[思うに、私がこうして執拗に反抗しているのを、私の知友たちはさぞかし満足に思っていたことであろう。しかし、私としては、激しく私の魂を揺さぶるこの不思議な通信を徹底的に究明する以外に、それに忠実な道が見出せなかったというに過ぎない。
私はどうしても得心がいかないし、得心できないままでいることも出来なかった。そこで再び論争を挑んだ。インペレーターの通信が終わると私はそれを細かく読み、2日後(1873年7月14日)に、その中でどうしても受け入れられない点について反論した。それは次の3点だった。
(1)インペレーターの地上時代の身元
(2)イエス・キリストの本質と使命
(3)通信の内容の真実性を示す証拠
私は以上の3点について私以外の霊媒を通じて通信するよう要求し、その霊媒を私の方から指定しようと思うがどうか、と述べた。同時に、これまでの通信の内容について幾つか反論したが、それは今ここで取りあげるほどのものではない。
とにかく私はその時点での私の確信を有りのままに表明したが、今にして思えば、私の反論は不十分な知識の上でなされていたことがわかる。それはその後順次解決されていき、解決されていないものも、やがて解決されるであろうとの確信がもてるようになった。
そうは言っても、当時の私の心境はおよそ満足といえるものからは程遠く、私は忌憚(きたん)なくその不満を打ち開けた。以下がそれに対する回答である – ]
人間的視野と霊的視野
友よ、そなたの述べることに率直さと明快さとがうかがえて喜ばしく思います。もっとも、そなたは、われわれの述べることにそれが欠けていると非難しておられるが…。
(われわれの身元についての)そなたの要求については、そう要求する心境はわからないわけではないが、それに応じるわけにはいかないし、たとえ応じても何の益にもなりません。
申し添えますが、そなたの要求のすべてにすぐに応じないからといって、われわれの側にそなたに満足を与える意志がないわけでは決してありません。
われわれとしても、そなたの心に確信を植えつけたいと切に願っているのです。が、そうするためには、われわれの側にもその時期と手段とに条件があるのです。計画の一部たりとも阻害され、あるいは遅延のやむなきに至ることは、われわれにとってこの上なく残念なことであり、遺憾に思います。そなたにとっても、われわれにとっても残念なことです。
が、結果としてこうなった以上は、致し方ないでしょう。われらとて全能ではありません。これまでどおりの論議と証言の過程による以外に対処する手段はありません。
その論議も証言も、今のところそなたの心に得心がいかぬとみえます。ということは、そなたにそれを受け入れる備えができていないということとみて、われわれは、それが素直にそなたの心に安住の地を見出す日を忍耐づよく待つとしましょう。
そなたが提出した疑問については、そのほとんどに回答の必要を認めません。現時点で必要とみたものについては、すでに回答を与えてあるからです。すでに回答を与えてあるものについて改めて述べても、意義があるとは思えません。単なる見解の相違にすぎない問題について深入りするのは無意味でしょう。
われわれの述べたところが、これまでのわれわれの言動に照らしてみて果たして一致するか否かといったことは、些細(ささい)な問題です。そなたの今の心境は、そうした問題について冷静な判断を下せる状態ではありません。
また、いわゆるスピリチュアリズムなる思想が究極においてわれわれの言うとおりのものとなるか、それともそなたが主張するようなものとなるかは、こ
れ又どうでもよい問題です。
われわれはその問題について一段と高い視野に立って考察しており、それは今のそなたには理解の及ばぬところです。そなたの視野は限られており、それに較べてわれわれは、はるかに広い視野のもとに眺めています。
また、そなたがわれわれの教えをキリスト教の論理的展開のひとつとみるか否かも、取るに足らぬ問題です。その道徳的崇高性はそなたも認めております。その論理的根拠については、今ここで論じる必要を認めません。
