冷凍コーン、冷凍ポテトを解凍してタッパーに詰めたりしていました。かろうじて運転中にワンハンドで食べられる、コンビニでポテチを買うより安く済むという事で採用したのです。確実に節約になっていますが手間がかかる、ハッキシ言ってメンドクサイ、しかし脱出のためにはやるしかない。

アナログ絵380の描画が止まっていますが今日はしょうがなかったかなぁ、かろうじて少しスキャンしました。そして「Paul In Athens」英文見直し20%完成中、まだ全然終わりが見えない正真正銘の地獄。この書籍は今まで入手してきた全書籍の中で最強レベルの難しさかも知れません。

明日はグラデーション撮影はできそうもありませんがわずかな可能性にかけて標高を上げます。できる限りの撮影をしてくるつもりですがそれより帰還後の長文ブログがピンチです。いつものごとくというか何というかインスピレーション枯渇状態でほとんどネタがありません。霊団のやる気のなさが絶望的レベルとなっています。

やる気がないなら物質界の試練を終わりにしてくれ。何の成果にも到達せず試練だけを延々とやらされるのは死んでもガマンならぬ。理不尽の究極形、断じて認められぬ。なぜ何の成果にも到達してないのに毎日こんなに忙しんだ。これだけ忙しく作業を続けているんだから何かしらの結果に到達するはずだ。この人生は絶対におかしい。僕は認めない。まずは山に集中中(祈)†

■2021年3月26日UP■
「クスリとダマしてガン注射」僕の暗殺の超具体的方法を霊団が幽体離脱時映像として降らせてきました(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は(というよりコイツらの部下の下僕たちが)様々な毒物の開発製造を手掛けていて既に完成している。その中にはガン細胞そのものを注射するというものまである。その毒物を人々にバラまいて感染させる手段として、白衣を着て人々から「先生」など呼ばれている「医者」「学者」のような人間を使用して、人々に「これは治療薬です、予防薬です」と信じさせて次々と注射して回ってドンドン毒物を感染させる方法を取ろうとしている。僕に対してもこの「医者を使用したダマし戦法」で暗殺を画策しており、毒殺ではなく病気(ガン)で死亡したと見せかけ「我々は治療を続けたが残念ながら手が及ばなかった」などと言い訳できる殺し方をしようとしている。さらに職場の同僚を使用して僕に注射を撃たせようとしていたのは「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の「責任逃れ」の典型的パターン、何か不具合が発生したら「毒(ガン)注射を撃ったのはこの人たちです」と責任を擦り付け自分たちはすっとぼけられるようにしている…続きを読む→
■2021年3月24日UP■
「分かりません」これは間違いなく文仁の法廷での「すっとぼけ」発言という意味でしょう(祈)†
日本人は強姦殺人魔が大好きで強姦殺人魔に血税をプレゼントし続け強姦殺人ライフを守ってあげて、強姦殺人魔の事を陛下だの殿下だのと呼んでおだて上げ続けている、強姦殺人魔に笑顔で手を振ってキャーキャー言ってはしゃいでいる、犯罪者にとってこれほど住みやすい国が他にあるだろうか、いやない。明治維新から一体何年の月日が経ったのか、日本人はまだ目が覚めない、洗脳にやられ続けている、何とダマしやすい人間たちなのだ、大変優しい民族性なのは尊敬に値するが、邪悪に目を閉じ続ける様子は残念としか表現のしようがない。僕たち日本国民はおおざっぱに世界の方々からこのように思われているものと予測します。特に韓国の方々は僕たちの事を内心呆れ返って見ている事は間違いないでしょう「洗脳にやられっぱなしのお花畑民族」といった感じに…続きを読む→

[1874年3月15日。この頃までに、他人の名を詐称する霊が出没しているから用心するようにとの警告がしきりに出され、その特殊なケースが実際に他のサークルで起きたことで、一段としつこくなっていた。その問題に関連して数多くの通信が送られてきたが、その中でただひとつ普遍的な内容をもつものを紹介する。]

進歩派と逆行派

このところわれわれの要請がしつこくなっているが、それは、人を騙すために他人の名を詐称する霊にはめられる危険性について、これまで再三警告してきたことを改めて繰り返す必要を痛感しているからです。いわゆる”未熟霊”の暗躍です。

その種の霊がひき起こす面倒や困難の危険性がそなたの身近に迫っており、その餌食(えじき)とならぬよう、最近とくに注意を促したばかりであろう。いかにもわれわれに協力しているかに見せかける霊が存在することを、われわれは確かめている。その目的とするところは、われわれの仕事に邪魔を入れ進行を遅らせることにあります。

この点については十分に説明しておく必要がありそうです。すでに聞き及んでいようが、今そなたを中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に、熾烈(しれつ)な反目があります。

われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い換えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いです。

逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集します。憎しみに煽られる無知蒙昧(もうまい)な者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持から加担する者もいます。

要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界から光明の世界へと導こうとする、われわれをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる魂胆からこれを阻止せんとする連中です。

そなたにそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できないのは、どうやら彼らの暗躍の実情がそなたの肉眼に映じないからであるらしい。

その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類です。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさなかった。その意念の赴(おもむ)くところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示しません。

かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得ようとします。

肉体的煩悩から抜け出せない霊たち

肉欲の中に生き、肉欲のためにのみ生き、今その肉体を失った後も、肉欲のみは失うことのできない、そうした哀れな霊たちは、感応しやすい同類を地上に求め、深みに追いやることをもって生きる拠(よ)り所とします。それをおいて他に楽しみを見出すことができないのです。

地上では肉体はすでに病に蝕まれ、精神はアルコールによってマヒされていた。それが、かつての通い慣れた悪徳の巣窟をさ迷い歩き、取り憑(つ)きやすい呑んだくれを見つけては、けしかける。

けしかけられた者たちは一段と深みにはまる。それが罪もない妻や子の悲劇を広げ、知識と教養の中心たるべき都会の片隅に、不名誉と恥辱の巣窟を生む。そうすることに、彼らは痛快を覚え、満足の笑みをもらすのです。

こうした“現実”がそなたたちの身のまわりに“実在”するのです。それにそなたたちは一向に気づいていない。そのような悪疫の巣がある – あるどころか、ますます繁栄しのさばる一方でありながら、それを批難する叫び声は地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。

なぜか – 実はそこにも邪霊の働きがあるのです。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声がマヒされているからにほかなりません。その悪疫は歓楽街のみに止まりません。そこを中心として周囲一円に影響を及ぼし、かくして悪徳が絶えることがないのです。

かつての呑んだくれは – そなたたちの目には死んだと思えるであろうが – 相も変らず呑んだくれであり、その影響もまた、相も変らず地上の同類の人間の魂を蝕みつづけているのです。

死刑制度の犠牲者

一方、人間の無知の産物である死刑の手段によって肉体から強引に切り離された罪人の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではいません。

毒々しい激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみを抱き – その罪は往々にして文明社会の副産物にすぎず、彼らはその哀れな犠牲者なのですが – その不当行為への仕返しに出ます。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽ります。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図ります。

一体いつになったら人間は、毎日のように、否、時々刻々と処罰している罪悪が実は混雑した都会生活の産み出す必然の副産物にすぎないことを悟るのであろうか。根本の腐敗の根元をそのままにして、何ゆえに醜い枝や葉のみを切り落とすのであろうか。

協同責任において産み出した哀れむべき仲間を、何ゆえに無慈悲に処分するのであろうか。それは生者の側の利己主義的手段であるのに、その利己主義者がなぜ憎悪に燃える霊を敵にまわして自業自得をくり返すのであろうか。

ああ、友よ、そなたたちの旧時代的刑法が誤った認識の上に成り立っており、犯罪防止どころか、むしろ悪用を産み出していることに気づくまでには、そなたたち人間は、まだまだ幾多の苦難を体験しなければならないでしょう。

こうして地上社会の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上界に舞い戻る邪霊の群れは、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵です。われわれの敵であり、われわれの仕事への攻撃の煽動者となります。至極当然の成り行きであろう。

久しく放蕩と堕落の地上生活に浸りきった者が、死後一気に聖にして善なる霊に変わるであろうか。肉欲の塊(かたま)りが至純な霊に、獣のような人間が進歩を求める真面目な霊に、そう易々と変われるものであろうか。

それが有り得ぬことくらいは、そなたにもわかるはずです。彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙(ねら)いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれわれの敵です。

真理の普及がしつこい抵抗に遭うのは彼らの存在のせいであり、そなたにそうした悪霊の影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力を無視して彼らに攻撃のスキを見せることだけはないよう心掛けてもらいたい。

われわれはその危険性を、声のかぎり警告するものです。その働きが常に潜行的であり、想像を超えた範囲に行きわたっているだけに、なおのこと危険なのです。地上の罪悪と悲劇の多くは、そうした邪霊が同種の人間に働きかけた結果にほかなりません。

地上の名誉を傷つけ、体面を辱(はずか)しめるところの、文明と教養の汚点ともいうべき戦争と、それに伴う数々の恐怖もまた、彼らの仕業です。大都会を汚し、腐敗させ、不正と恥辱の巷(ちまた)と化す犯罪を醸成するのも、彼らなのです。

諸悪の根元 – 物質文化と大都会

そなたたち文明人は知識の進歩を誇り、芸術と科学の進歩を誇り、文化と教養の進歩を誇ります。文明を誇り、自国を飾り立て高揚するキリスト教を地上の僻地にまで広めんと、大真面目で奔走しています。

いや、それどころか、それを“そなたたちだけ”に授けられた神の万能薬として、他国へ押しつけんとしています。その押しつけんとする宗教と文明がもたらしている現実については、言わぬが華であろう。

繰り返し説いてきたように、そなたたちの説く宗教は、真実のキリスト教の名に値する単純素朴にして純粋な信仰の、退廃的所産にほかなりません。誇りとしている文明も文化もうわべのみの飾りにすぎず、化膿した傷口はとうてい隠し切れず、霊眼には歴然として正視できません。それが人間性に及ぼす影響に至っては、その本来の崇高な感覚を汚し、空虚さと欺瞞と利己主義しか産み出せません。

その点においては、人間本来の感性を文明によって矮小化されず麻痺されることのなかった砂漠の民アラブ人、あるいはアメリカ・インディアンの方が、人を出し抜きペテンにかけることに長けた文明国の狡猾な商人、あるいは文化的生活に毒された巧妙な弁舌家、淫乱きわまる文明人よりはるかに高潔であることが、往々にして見受けられます。

地上の大都会は、まさに悪徳と残忍と利己主義と無慈悲のるつぼです!魂は真理に飢え、打ちひしがれる思いの中で途方に暮れています。霊的影響力を受けつけない雰囲気の中で暮らす彼らは、より清く、より平静な雰囲気を求めて悶え苦しんでいます。

が、その悶えも、取り囲む闇の帷(とばり)を突き抜けることはできません。必死の向上心も、繰り返される悪の誘いに打ち砕かれます。折角の決意も邪霊に奪われます。

かくして彼らは、次第にそうした邪霊の働きかけへの抵抗力を失っていきます。その段階に至れば、自暴自棄の念を吹き込むのは、いとも簡単です。それが悪徳を大きく助長し、救いへの正道がほぼ完全に閉ざされます。

では、そうした不純と淫乱と懊悩の巷 – 実はすぐ目と鼻の先の、そなたの同胞の住む都会であり、そこでは財産(かね)さえあれば少なくとも身体的労苦からは逃れられるが – そうした巷から霊界入りする人間は、その後いかなる経過をたどるのであろうか。

彼らの住む環境は、見た目には、霊と肉を堕落させる恥ずべき環境とは思えない。が、そこに漂う霊的雰囲気は俗悪臭に満ちあふれている。金儲けのみが人生であり、愉しみといえば飲食と酒色です。雰囲気は金銭欲と権力欲と、その他ありとあらゆる形の利己心です。

そうした環境で暮らす人間の魂が死後いかなる状態に置かれるか – そなたは一度でも想像してみたことがあるであろうか。魂の糧となるべきものを知らず、成長もなく、たずさわる仕事もない。

発育はいびつとなり、落着くところは古巣の地上でしかなく、カネと欲の巷に舞い戻ったところを、待ち受けていた邪霊につかまり、そそのかされ、欲望をいっそう掻き立てられ、われわれには近づき難い存在となります。

そうなったが最後、悪徳の巣窟である歓楽街の酒色に溺れる霊と同じく、われわれは手を施すすべを知りません。辺りはむせ返る雑踏 – そこではカネのみが物を言い、利己心と貧欲と盗みが横行しています。邪霊集団の行動の中心地であり、そこから毒々しい影響力が発散されていきます。

富裕階級の退廃と堕落

が、人間はそれに一向に気づいていません。諸悪の根元について無知であり、その諸悪に格好の場を提供している点において愚かというべきです。悪の環境を永続させているのは、その愚かさにほかなりません。そして、地上に生命が誕生し発達し霊性を開発していく、その本来の原理・原則を理解せしめんとするわれわれの努力を、いっそう困難なものにします。

