでは財産(かね)さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが – そうした巷から霊界入りする人間は、その後いかなる経過をたどるのであろうか。

彼らの住む環境は、見た目には、霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えない。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ちあふれている。金儲けのみが人生であり、愉しみといえば飲食と酒色です。雰囲気は金銭欲と権力欲と、その他ありとあらゆる形の利己心です。

そうした環境で暮らす人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか – そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、たずさわる仕事もない。

発育はいびつとなり、落着くところは古巣の地上でしかなく、カネと欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊につかまり、そそのかされ、欲望をいっそう掻き立てられ、われわれには近づき難い存在となります。

そうなったが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われわれは手を施すすべを知りません。辺りはむせ返る雑踏 – そこではカネのみが物を言い、利己心と貧欲と盗みが横行しています。邪霊集団の行動の中心地であり、そこから毒々しい影響力が発散されていきます。

富裕階級の退廃と堕落

が、人間はそれに一向に気づいていません。諸悪の根元について無知であり、その諸悪に格好の場を提供している点において愚かというべきです。悪の環境を永続させているのは、その愚かさにほかなりません。そして、地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれわれの努力を、いっそう困難なものにします。

たとえば結婚生活のもつ重大な意義について、これまでにもそれを正しく理解した高邁な改革者が幾人もいました。われわれも、そなたに理解しうる範囲で、見解を述べてきました。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っております。が、今はまだその時期ではありません。

差し当たりわれわれとしては、結婚生活というものが病気と犯罪と貧困と精神病等の重大な問題と密接に結びついている問題であることを指摘するに止めておきます。

それが人間との関わりにおいてわれわれを悩ませ混乱させているのです。その多くが結婚生活にまつわる愚劣な思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰 – 犯罪的であると同時に、より一層愚かしい法律に帰せられるべきです。

そのことは無知・無教養の階層に劣らず、教養ある上流階級についても言えることです。否、むしろその最大の罪は、富裕階層にあるでしょう。人間はこれまでの結婚にまつわる観念を大いに改めねばなりません。

結婚の美名のもとに行われる堕落の大根源を抹殺するには、まず、これまでそなたたちが良しとしてきたものに代って、幸福と進歩のための、より真実にして神聖な規範を学ばねばなりません。

われわれを誤解してはなりません!われわれは放縦を唱道する者ではありません。世に言う社会的自由の伝道者ではありません。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落します。その堕落した観念をわれわれは軽蔑をもって拒否します。

かの恥ずべき人身売買、もっとも神聖な生命の法則の侮辱ともいうべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われわれは結婚の美名のもとに行われる人身売買を軽蔑するものです。

そなたは、肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉体に宿って送る地上生活にとって必須のものであることを理解しておりません。そのことに関しては前にも述べましたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことですが、この問題においてもそなたたちはわれわれの敵に味方する結果となっております。

キリスト教徒が大切にしている純粋で崇高な霊的福音が地上にもたらされて、はや十九世紀の歳月が流れました。しかるにそなたたちは、真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、ほとんど成長らしい成長をしておりません。

いや、むしろイエスがその修行時代を過ごしたエッセネ派(1)にも及びません。イエスにもっとも辛辣な非難を浴びせた律法学者やパリサイ派と同列です。

そなたは何もご存知ない。肉体と霊の問題 – この世のみならず死後の生活にも関わる重大な意味をもつこの問題について、そなたはまるでわかっておりません。

以上、かつて言及しておいた、われわれに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみました。彼らは勢力を結集してわれわれの仕事を挫折させ、悩ませ、傷つけんとしてスキを窺っています。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によって、時々刻々、その勢力を拡充していきつつあります。

ますます巧妙化する妨害手段

これまでわれわれは、もう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために尽力している霊の集団については述べずにきました。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高い生きざま、心豊かな行為については、あえて述べずにおきました。

それは、われわれの差し当たっての仕事が、その反対の暗黒面を描いてみせることにあるからです。出来るだけその方向へそなたの注意を向けさせてきました。

言っておくが、われわれはその内面の姿を“有るがままに”描いているのです。この通信の底流にある深刻な事実、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われわれが担う仕事の今後の進展に大きく関わる重大な事実だからです。今しがた述べたことも、われわれに敵対する組織的集団についてすでに述べたことを繰り返したにすぎません。

