『ベールの彼方の生活③』3章 天界の経綸【2 象徴(シンボル)の威力―十字を切る事の意味 1917年11月28日 水曜日】貴殿がもし吾々の存在を疑わしく思うような気分になった時は“十字”を切って頂くと宜しい。
『ベールの彼方の生活③』それだけでも吾々が守ってあげている事を認識されると同時に、貴殿と吾々との間に割って入ろうとするあの手この手の邪魔を排除する事ができます。身体を張って邪魔するのではなく思念を放射し、それがモヤのように漂って吾々の視界を遮るのです。
『ベールの彼方の生活③』程度から言うと吾々よりも彼らの方が貴殿の近くまで接近し、吾々の望んでいる好条件を奪ってしまう事があるので、よくよく注意して頂きたい。【十字を切るとどういう効果があるのですか。】それが象徴するところの“実在の威力”が発揮されます。
『ベールの彼方の生活③』よく考えてみると記号というものも実に大きな威力を発揮しているのです。それは記号そのものに能動的な力が潜んでいるからではなく、それが象徴しているところの存在ないしはエネルギーの潜在力のせいです。【例えば?】
『ベールの彼方の生活③』例えば貴殿が今使用しておられる文字も単なる記号にすぎない。が、それによって綴られた文章を親しみと愛をもって読む者は、こうしたものを全く読む事なく人生を終る者と違って、こちらへ来てからの進歩を促進する適応性を蓄える事になる。
『ベールの彼方の生活③』一人の王様の名前も、その王を象徴する記号に過ぎないが、その名前を軽々しく口にする者は、その王の署名のもとに布告された命令を無視する者と同様に、秩序ある国家においては軽々しく見逃される事はない。
『ベールの彼方の生活③』それによって生ずる混乱と不統一が原因となって国家の運営が著しく阻害されるからです。故に名前というものは崇敬の念をもって扱わねばならない。地上に限りません。天界においても同じ事です。
『ベールの彼方の生活③』例えば大天使の名前をぞんざいに呼ばわる者は、携わる仕事が何であれ、その者の立場を危うくしかねない。そういう事になっているのです。そして最後の御名である主の御名は、貴殿らの聖典で規制されているように最高の敬意をもって扱わねばなりません。
—–
『ベールの彼方の生活③』さて、元々“十字架”の記号は吾々が教わり、遠い過去より今日に至るまでに地上の人間に啓示された多くの聖なる記号の中の1つに過ぎない。ところが今日では他のいずれにもまして威力をもつに至っている。
『ベールの彼方の生活③』ほかでもない、地上の進歩のために注がれる“生けるキリスト”の生命の表象(しるし)だからです。他の時代には他の―ためらわずに書かれよ―キリストの世があった如く(※)今の世は天界の政庁から派遣された最後の、そして最高のキリストの世という意味において→
『ベールの彼方の生活③』→特殊な世なのである。それ故、十字架を使用する者はキリストの生命を意味する“おん血”によって書かれた親署を使用する事を意味し、たとえキリストの絶対的権威を認めずその愛を理解せぬ者も、キリストの十字架の前には自ずと頭(こうべ)を垂れなければならない。
『ベールの彼方の生活③』何となればそれを前にすればその威力を思い知らされ畏れおののくからである。(※キリストの名で呼ばれる存在が他にもいたという事にオーエン氏が戸惑いを見せている。イエス・キリストの真相についてはこの後の3つの章で細かく説かれる。訳者)
『ベールの彼方の生活③』【では地獄にいる者でもキリストの十字架の威力が分かるという事ですか。】まさにその通りである。ここで少しばかりその問題に触れておきたい。というのも地上には理解力が不足しているために、この記号にあまり崇敬の念を覚えぬ者が多いからです。
『ベールの彼方の生活③』私はしばしば薄暗い低級界を訪れる事があるが―最近は他に用があって訪れていないが―訪れた時はなるべく十字を切らないようにする。何となれば心に少なからず苦悶を抱く哀れむべき魂にとっては、十字を切る事がその苦悶の情をいっそう掻き立てる事になるからです。
『ベールの彼方の生活③』【十字を切られた時の反応を実際の例で話して下さい。】ある時私は地上からの他界者の1人で妙な事にいきなり第2界へ連れて来られた人物を探しに派遣された事があった。当然そこは居心地がよくなくて、やがて薄暗い下層界へと引き下ろされていった。
