[本節の通信も、前節と同じくインペレーターからのものである。地上という養成学校における、もっとも望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。それに対してインペレーターは、頭脳と同時に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和のとれた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であるという。そこで私は、博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると – ]
真の博愛主義者・真の求道者
真実の博愛主義者、すべてに先んじて同胞の利益と進歩とをおもんぱかる人こそ、真実の人間、真の神の子です。神こそ無上の博愛主義者だからです。
真の博愛主義者とは、時々刻々、神へ近づきつつある者のことです。絶え間ない努力によって永遠・不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わいます。博愛主義者と求道(ぐどう)者、すなわち人類愛に燃える人間、偏見のない真理探究者こそ神の宝、比類ない価値と将来性に満ちた珠玉です。
前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁(いっしどうじん)、全人類を同胞として、その温かい心の中に抱き込みます。
すべての人間を友として、また兄弟として愛するのです。思想のいかんを問わず、ひたすらその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える – こういう人こそ真の博愛主義者です。
もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいます。自分の名声を広めんがために、自分に同調する者、媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛します。このような似非(えせ)博愛主義者は、その真実の印である“愛”の名を傷つける者というべきです。
一方求道者は、いっさいの宗教、いかなる教派の教義(ドグマ)にも媚(こ)びず、いっさいの偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものであれば潔(いさぎよ)く受け入れます。
すなわち、かくあるべし – したがってかくあらねばならない、という固定観念に捉われることなく、神的叡智の探究に邁進(まいしん)し、そこに幸せを見出します。
彼には、宝庫の尽きることを懸念する必要などありません。神の真理は無限だからです。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集(しゅうしゅう)に喜びを見出すのです。言いかえれば、神についての、より正しい知識の蒐集です。
この2者の結合、すなわち博愛主義者的要素と求道者的要素とが一体となったとき、そこに完璧な理想像ができあがります。両者を兼ねそなえた魂は、片方のみを有する魂より大きな進歩を遂げます。
– “生命の旅”と言われましたが、それは永遠ですか。
さよう、生命は永遠です。そう信じるに足る十分な証(あかし)があります。生命の旅には2つの段階があります。すなわち進歩的な“動”の世界と、超越的な“静”の世界です。
今なお“動”の世界にあって、人間の用語でいえば、幾十億年、限りある知性の範囲を超えた、事実上無限の彼方までの進化の道程を歩まんとしているわれらとて、超越界については何ひとつ知りません。
しかし、われわれは信じています – その果てしない未来永劫(えいごう)の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去のすべてを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙のいっさいの秘密に通じることになる、と。が、それ以上は何ひとつ語れません。あまりに高く、あまりに遠すぎるからです。
人間はそこまで背伸びすることはありません。生命には、事実上、終末はないものと心得るがよろしい。そして、その無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院へ通じる、はるか手前の門に近づくことを心がけておればよろしい。
– 無論そうであろうと思います。あなたご自身は、地上におられた時よりも神について多くのことを知られましたか。
神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く、温かいエネルギーの作用については、より多くを知ることができました。つまり“神について”は知ることができました。しかし、“神そのもの”を直接には知りえません。これより後も、かの超越界に入るまでは知りえないでしょう。われらにとっても、神は“その働きによって”知るのみです。
人間の無知が生み出す罪悪
[引き続いての対話の中で、私はふたたび善と悪との闘いに言及した。それに対して、というよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が綴られた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが10年ないし12年続いて、ふたたび一時的な凪(なぎ)が訪れると述べた。予言めいたことを述べたのはこれが初めてである。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返されたことであるが、その時に綴られたままを紹介しておく。]
そなたが耳にしたことは、これより後も続く、永くかつ厳しい闘いの“ささやき”ていどに過ぎません。善と悪との闘いは、時を隔てて繰り返し起きるものです。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されてきたことがわかります。
時には未熟な霊が支配した時期もありました。ことに大戦の後にそれがよく見られます。機が熟さないうちに肉体から離された戦死者の霊が、大挙(たいきょ)して霊界へ送り込まれるためです。
彼らはまだ霊界への備えができていません。しかも、戦いの中で死んだ霊の常として、その死に際(ぎわ)の心は憤怒(ふんぬ)に燃え、血に飢え、邪念に包まれています。死した後もなお永きにわたって、その雰囲気の中で悪のかぎりを尽くすのです。
