– 霊は、祝い祭る、ということが好きのようである。そのせいであろう、キリスト教の祝祭日に関連した特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として、3年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。1874年のインペレーターによるメッセージに比べると、1875年に別の霊がサインしたものが、雰囲気も異なり観点も違う点に気づかれるであろう。
イエスの虚像と実像
– イースター、1874年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが届けられた。
あの通信が届けられたころのそなたの心境と現在の認識とを比べれば、そなたの進歩のよい指標となろう。重大な問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めてきたかがよくわかるであろう。あのころ、われわれは、いわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説きました。
遠い未来ではなく、死の瞬間における霊の蘇りの真相を説き明かしました。それは、その時点においてはそなたにとって初耳でした。が、今は違います。当時理解に苦しんだことについて、今は明確な理解ができております。
イエスの地上での使命を、今われわれ使者を通して進展中の仕事についても説きました。イエスの真の神性 – そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説きました。
イエスみずからが述べたように、イエスもそなたたちと同じ1個の人間であったこと、ただ比類ない神性を体現した至純・至高の人間の理想像であったことを説きました。愚かしい神学によってでっち上げられたイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての霊覚者イエスの実像を明かすことができました。
イエスは肉体をたずさえて昇天したのではありません。が、決して死んでしまったわけでもありません。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説きました。われわれも同じことをする日が到来するかも知れません(1)。
今そなたが見ているのは、これから始まる新しい神慮 – 人間が空想し、神学者が愚かにも説いた人類の終末の審判者としての“主”の出現ではなく、われわれ使者を通じての新たな使命(実は旧い真理の完成)、地上への新しい福音の啓示という形による“主”の出現 – の前ぶれとしての“しるしと不思議(2)”なのです。
すでに地上に進行しつつあるその活動の一環を、われわれも担っているのです。イエスの指揮のもとに新しい福音を地上にもたらすことが、われわれの使命なのです。今はその一部しか理解されないでしょう。
が、いずれ、のちの時代に、それが神から授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることでしょう。
俗世にあって俗世を超越する
このところそなたの反抗性が減り受容的態度が増してきたことで、われわれによる直接的な働きかけが目立って容易になってきました。忍耐づよく待つ心とともに、祈りの気持と不動の精神をぜひとも堅持してもらいたい。目指す目標から目を外らせてはなりません。
今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを、繰り返し、じっくりと噛みしめることです。進歩の妨げとなる障害物を、つとめて排除してもらいたい。
もっとも、日々の勤めをおろそかにしてもらっては困ります。そのうち、今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではなさそうです。そのためには、まだまだ試練と準備とが必要です。
友よ、その時期までには、そなたは火の如き厳しい鍛練を必要とすることを覚悟されたい。地上的意識を超えて、高級霊の住まう高き境涯へと意識を高めねばなりません。これが、われわれからの復活祭(イースター)のメッセージです。
死せるものから目覚め、魂を蘇らせよ。
地上世界の低俗な気遣いから超脱せよ。
魂を縛り、息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。
死せる物質から生ける霊へ、俗世的な取り越し苦労から霊的な愛へ、地上から天界へと目を向けられよ。
地上生活にまつわる気苦労から霊を解放せよ。
これまでの成長の補助的手段にすぎなかった物的証拠ならびに物理的現象を捨て去り、そなたの興味を地上的なものから霊的真理の正しい理解へと向けられよ。
イエスが弟子たちに申したであろう – “この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ”と。次のバイブルの言葉もそなたの心の糧とされよ。
“そなたたち、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん(3)。”
常に向上心を
– 私がこの世的なことに無駄な時間を費してきたとおっしゃっているように聞こえますが…
そうは言っていない。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことはしなくてはならないと言ってきたつもりです。
が、われわれの願いは、そうした客観的証拠がもはや必要としない段階においては、そこから霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることです。常に向上を心掛けてくれることを望んでいるのです。そして、そなたに求めることをすべての人間に求めているのです。
– さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世の仕事に不向きとなり、ガラスケースにでも入れておくほかはないほど繊細(デリケート)となる – つまり霊界との関係にのみ浸りきり、世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのか、と尋ねた。
霊媒には環境も背後霊もまったく異質の別のタイプがあります。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想でしょう。そなたもいずれはそのように扱うことになるでしょう。もともとそなたを選んだのは、そうしたもくろみがあってのことです。
だからこそ自制心に欠け邪霊の餌食となりやすい人間となるのを防ぐために、あえて時間を犠牲にしてきたのです。時間を掛けるだけ掛ければ、疑念と困難が薄れ、代って信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのです。
焦ったからとて、その時期の到来が早まるものではありません。たとえ早まるとしても、われわれは急ぎません。が、霊的向上心の必要性だけは、われわれの仕事に関わるすべての人間に促してきました。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも、常づね印象づけてきたつもりです。
– ここで私は、かつて述べたことがあることを改めて述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、特には有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、むやみに利用すると危険である、といったことだった。
さらに私は、信念が必要であることは論をまたないが、私には私なりの十分な信念ができていること、これ以上いくら物理的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。すると –
“山をも動かす”信念
そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いです。信念が真実の意味で拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいる、冷ややかにして打算的かつ無気力な信念とは、およそ質を異にするものとなるでしょう。
今の程度の信念では、本格的な障害に出遭えば、呆気なく萎(しぼ)むことでしょう。まだまだそなたの精神に染み込んでおりません。生活の重要素とはなっておりません。ある種の抵抗に遭うことで力をつけることはあるでしょうが、霊界の邪霊集団の総攻撃に遭えば、ひとたまりもないでしょう。
真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越した無条件の“あるもの”によって鼓舞されたものであらねばなりません。魂の奥底から燃えさかる炎であり、湧き出る生命の泉であり、抑えようにも抑え難いエネルギーであらねばなりません。
イエスが“山をも動かす(4)”と表現した信念はこのことだったのです。それは、死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しい試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を、首尾よくゴールへ向けて導いてくれるはずのものです。
この種の信念をそなたはご存知ない。そなたの信念はまだ信念とはいえません。ただの論理的合意にすぎません。自然に湧き出る生きた信念ではなく、常に知的躊躇を伴った検討のあげくに絞り出された、“知的合意”にすぎません。
