母と子書籍img
-----7章01
『母と子の心霊教室』第7章 心霊現象(しんれいげんしょう)のいろいろ―その2― みなさんは暗い場所を通るのは平気ですか。いくら霊(れい)はこわいものではないという話を聞いても、やはり気味(きみ)がわるいでしょう。
『母と子の心霊教室』だって、なにが出てくるかわかりませんものね。ことに、ひとりで留守番をしているときに、サラサラとか、コトンとか、ゴトゴトガチャンという音がすると、冷たい水を頭からかぶった時のように、全身がゾーッとします。
『母と子の心霊教室』が、あとで調べてみると、木の葉が風にゆれる音だったり、いたずらネズミのしわざだったりします。そして、みなさんは“なあんだ”と思って安心します。ところが、ある家では風もないのにドアが開いたり、ネズミもネコもいないのに→
『母と子の心霊教室』→コップがころげ落ちたり、もっと気味(きみ)がわるいのは、2階には誰もいないはずなのにコツコツと靴(くつ)の音がしたり、階段を上がったり下がったりする足音が聞こえたりするのです。こんな家を幽霊屋敷(ゆうれいやしき)と呼(よ)んで→
『母と子の心霊教室』→いることはごぞんじですね。では、いったい幽霊屋敷(ゆうれいやしき)はほんとうの話なのでしょうか。この章は、まずそのその話からはじめることにしましょう。
『母と子の心霊教室』【1 心霊(しんれい)研究のはじまり】幽霊屋敷(ゆうれいやしき)というのは実際にあるのです。その例として、いまから100年あまり前に、世界的に有名になった米国の幽霊屋敷(ゆうれいやしき)の話を紹介(しょうかい)しましょう。
『母と子の心霊教室』それは、ハイズビルという小さな村に住む、フォックスという人の家で起きた話です。当時、フォックス家には大ぜいの家族がいましたが、その中に、ケートとマーガレットというふたりのおさない姉妹がいました。
『母と子の心霊教室』妹のケートはやっと9つになったばかり、そしてお姉さんのマーガレットもまだ12歳の少女で、もちろん霊(れい)の話など、いちども聞いたことがありませんでした。しかしふたりには、ときどき不思議なことが起きるのでした。
『母と子の心霊教室』ケートかマーガレットのどちらかがいると、部屋の壁(かべ)でコツコツという音がしたり、空中でパチンという、はじけるような音がするのです。はじめのうちはふたりともたいへんびっくりして、だれがしているのだろうと不思議に思いましたが、→
『母と子の心霊教室』→そんなことが毎日のように起きるので、いつのまにかふたりとも平気になってしまいました。そんなある日のことです。正確にいうと1848年3月31日のことでしたが、ケートとマーガレットがふたりで遊んでいると、空中でまたパチンと音がしたので、→
『母と子の心霊教室』→ふたりがおもしろ半分に「これ、鬼(おに)さん、あたしがするとおりにやってごらん」といって、中指と親指の先をあわせて、パチン、パチン、パチンと3回鳴らしてみました。すると驚(おどろ)いたことに、空中で同じような音が3回鳴ったのです。
『母と子の心霊教室』おもしろがってふたりは、それからなんどもおなじようなことをくりかえして遊びました。そのうちひとりが「では鬼(おに)さん、あたしのいったことがあたっていたらパチンと1回、はずれていたらパチンパチンと2度鳴らすのよ。いいこと?」といって→
『母と子の心霊教室』→その“鬼(おに)さん”にいろんなことを聞いてみました。そしてその結果、たいへんなことがわかったのです。すなわち“鬼(おに)さん”は地上にいたときは行商人をしていました。そして、だいぶ前にこの家に行商にきたことがありましたが、→
『母と子の心霊教室』→当時その家に住んでいた人に殺されて、死体を床(ゆか)の下に埋(う)められた、というのです。2人は少しこわくなってきましたので、すぐに家の人に話して聞かせました。すると家の人は、もしほんとうだったらたいへんだから、→
『母と子の心霊教室』→すぐに警察(けいさつ)に知らせて調べてもらいましょうといって、さっそくお巡(まわ)りさんに来てもらって調査してもらいました。ところがどうでしょう。床の下をあちこち掘(ほ)っていくうちに、ふたりの子どもがいったとおり、→
『母と子の心霊教室』→そこから白骨(はっこつ)となった人間の死体が発見されたのです。さあたいへんです。このことが新聞にのると、アメリカだけでなく、遠く海をへだてたイギリスやフランスなどからも、偉(えら)い学者がおおぜいやってきて、→
『母と子の心霊教室』→いったいケートちゃんとマーガレットちゃんはどんな子ですかと、みんなでいろいろ調べはじめました。中には、ふたりをしばらく貸してくださいといって、自分の家につれて帰り、小さな部屋で実験してみる人までおりました。
『母と子の心霊教室』心霊(しんれい)研究というのはこうして始められたのです。
-----
-----7章02
『母と子の心霊教室』【2 不思議な物質エクトプラズム】さて、この幽霊話(ゆうれいばなし)を聞いてみなさんは、この心霊(しんれい)現象が前の章で説明した現象と少しちがっていることに気がつきませんか?
『母と子の心霊教室』第6章で説明した現象は、どれも霊能者(れいのうしゃ)の潜在(せんざい)意識という精神の一部を使わなくてはなりません。ところが、ケートとマーガレットの周囲に起きた音は、どう考えてもふたりの潜在(せんざい)意識が鳴らしたものとは思えません。
『母と子の心霊教室』そうかといって霊(れい)が指先を慣らすはずもありません。霊(れい)は肉体をもっていないのですから…。ただひとつだけはっきりしているのは、ケートとマーガレットの両方か、またはどちらか一方がいないと現象がおきないということです。
『母と子の心霊教室』ということは、そういう現象を起こすためにはケートやマーガレットのからだが必要だということになりそうです。するとふたりのからだには、なにか今までに知られていない特別の物質があって、それを霊(れい)が使っているのかもしれない…→
『母と子の心霊教室』→多くの学者はそう考えて、何度も実験をくりかえしながら研究を続けました。そうして、ついに発見されたのがエクトプラズムという物質でした。では、エクトプラズムというのはどんな性質をもっているのでしょうか?これはとても説明のむずかしい物質です。
『母と子の心霊教室』なにしろふだんは目に見えませんし、手でさわってみることもできないのですから…。ですが、ありがたいことに、エーテル界の技術者がこれにいろんな手を加えて、人間の目に見えるようにしてくれますので、いまではそれを写した写真まであります。
『母と子の心霊教室』エクトプラズムの性質でいちばん不思議なのは、形や色や固さが自由自在に変化することです。変化させるのはもちろん霊(れい)の力です。もうひとつ不思議なのは、明るい場所がきらいで、太陽の直射(ちょくしゃ)などをうけるといっぺんに消えて→
『母と子の心霊教室』→なくなってしまうことです。ですから、実験はたいていまっ暗い部屋か、やわらかい明かりを使った、うす暗い部屋で行うのがふつうです。消えたエクトプラズムはどこへいくのかといいますと、大部分は元の霊媒(れいばい)です。
『母と子の心霊教室』大部分といったのは、エクトプラズムは霊媒(れいばい)からだけでなく、出席者からも少しずつぬきだされますから、出席者から出たものは出席者に帰るわけです。
『母と子の心霊教室』このことからわかるように、エクトプラズムは霊媒(れいばい)と呼(よ)ばれている人だけが持っているのではなく、人間のだれもが持っているものなのです。ただその分量の多い人と少ない人、出やすい人と出にくい人の差があるだけです。
『母と子の心霊教室』これだけ説明すれば、ケートとマーガレットの周囲で聞かれた音が、どうやって鳴らされていたかが想像できるでしょう。そうです。霊(れい)がふたりのからだからエクトプラズムをとり、それを使って“音の出る道具”をこしらえていたのです。
『母と子の心霊教室』このことをもっとよく理解していただくために、私自身が出席した心霊(しんれい)実験会のようすをくわしく説明することにしましょう。
-----
-----7章03
『母と子の心霊教室』【3 心霊(しんれい)実験会ではどんなことが起きるのだろう】実験会に出席したのは、霊媒(れいばい)を入れて20人でした。部屋には出席者のためのイスとふたつのテーブルがあるだけで、壁(かべ)の絵とかタンスなどはぜんぶ取りのぞかれました。
『母と子の心霊教室』そのかわり、2つのテーブルの上には、つぎのような霊(れい)の使いそうな道具がたくさん用意されました。*メガホン2本(金属製のもの)*板2枚(タテ10センチ、ヨコ27センチ)*なわ跳(と)びのなわ1本*ハーモニカ1個*おもちゃのガラガラ1個
『母と子の心霊教室』*タンバリン1個*手振り鈴1個 どうです。聞いただけで、とてもおもしろいことが起こりそうですね。なお、実験は暗やみの中で行われますので、形がよくわかるように、どれにも蛍光塗料(けいこうとりょう)がぬってあります。
『母と子の心霊教室』さて、私たちはまるく輪になって着席し、お隣(となり)どうし手をつなぎました。それはブラウン・オウル交霊会(こうれいかい)のときと同じでした。ただし、霊媒(れいばい)だけは特別な扱(あつか)いをうけました。
『母と子の心霊教室』特別といっても少しもありがたくない、ひどい扱(あつか)われ方でした。まず両方の腕(うで)をイスの肘掛(ひじか)けのところに縛(しば)りつけられました。これは、霊媒(れいばい)がこっそり手を使って、道具を動かすといけないからです。
『母と子の心霊教室』霊媒(れいばい)自身はそんなつもりはなくても、そういう疑(うたが)いをもつ人がいるといけないからです。それから足もイスに縛(しば)りつけられました。上着はきちんとボタンをとめた上に、白い糸で縫(ぬ)いあわされました。
『母と子の心霊教室』なぜそんなことをするかはあとでわかります。その縫(ぬ)い目は部屋のいちばん隅(すみ)からも見えました(写真で以上のことを確かめてください)。こうした準備がおわると、やがて電灯が消されました。するとたちまち現象が起こりはじめました。
『母と子の心霊教室』まず最初に、部屋のまん中(空中)あたりでチリンチリンという手振り鈴の音が鳴りはじめ、それと同時にタンバリンがやかましく鳴りだし、そのうちこんどはハーモニカが演奏(えんそう)をはじめ、→
母と子img16
『母と子の心霊教室』→つづいて2本のメガホンがヒューヒューという音を立てながら部屋中いっぱいを回りだしました。その速さはほんとにすごかったのですが、どこをどんなに回っても、だれのからだにもふれず電灯のコードにもあたりませんでした。
『母と子の心霊教室』やがてメガホンが止まると、その中からなにか人の声が聞こえてきました。なにをいっているのかよくわかりませんでしたが、まもなくそのうちの1本が下りてきて、そっと私のからだにふれ、その大きい方の口を私の耳に向けて話しかけてきました。
『母と子の心霊教室』よく聞くと、それは私の古い友だちの声でした。生きていたときと少しも変わらないほど、はっきりしているのには、私もほんとに驚(おどろ)きました。その友人の話がおわると、こんどは、もう1本のメガホンから「神よ導(みちび)き給え」という→
『母と子の心霊教室』→英国の歌が聞こえてきました。男の人の声です。私たちもよく知っている歌なので、みんなで声をあわせて歌ったのですが、霊(れい)の方があまりに上手(じょうず)に、しかもすごい声量で歌うので、私たちはつい歌うのが恥(は)ずかしくなってきて、→
『母と子の心霊教室』→しまいには口をもぐもぐさせるだけでした。つぎに、なわ跳(と)びのなわが拾いあげられました。ほんとになわ跳びをするのかしらと思っていると、間もなくかわいらしい子どもの声がして、ドスンドスンと足の音とともに→
『母と子の心霊教室』→ピュッピュッとなわが風を切る音が聞こえてきました。やっぱりなわ跳びをしているのです。持ち手のところに蛍光塗料(けいこうとりょう)がぬってあるので、なわをぐるぐる回しているのがよくわかりました。しかしそれはほんのわずかのあいだでした。
『母と子の心霊教室』やがてなわが止まると、おやすみなさいという声がして、同時に、なわが床(ゆか)の上に落ちる音がしました。それから間もなくでした。「電灯をつけてよろしい」という霊(れい)の声がしたので、係の人がつけてみますと、霊媒(れいばい)の上着が→
『母と子の心霊教室』→ボタンをとめたまま床(ゆか)の上に落ちていました。白い縫(ぬ)い目もそのままです。霊媒(れいばい)の方へ目をやると、相変(あいか)わらず手と足をイスに縛(しば)りつけられたままです。あまりの不思議さに、私は何度も目をこすったのでした。
『母と子の心霊教室』そのうち、「電灯を消しなさい」という声がしました。係の人がすぐにスイッチを切ってつぎの現象を待っていると、また、「電灯をつけてみなさい」という声がしました。どうしたのだろうと思って急いでつけてみると、これはまたどうでしょう。
『母と子の心霊教室』霊媒(れいばい)がもとどおりに上着をつけているではありませんか。ボタンも縫(ぬ)い目ももとのままです。ぬぐときも着るときも、ボタンひとつはずさなかったわけです。しかもその間わずかに数秒です。
『母と子の心霊教室』霊(れい)はなんと不思議な、そしてまた、なんとすばらしい能力をもっているのでしょうか。不思議な現象はこれだけではありませんでした。ふたたび電灯を消すと、2枚の板が明るく輝(かがや)きながら、部屋中をユラユラとただよいはじめました。
『母と子の心霊教室』やがてその光の中につぎからつぎへと霊(れい)の顔があらわれて、なにかひとことずつしゃべっていくのです。そのようすは、道で出会った友だちが話しかけるのと、少しも変わりませんでした。
『母と子の心霊教室』さて、会もそろそろおわりに近づいたころ、とつぜん天井(てんじょう)から霊媒(れいばい)の声が聞こえてきました。しかし、実際にしゃべっているのは霊媒(れいばい)の背後霊(はいごれい)です。
『母と子の心霊教室』それにしても、どうして天井(てんじょう)の方から声がするのかしらと思っていると、なにかが電灯の笠(かさ)にふれるような音がして、つづいてドスンと、なにか重い物体が床(ゆか)の上に落ちる音がしました。
『母と子の心霊教室』と同時に「電灯をつけて、霊媒(れいばい)の腕(うで)のひもをゆるめてやりなさい。少しきつすぎます。はやくしないと腕(うで)が使えなくなります」という声がしました。
『母と子の心霊教室』そこで急いでスイッチを入れて、霊媒(れいばい)が最初にいた場所に目をやると、なんと霊媒(れいばい)はもうそこにはいなくて、部屋の反対の端(はし)にいます。その場所は、そうです、さっきドスンという音がしたところです。
『母と子の心霊教室』もちろんイスに縛(しば)りつけられたままです。天井(てんじょう)を見上げると電灯がゆれています。
母と子img17
『母と子の心霊教室』すると、さっきの大きな音は霊媒(れいばい)がイスごと運ばれた音で、電灯がゆれているのは霊媒(れいばい)の身体がそのときにふれたのでしょう。霊(れい)はなんと強い力が出せるのでしょう。
-----
-----7章04
『母と子の心霊教室』【4 霊(れい)はエクトプラズムをどのように使うのだろう】以上で、その日の実験はぜんぶおわりました。どの現象も、霊媒(れいばい)自身がしたものでないことは、最後まで手と足を縛(しば)られたままであったことで明らかでしょう。
『母と子の心霊教室』また、霊(れい)が直接物体を動かしたと考えるのも少し変です。なぜかというと、もしもそういうことができるとしたら、右の実験会で起きたような現象が、毎日のように私たちの身のまわりで起きてもいいはずです。
『母と子の心霊教室』それが現実に起きていないところをみると、やはりそういった現象を起こすためには、なにか特別な条件が必要であることを示しています。また、ある特殊な人間、たとえばケートやマーガレット、それから実験会における霊媒(れいばい)などのいるときにかぎって→
『母と子の心霊教室』→そうしたことが起きるところをみると、現象をおこすためには、なにかそういう人のからだから、特殊な物質をぬきとってそれを使っているのだと考えることができます。そういう考えのもとに研究を重ねて、ついにエクトプラズムという物質が発見された→
『母と子の心霊教室』→ことはすでにのべました。霊(れい)の説明によりますと、エクトプラズムはそのまま使うのではなく、エーテル界にある別の物質を混ぜて、それを人間の手先や腕(うで)のような形にして、物体を動かしたり音を出したりするのだそうです。
『母と子の心霊教室』メガホンで話をするときは、メガホンの中に人間の発声器官と同じものをこしらえるのだそうです。エクトプラズムのくわしい性質はまだわかっていませんが、とにかく写真に写っているものがエクトプラズムそのものでないことは確かです。
『母と子の心霊教室』便宜上(べんぎじょう)そう呼(よ)んでいるまでです。では、幽霊話(ゆうれいばなし)に出てくる姿(すがた)はなんでできているうのでしょうか。もちろん、それもエクトプラズムです。わかりやすくいえば、霊(れい)が自分のエーテル体の上に、→
『母と子の心霊教室』→エクトプラズムを着るのです。私が出席した実験会では顔だけが作られたわけですが、すばらしい実験会では、全身がそっくり物質化して出てきて、ふつうの人間と同じように部屋を歩きまわり、おしゃべりをし、ときには親とか子ども、あるいは友だちなどと→
『母と子の心霊教室』→抱(だ)きあったりすることさえあるのです。こうした現象を物質化現象といい、心霊(しんれい)現象のうちでもいちばんたいせつな現象とされて、世界中で研究が続けられています。ではつぎに、世界でいちばん有名な物質化現象の話を紹介しましょう。
-----
-----7章05
『母と子の心霊教室』【5 クルックス博士の実験】ウィリアム・クルックス―みなさんはこの名前を聞いたことはありませんか。19世紀後半に活躍(かつやく)した英国の科学者で、クルックス管、クルックス線、クルックス真空など、いろいろと科学名にその名前が使われているほど→
『母と子の心霊教室』→有名な人です。そのクルックス博士が19世紀のおわりごろに、フロレンス・クックという若い女性霊媒(れいばい)を使って、物質化現象を専門(せんもん)に研究し、その成果を「近代心霊(しんれい)現象の研究」という書物にくわしく書きました。
『母と子の心霊教室』ではその中から、とくに大事なところだけを紹介(しょうかい)してみましょう。霊媒(れいばい)のクック嬢(じょう)がトランス状態に入ると、間もなく身体からまっ白いエクトプラズムのかたまりが出てきて、それがやがて、→
『母と子の心霊教室』→ひとりの美しい女性の姿(すがた)に変わりました。そして、ふつうの人間のように話をしたり笑ったり歩いたりするのでした。その霊(れい)は「私はケーティ・キングと申します」といったそうですが、クルックス博士も、その実験に立ち会った人たちも、→
『母と子の心霊教室』→だれひとりとしてそういう名前の人に心あたりがありませんでした。しかし、キング霊(れい)は心のやさしい人だったので、実験に立ち会った人はだれもがすぐに親しくなり、楽しく話を交(か)わすのでした。
『母と子の心霊教室』さて、クック嬢(じょう)とキング霊(れい)とは名前がちがうばかりでなく、肌の色やからだつきまでちがっておりました。その点についてクルックス博士はつぎのように説明しております。
『母と子の心霊教室』「キング霊(れい)の背の高さはそのときどきでちがうことがありました。いぜん、私の家で実験した時は、クック嬢(じょう)より15センチも低かったのですが、きのうの実験では、素足(すあし)でもクック嬢(じょう)より10センチあまり高かったので」→
『母と子の心霊教室』→「びっくりしました。また、きのうのキング霊(れい)は首すじのところを広くあけていて、なめらかな美しい肌(はだ)を見せていましたが、クック嬢(じょう)は首のところに大きな水ぶくれがあって、さわるとカサカサして、」→
『母と子の心霊教室』→「あまりきれいではありませんでした。それから、キング霊(れい)はいつも耳にはなんの飾(かざ)りもつけていませんでしたが、クック嬢(じょう)はいつもイヤリングをつけていました。色はキング霊(れい)がとても白くて美しかったのにくらべて、」→
『母と子の心霊教室』→「クック嬢(じょう)は浅黒(あさぐろ)くて、正直いってあまりきれいではありませんでした。顔の大きさもクック嬢(じょう)よりキング霊(れい)の方が大きく、指の長さもキング霊(れい)の方がだいぶながいようでした。」→
『母と子の心霊教室』→「こうした姿(すがた)や形だけでなく、歩き方や話しぶりも、ふたりはぜんぜんといってよいほどちがっておりました」クルックス博士の研究はなん年にもわたって続けられましたが、いよいよ実験もおわりに近づいたある日のこと、キング霊(れい)が→
『母と子の心霊教室』→こういいました。「これで、私のお役目もすっかりおわりました。今日お別れしたらさいご、2度と地上へは戻(もど)ってまいりません」
母と子img18
『母と子の心霊教室』この言葉どおり、それからというもの、2度とケーティ・キングという名の霊(れい)は姿(すがた)を見せなくなりました。たぶん、もう1段高い世界へ向上していったのでしょう。
-----
-----7章06
『母と子の心霊教室』【6 ウォルター霊(れい)のくふう】実験会でみられる不思議な現象は、これ以外にもまだまだたくさんあります。霊(れい)はすばらしい知恵をもっていますから、地上の人びとに、肉体は滅(ほろ)んでも、私たちはこうして立派(りっぱ)に→
『母と子の心霊教室』→生きつづけてますよ、ということを知らせるためにいろんなくふうをこらすのです。いままでの心霊(しんれい)実験でいちばんおもしろいくふうをこらしたのは、マージャリーという女性霊媒(れいばい)のウォルターという支配霊(しはいれい)でした。
『母と子の心霊教室』ウォルターはマージャリー霊媒(れいばい)のお兄さんで、はじめて実験会に出る2年前に鉄道事故で死んだのでした。ではウォルター霊(れい)はどんなくふうをしたのか、それを紹介(しょうかい)しましょう。
『母と子の心霊教室』まずエクトプラズムで自分の手をこしらえて、その指先を、あらかじめ湯でやわらかくしておいたロウのかたまりにつよく押しつけます。すると指紋(しもん)ができます。が、それがほんとうにウォルターの指紋(しもん)であるかどうかは、→
『母と子の心霊教室』→地上に残っている指紋(しもん)と比べてみなければわかりません。それは、ウォルターが生前に使っていたものについているはずです。そこで、ウォルター霊(れい)は自分が使っていたカミソリの刃(は)のある場所を教えて、それに自分の→
『母と子の心霊教室』→指紋(しもん)が残っているから、よく比べてみてほしいといいました。その調査には、警察(けいさつ)の人や指紋(しもん)の専門家(せんもんか)まで立ち会ったのですが、その結果はたしかにウォルター霊(れい)の指紋(しもん)と一致(いっち)→
『母と子の心霊教室』→したのでした。ウォルター霊(れい)は自分の指紋(しもん)だけでなく、ヒルという英国の有名な判事さんや、オリバー・ロッジという世界的に有名な物理学者の指紋(しもん)も作り、どちらも専門家(せんもんか)によってまちがいなしと認められました。
『母と子の心霊教室』ヒル判事の指紋(しもん)は死後6週間目につくられたものですが、ロッジ博士の指紋(しもん)は、意外なことに、博士がまだ生きている間に作られたのでした。作られたとき、博士は遠く離(はな)れたところにいて、そんな実験が行われていることなどまったく知りませんでした。
『母と子の心霊教室』霊(れい)はずいぶんおもしろいことをするものですね。ウォルター霊(れい)はまた、閉(し)め切って鍵(かぎ)までかかっている部屋の中に、どこからか品物を運び込んだり、種類の異(こと)なる2枚の板をつなぎあわせたりしました。
『母と子の心霊教室』外から品物を運びこむのを物品引き寄せ現象(アポーツ)といい、いまでもよく行なわれますが、すぐ近くからだけでなく、遠い外国とか、ときにはエーテル界の“常夏(とこなつ)の国”から運ばれてくることもあります。
『母と子の心霊教室』いったいどうやって運ぶのでしょう?残念なことに、それがまだよくわからないのです。霊(れい)の方もわざと教えてくれないのです。ひとつみなさんが大きくなってから研究していただけませんか。
-----
-----7章07
『母と子の心霊教室』【7 心霊(しんれい)写真とはどんなものだろう】さて、最後に説明するのは、たぶんみなさんも聞いたり見たりしたことのある、心霊(しんれい)写真のことです。そうです、ふつうに撮(と)った写真に死んだ人の顔が写っている現象です。
『母と子の心霊教室』写真のことをよく知っている人は「なんだ、あんなのはフィルムを2度使えばできちゃうよ」といって信じようとしないのですが、でも、そういう人にカメラとフィルムを用意してもらって、その人の厳重(げんじゅう)な監視(かんし)のもとに、→
『母と子の心霊教室』→霊能者がシャッターを切ると、やっぱり霊(れい)の顔や姿(すがた)、死んだ犬の元気そうな姿(すがた)などが写るのですから、これも心霊(しんれい)現象であることに疑(うたが)いの余地はありません。
『母と子の心霊教室』ときには、顔とか姿(すがた)だけでなく、メッセージ(通信文(つうしんぶん))まで、いっしょに写っていることがあります。こうなると、エーテル界から写真入りの手紙をもらったようなもので、私たちが遠くの人に手紙を書いて、→
『母と子の心霊教室』→写真を同封(どうふう)して送るのと同じですね。が、これだけで不思議がるのはまだはやいのです。といいますのは、もっとすぐれた写真霊媒(れいばい)になると、シャッターも切らずに写すことができるのです。
『母と子の心霊教室』こっそりシャッターを押しているのだろうとおっしゃるのですか?そんなはずはありません。だってカメラには1度も手をふれずに、そばに置いておくだけでいいのですから…。なんとも不思議な話ですね。
『母と子の心霊教室』心霊学(しんれいがく)ではこれをスコトグラフと呼(よ)んで、心霊(しんれい)写真の中でも特別に扱(あつか)うことにしています。
-----
-----7章08
『母と子の心霊教室』【8 心霊現象(しんれいげんしょう)はなぜたいせつなのだろう】これでおもな心霊(しんれい)現象の説明をおわりました。この中には、たぶんみなさんが前から知っていたものもあるでしょうし、はじめて聞くものもあるでしょう。