霊にとって、肉体から無理やり離され、怒りと復讐(ふくしゅう)心に燃えたまま霊界へ送り込まれることほど危険なものはありません。いかなる霊にとっても、急激に、そして不自然に肉体から切り離されることは感心しません。
われらが死刑という手段を、愚かにして野蛮な行為であるとする理由もそこにあります。死後の存続と向上・進化についての無知が未開人のそれに等しいがゆえに野蛮であり、未熟な霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせ、さらに大きな悪行に駆(か)り立てる結果となっているがゆえに愚かというのです。
現在の地上人類は、みずから定めた道徳的ならびに社会的法律に違反した者の取り扱いにおいて、あまりに盲目的であり、あまりに無知です。幼稚にして低俗な魂が道徳に反することをする、あるいは法律を犯す。すると、すぐにその悪行の道を封じる手段に出る。
本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純な霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、すぐに牢獄に閉じ込めてしまう。
そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿な邪念に燃えています。それのみか、霊界の未熟な邪霊もそこにたむろし、双方の邪念と怨(おん)念とによって、まさに悪の巣窟(そうくつ)と化しています。
何たる無分別!何たる近視眼!何たる愚行!と叫びたくなります。その巣窟には、われらが入ろうにも到底入ることはできないのです。神の使徒は手の施しようもなく、ただ茫然(ぼうぜん)として立ちつくすのみです。
人間の無知と愚行の産物である、地上ならびに霊界の悪の集団を目(ま)のあたりにして、悲しみの涙を流します。人間が犯す罪の心はしょせん癒やせぬものと、そなたたちが諦(あきら)めるのも不思議ではありません。何となれば、人間みずからが、罪の道に堕(お)ちる者を手ぐすねひいて待ちうける悪霊に、まざまざと利用されているからです。
いかに多くの人間がみずから求めて、あるいは無知から悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷な心のまま牢獄から霊界へ送り込まれているか、そなたたちはご存知ないし、また知りえぬことでしょう。
しかし、もしも右のような事実を考慮して事に臨めば、必ずや効を奏し、道を踏みはずした霊たち、悪徳の世界に身を沈めている霊たちに、計り知れない救いを授けることになりましょう。
罪人は教え導いてやらねばなりません。罰するのはよい。こちらの世界でも処罰はします。が、それは、犯した罪がいかに自分自身を汚し進歩を遅らせているかを悟らせるための、一種の戒(いまし)めであらねばなりません。
神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償(つぐな)い、真理の泉で魂をうるおすことを体験させてやらねばなりません。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、温かい霊波を注ぎ込んでくれることでしょう。
ところが現実はどうでしょう。罪人を寄せ集めては、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまいます。その後さらに意地悪く、残酷に、そして愚かきわまる方法によって処罰します。
そうした扱いを受けた者は、刑期を終えて社会へ復したのちも、繰り返し罪を犯します。そしてついに、最後の、そして最も愚かな手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられます。すなわち死刑囚とされ、やがて斬首されます。
心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知な彼らは、その瞬間、怒りと増悪と復讐心に燃えて霊界へ来ます。それまでは肉体という拘束物がありました。が、今その拘束から放された彼らは、その燃えさかる悪魔のごとき邪念に駆られて暴れまわるのです。
人間は何もしりません!何ひとつ知りません!自分たちのしていることがいかに愚かであるか、一向に知りません。人間こそ人間の最大の敵であることを知りません。神とわれらと、そしてわれらに協力する人間を邪魔しようとする敵を利することになっていることを知らないのです。
知らないと同時に、愚かさの極みです。邪霊がほくそえむようなことに、あたら、努力を傾けています。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したにすぎない者に、報復的刑罰を与える。
厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化しているのです。断じて間違いです。しかも、こうして心を傷つけられた霊たちが霊界から報復に出ることを、地上の人間は知りません。
神の優しさと慈悲 – 堕落した霊を罪悪と憤怒(ふんぬ)の谷間から救い出し、聖純さと善性の進歩の道へ手引きせんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知る必要があります。右のごとき行為を続けるのは、神の本質についてまったく知らないからです。神学者たちは自分の本能的欲求にとって都合のよい神を勝手に作りあげています。
すなわち、どこか高い所から人間を座視し、自分の権威と名誉を守ることのみに汲々とし、自分の創造物については、自分に媚(こ)び自分への信仰を告白した者のみを天国へ召して、その他の者に対しては容赦(ようしゃ)も寛恕(かんじょ)もない、永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔のごとき神をでっち上げました。
そうした神を勝手にこしらえながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えのない言説を吐かせ、温かい神の御心には到底そぐわない律法を定めました。(1)
何と見下げ果てた神!一時の出来心から罪を犯した無知なわが子に、無慈悲な刑を科して喜ぶとは!作り話にしても、あまりにお粗末です。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟な心の産物にすぎません。
そのような神は存在しません!断じて存在しません!われらにはとても想像の及ばぬ神であり、人間の卑劣な心の中以外のどこにも存在しません。