安全無事の人生を送るには間に合うかも知れませんが、山をも動かすものではありません。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れませんが、魂を鼓舞し元気づけるほどの力はありません。
知的論争における楯としての効用はあるでしょうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為や崇高な目的の遂行において圧倒的支配力をふるう、魂の奥底から絶え間なく湧き出る信念ではありません。その辺の認識がそなたには皆無です。
が、心しておかれたい。そのうちそなたも過去を振り返って、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつ又、その及び腰の信念でもって神の真の扉が開かれるのを夢想したものであると、驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことです。その時節が到来すれば、信念に燃え崇高な目的に鼓舞された生ける身体の代りに大理石の彫像を据える愚はしなくなるでしょう。
とにかく、そなたにはまだ信念といえるものはありません。
– あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、いささか希望を挫(くじ)けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか、理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。
違います。今のそなたは、内と外より影響を受けつつ、そなたみずから造り上げてきたものです。外部の環境と内部の偏向、それに霊的指導が加わった産物です。そなたは誤解しています。われわれが批難したのは、その名に値しないものを信念であると広言したこと、そのことだけです。
案ずるには及びません。そなたは崇高な真理への道を歩みつつあります。なるべく現象的なものを控え、内的なもの、霊的なものの開発を心がけてほしい。信念を求めて祈られよ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼ぶものが魂に注がれ、その力によって、より高い知識へと導かれるよう祈られよ。そなたの、その“あらぬ気遣い”がわれわれの妨げとなっております。
†インペレーター
– イースター、1875年。午前中、かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及したあと、それまでとはまったく異質の影響力のもとに、次のようなメッセージが綴られた。ただし筆記者はいつもの霊(レクター)である。
物質からの復活
すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝います。イースターも、貴殿たちにとってと同じように、われわれにとっても祝日です。もっとも、祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が違います。
われわれにとってもイースターは復活を祝う日には違いないが、肉体の復活ではありません。“物質の”復活ではなく、“物質からの”復活であり、“霊の復活”です。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活でもあり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることです。
すべての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学ばれた。その意味において、キリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味を持つものです。
キリスト教徒は主イエスの、死による支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信じるのは誤りですが、霊にとって死は存在しないという偉大な真理を、そうとは知らないまま祝ってはいる。
それは、われわれにとっては人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらに又、この日に結実したイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大です。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について、おぼろげながらも理解しはじめたということです。
イエスは体質的にも非凡
– イエスの肉体的体質とその生涯の霊的な意義について尋ねると –
人類救済のために偉大な霊が地上に降誕した例はイエスひとりにかぎられたことではない、と言うに留めておきましょう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものです。
そうした特殊な降誕については、こののちさらに述べることになるでしょう。差し当たっては、人間の身体にも民族によって程度の差があるごとく、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差がある、と言うに留めておきます。
俗性と官能性とを多分にそなえた肉体もあれば、霊性の高い、洗練された肉体もある。中でもイエスは最も洗練された霊性の高い身体をそなえ、しかも、それがわずか“3年”の活動にそなえて“30年”もの鍛錬と修養を重ねられたのです。
[このとき私の脳裏に、3年のために30年を費すのは不釣合だ – もったいない、という思いが走った。]
救世主の仕事が地上生活の期間のみに限られていると思うのは間違いです。ナザレのイエスの場合に見られるように、本当の影響はその死後の余波にある場合がよくあります。イエスの仕事はその3年の間に“始まった”のであり、そして“今なお続いている”のです。
イエスの生活の特質は、威厳と謙虚の合体でした。偉大さと平凡さの結合にありました。偉大さが発揮されたのは誕生時と死亡時、そのほか、ヨルダンにおいて霊やイエスを試し、その使命を神聖なものと認めた時(6)など、その生涯の節目にいくつか見られます。
イエスを知る住民たちは、イエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていました。その生涯が俗世間の社会生活や家族関係によって束縛されるべき人物でないことを知っておりました。
生活は庶民的だった
と言って、イエスを取り巻く生活の和気あいあいとした雰囲気は、イエスにとって心地よいものでした。そのことを住民はよく理解していました。バイブルは、そうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分です。
イエスの言葉と行為とが住民に及ぼした影響に関するものがあまりに少なく、他方、いつの時代にもあるように、新しい真理に盾突(たてつ)いた当時の学者ならびに貴族階級の愚かな誤解についての言及があまりに多すぎます。
律法学者、為政者、パリサイ派、ならびにサドカイ派の学者は、こぞってイエスの敵にまわりました。今もイエスが当時のありのままの姿で教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者もこぞってイエスを嫌い、あるいは迫害もしかねないでしょう。
仮りに貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちからの証言を得たいとは思わないでしょう。イエスの言行についての記録がそうした無知な知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡な住民とともに暮らした生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述があまりに少なすぎるところに問題があります。
編纂者はイエスの直接の教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得たにすぎません。これでは、あたかも何世紀も後になって歴史を編纂するのにも似ています。その点をよくよく心していただきたい。
イエスの背後霊団
イエスの生涯は、世に知られているかぎりでは3年と数ヵ月でした。それまでの30年はそのための準備期間でした。その間ずっとイエスは、その使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団からの指示を受けておりました。
常に霊界と連絡をとっていたのです。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることができたのです。
地上の救済のために遣わされる霊は、そのほとんどが、肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外でした。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚が鈍らされることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡をとることができていました。
天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における自分の地位まで記憶していました。長時間にわたる入神も苦になりませんでした。そのことはバイブルに幾つかの例を見出すことができる – 荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶…いずれも誤り伝えられてはいますが。
