[1876年4月26日。本節で紹介する通信は、通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。

数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙されやすく、かつその可能性が十分に有り得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完ぺきな一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、それはまず不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。

ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会で、その友人の映像が写真に写り、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真が撮られた時、私は入神していた。

撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の“面影”が容易に見て取れた。

実はこのケースにはもうひとつ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られた、と述べるに止めさせていただく。

この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真を霊界側がどうやってこしらえているかということだった。それによると、ひとりの霊が私のまわりで活発に動いて、複数の技術者に指示を与えていたという。

像のまわりのあの被(おお)いのようなものは、時間とエネルギーを節約するための処置だそうで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば”スケッチ”程度のものだったという。

そうした部分的物質化の作業にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者がたずさわるという。ひとりの心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似通った傾向が見られるのはそのためだという。

インペレーターとしては2度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力したのは、どうしても協力せざるを得ない時のみにかぎったもので、この度のこともインペレーターの意志にそったものではないとの説明があった。

その友人の霊は生前ずっと私の仲間だった人物で、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。したがって彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易だった。もっとも私はふたりの友人を伴っていて、そのふたりのための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

そういうわけで、友人はM霊の世話でその交霊会に出席し、M霊が技術者を指示して顔を整え、被いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材でこしらえ、実際にポーズを取り、それから撮影したという。こうした通信のあと、インペレーターが次のように述べた – ]

これよりそなたの友人のことについて述べたいと思うが、その前に、われわれはそなたが再び物理的現象に関わるのを防ぐべく、出来るかぎりのことをしたことを一言申し添えておく。

ようやく落着いてきた正常なエネルギーが再びその方向へ駆り立てられるのを望まなかったからです。そこで、われわれはそなたがその気持にさせられるような環境に置かれるのを阻止せんとしました。

以前にも説明したが、われわれは、そなたがいつまでも物理的段階にとどまっているのを不可として、交霊会を中止させました。友人がそなたに付きまとうのも好ましくないと見ていました。彼は霊的状態が良くありません。ゆえに、なるべくなら彼のことを構わずにいてほしかったのです。

が、いったんこうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばなりません。M霊は、そなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りです。霊と霊との間の親和力の法則です。そなたも知っていよう。

自殺した者の身の上

– 知っています。ですが、親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろその通りの結果が現実に出るのは稀れのように見受けられます。で、彼は今、幸せではないのでしょうか。

どうして彼が幸せであり得よう。神が進歩と発展を願ってその魂を宿した聖なる神殿(肉体)に冒瀆行為(自殺)を働いたのです。霊的成長の機会を無駄にし、真の自我である神の火花の宿る聖殿を、思いのかぎりに破壊したのです。そして今、魂に何の用意も出来ていない見知らぬ土地へ、道連れもなしにひとりで旅立ったのです。

父なる神の前から逃亡したも同然です。その彼がどうして幸せであり得よう。死して不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、さらには、寿命を全うせずして他界することによって地上の縁故者に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。

無益に過ごした生活がその代償を求めます。永年にわたって培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せなくします。生活そのものが利己的であり、地上で目指したものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えていない。

哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚めて精神的再生に至るまで、心の安らぎは与えられません。彼は今、まさしく“宿無し”の身です。

– 向上の望みはあるのでしょうか。

ある。望みはあります。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつあります。霊的暗闇を通して、おぼろげながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつあります。かすかながらも、自分の置かれている荒廃した状態についての知識に目覚め、光を求めはじめています。そなたの近くに留まっているのはそのためです。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばなりません。

– それはもう喜んで…ですが、どういう具合にすればよいのでしょう?

まず祈ってあげることです。祈りの力によって、高い世界のあけぼのを招来してあげることです。不幸な魂に、働くことの楽しい雰囲気を味わわせてあげることです。彼の魂は、聖純にして爽快な雰囲気がどういうものであるかがわかりません。

そなたにとって彼の存在は不快かも知れませんが、そなたがそれを教えてやらねばなりません。そもそも彼を呼び寄せたのはそなた自身なのです。そして彼は、そなたの誘いに素直に従っています。

彼の存在は我慢してやらねばなりません。われわれの警告と願いを無視してやったことであり、もはや取り返しはつきません。せめてもの慰めは、そうした努力によって、そなたも神の聖なる仕事にたずさわることになるということです。

利己主義の罪悪

– 私が呼び寄せたというのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけにはいかないと思います。

責任に問われるべきであったし、今なお問われて然るべきです。彼自身も今そのことに気づきはじめています。彼がみずからを傷つけた最後の罪業の種子は、すでに怠惰な無為の生活の中で蒔かれていた。彼は病的ともいうべき内向的性癖を培い、助長していた。自己のみを考察していた。

それも進歩や発展のためにではなく、また欠点を反省し徳を養うためでもなく、利己的排他性の中で行なっていた。言わば、歪められた利己主義の暗闇に包まれていたのです。それが彼に病をもたらし、あげくには霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられたのです。霊界から鵜の目鷹の目で見張っている邪霊に身をさらしてしまったのです。

その意味において彼は、そなたの言うごとく“狂って”いました。が、その狂気の行為は、彼のそれまでの所業の結果にほかなりません。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に、同じ邪悪な影響を及ぼしています。自分自身への災禍(わざわい)が今や、他の愛する人たちへの災禍となっているのです。

– 本当に恐ろしいことです!天罰の厳しさを見せつけられる思いがします。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよくわかります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。

利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に、多くの魂がこれに蝕(むしば)まれております。まさしく魂を麻痺させるものです。その利己主義がさらに内向的となれば、いよいよもって致命的となります。利己主義にもきわめて毒性の少ないものがあります。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらあります。

たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。

余計な気遣いを避けるために、いかなる指図にも従うわけです。いずれも魂の進歩にとっては障害となるものであり褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とはいえない。

彼の場合は、いかなる善行も活動も伴わない卑劣な利己主義でした。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもありませんでした。いや、自己満足以上のものでさえあった。何となれば、全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が浸蝕されていたからです。

この種の利己主義は自己にとっても縁ある人にとっても残酷な影響を及ぼします。罪にも段階があります。彼の罪はとりわけ度が深かった。これは彼のことではあるが、他人事(ひとごと)としてではなく、そなた自身のこととして聞くがよい。

か、しばし休むがよい。その間にわれわれがそなたの心から邪気を取り除いておこう。

[私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間にある心なごむ光景を見せられ、目を覚ますと、すっかり気分が爽快になっていた。]

自殺は利己主義の極

今ここで彼の無益な人生を事細かに詮索する必要はないでしょう。魂が異常な利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊でした。そなたのいう意味では確かに狂っていた。が、その狂える精神が支配するかぎり、自殺の手を押し止めることは何者にもできなかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのです。

しかし、そなたの罪の評価は幼稚です。あの状態を誘発したのは彼自身なのです。魂そのものが自分を敵に売り渡し、破壊するに任せたのです。彼の場合は、遺伝的精神病が正しい判断と行為とを狂わせたのとは異なります。自殺は利己的怠惰の所産にほかなりません。

理性の力を奪い、自殺という行為へ追いやったのは、誘惑の魔手でした。その誘惑は人によって別の形を取ることもあります。が、自己破滅にせよ、他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足も、その根源においては同じです。

授かった才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛をみずから想像してそれに没入し病的快感を覚えるような魂は、間違いなく病を得ます。存在の原理は活動することにあります – 神のため、同胞のため、そして自己のためにです。

ひとりのためにでなくすべての人のためにです。その摂理を犯す時、必ず悪が生じます。停滞する生活は腐敗し、周囲へも腐敗をもたらします。邪悪であると同時に有害です。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢である堕落の素地を築いていきます。

悪がいかなる形態を取るかは問題ではありません。根源は同じなのです。彼の場合は個人的危害の形を取り、無益な生涯をご破算にしました。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心まで傷つけることになりました。

生命の糸(2)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることができなかった。みずから傷つけた魂の宮が墓地へ葬られたのちも、そのまわりを漂っていた。

無意識のまま、みずから動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる客には歓迎される場はないのです。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様みずから破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められている同類の霊が、次から次へと、薄ぼんやりとした姿を見せる。彼が近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていきます。

良心の目覚めが救済のカギ

その悲劇 – 本人は悲劇であることを半分も自覚していませんが – それを少しでも和らげ、魂を癒やすための手段が講じられることになったのは、初めて良心の心の呵責の身震いが、天使に届いた時でした。

暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいて、その麻痺した良心の回復を加速させ、悔恨の情を目覚めさせるべく、手段を講じたのです。はた目には残酷に映るかも知れませんが、天使はあえて彼の置かれた惨めな状態に気づかせ、その罪の深さを映像として眼前に映し出す手段に出たのです。

悔恨の門をくぐり抜けずして魂の安住の地へたどり着くことはできません。ゆえに苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならないのです。
その努力も、しばし効を奏しませんでした。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は、今や嫌悪感さえ覚えるようになったその悲劇から抜け出す道を手探りで求めはじめました。

が、しばしば元へ引き戻されもしました。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのです。が、実はそうした過程の中にも、彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのです。誘惑霊たちはそうとは気づきません。彼はただその低劣きわまる本能のおもむくままに動いているにすぎません。が、その実、彼らも又、因果律の行使者なのです。

彼が救出される道はただひとつ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じてみずからの救済に勤しむことです。そこにたどり着くまでには、悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばなりません。それをおいて他に魂の清められる手段はありません。利己主義の罪は自己犠牲によって拭わねばなりません。怠惰は労苦によって根絶せねばなりません。

彼の魂は苦難によって清められねばなりません。それが向上進歩の唯一の道です。その道が彼の場合は、過去の誤った生活によって歩行困難、いや、ほとんど不可能にされています。しかし、努力によってたとえ1歩でも進まねばなりません。

しばしば転倒することでしょう。後戻りすることもあるでしょう。が、それによって、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのです。1歩1歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばなりません。

しかも、あちたりを取り巻く誘惑 – 向上せんとする魂を挫折させてやろうと企む邪霊たちのささやきと闘いつつ歩まねばなりません。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばなりません。これをもって“罰”というのです。それが、他のいかなる手段によっても得られない、天国への唯一の道なのです。

罪はみずから償うべきもの

むろん、天使の援助の手は片時たりとも控えられることはありません。向上心の芽生えた霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、天使にとって光栄ある使命なのです。

とは言え、たとえ慰めることはできても、当人の痛みひとつたりとも代りに贖(あがな)うことはできません。摂理への背反の天罰を、ひとつたりとも和らげてやるわけにはいきません。代償として支払うべき余徳などもありません。

友人といえども重荷を肩代りしてやることはできないし、疲れ果てた背中から、それを下ろしてやるわけにもいきません。衰えゆく精力を補い扶助するための補助的援助は許されても、重荷そのものは、あくまでも罪を犯した本人が背負わねばなりません。

それは、無為に過してきた人生が生む避け難い天罰です。それに耐えることによって半ば消えかかった火花がふたたび点火され、魂を導く灯火として、大きく燃え上がることになるかも知れない。

あるいは、そうした天使の声に耳を貸さず、相も変らず暗闇と孤独の中をさ迷い歩き、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛にさいなまれることによってのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れない。

そうした罪障消滅に費やされる期間(とき)は、そなたたちには永遠のごとく感じられるかも知れません。あるいは、状況が固定化する前に魂が目覚め、奮い立つこともあります。そして、必死の努力によって光明へと近づき、みずから進んで浄化のための苦難を求め、残った気力でもって地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れません。

それは有り得ることではあります。が、そう滅多にあるものではありません。性癖はそう簡単に変えられるものではないのです。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものではありません。利己主義や不徳の中で死を迎えた者は、往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境がすなわち地上生活の証にほかならないのです。

かすかながらも向上心の芽生えはじめた彼のために、援助の力が授けられることを祈ってやるがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによって慰められるよう、祈ってやるがよい。彼の病にとっては、そうした祈りこそ最高の良薬です。

[右の通信を読んで私は、これでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか – 人間にとっては理想があまりに高すぎる、と述べた。すると – ]

時々刻々の審判

とんでもない!われわれの述べたところでも、まだまだ実情のすべてではないのです。また、いささかの誇張も潤色も施しておりません。彼のような無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇的境遇の真の恐ろしさは、われわれにはとてもそのすべてを語ることはできません。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情がいかに痛烈なものであるかは、とても言葉で言い尽くせるものではありません。

その後に魂がたどる過程は、いかに立派な理想を言ってみたところで、われわれにも、いかんともし難いことです。ただ、永遠にして不変の因果律の働きを述べることしかできません。

身に染みた利己主義と犯した罪過が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることはできません。われわれがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる大神が定め給うた摂理なのです。そなたの身近かに証を見ることのできる法則の働きを指摘したまでです。

いつのことかもわからない死後の遠い遠い先のある日、全人類が招集されて“記録天使”とやらが“審判の書”を提出し、それを手にしたキリスト神がひとりひとりに判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられることなどということはありません。断じてありません。行為のひとつひとつが確実に魂に刻み込まれ、思念のひとつひとつが漏れなく記され、性癖のすべてが死後の性格的要素として持ち越されるという形での審判はあります。そのことを人間が忘れがちであるために指摘しておきたかったのです。

罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要りません。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えておきたいと思います。審判者は魂自身なのです。魂が自分と語り合い、おのれ自身の命運を読み取るのです。参考とすべき書類は、道義的分別の記録のみです。地獄とは、魂みずからが罪悪を焼き尽くそうとする悔恨の炎のことです。

しかもそれは、全人類が他界してしまった遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たな生命への蘇りと同時に始まるのです。気絶状態でもあるまいに、遠い彼方の、うっすらとしたモヤのような光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定(ひつじょう)なのです。

なぜこのようなことを申すかと言えば、われわれについて世間では、霊の教えは宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によってのみ支配され、いかなる行為をしようと、いかなる教義を信じようと、すべての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからです。

われわれはそのような無分別きわまる教理を説いているのではありません。そなたは、今はもうその点の理解ができていよう。が、そなたもそこに至るまでは、繰り返し繰り返し説き聞かさねばならなかった。

すなわち、人間は“みずから”の将来を“みずから”築き、“みずから”の性格に“みずから”押印し、“みずから”の罪悪の報いに“みずから”苦しみ、そして“みずから”救済していかねばならない、ということです。

われわれがこうした人生の暗黒面を取りあげたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからにすぎません。気品と美と天使の支配に満ちた明るい側面については、これまでたびたび言及してきました。

