アナログ絵379、380の計6ページストーリーを描きます。そして止まっていたフラー26の新規デザインも再開させるつもりです。霊団は「絵なんか描いてる場合じゃない」と言いたいでしょうが、僕はこういう人間です、自分のスキルを活用する以外にどうしようもないのです。今できる事をやるのです。絶対に止まってたまるか。

そして霊関連書籍のテキスト化、こちらが正真正銘の地獄の作業で、シャレじゃなく本気で一生かかっても全ての書籍のテキスト化を完了させられない可能性がありますが、しかしもうやるしかないのです。物質界のアフォ法律に阻まれて復刊できなくさせられているのが頭にきてどうしようもありませんが。AffinityPublisherのスキルも獲得して本もガンガン作れるというのに1冊も作れずにいる、ホント頭にきますよ。

思う事はいろいろある、しかし僕は画家時代から「感情と手は別レイヤー」と公言し続けています。これは様々な思いが心に巣食っていても手は感情から切り離してサクサク動かすというモノで、このスキルのおかげでこれまで様々なアウトプットを実現させてきたと言えるかも知れません。絵を描く、テキスト化を完了させる、今できる事をやる。

止まるな、たきざわ彰人、僕は間違いなく殺される。帰幽1秒前まで全力で作業しろ。僕が公言しているもうひとつの言葉「1歩も退く気はない」を全力でおこなえ。霊団の思っている方向と違う作業だとしても、現状コレをやるしかないんだからコレをやれ。止まるのだけは絶対にNG(祈)†
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†■2024年8月28日UP■
「主イエスのために」それは分かってますが、言い返せないのでやや卑怯です(祈)†
僕たち人間は本体が霊で、その霊が肉体、幽体、霊体等の表現媒体をまとって自己表現をしていますが、この「霊」さえも【神】の生命表現のひとつでしかなく、この霊の先にさらに何かあるそうなのです。それは完全に次元が異なる問題ですので物的言語などでは全く説明不可能であり、どの霊関連書籍にも「霊の先にあるモノ」については一切叙述がありません。通信霊自体がその事を知らないからだそうです。例えばレッドインディアン、シルバーバーチ霊を霊界の霊媒として霊言を語っておられた3000年前に物質界人生を送っておられた高級霊(僕はこの方がエリヤ氏だと思っているのですが)この方は間もなく地球圏を脱出する寸前まで霊的に進歩しておられるそうですが、たぶんその先に「霊を超えた何か」が待ち受けているのではないでしょうか。僕は「地球圏霊界を脱出する」と公言していますが、エリヤ氏でさえ3000年経過してまだ脱出に至っていないのですから、反逆まみれのお子ちゃまの僕が地球圏を脱出して霊を超えたモノを理解するようになるのは1億年、100億年先となるでしょう。まさに「身の程を知らない恥さらし発言」という事になるのです…続きを読む→

240828主イエスのために

猛烈に徹底的に日々のあらゆるものに対して節約をおこなっています、全ては脱出アイデアを実行するためなのですが、霊団は僕を最悪に閉じ込める事しか言ってきません。使命遂行は一体どこに吹き飛んでしまったというのか。削除せずに残したインスピレーションをこのように羅列してみますが↓

いつも同じ事を書いて申し訳ありませんが、コイツら(霊団)はこの12年ああなるこうなると言い続けてひとつたりともその通りになっていないヤツらです。今週もああなるこうなる言ってきてます。それをいちいち説明するテキストを撃つ僕の心境がお分かり頂けるでしょうか、怒りとウンザリに満ちているのです。しかし撃つ、何とか行ってみましょう。

万事うまくやってるわ 7個はスゴイぞ アッチにお見せだ 御臨終 笑っての使命遂行 ふたりにも命じたぞ 私を信じて欲しい しっかり答えてみせます そばに天使がいる

240828ふたりにも命じたぞ240828そばに天使がいる

「万事うまくやってるわ」この状況のどこがうまくやっているのでしょうか。使命遂行は何ひとつ前進してないじゃないですか。霊界から霊眼で物質界全体を俯瞰で眺めた時には、洗脳に完全にやられまくっていた以前と比べて真実の理解がだいぶ浸透してきているという事なのでしょうか。僕の肉眼には全くそういう風には見えません。

「7個はスゴイぞ」何がスゴイのか全く分かりませんが霊団が「7」という数字を持ち出す時はだいたい「7界所属のイエス様」という意味で降らせてくる事が多いですから、たぶんイエス様に関連した事を言っているものと思われるのですが、にしても意味が分かりません。

「アッチにお見せだ」どっちにお見せですか、これだけでは全然意味が分かりません。

「御臨終」僕が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に殺されて御臨終ですか、それともこの強姦殺人魔どもがようやく裁かれるという意味ですか。これだけではどっちの意味か分かりません。

「笑っての使命遂行」「ふたりにも命じたぞ」「私を信じて欲しい」「しっかり答えてみせます」コレなんですが、どうも「モーセの森」「十戒」のインスピレーションと関連した意味のようで、モーセ氏が僕を使用しての使命遂行にかかわりを持つようになったような空気感があります、ハッキシ言って信じられませんが。

ふたり、とはモーセ氏の配下のふたり、つまりエリヤ氏とインペレーター霊(マラキ氏)の事で、つまりイエス様降誕より前の時代の錚々(そうそう)たるお三方が「アキトくん、我々を信じなさい」と仰っているかのようなインスピレーションとなります。

ちなみに何度も書いていますが、インペレーター霊(紀元前5世紀のユダヤの霊覚者で旧約聖書のマラキ書の筆者マラキ)の守護霊が「紀元前9世紀ごろのヘブライの予言者エリヤ」で、エリヤ氏の守護霊が「紀元前12世紀ごろのヘブライの予言者モーセ」という事になります。

インペレーター霊はモーゼス氏という霊媒を介して「霊訓」という人類史上に類を見ない高等な霊言を降らせた偉業を達成した高級霊、そのインペレーター霊の上にはプリセプターという霊が控えていて、インペレーター霊に指示を出しつつイエス様とも直接やりとりをしていたそうで、このプリセプターがエリヤ氏なのだそうです。このおふたりの上にさらに「海割り」で有名なモーセ氏が控えている訳です。

「そばに天使がいる」この天使とはまさかインペレーター霊、エリヤ氏、モーセ氏という意味ではないでしょうね、さらにそこにイエス様も含まれているとか、そういう事を言っているのでしょうか。イエス様は「怒涛の連続顕現」がありますのでまだ分かりますがお三方のお話はチョト信じられませんね。そこを信じなさいと降らせてきたインスピレーションなのでしょうか。

ちなみに「十戒」のインスピレーションを受けてDVDを入手しましたが、そのDVDの内容について僕なりの感想を述べたりしています↓

■2024年8月22日UP
「十戒」DVD観終わりました。フラストレーションの4時間、正直に感想を述べさせて頂きます(祈)†
wp.me/pa9cvW-8Kg

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絶対隠す 誰に撃たれに 残れ ヤダ 接地力なのだ 死ぬ事はない 逃げてやる 似たような事件が

240828死ぬ事はない

「絶対隠す」「逃げてやる」これは「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の思念に間違いないでしょう。自身の邪悪の正体を国民に隠し通す、刑に服さず逃亡を図る、という意味でしょうが、僕はご覧の皆さまに問いたいのです。いつまでこの世界最大級の犯罪者を善人だと勘違いし続けるのですか。

そろそろいい加減に目を覚ましてもらわなければ相当恥ずかしい事になりますよ。テレビを筆頭としたメディアから流されてくる情報がことごとくウソで塗り固められている事がまだ分かりませんか。僕たち日本国民は一体いつまでこの強姦殺人魔どもを守り通せば気が済みますか。そろそろこのヴァカヤロウどもに鉄拳制裁を加えねばなりません。

「誰に撃たれに」「似たような事件が」これは霊団から僕に向けての警告インスピレーションで、日本の中心には僕、たきざわ彰人を殺そうと手ぐすね引いている人間がゴマンといるという意味です。そして過去、勇気をもって真実を公言した勇者の方々は全て殺されてきている、という事を霊団は言っているのです。

八ヶ岳アタック1203行動には動機がある

イヤ、だから、そこをかいくぐるのがあんたたち(霊団)の仕事じゃネィのかよ、何のために僕の画家の人生をブチ壊して霊性発現させたんだよ「行動には動機がある」僕の霊的スイッチをONにしたのは、僕という霊の道具を使用して達成したい目標があったからじゃネィのかよ。この霊団の消極的姿勢がどうにもカチンとくるのですが。

「残れ ヤダ」「接地力なのだ」「死ぬ事はない」残れ、は霊団の思念でヤダ、は僕の思念です。つまり霊団は何が何でも僕を現在の最悪のところに閉じ込めようとしているという意味です。接地力、という言葉の意味がよく分かりませんが、つまり僕にそこにとどまれ、と言っているのです。我々の言う通りにしないと死ぬ事になるよ、という事なのだそうで、これは今までも何度もブログで書いてきている事ですね。