たとえば結婚生活のもつ重大な意義について、これまでにもそれを正しく理解した高邁な改革者が幾人もいました。われわれも、そなたに理解しうる範囲で、見解を述べてきました。世の中がさらに進歩した時点において説くべきものが、まだまだ数多く残っております。が、今はまだその時期ではありません。

差し当たりわれわれとしては、結婚生活というものが病気と犯罪と貧困と精神病等の重大な問題と密接に結びついている問題であることを指摘するに止めておきます。

それが人間との関わりにおいてわれわれを悩ませ混乱させているのです。その多くが結婚生活にまつわる愚劣な思想、さらには無謀きわまる犯罪的処罰 – 犯罪的であると同時に、より一層愚かしい法律に帰せられるべきです。

そのことは無知・無教養の階層に劣らず、教養ある上流階級についても言えることです。否、むしろその最大の罪は、富裕階層にあるでしょう。人間はこれまでの結婚にまつわる観念を大いに改めねばなりません。

結婚の美名のもとに行われる堕落の大根源を抹殺するには、まず、これまでそなたたちが良しとしてきたものに代って、幸福と進歩のための、より真実にして神聖な規範を学ばねばなりません。

われわれを誤解してはなりません!われわれは放縦を唱道する者ではありません。世に言う社会的自由の伝道者ではありません。愚か者は自由と放縦とを履き違えて堕落します。その堕落した観念をわれわれは軽蔑をもって拒否します。

かの恥ずべき人身売買、もっとも神聖な生命の法則の侮辱ともいうべき社会的奴隷制度を軽蔑する以上に、われわれは結婚の美名のもとに行われる人身売買を軽蔑するものです。

そなたは、肉体が霊の道具であること、その肉体の発達を促す健康の法則と条件が、霊が肉体に宿って送る地上生活にとって必須のものであることを理解しておりません。そのことに関しては前にも述べましたが、ここで一言だけ付け加えるならば、他の面においても同じことですが、この問題においてもそなたたちはわれわれの敵に味方する結果となっております。

キリスト教徒が大切にしている純粋で崇高な霊的福音が地上にもたらされて、はや十九世紀の歳月が流れました。しかるにそなたたちは、真の向上に資する面においても、叡智においても、真の宗教性においても、ほとんど成長らしい成長をしておりません。

いや、むしろイエスがその修行時代を過ごしたエッセネ派(1)にも及びません。イエスにもっとも辛辣な非難を浴びせた律法学者やパリサイ派と同列です。

そなたは何もご存知ない。肉体と霊の問題 – この世のみならず死後の生活にも関わる重大な意味をもつこの問題について、そなたはまるでわかっておりません。

以上、かつて言及しておいた、われわれに敵対する邪霊集団について、その幾つかを明らかにしてみました。彼らは勢力を結集してわれわれの仕事を挫折させ、悩ませ、傷つけんとしてスキを窺っています。しかも人間の無知ゆえに堕落していく霊によって、時々刻々、その勢力を拡充していきつつあります。

ますます巧妙化する妨害手段

これまでわれわれは、もう一方の集団、すなわち人類のため、人類の発展のために尽力している霊の集団については述べずにきました。人類を救済し、未来に希望をもたせる犠牲と献身の行為、素朴にして気高い生きざま、心豊かな行為については、あえて述べずにおきました。

それは、われわれの差し当たっての仕事が、その反対の暗黒面を描いてみせることにあるからです。出来るだけその方向へそなたの注意を向けさせてきました。

言っておくが、われわれはその内面の姿を“有るがままに”描いているのです。この通信の底流にある深刻な事実、すなわち善と悪との対立、その悪の勢力を助長する人間の過ちは、われわれが担う仕事の今後の進展に大きく関わる重大な事実だからです。今しがた述べたことも、われわれに敵対する組織的集団についてすでに述べたことを繰り返したにすぎません。

が、これ以後ますます繁くなりゆくであろうことが予想される特殊な敵対手段については、述べることを控えてきました。それは、客観的心霊現象が頻繁となり、それを求める欲求がつのるにつれて、邪霊集団が意図的に手の込んだ策を弄(ろう)し、肝心の霊的真理に対する不信感を煽る企(たくら)みのもとに、多くの霊媒が輩出する可能性が大きくなるということです。

これは特殊な敵対手段であり、きわめて大きな危険性を秘めています。と言うのは、程度の低い霊ほど物的なものへの働きかけが強力であり、巧妙であり、時として憎悪に満ちているのです。彼らは、目を見張るような心霊現象を起こす霊媒を養成し、超自然力に興味をもつ者を得心させようと、強力に働きかけています。

いったん得心させれば、あとは簡単です。トリックとペテンを弄し、同時に真面目そうな道徳的教説を混じえつつ、徐々に疑念を誘い、はじめ霊の存在に向けられた不信感と猜疑心とが次第に心霊現象そのものと、肝心の道徳的教訓にまで広がっていきます。

心霊現象は単に人間の目を見張らせ面白がらせるためのものではありません。肝心の目的は霊的教訓にあります。それに対する不信感を煽る手段として、これに勝る巧妙なものはありません。

人間は最後にこう言い始める – われわれは色々とやってみた。みずからも実験してみた。そして真相がわかった。結局はペテンか愚劣にして不道徳きわまる教説を説くか、あるいは間違いだらけか、要するに、これは悪魔の仕業に違いない、と。

そう考えはじめた連中に正と邪を見分けるようにと説いてみたところで、もはや無駄です。揺らぎはじめた信頼がそれを許しません。はじめは信じてかかったものがニセモノであることが証明されたわけであり、信頼の殿堂は瓦礫(がれき)となって散乱します。基礎が十分でないということであり、それでは建造物を支えることができなかったということです。

ハデな現象は要注意

繰り返し述べるが、これほどわれわれの仕事をマヒさせる悪魔的策謀はありません。このことを、われわれは厳粛な気持ちでもって警告するものです。必ずわれわれの警告にしたがって行動してもらいたい。

次から次へと、やたらに派手な現象を演出してみせてくれる時は用心するがよい。そうした類は大体において低級で未発達な霊の仕業です。その演出には往々にして“招かれざる客”がたずさわっています。驚異的現象も、あまり度を越すと、ことに結成したばかりのサークルにおいては、大いに危険性があります。

心霊実験は必要です。われわれは決してある種の人間にとっての効用を過小評価するものではありません。求める者すべてに納得のいく証拠を提供してあげたいとは思います。が、そうした物理的現象のみに偏った興味、魂の成長にほとんど役に立たない、うわべの興味にの始してもらっては困ります。

そうした現象にしか興味を抱かない者の目には、われわれの行なうことが時として人間のすることよりお粗末に映ることすらあります。が、われわれは現象そのものを目標としているのではありません。目標は一段高い次元にあります。

また、この世のものとは異質の存在がこの世に干渉できることを証明することだけで満足しているわけでもありません。もしもそれがすべてであるとするならば、そうした事実を知ることは、害にこそなれ益にはならないでしょう。

われわれはたったひとつの至上命令を下されているのです。その使命達成のために地上圏へ戻ってきたのです。それ以外に地上に用はないのです。その使命が何であるかは、すでにそなたにも分っているはずです。

信仰心が冷却し、神の存在と霊魂不滅への信仰が衰えかけた時、われわれは、人間が神の火花を宿すがゆえに永遠不滅であることを証しに来るのです。旧(ふる)い時代の信仰の誤りを指摘し、向上進化をもたらす人生を説き、発達と向上の未来永劫(えいごう)へと目を向けさせるためです。

われわれが不本意ながらも、物質を操る霊の威力の発達のためにその本来の目標を脇へ置くことがあるのは事実ですが、あくまでも目的のためのやむを得ない手段として必要とみた上でのことであって、決してそれが望ましいことと考えているからではありません。

かりに無害であるとしても、われわれは同じ忠告をするであろう。が、現実には、われわれが最も恐れている反抗集団による攻撃手段とされており、それゆえ、そうした物的現象を無やみに求めたり、それをもってわれわれとの交霊の目的とすることを、声を大にして警告するものです。

前座のあとに真打ちが控えている

心霊現象は、あくまでも霊の実在を確信させるための手段にすぎないことを心得られたい。そのひとつひとつが霊の世界から物質の世界への働きかけの証なのです。“それだけのもの”と理解し、それを霊的神殿を建立するための基礎として活用してほしい。

現象はどういじくってみたところで、それ以上の価値は出てきません。それに、霊側がこれ以上やっても無駄とみた時は、そうした現象を得意とする低級霊に譲って引き上げてしまうものです。かくして折角の奥深い啓示の機会が逃げ去ることにもなります。

あくまでも現象を基礎として、そこから一歩踏み出さないといけません。現象にたずさわる知的存在の本性はいったい何であるのか、いずこより来るのか、その意図は何なのか、等々を知ろうとしなければなりません。

そなたたちとて、きっと、それが神の計画であり、その拠ってきた根源も意図も至純であり、必ずや何らかの恩恵をもたらすものであるとの確信を得たいと思うことであろう。魂のたどる宿命と、人間が死と呼ぶところの変化にもっとも有効に対処できる心がけについて、納得のいく指針を得たく思うことであろう。

それは当然の成り行きです。なぜなら、万が一われわれが人類と同類でないとすれば、われわれの体験がそなたたちにいったい何の役に立つのでしょう。万が一そなたたち人間の不滅性を語れないとすれば、われわれがこうして存在し続けていることをいくら徹底的に証明してみたところで、いったい何の意味があるのでしょう。奇々怪々な話になるでしょう。これほど奇妙な話もないことになります。

そなたが首尾よく現象的なものを超えて真理のための真理探究にまで進めば – 要するにわれわれの意図を信じてくれればということになるが – その暁には、そなたがまだ知らずにいる世界に案内することができるでしょう。

その世界については、すでにはるかに奥深い啓示を手にしている真摯な求道者が他の国には大勢いるのです。そなたの国ではまだその恩恵にあずかれる者はわずかです。

こうした自動書記による通信も、テーブルラップ(2)その他のぎこちない手段に比べれば、よほど進んでいるかに思えるであろうが、そうした物理的手段をへない直接的な霊と霊との感応に比べれば、足もとにも寄れません。

最高の交霊手段はインスピレーション

スピリチュアリズム勃興の地である米国においては、地上と霊界の二重の生活を送ることができるまでに霊感が発達し、霊界との交信を日常茶飯事としている者が大勢います。

英国民の精神の不信心性と興味の唯物性と、雰囲気の低俗性のゆえに、われわれの思うに任せないことが、米国では着々と成果を挙げていきつつあります。われわれの仕事は、俗事を処理するようなわけにはまいりません。

われわれは心を読み取ってしまいます。ゆえに、実際には興味を覚えないのに、いかにも興味ありげに装ってみたところで – そなたがそうだというのではありません – 心底から信じないままわれわれの仕事に手を貸してくれたところで、何の益にもなりません。

いつの時代にも、いずこの国においても、常にそうでした。高級な霊的真理を地上へ送り届けんとする努力が時おりなされます。が、時期尚早であることを悟って手を引くことがあります。

もっとも、このたび指摘するのはそのことではありません。心霊実験にまつわる危険性について警告し、物理現象はそろそろ卒業して霊的知識へと進むよう忠告しようとしているまでです。

進歩には受け入れ態勢が先行せねばなりません。が、われわれとしては、そなたが少しでも早く物的束縛から脱して、ひたすら霊的真理の追求に専心する日の到来を望み祈るのみです。その目標に向かって迷わず突き進まねばなりません。有象無象(うぞうむぞう)の意見を振り切り、地上の生活者として、出来うるかぎり物的感覚から脱け出なければなりません。

永遠なる父よ!私たちはあなたの御名のもとに勤(いそ)しみ、あなたの真理の啓示のために遣わされました。その真理が私たちが語りかける者の心を高め、そして清め、地上的なものを超えて霊的感覚を目覚ましめ、私たちの説くところを悟らしめます。

願わくば彼ら地上の者の心に信仰心を育みたまえ。それが真理への渇望を生み、地上的利害を超えて霊的啓示を学ばしめることになればこそでございます。

†インペレーター

– 私は、右に述べられたことがすべて真実であることに疑いは挟まないが、そういう邪霊の働きを抑制するための法と秩序が霊界にないのが理解できない、と述べた。何だか彼らは好きに振舞い、何の支配も受けていない感じがするのである。同時に、彼らが他人の名を騙るという事実が不思議に思える。なぜそんなことに興味を覚えるのかが理解できない、と述べた。

イタズラを楽しみとする低級霊

われわれの世界に法も秩序もないかに想像するのは間違いです。そちらの側で整えるべき条件を整えてくれないことが、われわれの秩序ある努力を挫折させているにすぎません。

交霊会を催すに際しては、まずそれなりの条件を整えてくれないといけません。それさえ励行してくれれば、これまでのようなイタズラや混乱の半分は除去されるでしょう。もっとも、そなたたちのいう悪の要素が完全に抹殺される日は来ません。

何となれば、そうした体験も霊的鍛練のひとつだからであり、われわれとて、そなたの進歩を促す過程を免除してやるわけにはいかないのです。そなたもその過程を通過する必要があるのです。まだまだ学ばねばならないことが多々あります。こうした実際に即した体験もその勉強のひとつと心得るがよい。

邪霊が他人の名を騙る問題については、これ以後も多くを知ることになろうが、取り敢えず述べておけば、こちらにはそうしたイタズラを楽しみとする低級霊がおり、ある条件下において実に手の込んだ詐術を弄(ろう)する才能をもっているということです。

人間が望んでいるとみた人物の名を騙り、いかなる人物でも実にうまく真似て応対する。こうした霊は、サークルのメンバーが用心を怠らず、霊側で守護の任に当たる者が鋭く睨(にら)みを利(き)かせれば、大ていは締め出すことができるものです。

むやみに交霊会を催し、新参者を不用意に参加させ、霊的条件への配慮を怠り、それがために霊側の厳戒態勢が整わないようでは、彼らの侵入を許す危険が大です。われわれの知るかぎりでは、大半の交霊会ではその種のイタズラ霊の侵入を許しているとみてよいでしょう。

単なる好奇心から現象を求める。霊界の知人・友人を次々と呼び寄せる。それが本当に当人なのか騙りなのかを見分ける用心を怠る。あれこれと愚にもつかぬ質問をし、その返事を大真面目で聞いて鵜呑みにする。これでは低級霊がそれを楽しみとして何の不思議があろう!