あふれんばかりの神の愛と慈悲、その神とそなたたちとの間を絶え間なく取りもつ天使の優しい心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗い側面 – 孤独と荒廃、邪悪による誘惑の存在について認識を改めておくのも無駄ではあるまい。

絶対的摂理の存在

理想が高すぎるとの意見であるが、そのようなことはない。もしも高すぎということになれば、高き理想は向上心に燃える魂を鼓舞するためにしか役に立たないことになります。

確かに向上心のない魂にとっては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪とによって蝕まれていない者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとっては決して高すぎることはない。

友よ、よくよく銘記されよ。人生には、いかなる者にも逃れ得ぬ摂理というものがある。人生とは旅であり、闘争であり、発展です。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続です。

闘争は目的成就まで絶え間なく続きます。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格からキリスト的大人の霊格への発達です。この摂理だけは絶対に曲げられません。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は望めません。

自分を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されていくのが、永遠に変らぬ必然性です。神より放たれた火花が、その父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのです。

真の幸福は、最高の理想を目指して生きることによってのみ獲得されるものであることを、そなたは今さら説き聞かされるまでもないと思うが、いかがであろうか。

怠惰な者、無精者はそれを知らないこと、邪悪な者、みずから望んで悪事を働く者には縁のないものであることは、改めて説くには及ぶまいと思われるが、いかがであろうか。

地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出るものであり、その道程において克服した危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも、改めて述べるまでもなかろうと思われるが、いかがであろうか。

天使は常にそうした魂を補佐しようとして見守っていること、天使はそのことを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害はこうむらぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが、いかがであろうか。

たとえ勝利の宣言がなされても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えません。勝利は葛藤の末に得られるもの、平和は艱難(かんなん)ののちに得られるもの、そして、発展は着実な成長の末に得られるものです。

[私は、当然そうであると思うと答え、人生の準備期においてはなるべく多くの知識を蓄積し、できるだけ多くの仕事をし、その上で叶えられるかぎりの安らぎを享受すべきであると思うと述べた。しかし、仕事と知識(とくに神そのものと神の未来についての知識)が安らぎまたは安息に先立つものである以上、瞑想の余地がないことになると思うと付け加えた。]

人生の3要素

違う。人生には3つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして3種の敵(3)との葛藤です。瞑想の生活は自己の認識にとって必須のものです。着実な成長の重要素です。それには当然祈りが伴います。すなわち肉体に閉じ込められた魂と、父なる神およびわれわれ神の使徒との霊的交わりです。

次に、魂がおのれを見出していく無数の局面 – 神の声なき声に耳を傾けるための静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえた厳(おごそ)かな神殿にて神を恭々しく讃える聖なる歌の斉唱、さらに又、言葉に出ず、他人の耳にも届かない魂の奥底からの、やむにやまれぬ向上心、こうしたものを通じて、神によって植えつけられた讃仰の本能がそのはけ口を求めるのです。

これは、絶え間ない悪との闘いには欠くべからざるものです。われわれはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張するものです。そなたも今少し安らかな思索の時を持つよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いております。

– 彼の無節操な行為の中には必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことはお認めになるでしょう?

無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそれに宿る魂の意志に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合もよくある。そうした場合には、魂に責任はありません。事故による傷害によって精神に異常をきたすこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もあります。

そうした原因に由来する時は誰にも咎められるいわれはありません。ましてや、公正なる神による咎めは絶対にありません。神は霊的動機と意図によって審判を下されるからです。

われわれがそなたの友人を咎めたのは、あの不幸な結末が、生涯にわたる罪悪の生み出したものであるからにほかなりません。それに関しては彼に責任があったし、今なお責任がある。そして彼も今そのことに気づきはじめております。

全能なる神よ、叡智を育み、そして授け給え。

†インペレーター

[注釈]

(1)F.A.Hudson 英国初の心霊写真霊媒で、本巻ならびに中巻の口絵写真の説明文を参照。

(2)霊的身体と肉体とを結び付けている帯状の紐。日本では古来“玉の緒”と呼び“魂の緒”と綴ることもある。霊視すると銀色(シルバー)に輝いて見えるので、英語ではシルバーコードと呼ぶことが多い。

(3)第30節“イースターメッセージ、1876年”を参照。

「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†■2022年10月12日UP■
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霊格がある一定以上まで高まると物質圏付近に降下する事さえできなくなるそうで、影響力を行使しようにもできなくなる、それで霊力に感応する僕のような人間に対して働きかけて間接的に仕事を前進させようとする訳です。霊界高級霊の方々は自分で最低界に降下して仕事をする事は基本的にできない(ごくまれに使命に燃えて肉体をまとって降下する神霊も存在するそうです、イエス様がその代表ですね)ですので霊力に感応する物質界の人間に仕事をやってもらう事になる訳ですが、僕の霊団に対する反逆ぶりを見ればお分かりのように、ああでもないこうでもないと文句ばかり言って高級霊の言う通りには動いてくれないものです。それで霊界側で作成した使命遂行ブループリントの全てを達成できず霊媒は帰幽し、残りの仕事は次の霊媒を見出してその人物にやらせるという事になるのですが、その霊媒が物質界に全くいないのです…続きを読む→
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僕が奴隷の女の子を救出すると、その霊団が降らせて教えてきた物的攻撃に晒される事になり、霊団はその攻撃から僕を守るために奴隷の女の子の救出をあきらめざるを得ないといったような事を言っているのです。そして奴隷の女の子の事をあきらめさせるために交霊会の事をずっと言い続けてくるのです。「アキトくんの気持ちは分からないでもないが、奴隷の女の子たちは自らの罪障消滅のため、霊的向上のために自ら志願してその人生を選択し、奴隷の女の子として物質界に降下した人間なのだ。それよりキミは自分の使命遂行を成功させる事を考えなさい」とでも言っている霊団の声が聞こえてきそうです。要するに奴隷の女の子たちを見殺しにするのは非情というのとは違う、霊的視点に立って考えないと真実の理解には到達しない、という事なのですが、この心の中に渦巻く釈然としない気持ちはどうやっても拭う事ができません…続きを読む→
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†■2023年6月7日UP■
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実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→

とにかく急がないといけません。僕はもうジイサンです残された時間は多くありません。できる限りの作業をして2度とこの不愉快極まる物質界に戻らなくて済むようにしなければなりません。もっとも作業の“質”が問題なのですが。

僕の絵はどれだけ描いても使命遂行のプラスにはならないかも知れませんが、そんな事言ったって人間は才能を賦与されて物質界に降下し、その才能を駆使して物質界での学びを得るという人生目標がある訳ですから、僕は絵の才能を賦与されて降下したのですから絵を描くより他にどうしようもないでしょう。本来の自分とかけ離れた作業をしてもクオリティが落ちるだけです。

もっともブログとか霊関連書籍のテキスト化とか、このあたりの作業は僕本来の作業とは言えないかも知れません。自分の人生でこんなにテキストと格闘するハメになるなどとDreamwork(画家活動)時代には考えもしませんでしたから。このテキストを撃つパワーを絵に向けるはずだったのです。そういう意味でも全然違う人生をやらされている事に対して今でも怒りの念を持っています。そうあって当然でしょう。

書籍のテキスト化の作業はもちろん継続中ですが、アナログ絵380にケリがついたら超久々にフラー26新規デザインに着手するつもりです。途中で止まっていますので一気に仕上げてしまいましょう。まぁ確かにプライオリティおよび残された時間の事を考えるとフラーはもうイイかも知れないと思ったりもします。1機描き上げるのに厖大な時間とパワーを必要としますので。

アナログ絵380を急いで6ページストーリーを完成させましょう。脱出は必ず完成させる。これは霊団に何と脅されても変更しない。書籍のスキャンもやらないといけないけどまずは絵に集中中(祈)†

脅迫パワハラ詳細解説■2021年11月3日UP■
「脅迫パワハラ詳細解説」この件についてしっかり書き残すべきと判断しました(祈)†
僕を含めた数人のレギュラーメンバーは全く人員のサポートがない最少人数の状況で大変な重労働を日々やらされています「この人数でこの仕事量はどう考えてもおかしい」と誰でも思うヒドイ状況で、そんな状況ですから人も寄り付きません、ますますレギュラーメンバーの苦悩は加速度的に増す事になります。そしていよいよ「脅し」が表面化してきます。その職場でもっとも役職が高い人間が、あたりかまわず従業員を脅すようになっていきました。仕事中に遠くからその役職の一番高い人間の金切り声が聞こえてきます。新入社員をどう喝しているのです…続きを読む→
「地球を1周」天皇一族の邪悪の正体はもう絶対に隠ぺい不可能という意味です(祈)†■2022年2月2日UP■
「地球を1周」天皇一族の邪悪の正体はもう絶対に隠ぺい不可能という意味です(祈)†
意味は単純明快、皆さまもお分かりの事と思います。こういう感じ「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する認識が完全に地球を1周した。今や世界中の人間が天皇などと自称するコイツらの真の悪の姿を正しく理解した。もはや古代の洗脳手法は通用しない。もうウソをつき通す事もゴマかし通す事もすっとぼけ続ける事も絶対に不可能。こういう意味で間違いないでしょう。そしてその理解から導き出される皆さまの当然の感情が「やめるべし」のインスピレーションという事になるでしょう。意味はもちろん「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を有罪と認定し、逮捕、死刑に追い込んで滅亡させるという事になります…続きを読む→
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†■2022年7月27日UP■
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†
霊界側の真の目的は「霊的知識を物質界全土に普及させるためのインパクト」だったのではないかと思っているのです。確か以前どこかのブログで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を霊団が「客寄せパンダ」として活用しているというのが真相なのではないか、といった趣旨の事を書きました。コチラ「ベールの彼方の生活 3巻8章 暗黒界の探訪」にありますように、霊界上層界の高級霊の方々は、圧倒的優位なポジションに立っている事を利用して下層界の低級霊の未熟さ、無能さ、愚かさを逆説的に自分たちの目的成就に活用する、といったお話が紹介されています。イエス様もこの暗黒界の探訪と同じように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を手玉に取って自分たちの目的成就つまりスピリチュアリズム普及に徹底的に活用した、という事なのではないかと思ったりもするのです…続きを読む→

霊性発現初期、使命遂行開始前(2012年6月~2014年7月)この時はWordPressなどやっておらず無料ブログで情報拡散し、Twitterを筆頭としたSNSのアカウントを消されまくっていました。ちょうどその頃、確か2014年7月10日か11日頃だったと思うのですが、この日付は「隔離フィールド」発動日と重なり、その時にTwitterで確か「霊的オーバーヒート」とツイートした記憶があります。

これはどういう事かと言いますと、原因不明の赤いできものがほぼ全身にできてパニクったというモノで(そのボツボツを霊的オーバーヒートと呼んだという事)その直後から「隔離フィールド」という未知の霊現象が開始されたのでした。

あの全身の赤いできものがなぜできたのか、今でもその原因が不明で、ちょうど隔離フィールドの発現タイミングだったのでたぶん霊的理由だろうと僕は思っているのですが、その時ほど大規模ではないのですが、現在の僕の両腕がその時の症状と酷似していて、赤いボツボツがたくさんできています。

先ほどこの事実に気付いて「まさか霊団がまたあの忌まわしき隔離フィールドをやるつもりじゃネィだろうな」と思ったりもしましたが(※隔離フィールドの説明は大昔の事ですので割愛させて頂きます)今のところそういう兆候はありません。

そうではなくてこれは僕の反逆を阻止するために霊団がインスピレーションつまり口頭による説得を断念して実力行使に出た、僕の肉体に霊的影響力を行使して異常を起こさせて霊団の導きに従わせようとする作戦を発動する合図なのではないか、などと深読みしたりもしてますがどうでしょう。

※「汗疹(あせも):汗に含まれるミネラルや老廃物が汗の通り道をふさぐことで、汗が皮膚の内部にたまり、ポツポツとした発疹ができます。」ググるとこのように出てきますのでまぁチョト考えすぎなのでしょうが、何しろ過去に隔離フィールドという忌まわしい経験をしていますので、チョトイヤなモノがフラッシュバックしてしまうのでした。

アナログ絵380、4ページ線画完成中スキャン完了中AffinityPhoto上のゴミ取りに入りつつ5ページの線画に突入中。とにかく急がないといけない。やるべき作業が殺人的にある、このままでは僕の物質界生活中に全作業を終える事ができない可能性が濃厚中。そうはいかない、何としてもやり切らねばならない。

ある脱出アイデア実行日を設定してますがまだその日は来ません。今は耐えるしかない。しかし決行したら必ず脱出という結果に到達してみせるぞ。霊団にどれだけ脅されても何が何でもやってやるぞ(祈)†
■2017年12月20日UP■
※だいぶ前に書いたブログです。 そうそう、隔離フィールド発動(2014年7月)ごく初期の頃、幽体離脱時にイエス様が「日本の恥!」と仰ったのです(祈)†
僕の全身に水ぶくれができて「霊的オーバーヒート」とその時はツイートしました。そしてこの時から霊聴にバカ(未熟霊)の声が聞こえ続ける状態にさせられたのです。2014年7月11日の事でした。この時は自分の身に何が起こっているのか分かりませんでしたが、まさにこの瞬間から【イエス様のご意志遂行】が完全スタートしたのでした。【隔離フィールド内の聖戦】及び【愛の試練(霊障イペルマルシェ)】という霊的試練を霊団が僕に降らせはじめ…続きを読む→
■2018年11月23日UP■
※コチラが2014年7月「イエス様ハンドリング」開始を告げる霊現象だったのです。 「隔離フィールド」予想図
はい。理解してみれば実に簡単な仕組みです。前ブログにて説明した通り(ベールの彼方の生活 第3巻“暗黒界の探訪”を参照して下さい)霊格の差を利用して、精妙な波長の僕の霊体はフィールドをラクラク通過できますが、波長の低い幽体をまとった未熟霊はフィールドを通過できず、ずっと閉じこめられた牢屋の状態、という霊現象なのです…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→

– 霊は、祝い祭る、ということが好きのようである。そのせいであろう、キリスト教の祝祭日に関連した特別のメッセージが数多く寄せられている。一例として、3年連続して送られてきたイースターメッセージを紹介しておく。1874年のインペレーターによるメッセージに比べると、1875年に別の霊がサインしたものが、雰囲気も異なり観点も違う点に気づかれるであろう。

