-----3章01
『母と子の心霊教室』第3章「霊媒(れいばい)」とはなんだろう、そしてどんなことをするのだろう【1 霊媒(れいばい)はエーテル界との連絡(れんらく)係】ついこのあいだのことです。私がこの本を書いておりますと、玄関(げんかん)のドアをせわしくノックする音がします。
『母と子の心霊教室』誰だろうと思いながら急いで出てみると、すぐ隣(となり)の家の方で、私に電話がかかったことを知らせにきてくださったのでした。私の家には電話がないので、いつもお隣(となり)の電話を使わせていただいているのです。
『母と子の心霊教室』私は「どうも、いつもご親切にありがとうございます」と礼をいって、急いでお隣(となり)までいきました。さて受話器をとって「もしもし、パーマーですが、どちらさまでしょうか」というと、驚(おどろ)いたことに、その相手はもう何十年も会っていない→
『母と子の心霊教室』→昔の友だちでした。私ははじめそれが信じられませんでした。すると友だちは、私たちがまだ子どものころ夏休みに2人で野山へ遊びにいったときのことや、いたずらをしてしかられたことなどを話してくれました。その話は私たちふたりしか知らないことばかりです。
『母と子の心霊教室』それでようやく、その人がまちがいなく昔の友だちであるとわかり、それからしばらく、ふたりでいろいろと語りあったのでした。さて、みなさんは、私がなぜこんな話をするのだろう、と思われるかもしれませんが、じつはこれとひじょうによく似たことが、→
『母と子の心霊教室』→エーテル界の友だちと私たち地上の人間とのあいだにも起きるのです。それは、霊媒(れいばい)と呼(よ)ばれている人のからだを使って、エーテル界の人が私たちに話しかけてくることがあることを説明するためなのです。
『母と子の心霊教室』第2章のおしまいのところで、人間には肉体をもっていながらエーテル体をはたらかせて、エーテル界を見物したり、そこに住む人たちと話をしたりすることのできる人がいて、そういう人を霊能者(れいのうしゃ)というと書きましたが、→
『母と子の心霊教室』→その霊能者(れいのうしゃ)と呼(よ)ばれる人の中でも、その能力を自分のためでなく他人(ひと)のために使うことを専門(せんもん)にしている人をミーディアム(霊媒(れいばい))と呼(よ)びます。
『母と子の心霊教室』ミーディアムのもとの意味は「あいだに立つ人」ということです。さっきの話でいえば「受話器」の役目にあたります。人間のすべてが霊能者(れいのうしゃ)になってしまえば、とうぜん霊媒(れいばい)という役目をする人はいらなくなってしまいます。
『母と子の心霊教室』それはちょうど、全部の家に電話がつけば、私のように隣(となり)の家の電話を借りなくてすむのと同じです。ですが、いまのところ霊媒(れいばい)と呼(よ)ばれる人はそうたくさんいません。
『母と子の心霊教室』ですから、エーテル界の人と話をしたい人は、私がお隣(となり)の電話を借りにいくように、霊媒(れいばい)のところへいって連絡(れんらく)をたのまなくてはなりません。
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-----3章02
『母と子の心霊教室』【2 交霊会(こうれいかい)とはなんだろう】ところで、みなさんはきっと経験したことがあると思いますが、電話の相手が遠いところへ出張しているお父さんであったり、どこかへ旅行中のお兄さんだったりすると、わぁ、お父さんだ、わぁ、お兄さんだといって→
『母と子の心霊教室』→家中の者が、みんなひと言(こと)ずつでも話してみたくなるものです。つまり、ひとつの電話でおおぜいの人が話をするわけですが、それと同じように、ひとりの霊媒(れいばい)を通じて、おおぜいの人がエーテル界にいる自分の肉親や知人と話をするために、→
『母と子の心霊教室』→曜日をきめて霊媒(れいばい)の家に集まることがあります。そのような会を「交霊会(こうれいかい)」といいます。さて、いよいよ霊(れい)を呼(よ)びだしても、ここにたいへんむずかしいことがおこります。
『母と子の心霊教室』それは、その霊(れい)がほんとうに、自分で名のっているとおりの霊(れい)であるかどうか、ということです。なにしろ私たちの目に見えないのですから困(こま)ります。みなさんだったら、どうやって確かめますか。
『母と子の心霊教室』いちばん良い方法は、子どものころの話とか、ふたりしか知らない秘密(ひみつ)の話などをしてみることです。そうです。さっきの私の昔の友だちのように、ふたりでどこかへ遊びに行ったことや、いたずらをしてしかられた話などをしてみるとよいのです。
『母と子の心霊教室』もし相手がそれに対して、まちがいなく相(あい)づちを打つことができたら、もう安心して○○さんだと信じてよいでしょう。アメリカやイギリス、ヨーロッパなどには、こうした交霊会(こうれいかい)を毎週のように開いているところがたくさんあります。
『母と子の心霊教室』ときには公会堂のような大きな建物を使って、何百人、何千人もの人を相手にして催(もよお)すこともあります。このような大きな交霊会(こうれいかい)を、デモンストレーション(公開交霊会(こうかいこうれいかい))と呼(よ)んでおります。
『母と子の心霊教室』では、その公開交霊会(こうかいこうれいかい)を例にして、交霊会(こうれいかい)というものがどのようにして行われるかを紹介(しょうかい)しましょう。
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-----3章03
『母と子の心霊教室』【3 交霊会(こうれいかい)はこうして行われる】まず出席者全員が起立して、どうか今日の会が成功しますようにと神さまにお祈(いの)りをし、つづいて静かに合唱します。歌いおわると司会者がこんなことをいいます。
『母と子の心霊教室』「ただ今より、ここにおります霊媒(れいばい)の○○さんが霊視(れいし)能力を使って、エーテル界の方々と話をされます。みなさんはやさしい愛の心で、霊媒(れいばい)の成功を祈(いの)ってあげてください」
『母と子の心霊教室』この言葉はひじょうにたいせつなことをいっております。どういうことかといいますと、もしも、その会場にひとりでもよこしまな心をもった人がいて、霊媒(れいばい)を憎(にく)んだりしたら、その憎(にく)む心が、ちょうど電波にいたずらをして→
『母と子の心霊教室』→ラジオに雑音を入れるのと同じように、霊媒(れいばい)の能力の邪魔(じゃま)をして、ひどいときは会を中止しなければならなくなることさえあるのです。みなさんは交霊会(こうれいかい)に出席したときは、やさしい静かな気持ちで、→
『母と子の心霊教室』→霊媒(れいばい)の言葉に耳を傾(かたむ)けることがたいせつです。さて司会者の挨拶(あいさつ)がおわると、いよいよ霊媒(れいばい)が立ち上がって交霊(こうれい)をはじめます。まず霊媒(れいばい)がこういいます。
『母と子の心霊教室』「うしろから2番目の列のいちばん端(はし)におられる男の方、はいそうです。いま手を上げられた方です。あなたのすぐ横に、飛行服を着た若い男性の霊(れい)が立っておられます。年齢は20歳から22歳くらいでしょうか。」
『母と子の心霊教室』「背丈(せたけ)は高いほうで、髪(かみ)の色は黒、目は茶色です。髪をまん中で分けておられ、右のほおに小さなホクロがあります。耳のすぐ近くです」こんな具合に霊媒(れいばい)は霊眼(れいがん)(エーテル体の目)に映(うつ)ったままをのべてから→
『母と子の心霊教室』→こんどはその霊(れい)と交信をして返事をひとつひとつ伝えていきます。「この方はあなたの息子さんで、名前をシリルとおっしゃるそうです」「そのとおりです」とお父さんが答えます。「フランスで戦死されたそうです」「はい、まちがいありません」
『母と子の心霊教室』「お父さんは近ごろシリルさんのことを思いだして、たいへん悲しんでおられるそうですが、シリルさんは悲しんでくれては困(こま)るとおっしゃってますよ。今も元気で立派(りっぱ)に生きつづけていることを知ってほしいそうです。」
『母と子の心霊教室』「きのうの晩、お父さんはシリルさんの写真をだして見られたそうですね、それから、いまお父さんが使っておられる腕時計(うでどけい)はシリルさんのものだそうですが、シリルさんの弟さんが使える年令になったら、ゆずってあげてほしいとのことです」
『母と子の心霊教室』「はい、私はきのうの晩シリルの写真を見ました。この時計はシリルのものです。望みどおりシリルの弟が使えるようになったらゆずりましょう」こうして、地上のお父さんとエーテル界の息子さんとが、感激(かんげき)のひとときを過ごすわけです。
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-----3章04
『母と子の心霊教室』【4 霊視(れいし)能力と霊聴(れいちょう)能力】右の話の中でひとつだけ不思議に思われるところがありませんか。シリルさんが飛行服を着ていたことです。シリルさんは、今でも飛行服を着ているのでしょうか。説明しましょう。
『母と子の心霊教室』ほんとうはもう飛行服なんか着ていないのです。ですが、さっきもいったとおり、自分が息子であることを知らせるためには、お父さんしか知らない昔のことを示すのがいちばん確かなのです。そこでシリルさんは、自分が戦死したときの姿(すがた)と→
『母と子の心霊教室』→同じ姿(すがた)をよそおって霊媒(れいばい)に見せたわけです。人間はだれでも死んだときの服装(ふくそう)をいちばんよくおぼえているものです。それでエーテル界からあらわれるときは、たいてい死んだときの服装(ふくそう)をしているものです。
『母と子の心霊教室』ときには、ただ自分のことを知ってもらうだけでなく、地上の未来のできごとを知らせてくれて、もしそれが危険なことであれば、どうすればよいかを教えてくれることもあります。こうしたことを“予言”といいますが、その予言を聞いたり、→
『母と子の心霊教室』→出てきた霊(れい)の姿(すがた)を見たりすることは、ふつうの目や耳ではできないことです。そこで、こういった能力にはそれぞれ特別な呼び方があります。霊(れい)の姿(すがた)が見える能力を「霊視(れいし)能力」、→
『母と子の心霊教室』→霊(れい)の言葉が聞こえる能力を「霊聴(れいちょう)能力」といいます。霊媒(れいばい)がエーテル界の事情をさぐるときは、たいていこのふたつの能力を使います。
『母と子の心霊教室』昔は、死んだらきっとこうなるだろう、いや、そうではなく、こうなるだろう、というふうに、いろいろと考えてみるだけでしたから、昔の人の死後の世界の話には、まちがったことや“あいまい”なことが少なくありませんでした。
『母と子の心霊教室』が、近ごろでは、エーテル体の目と耳、すなわち霊視力(れいしりょく)や霊聴力(れいちょうりょく)を使って、実際に死後の世界を見聞きできる霊能者(れいのうしゃ)が多くなりましたから、死後の世界はほんとうにあるのか、→
『母と子の心霊教室』→死んだらどうなるのかといったことは、もはや“疑問”ではなくて、あたりまえの“事実”として認(みと)めなくてはならなくなりました。人間はけっして死なないのです。
『母と子の心霊教室』肉体は滅(ほろ)びても、精神(こころ)、すなわちほんとうの自分はエーテル体に宿って、新しい生活をはじめるのです。その新しい生活をするエーテル界のずっとずっと上の方には、宇宙(うちゅう)全体を治めておられる神さまの世界があるのです。
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-----3章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 死後の世界の区分(くわ)けについて ―訳者(やくしゃ)】死後の世界の分け方は、世界の心霊家(しんれいか)の間でもおおざっぱに分ける人と、細かく分ける人とがいて、その数は、一致(いっち)しておりません。
『母と子の心霊教室』が、日本では3つに分けるのが通例のようですし、それがいちばん妥当(だとう)でもあるように思われます。その理由は、エーテル体にも3つの種類があることが霊視(れいし)能力によって認(みと)められていますし、英国のキルナーという化学者が、→
『母と子の心霊教室』→特殊(とくしゅ)な装置(そうち)によって、これを科学的に説明することに成功しているからです。地上という物質界には、肉体という物質界の条件に似合ったからだが用意されていることから推察(すいさつ)して、それぞれのエーテル体にも→
『母と子の心霊教室』→それにふさわしい世界があるはずだということになるわけです。日本ではふつうこれを幽界(ゆうかい)、霊界(れいかい)、神界(しんかい)と呼び、それぞれの世界で使用するからだを幽体(ゆうたい)、霊体(れいたい)、神体(しんたい)と呼んでいます。
『母と子の心霊教室』幽界(ゆうかい)というのは地上を去ったばかりで、まだ自分の置かれた新しい環境(かんきょう)に慣れきれず、地上にいたときと同じ考えや感情、欲望(よくぼう)などに支配されている世界です。
『母と子の心霊教室』そうしたいわば“地上のくせ”からぬけ出て新しい境遇(きょうぐう)に目覚(めざ)め、同時に、宇宙(うちゅう)生活の目的と意義とを自覚(じかく)して、はつらつとした生活を営(いとな)んでいる世界が霊界(れいかい)です。
『母と子の心霊教室』そして、さらに向上進化を重ねて、宇宙(うちゅう)のすべての真相に通じ、いわば、宇宙(うちゅう)の司法・行政ともいうべき仕事にたずさわる世界を神界といいます。第3章のおしまいのところでのべているのは、この神界のことです。
『母と子の心霊教室』ただし、前にも説明した通り、用語というのは使用する人により、また読む人によっても意味が異(こと)なるものですから、ここでも、幽(ゆう)とか霊(れい)とか神(しん)とかの用語にこだわることなく、→
『母と子の心霊教室』→死後の世界はだいたい右に説明したような発達段階をへながら向上進化していくところなのだ、といった程度に理解していただけばよいと思います。
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『母と子の心霊教室』全文掲載 第3章 「霊媒(れいばい)」とはなんだろう、そしてどんなことをするのだろう
『母と子の心霊教室』全文掲載 第2章 「エーテル界」とはどんなところだろう
-----2章01
『母と子の心霊教室』【第2章 「エーテル界」とはどんなところだろう】第1章では人間がどのようにできあがっているかということ、それからもうひとつ、「死ぬ」ということはどのようなものか、ということを学びました。人間は肉体とエーテル体と精神の3つからできています。
『母と子の心霊教室』では肉体を捨(す)てた人々がいくエーテル界とはいったいどんな世界なのでしょうか。第2章ではそれを勉強することにしましょう。【1 目覚(めざ)め】みなさんもよく知っているとおり、人間はいろんな死に方をします。
『母と子の心霊教室』ある人はながいながい病気のすえ、苦しみながら息をひきとります。ちょっと考えると気の毒な気がしますね。でもよく考えてごらんなさい。病気をしていたのはエーテル体ではなくて肉体なのです。エーテル体はけっして病気をしません。けがもしません。