– そんなことでは、これで絶対に大丈夫という確信を得ることができませんし、立派で筋の通ったものと思い込んでいたものが、結局はトリックだったということにならない保証はどこにもないのではありませんか。背後にそうした邪悪な勢力が存在する以上、絶対に安全といえる人がいるでしょうか。

猜疑心を注ぎ込む邪霊たち

その問いに対しては、すでに述べたことを繰り返すのみです。われわれの信頼性と誠意と客観性については、そなたはすでに証明済みです。証拠の上に証拠を重ねてきました。

われわれの道徳的意識の程度は、すべての面で一貫している誠意 – これまでに授けてきた教訓に一貫する基調をもって証明してきたつもりです。それは、そなたみずからの判断によって評価されたい。

そなたの評価を得てはじめて世のすべての人に至純にして至善なる教訓として公開されることになります(3)。そなたは今すでにそれを、全体の傾向として、崇高にして善なるものであることは認めている。

われわれの身元、われわれの仕事、そしてわれわれの目的に関して、そなたは一個の人間について評価を下すのと同じように評価を下せるだけの情報を手にしています。

– おっしゃる通りです。この通信の最初に私が指摘した霊などは、もし引っ掛かっていれば、容易に私の信念を揺るがせかねなかったと思われます。

それは十分に有り得たことです。万一の場合、われわれがその働きにどこまで対抗できたかはわかりません。が、そのような危険に足を踏み入れることは、われわれはご免被(こうむ)ります。

あの場合にしても、どう警告したところで、彼らはそれに対抗して巧みに取り入り、うまく人の名を騙(かた)って、あげくには、ただでさえ心もとないそなたの信念に致命的な打撃を与えていたことでしょう。

そなたにとっては、真実、危険です。何にもまして、矛盾した偽りの言説はそなたに猜疑心を誘発せしめることでしょう。その猜疑心は最後にはわれわれへの信頼をも覆し、われわれは退散のやむなきに追い込まれることでしょう。

低級霊の餌食となりやすいタイプの人間

– 確かにこれは、関わりあうと実に危険な存在であるように思われます。

何ごとにせよ、乱用は感心しません。正用は結構であり、それを常に心掛けるべきです。軽薄な心でもって霊界と関わりをもつ者、単なる好奇心の対象にすぎないものに低俗な動機からのめり込んでいく者、見栄っ張りのうぬぼれ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、冗舌家 – この種の者にとっては危険が実に大です。

われわれとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに関わることは、絶対に勧められません。ゆゆしい危険性をはらんでいるからです。密かな魂胆を宿さず、賢明にして強力な背後霊に守られ、その指示に忠実に行動する者のみがこの道にたずさわるべきであり、それも、細心の注意と誠心からの祈りの念をもって臨むべきです。

不用意な関わりあいは断じて許せません。また、円満な精神と平静な感情の持ち主でなければ、とても霊界との完全な関わりあいは不可能であり、せっかくの地上生活に新たな禍いの種子を持ち込むことになります。

節度のない精神、興奮しやすい感情、衝動的かつ無軌道な性格の持ち主は、低級霊にとって格好の餌食となります。その種の人間が霊的なことにたずさわることは危険です。とくに、その求めるものが単なる驚異的現象、好奇心の満足、あるいは虚栄心の慰めにすぎない場合は、なおさらのことです。その種の人間には、神の訓えは耳に届きません。

願わくば、聞く耳をもつ者が低級霊の干渉を首尾よく切り抜け、低級界を後にして、高級界の、より聖純な大気の中へと進んでくれることを望むこと、切なるものがあります。

– それは、しかし、世間一般の人にとっては要求が高すぎるのではありませんか。大方の者は何となく取っつきにくい教訓めいた話よりは、頭をコツンと叩かれたり(4)、イスやテーブルが浮揚するのを見る方を好むものです。

確かにそなたの言う通りです。それはわれわれも十分に承知しています。が、現在の段階はあくまでも“通過せねばならない”段階と考えるべきです。われわれの仕事にも物理現象は付随します。

が、それは真の目的ではありません。われわれが期待している本来の発展の“地ならし”程度に考えないといけません。これより後も、各地でいっそう盛んに見られるようになるでしょう。

われわれはそれに伴うところの危険性について警告しつつも、現在そなたが置かれている知的段階においては、それも必要であることを決して偽りはしません。遺憾には思うものの、その必要性は認めます。この件に関しては付言すべきことがまだまだありますが、今は控えます。しばし休息されよ。

– わずかばかりの休息の後に、次のような通信が追加された。

良識に欠ける霊たち

邪霊集団の暗躍と案じられる危険性については、すでに述べました。それとは別に、悪意からではないが、やはりわれわれにとって面倒を及ぼす存在があります。

元来、地上を後にした人間の多くは、格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟ともいえません。肉体から離れていく人間の大半は、霊性においてとくに悪でもなければ善でもありません。

そして、地上に近い界層を一気に突き抜けていくほど進化した霊は、特別の使命でもないかぎり、地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べました。

言い残したものに、もう一種類の霊団がいます。それは、悪ふざけ、茶目っ気、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙り、わざと間違った情報を伝えたりします。

邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体(もったい)ぶった雰囲気で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取っては、面白がっているにすぎません。

交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがある、とそなたに言わせる要因がそこにあります。茶目っ気やイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持をもてあそぶ霊の仕業が、その原因となっています。

列席者が望む肉親を装って、いかにもそれらしく応対するのも彼らです。誰でも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在のせいです。最近、誰それの霊が出たとの話題がしきりに聞かれるが、そのほとんどは彼らの仕業です。

通信にふざけた内容、あるいはバカバカしい内容を吹き込むのも彼らです。彼らは真の道徳意識は持ちあわせません。求められれば、いつでも、どんなことでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時どきの面白さ以上のものは求めない。人間を傷つける意図はもたない。ただ面白がるのみです。

人の道を誤らせ、邪悪な欲望や想念を抱かせるのも彼らです。霊媒をひそかに操り、高尚な目的を阻止しようとします。高尚で高貴な目的が彼らには気に食わず、俗悪な意図を示唆します。要するにその障害物、妨害物となってやろうとするのです。関わるのは主として物理的現象です。

大体においてその種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって、混乱を引き起こさせるような現象を演出します。数々の奇策を弄して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそえみます。

憑依現象をはじめとする数々の心霊的障害は、彼らの仕業である場合がよくあります。いったん付け入れば、どうにでも心理操作が可能なのです。個人的に霊を呼び出して慰めを求める人たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺きます。

しっかりとした意志の疎通が行なわれることがあることはあります。しかし次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながらその中につじつまの合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりします。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はなるべく避ける方が賢明です。

†インペレーター

[注釈]

(1)Essene 紀元前2世紀ごろから存在していたユダヤ教の一派で、禁欲・独身・財産共有を特徴とし、心身の清廉を説き、実践した。

イエスが一時期この一派に属していたらしいことは、バイブルの中のイエスの言動によっても推察がつくが、今世紀半ばに死海のほとりの洞窟から発見された巻き物、いわゆる“死海文書”によってその事実の可能性がますます濃厚となった。

しかし、イエスの信仰態度は“愛”を基調として、その時その場における自分の判断による行為を尊び、戒律や教義による束縛を排した点に最大の特質がある。それが取りも直さずスピリチュアリズムの基本的な教えでもあるのである。

(2)テーブルがひとりでに傾斜して、1本の脚が床を叩き符牒によって通信を送ってくる。

(3)本書の形での公表は、霊側は当初から意図していたことが窺われる。もしかしたら、こうして日本でも翻訳紹介されることも、遠大な計画の中に組み込まれていたのかも知れない。

(4)心霊実験会では霊がメガホンなどで列席者の頭や肩をポンポンと叩いてまわることがよくある。訳者も体験がある。心情的にはなぜかそれを“うれしく”思うことは事実である。

「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†■2024年8月21日UP■
「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†
もう僕という霊媒が機能するだの、新規の霊言が降るだの、そういう事を書くつもりは一切ありませんが、現存する正真正銘の霊関連書籍をテキスト化する作業は全力で続行するつもりでいるのです。その作業を続けるイコール「本を読み続ける」という事になり、さらに深く霊的知識を理解する事につながるので僕的に好都合ですし霊的知識拡散という意味でも大変重要なのです。なぜ霊団がそこまでしてあの無意味なところに僕を閉じ込め続けようとしているのかがどうしても分かりません。僕をあそこに閉じ込めてみたところで僕という霊媒は機能しない、新規の霊言は降らない、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡にもつながらない、奴隷の女の子たちもひとりたりとも助けてあげられない。何ひとつイイ事ないじゃないですか。なのにそこに閉じ込められる事を耐え抜けば僕は霊的に向上を果たす事ができて明るい境涯に赴く事ができるのだそうです。邪悪を滅ぼす事より、殺される運命の女の子を救出する事より、仕事を前進させる要素ゼロの意味なしの場所に閉じ込められる事の方が霊的向上に寄与するとは、これは一体何がどうなっているのでしょうか。本気で意味不明なんですけども…続きを読む→
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†■2024年7月24日UP■
「地上に知れ渡るのか恐るべき事実だな」真実は必ず知れ渡る、隠し通す事は不可能です(祈)†
その男性が失われた良書を復活させようとしている事をシルバーバーチ霊が「真一文字に突き進みなさい」と言って鼓舞しているシーンがあります。僕はこのシルバーバーチ霊の「真一文字に突き進みなさい」の言葉が大好きで、画家時代から人生の指針としていたほどです。で、続いてシルバーバーチ霊が秘書の女性に話しかけ始めますが、ココで評価が一変します。シルバーバーチ霊はこの秘書の女性を「黄金の心を持つ女性」と言ってベタ褒めします。女性は赤面して「私は無力な人間です」と言いますがシルバーバーチ霊はこの女性をココぞとばかりに褒め続けます。この秘書の女性は出版業の男性を影で支えているのみで、実際の作業は男性がやっているのですが、霊界側では女性の方がこのように評価されるのです。これは物的成果を見ているのではなく“心の持ちよう”を見ているからこうなるのではないかと僕は思ったりするのです。つまりこの秘書の女性には私利私欲、自己主張のようなものが全然心の中になかった、献身的姿勢を貫いていたのではないか、それをシルバーバーチ霊が読み取っていたからベタ褒めしたのではないかと僕は予測するのです…続きを読む→

僕は霊団に本気の全力で反逆してますが(イヤ反逆と表現するのはおかしい、僕は当たり前の事をやっているだけ、正当防衛だと思ってます)しかし使命遂行の手を止める訳にはいきません、霊的作業が最優先となりますので何が何でも続行中です。

物的なモノに心を奪われ物的作業だけをおこなう事は帰幽後の霊界人生に何の役にも立たないという事は分かっているものの、しかしまず脱出を完了させない事には話が始まりませんのでアレコレ手を広げて物的調査をしたりしてます。

精神的にイヤでどうしようもないところに閉じ込められるのが耐えられないというのもありますが単純に身体的にも、もうムリなんですよ。僕はもうジイサンですのでこの先もずっとこの状態をやらされるのは絶対ムリと誰でもわかる状態にさせられています。こんな状態にさせられる事を自ら選択する訳がない。脱出するに決まっているのです。

明日はロングドライブ対策でアレコレ“ルクエ”の作業をやらねばなりませんので作業はほとんどできませんが、それでもホンの少しでもやるつもりです。精神的にも肉体的にも限界、もうムリなのです。こんな状態に閉じ込めようとする霊団を心の底から憎んでいます。地球圏霊界と縁を切りたいけど間違いなくこの願望は叶えられないでしょう。