イエスの虚像と実像

– イースター、1874年。前の年の同日にドクターとプルーデンスから送られた通信に言及したところ、次のようなメッセージが届けられた。

あの通信が届けられたころのそなたの心境と現在の認識とを比べれば、そなたの進歩のよい指標となろう。重大な問題についてその後いかに多くを学び、どれほど考えを改めてきたかがよくわかるであろう。あのころ、われわれは、いわゆる“復活”が肉体の復活ではなく“霊”の復活であることを説きました。

遠い未来ではなく、死の瞬間における霊の蘇りの真相を説き明かしました。それは、その時点においてはそなたにとって初耳でした。が、今は違います。当時理解に苦しんだことについて、今は明確な理解ができております。

イエスの地上での使命を、今われわれ使者を通して進展中の仕事についても説きました。イエスの真の神性 – そなたらが誤って崇拝してきた“主”の本来の偉大さについても説きました。

イエスみずからが述べたように、イエスもそなたたちと同じ1個の人間であったこと、ただ比類ない神性を体現した至純・至高の人間の理想像であったことを説きました。愚かしい神学によってでっち上げられたイエスの虚像を取り除くことによって、そこに地上の人間の理想像としての霊覚者イエスの実像を明かすことができました。

イエスは肉体をたずさえて昇天したのではありません。が、決して死んでしまったわけでもありません。霊として弟子たちに姿を見せ、共に歩み、真理を説きました。われわれも同じことをする日が到来するかも知れません(1)。

今そなたが見ているのは、これから始まる新しい神慮 – 人間が空想し、神学者が愚かにも説いた人類の終末の審判者としての“主”の出現ではなく、われわれ使者を通じての新たな使命(実は旧い真理の完成)、地上への新しい福音の啓示という形による“主”の出現 – の前ぶれとしての“しるしと不思議(2)”なのです。

すでに地上に進行しつつあるその活動の一環を、われわれも担っているのです。イエスの指揮のもとに新しい福音を地上にもたらすことが、われわれの使命なのです。今はその一部しか理解されないでしょう。

が、いずれ、のちの時代に、それが神から授けられた人類への啓示の一環であり、過去の啓示の蓄積の上に実現されたものとして評価されることでしょう。

俗世にあって俗世を超越する

このところそなたの反抗性が減り受容的態度が増してきたことで、われわれによる直接的な働きかけが目立って容易になってきました。忍耐づよく待つ心とともに、祈りの気持と不動の精神をぜひとも堅持してもらいたい。目指す目標から目を外らせてはなりません。

今まさに地上に届けられつつある神の聖なるメッセージを、繰り返し、じっくりと噛みしめることです。進歩の妨げとなる障害物を、つとめて排除してもらいたい。

もっとも、日々の勤めをおろそかにしてもらっては困ります。そのうち、今より頻繁にそなたを利用する時期も来よう。が、今はまだその時期ではなさそうです。そのためには、まだまだ試練と準備とが必要です。

友よ、その時期までには、そなたは火の如き厳しい鍛練を必要とすることを覚悟されたい。地上的意識を超えて、高級霊の住まう高き境涯へと意識を高めねばなりません。これが、われわれからの復活祭(イースター)のメッセージです。

死せるものから目覚め、魂を蘇らせよ。

地上世界の低俗な気遣いから超脱せよ。

魂を縛り、息を詰まらせる物質的束縛を振り捨てよ。

死せる物質から生ける霊へ、俗世的な取り越し苦労から霊的な愛へ、地上から天界へと目を向けられよ。

地上生活にまつわる気苦労から霊を解放せよ。

これまでの成長の補助的手段にすぎなかった物的証拠ならびに物理的現象を捨て去り、そなたの興味を地上的なものから霊的真理の正しい理解へと向けられよ。

イエスが弟子たちに申したであろう – “この世を旅する者であれ。この世の者となるなかれ”と。次のバイブルの言葉もそなたの心の糧とされよ。

“そなたたち、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん(3)。”

常に向上心を

– 私がこの世的なことに無駄な時間を費してきたとおっしゃっているように聞こえますが…

そうは言っていない。たとえ霊的教育を一時的に犠牲にしても、物理的実験等、地上の人間として必要なことはしなくてはならないと言ってきたつもりです。

が、われわれの願いは、そうした客観的証拠がもはや必要としない段階においては、そこから霊的教訓の段階へと関心を向けてくれることです。常に向上を心掛けてくれることを望んでいるのです。そして、そなたに求めることをすべての人間に求めているのです。

– さらに幾つか質問したあと私は、霊的に向上していくと俗世の仕事に不向きとなり、ガラスケースにでも入れておくほかはないほど繊細(デリケート)となる – つまり霊界との関係にのみ浸りきり、世間的な日常生活に耐えられなくなるが、それが霊媒としての理想の境地なのか、と尋ねた。

霊媒には環境も背後霊もまったく異質の別のタイプがあります。その種の霊媒にとってはそうなっていくことが理想でしょう。そなたもいずれはそのように扱うことになるでしょう。もともとそなたを選んだのは、そうしたもくろみがあってのことです。

だからこそ自制心に欠け邪霊の餌食となりやすい人間となるのを防ぐために、あえて時間を犠牲にしてきたのです。時間を掛けるだけ掛ければ、疑念と困難が薄れ、代って信念が確立され、過度の気遣いも必要でなくなり、その後の進歩が加速され、安全性が付加されると考えたのです。

焦ったからとて、その時期の到来が早まるものではありません。たとえ早まるとしても、われわれは急ぎません。が、霊的向上心の必要性だけは、われわれの仕事に関わるすべての人間に促してきました。同時に、物理的基盤が確立した以上、こんどは霊的構築の段階に入るべきであることも、常づね印象づけてきたつもりです。

– ここで私は、かつて述べたことがあることを改めて述べた。すなわち、私はあくまでも私の信じる道を歩むつもりであること、世間でスピリチュアリズムの名のもとに行なわれているものの多くが無価値で、特には有害でさえあること、霊媒現象というものはおよそ純粋な福音であるとは思えず、むやみに利用すると危険である、といったことだった。

さらに私は、信念が必要であることは論をまたないが、私には私なりの十分な信念ができていること、これ以上いくら物理的証拠を積み重ねても、それによって信念が増すものではないことを付け加えた。すると –

“山をも動かす”信念

そなたの信念が十分に確立されていると思うのは間違いです。信念が真実の意味で拡充され純粋さを増した時、今そなたが信念と呼んでいる、冷ややかにして打算的かつ無気力な信念とは、およそ質を異にするものとなるでしょう。

今の程度の信念では、本格的な障害に出遭えば、呆気なく萎(しぼ)むことでしょう。まだまだそなたの精神に染み込んでおりません。生活の重要素とはなっておりません。ある種の抵抗に遭うことで力をつけることはあるでしょうが、霊界の邪霊集団の総攻撃に遭えば、ひとたまりもないでしょう。

真実の信念とは“用心”の域を脱し、打算的分析や論理的推理、あるいは司法的公正を超越した無条件の“あるもの”によって鼓舞されたものであらねばなりません。魂の奥底から燃えさかる炎であり、湧き出る生命の泉であり、抑えようにも抑え難いエネルギーであらねばなりません。

イエスが“山をも動かす(4)”と表現した信念はこのことだったのです。それは、死に際しても拷問に際しても怯(ひる)まぬ勇気を与え、長く厳しい試練を耐え忍ぶ勇気を与え、勝利達成への道程にふりかかる幾多の危険の中を、首尾よくゴールへ向けて導いてくれるはずのものです。

この種の信念をそなたはご存知ない。そなたの信念はまだ信念とはいえません。ただの論理的合意にすぎません。自然に湧き出る生きた信念ではなく、常に知的躊躇を伴った検討のあげくに絞り出された、“知的合意”にすぎません。

安全無事の人生を送るには間に合うかも知れませんが、山をも動かすものではありません。証拠を評価し、蓋然性を検討するには適当かも知れませんが、魂を鼓舞し元気づけるほどの力はありません。

知的論争における楯としての効用はあるでしょうが、世間の嘲笑と学者の愚弄の的とされる行為や崇高な目的の遂行において圧倒的支配力をふるう、魂の奥底から絶え間なく湧き出る信念ではありません。その辺の認識がそなたには皆無です。

が、心しておかれたい。そのうちそなたも過去を振り返って、よくも今の程度の打算的用心をもって信念であると勿体ぶり、かつ又、その及び腰の信念でもって神の真の扉が開かれるのを夢想したものであると、驚き呆れる時も到来しよう。その時節を待つことです。その時節が到来すれば、信念に燃え崇高な目的に鼓舞された生ける身体の代りに大理石の彫像を据える愚はしなくなるでしょう。

とにかく、そなたにはまだ信念といえるものはありません。

– あなたは物事を決めつけるところがあります。おっしゃることは正しくても、いささか希望を挫(くじ)けさせるものがあります。それにしても“信仰は神からの授かりもの(5)”である以上、私のどこが責められるべきなのか、理解に苦しみます。私は“拵えられた”ものです。

違います。今のそなたは、内と外より影響を受けつつ、そなたみずから造り上げてきたものです。外部の環境と内部の偏向、それに霊的指導が加わった産物です。そなたは誤解しています。われわれが批難したのは、その名に値しないものを信念であると広言したこと、そのことだけです。

案ずるには及びません。そなたは崇高な真理への道を歩みつつあります。なるべく現象的なものを控え、内的なもの、霊的なものの開発を心がけてほしい。信念を求めて祈られよ。そなたがいみじくも“神からの授かりもの”と呼ぶものが魂に注がれ、その力によって、より高い知識へと導かれるよう祈られよ。そなたの、その“あらぬ気遣い”がわれわれの妨げとなっております。

†インペレーター

– イースター、1875年。午前中、かなりの数の霊が集まっているのを感じていた。そのことに言及したあと、それまでとはまったく異質の影響力のもとに、次のようなメッセージが綴られた。ただし筆記者はいつもの霊(レクター)である。

物質からの復活

すでに述べたように、われわれもよく祭日を祝います。イースターも、貴殿たちにとってと同じように、われわれにとっても祝日です。もっとも、祝う理由が異なり、その意義についての知識も次元が違います。

われわれにとってもイースターは復活を祝う日には違いないが、肉体の復活ではありません。“物質の”復活ではなく、“物質からの”復活であり、“霊の復活”です。それのみではない。物的信仰と物的環境からの復活でもあり、用を終えた死せる肉体から霊が昇天するように、地上的・物的なものから魂が解放されることです。

すべての物的存在に霊が内在するように、何事にも霊的な意味があることは貴殿も学ばれた。その意味において、キリスト教が祝うこの復活の教理は、われわれにとっても格別の意味を持つものです。

キリスト教徒は主イエスの、死による支配からの脱出を祝う。その際、それを肉体のままの復活であると信じるのは誤りですが、霊にとって死は存在しないという偉大な真理を、そうとは知らないまま祝ってはいる。

それは、われわれにとっては人間が真理を部分的にせよ霊的に理解していることを喜ぶ日であり、さらに又、この日に結実したイエスの大使命の成就を喜ぶ気持はさらに大です。貴殿たちが信じたがるように、死が征服されるというのではない。生命の永遠性について、おぼろげながらも理解しはじめたということです。

イエスは体質的にも非凡

– イエスの肉体的体質とその生涯の霊的な意義について尋ねると –

人類救済のために偉大な霊が地上に降誕した例はイエスひとりにかぎられたことではない、と言うに留めておきましょう。そうした救世主によって人類が得る救いは、その時代の必要性に応じたものです。

そうした特殊な降誕については、こののちさらに述べることになるでしょう。差し当たっては、人間の身体にも民族によって程度の差があるごとく、そうした救世主にも平凡な人間とは異なる次元において程度の差がある、と言うに留めておきます。

俗性と官能性とを多分にそなえた肉体もあれば、霊性の高い、洗練された肉体もある。中でもイエスは最も洗練された霊性の高い身体をそなえ、しかも、それがわずか“3年”の活動にそなえて“30年”もの鍛錬と修養を重ねられたのです。

[このとき私の脳裏に、3年のために30年を費すのは不釣合だ – もったいない、という思いが走った。]

救世主の仕事が地上生活の期間のみに限られていると思うのは間違いです。ナザレのイエスの場合に見られるように、本当の影響はその死後の余波にある場合がよくあります。イエスの仕事はその3年の間に“始まった”のであり、そして“今なお続いている”のです。

イエスの生活の特質は、威厳と謙虚の合体でした。偉大さと平凡さの結合にありました。偉大さが発揮されたのは誕生時と死亡時、そのほか、ヨルダンにおいて霊やイエスを試し、その使命を神聖なものと認めた時(6)など、その生涯の節目にいくつか見られます。

イエスを知る住民たちは、イエスがその生誕より死に至るまで尋常の人間でないことに気づいていました。その生涯が俗世間の社会生活や家族関係によって束縛されるべき人物でないことを知っておりました。

生活は庶民的だった

と言って、イエスを取り巻く生活の和気あいあいとした雰囲気は、イエスにとって心地よいものでした。そのことを住民はよく理解していました。バイブルは、そうしたイエスと住民との関わりについての叙述がきわめて不十分です。

イエスの言葉と行為とが住民に及ぼした影響に関するものがあまりに少なく、他方、いつの時代にもあるように、新しい真理に盾突(たてつ)いた当時の学者ならびに貴族階級の愚かな誤解についての言及があまりに多すぎます。

律法学者、為政者、パリサイ派、ならびにサドカイ派の学者は、こぞってイエスの敵にまわりました。今もイエスが当時のありのままの姿で教えを説いたならば、現代の知識人、博士、神学者、科学者と呼ばれる階層の者もこぞってイエスを嫌い、あるいは迫害もしかねないでしょう。

仮りに貴殿がわれわれのこうした仕事について語ることになった時、貴殿はまさかそうした階層の人たちからの証言を得たいとは思わないでしょう。イエスの言行についての記録がそうした無知な知識階層による迫害の叙述に偏り、平凡な住民とともに暮らした生活の中で見せた道徳的気高さについての叙述があまりに少なすぎるところに問題があります。

編纂者はイエスの直接の教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞(うわさ)をもとに間接的に資料を得たにすぎません。これでは、あたかも何世紀も後になって歴史を編纂するのにも似ています。その点をよくよく心していただきたい。

イエスの背後霊団

イエスの生涯は、世に知られているかぎりでは3年と数ヵ月でした。それまでの30年はそのための準備期間でした。その間ずっとイエスは、その使命達成に意欲と愛を寄せる天使の一団からの指示を受けておりました。