僕にこの使命遂行をやらせておいてそっち行くと殺されるからやめなさい、本当におかしな話ですよね。つまり最初から物質界の邪悪を滅ぼすつもりはなかったと、そういう風に聞こえます。

僕はずっと「帰幽カモン」って言ってるだろ。僕は物質界に1秒も残されていたくないんだよ、一刻も早く物質界を離れたいんだよ。やるべき事をキッチリやってとっとと帰幽できればそれでイイんだよ、無目的にダラダラ残されるのがいちばんガマンならないんだよ。僕の物的生命の生き死になんてどうでもいいんだよ、仕事を進めてくれよ。

「みんなイエス様を支持しています」それは当然。霊界側が僕の小我を支持する訳ないでしょ(祈)†■2022年9月14日UP■
「みんなイエス様を支持しています」それは当然。霊界側が僕の小我を支持する訳ないでしょ(祈)†
これは物質界のお話ではありませんよ、霊界上層界のお話ですよ。要するにイエス様側近の天使の方々がイエス様の導きの方向性を支持しているという意味でしょうが、それは別に当たり前の事であり、僕も霊団に対して怒り憎しみを表明してこそいますが、イエス様が間違っているとか主張するほど愚か者ではありません。僕の小我の感情が大局で見た時に間違っているのは火を見るより明らかな事であり語るまでもありませんので、このインスピレーションに対する反論などみじんもありません。ただムカつくムカつかないで言ったらムカつくんですよ。まだ当分この最悪の状況をやらされると思ったらどうしても頭にくるんですよ…続きを読む→
「私を裁くがいい」まさかイエス様の思念では?イヤそれはいくらなんでも違うだろう(祈)†■2022年9月7日UP■
「私を裁くがいい」まさかイエス様の思念では?イヤそれはいくらなんでも違うだろう(祈)†
僕はイエス様を裁きません。僕が地球圏霊界を離れます。僕は果てしなく霊的知識をお勉強していますが、地球圏以外の惑星についての記述がほとんどないため、地球圏霊界を離れると言っても具体的にどういう風にすればいいのかがまだ分かっていません。もっともその資格アリと判断されなければそのようにさせてもらえないのでしょうが。しかし、僕の物質界での苦悩が事実イエス様が原因だったとしても、僕は霊的知識が十分に頭に入っており、その苦悩が帰幽後の自分の未来を明るくする事につながると理解していますから、現在は物質界に残されて延々とヒドイ目に遭わされていますのでどうしても許せない気持ちが沸き上がってきますが、帰幽して苦悩から解放されれば霊団に対する怒り憎しみの気持ちもだいぶ和らぐでしょう。イエス様に怒りの矛先を向けるのも筋違いであり逆に感謝しなければならないと思い知らされる事でしょう…続きを読む→

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報われます もうアウトなんだよ やらせて 相当ピンチの状況だな 死刑だ

240828もうアウトなんだよ240828相当ピンチの状況だな

「報われます」これは僕がキビシイ(というより自分の意思に反する)使命遂行を余儀なくされているが、その仕事をやり切って帰幽した暁には、その苦難を補って余りある報い、つまり霊的褒章が待ち受けているという意味で、それは【神の因果律】の観点から言っても了解であり、僕ももちろんそうなって欲しいと思っていますが、とにかく物質界の邪悪を滅ぼすつもりがないという部分が永遠に釈然としません。

僕は帰幽カモンであり物質界を離れたが最後、この最低ランクの存在の場になど死んでも戻ってくるつもりはありませんから「物質界の邪悪などどうでもいい」という無責任な事を言ってもイイのかも知れませんが、イヤー納得いかないでしょヤッパリ。物質界の苦難を浴び、それに耐える意義は了解ですが結果を出してから言ってくれよと言いたいのです。

「もうアウトなんだよ」これは「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が、もう自身の邪悪の正体を国民に隠し通せない、洗脳が完全に撃ち破られてしまった、大量強姦殺人の大罪に対する罰を物質界生活中に受けざるを得ない状況になっているという意味か、それとも僕、たきざわ彰人が殺されるという意味かのどちらかでしょう。

霊団は僕の霊性発現以来12年近く終始一貫して「どっちの意味にも受け取れるインスピレーションの降らせ方」をしてきます。これは12年一切ブレる事なく常にこういう降らせ方が徹底されています。つまり霊界は厳格な上下関係の世界ですから、上層界にて「物質界の人間にインスピレーションを降らせる時は常にこういう降らせ方をする事」という風に取り決めがしてあって、霊団はそれに従っているという事になるのです。

この取り決めによって僕は12年間イヤな思いをさせられてきたという事になるのです。この降らせ方ではどっちの意味で言っているのかわかんネィじゃネィか。コッチはブログ書かなきゃいけネィんだよ、ハッキリ言ってくれよハッキリ、という風にムカつかされるのです。

「やらせて」これは僕という霊媒を使用して霊言を降らせたいから、アキトくんを霊媒として使わせて、交霊会をやらせて、という霊団の言葉となりますが、僕はもう自分が霊媒となって新規の霊言が降ってくるという趣旨の事はWordPressに一切書かない事に決めましたので、これは無視します。

理由は、できもしない交霊会関連の事をこれまで何年にもわたって延々とブログで書かされて、書いても書いても僕という霊媒が機能する事が全くなく、僕は降った霊言を書籍化する準備まで完全に整えているのに全く降ってこないので、猛烈にムカついているからです。

「相当ピンチの状況だな」「死刑だ」このふたつも上記に書きました「どっちの意味にも受け取れる降らせ方のインスピレーション」となります。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁と僕、たきざわ彰人、どっちがピンチなのか、どっちが死刑なのか、これじゃあわかんネィじゃネィか。

12年もずっとこのコミュニケーションだよ。そろそろハッキリ言ってくれよ。僕が死の恐怖を完全に克服している事は僕の心が丸わかりのあんたたちには分かってるはずだよな。だったら僕が殺されるとハッキリ教えても別に問題ないはずだろ。そのあやふやインスピレーションそろそろやめてくれ。

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主イエスのために 人類くつがえす

240828主イエスのために

ウンザリ感が宇宙最強レベルであり、いつまで僕はこうして閉じ込められなければならないのか、なぜこんな目に遭わされねばならないのかが永遠に意味不明ですが、今回は「主イエスのためにのインスピレーションをブログタイトルに冠しました。つい先ほど霊団が降らせてきたものです。

「人類くつがえす」えー、この言葉の通りになっていれば僕も霊団をここまで憎む事はなかったと思うのですが、どうしても僕の肉眼では霊団の言う通りになっているようには見えません。

くつがえす、要するに洗脳を撃ち破る、という感じの意味だと僕は解釈してますが、残念ながら人類の歴史は一部の邪悪な人間が国民を洗脳し続け、徹底的にウソを信じさせ続ける歴史の繰り返しであったと思います。日本国内だけに限定して見ても、遥か太古から邪悪な人間が自分たちの都合のイイように民衆を洗脳、扇動し続けていたように思えます。

僕は戦国時代の武将たちが明けても暮れても戦(いくさ)を繰り返していたその根本的動機は「奴隷の女の子の争奪戦」だったと思っているほどで、そんな事は歴史のどこをどうひっくり返しても書かれていませんが、僕は霊団がこれまで降らせてきた情報から考えてそういう事なんだろうなぁと思っているのです。

真実が全く表に出てこない、何百年イヤ何千年にもわたって徹底的にウソをつき通しているという事だと僕は思っていて、近年テレビが発明されてからさらに洗脳に拍車がかかる事になります。テレビというのは誕生した白黒テレビの当時からすでに洗脳ツールで、現在も洗脳ど真ん中のツールとして機能し続けています。

以前に比べれば情報入手手段が多様化した事で洗脳から目覚める人の割合が増えたとは思いますが、まだまだテレビはじめ主要メディアの洗脳情報にアッサリコロッとやられちゃってる人の割合の方が断然多い事は、この世の中の動きを見ていれば一目瞭然でしょう。真実を語るとキ〇〇イ扱いされますからね、僕の使命遂行の12年がまさにその連続でした。

しかし霊団は「人類くつがえす」などと言ってきます。くつがえされてネィだろと言いたいのですが、しかし物質界に身を置いている僕たちと霊界上層界の人間とでは見晴らしに天と地の違いがあります。久々にアナログ絵123をUPさせて頂きますが↓

アナログ絵123

この図は表現にやや難があるものの一応真実を描いたものとなります。イエス様はじめ霊界上層界の高級霊の方々には物質界の状況および変化がまる分かりだが、物質界に在籍している僕たちは視野が極端に狭められていますので全然全体を把握できない、という事になります。