『母と子の心霊教室』病気をしたり足が不自由になったりするのは肉体だけです。その肉体を捨(す)ててしまうのですから、気の毒ではなく、ほんとうはしあわせなはずです。
『母と子の心霊教室』みなさんだって歯がズキズキ痛(いた)むようなときは、眠(ねむ)っているときがいちばんらくだと思うでしょう。それは、エーテル体と精神とが肉体から離(はな)れるからです。苦しみながら死んでいく人が必ずしも気の毒ではないことが、→
『母と子の心霊教室』→これでわかるでしょう。もうひとつの死に方は交通事故や戦争などでアッという間に死んでしまう場合です。こういう死に方を即死(そくし)といいますね。即死(そくし)した人は病気した人とちがって、はじめのうち自分が死んだことに気づかず、→
『母と子の心霊教室』→まだ地上にいるような気持ちで、あちらこちらをウロウロすることがあります。しかし病死した人も即死(そくし)した人も、はじめのうちはしばらくゆっくりと休んで、無理なことをしないように気をつけなければなりません。
『母と子の心霊教室』それはちょうど、病気が治ったばかりの人が無理なことをしてはならないのと同じことです。ですからエーテル界にはそういう人たちのために病院のような建物が設けられております。病院といっても地上の病院とはだいぶちがいます。
『母と子の心霊教室』お医者さんも看護婦(かんごふ)さんもいますが、けっして注射(ちゅうしゃ)をしたり薬を飲ませたりするのではなく、これからの生活に使うエーテル体と精神とをつよくがっちりとしてあげるのです。
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-----2章02
『母と子の心霊教室』【2 サマーランド(常夏(とこなつ)の国)】このような休憩(きゅうけい)と準備をする世界を、サマーランド“常夏(とこなつ)の国”と呼(よ)んでいます。みなさんの中で、夏がきらいだという人はいないでしょう。
『母と子の心霊教室』野山は青々と茂(しげ)り、空には入道雲(にゅうどうぐも)が出て、みんな海水浴に行ったり遠足をしたりして1日中遊びまわります。常夏(とこなつ)の国では1年中そのような季節がつづくのです。
『母と子の心霊教室』いえ、実際に常夏(とこなつ)の国へ行ってきた人の話では、地上の夏よりもっともっとすばらしいのだそうです。緑の野原、美しい森、さわやかなせせらぎ、青々とした湖。野山へ出ると、地上では見られないような美しい花が咲き乱(みだ)れております。
『母と子の心霊教室』もちろん、家もあれば庭もあり、高いビルもあります。図書館もあります。音楽会や絵の展覧会(てんらんかい)を開くための大きなホールもあります。その上、エーテル体はおなかがすいたり、寒くて冷えたりすることがありませんので、→
『母と子の心霊教室』→みんな元気いっぱい、仲良(なかよ)くしあわせに暮(く)らしております。
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-----2章03
『母と子の心霊教室』【3 エーテル界の学校】今から約100年ほど前に、アメリカのアンドリュー・ジャクソン・デービス(口絵写真)という人がエーテル界を見物して、そのようすをたくさんの書物に著(あらわ)しました。
『母と子の心霊教室』その中でデービス先生はエーテル界の学校のことを、だいたいつぎのように説明しております。エーテル界の学校は美しい庭園にかこまれていて、地上の学校と同じようにおおぜいの生徒がいくつかの組にわかれて勉強しています。
『母と子の心霊教室』みんな子どものときに地上を去った人ばかりです。もちろん各組には担任(たんにん)の先生がついておられます。また、それぞれの組にはその組を示す旗があり、生徒はみんな自分の組の目じるしになるバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』その旗の色とバッジを見れば、この人はどの組の生徒で、どんなことを学んでいる人だということがわかるようになっているのです。たとえば紫色の旗を立てた組があります。そして、生徒は“海”をあらわすバッジをつけております。
『母と子の心霊教室』この組は神が人類の“父”であり、人間はみな兄弟であることを学んでいるのです。またある組は青色の旗を立て“灯台”をあらわしたバッジをつけております。この組では正しいことと悪いことの区別を学び、また神が自然の中でどのようにあらわれているかを→
『母と子の心霊教室』→勉強します。また音楽にあわせてダンスをしたり、遠くまでハイキングにいったり、あるいはゲーム遊びをしたり…。しかし、そうしているあいだにもいろんなことを勉強します。
『母と子の心霊教室』たとえば、ダンスをする時の一人ひとりの動き方は、1年中の星座(せいざ)の動き方にあわせたりして、ダンスを楽しみながら天体の動きを学ぶわけです。
『母と子の心霊教室』デービス先生はまた、ある学校の生徒がよその学校を訪問(ほうもん)するために、野を越(こ)え山を越(こ)えて、楽しそうに歌を歌いながら元気よく行進している光景も見たと書いておられます。楽しくなるではありませんか。
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-----2章04
『母と子の心霊教室』【4 デービス先生の心霊(しんれい)学園】エーテル界の学校のすばらしさに感心したデービス先生は、友だちをまじえて、ぜひ地上にも同じような学校を建てようと考えました。それにはつぎのような理由がありました。
『母と子の心霊教室』ひとつはキリスト教の日曜学校の子供たちが牧師さんの説くことを暗記するだけで、自分で考えることをしないこと。第2は、その牧師さんの説教の中には、心霊学(しんれいがく)からみてまちがっていることがたくさんあり、→
『母と子の心霊教室』→子どもたちがおとなになってから信仰心(しんこうしん)をなくしてしまう原因になっていること。そして第3番目には、真理を学んで心をつよく美しくするだけでなく、からだも丈夫(じょうぶ)にしなくてはならないこと。
『母と子の心霊教室』こうした考えは今のみなさんにはあたりまえのように思えるかもしれませんが、そのあたりまえのことが100年もまえにはとんでもないことのように思われたのです。当時は牧師さんの教えをよく守り、よく勉強することがいちばん立派(りっぱ)なことと→
『母と子の心霊教室』→されていたからです。しかし、デービス先生たちはこれを実行に移しました。そしてこれに「心霊(しんれい)学園」という名前をつけました。この「学園」という言葉はギリシャのアリストテレスという偉(えら)い哲学者(てつがくしゃ)が、→
『母と子の心霊教室』→アテネの町はずれの森の中に建てた学校につけたものです。心霊(しんれい)学園は日曜ごとに開かれ、先生も生徒もいっしょうけんめいでした。生徒たちは、おもに地上生活とエーテル界の生活についての真理を学び、→
『母と子の心霊教室』→また何ごとも自分自身で考え、人が言ったことや書物に書いてあることを、そのまま暗記するようなことは絶対にしませんでした。
『母と子の心霊教室』今ではアメリカやイギリスにはたくさんの心霊(しんれい)学園ができておりますが、どれもデービス先生の建てたものにならったものです。
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-----2章05
『母と子の心霊教室』【5 考えたことがそのまま実現する】ふたたびエーテル界の話にもどりましょう。地上では生きていくためにはお金がいりますね。お金を得るためにはいっしょうけんめいはたらかねばなりません、ところが、エーテル界ではその必要がまったくないのです。
『母と子の心霊教室』たとえば、画家が絵をえがく場面を想像してみてください。まず、これからえがこうとする絵を頭の中で想像するでしょう。想像したら、こんどはそれをえがくのに必要な絵具を用意するでしょう。それから何日も何ヶ月もかかって画用紙の上にかきあげていきます。
『母と子の心霊教室』そのあいだには絵具が足りなくなることもあるでしょう。気に入らなくて最初からかきなおすこともあるでしょう。ところがエーテル界では、頭にうかべたことがそのまま目の前に実現するのです。絵具を用意する必要もありませんし、時間をかける必要もありません。
『母と子の心霊教室』必要なのは、“実現させようとする意思”、それだけなのです。この意思さえあれば、どんなものでもこしらえることができるのです。そういうとみなさんは、ではアイスクリームもチョコレートも自分で作れるのかな、と考えることでしょう。作れますとも。
『母と子の心霊教室』お菓子(かし)だけでなく服でも靴(くつ)でも、すきなものがすぐに作れます。ですが、エーテル界には「必要なもの」と「必要でないもの」があるのです。そのわけはみなさんにもわかるでしょう。そうです。肉体の性質とエーテル体の性質がまったく異なっているからです。
『母と子の心霊教室』第1に、エーテル体はおなかがすくようなことがありませんから、どんなにおいしい料理をこしらえても、それを食べる必要がないのですからつまりません。それに、あまりおいしいものばかり見ていると、いつの間にか少しもほしいと思わなくなってくるのです。
『母と子の心霊教室』つぎに、エーテル体は寒さを感じませんから、きちんとした服装(ふくそう)をしていればよく、オーバーなどを作る必要はありません。ずっと前のことですが、私はチョコレート工場を見学したことがあります。そのときに聞いたことですが、そこの工員さんはほしいだけ、→
『母と子の心霊教室』→チョコレートを食べてよいことになっているのだそうです。「いいなあ」「うらやましいなあ」みなさんはきっとそう思うでしょう。ところがそこの工員さんたちは、チョコレートなんかひとかけらもほしくありません、といっておりました。毎日毎日見ているからです。
『母と子の心霊教室』私もみなさんに負けないくらいチョコレートがすきですが、3時間もかかって工場を見学しているうちに、少しもほしいと思わなくなってしまいました。常夏(とこなつ)の国でも同じなのです。
『母と子の心霊教室』すきなものがいくらでも作れるようになると、いつの間にかそれがほしくなくなってくるのです。すると別のものがほしくなります。こうして自分のすききらいがつぎつぎに変わっていき、あとでふり返ってみると、地上にいたときとはぜんぜんちがった人間になっているものです。
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-----2章06
『母と子の心霊教室』【6 エーテル界の仕事】みなさんは大きくなったら、なにになりたいですか。学校の先生?飛行機のパイロット?それとも病院の看護婦(かんごふ)さん?それぞれ「ああいう人になりたい」とか「こういう仕事がしたい」とか、いろいろ希望があることでしょう。
『母と子の心霊教室』ですが、みんながみんな自分の思った通りの仕事につけるとは限らないようです。画家になりたくても絵だけでは生活できないので、しかたなしに銀行につとめたり、音楽家になりたいと思っていた人が、家の都合(つごう)で洋服屋さんになったりすることもあります。
『母と子の心霊教室』こういうことは、地上のように、食べなくては生きていけない世界ではしかたのないことです。では、だれひとり仕事をしなくなってしまうのではないかしら、と考える人がいることでしょう。ところが実際はそうではないのです。
『母と子の心霊教室』エーテル界の人はみんな自分がいちばんすきだと思う仕事に、いっしょうけんめい熱中しております。絵のすきな人は絵を、音楽のすきな人は音楽を、いっしんに勉強しております。
『母と子の心霊教室』遊んでいる人などひとりもいません。どんなに忙(いそが)しくても、みんな自分のすきな仕事をしているのですから、少しもいやな顔をしません。みんなしあわせそうです。
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-----2章07
『母と子の心霊教室』【7 ポチもミケもいる】みなさんの中には動物を飼(か)っている人がおおぜいいることでしょう。そういう人たちはきっと「犬(いぬ)や猫(ねこ)はどうなるのかなあ」と心配しているにちがいありません。でも安心してください。
『母と子の心霊教室』常夏(とこなつ)の国に住んでいる人に聞いてみますと、犬(いぬ)や猫(ねこ)もちゃんと生き続けているということです。ですが、それは人間にかわいがられているものに限るのだそうです。
『母と子の心霊教室』ということは、みなさんがかわいがってやりさえすれば、いつまでもその動物といっしょに暮(く)らすことができるということなのです。うれしいことですね。
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-----2章08
『母と子の心霊教室』【8 悪い人もいる】ところで、みなさんの中には「悪い人たちはどうなるのだろう。悪いことをした人も今までのお話のように幸福な暮(く)らしがゆるされるのだろうか。もしそうだとしたら、それは不公平なことだ」と不服をいう人がいるかもしれません。
『母と子の心霊教室』おっしゃるとおりです。私が今まで述べたことは、地上で善い行いをした人たちのことばかりでした。では、地上で悪いことをした人は、死んでからどうなるかということをつぎにお話いたしましょう。
『母と子の心霊教室』じつは、エーテル界というのは、目に見えない死後の世界のことを、ひと口にそういっているだけで、ほんとうはエーテル界にもたくさんの世界があるのです。地上の学校にも幼稚園(ようちえん)から小学校、中学校、高等学校そして大学というふうに→
『母と子の心霊教室』→たくさんあるでしょう。それと同じことです。地上生活はその中の幼稚園(ようちえん)のようなものです。地上を去って最初にいく世界を「幽界(ゆうかい)」といいますが、ここはエーテル界の小学校のようなところです。
『母と子の心霊教室』さっき説明した常夏(とこなつ)の国というのは、その幽界(ゆうかい)のそのまた1部分のことなのです。さて、みなさんの中には、よく勉強する人と、なまけてばかりいる人とがいるでしょう。そして、小学校で熱心に勉強していた人は、中学校へ上がっても先生から教わることが→
『母と子の心霊教室』→スラスラとよくわかりますが、なまけてばかりいた人はとても困(こま)ります。よくわからないのでますます勉強がいやになり、楽しいはずの学校が少しも楽しいところではなくなってしまいます。これと同じように、地上で悪いことばかりしていた人は幽界(ゆうかい)へ行った→
『母と子の心霊教室』→時にひじょうに困(こま)ります。地上でお友だちだった人からものけ者にされるし、新しいお友だちもできません。そのうちひとりぼっちで暗いところで暮(く)らすようになっていくのです。
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-----2章09
『母と子の心霊教室』【9 自分がまいた種は自分が刈(か)りとる】では、悪いことをした人は、いつまでも暗いところで暮(く)らさねばならないのかというと、けっしてそうではありません。みなさんだっていまの成績が悪くても、これから熱心に勉強すれば、→
