[翌日、前回の通信に関連した長い入神談話(1)があったあと、インペレーターと名のる、いつもと同じ霊が、例のレクターと名のる筆記者を使って、ふたたび通信を送ってきた。
それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。
当時の私の立場から見れば、その教説は論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら、少なくとも広教会的(2)と呼びたいところである。そこで、私はかなりの時間をかけて、キリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。
こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がありそうである。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、アングリカン(3)と呼ばれる英国国教会の教義も、それまでに私が到達した結論にもっとも近いものとして受け入れていた。
当時の厳格な信仰もある程度は改められていたが、本質的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派(4)の1人をもって任じていた。
ところが、このころから、ある強烈な霊的高揚を覚えるようになってきた。これに関してはこれ以後たびたび言及することになることと思うが、その高揚された霊的状態の中で、私は、1人の威厳に満ちた霊(インペレーター)の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついに霊的再生とも言うべき思想的転換を引き起こさせることになる。]
神とは
そなたは、われわれの教説を伝統的教説と相容(あいい)れぬものとして反駁されました。それに関して、今少し述べるとしましょう。
そもそも魂の健全な在り方を示す立場にある宗教には、ふたつの側面があります。ひとつは“神”へ向けての側面であり、今ひとつは“同胞”へ向けての側面です。では、われわれの説く神とは一体いかなる神か。
われわれは、怒りと嫉妬に燃える暴君のごとき神に代わって、“父なる愛の神”を説きます。名のみの愛ではない。摂理において愛であり、その働きも、愛をおいて他の何ものでもありません。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨みます。
われわれの説く神には一片のおべっかも無用です。戒律を犯したものを意地悪く懲(こ)らしめたり、罪の償いの代理人を要求するような神の観念を拒否します。
いわんや天国のどこかに鎮座して、選ばれた者によるお世辞を聞き、地獄に落ちて光と希望から永遠に隔絶された霊の悶え苦しむ様を見ることを愉(たの)しみとする神など、絶対に説きません。
われわれの教義には、そのような擬人的な神の観念の入る余地はありません。“その働き”によってのみ知り得るわれわれの神は、完全にして至純・至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性といった人間的悪徳とは無縁です。
罪はそれみずからの中にトゲを含むがゆえに、人間の過ちを慈(いつく)しみの目で眺め、かつその痛みを不変不易の摂理にのっとったあらゆる手段を講じて和らげんとします。
光と愛の根源たる神!秩序ある存在に不可欠の法則にのっとって顕現せる神!恐怖の対象ではなく、敬慕の対象である神!その神についてのわれわれの理解は、到底そなたたち人間には理解し得ぬところであり、想像すらできないでしょう。
しかし、神のお姿を拝した者は1人もいません。のぞき趣味的な好奇心と、度を過した神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を“あいまいもこ”なものとする形而上的詭弁もまた、われわれは認めるわけにはまいりません。
われわれは真理をのぞき見するような態度は取りません。これまでに述べた神の概念ですら、そなたたちの神学より雄大にして高潔であり、かつ崇高です。それよりさらに深い概念は、告げるべき時期の到来を待つとしましょう。そなたも待つがよい。
神と人間
次に、神とその創造物との関係について述べることにしますが、ここにおいてもまたわれわれは、長い年月にわたって真理のまわりに付着した人間的発想による不純物の多くを、まず取り除かねばなりません。
神によって特に選ばれた数少ない寵愛(ちょうあい)者 – そのようなものはわれわれは知りません。“選ばれた者”の名に値するのは、おのれの存在を律する神の摂理にのっとって、みずからを、みずからの努力によって救う者のことです。
盲目的信仰ないしは軽信仰が、少しでも効力を見せた例をわれわれは知りません。ケチ臭い猜疑心に囚われない霊的理解力に基づいた信頼心ならば、われわれはその効力を大いに認めます。それは神の御心にそうものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せましょう。
