「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に関するある有名事件のムービーを観て、その情報がまぁまぁ僕の脳内にインプットされました、つまり霊団がその気であれば僕にインスピレーションを降らせる準備が整ったという図式になるのですが、しかし霊団はその事件について影もカタチも言ってきません。幽体離脱時映像も全く記憶にすら残らないモノで霊団の逆説的意図が読み取れます。

多くの方がその有名事件に関して書き込みをおこなっておられます、僕もその方々の勇気にならってぜひアレコレ書きたかったのですが、僕は霊団が降らせる霊的情報に基づいてブログを書かねばならないポジションの人間ですので、霊団が言ってこないモノは勝手に書けないのです。悔しいですが今はスルーしましょう。いつかきっと書ける日が来ると信じましょう。

で、ある同僚が脱出に直結する情報提供をして下さって、それに関する応募寸前まで行ったのですが思うところがあって一旦止めました。というのも、この応募をしてしまうと、この数ヶ月“ある脱出アイデア”を実行するために徹底的に節約してきたその努力がパーになる可能性があると読んだからです。

その同僚の話に乗れば確かにイヤでどうしようもないところからは脱出できるかも知れない、しかし“ある脱出アイデア”は実現できずじまいとなり、新し環境の事で頭がイッパイになっていつしかその脱出アイデアの事が頭から消えていくというストーリーで霊団が同僚を利用して僕にそういう情報をインプットさせたのではないか、そう読んだのです。

同僚の話に乗る、イコール職場が変わるだけで生活時間は現在と変わらず、つまり作業時間を増やす事ができません。が、“ある脱出アイデア”の方は作業時間を増やせる可能性があります。僕としてはコチラの方がプライオリティは上であり、同僚の話は正直イイ案件でしたのでぜひ乗っかりたいのですが、このまま節約を続行して“ある脱出アイデア”を実行に移した方が長期的に見ると作業時間の捻出につながる、と考えたのです。

つまり霊団は“ある脱出アイデア”を何が何でも頓挫させようとして同僚を使用したのではないか。(ある脱出アイデア実行日程を決めていて、その日程前にこの話が飛び込んできたのがタイミング的におかしい、霊団の意図が伺える)

それは逆説的に言えば“ある脱出アイデア”が“有効”だから頓挫させようとしているとも読めます。ならこの同僚の話は一旦保留してまずは節約を続けて“ある脱出アイデア”を実行に移した方がイイのでは、と思ったのです。

かなり裏読みであり、ぜひ脱出したかったのですが、長期的に作業時間を捻出できる方に僕はかけようと思い、この話にすぐ乗っかる事は保留し、状況を見てから機会があれば乗っかる事にします。しかし現在の最悪の場所に結局残される事になってしまうのが残念の極致で、できるだけ早く最善のカタチで脱出を実現させようとさらに意気込みを高めています。

ある有名事件についていつか詳しく書けるとイイですが。もっとも勇者の方々が十分な情報を書き込んでおられますのでその方々のSNSをご覧になった方がよほど真実の理解につながるでしょう(祈)†

