母と子書籍img
-----訳者まえがき
『母と子の心霊教室』訳者(やくしゃ)まえがき 今から25年も前のことですが、私は英国から送られてきたこの本の原書を手にして、これはぜひとも翻訳(ほんやく)して、日本の少年少女のみなさんに読んでいただきたいと思いました。訳(やく)はその年のうちにできていたのですが、→
『母と子の心霊教室』→それがこのたびようやく単行本として出版していただけることになり、私は今うれしい気持ちでいっぱいです。出版までに、なぜそんなにながくかかったかといいますと、当時はまだ心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)していなくて、→
『母と子の心霊教室』→少年少女向けの心霊書(しんれいしょ)をだすには早すぎたということです。それでその年はガリ版ずりにして、スピリチュアリスト(心霊仲間(しんれいなかま))のあいだだけで読んでもらい、それから数年後に、日本心霊(しんれい)科学協会の月刊誌(げっかんし)→
『母と子の心霊教室』→「心霊(しんれい)研究」に10回にわたって連載(れんさい)していただき、そして今回、それに全面的に改訳(かいやく)をほどこしたものを出版していただくことになったわけです。
『母と子の心霊教室』では、この本の出版をお願いすることになったのは、もうすでに正しい心霊(しんれい)知識が普及(ふきゅう)してきたからかというと、残念ながらそうではないのです。
『母と子の心霊教室』最近たしかに心霊的(しんれいてき)なことが、テレビや雑誌(ざっし)などでさかんに報じられるようになりましたが、困ったことに、正しい心霊(しんれい)知識よりも間違った心霊知識、あるいは危険(きけん)な心霊知識の方が多いように思えるのです。
『母と子の心霊教室』しかも、意外に多くの青少年が心霊的(しんれいてき)なものに関心があることもわかってきて、このままでは、日本の青少年がまちがった先入観(せんにゅうかん)を植え付けられてしまうのではないかと→
『母と子の心霊教室』→心配し、その正しい基礎(きそ)知識を教えてくれるものとして、この本を出版する必要性を痛感(つうかん)したのです。何ごとも基本が大事です。心霊的(しんれいてき)な基礎(きそ)知識を学ぶ本として、このパーマー先生の本は最高だと信じます。
-----
『母と子の心霊教室』先生は英国のパブリックスクールでながいあいだ教えられ、最後は校長先生までなさった方です。私はこの本を手に入れてから、翻訳(ほんやく)の許可(きょか)をいただくための手紙を書いたのがきっかけとなって、その後パーマー先生と数え切れないほど文通を交わしました。
『母と子の心霊教室』「日本語版に寄せて」を書いてくださったのもそのころのことでした。「日本は自然の美しい国だと知人から聞いて、私もぜひいちどこの世に生きているうちに行ってみたいと思っているのですが、ずいぶんお金もかかりそうですし、それに私もだいぶ年なので…」
『母と子の心霊教室』と、いかにも質素を第一とした、スピリチュアリストらしい手紙をいただいたこともありましたが、それから間もなく、今から10数年前に亡くなられました。しかし、先生の青少年への希望は、この本の中に、立派に生き続けていると思います。
『母と子の心霊教室』私は翻訳(ほんやく)にあたって、その中に書かれている心霊(しんれい)知識といっしょに、先生の青少年への温かい愛情を伝えたいと思って、訳(やく)し方にいろいろと工夫をこらしました。
『母と子の心霊教室』ところで、心霊学(しんれいがく)のことはこれがはじめてという方にとっては、信じられないことや理解できないことが多いことと思います。そこで理解のむずかしそうなところは、私が“注釈(ちゅうしゃく)”という形で初心者向けに解説をほどこしておきました。
『母と子の心霊教室』それから、こうしたことが信じられないという方には、私からつぎのことを申しあげたいと思います。人類はこれまでさまざまな“信じられないこと”を発見してきました。地動説(ちどうせつ)がそうですし、原子(げんし)エネルギーがそうですし、→
『母と子の心霊教室』→宇宙(うちゅう)ロケットがそうですし、電子工学(でんしこうがく)の分野にいたっては日進月歩(にっしんげっぽ)の勢いで発明・発見がなされております。みなさんは別に驚きは感じないかもしれませんが、それはそうしたことが常識となった生活環境の中にいるからです。
『母と子の心霊教室』しかし私たちの生活環境(せいかつかんきょう)は、よく考えてみると、大宇宙(だいうちゅう)から微生物(びせいぶつ)にいたるまで不思議なことだらけなのです。その中でもいちばんの謎(なぞ)はじつは“人間そのもの”なのです。
-----