常に霊界と連絡をとっていたのです。その身体が霊の障害とならなかっただけ、それだけ自然に天使の指導を受け入れることができたのです。

地上の救済のために遣わされる霊は、そのほとんどが、肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外でした。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚が鈍らされることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡をとることができていました。

天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における自分の地位まで記憶していました。長時間にわたる入神も苦になりませんでした。そのことはバイブルに幾つかの例を見出すことができる – 荒野の誘惑の話、瞑想の習慣の話、山上における祈り、あるいはゲッセマネの園での苦悶…いずれも誤り伝えられてはいますが。

さらに又、イエスが語ったという天地創造以前の神の栄光の中での生活の回想についても、すでに貴殿もわれわれが授けた知識によって思い当たるものがあるでしょう。そうしたものが数多くあるのです。

イエスにとっては肉体がほとんど束縛とならず – それはまさに仮りの上着であり物質と接触する時にしか必要でなく – その生涯は、ふつう一般の人間とは質こそ同じであっても、次元において異っていました。清らかにして素朴であり、崇高にして情愛に満ち、また人々から愛される人間でした。

そうした生活は同時代の者には決してその真価が理解されないものです。イエスが誤解され、曲解され、誹(そし)られ、思い違いをされたのは当然の結果でした。それは、一般より抜きんでた者に大なり小なり共通して言えることですが、イエスにおいてはまた格別でした。

犠牲としての死の真意

その聖なる生涯が、人間の無知と悪によって、その半ばにして終焉を迎えたわけです。キリスト教徒がイエスは地上人類の犠牲となるために降誕したと述べる時、彼らはその真実の意味を理解していません。

確かに、イエスは人類の犠牲となるために地上に降りました。が、その意味は、熱烈なキリスト教信者が説く意味とは異なります。カルバリの丘(8)でのあの受難のドラマは人間の為せる業であり、神の意図したものではありませんでした。

使命遂行に着手したばかりの時点においてイエスを葬ることは、神の悠久の目的の中にはなかったのです。それは人間の為せる行為であり、邪悪にして憎むべき、かつ忌まわしい出来事でした。

イエスは、他のすべての改革者が救世主であったのと同じ意味において(程度は他に抜きん出ていたが)人類を救いに来たのであり、その至上の目的のために自分の肉体を犠牲にしたのです。その意味においては確かにイエスは人類を救い、そして人類のために死ぬために地上に降りた。

しかし、あのカルバリの丘での終末のシーンに至る人間の愚かしい行為があらかじめ神によって予定されていたという意味においては、イエスはそのような目的をもって降誕したのではありません。これはきわめて重大な意味をもつ問題です。

もしもイエスが地上生活を全(まっと)うしていれば、人類がいかに大きな恩恵をこうむっていたか、それは計り知れないものがあります。が、時期尚早だったのです。当時の人間は、その施された恵みのほんのわずかだけ味わって棄て去った – それを受け入れる用意ができていなかったのです。

同じことがすべての偉大な指導者についても言えます。まわりの者は理解し得るものだけ取って残りを後世へ譲り、ないしは性急のあまり脇へ押しやって目を呉れようともしない。そして後世の人間がその時期尚早にすぎた霊を崇め敬慕し、肝心の教えを勝手に曲解する…これ又、由々しき問題です。

受け入れの機が熟さないうちに真理を押しつけることは、われわれには許されていません。否、それは神ご自身の計画の中にはないはずです。大神の統べ始められる全宇宙は、整然たる進化と組織的発展の中に営まれねばなりません。

今も同じです。今もし人類にわれわれの授ける真理を受け入れる用意があれば、地上はかつて天使が神の真理の光を届けた時以来の全啓示に俗することができるでしょう。が、今はまだその時期ではなさそうです。

一握りの備えある者のみが、後世の者が喜んで喉の渇きを潤すであろう真理を、今受け入れていくのです。その意味においてイエスの地上での生涯は失敗であり、後世への潜在的影響力となることで終ってしまったと言えるでしょう。

のちにキリストの名を冠する教会が誕生して、天使の影響のもとに、イエスの生涯が象徴する真理をかき集めました。が、悲しいかな、今やその真理も長い間の慣習によって慢性化し、真の威力を失うに至っております(9)。

貴殿も知るとおり、キリスト教界の三大勢力(10)は、イエスの生涯の出来事のいくつかを祝うという点においては一致しています。その三大勢力以外に精進日と祭日を祝うことを拒否する派がありますが、これは感心しません。

彼らは真理の一部をみずから切り取ったも同然です。が教会は主イエスを記念してクリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコステ等を祝います。これらはイエスの生涯の節目であり、それぞれが霊的な意義を秘めた出来事なのです。それを説明しましょう。

クリスマス Christmas(キリスト降誕祭) – これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴します。尊い霊が肉体を仮りの宿とし、人類愛から自己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは“無私の祭日”です。

エピファニー Epiphany(救世主顕現祭) – これは、その新しい光の地上への顕現を祝う日であり、われわれにとっては“霊的啓発の祭日”です。地上に生まれ来るすべての霊を照らす“真実の光明”の輝きを意味します。光明をひとりひとりに持ち運び与えるというのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高く掲げるのです。

レント Lent(受難節) – これは、われわれにとっては真理と闇との闘いを象徴します。敵対する邪霊集団との格闘です。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴します。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日です。

グッドフライデー Good Friday(聖金曜日) – これは、われわれにとっては闘争の終焉(しゅうえん)、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴します。ただし、“新たな生へ向けての死”です。それは自己否定の勝利の祭日です。つまりはキリストの生涯のもつ意味の理解と達成の祝日です。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく、愛の勝利を祝う日です。

イースター Easter(復活祭) – これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇る生命、神の栄光を授けられた生命を象徴します。今まさに自己を克服しつつある霊、そして又、これより克服へ向かう霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭です。

ペンテコステ Pentecost(聖霊降臨祭) – キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけていますが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日です。それは、“キリスト”の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日です。人間がその愚かさから、自分に受け入れられない真理を抹殺し、一方、その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であ
り、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日です。

アセンション Ascension(昇天祭) – これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日です。クリスマスをもって始まった人生が、これをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉です。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化された、ささやかな生涯の終焉です。使命の完遂の祭です。

以上が、キリスト教会の祝日に秘められた霊的な意味です。われわれの仕事の最高責任者であられる方(インペレーター)がキリスト教的独善主義の壁を打ち崩し、迷信に新たな光を当ててくださったお蔭で、われわれが今こうして、すべての行事に秘められた真理の芽を披露することを許されたのです。人間的誤謬が取り除かれれば、それだけ多くの神の真理が明かされることになるのです。
われわれは、貴殿がこれまでに授かった教訓を補足し、完成したいと望んできました。これまでは破壊することが必要でしたが、今や構築を必要とする段階となりました。神の子羊、人類の救い主イエスがユダヤの無知と迷信の中から神の真理を救い出したごとく、代ってわれわれが同じ真理を人間的神学の破壊的重圧から救い出さねばなりません。

イエスは真理を求めてあえぐ魂を地上的煩悩から救い出し、邪霊の支配から解き放しました。われわれは魂を人間的ドグマの束縛から解放し、自由の真理を高揚して人間に知らしめ、それが神からの啓示であることを悟らせたいのです。

磔刑(たくけい)と復活 – 自己犠牲と新生

[イースターメッセージ、1876年。私は“死”と“生命”の問題、とりわけ霊性に関わる象徴的側面について一段と踏み込んだ教えを請うた。質問の中で私は、“死”と“復活”との霊的関係に言及し、肉体の死は新たな生への入口を象徴し、霊的な死は霊的新生への道であると考えてよいかと尋ねた。するとインペレーターが – ]

その件に関しては、昨年のイースターに述べたことを参照するがよい。そなたの言う象徴性が説明されています。すなわち物質からの復活であり、物質の復活ではないということです。キリスト教会が祝い続けてきたもろもろの祭日のもつ霊的意義についても述べてある。参照するがよい。

[言われるままに私は、1875年のイースターメッセージを読んだ。教会の祭日が象徴的に解説してある。クリスマスは自己否定、エピファニーは霊的啓発、レントは霊的葛藤、グッドフライデーは愛の勝利、イースターは蘇った生命、ペンテコステは豊かな霊的真理、アセンションは使命の成就を意味する、とある。]

その通りである。人間像の模範であったイエスの生涯は、地上に始まった生命の進歩的発展が、そなたたちの用語で言えば、天国にて完成される – 自己否定の中に誕生し、昇天の中に終焉を迎えることを意味しています。

そのイエスの生涯の中に、霊が肉体と結合し、そして解放されていく過程を、ひとつの物語を読むごとくに読み取ることができよう。天使の加護のもとでの30余年の準備期間は、イエスの使命にとって相応しいものであり、3年という短い期間も、人間の理解能力に相応しいものを行使するには十分でした。

人間の霊も、その発達過程においては、教会が祝う祭に象徴される過程をたどります。すなわち自己否定の誕生に始まり、完成された生命の祝福に終わる。

自己否定の中に誕生した生命が犠牲的生活の中で進化を遂げつつ、敵対するもの(日常生活、自己、および敵の中に見出される反作用の原理)との不断の葛藤の中に成長し、物的なものから超脱し、イースターの朝、物質の墓から昇天し、それを機に、豊かな聖霊の洗礼を受けて新しい生命として生まれ変わり、ついには地上生活の徳性によって用意された境涯(11)へと進む。

日々新たに

これこそ霊の進化であり、磔刑と復活によって端的に象徴されている霊的新生の過程と言えよう。古い自我が死に、その墓場から新たな自我が誕生する。肉体的欲求に縛られてきた自我が十字架にかけられ、新たな自我が神聖な霊的生活を送るべく昇天する。

肉体的生活の終焉は霊の新生です。そしてその過程が自我の磔刑 – パウロの言う“日毎の死(12)”です。霊的生活に停滞があってはなりません。麻痺があってはなりません。不断の成長であり、日々の生活における真理の体得であらねばなりません。

地上的なもの、物質的なものの抑制と、それに呼応した霊的なもの、天上的なものの啓発であらねばなりません。言い変えるならば、美徳を積むこと、そして人間生活の模範として示されたイエスの生活についての理解を深めることです。

物質的なものからの超脱と霊的なものへの発展 – あたかも火のごとき、すべてを焼き尽くすほどの熱誠によって焼き払うごとく、物的な汚れを清めていくことです。それは自我と、自我にまつわるすべてのものとの闘いであり、
神の真理の終りなき悟りのための行(ぎょう)です。

これを除いて他に霊の浄化の方法はありません。鍛練の炉は自己犠牲です。これに例外はありません。ただ、霊的な炎が一段と大きく燃えさかる偉大な霊においては、その過程が急速であり、かつ一時期に凝縮されることがあります。

他方、鈍重な霊においては、その炎がくすぶり、浄化の過程も延々と、幾度も繰り返されることになります。いち早く地上的なものから脱し、浄化の炎を有り難く受け入れる者は幸いです。そうした者は進化も急速であり、浄化も確実です。

– その通りだと思います。が、その闘争は酷(きび)しく、何から克服していくべきか迷います。

3つの敵

まず内部(うち)より始めよ。往古(いにしえ)の賢人は、魂の敵の表現において見事でした。魂には3つの敵がある – おのれ自身と、それを取り囲む物的環境、そして向上を阻止せんとする邪霊集団です。これを古人は“俗世”と“肉体”と“悪魔”と表現しています。

まずおのれ自身、すなわち“肉”の克服から始めるのです。肉体的欲求と感情と野心の奴隷とならぬよう、そして我欲を抑え、隠者的独房から出て、宇宙的同胞主義の自由な視野の中に生き、呼吸し、そして行動すべく、まずおのれ自身を克服することです。これが第一歩です。まず自分自身を十字架にかけなければいけません。そうすれば、おのれを埋葬した墓地から、物的束縛のない魂が自由に羽ばたくことでしょう。

これさえ成就されれば、その魂にとって、目に映じる物を忌み、永遠の価値あるものに憧れるようになるのは、さして困難ではありません。真理は永遠なるものの中にのみ発見されのであることを悟り、そう悟った時から、外界の物的形体を真理の影 – 人を迷わせ真実の満足を与えない外敵 – として、ひたすらそれとの闘争を続けることになるでしょう。

物質は殻であり、それをはぎ取ってはじめて真理の核が得られることを知ります。また、物質は往々にして人を誤らせる儚(はかな)い幻影であり、その奥に、悟った者のみに見出せる霊的真理が隠されている。そう悟った魂にとっては、もはや、物的なものを避けてその殻の内部の真理を求めるように改めて説き聞かされる必要はありません。

表面上(うわべ)の意味が霊的理解力においてまだ幼児の段階にある者のためのものであること、その奥に象徴的な霊的真理が潜んでいることを悟っております。物質と霊との相関関係を理解し、その表面的事象が幼児のささやかな理解力にかなう真理を伝えるための粗末な証でしかないことも理解している。

その魂にとっては、真実の意味において“身を捨ててこそ浮かぶもあれ(13)”なのです。その生活は魂のための生活です。何となれば、すでに“肉”を征服し、“世間”も、もはや魅力はないからです。

が、霊的知覚が鋭敏さを増すにつれて、邪霊の敵対行為も目立ってくるものです。不倶戴天の敵ともいうべき邪霊集団が行く手を阻み、この試練の境涯を通して絶え間なく煩悶の種子を蒔き散らします。信仰厚き魂はそのひとつひとつを首尾よく克服していくことでしょう。

が、地上生活においてそれが完全に絶える日は、ついぞ訪れぬものと覚悟されたい。何となれば、それはより高度の霊的才能を発達させるための手段なのであり、より幸せな境涯へ向上する資格を得るための踏み台だからです。

魂の不滅の輝き

以上が、簡単ではあるが、進歩的人間のたどる生活です。すなわち、おのれを十字架にかける自己犠牲と、世間の誘惑に打ち克つための自制と、邪霊との対抗に耐えるための霊的葛藤の生活です。そこに停滞は許されません。休息もありません。そして終息もありません。

“1日1日が死であり”、“そこから新たな生活が始まります”。不断の闘争であり、そこから止まることのない進歩が得られるのです。魂に内在する霊的な灯火(ともしび)が徐々にその光度を増し、ついに完全な光輝となるための絶え間ない闘争です。そなたたちのいう天国は、こうした厳しい闘争の末においてのみ得られるものです。