『母と子の心霊教室』→高等学校にだって大学にだって行けるはずです。それと同じように自分の行いや心がけを反省して、これからは正しい人間になろうと一心に努力すれば、神様はいつでも救いの手を差しのべてくださり、明るく美しい世界へつれて行ってくださるのです。
『母と子の心霊教室』「だったら、悪いことをしても神様にお願いして、上の世界へつれていっていただけばいい」と考える人がいるかもしれません。しかし、それは絶対に許されないことなのです。そのわけをつぎに説明しましょう。
『母と子の心霊教室』たとえば、いま私がチョコレートを口の中に入れたとしましょう。チョコレートはすぐにとろけて、あの甘(あま)いおいしい味がします。が、それは私の舌に「甘(あま)いなあ」「おいしいなあ」と感じるはたらきがそなわっているからであって、→
『母と子の心霊教室』→けっして私が善いことをしたごほうびではありません。また熱いストーブに手を触(ふ)れたらやけどをするにきまっていますが、これは私がなにか悪いことをした罰(ばつ)ではないでしょう。さわってはいけないものにさわった、そのまちがった行いによる→
『母と子の心霊教室』→結果がそうなったにすぎません。心がけの悪い人が暗いところへいって、ひとりでさびしく暮(く)らすのも同じことです。人間にはしてよいことと、してはいけないことがあって、いけないことをすると自然に苦しい状態になるのです。
『母と子の心霊教室』けっして神様が怒(おこ)って罰(ばつ)をあたえているのではありません。反対に、いつも善い行いをしておれば、心がますます美しく清くなって、いっそう幸福な境遇(きょうぐう)になります。
『母と子の心霊教室』むかしのことわざに「自分のまいた種は自分で狩(か)りとらねばならない」というのがありますが、これは真理であるだけでなく、とても大切なことを教えております。
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-----2章10
『母と子の心霊教室』【10 エーテル界はすぐそばにある】ところで、エーテル界といっている死後の世界は、いったいどこにあるのでしょうか。昔の人は、死んだ人は遠い西の果てにいくと考えたものですが、心霊学(しんれいがく)によって、→
『母と子の心霊教室』→それがまちがいであることがわかりました。であは、どこにあるのでしょう?驚(おどろ)いてはいけません。じつはエーテル界は私たちのすぐ身のまわりにあるのです。そうです。私たちの地球と同じ場所にあるのです。
『母と子の心霊教室』むろん死後の世界の方が、地球よりずっと広くて大きいのですから、正確にいえば、エーテル界の中に地球が包まれているといった方がよいでしょう。これだけ説明すれば、死ぬということがただ肉体を捨(す)てるだけのことであることがよくわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』ちょうど潜水夫(せんすいふ)があの重い潜水服(せんすいふく)を脱(ぬ)ぐのと同じだと思えばよろしい。けっして遠くへ行ってしまうのではありません。そうすると、死んだおじいさんやおばあさん、お父さんやお母さん、それから兄弟やお友だちなどは、→
『母と子の心霊教室』→いまもみなさんのすぐ身のまわりにいて元気に生活していることになるわけです。このことがまだよくわからない人がいるかもしれませんので、これをもっと別の方法で説明してみましょう。
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-----2章11
『母と子の心霊教室』【11 物体にはすきまがいっぱいある】私がいまこの本を書くために使っている机はカシの木でできております。持ち上げようとするとたいへん重いですし、たたいてみるととても固くて手が痛(いた)いほどです。
『母と子の心霊教室』ところが、物質のことを専門(せんもん)に研究している物理学者の話によりますと、物体は分子(ぶんし)という非常に小さな粒子(りゅうし)でできており、その分子(ぶんし)は原子(げんし)というさらに小さな粒子(りゅうし)からできているのだそうです(図を見て下さい)。
『母と子の心霊教室』両方とも、どんなに性能のよい顕微鏡(けんびきょう)によっても見ることができないほど小さなもので、このほんのページだけでも、何百万個という分子(ぶんし)と原子(げんし)とでできているということです。
『母と子の心霊教室』では、みなさんはその原子(げんし)はいったい何からできていると思いますか。私も知って驚(おどろ)いたのですが、原子(げんし)は、電子(でんし)というさらにさらに小さな粒子(りゅうし)と原子核(げんしかく)とによってできていて、→
『母と子の心霊教室』→しかも、その電子は原子核(げんしかく)のまわりを休みなく回っているのです。さて、図を見てください。電子(でんし)と電子(でんし)とのあいだにはなにもありませんね。じつはそこがたいせつなところなのです。
『母と子の心霊教室』どのようにたいせつなのか、それを知っていただくためにつぎのような実験をしてみてください。みなさんは紅茶(こうちゃ)はすきですか。コーヒーの方がすきですか。いや、それはどちらでもよろしい。→
『母と子の心霊教室』→どちらにしてもみなさんは砂糖(さとう)を入れて飲みますね。よろしい、では、コーヒーでも紅茶(こうちゃ)でもいいですから、今日はとくに正確に分量をはかってカップに入れてください。つぎに、いつものように砂糖(さとう)を入れます。
『母と子の心霊教室』そして、その砂糖(さとう)が完全に溶(と)けてなくなるまでスプーンでよく混ぜてください。さて、舌の先でちょっとなめてみてください。甘(あま)いでしょう。そのはずです。砂糖(さとう)が入っているのですから。
『母と子の心霊教室』ではつぎにもう1度カップの分量をはかってみてください。どうです。増えていますか、それとも減っていますか。おそらく増えても減ってもいないはずです。ではいったい、砂糖(さとう)はどこへ行ってしまったのでしょう。
『母と子の心霊教室』たしかにカップの中に入れたのですから、カップの中のどこかにあるはずです。どこでしょう?そうなのです。いま説明したように、物体にはすきまがいっぱいあります。水も物体ですから、ちょっと見るとすきまはなさそうでも、実際にはすきまだらけで、→
『母と子の心霊教室』→むしろすきまの方が多いくらいなのです。そこで砂糖(さとう)は、そのすきまの中に入ってしまったのだということになります。けっして手品のように消えてなくなったのではありません。
『母と子の心霊教室』これでエーテル界が地球と同じ場所に存在(そんざい)できるわけがよくわかったでしょう。
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-----2章12
『母と子の心霊教室』【12 バイブレーションの話】みなさんはなにによって物を見ますか?「目です」―きっとそう答えるでしょう。なるほど目がなくてはなにも見ることができませんね。では、目があればかならず物が見えるのでしょうか。そうはいいきれませんね。
『母と子の心霊教室』だって、まっ暗いところではなにも見えないではありませんか。すると物が見えるためにはなにか別のものが必要であることになりますが、それは、いったいなんでしょうか。それは“光”です。光がなかったら、どんなに視力のいい目をしていてもなにも見えません。
『母と子の心霊教室』では、光とはいったいどんなものなのでしょう?みなさんの家には振(ふ)り子(こ)のついた時計がありませんか。あったら振り子の動くようすをよく観察してごらんなさい。右と左にいったりきたりして、休みなく動いていますね。
『母と子の心霊教室』また、もしピアノがあれば、あの大きなふたを開けて、キー(鍵盤(けんばん))をたたくと弦(げん)がどのように動くかを調べてごらんなさい。上下にはげしく動いているのがわかるでしょう。
『母と子の心霊教室』もっと気をつけてみると、高い音ほどはげしく振動(しんどう)していることにも気づくことでしょう。このような振動(しんどう)をバイブレーションといいます。つまり、ピアノの音はバイブレーションによって生じているのです。
『母と子の心霊教室』それと同じで、光もバイブレーションから生じているのです。つまり光も振動(しんどう)しているのです。ではつぎに、音はどのようにして聞こえるのでしょうか。それは、私たちの耳に音のバイブレーションを感じとる器官がそなわっているからです。
『母と子の心霊教室』そして音のバイブレーションには、はげしいものからゆるやかなものまでいく種類もあるのですが、私たちの耳はその1部分しか感じとることができません。
『母と子の心霊教室』あまりはげしく振動(しんどう)する高い音や、反対にあまりゆるやかすぎる低い音は聞こえないようになっているのです。これと同じことが光にもいえます。すなわち、光にも細かく振動(しんどう)するものから大きく振動(しんどう)するものまで→
『母と子の心霊教室』→いくとおりもあって私たちの目に映(うつ)るのはそのごく1部だけなのです(図を見てください)。振動(しんどう)の波の大きすぎる光の中には、人間の目には映(うつ)らずに、皮膚(ひふ)にぬくみを感じさせるものもあります。
『母と子の心霊教室』これは光線といわずに熱線といいます。そのほかレントゲン写真に使うX線(エックスせん)とか、ラジオや電話、あるいは電報などに使われる無線(電磁波(でんじは))というのもあります。さて、ここでラジオのことを考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』みなさんがダイヤルをまわすと、いろんな放送局の放送が入ってきますが、スイッチを切ると、それきりなにも聞こえなくなります。では、聞こえないときは放送局が放送をやめているのでしょうか。そうではありませんね。
『母と子の心霊教室』放送局は放送を続けているのですが、みなさんのラジオがそれを受信するのを中止しているにすぎません。その証拠(しょうこ)に、もう一度スイッチを入れると、また放送が聞こえてきます。人間はちょうどこのラジオのようなものです。
『母と子の心霊教室』この地球上で生活している間は目・耳・鼻・皮膚(ひふ)・舌の5つの器官に感じられるものばかりを受信していますが、肉体を捨(す)ててエーテル界へ行くと、こんどはエーテル体に感じられるものばかりを受信するようになります。
『母と子の心霊教室』ですから、エーテル界にいる霊(れい)の姿(すがた)を見ようと思えば、肉体から出てエーテル界まで行かなければならないわけです。これで、ふだん私たちの目に死んだ人の姿(すがた)が見えないわけがわかったでしょう。
『母と子の心霊教室』また、目に見えないからそんなものは存在しない、と考えるのはまちがいであることもわかったでしょう。しかし、中には肉体をもっていながら、エーテル体をはたらかせてエーテル界を見物したり、その世界の人たちと話をしたりすることができる人がいます。
『母と子の心霊教室』はじめに紹介(しょうかい)したデービス先生もそのひとりですが、そのような人を“霊能者(れいのうしゃ)”とか、“霊媒(れいばい)”と呼(よ)んでいます。第3章では、そういった人たちについてくわしく説明することにしましょう。
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-----2章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈(ちゅうしゃく) 心霊(しんれい)用語について―訳者(やくしゃ)】心霊学(しんれいがく)というのは、いまからおよそ140年前に、米国で発生した心霊(しんれい)現象がきっかけとなって発達してきたものです。
『母と子の心霊教室』そして現在までのところその用語は、古い神話や伝説の中で使われていたものに、新しい意味を加えて使用しているのです。そのために、古い用語についての先入観念(せんにゅうかんねん)が、正しい理解を邪魔(じゃま)することがあり、→
『母と子の心霊教室』→そのいちばんよい例が“霊(スピリット)”という言葉です。心霊学(しんれいがく)で霊(れい)といったときは、個性をそなえた実際の存在(そんざい)を意味しますが、一般の人は影(かげ)も形もないものとして受けとめる傾向があります。
『母と子の心霊教室』先祖の○○霊(れい)の供養(くよう)を欠かさない人が、心霊学(しんれいがく)でいう霊(れい)については、そんなものは存在(そんざい)しないといったりする、奇妙(きみょう)なことが生じるわけです。
『母と子の心霊教室』本書ではそうした点を考慮(こうりょ)して、死後の世界のことを「エーテル界」と呼(よ)び、そこで使用するからだのことを「エーテル体」と呼(よ)びました。英米でもそのように配慮(はいりょ)している人がいます。
『母と子の心霊教室』エーテルというのはetherealといい、“霊妙(れいみょう)な”とか、“天上的な”といった意味があります。じつをいうと、エーテル界には段階的に下から上へといくつもあり、それに応じてエーテル体にもいく種類かがあるわけです。
『母と子の心霊教室』そしてそれぞれに個別の呼(よ)び方をしているのですが、いまのべたとおり、その用語にはとかく先入観念(せんにゅうかんねん)がつきまといがちですし、本書は文字どおりの入門書である点を考えて、→
『母と子の心霊教室』→とくにやむを得ない場合をのぞいて、なるべく「エーテル界」「エーテル体」を使用しています。
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『母と子の心霊教室』全文掲載 第1章 「人間」とはなんだろう
-----1章01
『母と子の心霊教室』第1章「人間」とはなんだろう【1 真理を学ぼう】みなさんの住んでいる地球上には、よくわからないことがたくさんあります。その証拠に、みなさんはよく「あれは何?どうしてそうなるの?」という質問をしてお父さんやお母さんを困らせることがあるでしょう。
『母と子の心霊教室』あまりつぎつぎとむずかしい質問をすると「これこれ、いい加減にしないか。お父さんは今いそがしいんだよ」といって逃げていく、ずるいお父さんもいることでしょう。ですが、ほんとうはそのお父さんやお母さんも、子どものころはみなさんと同じようにたくさんの質問をして→
『母と子の心霊教室』→おじいさんやおばあさんを困らせたことがあるのです。では、そのように物を知りたがるのは、みなさんたち少年少女だけでしょうか。けっしてそうではありません。おとなも子どもも、男も女もみんな、わからないことを聞いたり研究したりすることがだいすきです。
『母と子の心霊教室』そして、毎日わからないことをいっしんに研究している人を「科学者」といいます。科学者にもいろいろあります。空の星のことを研究している人、植物のことを研究している人、人間のからだの構造を調べている人、ほかにもまだまだたくさんいます。
『母と子の心霊教室』こういう人たちは望遠鏡(ぼうえんきょう)や顕微鏡(けんびきょう)を使って、星や植物やからだについての正しい知識、つまり真理を学ぼうとしているのです。なぜ真理を学ぶのでしょう。