ですのでもしかしたら霊団の言う通り物質界の状況がだいぶくつがえされているのかも知れませんが、それは人々の心の中でくつがえされているだけで実際の肉眼に映じる現象にまでは発展していないという事だと思いますので、そこまで仕事をやり切ってから初めてそういう事を言ってくれよと僕は言いたいのです。

「主イエスのためにえー、この件について僕がアレコレ書くのもどうかと思いますが、降ってきたものはどうしようもありませんので何とか撃ってみましょう。

まず僕がずっと思っている事を書かせて頂きますが、高級霊、天使の名前をぞんざいに扱う者は大変キビシイペナルティが待ち受けているというのが霊的知識を果てしなくお勉強してきてどの書籍にも一貫して述べられている事で、これは間違いないようです。

近々で入手しましたDVD「十戒」の中にも「神の名をみだりにとなえてはならない」という文言があるくらいですから、大昔からずっと言われている事になります。この霊的知識に照らし合わせた時、僕は使命遂行の関係でイエス様の御名を連呼してしまっていますので、かなり宜しくない事をしているという事になります。

帰幽後の僕はただでさえ反逆のペナルティを喰らう状況ですが、そこにさらに「イエス様の御名をぞんざいに扱った」というペナルティも加わってかなりキビシイ状態にさせられる可能性があります。

ただ、これは都合のイイ解釈かも知れませんが、神、高級霊、天使の名前を自分の低級な物的欲望の満足のために悪用する者は当然地獄が待ち受けていますが、僕は一応正しいおこないをしているつもりですし、その使命遂行に付随したイエス様の御名の連呼ですから、そこまでヒドイ目には遭わされないのではないか、と思ったりもしていますがどうでしょう。

ひとつ、これだけは断言できますがキリスト教の牧師、聖職者の類の人間、中にはマジメな聖職者ももちろんいると思いますが、基本的にキリスト教という宗教自体がイエス様の名前を悪用しようと企んだ後世の邪悪な人間によって捏造されたインチキ宗教ですから(ニケーア会議)その邪悪宗教に乗っかって利益を得ようとしている人間たちは相当キビシイ状態にさせられるでしょう。「ベールの彼方の生活」をお読み頂ければそのあたりの事がよく分かると思います。

で、僕は「イエス様ハンドリング(霊の導きに従う)」という言葉を公言して長い年月にわたって霊的使命遂行を続行していますが、最近はこの「イエス様ハンドリング」という言葉をすっかり使わなくなりました。なぜか。

それは使命遂行が全然進展しなくて邪悪が一向に滅ぼせなくて、奴隷の女の子も一向に助けてあげられなくて、明けても暮れても最悪の中に閉じ込められるという人生をやらされている事に僕がムカついているからです。ちょっとやりすぎじゃあアリマセンカ、と思っているからです。

だいぶ昔に(どのブログだったかもう全く覚えてませんが)パウロも本心ではイエス様の事を憎んでいたのではないか、何しろパウロはヒドイ晩年をやらされましたので(牢屋に入れられっぱなし)口には出さないが本心ではこんなヒドイ人生をやらせたイエス様を憎んでいたのではないか、という趣旨の事をどこかで書いた記憶があります。

実はその時、霊団が「あわわ…それヤメレ、そゆこと言うな」と慌てていたのです。この霊団の慌てたインスピレーションはその時のブログにも書いていません。これはたぶん、当時のパウロが本当に心の中では憎しみを抱いていたかどうかという問題ではなく、イエス様つまり高級霊の方に対する不敬にあたるのでヤメレ、という意味で霊団が慌てふためいたのだろうと僕は思っています。

パウロの伝道記の英語書籍を何とかして翻訳しようとしていますが、まだコチラの1冊「I Appeal Unto Caesar」しか翻訳できていません↓

まぁ当たり前の事ですが、この書籍の中にパウロがイエス様に悪態をつくシーンなどみじんも書かれていません。ですので僕が以前ブログに書いた内容はもちろんハズレという事になるのですが、えー正直すぎるのも時に問題になるのかも知れませんが、僕はイエス様に対して怒る、憎むまではいかないとしても「この人生そろそろいい加減にしてもらっていいですか」ぐらいには思っているのです。この部分はウソはつけません真実ですので。

が、今回霊団が降らせた「主イエスのために」は、そんな小我を飛び越えた深遠な意味が含まれていると理解します。ベールの彼方の生活3巻でアーネル霊が語っておられますが、イエス様は地球という惑星が物的形体を整えるより前から存在していたそうで(その時のイエス様も形体なき存在だったそうです)つまり地球誕生の時から現在までずっと地球を経綸している「地球の守護神」のような存在と考えてイイと思うのです。

そう考えた時、イエス様が肉体をまとって物質界に降下したというのは恐るべき犠牲行為で、その結末も恐るべき悲劇的結末で、しかもイエス様帰幽後に本当の地獄がやってきて、皆さまご存じの中世ヨーロッパの暗黒時代に突入していく訳です。

僕の知る事の出来る範囲の苦悩ですら想像を絶する、しかも僕の知る事のできない遥か太古からありとあらゆる苦悩を味わわされて地球圏を経綸してきたものと思われるイエス様(文献すら残されていない紀元前何万年前とか、そういう時代から物質界の人間は争いばかりしていたそうですから、いくつもの文明が栄えては滅びていきましたよね。宇宙人の干渉も相当あったようです)

そういう風に考えた時、イエス様の苦悩は何百万年イヤ何億年、イヤ、無限か?とも思えます。それに比べて僕の苦悩は物質界生活時のせいぜい数十年ですので、こういう視点で見た時、僕のお子ちゃまぶりがよく分かると思うのです。何も分かってないおバカさん、無知ほどこわいものはない、という事になると思います。

パウロも自身の霊団からかなり情報を得ていたようですから(でなければ牢獄続きの人生を耐えられる訳がありませんので)イエス様に関する情報もアレコレ教えてもらっていたのかも知れません。それで要所要所でローマの高官たちを目の前にして堂々と霊的知識を語る事ができたのだろうと思います。かなり深いところまで教えられていたのかも知れません。でなければあそこまで自信満々に語れないと思います、あの時代に。

霊的知識には「自分を捨てる者ほど自分を見出す」という言葉があります。今回霊団が降らせてきたインスピレーションの意味がまさにこの言葉の中に集約されているのではないでしょうか。

イエス様のご意志成就のために自分の人生を犠牲にする者は、帰幽後にワァァオォォォゥ♪ってなる、という事です。僕は反逆のマイナス分がありますのでワオー♪にはなりませんが、霊団はワオー♪を目指しなさいと言っているのです。※分かりにくくてゴメンナサイ、上層界に召されてワオー♪って喜ぶ、という意味ですよ。

ちなみに補足ですが、僕たち人間は本体が霊で、その霊が肉体、幽体、霊体等の表現媒体をまとって自己表現をしていますが、この「霊」さえも【神】の生命表現のひとつでしかなく、この霊の先にさらに何かあるそうなのです。それは完全に次元が異なる問題ですので物的言語などでは全く説明不可能であり、どの霊関連書籍にも「霊の先にあるモノ」については一切叙述がありません。通信霊自体がその事を知らないからだそうです。

例えばレッドインディアン、シルバーバーチ霊を霊界の霊媒として霊言を語っておられた3000年前に物質界人生を送っておられた高級霊(僕はこの方がエリヤ氏だと思っているのですが)この方は間もなく地球圏を脱出する寸前まで霊的に進歩しておられるそうですが、たぶんその先に「霊を超えた何か」が待ち受けているのではないでしょうか。

僕は「地球圏霊界を脱出する」と公言していますが、エリヤ氏でさえ3000年経過してまだ脱出に至っていないのですから、反逆まみれのお子ちゃまの僕が地球圏を脱出して霊を超えたモノを理解するようになるのは1億年、100億年先となるでしょう。まさに「身の程を知らない恥さらし発言」という事になるのです。

僕は反逆の旗を降ろすつもりが全くありませんが「主イエスのために」これについては了解してます。反逆者の僕が言っても説得力がありませんが一応「怒涛の連続顕現」でイエス様と約束をしていますので、その約束分はやり切ろうと思っています、そこは曲げるつもりはありません。

しかし、イジメているのか買いかぶっているのか知りませんが、僕ひとりに何でもかんでもやらせすぎじゃあアリマセンカ、と思っているのも事実です。物質界の邪悪を許容しすぎ、奴隷の女の子を見殺しにしすぎ、人の人生をブチ壊しすぎ、心と反対の事をやらせすぎ。そろそろ肉眼に映じる結果を招来してもらわないと僕じゃなくても誰だって納得しないと思いますよ。