さらに又、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあるでしょう。そうしたものが数多くあるのです。
イエスにとっては肉体がほとんど束縛とならず – それはまさに仮りの上着であり物質と接触する時にしか必要でなく – その生涯は、ふつう一般の人間とは質こそ同じであっても、次元において異っていました。清らかにして素朴であり、崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間でした。
そうした生活は同時代の者には決してその真価が理解されないものです。イエスが誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされたのは当然の結果でした。それは、一般より抜きんでた者に大なり小なり共通して言えることですが、イエスにおいてはまた格別でした。
犠牲としての死の真意
その聖なる生涯が、人間の無知と悪によって、その半ばにして終焉を迎えたわけです。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していません。
確かに、イエスは人類の犠牲となるために地上に降りました。が、その意味は、熱烈なキリスト教信者が説く意味とは異なります。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図したものではありませんでした。
使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかったのです。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしい出来事でした。
イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類を救いに来たのであり、その至上の目的のために自分の肉体を犠牲にしたのです。その意味においては確かにイエスは人類を救い、そして人類のために死ぬために地上に降りた。
しかし、あのカルバリの丘での終末のシーンに至る人間の愚かしい行為があらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって降誕したのではありません。これはきわめて重大な意味をもつ問題です。
もしもイエスが地上生活を全(まっと)うしていれば、人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れないものがあります。が、時期尚早だったのです。当時の人間は、その施された恵みのほんのわずかだけ味わって棄て去った – それを受け入れる用意ができていなかったのです。
同じことがすべての偉大な指導者についても言えます。まわりの者は理解し得るものだけ取って残りを後世へ譲り、ないしは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早にすぎた霊を崇め敬慕し、肝心の教えを勝手に曲解する…これ又、由々しき問題です。
受け入れの機が熟さないうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていません。否、それは神ご自身の計画の中にはないはずです。大神の統べ始められる全宇宙は、整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばなりません。
今も同じです。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に俗することができるでしょう。が、今はまだその時期ではなさそうです。
一握りの備えある者のみが、後世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を、今受け入れていくのです。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終ってしまったと言えるでしょう。
のちにキリストの名を冠する教会が誕生して、天使の影響のもとに、イエスの生涯が象徴する真理をかき集めました。が、悲しいかな、今やその真理も長い間の慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至っております(9)。
貴殿も知るとおり、キリスト教界の三大勢力(10)は、イエスの生涯の出来事のいくつかを祝うという点においては一致しています。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派がありますが、これは感心しません。
彼らは真理の一部をみずから切り取ったも同然です。が教会は主イエスを記念してクリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコステ等を祝います。これらはイエスの生涯の節目であり、それぞれが霊的な意義を秘めた出来事なのです。それを説明しましょう。
クリスマス Christmas(キリスト降誕祭) – これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴します。尊い霊が肉体を仮りの宿とし、人類愛から自己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは“無私の祭日”です。
エピファニー Epiphany(救世主顕現祭) – これは、その新しい光の地上への顕現を祝う日であり、われわれにとっては“霊的啓発の祭日”です。地上に生まれ来るすべての霊を照らす“真実の光明”の輝きを意味します。光明をひとりひとりに持ち運び与えるというのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高く掲げるのです。
レント Lent(受難節) – これは、われわれにとっては真理と闇との闘いを象徴します。敵対する邪霊集団との格闘です。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴します。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日です。
グッドフライデー Good Friday(聖金曜日) – これは、われわれにとっては闘争の終焉(しゅうえん)、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴します。ただし、“新たな生へ向けての死”です。それは自己否定の勝利の祭日です。つまりはキリストの生涯のもつ意味の理解と達成の祝日です。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく、愛の勝利を祝う日です。
イースター Easter(復活祭) – これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇る生命、神の栄光を授けられた生命を象徴します。今まさに自己を克服しつつある霊、そして又、これより克服へ向かう霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭です。
ペンテコステ Pentecost(聖霊降臨祭) – キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけていますが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日です。それは、“キリスト”の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日です。人間がその愚かさから、自分に受け入れられない真理を抹殺し、一方、その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であ
り、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日です。
アセンション Ascension(昇天祭) – これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日です。クリスマスをもって始まった人生が、これをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉です。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化された、ささやかな生涯の終焉です。使命の完遂の祭です。
以上が、キリスト教会の祝日に秘められた霊的な意味です。われわれの仕事の最高責任者であられる方(インペレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当ててくださったお蔭で、われわれが今こうして、すべての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのです。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明かされることになるのです。