『母と子の心霊教室』それは、真理を知れば知るほど生活がゆたかになり、人間がしあわせになるからです。では真理を研究しているのは科学者だけでしょうか。けっしてそうではありません。美しい絵や楽しい音楽をつくっている人たち、この人たちもやはり絵や音楽についての真理を勉強しているのです。
『母と子の心霊教室』けっきょくみなさんのまわりにあるもの全部―机の上の本やえんぴつ、みなさんが着ている衣服、台所にあるガスやマッチ、壁にかかっている絵、これらはみな、真理を研究した人びとのおかげなのです。
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-----1章02
『母と子の心霊教室』【2 いちばんむずかしい問題】むかし、ある有名な詩人が「人間がまっ先に研究しなければならないものは“人間”である」といいました。少し変に思われますが、よく考えてみると、なるほどそうだと思います。
『母と子の心霊教室』人間については、昔から多くの偉(えら)い人たちがいろいろと研究してきましたが、これほどおもしろくて、これほどむずかし問題はありません。みなさんも人間について考えてみたことがあるでしょう。ない?そんなはずはありません。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、みなさんはこんな疑問(ぎもん)をもったことはありませんか。「いったい、自分はどこから来たのだろう?」「ぼくのからだが、知らないうちにだんだん大きくなっていくのはなぜだろう?」
『母と子の心霊教室』「わたしとポチやミケとは、どんなところがちがっているのかしら?」「ポチやミケは、なぜ言葉が話せないのだろう?」「死んだらぼくたちはどうなるのだろう?」こういう問題は花や魚の研究よりずっとおもしろそうですね。
『母と子の心霊教室』ですがまた、ずっとむずかしそうでもあります。では、これからみなさんといっしょに、人間について少しずつ勉強していきましょう。
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-----1章03
『母と子の心霊教室』【3 生きているものは変化する】みなさんはすでに学校で、私たち人間のからだの成長のしかたや、血液・胃・筋肉などのはたらきについていろいろと教わっているはずです。
『母と子の心霊教室』ところが不思議なことに、人間のからだは1日ごとに、いえ1秒ごとにすりへり、すりへると思うと、すぐそのあとから新しいものができているのです。皮膚(ひふ)や頭の毛などは、ほとんど休みなしに死んだり生まれかわったりしております。
『母と子の心霊教室』しかし、いちばんながい部分になると、すっかり新しくなるまでに7年もかかります。そうすると私たちのからだは7年ごとに、まったく新しいからだに生まれかわっていることになります。
『母と子の心霊教室』このようにつぎからつぎへと変化していくことは、それが生きていることの証拠(しょうこ)なのです。死んだものは変化しません。たとえば、カシの木を植えると、しだいに背が高くなり、枝(えだ)もぐんぐん太くなっていき、毎年春になれば新しい葉をつけます。
『母と子の心霊教室』ところが、ためしにその枝(えだ)を切りとって、それでおもちゃのポストでもこしらえてごらんなさい。いつまでたってもポストの大きさは変わりません。それはポストに、カシの木を“生きさせて”いた生命(いのち)というものがないからです。
『母と子の心霊教室』生きているものはつねに変化します。植物・魚・虫・小鳥、どれをみても必ず変化しています。では植物を例にとって、それがどのように変化していくかをいっしょに見てみましょう。
『母と子の心霊教室』まず私たちがタネをまくと、そのタネから芽が出て、明るい方に向かってぐんぐんのびながら枝(えだ)をだし葉をつけます。やがて花が咲(さ)き、実(み)をつけます。
『母と子の心霊教室』その実(み)の中には前と同じタネが入っていて、それをまくと、ふたたび同じように芽をだし、同じように生長して、またおなじ実をつけます。植物は昔からこういう生活を数え切れないほどくり返しているのです。
『母と子の心霊教室』こんどは蝶(ちょう)の生活を見てみましょう。図を見て下さい。蝶(ちょう)の生活は卵からはじまります。その卵は植物の葉について、やがて幼虫(ようちゅう)がかえります。これをみなさんは“毛虫”と呼(よ)んでおります。
『母と子の心霊教室』しばらくすると、その幼虫(ようちゅう)は、自分の身体に糸のようなものをグルグルと巻(ま)きつけて、図3に見るような、まるい袋(ふくろ)をこしらえます。これをマユといい、毛虫の寝床(ねどこ)のようなものです。
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『母と子の心霊教室』その寝床(ねどこ)の中から、いよいよあの美しい蝶(ちょう)が出てきて、花から花へと飛びまわり、そのうち、どこかの植物の葉に卵を生みつけます。するとその卵からふたたび幼虫(ようちゅう)が生まれて、同じような順序をたどりながら最後にまた蝶(ちょう)になります。
『母と子の心霊教室』これが蝶(ちょう)の生活です。おもしろいことに、よく研究してみると人間にも蝶(ちょう)と同じような変化があるのです。私たち人間はお母さんのからだから生まれます。そのときは話すことも歩くこともできません。
『母と子の心霊教室』それが少しずつ歩けるようになり言葉も話せるようになって、ついには、地球上でいちばんすぐれた動物となります。もちろん大きくなっていくうちには、さっき説明したように、私たちのからだはつぎからつぎへと変化しています。しかし、その変化はいつまでも続くのではありません。
『母と子の心霊教室』いつかは、もうこれ以上新しくなれないという時期がやってきます。ところがありがたいことには、私たち人間は肉体だけでできているのではないのです。ためしにお母さんにたのんで、お母さんがまだみなさんぐらいの少女だったころの写真を見せていただきなさい。
『母と子の心霊教室』それをひと目みたみなさんはきっと「へー、これがお母さん?」といって、そのちがいに驚(おどろ)くことでしょう。顔・手・足、なにもかも今のお母さんとはずいぶんちがっております。
『母と子の心霊教室』なのに、お母さんはやっぱりお母さんであり、からだはすっかり変わっていても、どこかに少女のころと少しも変わっていないところがあることに気がつくでしょう。
『母と子の心霊教室』そうすると私たちは目に見える肉体のほかに、いつまでも変化しない“別のもの”があるにちがいないということになります。それはいったいどんなものでしょうか。
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-----1章04
『母と子の心霊教室』【4 人間は3つの要素からできている】じつは、心霊学(しんれいがく)が教えるところによると、人間には肉体のほかに「エーテル体」と「精神」のふたつの要素があるのです。肉体については学校で教わっているはずですから、→
『母と子の心霊教室』→ここではエーテル体と精神のふたつについて説明しましょう。まずエーテル体はふつうの眼(め)では見ることができませんが、肉体とそっくりの形をしていて、いつも肉体といっしょに動きます。
『母と子の心霊教室』生まれたときも肉体とおなじ大きさで、肉体が成長するにつれてエーテル体もいっしょに大きくなります。ただエーテル体には肉体にまねのできないふたつの大きな特徴(とくちょう)があります。第1は、けっして年をとらないことです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体は年をとるとしだいに元気がなくなってきますが、エーテル体はいったん形ができあがるとけっして年をとらず、いつまでも若々しく元気にあふれています。第2の特徴(とくちょう)は、いつも完全であることです。
『母と子の心霊教室』すなわち、肉体はけがをすると傷(きず)あとができたり、事故のために足を折るとそのまま一生涯(いっしょうがい)不自由になってしまいますが、エーテル体はけっしてそういうことがないのです。さてこのふたつの特徴(とくちょう)をよく考えてみましょう。
『母と子の心霊教室』エーテル体はけっして年をとらない。いつまでも元気である。けがもしない。片足がなくなってもエーテル体の足はちゃんと残っている。そうすると人間は、たとえ肉体がほろびて地上からいなくなっても、今度はそのエーテル体を使って→
『母と子の心霊教室』→どこかで生活しているはずだ、ということにならないでしょうか。事実そうなのです。肉体はなくなってもエーテル体はけっしてほろびません。ですから地上でからだに障害(しょうがい)のあった人も、死んでつぎの世界へいくと完全なからだに→
『母と子の心霊教室』→もどることができますし、生まれつき目が不自由だった人も、立派(りっぱ)に物が見えるようになります。ほろびた肉体はそのまま土にもどってしまい、やがては植物の栄養分となって、ふたたび生きもののからだになっていきます。
『母と子の心霊教室』さっき私は、お母さんの子どものころの写真を見ると、顔やからだはすっかり変わっているのにどこかに少しも変わっていないものがあるといいましたが、ではその変わっていないものというのは、いったいなんでしょうか。
『母と子の心霊教室』それがじつは「精神」なのです。精神のはたらきにはいろいろあります。物事を考えたり、覚えたり、真理を研究したり、知恵(ちえ)をしぼったりすることは、みな精神のはたらきです。精神がなかったら手足を動かすこともできません。
『母と子の心霊教室』「生きているものは変化する」といいましたが、つぎつぎと新しくなっていくのも精神のはたらきがあるからなのです。そうすると精神は非常にたいせつなものだということになりますね。そうです。人間がもっているものの中で精神がいちばんたいせつなのです。
『母と子の心霊教室』その精神は私たちが地上にいるあいだ、つまり肉体を使って生きているあいだは脳(のう)と神経によって肉体を動かし、いろんな生活をします。
『母と子の心霊教室』しかし、さっきもいったとおり、肉体はいつか使えなくなるときがきます。そうすると精神は肉体を捨(す)てて、こんどはエーテル体を使って生活するようになるのです。
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-----1章05
『母と子の心霊教室』【5 「死」とはなんだろう】それでは地上にいるあいだはずっと肉体の中にいるのかというと、そうではありません。私たちがこころよい眠(ねむ)りにつくとエーテル体は肉体から離(はな)れます。
『母と子の心霊教室』その離(はな)れる距離(きょり)は近いときもあれば遠いときもありますが、どんなに遠く離(はな)れても、かならず銀色をした「生命の糸」によってつながれております。
『母と子の心霊教室』そのふたつのからだ、すなわち肉体とエーテル体とが一体となったときに目が覚めるのです。肉体から離(はな)れているあいだ、エーテル体は地上の遠いところへ見物に出かけたり、エーテル界(エーテル体で生活するつぎの世界)を訪(おとず)れたりしますが→
『母と子の心霊教室』→そのときのことを目が覚めてからはっきり思い出すことはめったにありません。しかし、ある人はいつでも自分のすきなときに肉体からぬけ出て、自分の思う場所へ旅行し、しかもそのときのことをあとで肉体にもどったときにはっきりと思い出すことができます。
『母と子の心霊教室』こういう人を「霊能者(れいのうしゃ)」といい、そういう現象を「幽体離脱現象(ゆうたいりだつげんしょう)」といいますが、これについてはあとでくわしく説明しましょう。では、もしその生命の糸が切れてしまったらどうなるでしょう。
『母と子の心霊教室』もちろん2度と肉体にもどれなくなってしまいます。「死んでしまった」というのは、生命の糸が切れてしまったことなのです。ですから「死」とはエーテル体が肉体を捨(す)てて、そのままつぎの世界で新しい生活をはじめる、→
『母と子の心霊教室』→その出発点ということができるのです。ここでもういちど、蝶(ちょう)の生活を思い出してください。毛虫はいよいよ蝶(ちょう)になる前は小さなマユの中にいますね。その毛虫をみなさんはまさか、かわいそうだとは思わないでしょう。
『母と子の心霊教室』なぜなら、なるほどマユの中はきゅうくつですが、もうすぐあの美しい蝶(ちょう)になって、広々とした花畑を飛びまわることができるのですから…。
『母と子の心霊教室』人間が死ぬということは、ちょうどこの蝶(ちょう)のように肉体というきゅうくつなマユからぬけ出るのと同じことなのです。別のたとえでいえば、夜に寝(ね)て翌朝(よくあさ)別の世界に目を覚ますのと同じようなものだと思えばよいでしょう。
『母と子の心霊教室』すると死ぬのが恐(おそ)ろしいという人は寝(ね)るのがこわい人ということになってしまいませんか。おかしいですね。そうです。死とはけっして恐(おそ)ろしいものでも悲しいものでもないのです。
『母と子の心霊教室』その反対にとてもしあわせな、すばらしいものなのです。なぜなら、こんどは地上よりはるかに自由で美しい世界で生活するのですから…。ところで、死んだらすぐに地獄(じごく)か極楽(ごくらく)へいくと説く人がいますが、これはまちがっています。
『母と子の心霊教室』私たちはただ肉体のかわりにエーテル体を使って新しい生活をはじめるだけです。その世界は地上よりずっと明るくて、気持ちのよい世界です。が、けっして遊んでばかりいる世界でもありません。さらに新しい真理を学びながら、いちだんと心の清らかな人間になるように努力するのです。
『母と子の心霊教室』かりにお友だちが亡(な)くなったとしましょう。きっと、みなさんは悲しくてならないでしょう。残念でならないでしょう。ですがけっしてそのお友だちのことを“かわいそう”だと思ってはいけません。
『母と子の心霊教室』なぜならば、お友だちはこの宇宙(うちゅう)から消えてしまったのではなく、今いったように、地上よりいちだん高い世界で、新しい生活を始めながら、いつかはみなさんも同じ世界に来ることを楽しみに待っているのですから…。これは非常にたいせつなことなのです。
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-----1章注釈
『母と子の心霊教室』【注釈―この世でうけた生命(いのち)はたいせつに―訳者(やくしゃ)】“浜までは海女(あま)も蓑(みの)きるしぐれかな”という俳句(はいく)があります。海女(あま)というのは海にもぐって魚貝や海草などをとる女の人のことですが、→
『母と子の心霊教室』→その海女さんの1人がこれから海へ向かって出かけようとしたら雨が降(ふ)りはじめました。すると、どうせ海にもぐってぬれてしまうのに、浜まではきちんと蓑(みの)を着ていった、というのです。これはなんでもないことのようで、とてもたいせつな事を教えております。
『母と子の心霊教室』この本を読んで、死後の世界のすばらしさを知ったみなさんの中にもし“だったら地上で苦しい思いをしないで、さっさと死んだほうがいいのではなかろうか”と考える人がいたら、それはたいへんなまちがいです。