そなたが信じようが信じまいが、地上人類が絶対必要としているものであり、そなたが受け入れるか否かに関わりなく、遅かれ早かれ、感謝の念をもって人類に受け入れられていく教えなのです。そなたがわれわれの存在を認め、その布教に手を貸す貸さぬにお構いなく、きっと普及していく教えです。
われわれとしては、そなたのことを、良い霊媒を得たと喜んでいました。そして今もそう思っております。何となれば、そなたの今の混乱する心境は一過性のものにすぎず、やがて疑うだけ疑った暁に生まれる確信へと変っていくことでしょう。
が、不幸にしてそうならずに、そなたの選択が失敗だったことになれば、われわれは再び神の命令を仰ぎ、われわれに託された使命達成のために、新たなる手段を見出さねばならないことになります。
もっとも、霊媒はわれわれの究極の目的にとって絶対不可欠というものでもありません。(1)が、使用する以上は良い霊媒であることが望ましいにきまっています。われわれがこの上なく嘆かわしく思うのは、そなたが、そなた自身にとっても啓発と向上の絶好の手段となるべきものを拒否する態度に出ていることです。
が、それもわれわれの手の及ぶところではありません。自由意志による判断に基づいて、そなたがあくまでも拒否するというのであれば、われわれとしてはその決断を尊重し、そなたが精神的にわれわれが提供したものを受け入れる用意がなかったことを残念に思うほかはありません。
霊の身元の証明は無益
われわれの身元についてですが、そなたが要求するような押しつけがましい方法で証明せんとすることは無益、というよりは、いたずらに混迷を大きくするのみでしょう。そのような試みは失敗に終ります。そして絶対的確信を得ることはできないでしょう。
間接的証拠ならば折々に提供していくこともできないわけではありません。好機があればその機を利用するに吝(やぶさ)かではありません。われわれとの縁が長びけば、それだけそうした機会も多く、証拠も多く蓄積されていくことでしょう。
が、われわれの教説は、もっと堅固(けんご)なものを基盤としなければなりません。そのような実体のない基盤(2)の上に成り立つものではありません。そのような証拠では“時”の試練には耐え切れないでしょう。
われわれは、あくまでも精神的基盤の上に訴えます。地上的なものでは一時的で、およそ得心のいくものでないことを、そなたもそのうち悟る日が来ることを断言しておきます。
とは言え、今のそなたの精神状態は、得心のいく証拠を要求できる状態ではありません。われわれは神の味方か、それとも悪魔か、そのいずれかでしょう。もしもわれわれが、みずから公言しているごとく神の味方であるとすれば、そなたが言うような、世間から嘲笑をもって受け止められるような言説を、わざわざでっち上げるはずはないでしょう。
一方、もしもわれわれが、そなたが思いたがるように悪魔の手先であるとすれば、その悪魔の述べる言説が明らかに崇高な神性を帯びているのはなぜか、みずから問い直してみられるがよろしい。われわれとしては、このような問題にこれ以上関わろうとは思いません。
これまでわれわれが述べてきたところを正しく吟味・検討してくれさえすれば、それが悪魔の言葉と結論づけられる気遣いは毛頭ありません。関心を向けるべきは通信の内容であり、通信者の身元ではありません。
メッセンジャーよりメッセージの方が大切
われわれ自身のことはどうでもよいことです。大事なのは神の仕事であり、神の真理です。今のそなたにとっても、未来のそなたにとっても、大切なのはメッセージそのものです。そのことを時間を掛けてじっくり考え、とくと反省されたい。
どうやら、そなたを中心として得られた啓示の顕(あらわ)れ方がいささか急激にすぎ、そなたの目を眩(くら)ませたようです。言いたいことも多々あることでしょうが、今は黙して真摯に、そして厳粛に熟考していただきたい。われわれも暫(しば)し身を引き、そなたにその沈思黙考のための余裕を与えたいと思います。