父なる神よ!願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身について悪夢を見ているにすぎないこと、御身についてのこれまでの愚かな概念を拭い去らぬかぎり、真の御姿を知りえぬことを悟らしめ給え。
しかり。友よ、人間が設けた牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方のすべてが、ことごとく誤りと無知の上に成り立っているのです。
戦争および大虐殺にいたっては尚のこと恐ろしいことです。本来なら同胞として手をつなぎ合うべき霊たち – われわれにとっては身体は眼中にありません。一時的に物的原子をまとった“霊”こそ関心の的です – その霊たちの利害の対立を、人間は戦闘的手段によって処理せんとします。
血に飢えた霊たちは、怨念(おんねん)と憤怒を抱きつつ肉体から引き裂かれ、霊界へと送り込まれます。肉体の束縛がなくなった霊たちは、燃えさかる激情にさらに油を注がれたような激しさをもって地上界を席巻(せっけん)し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心をいっそう駆り立てます。
しかし、その拠ってきたるそもそもの原因は、単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かな野望に類するものであったりします。
ああ、友よ、人間はまだまだ知らねばならぬことばかりです。しかもそれを、これまでに犯した過ちを償うためにも、苦(にが)くかつ辛(つら)い体験を通して知らねばなりません。
何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰にまさる叡智であることを知らねばなりません。かりにもし神が、キリスト者が想像するように、人間が同胞を処罰するごとくに人間を扱うとすれば、キリスト者みずからが、間違いなく自分の想像する地獄へ堕ちねばならなくなります。
神について、われら第使徒について、そして自分自身について、人間はまだまだ知らぬことばかりです。それを知った時はじめて人間としての真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使徒の使命達成のために協力することになりましょう。
友よ、もしもわれわれのメッセージの有用性と利益について問う者があれば、それは、無慈悲と残虐と怨念の産物に代わって、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げられよ。神への崇敬の念とともに、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって人間のために尽くさんとする霊的存在について知らしめんがためであると告げられよ。
人間がみずからの過ちを悟り、神学的教義の他愛(たわい)なさに目覚め、知性をいかにして自分の進歩のために活用するかを学び、与えられた好機を自分の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞に再会した時に、社会の障害物・厄介者だったと非難されることのないよう、常に同胞のために役立つ生き方を教えるものであることを告げられよ。
それこそがわれらの栄(は)えある使命であることを、その者たちに告げられるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、それまでのお気に入りの説にて事足れりと自負するのであれば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的な魂の目を向けられよ。そして彼らに、地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを届けるがよい。
そして、真理に目覚めぬ者のためには、死してのち霊界にて目を覚ました時に、自分の惨憺(さんたん)たる姿に絶望することのないよう、祈ってあげるがよい。
[注釈]
(1)西暦325年に開かれたニケーア会議の舞台裏で、時の皇帝コンスタンチヌスは、宗教によって人心を縛るための得策として、かずかずの“しるしと不思議”つまり奇跡的心霊現象を起こしたナザレ人イエスが死後もなお根強い人気と話題をさらっている風潮に目をつけ、これを“神の子”に仕立てるために世界中の神話・伝説から適当なものを借用してもっともらしくつなぎ合わせ、今にいう“新約聖書”なるものをでっち上げた。
そして、それをもとに次々と教義をこしらえて“神学”という体系を築き、これに異議を唱える聖職者は処刑されたり追放されたりした。これがさらに教育・文化・芸術の分野にまで拡大され、西洋史にいう“暗黒時代”を迎える。
それは、西洋史ではルネッサンスつまり文芸復興期(14~16世紀)まで続いたとされているが、潜在的にはごく近代にまで尾を引いていたことを、インペレーターは指摘している。
「進化が足りない」物質界の苦難の存在理由を僕は理解できていないという意味です(祈)†
物質界で味わった苦しい思いは、帰幽後に霊界で存分にその埋め合わせが用意されており、苦難から逃げずに立ち向かった者には霊的褒章が、苦難から逃げて物的享楽に走った者には幽界下層界での反省の人生が待ち受けています。さらに同胞(他人)を虐げて(肉体的精神的に傷つけて)私腹を肥やした人間には暗黒、地獄とも表現できる低い境涯にて永遠とも思える長い年月にわたる大変キビシイ未来が待ち受けています…続きを読む→
「私を裁くがいい」まさかイエス様の思念では?イヤそれはいくらなんでも違うだろう(祈)†
僕はイエス様を裁きません。僕が地球圏霊界を離れます。僕は果てしなく霊的知識をお勉強していますが、地球圏以外の惑星についての記述がほとんどないため、地球圏霊界を離れると言っても具体的にどういう風にすればいいのかがまだ分かっていません。もっともその資格アリと判断されなければそのようにさせてもらえないのでしょうが。しかし、僕の物質界での苦悩が事実イエス様が原因だったとしても、僕は霊的知識が十分に頭に入っており、その苦悩が帰幽後の自分の未来を明るくする事につながると理解していますから、現在は物質界に残されて延々とヒドイ目に遭わされていますのでどうしても許せない気持ちが沸き上がってきますが、帰幽して苦悩から解放されれば霊団に対する怒り憎しみの気持ちもだいぶ和らぐでしょう。イエス様に怒りの矛先を向けるのも筋違いであり逆に感謝しなければならないと思い知らされる事でしょう…続きを読む→