[前節の通信は、私に少なからず影響を及ぼした。即座の反論ができず、次の交信まで何日かの間が必要だった。いよいよその交信をする気持になった時、私がまずこう反論した – ]
モーゼスの苦しい立場の開陳
キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってイエスの言説に耳を傾けている図は、私にも容易に想像できます。今の時点から言えば、そのサドカイ派の学者たちは間違っていたことになります。それはわかります。しかし、思うに、それは実に無理からぬことだったのです。
理性の光だけで判断すれば、イエスの言説はとてつもないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者連中が、虚言か妄想としか思えないものを拒否したのは無理もなかったでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度は無かったとしか思えません。
ただ彼らの場合は、そのとてつもないことを言う人物が目の前にいたということ – 姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が本人の実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べがついたということです。
その点、私の場合は、影も形もないただの影響力であり、もしかしたら自分の中だけの心と心との葛藤にすぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴(つか)みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それもきわめて曖昧で、しかも、往々にして軽蔑したくなるものばかりです。
啓示だと言われても、愚かというのが言い過ぎなら、得体(えたい)が知れないとでも言わざるを得ないもので、その名のもとで行なわれているものを見たら、ショックを受けることもしばしばです。
私はどうしてよいのかわかりません。あなたという存在についても、私は何も知らないばかりか、果たして1個の独立した存在なのかどうかもわかりません。あなたに関して得心のいく手掛かりは何ひとつありません。たとえ、かつて地上で生活をしたことがあると聞かされても、私には大した意味はありません。
一体あなたは個性をそなえた存在なのですか、それとも単なる影響力にすぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば、幾分かは救われる気がします。しかし、とにもかくにも、できることなら私のことはもう一切構わないでいただきたいという心境です。
[正直いって、その頃の私は、自分の強固な信仰と強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克(そうこく)によって頭が混乱をきわめていた。そしてそれが来るべき段階へのひとつの準備としての体験であることは明らかであった。]
イエスを取り巻いていた条件との比較
友よ、そなたが疑問に思うことはよく理解できます。われわれとしても、その疑念を解く手助けをしてあげたく思います。
まずそなたは、例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけに有利であると言う。なるほど、イエスは目に見える存在でした。が、そのことは有利であるどころか、むしろ困難を増すものだったのではなかろうか。
何となれば、目の前にいるイエスという若者はナザレの大工の息子です。それを神の新たな啓示者と結びつけるのは、そなたがわれわれを神の使者と結びつけること以上に困難だったのではなかろうか。
サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれわれのことを”果たしてこれが個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻な問題ではなかったろうか。
イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れることのできる明白なもので、しかも、およそ好条件とはいえないものばかりが揃っていました。
生まれは(当時のユダヤ社会通念として)卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところがすべての民衆から背を向けられる – こうしたことはすべて現実であり、どうしようもない不利な条件でした。
あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどでした。ゆえに、たとえサドカイ派の学者にイエスの言説が理解できず、イエスを神の使者として認めなかったとしても、その学者連中には何の咎もありません。それは単に彼らがより成長した後に再び訪れるであろう進歩の好機を逸したというに過ぎないと言えるでしょう。
そなたの場合はそれとは事情が違います。そなたには目を惑わす困難は何ひとつない。知的疑念と闘っていればよい。しかも、これまでそなたに語られた言葉が、神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるはずです。
そなたも必要性を痛感するものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさにあふれ、しかもそれを受け入れる用意のある者には、強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた以外の源から発していることは十分に得心しているはずです。
何となれば、もしもそなた自身の内部から無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向から衝突することが有り得ないことは、当然そなたも認めるはずだからです。
もしもわれわれの述べるところの言説がそなたの精神から自然に発するものであれば、そなたもその公表を控える余裕をもつこともできるでしょう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説は、そなたみずから納得できないでしょう。
そうでないことは、そなたもすでに得心しています。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではありません。
やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、なぜわれわれのことを、そなたと同じく“人間”と呼ぶ個体をそなえた知的存在であることを疑ったのであろうかと、不思議に思える日も到来するでしょう。
啓示そのものと啓示を届ける者との混同
さよう、今そなたに必要なのは“時間(とき)”です。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間です。
こうまでそなたの心を深く動かしている言葉 – その深さはそなたみずからの想像すら超えているが – それはそなたの思いに通じ、そなたの苦しい立場を理解し、さらには、それに劣らず、今そなたを悩ましている懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉です。