『母と子の心霊教室』が、どちらにしても、とにかく不思議な、そしてすばらしい現象ばかりだということは、みなさんのだれもが感じたにちがいありません。ためしにこの中のひとつだけでもお友だちに話して聞かせてごらんなさい。
『母と子の心霊教室』きっと首をかしげて不思議がるにちがいありません。しかしみなさんは、そうやって人を不思議がらせてばかりいてはいけません。それよりも、いったいこうした不思議な現象は、私たち人間にどんなことを教えているのだろうかということを→
『母と子の心霊教室』→真剣(しんけん)に考えなくてはいけないのです。では、これから私といっしょにそのことを考えて、それで長かったこの章をおわることにしましょう。まず、こんな場合を考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』いま私が高い塀(へい)でかこまれた静かな庭でイスに腰(こし)かけて、本でも読んでいるとしましょう。その私の足もとに、いきなり野球のボールが落ちてきたとしましょう。そのとき私はどんなことを想像するでしょうか。
『母と子の心霊教室』まさかボールが天から降(ふ)ってきたとは思わないでしょう。きっと塀(へい)の外で野球をしている人がいて、そのボールが塀(へい)を越(こ)えて飛んできたのだと考えるにきまっています。
『母と子の心霊教室』それはだれかが投げたボールが高すぎたのかもしれませんし、うまいバッターがホームランを打ったのかもしれません。どっちにしても、とにかく塀(へい)の外でだれかが野球をしていることにまちがいはありません。
『母と子の心霊教室』心霊(しんれい)現象のことも、これとおなじように考えればよいのです。つまり、物が動いたり人の声がしたりするのは、きっと、それを動かしたりしゃべっているなに者かが、そこにいるにちがいないのです。
『母と子の心霊教室』目に見えないから信じられない、とおっしゃるのですか?それはたいへん幼稚(ようち)な考え方なのです。だって、目に見えないもので、みなさんにとって無くてはならないものがたくさんあるではありませんか。
『母と子の心霊教室』空気がそうでしょう。みなさんは空気を見たことがありますか?ないでしょう。世界中どこをさがしても空気を見たという人はひとりもいません。なのにだれもが“ある”と信じているのは、風で木が動いたり、ほこりが立ったりするのを毎日のように見ているからです。
『母と子の心霊教室』それと同じで、実験会で物が動いたり、ハーモニカが鳴ったり、天井(てんじょう)から声がしたりするのは、たとえ目に見えなくても、だれかが、なにかが、そういうことをしているからだ、→
『母と子の心霊教室』→と考えるのが正しいのです。しかも、実際に霊(れい)がエクトプラズムをまとって出てきて「ごらんなさい。私たちはけっして死んでしまったのではありません。別の世界でちゃんと生きつづけているのですよ」と語っているのですから、人間はけっして死なないのだ、→
『母と子の心霊教室』→死ぬのはからだだけなのだ、死後の世界は本当にあるのだ、と信じてよいのです。
『母と子の心霊教室』心霊(しんれい)実験会は、不思議な現象をただおもしろがってやっているのではなく、ほんとうは、そういうことを教えるために行われるものであることを忘(わす)れないようにしましょう。
-----

母と子書籍img
-----6章01
『母と子の心霊教室』【第6章 心霊現象(しんれいげんしょう)のいろいろ その1】みなさんは、お母さんのお使いをよくしますか。よくする?それは偉(えら)いですね。お使いをすると、お母さんはとてもよろこんで、おこづかいをくださることもあるでしょう。
『母と子の心霊教室』では、お使いに行って買う物をまちがえたり、お金を落としたりしたことはありませんか。それもある?それはきっとあわてたか、ほかのことを考えていたからでしょう。なぜそれがわかるって?じつは私も子どものころ、そんな失敗をしたことがあるのです。
『母と子の心霊教室』【1 著者(ちょしゃ)の失敗】それは私がまだ5つの時でした。ある朝お母さんが「チャールズ、いい子だから紅茶(こうちゃ)を100グラム買ってきてちょうだい。帰ったらおこづかいをあげますよ」といって、代金を紙に包んで渡(わた)してくれました。
『母と子の心霊教室』私は、はい、と元気よく返事をして走って出かけました。そして走りながら口の中で、紅茶(こうちゃ)100グラム、紅茶(こうちゃ)100グラム、とくりかえして、買いものをまちがえないようにしました。ところがです。
『母と子の心霊教室』いよいよお店にきてみるとお客がいっぱいきていて、すぐには買えないのです。私はじゅんばんを待ちながらも、紅茶(こうちゃ)100グラム、紅茶(こうちゃ)100グラムとくりかえしていたのですが、ふと見ると、お店の台の上に→
『母と子の心霊教室』→鳥かごが置いてあって、この中に美しいオオムが1羽います。わあ、きれいだなあ、と思っていると、そのオオムが「おはよう。なにがいりますか」といいました。じょうずだなあと思って感心していると、やっとお店のおじさんが私に向かって→
『母と子の心霊教室』→「やあ、ぼっちゃん、なにがいるの?」と聞きました。「あのね…」さあたいへんです。そのあとが出ないのです。そうです。オオムに気をとられているうちに、紅茶(こうちゃ)100グラムという文句を忘れてしまったのです。
『母と子の心霊教室』人間が物を覚(おぼ)えたり忘(わす)れたりするのは不思議なことですね。みなさんも宿題をいっしょうけんめい暗記して、よし、これでぜったい覚(おぼ)えたぞと思ったのに、つぎの日学校で先生にあてられたときはすっかり忘(わす)れていた、→
『母と子の心霊教室』→という経験があるでしょう。いったい記憶(きおく)するということはどういうことなのでしょう。そしてまた、それを忘(わす)れるというのはどういうことなのでしょう。それをこれから勉強しましょう。
-----
-----6章02
『母と子の心霊教室』【2 記憶(きおく)には3つの段階(だんかい)がある】みなさんが物ごとを覚えようとするとき、どんなことが生じているでしょうか。みなさんの身近なことから考えてみましょう。まず最初に、これから覚(おぼ)えようとするものについて“知り”ます。
『母と子の心霊教室』知る方法にはいろいろあります。“聞いて知る”場合もありますし(人の話など)、“見て知る”場合もありますし(人の顔とか文字など)、“鼻でかいで”知る場合もありますし(花の香(かお)りなど)、“手でさわって”知る場合もあります(熱いとか冷たいとか)
『母と子の心霊教室』つぎに、そうして知ったものは、ちょうど黒板に書いたように、みなさんの頭の中に書きこまれます。なんどもくり返せば、それだけはっきりとします。ではなぜ、いっしょうけんめい覚(おぼ)えたものを忘(わす)れることがあるのでしょうか。
『母と子の心霊教室』それはつぎの段階(だんかい)を知ればわかります。すなわち、いちど頭の中に書きこまれたものは、そのあとから入ってくる新しい知識に押(お)しやられて、こんどはその奥にある“記憶(きおく)の押(お)し入れ”の中にしまいこまれるのです。
『母と子の心霊教室』けっして消えてしまうのではありません。ただ、ずっと奥(おく)の方へ押(お)しやられたために“思い出しにくく”なり、それを“忘れた”といっているにすぎないのです。ですから、その記憶(きおく)の押(お)し入れから何回も出し入れしていれば、→
『母と子の心霊教室』→だんだん思いだすのがはやくなり、しまいには、みなさんがしゃべっている言葉のように、思いだそうとしなくても自然に出てくるようになります。記憶(きおく)の押(お)し入れには、良いものでも悪いものでも入りますし、どれだけ入れても→
『母と子の心霊教室』→いっぱいになることはありません。が、皆さんは、机の中に何でもかんでも放りこんだために、あとでなにを入れたかわからなくなり、大さわぎをしながら探(さが)しものをした経験はありませんか?記憶(きおく)も同じことです
母と子img13
『母と子の心霊教室』いちどになにもかも覚(おぼ)えようとすると、そのときは覚えたつもりでも、あとで思いだそうとすると、なにもかもがごっちゃになって、はっきり思い出せなくなります。勉強するときはひとつひとつじゅんじょよく記憶(きおく)するようにしましょう。
-----
-----6章03
『母と子の心霊教室』【3 潜在意識(せんざいいしき)のはたらき】ところで、私はいま“記憶(きおく)の押し入れ”という変な言葉を使いましたが、もちろんこれは私がこしらえた言葉です。心霊学(しんれいがく)には別の専門語(せんもんご)があります。
『母と子の心霊教室』それを潜在(せんざい)意識といいます。潜在(せんざい)意識にはいろいろとたいせつなはたらきがあります。その第1は、みなさんがふだんはたらいてくれていることを知らずにいる器官、たとえば胃とか心臓(しんぞう)とか肝臓(かんぞう)などの→
『母と子の心霊教室』→はたらきを受けもっています。ご承知のように、心臓(しんぞう)や肝臓(かんぞう)は昼と夜の区別なく、休みなくはたらいてくれております。すると潜在(せんざい)意識は、みなさんが生きているあいだは、いっときも休むことなく→
『母と子の心霊教室』→はたらきつづけることになります。つぎに、いま述べたように、みなさんが知ったものを貯(たくわ)えておく役目もします。さっき例としてあげたような、人の話だとか、文字だとか、花の香(かお)りだとかいったものだけではありません。
『母と子の心霊教室』歩き方だとか、自転車の乗り方だとか、泳ぎ方なども、やはり潜在(せんざい)意識が覚(おぼ)えてくれているからこそ、できることなのです。「え、歩き方まで?」―みなさんはきっとそう思われるかもしれませんが、では、みなさんの中で、→
『母と子の心霊教室』→生まれてすぐから歩いたという人がひとりでもいますか?もちろんいないでしょう。だれだって最初はハイハイからはじまり、つぎに立つことができるようになり、それからお母さんに手を取ってもらったりしながら、ヨチヨチ歩きができるようになったのです。
『母と子の心霊教室』それが今では、どこかへ行こうと思っただけで自然に足が出ます。それはけっきょく、赤ちゃんのときに覚(おぼ)えた歩き方を、潜在(せんざい)意識が記憶(きおく)していてくれて、しかも毎日のように使っているからなのです。
『母と子の心霊教室』さて、潜在(せんざい)意識にはこれ以外にもうひとつ、それも私たち心霊学(しんれいがく)を学ぶ者にとっていちばんたいせつなはたらきがあります。それは、いろいろな心霊(しんれい)現象をおこすことです。では、どんな現象をおこすのでしょうか。
-----
-----6章04
『母と子の心霊教室』【4 テレパシー現象(げんしょう)】このあいだ私は、ふとある友だちのことを思いだして「もうずいぶんながいこと会っていないけど、どうしてるかなあ。よし、ひさしぶりに手紙をだそうか」そうおもって、さっそく手紙を書き送りました。
『母と子の心霊教室』ところがです。その翌朝(よくあさ)になって、その友だちから1通の手紙が届(とど)いたのです。読んでみると、やはりその友だちも、私がその友だちのことを思いだしたのとほとんどおなじころに、私のことを思いだして手紙を書いているのです。
『母と子の心霊教室』おもしろいことがあるものだなあ、と私は不思議に思ったのですが、きっとその友だちも同じように不思議に思ったことでしょう。それからこんなこともあります。それは、自分がいいだそうとしたことをそばの人が先にいう場合です。
『母と子の心霊教室』反対に、そばの人がいおうとしたことを自分が先にいう場合もあります。これはいったいどういうわけなのでしょうか。そのわけはじつは簡単(かんたん)なのです。
『母と子の心霊教室』一方の人が考えていることを、他方の人の潜在(せんざい)意識がキャッチして、それを相手より先に脳(のう)へ伝えたのです。そうです、記憶(きおく)するときと正反対の作用がおきたのです。テレビと同じです。
『母と子の心霊教室』潜在(せんざい)意識というアンテナが、他人の考えをキャッチして、それを脳(のう)という受像器へ伝えるわけです。こういう現象をテレパシーと呼んでいます。
母と子img14
『母と子の心霊教室』ところで、右にあげた例は、ふたつとも現在地上に生きている人間どうしのテレパシーですが。これが地上の人間とエーテル界の霊(れい)とのあいだで、おきることもあるのです。このあいだ、ある有名な小説家が、私につぎのような話をしてくれました。
『母と子の心霊教室』ある日その小説家はサンフランシスコへ行くことになったのですが、その地名を頭にうかべたとたん、その土地の○○通りにある××ホテルへいけば、子どものころの女友だちに会えるような感じがしたというのです。
『母と子の心霊教室』心霊学(しんれいがく)について何も知らないその小説家は、そのことをあまり気にかけなかったのですが、まあ、ためしに行ってみようかと思ってそのホテルを訪(たず)ねてみたところ、驚(おどろ)いたことに、その直感どおり子どものころいっしょに遊んだ→
『母と子の心霊教室』→女友だちのひとりがそのホテルに泊(とま)っていたというのです。その女性はもう白髪(しらが)のおばあさんになっていました。もちろん小説家は、その友だちが白髪(しらが)になっていることなどは、予想もしませんでしたし、女性の方も、→
『母と子の心霊教室』→その小説家が訪(たず)ねてくることなど、夢(ゆめ)にも思いませんでした。
『母と子の心霊教室』するとこれは、小説家と女性との間のテレパシーではなくて、誰かエーテル界にいる霊(れい)―たぶんふたりをよく知っているもうひとりの友だち―が教えたにちがいありません。これもやはりテレパシー現象です。
-----
-----6章05
『母と子の心霊教室』【5 霊言現象(れいげんげんしょう)】第5章で霊媒(れいばい)のY夫人のからだを、支配霊(しはいれい)のブラウン・オウルが使った話をしましたが、じつをいえば、あの場合も、ブラウン・オウルは直接Y夫人のからだを動かしたのではなく、→
『母と子の心霊教室』→Y夫人の潜在(せんざい)意識をはたらかせたといった方が正しいのです。他人の潜在(せんざい)意識を使うことはたいへんむずかしいことです。慣れないうちは霊(れい)のいいたいことが、霊媒(れいばい)の潜在(せんざい)意識の中の記憶(きおく)と→
『母と子の心霊教室』→ごっちゃになって、思うように伝えられないものです。しかしなん回もくりかえしていくうちに、ちょうどみなさんが、大きくなるにつれて言葉を話すのがじょうずになってきたのとおなじように、霊(れい)の方も霊媒(れいばい)の潜在(せんざい)意識の→
『母と子の心霊教室』→使い方がじょうずになり、しまいには、あのブラウン・オウルのように、冗談(じょうだん)までいえるようになります。そのような段階(だんかい)までくると、霊媒(れいばい)の意識は完全に消えてしまいます。これを専門語(せんもんご)で→
『母と子の心霊教室』→トランス(入神状態(にゅうしんじょうたい))といいますが、トランス状態にある霊媒(れいばい)は、霊(れい)がなにをしゃべり、どんなことをしたかを知らないのがふつうです。
『母と子の心霊教室』ときには霊媒(れいばい)のぜんぜん知らない外国語でしゃべることさえあります。このように、トランス状態の霊媒(れいばい)を通じて霊(れい)が話をするのを霊言(れいげん)現象といいます。
-----
-----6章06
『母と子の心霊教室』【6 自動書記現象(じどうしょきげんしょう)】霊(れい)が地上の人間に通信を送る方法にはいろいろあります。霊言(れいげん)現象もそのひとつですが、これを、文字によって伝える方法もあります。自動書記現象というのがそれです。
『母と子の心霊教室』自動書記では、霊媒(れいばい)はただエンピツを持って目を閉(と)じ、気持ちを静かにして何も考えない状態にしていればよいのです。するといきなり手が動きはじめて、用意された紙の上につぎつぎと文章が書かれていきます。
『母と子の心霊教室』そして最後のところに、○○より、というサイン(署名(しょめい))が記(しる)されますが、その名前の字体や文章全体の書体をみると、その通信者の生前のものとそっくりなのです。また、その通信の内容は霊媒(れいばい)の知らないことがほとんどで、→
『母と子の心霊教室』→ときには霊言(れいげん)現象の場合と同じように、霊媒(れいばい)の知らない外国語で書かれることもあります。それから、書かれるものは文章ばかりとはかぎりません。美しい絵がえがかれることもあります。
『母と子の心霊教室』その絵の中には、専門(せんもん)の画家も驚(おどろ)くほど立派(りっぱ)なものが少なくないのですが、おもしろいことに、霊媒(れいばい)自身は絵が大きらいでいちどもえがいたことがないというようなこともあります。
『母と子の心霊教室』いずれにせよ、自動書記現象の場合も、霊(れい)が直接霊媒(れいばい)の手を使っているのではなく、やはり潜在(せんざい)意識を操作(そうさ)して書いているのです。自動書記通信が、書物となって出版されたものが数多くありますが、→
『母と子の心霊教室』→中でも有名なものに『霊訓(れいくん)』というのがあります。これは、ステイントン・モーゼスという英国の牧師さんの手によって書かれたもので、紀元前5世紀のユダヤの予言者だった霊(れい)を最高指揮者(しきしゃ)とする、→
『母と子の心霊教室』→ぜんぶで49名からなる霊団(れいだん)から送られたものでした。その内容はひじょうに程度の高い霊的(れいてき)真理や道徳、人間の生き方などが書かれていて“スピリチュアリズムのバイブル(聖書(せいしょ))”と呼ばれて100年以上たったいまでも、→
『母と子の心霊教室』→世界中の人びとに愛読されております。では参考までに、モーゼス牧師がそれをどのような状態で書いたか、ということを知っていただくために、「まえがき」の1節を紹介(しょうかい)してみましょう。
母と子img15
『母と子の心霊教室』「私はいちども自分から自動書記をはじめたことはなく、いつも急に書きたくなって、あわててえんぴつをにぎりました。ひまだからと思って机に向かっても、何の通信も来ないのです。むしろ自動書記のことを少しも考えていないときなどに、」→
『母と子の心霊教室』→「ふと書きたい気持ちがわいてきて、それから急いで用紙とエンピツを用意して机に向かいました。それはたいてい朝のことで、書き始めると1時間くらいつづきました。私は早起きです。そして身支度(みじたく)が終わるとまっ先に神さまにお祈(いの)りををするのですが」→
『母と子の心霊教室』→「書きたいという衝動(しょうどう)はたいていそのときにわいてきました。だからといって、お祈(いの)りをしながら、もうそろそろ通信がくるかな、などということはけっして考えませんでした。」
『母と子の心霊教室』「書いているあいだによくほかの心霊(しんれい)現象もおきましたが、私の健康状態が悪くなるとそれも出なくなり、そのうち自動書記通信も来なくなってしまいました。」
『母と子の心霊教室』この1節を読んだだけで、自動書記というものがけっして霊媒(れいばい)がわざとやっているものでないことが、よくわかっていただけると思います。
-----
-----6章07
『母と子の心霊教室』【7 サイコメトリ現象(げんしょう)】私がいまこの本を書いている机の上には、バラの花がたくさん生(い)けてあるのですが、おもしろいことに、私が外出して友だちなどに会うと「わあ、君の服はバラの香りがするね」といって、→
『母と子の心霊教室』→まるで犬のように鼻をクンクン鳴らします。そのわけはわかりますね。そうです。ながいあいだバラのそばで仕事をしているうちに、その香(かお)りが私の衣服にしみこんだわけです。
『母と子の心霊教室』ところでみなさんは、品物を手に持つだけでその持ち主のことをなんでもいいあてる人がいることを知ってますか?ハンカチでも帽子(ぼうし)でも腕時計(うでどけい)でも、あるいはシャツの切れはしでもいいのです。
『母と子の心霊教室』とにかく、その人がいちどでも使ったことのあるものを手に持つのです。するとその人は、この品物の持ち主は年令がいくつで、どんな性格の人で、現在どこにいる、あるいはもう死んでいる、といったことをスラスラと述べます。
『母と子の心霊教室』なぜわかるのでしょう。それは、私たちがいちど物体にさわると、あるいは身につけると、ちょうどバラの香(かお)りが私の衣服にしみこんだように、私たちの潜在(せんざい)意識にあることが、ぜんぶその物体にしみこんでしまうのです。
『母と子の心霊教室』それを霊能者(れいのうしゃ)が読みとるわけです。こうした現象をサイコメトリといいます。では潜在(せんざい)意識にないこと、たとえばその持ち主がもう死んでいるとか、現在どこそこに行ってる、といったことはどうやって知るのでしょう。
『母と子の心霊教室』それは霊能者(れいのうしゃ)の背後霊(はいごれい)が教えるのです。かりに持ち主が死んでいる場合、その人がいまエーテル界でどんな生活をしているかまでわかることがありますが、こんな場合は、きっと本人がその霊能者(れいのうしゃ)に→
『母と子の心霊教室』→知らせているのでしょう。死んだわが子や友だちが今どうしているかが知りたくて、その人の生前の持ち物をもってサイコメトリの霊能者(れいのうしゃ)をたずねる人がたくさんおります。
-----
-----6章08
『母と子の心霊教室』【8 今すぐ霊能者(れいのうしゃ)になろうと思ってはいけない】以上の説明でおわかりのように、心霊(しんれい)現象と潜在(せんざい)意識とは切っても切れない深い関係があります。また潜在(せんざい)意識の使い方ひとつで、→
『母と子の心霊教室』→いろいろな心霊(しんれい)現象が生じること、そして、それぞれの心霊(しんれい)現象には、かならずエーテル界の霊(れい)が協力していることもわかっていただけたことと思います。
『母と子の心霊教室』ところで、みなさんの中には、自分もはやく霊能者(れいのうしゃ)になりたいと思っている人がいませんか?きっとおおぜいの人がそう思っていることでしょう。ですが、ほんとうのことをいうと、私がこの本で説明する心霊(しんれい)知識だけでは、→
『母と子の心霊教室』→とてもとても十分とはいえないのです。第5章で紹介(しょうかい)したような霊能(れいのう)養成会に参加できるようになるまでには、もっともっと心霊(しんれい)現象について勉強しなくてはいけません。
『母と子の心霊教室』もしかしたら、みなさんの中にも、すでに霊視(れいし)能力や霊聴(れいちょう)能力を持っている人がいるかもしれません。それはひじょうにありがたいことですが、しかし、そういう人でも、これからもっともっと心霊学(しんれいがく)を勉強して、→
『母と子の心霊教室』→その能力をさらに立派(りっぱ)なものとし、同時にその正しい使い方を知らなくてはなりません。潜在(せんざい)意識は人間の誰(だれ)もが生まれたときから備えているものです。その中にはこれまで説明したような心霊(しんれい)能力が→
『母と子の心霊教室』→宿されているのです。ただ、ふだんは居眠(いねむ)りをしているだけです。もちろんエーテル界へいけば、それらがぜんぶ使えるようになりますが、みなさんは、死んでからのことよりも、地上に生きているうちに使うことを考えようではありませんか。
『母と子の心霊教室』そのためには、まず、正しい真理をできるだけたくさん学ぶことが必要なのです。
-----
-----6章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) スピリチュアリズムについて ―訳者(やくしゃ)】ひと口にいえば、心霊学(しんれいがく)を基礎(きそ)として発達した人生観、人間観、宇宙観(うちゅうかん)をスピリチュアリズムと呼んでいます。
『母と子の心霊教室』もともと心霊学(しんれいがく)あるいは心霊(しんれい)研究というのは、厳密(げんみつ)にいえば心霊(しんれい)現象の科学的研究、およびその研究結果のことをさし、その知識を発展させ、応用したものがスピリチュアリズムです。
『母と子の心霊教室』自動書記現象を例にとって説明すれば、霊媒(れいばい)の手がひとりでに動いて文章が書かれるという現象は、どういう原理によるのかを科学的に検討(けんとう)するのが心霊(しんれい)研究で、それから先、つまりその通信をほんものと信じて、そこから教訓を読みとり、→
『母と子の心霊教室』→それを自分の人生観の中にとり入れていくのは、心霊学(しんれいがく)の範囲(はんい)を超(こ)えてスピリチュアリズムとなります。人間には科学的探究心(たんきゅうしん)のほかに、道徳的向上心もあれば哲学的(てつがくてき)思考力もあり、→
『母と子の心霊教室』→宗教的(しゅうきょうてき)信仰心(しんこうしん)もあります。そのため、どうしても心霊学(しんれいがく)だけでは満足できなくて、それぞれの分野で解釈(かいしゃく)・発展させずにはいられません。これは理屈(りくつ)ではなく人間のありのままの姿(すがた)なのです。
『母と子の心霊教室』その自然の結果として生まれたのがスピリチュアリズムなのです。したがって、スピリチュアリズムでは、心霊学(しんれいがく)を科学的基盤(きばん)として、それまでとはまったく観点の異(こと)なる道徳観と、→
『母と子の心霊教室』→この世とあの世にまたがる雄大(ゆうだい)な哲学思想(てつがくしそう)、そして、神とか仏、来世といった、これまで“信仰(しんこう)”の領域(りょういき)で扱(あつか)われていたものを“事実”として扱(あつか)う現実的な宗教性(しゅうきょうせい)が→
『母と子の心霊教室』→一体となっております。それは、大自然をあるがままに認(みと)め、真理が教えるままに従(したが)っているのですから一宗一派(いっしゅういっぱ)にかたよることもなく、個人的な主義・主張の入る余地もありません。
『母と子の心霊教室』ですから、ほんとうはスピリチュアリズムという名称をつけるのはおかしいのですが、他と区別するために、やむをえずそう呼(よ)んでいるのです。
-----

母と子書籍img
-----5章01
『母と子の心霊教室』【第5章 ホームサークル(家庭交霊会(かていこうれいかい))ではどんなことが行われるのだろう】第3章で私は、おおぜいの人を集めて行う公開交霊会(こうれいかい)について説明しました。
『母と子の心霊教室』こんどは、一般の家庭で少数の知人・友人が集まって行う小さな交霊会(こうれいかい)、すなわち家庭交霊会(かていこうれいかい)について学ぶことにしましょう。それにはまず私が、はじめて交霊会に招かれたときの体験談をするのがいちばんよさそうです。