タイトルに「やや卑怯」と書きましたが、イエス様を引き合いに出されたらこの全宇宙で誰も文句言えなくなってしまうのでやや卑怯という意味です。とはいえ全能の【神】にブーブー文句を言う愚か者はいないと思いますのでイエス様にも文句は言えません。ただこの最悪の人生を何とかしてくれとは思っています(祈)†

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「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†■2024年8月21日UP■
「お前はこの聖なる仕事をやめないよ」えぇやめるつもりはありませんがヒドすぎなんですよ(祈)†
もう僕という霊媒が機能するだの、新規の霊言が降るだの、そういう事を書くつもりは一切ありませんが、現存する正真正銘の霊関連書籍をテキスト化する作業は全力で続行するつもりでいるのです。その作業を続けるイコール「本を読み続ける」という事になり、さらに深く霊的知識を理解する事につながるので僕的に好都合ですし霊的知識拡散という意味でも大変重要なのです。なぜ霊団がそこまでしてあの無意味なところに僕を閉じ込め続けようとしているのかがどうしても分かりません。僕をあそこに閉じ込めてみたところで僕という霊媒は機能しない、新規の霊言は降らない、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡にもつながらない、奴隷の女の子たちもひとりたりとも助けてあげられない。何ひとつイイ事ないじゃないですか。なのにそこに閉じ込められる事を耐え抜けば僕は霊的に向上を果たす事ができて明るい境涯に赴く事ができるのだそうです。邪悪を滅ぼす事より、殺される運命の女の子を救出する事より、仕事を前進させる要素ゼロの意味なしの場所に閉じ込められる事の方が霊的向上に寄与するとは、これは一体何がどうなっているのでしょうか。本気で意味不明なんですけども…続きを読む→
「オーバーステップ」霊界側の当初の予定から逸脱しているという事のようなのですが(祈)†■2024年8月14日UP■
「オーバーステップ」霊界側の当初の予定から逸脱しているという事のようなのですが(祈)†
要するに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡に到達しかねないところまでオーバーステップしているという意味ももちろん含まれているでしょう。到達すればイイじゃネィか、それが目的で僕の霊的スイッチをONにしたんじゃネィのかよ。僕がどれだけ霊団の導きの方向性をイヤがっているか皆さまにご理解頂けるでしょうか。僕は反逆のペナルティで帰幽後にヒドイ状況に、イヤ物質界生活中の現在ですでにペナルティは発動しており、僕は徹底的に自分の心と正反対の状況に閉じ込められていますが、霊団は僕にはペナルティを課すが「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁には指1本触れようともしないこの宇宙最大級の理不尽。この状況を納得できる日はもう永遠に来ないでしょう。そんなに邪悪を守り通したいのか。地球圏霊界とは正しいおこないをする人間より邪悪の人間を守り通すというのか。ほぉー、これは何とも美しい世界だ、あこがれる、ぜひ住んでみたい。あー地球圏に生まれてよかったなぁ。正しいおこないをすればするほど苦しい状態にさせられ、邪悪なおこないをすればするほど守られる。本当に物質界なんて必要ネィんじゃネィのかと、かなり本気でそう思うに至っています…続きを読む→
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†■2024年8月7日UP■
今回は霊団のインスピレーションをほぼ全て無視し、僕の心境を語らせて頂きます(祈)†
これは詳細説明できないのですが、実は霊性発現初期の頃に「隔離フィールド」という霊現象に長らく苦しめられた時期がありました。この時の実際の状況は諸事情がありまして説明できないのですが、どうもこの隔離フィールドの時から現在までが1本の線でつながっているのではないか、僕の人生はこの隔離フィールドからおかしくさせられたのではないか、という気もしているのです。ごめんなさい、これは説明できないのです。僕という霊媒から新規の霊言を降らせたいのなら、いくらでも方法があるはずだろう、サークルメンバーのいるところに僕を移動させる、自動書記で霊言を綴る、できなかったなどとは言わせない、絶対にできるはずだ。コイツらは言ってる事とやってる事が完全に正反対だ。僕がある方向に動くととにかく脅して止めてくる。何の結果にも到達しないようにしているとしか思えない。で、僕は反逆(脱出)などと言っていますが、実際に脱出が実現したとしましょう。そうなると僕は現在の生活より自由に使用できる時間を増やす事ができるようになり、使命遂行に多くの時間を割く事ができるようになり、さらに霊的仲間を求めて外洋に飛び出す事もできるようになります。現在の生活では困窮を極めているためにそれができません…続きを読む→
「ペナルティ」霊団が僕に課すペナルティの意味が大体分かりましたがスゴイ理不尽感(祈)†■2024年7月31日UP■
「ペナルティ」霊団が僕に課すペナルティの意味が大体分かりましたがスゴイ理不尽感(祈)†
僕は「ホワイトイーグル霊の英語書籍の翻訳」をやろうかと考えているのです。ホワイトイーグル霊の書籍はたった数冊しか日本語に翻訳されていませんが、英語の原書がスゴクいっぱいある事を知ったからです。それら原書のほとんどが日本語に翻訳されていませんので、残りの物質界人生をその翻訳に集中しようかなと考え始めているのです。できもしない僕という霊媒の発動を目指すよりよほど現実的な霊的知識普及方法だと思うのです。僕は英語の能力がありませんので「Google翻訳」で日本語に翻訳するつもりですが、僕のこの作業がきっかけで英語のプロの方が僕の帰幽後にホワイトイーグル霊の書籍の日本語版を復刊してくれるかも知れないじゃないですか。この方が霊媒ナンチャラカンチャラと騒ぐよりよほど堅実な使命遂行だと思うのです。もう霊団が僕という霊媒を使うだの使わないだの、そんなモノに関わり合いになるのはウンザリなんですよ。このテキストを撃っている最中も霊団が「ヤメレ」言ってきました。僕の反逆(脱出)の意思が固い事を受けてそう言ってきているのですよ…続きを読む→

八ヶ岳アタック1323プロセス実行

物質界が苦難を克服して霊格を高める境涯だという事は理解してます。しかし物事には限度というモノがあるのではないでしょうか。あんたたち(霊団)はとにかくやりすぎ、あんたたちのやっている事は僕のためを思って試練を降らせているんじゃあなくって単なるイジメイヤガラセだ。

やっりっすっぎっなっんっだっよっ。しかも期間も長すぎるんだよ。僕が霊性発現したのは何歳の時で、いま僕は何歳だか言ってみてくれ。人間の肉体は【神】が寿命を定めている事は知ってるよな。霊体で生活しているあんたたちと違ってコッチには寿命ってものがあるんだよ。早く仕事進めないと僕の肉体の寿命が来てできる事もできずに終わってしまうだろ。

っとと、ブログ本文の方でグチりましょう。まずは撃ち切る事に集中中。間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†

まずは昨日の山の撮影画像をUPですが、この地獄はいつまで続くんだ、いつまでやらされるんだ、恐るべき絶望感に襲われます。しかし撃つべきは撃たないといけません。これをやらなければ何のために物質界に残されているのか分からなくなってしまいます。

あー気が重い、これらインスピレーション全ての説明などもちろんできる訳がありませんのでかなりの量を削除して撃ち始める事になります。このまま僕は永遠に最悪の中に閉じ込められるというのか。もうイヤだ、地球圏物質界イヤだ。っとと、グチはあと、何とか撃ち始めましょう(祈)†

その山頂は本当にいつ行ってもガスに包まれている、今回もまたしてもガスの状態で、それでもその標高にとどまって撮影してやろうかと思ったのですが(気温が高いのでそれほど危険はないという判断)「先生(山の事を僕はこのように呼ぶのです)相手にムキになっても痛い目見るだけだ」という事で泣く泣く標高を下げての撮影としました。

撮影を速攻で済ませていつもより少しだけ早くゴールしました。予報が予報なので雨がドッカーンって降ってきたら道路が通行止めになる可能性がありますので早めに帰ってきました。

山を登攀中に霊団がいくつか気になる事を言ってきてまして、なぜわざわざクロッキーにメモできないタイミングを狙って言ってくるんだよ。100%イヤガラセだろ。明日の長文テキスト撃ちの事を考えるとユウウツです。まぁ何とか撃てるとは思いますが…。

今日の撮影画像のUPは明日。まずはダメージの回復に集中させて下さい。山よりロングドライブが超絶的にピンチです。ポケットラジオ、笑っちゃうほど全く何の役にも立ちませんでした(祈)†

コチラの書籍はパウロの晩年の伝道記となります。ほとんど牢屋に入れられっぱなし、鎖につながれっぱなし、サウロ時代にイエス様の使途を大勢殺すという大罪人でしたからその悪行の因果律としてそういう晩年だったと思われるものの、その苦難を耐えて最後までやらせた霊団がスゴイと思います。

こんなヒドイ目に遭わされれば普通逃げるだろと思うのですが、要所要所でパウロは天使の顕現に浴させて頂いており、それが抑止力、使命遂行への決意維持につながったのだろうと思います。