– Sic itur ad astra.(14)(これぞ不滅の輝きへの道なり)これこそがキリスト教において、仏教において、それから神秘学(オカルト)においても中心的思想となっています。イエスの言葉の中にも、その生涯を通して鼓舞し続けた同じ思想が随所に見られます。問題はいかにしてその理想をこの俗世で生かすかということです。

そこにこそ、イエスが述べた通り、地上の住民とならず地上を旅する者であらんとするための闘争があるのです。この高度な理想は、日常の雑務に心を奪われている者には、まずもって実現は不可能です。

だからこそわれわれは、そなたの関心をできるかぎり物理的交霊実験から逸らそうとしてきたのです。危険とみたのです。物理的現象から超脱するよう努力せねばなりません。構ってはなりません。理想の霊的な交わりは日常的煩悩に追いまくられなくなった者にのみ可能です。

– ずっと以前に私は、霊媒に徹しようとすれば世俗的生活と相容(あいい)れなくなると思うと述べたことがあります。つまり霊的過敏性が急速に発達していくために、世間との接触に適応できなくなる – あるいは、とにかくその霊媒の性格がふつうの生活をしにくくさせるものとなり、そういう種類の影響ばかり引き寄せるようになる、と。

そうした傾向は多分にあります。だからこそわれわれは、あまり物質的すぎる現象を控え、危険性の少ない精神的現象を発達させてきたのです。とにかく、われわれがすべてを良きに計らっていると信じるがよい。危険なのは、背後霊が背後霊としての仕事がやりにくくなった時です。そうなった時の危険性は深刻です。が、案ずるには及びません。そなたの歩むべき道は見通しがついている。ただ、今は闇の力がはびこる暗黒の時期に差しかかっている。辛抱強く待つことです。

†インペレーター

イエスの生涯が象徴するもの

[イースター、1877年]

神の祝福のあらんことを!この時節の恒例として、生命の復活と再生について述べたく思います。

このキリスト教の祭日のもつ素朴な象徴的意義については述べません。すでに述べてあるからです。すなわち葛藤のあとに得られる勝利について説きました。そなたも人間イエスの生涯の中に霊の向上進歩がいかに象徴的に表現されているかを学んだことであろう。その認識を改めて促しておきたい。

さて、救世主イエスは、神の使命を帯びて、至福の天界における霊的生活から地上へと降りられた。至純なる霊が1個の人体に宿り、ベツレヘムの飼い葉おけの中で誕生した。ありとあらゆる不完全さと煩悩をそなえ、進歩のための唯一の手段である悲しみと誘惑と試練から逃れることのできない、1個の人間となられたのです。

そこに、進歩の唯一の手段としての、霊から物質への降誕のひとつの典型を読み取っていただきたい。遠い過去より存在し続け、必要かつ十分な発達を遂げた霊が、他の手段では絶対に得られない進化の不可欠の要素としての葛藤と試練を求めて、いよいよ物質的身体による生活の場に降りたということです。

かくして人類の境涯へと誕生したイエスは、たちまちにして“この世の君(15)”サタンによる迫害に身をさらされた。時の権力者たちは、こぞってイエスに敵対し、神の子であることの証を要求した。そして遂に磔刑に処する命令を下した。イエスの説くところが彼らの主張するところと相容れなかったからです。

すでに述べたように、向上進歩の道程において新たな段階に差しかかるごとに天使の一団が見守っているが、その恩恵は、格闘と煩悶[のちに“葛藤”の意であるとの説明があった]の末でなくしては得られません。危険を冒すこともなく、必死の努力をすることもない、ただのんびりと夢見るような生活の中からは得られません。

もし得られるとすれば、それはもはや恩恵とはいえません。葛藤の中にこそ恵みがあるのであり、敵対するものを克服し、闘い抜いた末の勝利の中にこそ存在するのです。このことを、とくと心するがよい。肉体をたずさえて生をうけた霊には、常にこれを滅ぼそうとする霊が付きまとうことを知るがよい。

幼な子イエス

幼なき日のイエスも、そうした外敵の危険を察知した両親によって、安全の地を求めてエジプトへ連れて行かれました。そしてその地で豊かな霊的知識を身につけることになります。エジプトは太古より神秘的知識の宝庫であり、のちにイエスが披露した知識の多くは、そのエジプト滞在中に摂取したものでした。

そなたにとっては、もはやそうした闘争の意味について改めて探る必要はあるまい。敵に取り囲まれ、怯(おび)えるその霊は、エジプトをおいて他のいずこに避難と武装の場所を求めるべきか – 先人が苦闘の中に蓄積した神秘的知識と体験の記録の豊富な土地にそれを求めたのは、けだし賢明だったと言えよう。

神秘的知識の豊富なエジプトこそ、闘う霊が悪との闘争に備えて知識を身につけ、徳性を涵養して、霊的武力をそなえる兵器庫のようなものでした。

と言うのは、実を言えばエジプトへの脱出にはふたつの意味があったのです。ひとつには安全な土地への逃避でしたが、今ひとつは、教育のための留学の目的もあったのです。

すなわち徳性を涵養し、その中から霊的闘争の武器を身につけるために、エジプトという深遠な神秘的哲学の地へ隠棲したのであり、一方、他の地に比して平穏無事な雰囲気の中に安らぎと憩いを求めたのです。

瞑想、徳育、そして霊的闘士としての成長 – イエスも、そのか弱い幼少時代から青年期に至る時代をこうして過ごし、体力の増強と並行して獲得した知識の中で、徳性が涵養されていったのです。まさに叡智と体力の増強の時期でした。

準備期から伝道期へ

救世主イエスの象徴的生涯のひとつの典型ともいうべき時代が、これにて終了します。準備期が終わり、公的生活が始まります。

つまり、大衆の求めるものをはるかに超えた進歩と発達を限られた地上時代に成就すべく必死に自分にムチ打つ霊に、いよいよ第2の時期、われわれのいう“伝道期”に入るに先立って、その準備を整える期間を与えられて、可能なかぎりの真理を摂取したということです。

そなたには改めて説くまでもあるまいが、霊的進歩にとっては、ありとあらゆる形式の利己主義を粉砕し、才能を自分のために使用せず、生活のすべてにおいて“惜しみなく授かれる者は惜しみなく施せ(16)”の戒律を厳守することが必須の条件なのです。

ゆえに、自分に与えられたものは、それを求める者と分かち合わねばなりません。真理は、少なくとも通俗的なものは、世の人々に等しく分け与えねばなりません。しかし、より深い、より天上的な真理は、イエスがひとりで山頂にこもって孤独な瞑想の中で自分自身と対峙(たいじ)し、背後霊団(17)との交わりの中に霊的生気を取り戻すことをしたように、その葛藤の合間の魂の憩いとすべく、大切に、純粋のまま取っておかねばなりません。

その時のイエスには、その体験を共にすべき地上の友はいなかった。ただひとり霊体に宿って地上を遠く高く離れた(18)。その時の情景は、ひとりを除いて、弟子たちには見ることができませんでした。そのひとりだけは幾度か、神の使徒イエスを包むその最高の霊的現象を目撃する栄誉に浴したのでした。

[のちに、そのひとりとは聖ヨハネであるとの説明があった。いつ、どこで、という指摘はなかったが、ヨハネはたびたびイエスの光輪現象(19)を目撃している。]

この意味において、背後霊との交わりと同時に、地上の同志との交わりの中に霊的真理による救いと喜びを分かち合うことができる者は幸いです。霊的真理は、分かち合うことによっていささかもその恩恵が減少するものではありません。一途な目的と、真摯にして完全な共感の絆さえあれば、見る者が増えたからといって真理の光が減少するものではありません。

しかし、求道の世界では、たとえ同じ道を歩んでいても、二人三脚は滅多に望めるものではありません。たとえ目指すものは同じでも、それぞれにたどるべき道があることを知り、それぞれに瞑想と祈りのための山頂をもち、ひとりでそこに引き込もる時を持たねばなりません。

その宗教的向上心の生活と相まった陶冶(とうや)の生活は、来るべき奉仕的社会生活への準備なのです。救世主イエスは、エジプトで霊的知識を身につけ、瞑想の生活によって霊性を涵養し、純粋性をまとい、慈悲心に駆り立てられ、福音を授けるべく熱意に燃えて、隠遁の生活からようやく大衆の中へと入って行きました。

イエスは真理に対する不敵な信念に燃えていました。が、決して破壊主義者ではありませんでした。破壊することではなく真理を成就することこそ、彼の眼目でした。荒れ果てた荒野とすることではなく、実りをもたらし花を咲かせるために土地を掘り起こし、耕作し、種子を蒔くことでした。

材料は手もとにあるものを使用し、その埃(ほこ)りを払い、生命を失った儀式も彼の誠意に満ちた言葉の魔法にふれて、生きた真理の象徴と化しました。骨と皮ばかりのやせこけた人間が生気を取り戻し、死体に霊が戻り、死者が蘇り、そして立ち上がったのです。

霊的再生は自然の摂理

誠実な目をもってすれば、こうした流れの中に突然の断絶も、一時期の粗暴な終焉も、現在と過去との懸隔もなかったことがわかるであろう。すべては推移であり、緩やかな目覚めであり、それは今なお自然界に見られる通りです。

1年の終わりと始まりとに急激な断絶はありません。そなたたちの目には前年に埋められた墓の石蓋がいかなる力によって取り除かれたかがわからない。ある時はすべてが冷ややかにして生気なく、陰うつであり、もはや過去のものとなったかに思える栄光を悲しむ。が、やがて変化が生じます。人間的武力や権力によるのではなく、目に見えない霊力によって起こされるのです。

太陽がふたたび光を放ちます。その光は、死せる年が閉じ込められていた牢獄のカギを開け、花が芽を出し、恥ずかしげに、そして半ば恐怖を抱きつつ頭をもたげます。

やがて足もとはエメラルドのじゅうたんと化し、緑の平野が広がり、そして、見よ!やせ細れる者が生気を取り戻す、復活の季節(とき)が勢いよく訪れる…というよりは、死せる過去が静かに地上に戻る。これが大自然に年毎に黙示される霊的再生の寓話なのです。

同じ教訓を救世主イエスの生涯の中からも読み取ってもらいたい。伝道のために祖国に戻った時、ユダヤの民の生活はあたかも冬の木々のごとくに霊性を失い、寒々としていました。

樹液が流れを止めたかに見えた。枝に一葉も見られず、無気味ささえ漂っていた。疲れた旅人の喉をうるおす果実ひとつなく、目を楽しませる一輪の花すら見当たらなかった。まさしく死の疫病がすべてに蔓延しておりました。

そうした中に“神の使者”“選ばれし救世主”イエス、“正義と真理の太陽(サン)” – これは“息子(サン)”でもあった(20)。両者に差異はない – が、死せるがごとき裸の枝に啓蒙の光と暖かさを注いだのです。

そして、見よ、その変化を!空虚な形式主義が霊的真理に輝き、冷ややかな教説が健全な生命によって生気を取り戻した。古き時代の説話に新たな奥深い意義がもたらされた。社会生活は向上し、改められ、尊さを増していった。宗教はかつてなく高度にその霊性を増した。

イエスは形式に代って霊的意義を、けばけばしい儀式に代って静かな人知れぬ祈りを、見せびらかし的宗教 – 人に見せんがための宗教 – に代って、人目につかない隔離された部屋での、自分と神とのふたりきりの交わりを説いた。

これを要するに、野蛮にして空虚、高慢にして偽りだらけの形式主義を排し、代って温順にして霊性に富んだ求道の生活を説いたのです。その真実の例証は、騒々しい市場にはなくて静かな個室にあり、パリサイ派にあらずして収税史(21)にあり、大衆の目にあらずして大神の監視の前にありました。

生命の旅路

大自然とイエスの生涯に寓された教訓は、霊的生命の旅路にも見られます。学び得たかぎりの知識をたずさえ、徳性を培った魂は、試練の生活ののちに新たな生命の旅へと出発(たびだち)します。形式と儀式とにこだわってきた過去が、霊性を賦与されて新たな道が開けます。

信仰に目覚めた魂の目には、それまで単なる現象にすぎなかったものの裏に秘められた霊的意味が見えます。むき出しの枝が緑の衣をまといます。死んだように放置された儀式の形骸が霊性を賦与されて、新たな生命の息吹きを取り戻します。

古いものが廃棄されるのではありません。質が変えられるのです。果たすべき義務が免除されるのではありません。逆に、より鋭い熱意と配慮をもって果たすことになるのです。憂き世の苦労の繰り返しが短縮されるのではありません。その長い過程が、ささやかな善行の霊的意義によって、楽しく、かつ誇り高いものとして感じられるようになるということです。

あまりの冷たさ、あまりの生気のなさに絶望し、“ああ、主よ、この形骸にはたして生命があるのでしょうか”と幾度も魂に叫ばしめた無味乾燥の儀式が、復活霊の息吹きによって生命と温もりと現実味を帯びます。それなりの効用を果たした古い儀式が、新たな環境に適応した生活へと再生されます。

古い生命力より一段と強さを増し、過去の美しさより一段と霊性を増して新生されます。若さを取り戻したのです。霊的に啓発された目をもってみれば、真理はひとかけらたりとも滅びることはなく、必要に応じて神の研究室にて再化合され、再生されていくものであることを知ります。

かくして魂は、それを取り巻く自然界全体の復活に参加するのです。生命を新たにし、高度な知識を獲得し、奥深い真理を悟り、貯えた力をたずさえて、啓発と発展のための手段を授けに、同胞のもとへ赴くのです。

その時はもう、平凡な人間とは物の見方が違っています。行為も異なります。何の変哲もない外観の内側に神の潜在力を読み取るようになります。いかなる厄介物といえども、剪定によって発育を促し、枯れ枝の刈り込みによって若い枝が生長するとみれば、そのための労も厭いません。

こうして同胞のための公的奉仕の生活に勤みつつ、一方においては、絶え間なく霊的向上のための生活 – 真理への憧れと発展、霊との交わり、物質的・地上的なものからの超脱によって1歩でもイエスの完全な模範に近づかんとする修養を怠りません。こうした隠れた霊的向上の生活こそ、同胞への伝道の生活の源泉なのです。

伝道者の宿命

主イエスの地上生活の終末シーンもまた象徴的意義を秘めています。それは、敵意と侮蔑と迫害を煽る時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らない真理に対する地上的報復なのです。

イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底有り得なかったことに理解がいくことであろう。

恐れることを知らないイエスの出現に危惧の念を覚えた卑劣な神学者たちは、民衆をけしかけて一斉にイエスを攻撃させました。そうしなければ、自分たちがその虚飾の姿を赤裸々にさらされることになっていたかも知れません。

尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義者は、もしもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ(22)と収税吏を戒めた以上の厳しい言葉で糾弾されていたかも知れません。

見せかけのみの儀式主義に堕し、金の力で容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃(せいひつ)(23)にさえ不敬をはたらく忌々しいナザレイエスを憎むべき大罪人に仕立てなかったならば、やがて大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦の方が高い地位と権力とを手中にすることになるかも知れないと危惧した。が、そうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善さは、怨恨を呼ばずにはおかないものでした。妥協を許さない真摯な態度は、嫉妬心を惹起(じゃっき)せずにはおきませんでした。その説くところの教義はあまりに厳しく、一般民衆にはついて行けませんでした。

その生活上の戒律はあまりに霊的にすぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。つまるところ、そうした高度の教えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのでした。空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔刑(はりつけ)にすることにより、至純・至聖な“真理の子”に報復したのでした。

そういう次第だったのです。今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることができます。中には神の使者の活動の波がたまたま通過した時代に、その波にのって時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に受け入れられ、その功ゆえに名誉と賞賛を得た改革者がいました。また中には、さらに多くの世俗的知恵に長(た)け、より多く世のために尽くした人物もいました。

が、そうした指導者は稀れです。大抵の指導者はイエスのように真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎えます。真実を説いた指導者に死が与えられる。が、その教えには復活と新たな生命が与えられる。そしてその指導者の姿がこの世から消えてはじめて、その教えの真価が理解される。その例は改めて列記していくまでもないであろう。

物質の霊化

イエスが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせませんでした。悲劇のどん底にあってもなお鋭い直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白もせず、きわめて臆病でさえありながら、実はもっとも忠実な側近であった隠れた弟子のヨセフとニコデモのふたりのみであり、他はすべて逃走したのでした。

そして新しい真理の伝道者、新たな福音の宣教師は今いずこにあるのか – 身罷(みまか)ってしまったのです。そして彼の説いた福音は今いずこに?これ又、どうみても葬られたとしか思えなかった。それゆえ、誰ひとりとして福音のこともイエスのことも思い出さず、注意すら払わなかった。

しかし、人間の判断はとかく性急です。かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。ただ、時おり地上に新生をもたらす“霊”の力が力を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じました。が、実はそれは天使の仕業だったのです(24)。

それと同じ力 – 完全に死んだものと思って埋葬した肉体に新たな生命を吹き込んだと信じられた力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育み、ついに諸国に波及させ、当時の霊的真理の強大な原動力とならしめたのでした。

それを個々の革命家に当てはめてみられよ。たどるべき宿命は同じです。神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮りに訴えたとしても、それれが時宜(じぎ)を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならないのです。

それが神の選別の方法なのです。そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及にかける意気込みも大となります。踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろします。

その闘いの生涯がイエスのごとき終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重な配慮によって、その悲劇的運命が避けられるか – それは大した問題ではありません。

真理の言葉そのものが最後の勝利へ向けて首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのです。それはちょうど、イエスが修行時代において孤独と瞑想の生活の中で誘惑者と敵対者と闘い、苦悩の中で身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じです。

愛の摂理の成就

修行時代を終え、新たな生命をたずさえて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、目覚めた魂に訪れる変化の象徴でした。この世に在りつつこの世の住民とならない生活 – 地上への“訪問者”としてこの世の慣習に順応しつつも、それに隷属しない生き方、それをイエスは示しました。

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またイエスは常に、すべての霊的影響力に見られるかの最も強力な原理、すなわち“愛の摂理”によって鼓舞され続けました。イエスが姿を現わす時、あるいは何かを為す時、それは常に愛に発していました。そなたたちの手に残された記録は乏しく、かつ誤りに満ちているとはいえ、その原理を示す事象は十分に盛り込まれています。

イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しい境涯へと昇天して行きました。2度と御姿を拝することも、直接(じか)にお会いすることもできません。もはや形体をそなえた存在ではないからです。今や霊的恩寵の源泉であり、“影響力”としての存在となっておられます。

みずからの発意によって地上界へ降誕する霊は、ことごとくその“愛”によって鼓舞されているのです。言いかえれば、彼らの使命はイエスと同じく愛の摂理に発しているのです。

人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級界の存在を引き寄せます。そして、界たすべき使命を終えれば、彼らも又、父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行きます。

種子の死

希望に燃えよ!そなたは真理の枯渇を嘆きすぎます。暗く寒い冬にあってはその寒さに震え、冬の後には必ず春が訪れている事実を忘れる。つまり“死”あってこそ“蘇り”があり、新しい生活、より広い視野と生き甲斐と目的をもった生活へと導かれるものであることを忘れている。

そうした生活には必ず死が先立つものであること – そなたたちが死と呼んでいるものは、神の真理に関するかぎり、豊かな実りをもたらすための必須条件としての“種子の死”にすぎないことを、そなたはご存知ない。

生へ向けての死 – これこそが魂のモットーなのです。より次元の高い生へと昇華されていく死です。墓場における勝利であり、死を通じての勝利です。霊的真理を扱うに当たっては、このことを忘れてはなりません。

輝きと静けさの中にある時こそ油断は禁物です。空気は淀み、焼けつく炎熱の時、潤いが渇ききり、太陽が容赦なく照りつける時、か弱い植物はしぼみ、萎(しな)びていきます。

ゆえに、安逸と安楽の時、事が順調に運んでいる時、そして世をあげて“真理の言葉”を賞賛する時、その時こそ、やがてそれが萎び、輪郭がかげり、伝来の世俗的信仰の中に埋没していくことを案ずる必要があるのです。

すべての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要性が生じ、より深い真理が要求される時が到来しつつあるものと覚悟するがよい。

それとは逆に、強烈な抵抗の中にある時こそ、大いに意を強くするがよい。何となれば、その産みの痛みによってこそ頼もしい後継者が誕生し、その気力と精神力とによって抵抗をはね除け、神の規範を一段と有利な闘いの場へと導いてくれるであろうからです。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程には、そうした趣旨が秘められている。これは永遠に変ることのない比喩なのです。

[注釈]

(1)使徒行伝2・43

(2)中巻でも述べたように、この通りの言葉は現行のバイブルには見当たらないが、イエスのインドでの生活をテーマにした H.Kersten: Jesus Lived in India によると、インドのある礼拝堂の巨大なアーチに次のような文章が刻まれているという。“イエス曰く「この世は橋である。渡るのはよいが、そこに定住してはならない」と。”表現は違うが、言っていることは同じである。イエスは各地でこうした生き方を説いたのであろう。

(3)エペソ5・14

(4)マタイ17・20

(5)聖書(バイブル)全体に流れる基本的教説。

(6)マタイ3~4その他

(7)スピーア博士宅で行なわれた霊言現象の中でインペレーターが「主イエスはかつて1度も物質界に生をうけたことのない霊の一団によって支配され鼓舞されていました」と述べている。日本でいう自然霊である。

(8)Calvary ゴルゴタ Golgotha のラテン名。イエスが十字架にかけられた地名。

(9)中巻第16章・注(1)参照。

(10)カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教。

(11)人間は日常生活において死後に落着く環境を築きつつあるというのが、高級霊界通信に共通した説である。

(12)コリント前15・31

(13)To die has been gain.

(14)ローマの詩人バージルの叙事詩「アエネイス」の中の名句で、星への道、すなわち不滅への道はかくのごとし、という意味。(ラテン語)

(15)the Prince of the World(ヨハネ12・31その他)

(1)マタイ10・8

(17)西洋でいう天使、日本でいう自然霊によって構成されていたという。(注(7)参照)

(18)幽体離脱現象。体外遊離ともいう。

(19)俗に、後光がさす、と言っているもので、一種の変容または変貌現象。

(20)Sun(太陽)とSon(息子)は語源も発音も同じ。

(21)当時の民衆の尊敬を得ながら、現実には空理空論をもてあそんでいるに過ぎないパリサイ派の宗教学者よりも、人に嫌われ軽蔑される職業でありながらも、社会にとっては無くてはならぬ存在である収税吏の方が上であるということ。

(22)伝説的には、かつて売春婦で、イエスの教えで信仰に目覚めた女性とされているが、中巻でも触れたように、エリオットの『聖書の実像』によると“マグダラのマリヤ”の“マグダラ”には“癒やされた”という意味があるという、つまりイエスの霊力によって難病が癒やされた美貌の女性で、その感謝の印として生涯イエスに物質面で貢(みつ)いだということらしい。売春婦とされたのは、イエスを妬む者たちがでっち上げた中傷であろう。

(23)モーセの律法が記された巻物などが納めてある入れもので、ユダヤ教では神聖にして侵すべからざるもの。

(24)シルバーバーチは、イエスの死体はどうなったのかという質問に答えて、ただ一言“Banished.”と答えている。これは目の前から姿が無くなることを意味する語で、ここでは心霊学でいう“物質の気化現象”が起きたことを言っている。物品引奇現象(アポーツ)では、いったん気化して室内に持ち込み、それから再物質化するということが行なわれているが、イエスの肉体は気化されたまま大気中の元素に還元されてしまった。それを背後霊団がやったというのである。

「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†■2023年2月15日UP■
「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†
僕もこれまで果てしなく霊的知識をお勉強し続けてきて、霊言を降らせる事の重大性は十分すぎるほど理解していますから、シルバーバーチ霊の言葉に反対を表明するほど愚かではありませんが、霊界にはウソというモノが存在しません、僕の心の中など霊団およびシルバーバーチ霊には全て丸見え筒抜けですからあえて正直に書かせて頂きますが、ハッキシ言ってもうウンザリなんですよ。霊性発現(2012年6月)から一体どれだけの月日が流れていますか。この10年以上、霊団はひたすら口だけをピーチクパーチク動かし続けてきましたが物的状況には一切変化はありません、さも今動く、今変わる的な事を延々言われてその通りにしてきてハッとうしろを振り返ってみたら最低最悪の場所にただ閉じ込められ続けただけだった。僕が霊団に対して抱いている怒り憎しみの念はもはやただ事ではないレベルになっているのです、長年の蓄積があるからです…続きを読む→
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†■2022年4月27日UP■
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、自身の大犯罪を隠し通さなければ本当に逮捕になってしまうため、いつまでもどこまでもウソ洗脳ニュースをメディアに流し続けて国民をダマし続けなければならない。つまり「明仁、文仁、徳仁、悠仁にはウソをつき続けなければならない理由、動機、必要性がある」僕、たきざわ彰人には、これほど長い年月にわたって画家の夢Dreamworkを捨てさせられてブログでウソの内容を書き続けるなどという行為をしなければならない必要性が全くない。そもそも僕の人生の目的は全く別のところにある。「僕にはウソを公言する理由、動機、必要性がない」そんな事しても別に何にもならない…続きを読む→
「回心」僕の心の中の反逆の思念がだいぶ消されています、完全に操作されています(祈)†■2023年7月26日UP■
「回心」僕の心の中の反逆の思念がだいぶ消されています、完全に操作されています(祈)†
今度こそ、今度こそ、その場所から脱出してやると固く固く固く固く固く決意して、山のアタック帰還後にそのアクションを起こそうと準備万端整えて待機状態にしていたのです。それが一体何がどうなっているのか、あれほど強く決断したはずなのに、僕の心の中から反逆の思念がどんどん消えていくのです、おかしなおだやかさが広がっていくとでも言えばいいのでしょうか。僕は全然そんな風(おだやか)になるつもりはないのに、何が何でも反逆を実行し完結させるつもりでいるのに、全然反逆する気持ちが湧いてこなくなっていったのです。こんな事は有り得ない、それで「あ!また“パウロの波長”をやられたのか」と、後になって気づいたのでした。完全に心を書き換えられた、その威力のすさまじさに改めて驚愕した、という事がありました。つい2、3日前の事です…続きを読む→

昨日のトレイルラン爆走ももちろんありますがそれより前から背中には大きなダメージを負っていまして、全く治る気配がなくて困っています。もちろん霊団に閉じ込められている最悪の場所でそのダメージを負っているという側面もあります。

どのみちこのままあそこに閉じ込められ続けるのは有り得ないという事になりますので脱出は実行します。反逆と言われるのは心外だ。どうしても霊団が脱出させないという事であればせめて日数を減らすだけでも十分効果があると思います。(週5を週2にするとか)

「JESUS Teacher And Healer」スキャン開始してます。この書籍もぜひ翻訳させて本文を読みたい1冊となります。近藤千雄先生にぜひ翻訳して頂きたかったですが、何とか自力、イヤGoogle翻訳を駆使して日本語にしてみましょう。

アナログ絵380が完全に止まってしまっていますので急がないといけません。このストーリーを描き終えたらフラー26の新規デザインを復活させるつもりでいます。作業時間が足りないとか言ってるわりには使命遂行と関係ない作業をしようとしてるな、と思われてしまうかも知れません。が、僕はデザインの人間ですのでデザインの血に従って描くという事になります。

あともうひとつ、僕は汗のかきすぎなんでしょうね、皮膚もかなりヤヴァイ事になっていまして、かなり危機感を募らせていますが、この皮膚疾患もたぶん気温が下がってくればおさまると思います。あとモチョト辛抱だ。とにかくまずスキャンは終わらせないと話が始まらないのでそちらに集中中(祈)†