地上時代、わたしはイエスの出現に先立つ苦難、今ふたたびくり返されつつある苦難の世相の中で使命を担わされた者のひとりでした。歴史は巡り来るものです。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わりません。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになります。
が、昼のあとに必ず夜が訪れるように、神の概念が薄れ、真実味のないものとなる時代が訪れます。すると、より明確な知識を求める内部の神の火の粉が、ふたたび炎となって燃えあがり、天に向かって神のメッセージを求めます。そこに新しい啓示の必要性が生じます。人間の魂がそれを希求するのです。
古いものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中から新しいものが芽生えます。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉にほかなりません。
いつの時代にもそうでした。そのことはそなたも知っていたはずです。こうした神と人間との関係は全歴史を通じてたどることができます。それが何ゆえに今の時代にそうであってはならないのであろうか。人類が最もそれを必要としているこの時代に、何ゆえに神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのであろうか。
このわたしについて何も知らぬから、とそなたは言う。しかし、何ゆえにそなたは啓示そのものと啓示を届ける者とを混同するのであろうか。何ゆえに神の教えと、その教えを伝える通路にすぎない者とに同一価値を置かねば気が済まないのであろうか。
ぶり返すモーゼスの猜疑心
[こうした議論の末に、ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰にひとつの確信を得ることができた。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。
それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓と、それを伝える者(インペレーター)とを区別して考えることもできるようになった。
私はそうした一連の論議 – その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが – を、再度、初めから目を通し、そこに、まさしく新しい啓示といえるものをやっと見出すことができた。
通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没(まいぼつ)してしまった。私はその時に至ってはじめて、燃える炎のごとき強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持が、その確信の炎にかき消されてしまった。
が、そう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は、容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに、私の若き日の宗教的修行もそれを許さなかった。私の脳裏にふたたび神学的見地からの反論が甦った。その最初の波が去り、2日間の間を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。
その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを、くり返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去1年間にわたる交霊の体験の価値評価もしてみた。そして次の3つの明確な結論に到達した。すなわち –
(1)私に働きかけている“影響力”は私自身とは別個の存在である。
(2)その述べるところは真実であり首尾一貫している。
(3)その宗教的教説は純粋であり崇高さがある。
以上の3点は間違いないように思えた。そこでさらに私は、その身元の確認と主義・主張の問題を探ってみた。その他の問題は後回しにしてもよいように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今もなお誠実であるはずだと強く信じ込む気持になった。
が、そこで、ふと、猜疑心が頭をもたげた。これは、もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆(くつがえ)さんと企んでいるのでは?という猜疑心である。そこで私はこう綴った – ]
私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させていただけば、あなたの教説は、取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは – これは言い過ぎでしょうが無神論にもなりうる性向をもっていると言えないでしょうか。それは、神をただのエネルギーの一種と見下げることになり、人の心に、絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。
つまり神とは宇宙に瀰漫(びまん)する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示といっても、それは神から真理が明かされたのではなく、内部から、つまり人間の心の中で想像したものにすぎないことになります。
キリスト教もそうして生まれた信仰のひとつにすぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は、程度の差こそあれ、盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。
神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、ひとりひとりが自分だけの特殊な神をもつことになります。絶対的な真理は数学以外には存在しないことになります。
結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位にすぎないことになる – それも知性が硬直化しなければ、の話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性がある、という皮肉な理屈になります。
こうした味気ない思想は、絶対的な神性を有するキリスト教の福音に取って代ろうとするものです。キリスト教の教説にはいささかの誤りもなく、その道徳性はほとんど誰にでも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。
それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることができなかったのです。なのに、あなたが説くような“善の影”ていどしかない思想、まさに影のみの存在で、漫然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代る未来への建設力をもたない教説に、どうしてそれが可能でしょうか。