『母と子の心霊教室』【1 著者(ちょしゃ)の体験】これは私がまだ心霊学(しんれいがく)について、あまりよく知らなかったころのことですが、ある日、私のいちばんの仲良(なかよ)しが訪(たず)ねてきて、帽子(ぼうし)をとって腰(こし)かけるなり、→
『母と子の心霊教室』→いきなりこんなことをいったのです。「あのね、チャールズ、実はブラウン・オウルがぜひ君に来てほしいとのことなんだけど…」「え、誰(だれ)だって?」聞いたこともない名前なので私はびっくりして聞き返しました。
『母と子の心霊教室』すると友だちは平気な顔で「ブラウン・オウルだよ」と答えます。「ブラウン・オウル?いったいそれはどんな人間だい。まるでインディアンみたいな名前だな」
『母と子の心霊教室』「そのとおり、インディアンなんだ。そのインディアンがこの僕(ぼく)に、あすの晩(ばん)の交霊会(こうれいかい)に、ぜひ君をつれてくるようにというんだ」そう聞いて私も少しずつ事情がわかってきました。
『母と子の心霊教室』というのは、そのころ時おりその友だちが、私たちのもうひとりの友だちで、霊媒(れいばい)をしているY(ワイ)夫人の支配霊(しはいれい)の話をすることがあったのです。
『母と子の心霊教室』ははあ、Y(ワイ)夫人の支配霊(しはいれい)のことだなと思った私は、よし、ひとつこの機会に交霊会(こうれいかい)というものがどんなものか、この目でたしかめてやろうと考えて、よろこんでその招待をうけることにしました。
『母と子の心霊教室』「あすの晩(ばん)の7時、僕(ぼく)の家だよ」友だちはそういってから、さらに「時間におくれないように頼(たの)むよ。霊(れい)を待たせるのも失礼だからね」とつけ加えました。さて翌日(よくじつ)の晩(ばん)です。
『母と子の心霊教室』私はいわれたとおり7時かっきりに友だちの家を訪(おとず)れました。心の中は、いったいどんなことが起きるのだろう、という興味と不安とでいっぱいでした。
『母と子の心霊教室』というのも、そのころの私は、霊(れい)というものは恐(おそ)ろしいものとばかり思いこんでいたのです。部屋に案内されてみると、すでに4人の女性と3人の男性が私を待っておりました。私を入れた8人は、まもなく2階の小さな部屋に通されました。
『母と子の心霊教室』こじんまりとした気持ちのいい部屋です。たしか壁(かべ)には絵が1、2枚かかっており、花びんにはきれいな花がたくさん生(い)けてありました。そこは交霊会専門(こうれいかいせんもん)の部屋だそうで、ほかのことにはぜったい使わないとのことでした。
『母と子の心霊教室』やがて、私たちはまるく輪(わ・サークル)になって腰(こし)かけました。そのうちのひとつのイスのそばには電蓄(でんちく)が置いてあり、そのすぐそばに小さな机が置いてあって、レコードが用意してあります。
母と子img12
『母と子の心霊教室』窓(まど)のカーテンがぜんぶ下ろされて、光が入らないようにしてありました。また、もうひとつのイスの近くに電灯のスイッチがあります。あとで聞いたことですが、席はいつも決まっているとのことでした。
『母と子の心霊教室』また、いったん出席することがきまった人は、交霊会(こうれいかい)の日はどんなことがあっても出席し、時間もぜったい厳守(げんしゅ)しなければならないことになっていることも聞かされました。そうしないと霊(れい)との仕事はうまくいかないのだそうです。
『母と子の心霊教室』しかし、なんといってもいちばんたいせつなことは、出席者一同が仲良(なかよ)く和気あいあいとした雰囲気(ふんいき)になることでしょう。もしも、出席者のあいだで不愉快(ふゆかい)なことが起きると、それだけで交霊会(こうれいかい)が失敗に→
『母と子の心霊教室』→終わってしまうこともあるのです。このことは公開交霊会(こうかいこうれいかい)の説明のところでも述べたはずです。さて私たちは図のように、男、女、男、女の順で腰(こし)かけました。そして、みんなが落ち着いたところで、司会者が立ってこうのべました。
『母と子の心霊教室』「病気で苦しんでいる人たちが1日も早く回復し、また、今日の交霊会(こうれいかい)に、立派(りっぱ)な霊(れい)がたくさん集まってくださるよう黙(もく)とういたしましょう」その言葉にしたがって全員が黙(もく)とうをささげ、つづいて静かに聖歌をうたいおわると、→
『母と子の心霊教室』→こんどは隣(となり)どうしが手をつなぎあって、電蓄(でんちく)から流れる静かな音楽に耳を傾(かたむ)けました。しばらくすると「よろしいですか」という司会者の声がして、赤の豆電球がともされ、それと同時に、ほかの電灯が消され、→
『母と子の心霊教室』→私たちは握(にぎ)りあっていた手を放しました。私の目がようやく赤色の光に慣れてきたころ、ひとりの婦人が「霊(れい)の姿(すがた)が見えます」といって、その姿(すがた)かっこうを説明しはじめました。説明がおわると別の人が「霊(れい)が話しかけております」→
『母と子の心霊教室』→といって、その霊(れい)の言葉をつぎつぎと告(つ)げました。それはその会のひとりにあてたもので、近ごろその人の胃腸(いちょう)が弱っているから、食べ物によく気をつけるように、という内容のものでした。
『母と子の心霊教室』これでおわかりのように、その会の人はひとりひとりがなんらかの霊的能力(れいてきのうりょく)をもっておりました。もちろん第3章で説明した、公開交霊会(こうかいこうれいかい)の霊媒(れいばい)ほどの霊能者(れいのうしゃ)ではありません。
『母と子の心霊教室』どうやらそのサークルは、そういう専門(せんもん)の霊媒(れいばい)になるための実習をしている人たちで、いわば霊媒(れいばい)の卵の集まりらしいということが少しずつわかってきました。
-----
-----5章02
『母と子の心霊教室』【2 ブラウン・オウル霊(れい)の出現】ところが、つづいて妙(みょう)なことが起きました。さっき私がY(ワイ)夫人といっておいた人が、まるで居眠(いねむ)りでもしているみたいに、ぐったりとイスによりかかり、しかもほかの人たちは、→
『母と子の心霊教室』→そのようすをさも興味ぶかそうにながめながら、何かが起きるのを待っているみたいなのです。何も知らない私が、いったいY夫人はどうなったのだろうと心配していると、さらに不思議なことが起こりました。
『母と子の心霊教室』それは、今までぐったりとしていたY夫人が、突然からだを起こし、きちんと姿勢(しせい)を正して、目をつぶったまま、にっこりとほほえみながら、出席者全員を見まわしたのです。そのようすは、ふだんのY夫人とはすっかり変わっておりました。
『母と子の心霊教室』もちろん目や鼻や口はふだんと同じ形をしていますが、その表情からうける感じや動きが、ふだんの夫人とはちがって、まるで男のようなのです。やがてその口が動いてこうあいさつしました。「ようこそ、みなさん、ブラウン・オウルです」
『母と子の心霊教室』その声はY夫人とは似ても似つかぬ荒あらしい低い声でした。しかし出席者は少しも驚(おどろ)いたようすも見せず、反対に、まるで仲(なか)のいいお友だちにでも話しかけるような口調(くちょう)で、「こんばんは、ブラウン・オウルさん」とあいさつしました。
『母と子の心霊教室』それもそのはずです。あとで聞いてみるとブラウン・オウルは、私の推測(すいそく)どおり、Y夫人の支配霊(しはいれい)で、週に1度、こうして出てきて出席者の霊能(れいのう)養成の指導にあたっているのでした。
-----
-----5章03
『母と子の心霊教室』【3 霊媒(れいばい)と支配霊(しはいれい)】ではY夫人はいったいどうなっているのでしょうか。だれしも不安に思いますね。が、心配いりません。そのわけを知っていただくために、ここでもういちど、第1章の5、死とは何だろう、という項目(こうもく)を→
『母と子の心霊教室』→読んでみてください。その中で私は、人間が眠(ねむ)ると肉体とエーテル体とが離(はな)れること、そして、ふつうの人は離(はな)れているあいだの体験をおぼえていないが、霊能者(れいのうしゃ)はそれをはっきりと思いだすことができる→
『母と子の心霊教室』→ということを述べました。このことから考えていただけば、霊媒(れいばい)つまりY夫人の状態がおわかりになるはずです。Y夫人の意識は肉体からエーテル体へと移ってしまい、その留守中にブラウン・オウルという霊(れい)が、その肉体を使って→
『母と子の心霊教室』→話をしているというわけです。Y夫人は女性ですが、ブラウン・オウルは男性ですから、声や態度が男性的になるのです。あとで聞かされた話によりますと、ブラウン・オウルはいまからほぼ100年前に地上を去ったインディアンだそうです。
『母と子の心霊教室』ふたたび交霊会(こうれいかい)の話にもどりましょう。Y夫人のからだに宿ったブラウン・オウルは、やがて席を立って、ゆっくりと部屋を回りながら、出席者の一人ひとりに話しかけました。「こわいだろうなぁ」みなさんはきっとそう思うでしょう。
『母と子の心霊教室』私も最初は気味(きみ)悪く思いました。しかし話をしてみると、ブラウン・オウルはとてもおもしろい人で、冗談(じょうだん)をいって笑わせることもあるのです。考えてみると、これもあたりまえのことです。
『母と子の心霊教室』なぜかといえば、これまでなんども述べたように、人間が死ぬということは肉体を捨(す)てるだけのことで、性格は急には変わらないのです。ブラウン・オウルは、きっと地上でも愉快(ゆかい)な人だったにちがいありません。
『母と子の心霊教室』では、ブラウン・オウルはただそうやって話し合ったり、冗談(じょうだん)をいったりするだけかというと、けっしてそうではなく、話し合っているうちにいろいろとたいせつな教えをのべましたし、→
『母と子の心霊教室』→ほかの霊(れい)が出て話すときに手助けをしたり、またその会を邪魔(じゃま)しようとする悪い霊(れい)を追い払(はら)う役目もしていたようです。
-----
-----5章04
『母と子の心霊教室』【4 霊能(れいのう)があるから偉(えら)いのではない】さて、ブラウン・オウルはいよいよ私のところへ来ました。そして“やあ”と、いかにも親しい友だちに会ったときのようなあいさつをしてから、およそつぎのようなことをいいました。
『母と子の心霊教室』「今夜あなたをお連れするように頼(たの)んだのは、この私です。そのわけは、あなたが近ごろ人間は死んだらどうなるのかをしきりに知りたがっておられることが、この私にわかったからです。」
『母と子の心霊教室』「それに、もしこの部屋に集まっている同志が賛成してくれれば、ぜひあなたにもこのサークルのメンバーになっていただきたいという、私の希望もあったのです」
『母と子の心霊教室』ブラウン・オウルが“同志”と呼んだのは、イスに腰(こし)かけている地上のメンバーのことだけではなく、エーテル界の協力者も含(ふく)まれているようでした。私はブラウン・オウルが大好きになってしまいました。
『母と子の心霊教室』正直にいって、そのころの私は、霊視(れいし)能力も霊聴(れいちょう)能力もありませんでした。いまもありません。しかし聞くところによれば、別にそういう霊能(れいのう)をもっていなくても、ただ私が出席しているだけで、霊(れい)がわの仕事の→
『母と子の心霊教室』→助けになるのだそうです。私が出席したような会を霊能養成会(れいのうようせいかい)ともいいますが、こうした会は世界中に数え切れないほどあって、みんないっしょうけんめい霊能(れいのう)を開発しようと努力しています。
『母と子の心霊教室』しかし、どこの会でも、メンバーのすべての人が霊能(れいのう)を発揮(はっき)するようになるとはかぎらないのです。専門(せんもん)の霊媒(れいばい)となって、公開交霊会(こうかいこうれいかい)などが催(もよお)せるようになる人は→
『母と子の心霊教室』→ごくまれにしかいません。しかし、霊能(れいのう)を発揮(はっき)することばかりが偉(えら)いのではありません。
『母と子の心霊教室』まじめに努力していれば、たとえ霊能(れいのう)は出なくとも、自分では気づかないうちに立派(りっぱ)に神さまのお役に立っていることがあるのです。これはひじょうにたいせつなことですから、忘(わす)れないようにいたしましょう。
-----
-----5章05
『母と子の心霊教室』【5 なぜ赤い電灯を使うのだろう】ところで、その会がはじまるときに、電灯を赤色にかえたのはなぜでしょう?なぜふつうの電灯ではいけないのでしょうか。私も最初それがわかりませんでした。
『母と子の心霊教室』が、いろいろと勉強しているうちに、なるほどと思うようになりました。わかってみるとなんでもないことなのです。みなさんは写真の現像(げんぞう)が暗室で行われるのを知っているでしょう。それと同じ理由なのです。
『母と子の心霊教室』つまり白い光線が入ると現象が出にくくなるのです。まっ暗にしなければならないこともあります。が、それはめったにないことですし、むしろふつうの明るさで行うことの方が多いくらいです。公開交霊会などはそのいちばん良い例でしょう。
-----
-----5章06
『母と子の心霊教室』【6 交霊会(こうれいかい)のおわり】さて、その夜の交霊会(こうれいかい)がそろそろおわりに近づいたころ、ブラウン・オウルは出席者全員に向かって、勇気と知恵をあたえてくれる話をしてくれました。そして最後に神さまに向かって→
『母と子の心霊教室』→「このつぎまたここに集まる日まで一同が無事でありますように」とお祈(いの)りしました。それでお別れになったのですが、私はなんだか仲(なか)のよいお友だちと別れるような気がして、少しさびしい気がしました。
『母と子の心霊教室』ブラウン・オウルが別れを告げて2、3分ほどして、そのからだが目を開きましたが、こんどはたしかにY夫人です。夫人は目が覚(さ)めるなり「ああ、もどりましたね」とひとりごとのようにつぶやき、→
『母と子の心霊教室』→「いままで常夏(とこなつ)の国へ行っておりました。とても美しい世界で、なんだか私は地上へ帰るのが残念に思えましたよ」と語られたことでした。
-----
-----5章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく)シルバーバーチ交霊会(こうれいかい)について ―訳者(やくしゃ)】このブラウン・オウル交霊会(こうれいかい)によく似たサークルは、英米にはたくさんありますが、その中でも世界的に名を知られているものに→
『母と子の心霊教室』→「シルバーバーチ交霊会(こうれいかい)」というのがります。モーリス・バーバネルという霊媒(れいばい)を使って、シルバーバーチと名のる古代霊(こだいれい)(3千年前に地上で生活したといいます)が、支配霊(しはいれい)として高等な霊的真理(れいてきしんり)を→
『母と子の心霊教室』→説いてきました。1920年代にはじまって1970年代まで、ほぼ50年もつづきました。その教訓が『シルバーバーチの霊訓(れいくん)』となって発行されていますが、その中に、シルバーバーチ霊(れい)と子どもとの対話がいくつか載(の)っています。
『母と子の心霊教室』それを本書のおしまいのところに紹介(しょうかい)しておきますので、ぜひ読んでください。
-----

母と子書籍img
-----4章01
『母と子の心霊教室』第4章「背後霊(はいごれい)」とはなんだろう、そしてどんなことをしてくれるのだろう みなさんは、遠い見知らぬ国の探検(たんけん)物語や冒険談(ぼうけんだん)はすきですか。もちろんだいすきですね。
『母と子の心霊教室』もうこれまでに、勇敢(ゆうかん)な開拓者(かいたくしゃ)や探検家(たんけんか)の物語を、いくつも読んでおられることでしょう。それでは、みなさんといっしょに、これからひとつの探検(たんけん)物語を作ってみることにしましょう。
『母と子の心霊教室』【1 見知らぬ国の探検(たんけん)物語】まず最初は、ひとりの探検家(たんけんか)が遠い国へ行く決心をして、その準備にとりかかるところからはじまります。ひじょうに寒いところかもしれないと予想すれば、毛のついた洋服、大きな靴(くつ)などを用意し→
『母と子の心霊教室』→反対にひじょうに暑いところかもしれないと予想すれば、なるべく軽いものを用意します、それから、その国の人がひじょうに友好的(ゆうこうてき)で、すぐにお友だちになれる人種である場合を予想して、なにか贈(おく)り物を用意しなければなりませんし→
『母と子の心霊教室』→反対に、人食い人種のような恐(おそ)ろしい人種である場合を予想して、武器も用意しなければなりません。さあ、すっかり準備を整(ととの)えた探検家(たんけんか)は、いよいよ出発します。
『母と子の心霊教室』そして、それからしばらくは、その探検家(たんけんか)の音(おと)さたがすっかりとだえてしまいます。それから何ヶ月、あるいは何年もたち、そろそろみんなが忘(わす)れかけたころ、その探検家(たんけんか)が元気な姿(すがた)でひょっこり→
『母と子の心霊教室』→帰ってきて、その見知らぬ国のすばらしい風物や、そこに住んでいる人々について、いろいろと珍(めずら)しい話をして聞かせます。聞いてみると、その国は自分たちの国とひじょうによく似た国であることもあるでしょうし、→
『母と子の心霊教室』→高い山やジャングルばかりの野蛮国(やばんこく)であるかもしれません。また、そこに住んでいる人たちは、とても勉強ずきであるかもしれませんし、反対に、文字も知らない民族であるかもしれません。肌の色はどうでしょうか。
『母と子の心霊教室』赤いかもしれませんし黒いかもしれません。黄色いかもしれません。言葉や習慣などはまったくといってよいほどちがっていることでしょう。さて、それからさらに何年かたちました。その探検家(たんけんか)の話を聞いて、ぜひ自分も行ってみたいという人が→
『母と子の心霊教室』→つぎつぎとあらわれ、いつの間にかその遠い国に植民地ができるほどになりました。そうなると当然、そのふたつの国のあいだで貿易もはじまりますし、つづいて郵便(ゆうびん)の制度もできて、おたがいに文通しあうようになるでしょう。
『母と子の心霊教室』ではここで、みなさん自身がその国へいく決心をしたと仮定してみましょう。みなさんもたぶん、さっきの探検家(たんけんか)のように、新しい環境(かんきょう)にあわせていろいろと準備を整(ととの)えることでしょう。
『母と子の心霊教室』その準備のことは、だれに相談するのがいちばんいいでしょうか。もちろんいちどその国へ行ったことのある人にきまっていますね。その人からいろいろと注意をうけて、みなさんは元気よく出発し、何日かのちに、いよいよその国に到着(とうちゃく)して→
『母と子の心霊教室』→新しい生活をはじめます。そして、さっそく母国のお父さんお母さん、あるいはお友だちなどにあてて、今、こんな暮らしをしています、と書き送ることでしょう。
『母と子の心霊教室』それを受けとった両親やお友だちは、みなさんが元気で生活していることを知って、とてもよろこぶことでしょう。
-----
-----4章02
『母と子の心霊教室』【2 幽霊(ゆうれい)も私たちのお友だち】さて、私がなぜ、こんな探検(たんけん)物語などをしたかおわかりでしょうか。じつは、これと同じようなことが地上にいる私たちと、エーテル界へ行った人たちとの関係についてもいえるからです。
『母と子の心霊教室』第2章で私は、エーテル界とはどんなところかを説明しました。その説明を読まれた方の中には“いったいそのようなことをどうやって知ったのだろう?誰かエーテル界からもどってきた人でもいるのだろうか”と思った人がいるかもしれません。
『母と子の心霊教室』じつはそういう人がいるのです。死後の世界の話をするために、地上へ帰ってきた霊(れい)はたくさんいるのです。“常夏(とこなつ)の国”からも、あるいはそれよりもっともっと高い世界からも、話をもち帰ってくれているのです。
『母と子の心霊教室』その人たちは、ちょうどさっきの探検家(たんけんか)が見知らぬ国の話をして聞かせたように、自分がいま住んでいる高い世界の風物や、そこに住む人々の生活のようすなどについて、いろいろとおもしろい話をしてくれております。
『母と子の心霊教室』私が第2章で説明したことは、それらの話をまとめたものなのです。ところで、みなさんは“幽霊(ゆうれい)”の話を聞いたことはありませんか。西洋ではクリスマスの夜などによく聞かされます。が、その中に出てくる幽霊(ゆうれい)はきまって“恐(おそ)ろしいもの”と→
『母と子の心霊教室』→されているようです。たとえば気味(きみ)悪い音をたてておどかしたり、そっと顔をなでて気絶(きぜつ)させたりします。でも、それはほんとうではありません。ほんとうでないというのは、この世に幽霊(ゆうれい)などいないという意味ではありません。実際にいるのです。
『母と子の心霊教室』私は実際に幽霊(ゆうれい)と話をしたことさえあるのです。しかし、私が話をした幽霊(ゆうれい)は、ふつうの幽霊話(ゆうれいばなし)に出てくるような気味(きみ)悪いものではありませんでしたし、悪いこともしませんでした。
『母と子の心霊教室』ゴースト(幽霊(ゆうれい))という英語を字引きで調べてみると、これはドイツ語のガイストという言葉からきたもので、もとはスピリット(霊魂(れいこん))という意味なのだそうです。
『母と子の心霊教室』またゴーストにあたるフランス語を調べてみますと、もとは“旅などから帰ってきた人”という意味だったと説明してあります。すると幽霊(ゆうれい)とは“帰ってきた霊魂(れいこん)”ということになります。
『母と子の心霊教室』しかも、これまでの私の説明でおわかりと思いますが、私たちは死んであの世へいってから霊(れい)になるのではなく、いま、こうして生きているときから立派(りっぱ)に霊(れい)なのです。つまり私たちは“肉体に宿った”霊(れい)という訳です。
『母と子の心霊教室』そうすると幽霊(ゆうれい)とは“帰ってきた人”ということになってしまうのです。では“どこから”帰ってくるのでしょう?もちろん死後の世界から、つまりエーテル界からです。エーテル界には地上で生活したことのある人がおおぜいいます。
『母と子の心霊教室』ですから、その人たちが帰ってきて死後の世界の話をしても少しもおかしくないのです。もしも、変だとか気味(きみ)が悪いと思う人がいたら、それは、ニュージーランドの旅から帰った人の話を、変だとか気味(きみ)が悪いと思うのと同じことだ、ということを知ってください。
『母と子の心霊教室』もちろん、その人たちは幽霊話(ゆうれいばなし)に出てくるような、気味(きみ)悪い姿(すがた)で帰ってくるのではありません。では霊(れい)はどのようにして地上にもどってくるのでしょうか。それについては第3章でも少しばかりのべましたが、→
『母と子の心霊教室』→詳(くわ)しいことはつぎの第5章で説明することにして、ここではその霊(れい)の世界、すなわちエーテル界はけっして遠いところにあるのではなく、私たちのすぐ身のまわりにあるということを思い返していただきたいのです。
『母と子の心霊教室』また、その世界が私たちの目に見えない理由も、すでにみなさんにはわかっていただけたはずです。
-----
-----4章03
『母と子の心霊教室』【3 背後霊(はいごれい)とはなんだろう】では、もどってきた霊(れい)は、私たちのためにどんなことをしてくれるのでしょうか。霊(れい)はいろんなことをしてくれます。いちばん多いのは、人間が気づかずにいることで、→
『母と子の心霊教室』→たいせつなことや危険なことを教えてくれることです。みなさんはなにかの本で、主人公がひじょうに困(こま)ったり危険(きけん)な状態になったときにエンゼル(天使)の声が聞こえて、いい考えを授けてくれた、というような話を読んだことがあるに→
『母と子の心霊教室』→ちがいありません。このエンゼルという言葉はドイツ語からきたもので“使いの者”という意味です。するとみなさんがお母さんのお使いにいくときは、みなさんもエンゼルになっているわけです。
『母と子の心霊教室』このように、霊(れい)は私たちになにかを知らせるために、神さまの使いとして地上へもどってくることがあるのです。ところで、人間は死んでエーテル界に目覚(めざ)めると、はじめのうち、だれでも迷うものです。
『母と子の心霊教室』すると、どこからか天使があらわれて、親切に案内してくれたり、わからないことがあると教えてくれたりします。天使のやさしさに感激(かんげき)した霊(れい)は、そのお返しとして、地上に残した自分の家族や友だちなどの指導をしてあげようと決心します。
『母と子の心霊教室』そう決心した霊(れい)は、地上の人が仕事をしているときはもちろんのこと、休んでいるときでも、夜寝(ね)ているときでも、かならずそばにいて、いろいろと面倒(めんどう)をみてくれます。
『母と子の心霊教室』困(こま)ったことがあれば、その解決方法を教えてくれますし、誤(あやま)ったことをしそうになると、それを阻止(そし)して正しい方向へ導いてくれます。
『母と子の心霊教室』このように、いつもそばにいて面倒(めんどう)をみてくれる霊(れい)のことを“背後霊(はいごれい)”といい、これが地上にもどってくる霊(れい)の大きな仕事なのです。
『母と子の心霊教室』背後霊(はいごれい)にはふつう先祖の霊(れい)がなることが多いのですが、先祖とはまったく関係のない霊(れい)がなることもあります。ときには外国人がついていることもあり、そこに“きまり”はありません。
『母と子の心霊教室』背後霊(はいごれい)はいつもいっしょうけんめい、みなさんの世話をしてくれております。ですから、みなさんの方でも、勝手なことやわがままなことをしないで、まじめな生活を送らないといけません。
『母と子の心霊教室』まじめに生きていれば、きっと背後霊(はいごれい)はいい考えをさずけてくれます。みなさんはとてもいい考えを思いついた、といって自慢(じまん)することがありますが、あれはじつは背後霊(はいごれい)が教えてくれている場合が多いのです。
『母と子の心霊教室』困(こま)ったとき、危険(きけん)なときのいい思いつきは、たいてい背後霊(はいごれい)によるものと思っていいでしょう。さて、こうした仕事のほかに、交霊会(こうれいかい)に出てきて、人生や宇宙(うちゅう)についての話をしたり、→
『母と子の心霊教室』→心霊治療(しんれいちりょう)といって、霊能者(れいのうしゃ)の手を借りて、ふつうのお医者さんが治せない重い病気を治してあげる仕事もあります。