『母と子の心霊教室』人間については、はっきりとわかったことはなにひとつないといってもいいのです。たとえば、なぜ人間は物ごとを“考える”のか。なぜ“よろこび”、なぜ“悲しむ”のか。夜“寝て”朝なぜひとりでに“目が覚める”のか。
『母と子の心霊教室』その人体ができあがるいちばん最初は、目に見えないほど小さな細胞(さいぼう)でした。それが大きくなって科学を研究し、芸術を鑑賞(かんしょう)し、文学を語りスポーツを楽しむという、じつにさまざまな活動をするようになる、→
『母と子の心霊教室』→その知性と才能とエネルギーはいったいどこから生まれてくるのか、みな謎(なぞ)ばかりなのです。そうした謎(なぞ)について、ああでもない、こうでもないと思いあぐねていたときに、それを見事に説き明かしてくれる新しい思想が生まれました。スピリチュアリズムがそれです。
『母と子の心霊教室』そのくわしい内容は、これからパーマーさんが説明してくださいますが、それを読むにあたってのたいせつな心構えについてひとこと述べておきます。
『母と子の心霊教室』地動説(ちどうせつ)を最初にとなえたコペルニクスは、それまでの天文学者がみな地球を中心に考えていたのを、心の中で自分を太陽へと運んでいき、太陽に立って各天体の動きを観察したら、すべてがあっさりと解決したといいます。
『母と子の心霊教室』そこから地動説(ちどうせつ)が生まれたのです。つまり太陽が地球のまわりを回っているのではなくて、地球が太陽のまわりを回っていることがわかったのです。これは、当時の人にはとても理解がむずかしかったはずです。
『母と子の心霊教室』その証拠(しょうこ)に、その地動説を支持したガリレイが宗教裁判(しゅうきょうさいばん)にかけられ、その説を改めるように強迫(きょうはく)された話は、みなさんもよくごぞんじでしょう。さて、これまでの人間の科学は、物質科学の1分野として扱われてきました。
『母と子の心霊教室』つまり人間は物質であって、それから精神が生まれるのだと考えてきました。が、スピリチュアリズムによってそれはまちがいであり、人間はもともと“霊(れい)”であって、その霊(れい)が肉体を道具として地上生活を送っているのだと考えるようになりました。
『母と子の心霊教室』そう考えてみると、すべてがなるほどと納得(なっとく)がいくのです。いってみれば、現代人はコペルニクスと同じ発想の転換(てんかん)が必要となってきたわけです。今までのような物質中心の物の考え方をしていては、スピリチュアリズムは理解できないでしょう。
『母と子の心霊教室』私は高校生のときにスピリチュアリズムを知ってから、30年にわたってこの思想を勉強してきました。数え切れないほどの原書を読み、そのうちの重要なものを翻訳(ほんやく)してきましたが、青少年向けの心霊書(しんれいしょ)としてはこれが最初で、→
『母と子の心霊教室』→しかも最高のものであると信じます。本書によって、みなさんが正しい心霊(しんれい)知識を身につけ、今後ますます多くなっていくことが予想される心霊(しんれい)情報を、正しく判断できるようになってくださることを望んでやみません。
『母と子の心霊教室』それがこの本を書かれたパーマー先生の願いでもあるのです。 1986年5月 近藤千雄(こんどうかずお)
-----
-----原著者のあいさつ
『母と子の心霊教室』【日本語版に寄せて―原著者(げんちょしゃ)のあいさつ】私は英国のある学校の校長先生です。ながいあいだ8才から18才までの少年少女を教えてきましたので、みなさんが“物を知ることがたいへんすきであること”、そしてまた、よくわからないことは→
『母と子の心霊教室』→“何でも聞いてみようとすること”もよく知っております。また私は“人間とは何か”ということを研究する「心霊学(しんれいがく)」について、おとなの人たちにたびたび教えてまいりました。
『母と子の心霊教室』ところがたいへん残念なことに、おとなのための心霊(しんれい)の本はたくさんあるのに、みなさんのような少年少女のための心霊(しんれい)の本がほとんどといってよいほどないのです。これではいけないと思って書いたのがこの本です。
『母と子の心霊教室』ほんとうのことをいうと、私がこの本を書き始めた時は、英国の少年少女のことばかり考えておりました。まさかこの本が、遠い日本のみなさんにまで読んでいただくことになるとは、夢(ゆめ)にも思わなかったからです。
『母と子の心霊教室』ですが、英国の子どものためになるものは、きっと日本のみなさんにもためになるにちがいありません。おしまいにひとつだけお願いがあります。それは、ひと通りこの本を読みおわったら、こんどはこの本に書いてあることを基礎(きそ)として、自分自身でどしどし勉強して→