われわれは、貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成したいと望んできました。これまでは破壊することが必要でしたが、今や構築を必要とする段階となりました。神の子羊、人類の救い主イエスがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したごとく、代ってわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばなりません。
イエスは真理を求めてあえぐ魂を地上的煩悩から救い出し、邪霊の支配から解き放しました。われわれは魂を人間的ドグマの束縛から解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らせたいのです。
磔刑(たくけい)と復活 – 自己犠牲と新生
[イースターメッセージ、1876年。私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に関わる象徴的側面について一段と踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は、“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生への道であると考えてよいかと尋ねた。するとインペレーターが – ]
その件に関しては、昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されています。すなわち物質からの復活であり、物質の復活ではないということです。キリスト教会が祝い続けてきたもろもろの祭日のもつ霊的意義についても述べてある。参照するがよい。
[言われるままに私は、1875年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、エピファニーは霊的啓発、レントは霊的葛藤、グッドフライデーは愛の勝利、イースターは蘇った生命、ペンテコステは豊かな霊的真理、アセンションは使命の成就を意味する、とある。]
その通りである。人間像の模範であったイエスの生涯は、地上に始まった生命の進歩的発展が、そなたたちの用語で言えば、天国にて完成される – 自己否定の中に誕生し、昇天の中に終焉を迎えることを意味しています。
そのイエスの生涯の中に、霊が肉体と結合し、そして解放されていく過程を、ひとつの物語を読むごとくに読み取ることができよう。天使の加護のもとでの30余年の準備期間は、イエスの使命にとって相応しいものであり、3年という短い期間も、人間の理解能力に相応しいものを行使するには十分でした。
人間の霊も、その発達過程においては、教会が祝う祭に象徴される過程をたどります。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。
自己否定の中に誕生した生命が犠牲的生活の中で進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、および敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、物的なものから超脱し、イースターの朝、物質の墓から昇天し、それを機に、豊かな聖霊の洗礼を受けて新しい生命として生まれ変わり、ついには地上生活の徳性によって用意された境涯(11)へと進む。
日々新たに
これこそ霊の進化であり、磔刑と復活によって端的に象徴されている霊的新生の過程と言えよう。古い自我が死に、その墓場から新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られてきた自我が十字架にかけられ、新たな自我が神聖な霊的生活を送るべく昇天する。
肉体的生活の終焉は霊の新生です。そしてその過程が自我の磔刑 – パウロの言う“日毎の死(12)”です。霊的生活に停滞があってはなりません。麻痺があってはなりません。不断の成長であり、日々の生活における真理の体得であらねばなりません。
地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応した霊的なもの、天上的なものの啓発であらねばなりません。言い変えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生活についての理解を深めることです。
物質的なものからの超脱と霊的なものへの発展 – あたかも火のごとき、すべてを焼き尽くすほどの熱誠によって焼き払うごとく、物的な汚れを清めていくことです。それは自我と、自我にまつわるすべてのものとの闘いであり、
神の真理の終りなき悟りのための行(ぎょう)です。
これを除いて他に霊の浄化の方法はありません。鍛練の炉は自己犠牲です。これに例外はありません。ただ、霊的な炎が一段と大きく燃えさかる偉大な霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがあります。
他方、鈍重な霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と、幾度も繰り返されることになります。いち早く地上的なものから脱し、浄化の炎を有り難く受け入れる者は幸いです。そうした者は進化も急速であり、浄化も確実です。
– その通りだと思います。が、その闘争は酷(きび)しく、何から克服していくべきか迷います。
3つの敵
まず内部(うち)より始めよ。往古(いにしえ)の賢人は、魂の敵の表現において見事でした。魂には3つの敵がある – おのれ自身と、それを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団です。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現しています。
まずおのれ自身、すなわち“肉”の克服から始めるのです。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして我欲を抑え、隠者的独房から出て、宇宙的同胞主義の自由な視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まずおのれ自身を克服することです。これが第一歩です。まず自分自身を十字架にかけなければいけません。そうすれば、おのれを埋葬した墓地から、物的束縛のない魂が自由に羽ばたくことでしょう。
これさえ成就されれば、その魂にとって、目に映じる物を忌み、永遠の価値あるものに憧れるようになるのは、さして困難ではありません。真理は永遠なるものの中にのみ発見されのであることを悟り、そう悟った時から、外界の物的形体を真理の影 – 人を迷わせ真実の満足を与えない外敵 – として、ひたすらそれとの闘争を続けることになるでしょう。
物質は殻であり、それをはぎ取ってはじめて真理の核が得られることを知ります。また、物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)い幻影であり、その奥に、悟った者のみに見出せる霊的真理が隠されている。そう悟った魂にとっては、もはや、物的なものを避けてその殻の内部の真理を求めるように改めて説き聞かされる必要はありません。
表面上(うわべ)の意味が霊的理解力においてまだ幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的な霊的真理が潜んでいることを悟っております。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかな理解力にかなう真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。
その魂にとっては、真実の意味において“身を捨ててこそ浮かぶもあれ(13)”なのです。その生活は魂のための生活です。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も、もはや魅力はないからです。
が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて、邪霊の敵対行為も目立ってくるものです。不倶戴天の敵ともいうべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通して絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らします。信仰厚き魂はそのひとつひとつを首尾よく克服していくことでしょう。
が、地上生活においてそれが完全に絶える日は、ついぞ訪れぬものと覚悟されたい。何となれば、それはより高度の霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏み台だからです。
魂の不滅の輝き
以上が、簡単ではあるが、進歩的人間のたどる生活です。すなわち、おのれを十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活です。そこに停滞は許されません。休息もありません。そして終息もありません。
“1日1日が死であり”、“そこから新たな生活が始まります”。不断の闘争であり、そこから止まることのない進歩が得られるのです。魂に内在する霊的な灯火(ともしび)が徐々にその光度を増し、ついに完全な光輝となるための絶え間ない闘争です。そなたたちのいう天国は、こうした厳しい闘争の末においてのみ得られるものです。
– Sic itur ad astra.(14)(これぞ不滅の輝きへの道なり)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学(オカルト)においても中心的思想となっています。イエスの言葉の中にも、その生涯を通して鼓舞し続けた同じ思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。