『母と子の心霊教室』バイブル(聖書(せいしょ))を読むと、イエスさまが重い病人や目の見えない人をいっぺんに治した話がでていますが、それと同じようなことが、いまでも世界中いたるところで行われているのです。
-----
-----4章04
『母と子の心霊教室』【4 私たちは霊(れい)といっしょに暮(く)らしている】以上のことからわかるように、私たちはいつも霊(れい)といっしょに暮(く)らしているといってもいいのです。立派(りっぱ)な行いをしたからといっていばったり、→
『母と子の心霊教室』→すばらしい発明や発見をしたからといってうぬぼれたりしてはいけません。そういったことはみな背後霊(はいごれい)の指導があったからこそ立派(りっぱ)なものとなり、すばらしいものとなったことを忘(わす)れてはなりません。
『母と子の心霊教室』だからといって、死んでエーテル界へいった人が、みんな心がけのよい人ばかりであるとはかぎりません。暮(く)らしがらくになることはたしかですが、心だけはいっぺんに変わるものではないからです。
『母と子の心霊教室』地上で悪いことばかりしていた人は相変(あいか)わらず悪い考えをもっていますし、不親切だった人間やはり不親切です。怠(なま)け者は相変(あいか)わらず怠(なま)けてばかりいます。
『母と子の心霊教室』私たちはそういう悪霊(あくれい)の影響(えいきょう)をうけることもあるのです。では、そういう悪い影響(えいきょう)をうけないようにするには、どうすればよいのでしょうか。それはさっきものべたように、→
『母と子の心霊教室』→まじめな日常生活を送り、真理をひとつでも多く知り、いつも人のためになるよう心がけるのがいちばんなのです。
-----
-----4章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 守護霊(しゅごれい)について ―訳者(やくしゃ)】原著者(げんちょしゃ)は、エーテル界から人間の世話をしてくれている霊(れい)のことを、背後霊(はいごれい・スピリット)という言葉だけで説明しておりますが、→
『母と子の心霊教室』→ほんとうは、その中心となってはたらいている霊(れい)に守護霊(しゅごれい・ガーディアン)というのがいます。その守護霊(しゅごれい)の監督(かんとく)のもとで、直接の指導にあたっているのが指導霊(しどうれい・ガイド)→
『母と子の心霊教室』→または支配霊(しはいれい・コントロール)で、守護霊(しゅごれい)と指導霊(しどうれい)ないし支配霊(しはいれい)のすべてをひっくるめて背後霊(はいごれい)というのです。
母と子img11
『母と子の心霊教室』指導霊(しどうれい)には先祖霊(せんぞれい)が多いのですが、そのほかに、守護霊(しゅごれい)にたのまれて特殊(とくしゅ)な技術をもった霊(れい)、たとえば音楽家や芸術家がついたり、子どもからおとなへと成長するあいだに入れ替(か)わったり→
『母と子の心霊教室』→することもあります。しかし、守護霊(しゅごれい)は“魂(たましい)の親”ともいうべき存在(そんざい)で、本人とは切っても切れない霊的(れいてき)な関係で結ばれておりますから、生涯(しょうがい)入れ替(か)わることがないのはもちろんのこと、→
『母と子の心霊教室』→死んでからのちもずっと親密(しんみつ)な関係にあります。さらにくわしくいえば、私たちに血のつながった先祖が代々つづいているように、霊的(れいてき)な先祖というのがあるのです。守護霊(しゅごれい)はその霊的先祖(れいてきせんぞ)のひとりで→
『母と子の心霊教室』→その守護霊(しゅごれい)にも守護霊(しゅごれい)がおり、その守護霊(しゅごれい)にもまた守護霊(しゅごれい)がおり、こうしてたどっていくと、たいへんな数の霊的(れいてき)な家族がいることになります。
『母と子の心霊教室』これをスピリチュアリズムではグループソウル(類魂(るいこん))と呼(よ)んでいます。類魂(るいこん)の中には、地上で日本人だった人もいれば、アメリカ人だった人、イギリス人だった人、ドイツ人だった人、中国人だった人、アフリカ人だった人などなど→
『母と子の心霊教室』→地上のあらゆる人種が考えられます。それだけではありません。地球以外の、別の天体で生活した体験をもつ人もいるかもしれません。こうして魂(たましい)は、ありとあらゆる種類の体験を積むことになっているのです。
『母と子の心霊教室』これではじめて、人類はみな同胞(どうほう)であるという言葉の意味が理解できますし、宇宙人(うちゅうじん)もまた、人類の同胞(どうほう)であるということにもなるのです。
-----

母と子書籍img
-----3章01
『母と子の心霊教室』第3章「霊媒(れいばい)」とはなんだろう、そしてどんなことをするのだろう【1 霊媒(れいばい)はエーテル界との連絡(れんらく)係】ついこのあいだのことです。私がこの本を書いておりますと、玄関(げんかん)のドアをせわしくノックする音がします。
『母と子の心霊教室』誰だろうと思いながら急いで出てみると、すぐ隣(となり)の家の方で、私に電話がかかったことを知らせにきてくださったのでした。私の家には電話がないので、いつもお隣(となり)の電話を使わせていただいているのです。
『母と子の心霊教室』私は「どうも、いつもご親切にありがとうございます」と礼をいって、急いでお隣(となり)までいきました。さて受話器をとって「もしもし、パーマーですが、どちらさまでしょうか」というと、驚(おどろ)いたことに、その相手はもう何十年も会っていない→
『母と子の心霊教室』→昔の友だちでした。私ははじめそれが信じられませんでした。すると友だちは、私たちがまだ子どものころ夏休みに2人で野山へ遊びにいったときのことや、いたずらをしてしかられたことなどを話してくれました。その話は私たちふたりしか知らないことばかりです。
『母と子の心霊教室』それでようやく、その人がまちがいなく昔の友だちであるとわかり、それからしばらく、ふたりでいろいろと語りあったのでした。さて、みなさんは、私がなぜこんな話をするのだろう、と思われるかもしれませんが、じつはこれとひじょうによく似たことが、→
『母と子の心霊教室』→エーテル界の友だちと私たち地上の人間とのあいだにも起きるのです。それは、霊媒(れいばい)と呼(よ)ばれている人のからだを使って、エーテル界の人が私たちに話しかけてくることがあることを説明するためなのです。
『母と子の心霊教室』第2章のおしまいのところで、人間には肉体をもっていながらエーテル体をはたらかせて、エーテル界を見物したり、そこに住む人たちと話をしたりすることのできる人がいて、そういう人を霊能者(れいのうしゃ)というと書きましたが、→
『母と子の心霊教室』→その霊能者(れいのうしゃ)と呼(よ)ばれる人の中でも、その能力を自分のためでなく他人(ひと)のために使うことを専門(せんもん)にしている人をミーディアム(霊媒(れいばい))と呼(よ)びます。
『母と子の心霊教室』ミーディアムのもとの意味は「あいだに立つ人」ということです。さっきの話でいえば「受話器」の役目にあたります。人間のすべてが霊能者(れいのうしゃ)になってしまえば、とうぜん霊媒(れいばい)という役目をする人はいらなくなってしまいます。
『母と子の心霊教室』それはちょうど、全部の家に電話がつけば、私のように隣(となり)の家の電話を借りなくてすむのと同じです。ですが、いまのところ霊媒(れいばい)と呼(よ)ばれる人はそうたくさんいません。
『母と子の心霊教室』ですから、エーテル界の人と話をしたい人は、私がお隣(となり)の電話を借りにいくように、霊媒(れいばい)のところへいって連絡(れんらく)をたのまなくてはなりません。
-----
-----3章02
『母と子の心霊教室』【2 交霊会(こうれいかい)とはなんだろう】ところで、みなさんはきっと経験したことがあると思いますが、電話の相手が遠いところへ出張しているお父さんであったり、どこかへ旅行中のお兄さんだったりすると、わぁ、お父さんだ、わぁ、お兄さんだといって→
『母と子の心霊教室』→家中の者が、みんなひと言(こと)ずつでも話してみたくなるものです。つまり、ひとつの電話でおおぜいの人が話をするわけですが、それと同じように、ひとりの霊媒(れいばい)を通じて、おおぜいの人がエーテル界にいる自分の肉親や知人と話をするために、→
『母と子の心霊教室』→曜日をきめて霊媒(れいばい)の家に集まることがあります。そのような会を「交霊会(こうれいかい)」といいます。さて、いよいよ霊(れい)を呼(よ)びだしても、ここにたいへんむずかしいことがおこります。
『母と子の心霊教室』それは、その霊(れい)がほんとうに、自分で名のっているとおりの霊(れい)であるかどうか、ということです。なにしろ私たちの目に見えないのですから困(こま)ります。みなさんだったら、どうやって確かめますか。
『母と子の心霊教室』いちばん良い方法は、子どものころの話とか、ふたりしか知らない秘密(ひみつ)の話などをしてみることです。そうです。さっきの私の昔の友だちのように、ふたりでどこかへ遊びに行ったことや、いたずらをしてしかられた話などをしてみるとよいのです。
『母と子の心霊教室』もし相手がそれに対して、まちがいなく相(あい)づちを打つことができたら、もう安心して○○さんだと信じてよいでしょう。アメリカやイギリス、ヨーロッパなどには、こうした交霊会(こうれいかい)を毎週のように開いているところがたくさんあります。
『母と子の心霊教室』ときには公会堂のような大きな建物を使って、何百人、何千人もの人を相手にして催(もよお)すこともあります。このような大きな交霊会(こうれいかい)を、デモンストレーション(公開交霊会(こうかいこうれいかい))と呼(よ)んでおります。
『母と子の心霊教室』では、その公開交霊会(こうかいこうれいかい)を例にして、交霊会(こうれいかい)というものがどのようにして行われるかを紹介(しょうかい)しましょう。
-----
-----3章03
『母と子の心霊教室』【3 交霊会(こうれいかい)はこうして行われる】まず出席者全員が起立して、どうか今日の会が成功しますようにと神さまにお祈(いの)りをし、つづいて静かに合唱します。歌いおわると司会者がこんなことをいいます。
『母と子の心霊教室』「ただ今より、ここにおります霊媒(れいばい)の○○さんが霊視(れいし)能力を使って、エーテル界の方々と話をされます。みなさんはやさしい愛の心で、霊媒(れいばい)の成功を祈(いの)ってあげてください」
『母と子の心霊教室』この言葉はひじょうにたいせつなことをいっております。どういうことかといいますと、もしも、その会場にひとりでもよこしまな心をもった人がいて、霊媒(れいばい)を憎(にく)んだりしたら、その憎(にく)む心が、ちょうど電波にいたずらをして→
『母と子の心霊教室』→ラジオに雑音を入れるのと同じように、霊媒(れいばい)の能力の邪魔(じゃま)をして、ひどいときは会を中止しなければならなくなることさえあるのです。みなさんは交霊会(こうれいかい)に出席したときは、やさしい静かな気持ちで、→
『母と子の心霊教室』→霊媒(れいばい)の言葉に耳を傾(かたむ)けることがたいせつです。さて司会者の挨拶(あいさつ)がおわると、いよいよ霊媒(れいばい)が立ち上がって交霊(こうれい)をはじめます。まず霊媒(れいばい)がこういいます。
『母と子の心霊教室』「うしろから2番目の列のいちばん端(はし)におられる男の方、はいそうです。いま手を上げられた方です。あなたのすぐ横に、飛行服を着た若い男性の霊(れい)が立っておられます。年齢は20歳から22歳くらいでしょうか。」
母と子img09
『母と子の心霊教室』「背丈(せたけ)は高いほうで、髪(かみ)の色は黒、目は茶色です。髪をまん中で分けておられ、右のほおに小さなホクロがあります。耳のすぐ近くです」こんな具合に霊媒(れいばい)は霊眼(れいがん)(エーテル体の目)に映(うつ)ったままをのべてから→
『母と子の心霊教室』→こんどはその霊(れい)と交信をして返事をひとつひとつ伝えていきます。「この方はあなたの息子さんで、名前をシリルとおっしゃるそうです」「そのとおりです」とお父さんが答えます。「フランスで戦死されたそうです」「はい、まちがいありません」
『母と子の心霊教室』「お父さんは近ごろシリルさんのことを思いだして、たいへん悲しんでおられるそうですが、シリルさんは悲しんでくれては困(こま)るとおっしゃってますよ。今も元気で立派(りっぱ)に生きつづけていることを知ってほしいそうです。」
『母と子の心霊教室』「きのうの晩、お父さんはシリルさんの写真をだして見られたそうですね、それから、いまお父さんが使っておられる腕時計(うでどけい)はシリルさんのものだそうですが、シリルさんの弟さんが使える年令になったら、ゆずってあげてほしいとのことです」
『母と子の心霊教室』「はい、私はきのうの晩シリルの写真を見ました。この時計はシリルのものです。望みどおりシリルの弟が使えるようになったらゆずりましょう」こうして、地上のお父さんとエーテル界の息子さんとが、感激(かんげき)のひとときを過ごすわけです。
-----
-----3章04
『母と子の心霊教室』【4 霊視(れいし)能力と霊聴(れいちょう)能力】右の話の中でひとつだけ不思議に思われるところがありませんか。シリルさんが飛行服を着ていたことです。シリルさんは、今でも飛行服を着ているのでしょうか。説明しましょう。
『母と子の心霊教室』ほんとうはもう飛行服なんか着ていないのです。ですが、さっきもいったとおり、自分が息子であることを知らせるためには、お父さんしか知らない昔のことを示すのがいちばん確かなのです。そこでシリルさんは、自分が戦死したときの姿(すがた)と→
『母と子の心霊教室』→同じ姿(すがた)をよそおって霊媒(れいばい)に見せたわけです。人間はだれでも死んだときの服装(ふくそう)をいちばんよくおぼえているものです。それでエーテル界からあらわれるときは、たいてい死んだときの服装(ふくそう)をしているものです。
『母と子の心霊教室』ときには、ただ自分のことを知ってもらうだけでなく、地上の未来のできごとを知らせてくれて、もしそれが危険なことであれば、どうすればよいかを教えてくれることもあります。こうしたことを“予言”といいますが、その予言を聞いたり、→
『母と子の心霊教室』→出てきた霊(れい)の姿(すがた)を見たりすることは、ふつうの目や耳ではできないことです。そこで、こういった能力にはそれぞれ特別な呼び方があります。霊(れい)の姿(すがた)が見える能力を「霊視(れいし)能力」、→
『母と子の心霊教室』→霊(れい)の言葉が聞こえる能力を「霊聴(れいちょう)能力」といいます。霊媒(れいばい)がエーテル界の事情をさぐるときは、たいていこのふたつの能力を使います。
『母と子の心霊教室』昔は、死んだらきっとこうなるだろう、いや、そうではなく、こうなるだろう、というふうに、いろいろと考えてみるだけでしたから、昔の人の死後の世界の話には、まちがったことや“あいまい”なことが少なくありませんでした。
『母と子の心霊教室』が、近ごろでは、エーテル体の目と耳、すなわち霊視力(れいしりょく)や霊聴力(れいちょうりょく)を使って、実際に死後の世界を見聞きできる霊能者(れいのうしゃ)が多くなりましたから、死後の世界はほんとうにあるのか、→
『母と子の心霊教室』→死んだらどうなるのかといったことは、もはや“疑問”ではなくて、あたりまえの“事実”として認(みと)めなくてはならなくなりました。人間はけっして死なないのです。
『母と子の心霊教室』肉体は滅(ほろ)びても、精神(こころ)、すなわちほんとうの自分はエーテル体に宿って、新しい生活をはじめるのです。その新しい生活をするエーテル界のずっとずっと上の方には、宇宙(うちゅう)全体を治めておられる神さまの世界があるのです。
-----
-----3章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 死後の世界の区分(くわ)けについて ―訳者(やくしゃ)】死後の世界の分け方は、世界の心霊家(しんれいか)の間でもおおざっぱに分ける人と、細かく分ける人とがいて、その数は、一致(いっち)しておりません。
『母と子の心霊教室』が、日本では3つに分けるのが通例のようですし、それがいちばん妥当(だとう)でもあるように思われます。その理由は、エーテル体にも3つの種類があることが霊視(れいし)能力によって認(みと)められていますし、英国のキルナーという化学者が、→
『母と子の心霊教室』→特殊(とくしゅ)な装置(そうち)によって、これを科学的に説明することに成功しているからです。地上という物質界には、肉体という物質界の条件に似合ったからだが用意されていることから推察(すいさつ)して、それぞれのエーテル体にも→
『母と子の心霊教室』→それにふさわしい世界があるはずだということになるわけです。日本ではふつうこれを幽界(ゆうかい)、霊界(れいかい)、神界(しんかい)と呼び、それぞれの世界で使用するからだを幽体(ゆうたい)、霊体(れいたい)、神体(しんたい)と呼んでいます。
『母と子の心霊教室』幽界(ゆうかい)というのは地上を去ったばかりで、まだ自分の置かれた新しい環境(かんきょう)に慣れきれず、地上にいたときと同じ考えや感情、欲望(よくぼう)などに支配されている世界です。
『母と子の心霊教室』そうしたいわば“地上のくせ”からぬけ出て新しい境遇(きょうぐう)に目覚(めざ)め、同時に、宇宙(うちゅう)生活の目的と意義とを自覚(じかく)して、はつらつとした生活を営(いとな)んでいる世界が霊界(れいかい)です。
『母と子の心霊教室』そして、さらに向上進化を重ねて、宇宙(うちゅう)のすべての真相に通じ、いわば、宇宙(うちゅう)の司法・行政ともいうべき仕事にたずさわる世界を神界といいます。第3章のおしまいのところでのべているのは、この神界のことです。
『母と子の心霊教室』ただし、前にも説明した通り、用語というのは使用する人により、また読む人によっても意味が異(こと)なるものですから、ここでも、幽(ゆう)とか霊(れい)とか神(しん)とかの用語にこだわることなく、→
『母と子の心霊教室』→死後の世界はだいたい右に説明したような発達段階をへながら向上進化していくところなのだ、といった程度に理解していただけばよいと思います。
母と子img10
-----

母と子書籍img
-----2章01
『母と子の心霊教室』【第2章 「エーテル界」とはどんなところだろう】第1章では人間がどのようにできあがっているかということ、それからもうひとつ、「死ぬ」ということはどのようなものか、ということを学びました。人間は肉体とエーテル体と精神の3つからできています。
『母と子の心霊教室』では肉体を捨(す)てた人々がいくエーテル界とはいったいどんな世界なのでしょうか。第2章ではそれを勉強することにしましょう。【1 目覚(めざ)め】みなさんもよく知っているとおり、人間はいろんな死に方をします。
『母と子の心霊教室』ある人はながいながい病気のすえ、苦しみながら息をひきとります。ちょっと考えると気の毒な気がしますね。でもよく考えてごらんなさい。病気をしていたのはエーテル体ではなくて肉体なのです。エーテル体はけっして病気をしません。けがもしません。
『母と子の心霊教室』病気をしたり足が不自由になったりするのは肉体だけです。その肉体を捨(す)ててしまうのですから、気の毒ではなく、ほんとうはしあわせなはずです。
『母と子の心霊教室』みなさんだって歯がズキズキ痛(いた)むようなときは、眠(ねむ)っているときがいちばんらくだと思うでしょう。それは、エーテル体と精神とが肉体から離(はな)れるからです。苦しみながら死んでいく人が必ずしも気の毒ではないことが、→
『母と子の心霊教室』→これでわかるでしょう。もうひとつの死に方は交通事故や戦争などでアッという間に死んでしまう場合です。こういう死に方を即死(そくし)といいますね。即死(そくし)した人は病気した人とちがって、はじめのうち自分が死んだことに気づかず、→
『母と子の心霊教室』→まだ地上にいるような気持ちで、あちらこちらをウロウロすることがあります。しかし病死した人も即死(そくし)した人も、はじめのうちはしばらくゆっくりと休んで、無理なことをしないように気をつけなければなりません。
『母と子の心霊教室』それはちょうど、病気が治ったばかりの人が無理なことをしてはならないのと同じことです。ですからエーテル界にはそういう人たちのために病院のような建物が設けられております。病院といっても地上の病院とはだいぶちがいます。
『母と子の心霊教室』お医者さんも看護婦(かんごふ)さんもいますが、けっして注射(ちゅうしゃ)をしたり薬を飲ませたりするのではなく、これからの生活に使うエーテル体と精神とをつよくがっちりとしてあげるのです。
-----
-----2章02
『母と子の心霊教室』【2 サマーランド(常夏(とこなつ)の国)】このような休憩(きゅうけい)と準備をする世界を、サマーランド“常夏(とこなつ)の国”と呼(よ)んでいます。みなさんの中で、夏がきらいだという人はいないでしょう。
『母と子の心霊教室』野山は青々と茂(しげ)り、空には入道雲(にゅうどうぐも)が出て、みんな海水浴に行ったり遠足をしたりして1日中遊びまわります。常夏(とこなつ)の国では1年中そのような季節がつづくのです。
『母と子の心霊教室』いえ、実際に常夏(とこなつ)の国へ行ってきた人の話では、地上の夏よりもっともっとすばらしいのだそうです。緑の野原、美しい森、さわやかなせせらぎ、青々とした湖。野山へ出ると、地上では見られないような美しい花が咲き乱(みだ)れております。
『母と子の心霊教室』もちろん、家もあれば庭もあり、高いビルもあります。図書館もあります。音楽会や絵の展覧会(てんらんかい)を開くための大きなホールもあります。その上、エーテル体はおなかがすいたり、寒くて冷えたりすることがありませんので、→
『母と子の心霊教室』→みんな元気いっぱい、仲良(なかよ)くしあわせに暮(く)らしております。
-----
-----2章03
『母と子の心霊教室』【3 エーテル界の学校】今から約100年ほど前に、アメリカのアンドリュー・ジャクソン・デービス(口絵写真)という人がエーテル界を見物して、そのようすをたくさんの書物に著(あらわ)しました。
母と子img03
『母と子の心霊教室』その中でデービス先生はエーテル界の学校のことを、だいたいつぎのように説明しております。エーテル界の学校は美しい庭園にかこまれていて、地上の学校と同じようにおおぜいの生徒がいくつかの組にわかれて勉強しています。
『母と子の心霊教室』みんな子どものときに地上を去った人ばかりです。もちろん各組には担任(たんにん)の先生がついておられます。また、それぞれの組にはその組を示す旗があり、生徒はみんな自分の組の目じるしになるバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』その旗の色とバッジを見れば、この人はどの組の生徒で、どんなことを学んでいる人だということがわかるようになっているのです。たとえば紫色の旗を立てた組があります。そして、生徒は“海”をあらわすバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』この組は神が人類の“父”であり、人間はみな兄弟であることを学んでいるのです。またある組は青色の旗を立て“灯台”をあらわしたバッジをつけております。この組では正しいことと悪いことの区別を学び、また神が自然の中でどのようにあらわれているかを→
『母と子の心霊教室』→勉強します。また音楽にあわせてダンスをしたり、遠くまでハイキングにいったり、あるいはゲーム遊びをしたり…。しかし、そうしているあいだにもいろんなことを勉強します。
『母と子の心霊教室』たとえば、ダンスをする時の一人ひとりの動き方は、1年中の星座(せいざ)の動き方にあわせたりして、ダンスを楽しみながら天体の動きを学ぶわけです。
『母と子の心霊教室』デービス先生はまた、ある学校の生徒がよその学校を訪問(ほうもん)するために、野を越(こ)え山を越(こ)えて、楽しそうに歌を歌いながら元気よく行進している光景も見たと書いておられます。楽しくなるではありませんか。
-----
-----2章04
『母と子の心霊教室』【4 デービス先生の心霊(しんれい)学園】エーテル界の学校のすばらしさに感心したデービス先生は、友だちをまじえて、ぜひ地上にも同じような学校を建てようと考えました。それにはつぎのような理由がありました。
『母と子の心霊教室』ひとつはキリスト教の日曜学校の子供たちが牧師さんの説くことを暗記するだけで、自分で考えることをしないこと。第2は、その牧師さんの説教の中には、心霊学(しんれいがく)からみてまちがっていることがたくさんあり、→
『母と子の心霊教室』→子どもたちがおとなになってから信仰心(しんこうしん)をなくしてしまう原因になっていること。そして第3番目には、真理を学んで心をつよく美しくするだけでなく、からだも丈夫(じょうぶ)にしなくてはならないこと。
『母と子の心霊教室』こうした考えは今のみなさんにはあたりまえのように思えるかもしれませんが、そのあたりまえのことが100年もまえにはとんでもないことのように思われたのです。当時は牧師さんの教えをよく守り、よく勉強することがいちばん立派(りっぱ)なことと→
『母と子の心霊教室』→されていたからです。しかし、デービス先生たちはこれを実行に移しました。そしてこれに「心霊(しんれい)学園」という名前をつけました。この「学園」という言葉はギリシャのアリストテレスという偉(えら)い哲学者(てつがくしゃ)が、→
『母と子の心霊教室』→アテネの町はずれの森の中に建てた学校につけたものです。心霊(しんれい)学園は日曜ごとに開かれ、先生も生徒もいっしょうけんめいでした。生徒たちは、おもに地上生活とエーテル界の生活についての真理を学び、→
『母と子の心霊教室』→また何ごとも自分自身で考え、人が言ったことや書物に書いてあることを、そのまま暗記するようなことは絶対にしませんでした。
『母と子の心霊教室』今ではアメリカやイギリスにはたくさんの心霊(しんれい)学園ができておりますが、どれもデービス先生の建てたものにならったものです。
-----
-----2章05
『母と子の心霊教室』【5 考えたことがそのまま実現する】ふたたびエーテル界の話にもどりましょう。地上では生きていくためにはお金がいりますね。お金を得るためにはいっしょうけんめいはたらかねばなりません、ところが、エーテル界ではその必要がまったくないのです。