『母と子の心霊教室』この本の付録で紹介(しょうかい)するシルバーバーチという3千年も前にこの世を去った霊(れい)が、そのながい霊界(れいかい)生活で知ったいちばんたいせつなことは、地上生活には地上でしか学べないたいせつなことがあり、それをきちんと身につけないで死ぬと、→
『母と子の心霊教室』→その足らないところを埋めあわせるために、霊界(れいかい)でいろいろとやっかいなことが起き、人によってはもう1度地上へ生まれてこなければならないこともあると述べております。
『母と子の心霊教室』仏教のお経(きょう)の中にも「人間としてこの世に生まれてくるのはとてもむずかしいことなのに、自分たちはいまこうして生まれてきているではないか。また、正しい真理を知ることもなかなかむずかしいことなのに、今こうして学んでいるではないか。」
『母と子の心霊教室』「もしもこの世でしっかりと身につけなかったら、いったいいつ身につけるのだ。いまのうちにしっかりと修養(しゅうよう)しようではないか」と説いているところがあります。みなさんもぜひ、そういう心がまえでたくましく生きていただきたいと思います。
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『母と子の心霊教室』全文掲載 訳者まえがき
-----訳者まえがき
『母と子の心霊教室』訳者(やくしゃ)まえがき 今から25年も前のことですが、私は英国から送られてきたこの本の原書を手にして、これはぜひとも翻訳(ほんやく)して、日本の少年少女のみなさんに読んでいただきたいと思いました。訳(やく)はその年のうちにできていたのですが、→
『母と子の心霊教室』→それがこのたびようやく単行本として出版していただけることになり、私は今うれしい気持ちでいっぱいです。出版までに、なぜそんなにながくかかったかといいますと、当時はまだ心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)していなくて、→
『母と子の心霊教室』→少年少女向けの心霊書(しんれいしょ)をだすには早すぎたということです。それでその年はガリ版ずりにして、スピリチュアリスト(心霊仲間(しんれいなかま))のあいだだけで読んでもらい、それから数年後に、日本心霊(しんれい)科学協会の月刊誌(げっかんし)→
『母と子の心霊教室』→「心霊(しんれい)研究」に10回にわたって連載(れんさい)していただき、そして今回、それに全面的に改訳(かいやく)をほどこしたものを出版していただくことになったわけです。
『母と子の心霊教室』では、この本の出版をお願いすることになったのは、もうすでに正しい心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)してきたからかというと、残念ながらそうではないのです。
『母と子の心霊教室』最近たしかに心霊的(しんれいてき)なことが、テレビや雑誌(ざっし)などでさかんに報じられるようになりましたが、困ったことに、正しい心霊(しんれい)知識よりも間違った心霊知識、あるいは危険(きけん)な心霊知識の方が多いように思えるのです。
『母と子の心霊教室』しかも、意外に多くの青少年が心霊的(しんれいてき)なものに関心があることもわかってきて、このままでは、日本の青少年がまちがった先入観(せんにゅうかん)を植え付けられてしまうのではないかと→
『母と子の心霊教室』→心配し、その正しい基礎(きそ)知識を教えてくれるものとして、この本を出版する必要性を痛感(つうかん)したのです。何ごとも基本が大事です。心霊的(しんれいてき)な基礎(きそ)知識を学ぶ本として、このパーマー先生の本は最高だと信じます。
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『母と子の心霊教室』先生は英国のパブリックスクールでながいあいだ教えられ、最後は校長先生までなさった方です。私はこの本を手に入れてから、翻訳(ほんやく)の許可(きょか)をいただくための手紙を書いたのがきっかけとなって、その後パーマー先生と数え切れないほど文通を交わしました。
『母と子の心霊教室』「日本語版に寄せて」を書いてくださったのもそのころのことでした。「日本は自然の美しい国だと知人から聞いて、私もぜひいちどこの世に生きているうちに行ってみたいと思っているのですが、ずいぶんお金もかかりそうですし、それに私もだいぶ年なので…」
『母と子の心霊教室』と、いかにも質素を第一とした、スピリチュアリストらしい手紙をいただいたこともありましたが、それから間もなく、今から10数年前に亡くなられました。しかし、先生の青少年への希望は、この本の中に、立派に生き続けていると思います。
『母と子の心霊教室』私は翻訳(ほんやく)にあたって、その中に書かれている心霊(しんれい)知識といっしょに、先生の青少年への温かい愛情を伝えたいと思って、訳(やく)し方にいろいろと工夫をこらしました。
『母と子の心霊教室』ところで、心霊学(しんれいがく)のことはこれがはじめてという方にとっては、信じられないことや理解できないことが多いことと思います。そこで理解のむずかしそうなところは、私が“注釈(ちゅうしゃく)”という形で初心者向けに解説をほどこしておきました。
『母と子の心霊教室』それから、こうしたことが信じられないという方には、私からつぎのことを申しあげたいと思います。人類はこれまでさまざまな“信じられないこと”を発見してきました。地動説(ちどうせつ)がそうですし、原子(げんし)エネルギーがそうですし、→
『母と子の心霊教室』→宇宙(うちゅう)ロケットがそうですし、電子工学(でんしこうがく)の分野にいたっては日進月歩(にっしんげっぽ)の勢いで発明・発見がなされております。みなさんは別に驚きは感じないかもしれませんが、それはそうしたことが常識となった生活環境の中にいるからです。
『母と子の心霊教室』しかし私たちの生活環境(せいかつかんきょう)は、よく考えてみると、大宇宙(だいうちゅう)から微生物(びせいぶつ)にいたるまで不思議なことだらけなのです。その中でもいちばんの謎(なぞ)はじつは“人間そのもの”なのです。
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『母と子の心霊教室』人間については、はっきりとわかったことはなにひとつないといってもいいのです。たとえば、なぜ人間は物ごとを“考える”のか。なぜ“よろこび”、なぜ“悲しむ”のか。夜“寝て”朝なぜひとりでに“目が覚める”のか。
『母と子の心霊教室』その人体ができあがるいちばん最初は、目に見えないほど小さな細胞(さいぼう)でした。それが大きくなって科学を研究し、芸術を鑑賞(かんしょう)し、文学を語りスポーツを楽しむという、じつにさまざまな活動をするようになる、→
『母と子の心霊教室』→その知性と才能とエネルギーはいったいどこから生まれてくるのか、みな謎(なぞ)ばかりなのです。そうした謎(なぞ)について、ああでもない、こうでもないと思いあぐねていたときに、それを見事に説き明かしてくれる新しい思想が生まれました。スピリチュアリズムがそれです。
『母と子の心霊教室』そのくわしい内容は、これからパーマーさんが説明してくださいますが、それを読むにあたってのたいせつな心構えについてひとこと述べておきます。
『母と子の心霊教室』地動説(ちどうせつ)を最初にとなえたコペルニクスは、それまでの天文学者がみな地球を中心に考えていたのを、心の中で自分を太陽へと運んでいき、太陽に立って各天体の動きを観察したら、すべてがあっさりと解決したといいます。
『母と子の心霊教室』そこから地動説(ちどうせつ)が生まれたのです。つまり太陽が地球のまわりを回っているのではなくて、地球が太陽のまわりを回っていることがわかったのです。これは、当時の人にはとても理解がむずかしかったはずです。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、その地動説を支持したガリレイが宗教裁判(しゅうきょうさいばん)にかけられ、その説を改めるように強迫(きょうはく)された話は、みなさんもよくごぞんじでしょう。さて、これまでの人間の科学は、物質科学の1分野として扱われてきました。
『母と子の心霊教室』つまり人間は物質であって、それから精神が生まれるのだと考えてきました。が、スピリチュアリズムによってそれはまちがいであり、人間はもともと“霊(れい)”であって、その霊(れい)が肉体を道具として地上生活を送っているのだと考えるようになりました。
『母と子の心霊教室』そう考えてみると、すべてがなるほどと納得(なっとく)がいくのです。いってみれば、現代人はコペルニクスと同じ発想の転換(てんかん)が必要となってきたわけです。今までのような物質中心の物の考え方をしていては、スピリチュアリズムは理解できないでしょう。
『母と子の心霊教室』私は高校生のときにスピリチュアリズムを知ってから、30年にわたってこの思想を勉強してきました。数え切れないほどの原書を読み、そのうちの重要なものを翻訳(ほんやく)してきましたが、青少年向けの心霊書(しんれいしょ)としてはこれが最初で、→
『母と子の心霊教室』→しかも最高のものであると信じます。本書によって、みなさんが正しい心霊(しんれい)知識を身につけ、今後ますます多くなっていくことが予想される心霊(しんれい)情報を、正しく判断できるようになってくださることを望んでやみません。
『母と子の心霊教室』それがこの本を書かれたパーマー先生の願いでもあるのです。 1986年5月 近藤千雄(こんどうかずお)
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-----原著者のあいさつ
『母と子の心霊教室』【日本語版に寄せて―原著者(げんちょしゃ)のあいさつ】私は英国のある学校の校長先生です。ながいあいだ8才から18才までの少年少女を教えてきましたので、みなさんが“物を知ることがたいへんすきであること”、そしてまた、よくわからないことは→
『母と子の心霊教室』→“何でも聞いてみようとすること”もよく知っております。また私は“人間とは何か”ということを研究する「心霊学(しんれいがく)」について、おとなの人たちにたびたび教えてまいりました。
『母と子の心霊教室』ところがたいへん残念なことに、おとなのための心霊(しんれい)の本はたくさんあるのに、みなさんのような少年少女のための心霊(しんれい)の本がほとんどといってよいほどないのです。これではいけないと思って書いたのがこの本です。
『母と子の心霊教室』ほんとうのことをいうと、私がこの本を書き始めた時は、英国の少年少女のことばかり考えておりました。まさかこの本が、遠い日本のみなさんにまで読んでいただくことになるとは、夢(ゆめ)にも思わなかったからです。
『母と子の心霊教室』ですが、英国の子どものためになるものは、きっと日本のみなさんにもためになるにちがいありません。おしまいにひとつだけお願いがあります。それは、ひと通りこの本を読みおわったら、こんどはこの本に書いてあることを基礎(きそ)として、自分自身でどしどし勉強して→
『母と子の心霊教室』→いただきたいということです。この本に書かれたことは、人間についての知識のほんの一部にすぎません。私にも、書きたいと思いながら書けなかったことが山ほどあるのです。どうかみなさんも自分で本を読んだり実験したりして、人間についてなるべく多くのことを学んでください。
『母と子の心霊教室』そうすれば「死ぬ」ということがつぎの世界への入り口であること、また、今でもその世界のお友だちがみなさんを助けてくれていることが、ますますはっきりとわかってくることでしょう。 1960年4月 チャールズ・パーマー
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■2013年5月21日にUPしたブログ「香世子さん熱唱☆変幻自在超絶美麗ライブ!」
僕の日々のツイートをこと細かくチェックして僕の現状を正確に把握している人は間違いなくこの地上にはいらっしゃらないでしょうが、僕は帰幽が決定していたのに、地上を去る事が決まっていたのに、結局地上に残り続ける事になってしまいました。
その理由は、僕が「撃って出る」と称して果てしなく続けてきた霊的知識のタネ蒔きによって次第に知識の光が広がり始め、それがイエス様の怒涛の連続顕現を呼び、「霊的知識普及の使命を地上に残って果たしてはもらえまいか」とのイエス様のご意志を受取り、僕は帰幽したくてたまらなかったのですが、すったもんだの末にそのご意志に従う決意を固めたのでした。
しかし僕の本心はやはり地上には残りたくなかったので、迷いが完全に心から消えた訳ではなく、しかも現在の僕が置かれている「環境」が全く僕が望まない、イヤでイヤで仕方ないものだったので、どうしても心が揺れる訳です。数日前もとてもイヤな事があって「もうー!僕の地上での試練は終了してるはずなのに何で追加でこんな試練を浴びなきゃいけないんですか!」とか言って幼稚に叫んでしまう始末…。
もともと霊的知識普及などという重大かつ責任のある使命など全く帯びていなかった、しょぼい少年、しょぼい画家の僕には、どうしてもそこまで達観して「使命感に燃える、無私の境地に達する」というところまで心をもっていく事ができずにいたのでした。
そんな煮え切らない僕に対して、何とか地上に残り続けてがんばって欲しい、言われてやるのではなくて自分の意志で能動的にやって欲しい、そんなイエス様及び守護霊様の考えからだったのでしょう。ここ最近メッセージらしきものは全く降ってきてなかったのですが、先日久々に幽体離脱にて強烈な体験をさせて頂きました。
幽体離脱後、僕は観客席がすでに満席の、ある屋外ライブ会場のようなところにいました。ステージ上にはある女性の後ろ姿。僕はそれが誰なのか一発で分りました。香世子さんです。(過去ブログ“思い出の女の子”にて紹介した“Kさん”の事です)離脱中によく体験している事なのですが、向うではその人の姿をちょっと見ただけで(顔も見てないのに)すぐに誰か分るのです。
そして、何と香世子さんがきらびやかな衣装を身にまとい、ステージ中央に進み出て、右手にマイク、左手に美しい文様の施された扇子を持って、ポップでガーリーな感じの地上では聴いた事のない曲を熱唱し始めたのです。騒ぎ立つ観客、僕もその中に飛び込み、目の前で熱唱する香世子さんの姿に釘付けになるのでした。「ちょ、待っ…香世子さん…これって完全に“アイドル”だよね…」
歌にダンスに躍動する香世子さん。曲の変化とシンクロして身につけている衣装がキラキラ変わる変わる、舞台のシチュエーションが変わる変わる、香世子さんの立ち位置が変わる変わる。しかも香世子さんが超クリアボイス。地上では絶対に有得ないエンターテイメント。「すげー香世子さん…本格的…そうだ、香世子さんは小学生時代に“演劇部”に所属してたよね。だからこんなにすごいのか…」僕はただただ息をのんでステージ上の香世子さんを見上げてました。
僕がそうして香世子さんの熱唱ぶりに圧倒されてた時、ライブ会場の係員が僕の横にいた男性に向って「あの取材陣の方、そのメモする時のカリカリって音もSマイクが拾っちゃうので止めて頂いて…」とかささやいてるのが聞こえてきました。Sマイクって何?ってか、離脱中のこんな細かい部分まで反芻できるなんてちょっとビックリしましたが(汗笑)