その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教ですら手を焼いた反抗的民衆の心を捉えることなど、とても出来るものではないと信じます。
あなたの教説の拠って来るところが不明瞭であることについては、すでに述べたので繰り返しません。また、それが一般に普及した場合の危険性についても、改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先の話であり、ここで詳しく論じる必要性を認めません。
同時に、あなたの教説が広まると、道徳的・社会的・宗教的に人類にとって欠かすことのできない健全な結びつきを、多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。
万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄な軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。
こうした危惧はまったく私の杞憂にすぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代りになるものとは思えません。
たとえあなたの主張する通りの真正なものであるとしても、人間はエンゼルケーキ(スポンジケーキ)だけでは生きて行けないように、このような教説にしたがって生きることに耐え切れないでしょう。
その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣な面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。]
インペレーターの再度の説諭
神の御名において、われわれはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれわれの手に余るものがある。われわれの述べたところの真意を正しく理解してないようである。襲いくる感情の激動が精神を混乱させ、微妙な点の理解を不可能にしている。
それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことです。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行です。今は理解できないことも、そのうちわかるようになります。
衝動と情熱が、経験的知識と静かな確信へと変っていくでしょう。これまでの、理解して受け入れるというよりは、ただ単に同意したにすぎなかった信仰は、いかに崇高で有り難そうに思えても、入念な吟味と論理的分析から生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われわれの述べたところは、その吟味と分析に値するものばかりです。
これまで綴られたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもっていただきたい。そして、そなたとの交信に、一貫して流れるものを読み取ってもらいたい。われわれがいかなる素性の者であるかは、ぜひとも、そなたとの関わり合いの中で判断してもらいたい。
前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時に、われわれの言葉と態度、われわれの説く教えの道徳的印象によって判断してもらいたい。細かい分析によって論理上のアラ探しをするのもよいが、それと同時に、われわれから受ける霊的雰囲気によって判断してもらいたく思うのです。
さし当たっては、われわれが神の使者であることを、厳粛な気持でくり返し主張するに留めておきます。われわれが述べる言葉は神の言葉なのです。それはそなたにもわかっているはずです。その弁明に改めて言葉を費やすこともありますまい。
そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではありません。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもありません。悪魔なら、神についてわれわれのような説き方はしません。また、人間の脳からは、われわれの述べたような教説は出てこないし、われわれの与えたような証言も出てきません。精神が今少し穏やかになれば、そなたにもその事実が読み取れるようになります。
そなたの精神が今のような状態でさえなければ、神聖なものに悪魔的な要素を見出そうとしてしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところです。それはちょうど、イエスが地上の腐敗と災禍の中にあった時、彼によって追い払われた悪魔(低級な邪霊)がユダヤ教の狂信家たちの口をついて、イエスは魔王の手先であると非難したのと同一です。
われわれはそのような他愛ない非難には関わりません。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからです。じっくりと時間を掛けて熟考すれば、おのずとそなたの疑念に対する回答が出てきます。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切です。
祈る心が大切
友よ、祈るのです。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのです。
祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが、激情から発したものでもよい。とにかく、われわれとともに、啓発と耐える力を求めて祈ろう。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るのです。
光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのです。そして解き放たれた後も堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈るがよい。
そなたの求めるところが、低劣なものを求める者たちによって邪魔されることのないように祈るがよい。そなたにとって正しいものを選び出し、他人は他人なりに適切なものを選ぶに任せる、大らかな心を求めて祈られよ。
選択するにせよ拒絶するにせよ、その責任を明確に認識し、一方において頑固な偏見を避け、他方において安易な軽信に流れることのないよう祈られよ。なかんずく正直さと誠実さと謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷さと下劣さによって神の計画を損なうことのないよう祈るがよい。
かくしてわれわれの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手をさし延べんとして待機する、高級界の神の使者たちの愛と慰めを引き寄せることになるのです。スピリチュアリズムが一般社会にもたらす影響についてのそなたの批判に関しては、すでにその大半に答えてあるはずです。