■2019年9月11日UP■
「文仁、悠仁の逃亡」秋篠宮の最後とも言える映像を霊団が降らせてきました。逃がす訳ないだろ(祈)†
この映像の最大の特長はとにかく「身内」だけでワイワイ騒いでいたという事です。大勢の男子たち、宮内庁職員、皇宮警察等の人間だと思われるのですが、大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に対して反省を促したり出頭を切り出したり、そういう様子が全くなく、強姦殺人魔どもと一緒に逃げ通そうとしている、そういう頭にくる映像でした…続きを読む→
■2021年9月11日UP■
「イエス様を最大の信奉とせず」これはスピリチュアリズム底流の大原則です(祈)†
これまで人類はイエス様はじめ世界中の宗教の創始者等を超人的ポジションに祭り上げおかしなラベル、呼び名を付けてその人物やラベルばかりを崇めて肝心の霊的知識つまり中身をなおざりにしてきました「キリスト教の2000年の長きに亘る人類の呪い」がまさにその典型であり、その失敗を2度と繰り返さないために霊界側は「スピリチュアリズム」を勃興させ、人々の関心の対象を「人物やラベル」から「霊的知識そのもの」へとシフトさせたという事。もし霊団側が僕という霊の道具を使用して霊的知識普及の仕事をする事があるのであれば、僕という霊媒から降る霊言は今回のインスピレーション「イエス様を最大の信奉とせず」にありますようにイエス様に注目を集めさせるのではなく霊的知識そのものに関心を集めさせるという意味…続きを読む→
「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†■2021年12月10日UP■
「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†
とにかく(人生の)破壊の程度がひどすぎる。この一言に完全に集約されます。僕の人生を犠牲にしてでも何が何でも達成したい悲願があった、やってもらいたい仕事があった、僕はそう理解しているからこそここまで歯をくいしばって耐えてきた訳ですが、どうもこいつらの真の目的は「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡つまり物質界の邪悪の討伐ではなくて、僕の人生の破壊そのものがそもそもの目的だったのではないかという気さえしてきました。奴隷の女の子の存在を教えてきておいて全く助ける気がないというのが最大級に理性を反駁させるのです。どう考えてもおかしい…続きを読む→

これほど有名な事件なのに霊性発現以来12年もの長きにわたり霊団が一言たりとも言及していないある有名事件。SNS等にその書き込みをしている方が多数おられますがそのアカウントはたちまちあんな状態こんな状態にさせられてしまうようです。

僕の過去Twitterアカウントはその事件にひとことも触れていなかった、名前の一文字も出していなかったのに凍結、ロックを徹底的にやられていました。要するに僕の使命遂行の内容とその事件が関係があったという事です。

もうこれ以上アカウントをやられる訳にはいきませんし、何より霊団が言ってこない事を勝手に拡散する訳にはいきませんのでその事件について書くつもりはありませんが(そもそも詳しくありませんので)ムービー等を観てまぁ大体の事件概要は分かりました。

その事件の当事者に対する怒りがもちろん湧き上がってきますが、僕はそれより霊団に怒りをぶつけたいです。まさかこのままホッポラカシにするつもりじゃネィだろうな。僕に画家の人生捨てさせてココまでやらせておいて何の結果にも到達させず何の事件解決もできないまま帰幽させるつもりじゃネィだろうな。

えー、ストップ。霊団が言ってこない事をベラベラ書く訳にはいかない。一旦止めて使命遂行の作業に戻りましょう。アナログ絵380、ストーリー後半4~6ページ中5ページ線画70%完成中。終わり次第スキャンして6ページの線画に突入します。この作業をしながらも心の中で「もっと核心に触れた作業をやらせろよ霊団」という怒りがこみ上げてきます。

しかしそれをやらせると僕の身に危険が迫るので霊団もこれ以上深く突っ込めないという事のようですが、じゅうぶん突っ込ませてるだろ。僕のWordPressのブログタイトルを見れば一目瞭然だろ。ここまで来たんだから行き着くところまで僕という道具を使って仕事しろよ。僕は帰幽カモンなんだからその先に死が待ち受けていてもやるんだよ。1秒も物質界に残っていたくないんだから。