が、これ以後ますます繁くなりゆくであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えてきました。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求がつのるにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄(ろう)し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企(たくら)みのもとに、多くの霊媒が輩出する可能性が大きくなるということです。

これは特殊な敵対手段であり、きわめて大きな危険性を秘めています。と言うのは、程度の低い霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちているのです。彼らは、目を見張るような心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと、強力に働きかけています。

いったん得心させれば、あとは簡単です。トリックとペテンを弄し、同時に真面目そうな道徳的教説を混じえつつ、徐々に疑念を誘い、はじめ霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと、肝心の道徳的教訓にまで広がっていきます。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ面白がらせるためのものではありません。肝心の目的は霊的教訓にあります。それに対する不信感を煽る手段として、これに勝る巧妙なものはありません。

人間は最後にこう言い始める – われわれは色々とやってみた。みずからも実験してみた。そして真相がわかった。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに、これは悪魔の仕業に違いない、と。

そう考えはじめた連中に正と邪を見分けるようにと説いてみたところで、もはや無駄です。揺らぎはじめた信頼がそれを許しません。はじめは信じてかかったものがニセモノであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫(がれき)となって散乱します。基礎が十分でないということであり、それでは建造物を支えることができなかったということです。

ハデな現象は要注意

繰り返し述べるが、これほどわれわれの仕事をマヒさせる悪魔的策謀はありません。このことを、われわれは厳粛な気持ちでもって警告するものです。必ずわれわれの警告にしたがって行動してもらいたい。

次から次へと、やたらに派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうした類は大体において低級で未発達な霊の仕業です。その演出には往々にして“招かれざる客”がたずさわっています。驚異的現象も、あまり度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては、大いに危険性があります。

心霊実験は必要です。われわれは決してある種の人間にとっての効用を過小評価するものではありません。求める者すべてに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思います。が、そうした物理的現象のみに偏った興味、魂の成長にほとんど役に立たない、うわべの興味にの始してもらっては困ります。

そうした現象にしか興味を抱かない者の目には、われわれの行なうことが時として人間のすることよりお粗末に映ることすらあります。が、われわれは現象そのものを目標としているのではありません。目標は一段高い次元にあります。

また、この世のものとは異質の存在がこの世に干渉できることを証明することだけで満足しているわけでもありません。もしもそれがすべてであるとするならば、そうした事実を知ることは、害にこそなれ益にはならないでしょう。

われわれはたったひとつの至上命令を下されているのです。その使命達成のために地上圏へ戻ってきたのです。それ以外に地上に用はないのです。その使命が何であるかは、すでにそなたにも分っているはずです。

信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われわれは、人間が神の火花を宿すがゆえに永遠不滅であることを証しに来るのです。旧(ふる)い時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫(えいごう)へと目を向けさせるためです。

われわれが不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のためにその本来の目標を脇へ置くことがあるのは事実ですが、あくまでも目的のためのやむを得ない手段として必要とみた上でのことであって、決してそれが望ましいことと考えているからではありません。

かりに無害であるとしても、われわれは同じ忠告をするであろう。が、現実には、われわれが最も恐れている反抗集団による攻撃手段とされており、それゆえ、そうした物的現象を無やみに求めたり、それをもってわれわれとの交霊の目的とすることを、声を大にして警告するものです。

前座のあとに真打ちが控えている

心霊現象は、あくまでも霊の実在を確信させるための手段にすぎないことを心得られたい。そのひとつひとつが霊の世界から物質の世界への働きかけの証なのです。“それだけのもの”と理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用してほしい。

現象はどういじくってみたところで、それ以上の価値は出てきません。それに、霊側がこれ以上やっても無駄とみた時は、そうした現象を得意とする低級霊に譲って引き上げてしまうものです。かくして折角の奥深い啓示の機会が逃げ去ることにもなります。

あくまでも現象を基礎として、そこから一歩踏み出さないといけません。現象にたずさわる知的存在の本性はいったい何であるのか、いずこより来るのか、その意図は何なのか、等々を知ろうとしなければなりません。

そなたたちとて、きっと、それが神の計画であり、その拠ってきた根源も意図も至純であり、必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂のたどる宿命と、人間が死と呼ぶところの変化にもっとも有効に対処できる心がけについて、納得のいく指針を得たく思うことであろう。