が、かの実に破壊的な教義、すなわち神学的ドグマを信じこれに同意すれば罪過が跡形もなく消される – 生涯にわたる悪徳と怠慢の数々もきれいに拭(ぬぐ)い去られる – わずかひとつの信仰、ひとつの考え、ひとつの思いつき、ひとつの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われわれは断固として否定し、かつ告発するものです。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ません。
また、われわれはひとつの信仰を唯一絶対と決めこみ、他のすべてを否定せんとする態度にも、一顧の価値も認めません。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねます。
いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に、誤った夾雑物も蓄積しています。人間自身は気づかないでしょうが、1個の人間を特殊な信仰へ傾倒させていく地上的環境が、われわれには手に取るようにわかります。
それはそれなりに価値があることをわれわれは認めます。優れた天使の中にも、かつては誤った教義のもとに地上生活を送った者が数多くいることを知っております。われわれが敬意を払う人間とは、たとえ信じる教義が真理から大きく外れていても、“真理の探求においては真摯”な人間です。
人間がよろこぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われわれは関知しません。キリスト教的神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を飛びこえた“のぞき趣味”には、われわれは思わず後ずさりさせられます。
われわれの説く神学は至って単純であり、理性的理解のいくものに限られます。単なる空想には価値を認めません。派閥主義にも興味はありません。いたずらに怨恨と悪意と敵意と意地悪な感情を煽(あお)るのみだからです。
生活 即 宗教
われわれは“宗教”というものを、われわれにとっても人間にとっても、もっとも単純な形で関わるものとして説きます。修行場としての地上生活の中に置かれた人間は、われわれと同じ永遠不滅の霊として、果たすべき単純な義務が与えられ、それを果たすことによって一段と高度な進歩的仕事への準備を整えます。
その間、不変の摂理によって支配されます。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守すれば進歩と充足感を与えてくれます。
同時に人間は、かつて地上生活を送った霊の指導を受けます。その霊たち(5)は人間を指導・監督すべき任務を帯びているのです。ただし、その指導に従うか否かは、当人の自由意志に任せられています。
人間には善悪の判断を下す基準が先天的にそなわっており、その判断に忠実に従い、そして迷うことさえなければ、かならずや真理の道へと導いてくれるはずのものなのです。
善悪の判断を誤り、背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみです。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わいます。罪悪そのものが罰するのです。
正しい行為の選択には背後霊の指示もありますが、本来は霊的本能(良心)によって知ることができるものです。為すべきことをしていれば、進歩と幸福が訪れます。魂が成長し完成へ向けて新しい、より充実した視野が開け、喜びと安らぎをもたらします。
地上生活は生命の旅路の一過程にすぎませんが、その間の行為の結果は死後にもなお影響を残します。故意に犯した罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばなりません。
一方、善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界においてもその聖なる霊を導き、高級霊の指導教化を受け易くします。
生命はひとつにして不可分のものです。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点においてひとつであり、永遠にして不変の法則の支配下にあるという点においてもひとつです。
誰1人として特別の恩寵には与(あずか)りません。また誰1人として不可抗力の過ちのために無慈悲な懲罰を受けることもありません。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にあります。
ただし、“お情け”は神の属性ではありません。そのようなものは不要です。なぜなら、お情けは必然的に“刑罰の赦免”を意味し、それだけは、罪障をみずから償った時以外には絶対に有り得ないことだからです。衰れみは神の属性ですが、情けは人間の属性です。
いたずらに沈思黙考に耽り、人間としての義務をおろそかにする病的信仰は、われわれは是認するわけにはいきません。そのような生活では、神の栄光はいささかも高められないことを知っているからです。