と言うことは、そなたひとりを置き去りにするということではありません。よりいっそうの警戒心をもつ複数の守護霊と、より経験豊かな複数の指導の霊がそばに待機することになりましょう。その方が、われわれにとっても得策であるように思えます。
事がこうなってしまった以上は、果たしてこれより後もこの仕事を続行すべきか否か、それとも、これまでの努力が無益であったと見なして改めて初めからやり直すべきか否かを“時”が判断してくれるかも知れないからです。
いずれにせよ、これほど多くの努力と、これほど多くの祈りを傾注した仕事が実を結ぶことなく地に落ちるとは、何とも悲しい失望であることには相違ないでしょう。しかし、われわれもそなたも、あくまで内に宿された道義の光に照らして行動せねばなりません。
これまでの経緯(いきさつ)に関するかぎり、責任はすべてわれわれの側にあります。ゆえに、われわれは問題を解決すべく何らかの手を打たねばなりません。これまでよりさらに多くの祈りを、いっそうの熱意を込めてそなたに送ることにしましょう。きっと効果があるであろうことを確信します。
では、これにて失礼します。神の加護と導きのあらんことを。
†インペレーター
他の霊媒を通じての身元の確認の失敗
[このあと私は数回にわたって通信を試みた。また初めに示唆した通りに、一面識もない霊媒のところへ行ってみた。そして、私の背後霊についての情報、とくにインペレーターの身元の確認を得ようと、できるかぎりのことを試みてみた。が、無駄だった。
得られた情報は、私についている霊は Zoud と名のるロシア人の歴史家だということだけだった。帰宅すると私はさっそくそのことを書いて通信を求めた。すると(インペレーターとは別の霊が)その霊媒の述べたことは間違いであると断言してから、こう綴った – ]
われわれとしては、そのような霊言を信じることはとても勧められません。信頼が置けないからです。忠告を無視して一面識もない、しかも、われわれと何の協力関係もない霊たちと通信を試みれば、信の置けない通信を受け取り、事態をますます混乱させることになります。
[この忠告にも私は強く反発し、あの機会を利用してくれていれば、わたしの合理的要求を満たすことは容易にできたはずだと述べた。すると同じ霊が – ]
それは違います。われわれの側としても、満足を与えてあげたい気持は山々です。が、あの会場への出現は頭(チーフ)(インペレーター)から止められたのです。しかも、われわれはあなたの出席は阻止できなかったのです。
あのような体験は今のあなたには毒になるだけです。禍いを招くことにしかならないので、今後は一切あのような招霊会には出席せぬよう、厳重に忠告しておきます。
今あなたにとって必要なのは“耐えること”です。性急に無理じいすることは、いたずらに迷惑と困惑をわれわれに与えるのみです。それよりも、静かに心を休め、待つことの方がはるかによろしい。すべてチーフが良きに計らってくださいます。早まった行動は誤りのもとです。
[しかし(と私は反抗的に述べた)、あなたたちこそグルになって私を迷わせているようにしか思えません。私の要求には何ひとつ応じられないというのですか。]
友よ、そなたが要求するような数学的ともいうべき正確な証拠は、得ようとしても、所詮、無理です。われわれとしても、そなたが求める通りのものを授けることはできません。たとえできたとしても、それがそなたにとって益になるとは思えません。すべては、われわれの側で良きに計らってあります。
[これはインペレーターである。私はとても気持が治まらないので、やむなく通信をいったん中止した。そして7月24日に神学上の問題について幾つかの質問を提出した。そのひとつは例の「私と父はひとつである(3)」という有名な文句に言及したものだった。
以前、霊言による対話の中で私は、インペレーターの言説がこの文句と相容れないものであることを主張したことがあったのである。そういう経緯もあって質問することになったのであるが、それに対してこう回答してきた – ]
“私と父はひとつである”の真意