それは当然の成り行きです。なぜなら、万が一われわれが人類と同類でないとすれば、われわれの体験がそなたたちにいったい何の役に立つのでしょう。万が一そなたたち人間の不滅性を語れないとすれば、われわれがこうして存在し続けていることをいくら徹底的に証明してみたところで、いったい何の意味があるのでしょう。奇々怪々な話になるでしょう。これほど奇妙な話もないことになります。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探究にまで進めば – 要するにわれわれの意図を信じてくれればということになるが – その暁には、そなたがまだ知らずにいる世界に案内することができるでしょう。

その世界については、すでにはるかに奥深い啓示を手にしている真摯な求道者が他の国には大勢いるのです。そなたの国ではまだその恩恵にあずかれる者はわずかです。

こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(2)その他のぎこちない手段に比べれば、よほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段をへない直接的な霊と霊との感応に比べれば、足もとにも寄れません。

最高の交霊手段はインスピレーション

スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送ることができるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢います。

英国民の精神の不信心性と興味の唯物性と、雰囲気の低俗性のゆえに、われわれの思うに任せないことが、米国では着々と成果を挙げていきつつあります。われわれの仕事は、俗事を処理するようなわけにはまいりません。

われわれは心を読み取ってしまいます。ゆえに、実際には興味を覚えないのに、いかにも興味ありげに装ってみたところで – そなたがそうだというのではありません – 心底から信じないままわれわれの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもなりません。

いつの時代にも、いずこの国においても、常にそうでした。高級な霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おりなされます。が、時期尚早であることを悟って手を引くことがあります。

もっとも、このたび指摘するのはそのことではありません。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物理現象はそろそろ卒業して霊的知識へと進むよう忠告しようとしているまでです。

進歩には受け入れ態勢が先行せねばなりません。が、われわれとしては、そなたが少しでも早く物的束縛から脱して、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈るのみです。その目標に向かって迷わず突き進まねばなりません。有象無象(うぞうむぞう)の意見を振り切り、地上の生活者として、出来うるかぎり物的感覚から脱け出なければなりません。

永遠なる父よ!私たちはあなたの御名のもとに勤(いそ)しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちが語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚ましめ、私たちの説くところを悟らしめます。

願わくば彼ら地上の者の心に信仰心を育みたまえ。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればこそでございます。

†インペレーター

– 私は、右に述べられたことがすべて真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法と秩序が霊界にないのが理解できない、と述べた。何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に、彼らが他人の名を騙るという事実が不思議に思える。なぜそんなことに興味を覚えるのかが理解できない、と述べた。

イタズラを楽しみとする低級霊

われわれの世界に法も秩序もないかに想像するのは間違いです。そちらの側で整えるべき条件を整えてくれないことが、われわれの秩序ある努力を挫折させているにすぎません。

交霊会を催すに際しては、まずそれなりの条件を整えてくれないといけません。それさえ励行してくれれば、これまでのようなイタズラや混乱の半分は除去されるでしょう。もっとも、そなたたちのいう悪の要素が完全に抹殺される日は来ません。

何となれば、そうした体験も霊的鍛練のひとつだからであり、われわれとて、そなたの進歩を促す過程を免除してやるわけにはいかないのです。そなたもその過程を通過する必要があるのです。まだまだ学ばねばならないことが多々あります。こうした実際に即した体験もその勉強のひとつと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後も多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうしたイタズラを楽しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄(ろう)する才能をもっているということです。

人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は、サークルのメンバーが用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨(にら)みを利(き)かせれば、大ていは締め出すことができるものです。

むやみに交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それがために霊側の厳戒態勢が整わないようでは、彼らの侵入を許す危険が大です。われわれの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種のイタズラ霊の侵入を許しているとみてよいでしょう。

単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大真面目で聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを楽しみとして何の不思議があろう!