『母と子の心霊教室』たとえば、画家が絵をえがく場面を想像してみてください。まず、これからえがこうとする絵を頭の中で想像するでしょう。想像したら、こんどはそれをえがくのに必要な絵具を用意するでしょう。それから何日も何ヶ月もかかって画用紙の上にかきあげていきます。
『母と子の心霊教室』そのあいだには絵具が足りなくなることもあるでしょう。気に入らなくて最初からかきなおすこともあるでしょう。ところがエーテル界では、頭にうかべたことがそのまま目の前に実現するのです。絵具を用意する必要もありませんし、時間をかける必要もありません。
『母と子の心霊教室』必要なのは、“実現させようとする意思”、それだけなのです。この意思さえあれば、どんなものでもこしらえることができるのです。そういうとみなさんは、ではアイスクリームもチョコレートも自分で作れるのかな、と考えることでしょう。作れますとも。
『母と子の心霊教室』お菓子(かし)だけでなく服でも靴(くつ)でも、すきなものがすぐに作れます。ですが、エーテル界には「必要なもの」と「必要でないもの」があるのです。そのわけはみなさんにもわかるでしょう。そうです。肉体の性質とエーテル体の性質がまったく異なっているからです。
『母と子の心霊教室』第1に、エーテル体はおなかがすくようなことがありませんから、どんなにおいしい料理をこしらえても、それを食べる必要がないのですからつまりません。それに、あまりおいしいものばかり見ていると、いつの間にか少しもほしいと思わなくなってくるのです。
『母と子の心霊教室』つぎに、エーテル体は寒さを感じませんから、きちんとした服装(ふくそう)をしていればよく、オーバーなどを作る必要はありません。ずっと前のことですが、私はチョコレート工場を見学したことがあります。そのときに聞いたことですが、そこの工員さんはほしいだけ、→
『母と子の心霊教室』→チョコレートを食べてよいことになっているのだそうです。「いいなあ」「うらやましいなあ」みなさんはきっとそう思うでしょう。ところがそこの工員さんたちは、チョコレートなんかひとかけらもほしくありません、といっておりました。毎日毎日見ているからです。
『母と子の心霊教室』私もみなさんに負けないくらいチョコレートがすきですが、3時間もかかって工場を見学しているうちに、少しもほしいと思わなくなってしまいました。常夏(とこなつ)の国でも同じなのです。
『母と子の心霊教室』すきなものがいくらでも作れるようになると、いつの間にかそれがほしくなくなってくるのです。すると別のものがほしくなります。こうして自分のすききらいがつぎつぎに変わっていき、あとでふり返ってみると、地上にいたときとはぜんぜんちがった人間になっているものです。
-----
-----2章06
『母と子の心霊教室』【6 エーテル界の仕事】みなさんは大きくなったら、なにになりたいですか。学校の先生?飛行機のパイロット?それとも病院の看護婦(かんごふ)さん?それぞれ「ああいう人になりたい」とか「こういう仕事がしたい」とか、いろいろ希望があることでしょう。
『母と子の心霊教室』ですが、みんながみんな自分の思った通りの仕事につけるとは限らないようです。画家になりたくても絵だけでは生活できないので、しかたなしに銀行につとめたり、音楽家になりたいと思っていた人が、家の都合(つごう)で洋服屋さんになったりすることもあります。
『母と子の心霊教室』こういうことは、地上のように、食べなくては生きていけない世界ではしかたのないことです。では、だれひとり仕事をしなくなってしまうのではないかしら、と考える人がいることでしょう。ところが実際はそうではないのです。
『母と子の心霊教室』エーテル界の人はみんな自分がいちばんすきだと思う仕事に、いっしょうけんめい熱中しております。絵のすきな人は絵を、音楽のすきな人は音楽を、いっしんに勉強しております。
『母と子の心霊教室』遊んでいる人などひとりもいません。どんなに忙(いそが)しくても、みんな自分のすきな仕事をしているのですから、少しもいやな顔をしません。みんなしあわせそうです。
-----
-----2章07
『母と子の心霊教室』【7 ポチもミケもいる】みなさんの中には動物を飼(か)っている人がおおぜいいることでしょう。そういう人たちはきっと「犬(いぬ)や猫(ねこ)はどうなるのかなあ」と心配しているにちがいありません。でも安心してください。
『母と子の心霊教室』常夏(とこなつ)の国に住んでいる人に聞いてみますと、犬(いぬ)や猫(ねこ)もちゃんと生き続けているということです。ですが、それは人間にかわいがられているものに限るのだそうです。
『母と子の心霊教室』ということは、みなさんがかわいがってやりさえすれば、いつまでもその動物といっしょに暮(く)らすことができるということなのです。うれしいことですね。
母と子img04
-----
-----2章08
『母と子の心霊教室』【8 悪い人もいる】ところで、みなさんの中には「悪い人たちはどうなるのだろう。悪いことをした人も今までのお話のように幸福な暮(く)らしがゆるされるのだろうか。もしそうだとしたら、それは不公平なことだ」と不服をいう人がいるかもしれません。
『母と子の心霊教室』おっしゃるとおりです。私が今まで述べたことは、地上で善い行いをした人たちのことばかりでした。では、地上で悪いことをした人は、死んでからどうなるかということをつぎにお話いたしましょう。
『母と子の心霊教室』じつは、エーテル界というのは、目に見えない死後の世界のことを、ひと口にそういっているだけで、ほんとうはエーテル界にもたくさんの世界があるのです。地上の学校にも幼稚園(ようちえん)から小学校、中学校、高等学校そして大学というふうに→
『母と子の心霊教室』→たくさんあるでしょう。それと同じことです。地上生活はその中の幼稚園(ようちえん)のようなものです。地上を去って最初にいく世界を「幽界(ゆうかい)」といいますが、ここはエーテル界の小学校のようなところです。
『母と子の心霊教室』さっき説明した常夏(とこなつ)の国というのは、その幽界(ゆうかい)のそのまた1部分のことなのです。さて、みなさんの中には、よく勉強する人と、なまけてばかりいる人とがいるでしょう。そして、小学校で熱心に勉強していた人は、中学校へ上がっても先生から教わることが→
『母と子の心霊教室』→スラスラとよくわかりますが、なまけてばかりいた人はとても困(こま)ります。よくわからないのでますます勉強がいやになり、楽しいはずの学校が少しも楽しいところではなくなってしまいます。これと同じように、地上で悪いことばかりしていた人は幽界(ゆうかい)へ行った→
『母と子の心霊教室』→時にひじょうに困(こま)ります。地上でお友だちだった人からものけ者にされるし、新しいお友だちもできません。そのうちひとりぼっちで暗いところで暮(く)らすようになっていくのです。
母と子img05
-----
-----2章09
『母と子の心霊教室』【9 自分がまいた種は自分が刈(か)りとる】では、悪いことをした人は、いつまでも暗いところで暮(く)らさねばならないのかというと、けっしてそうではありません。みなさんだっていまの成績が悪くても、これから熱心に勉強すれば、→
『母と子の心霊教室』→高等学校にだって大学にだって行けるはずです。それと同じように自分の行いや心がけを反省して、これからは正しい人間になろうと一心に努力すれば、神様はいつでも救いの手を差しのべてくださり、明るく美しい世界へつれて行ってくださるのです。
『母と子の心霊教室』「だったら、悪いことをしても神様にお願いして、上の世界へつれていっていただけばいい」と考える人がいるかもしれません。しかし、それは絶対に許されないことなのです。そのわけをつぎに説明しましょう。
『母と子の心霊教室』たとえば、いま私がチョコレートを口の中に入れたとしましょう。チョコレートはすぐにとろけて、あの甘(あま)いおいしい味がします。が、それは私の舌に「甘(あま)いなあ」「おいしいなあ」と感じるはたらきがそなわっているからであって、→
『母と子の心霊教室』→けっして私が善いことをしたごほうびではありません。また熱いストーブに手を触(ふ)れたらやけどをするにきまっていますが、これは私がなにか悪いことをした罰(ばつ)ではないでしょう。さわってはいけないものにさわった、そのまちがった行いによる→
『母と子の心霊教室』→結果がそうなったにすぎません。心がけの悪い人が暗いところへいって、ひとりでさびしく暮(く)らすのも同じことです。人間にはしてよいことと、してはいけないことがあって、いけないことをすると自然に苦しい状態になるのです。
『母と子の心霊教室』けっして神様が怒(おこ)って罰(ばつ)をあたえているのではありません。反対に、いつも善い行いをしておれば、心がますます美しく清くなって、いっそう幸福な境遇(きょうぐう)になります。
『母と子の心霊教室』むかしのことわざに「自分のまいた種は自分で狩(か)りとらねばならない」というのがありますが、これは真理であるだけでなく、とても大切なことを教えております。
-----
-----2章10
『母と子の心霊教室』【10 エーテル界はすぐそばにある】ところで、エーテル界といっている死後の世界は、いったいどこにあるのでしょうか。昔の人は、死んだ人は遠い西の果てにいくと考えたものですが、心霊学(しんれいがく)によって、→
『母と子の心霊教室』→それがまちがいであることがわかりました。であは、どこにあるのでしょう?驚(おどろ)いてはいけません。じつはエーテル界は私たちのすぐ身のまわりにあるのです。そうです。私たちの地球と同じ場所にあるのです。
母と子img06
『母と子の心霊教室』むろん死後の世界の方が、地球よりずっと広くて大きいのですから、正確にいえば、エーテル界の中に地球が包まれているといった方がよいでしょう。これだけ説明すれば、死ぬということがただ肉体を捨(す)てるだけのことであることがよくわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』ちょうど潜水夫(せんすいふ)があの重い潜水服(せんすいふく)を脱(ぬ)ぐのと同じだと思えばよろしい。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。そうすると、死んだおじいさんやおばあさん、お父さんやお母さん、それから兄弟やお友だちなどは、→
『母と子の心霊教室』→いまもみなさんのすぐ身のまわりにいて元気に生活していることになるわけです。このことがまだよくわからない人がいるかもしれませんので、これをもっと別の方法で説明してみましょう。
-----
-----2章11
『母と子の心霊教室』【11 物体にはすきまがいっぱいある】私がいまこの本を書くために使っている机はカシの木でできております。持ち上げようとするとたいへん重いですし、たたいてみるととても固くて手が痛(いた)いほどです。
『母と子の心霊教室』ところが、物質のことを専門(せんもん)に研究している物理学者の話によりますと、物体は分子(ぶんし)という非常に小さな粒子(りゅうし)でできており、その分子(ぶんし)は原子(げんし)というさらに小さな粒子(りゅうし)からできているのだそうです(図を見て下さい)。
『母と子の心霊教室』両方とも、どんなに性能のよい顕微鏡(けんびきょう)によっても見ることができないほど小さなもので、このほんのページだけでも、何百万個という分子(ぶんし)と原子(げんし)とでできているということです。
母と子img07
『母と子の心霊教室』では、みなさんはその原子(げんし)はいったい何からできていると思いますか。私も知って驚(おどろ)いたのですが、原子(げんし)は、電子(でんし)というさらにさらに小さな粒子(りゅうし)と原子核(げんしかく)とによってできていて、→
『母と子の心霊教室』→しかも、その電子は原子核(げんしかく)のまわりを休みなく回っているのです。さて、図を見てください。電子(でんし)と電子(でんし)とのあいだにはなにもありませんね。じつはそこがたいせつなところなのです。
『母と子の心霊教室』どのようにたいせつなのか、それを知っていただくためにつぎのような実験をしてみてください。みなさんは紅茶(こうちゃ)はすきですか。コーヒーの方がすきですか。いや、それはどちらでもよろしい。→
『母と子の心霊教室』→どちらにしてもみなさんは砂糖(さとう)を入れて飲みますね。よろしい、では、コーヒーでも紅茶(こうちゃ)でもいいですから、今日はとくに正確に分量をはかってカップに入れてください。つぎに、いつものように砂糖(さとう)を入れます。
『母と子の心霊教室』そして、その砂糖(さとう)が完全に溶(と)けてなくなるまでスプーンでよく混ぜてください。さて、舌の先でちょっとなめてみてください。甘(あま)いでしょう。そのはずです。砂糖(さとう)が入っているのですから。
『母と子の心霊教室』ではつぎにもう1度カップの分量をはかってみてください。どうです。増えていますか、それとも減っていますか。おそらく増えても減ってもいないはずです。ではいったい、砂糖(さとう)はどこへ行ってしまったのでしょう。
『母と子の心霊教室』たしかにカップの中に入れたのですから、カップの中のどこかにあるはずです。どこでしょう?そうなのです。いま説明したように、物体にはすきまがいっぱいあります。水も物体ですから、ちょっと見るとすきまはなさそうでも、実際にはすきまだらけで、→
『母と子の心霊教室』→むしろすきまの方が多いくらいなのです。そこで砂糖(さとう)は、そのすきまの中に入ってしまったのだということになります。けっして手品のように消えてなくなったのではありません。
『母と子の心霊教室』これでエーテル界が地球と同じ場所に存在(そんざい)できるわけがよくわかったでしょう。
-----
-----2章12
『母と子の心霊教室』【12 バイブレーションの話】みなさんはなにによって物を見ますか?「目です」―きっとそう答えるでしょう。なるほど目がなくてはなにも見ることができませんね。では、目があればかならず物が見えるのでしょうか。そうはいいきれませんね。
『母と子の心霊教室』だって、まっ暗いところではなにも見えないではありませんか。すると物が見えるためにはなにか別のものが必要であることになりますが、それは、いったいなんでしょうか。それは“光”です。光がなかったら、どんなに視力のいい目をしていてもなにも見えません。
『母と子の心霊教室』では、光とはいったいどんなものなのでしょう?みなさんの家には振(ふ)り子(こ)のついた時計がありませんか。あったら振り子の動くようすをよく観察してごらんなさい。右と左にいったりきたりして、休みなく動いていますね。
『母と子の心霊教室』また、もしピアノがあれば、あの大きなふたを開けて、キー(鍵盤(けんばん))をたたくと弦(げん)がどのように動くかを調べてごらんなさい。上下にはげしく動いているのがわかるでしょう。
『母と子の心霊教室』もっと気をつけてみると、高い音ほどはげしく振動(しんどう)していることにも気づくことでしょう。このような振動(しんどう)をバイブレーションといいます。つまり、ピアノの音はバイブレーションによって生じているのです。
『母と子の心霊教室』それと同じで、光もバイブレーションから生じているのです。つまり光も振動(しんどう)しているのです。ではつぎに、音はどのようにして聞こえるのでしょうか。それは、私たちの耳に音のバイブレーションを感じとる器官がそなわっているからです。
『母と子の心霊教室』そして音のバイブレーションには、はげしいものからゆるやかなものまでいく種類もあるのですが、私たちの耳はその1部分しか感じとることができません。
母と子img08
『母と子の心霊教室』あまりはげしく振動(しんどう)する高い音や、反対にあまりゆるやかすぎる低い音は聞こえないようになっているのです。これと同じことが光にもいえます。すなわち、光にも細かく振動(しんどう)するものから大きく振動(しんどう)するものまで→
『母と子の心霊教室』→いくとおりもあって私たちの目に映(うつ)るのはそのごく1部だけなのです(図を見てください)。振動(しんどう)の波の大きすぎる光の中には、人間の目には映(うつ)らずに、皮膚(ひふ)にぬくみを感じさせるものもあります。
『母と子の心霊教室』これは光線といわずに熱線といいます。そのほかレントゲン写真に使うX線(エックスせん)とか、ラジオや電話、あるいは電報などに使われる無線(電磁波(でんじは))というのもあります。さて、ここでラジオのことを考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』みなさんがダイヤルをまわすと、いろんな放送局の放送が入ってきますが、スイッチを切ると、それきりなにも聞こえなくなります。では、聞こえないときは放送局が放送をやめているのでしょうか。そうではありませんね。
『母と子の心霊教室』放送局は放送を続けているのですが、みなさんのラジオがそれを受信するのを中止しているにすぎません。その証拠(しょうこ)に、もう一度スイッチを入れると、また放送が聞こえてきます。人間はちょうどこのラジオのようなものです。
『母と子の心霊教室』この地球上で生活している間は目・耳・鼻・皮膚(ひふ)・舌の5つの器官に感じられるものばかりを受信していますが、肉体を捨(す)ててエーテル界へ行くと、こんどはエーテル体に感じられるものばかりを受信するようになります。
『母と子の心霊教室』ですから、エーテル界にいる霊(れい)の姿(すがた)を見ようと思えば、肉体から出てエーテル界まで行かなければならないわけです。これで、ふだん私たちの目に死んだ人の姿(すがた)が見えないわけがわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』また、目に見えないからそんなものは存在しない、と考えるのはまちがいであることもわかったでしょう。しかし、中には肉体をもっていながら、エーテル体をはたらかせてエーテル界を見物したり、その世界の人たちと話をしたりすることができる人がいます。
『母と子の心霊教室』はじめに紹介(しょうかい)したデービス先生もそのひとりですが、そのような人を“霊能者(れいのうしゃ)”とか、“霊媒(れいばい)”と呼(よ)んでいます。第3章では、そういった人たちについてくわしく説明することにしましょう。
-----
-----2章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 心霊(しんれい)用語について―訳者(やくしゃ)】心霊学(しんれいがく)というのは、いまからおよそ140年前に、米国で発生した心霊(しんれい)現象がきっかけとなって発達してきたものです。
『母と子の心霊教室』そして現在までのところその用語は、古い神話や伝説の中で使われていたものに、新しい意味を加えて使用しているのです。そのために、古い用語についての先入観念(せんにゅうかんねん)が、正しい理解を邪魔(じゃま)することがあり、→
『母と子の心霊教室』→そのいちばんよい例が“霊(スピリット)”という言葉です。心霊学(しんれいがく)で霊(れい)といったときは、個性をそなえた実際の存在(そんざい)を意味しますが、一般の人は影(かげ)も形もないものとして受けとめる傾向があります。
『母と子の心霊教室』先祖の○○霊(れい)の供養(くよう)を欠かさない人が、心霊学(しんれいがく)でいう霊(れい)については、そんなものは存在(そんざい)しないといったりする、奇妙(きみょう)なことが生じるわけです。
『母と子の心霊教室』本書ではそうした点を考慮(こうりょ)して、死後の世界のことを「エーテル界」と呼(よ)び、そこで使用するからだのことを「エーテル体」と呼(よ)びました。英米でもそのように配慮(はいりょ)している人がいます。
『母と子の心霊教室』エーテルというのはetherealといい、“霊妙(れいみょう)な”とか、“天上的な”といった意味があります。じつをいうと、エーテル界には段階的に下から上へといくつもあり、それに応じてエーテル体にもいく種類かがあるわけです。
『母と子の心霊教室』そしてそれぞれに個別の呼(よ)び方をしているのですが、いまのべたとおり、その用語にはとかく先入観念(せんにゅうかんねん)がつきまといがちですし、本書は文字どおりの入門書である点を考えて、→
『母と子の心霊教室』→とくにやむを得ない場合をのぞいて、なるべく「エーテル界」「エーテル体」を使用しています。
-----

母と子書籍img
-----1章01
『母と子の心霊教室』第1章「人間」とはなんだろう【1 真理を学ぼう】みなさんの住んでいる地球上には、よくわからないことがたくさんあります。その証拠に、みなさんはよく「あれは何?どうしてそうなるの?」という質問をしてお父さんやお母さんを困らせることがあるでしょう。
『母と子の心霊教室』あまりつぎつぎとむずかしい質問をすると「これこれ、いい加減にしないか。お父さんは今いそがしいんだよ」といって逃げていく、ずるいお父さんもいることでしょう。ですが、ほんとうはそのお父さんやお母さんも、子どものころはみなさんと同じようにたくさんの質問をして→
『母と子の心霊教室』→おじいさんやおばあさんを困らせたことがあるのです。では、そのように物を知りたがるのは、みなさんたち少年少女だけでしょうか。けっしてそうではありません。おとなも子どもも、男も女もみんな、わからないことを聞いたり研究したりすることがだいすきです。
『母と子の心霊教室』そして、毎日わからないことをいっしんに研究している人を「科学者」といいます。科学者にもいろいろあります。空の星のことを研究している人、植物のことを研究している人、人間のからだの構造を調べている人、ほかにもまだまだたくさんいます。
『母と子の心霊教室』こういう人たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)や顕微鏡(けんびきょう)を使って、星や植物やからだについての正しい知識、つまり真理を学ぼうとしているのです。なぜ真理を学ぶのでしょう。
『母と子の心霊教室』それは、真理を知れば知るほど生活がゆたかになり、人間がしあわせになるからです。では真理を研究しているのは科学者だけでしょうか。けっしてそうではありません。美しい絵や楽しい音楽をつくっている人たち、この人たちもやはり絵や音楽についての真理を勉強しているのです。
『母と子の心霊教室』けっきょくみなさんのまわりにあるもの全部―机の上の本やえんぴつ、みなさんが着ている衣服、台所にあるガスやマッチ、壁にかかっている絵、これらはみな、真理を研究した人びとのおかげなのです。
-----
-----1章02
『母と子の心霊教室』【2 いちばんむずかしい問題】むかし、ある有名な詩人が「人間がまっ先に研究しなければならないものは“人間”である」といいました。少し変に思われますが、よく考えてみると、なるほどそうだと思います。
『母と子の心霊教室』人間については、昔から多くの偉(えら)い人たちがいろいろと研究してきましたが、これほどおもしろくて、これほどむずかし問題はありません。みなさんも人間について考えてみたことがあるでしょう。ない?そんなはずはありません。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、みなさんはこんな疑問(ぎもん)をもったことはありませんか。「いったい、自分はどこから来たのだろう?」「ぼくのからだが、知らないうちにだんだん大きくなっていくのはなぜだろう?」
『母と子の心霊教室』「わたしとポチやミケとは、どんなところがちがっているのかしら?」「ポチやミケは、なぜ言葉が話せないのだろう?」「死んだらぼくたちはどうなるのだろう?」こういう問題は花や魚の研究よりずっとおもしろそうですね。
『母と子の心霊教室』ですがまた、ずっとむずかしそうでもあります。では、これからみなさんといっしょに、人間について少しずつ勉強していきましょう。
-----
-----1章03
『母と子の心霊教室』【3 生きているものは変化する】みなさんはすでに学校で、私たち人間のからだの成長のしかたや、血液・胃・筋肉などのはたらきについていろいろと教わっているはずです。
『母と子の心霊教室』ところが不思議なことに、人間のからだは1日ごとに、いえ1秒ごとにすりへり、すりへると思うと、すぐそのあとから新しいものができているのです。皮膚(ひふ)や頭の毛などは、ほとんど休みなしに死んだり生まれかわったりしております。
『母と子の心霊教室』しかし、いちばんながい部分になると、すっかり新しくなるまでに7年もかかります。そうすると私たちのからだは7年ごとに、まったく新しいからだに生まれかわっていることになります。
『母と子の心霊教室』このようにつぎからつぎへと変化していくことは、それが生きていることの証拠(しょうこ)なのです。死んだものは変化しません。たとえば、カシの木を植えると、しだいに背が高くなり、枝(えだ)もぐんぐん太くなっていき、毎年春になれば新しい葉をつけます。
『母と子の心霊教室』ところが、ためしにその枝(えだ)を切りとって、それでおもちゃのポストでもこしらえてごらんなさい。いつまでたってもポストの大きさは変わりません。それはポストに、カシの木を“生きさせて”いた生命(いのち)というものがないからです。
『母と子の心霊教室』生きているものはつねに変化します。植物・魚・虫・小鳥、どれをみても必ず変化しています。では植物を例にとって、それがどのように変化していくかをいっしょに見てみましょう。
『母と子の心霊教室』まず私たちがタネをまくと、そのタネから芽が出て、明るい方に向かってぐんぐんのびながら枝(えだ)をだし葉をつけます。やがて花が咲(さ)き、実(み)をつけます。
『母と子の心霊教室』その実(み)の中には前と同じタネが入っていて、それをまくと、ふたたび同じように芽をだし、同じように生長して、またおなじ実をつけます。植物は昔からこういう生活を数え切れないほどくり返しているのです。
『母と子の心霊教室』こんどは蝶(ちょう)の生活を見てみましょう。図を見て下さい。蝶(ちょう)の生活は卵からはじまります。その卵は植物の葉について、やがて幼虫(ようちゅう)がかえります。これをみなさんは“毛虫”と呼(よ)んでおります。
母と子img01
『母と子の心霊教室』しばらくすると、その幼虫(ようちゅう)は、自分の身体に糸のようなものをグルグルと巻(ま)きつけて、図3に見るような、まるい袋(ふくろ)をこしらえます。これをマユといい、毛虫の寝床(ねどこ)のようなものです。
-----