僕がいちばん印象に残っているシーンはイエス様の実母マリア(この時かなり高齢)がルカに連れられて獄中のパウロに面会したシーンです。その時、パウロはマリアのうしろに立つイエス様を霊視で見たそうです。これは素晴らしいシーンですね。(20章、21章)

Google翻訳の読みにくい文章かも知れませんがどうかそこはご勘弁頂いて、ぜひとも多くの方にお読み頂きたいと思います。近藤千雄先生も山本貞彰氏も翻訳しなかった書籍となります。まだ未翻訳の書籍を入手するつもりでいるのですが何をどうググってもどこにも存在しておらず、現状入手は絶望的状況です。

さぁもう明日の山のアタック準備ですので今日の作業はココまで。明日はグラデーション撮影は絶望的、しかし置かれた環境で撮れる限りのモノを撮ってきます。もはや僕の山での撮影は仕事であり使命遂行の一環なのです。どんなヒドイ状況だろうと何が何でも撮影しなければなりません。

帰還後の長文ブログの事を思うと気が重くてどうしようもありません。本当にテキスト撃ち続けるのが苦しくなっているからです。まさか本当に霊団はこの状態をいつまでもどこまでも続けさせるつもりじゃネィだろうな何の結果にも到達させずに。ジョォォダンじゃネィよ。ホンの10分でも自分を助ける作業をしましょう。霊団は何もしませんからね(祈)†

[思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて、逆に次のような通信が届けられた。]

魂は自由であるべきもの

これまで述べてきたところをまとめる意味で、今少し述べてみたいと思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたないものであることを十分に理解していないようです。

われわれの述べる言説こそ人類の必要性と願望を満たす要素をもつことも理解していない。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ないものを、ここで指摘しておく必要がありそうです。

人間界に蔓延している死後の問題への関心が実にいい加減であることも、そなたにはわかっていない。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかないということ、それだけです。

理性的にみれば、絶対的啓示として信じるよう教え込まれた“神の啓示”には人工の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準にさえも耐え切れないこと、そして又、理性は啓示の判断基準ではないのだから知的追求の枠外に置き、ただひたすら信ぜよとの牧師の詭弁は、実は、決して誤らないはずの福音の中に数多く発見される誤りと矛盾を被い隠すための巧妙な言い逃れの手段であることは容易に知れます。

理性という試金石を使用すれば、それくらいのことは立ちどころに知れます。理性をもたない者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていくのです。

そして、教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから1歩も出ようとしません。それもただ、それに疑念をはさむことが恐ろしいからに過ぎません。

宗教上の問題についての理知的思考を禁じることほど、精神を拘束し魂の発育を歪めるものはありません。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害します。魂が、その欲求を満たす満たさないに関わりなく、ひとつの因習的宗教によって縛りつけられてしまうからです。

これでは、魂の成長の糧をみずから選択する自由が皆無となります。遠い祖先にとってはそれで良かったかも知れないことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては、まったく無意味なことも有りえます。ゆえに、その自由を奪われては、魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになります。

キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたたちのいう異教徒となるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになります。

その神がインディアンのいう大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも – 要するに、その宗教的概念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的な拘束力をもつことになります。

何となれば、いずれの国にあっても、古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからです。

真理のすべてを包含する宗教は存在しない

この事実は、そなたにとって熟考を要する問題です。いかなる宗教といえども、地上のある地域の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示のすべてを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む、作り話にすぎません。

今地上で全盛を誇っている宗教も、あるいはかつて全盛をきわめた宗教も、どれひとつとして真理を独占するものではありません。完全な宗教など、どこにも存在しません。

それが発生した土地、そして又、それを生み出した者の必要性を満たす、それなりの真理を幾つかそなえてはいても、同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけられるべきものではありません。

それは神からその民族のために与えられた霊的栄養なのです。それをもって普遍絶対性を主張すること自体が、すでに人間らしい弱点をさらけ出しております。

人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものです。その妄想にしがみつき、われらこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して、他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込んでいる姿を見ていると、われわれは、その“けなげな”気持には微笑(ほほ)えまずにおれません。もっとも、その思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちですが…。

すぐれた学識をそなえているはずの神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせていますが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条にすぎないことに、今まで気づかず今なお気づかずにいることは、われわれにとって驚異というほかはありません。

神の真理は太陽のごとくあまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できません。それはぜひとも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要があります。

つまり、光に慣れない目を眩まさないように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばなりません。その中間的媒体を通さずに直接(じか)に真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て、天上高く舞い上がった時でしかありません。

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

地上のすべての民族にそれ相当の真理の光が授けられております。それを各民族それなりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもあります。

いずれにせよ、結局はその民族固有の必要性に応じて変形されてきております。それゆえ、地上のいかなる民族といえども、真理独占を誇り、それを他民族に押しつけんとす無益な努力が許される道理はないのです。

これまで地上に発生したどの宗教も – バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も – それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ人間が勝手にそれを真理のすべてであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続人であると自負したにすぎません。

その過ちを最も顕著に示しているのが、ほかならぬキリスト教です。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じていながら、その実、教会内部において対立する宗派がいちばん多いのもキリスト教であるという事実が、その過ちを何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。

内部の分裂、その支離滅裂の教義、互いに愛を独占せんとして罵(ののし)り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことは、キリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かな自負への絶好の回答です。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつあります。その新しい啓示の普及による啓発によって、そうした宗閥的勢力争いも消滅するでしょう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意ができているのです。

その暁には、各宗教には中心的太陽ともいうべき神の光の一条のみが与えられているにすぎないこと、しかも、その光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知ることでしょう。

それゆえ人間は、他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、自分たちの欲求にそぐわないと思い込んでいたものの中にも、神聖なものを認識しなければいけません。

宗教としてあるまじき内部事情

われわれがその普及を使命として担わされている壮大な霊的教訓は、理性的観点からすれば合理的であると同時に崇高なものをそなえており、その普及によって、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の物笑いのタネとしてしまった宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上から払拭(ふっしょく)される日も間近に迫っております。

それにしても、ああ、何たる醜態でしょう!本来ならば神の本性を明らかにし、神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学 – それが、事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しい感情をむき出しにする不毛の地と化し、神についての無知を最もあらわに曝け出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う、佗しい荒野と化してしまうとは!

神学!これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っています。神についての無知の証ともいうべき退屈きわまる神学書は、見苦しい悪口雑言(あっこうぞうごん)、キリスト者と
して最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりです。

神学!聖なる本能のすべてをかき消し、敵に向けるべき攻撃の刃(やいば)を同志に向け、聖者の中の聖者ともいうべき霊覚者を火刑に処し、あるいは拷問にかけて八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし、あるいは追放し、人間としての最高の本能を堕落させ、自然の情緒をかき消すことを正当化するための口実とされてきたではありませんか。ああ、何たる醜態でしょう!

そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界から1歩でも出ようとする者を押し止めんとします。“退がれ!退がれ!神学のあるところに理性の入る余地などあるものか! – これが神学者の態度です。

真摯な人間を赤面させる人間的煩悩のほとんどすべてがそこにあり、自由な思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化しております。本来ならば神について語るべき叡知を、人間はそのような愚劣な目的のために堕落させてきたのです。

しかし友よ、われわれの目的成就の日も間近です。こうした風潮をいつまでも放置しておくわけにはいきません。今はまさにイエスの降臨前と同じです。夜明け前の漆黒(しっこく)の闇と同じです。

無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつあります。聖職の権能によってがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸した愚行、無知が生み出す偽善、そして曖昧模糊(もこ)の思索の産物に代って、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れるでしょう。

その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しい見解を手にすることでしょう。人間が死者と呼んでいる者も、地上時代と少しも変らず、否、むしろ、より実感をもって生きていること、しかも、地上時代に交わった時と変らぬ情愛をもって加護に当たっていることを知ることでしょう。

イエスは生命の本質と不滅性の真理を地上にもたらした、とバイブルにあります。その言葉は、筆録者が意味したものより、もっと広い意味において真実です。

イエスによる啓示の成就は – 今まさにそれが成就されんとしているところですが – 真実の意味における“死の観念”の撲滅であり、“生命の不滅性”の実証にほかなりません。

その偉大な真理、すなわち人間は永遠に死なないということ、たとえ死にたくても死ぬことはできないという事実の中に、未来へのカギが託されています。信仰のひとつとしてではなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実のひとつとして、生命の不滅性は未来の真実の宗教の基調であらねばなりません。

われわれの説く深遠な真理も、崇高な義務の概念も、壮大な宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すべてその生命の不滅性の上に成り立っているのです。

今のそなたには理解できないことかも知れません。炎に慣れていないそなたの魂は、目が眩むことでしょう。が、友よ、よく心されよ、やがてわれわれの言葉の中に真理のしるし、神性の一面を認めるようになる日が必ずきます。

†インペレーター

[注釈]