ちなみに「トリカブトちゃん作戦」2年目の準備を開始します。1年目は大失敗、まるっきり何も咲きませんでした。またタネを蒔くつもりです。咲くまで続けます。詳細は後日。OCR変換続行中(祈)†

■2021年8月13日UP■
「死体切断はもったいないから」明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を四肢切断する理由です(祈)†
ブタ(奴隷の女の子)は死んだけど、この死体はまだオモチャとして遊べる、このまま捨てたり焼いたりしたらもったいない、最後の最後まで遊び倒さないといけない。世界中でこの遊びができるのは俺たちぐらいのもんだ、ホラ悠仁、お前もブタの胴体を切って遊べ、人間を殺すのは楽しいだろ、これが俺たちの仕事だぞ。これからも国民を殺しまくって遊ぶんだぞ。イーッヒッヒッヒッヒッヒ♪つまり奴隷の女の子たちの人生、人権、性格、夢、そして生命、それら全てをオモチャにして遊ぶ事ができるのは世界で俺たちぐらいのものだ、ただ殺すだけじゃもったいない、女の子が生きている間も、泣き叫んで助けを懇願している時も、四肢切断した後も、強姦殺人する時も、女の子が死んで死体となった後も、その死体を切り刻む時も「処刑遊び」の全シチュエーションをバッチリ撮影して記録に残し、最後の最後まで徹底的に遊び倒さないといけない…続きを読む→
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†■2024年8月7日UP■
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†
これは詳細説明できないのですが、実は霊性発現初期の頃に「隔離フィールド」という霊現象に長らく苦しめられた時期がありました。この時の実際の状況は諸事情がありまして説明できないのですが、どうもこの隔離フィールドの時から現在までが1本の線でつながっているのではないか、僕の人生はこの隔離フィールドからおかしくさせられたのではないか、という気もしているのです。ごめんなさい、これは説明できないのです。僕という霊媒から新規の霊言を降らせたいのなら、いくらでも方法があるはずだろう、サークルメンバーのいるところに僕を移動させる、自動書記で霊言を綴る、できなかったなどとは言わせない、絶対にできるはずだ。コイツらは言ってる事とやってる事が完全に正反対だ。僕がある方向に動くととにかく脅して止めてくる。何の結果にも到達しないようにしているとしか思えない。で、僕は反逆(脱出)などと言っていますが、実際に脱出が実現したとしましょう。そうなると僕は現在の生活より自由に使用できる時間を増やす事ができるようになり、使命遂行に多くの時間を割く事ができるようになり、さらに霊的仲間を求めて外洋に飛び出す事もできるようになります。現在の生活では困窮を極めているためにそれができません…続きを読む→

スキャン中に記憶が飛ぶ、絵を描こうとすると目が閉じる、今日は睡魔に負けて全然作業できませんでしたがまだ少し時間があるので何とかやってみるつもりです。明日はロングドライブ対策でたくさんの準備をやらねばならないので今日以上に使命遂行の諸作業ができません。なので今できる準備は今やって明日の自分を助けます。

霊団に閉じ込められている場所で猛烈に理不尽な扱いを受けていまして、もうどうやっても耐えられそうもありません。ある脱出アイデアの実行日程を決めていますが、そこまで耐えられそうもありません。しかしその前に実行してしまうと数字的に大ピンチになってしまうので残念ながらそれもできず、耐えるしかない状態です。

ココまでヒドイ目に遭わされねばならない理由を説明してくれ。僕をココまで追い込んでいるのは間違いなく霊団、あんたたちだ。僕は何年も前から脱出しようとしてありとあらゆるアクションを起こしてきた。それら全てが失敗に終わっている、成功確率0%。この数字は異常すぎる、人為的としか思えない。一体僕に何の恨みがあるんだよ。

えー無限ループになりますので(この件はいくらでも話が湧き出てきます)長文ブログのタイミングでまたお話させて頂きますが、チョトだけ書きますと、使命遂行と全く関係ないところに全力で僕を閉じ込めようとしている、使命遂行が前進しないように全力で妨害している。

「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体、奴隷の女の子の存在を僕に教えてきたのは霊団だというのに、教えた張本人がそれ以上事態が進展しないように僕を正反対の方向に閉じ込めようとしている。地球圏霊界の人間の仕事とは一体何なのでしょうか。

僕は自分がやらされた使命遂行について帰幽後に指導霊等々の人間から事情説明を受ける事になるのでしょうが、その説明を聞いてもなお納得いかない可能性が濃厚と予測しています。

それで「こんなヒドイ事をした奴らと共に生活したり仕事したりできない」という心理が働いて、物質界生活時より事情に精通した霊界生活時においてもなお、地球圏霊界を離れたいという願望を持ち続けるのではないかと思ったりしています。それくらい僕が置かれている状況が許せないという事です。

間違いなく僕の願望は叶えられないでしょうが、できる事なら地球圏霊界以外のところで生活したい。本当に地球圏と関係を断ちたい。もうイヤだ、コイツらイヤだ。んー、グチを一旦止めてモチョト作業してみましょう(祈)†
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†■2023年12月27日UP■
「おかげでだいぶ助かりました」殉教の死を遂げた方々が僕を使用して仕事しているのです(祈)†
霊的知識を獲得した人は、宜しくないおこないをして帰幽した先にどれだけの地獄が待ち受けているかを知っているので自動的に悪行にブレーキがかかるのです。シルバーバーチ霊も仰っていますように、邪悪な人間というのは霊的成長における「幼児」であり、霊的知識が全く頭に入っていないワガママのお子ちゃまであり、物的金銭を人より多く所有する事でしか自己表現ができない原初的人間という事になるのです。金銭など帰幽後、1円も霊界に持って行けません。そして霊界生活にお金など必要ありません。必要なものは全て思念で拵える事ができます。物質界生活中にお金をため込んでも自分の未来にとって全く無意味という事を悟れていない人間という事なのです。人間は本来が霊であり、その霊が修行のために一時的にトレーニングセンターである物質界に肉体という鈍重な衣服をまとって降下しているのであり、そのトレーニングセンターでのおこないが帰幽後の生活環境、霊界にて赴く境涯を高くしたり低くしたりするという霊的知識の基本中の基本さえ知らない人間が、その無知から邪悪なおこないをするのです…続きを読む→
「あなたに悲しみの光を」悲しみでイイから事態を進展させてくれ、閉じ込めは許さぬ(祈)†■2024年1月24日UP■
「あなたに悲しみの光を」悲しみでイイから事態を進展させてくれ、閉じ込めは許さぬ(祈)†
「我々はアキトくんを守ってあげようとしているんだよ」そう言いたいのでしょうが「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に四肢切断、強姦殺人され続けている奴隷の女の子を目の前にしてそのセリフを言ってもらっていいですか。「目の前にある恐ろしいものを」これも僕が日本の中心に行ったらそういうモノに直面させられるのだそうです。イヤ、だから、そう言うんだったらあんたたちはそもそも僕になんでこの使命遂行をやらせたんだよ。物質界の邪悪を滅ぼすつもりがないんだったら今すぐ僕の人生を元に戻せ。霊的知識を獲得する事の効用のひとつに「物質界に恐れるものがなくなる」というものがありますが、僕は物質界の邪悪な人間に対しても何ら恐怖心を抱く事はありません。僕を脅しているその邪悪な人間の霊格が僕よりはるかに低く、帰幽後に地獄の底の底に落ちていく人間だという事を知っているので、その人間に対して恐怖は抱かず憐れみを感じるのです。(後なるものが先に)…続きを読む→
「実はもうハラールの準備が」意味不明の言い訳で自身の罪を回避しようとしているのです(祈)†■2024年3月13日UP■
「実はもうハラールの準備が」意味不明の言い訳で自身の罪を回避しようとしているのです(祈)†
皆さま、真実を見つめる眼をお持ちになって下さい。それは【視点外し】と言います。ごまかしです。ペテンです。ウソです。コイツらがどのような言い訳をしてきたとしてもそれをもって大量強姦殺人の大罪が軽減されるという事は絶対にありません。コイツらの言い分に耳を傾けてはなりません。コイツらが何と言ってきてもその視点外しに踊らされる事なく「真実一点」を凝視して下さい。その真実とは「明仁、文仁、徳仁、悠仁が大量強姦殺人魔である」という真実です。その真実から眼をそらせようとするコイツらの作戦にまんまと引っかからないで下さい。そもそも根本的にお考え下さい。大量強姦殺人魔に弁明の機会を与える事自体がまずおかしいのです。発言そのものを許してはなりません、問答無用で独房に入れなければなりません。発言させるならまず逮捕して身柄をしっかり拘束した上で監視下でしゃべらせるべきであって、自由の状態でコイツらが語る内容には一切情報としての価値はないとみるべきです。自身の大罪をゴマかし通そうとしてくるに決まっているからです、それ以外の事を言う訳がないでしょう…続きを読む→

[1874年2月26日。この頃に催した交霊会で、わけのわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると – ]

古代エジプトからの通信

そなたには解読できないであろうが、あの文章は大変な高級霊によるものです。その霊は、当時としては最も霊的に発達していた偉大なる国家エジプトに生をうけました。当時のエジプト人は霊の存在とその働きかけについて、今のそなたよりはるかに現実味のある信仰を抱いておりました。

死後の存続と霊性の永遠不滅性について、そなたたちが賢人と仰いでいる人たちよりはるかに堅固な信仰をもっていました。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識はいわば当時の知識の貯蔵庫のようなものでした。

まさしくそうでした。彼らには唯物主義の時代が見失っている知識がありました。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発した知識、そしてその教えを通してそなたたちの時代へと受け継がれてきた知識がありました。

古代エジプト人は実に聡明にして博学であり、われわれの霊団のひとりがいずれ、そなたが知らずにいる多くのことを教えることになろう。地上にあってすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が、三千有余年もの歳月を隔てて今、その地上時代の信仰の不変の本質の証人として参るのです。

その霊が霊界にて生活したその三千有余年、それはそなたの偏狭な視野をもってすれば大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たな真理の視野を開かせ、古い誤謬を取り除かせ、古い思索に新たな光を当てさせ、同時に、神と、人間の生命の永遠性についての信念をいっそう深めさせることになりました。

[私は、それにしても、いったい何のためにわれわれに読めない文字で書いてよこしたのかが理解できないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねた。]

いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは早くから失われています。直接書記から何の手掛かりも得られないのと同じで、彼の名を知る手掛かりはありません。

その霊は地上時代からすでに、物的生活が永遠の生命のささやかな第1歩にすぎないことを悟っていました。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上で信じていた太陽神ラー Ra のもとまでたどり着いたのです。

[彼も、ある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。]

日常生活即宗教

古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素がありました。思想家たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じました。その宗教は死後においては向上進化、現世では有徳の生活でした。

他人と自己に対する義務を忘れず、いわば日常生活が即宗教でした。この点に関しては、そなたの知識の進歩をみて改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプト神学の最大の特質 – 肉体の尊厳 – 肉体の尊厳には、正しい面と間違った面とがあることを知れば十分です。

エジプト人にとっては、生きとし生けるものひとつひとつが神であり、したがって人間の肉体もまた神聖なものであり、死体も可能なかぎり長期間、自然の腐敗を防ごうとしました。その技術の証拠(ミイラ)が今なお残っております。

肉体の健康管理も度がすぎると感心しませんが、適切な管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らはすべての物に神が宿ると考えた。その信仰自体は結構でした。が、それが、神も人間的形体をそなえたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになったのです。

無限の時間をかけ、無数の再生を繰り返すという輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴するために作り出された誤りのひとつでした。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりない転生の中において人間もそれに生まれ変るものとする信仰を生んだのですが、この信仰は死後の向上進化の過程の中で改めていかねばなりません。

が、その中には、神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところのすべての生命が永遠に向上進化する、という大真理がこめられていることは事実です。

象徴と霊的核心

動物の生命を崇拝するということが、そなたには愚かしく浅はかに思えるとしたら – そう思うのも無理からぬことですが – 信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵した誤謬はいわば外殻であり、それは、やがて時とともに消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢(のう)である場合もあることを忘れてはなりません。

中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅しません。その概念が媒体によって歪められ、本来の姿とは異なる形をとることはあります。が、いったんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻します。

さきに話題に上(のぼ)せたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然をすべて絶対神の一時的現象と見なし、したがって、いかなる形にせよ地上的生命を崇拝の対象とすることは感心しないが、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を、不当な批判の目をもって迎えるべきではないことを今では悟っています。その辺のところが、そなたには理解できるであろうか。

– ある程度できます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることは理解できますですが私は、エジプトの神学はインドの神学に比べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺激を受けているような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相対的なものであり絶対的ではないようです。

今ここでインドの神学の特質について詳しく述べるつもりはないが、そなたの述べるところは真実です。われわれとしては、ただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で存在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至ってその多くが完全に消滅してしまっていることを知ってもらおうとしているまでです。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たっては、謙虚であることが大切です。

– わかります。そうした問題について近代人がこうまで無知であるとは知りませんでした。私自身も具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることがわかります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、彼はエジプトの司祭だったのでしょうか?