そんなこんなで曲もラストのサビ部分に突入!香世子さんの、その歌声が、もうホントに…僕が記憶している少女時代の香世子さんの声そのまんまなのです。地上時代の個性は全て他界後も霊界にて身についていると僕は果てしない読書で勉強してきましたが、それを改めて実感する事になりました。完璧に香世子さんの声でした☆ま、本人なんですからある意味当たり前の事ですけどね(笑謝)
とにかくステージ上で歌ってる時の香世子さんは、もうノリノリ♪やる気満々♪精一杯♪全力熱唱♪って感じだったのです。なんていうか「○○○くん!(僕の本名)使命遂行がんばって!○○○くんならきっとできるわ!わたし信じてる!」…みたいに言ってもらったような、そんな気がしたのです。そこまでパワーをかけてくれて…本当に嬉しいです。そして最高に照れるのです。本当にありがとう、香世子さん(感謝☆)
そして離脱から帰還後、いつものように睡眠と覚醒の中間状態を維持しながら目を閉じ続けていると、前回のような怒涛の連続顕現ではなくちょっとだけでしたが、何とまたしてもイエス様が顕現して下さったのです。そのイエス様の目を見て…「どうだったかな○○○くん(僕の本名)、元気が出たかな…どうか使命感に燃えて地上でタネを蒔き続けて欲しい…」そんなようなメッセージを何となく感じたのでした。
今回の幽体離脱によるメッセージ、これは僕の予想でしかありませんが、香世子さんは自ら志願してくれたんじゃないかって、ちょっとそんな気もするのです。香世子さんには今まで何度も睡眠と覚醒の中間状態にて顕現して頂いてますが、その顕現の際のシチュエーション、そして今回のライブの様子、それらを総合的に考えるとそんな予想が立つのです。細かい説明はとてもできませんが(謝)
ってな訳で、イエス様のご意志に従い、地上に残り霊的知識普及の仕事をする事になった僕ですが、情けない事に僕の心は帰幽を望んで揺れるばかり。そんな僕を元気づけ、そして使命感を意識してもらうために、霊界の方々があの手この手を打って下さる訳です。もういい加減覚悟を決めないといけません。何とかもうしばらくここ(地上)でがんばるしかない、そう自分に言い聞かせているところです。(祈)
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※昨日のインスピレーションで、何と香世子さん(小学校の時の友達)が僕の娘として生まれる予定だった事を聞かされました。アナログ絵23の半透明の娘です。もしそうなってたら香世子さんと僕は家族になってたんですね。香世子さんありがとう♪
■2012年11月12日にUPしたブログ「思い出の女の子」
8月初旬、僕はいつも通り早起きして数時間作業していましたが、突然眠気に誘われ、30分ばかり仮眠しようと横になりました。その後間もなく睡眠と覚醒の中間のような状態に突入し(今思えばこれは指導霊の方が僕に首尾よくメッセージを届けるためにしてくれていたんだと思います。自分でこの睡眠と覚醒の中間状態を維持するのは至難の業ですから汗)、様々なイメージが僕の中に降ってきたのです。
この時に見たイメージは以前のブログ「具体的な解説をしちゃいます。」の「■05 お優しそうな満面の笑顔の男性」の項で紹介したあのお方の2回目のお顔の顕現をはじめ、ユキ(僕の以前の飼い鳥の白文鳥)が僕の肩に飛んでくる超鮮明映像や、前方にフラッシュが光った次の瞬間、一面血のりのイメージに変わるもの(決して毒々しいものではありませんでした。血のりなのにどこか柔らかな光が溢れていて美しささえ感じられ、怖い気持ちはありませんでした)など、短い間に様々なイメージを見させてもらえたのでした。
そんな中さらに、僕の体は寝ているのに、上半身がむくっと起き上がるような感覚が何度も発生し(これも今思えば指導霊の方が僕のエーテル体を操作していたのではないかと思われます。僕にそんな能力ありませんから汗)、上半身が起こされた状態の時、光が僕に向かってフワァーって近づいてきて右耳あたりで停滞し(もちろんこの時目は閉じてます)、次の瞬間、右耳にものすごいクリアで柔らかな「○○○くん」(僕の本名)という声が聞こえたのです。
僕は睡眠と覚醒の中間状態を維持しながら「あなたは…誰ですか…?」と心の中で語りかけましたが、返事はありませんでした。でも、その声の感触、そして「○○○くん」(僕の本名)という呼び方に、少年時代に友達だったある女の子を連想したのでした。その女の子(Kさんとします)とは、小学校時代の一時期とても仲良くなり、よく一緒にバレーボールをして遊んだものでした。1回だけKさんの家に遊びに行ったことも憶えています。どんなことをして遊んだかはおぼろげにしか憶えていませんが。
そしてバレンタインの時にKさんからチョコを貰って、僕ももちろんホワイトデーにお返しするつもりだったのですが、僕は緊張のあまり前日に高熱を出してホワイトデー当日に学校を休んでしまい(笑)、熱が下がった翌日に下を向きながらKさんにキャンディを渡しました。そんなしょーもない思い出がKさんとの間にありました(恥照)。そして小学校卒業と同時に会うこともなくなり、現在に至るまで会っていません。
なので、Kさんは何らかの理由で若くして旅立ったのではないか…僕はそんな風に考えていたのです。と言ってもこれはすべて僕の勝手な想像でしかなく、真実を確かめる術もありませんでした。…ところが数日前、読書中に突然「○○○くん」と再び前回と同じ声が聞こえてきたのです!やっぱりこの声の主はKさんなのではないか?僕の中に真実を確かめたい気持ちが湧き上がりました。
すると翌日の瞑想練習中に、一瞬でしたが、女性の顔が見えたのです。見えた、と言うより感じた、と言った方が正しいかもしれません。その顔は成人女性のそれでした。しかし、僕は瞬間的に理解しました。この女性は成人したKさんの顔であると。僕の知っている少女時代のKさんの面影がありありとうかがえるのです。
そんなわけで「○○○くん」と呼ぶ声の主がKさんであると僕は確信したのでした。きっと、向こうで会えるのではと思っています。少年時代の思い出を考えると恥ずかしさでいたたまれなくなりますが(汗笑)。ちなみに向こうで再会する時、見間違えられないように当時の姿をとって現れるそうですが(この場合で言えば僕がKさんとわかるように当時の女の子の姿で現れてくれる、と僕は本で勉強しました)、僕はもう成人したKさんの顔を見間違えたりしません!絶対わかります!なのでそのままで会えるとうれしいです♪照照照
※僕が一瞬見たKさんの線画です。もうちょっと似せて描きたいなぁ(願)僕の画力ではここまでが限界なのか(滝汗)
しかし、本当にこの数ヶ月、僕はすごい状態に浴させてもらっています。6月以前の僕には想像もできない、とてつもない状況が次から次へと発生しています。うれしい出来事もたくさんありましたが、今回のKさんの件もとてもうれしはずかしの出来事であったのは間違いありません☆少年時代の小さな縁が、まさか!まさか!こんな形で復活するなんて誰が予想できたでしょう?
さぁ、ロングロングロングロングロング…(待疲)カウントダウンはいつまで続くのでしょうか?もうそろそろ出発って感じでお願いできませんかね…(懇願笑)もう首長竜の首が伸びすぎて折れる寸前なんですけど(滝汗)。。。でもそこをぐっと堪えて「訳あって与え給わず」「後なるものが先に」この言葉を胸に再び読書と瞑想練習を続けます。
以上、たきざわ彰人でしたm(_ _)m 信が揺らいでなるものか(祈)
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※昨日のインスピレーションで、何と香世子さん(小学校の時の友達)が僕の娘として生まれる予定だった事を聞かされました。アナログ絵23の半透明の娘です。もしそうなってたら香世子さんと僕は家族になってたんですね。香世子さんありがとう♪
21ピーチピチの父親は5人Kしてますよ
【21ピーチピチの父親は5人Kしてますよ】諸事情により削除させられてしまった以前のブログから通してご覧頂いている方々へ、最大級の感謝の念を捧げます。山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です。インスピレーションでも、イエス様が事の推移を固唾をのんで見守って下さっている旨のメッセージを→
→受け取らせて頂いています。交霊会開催、自動書記現象発動に向け、いよいよ最終局面を迎えています。交霊会開催の最大の壁である、21ピーチピチの父親を排除するため、ここに、以前のブログにて説明させて頂いた父親の真実の姿についてのブログを改めて書かせて頂く事になりました。
ただ、この使命遂行の重要なツールであるブログおよびツイッターのアカウントを再び永久凍結で失う訳にはいきませんので、そうはならない、牙をむかない、オール伏せ字での表現にて書かせて頂こうと思います。以前のブログをお読みの方には、それで十分内容を理解して頂けるはずですので。
では行きます。21ピーチピチの父親は5人Kしています。Kの意味は“切る”ですよ、“着る”ですよ。ただ、僕が把握しているのは5人中1人のみで、あとの4人はその関係者の方々であると現在は理解しています。で、その把握しているKされた1人というのは…21ピーチピチの真実の母親です。
国民の皆さま、お分かりになりますか?過去「全然血つながってないのよ」とインスピレーションを受け取らせて頂いています。そうです、21ピーチピチは父親およびお母さまと全然血が繋がっていない、赤の他人の女の子なのです。もっとも21ピーチピチの顔をご覧になれば簡単に納得して頂けると→
→思うのです。どこをどう見ても、どう首をひねって眺めても全く顔が似ていませんからね。この父親とお母さまからこの女の子が生まれる訳がないのです。ではどうして赤の他人のはずの21ピーチピチが娘として邸内にいるのでしょう?それは父親が“泥棒”を行ったからです。
その泥棒の経緯ですが、現在はこう予測しています。僕は幽体離脱にて21ピーチピチの真実の母親にお会いしています。その出会いの時、才色兼備な雰囲気を漂わせる21ピーチピチの真実の母親は、シルバーコードが付いた霊体の僕の背中にピッタリと張り付いて離れようとしませんでした(照笑)
僕との出会いをとても喜んで下さった事、本当に感謝しています☆そして霊界で霊体をまとっている時は“20歳の空気感”ですから、僕がお会いしたその霊体の母親は、もう21ピーチピチに似ているとか、双子みたいとか、そんなレベルではなく、もう21ピーチピチ本人に会っているかのような、→
→それくらいそっくりな女性だったのです。つまり21ピーチピチは母親にそっくりな女性という事になります。そして、父親と21ピーチピチの真実の母親は、21ピーチピチが生まれる前に会う機会があって、そこで父親が「なんて美人なんだ」と一目惚れしてしまったのではないか?
現在僕はそう考えています。それは父親の性格を思う時、そう予測できるのです。この父親の頭の中はS○Xの事だけです。邸内でもただひたすらS○Xをしています。とにかく生きる価値観がS○Xだけなのです。この1年以上、霊団から果てしなく、果てしなくこの父親の思念をインスピレーションで→
→受け取らせて頂いていますので。なのでこの21ピーチピチの真実の母親に一目惚れした時に「この美人の娘を邸内に置いて自分専用のS○Xオモチャにする」というどうしようもない欲望を抱いてしまったのです。つまり、ただS○Xのためだけに他人の娘を盗む事を計画したという事です。
この才色兼備の21ピーチピチの真実の母親は既に結婚しており、21ピーチピチの父親は「あなたが夫との間に作った娘を私に下さい」と信じ難い要求を突きつけたのです。21ピーチピチの真実の母親はもちろん拒絶したはずです。しかし父親の○族という肩書きには抵抗する事ができず、→
→泣く泣くその許しがたい要求を受け入れさせられてしまった、という事なのです。そして才色兼備の真実の母親夫婦と、21ピーチピチの父親とお母さまとが、同時期に妊娠します。21ピーチピチのお母さまのおなかの中にいたのは21ピーチピチではなかった、という訳です。
そして多少のタイムラグがあったでしょうが、ほどなく両方の赤ちゃんが生まれ落ち、21ピーチピチの父親の願望である、才色兼備な真実の母親の娘、女の子が生まれてしまい、その赤ちゃんは無残にも自分と全然血がつながっていないS○Xが生きがいの父親にに盗まれる形となってしまったのでした。
そしてこれは予測の域を出ませんが、21ピーチピチのお母さまが生んだ赤ちゃん…男の子だったのか女の子だったのかは分かりませんが、ひょっとしたら父親の命令で嬰児の状態でK処分させられてしまったのではないか…そんな風にも思うのです。そう思う根拠はあります。
それは僕が、前アカウントであれほどの!あれほどの!活動をしたにもかかわらず、僕が今をもってしても全く不○罪で逮捕される事がなく、経済面こそ厳しい状態にさせられていますが、それ以外は全くノーダメージであるという事です。過去「守ってくれてる」ともインスピレーションを受け取らせて→
→頂いています。21ピーチピチのお母さまは、自分がおなかを痛めて産んだ子供を、夫のS○X願望のためにK処分せねばならなかった事に激しい怒りを覚えているのではないか?国民の前では笑顔で振る舞っていても、本当は自分の夫をKしたいほど憎いんでいるのではないか?僕の心から、→
→この考えを消す事ができないのです。きっと21ピーチピチのお母さまは「彰人さんありがとう!あなたのおかげで息子(娘)の仇がとれるわ!」そんな風に思って下さっているのではないか…それで僕、たきざわ彰人の事を“不○罪ガード”して下さっていたのではないか…→
→そう思わずにはいられないのです。僕は前アカウントで激しく通報されています。その関係でブログも1位になりました。が、あれだけ通報されているのに僕は全く逮捕されません。これは不自然極まりない事です。きっと21ピーチピチのお母さまが僕を守って下さっているのだ、→
→そう考えるのが最も自然なのです。そして21ピーチピチは才色兼備な真実の母親とそっくりな顔に成長していきます。あまりにも似すぎているため、父親は自分が犯した“赤ちゃん泥棒”の事実が国民に露呈する事を恐れ、ザクヤーに依頼して真実の母親のK害を実行に移します。
真実の母親は何の罪もないのに、父親のS○X願望のためだけにKされる事になってしまったのです。何という理不尽極まりない事でしょう。そのK害現場のムービーを霊視にて拝させて頂いています。こうです。才色兼備な真実の母親は裸で後ろ手に縛られ、テーブルの上でロープで首を吊られます。
つまりお尻がテーブルに付いていて上半身が天井からのロープで吊られて浮いた状態という事です。K害の実行役はザクヤーですが、父親の頭の中はS○Xしかありませんから、ここでもK害のみならず真実の母親をレ○プします。父親は天井からのロープで首を吊られ呼吸ができない真実の母親の上に→
→覆いかぶさり、胸を揉み、手でも追加で首を絞め、さらに母親の顔に往復ビンタまでしていたのです。そうやって21ピーチピチに顔がそっくりな真実の母親の地上的生命が絶たれるまでレ○プし続けた…というムービーを霊団に観させて頂いているのです。およそ人間の所業とは思えないK害の様子…→