(1)キリスト教についてこれほど遠慮容赦のない批判を、罵倒に近い調子で投げつけた節も珍しい。訳者としても訳語の選択に戸惑うほどである。

キリスト教に愛着をもたれる方にとっては不愉快きわまる言説かも知れないが、これが、オックスフォード大学で徹底的に神学を叩き込まれ、しかもそれを唯一絶対のものと信じ、みずからも説いてきた、ステイントン・モーゼスという牧師自身の手が本人の意志を無視して自動的に動いて綴ったものであるという事実が、ここで大きな意味をもつことになる。モーゼス自身がその内容に反発し、反論し、健康を害するほどまで悩まされたのである。

ところで、ここで“堕落させてきた”とインペレーターが言っているその源をたどっていくと、325年のニケア会議(ニケアはニケーアと表記されることもあり、古代ではニースといった)での“歴史上最大の陰謀”(一聖書学者の言葉)に至るというのが常識的結論であろう。

そのニケア会議の全容を記した古書 History of the First Council of Nice, by D. Dudley(第1回ニケア会議の真相・初版1886年)を英国の古書店に依頼しておいたのであるが、不思議にも、この一節を執筆している最中に、突如、届けられた。

1年近くも前に注文し、すっかり忘れていたので驚いたが、その内容を一読してさらに驚いた。どこかの国の乱闘国会よりもっと見苦しい醜態の中で、キリスト教を国教とする採択がなされた経緯が、非難攻撃といった態度でなしに、一種の学術的資料の公表といった形で、整然とまとめられている。

いずれバイブルとキリスト教に造詣の深い方によって全訳されることになろうが、その著書の第7版(1925)に寄せられた大学教授ヒルトン・ホテマ氏の“序”がその概要を簡潔に説明してくれているので、それを≪参考資料≫として巻末に掲げておいた。

■2021年9月15日UP■
「いよいよ存在価値がなくなっていく」お分かりですね、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事ですよ(祈)†
日航ジャンボ機を墜落させて自分たちの邪悪の正体を公言しようとした人間を一気に殺したのも、その他いくらでもある事と思いますが、それらの行動には全て「動機」があるという事になります。その動機こそ霊団が言ってきた「人生イコールS〇X」この言葉ひとつに集約されるのです。コイツらの人生の目的、行動の動機は「S〇X1本」です。幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」で四肢切断、強姦殺人し続けるために全てのウソをついているのです。抵抗する術を知らない盗んできた(パレットから買ってきた)女の子たちをレイプし続けるために生まれてから死ぬまで自分の人生の全てをウソで塗り固めるのです。コイツらは何もかも全てがウソなのです。そこまでしてウソをつき続ける理由が「S〇Xを守るため」という事なのです…続きを読む→
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†■2021年11月10日UP■
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†
「この強姦殺人魔どもに対してこれ以外の感情が湧くというのであれば、どういう事なのか説明してもらいたい」という事になります。人間としてこれ以上当たり前の感情はないという意味です。その当たり前の感情がなぜこれほど長い年月にわたって公の場で語られる事が無かったのか、それが「洗脳」と「脅迫」と「視点外し」という事になると思います。まず「洗脳」ですが、世界中の強姦殺人魔は総じてメディアを牛耳っています。そのメディアを駆使して徹底的に自分が善人で国民に人気があって親しまれているという趣旨のニュースを休みなく流しまくり認識を捻じ曲げ続けてきます…続きを読む→
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†■2021年12月15日UP■
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†
とにかく何が何でも100%殺されるのだそうです。僕が赴くかも知れなかったその場所は、僕を殺したい人間(つまり「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を何が何でも守り通そうとしている人間)であふれかえっていますから、みんなで一致協力して僕を完全に殺しにかかってくるのだそうです霊団によると。これは以前からずっと言われ続けていました。毒殺だのうしろから銃で撃って来るだの日本刀で切りつけてくるだの、これまでありとあらゆる映像を見させられてきています。何しろその敷地内の全員が僕を殺そうとしていますから霊団も到底かばいきれないという事のようなのです。もちろんその僕を殺そうとしているメンバーの中にピーチピチ(佳子)も含まれているという事になります…続きを読む→

山のアタック出発前にもしかしたらUPできるかも知れないのでチョト作業に集中します(祈)†

まず「Paul In Athens」英文見直し中ですが何とまだ5%完了中。恐ろしく進行が遅い。それくらいOCR変換文章がグチャグチャという事です。この書籍はUPまでとてつもなく時間がかかりそうです。僕は何という作業を始めてしまったのだろうか。

そして「I Appeal Unto Caesar」こちらも英文見直しに苦しみながらようやくここまでこぎつけました。間もなくWordPressに全文UPできる見通しです、って山のアタック帰還後になると思いますが。

えー今週はインスピレーション、まぁまぁ降っているのですが、それとブログで説明できるかは別問題で、今のところチョト書けそうもないものばかりの状態です。この毎週のテキスト撃ちが本当に苦痛になっていまして、いつまでコレをやらされるんだろうと思うと恐るべき絶望感が襲ってきます。まさか物質界生活中ずっとやらせるつもりじゃネィだろうな。

で、もういい加減ストーリーの線画を描き始めます。「I Appeal Unto Caesar」あとモチョイなので集中します(祈)†

「感謝の念は消えません」だからそれは帰幽後の話だろ、物質界の邪悪を滅ぼせよ(祈)†■2022年11月2日UP■
「感謝の念は消えません」だからそれは帰幽後の話だろ、物質界の邪悪を滅ぼせよ(祈)†
僕は「物質界は地球圏霊界の刑務所」と公言していますが、霊団の動きを見るほどに僕のこの言葉は本当に正解なんじゃないか?という気がしてなりません。つまり刑務所が住み心地良くなってしまったら刑務所としての機能が果たせなくなってしまうので邪悪を(今のところは)滅ぼすつもりがない。未熟霊の矯正に刑務所を活用し続けなければならないからだが、矯正する未熟者がすっかりいなくなった、つまり地球圏霊界全体がある程度のレベルまで向上を果たし、下層界にうごめく低級霊たちもほとんど向上を果たし姿を消し、下層界が空っぽになるくらいのところまで到達した暁には、刑務所である物質界の利用目的が消滅する事になるので、そうなって初めて物質界の邪悪を消滅させるとか、そういうアフォみたいに気の長い事を考えているのではないか、などと思ったりもするのです…続きを読む→
■2019年10月24日UP■
「入信資格は強姦殺人魔」以前書いたブログ「日本悪魔教」と関係ありそうな幽体離脱時の映像を拝しました(祈)†
その宗教が販売している「スプレーAタイプ」というものがあります。このスプレーはA~Dまであり、Aが軽い毒、Dが重い毒という感じで、ある有名イケメン俳優がテレビ番組の中で「イヤー私もこれ愛用してるんですよ、ちょっとやってみましょうか」と言って笑顔でスプレーAタイプを収録中の部屋全体に噴霧し始めるのです…続きを読む→
■2021年8月13日UP■
「死体切断はもったいないから」明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を四肢切断する理由です(祈)†
ブタ(奴隷の女の子)は死んだけど、この死体はまだオモチャとして遊べる、このまま捨てたり焼いたりしたらもったいない、最後の最後まで遊び倒さないといけない。世界中でこの遊びができるのは俺たちぐらいのもんだ、ホラ悠仁、お前もブタの胴体を切って遊べ、人間を殺すのは楽しいだろ、これが俺たちの仕事だぞ。これからも国民を殺しまくって遊ぶんだぞ。イーッヒッヒッヒッヒッヒ♪つまり奴隷の女の子たちの人生、人権、性格、夢、そして生命、それら全てをオモチャにして遊ぶ事ができるのは世界で俺たちぐらいのものだ、ただ殺すだけじゃもったいない、女の子が生きている間も、泣き叫んで助けを懇願している時も、四肢切断した後も、強姦殺人する時も、女の子が死んで死体となった後も、その死体を切り刻む時も「処刑遊び」の全シチュエーションをバッチリ撮影して記録に残し、最後の最後まで徹底的に遊び倒さないといけない…続きを読む→

[こうした議論がこの後もひじょうな迫力と強力な影響力のもとに、ほとんど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたその影響力がいかに強烈にして崇高なものであったか、それを正しく伝えることは、拙い私の筆ではとてもできない。]

そなたはわれわれの教説が理神論であるか、純粋な有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで思いめぐらしているが、普段は正確な思考と知識とに事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本をみる思いがします。

すべての人間の心に通じる神、いかに堕落した人間の魂でさえ感応しうる神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しいかぎりの不毛な思想について、われわれはもはや言うべき言葉を知りません。

人間というものがみずからの目を被い隠すことすらするものであることを万一知らずにいれば、われわれは人間が一体なぜこうまで愚かなことを考えるのか、理解に苦しむところでしょう。