彼はオシリス Osiris に司える予言者のひとりであり、深遠にして一般庶民には説き聞かせられない神秘に通暁しています。オシリスとイシス Isis とホルス Horus – これが彼の崇拝した三一神(3)でした。

オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての、子なる神でした。彼はその最高神を、そなたたちの歴史家がエジプトから借用した用語でいみじくも表現した I am the I Am、(4)すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源です。それを意味するエホバ Jehovah という用語を、モーセがテーベ(5)の司祭たちから借用したのです。

– 原語ではどう表現されていたのでしょう?

NuK – PU – NUK. I AM THE I AM.

この通信を送ってきたのは例のラーの予言者です。“光の都”オン On 、ギリシャ人が“太陽の都”と呼ぶ都市ヘリオポリス Heliopolis の予言者で、そなたたちのいうキリスト教時代より1630年も前に生活しています。その名をチョム Chom といった。彼は遠い太古の時代からの霊魂不滅の生き証人です。このわたしがその真実性を保証します。

†インペレーター

– エジプト神学を勉強するよい記録は入手できないものかと尋ねるとプルーデンスが –

その必要はないでしょう。当時の記録もほとんど残っていません。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは、すべてその古記録からの抜粋です。前にも述べたように、死体の管理がエジプトの宗教の特徴でした。葬儀は長くかつ精細をきわめ、墓石ならびに死体を納めた棺に見られる書きものは、エジプト信仰の初期の記録から取ったものです。

こうしたことに深入りする必要はないでしょう。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという、厳粛な事実を直視しそして理解することです。それだけではありません。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、すべてがそれに従属していたのです。

芸術も文学も科学も、いわば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細をきわめた儀式となっていました。信仰がすべての行為に体現されていました。昇っては沈む神なる太陽が、生命そのものを象徴していました。

人間はふたつのソティス周期、(6)つまりおよそ3000年におよぶ向上の旅ののちに再び地球に戻ることを繰り返し、最後には生命の光の源泉たる神・ラーの純白の光の中に吸収されつくすと信じました。

純潔と質素と霊夜の生活

斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業にも霊的雰囲気が漂っていました。為すことすべてが死後の生活に関連づけられていたのです。1日1日に主宰霊または主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰がありました。各寺院にすぐれた予言者、司祭、神官、士師、書記がいました。

そのすべてが神秘的伝承に通暁し、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義をきわめるために、純潔と質素の生活に徹しました。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族でした。もとより、今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが多々あるのは事実です。が、深い哲学的知識と霊的知識の明晰さにおいては、現代の霊覚者も遠く及びません。

また宗教の実践面においても、現代人はその比ではありません。われわれは、顕と幽にまたがるこれまでの長い生活を通じて、宗教とは言葉ではなく行動によって価値評価すべきであるとの認識をもっております。

天国へ上る“はしご”がどれであるかは大して構いません。誤った信仰が少なからず混入しているものです。今も昔も、人間はおのれの愚かな想像を神の啓示と思い込んでは、視野を曇らせています。

その点はエジプト人も例外ではありません。確かにその信仰には少なからず誤りがありました。が、同時に、それを補い、生活に気高さを与えるものも又、多く持っておりました。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはありませんでした。常にどこかに、霊的世界との通路を開いていました。

神の概念は未熟ではありましたが、日常生活の行為ひとつひとつに神の働きかけがあるものと信じました。売買の取引きにおいても、故意に相手を出し抜くようなことは決してしませんでした。たしかに一面において、滅びゆくもの・物的なものに対する過度の執着が見られましたが、それ以外のものを無視したわけではありませんでした。

現代にも通じるものがあることに貴殿も気づかれるであろう。現代生活はあまりにも物質的であり、土臭く、俗悪です。思想も志向もあまりに現世的です。霊性に欠け、気高い志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界の実在および霊界との交信の可能性についての信仰に現実味が欠けております。

われわれが指摘せずとも、貴殿には古代エジプトの相違点がわかるであろう。と言って、われわれは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはありません。ただ、貴殿の目に土臭く不快に思えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深い霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでです。

– わかります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それはすべて、永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は当人の啓発の程度によって異なります。

それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは、少し酷(こく)です。確かに物質偏重の傾向はあります。しかし一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。

宗教・神・死後などに関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代といえると考えます。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが…。

現代は過渡期

そうかも知れません。確かに貴殿が言うように、現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られます。その傾向があるかぎり希望も持てるというものです。が、他方には人間生活から霊的要素を排除しようとする強い願望があることも事実です。

すべてを物質的に解釈し、霊との交わりを求め、霊界の存在を探究しようとする行為を、幻想あるいは妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕しようとする態度が見られます。

ひとつの信仰形態から次の信仰形態へと移行する過渡期には、必然的に混乱が生じるものです。

古いものが崩れ、新しいものがまだ確立されていないからです。人間はどうしてもその時期を通過しなければなりません。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものです。

– おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変りが激しく、曖昧となります。むろんそうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。あまりに長いこと物質中心に物事を考えてきたために、物質はしょせん霊の外殻にすぎないという考え方にどうしても付いていけない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探究が盛んな時代は、私の知るかぎり、他になかったという信念は変りません。

貴殿がそう考えるのは結構であり、われわれとしても、いたずらにその信念を揺さぶりたいとは思いません。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、ひとつの典型をあげて指摘したまでのことです。

モーセの律法の基本はエジプト思想の複製

– モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを自分の律法の中に摂り入れたのだと思いますが…

まさしくその通りです。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものです。ユダヤの神殿における斎戒の儀式も、すべてエジプトからの借用です。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものです。

神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(7)の概念もエジプトから来ています。いや、そもそも“聖域”だの“至聖所”だのという概念そのものが、エジプトからの借用にすぎない。

ただ、確かにモーセは、教えを受けた司祭から学び取ることには長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高な教義は、彼の著述の中にその所を得ていません。貴殿も知るように、霊がたどるべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された単なる映像と見なしており、霊の実在という大切な真理とは結びついていません。

– その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。

ありましたとも。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存されている遺体を見てみるがよい。

– それは知りませんでした。モーセは信仰の個々の条項まで借用したのでしょうか。

三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在していた。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製されました。

– それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(8)はなぜ生き残らなかったのでしょう?

彼の場合は、他へ及ぼした影響としてのみ生き残っているにすぎません。エジプトの宗教は特権階級のみにかぎられていました。ために、国境を越えて広がる勢いがなく、末永く生き残れなかったわけです。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡とともに滅んでしまいました。ただし、その影響は他の信仰の中に見られます。

三一神の概念

– 三位一体(さんみいったい)の観念のことですが、あれは元はインドのものですか、エジプトのものですか。

創造力と破壊力とその調停者という三一神の概念は、インドにおいては Brahm, Siva, Vishnu、エジプトにおいては Osiris, Typhon, Harus となりました。エジプト神学には他に幾通りもの三一神がありました。ペルシャにも Ormuzd, Ahriman, Mithra というのがありました。

エジプトでは地方によってさまざまな神学が存在しました。最高神としての Pthah、太陽神すなわち最高神の顕現としての Ra、未知の神 Amun といったように、神にもかずかずありました。

– エジプトの三一神はオシリスとイシスとホラスであるとおっしゃったように記憶していますが…

生産の原理としてのイシスを入れたまでです。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということです。三一神の概念にもいろいろあったのです。大切なのは全体の概念であって、そのひとつひとつは重要ではありません。

– では、エジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。

部分的にはそういうことが言えます。この分野に関しては、詳しく語れる者がわれわれの霊団にはいません。

プルーデンス

– 以上は1874年2月28日に書かれたものである。4月8日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた。以下はインペレーターによるもの。

“魂”の宗教と”身体”の宗教

さきにそなたはインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに対して、エジプトの宗教は本質的には“身体”の宗教でした。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んでした。

インド人にとっては神とは肉眼では見出すことのできない霊的実在であり、一方エジプト人にとっては、すべての動物的形態の中に顕現していると信じられました。インド人にとっては時間は“無”、すなわち無窮であり、全体でした。

エジプト人にとっては、過ぎ行く時の一刻一刻に聖なる意味がありました。このように、エジプトはすべての面においてインドと対照的でした。が、ペルシャのゾロアスターがそうであったように、インドから最初の宗教的啓発を受けています。

前にも述べたように、エジプトの信仰の他に類を見ない良さは、日常生活のすべてがその信仰に捧げられたことです。信仰が日常生活のすべての行為を支配していたのです。そこに信仰の力がありました。すべての自然、とりわけ動物の生命を神の顕現とする信仰でした。

たとえばエジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとってそれは存在の神秘 – 神の最高の表現を崇拝したことになるのでした。そうした古代エジプトの教義を形成し、われわれの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、改めてそなたたちの時代に摂り入れられて然るべきものです。

– 結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動だったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように述べておられますが、私から見れば、エジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、几帳面に沐浴とヒゲ剃りをしたのは愚かとしか言いようがありません。

そうとばかりも言えません。あの儀式にはあれなりに、あの時代と民族にとっては必要なものでした。もっとも、われわれが指摘せんとしているのは、その底に流れる概念です。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も、すべて宗教のためのものでした。

と言って、日常の暮らしが礼拝によって窮屈に縛られていたわけではありません。むしろ生活の行動のすべてが、礼拝の行為の厳粛さの程度にまで高められたのです。そう理解してはじめてエジプトの宗教の良さを知ったことになります。

これほど崇高な信仰は他に見出せません。神の見守る中での生活、身のまわりのものすべてに神を認識し、すべての行為を神に捧げ、神が純粋であるごとく自分の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる。これこそ神のごとき生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それはあえて問われるほどのものではありません。

– 確かに、われわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただって、人間の信仰が絶対に偏見がないということが有り得ないことは認めるはずです。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたが理想とされるものとはならないでしょう。

霊性に応じて責務が決まる

確かになりません。時代は常に進歩し、より高い知識を獲得していきます。発達段階の低い別の民族に適したものが、必ずしも現代に合うとはかぎりません。が、獲得したものがある一方には、失ったものもある。そして、その失ったものの中には、いかなる形式の信仰にも等しく存在すべきものがあります。

それが、おのれへの義務と神への献身です。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではありません。イエスの生涯とその教えの中では、むしろそれが高度に増幅されて具現されています。

しかるに、そなたたちはそれを忘れ去った – 真の宗教の証ともいうべきものを失った。その点において、そなたたちが軽蔑し批難している者の方が、そなたたちを凌いでいることを、とくと認識する必要があります。

常づね述べてきたことですが、人間の責務は、その人間の宿す内的な光によって大小が決まります。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、逆に大きくなるのです。

信じる教義のいかんにかかわらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さとによって向上した者も多いし、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われわれにはその辺の真相がよく見て取れるのです。

信仰の形式 – そなたにはその形骸しか見えていないが – は大して重大ではありません。生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ない。問題はそれをどう理解するかにあり、それによって進化が決定づけられます。

地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、マホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるかパルシー教徒(9)となるか、それは生まれついての宿命的めぐり合わせといえます。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に関わる問題です。

地上にて与えられる機会は霊にとってさまざまであり、それをいかに活用するかによって、死後の生活における向上進化に相応しい能力が増す者もあり、減る者もいるわけです。その辺のことはそなたにもわかるであろう。

ゆえに、パリサイ主義的クリスチャンが侮蔑をこめて見下す、慎ましく謙虚な人間にとっても、あるいは恵まれた環境と向上の機会の真っただ中に生をうけた人間にとっても、真の向上の可能性においては、いささかも差はないのです。

要は霊性の問題です。そなたはまだその問題に深く立ち入る段階に来ておりません。そなたは形骸にのみこだわっている。核心には到達しておりません。

霊的視野と人間的視野

– しかし、いくら真面目とはいえ、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が、はるかに上だと信じますが…

全存在のホンのひとかけらほどにすぎない地上人生にあっては、取り損ねたら最後、2度と取り返しがつかないというほど大事なものは有り得ません。そなたたち人間は視野も知識も、人間であるがゆえの宿命的な限界によって拘束されています。

本人には障害に思える出来事も、実は背後霊が必要とみた性質 – 忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけるために用意した手段である場合があります。他方、ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入った生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させようとして企んだワナである場合があります。

そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断しています。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴であることが理解できない。こうした問題は今のそなたには正しい判断は不可能です。

なお、そなたの言い分についてであるが、人間はおのれに啓示され、そして理解し得た最高の真理に照らして受け入れ、そして行動するというのが絶対的義務です。それを基準として魂の進化の程度が判断されていくのです。

魂みずからが宿命の決定者

– “最後の審判”を説かれますか?

説きません。審判は霊がみずから用意した霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了します。そこに誤審はありません。不変の摂理の働きによって落着くべきところに落着きます。そして一段と高い位置への備えが整うまで、その位置でしかるべき処罰を受け、それが完了すれば向上します。

その繰り返しが何回となく行なわれていくうちに鍛練浄化のための”動”の世界を卒業し、静なる瞑想界へと入寂(10)します。

– ということは、審判は1回きりでなく何回もあるということでしょうか?