われわれは仕事と祈りと崇拝の宗教を説きます。神と同胞と自分自身の魂と身体)への義務を説きます。神学的虚構をいじくり回すのは、無明(むみょう)の暗闇の中であがく愚か者に任せましょう。われわれが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次のように要約できましょう。
地上生活の規範
父なる神を崇(あが)め敬う(崇拝)…神への義務
同胞の向上進歩を扶(たす)ける(同胞愛)…隣人への義務
身体を大切にする(肉体的養生)…自己への義務
知識を取得する(知的進歩)…自己への義務
より深い真理を求める(霊的開発)…自己への義務
善行に励む(誠実な生活)…自己への義務
祈りを通して背後霊との連絡を密にする(霊的修養)…自己への義務
以上の中に、地上の人間としての在(あ)るべきおおよその姿が示されています。いかなる教派にも偏ってはなりません。理性が容認できない教えに盲目的に従ってはなりません。
一時期にしか通用しない特殊な通信を無批判に信じてはなりません。神の啓示はつねに進歩的であり、一時代、あるいは一民族によって独占されるものではないことを、いずれそなたも理解することになるでしょう。
神の啓示は、1度たりとも“終わった”ことはないのです。その昔シナイ山において啓示を垂れたように(6)、神は今なお啓示を送り続けておられるのです。人間の理解力に応じてより進歩的な啓示を送ることを、神は決しておやめになりません。
完全な啓示は存在しない
また – これ又そなたには得心しかねることでしょうが – すべての啓示は人間を通路としてもたらされるために、多かれ少なかれ人間的誤謬(ごびゅう)によって脚色されることを免れないのです。したがって、いかなる啓示も、“絶対”ということは有り得ません。
信頼性の証は合理性の有無以外には求められません。ゆえに、新しい啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致しないからといって、それは、必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのです。いずれも、それなりに真実なのです。ただ、その適用の対象を異にするのみなのです。
正しい理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設(もう)けてはなりません。啓示をよく検討し、もし理性的に得心がいけば受け入れ、得心がいかない時は、神の名においてそれを捨てさるがよろしい。
そして、あくまでも、そなたの心が得心し、進歩をもたらしてくれると確信するものにすがることです。いずれ時が来れば、われわれの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになりましょう。
われわれは根気よくその時節を待ちます。そして同時に、そなたとともに、神が人種の隔てなく、真理を求める者すべてに、より高く、より進歩的な知識と、より豊かで充実した真理への洞察力を授け給わんことを祈るものです。
神の御恵みの多からんことを!
[注釈]
(1)Trance Speaking トランス(入神)状態の霊媒の口を借りて霊がしゃべる現象で、大きい会場で行なう場合を入神講演、小さな部屋で行なう場合を入神談話ないし霊言現象と呼んでいる。霊媒の教養と人格に応じて感応する霊の程度と種類もさまざまで、したがって“霊がしゃべった”という現象だけでご大層に思うのは禁物である。
ここでは入神して無意識状態にあるモーゼスの口を使ってインペレーターがしゃべるので、モーゼス自身はその内容がわからず、録音装置のなかった当時としては筆録されたものを読むか、それを聞いた列席者からおよその内容を教えてもらうしかない。
このあとに出ている“交霊会”というのは、そうした霊媒を通じて霊と交わる催しの総称で、ここでの出席者はスピーア博士夫妻を中心に、ごく親しい知人2、3人だけだった。
(2)Latitudinarian 英国国教会内の中道派で、伝統的儀式を重視しない。正式には Broad Church といい、Latitudinarianという時は軽蔑的なニュアンスが込められている。
(3)Anglican 英国国教会の別称で、前後に出ている広教会も高教会もこの中に入る。カトリックとプロテスタントの両要素をそなえながら、どちらにも偏らない。
(4)High Church 国教会の一派で、教義や儀式を重んじる。ローマカトリックと東方正教会に近い。
(5)第1節および第2節の各注(1)を参照
(6)旧約聖書の“出エジプト記”その他に出てくる“モーセの十戒”のこと。
■2024年7月3日UP■「復刊事実上消滅」「霊媒として機能する条件」について説明させて頂きます(祈)†「シルバーバーチ愛の摂理」より抜粋 ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な能力の開発に益があるでしょうか。もちろん無いに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当たり前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます…続きを読む→