『母と子の心霊教室』その寝床(ねどこ)の中から、いよいよあの美しい蝶(ちょう)が出てきて、花から花へと飛びまわり、そのうち、どこかの植物の葉に卵を生みつけます。するとその卵からふたたび幼虫(ようちゅう)が生まれて、同じような順序をたどりながら最後にまた蝶(ちょう)になります。
『母と子の心霊教室』これが蝶(ちょう)の生活です。おもしろいことに、よく研究してみると人間にも蝶(ちょう)と同じような変化があるのです。私たち人間はお母さんのからだから生まれます。そのときは話すことも歩くこともできません。
『母と子の心霊教室』それが少しずつ歩けるようになり言葉も話せるようになって、ついには、地球上でいちばんすぐれた動物となります。もちろん大きくなっていくうちには、さっき説明したように、私たちのからだはつぎからつぎへと変化しています。しかし、その変化はいつまでも続くのではありません。
『母と子の心霊教室』いつかは、もうこれ以上新しくなれないという時期がやってきます。ところがありがたいことには、私たち人間は肉体だけでできているのではないのです。ためしにお母さんにたのんで、お母さんがまだみなさんぐらいの少女だったころの写真を見せていただきなさい。
『母と子の心霊教室』それをひと目みたみなさんはきっと「へー、これがお母さん?」といって、そのちがいに驚(おどろ)くことでしょう。顔・手・足、なにもかも今のお母さんとはずいぶんちがっております。
『母と子の心霊教室』なのに、お母さんはやっぱりお母さんであり、からだはすっかり変わっていても、どこかに少女のころと少しも変わっていないところがあることに気がつくでしょう。
『母と子の心霊教室』そうすると私たちは目に見える肉体のほかに、いつまでも変化しない“別のもの”があるにちがいないということになります。それはいったいどんなものでしょうか。
-----
-----1章04
『母と子の心霊教室』【4 人間は3つの要素からできている】じつは、心霊学(しんれいがく)が教えるところによると、人間には肉体のほかに「エーテル体」と「精神」のふたつの要素があるのです。肉体については学校で教わっているはずですから、→
『母と子の心霊教室』→ここではエーテル体と精神のふたつについて説明しましょう。まずエーテル体はふつうの眼(め)では見ることができませんが、肉体とそっくりの形をしていて、いつも肉体といっしょに動きます。
『母と子の心霊教室』生まれたときも肉体とおなじ大きさで、肉体が成長するにつれてエーテル体もいっしょに大きくなります。ただエーテル体には肉体にまねのできないふたつの大きな特徴(とくちょう)があります。第1は、けっして年をとらないことです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体は年をとるとしだいに元気がなくなってきますが、エーテル体はいったん形ができあがるとけっして年をとらず、いつまでも若々しく元気にあふれています。第2の特徴(とくちょう)は、いつも完全であることです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体はけがをすると傷(きず)あとができたり、事故のために足を折るとそのまま一生涯(いっしょうがい)不自由になってしまいますが、エーテル体はけっしてそういうことがないのです。さてこのふたつの特徴(とくちょう)をよく考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』エーテル体はけっして年をとらない。いつまでも元気である。けがもしない。片足がなくなってもエーテル体の足はちゃんと残っている。そうすると人間は、たとえ肉体がほろびて地上からいなくなっても、今度はそのエーテル体を使って→
『母と子の心霊教室』→どこかで生活しているはずだ、ということにならないでしょうか。事実そうなのです。肉体はなくなってもエーテル体はけっしてほろびません。ですから地上でからだに障害(しょうがい)のあった人も、死んでつぎの世界へいくと完全なからだに→
『母と子の心霊教室』→もどることができますし、生まれつき目が不自由だった人も、立派(りっぱ)に物が見えるようになります。ほろびた肉体はそのまま土にもどってしまい、やがては植物の栄養分となって、ふたたび生きもののからだになっていきます。
『母と子の心霊教室』さっき私は、お母さんの子どものころの写真を見ると、顔やからだはすっかり変わっているのにどこかに少しも変わっていないものがあるといいましたが、ではその変わっていないものというのは、いったいなんでしょうか。
『母と子の心霊教室』それがじつは「精神」なのです。精神のはたらきにはいろいろあります。物事を考えたり、覚えたり、真理を研究したり、知恵(ちえ)をしぼったりすることは、みな精神のはたらきです。精神がなかったら手足を動かすこともできません。
『母と子の心霊教室』「生きているものは変化する」といいましたが、つぎつぎと新しくなっていくのも精神のはたらきがあるからなのです。そうすると精神は非常にたいせつなものだということになりますね。そうです。人間がもっているものの中で精神がいちばんたいせつなのです。
『母と子の心霊教室』その精神は私たちが地上にいるあいだ、つまり肉体を使って生きているあいだは脳(のう)と神経によって肉体を動かし、いろんな生活をします。
『母と子の心霊教室』しかし、さっきもいったとおり、肉体はいつか使えなくなるときがきます。そうすると精神は肉体を捨(す)てて、こんどはエーテル体を使って生活するようになるのです。
-----
-----1章05
『母と子の心霊教室』【5 「死」とはなんだろう】それでは地上にいるあいだはずっと肉体の中にいるのかというと、そうではありません。私たちがこころよい眠(ねむ)りにつくとエーテル体は肉体から離(はな)れます。
『母と子の心霊教室』その離(はな)れる距離(きょり)は近いときもあれば遠いときもありますが、どんなに遠く離(はな)れても、かならず銀色をした「生命の糸」によってつながれております。
『母と子の心霊教室』そのふたつのからだ、すなわち肉体とエーテル体とが一体となったときに目が覚めるのです。肉体から離(はな)れているあいだ、エーテル体は地上の遠いところへ見物に出かけたり、エーテル界(エーテル体で生活するつぎの世界)を訪(おとず)れたりしますが→
『母と子の心霊教室』→そのときのことを目が覚めてからはっきり思い出すことはめったにありません。しかし、ある人はいつでも自分のすきなときに肉体からぬけ出て、自分の思う場所へ旅行し、しかもそのときのことをあとで肉体にもどったときにはっきりと思い出すことができます。
『母と子の心霊教室』こういう人を「霊能者(れいのうしゃ)」といい、そういう現象を「幽体離脱現象(ゆうたいりだつげんしょう)」といいますが、これについてはあとでくわしく説明しましょう。では、もしその生命の糸が切れてしまったらどうなるでしょう。
『母と子の心霊教室』もちろん2度と肉体にもどれなくなってしまいます。「死んでしまった」というのは、生命の糸が切れてしまったことなのです。ですから「死」とはエーテル体が肉体を捨(す)てて、そのままつぎの世界で新しい生活をはじめる、→
『母と子の心霊教室』→その出発点ということができるのです。ここでもういちど、蝶(ちょう)の生活を思い出してください。毛虫はいよいよ蝶(ちょう)になる前は小さなマユの中にいますね。その毛虫をみなさんはまさか、かわいそうだとは思わないでしょう。
『母と子の心霊教室』なぜなら、なるほどマユの中はきゅうくつですが、もうすぐあの美しい蝶(ちょう)になって、広々とした花畑を飛びまわることができるのですから…。
母と子img02
『母と子の心霊教室』人間が死ぬということは、ちょうどこの蝶(ちょう)のように肉体というきゅうくつなマユからぬけ出るのと同じことなのです。別のたとえでいえば、夜に寝(ね)て翌朝(よくあさ)別の世界に目を覚ますのと同じようなものだと思えばよいでしょう。
『母と子の心霊教室』すると死ぬのが恐(おそ)ろしいという人は寝(ね)るのがこわい人ということになってしまいませんか。おかしいですね。そうです。死とはけっして恐(おそ)ろしいものでも悲しいものでもないのです。
『母と子の心霊教室』その反対にとてもしあわせな、すばらしいものなのです。なぜなら、こんどは地上よりはるかに自由で美しい世界で生活するのですから…。ところで、死んだらすぐに地獄(じごく)か極楽(ごくらく)へいくと説く人がいますが、これはまちがっています。
『母と子の心霊教室』私たちはただ肉体のかわりにエーテル体を使って新しい生活をはじめるだけです。その世界は地上よりずっと明るくて、気持ちのよい世界です。が、けっして遊んでばかりいる世界でもありません。さらに新しい真理を学びながら、いちだんと心の清らかな人間になるように努力するのです。
『母と子の心霊教室』かりにお友だちが亡(な)くなったとしましょう。きっと、みなさんは悲しくてならないでしょう。残念でならないでしょう。ですがけっしてそのお友だちのことを“かわいそう”だと思ってはいけません。
『母と子の心霊教室』なぜならば、お友だちはこの宇宙(うちゅう)から消えてしまったのではなく、今いったように、地上よりいちだん高い世界で、新しい生活を始めながら、いつかはみなさんも同じ世界に来ることを楽しみに待っているのですから…。これは非常にたいせつなことなのです。
-----
-----1章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈―この世でうけた生命(いのち)はたいせつに―訳者(やくしゃ)】“浜までは海女(あま)も蓑(みの)きるしぐれかな”という俳句(はいく)があります。海女(あま)というのは海にもぐって魚貝や海草などをとる女の人のことですが、→
『母と子の心霊教室』→その海女さんの1人がこれから海へ向かって出かけようとしたら雨が降(ふ)りはじめました。すると、どうせ海にもぐってぬれてしまうのに、浜まではきちんと蓑(みの)を着ていった、というのです。これはなんでもないことのようで、とてもたいせつな事を教えております。
『母と子の心霊教室』この本を読んで、死後の世界のすばらしさを知ったみなさんの中にもし“だったら地上で苦しい思いをしないで、さっさと死んだほうがいいのではなかろうか”と考える人がいたら、それはたいへんなまちがいです。
『母と子の心霊教室』この本の付録で紹介(しょうかい)するシルバーバーチという3千年も前にこの世を去った霊(れい)が、そのながい霊界(れいかい)生活で知ったいちばんたいせつなことは、地上生活には地上でしか学べないたいせつなことがあり、それをきちんと身につけないで死ぬと、→
『母と子の心霊教室』→その足らないところを埋めあわせるために、霊界(れいかい)でいろいろとやっかいなことが起き、人によってはもう1度地上へ生まれてこなければならないこともあると述べております。
『母と子の心霊教室』仏教のお経(きょう)の中にも「人間としてこの世に生まれてくるのはとてもむずかしいことなのに、自分たちはいまこうして生まれてきているではないか。また、正しい真理を知ることもなかなかむずかしいことなのに、今こうして学んでいるではないか。」
『母と子の心霊教室』「もしもこの世でしっかりと身につけなかったら、いったいいつ身につけるのだ。いまのうちにしっかりと修養(しゅうよう)しようではないか」と説いているところがあります。みなさんもぜひ、そういう心がまえでたくましく生きていただきたいと思います。
-----

母と子書籍img
-----訳者まえがき
『母と子の心霊教室』訳者(やくしゃ)まえがき 今から25年も前のことですが、私は英国から送られてきたこの本の原書を手にして、これはぜひとも翻訳(ほんやく)して、日本の少年少女のみなさんに読んでいただきたいと思いました。訳(やく)はその年のうちにできていたのですが、→
『母と子の心霊教室』→それがこのたびようやく単行本として出版していただけることになり、私は今うれしい気持ちでいっぱいです。出版までに、なぜそんなにながくかかったかといいますと、当時はまだ心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)していなくて、→
『母と子の心霊教室』→少年少女向けの心霊書(しんれいしょ)をだすには早すぎたということです。それでその年はガリ版ずりにして、スピリチュアリスト(心霊仲間(しんれいなかま))のあいだだけで読んでもらい、それから数年後に、日本心霊(しんれい)科学協会の月刊誌(げっかんし)→
『母と子の心霊教室』→「心霊(しんれい)研究」に10回にわたって連載(れんさい)していただき、そして今回、それに全面的に改訳(かいやく)をほどこしたものを出版していただくことになったわけです。
『母と子の心霊教室』では、この本の出版をお願いすることになったのは、もうすでに正しい心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)してきたからかというと、残念ながらそうではないのです。
『母と子の心霊教室』最近たしかに心霊的(しんれいてき)なことが、テレビや雑誌(ざっし)などでさかんに報じられるようになりましたが、困ったことに、正しい心霊(しんれい)知識よりも間違った心霊知識、あるいは危険(きけん)な心霊知識の方が多いように思えるのです。
『母と子の心霊教室』しかも、意外に多くの青少年が心霊的(しんれいてき)なものに関心があることもわかってきて、このままでは、日本の青少年がまちがった先入観(せんにゅうかん)を植え付けられてしまうのではないかと→
『母と子の心霊教室』→心配し、その正しい基礎(きそ)知識を教えてくれるものとして、この本を出版する必要性を痛感(つうかん)したのです。何ごとも基本が大事です。心霊的(しんれいてき)な基礎(きそ)知識を学ぶ本として、このパーマー先生の本は最高だと信じます。
-----
『母と子の心霊教室』先生は英国のパブリックスクールでながいあいだ教えられ、最後は校長先生までなさった方です。私はこの本を手に入れてから、翻訳(ほんやく)の許可(きょか)をいただくための手紙を書いたのがきっかけとなって、その後パーマー先生と数え切れないほど文通を交わしました。
『母と子の心霊教室』「日本語版に寄せて」を書いてくださったのもそのころのことでした。「日本は自然の美しい国だと知人から聞いて、私もぜひいちどこの世に生きているうちに行ってみたいと思っているのですが、ずいぶんお金もかかりそうですし、それに私もだいぶ年なので…」
『母と子の心霊教室』と、いかにも質素を第一とした、スピリチュアリストらしい手紙をいただいたこともありましたが、それから間もなく、今から10数年前に亡くなられました。しかし、先生の青少年への希望は、この本の中に、立派に生き続けていると思います。
『母と子の心霊教室』私は翻訳(ほんやく)にあたって、その中に書かれている心霊(しんれい)知識といっしょに、先生の青少年への温かい愛情を伝えたいと思って、訳(やく)し方にいろいろと工夫をこらしました。
『母と子の心霊教室』ところで、心霊学(しんれいがく)のことはこれがはじめてという方にとっては、信じられないことや理解できないことが多いことと思います。そこで理解のむずかしそうなところは、私が“注釈(ちゅうしゃく)”という形で初心者向けに解説をほどこしておきました。
『母と子の心霊教室』それから、こうしたことが信じられないという方には、私からつぎのことを申しあげたいと思います。人類はこれまでさまざまな“信じられないこと”を発見してきました。地動説(ちどうせつ)がそうですし、原子(げんし)エネルギーがそうですし、→
『母と子の心霊教室』→宇宙(うちゅう)ロケットがそうですし、電子工学(でんしこうがく)の分野にいたっては日進月歩(にっしんげっぽ)の勢いで発明・発見がなされております。みなさんは別に驚きは感じないかもしれませんが、それはそうしたことが常識となった生活環境の中にいるからです。
『母と子の心霊教室』しかし私たちの生活環境(せいかつかんきょう)は、よく考えてみると、大宇宙(だいうちゅう)から微生物(びせいぶつ)にいたるまで不思議なことだらけなのです。その中でもいちばんの謎(なぞ)はじつは“人間そのもの”なのです。
-----
『母と子の心霊教室』人間については、はっきりとわかったことはなにひとつないといってもいいのです。たとえば、なぜ人間は物ごとを“考える”のか。なぜ“よろこび”、なぜ“悲しむ”のか。夜“寝て”朝なぜひとりでに“目が覚める”のか。
『母と子の心霊教室』その人体ができあがるいちばん最初は、目に見えないほど小さな細胞(さいぼう)でした。それが大きくなって科学を研究し、芸術を鑑賞(かんしょう)し、文学を語りスポーツを楽しむという、じつにさまざまな活動をするようになる、→
『母と子の心霊教室』→その知性と才能とエネルギーはいったいどこから生まれてくるのか、みな謎(なぞ)ばかりなのです。そうした謎(なぞ)について、ああでもない、こうでもないと思いあぐねていたときに、それを見事に説き明かしてくれる新しい思想が生まれました。スピリチュアリズムがそれです。
『母と子の心霊教室』そのくわしい内容は、これからパーマーさんが説明してくださいますが、それを読むにあたってのたいせつな心構えについてひとこと述べておきます。
『母と子の心霊教室』地動説(ちどうせつ)を最初にとなえたコペルニクスは、それまでの天文学者がみな地球を中心に考えていたのを、心の中で自分を太陽へと運んでいき、太陽に立って各天体の動きを観察したら、すべてがあっさりと解決したといいます。
『母と子の心霊教室』そこから地動説(ちどうせつ)が生まれたのです。つまり太陽が地球のまわりを回っているのではなくて、地球が太陽のまわりを回っていることがわかったのです。これは、当時の人にはとても理解がむずかしかったはずです。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、その地動説を支持したガリレイが宗教裁判(しゅうきょうさいばん)にかけられ、その説を改めるように強迫(きょうはく)された話は、みなさんもよくごぞんじでしょう。さて、これまでの人間の科学は、物質科学の1分野として扱われてきました。
『母と子の心霊教室』つまり人間は物質であって、それから精神が生まれるのだと考えてきました。が、スピリチュアリズムによってそれはまちがいであり、人間はもともと“霊(れい)”であって、その霊(れい)が肉体を道具として地上生活を送っているのだと考えるようになりました。
『母と子の心霊教室』そう考えてみると、すべてがなるほどと納得(なっとく)がいくのです。いってみれば、現代人はコペルニクスと同じ発想の転換(てんかん)が必要となってきたわけです。今までのような物質中心の物の考え方をしていては、スピリチュアリズムは理解できないでしょう。
『母と子の心霊教室』私は高校生のときにスピリチュアリズムを知ってから、30年にわたってこの思想を勉強してきました。数え切れないほどの原書を読み、そのうちの重要なものを翻訳(ほんやく)してきましたが、青少年向けの心霊書(しんれいしょ)としてはこれが最初で、→
『母と子の心霊教室』→しかも最高のものであると信じます。本書によって、みなさんが正しい心霊(しんれい)知識を身につけ、今後ますます多くなっていくことが予想される心霊(しんれい)情報を、正しく判断できるようになってくださることを望んでやみません。
『母と子の心霊教室』それがこの本を書かれたパーマー先生の願いでもあるのです。 1986年5月 近藤千雄(こんどうかずお)
-----
-----原著者のあいさつ
『母と子の心霊教室』【日本語版に寄せて―原著者(げんちょしゃ)のあいさつ】私は英国のある学校の校長先生です。ながいあいだ8才から18才までの少年少女を教えてきましたので、みなさんが“物を知ることがたいへんすきであること”、そしてまた、よくわからないことは→
『母と子の心霊教室』→“何でも聞いてみようとすること”もよく知っております。また私は“人間とは何か”ということを研究する「心霊学(しんれいがく)」について、おとなの人たちにたびたび教えてまいりました。
『母と子の心霊教室』ところがたいへん残念なことに、おとなのための心霊(しんれい)の本はたくさんあるのに、みなさんのような少年少女のための心霊(しんれい)の本がほとんどといってよいほどないのです。これではいけないと思って書いたのがこの本です。
『母と子の心霊教室』ほんとうのことをいうと、私がこの本を書き始めた時は、英国の少年少女のことばかり考えておりました。まさかこの本が、遠い日本のみなさんにまで読んでいただくことになるとは、夢(ゆめ)にも思わなかったからです。
『母と子の心霊教室』ですが、英国の子どものためになるものは、きっと日本のみなさんにもためになるにちがいありません。おしまいにひとつだけお願いがあります。それは、ひと通りこの本を読みおわったら、こんどはこの本に書いてあることを基礎(きそ)として、自分自身でどしどし勉強して→
『母と子の心霊教室』→いただきたいということです。この本に書かれたことは、人間についての知識のほんの一部にすぎません。私にも、書きたいと思いながら書けなかったことが山ほどあるのです。どうかみなさんも自分で本を読んだり実験したりして、人間についてなるべく多くのことを学んでください。
『母と子の心霊教室』そうすれば「死ぬ」ということがつぎの世界への入り口であること、また、今でもその世界のお友だちがみなさんを助けてくれていることが、ますますはっきりとわかってくることでしょう。 1960年4月 チャールズ・パーマー
-----

※文中に当時の僕のコメントが挿入されていますが、削除するのが面倒ですので(汗)ご参考までにそのまま掲載させて頂きます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【“あなたはなぜ神に祈るのですか”と問われてシルバーバーチは“祈り”の本来のあり方について次のように述べた―】それは私に可能な限り最高の“神の概念”に波長を合わせたいという願いの表れなのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑え難い気持を外部へ向けて集中すると同時に、内部へ向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願する事ではありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
我々の心の中に抱く思念は神は先刻ご承知なのです。要望は口に出される前に既に知れているのです。なのになぜ祈るのか。それは祈りとは我々の周りに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置く事になるのです。僅かな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受入れる事ができ、我々に“本当に必要なもの”が授けられる通路を用意した事になります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄使いをしているに過ぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
が、自分をより一層役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、その時の高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮した事になります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
では“誰に”あるいは“何に”祈るべきか―この問題になると少し厄介です。なぜなら人間一人一人に個人差があるからです。人間は必然的に自己の精神的限界によって支配されます。その時点までに理解したものより大きいものは心象として描き得ないのです。
皆さん、何よりも大切な霊的知識を得ましょう。因果律の働きを理解しましょう。こういう地上生活を送ったら霊界に行ってこういう状況になる、という事を得心していれば…自分勝手・無責任な生活を送っていると下層界へ落ちて悲惨な状況になると知っていれば、絶対に日常生活を律するはずなんです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
ですから私もこれまでに地上にもたらされた知識に、ある程度まで順応せざるを得ない事になります。例えば私は言語という媒体を使用しなければなりませんが、これは観念の代用記号にすぎず、それ自体が伝えるべき観念に制約を加える結果となっています。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
このように地上のための仕事をしようとすれば、どうしても地上の慣例や習慣、しきたりといったものに従わざるを得ません。ですから私は、神は人間的存在ではないと言いながら男性代名詞を使用せざるを得ない事になります。―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―(例えば“神の法則”というのをHis lawsという具合に―訳者)私の説く神は宇宙の第一原因、始源、完全な摂理です。私が地上にいた頃はインディアンはみな別の世界の存在によって導かれている事を信じておりました。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
それが今日の実験会とほぼ同じ形式で姿を見せる事がありました。その際、霊格の高い霊ほどその姿から発せられる光輝が目も眩まんばかりの純白の光を帯びていました。そこで我々は最高の霊すなわち神は最高の白さに輝いているものと想像した訳です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
いつの時代にも“白”というのは“完全”“無垢”“混ぜもののない純粋性”の象徴です。そこで最高の霊は“白光の大霊”であると考えました。当時としてはそれが我々にとって最高の概念だった訳です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
それは、しかし今の私にとっても馴染み深い言い方であり、どのみち地上の言語に移しかえなければならないのであれば永年使い慣れた古い型を使いたくなる訳です。ただしそれは人間ではありません。人間的な神ではありません。神格化された人間ではありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
