霊とは何かを言語によって完璧に描写する事は絶対に不可能です。無限だからです。言語は全て有限です。私はこれからそれを何とか説明してみようと思いますが、いかにうまく表現してみたところで霊力のほんのお粗末でぎこちない描写でしかない事をご承知ください。
宇宙の大霊すなわち神が、腹を立てたり残酷な仕打ちをしたりわがままを言ったりするような“人間的”存在ではない事は、すでにご承知でしょう。何度も言ってきたように、神とは法則であり、その背後に働く精神であり、森羅万象の無数の顕現を支える力です。それは生命そのものであり、生命を構成する根源的要素です。その中に極小と極大の区別もありません。
こうした大まかな表現によって私たちは自分本来の姿、つまりミクロの神でありミニチュアの宇宙である自我について、どうにかその片鱗をつかむ事ができます。全体を理解するにはあまりに大きすぎます。あなた方がこうして地上に生を享(う)けたのは、その内部の神性を少しでも多く発現させるためです。それは永遠に終る事のない道程です。なぜなら神性は無限に顕現するものだからです。神性の本性として自発的に顕現を求め、それがあらゆる種類の美徳と善行、つまり親切、同情、寛容、慈愛、哀れみ、友情、情愛、無私の愛となって表現されます。その量が多ければ多いほど、それを発現している霊は偉大である事になります。
では、いかにすればこの驚異的な潜在的神性を意識的に発現させる事ができるのでしょうか。
それに関して地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮(しず)め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。要するに物的混沌から抜け出させ、霊的静寂の中へと導く事を主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説く事には賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。
自我を一時的に潜在意識にコントロールさせ、それをきっかけにして内部の生命力とのつながりをより緊密に、そしてより強くさせる事を目的とした内観法が幾つかあります。それが次第に深まれば霊界からのインスピレーションを受ける事も多くなります。まず心霊的(サイキック)な面が開発されます。続いて霊的(スピリチュアル)な面が開発され(※)、宇宙の内奥に存在する生命力がふんだんに流れ込むようになります。(※サイキックとスピリチュアルの違いは、こうした自我の開発の他に心霊能力にも心霊治療にもあります。心霊治療については第7章でシルバーバーチが詳しく説明しています。心霊能力について言えば、例えば単なる透視力は動物の超能力と同じで五感の延長にすぎません。これがサイキックです。つまり目の前に存在するもの – 地上にせよ霊界にせよ – しか見えません。これに背後霊の働きが加わり、その場に存在しないもの、あるいは高次元の世界のものを映像またはシンボルの形で見せられるようになれば、それがスピリチュアルです。 – 訳者)
ある種のテクニックを身につければ病気を自分で治し、体内の不純物を排出し、欠陥を矯正する事ができるようになります。自我の全ての側面 – 霊と精神と身体の調和を成就する事ができます。かくして霊性が本来の優位を確保していくに従って霊的叡智、霊的理解、霊的平穏、霊的静寂が増し、不滅の霊力との真のつながりを自覚するようになります。

「デビルストッピング」強姦殺人魔(悪魔)が停止中という意味か?分からないなぁ(祈)†
物質界生活中に邪悪な人間の手によって苦しめられ、大いに試練を味わわされた僕たち善良な国民は帰幽後、明るい境涯に赴き、大いに自由を堪能する事になります。そして物質界生活中に奴隷の女の子を強姦殺人し続けた明仁、文仁、徳仁、悠仁は、魂も凍る暗黒の底の底に落ちて千年万年にわたる正真正銘の地獄を味わわされる事になります。そういう意味では「神の公正」がこの宇宙に厳然と働いており、それに身を委ねている限り何も恐れる事も心配する事もないという理屈になるのですが、結局物質界が最悪の場所である事は変えようとしないという事ですか、その部分だけがどうにも納得いかない。確かに霊的知識によれば真の安寧(あんねい)は霊界にこそあり、物質界生活中に幸福を求める事自体が本末転倒であり、物質界でどれだけ頑張るかによって帰幽後の霊界での幸福度が決定するという意味では、霊界での幸せを求めて物質界人生を耐え抜く事が重要と言えるのですが…続きを読む→

「十戒」DVD主要シーンをキャプりました。もっと霊的シーン満載であって欲しかった(祈)†
やはり「海割り」のシーンは何度見ても爽快ですね。この紀元前12世紀のモーセ氏が僕の「100の光の霊団」に協力して下さっているなどという事がどうして信じられるでしょう。霊団にそのような事を言われてもまるで絵空事のように聞こえます。よほど強烈な霊現象か何かでもこの眼で見ない限りそんな事は信じられるはずもありません。しかし霊団は「私を信じて欲しい」と言ってきてます。このインスピレーションがモーセ氏の思念という根拠はどこにもありませんので、まずは静観しておきましょう。これまでの霊団の動きからして、何もなく素通りしていくに決まってますので。ひとつたりとも言った通りになった事がありませんからね。しかし久々にムービーの作業をやってみて、やはりムービーは大事だなぁと改めて思ったりもします。僕はYouTubeにムービーをUPしても100%消されますから「消されると分かっているモノに対してパワーはかけられない」という気持ちが働いてトレイルムービーを作り続けられなくなったという経緯がありますが、このようにWordPress上にUPする事も一応できます…続きを見る→