『ベールの彼方の生活③』なぜこのような事になるのかは今ここで詳しい説明はしない。滅多にない事ではあるが全く有得ない事でもないのである。指導と案内に当る者の認識不足によって、あちこちで同じような事態が起きている事は事実です。
『ベールの彼方の生活③』一生懸命になるあまり善意が先走って判断力と洞察力を追い越す事があるもので、少し複雑で問題の多い人物の処遇に当って往々にしてそういうケースが生じます。さて私は陰鬱な境涯へ降りて身体が環境に適応しきるのを待って、いよいよ捜索を開始した。
『ベールの彼方の生活③』市から市へと捜し歩いたあげくに、やっとその人物の気配を感じる門の前まで来た。貴殿には私の述べる事が容易に理解できないであろうけど構わず筆を進められたい。そのうち理解できる日がきます。
—–
『ベールの彼方の生活③』さて中へ入ってみると、まず目に付いたのは広場一帯を覆う陰気な光で、そこにかなりの数の群集が集まっていた。空気はまるで鍛冶屋の如く火照り、群集が気勢を上げると明るさを増し、意気消沈すると弱まるという風であった。
『ベールの彼方の生活③』その中央に石の台があり、そこに私の探し求めている人物が立っていた。何やら激しい口調で群集に向かって演説を打(ぶ)っている。私は蔭に隠れて聞き入った。彼は“贖(あがな)い”と“贖い主”について語っていた。が、その名が出てこない。暗に言及しているだけである。
『ベールの彼方の生活③』そこに注意して頂きたい。2度、3度と名が出掛かるのであるが、どうしても出ない。口元まで出掛かると顔に苦痛の表情が浮かび手をぐっと握りしめ、暫し沈黙し、それからまた話を進めた。誰の名を言わんとしているのかはその場の誰一人として知らぬ者はいなかった。
『ベールの彼方の生活③』彼は悔い改めの必要性を長々と説いた。そして自分が宗教心の不足から否応なしに、ほんのわずか垣間見た天国と光明界からこの苦悶と悔恨の境涯へ引きずり下ろされた事を語って聞かせた。彼はこう語った―→
『ベールの彼方の生活③』→自分はこの界へ降りてくる道すがら、この目を見開いて道を“しかと”確かめてきた。だからどこをどう行けば光明界へ行き着くかをよく知っている。が、その道は長く苦しい登り坂となっており、しかも暗い。
『ベールの彼方の生活③』そう述べてから、自分と共に出発する意思のある者を募り、羊の群の如く一団となり手を取り合って進めば、たとえ道中は苦しくとも必ず目的地に辿り着き、ゆっくりと休息できる。ただ道中ではぐれぬよう注意する必要がある。
『ベールの彼方の生活③』道なき峡谷を通り、左右の見分けもつかぬ森林地帯を抜けて行かねばならぬ。万一はぐれたら最期、道を見失って1人永遠にさ迷い続ける事になる。いずこをさ迷っても常にそこは暗闇であり、また極悪非道の輩が待ち伏せして通りかかる者に残虐の限りを尽くす危険がある。
『ベールの彼方の生活③』だから絶対に自分が掲げる旗から目を離さぬ様に。そうすれば恐れるものは何もない。なぜならその旗には道中に耐えるだけの強大なシンボルとなるものを用意するつもりでいるからだ、と。以上が彼の演説の要旨である。
『ベールの彼方の生活③』これに対して群集はまんざらでもない反応を示しているようであった。彼は台から降りて、暫し黙したまま立っていた。すると群衆の1人がこう聞いた―「どういう旗を考えてるんだ。何の紋章を飾るつもりだ。我々が付いて行くのに分るものでないと困るぞ」と。
—–☆
『ベールの彼方の生活③』するとさっきの男が再び広場の中央の石の上に立って右手を高く上げ、それを下へ向けて直線を描くように下ろそうとするが、下ろせない。何度も繰返すが、そのたびに手がしびれるようであった。そして結局最後は―→
『ベールの彼方の生活③』→彼を知る私には見るに忍びない光景であったが―大きな嘆息と苦悶の涙と共に、その手をだらりと力なくぶら下げるのだった。が間もなく彼はきりっと姿勢を正し、顔に決意の表情を浮かべて、もう一度試みた。そして何とか手を垂直に下ろす事ができた。するとどうであろう、→