そこにこそ、イエスが述べた通り、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるのです。この高度な理想は、日常の雑務に心を奪われている者には、まずもって実現は不可能です。
だからこそわれわれは、そなたの関心をできるかぎり物理的交霊実験から逸らそうとしてきたのです。危険とみたのです。物理的現象から超脱するよう努力せねばなりません。構ってはなりません。理想の霊的な交わりは日常的煩悩に追いまくられなくなった者にのみ可能です。
– ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容(あいい)れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために、世間との接触に適応できなくなる – あるいは、とにかくその霊媒の性格がふつうの生活をしにくくさせるものとなり、そういう種類の影響ばかり引き寄せるようになる、と。
そうした傾向は多分にあります。だからこそわれわれは、あまり物質的すぎる現象を控え、危険性の少ない精神的現象を発達させてきたのです。とにかく、われわれがすべてを良きに計らっていると信じるがよい。危険なのは、背後霊が背後霊としての仕事がやりにくくなった時です。そうなった時の危険性は深刻です。が、案ずるには及びません。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱強く待つことです。
†インペレーター
イエスの生涯が象徴するもの
[イースター、1877年]
神の祝福のあらんことを!この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思います。
このキリスト教の祭日のもつ素朴な象徴的意義については述べません。すでに述べてあるからです。すなわち葛藤のあとに得られる勝利について説きました。そなたも人間イエスの生涯の中に霊の向上進歩がいかに象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。
さて、救世主イエスは、神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活から地上へと降りられた。至純なる霊が1個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中で誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩をそなえ、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から逃れることのできない、1個の人間となられたのです。
そこに、進歩の唯一の手段としての、霊から物質への降誕のひとつの典型を読み取っていただきたい。遠い過去より存在し続け、必要かつ十分な発達を遂げた霊が、他の手段では絶対に得られない進化の不可欠の要素としての葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということです。
かくして人類の境涯へと誕生したイエスは、たちまちにして“この世の君(15)”サタンによる迫害に身をさらされた。時の権力者たちは、こぞってイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからです。
すでに述べたように、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかるごとに天使の一団が見守っているが、その恩恵は、格闘と煩悶[のちに“葛藤”の意であるとの説明があった]の末でなくしては得られません。危険を冒すこともなく、必死の努力をすることもない、ただのんびりと夢見るような生活の中からは得られません。
もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とはいえません。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのです。このことを、とくと心するがよい。肉体をたずさえて生をうけた霊には、常にこれを滅ぼそうとする霊が付きまとうことを知るがよい。
幼な子イエス
幼なき日のイエスも、そうした外敵の危険を察知した両親によって、安全の地を求めてエジプトへ連れて行かれました。そしてその地で豊かな霊的知識を身につけることになります。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露した知識の多くは、そのエジプト滞在中に摂取したものでした。
そなたにとっては、もはやそうした闘争の意味について改めて探る必要はあるまい。敵に取り囲まれ、怯(おび)えるその霊は、エジプトをおいて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか – 先人が苦闘の中に蓄積した神秘的知識と体験の記録の豊富な土地にそれを求めたのは、けだし賢明だったと言えよう。
神秘的知識の豊富なエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ、徳性を涵養して、霊的武力をそなえる兵器庫のようなものでした。
と言うのは、実を言えばエジプトへの脱出にはふたつの意味があったのです。ひとつには安全な土地への逃避でしたが、今ひとつは、教育のための留学の目的もあったのです。
すなわち徳性を涵養し、その中から霊的闘争の武器を身につけるために、エジプトという深遠な神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事な雰囲気の中に安らぎと憩いを求めたのです。
瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長 – イエスも、そのか弱い幼少時代から青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得した知識の中で、徳性が涵養されていったのです。まさに叡智と体力の増強の時期でした。
準備期から伝道期へ
救世主イエスの象徴的生涯のひとつの典型ともいうべき時代が、これにて終了します。準備期が終わり、公的生活が始まります。
つまり、大衆の求めるものをはるかに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく必死に自分にムチ打つ霊に、いよいよ第2の時期、われわれのいう“伝道期”に入るに先立って、その準備を整える期間を与えられて、可能なかぎりの真理を摂取したということです。
そなたには改めて説くまでもあるまいが、霊的進歩にとっては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を自分のために使用せず、生活のすべてにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく施せ(16)”の戒律を厳守することが必須の条件なのです。
ゆえに、自分に与えられたものは、それを求める者と分かち合わねばなりません。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えねばなりません。しかし、より深い、より天上的な真理は、イエスがひとりで山頂にこもって孤独な瞑想の中で自分自身と対峙(たいじ)し、背後霊団(17)との交わりの中に霊的生気を取り戻すことをしたように、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばなりません。
その時のイエスには、その体験を共にすべき地上の友はいなかった。ただひとり霊体に宿って地上を遠く高く離れた(18)。その時の情景は、ひとりを除いて、弟子たちには見ることができませんでした。そのひとりだけは幾度か、神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を目撃する栄誉に浴したのでした。
[のちに、そのひとりとは聖ヨハネであるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(19)を目撃している。]
この意味において、背後霊との交わりと同時に、地上の同志との交わりの中に霊的真理による救いと喜びを分かち合うことができる者は幸いです。霊的真理は、分かち合うことによっていささかもその恩恵が減少するものではありません。一途な目的と、真摯にして完全な共感の絆さえあれば、見る者が増えたからといって真理の光が減少するものではありません。
しかし、求道の世界では、たとえ同じ道を歩んでいても、二人三脚は滅多に望めるものではありません。たとえ目指すものは同じでも、それぞれにたどるべき道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、ひとりでそこに引き込もる時を持たねばなりません。
その宗教的向上心の生活と相まった陶冶(とうや)の生活は、来るべき奉仕的社会生活への準備なのです。救世主イエスは、エジプトで霊的知識を身につけ、瞑想の生活によって霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、福音を授けるべく熱意に燃えて、隠遁の生活からようやく大衆の中へと入って行きました。