フゥゥ、もっと書きたいですがチョト止めましょう。悶々としつつもアナログ絵380に集中中(祈)†

■2019年6月15日UP■
「まぁそうするしかないんだけどね」強姦殺人魔、天皇一族の邪悪の正体を知っている人の思念です。滅ぼすのが当然という事です(祈)†
「日航ジャンボ機墜落」にありますように、自分の事を皇族だの天皇だのと自称するこのバカヤロウどもは、ジャンボ機を爆破して一気に520人殺すテロを決行し、国民を脅して黙らせたのです。このテロを機にみんなビビッて強姦殺人魔どもに逆らえなくなってしまったそうなのですが、今回霊団は何とインスピレーションを降らせましたか。「まぁそうするしかないんだけどね」ですね…続きを読む→
■2019年6月16日UP■
幽体離脱時のピーチピチ(佳子)の映像が超超超鮮明だったのです。霊団側の強調を意味します(祈)†
聾の女の子にそのように言われてピーチピチは鮮明な青の絵の具で顔をペイントしたように真っ青の肌になります。そして涙をボトボト流しながら「あたしは勉強します」と言うのでした。えー霊団、この映像は一体どういう意味で降らせたのでしょうか。僕はまだ意味を理解しきれていません。ただピーチピチ(佳子)の顔が異常なまでに鮮明に反芻できたところを見ても霊団の強調がスゴイという事ですから何かしら重要な意味性…続きを読む→
■2019年6月22日UP■
「まだあきらめてないよ」僕の使命遂行をご覧の方の思念ですが、あきらめた先に一体何があるって言うんですか(祈)†
日々霊力に浴させて頂いているのにそれを無視して無意味な物的生活に溺れるなどと言う愚劣の極みの事をするはずがないじゃありませんか。何のために自分の身を修行に晒し、試練を克服して霊性発現したんですか僕は。なぜ霊団は毎日のようにインスピレーションを降らせてくるんですか。物質界は永遠の人生の中のホンの一瞬降下させられてくるだけのトレーニングセンターです。肉体は100%朽ち果てて人間全員が本来の生活の場、霊界に帰っていきます…続きを読む→

[その後に届けられたインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的にいっそう崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで綴られたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に泌みわたるのを感じていた。]

真理の理解に試練は不可欠

イエス・キリストの祝福のあらんことを。この度は、2度と訪れぬかも知れないこの機に、そなたの疑問に答え、必須の真理を授けておきたく思います。

このところ、そなたのもとに届けられた何通かの手紙によって、われわれが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来が、われわれのみならず、他の霊団によっても予期されていることがわかるであろう(1)。

備えを怠らないでもらいたい。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのです。イエスもそう悟り、そう説いている。魂には鍛練が必要なのです。身体に鍛練が必要なのと同じです。

鍛練なくして深い真理は悟れません。何人(なんぴと)といえども、悲しみの試練を経ずして栄光ある頂上へ登ることは許されません。真理へのカギは霊の世界にあるのです。試練によって鍛えられていない魂が勝手に真理をもぎ取ることは許されません。よくよく心されたい。

安逸と放縦の道は、夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れません。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道は、茨と岩だらけの上り坂です。が、それが悟りと霊力の頂上へたどり着く道なのです。イエスの生涯をよく吟味し、そこから教訓を学び取るがよい。

さらに、今こそわれわれと邪霊集団との熾烈な闘争の時期でもある。その煽りがそなたにも感じ取れるであろうことを述べたことがありますが、神の摂理の大いなる発展の時期には、それは付きものなのです。言わば夜明け前の暗黒であり、成長の前提条件としての憂うつの体験であり、真摯な魂が浄化される試練の時期なのです。

イエスはそれを、かのゲッセマネにおける苦悩の時に“今やあなたがたの時、そして暗黒の時(2)”と述べました。今こそ、その時です。しかも容易には過ぎ去らないでしょう。辛酸をなめ尽くさねばならないのです。

それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れとともに人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加されていく。それが時とともに生気を失い、訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬がひとつまたひとつと暴かれ、信仰の基盤が揺さぶられ、人間はついに大声をあげて叫ぶ – 真理とは何ぞや!と。

それに答えて新たな、より崇高な真理の誕生となります。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺りかごのまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに強烈です。

理解の仕方は各人各様

その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高い塔から眺める霊的洞察力に富む者は、いち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎します。“喜びは暁とともに来らん(3)”“悲しみと嘆きは消えゆかん(4)”かくして夜の恐怖、“暗黒の力”が過ぎ去ります。

しかしそれは、すべての者にとっての話ではありません。相も変らず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかない者が圧倒的多数を占めます。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続けます。