「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†■2024年3月6日UP■
「あなたはどちらさま?」超鮮明な女性の顕現がありました、自動書記と関連があるようです(祈)†
まず僕はいつものようにインスピレーションに備えてトランスを維持しています。(目は閉じた状態)すると突然僕の左肩に誰かが手を置きます。ちょうど僕のうしろから肩を叩かれて呼び止められたような格好です。で、僕は左後方に振り向きます。するとそこには全く知らない女性が満面の笑顔で立っています。ヨーロッパ系の女性のような感じでした。カラーリングの基調はゴールドで超鮮明な容姿でした。(香世子さんではありません、それだけは間違いありません)はい、今のこのお話は肉体のお話ではありません。この時、僕はふとんの中で目を閉じ、身体(肉体)はピクリとも動かしていません。しかしハッキリ左肩を叩かれ、左後方を振り向き、超鮮明な女性の笑顔を見たのです。全ては霊体でのお話です。※僕がその女性に向かって「あなたはどちらさま?」と言ったという事ですよ。そしてこの女性の件があった時、僕はトランスを維持しながら「自動書記の嘆願の祈り」を心の中で唱え続けていました。その僕の祈りを受けて女性が満面の笑顔で肩を叩いてきたのです。これはまるで「あたしが自動書記やるわよ」と言っているかのようなシチュエーションとなります…続きを読む→
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†■2023年8月24日UP■
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†
そしてももちゃんの成長ぶりを少し描きました。アナログ絵168の時と比べてだいぶオトナになっていますよね。使命感みたいなものも芽生えているようです。イエス様と出会ったばかりの時はシルキーと一緒になってただ単にはしゃいでいただけですが、その後イエス様にまつわる様々な事情をお勉強した事によって精神的に成長を遂げているという事を短いながら表現しています。で、この「イエス様とももちゃんのやりとり」の中にはひとつ間違いがあります。イエス様はももちゃんが質問する前からももちゃんの心の中が分かっていますから「ん?どうしたんだい?」と聞き返す事はないはずで、ももちゃんが質問を投げかける前にいきなり答えを話し出すはずです。…続きを読む→
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†■2024年2月7日UP■
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→

WordPress霊関連書籍ヘッダーJesusTeacherAndHealer

ホワイトイーグル霊の英語書籍の入手をしばらく控えた方がイイかも知れません、もう全然作業が追いつかないからです。まず現在英文見直し中の「Paul In Athens」これが超難関書籍で全く終わる気配がありません。

「Spiritual Unfoldment One、Three、Four」もWordPressへの訳文掲載は当分先になりそうです。アナログ絵も描かないといけませんし近藤千雄先生の書籍もまだまだたくさん残されています。もう全然作業時間が足りないのです。作業時間捻出という意味でも脱出はもはや必須と言いたいくらいです反逆なんてとんでもない。

昨日のトレイルラン爆走のダメージもありますので今日の作業はここまでとし明日以降にスピードアップさせましょう。脱出はもはや反逆じゃない、使命遂行前進のための必須要素だ。霊団にどれだけ脅されても脱出を達成してみせる、でなければ全然作業が追いつかないからです(祈)†

「お前の行動に制限を加えていたんだ」この最悪人生は霊団主導でやらされているという事です(祈)†■2024年9月18日UP■
「お前の行動に制限を加えていたんだ」この最悪人生は霊団主導でやらされているという事です(祈)†
コレは「ペナルティの内容」という事でイイと思います。確かにこの数年、僕は脱出しようとしてありとあらゆるアクションを起こしてきましたが、成功確率0%、信じられない事に何ひとつ上手く行っていません。明らかに脅しと受け取れるインスピレーションを多数受け取り、泣く泣く脱出の試みを頓挫させられた事が何度あったか知れません。そこまでして閉じ込めてくるのが僕には異常と思えてならず「そのパワーを物質界の邪悪の滅亡に使えよ」と言いたくて仕方ありませんでした。使命遂行開始初期の頃、霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を僕に果てしなく怒涛に教えてきて、ももちゃんを筆頭とした奴隷の女の子の存在も猛烈に教えてきました。僕はその導きに従って天皇一族の邪悪の正体を徹底的に情報拡散してきた訳ですが、あるところから霊団が全く正反対の行動をとり始めます。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を全く滅ぼすつもりがない、奴隷の女の子に関してはまるっきり助けるつもりがない、見殺しにするつもりであるとハッキリ言ってきて、僕は耳を疑う事になります…続きを読む→

240918お前の行動に制限を加えていたんだ

バトルと思っているのは僕だけなのでしょうが霊団とのバトルがずっと続いています。僕は何が何でも脱出するつもりで猛烈に準備していますが、霊団は僕を全力で閉じ込めようとしています。そこまでする必要が一体どこにあるのかがまるっきり意味不明。まずは少ないインスピレーションをこのように羅列してみますが↓

この最悪人生、いつまでやらされねばならないんだよ、そこまでして懲罰を受けねばならないのか僕は。確かに反逆はしているかも知れないけど使命遂行は1日の休みもなく全力で続行している。どうにもこうにも釈然としない。んんん、撃つべきは撃っていきましょう。

16

アナログ絵16

この「16」とはアナログ絵16の事ですが、だぁかぁらぁ、なぜこんな大昔に描いた絵を今さら持ち出してくるんだよ、この時と現在とでは状況がまるで違うだろと首を傾げずにはいられないのですが、この絵を見返してみると、僕が一刻も早く帰幽を望んでいるが帰幽させてもらえずに物質界に閉じ込められているといった内容です。

まだまだキミに試練を降らせるよ、簡単に帰幽はさせないよ、そういう意味でしょうか。だったら使命遂行を前進させればいいだろと思うのですがそれもしない。霊団の動きを見ていると僕の個人的罪障消滅のみを目的としていて物質界の邪悪の滅亡の事などまるで眼中にない、そういう風にさえ見えます。

罪障消滅だけだったら霊性発現させる必要なんてなかったんじゃネィのか。守護霊様にその仕事を継続させればよかっただけの事なんじゃネィのか。わざわざ霊性発現させて守護霊様を守護の任から外させてこの使命遂行をやらせたのは何のためだったんだよ。

僕という霊の道具を駆使して達成したい目標があったからじゃネィのか。それを全くやろうとせずただ罪障消滅のための試練を降らせるだけと言うなら守護霊様の管轄に戻せばイイだけの事だろ。100の光の霊団の仕事はそんなパーソナルなモノじゃないはずだろ。ホンッッットウに首を傾げるよ。

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ゴメンね 傷跡はみな永遠を受けた成長の証♪ これ以上オススメしません ない事は決してない

240918これ以上オススメしません

「ゴメンね」これは霊団がしつこくしつこく、もう何度言ってきたか覚えていないくらい繰り返し言ってきているインスピレーションで、つまり僕がイヤでどうしようもない状況を継続させると言ってきている訳ですが、僕の側にも事情がありますので黙って閉じ込められる事を了承する訳にはいかないのです。

イヤでどうしようもないところに閉じ込められている、その精神的理由ももちろんですが、もう肉体的にも限界値で、これ以上あの狂った部屋でこき使われるのが耐えられそうもない状況なのです。事実去年のスノーシューアタックを断念せざるを得ない状況にさせられていますし、このまま行ったら使命遂行も続行不能にさせられてしまいます。

この霊団とか名乗っている奴らは一体何がしたくて生きているというのか。使命遂行続行不可能な肉体的ダメージを受けるまで閉じ込めるつもりなのか。あんたたちの目的は一体何なんだよ。ただ単にイジメイヤガラセとしかもはや思えない。こんな理不尽な導きにこれ以上従えるか。

「傷跡はみな永遠を受けた成長の証♪」これはあるメロディーに乗せて降らせてきたインスピレーションだったのですが、そのメロディーは忘れてしまいました。ただ言っている事は霊的知識に即した内容で僕も十分納得できるのです。物質界で辛酸を舐めて霊格を高めるという意味で、それは了解です。

しかし何度も書いていますように「物事には限度というモノがある」僕はもうとっくの昔に限界値を突破しているのです。つい最近限界を感じるようになったのではなくだいぶ前から限界値を突破しているのです。その突破状態を延々継続させられているので僕の怒りが最高潮に燃え上がっているのです。

「これ以上オススメしません」これは僕の反逆をこれ以上続ける事をオススメしないと霊団が言ってきているのですが、そう言われてハイ分かりましたとはならないんですよ。もう僕の限界値を完全に突破しているので絶対にこのまま閉じ込められる事を了承する訳にはいかないんですよ。

これ以上反逆すると僕の帰幽後の霊界生活に重大な障害が発生するのでオススメしない、という意味で間違いないものと思われますが、そう脅されてもなおこの状況を受け入れる事ができません。どうしてもこれ以上閉じ込められるのがムリなのです。

「ない事は決してない」これは意味が分からないのですが、たぶん「アキトくんはもう耐えられないと言っているが、耐えられないという事は決してない、キミは肉体的、精神的、ともにまだ余剰を残している」とでも言いたいのではないでしょうか。

ジョォォォダンじゃネィよ。つまり死ぬまで苦しみを与え続けるつもりと、そういう事か。そう言われてハイ分かりましたってなる人間がいたら連れて来てみてくれよ。この全宇宙にそんな人間いる訳ネィだろ。邪悪の滅亡は一体どこに消し飛んでしまったんだよ。あんたたちのやっている事はもう僕をイジメる事一辺倒になってるじゃネィかよ。

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テニスやるそうです 信じられない 怖い

「テニスやるそうです」これは何のインスピレーションですか?全く意味が分からないんですけど。僕は幼少期を含め人生の中でテニスをやった事は1度もありませんので、僕以外の人間の事を言っているのでしょうか。テニスは大変メンタルなスポーツですので僕のメンタルの強靭さが足りない事を指摘しようとしているのでしょうか。回りくどい言い回しだな。

「信じられない」「怖い」これも僕の思念ではありませんね、誰の事を言っているのでしょうか、これだけでは全然分かりません。ただ、僕の使命遂行の進捗をご覧になった方の思念、感想である事は間違いないでしょう。

で、こういうインスピレーションを霊団は過去数えきれないくらい降らせてきていますが、感想じゃなくて結果を出せと言ってるんですよ。僕を霊性発現させてから一体何年が経過しているか言ってみてくれよ。あんたたちはひとりの人間の人生を一体何だと思ってるんだよ。

「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†■2024年5月22日UP■
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†
実は何もやる気がないのではないか。この12年の霊団の動きを見ればおのずとそういう回答が導き出されるのではないか。僕は霊団の事を「口だけ霊団」と公言していますが、この言葉は実は大正解なのではないか。本当にこの霊団とか名乗っている奴らは最後まで口だけピーチクパーチク動かして何もやらずにボケっと見てるだけで終わらせるつもりなんじゃないのか。要するに「アキトくんの場合はインスピレーションで事足りているのでわざわざ低次元の霊媒現象をやらなくても我々の目的をだいたいにおいて達成している」という事なのかも知れません。インスピレーションが霊界側にとってもっとも自然な交信方法という事は霊的知識をお勉強して頂ければ分かります。霊媒現象というのは霊力に感応しない物質界の人間に霊的な事を理解させるために霊界側が物的次元まで波長を下げる犠牲的仕事ですが、物質界の人間がインスピレーションを受け取れるようになってくれれば、そしてさらにそのインスピレーションによる導きに従ってくれれば、霊界側はその犠牲的仕事をせずに済み、思念の送信だけで目的達成できますからこんな簡単な事はない、という事になります…続きを読む→

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6年 ペテロと同じ お前の行動に制限を加えていたんだ

240918ペテロと同じ240918お前の行動に制限を加えていたんだ

なぜそこまで執拗にイジメ続ける必要があるのか、なぜ物質界の邪悪の情報を教えてきておきながら全く滅ぼすつもりがないのか。永遠に理解できませんが今回は「お前の行動に制限を加えていたんだのインスピレーションをブログタイトルに冠しました。

「6年」「ペテロと同じ」えっと、僕は聖書を一切読んでいませんので詳しくないのですが、12使途のリーダー格であるペテロは主イエスに反逆の意思を示した事があるが、その罪業消滅をかなりの短期間で済ませてそれ以降は数々の病人を治療するなどの奇跡をおこなった、と、だいたいこういう感じだったと思います、細かいところは違っていると思われますが。

で、残念ながら僕も霊団に対して本気の全力で反逆していますので、そのペナルティが課せられる事になるのですが、現在僕が徹底的に自分の心が望まないところに閉じ込められているのがその「ペテロと同じペナルティ」という事なのでしょうたぶん。

で、そのペナルティの期間が6年という事のようなのですが、間もなく6年が経過するという意味か、これから6年のペナルティが開始されるという意味か、どちらか分かりません。これから6年という事であれば、それはチョト耐えられそうもありませんムリです。

んー、反省していないと判断されてペナルティ期間が延長されたらたまったものではありませんのであまり深く突っ込んだ事は言うべきではないのでしょうが、イヤ僕はそこもおかしいと思っていて「それではまるっきり脅しじゃネィか」と思いますし、ペナルティという脅しをかけられて言いたい事も言えなくさせられる、それが霊的仕事なのかと僕は逆に文句が言いたいのです。

反逆と表現していますが僕は使命遂行を日々全力でおこなっています、やめるつもりなどサラサラありません、いま自分にできる事を体力、精神力の許す限り限界の限界までおこなっています。

ココまでやっていてペナルティを受けるというのがどうにも釈然としませんし、6年という期間も長すぎると思いますし、人にペナルティを課す前にあんたたち(霊団)は全く仕事やってネィだろと、僕的にはツッコミたい事がたくさんあるのです。

んー、僕などという男より遥かに叡智に長けた方々が判断される事ですから文句を言えば言うほど苦しい状態にさせられるのでしょう。謙虚に導きに従う事が長期的に見た時に必ず自分のためになると霊的知識的見地からも分かっているのですが、僕がやっている事はやはり「正当防衛」という言葉がいちばん的を得ていると僕は自分で思っています。

とにかくやりすぎ、ヒドイ状況に留め置きすぎ、試練の度が過ぎる、どうしても理不尽な思いが沸き上がってきて、それが反逆、反省の念が足りないと判断されてさらなるペナルティとされてしまうのかと思うと「じゃあもうイイよ」という自暴自棄的な気分にもなってくるのです。

僕の目には「イジメ」としか映らないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅亡させる事は一切やろうとせず、僕をイジメる事にだけ全力を投入してくる、僕にはそう思えてならないので理不尽な気持ちが払拭できないのです。

「お前の行動に制限を加えていたんだんー、最後にこちらの説明をしてみようと思いますが、コレは「ペナルティの内容」という事でイイと思います。確かにこの数年、僕は脱出しようとしてありとあらゆるアクションを起こしてきましたが、成功確率0%、信じられない事に何ひとつ上手く行っていません。

明らかに脅しと受け取れるインスピレーションを多数受け取り、泣く泣く脱出の試みを頓挫させられた事が何度あったか知れません。そこまでして閉じ込めてくるのが僕には異常と思えてならず「そのパワーを物質界の邪悪の滅亡に使えよ」と言いたくて仕方ありませんでした。