イエスは真理に対する不敵な信念に燃えていました。が、決して破壊主義者ではありませんでした。破壊することではなく真理を成就することこそ、彼の眼目でした。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせるために土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことでした。
材料は手もとにあるものを使用し、その埃(ほこ)りを払い、生命を失った儀式も彼の誠意に満ちた言葉の魔法にふれて、生きた真理の象徴と化しました。骨と皮ばかりのやせこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのです。
霊的再生は自然の摂理
誠実な目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴な終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことがわかるであろう。すべては推移であり、緩やかな目覚めであり、それは今なお自然界に見られる通りです。
1年の終わりと始まりとに急激な断絶はありません。そなたたちの目には前年に埋められた墓の石蓋がいかなる力によって取り除かれたかがわからない。ある時はすべてが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなったかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じます。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えない霊力によって起こされるのです。
太陽がふたたび光を放ちます。その光は、死せる年が閉じ込められていた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげます。
やがて足もとはエメラルドのじゅうたんと化し、緑の平野が広がり、そして、見よ!やせ細れる者が生気を取り戻す、復活の季節(とき)が勢いよく訪れる…というよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのです。
同じ教訓を救世主イエスの生涯の中からも読み取ってもらいたい。伝道のために祖国に戻った時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々のごとくに霊性を失い、寒々としていました。
樹液が流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れた旅人の喉をうるおす果実ひとつなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病がすべてに蔓延しておりました。
そうした中に“神の使者”“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)” – これは“息子(サン)”でもあった(20)。両者に差異はない – が、死せるがごとき裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだのです。
そして、見よ、その変化を!空虚な形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかな教説が健全な生命によって生気を取り戻した。古き時代の説話に新たな奥深い意義がもたらされた。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していった。宗教はかつてなく高度にその霊性を増した。
イエスは形式に代って霊的意義を、けばけばしい儀式に代って静かな人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教 – 人に見せんがための宗教 – に代って、人目につかない隔離された部屋での、自分と神とのふたりきりの交わりを説いた。
これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代って温順にして霊性に富んだ求道の生活を説いたのです。その真実の例証は、騒々しい市場にはなくて静かな個室にあり、パリサイ派にあらずして収税史(21)にあり、大衆の目にあらずして大神の監視の前にありました。
生命の旅路
大自然とイエスの生涯に寓された教訓は、霊的生命の旅路にも見られます。学び得たかぎりの知識をたずさえ、徳性を培った魂は、試練の生活ののちに新たな生命の旅へと出発(たびだち)します。形式と儀式とにこだわってきた過去が、霊性を賦与されて新たな道が開けます。
信仰に目覚めた魂の目には、それまで単なる現象にすぎなかったものの裏に秘められた霊的意味が見えます。むき出しの枝が緑の衣をまといます。死んだように放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて、新たな生命の息吹きを取り戻します。
古いものが廃棄されるのではありません。質が変えられるのです。果たすべき義務が免除されるのではありません。逆に、より鋭い熱意と配慮をもって果たすことになるのです。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではありません。その長い過程が、ささやかな善行の霊的意義によって、楽しく、かつ誇り高いものとして感じられるようになるということです。
あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸にはたして生命があるのでしょうか”と幾度も魂に叫ばしめた無味乾燥の儀式が、復活霊の息吹きによって生命と温もりと現実味を帯びます。それなりの効用を果たした古い儀式が、新たな環境に適応した生活へと再生されます。
古い生命力より一段と強さを増し、過去の美しさより一段と霊性を増して新生されます。若さを取り戻したのです。霊的に啓発された目をもってみれば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され、再生されていくものであることを知ります。
かくして魂は、それを取り巻く自然界全体の復活に参加するのです。生命を新たにし、高度な知識を獲得し、奥深い真理を悟り、貯えた力をたずさえて、啓発と発展のための手段を授けに、同胞のもとへ赴くのです。
その時はもう、平凡な人間とは物の見方が違っています。行為も異なります。何の変哲もない外観の内側に神の潜在力を読み取るようになります。いかなる厄介物といえども、剪定によって発育を促し、枯れ枝の刈り込みによって若い枝が生長するとみれば、そのための労も厭いません。
こうして同胞のための公的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては、絶え間なく霊的向上のための生活 – 真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって1歩でもイエスの完全な模範に近づかんとする修養を怠りません。こうした隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのです。
伝道者の宿命
主イエスの地上生活の終末シーンもまた象徴的意義を秘めています。それは、敵意と侮蔑と迫害を煽る時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らない真理に対する地上的報復なのです。
イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得なかったことに理解がいくことであろう。
恐れることを知らないイエスの出現に危惧の念を覚えた卑劣な神学者たちは、民衆をけしかけて一斉にイエスを攻撃させました。そうしなければ、自分たちがその虚飾の姿を赤裸々にさらされることになっていたかも知れません。
尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義者は、もしもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(22)と収税吏を戒めた以上の厳しい言葉で糾弾されていたかも知れません。
見せかけのみの儀式主義に堕し、金の力で容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(せいひつ)(23)にさえ不敬をはたらく忌々しいナザレイエスを憎むべき大罪人に仕立てなかったならば、やがて大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦の方が高い地位と権力とを手中にすることになるかも知れないと危惧した。が、そうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。
イエスの至純さと至善さは、怨恨を呼ばずにはおかないものでした。妥協を許さない真摯な態度は、嫉妬心を惹起(じゃっき)せずにはおきませんでした。その説くところの教義はあまりに厳しく、一般民衆にはついて行けませんでした。
その生活上の戒律はあまりに霊的にすぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。つまるところ、そうした高度の教えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのでした。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔刑(はりつけ)にすることにより、至純・至聖な“真理の子”に報復したのでした。