『ベールの彼方の生活③』→その手の辿った跡に微かに光輝を放つ1本の線が描かれているではないか。そこでまた力を振り絞り、用心深く今度はその垂直の線の真ん中よりやや上あたりに横棒を描こうとして手を上げるのであるが、またもや出来ない。私には彼の心が読めていた。
『ベールの彼方の生活③』光明界への旅に彼が掲げ持つ旗の紋章として十字架を飾る事を群集に示そうとしていたのである。あまりの哀れさに私は進み出て、ついに彼の側に立った。そしてまだうっすらとではあるが目に見えている直線をなぞった。ゆっくりとなぞった。
『ベールの彼方の生活③』するとさっと光輝が増して広場全体と群集の顔という顔を照らし出した。次に私は横棒を画いた。それも同じように光輝を放った。私はその光輝を避けて見えない所に身を隠した。ところがその直後に狂乱した声と泣き叫ぶ声が聞こえてきたので再び出てみた。
『ベールの彼方の生活③』十字架はやや輝きを失っていたが、群集はある者は地面にひれ伏し、ある者はのた打ち回りながら顔を隠し、十字架のイメージを消そうと必死になっていた。嫌っているのではない。そこの群集は既に自分の罪に対して良心の呵責(かしゃく)を覚える段階にまで達した者達であった。
『ベールの彼方の生活③』苦痛の原因はその良心の呵責を覚えさせるほどの“進化”そのものであった。悔恨の情が罪悪と忘恩の不徳に対する悲しみへと変化し、その進化そのものが悲しみの情に一層の苦痛を加えていたのである。
—–
『ベールの彼方の生活③』くだんの男はそうした群集のようにひれ伏さずに両手で顔を覆い、両ひじを膝の上に置いて跪き、他の者達と同じく悔恨の情に身体を2つに折り曲げるようにして悶えていた。私はやっと気がづいた。私のした事は彼らにとって余りに早まった行為だったのである。
『ベールの彼方の生活③』慰めになると思ってやってあげた事が実は彼らの古傷に手荒に触れる行為となっていたのである。そこで私は群集を鎮める為にその友人に代ってあの手この手を打った。そして何とか治まった。
『ベールの彼方の生活③』が私はその時その場で、これ以後は低級界ではよくよくの事がない限り十字架のサインは使用しない決心をした。心に傷を持つ者はそれが痛みを増す結果になる事を知ったからです。【今その男の事を“友人”と呼ばれましたが…】その通り。彼は私のかつての友人だったのです。
『ベールの彼方の生活③』2人は地上で同じ大学で哲学を教えた事がありました。彼はまっとうな生活を送り時には奇特な行いもしないでもありませんでした。が残念ながら敬虔な信仰心に。もっとも今はもう順調に向上の道を歩み、善行にも励んでいますが…。
『ベールの彼方の生活③』先の話に戻りますが、どうにか旗が出来あがった。しかしそれはおよそ旗と呼べる代物ではなかった。2本の木の枝、それも節だらけの曲がったものを十字に組んだものに過ぎない―この界層でもそんな樹木しか見当たらないのです。
『ベールの彼方の生活③』それでも彼らには立派な十字架に見えるのだった。横棒がぐらぐらしている。彼らの一途な気持と彼らにとっての深刻な意味合いを考えると、余りにグロテスクすぎるが彼らにとってそれは自分達を守ってくれる霊力を意味し、又その源であるキリストを意味する。
『ベールの彼方の生活③』従ってそれはそれなりに彼らにとって最も“聖なるしるし”であり、喜び勇んで、しかし沈黙と畏黙の念をもって付いて行くべき目標であった。2本の枝の交わる部分を結わえている赤の布切れは血の流れの如くなびいていた。
『ベールの彼方の生活③』そして彼らはいよいよその十字架の後に付いて長き旅に出発した。足は痛み疲れ果てる事もしばしばであろう。が光明が見出せる事を信じて、あくまでも高地へ高地へと進み続ける事であろう。【どうも。これでおしまいにしたいのですが最後に1つだけお聞きしたい事があります】→
『ベールの彼方の生活③』→【昨夜の例の聖堂の事ですが、最初にその建立の目的は地上界への援助の為とおっしゃって、後でそれとは全く違った使用目的を話されました。そこのところが納得できません。ご説明願えますか。】吾々の述べた事に何ら誤りはありません。
『ベールの彼方の生活③』ただ吾々が意図したほど明瞭には伝わっていないだけです。昨夜は貴殿は重々しい感じがしていました。今も疲れておられる。吾々の意図していた真意は次の機会に述べるとしよう。では今宵も神の祝福のあらん事を。