そなたが引用した文句は前後の脈絡の中において理解しなければなりません。その時イエスは、エルサレムでハヌカー祭(4)に出席していました。その折、そこに集まった民衆が“もしもあなたがキリストだと言うのであれば、その明確な証(あかし)を見せてほしい”とイエスに迫ったのです。
彼らは今のそなたと同様に、疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのです。そこでイエスは、われわれと同じく、自分が説く教えと、その教えによってもたらされるものの中に神のしるしを見てほしいと述べました。
同時に、それを理解するだけの備えのある者 – イエスのいう“父のひつじたち” – は、その教えの中に父の声を聞き、それに答えたのと同じことであると述べました。
が、質問者たちはそのような回答を受け入れることができなかった。なぜなら、彼らにはイエスの言っていることが理解できず、信じる心の準備ができていなかったからです。備えのある者はイエスの言葉にしたがって永遠の生命と進歩と生き甲斐を得ました。
それが神の意図するところであり、それを妨げることは誰にもできません。彼らは父のもとに預けられたのであり、彼らのみならず、人類のすべてに新たな息吹きを吹き込んだのです。すなわち、父なる神と、その真理の教師であるイエスとが一体となった – 「私と父はひとつである。」
イエスはそう述べたのです。が、ユダヤ人たちはそれを神の名誉を奪うものであるとして、非難のつぶてを投げつけました。しかし、イエスの弁明は正しかったのです。どう正しかったか。おのれの神性を認め、神の子であることを弁明した点において正しかったのです。
同じことがこのわたしにも弁明できるかとおっしゃるか?(6)それはできません。が、その心に陰日向(ひなた)のひとかけらもないイエスは、その非難に驚き、こう聞き返した – 自分の行なえる奇跡のどれをもって非難するのか、と。
非難者たちは答えました。奇跡のことを非難しているのではない。完全なる神と一体であるなどと公言するその傲慢(ごうまん)不遜の態度を非難するのである、と。
そう言われたイエスは、これを無視して取り合わなかった。なぜか。バイブルにもあるように、イエスは自分と神とが一体であるとの言葉を霊性に目覚めた者すべてに適用し、「あなたたちも神である」と述べていたからです。
ならば、イエスほどの特殊な使命を背負った人物が自分は神の子であると述べて、果たしてそれが不遜な言葉と言えるでしょうか。疑うのなら、私の為せる業(わざ)を見よ、とも言っております。そこには、自分こそ神であるなどという意味はひとかけらもありません。むしろその逆です。
モーゼス、旅に出る
[翌25日、私が霊媒となって交霊会を開き、インペレーターがしゃべった。(7)がこれといって私の精神状態に触れたものは出ていなかった。他の列席者は私の抱える事情にはまったく関心がなく、私を通じて彼らなりの問題を提出して、それなりの解決を得た。
その間、私の意識は休止状態なので、霊言そのものには影響はなかった。そのあと、最近他界したばかりの知人が出て、私しか知らない事実に言及し、確かな身元の確認が得られた。これには私も感心したが、満足は得られなかった。
それから夏休暇(8)に入り、私はロンドンを発ってアイルランドへの旅に出た。行った先でロンドンの病床にある友人に関する興味ぶかい通信を得たが、私の1番の悩みを解決するものではなかった。
アイルランドからこんどはウェールズへ向かった。そして8月24日にインペレーターからの別の通信を受け取った。
これは披露しておく必要があると思うのでこのあと紹介するが、この時も私は懸命に私のかねてからの要求に対する回答を引き出そうとしたが、どうしてみたところで私の為にならぬという警告を受けた。
その時の私の体調があまり勝れず、精神状態は混乱していた。先のことをあまり考えず、これまでの経過をよく復習するようにとの忠告を受けた。]
モーゼスの焦る心を諭(さと)す