何かしら“でかい”存在ではありません。激情や怒りといった人間的煩悩によって左右されるような存在ではありません。永遠不変の大霊、全生命の根源、宇宙の全存在の究極の実在であるところの霊的なエネルギーであり、それが個別的意識形体をとっているのが人間です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかしこうして述べてみますと、やはり今の私にも全生命の背後の無限の知性的存在である神を包括的に叙述する事は不可能である事を痛感いたします。が少なくとも、これまであまりに永い間地上世界にはびこっていた多くの幼稚な表現よりは、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―私が理解している神の概念に近いものを表現していると信じます。忘れてならないのは人類は常に進化しているという事、そしてその進化に伴って神の概念も深くなっているという事です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
知的地平線の境界がかつてほど狭くなくなり、神ないしは大霊、つまり宇宙の第一原理の概念もそれに伴って進化しております。しかし神自体は少しも変っておりません。これから千年後には地上の人類は今日の人類より遥かに進化した神の概念をもつ事になるでしょう。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
だからこそ私は宗教は過去の出来事に依存してはいけないと主張するのです。過去の出来事を、ただ古い時代の事だからという事で神聖であるかに思うのは間違いです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
霊力を過去の一時代だけに限定しようとする事は、霊力が永遠不変の実在であるという崇高な事実を無視する事で、所詮は無駄に終ります。地上のいずこであろうと通路のあるところには霊力は注がれるのです。―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―(訳者注―聖霊は紀元六六年まで聖地パレスチナにのみ降り、それきり神は霊力の泉に蓋をされた、というキリスト教の教えを踏まえて語っている)過去は記録としての価値はありますが、その過去に啓示の全てが隠されてるかに思うのは間違いです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
神は子等に受容能力が増すのに応じて啓示を増してまいります。生命は常に成長しております。決して静止していません。“自然は真空を嫌う”という言葉もあるではありませんか。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あなた方は人々に次のように説いてあげないといけません。すなわちどの人間にも神性というものが潜在し、それを毎日、いえ時々刻々より多く発揮するために活用すべき才能が具わっている事、それさえ開発すれば周囲に存在する莫大な霊的な富が誰にでも自由に利用できる事、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―言語に絶する美事な叡智が無尽蔵に存在し活用されるのを待っているという事です。人類はまだまだその宝庫の奥深くまで踏み込んでいません。ほんの表面しか知りません。【あなたは霊的生活に関連した法則をよくテーマにされますが、―】
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【肉体の管理に関連した法則の事はあまりおっしゃってないようにお見受けします―】おっしゃる通り、あまり申上げておりません。それは肉体に関して必要な事は既に十分な注意が払われているからです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
私が見る限り地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。生活の全てを肉体に関連した事ばかりに費やしております。霊的能力の開発に費やしている人は殆ど―もちろん“おしなべて”の話ですが―いません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
第一、人間に霊的能力が潜在している事を知っている人が極めて少ないのです。そこで私は正しい人生観をもって頂くためには、そうした霊的原理について教えてあげる事が大切であると考える訳です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
私は決して現実の生活の場である地上社会への義務を無視してよいとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれている事の意味を理解して、いちだんと義務を自覚するはずです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画がある事を理解しはじめ、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そしてもしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
肉体は霊の宿である以上それなりに果たすべき義務があります。地上にいる限り霊はその肉体によって機能するのですから大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務を疎かにするのが間違っているのと同じく、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―霊的実在を無視しているのも間違いであると申上げているのです。また世間から隔絶し社会への義務を果たさないで宗教的ないし神秘的瞑想に耽っている人が大勢いますが、そういう人たちは一種の利己主義者であり、私は少しも感心しません。何事も偏りがあってはなりません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
いろんな法則があります。それを幅広く知らなくてはいけません。自分が授かっている神からの遺産と天命とを知らなくてはいけません。そこで初めて、この世に生まれてきた目的を成就する事になるのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
霊的事実を受入れる事のできる人は、その結果として人生について新しい理解が芽生え、あらゆる可能性に目覚めます。霊的機構の中における宗教のもつ意義を理解します。科学の意義が分るようになります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
芸術の価値が分るようになります。教育の理想が分るようになります。こうして人間的活動の全分野が理解できるようになります。一つ一つが霊の光で啓蒙されていきます。所詮、無知のままでいるより知識をもって生きる方がいいに決まっています。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(続いて二人の読者からの質問が読上げられた。一つは)【“神は宇宙の全生命に宿り、その一つを欠いても神の存在はありません”とおっしゃっている箇所がありますが、もしそうだとすると神に祈る必要はない事になりませんか―】(というものだった。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(これに対してシルバーバーチはこう答えた―)その方が祈りたくないと思われるのなら別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列に過ぎないものを、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからと言って祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟―これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向って祈るか、いかに祈るかは本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方に関わってくる問題です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
言い変えれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源との一層緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ自我を見出した事になります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(もう一つの質問は女性からのもので)【イエスは“汝が祈り求めるものは既に授かりたるも同然と信ぜよ。しからば汝に与えられん”と言っていますが、これは愛する者への祈りには当てはまらないように思いますがいかがでしょうか―】(というものだった―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(これに対してシルバーバーチは答えた―)この方も、ご自分の理性にそぐわない事はなさらない事です。祈りたい気持があれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈る事はありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われる事です。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。神からの大切な贈物であるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―ご自分が気に食わないもの、ご自分の知性が侮辱されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上の事は申上げられません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【“求めよ、さらば与えられん”という言葉も真実ではなさそうですね―】その“与えられるもの”が何であるかが問題です。祈ったら何でもその通りになるとしたら世の中は混乱します。最高の回答が何もせずにいる事である場合だってあるのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【今の二つの格言はそれぞれに矛盾しているようで真実も含まれているという事ですね―】私はいかなる書物の言葉にも興味はありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
私はこう申上げた事があるはずです―我々が忠誠を捧げるのは教義でもなく、書物でもなく、教会でもない。宇宙の大霊すなわち神と、その永遠不変の摂理である、と。
『シルバーバーチの祈り⑦』
ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行き渡るあなたの絶対的摂理を説き明かさんとし。もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。
『シルバーバーチの祈り⑦』
私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とがあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれている事、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれる事を期待して、―
『シルバーバーチの祈り⑦』
―霊力の豊かな宝の幾つかを明かさんとしているところでございます。その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたの有るがままの姿―
『シルバーバーチの祈り⑦』
―完璧に機能している摂理、しくじる事も弱まる事もない摂理、過ちを犯す事のない摂理としてのあなたを拝する事を妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解の全てを取り払わんとしております。
『シルバーバーチの祈り⑦』
私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなた方から隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てを知ろしめし全てがあなたの摂理の支配下にございます。
『シルバーバーチの祈り⑦』
それ故私どもはその摂理―これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ全ての暗黒、邪悪、混沌と悲劇とが消滅し、代って光明が永遠に輝きわたる事でございましょう。
『シルバーバーチの祈り⑦』
さらに又、愛に死はない事、生命は永遠である事、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てる事はできぬ事、霊力がその本来の威力を発揮した時は如何なる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って愛が再び結ばれるものである事を証明して見せる事も私どもの仕事でございます。
『シルバーバーチの祈り⑦』
私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身につけた暁に活用される事を待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性をもつ無限なる霊の存在を明かさんと欲している者でございます。
『シルバーバーチの祈り⑦』
ここに、己れを役立てる事をのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

※文中に当時の僕のコメントが挿入されていますが、削除するのが面倒ですので(汗)ご参考までにそのまま掲載させて頂きます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【スピリチュアリズムが現代の世界に貢献できるものの中で最大のものは何でしょうか―】最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらす事です。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれている事を教えてあげる事によって無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きる事を可能にします。あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿る事を認識せしめます。憎み合いもなく肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが“偉い人”と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
知識を豊かにします。精神を培い霊性を強固にし生得の神性に恥じる事のない生き方を教えます。こうした事がスピリチュアリズムに出来る大きな貢献です。人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
奴隷の如く他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あらゆる知識―真理も叡智も霊的啓示も全てが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、苛立ち、悔しい思いをさせられる事なく、霊の荘厳さの中で生きるべきです。
現在、イエス様の御意志に従い、霊的知識普及の使命を遂行中。明けても暮れてもテキストを撃ちまくり、霊的知識のタネを蒔いて蒔いて蒔きまくってます。地上のどんな事象より大切な霊的真理の光が人々に広まる事を、イエス様は僕という小さなチャンネルを通して痛烈に訴え、願っておられるのです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【スピリチュアリズムはこれまで通り一種の影響力として伸び続けるべきですか。それとも一つの信仰形体として正式に組織をもつべきでしょうか―】私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹は止めようにも止められるものではありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
真理の普及は抑えられるものではありません。自らの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行き渡るように、その伝達手段となる事です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量る事はできません。そのためのルートを拵えたり細かく方針を立てたりする事は出来ません。―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―(そういう事を人間の浅知恵でやろうとすると組織を整え、広報担当、営業担当といったものを拵え、次第に世俗的宗教となる下がるという事であろう―訳者)あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるという事、それしかないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
自分の理解力の光に照らして義務を遂行する―人のために役立つ事をし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える―かくして霊の芳香が自然に広がるようになるという事です。一種の酵素のようなものです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。皆さんはご自分で最善と思われる事に精を出し、これで良いと思われる方法で真理を普及なさる事です。
僕が霊関連書籍の抜粋において守ってる事は「僕の小我で着色しない、原文のまま抜粋する」事です。それはそうです。僕などはイエス様はじめ高級霊の方々、もっと言えば“神”の道具にすぎないのですから何をでしゃばって書きますか…って事なのです。最も完全に守れてるとは断言できませんが…(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【支配霊になるのは霊媒自身よりも霊格の高い霊と決っているのですか―】いえそうとは限りません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また“支配霊”という用語をどの意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携わる霊は“協力態勢”で臨みます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮に当る霊が一人います。これを“支配霊”と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し指示を与え霊媒を通じてしゃべります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
時折他の霊がしゃべる事もありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上での事です。しかし役割は一人一人違います。“指導霊”という言い方をする事があるのもそのためです。入神霊言霊媒に限って言えば、支配霊は必ず霊媒よりも霊格が上です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
が物理現象の演出に携わるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとは限りません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事に携われるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合は必ずしも霊媒より上とは限りません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです。(訳者注―“霊”と“魂”の違いと同じくこの“支配霊”と“指導霊”の使い方は英語でも混乱している。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(というよりは勝手な解釈のもとに使用されていると言った方がよいであろう。これは各自の理解力に差がある以上やむを得ない事であり、こうした事は心霊の分野だけでなく学問の世界ですら一般的である。だからこそ辞引や用字用語辞典が生まれてくるのである。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(心霊用語を一定の規範の中にまとめるべきだという意見も聞かれるが私は使用する人間にその心得がない以上それは無理であると同時にその必要性もないと考えている。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(要は自分はこういう意味で使用するという事を明確にすれば、あるいは文脈上それがはっきりすればそれでいいと思う。特に霊界通信になると根本的に人間の用語では表現できない事が多く、通信霊は人間以上にその点で苦労しているのである。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(それは私のように英語を日本語に直す仕事以上に大変な事であろう。霊言でも自動書記でも同じである。それが人間の言語の宿命なのである。シルバーバーチが折ある毎に、用語にこだわらずその意味を汲み取って欲しいと言っているのもそのためである。)
先日、今まで何度も浴させて頂いているインスピレーションによるお顔の顕現ではなく、幽体離脱にて直接お会いするという、地上に籍を置く者にとってこれ以上の光栄はないと思われる状況を演出して下さったイエス様…改めてその事を思うと、今までも何度も光栄な状況に浴させて頂きましたが、→
→その意味の重大性を考えずにいられません。僕というたった一つの小さい霊的チャンネルに対してあのイエス様がそこまで!そこまで!して下さるのです。そこに、何としても霊的真理を地上に普及させるという並々ならぬ決意、強烈な「ご意志」を感じるのは当り前なのです。正直プレッシャーはあります→
→しかしこうも思います。イエス様にここまでして頂いて為すべきを為さずに帰幽したら、間違いなく僕は100%後悔する、そしてイエス様に合わせる顔がなくなると。テキスト撃ちまくるこの試練は僕には最高に壮絶に苦しいものですが、何とか首の皮一枚こらえて使命遂行するしかないのです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【入神(トランス)状態は霊媒の健康に害はないのでしょうか―】益こそあれ何ら害はありません。ただしそれは今までに明らかにされた霊媒現象の原理・法則を忠実に守っていればの事です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あまり頻繁にしすぎると、例えば一日に三回も四回も行えば、これは当然健康に悪影響を及ぼします。が常識的な線を守ってきちんと期間を置いて行い、霊媒としての日頃の修行を怠らなければ必ず健康にプラスします。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
なぜなら霊媒を通して流れるエネルギーは活性に富んでいますから、それが健康増進の効果をもたらすのです。正しく使えば霊媒能力は全て健康にプラスします。が使い方を誤るとマイナスになります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【思念に実体があるというのは本当でしょうか―】これはとても興味深い問題です。思念にも影響力がある―この事には異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから思念の世界においては実在なのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。今地上人類は五感を通して鑑識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないという事です。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件化に置かれた霊的存在という事です。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
なぜなら地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気づかないからです。思念は思念の世界においては実在そのものです。が地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。
皆さん、本を読みましょう。知識を得ましょう。無知の暗闇を突き破りましょう。僕たちは大切な事を悟るために地上という修行場に降下して来ているのです。霊界こそ僕たちの本来の住処であり、地上は霊界の光によってできた影にすぎません。どうか、どうか皆さんにも霊的知識を得て頂きたいのです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