そうとも言えるし、そうでないとも言えます。数かぎりなく審判されるとも言えるし、1度も審判されないとも言えます。要するに魂は絶え間なく審判されているということです。常に変化する魂にみずからを適応させているということです。そなたたちが考えているような、全人類を一堂に集めてひとりひとり審問するなどということはありません。あれは寓話にすぎません。

鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによってひとつの性格を形成します。その性格にはそれなりに相応しい境涯があり、そこへ必然的に落着くことになる。そこには人間が考えるような審判というものはありません。

即座に結果が出るのです。討議もお裁きもなく、もろもろの行状の価値がひとまとめに判断されます。地上のような裁判のための法廷などは必要ありません。魂みずからが自分の宿命の決定者であり、裁判官なのです。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまります。

究極の世界のことはわからない

– ひとつの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか?

似たようなものはあります。それは、霊体が徐々に浄化される – 低俗な要素が拭い去られるという意味で似ているということです。上層界へ行くほど身体が純化され、精妙となっていきます。

ゆえに、その変化はそなたたちが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではありません。脱ぎ捨てるべき外衣を持たないからです。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高い境涯への向上という点においては同じです。

– そうやって不純物が拭い去られると、霊は瞑想界へと入り完全に浄化され尽くすということですか?

そうではない。すべての不純物が取り除かれ、最後に純粋無垢の霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界へと入って行くのですが、そこでの生活は、実は、われわれにも知ることができないのです。

わかっているのはただ、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみです。友よ、完成された魂の最後にたどり着くところは、それまでひたすらに求めてきた大神 – 巡礼の旅路のためにその神性の一部を授かってしばしの間別れていた、父なる神の御胸であるのかも知れぬのですぞ!

が、それも、そなたと同様われわれにとっても単なる推測にすぎません。そのような高度な問題は脇へ置き、今のそなたにとって意義あることのみを知り得ることで、有り難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘のすべてに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場が無くなるであろう。

ともかく、そなたが地上にて知り得ることは多寡が知れています。が、たとえ限りはあっても、より高きものを求めることは許されます。切望することによって魂を浅ましい地上的気苦労に超然とさせ、真にあるべき姿に一段と近づくことを得さしめることでしょう。

神の御恵みのあらんことを!

†インペレーター

[注釈]

(1)Pythagoras ギリシャの哲学者・数学者・宗教家。

(2)Platon ギリシャの哲学者。本名アリストクレス Aristocles。

(3)Trinity 三位一体説。

(4)旧約聖書では I am that I am. となっている。他からの働きかけによって作られたものでなく、時を超越して、みずから存在し続けるもの、すなわち実在。

(5)Thebes ナイル河中流域の都市。

(6)Sothic cycle 古代エジプト暦によって古代エジプト史の絶対年代を決定する際の基準のひとつ。1周期が1460年。

(7)Cherubim 創世記 3・24 その他。

(8)前節参照

(9)Parsee ゾロアスター教の一派。

(10)第3節参照

霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†■2023年7月19日UP■
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†
物質界に邪悪がはびこる、その根本原因は「霊的知識の無知」にあります。人間に死はなく、肉体の死後も霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界で永遠に生き続けるという霊的真理を知らず、物質界での人生のみが人間の人生だと考える事が全ての邪悪の出発点なのです。物質界で大量強姦殺人の人生を送ると帰幽後に霊界でどれほどの地獄をやらされるか、その「霊界と物質界の因果関係」もっと言うと【神の因果律】を全く理解していないから平然と犯罪をおこなう事ができるのです。神の因果律から逃れる方法はこの全宇宙に存在しません。なぜなら「宇宙は神の身体」だからです。僕たちは現時点で神の中に存在しているのですから、神の法則の効果範囲外に出るなどという事は有り得ないのです。自分のおこないが自分の帰幽後の人生にどれほど致命的欠陥、悲劇をもたらすかを知っていれば、おのずと自分のおこないに責任感が生じ、愚かな言動にブレーキがかかるはずなのです。邪悪なおこないをしている人間たちというのは「何も知らない人間」という事なのです。だから霊的知識の普及が急務なのです…続きを読む→
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†■2023年8月9日UP■
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†
霊界とは完全なる自己責任の世界であり、物質界生活時に果たさなかった仕事の責任を完全なカタチで取らされるようになっています。その責任を果たさないと高い境涯に向上する事は許されません。「身元の確認はしましょう」と言ってきたアナウンサー的男性も、天皇一族が強姦殺人魔だと知っていながらコイツらの事を善人だというニュースを流しまくり、自身も善人を装って物質界人生を送ったその自責の念、後悔の念が霊的向上の阻害となっており、その罪障中和の目的で「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する僕の背後霊として仕事をする事になった男性ではないのか。僕はその可能性は十分にあると考えるのです。ちなみにテレビ業界には今回の「身元の確認はしましょう」の男性と同じように、心の中ではよくないと知りながら、仕事を失わないために「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を善人であると洗脳ニュースを流し続け、そのおこないに後悔し心を痛めている人間がスゴイたくさんいると思っているのです…続きを読む→
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†■2023年10月4日UP■
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†
【神】が経綸するこの全宇宙には目的があり、それは「進化」の一語に尽きると思います。全天体、全存在(生命)が進化を目的として永遠とも思える霊的向上の旅を続けています。霊的進化のゴールと言える至福の境涯ニルバーナは存在せず、神の御胸に向けての永遠の進化の旅が続くのですが、僕たちが現在在籍している地球圏は神が経綸する全宇宙の中のほぼ最低ランクの存在の場であり全く進化が足りません。イエス様を最高指揮官とした地球圏経綸の任に当たる天使の方々は、物質界の知的暗黒時代(特に中世ヨーロッパ)を打破して霊的知識を普及させるべく「スピリチュアリズム」を勃興させました。これまでの地球圏霊界でこれほど大々的な計画が実行に移された事はないそうです。イエス様がそこまでしなければならなかった理由は、物質界で学ぶべき事を何も学ばずに無知のまま帰幽して下層界にたむろする、シルバーバーチ霊の言葉を借りれば「難破貨物」ともいうべき低級霊があふれかえってそれがいよいよ上層界にまで悪影響を及ぼし始めてきた事が一因だそうです…続きを読む→

どこかのブログで書きましたが、僕が大キライなモノを延々霊視に見せてくるという事を霊団は長年やってきていまして、今日もそれを見せてきて、僕はその映像を徹底的に心で無視し続けていました。すると次の瞬間霊団が「出られないよ」といった趣旨の事を言ってきたのです。

つまり僕がイヤでイヤでどうしようもない、脱出するつもりでいる場所からキミは出られないよと言ってきている訳です。僕はそれを完全に無視してクロッキーにも一切メモせず、脱出をさらに固く心に誓うのでした。

長年にわたり大キライなモノを延々映像として見せられている事で僕の霊団への怒り、不信感はもはや言語に絶するレベルとなっており、この異常な導きに従うという選択肢はもはや僕の心の中に1ミリたりともありません。宇宙が消滅してもこの導きにだけは従うつもりはありません。

これだけは絶対にお前らの言う事は聞かない。死んでも脱出してみせる。僕をこう言う気持ちにさせたのはお前らだ、イヤだと言い続けているのにそれを見せ続けてきた、その性格の悪さが僕をこうさせたんだ。他の事はともかくこの脱出の件についてはもう何をどう手を変え品を変えて言われようとも従うつもりはない。それによってペナルティを受ける事になろうとも従うつもりはない。

お前ら(霊団)の仕事の進め方はヘタクソだ、守護霊様を見習え。もう2度とアレを見せてくるな、どっか行け、もう2度と僕の人生に関わってくるな。帰幽したが最後、地球圏霊界と縁を切りたいという僕の願望はホンモノだ。もっとも叶えられる訳がないけども。

まずは脱出アイデアを実行に移す、そして脱出を実現させて作業時間を増やす。そこまで行ったら心に多少余裕も生まれると思う。閉じ込められている状態でアレしようコレしようという気持ちには全くならない。もうシャレじゃなく本気で霊団と縁を切りたい。オメィラどっか行け、僕の人生に関わってくるな(祈)†

■2021年9月22日UP■
「実際に戦争に送ろうと思ってるんだよ」明仁、文仁、徳仁、悠仁が僕を体よく殺そうとしているのです(祈)†
皆さまは「戦争」というものを「勃発してしまったら国民は戦争に赴かなければならないものなんだ、イヤでもやらなければならないものなんだ」みたいに考えておられますか。皆さま霊的知識をお勉強して下さい。その考えは1億%間違っています。僕たち人間は年齢、性別、人種等に関係なく全員が【神】から「神性の火花」を賜って個的存在を獲得した「神を共通の父(親)とした霊的同胞、霊的兄弟、霊的大家族」です。霊的知識を正しく理解すると、戦争で敵国の兵士を殺す事は「自分の家族を殺す事と同義」という事が理解できます。戦争というものは無知から生じる大変愚かな行為という事になります。そして僕は以前「コロナウソ」に関してこのような事を書いた事がありますが…続きを読む→
「人の心を救いたまえ」物質界の邪悪を滅ぼすな、奴隷の女の子を救出するな、という意味です(祈)†■2022年12月21日UP■
「人の心を救いたまえ」物質界の邪悪を滅ぼすな、奴隷の女の子を救出するな、という意味です(祈)†
明仁、文仁、徳仁、悠仁は物質界生活中は自身の犯罪をゴマかし通しすっとぼけ続ける事ができても帰幽後にその邪悪の行為の責任を寸分の狂いもなく取らされる、イヤ取らされるどころか神から賜った個的存在を剥奪されるかも知れない。奴隷の女の子たちには物質界で味わわされた悲劇、悲しみを補って余りある埋め合わせが待ち受けているのだから、何も悲しむ必要はない。霊団はそういう視点でインスピレーションを降らせているのかも知れませんが、今こうしている現在も奴隷の女の子たちは明仁、文仁、徳仁、悠仁によって四肢切断、強姦殺人され続けていると知っていてただ指をくわえて見ていろというのか。僕の悟りが足りないと霊団に言われるのかも知れませんがやはり釈然としません…続きを読む→
「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†■2023年3月22日UP■
「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†
聖書には真実でない事がたくさん書かれています。人類史上最大の汚辱と言っても過言ではない「ニケーア会議」の時に様々なウソが聖書に書き加えられ、そのウソが世界中に広まっていき、イエス様の2000年の苦悩へとつながっていったのです。キリスト者はイエス様の御名を悪用して私腹を肥やす事を2000年にわたって続けてきました。特に中世ヨーロッパの暗黒時代が最悪で、キリスト教の要職についていた人間たちは、自分たちの地位、生活を守るために真実を公言する人間を徹底的に処刑してきました。キリスト教の人間が「主よ、主よ」とイエス様の御名を連呼する時、それはイエス様に対する最大級の侮辱であり、イエス様の悲しみをさらに増幅させ、積年の誤謬(ごびゅう)を払拭するどころかさらに加速させ続ける、イエス様をさらに十字架にかけ続ける許されざる呪いの行為となります。僕、たきざわ彰人からお願いしたい事としましては、間違いだらけの聖書を読むのはやめましょう。「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍に目を通すようにしましょう。そして教会に足を運ぶのもやめた方がイイでしょう…続きを読む→

霊団が何を言おうと、もう絶対に僕のこの意思を曲げる事は不可能です。僕の中ではもう、脱出するか、死ぬかのどちらかしかないのです。もちろん脱出します。そして脱出後に移住まで完了させるつもりで「もし移住したらアレとかコレとか必要だろうなぁ」というモノを調べて回ってました。

だいたい目星はつきましたがまだ入手する必要はない。このまま自分の心が1ミリも望まないところに延々閉じ込められる人生を送るというのは絶対に、絶対に有り得ない、そんな状態にさせられるなら強制帰幽する。それくらい拒絶するのです。絶対に拒否します。

今日はロードランを敢行しましたので作業がほとんどできませんでしたが、このロードランはもう死ぬまで続行すべきでしょう。山に行き続けるために最後の1秒まで鍛え続ける必要があるからです。昨シーズンのスノーシューのリベンジを何としても果たす。今シーズンはフルアタックしてみせる。

移住先で生鮮食料品を入手する場所とか、そういう事まで調べて回っているのです。それくらい本気という事です。安いチェーン店を見つけましたのでそのお店の付近に移住する事が当面の目的です。野菜だけは日々お店で入手しないといけませんので。

さぁ書籍のスキャンとアナログ絵380を急がないといけません。霊団が何と言ってこようと僕はこの作業時間不足を脱出によって解決してみせる。僕の全生命をかけて脱出してみせる。ある脱出アイデア決行日までまだ時間がありますので気を抜かずに節約を続行します(祈)†