これまでたどってきた道をよく振り返ってみることです。われわれに許された範囲でそなたのために尽くしてきた、もろもろのことを細かく吟味し直すことです。その上で今そなたが目の前にしているものの価値をくり返し検討してみるがよい。その価値を正しく評価し、われの言説の崇高性に着目してもらいたい。
われわれは、そなたの今の精神状態が生み出す疑問そのものを咎めるつもりはありません。そなたが何もかも懐疑的態度でもって検討することはやむを得ません。ただ、そなたの性急な性格があまりに結論を焦りすぎることを注意しているのです。精神的に混乱するのもそのせいです。何かと面倒が生じるのもそのせいです。
それを咎めているのではありません。われわれが指摘しているのは、そのような心の姿勢では公平無私な判断は下せないということです。その性急な態度を和らげ、結論を焦る気持を抑え、一方ではアラ探し的な批判をやめ、われわれの言説の中に建設的な面を見出してもらいたい。今のところ、そなたはあまりに破壊的すぎます。
さらに友よ、そなたが抱いている疑問と混乱は、それが取り除かれるまでは、われわれの今後の進展にとっても障害となることを忘れないでほしい。これまでも大いに障害となり、手控えざるをえないこともよくありました。が、それは、事の性質上やむをえなかったといえるでしょう。
が、これ以後は思い切り心を切り換え、判断を迷わせる原因となってきたわだかまりを、きれいさっぱりと洗い流してほしい。しばしの休息と隔離のあと、ぜひそうなってくれることを期待しています。
われわれが出る交霊会も、出席者が和気あいあいの精神に満ちていることが何より大切です。湧き出る疑念は、旅人を迷わせるモヤと同じく、われわれの行く手を阻みます。モヤの中では仕事はできません。ぜひとも取り除かねばなりません。
先入観を棄てて素直に過去を点検すれば、きっきっと取り除かれるであろうことを信じて疑いません。そなたの心の地平線に真理の太陽が昇れば、立ちどころに消滅することでしょう。そして眼前に広がる新たな視野に驚くことでしょう。
ムキにならぬことです。そなたにとって目新しく聞き慣れないものも、ただそれだけの理由で拒絶することはやめていただきたい。そなたの判断の光に照らして吟味し、必要とあらば取りあえずそれは脇へ置き、もう1歩進んだ啓発を求めるがよい。真摯にしてまっ正直な心には、時が至ればすべてが叶えられます。
今のそなたにとって目新しく聞き慣れぬことも、いつかはしっくりと得心のいく段階に到達します。ともかく、そなたの知らない新しい真理、これから学ばねばならない真理、改めねばならない古い誤りが、まだまだ幾らでも存在するという事実を忘れないことです。待つことです。そして、祈ることです。
†インペレーター
[注釈]
(1)1848年の“ハイズビル事件”を契機として始まった地上の霊的浄化運動、いわゆるスピリチュアリズムは、高級界からの霊力を地上に根づかせるための本格的な働きかけであると言われ、それが“究極の目的”であるが、たとえばシルバーバーチにとってはバーバネルの霊言能力を利用して平易な霊的真理を説くことが当面の目的であったように、インペレーターにとっては、モーゼスという一牧師の自動書記能力を利用して、キリスト教の誤りを指摘することによって正しい霊的真理を説くことが、直接の目的だった。
こうした霊言能力や自動書記能力は、最近はやりの超能力と同じく、人間の目には不思議に映るのでいかにも凄そうに思えるが、インペレーターもシルバーバーチも口を揃えて、こうした手段に出なければならないのは本当は地上人類がまだまだ霊的に未熟だからで、最高の指導は霊と霊との直接の感応、いわゆる以心伝心、テレパシー、ないしインスピレーションであると述べている。私はそれができる人物を“霊覚者”と呼んで、“霊能者”と区別している。
(2)地上の人物にとっては、霊が地上時代の氏名を明かし、その人物らしい内容の思想を述べ、その時代の歴史的事実を知っていたりすると、もうそれだけで、まさしくその人物と思いたくなるが、霊は名のろうと思えば何とでも名のれること、その人物に関する歴史的事実はまったく当てにならないこと、立派な霊ほど地上時代の自分が恥ずかしいほどつまらなく思えるものであること、歴史上の人物や神話・伝説上の神々や英雄の名をかたってそれらしくしゃべるのを得意とする低級霊のモノマネ集団がいること、こうした理由から、高級霊ほど地上時代の身元は絶対といってよいほど明かさない。