こういう次第で、すべての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れないのです。いつの時代にも、真理に対して何の魅力も感じない者、なまじ上り坂を行くことが危険を伴う者、古い時代から多くの者によって踏みならされてきた道を好む者が数多くいるものです。

暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる一方には、そうした人種もいつの時代にもいるものです。ゆえに、すべての者に同じ視野が開かれることを期待してはなりません。そのような夢のごとき同等性は有り得べくもないのです。有り得ないだけでなく、望ましくもありません。

神秘の奥義を詮索するに足る力を授かっている者がいる一方には、極力それを避けねばならない者もいるものなのです。そこで大衆を導く指導者と先達(せんだつ)が必要となるわけです。そ

の任に当たる者は、それなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請されます。それを理性によって律し、我欲を抑え、魂が一切の囚われを捨てて自由に振舞えるようであらねばなりません。そのことに関しては、とうに述べてある。心するがよい。

大方の者がこれぞ真理なりと信じていることが、そなたには空(うつ)ろに、かつ気まぐれに見えるからとて、少しも案ずるには及びません。そういうものなのです。真理にもさまざまな段階があります。多くの側面をもつ水晶から無数の光が発せられています。

その光の一条(ひとすじ)たりとて、すべての魂によって曇りのない目で受け止められるとはかぎりません。わずかな人間、ごく一握りの者に、その無数の光の中からはぐれた一条、あるいは二条三条、もしかしてそれ以上の光が届くにすぎません。それも、多くの媒体を通して届けられるために、ようやく届いた時は、すでにその透明度が曇らされています。

これはいかんともし難いことです。それゆえにこそ、さまざまな真理の見方が生じるのです。それゆえにこそ、さまざまな見解・誤解・誤謬・錯誤が罷り通ることにもなるのです。真理を豁然として大悟したと豪語しても、その多くは、束の間の真理を垣間見たにすぎません。

それに自己流の見解を付加し、敷衍(ふえん)し、発展させ、そうするうちに折角の光を消し、一条の貴重な真理の光が歪められ、破壊されます。かくして真理が台なしにされて行きます。咎められるべきは、真理の中継者の不完全さです。

深遠なる真理は独り静かに味わうべきもの

あるいは、こうも見ることができる。ひとりの向上心に燃える魂の熱望にこたえて授けられたものを、当人は万人に等しく分け与えられるべきであると思い込みます。そこで宝石が小箱から取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られるのと同じです。

とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとってあれほど美しく愛らしく思えた真理が、忙(せわ)しい生存競争の熱気と埃りの中で、あえなく新鮮味を失っているのを見て驚きます。おのれの隠れ処においてはあれほど純にして真なるものが、世に遺伝されると、見る間に精彩を失い、場違いの感じを受けるのを知って驚異すら覚えます。

彼がもしも賢明であれば、こう悟るところです – ヘルモン(5)の露は魂の静寂と孤独の中でこそ純化されるものであること、花は夜の暗闇の中でこそ花弁を開き、真昼の光の中では萎(しぼ)むものであること、すなわち至聖にして至純なる真理は霊感によって魂より魂へとひそかに伝達されるものであり、声高らかに世に喧伝されるべきものではないのだ、と。

むろん真理には、あたかも切り出したばかりの磊々(らいらい)たる岩石のごとき粗野なものもある。これは言わば、すべての建築者が等しく使用すべき土台石です。が、至純なる宝石は魂の神殿に仕舞い置き、独り静かに挑むべきものです。

ゆえに、ヨハネが天界の都市の宝石を散りばめた壁と門の話(6)をした時、彼はすべての者の目に映じるはずの真理の外形を物語ったのでした。ただし、彼がその奥の院に置いたのは至純なる真理の光ではなく、主イエスの存在と栄光のみでした。

そなたがこうした事実を悟れずにいることこそ驚異と言わざるを得ません。そなたにとって絶対的真理と思えるものも、実はそなたの求めにこたえて、完全な真理の輪を構成する粒子のひとつ、ほんのひとかけらが授けられたにすぎません。

そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのです。そなたにとってはそれで完璧であり、言わば“神”であろう。が、別の者にとっては不可解なものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことはできません。

見せびらかしたくても、それは無駄です。すぐに生気を失い、その隠された魅力も、人の心を改めさせるだけの力は持たないでしょう。それはあくまでもそなた自身のものであり、そなたひとりのものなのです。そなたの魂の希求に応じて神から授けられた、特殊な需要に対する特殊な供給なのです。

真理というものには秘宝的要素があります。必然的にそうなるのです。何となれば、真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからです。日用品として使用するには、その香気があまりに儚(はか)なすぎます。その霊妙なる芳香は、魂の奥の院においてのみ発せられるべきものです。

このことを、とくと心に留めおかれたい。さらに又、受け入れる用意できていない者に押しつけることは、真理を粗暴に扱うことになり、そなたにとっては天啓であっても、そうとは思えない者には取り返しのつかない害毒すら及ぼしかねないことも心されたい。

求道(ぐどう)の生活こそ人生の至高の目的

さらに忘れてならないことは、真理のための真理探求を人生の至高の目的として生きることこそ、地上にあっての最高の目標であり、いかなる地上的大望(たいもう)よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高いものであるということです。

人間生活に充満する俗悪な野心については今は取り上げません。虚栄から生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心 – これらは、紛(まご)うかたなき“ソドムの林檎(7)”です。

しかるに、他方には、目覚めた魂へのひそかな誘惑 – 同胞のために善行を施し、先駆者の積み上げた石塚(ケルン)にもうひとつ石を積み上げんとする心があります。彼らは自分の生活を大きく変えた真理を熱誠をこめて広めようと、勇み立ちます。もうその真理に夢中です。胸に炎が燃え上がり、その教えを同胞に説きます。

その説くところは気高いかも知れません。そして、聞く者の欲求にかなえば、同類の心にこだまして魂を揺るがせ、何らかの益をもたらすかも知れません。が、その逆となるかも知れません。

ある者にとって真理と思えることは、“その者にとって”真実であるにすぎず、その声は荒野に呼ばわる者の声にすぎず、聞く者の耳には戯言(たわごと)にしか響きません。彼の殊勝な行為が無駄に終ります。それだけのエネルギーを真理のいっそうの探究のために温存し、人に説く前に、より多くを学ぶべきだったのです。

教えることは結構です。しかし、学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではありません。が、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはなりません。

そして、真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得られたい。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはなりません。その美しさは、つい語りたくなるでしょう。

自分が得た心の慰安を、聞く耳をもつ者に喧伝したく思うかも知れません。が、自分の魂の深奥に、神聖な控えの間、清き静寂、人に語るにはあまりに純粋にして、あまりに貴重な秘密の啓示を確保しておかねばなりません。

[ここで、大して重要でもない質問をしたのに対してこう綴られた – ]

違う。それについては、いずれ教えることになろう。われわれはそなた自身の試練のひとつであのを肩代りすることはできません。迷わずに、今歩んでいる道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道です。が、不安と苦痛の中を歩まねばならないことは必定です。

これまで導いてきた道は、そなたには過去の叡智を摂取し、先駆者に学ぶ必要があると見た上でのことです。地上とわれわれの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によって痛撃を食らうであろうことは、早くから予期していたことです。

愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきました。この分野には過去の神秘学と同じくふたつの側面があり、またそうあらねばならないことを教えたく思います。ひとつの側面を卒業した今、そなたはもうひとつの側面を理解しなくてはなりません。

そのためには、人間と交信する霊がいかなる素性の者であるかを知らねばなりません。それをおいて他に、今そなたを悩ませている謎を正しく読み取る方法はありません。

真理というものが一体いかなる方法によっていかなる条件のもとに得られるものであるか、又いかにすれば誤謬と策謀、軽薄な行為と愚行とを避け得るかを知らねばなりません。

人間が安全な態勢でわれわれの世界との関わりを持つには、あらかじめこうしたことをすべて理解しておかねばなりません。しかも、それを学び終えた暁に、あるいは学びつつある時にも、その成功いかんは、ほとんど、あるいは全面的に、人間側にかかっていることを忘れてはなりません。