使命遂行開始初期の頃、霊団は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を僕に果てしなく怒涛に教えてきて、ももちゃんを筆頭とした奴隷の女の子の存在も猛烈に教えてきました。僕はその導きに従って天皇一族の邪悪の正体を徹底的に情報拡散してきた訳ですが、あるところから霊団が全く正反対の行動をとり始めます。

「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を全く滅ぼすつもりがない、奴隷の女の子に関してはまるっきり助けるつもりがない、見殺しにするつもりであるとハッキリ言ってきて、僕は耳を疑う事になります。僕でなくても誰でもそうなるでしょう。
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†■2022年9月28日UP■
「奴隷の女の子、助けるつもりは全くありません」霊団を永遠に許す事はありません(祈)†
奴隷の女の子たちを助けてあげてしまったら、その人間の「罪障消滅」を遅らせる事になり、永遠の視点で考えた時、必ずしもその人間を助けてあげる事にはならないのだ。これは霊的知識としては理解しても、どうにもこうにも釈然としません。奴隷の女の子の存在を知らされずにいたのであれば「知らなかったのだから助けてあげられるはずもなかった」と言い訳もできますが、僕は霊団に奴隷の女の子の存在を徹底的に教えられてここまで使命遂行してきたのです。知らずに犯す罪より知っていて犯す罪の方が何倍も重い、と霊的知識にあります。奴隷の女の子たちが今こうしている間も「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に四肢切断、強姦殺人され続けている事を知っていながら、助けようともせずその悪行を黙って見ているという霊団の考えには、何をどう頭をひっくり返しても賛同する訳にはいきません…続きを読む→

言い出しっぺでこの仕事をやらせた仕事の本体である霊団がまるっきり正反対の態度を表明し始めたのですから「一体何がどうなってるんだ」と首を傾げるのが当然なのです。しかし霊団を擁護するような事は言いたくないのですが、やはりこちらのアナログ絵123に帰着するのではないかと思います↓

アナログ絵123

霊団は全情報に通観した状態で大俯瞰から状況を眺め、判断しています。僕は肉体という牢獄に閉じ込められ極端に視野が狭められた肉眼でしか物事を見て判断する事ができませんから、僕の小我の判断より全体が見通せる霊団の判断の方が大局で見た時に正しい、というのが霊的知識から導き出される結論となります。

しかし知識としてそれを理解していても僕は実際に自分の人生で明けても暮れても最悪をやらされているものですから「いくら何でもやりすぎだろ、そろそろいい加減にしてくれよ」となるのです。

「お前の行動に制限を加えていたんだなぜ僕の行動に制限を加える必要があるのか。それが霊団が再三にわたって僕に言ってきている「スピードダウン」と関係があると思われます。

要するに霊団は長期的に目標を達成しようとします。僕の残された物質界人生の中で問題を全解決しようとは思っていません。最終的に霊団の思惑通りになればイイのであって僕の物質界人生はその中のひとつのコマでしかありません。僕という道具ではココまで仕事を進める、次はこの道具を使ってココまで進める、といった具合に。

何しろ霊界には時間の概念がありませんから肉体に包まれ物的天体(地球)の自転の影響を受けながら人生を送っている僕たちにはどうしても霊界側のモノの考え方が理解できないという事になってしまいます。

霊体は歳を取らず永遠の現在を生きます。霊界は物的天体の回転の影響を受けません。物質界生活者と霊界生活者とでは根本的に価値判断基準が異なるという事を念頭に置かねばなりません。その理解が最高にムズカシイのですが。

ですので僕は霊団に「お前の行動に制限を加えていたんだと言われて簡単に納得できずにいますが、大俯瞰で全体を眺められるようになれば霊団の言っている事の意味が分かるようになる…んだろうなぁという漠然とした理解しかできません。

そしてこれも小我と言われて一蹴されてしまうのでしょうが、僕はココまでヒドイ状況に閉じ込められねばならない意味がどうしても分かりません、それがペナルティと言われてもやはり釈然としません。僕は自分にできる事を限界までやっている、あんたたち(霊団)はやってネィじゃネィか、そう思えてならないからです。

なぜ霊団はスピードダウンと言い続けてくるのか、それは一応「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に僕が殺されないようにする防御の意味があるのでしょう。しかし僕は霊性発現後から一貫して「帰幽カモン」と公言し続けています。

僕はそもそも物質界に残っていたくないのです、一刻も早くこの最低の境涯から離れたいのです。やるべき仕事をやり切って帰幽できれば別にそれでイイ、必要以上にココに残り続けようなどとは夢にも思っていないのです。なので僕に試練ばかり降らせてきて全然使命遂行を前進させようとしない霊団のやり口が頭にきてどうしようもないのです。

地球圏霊界の人間というのはそんなに強姦殺人魔が大切なのか。強姦殺人魔は地球圏の霊的進歩向上に必要だとでも言うつもりなのだろうか。明仁、文仁、徳仁、悠仁にケタケタ笑われながら四肢切断、強姦殺人され続けている奴隷の女の子たちを、霊界上層界の人間たちはどういう心境で見下ろしているというのだろうか。

僕はシャレじゃなくかなり本気で地球圏霊界という存在の場に興味を失い始めています。とはいえ僕たち物質界に籍を置く人間は元々地球の子供ですから帰幽後は地球圏の霊界に帰っていく以外にないのです。ですので僕は地球圏霊界から離れたいという願望を抱いていますが、もちろんそれは叶えられる事はありません。

1千万年後、1億年後には進歩向上を果たし切って地球圏を超脱し、より進歩した惑星圏に進出するという事もあるかも知れませんが、どのみち当分は地球圏で研鑽を積み重ねる事になり、僕の願望は全くのお笑い草「とんだお子ちゃま」という事になるのでしょう。

最後に霊的知識の基本中の基本を述べて終わりにしましょう。僕たち人間は「死んだら終わり」ではありませんよ。死ぬという現象は肉体という衣服を脱ぐだけの事です。僕たち人間の本体は「霊(肉眼に映じないモノ)」であり、その霊が肉体を脱いで霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界生活に突入する、それが死と呼ばれている現象です。

つまり人間に「死」はないという事です。「わが父の家には住処多し」というヨハネ氏の言葉もありますように、物質界でどのような生活を送るかによって霊格が形成され、帰幽後にその霊格に見合った境涯へ自動的に引かれ上がって行ったり(上層界)引かれ下がって行ったり(下層界)します。

つまり天国に召される人間は物質界人生の中で自分を天国に押し上げるおこない(善行)をした人間という事になり、地獄に落ちる人間は物質界人生の中で自分を暗黒の底に落とすおこない(悪業)をした人間という事になります。つまり自分の帰幽後の未来は自分で作り上げているのであり、誰かに裁きを受けて天国に向上したり地獄に落とされるのではなく完全に自己責任という事です。

「神の因果律」は絶対的に公平、公正です。寸分の狂いもなく善行には褒章が、悪行には反省の境涯が与えられます。つまり「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は想像を絶する人数の奴隷の女の子を強姦殺人しまくっていますから、物質界生活中にどれだけ洗脳ニュースを流しまくって善人を装っても帰幽後に魂も凍る真実の地獄が待ち受けているという事になり、完全に自業自得なのです。

少なくとも僕たち日本国民はその洗脳くらいは撃ち破って真実の理解に到達せねばなりません。いい加減に目を覚ましましょう。メディアが流してくる洗脳情報にアッサリコロッとやられるという旧式の思考パターンから卒業しましょう。

そして返す返すも分からないのが、その大量強姦殺人魔どもを全力で守ろうとしているかのように見える霊団の動きなのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁には指1本触れようとしないが僕の事は徹底的にイジメてくる。実に公平、公正だ。納得できる。地球圏霊界をいつか離れられますように(祈)†

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「成長している」霊団が僕を最悪の中に閉じ込める理由がコレなのだそうですが(祈)†■2024年9月11日UP■
「成長している」霊団が僕を最悪の中に閉じ込める理由がコレなのだそうですが(祈)†
僕はずっと「反逆」という表現を用いていますが、これは反逆ではなく正当防衛だ、僕が脱出しようとしているのは人間として至極当然の事だと、かなり本気で思います。理不尽にもほどがあるだろ、全く何の結果にも到達させないつもり、ただ苦しみだけを延々味わわせると言われて誰がそれに従うか?んんん要するに「視点の置きどころ」が僕たち物質界生活者と霊界生活者とでは根本的に違うという事ですね。霊界には時間の概念がありませんし、物質界で学ぶべきを学ばずに下層界でたむろしている大量の低級霊に長年悩まされている事情もありますから、地球圏を経綸している方々としては強姦殺人魔の問題のみならず地球圏が抱えている問題も解決させたいという願望もあるのでしょう。で、悔しいですがこういう風にまとめるしかないでしょう。僕は霊団の仕事の進め方に超超超ムカついています。しかし現在僕を導く仕事をしている「100の光の霊団」のメンバー達も、かつて物質界生活中に現在の僕と同じような目に遭わされてそれを耐え抜いた方々であるという事です。でなければこの仕事を与えられませんので。できない人間にやらせる訳がありませんからね…続きを読む→
「戦争の可能性をすごく感じています」以前から何度も同じ意味の事を降らせていますが(祈)†■2024年9月4日UP■
「戦争の可能性をすごく感じています」以前から何度も同じ意味の事を降らせていますが(祈)†
まず霊的知識をお勉強しておられる方には改めて言うまでもないと思いますが、戦争ほど愚かなおこないはありません。なぜかと言えば、人間とは「神」を共通の親とした霊的大家族、霊的同胞であり、戦争で敵国の人間を殺す事は自分の家族を殺す事と同義であるという霊的知識を全く理解していないという事になるからです。つまり戦争を起こす人間は霊的に全く無知の人間という事になるのです。霊的な事を理解している人間であれば戦争という愚劣行為はしないはずだからです。単純に物的側面だけを見ても何の問題解決にもなりません。一部の人間が利益を得るだけ、そいつらのために何千何万という人間が無意味に殺され、物質界で学ぶべきだった事を学べずに中途で強制帰幽させられて人生に大変なマイナスを背負う事になってしまうのです。戦争を続けているという事は、その種族、その文化がまだ全然霊的に成熟していない事を意味するのです。僕たち地球人類が宇宙全体から見た時にまだ全然進歩向上していない原始的種族という意味ですよ…続きを読む→
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†■2024年8月29日UP■
「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†
やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます…続きを見る→
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†■2024年8月28日UP■
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†
僕たち人間は本体が霊で、その霊が肉体、幽体、霊体等の表現媒体をまとって自己表現をしていますが、この「霊」さえも【神】の生命表現のひとつでしかなく、この霊の先にさらに何かあるそうなのです。それは完全に次元が異なる問題ですので物的言語などでは全く説明不可能であり、どの霊関連書籍にも「霊の先にあるモノ」については一切叙述がありません。通信霊自体がその事を知らないからだそうです。例えばレッドインディアン、シルバーバーチ霊を霊界の霊媒として霊言を語っておられた3000年前に物質界人生を送っておられた高級霊(僕はこの方がエリヤ氏だと思っているのですが)この方は間もなく地球圏を脱出する寸前まで霊的に進歩しておられるそうですが、たぶんその先に「霊を超えた何か」が待ち受けているのではないでしょうか。僕は「地球圏霊界を脱出する」と公言していますが、エリヤ氏でさえ3000年経過してまだ脱出に至っていないのですから、反逆まみれのお子ちゃまの僕が地球圏を脱出して霊を超えたモノを理解するようになるのは1億年、100億年先となるでしょう。まさに「身の程を知らない恥さらし発言」という事になるのです…続きを読む→

八ヶ岳アタック1340プロセス実行

何とか眠い目をこすってテキスト撃ち続けていますが、本当にこの作業が苦しくて仕方ありません。撃っても撃っても全く何の成果も上がらない事がいちばん苦しいところで、こんな状態にさせられてどうモチベーションを維持しろって言うんだよと、霊団にキレるのが当然の状況なのです。

やるべき作業がありすぎて、それらが全然進まなくて、このままでは本当に作業を残した状態で帰幽するハメになってしまう、それは認められない、何としてもやり切らないといけない、そのためには作業時間を増やさないといけない。しかし霊団は正反対の事を言ってくる。っとと、一旦切りましょう。間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†

まずは昨日のガス、ルートミス撮影の画像をUPですが、案の定、足にはかなりのダメージが残っており特に背中がキビシイですが、もうそんな事は言ってられない、説明したくもないイヤな内容を撃つしかありません。いつまでこの人生をやらされるんだ。もう本当にいい加減にしてくれ。

ホワイトイーグル霊の書籍が1冊到着してます、こちらもメチャ時間がかかりました、長文ブログUP後に画像をUPさせて頂きます。スキャンしなければならない書籍が手元に3冊あります。全く作業時間が足りません。何が何でも作業時間を捻出してみせる。霊団にどれだけ反対されても脱出してみせるぞ。フゥゥ、イヤなテキストを撃ってみましょう(祈)†

稜線上に出るとまたまたまたしても強風とガス。今シーズンは全然グラデーション撮影ができずにいます。霊団の呪いか?などと思いつつ仕方なく稜線から一旦引き上げて今まで1度も足を踏み入れた事のないコースをテストする事にしました。

そのテストのおかげで今後撮影に使えそうなポイントを発見する事ができたのですが、撮影を終えて下っている最中に道標を見逃して間違ったルートに直進してしまい、久々にパニクってアチコチ右往左往、かなり焦りましたがようやく元の分岐に戻って正しい方向に下り始める事ができました。

しかしこのルートミスによってゴール予定タイムがかなり遅れる予測となり、ゴールが遅れるイコール家に着くのも遅れる、イコール明日の長文ブログが切迫する、自分で自分の首を絞める状態となってしまうため「あとは下りセクションのみだ、もう走るしかない」という事で超久々にトレイルランを敢行。

危険な場所だけはスピードを落としますが、フラットなところはできるだけ走って下ります。イヤ、こんなに思いっきりトレイルランしたのは山に行き始めた当時、若い頃以来でしたので自分でもビックリ。こんな大きくて重いザックを背負って走るのはかなり異常事態ですが、ルートミスの遅れを何としても取り戻したかったのでとにかく走る走る。

おかげで予測ゴールタイムより30分早くゴールできました。たぶん明日、足に猛烈なダメージが来るでしょうが今回は走るしかなかった。明日の長文ブログネタは枯渇してますが、僕が書きたくない内容ならあります。それを書かされる事になる可能性が大なので今からウンザリです。トレイルランのダメージを少しでも回復させないといけませんので早めに休ませて頂きます(祈)†