→皆さま、どうご覧になりますか?僕が前アカウントにてある言葉をシャウトしていた真意を理解して頂けるでしょうか?使命遂行の重要なツールであるブログ、ツイッターのアカウントを再び永久凍結させる訳にはいきませんので以前のようには書きません。が、僕はここに強く強く信じます。
99%の日本国民が、21ピーチピチの父親の真実の姿を知って頂きたいという僕の想いに賛同して下さる事を。多くの方が、声にこそ出さなくても、本当は僕と同じ事を叫びたいと考えている事を。全てはこの父親が、僕の交霊会への呼びかけを邪魔し続けた事に発しているのです。
僕の邪魔をし続ければし続けるほどインスピレーションが降りまくり、父親は何もかも国民にバラされる結果となってしまったのです。そしてこれはインスピレーションとして受け取らせて頂いていませんが、21ピーチピチの父親にKされた残りの4人は、21ピーチピチ一族の女性たちではないか…→
→そんな気もしています。つまり21ピーチピチの真実の母親の姉や妹、祖母などです。みんな21ピーチピチと顔がそっくりだったのかも知れません。つまり21ピーチピチの父親は、ただS○Xしたいというだけの理由で21ピーチピチ一族の女性たちを根絶やしにし、その娘を盗んだ、という事です。
霊団から「蛮族」ともインスピレーションを受け取らせて頂いています。全くその通りですね。そして僕は、この才色兼備な真実の母親の夫と思われる男性のインスピレーションも受け取らせて頂いているのです。盃を高く掲げ「お礼を言うよ」というものでした。この夫の内なる怒りは如何ばかりでしょう。
21ピーチピチのお母さま同様、この夫も20年間、父親に対する激しい憎しみの中で生きてこられたに違いありません。愛する妻を奪われ、さらに娘も盗まれてしまった訳ですから…本当に心情お察し致します。そしてこれも以前のブログにて書きましたが、僕は21ピーチピチの父親を逮捕しようとしない→
→「○宮警察」に対しても激しい怒りの念を抱いています。同じ邸内にいるのだから事実を知っているに決まっています。が、5人Kしている人間をまるっきり逮捕しようともしないとは、神経を疑ってしまいます。全くもってポリーチェ(POLICE)失格と言わざるを得ません。
ここでもシャウトしたいところですが以前のような事は書きませんよ。永久凍結だけは避けねばなりませんので。しかし、先ほども述べましたように、99%の日本国民の方々に、僕のこの怒りに賛同して頂ける事を強く強く信じます。はい、ここまでお読み頂いた方々に心から感謝の念を捧げます。
21ピーチピチの父親が、ただS○Xがしたいというだけの理由で他人の地上的生命をオモチャにしているという事、邸内で自由に使えるS○Xオモチャが欲しいという、全くどうしようもない理由で他人の娘、美人の娘を泥棒したという事、それに飽き足らず、ザクヤーのちからを使ってその美人の母親を→
→レ○プK害している事、そして21ピーチピチが19歳の時に僕の存在を知り、光栄にも僕の事を好きになってくれて(「1発だったのよ」ともインスピレーションを受け取らせて頂いています)それに対する単純極まる“男子の嫉妬”で、僕の使命遂行、霊媒発動を邪魔し続けたという事実を、→
→皆さまに正しく理解して頂きたいと切に切に願います。「21ピーチピチは俺のものだ!お前になんか渡すか!」父親の心は、僕の使命遂行にまつわる重大な責任とはかけ離れた、至極単純な嫉妬の感情に突き動かされていたという事なのです。とにかく頭の中はS○Xの事だけですので、→
→僕が交霊会、霊媒発動のために地上に残されている霊の道具であるという霊的事実と全く関係ない物的理由で僕の邪魔をし続けていたのです。ただ、自分の娘でない21ピーチピチを取られたくないというだけの理由で。21ピーチピチも、ど真ん中で被害者なのです。本当に呆れ果てます。
前アカウントのブログをご覧頂いていた方々へ。僕は以前のブログと全く同じ内容のブログを、こうしてもう1回書きました。これが何を意味すると思われますか?なぜ僕がここまですると思われますか?それは霊団が僕にインスピレーションで教えて下さったこれらの情報が“真実”だからですよ。
ここまで全力で時間とパワーをかけてウソをつきまくるなんて、そんな事があるはずがないでしょう?僕はそんなにヒマ人ですか?ウソのブログを書くと僕にお金が入ってくるとでも言うのですか?そんな訳ありませんね。霊団が僕を霊媒として機能させるために、その邪魔をする21ピーチピチの父親を→
→排除するために、これらの情報を僕に降らせて下さったのです。それを僕が降ったままにツイートし、ブログを書く事でジャマーを排除した、これが真実なのです。霊団によれば「完全に掌握した」のインスピレーションからもお分かりの通り、21ピーチピチの周りにおられる男性陣はもう→
→僕の使命遂行を邪魔する事はできません。そして21ピーチピチのお母さまを中心とした女性たちの協力を得て、自動書記現象、霊言現象にて間もなく新時代の霊言を日本の皆様にお届けする事ができるようになります。僕はイエス様に怒涛の連続顕現でお願いされてしまって地上に残されている身です。
イエス様が僕を霊媒として機能させるために地上に残したのです。僕はイエス様ハンドリング、何としてもイエス様のご意思を遂行します。1歩も退く気はありません。必ず交霊会を行います。皆さまにはぜひ楽しみにお待ち頂ければと思います(祈)
■2013年1月12日にUPしたブログ「勉強しましょうよ(祈)」
僕のブログ及びツイッターをそこまで真剣に目を皿のようにしてこと細かに微に入り細に入り検討し徹底的に全項目を読みまくって指摘してやろう糾弾してやろう非難してやろう追求してやろう撤回させてやろう…などという悪趣味かつ暇な方はこの地上にはいらっしゃらないでしょうが(笑)僕は僕なりに今まで光栄にも浴させて頂いた様々な現象について記述し、紹介し、羅列し、公開し、僕達が地上生活中に悟るべき大切な事柄について幾度となくしつこくしつこく、それこそシルバーバーチ霊が忍耐の極限ともいえる作業を繰り返してきた如くに書いてきたつもりです。
僕は「ちょっとだけ霊覚者」として、あえて言います。地上で暮らす僕達のほとんどは「生ける屍」も同然なんです。まるっきり死人なんです。まがりなりにも生きているとはとてもいえないようなお粗末な状態でしか自己を表現できていない、悲しいほどに目が閉じられた、真実を見透かす事のできない、魂の眠れる存在なのです。ある書籍に「神すら手を焼く(ゲーテ)」と紹介されていますが、この言葉は、それほど僕達地上人類が何も見えず何も聞こえず何も理解していない愚か極まる存在という事を表現しているのです。
シャーロック・ホームズで有名な、かのアーサー・コナン・ドイル卿もある書籍で言ってます。「正直言って私の心は、周りの人達の無関心と卑怯さに対する冷笑に満ち満ちているのです」と。僕達の目は肉体という鈍重で不自由極まりない外郭に覆われる事で徹底的に曇らされ、かんじんかなめの“霊的な核心”に全く触れる事ができず、明けても暮れても無意味な事にあたら興じる、全く残念な存在というしかないのです。例えばあのシリウス(惑星)にも生命体が存在しますが、その方々からすれば、我々人類などはナメクジにも劣る鈍重かつ退屈極まりない、全く取るに足らない存在なのだという事を、僕達はそろそろ知ってもいいと思うのです。
地上の物質及び地上の富にどれだけこだわっても、それが何になるんでしょう。考えてもみてください。そんなものは死んだら全部地上に置き去りにしなきゃいけないんですよ。向こう(幽界・霊界)には持っていけないんですよ。永遠に比べてたかだか6~70年の人生で集めた無意味な物質たち、そんなものはほっぽっとけばホコリを被って錆びて朽ち果てて塵と化して地球を構成する成分に帰っていくだけなんです。僕たちは死とともにそれら無意味なもの全てをかなぐり捨てて向こうに旅立って行くのです。その時は完全に素っ裸です。今まで生きてきて獲得した“こころ”一つで向こうに行くんです。
地球(地上)という生活の場は、この世界(宇宙)に存在する数々の生活の場の中でも“ほぼ最低ランクの生活の場”なのです。強調します!最低ランクです!地上は生活の場というより“修行の場”なのです。辛い、苦しい、悲しい経験をするための場所、と言っても決して言い過ぎではないと思います。この先にはるかはるか高く素敵な境涯、生活の場が永遠と続いているのに、地上などという最低極まる陳腐な生活の場に魂を縛られ、向上の道を自ら閉ざす事がどれだけ愚かな事か…僕達地上人類は、何としてもこの事実に気付かなければなりません。
僕は果てしなく読書没頭して知識を吸収しまくり、まぁまぁの理解度に到達する事ができました。天然キャラの僕(笑)でさえここまで理解する事ができたんですから、みなさんにだって理解できるはずなんです☆できますとも!僕が読書没頭して勉強しまくった書籍たちは、ブログ「さらにさらに書籍紹介です♪」にて紹介しています。興味を持ってくれた方がもしいましたら、ぜひ手にとって見てください☆これらの書籍は人類の宝なのです☆
僕は今度こそ!今度こそ!今度こそ!出発します(願)詳しい説明はもう割愛しますが、僕を取り巻く状況からかんがみるに、僕は向こうに旅立ったが最後、地上圏との関わりは極端に少なくなるものと思われます。僕自身に一切興味がない事も手伝って、まず地上圏へは降下してこないでしょう、よっぽどの使命でも賜らない限り。なので、残された時間の中であえて強い口調でこうした内容を書いてみました。強調したかったのです。知って欲しかったのです。いや、僕達は知らなければならないんです、この艱難辛苦の地上生活の中において…(祈)
■2012年11月20日にUPしたブログ「幼稚な反逆の果てに」
僕は法悦状態を媒介とした間接的なコミュニケーションにより、背後霊団の“意思”を僕なりにくみとり、それに従って地上における描画を終了する決断をし、読書と瞑想練習という生活に突入して現在に至っています。が、実は僕は既にその背後霊団の意思に4回反逆しています。つまり本を読むのをやめて絵に戻ろうとした訳です。
とはいえ僕は画家なので、自分の作品を描きたいと思うのはある意味当然の欲求なのですが、背後霊団が僕に絵をやめさせ、本を読むように仕向けているのは、人間の脳で考える“人知”ではなく、この地上人生を超越したより大きな視点に立った霊団から与えられる“叡知”によるものだと考え、それに従うことが、今は意味を理解できなくとも将来的にそれが自分にとって最適の選択肢だったことを得心する日がくると信じ、読書に没頭していた訳です。
しかし、僕に辛抱が足りずに何度も何度も絵に戻ろうとしてしまう訳です。今回はその4回目の“幼稚な反逆”の様子をちょっと紹介してみようと思います。
初期の旅立ちのメッセージを受け取ってから間もなく半年にもなろうとしています。その待ち期間があまりにも長く辛いので、僕は旅立ちを切望するようになっていました。しかし明けても暮れても旅立てず、毎日期待と落胆の繰り返しで僕はすっかりくさっていました。そしてついに耐え切れなくなって、僕は本をかなぐり捨てて衝動的に部屋を飛び出し、近所の低山に行ってシングルトラックをメッチャクチャに爆走していたのです。心の中で幼稚な叫び声を上げながら。
「いつですか!?いつになったらそちらに行けるんですか!?何でいつまでも本を読み続けなきゃいけないんですか!?何で“絵を描いたら負け”みたいな空気になってるんですか!?画家が絵描いてなにが悪いんですか!怠けたりふざけようとしてるんじゃないんです、一生懸命描こうとしてるんじゃないですか!どうしてなんですか!?もうー!!」とまぁこんな感じで…(恥)旅立てず、さらに絵というお気に入りのおもちゃを奪われてかんしゃくを起こした“だだっ子”のような状態だったのです。それはもう恥ずかしい限りの、幼稚極まる状態でした。
そして翌日には、もう本は読まない、絶対絵に戻ると完全に決心するまでになっていました。その決心と時を同じくして、7月8月頃に体験していた強烈な法悦状態が久々に僕の全身に降りかかってきたのです。ものすごく鼻がキィィィィンって!頭、体がフワァァァって!なるんです。僕はその素敵な法悦状態に喜びつつも、僕の人知による決断が元で背後霊団との連絡路が絶たれてしまうのではないかという不安を感じていました。でも僕の決心はやはり変わらず「僕はもう本は読みません!44作を描きます!もうこれ以上無理です!限界です!」と心の中で叫んでいました。
それからしばらくして心がリラックスした状態だった時、フッ…と「あ、やっぱ本読まなきゃ」という“ひらめき”のような考えが急に頭の中によぎったのです。「…って、あれ?あんなに固く決断したのに何で急にこんな考えが?」と思いながらも次の瞬間にはさらに「でもやっぱり読むべきだよなぁ」と考えたりするのです。その瞬間、僕は数年前に山で経験したある出来事を思い出したのです。僕はその頃、既にトレイルランを始めていて、山が大好きになって毎週山を駈け回っていたのです。そしてある山を全力で駆け下っていた時に、今回と同じような“ひらめき”があったのです。
それは、その時期抱えていたひとつの“問題”についてのひらめきでした。その時期、僕はある男性とある事業を起こそうとしていて、その計画が着々と進行している最中でした。僕はその事業の中で“デザイナー”として参加する予定になっていたのです。しかし僕は正直その男性に尊敬の念を感じることはできず、あまり長い付き合いにはならないだろうと考えていました。
そして山から帰宅後、山でのひらめきの通りにあるメールを書き、その男性に送信しました。すると、僕の方には男性を怒らせる意図など全くなかったのに、烈火の如く怒りまくった返信メールが帰ってきたのです。僕はそれに落ち着き払ってさらに返信し、あれよあれよという間に別れ話がまとまり、難なくその男性と縁を切ることができたのです。
そしてその時のメールのやり取りの中で、男性の心にひとつの“たくらみ”があることがわかったのです。もし僕がその男性と行動を共にしていたら、僕はデザインの仕事と全然関係ない重い荷物を背負わされ、身動きができない状態に陥る所だったのです。そして僕に重い荷物を丸投げして、その男性は全く別の分野に進出しようと考えていたようなのです。
本当に危うい所で背後霊団の導きに助けられた、という出来事が過去にあったのです。「君の道はそっちじゃないよ、こっちだよ」と、あの時言われていたと今になって得心するに至ったのでした。そして今回の「あ、やっぱ本読まなきゃ」というひらめきの様子が、この数年前の出来事の際に感じたひらめきとそっくりの感触だったのです。僕を正しい方向に導くために、僕の心に強烈にインスピレーションを吹き込んでくれたんだと思います。
そして、その日のうちに僕は再び以前の状態に戻って読書を始めていました。ついさっきまで僕は、完全に絵に戻る!44作を描く!もう本は片付ける!…と、そう固く固く決断していたのに。…それが、僕の心に指先でそっと触れられただけで、あっという間に回心してしまったのです。それこそパウロのように。
僕がとった幼稚な行動によって、僕自身が恥ずかしさでいたたまれなくなるのは当然の結果なのでそれはいいとして(恥)本当に、今まで何度も何度も素敵な現象に浴させてもらっていますが、今回も再び決定的な体験をさせてもらい、それによって大いに学び、自分の弱さを恥じ、背後霊団の広い心と優しさを感じ、さらにさらに様々な教訓を得させてもらったような気持ちです。学ぶことは本当に無限にあるのだと、そう感じずにはいられません。