求道者たる者は我欲を抑え、最奥の魂を清め、不純な心を悪疫として追い払い、目指す目的をできるかぎり崇高なものとしなくてはなりません。真理を、万人が頭(こうべ)を垂れるべき神そのものとして崇敬せねばなりません。いずこへ到るかを案ずることなく、ひたすらに真理の探求を人生の目標としなければなりません。

その時はじめて神の使徒によって見守られ、魂の奥に真理の光を見出すことでしょう。

†インペレーター

[注釈]

(1)具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第1次大戦、さらには50年後の第2次大戦も含めてのことと推察される。

(2)ルカ22・53“あなたがた”とはイエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダのことであるが、それは同時に、背後の邪霊集団を意味していると解釈すべきであろう。

(3)詩篇30・5

(4)イザヤ書5・10

(5)Mount Herman シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。

(6)ヨハネ黙示録21・11~21

(7)Sodomapples 外観は美しいが、口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。

■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†■2024年1月27日UP■
■アナログ絵359「ベールの彼方の生活1巻」復刊書籍表紙UP。描き上げても復刊できない(祈)†
ご母堂の言葉で僕が特に気に入っているのは「悲劇をただの不幸と受け止める事がいかに狭い量見であるか」(29ページ)という部分で、僕は霊性発現とともに使命遂行人生に突入させられ、人生を完全に破壊されて最悪の状態に閉じ込められ続けている関係で霊団を心の底から激しく憎んでおり、本当の本気で反逆しまくっていますが、その破壊された人生も「その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になる」の言葉のように、最終的には全て佳きようにおさまるのでしょう。使命遂行を最後までやり切れば、の話ですが。あともうひとつ、ご母堂の言葉で僕の胸に突き刺さるものとして「確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。」(72ページ)というものもあります。これはオーエン氏が教会長老から弾圧を受けて弱気になっていた事を受けて「勇気をもってこの使命に邁進(まいしん)しなさい」と、言わば母が息子の“おケツをひっぱたいた”という事だと思うのですが、イヤー僕もこういう母に恵まれたかったですね。っとと、僕には“真実の母”守護霊様がいましたね。僕の性格は守護霊様のデザインであり、現在このような使命遂行人生が送れるのも(苦しい事イヤな事ばかりで全然うれしくも何ともありませんが)守護霊様が“導きのプロ”だったおかげです…続きを読む→
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†■2024年2月14日UP■
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†
「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→
■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†■2024年2月29日UP■
■アナログ絵361「ベールの彼方の生活3巻」復刊書籍表紙UP。ヨハネ氏です(祈)†
まず「5章 生前と死後 2 一牧師の場合(127ページ)」ですが、物質界で牧師をしていた男がネインという女性の忠告を受けて1界(これはかなりの下層界です)に赴くというお話ですが、皆さまはこのお話を「あぁ、霊的な事を正しく理解していない牧師の没落ストーリーだな」といった感じに読まれる事と思います。確かにその通りなのですが、どうかもう1レイヤー2レイヤー深いところまでお読み頂きたいのです。このネインという女性はわずか2、3歳で夭折した牧師の妹で、男はこの妹を大変可愛がっていたそうですが、霊格が低いこの男はその成人した姿の女性を自分の可愛がっていた妹だと気づく事ができません。しかし1界で辛酸を味わい尽くし霊的向上を果たした暁にはこの男の霊の眼が開かれ、ネインが自分の妹だと気づく日が(男の様子からするとそれは相当先の話になりそうですが)来ます。必ず来ます。その時にこの男は「あぁ!あれほど愛した妹の事が分からずにいたなんて、自分は何という愚か者だったのだ!」みたいな感じになって大いに涙を流して反省し、そこからこの男の「向上ストーリー」が一気に加速する事になります…続きを読む→