「4000文字を一気に書く」自動書記、やるならやって下さい、書籍化の準備は整ってます(祈)†■2024年5月8日UP■
「4000文字を一気に書く」自動書記、やるならやって下さい、書籍化の準備は整ってます(祈)†
初期の頃に「隔離フィールド」という霊現象が僕の身に起こりました。どの霊関連書籍にも全く同様の記述がない、全く未知の霊現象のためやむなく自分でこのように命名した霊現象となります。この隔離フィールドの詳細説明は諸事情で割愛させて頂きますが、実はこの隔離フィールド時に「地縛霊、低級霊のジャマを一切無視する修行」のような事をずっとやらされていたのです。半強制的に地縛どもの声を霊聴に流されて、寝ている時以外はずっとその地縛どもにムカつく事を言われ続けながら生活する、という状態を延々やらされていたのです(ちょうどセブンで仕事を始めた頃です)それはもう最初は大変な精神的苦痛を味わわされました。しかしその修行の成果もあって、低級な声のほとんどを無視する事ができるようになっています。2度とあの「隔離フィールド」の状態にさせられるのはゴメンですが、僕がもし自動書記霊媒として機能するようになったら、あの時と似たような状態にさせられるから覚悟しておきなさいと霊団が言っているのかも知れません…続きを読む→
■2020年4月15日UP■
TrailMovie “処刑遊び"について、深いレイヤーまで掘り下げて徹底的に解説してみようと思います(祈)†
この悪魔4人に取り囲まれて誰も助けてくれる人もなく、いくら泣き叫んで懇願しても聞いてもらえず、悪魔4人は喜びながら笑いながら自分の手足を切ってくる…この奴隷の女の子の心境、そして絶望はどれほどのものでしょうか。女の子を恐怖と悲しみと絶望の底に叩き落とす事に最大級の喜びを感じる天皇一族男子(明仁、徳仁、文仁、悠仁)は間違いなく【人間ではない】と言い切る事ができます…動画を見る→
「物質界に無数の光を照らしております」この言葉の通りなら僕も嬉しいのですが(祈)†■2022年1月19日UP■
「物質界に無数の光を照らしております」この言葉の通りなら僕も嬉しいのですが(祈)†
「神のご意志を物質界に送り届ける仕事」となりますから、その重大性は言語に絶するレベルとなります。霊団の「もう身勝手は許されません」の警告は、僕がこれまで何度となく幼稚、小我から反逆を繰り返してきた事に対する「アキトくん、これからはもうそのようなワガママは許されなくなる、重大性が桁違いだからだ」という意味となり、それは僕も激しく了解するところです。もし霊団が言っている通りになるのだとしたら、現在物質界に存在する霊界通信よりさらに進んだ内容の霊言を霊団が降らせてくる事になり、その霊言を物質界全土に広める事は「神のご意志を遂行する大中心の中の大中心の仕事」という事になり…続きを読む→

[ある書物でインドが人種と宗教の揺籃の地であるとの説を読んだことがあり、われわれの交霊会でも、その問題に触れた霊言を聞いたことがあった。その点を質すと、プルーデンスがこう綴った – ]

救世主信仰は太古からある

その通りです。今の貴殿の信仰の底流となっている宗教的概念の多くは、インドにその源流を発しています。インドに発し、太古の多くの民族によって受け継がれてきています。その原初において各民族が受けた啓示は単純素朴なものでしたが、それにインドに由来する神話が付加されていったのです。

たとえば救世主出現の伝説は太古からあります。いずれの民族も自分たちだけの救世主を想像しました。キリスト教の救世主信仰も、もとをたどればインドの初期の宗教の歴史の中にその原型を見出すことができます。

インドの伝承文学の研究がこれまで貴殿が勉強してきた言語的側面と大いに関わりがあるように、その遠く幽(かす)かな過去のインドの歴史の宗教的側面の研究は、今の貴殿にとって必要欠くべからざるものです。関心を向けていた
だきたい。援助する霊を幾人か用意してあります。

インド、ペルシャ、エジプト、ギリシャ、ローマ、ユダヤ – これらの民族とその知的発達に応じた神の概念の啓示の流れについて、今こそ学ぶべきです。ジャイミニー Djeminy(1)とヴェーダ・ヴァーサ Veda Vyasa(2)がソクラテスとプラトンの先輩であったことを知らねばなりません。

そのことに関しては、その時代に地上生活を送りその事実に詳しい者が、いずれ教えることになるでしょう。が、その前に、地上に残る資料をみずからの手で蒐集する努力を積まねばなりません。指導はそれが終了したのちのことになります。

さらに、その資料の中に人間がいつの時代にも自分たちを救ってくれる者の存在の必要性を痛感してきたこと、そして又、そうした救世主にまつわる伝説が太古から繰り返されてきている事実を見出さねばなりません。

数多くの伝説を生んだ神話のひとつが、純潔の処女デーヴァキ- Devaki の奇跡の子クリシュナ Chrishna(3)の物語であることもわかるであろうし、そうした事実が、これまでキリスト教の中で闇に包まれていた部分に光を当てることにもなるでしょう。

もっとも、われわれはこの事実を重大なものとして、早くから指摘しております。貴殿の異常な精神状態がその分野に関する無知と相まって、われわれに手控えざるを得なくさせてきたのです。

このほかにも、まだまだ取り除かねばならない夾雑物があります。これを取り除かないかぎり、正しい思想体系の構築は望めません。大まかな荒筋においてさえ、貴殿にはまだ奇異に思えるものが多い。まずそれに馴染んだ後でなければ、細部へ入ることはできません。

たとえば、古代の4大王国、すなわちエジプト、ペルシャ、ギリシャ、ローマの哲学と宗教は、その大半がインドから摂り入れたものです。インドの大革命家であり説教者であったマヌ Manou(4)がエジプトではマーニー Manes となり、ギリシャではミノス Minos となり、ヘブライ伝説ではモーセ Moses となった。

いずれも固有名詞ではなく“人間”Man を意味する普通名詞でした。偉大な真理の開拓者は、その顕著な徳ゆえに民衆から The Man と呼ばれたのです。(5)民衆にとっては人間的威力と威厳と知識の最高の具現者だったわけです。

大思想家マヌ

インドのマヌはイエスより3000年も前の博学な学識者であり、卓越した哲学者でした。いや実は、そのマヌでさえ、それよりさらに何千年も前の、神と創造と人間の運命について説かれたバラモンの教説の改革者にすぎません。

ペルシャのゾロアスター(6)が説いた真理も、すべてマヌから学んだものでした。神に関する崇高な概念は、元をたどればマヌに帰します。法律、神学、哲学、科学等の分野において古代民族が受けたインドの影響は、貴殿らが使用する用語がすべてマヌ自身が使用した用語と語源が同じであることが事実であるのと同様に、間違いない事実であるとの得心がいくでしょう。

近代に至ってからの混ぜものがその本来の姿を歪めてしまったために、貴殿は類似点を見出し得ないかも知れませんが、博学な言語学者ならば、その同一性を認めることでしょう。

一見したところ世界の宗教はバラモンの伝承的学識の中に類似性を見出せないように思えますが、実はマヌが体系づけ、マーニーがエジプトに摂り入れ、モーセがヘブライの民に説いた原初的教説から頻繁に摂取してきたのです。哲学および神学のあらゆる体系にヒンズー(インド)的思想が行きわたっています。

たとえば古代インドの寺院において、絶対神への彼らなりの純粋な崇拝に生涯を捧げたデーヴァダーシー Devadassi と呼ばれる処女たちの観念は、古代エジプトではオシリス Osiris の神殿に捧げられる処女の形をとり、古代ギリシャではデルポイ Delphi の神殿における巫女(みこ)となり、古代ローマではケレース神 Ceres の女司祭となり、のちに、かの女神ウェスタ Vesta に身を捧げた処女となって引き継がれていったのです。

こうしたことは、われわれが教えたいことの一例にすぎません。ともかく貴殿の注意をその方向へ向けてもらいたい。われわれはきわめて大まかな概略を述べたにすぎません。細かい点は、これから後に埋め合わせることにしましょう。貴殿はまだ概略以上のことは無理です。

– 確かに私は知らないことばかりです。それにしても、あなたは人間がまるで霊の道具にすぎないような言い方をされます。できのいい道具、お粗末な道具、物わかりのいい道具、悪い道具…。

これまでもしばしば述べてきたとおり、知識はすべて霊界からもたらされます。実質はわれわれの側にあり、人間はその影にすぎません。地上世界でも、教えやすい者ほど多くを学ぶことになるのと同じく、われわれとの交わりにおいても、素直な者ほど多くを学ぶことになります。貴殿に学ぶ心さえあれば、いくらでも教える用意があります。

真理は常に相対的

– 人間には大して取り柄はないということですか?

従順さと謙虚さの取り柄があります。従順にして謙虚な者ほど進歩します。

– 万一霊側が間違ったことを教えた場合はどうなります?

すべての真理には大なり小なりの誤りは免れません。が、その滓(かす)はいずれ取り除かれます。

– 霊によって言うことがことごとく違う場合があります。どれが正しいのでしょう?真実とはいったい何なのでしょう?

言うことが違っているわけではありません。各霊が自分なりの説き方をしているまでです。ゆえに細部においては異なるところはあっても、全体としては同じことです。そのうち貴殿も、“悪”と呼んでいるものが実は“善”の裏側にすぎないことがわかるようになるでしょう。

地上では混じり気のない善というものは絶対に有り得ません。それは空しい夢想というものです。人間にとって真理はあくまでも相対的なものであり、死後も長期間にわたって相対的であることは免れません。

歩めるようになるまではハイハイで我慢しなければなりません。走れるようになるまでは歩くだけで我慢しなければなりません。高く舞い上がれるまでは走るだけで我慢しなければなりません。

プルーデンス

事故死者の霊がモーゼスに憑依

[私が『霊の身元』と題する記事で紹介した、例の他界したばかりの霊による不気味な影響力を受けたのはこの頃だった。ある人がベーカー通りに近い通路の舗装工事中にローラー車の下敷きとなって悲惨な死を遂げ、私がたまたまその日に現場を通りかかったのである。

そのとき私はその事故のことは知らなかった。そしてその夜、グレゴリー夫人宅でデュポテ男爵による交霊会に出席したところ、その霊が出現した。2月23日(1874年)にその件について尋ねると、その霊の述べた通りであることがインペレーターからの通信で確認された。]

その霊がそなたに取り憑くことができたこと自体が驚きである。そなたがその男の死の現場の近くを通りかかったからです。そのことはあまり気にせぬ方がよい。心を乱される恐れがあります。

– (最近他界した)私の友人がまだ眠りから覚めないでいるのに、なぜその男はすぐに目を覚ましたのでしょう?

非業の死を遂げたあとの休眠を取っていないまでのことです。本当は休眠した方がよいのです。休眠しないと、そのままいつまでも地縛の霊となります。そうした霊にとっては休息することが進歩への第一歩となります。未熟な霊はなるべく休眠を取り、地上生活を送った汚れた場所をうろつかないことが望ましいのです。

– あのような、想像するだけでぞっとするような死に方をして、霊は傷つかないのでしょうか。

肉体がひどい傷を受けても、霊まで傷つくことはありません。ただし、激しいショックは受けます。それがために休息できず、うろつきまわることになるのです。

– あの霊は死の現場をうろつきまわっていた?それがどんな具合でこの私に取り憑いたのでしょうか。

あのような死に方をした霊は、よく現場をいつまでもうろつきまわるものです。そこをそなたが通りかかった。そなたは極度に過敏な状態にあるから、磁石が鉄を引きつけるように、霊的影響を何でも引き寄せてしまうのです。

この種の霊的引力は、そなたにはまだ理解できないであろう。が、それではいけない。地上では低い次元での霊的引力の作用が現実にあるのです。日々の交わりの中で引力と斥力とが強力に作用しています。

大半の人間は気づいていませんが、すべての人間、とくに霊感の鋭い者は、その作用を受けております。肉体が無くなれば、いっそうその作用は強烈となります。五感を通して伝達されていたものが、親和力と、それと相関関係にある排斥力の直覚的作用に代るのです。

が、この件に関してはあまり気にせぬがよい。あまり気にしていると、ふたたび親和力の法則が働いて、未発達霊の害毒を引き寄せることになります。彼には特別の思いがあってのことではありません。そのことは、あの気の毒な霊も、そなたに取り憑いたことで何の益にもならなかったことで知れます。

†インペレーター

[注釈]

(1)インド哲学のご専門の方の助言によれば、Jaimini が正式の綴りであるという。モーゼスの記憶の層にある英語の知識が外来語の綴りの邪魔をしたのかも知れない。

(2)ジャイミニーの師

(3)Krishna と綴られることもある。

(4)原文の綴りのままであるが、同じインド哲学のご専門の方の助言によれば、Manu が正しく Manou という綴りは有り得ないという。訳者の推測では、英語の母音は長音化する傾向があるので、マヌがマヌーとなり、しかも語尾がuで終ってウーと発音する単語は純粋の英語には存在しないので、モーゼスの英語感覚の影響を受けてouとなったのであろう。

ouをウーと発音するものならsoup(スープ),group(グループ),route(ルート)など、いくらでもある。

(5)現在でも、その年で最も活躍の目覚ましかった人を The Man of the Year などと呼ぶ。

(6)Zoroaster 紀元前600年頃の宗教家。ゾロアスター教の開祖。Zarathustra とも。

(7)Spirit Identity 心霊誌 Light に連載されたもので、その後1冊にまとめられて1878年に出版されている。

それによると、実は“事故死”ではなく“自殺”である。また、デュポテ霊媒による交霊会となっているが、初めから交霊会を催す予定だったのではなく、会食のために集まった時の出来事である。