肉体による束縛を全く受けない私の世界では思念は物質より遥かに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
勘違いなさらないで頂きたいのは地上にある限りは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないという事です。強力な“補助”とはなっても“代用”とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わず思念だけで片付けようとするのは邪道です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
これも正しい視野で捉えなければいけません。【物的活動の動機付けとして使用するのは許されますね?―】それは許されます。また事実、無意識のうちに使用しております。現在の限られた発達状態にあってはその威力を意識的に活用する事ができないだけです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【でもその気になれば霊側が人間の思念を利用して威力を出させる事も可能でしょう?―】できます。なぜなら私たちは人間の精神と霊を通して働きかけているからです。ただ私がぜひ申上げておきたいのは、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―人間的問題を集団的思念行為で解決しようとしてもそれは不可能という事です。思念がいかに威力があり役に立つものであっても本来の人間としての仕事の代用とはなり得ないのです。また歓迎されない説教をしてしまいましたが私が観る限りそれが真実ですから仕方ありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【大戦前にあれほど多くの人間が戦争にならない事を祈ったのに阻止できませんでした。あれなどはそのよい例だと思います。ヨーロッパ全土―敵国のドイツでもそう祈ったのです―】それは良い例だと思います。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
物質が認識の基本となっている物質界においては、思念の働きにおのずと限界があります。それはやむを得ない事なのです。ですが他方、私は思念の価値、ないしは地上生活における存在の場を無視するつもりはありません。
霊界には地上に存在しない色彩(紫外色・赤外色)がたくさん存在します。地上には4つの音域しかありませんが霊界にはたくさんの音域があります。地上で制作される絵画や音楽はことごとく霊界が始源です。僕たちは良かれ悪しかれインスピレーションを受取って絵画や音楽を制作する受信器なのです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【善意の人々にとっては思念の力が頼りです。米国民への友好心は我々英国人への友好心となって返ってきます―】それから遠隔治療において思念が治療手段の一つとなっています。ただしその時は霊がその仲介役をしている事を忘れないで下さい。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
地上の人間は自分の精神に具わっている資質(能力)の使い方を殆ど知らずにいます。ついでに言えばその精神的資質が次の進化の段階で大切な要素となるのです。その意味でこの地上生活において思念を行為の有効な“さきがけ”とする訓練をすべきです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
きちんと考えた上で行為に出るよう心掛けるべきです。ですが思念の使い方を知らない人が何と多い事でしょう。わずか五分間でも、じっと一つの事に思念を集中できる人が何人いるでしょうか。実に少ないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【遠隔治療において患者が(精神を統一するなどして)治療に協力する事は治療効果を増すものでしょうか―】私の考えでは、それは波長の調整にプラスしますから大体において効果を増すと思います。異論もある事でしょうが私はそう見ています。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
知らずにいるよりは知っている方が原則としては治療が容易になります。治療エネルギーを送る側と受ける側とが波長が合えば治療が一段と容易になります。治療を受けている事を知らないでも顕著な治療効果が表れたケースがある事は私もよく知っておりますが、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―大抵の場合それは患者の睡眠中に行われているのです。その方が患者の霊的身体との接触が容易なのです。(昼間に送られた治療エネルギーが睡眠中に効きはじめるというケースもある―訳者)
僕が言うのもなんですがm(_ _)m 地上において僕たちが学ばなければならない大切なことがこれらの本の中にあります(過去ブログ“「霊」関連書籍の総括”参照) 僕たちは大切なことに気付くために地上で頑張っていかなければならないんです。勇気をもって艱難辛苦に立ち向かいましょう(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【心霊研究をどう思われますか―】その種の質問にお答えする時に困るのは、お使いになる用語の意味について同意を獲なければならない事です。“心霊研究”という用語には、いわゆるスピリチュアリストが毛嫌いする意味が含まれています。―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―(S・P・Rのように資料をいじくり回すだけに終始して一歩も進歩しない心霊研究をさす―訳者)こうした交霊会や実験会や養成会も真の意味における“研究”であると言えます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
というのは私たちはそうした会を通して霊力がよりいっそう地上へもたらされるための通路を吟味・調査しているからです。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学びます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
動機が純粋の探究心に発し、得られた知識を人類の福祉のために使うのであれば、私は研究は何であっても結構であると思います。が霊媒を通して得られる現象を頭から猜疑心をもって臨み、にっちもさっちも行かなくなっている研究は感心しません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
動機が真摯であればそれは純粋に“研究”であると言えます。真摯でなければ“研究”とは言えません。純心な研究は大いに結構です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【国教会はスピリチュアリズムには何ら世の中に貢献する新しいものが無いと言って愚弄しておりますが、それにどう反論なさいますか―】私は少しも愚弄されているとは思いません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
私たちがお届けした“新しいもの”が一つあります。それは人類史上初めて宗教というものを証明可能な基盤の上に置いた事です。つまり信仰と希望とスペキュレーションの領域から引き出して“ご覧なさい。このようにちゃんと証拠があるのですよ”と言えるようになった事です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかし“新しいもの”が無いとおっしゃいますが、ではイエスは何か“新しいもの”説いたでしょうか。大切なのは新しさとか物珍しさではありません。真実か否かです。
僕が蒔きまくっている霊的知識のタネが、どうか誰かの心に根づいて大切な事に気付くキッカケとなりますように。一人でも多くの人が霊的知識を得心し、物的事象で困難に遭遇した時、霊的真理に照らして正しい方向に自由意志を行使できるようになりますように。撃ちまくり、そして祈りまくります(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【ここでメンバーたちがシルバーバーチの当意即妙の応答ぶりに感心して口々にその事を述べると、こう述べた―】地上の皆さんは細切れの知識を寄集めなければなりませんが私たちは地上にない形で組織された知識の貯蔵庫があるのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
どんな情報でも手に入ります―即座に手に入れるコツがあるのです(※)私たちの世界の数ある驚異のひとつは、全てが見事に絶妙に組織されている事です。知識の分野だけでなく霊にとってのあらゆる資質―文学、芸術、音楽等の分野においてもそうです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
全てが即座に知れ、即座に手に入ります。まだ地上の人間に知られていない事でも思い通りになります。(※霊格の高い低いに関係なくそのコツさえ会得すれば誰にでも知れる。だからこそ歴史上の人物を名のって出る霊は警戒を要するのである。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(つまりその人物の思想や地上時代の情報はいとも簡単に―あたかもコンピューターの情報のように、あるいはそれ以上に簡単に、しかも詳細に知れるので“それらしい事”を言っているからといってすぐに信じるのは浅はかである。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(他界したばかりの霊を呼出す場合も同じで、それらしく見せかけるのは霊にとっては造作もない事である。そんな事を専門にやって人間を感動、感激させたりしている低級霊団がいて、うまく行くと“してやったり”と拍手喝采して喜んでいる。―)
『シルバーバーチの霊訓⑦』
(別に危険性はないが、私には哀れに思えてならないのである―訳者)
アタック帰還。疲労の限界。明日抜粋UPしますのでご容赦を。ある山頂、涼風を浴びつつケルンにもたれて行動食のレタスサンド(自作)を食べてた時、岩肌からカモシカちゃんがノソーリ登場、僕の7m前方を超ゆっくり横切り、時々目線だけ僕の方に向けるのです。僕は超小声で語りかけてました→
→カモシカちゃんが怖がらないように「いいねーカモシカちゃん☆夏だけじゃなく冬も宜しくね☆」とか言ってる僕をじっと横目で見つめるカモシカちゃん。まるで…「あなた、帰幽、帰幽って急かさないで私みたいにゆっくりじっくり構えて使命遂行したらどうなのよ」って言われてるような気がして→
→苦笑いしてる僕を横目にのそりのそりとハイマツ帯に消えて行きました。山でシカと遭遇するのは普通の出来事。しかし今回の思わせぶりなカモシカちゃんの動きが何となく僕にそんなメッセージを想像させるのでした。って霊力は降って来てませんので、あくまでも僕が勝手に想像した内容ですが(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【大霊(神)を全能でしかも慈悲ある存在と形容するのは正しいでしょうか―】何ら差支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙及びそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
大霊より高いもの、偉大なもの、強大なものは存在しません。宇宙は誤る事のない叡智と慈悲深き目標をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化している事は間違いない事実です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
この事は慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれている事を意味します。ただその慈悲性に富む摂理にも機械性がある事を忘れてはなりません。いかなる力をもってしても因果律の働きに干渉する事はできないという意味での機械性です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
いかに霊格の高い霊といえども一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止する事はできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―この用語ではその背後に知的で目的意識をもったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな“人間神”的要素のない神です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているという事です。その火花を宿していればこそ存在できるのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては皆さんは不完全な状態にあるという事です。神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面は極めて不完全です。
地上生活に必要なものは神は全て用意して下さっています。動物実験をして特殊な成分を抽出などしなくても人間の健康に必要なものは全て自然界に存在するそうです。麻酔もなしにメスを入れられる動物たちが何の苦痛も恐怖も感じてないと思われますか?動物実験は断じて間違いであり根絶すべきです(祈)
-----
『シルバーバーチの霊訓⑦』
死後あなた方はエーテル体、幽体、または霊的身体―どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい―で自我を表現する事になりますが、その時は現在よりは不完全さが減ります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
霊界の界層を一段また一段と上がっていく毎に不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です。【バラもつぼみのうちは完全とは言えませんが満開となった時に完全となるのと同じですね―】
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―全くその通りとも言いかねるのです。厄介な事に人間の場合は完全への道が無限に続くのです。完全へ到達する事ができないのです。知識にも叡智にも理解力にも真理にも究極というものがないのです。精神と霊とが成長するにつれて能力が増します。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
今成就できないものも、そのうち成就できるようになります。ハシゴ段を昇って行き、昨日は手が届かなかった段に上がってみると、その上にもう一つ上の段が見えます。それが無限に続くというのです。それで完全という段階が来ないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
もしそういう事が有り得るとしたら進化という事が無意味となります。【これは当然の事ながら論議を呼び、幾つかの質問が出たがそれに一通り応答した後シルバーバーチはこう述べた―】
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あなた方は限りある言語を超えたものを理解しようとなさっているのであり、それはぜひこれからも続けていくべきですが、たとえ口では表現できなくても心のどこかで“チラッ”と捉え理解できるものがあるはずです。例えば言葉では尽せない美しい光景、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―画家にも描けないほど美しい場面を“チラッ”と見た事がおありのはずですが、それは口では言えなくても心で感じ取り、しみじみと味わう事はできます。それと同じです。あなた方は今、言葉では表現できないものを表現しようとなさっているのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【大ざっぱな言い方ですが大霊は宇宙の霊的意識の集合体であると言ってよいかと思うのですが…】結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にある事を忘れないで下さい。いかなる生命現象も活動も大霊の管轄外で起きる事はありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
摂理―大自然の法則―は自動的に宇宙間の全ての存在を包含するからです。たった一つの動き、たった一つのバイブレーション、動物、鳥類、植物、昆虫、根菜、花、海、人間、霊、どの世界であろうとその法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
宇宙は漫然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった一つの調和体なのです。それを解く鍵さえつかめれば、悟りへの鍵さえ手にすれば至って簡単な事なのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだという事です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
法則が神であり、神は法則であるという事です。その神は人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているという事です。【という事は神の法則は完全な形で定着しているという事でしょうか。それとも新しい法則が作られつつあるのでしょうか―】
『シルバーバーチの霊訓⑦』
法則は無窮の過去からずっと存在しています。完全である以上、その法則の枠外で起きるものは何一つ有得ないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
全ての事態に備えられております。あらゆる可能性を認知しているからです。もし新たに法則を作る必要性が生じたとしたら、神は完全でなくなります。予測しなかった事態が生じた事を意味するからです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【こう考えてよろしいでしょうか。神の法則は完全性のブループリント(青写真・設計図)のようなもので我々はそのブループリントにゆっくりと合わせる努力をしつつあるところである、と―】なかなか良い譬えです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
皆さんは地上という“進化の過程にある世界”における“進化しつつある存在”です。その地球は途方もなく大きな宇宙のホンの小さな一部にすぎませんが、その世界に生じるあらゆる事態に備えた法則によって支配されております。その法則の枠外に出る事はできないのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あなたの生命、存在、活動の全てがその法則によって規制されているのです。あなたの思念、言葉、行為、つまりあなたの生活全体をいかにしてその法則に調和させるかは、あなた自ら工夫しなければなりません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
それさえできれば病気も貧乏も、その他、無知の暗闇から生まれる不調和の状態が無くなります。自由意志の問題について問われると必ず私が、自由といっても無制限の自由ではなく自然法則によって規制された範囲内での自由です、と申上げざるを得ないのはそのためです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【この機械化時代は人類の進化に役立っているのでしょうか。私にはそうは思えないのですが―】最終的には役に立ちます。進化というものを一直線に進むもののように想像してはいけません。前進と後退に繰返しです。立ち上がっては倒れるの繰返しです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
少し登っては滑り落ち、次に登った時は前より高いところまで上がっており、そうやって少しずつ進化して行きます。ある一時期だけを見れば“ごらん!この時期は人類進化の暗い汚点です”と言えるような時期もありますが、それは物語の全体ではありません。ホンの一部です。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
人間の霊性は徐々に進化しております。進化に伴って自我の本性の理解が深まり、自我の可能性に目覚め、存在の意図を知り、それに適応しようと努力するようになります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
数世紀前までは夢の中で天界の美を見、あるいは恍惚たる入神の境地においてそれを霊視できたのはホンの一握りの者に限られていました。が今や無数の人々がそれを見、ある者は改革者、ある者は先駆者、ある者は師となり死して後もその成就のために立ち働いております。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
そこに進歩が得られるのです。【その点に関しては全く同感です。進歩はあると思うのです。が全体として見た時、地球上が(機械化によって)あまり住み良くなると進化にとってマイナスとなるのではないかと思うのです―】
『シルバーバーチの霊訓⑦』
しかし霊的に向上すると―あなた個人の事ではなく人類全体としての話ですが―住んでいる世界そのものに発展性がある事に気づき、かつては夢にも思わなかった豊かさが人生から得られる事を知ります。機械化を心配しておられますが、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―それが問題となるのは人間が機械に振回されて、それを使いこなしていないからに過ぎません。使いこなしさえすれば何を手に入れてもよろしい―文化、レジャー、芸術、精神と霊の探求、何でもよろしい。かくして内的生命の豊かさが広く一般の人々にも行き渡ります。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
その力は全ての人間に宿っています。全ての人間が神の一部だからです。この大宇宙を創造した力と同じ力、山を拵え恒星を拵え惑星を拵えた力と同じ力、太陽に光を与え花に芳香を与えた力、それと同じ力があなた方一人一人に宿っており、―
『シルバーバーチの霊訓⑦』
―生活の中でその絶対的な力に波長を合わせさえすれば存分に活用する事ができるのです。【花に芳香を与えた力が蛇に毒を与えているという問題もあります―】それは私から見れば少しも問題ではありません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
よろしいですか。私は神があなた方の言う“善”だけを受持ち、悪魔があなた方の言う“悪”を受持っているとは申上げておりません。【潜在的には善も悪も全て我々の中に存在しているという事ですね―】人間一人一人が小宇宙(ミクロコズム)なのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
あなたもミニチュアの宇宙なのです。潜在的に完全な天使的資質を具えていると同時に獰猛な野獣性も具えております。だからこそ自分の進むべき方向を選ぶ自由意志が授けられているのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【あなたは地球という惑星がかつてより進化しているとおっしゃいましたが、ではなぜ霊の浄化のためになお苦難と奮闘が必要なのでしょうか―】なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
その間には上昇もあれば下降もあり前進もあれば後退もあります。が、その度に少しずつ進化してまいります。霊の世界では次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
次元の異なる生活の場が段階的に幾つかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。地上世界においても一応皆さんは地表という同じ物質的レベルで生活なさっていますが霊的には一人一人異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
【これまでの地上社会の進歩はこれから先に為されるべき進歩に較べれば微々たるものに過ぎないのでしょうか―】いえ私はそういう観方はしたくないのです。比較すれば確かに小さいかも知れませんが進歩は進歩です。次の事を銘記して下さい。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
人間は法律や規則を拵え道徳律をうち立てました。文学を豊かにしてきました。芸術の奥義をきわめました。精神の隠された宝を突き止めました。霊の宝も、ある程度まで掘り起こしました。こうした事は全て先輩たちのおかげです。
『シルバーバーチの霊訓⑦』
苦しみつつコツコツと励み試行錯誤を繰返しつつ人生の大渦巻きの中を生き抜いた人たちのお陰です。総合的に見れば進歩しており人間は初期の時代に較べて豊かになりました。物質的な意味ではなく霊的・精神的に豊かになっております。そうあって当然でしょう。