地上世界には絶対的真理は存在しない

申すまでもなく、われわれはすべての存在を支配する絶対神の存在を説きます。それは、人間が勝手に想像しているような気まぐれな顕現の仕方はしません。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在 – もっと厳密に言うならば、神の概念とその働きについての、より真実に近い見解を植えつけるべく働きかけてきた存在です。

イエスと同じくわれわれは、宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純の神を説きます。人間が想像するような人格神ではありません。真の意味における父なる存在です。エネルギーの化身でも具現でもありません。真に生ける実在です。

ただし、その本質と属性は、その働きと、人間が心に描く概念としてしか捉えることはできません。そなたの抱いている概念の中から全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつ又、さし当たって問題とするに足らない神学的教説を一応残しつつ、われわれは神について以上のごとく説いてきたのです。

われわれの教説を読んで、そこに絶対的真理が見当たらないと言うのであれば、われわれはむしろ、われわれの教説がそこまで理解してもらえるに至ったことを有り難く思うくらいです。絶対的完全性が有りえないように、今の未完成の状態においては、絶対的真理などというものは望むべくもありません。

最高級の霊にしてもなお目を眩まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届けられるようになることを期待してはなりません。限りあるその精神で、無限なるもの、不可知なるもの – 地上よりはるかに懸け離れたわれわれにとってもなお遠くより拝(おろが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が今すぐ理解できると思うのは、とんでもないことです。

万一できると思うようであれば、それこそそなたの置かれている発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかありません。

そなたにとっては真理はまだまだ断片的であり、決して全体像を捉えうるものではなく、また細目まで行きわたることは叶わず、あくまでもベールを通して大まかな輪郭を垣間見る程度にすぎません。われわれとしても決して真理のすべてをそなたに啓示してあげようなどとは思いも寄りません。

われわれみずからがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われた多くのものを少しでも深く理解したいと願っているところなのです。われわれに為しうることは、せいぜい、その神の概念 – これまでキリスト教において絶対的啓示として罷(まか)り通ってきた概念よりは、幾分か真実に近いものを仄(ほのめか)す程度にすぎません。

これまでのところわれわれは、そなたも筋の通った崇高なものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功したと見ております。今のところそれ以上のものを求めてはおりません。

神についても、そなたにとって崇拝と敬意の対象となりうる神を啓示しました。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露しました。道徳的規範として、そなたが聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理じいせず自然に理解できる、しかも説得力のある見解を確立しました。

罪はみずから償うべきもの

われわれの教説を根拠のない宗教と決めつけるに至っては、奇々怪々な誤解というほかはありません。地上生活というこのタネ蒔きの時期のひとつひとつの行為が、それ相当の実りをもたらすとの教え – 悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならないという教え – 過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺(もつ)れを、必ず“みずからの手で”解(ほど)かねばならないという教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説というのであろうか!

われわれは、人間の言動は池に投げ入れた小石のごとく、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には“最後まで自分が”責任を負わねばならないこと、ゆえに、ひとつの言葉、ひとつの行為には、その結果と影響とに計り知れない重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのですが、これが果たして下らぬ教説でしょうか。

また、その賞罰は、はるか遠い未来の、死にも似た休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によってその行為の直後から始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのですが、これも愚にもつかぬ言説でしょうか。これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならないのであろうか。

そうしたわれわれの教説と、そなたたちの信じている教説、すなわち自分の思うがままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずか)しめた人物が、たった1度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変節によって、一気に、眠けを催すような天国への資格を獲得するとのキリスト教の説、しかもその天国での唯一の楽しみが、魂の本性が忌々しく思うはずのものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よい仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。

堕落した魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られないにお構いなく、いつかは悔い改めねばならない時がくること、そして、他力ではなく自力で償わねばならないこと、それによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえないとの教えの方であろうか。

それとも、何をしでかそうと、天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか1度の叫び声によって魔法のごとく魂が清められ、遠い未来に訪れる審判の日をへて神の御前に召され、そこで、今なら退屈この上なく思うはずの、礼拝三昧(ざんまい)の生活を送るとの教えの方であろうか。

そのいずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、それはわれわれとしても、そしてそなたにとっても、明々白々のことです。

なのにそなたは、われわれの説くところが確固たるものを曖昧なものに、明確な賞罰の体系を何の特色もないものに置き替えようとするものであると言う。

否!否!われわれこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしのような天国や、残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはしません。

キリスト教こそ、いつのことやら知れない遠い未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の者でも、その者自身が信仰も有り難味も見出しえない教義に合意することによって、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得るなどと、不合理きわまることを説いている。

スピリチュアリズムは地球規模の啓示

あえて言おう。われわれの説く信仰の方がはるかに罪を抑制すべく計算され、人間に受け入れやすく説かれています。人間の死後についても、はるかに合理的な希望を与え、人類史上かつてない現実性に富む包括的信仰を説いています。

くり返しますが、これぞ神の教えです。神の啓示として今そなたに授けているのです。われわれは、これが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待も希望もしません。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢ができていないかぎり、それは叶わぬことです。その時節の到来を、われわれは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間はかつてのような、ケチ臭い救済を当てにしたがために犯す罪も減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいてその動機の源は、甘い天国と恐ろしい地獄などというケチ臭い体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言します。

子供だましの地獄極楽説は、まともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠のない、非合理で愚劣なものとして、灰燼に帰されることでしょう。

[総体的にみてスピリチュアリズムの影響は好ましくない – 少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して、1873年7月10日に次のような回答が届けられた – ]

スピリチュアリズムにも多くの側面がある

その点については、われわれの側にも述べたいことが多々あり、そなたが陥っている誤解を解くべく努力してみたく思います。まず第1に、そなたは人間の宿命ともいうべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映った限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムのすべてであると思い込んでいます。

その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムのすべてであると見なす一部の連中と同類です。

見よ、彼らは結果によってのみ知られる静かな流れが、その見えざる底流を音もなく進行していることに気づきません。そなたの耳に入るのは騒々しい無秩序な連中のみです。さして多くはないが、よく目立つのです。

そなたが、あのような連中に世の中の再生ができるはずはないと言うのも、もっともなのです。そなたの知性はそうした無責任な言説にしりごみし、果たしてこんな程度のものが神のものであり善の味方であろうかと訝(いぶか)るのですが、実はそなたの目にはそうした一部のみが映り、しかもその一部についても明確な理解ができているとは言えません。

そうした連中にも彼らなりに必要な要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解しやすい手段によって神から授けられている – そうした表に出ない静かな支持者たちの存在については、そなたは何も知りません。そなたの視界に入らないのです。

が、入らなくても現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに、彼らもまた霊界からこのスピリチュアリズムの普及のために一役買う日が来るのを待ち望んでいるのです。

このように、そなたは一方に喧騒、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会ゆえに、狭隘(きょうあい)な見解しか持ちえず、およそ見本とはいえない小さな断片をもって全体と思い違いをしています。

これよりわれわれは、そなたが下したスピリチュアリズムの影響についての結論を、細かく取りあげていきたいと思います。そうすることによって、そなたがその究極の問題について断定的な意見を述べる立場にないことを指摘したいと思います。

“真実”はひとりひとり異なるもの

と申すのも、そもそも“真実”とは何かということです。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず、他のすべての分野においても、不偏平等です。地上には善と悪とが混在しています。平凡な霊で事足りる仕事に偉大な霊を派遣するような愚は、神はなさいません。

未発達の地縛霊の説得に神々しい高級霊を当てたりはなさいません。絶対にしません。自然界の成り行きには、それ相当の原因があります。巨大な原因から無意味な結果が出るようなことはありません。

霊的関係においても同じことです。知能程度が低く、その求めるところが幼稚で、高尚なものを求めようとしない魂の持ち主には、その種の者にいちばん接触しやすい霊が割り当てられます。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟な知性に訴えるために物理的手段を講じます。精神的・霊的に無教養で未発達な者には、その程度に応じた、最もわかりやすい言葉によって語りかけます。死後の生活の存在を得心させるためには、目に見える手段でないとだめな者がかなり、いや、大勢いるのです。

この種の人間は、高級な天使の声 – いつの時代にもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高な霊の声 – によって導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち – その欲求と性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に訴え、最も受け入れやすい証拠を提供することのできる霊によって導かれます。

さらに、そなたによくよく心得ておいてほしいことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることです。本来は進歩性に富める魂が、その宿った肉体によって進歩を阻害され、歪んだ精神的教育によって拘束を受けることも有りえます。

同じ啓示がすべての魂の耳に届くとはかぎりません。同じ証拠がすべての魂の目に見えるとはかぎりません。肉体的性向と精神的発達の欠陥によって、地上生活における発達を阻害された霊が、死後、その不利な条件が取り除かれた後に、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくありません。