そういう次第だったのです。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることができます。中には神の使者の活動の波がたまたま通過した時代に、その波にのって時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に受け入れられ、その功ゆえに名誉と賞賛を得た改革者がいました。また中には、さらに多くの世俗的知恵に長(た)け、より多く世のために尽くした人物もいました。
が、そうした指導者は稀れです。大抵の指導者はイエスのように真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎えます。真実を説いた指導者に死が与えられる。が、その教えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世から消えてはじめて、その教えの真価が理解される。その例は改めて列記していくまでもないであろう。
物質の霊化
イエスが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせませんでした。悲劇のどん底にあってもなお鋭い直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白もせず、きわめて臆病でさえありながら、実はもっとも忠実な側近であった隠れた弟子のヨセフとニコデモのふたりのみであり、他はすべて逃走したのでした。
そして新しい真理の伝道者、新たな福音の宣教師は今いずこにあるのか – 身罷(みまか)ってしまったのです。そして彼の説いた福音は今いずこに?これ又、どうみても葬られたとしか思えなかった。それゆえ、誰ひとりとして福音のこともイエスのことも思い出さず、注意すら払わなかった。
しかし、人間の判断はとかく性急です。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ、時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が力を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じました。が、実はそれは天使の仕業だったのです(24)。
それと同じ力 – 完全に死んだものと思って埋葬した肉体に新たな生命を吹き込んだと信じられた力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育み、ついに諸国に波及させ、当時の霊的真理の強大な原動力とならしめたのでした。
それを個々の革命家に当てはめてみられよ。たどるべき宿命は同じです。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮りに訴えたとしても、それれが時宜(じぎ)を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならないのです。
それが神の選別の方法なのです。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及にかける意気込みも大となります。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろします。
その闘いの生涯がイエスのごとき終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重な配慮によって、その悲劇的運命が避けられるか – それは大した問題ではありません。
真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのです。それはちょうど、イエスが修行時代において孤独と瞑想の生活の中で誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中で身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じです。
愛の摂理の成就
修行時代を終え、新たな生命をたずさえて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、目覚めた魂に訪れる変化の象徴でした。この世に在りつつこの世の住民とならない生活 – 地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつも、それに隷属しない生き方、それをイエスは示しました。
さ
20
またイエスは常に、すべての霊的影響力に見られるかの最も強力な原理、すなわち“愛の摂理”によって鼓舞され続けました。イエスが姿を現わす時、あるいは何かを為す時、それは常に愛に発していました。そなたたちの手に残された記録は乏しく、かつ誤りに満ちているとはいえ、その原理を示す事象は十分に盛り込まれています。
イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しい境涯へと昇天して行きました。2度と御姿を拝することも、直接(じか)にお会いすることもできません。もはや形体をそなえた存在ではないからです。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっておられます。
みずからの発意によって地上界へ降誕する霊は、ことごとくその“愛”によって鼓舞されているのです。言いかえれば、彼らの使命はイエスと同じく愛の摂理に発しているのです。
人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級界の存在を引き寄せます。そして、界たすべき使命を終えれば、彼らも又、父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行きます。
種子の死
希望に燃えよ!そなたは真理の枯渇を嘆きすぎます。暗く寒い冬にあってはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”あってこそ“蘇り”があり、新しい生活、より広い視野と生き甲斐と目的をもった生活へと導かれるものであることを忘れている。
そうした生活には必ず死が先立つものであること – そなたたちが死と呼んでいるものは、神の真理に関するかぎり、豊かな実りをもたらすための必須条件としての“種子の死”にすぎないことを、そなたはご存知ない。
生へ向けての死 – これこそが魂のモットーなのです。より次元の高い生へと昇華されていく死です。墓場における勝利であり、死を通じての勝利です。霊的真理を扱うに当たっては、このことを忘れてはなりません。
輝きと静けさの中にある時こそ油断は禁物です。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇ききり、太陽が容赦なく照りつける時、か弱い植物はしぼみ、萎(しな)びていきます。
ゆえに、安逸と安楽の時、事が順調に運んでいる時、そして世をあげて“真理の言葉”を賞賛する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭がかげり、伝来の世俗的信仰の中に埋没していくことを案ずる必要があるのです。
すべての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要性が生じ、より深い真理が要求される時が到来しつつあるものと覚悟するがよい。
それとは逆に、強烈な抵抗の中にある時こそ、大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによってこそ頼もしい後継者が誕生し、その気力と精神力とによって抵抗をはね除け、神の規範を一段と有利な闘いの場へと導いてくれるであろうからです。
救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程には、そうした趣旨が秘められている。これは永遠に変ることのない比喩なのです。
[注釈]
(1)使徒行伝2・43
(2)中巻でも述べたように、この通りの言葉は現行のバイブルには見当たらないが、イエスのインドでの生活をテーマにした H.Kersten: Jesus Lived in India によると、インドのある礼拝堂の巨大なアーチに次のような文章が刻まれているという。“イエス曰く「この世は橋である。渡るのはよいが、そこに定住してはならない」と。”表現は違うが、言っていることは同じである。イエスは各地でこうした生き方を説いたのであろう。
(3)エペソ5・14
(4)マタイ17・20
(5)聖書(バイブル)全体に流れる基本的教説。
(6)マタイ3~4その他
(7)スピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて1度も物質界に生をうけたことのない霊の一団によって支配され鼓舞されていました」と述べている。日本でいう自然霊である。
(8)Calvary ゴルゴタ Golgotha のラテン名。イエスが十字架にかけられた地名。
(9)中巻第16章・注(1)参照。
(10)カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教。
(11)人間は日常生活において死後に落着く環境を築きつつあるというのが、高級霊界通信に共通した説である。
(12)コリント前15・31
(13)To die has been gain.