食事が終った直後にモーゼスが自動書記の衝動にかられ、あわてて紙とエンピツが用意された。すると“自殺した – 今日自殺した – ベーカー通り – 霊媒が通りかかった”と綴られた。

そのあとは乱れて読めなくなった。というのはモーゼスの興奮の度がひどくなり、やがて入神状態となって立ち上がり、こんどは霊言現象となって「そうだ!そうだ!自殺したんだ – 血だ、血だ、血の海だ!」

と叫んだ。憑依現象はそれだけで終ったのであるが、モーゼスはそれから数時間にわたってひどい不快感に悩まされ、完全に抜け切るまでに数日かかったという。

この事実で興味ぶかいのは、会食に集まった者の誰ひとりとしてその事故のニュースを知らなかったことである。みんな翌日の新聞でそれが事実であることを知ったのだった。

「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†■2024年2月28日UP■
「地上にいる時間はもうそんなに長くない」だったらやるべき事をやり切れよ(祈)†
例えば守護霊は自分が守護を命ぜられた人間が物質界降下の目的を達成できずに(カルマの解消、罪障消滅等)下層界に落ちる事になったら、守護霊側もその責任を負う事になるのだそうです。今回の僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の霊団(100の光の霊団)も、ここまで事態を悪化させるに至った責任を霊界側で取らされる事になるのかも知れません。そしてそれはもちろん僕にも当てはまり、僕も帰幽後にキビシイ状態にさせられるのは明白です。(反逆の責任を取らされるという事)で、僕はその覚悟で反逆していますから自業自得という事でヨシとして、とにかく仕事は前進させてくれよ。全部とは言わない、何なら少しでもいいよ。とにかく肉眼に映じる結果を出してくれよ。僕は復刊というカタチで肉眼に映じるアウトプットをしようとしている。それの何が悪いって言うんだよ。僕という霊媒が機能しないんだからこうするより他にどうしようもないだろ。僕が単純に思う事は「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁をもっと霊的に攻撃しろよ、という事です。霊障の嵐をコイツらに降らせて震え上がらせるなど理想的だと思うのですが、そういう事も一切やろうとしない。僕の事は「愛の試練、霊障イペルマルシェ」でチクチクいじりまわしてきやがるくせに…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†■2024年2月21日UP■
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†
しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→

「Spiritual Unfoldment One」「Walking With The Angels」の全ページスキャン& OCR変換開始中、これによってアナログ絵380の描画が止まっていますが、イヤ描く、やるしかないんだ。作業時間を何としても確保してみせる。

そしてある方法で「Scripts of Cleophas」の全文テキストを入手しているのですが、誤字が多い。全ページの誤字を見直していくのは非現実的かも。やはり自分で書籍を入手して全ページスキャンした方がはるかに誤字が少なく効率的に作業できます。さぁ困ったな、また数字の張る書籍を入手しなければならないのか。節約って言ってるのに。

ある脱出アイデアの実行日程を決めていますがまだそこまで時間がありますので(すぐやれよと皆さまは思うのでしょうが数字的事情があるんですよ…悲)徹底的に節約を継続しつつ手はガンガン動かし続けて作業をひとつひとつこなしていきます。

霊関連書籍のテキスト化をガンガン進める、物質界の法律に阻まれて復刊できなくさせられているけどそれでもやる、テキスト化さえ完了させておけばどこかで風が変わるかも知れない。僕は霊団と違って口より手を動かす。口だけもっともな事を言うが実質何もしていない人間を僕は激しく軽蔑します。偽善者だと思っています。

テキスト化、アナログ絵描画続行中。いつかきっとトレイルムービーを復活させてみせる。3つのコンテンツを同時進行できる生活形態を構築してみせる。止まるな、たきざわ彰人(祈)†

「小宇宙に入ってれば分かんなくなっちゃうからね」肉体の事を言っているのでしょう(祈)†■2024年4月24日UP■
「小宇宙に入ってれば分かんなくなっちゃうからね」肉体の事を言っているのでしょう(祈)†
確かに冷静に考えた時に「どう考えてもこの導きの手法は間違っていただろう、守護霊様だったらこういう事はしなかったはずだ」と思える部分がいくつもあるのです。その最たるモノと僕が思っているのが上記にも書きました「支配霊バーバネル氏の僕を導く手法」で、僕はバーバネル氏は完全に失敗したと思っているのです。バーバネル氏は僕に敵意を抱かれるほどになってしまっていますので、こんな精神状態の人間と融合して思った事を100%述べるなどできる訳がありません。バーバネル氏が僕という霊媒を使用して霊言を語るのは絶対ムリと断言してイイでしょう。ですので僕は自分が霊言霊媒として機能する事はもう全然考えていなくて(そもそもサークルメンバー問題が絶対解決不能なのですから、やろうと考える事自体がおかしいのです)もう新規の霊言は自動書記で降らせるしかないと思っているのです。バーバネル氏の物質界生活時の功績は大いに尊敬しますが、僕を導く手法に関しては大失敗だったと思っています…続きを読む→
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†■2022年8月24日UP■
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†
僕も神に反逆するほどバカではありません。ぜひ皆さまにも「インペレーターの霊訓」をお読み頂きたいですが、霊的知識を獲得しておきながら神の意に反する行いをした者がどういう状態にさせられるかをインペレーター霊が語っておられます。僕はその知識がありますのでそこまでバカな事をするつもりはありません。ただとにかく「物事には限度というモノがある」これを強調して終わりとさせて頂きます。キビシすぎ、苦難、試練を降らせすぎ、僕ひとりに何もかもやらせすぎ、本気でいい加減にしてくれ、という事です…続きを読む→
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†■2023年9月20日UP■
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†
友人の守護霊は今ごろほくそ笑んでいるはずです。僕の守護霊様は今ごろ僕の霊団への反逆を見て困っている事と思われますが。人間とは霊界で永遠に生き続ける存在です。人間に死はありません。物質界とは修行のためにホンの一時期だけ降下させられるトレーニングセンターです。肉体は神の摂理で自動的に朽ち果てるようになっており、僕たちの本体(霊)はそれを脱いですみやかに霊的表現媒体に着替えて(幽体、霊体)霊界生活に突入します。この事実からも物質界が僕たちの永遠の住処でない事は明白です。そのホンの一時の束の間の場所についてお勉強する事と、永遠の住処である霊界についてお勉強する事と、どちらがプライオリティが上でしょうか。どちらが賢明かつ自分の霊的進歩向上に役立つでしょうか。そういう視点で自分の人生を考えられる人間こそ賢者と言えるのではないでしょうか…続きを読む→

山本貞彰(やまもとさだあき)氏翻訳の「霊界通信 イエスの弟子達 パウロ回心の前後」この書籍が「THE SCRIPTS OF CLEOPHAS」の翻訳版だと思っていたのですが、この英語書籍は「THE FIRST PARCHMENT」「THE SECOND PARCHMENT」「THE THIRD PARCHMENT」の3部構成となっており「イエスの弟子達」は1部の翻訳であり2部3部が翻訳されていない事が分かりました。

これは大問題でしょう、やるしかないでしょうという事で「THE SCRIPTS OF CLEOPHAS」英語書籍を入手しないといけなくなったのですが、先ほどある方法で書籍全文を入手しました。チョト怪しい気もしますが、ちゃんと書籍を入手して自分でスキャンした方がイイかなぁとも思うのですが、とりあえずこの入手テキストで作業してみましょう。山本氏、ちゃんと翻訳してから帰幽してよぅ。やり残し厳禁ですよぅ…。

そして“ある脱出アイデア”の実行日程を決めました。そこから脱出を本格的にスタートさせます。これ以上閉じ込められるのは絶対に死んでも有り得ない。何が何でも脱出してみせるという事で生活の全ての要素を見直して徹底的に節約をおこなってきましたが、そろそろその成果が数字となって表れてくると思うので、脱出アイデア決行するという事です。本気中の本気です。これで脱出できなかったらショック死する。まぁそれでもイイけど帰幽カモンだから。

そして足の皮膚が大ピンチの状態になってまして、現在山で使用しているパンツが原因だと思って新規のパンツを入手しようかとずっと調べていたのですが、節約しないといけないのに今このタイミングで大きな出費はできない、さぁ困った、という事で思いとどまりました。

足の皮膚がグチャグチャになっている理由は山のパンツではない、別の理由と判明しましたので(たぶんコレだ、と思うモノを発見しました)新規パンツの入手を見送り節約を優先させます。つまり脱出が最優先という事です。足の皮膚は気温が下がったら治る、そう自己診断しました。あと数ヶ月の辛抱だ耐えろ。

アナログ絵380、4ページ線画40%完成中。何としても脱出を完成させて作業時間を増やす。書籍のテキスト化を進め、絵をガンガン描いて、そしてできればトレイルムービーも復活させる。この3つのコンテンツの同時進行は現在の生活時間ではできません。作業時間を何としても増やさないといけない、つまり根本から変えないといけない。何としてもやってやるぞ。

まずはあるアイデア実行に向けて節約続行中。ココで手綱を緩めてはいけない気を引き締めないと。英語書籍翻訳が正真正銘の地獄の作業、これを完成させるためにも何としても生活を変えないといけない。遊びで脱出とか言ってるんじゃない、使命遂行を前進させるために言ってるんだ。反逆とか言われるのは心外だ(祈)†

「イエスの少年時代」復刊者コメントUP。この本文が書籍化される日が来るのか(祈)†■2024年5月23日UP■
「イエスの少年時代」復刊者コメントUP。この本文が書籍化される日が来るのか(祈)†
遥か太古はこのように洗脳、脅迫が横行していましたが21世紀の現代はこのような古代の蛮行はすっかり消滅している、と言いたいところなのですがイヤイヤ、まるっきり残されています。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁がまさに古代の遺物であり洗脳の権化と言っていいでしょう。コイツらは邸内地下に奴隷の女の子を大勢閉じ込めて「処刑遊び」と称して日常的に四肢切断、強姦殺人し、死肉を食べて遊んでいる人類史上最大級の犯罪者です。しかしいったい日本のどこからコイツらの犯罪行為を糾弾する声が上がっているでしょうか。国を挙げて国民を洗脳し事実を隠ぺいしているのです。僕たちはコイツらに関するニュースを見たいなどとはひとことも言ってない、しかし日々メディアにコイツらに関する洗脳ニュースが徹底的に、ガンガン流されてきて強制的に見せられて、その洗脳ニュースに日本国民の大半がすっかりやられてしまっており、この強姦殺人魔どもを善人と完全に勘違いさせられながら生活しています…続きを読む→
■アナログ絵375「ジェラルディン・カミンズ女史」を描きましたが復刊できないかも(祈)†■2024年5月15日UP■
■アナログ絵375「ジェラルディン・カミンズ女史」を描きましたが復刊できないかも(祈)†
「イエスの少年時代」「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」の3冊の復刊用に自動書記霊媒「ジェラルディン・カミンズ女史」の著作権および肖像権対策の絵を描きました。しかし、もし想像を絶する高いハードルを根性で突破して復刊を実現できたとしても、この3冊の復刊はカミンズ女史の没後70年が経過した15年後となります。努力してもしても全く結果に結びつかない、明けても暮れても自分が望まない状態に閉じ込められる、何をどうやっても脱出できない。なぜこんな状態にさせられなければならないのか、思い当たるフシが全くない。苦しい、苦しすぎる。本当に絶望感で心が撃ちのめされています。もうどうしようもない。どうやったらこの心を立て直す事ができるんだろう。イヤ方法はひとつしかない、霊団の言う通りにする事だ。しかしそれをやったら完全に閉じ込められる事が決定してしまう。イヤ、もう現時点で閉じ込められているんだから同じか、と開き直るしかないのかも知れない…続きを読む→
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†■2024年5月12日UP■
■アナログ絵374「イエスの少年時代」の表紙として描きたかった「ヘリ」です(祈)†
はい、また事実に反する絵を描いてしまいました。ヘリについては何をどうググっても一切何の資料も出てきません。それはそうです聖書にも登場しない人物「イエスの少年時代」の中でのみ語られている人物ですから画像が残っている訳がありません。ですのでヘリの外見を想像する事は一切できないのですが、当時の成人男性は大抵ヒゲもじゃの感じでしょうから、たぶんヘリもそういう感じだったのだろうと予測しますが、どうにもそのヒゲもじゃが描きたくなかったので、僕の勝手なイメージでこのようなキャラに描かせて頂きました。少年期のイエス様の真実の兄貴、みたいなイメージです。本当はこのヘリを表紙に採用したかったのですが、事実に反する絵を表紙にする訳にはいかなかったので無難なところでももちゃん、シルキーの絵とし、ヘリはこのように「ボツ絵」というカタチで巻末に掲載する事としました…続きを読む→