『母と子の心霊教室』→いただきたいということです。この本に書かれたことは、人間についての知識のほんの一部にすぎません。私にも、書きたいと思いながら書けなかったことが山ほどあるのです。どうかみなさんも自分で本を読んだり実験したりして、人間についてなるべく多くのことを学んでください。
『母と子の心霊教室』そうすれば「死ぬ」ということがつぎの世界への入り口であること、また、今でもその世界のお友だちがみなさんを助けてくれていることが、ますますはっきりとわかってくることでしょう。 1960年4月 チャールズ・パーマー
-----

dreamwork034px.jpg
苦しみは続く…ただ、この道の先に光がある事は信じている…
そう簡単に光に辿り着けない事も十分理解している、そんな事はわかってる…
それでも、涙だけは思考の制御を超えて流れ続けた…
流星のエールに気付く心の余裕もないまま…
※原寸画像放出(A4 size 10.1MB)
spiritualist.sakura.ne.jp/dreamwork034real.jpg

dreamwork035px.jpg
ラッセル気味に雪原を切り裂きながら、ふと見上げた銀河…
その無限の瞬きに誓う…この命の限り、自分の夢を追い続けると…
雪原が極彩色に染まった時、この夢を追う事を許された気がした…
※原寸画像放出(A4 size 12.1MB)
spiritualist.sakura.ne.jp/dreamwork035real.jpg

dreamwork036px.jpg
低温と疲労に打ちのめされた僕のまわりで、円を描き踊る光の妖精たち…
そこに言語のやりとりはないが、ただ、何となく善意を感じる…
もし、妖精たちが疲弊した僕を鼓舞してくれているのなら…
そのやさしさになんとか応えたい、そう思うと力が湧いてくるようだった…
※原寸画像放出(A4 size 9.61MB)
spiritualist.sakura.ne.jp/dreamwork036real.jpg

イエスの弟子達書籍img
「イエスの弟子達」より→22 サウロの回心「さて、私は暗黒と冷酷のうちに閉ざされていたサウロの魂が、主イエスの教えによって息を吹き返した事をお伝えしよう。これはまさに全人類にとって有益であるからである」
「イエスの弟子達」より→「この話は、人間がどんなに多くの罪を犯しても、どんなに邪悪な事をしても、精霊のお恵みによって清められれば、予言者、教師となり、異邦人に真理を伝える器に選ばれる事を示すものである」
「イエスの弟子達」より→「サウロと数人の者がダマスコに向かって出発した。旅行の季節ではなかったので沿道に人影は少なかった。サウロは太陽の暑さにヘトヘトになっていた。何日も眠らずに歩きとおしたからである。その上、出がけには長老達からエルサレムでの失敗を責められて頭にきていた」
「イエスの弟子達」より→「ガマリエルも彼に言った“お前はキリストを根絶しているどころか信奉者があちこちにうろついているではないか。急いで手を打たなければお前の方がやられてしまうぞ!”そんな訳でサウロはくさりきっていた。まるで嵐で折れ曲がった樹の枝の様に彼の魂は参っていた」
「イエスの弟子達」より→「彼に殺された四人の若者が彼のために祈っている姿が目に焼き付いて離れなかった。彼も同行の者も一口も口をきかず目だけが血走っていた。ダマスコに近付いた時、同行の者が殆ど同時に地上に倒れてしまった。彼らは大きな叫び声を聞いた」
「イエスの弟子達」より→「見ると、サウロは両手を挙げ体は地上に倒れていた。サウロの周りには誰もいなかったので同行の者が救助しようと近付くと、穏やかな声が響いてきた“サウロよ!お前はどうして私を迫害するのか”この様な声が三度繰り返された。そして三度目にようやくサウロは答えた」
「イエスの弟子達」より→「しかし彼の言う事は支離滅裂で、何を言っているのか分からなかった。そして再び穏やかな声が響いているのを同行の者が耳にした。彼らは一体誰がサウロに話しかけているのか辺りを探したがそのような者は見当たらなかった」
「イエスの弟子達」より→「周辺には一本の樹もなく視野を遮る物もなく、ただ一本の道路が走っているだけであった。それで彼らは恐怖に襲われサウロを起き上がらせながら言った“先生、一体どうなさったのですか。あの変な声は何者なんですか。先生!私達に教えて下さい!”」
「イエスの弟子達」より→「サウロは目を開いて彼らを見上げながら叫んだ“真っ暗だ!お前達の声は聞こえるが何も見えないんだ!主が私に話しかけたのだ。私は、私が迫害しているキリストをこの目で見たのだ!”彼は今見たばかりの幻について語って聞かせた。同行の者は言った」