– そんなことでは、これで絶対に大丈夫という確信を得ることができませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが、結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対に安全といえる人がいるでしょうか。

猜疑心を注ぎ込む邪霊たち

その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみです。われわれの信頼性と誠意と客観性については、そなたはすでに証明済みです。証拠の上に証拠を重ねてきました。

われわれの道徳的意識の程度は、すべての面で一貫している誠意 – これまでに授けてきた教訓に一貫する基調をもって証明してきたつもりです。それは、そなたみずからの判断によって評価されたい。

そなたの評価を得てはじめて世のすべての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになります(3)。そなたは今すでにそれを、全体の傾向として、崇高にして善なるものであることは認めている。

われわれの身元、われわれの仕事、そしてわれわれの目的に関して、そなたは一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしています。

– おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっていれば、容易に私の信念を揺るがせかねなかったと思われます。

それは十分に有り得たことです。万一の場合、われわれがその働きにどこまで対抗できたかはわかりません。が、そのような危険に足を踏み入れることは、われわれはご免被(こうむ)ります。

あの場合にしても、どう警告したところで、彼らはそれに対抗して巧みに取り入り、うまく人の名を騙(かた)って、あげくには、ただでさえ心もとないそなたの信念に致命的な打撃を与えていたことでしょう。

そなたにとっては、真実、危険です。何にもまして、矛盾した偽りの言説はそなたに猜疑心を誘発せしめることでしょう。その猜疑心は最後にはわれわれへの信頼をも覆し、われわれは退散のやむなきに追い込まれることでしょう。

低級霊の餌食となりやすいタイプの人間

– 確かにこれは、関わりあうと実に危険な存在であるように思われます。

何ごとにせよ、乱用は感心しません。正用は結構であり、それを常に心掛けるべきです。軽薄な心でもって霊界と関わりをもつ者、単なる好奇心の対象にすぎないものに低俗な動機からのめり込んでいく者、見栄っ張りのうぬぼれ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、冗舌家 – この種の者にとっては危険が実に大です。

われわれとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに関わることは、絶対に勧められません。ゆゆしい危険性をはらんでいるからです。密かな魂胆を宿さず、賢明にして強力な背後霊に守られ、その指示に忠実に行動する者のみがこの道にたずさわるべきであり、それも、細心の注意と誠心からの祈りの念をもって臨むべきです。

不用意な関わりあいは断じて許せません。また、円満な精神と平静な感情の持ち主でなければ、とても霊界との完全な関わりあいは不可能であり、せっかくの地上生活に新たな禍いの種子を持ち込むことになります。

節度のない精神、興奮しやすい感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は、低級霊にとって格好の餌食となります。その種の人間が霊的なことにたずさわることは危険です。とくに、その求めるものが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めにすぎない場合は、なおさらのことです。その種の人間には、神の訓えは耳に届きません。

願わくば、聞く耳をもつ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして、高級界の、より聖純な大気の中へと進んでくれることを望むこと、切なるものがあります。

– それは、しかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っつきにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(4)、イスやテーブルが浮揚するのを見る方を好むものです。

確かにそなたの言う通りです。それはわれわれも十分に承知しています。が、現在の段階はあくまでも“通過せねばならない”段階と考えるべきです。われわれの仕事にも物理現象は付随します。

が、それは真の目的ではありません。われわれが期待している本来の発展の“地ならし”程度に考えないといけません。これより後も、各地でいっそう盛んに見られるようになるでしょう。

われわれはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはしません。遺憾には思うものの、その必要性は認めます。この件に関しては付言すべきことがまだまだありますが、今は控えます。しばし休息されよ。

– わずかばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。

良識に欠ける霊たち

邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については、すでに述べました。それとは別に、悪意からではないが、やはりわれわれにとって面倒を及ぼす存在があります。

元来、地上を後にした人間の多くは、格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟ともいえません。肉体から離れていく人間の大半は、霊性においてとくに悪でもなければ善でもありません。

そして、地上に近い界層を一気に突き抜けていくほど進化した霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べました。

言い残したものに、もう一種類の霊団がいます。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、わざと間違った情報を伝えたりします。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体(もったい)ぶった雰囲気で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては、面白がっているにすぎません。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがある、とそなたに言わせる要因がそこにあります。茶目っ気やイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持をもてあそぶ霊の仕業が、その原因となっています。

列席者が望む肉親を装って、いかにもそれらしく応対するのも彼らです。誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在のせいです。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりに聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業です。

通信にふざけた内容、あるいはバカバカしい内容を吹き込むのも彼らです。彼らは真の道徳意識は持ちあわせません。求められれば、いつでも、どんなことでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時どきの面白さ以上のものは求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみです。