表面的活動の底流には、そなたの目に映じない大切なものが存在することを指摘してあります。いつの時代であれ、神の知識の発達過程には、人目につかぬところで密かに新しい啓示をむさぼり求め、さらに高い真理を求めて着実に成長しつつある者が、必ずいるものです。
今の時代とて同じであることを述べているのです。そなたと同じく、酔狂に心霊現象をもてあそぶ者たちの存在を憂えつつも、それによっていささかも信念を揺るがされることなく、真摯にわれわれ霊の教えを心の支えとしている者がいる – 実に大勢いるのです。その信念には“事実”という基盤があるからです。(3)
交霊にも厳然たる摂理がある
さらにそなたに指摘しておきたいことは、われわれ霊界の者と地上との交霊は、地上の科学ではまだ捉えきれない法則によって支配されていることです。しかも、われわれの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われわれにすらよく分からないものが多々あるのです。
そなたの保護のために勝手に規則を定めるわけにはいかないのです。われわれ自身の保護すらままならないのです。そなたが関わっているこの仕事の遠大な重要性については、この仕事に興味を示す者にすら、本当のところはほとんど理解されておりません。多くの場合、ただの好奇心の程度を出ておりません。それよりさらに下劣な動機に動かされている者もいます。
霊媒の管理が適切さを欠いています。そのため、霊界との連絡がうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労ぎみの者もいます。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なります。
われわれもその条件の変化には必ずしも対処できるとはかぎりません。出席者の構成が適切さを欠いていることもあります。そうした諸条件の重なり合いが、交霊現象をつねに同質のものに保ち規則正しいものにすることを不可能にしているのです。
現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また、目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにしてしまう原因もそこにあります。
この問題についてはまだまだ言うべきことがあるのですが、今はそれ以上に大切なものが迫っております。これまで述べたところによって、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、多くの交霊会での下らぬ現象を寛恕の目をもって評価しなければならない理由の一端がわかってもらえると思います。
偽称霊の侵入する交霊会に至っては、今は述べる言葉を持ち合わせません。よほど低級な霊の仕業であり、すべて信じるに足らず、不愉快きわまります。
その点に関してそなたはわれわれの手助けができるはずです。愚かな好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいは、そなたに出来るはずです。と言うのは、そなたはわれわれのサークルにおいてわれわれの指図どおりに行ない、現象が次第に発展してきた経緯(いきさつ)を知悉(ちしつ)しているからです。
他の交霊会の者たちにも同じ指図を与えてほしいのです。やがて暗雲も晴れることでしょう。ともあれ、交霊会にまつわる問題の原因は、われわれの側と同様にそなたらの側にもあることだけは確かです。
†インペレーター
[注釈]
(1)Deism 理性と自然のみを拠りどころとする有神論で、宇宙は神によって創造されたが、創造後は法則のみで機能し、霊的啓示などはないとする説。18世紀のヨーロッパで流行した。
(2)Pantheism 森羅万象が神性の具現したものとする思想。スピリチュアリズムも汎神論と言えなくもないが、物質界は神性のごく一部の顕現にすぎず、内的世界でも無限の次元で神性が顕現し、今後も永久に顕現し続けるとするところが、従来の汎神論と異なる。
(3)スピリチュアリズムの基盤が心霊科学という実証性をもつ学問にあることを指摘している。人間が永遠不滅の霊性を有し、現在の個性をそのまま携えて死後もさまざまな次元で生活する – 地上生活はその出発点である、というのがスピリチュアリズムの基本思想であるが、もしもそれだけのものだったら世界中の太古の霊的思想もみなそうだったのではないかということになる。
が、1848年の米国ハイズビル村におけるスリラーもどきの心霊現象、俗にいうハイズビル事件をきっかけとして欧米の第1級の化学者・物理学者・天文学者・文学者・判事その他、あらゆる分野の専門家が大挙して、いわゆる“霊媒現象”の真偽性を追求し、調査・検討するという動きが起こり、それに真剣に取り組んだ人はひとりの例外もなくその真実性を確信するに至っている。
インペレーターのいう“酔狂に心霊現象を弄ぶ者”というのは、単なる好奇心から面白半分に交霊会を開く者たちのことで、その種の交霊会に呼ばれる霊媒は金儲けが目当てであるから、その背後で働く霊は低級霊であり、中には邪悪な考えをもつ者もいる。
ために、後でとかくの悪評(うわさ)が立つ。モーゼスがスピリチュアリズムを毛嫌いしたのは、その種の交霊会が念頭にあったからである。
現在のスピリチュアリズムの潮流は、世界的にみても現象的なものから霊言や心霊治療・因縁除去といった精神的なものへ移行しつつあるが、そうなったらそうなったで、その分野でもモノマネ専門や法外な金銭を要求する悪徳霊能者がのさばりつつあるので、警戒が肝要である。
■2022年6月29日UP■「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし(ガラテア6・7)神の摂理は絶対にごまかされません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染込んだ汚れが、それくらいの事で一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言で全てが赦されるとしたら果たして神は公正であると言えるでしょうか…続きを読む→ ■2022年6月8日UP■「怒られる」とずっと霊団から言われ続けているのです。本末転倒の究極形(祈)†物質界での行いがそのまま帰幽後の霊界における境涯を決定します。善い行いをした者は幸福な美しい境涯(上層界)に、私利私欲に走り他人を傷つけた者は暗黒の惨めな境涯(下層界)に赴きます。「神の因果律」の働きにより機械的自動的にそうなるのです。物質界における邪悪発生の原因は「人間は肉体が死んだらそれで終わり」と思っている事に全て起因します。肉体の死後も霊界で人生が継続される事、物質界での行いの賞罰が寸分の狂いもなく自分に降ってくる、自分の行いに全て自分で責任を取らされるという霊的知識の基本中の基本を全く理解していない事から物質界の邪悪が発生しているのです。奴隷の女の子を強姦殺人し続け、国民に延々とウソニュースを流し続け、国民の宝物を搾取し続けたその先に、どれほどの地獄が待ち受けているか。それを全く理解していない事が全ての原因なのです…続きを読む→ ■2022年5月18日UP■「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→