(3)ヨハネ福音書 10・30
(4)Hanukah 古代シリアのアンチオコス4世によって奪われたエルサレムの神殿を、ユダヤの独立運動の指導者マカベウスが奪回したことを記念する祭。
(5)the Christ 現在ではイエスの姓のような使われ方をしているが、もともとはメシヤ、いわゆる“救い主”の意味で、のちのイエスの“しるしと不思議”つまり奇跡的現象や病気治療のすごさを見て、この人こそユダヤの救い主だということで Jesus the Christ“救い主イエス”と呼んだ。それがいつしかイエス・キリストという固有名詞になっていった。
(6)この質問はモーゼスが書いたのではなく、モーゼスの心に湧いて出た疑問を読み取ったもの。
(7)スピーア博士宅ではこの霊言が多かったが、モーゼス自身は入神状態なので記憶がなく、したがって客観的な証拠とはなっていない。
(8)当時モーゼスは学校の教師だった。
■2024年5月1日UP■「いま目の前にある観念と混同してはいけません」霊的視点で物事を見ろという事です(祈)†そしてイエス様ですが、実の母を含めた家族全員からつまはじきにされ、ついにエルサレムにひとりで出稼ぎに出される寸前まで行きますが、そこでヘリが3年後にやってくるという約束を前倒しして2年でイエス様のもとにやってきて間一髪のところで助けてくれます。少年イエス様は家族から完全に離れてヘリとともに砂漠の流浪民族のもとに赴き、そこで成人します。このヘリとの生活の中で心霊治療能力等の霊能が完全の域を極めていきます。幼少期から成人するまでひたすら苦難、嫉妬、迫害の連続という事です。僕は霊能とは全く関係ない漫画家の人生を何の迷いもなく選び、そこから挫折と苦悩が始まりますが、僕が漫画界で味わった苦しみなどはイエス様が幼少期から受け続けた苦悩の1万分の1にも満たないでしょう。そして成人してからのイエス様は行く先々で病人を治しまくって「メシヤだ」と噂されて大騒ぎになりますが、慕ってくる人も多かったですが敵も多く、最後は皆さまご存じの通り嫉妬に駆られたバカども(律法学者、ローマの権力者等)によって磔刑(はりつけ)にされて殺されます…続きを読む→ ■2023年10月18日UP■「進化とはなかよしの事」深いインスピレーションですが僕には耳が痛いですね(祈)†「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体の情報拡散だけは徹底的に僕にやらせて、僕の次の世代の使命遂行者が仕事をやりやすいように畑だけは耕しておくが、滅ぼす事は僕の代ではやらない。霊団はタダ僕にその苦しいタネ蒔きを続けさせて霊的に向上させて帰幽させる事だけを考えていたのではないか。交霊会やるやるとずっと言い続けてまるっきりやろうともしない、サークルメンバー問題も全く解決させようともせず交霊会をおこなう環境など全然整っていないのに、ただ口だけ延々とやるやる言い続けてくる。これもどう考えてもおかしい。バーバネル氏が支配霊というのもおかしい。物質界生活中に僕にできるだけ霊的知識を獲得させておくために交霊会交霊会言い続けてお勉強させるのが真の目的だったのではないか。つまり僕の仕事の本当の舞台は霊界であって、帰幽後にイエス様(さすがに直で仕事を賜る事はないと思いますが間接的にはあるかも知れません)から言いつけられる仕事をおこなう事の出来る霊的知識および霊格を物質界生活中に身につけさせるためにムチャクチャな試練を浴びせられているという事なのではないか…続きを読む→ ■2023年12月13日UP■「進歩したい気持ちでいっぱいです」霊団以上に僕がそう思ってますよ(祈)†私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを…続きを読む→