(14)ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道、すなわち不滅への道はかくのごとし、という意味。(ラテン語)
(15)the Prince of the World(ヨハネ12・31その他)
(1)マタイ10・8
(17)西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。(注(7)参照)
(18)幽体離脱現象。体外遊離ともいう。
(19)俗に、後光がさす、と言っているもので、一種の変容または変貌現象。
(20)Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。
(21)当時の民衆の尊敬を得ながら、現実には空理空論をもてあそんでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながらも、社会にとっては無くてはならぬ存在である収税吏の方が上であるということ。
(22)伝説的には、かつて売春婦で、イエスの教えで信仰に目覚めた女性とされているが、中巻でも触れたように、エリオットの『聖書の実像』によると“マグダラのマリヤ”の“マグダラ”には“癒やされた”という意味があるという、つまりイエスの霊力によって難病が癒やされた美貌の女性で、その感謝の印として生涯イエスに物質面で貢(みつ)いだということらしい。売春婦とされたのは、イエスを妬む者たちがでっち上げた中傷であろう。
(23)モーセの律法が記された巻物などが納めてある入れもので、ユダヤ教では神聖にして侵すべからざるもの。
(24)シルバーバーチは、イエスの死体はどうなったのかという質問に答えて、ただ一言“Banished.”と答えている。これは目の前から姿が無くなることを意味する語で、ここでは心霊学でいう“物質の気化現象”が起きたことを言っている。物品引奇現象(アポーツ)では、いったん気化して室内に持ち込み、それから再物質化するということが行なわれているが、イエスの肉体は気化されたまま大気中の元素に還元されてしまった。それを背後霊団がやったというのである。
■2023年2月15日UP■「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†僕もこれまで果てしなく霊的知識をお勉強し続けてきて、霊言を降らせる事の重大性は十分すぎるほど理解していますから、シルバーバーチ霊の言葉に反対を表明するほど愚かではありませんが、霊界にはウソというモノが存在しません、僕の心の中など霊団およびシルバーバーチ霊には全て丸見え筒抜けですからあえて正直に書かせて頂きますが、ハッキシ言ってもうウンザリなんですよ。霊性発現(2012年6月)から一体どれだけの月日が流れていますか。この10年以上、霊団はひたすら口だけをピーチクパーチク動かし続けてきましたが物的状況には一切変化はありません、さも今動く、今変わる的な事を延々言われてその通りにしてきてハッとうしろを振り返ってみたら最低最悪の場所にただ閉じ込められ続けただけだった。僕が霊団に対して抱いている怒り憎しみの念はもはやただ事ではないレベルになっているのです、長年の蓄積があるからです…続きを読む→ ■2022年4月27日UP■「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、自身の大犯罪を隠し通さなければ本当に逮捕になってしまうため、いつまでもどこまでもウソ洗脳ニュースをメディアに流し続けて国民をダマし続けなければならない。つまり「明仁、文仁、徳仁、悠仁にはウソをつき続けなければならない理由、動機、必要性がある」僕、たきざわ彰人には、これほど長い年月にわたって画家の夢Dreamworkを捨てさせられてブログでウソの内容を書き続けるなどという行為をしなければならない必要性が全くない。そもそも僕の人生の目的は全く別のところにある。「僕にはウソを公言する理由、動機、必要性がない」そんな事しても別に何にもならない…続きを読む→ ■2023年7月26日UP■「回心」僕の心の中の反逆の思念がだいぶ消されています、完全に操作されています(祈)†今度こそ、今度こそ、その場所から脱出してやると固く固く固く固く固く決意して、山のアタック帰還後にそのアクションを起こそうと準備万端整えて待機状態にしていたのです。それが一体何がどうなっているのか、あれほど強く決断したはずなのに、僕の心の中から反逆の思念がどんどん消えていくのです、おかしなおだやかさが広がっていくとでも言えばいいのでしょうか。僕は全然そんな風(おだやか)になるつもりはないのに、何が何でも反逆を実行し完結させるつもりでいるのに、全然反逆する気持ちが湧いてこなくなっていったのです。こんな事は有り得ない、それで「あ!また“パウロの波長”をやられたのか」と、後になって気づいたのでした。完全に心を書き換えられた、その威力のすさまじさに改めて驚愕した、という事がありました。つい2、3日前の事です…続きを読む→