この強烈な待ち期間の中で謙虚さを維持することは、今の僕の人間的成長度ではとても難しく、何度となく道を誤ってしまいます。その度にやさしく、かつ大局的視点に立って僕の未来の進歩、向上に最適な道を進ませようとあらゆる手を打ってくれている背後霊団のことを思うと…自分の未熟さを徹底的に痛感させられ情けなくて悲しい気持ちになりますが、これが今の僕の限界点なので、この恥ずかしさを全身に浴びてそのまま進むしかありません。。。
それにしても今回の体験で、あれほど強烈に絵に戻る決断をしたのに、あっという間に心変わりさせられてしまう、その霊団の“威力”とでも言えばいいのでしょうか(霊団側は“愛”と言ってくれと思うことでしょうが汗)を心底味わいました。本を果てしなく読み続けて、人間というものはそれ自体に創造的能力はなく、すべからくインスピレーションの受信装置でしかない、ということを知識としては知っていましたが、今回の経験でそれを徹底的に思い知らされた、そんな気がします。
つまり、僕は今まで自分のちからで絵を描いてきたと思ってきましたが、実際はそうではなく、創造的産物はすべて向こうが始原であり、人間はそれを良きにつけ悪しきにつけ受信して表現しているに過ぎない…ということを完全に得心した…そんな体験でした。
人間にはある一定範囲内での自由意志がある、僕は本でそのように勉強しています。しかし今回の体験で、僕は心まで背後霊団に牛耳られているのかも知れない、という考えも浮かんでくるのです。人間には本当の意味での“自由意志”はないのではないか…そんな風に思っちゃったりもするんです。(もっとも、導きを拒絶するという自由はあるでしょうが笑)でも僕はそれに対して別に不快感は感じません。僕にとって良かれと思える方向に導いてくださってる訳です。この気持ちを何と表現すればいいのでしょう…。“心地よい降伏”…とでも言えばいいのでしょうか。そんな心境なんです☆
ってな訳で、本当に早くそちら行きの高速船をこちらに到着させてくださいよ。何もかもかなぐり捨てて乗船しちゃいますよ。お願いしますよ、ホントにもう(切望)…久々の高レベル法悦状態に喜びつつ、何とか読書を続けている…たきざわ彰人でしたm(_ _)m(祈☆)
■2014年5月21日にUPしたブログ「“パウロの如く”再びの回心インスピレーション」
これまで果てしなくツイートしてきましたが、交霊会開催に必要なサークルメンバーを集めるための“最後のカード”を普及会のお二人に投げ、それがまさかまさか空を切り、その直後に「ターン!」という超超超超超鮮明な声(たぶん守護霊様のお声だと思います)が霊聴に響き、さらに帰幽カウントダウンのインスピレーションを受取った事で、これにて僕の地上での“霊的知識普及の使命遂行”が終了し、ようやく、ようやく待ちに待った“帰幽”が実行に移され、地上を離れる事ができると(複雑な思いを抱えつつも)僕の心は喜び跳ねるのでした。
そして帰幽当日「今日こそ、今日こそ、帰幽を実行に移して頂きますよ。頼みますよ」と霊団の方々に念押しするような思念を送りつつ、登山道入口に止めた車にお別れを言って日の出3時間前の暗黒の樹林帯に向けてスタートしたのでした。ヘッドライト、ハンドライトで闇を切り裂きながらガンガンスピードを上げて進んでいく。僕のアタックはいつも“往復コース”を取っているので、前半の往路は闇の中を進み、後半の復路は明るくなってからさっき辿った道を戻ってゴールする、という形になります。
その往路を進む最中、僕の頭を支配するのは帰幽にまつわる思考で、どういう帰幽方法になるのか、帰幽後に僕が書き残したブログ、ツイッターはどうなるのか、結局僕が撃ちまくったテキストは誰にも信じられず、チリと消えていくのか、ま、でもそんな地上的評価に用はない、霊的評価こそ真実の評価なのだから、地上の人々にインチキ呼ばわりされようとも霊界の方々は僕の正しい姿を理解して下さってるのだから気にとめる必要もない…こんな感じの考えがひたすら頭の中でよぎりまくるのでした。
そしていよいよ日の出が近づき空が白み始めた頃、少し雪が残るゴツゴツした岩場を手も使って上るようなセクションに差し掛かっていました。その時、目の前の木の枝が二重に見え「はっ!これは以前、霊関連書籍を読みまくってた時に良く起こった現象だ、霊体の目が発動してるんだ」と瞬間的に理解し、さらに、明らかに霊体が肉体から半分離脱してるようなフワフワした浮揚感、2012年夏頃に最も浴させて頂いていた“法悦状態”にも似た感覚が走るのでした。
僕は心拍を上げてガンガン岩場を上りながら「来るのか!?今日なのか?ビンゴなのか?ならカモン!帰幽カモン!いっちゃって下さい!いつでもやっちゃって下さい!」と、最高に疲労感に包まれつつも顔には思わず笑みがこぼれ、霊団の方々に向かって“帰幽実行お願いします”と思念を送り続けるのでした。このまま意識が遠のいて岩場に倒れ、肉体から抜けて帰幽完了、となるのか?などと、この時の僕の頭の中は完全に“帰幽”に関する思考で占領されていて、他の考えなど一切なかったのです。
ところが!次の瞬間、数日前に“ある男性から頂いたメール”に関する思考がなぜか!なぜか!急に頭の中に飛び込んできたのです!えー、軽く説明しますと、そのメールというのは、帰幽カウントダウンのインスピレーションを受取った翌日に送られてきたものなのですが、僕の本心、願望はあくまでも帰幽最優先ですから、もう帰幽が目の前に迫っているのにそのメールに返信とかしてそちらで時間や手間がかかってしまったら帰幽が遅らされてしまう、それに最後のカード、普及会の方々に背を向けられた時点で“これで終った”という気持を強く抱いていた事もあり、僕はその“ある男性から頂いたメール”に返信せずに帰幽当日の山へのアタックに出かけた…という事だったのです。
その時の僕はまさに帰幽寸前ともいえる状況で、頭の中にそのメールに関する考えなど1ミリも無かったはずなのに、何の前ぶれもなくいきなり僕の頭の中にその考えが飛び込んできたのです。そしてつい数秒前まで僕の頭の中を占領していた帰幽に関する考えがひとつ、またひとつと消えていき、その消えたスペースをメールに関する考えが取って代わって占領して行き、ホンの数秒の間に僕の頭の中はその“ある男性から頂いたメール”の事でいっぱいになってしまったのでした。
「なっ、何だこれは!?何でいきなりあのメールの事で頭がいっぱいになっちゃったんだ!?考えてもなかったのに…」僕は息を切らしながら自分の心の動きを必死に追っていました。そして瞬間的にひらめいたのでした。「あぁっ!これは“パウロ戦法”だ!」と。えー、これについて、まずは僕の2012年11月のブログ「幼稚な反逆の果てに」をぜひご覧頂きたいと思うのですが、この時の僕の状況はこの過去ブログにて書いた状況と全く同じだったのです。霊関連書籍に親しんでおられる方ならお分かりの事と思いますが、霊界の人々は、インスピレーションによって地上の人間の思考をかなりの程度まで操作できるのです。
つまりこういう事です。僕が帰幽寸前とも言える状況に突入していたその時に、霊団から“そのメールに対応しなさい、帰幽はその成否が判明してからです”という強烈なるインスピレーションを受取り、ホンの数秒で一気に頭の中、心の中を“書き換えられてしまった”という訳です。ブログ「幼稚な反逆の果てに」でも“僕の心に指先でそっと触れられただけで、あっという間に回心してしまったのです。それこそパウロのように”と書きましたが、僕は遠くに見える雪が残った山々を眺めながら「またしても、またしても、何という威力なのですか!」と霊団の方々に向けて心の中で叫んだのでした。
その時の僕の頭の中の動きを良く表す表現として“オセロ”を思い浮かべて頂きたいのです。盤面は1コマを残して全て黒で埋め尽されてます。その残った最後の1コマに白が置かれると、その白を中心として黒が次々とピラピラめくれて白に変っていき、それがどんどん外に広がっていってさらに黒がピラピラめくれていって、ついに盤面全体が白で埋め尽くされてしまった…こんなイメージなのです。
その後、空はすっかり明るくなり復路に突入したのですが、僕の頭の中から帰幽に関する思考が完全に消え去り、“ある男性から頂いたメール”の事でいっぱいになっていて、どう返信しようかとか、実際にその男性とお会いするとしたらこんな風にお話が進むのではないかとか、そんな事ばかり考えるようになっていたのです。そしてさらにもうひとつ、数日前にツイートした内容に僕の“勘違い”があった事を理解したのでした。それに関するツイートがこちらです↓
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今日の幽体離脱、(文字数節約の為)“姫の霊団”と呼ばせて頂きますが、その方々が僕の所に来て下さって離脱中の演出をしてくれたのですが、どうにもいつもと“空気”が違い、僕はずっと違和感を感じていたのです。僕がそんな事する訳ないでしょ、とか僕がそんな言い訳する訳ないでしょ、と自分で→
→自分に突っ込みたくなるような言動を僕はしてたのです。肉体に帰還後「おっかしいよなぁ~」とずっと首を傾げてました。で、今回、姫の霊団の方々が来て下さった理由は分ってるのです。僕を心配しての事だったのですが「皆様、心配して来て下さって本当に感謝なのですが、大変、大変申し訳ないの→
→ですが、どうか、どうか、お引取り下さい…」と僕は目を閉じてトランスを維持したまま何度も姫の霊団の方々に思念を送り続けたのでした。すると「もう少し頑張れ」という声が霊聴に響き、誰か分らなかったので姫の霊団の方々かもと思い「ノンノン、帰幽は僕の霊団によって既に決定してますので、→
→お気持は有難いのですが、どうか今日はお引取り下さい…」と何度も思念を返すのでした。姫および姫の霊団の方々、心配して頂いて感謝です。ただ、またしても帰幽が延期になりそうなダークゾーンの気配を感じてますが一応カウントダウンに従えば間もなく決行です。帰幽を最優先にさせて下さい(祈)
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この時、明らかに僕の霊団とは違う“外部の者”が絡んでいたため、僕の判断に狂いが生じてしまっていたようなのです。この時僕が霊聴にて聞いた「もう少し頑張れ」の言葉を、僕はその“外部の者”からの言葉と判断してしまっていたのです。しかし今回の強烈なる!強烈なる!回心インスピレーションを受けて「あ、あのお言葉は僕の霊団からのものだったんだ」と自分の誤りに気付いたのでした。つまりこういう事です。小インスピレーションで僕が誤った理解をしてしまったので、今度は大インスピレーションを送って正しく理解させた、という事です。もう少し頑張れ、つまりそのメールに対応しなさい、というメッセージだった訳です。
往路を進んでいた時は“帰幽”の事で頭がいっぱいだったのに、復路を進んでいる今は帰幽に関する考えが頭から完全に消えてしまっていて“ある男性に頂いたメール”と、帰ってからこのブログをどう書こうかと考えるので頭がいっぱいになっていたのでした。「往路と復路で完全に別人格じゃないですか!どっちが僕ですか!そこまで書き換えますか!ホントに…何たる霊力!!!何たる威力!!!」ハイスピードで樹林帯を切り裂きながら僕は心の中で何度も叫ぶのでした。
今回、帰幽目前の僕に向けて霊団から送られた、強烈なる!壮絶なる!インスピレーションによって、僕はまたしても“コロッ”と回心させられてしまったのでした。えー、こういう表現はどうかとも思うのですが、僕は知識としてではなく経験として体得してしまっていますので、あえて言わせて頂きます。地上の人間というものは完全に霊界の方々の“あやつり人形”であると。僕の霊体には、霊界にある霊質で出来た超超超超超高性能PCから伸びたUSBがガッチリ刺さっていて、そのPCを操作する者(イエス様かも知れません)の意のままに操られている…もうそんな絵さえ浮かんでくるのです。。。誤解を恐れずあえて言うならば、僕たち地上人には“自由意志”は無いのかも知れません。まぁ、導きを拒絶する自由はあるでしょうが。。。
…うー、今回の山へのアタックは↓
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■往路→帰幽
■復路→メール対応
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みたいな感じで、頭の中が完全に切替わってしまった…という訳です。そしてゴールに向けて進んでいる時、複数の人々との出会いがあったのですが、これは霊的事象とは関係ないものかも知れませんが“全ての事に意味がある”という霊的知識に照らせば、この出会いも霊団側の霊的演出だったのかも知れない…という思いもありますので一応軽く紹介させて頂きます。
まずトレラン風のウェアに身を包んだ外国の男性との出会いがありました。その男性がカタコトの日本語で話しかけてくれたので、僕はその男性に分りやすいように難しい日本語は使わず、身振り手振りを交えながらゆっくり説明したのでした。すると「ワカルワカル」と返してきてくれて話がどんどん進んでいき、僕も男性もすっかり笑顔になっていたのでした。その外国の男性はよほど喜んでくれたのか別れ際に僕のウェアを褒めてくれて、僕も楽しい気分に包まれつつ調子に乗って「僕はいつもオレンジなの」と返してお互い笑い、山での再会を約束して爽やかな気持で別れたのでした。
さらに進むと今度は数人の先生に引率された子供たちの行列(50人はいたでしょうか)に遭遇し、ゴールの駐車場に向けて下る僕が通れるようにみんなが道を空けてくれるのでした。すれ違い際に子供たちが「こんちはー、こんちはー」と声をかけてくれたので僕も「ありがとねー」とか返しつつ楽しい気持に包まれ進み、何の気なしに「何年生?」とか聞くと女の子が「中1♪」とか可愛く答えてくれたので僕はまたしてもすっかり笑顔になって「アラそうなの♪」とか返し、子供たちと爽やかな気分で別れたのでした。
僕は笑顔で下りながら「ついさっきまで最高レベルに帰幽カモンだったのに何でこんな気分になっちゃってるんだ!?」と自分で自分に突っ込みまくりつつ、大きな疲労感に包まれながらも心は爽快感に満ちて、帰幽を逃してガッカリのはずなのに何とも楽しい気持でゴールしてしまったのでした。。。この出会いについては霊的なものとは全く関係ないのかも知れません。しかし、しかし、「帰幽は必ずできるのだから元気をお出しなさい…」と、イエス様そして霊団の方々にそう言われてるような、何となくそんな気がしてならないのでした…。
…はい。という訳で、最後のカードが空を切ったにもかかわらず、再びの強烈なる回心インスピレーションの威力によって、僕はまたしても帰幽延期させられて地上に取り残されてしまった…という事なのです。現在“ある男性から頂いたメール”の返信内容を検討中。このメール対応の成否(このメールを送って下さった男性およびその関係者がサークルメンバーとなってくれるかくれないか)によって、“霊的知識普及の使命続行”か“帰幽”かが決まる、といった状況です。うー、正直難しいと思ってますが、とは言えこれだけ強烈なるインスピレーションを受けて“そのメールに対応せよ”と言われちゃってますので、やるだけはやってみるつもりです。さ、どうなるのでしょうか…(祈)