目的に応じて手段が講じられる

というのも、本性は魔法の杖によって1度に変えるわけにはいかないものなのです。性癖というものは徐々に改められ、1歩1歩向上していくものなのです。ゆえに、生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積んだ者の目には、当然のことながら、無教養で無修養の者のために用意された手段はあまりに粗野で愚劣に映じるでしょう。

否、その前に、彼らが問題としているもの自体が無意味に思えるでしょう。その声は耳障りでしょう。その熱意は分別に欠けるかも知れません。が、彼らは彼らなりに、その本性が他愛ない唯物主義、あるいはそれ以上に救い難い無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感じる新たな視野に、一種の情熱さえ覚えるようになります。

彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けしませんが、彼らなりに真実の喜びの声なのです。批判的なそなたの耳には不愉快に響くかも知れませんが、父なる神の耳には、親を棄てて家出した息子が放浪の末に戻ってきて発する喜びの声にも劣らず、心地よいものなのです。

その声には真実味がこもっています。その真実の声こそ、われわれの、そして神の期待するところなのです。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われわれの耳には届きません。

このように、霊的に未発達な者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではありません。それでは無駄に終ります。まず霊的事象に目を向けさせる手段を用い、それを霊的に鑑識するように指導します。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのです。

物理的現象についてはそなたもすでに馴染んでいる。そして、そうした物的手段が不要となる日は決して来ないでしょう。いつの時代にも、そうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからです。目的にはそれなりの手段を選ばなくてはなりません。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く、視野の狭い者です。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことです。それはあくまでも“手段”にすぎません。霊的発達への足がかりとして用意され、ある者にとっては価値ある不可欠の手段であるということです。

そこで、これより、右の例以上にそなたが腹に据えかねているもの、すなわち粗野にして無教養な低級霊の仕業について述べるとします。そなたにとってそうまで耳障りで不快を覚えさせる霊を、そなたは“悪の声”であると想像しているようであるが、果たしていかがなものであろうか。

悪の問題についてはすでに取りあげましたが、また改めて説くこともあるでしょう。が、ここでわれわれは躊躇なく断言しますが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いて、大抵の場合、そなたが想像するような悪の仕業ではありません。

粗野な真実の叫びは厚化粧したお上品ぶりに勝る

悲しいかな、悪は多い。そして、善に敵対する者が一掃され、勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはないでしょう。ゆえにわれわれは、決してわれわれとそなたとを取り巻く危険性は否定しないし軽視もしません。が、それは、そなたが想像するような性質のものではありません。

見た目に常軌を逸するもの、垢抜けしないもの、粗野なものが、必ずしも不健全とは言えません。そうした見方は途方もない見当違いというべきです。真に不健全なものは、そう多くは存在しません。むしろ、そなたらの気づかないところに真の悪の要素が潜むものです。

霊的にはまだ未熟とはいえ、真剣に道を求める者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上は、この地上における精神的・身体的・霊的発達にかかっていることを理解しつつあります。それゆえ彼らは身体を大切にします。

酒びたりの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控えます。そしてその熱意のあまり、同じことをすべての者に強要します。彼らは、人それぞれに細かい個人差があることまでは気が回りません。そして、往々にしてその熱意が分別を凌駕(りょうが)してしまうのです。

しかし、洗練された者に反発を覚えさせる、そうした不条理さと誇大な言説を振り回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも、霊的に不健全であろうか。

そうでないことは、そなたにもわかるはずです。前者は少なくとも自分の義務と信念とに目覚めて、必死に生きています。今や、かつての希望も目的もない人間とはすっかり違っています。死者の中から蘇ったのです。

その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのです。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補って余りあるのではなかろうか。

その叫びは確信の声であり、死にもたとえるべき無気力状態からの目覚めた魂の叫びなのです。それは、生半可な信仰しか持たない者が紋切り型のキザな言い回しで厚化粧し、さらには、世間的に体裁の悪いことは、たとえささやき程度のものでも避けて通ろうとするお上品ぶりよりも、われわれにとって、また神にとって、はるかに価値あるものなのです。

何となればそれは、新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われわれの使命にとっても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかないからです。

そなたは、俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。きっぱり申し上げるが、それもまったくの見当違いです。的確さと上品さには欠けていても、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他のものよりも大衆に訴える力があります。

野蛮な投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石の方が、打算から慣習に
迎合し、体裁を繕(つくろ)う教養人の言説よりも、よほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのです。

現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのです。霊界から指導に当たる大軍には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されています。

“物”にしか反応を示さない唯物主義者には、物的法則を超越した目に見えない力の存在の証拠を提供します。固苦しい摂理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦(むつ)み合いの生活への信念を培(つちか)います。

筋の通った論証の過程を経なければ得心できない者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していきます。

さらに、そうした霊的心理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越した、より深い神秘への突入を欲する者には、神の深い真理に通暁した高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせます。

このように、人間にはその発達程度に応じた霊と、それにふさわしい情報とが提供されます。これまでも神は、それぞれの目的に応じて手段を用意してこられたのです。

スピリチュアリズムは霊界を総動員した働きかけ

今一度くり返しておきます。スピリチュアリズムはかつての福音のような散発性のものとは異なります。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教であり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。

が、実は、それだけと見なすのも片手落ちです。そなたにとって、そして又、そなたと同じ観点から眺める者にとってはそれだけでよいかも知れません。が、他方には意識程度の低い者、苦しみにあえぐ者、悲しみに打ちひしがれている者、無知な者がいます。

そうした人たちにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもちます。それは、死後における肉身との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安です。実質的には、五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋です。

肉体を棄てた者も、肉体に宿る者と同じく、その発達程度はさまざまです。そこで、地上の未熟な人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれます。ゆえに一口にスピリチュアリズムの事象といっても、程度と質を異にする種々様々なものが演出されることになります。

底辺の沈澱物が表面に浮き上がってくることもあり、それのみを見る者には、奥でひそかに進行しているものが見えないということにもなります。

今こそそなたも得心がいくことでしょうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生した“しるし”を見れば、その種の現象が決してこのたびの活動のみに限られたものとの誤解に陥ることもないでしょう。

それは、人間の魂を揺さぶるすべてのものに共通する、人間本来の性分が要求するのです。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせない要素でした。

人類の歴史において新しい時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに、霊的知識の発達にもそれが付随しているのです。が、それをもって神の働きかけのすべてであると受け取ってはなりません。

政治的暴動がその時代の政治的理念のすべてではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれわれの仕事の見本と考えてはなりません。

何事にも分別を働かさねばなりません。その渦中にある者にとっては、冷静な分別を働かせることは容易なことではないでしょう。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しい事情を振り返った時には、容易に得心がいくことでしょう。

そなたの提示した問題については、いずれ又の機会にさらに多くのことを述べるとしましょう。このたびは、ひとまずこれにて – ご機嫌よう。

†インペレーター

[注釈]

(1)死者はこの世の終末に神が下す“最後の審判”の日まで、休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰をさす。

死の直後は霊的調整のための無意識状態に入るのが通例であるが、この信仰を幼少時代から教え込まれ、そう信じきって死んでいった者は、やがて意識が戻っても、まだ最後の審判日は来ていないと知らされると、また眠りに落ちてしまうという。

西洋の高等な霊界通信はこの“最後の審判説”と“贖罪説”とを人間性を堕落させる最も悪質な教義として厳しくその間違いを指摘するが、これに似た弊害をもたらす教義ないし信仰としてすぐに私の念頭に浮かぶのが、仏教の“蓮のうてなの境涯” – いわゆる極楽浄土説である。

気候温暖、風光明美、病気も災害もなく、すべてが満ち足りた成果が存在することは事実で、これを西洋のある通信では“青い島”と呼んでいる。環境が青い色彩を帯びているのでそう呼ぶのであるが、実はそこは魂の慰安所ないしは療養所のような目的をもった世界で、そこで地上時代の悪戦苦闘の生活、胸をえぐられるような体験による魂の傷が癒やされる。

が、本来ならば、つまり地上時代に正しい霊的知識を身につけていれば、魂の自然な発露として、さらに向上進化を求めるようになる。その結果として、さらに次元の高い世界へと旅立つ者もいれば、指導霊として地上へ戻ってくる者もいる。それはひとりひとり事情が異なるので一概には言えないが、ともかく、そののんびりとした境涯からは去っていくべきところである。

問題は、地上時代の信仰の型から抜け切れずに、そこが自分が祈り求めていた極楽だと思い込み、半永久的に安住してしまう者が多いことである。それはそれで別に害はなさそうに思えるが、実は、霊的親和力によって結ばれている“類魂”に対してマイナスの影響を及ぼしていることを知らねばならない。つまり同じ霊系の地上の人間に無力感、非積極性、頑張りのなさとなって現れている。

おしなべて仏教には、キリスト教が“積極的”な害を及ぼす教義や信仰が多いのに対して、“消極的”な害を及ぼすものが多いようである。

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