人の道を誤らせ、邪悪な欲望や想念を抱かせるのも彼らです。霊媒をひそかに操り、高尚な目的を阻止しようとします。高尚で高貴な目的が彼らには気に食わず、俗悪な意図を示唆します。要するにその障害物、妨害物となってやろうとするのです。関わるのは主として物理的現象です。

大体においてその種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を引き起こさせるような現象を演出します。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそえみます。

憑依現象をはじめとする数々の心霊的障害は、彼らの仕業である場合がよくあります。いったん付け入れば、どうにでも心理操作が可能なのです。個人的に霊を呼び出して慰めを求める人たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺きます。

しっかりとした意志の疎通が行なわれることがあることはあります。しかし次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながらその中につじつまの合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりします。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はなるべく避ける方が賢明です。

†インペレーター

[注釈]

(1)Essene 紀元前2世紀ごろから存在していたユダヤ教の一派で、禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。

イエスが一時期この一派に属していたらしいことは、バイブルの中のイエスの言動によっても推察がつくが、今世紀半ばに死海のほとりの洞窟から発見された巻き物、いわゆる“死海文書”によってその事実の可能性がますます濃厚となった。

しかし、イエスの信仰態度は“愛”を基調として、その時その場における自分の判断による行為を尊び、戒律や教義による束縛を排した点に最大の特質がある。それが取りも直さずスピリチュアリズムの基本的な教えでもあるのである。

(2)テーブルがひとりでに傾斜して、1本の脚が床を叩き符牒によって通信を送ってくる。

(3)本書の形での公表は、霊側は当初から意図していたことが窺われる。もしかしたら、こうして日本でも翻訳紹介されることも、遠大な計画の中に組み込まれていたのかも知れない。

(4)心霊実験会では霊がメガホンなどで列席者の頭や肩をポンポンと叩いてまわることがよくある。訳者も体験がある。心情的にはなぜかそれを“うれしく”思うことは事実である。

「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†■2024年8月21日UP■
「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†
もう僕という霊媒が機能するだの、新規の霊言が降るだの、そういう事を書くつもりは一切ありませんが、現存する正真正銘の霊関連書籍をテキスト化する作業は全力で続行するつもりでいるのです。その作業を続けるイコール「本を読み続ける」という事になり、さらに深く霊的知識を理解する事につながるので僕的に好都合ですし霊的知識拡散という意味でも大変重要なのです。なぜ霊団がそこまでしてあの無意味なところに僕を閉じ込め続けようとしているのかがどうしても分かりません。僕をあそこに閉じ込めてみたところで僕という霊媒は機能しない、新規の霊言は降らない、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡にもつながらない、奴隷の女の子たちもひとりたりとも助けてあげられない。何ひとつイイ事ないじゃないですか。なのにそこに閉じ込められる事を耐え抜けば僕は霊的に向上を果たす事ができて明るい境涯に赴く事ができるのだそうです。邪悪を滅ぼす事より、殺される運命の女の子を救出する事より、仕事を前進させる要素ゼロの意味なしの場所に閉じ込められる事の方が霊的向上に寄与するとは、これは一体何がどうなっているのでしょうか。本気で意味不明なんですけども…続きを読む→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†
その男性が失われた良書を復活させようとしている事をシルバーバーチ霊が「真一文字に突き進みなさい」と言って鼓舞しているシーンがあります。僕はこのシルバーバーチ霊の「真一文字に突き進みなさい」の言葉が大好きで、画家時代から人生の指針としていたほどです。で、続いてシルバーバーチ霊が秘書の女性に話しかけ始めますが、ココで評価が一変します。シルバーバーチ霊はこの秘書の女性を「黄金の心を持つ女性」と言ってベタ褒めします。女性は赤面して「私は無力な人間です」と言いますがシルバーバーチ霊はこの女性をココぞとばかりに褒め続けます。この秘書の女性は出版業の男性を影で支えているのみで、実際の作業は男性がやっているのですが、霊界側では女性の方がこのように評価されるのです。これは物的成果を見ているのではなく“心の持ちよう”を見ているからこうなるのではないかと僕は思ったりするのです。つまりこの秘書の女性には私利私欲、自己主張のようなものが全然心の中になかった、献身的姿勢を貫いていたのではないか、それをシルバーバーチ霊が読み取っていたからベタ褒めしたのではないかと僕は予測するのです…続きを読む→