「イエスの弟子達」より→「“先生は頭がいかれちまったんじゃないか、ともかくご機嫌を損ねないようにしようぜ”彼らはダマスコのユダスの家にサウロを運んだ。彼らはとにかく数時間か、あるいは一晩過ぎれば良くなると思っていた。次の日になってもサウロの目には何も見えなかった」
「イエスの弟子達」より→「急に襲った暗黒の世界は何よりも恐ろしいものであった。彼の霊性は健全でなかった上に良心の戦いをあまりしなかったので、常に怒りの感情に支配されていた。三日間の間彼は暗黒の世界に横たわったままで、食物は一切のどを通らなかった」
「イエスの弟子達」より→「その間彼は人間の存在の深さをずっしりと感じ取っている。この苦難に耐える事によって少しでも主イエスに償いが出来るならば、たといこのまま死んでもよいと考えるようになった。しかし時として彼に襲い掛かるものは絶望であった」
「イエスの弟子達」より→「彼は自分が犯した悪事を何とか払いのけたいと強く願っていたからである。彼が迫害した人々は皆この世を去っていった。今一番恐ろしい事は、イエス・キリストを信ずる言葉を表明できずに死んでしまうのではないかという事であった。三日目に変化が現れた」
「イエスの弟子達」より→「彼の耳元で再びあの声が響いてきた。その声は彼が異邦人のために主の福音を伝える道を選ぶか、それとも彼のために備えられている道を拒むか、どちらかを選ぶようにとの事であった。彼の霊は躍った。受け入れる用意はできていると叫んだ」
「イエスの弟子達」より→「再び見えるようになるならば、声の命ずる使命を果たすために地の果てにまで参りますと答えたのである“お前が私の重荷を背負って行こうというのなら、お前の行くべき道を指示しよう。それまでは誰とも口をきいてはならない!”」
「イエスの弟子達」より→「一晩中これから起こる未来の幻が次々と与えられた。それはとても奇異なものではあったが今の彼にはその意味を十分に理解する事ができた。ところがある幻の中に、彼が十二使途殺害の密約を結んだ若者たちが出てきた。彼らは、一晩中サウロを呪い続けた」
「イエスの弟子達」より→「彼らはサウロを殺すまでは眠る事も食べる事もしないと誓い合っていた。サウロが多くの人々に、キリストこそ救世主であり死人から復活した事を懸命に教えているサウロに憤慨したからである。他の幻も次々と現れては消えていった」
「イエスの弟子達」より→「それらの幻は全部彼を責めるものであり、彼が縛られムチで打たれ唾を吐きかけられ叩かれるといったものばかりであった。更に幻はどんどん展開し、ついに荒野で飢えに苦しみ悶え、教会を敵視する者から死の苦しみを受けるのであった」
「イエスの弟子達」より→「自分の残酷な死に様が現れ、辺地で殉教の死をとげるのである。全ての苦悩や災難は主イエス・キリストのためにこそ身に負うものである事が示された。一連の幻が終わるとなおも暗闇が続き、再び例の声が響いてきた」
「イエスの弟子達」より→「“サウロよ!選びなさい!お前はこの重荷が背負えるか。お前を待ち受けているものを見たであろう。再び見えるようになった時、お前は課せられた人生を歩むか、それとも今の苦しみから逃げるために死の道を選ぶか”サウロは答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“主よ、私の心は定まっています。私に光を与えて下さい。そうすればあなたに従ってまいります”声は二度と聞かれなかった。その夜のうちにアナニヤという者がユダスの家へやってきて、サウロの顔と目の上に手を当て、見えるようになれと祈った。見よ!」
「イエスの弟子達」より→「たちどころに彼の目は開け、アナニヤの顔が目に映った。サウロは直ちに洗礼を受けたいと懇願した。自分は大罪を犯した人間である事を悔いており、主イエスに帰依したいと熱心に願った。昨日までのサウロは死んでしまった。彼の頑なな心は砕け、心に平和が訪れた」
「イエスの弟子達」より→「彼はキリストに仕える者となった。奉仕の中に真の自由を見出し、霊の憩いを得たのである。サウロが一心になって悔い改めている頃、主イエスはアナニヤに語りかけ、直ちにユダスの家に行ってサウロと名乗る人の目を開くように命じた。アナニヤは言葉通り実行したのだ」
「イエスの弟子達」より→「アナニヤを通して霊の力はサウロの両眼を開き、罪深い魂をすっかり癒してしまった。このようにしてキリストの教えに全く触れなくても一人の男が幼子のような単純な信仰によって救われたのである」
「イエスの弟子達」より→「昔、神殿で学び、パリサイ人としての学問を修めた者が、主イエスの教えの中に真の知恵を見出したのである。以上がサウロの心が癒された物語である。彼が洗礼を受けた時、周りの者がサウロにこれから何という名で呼んだらいいのかと訪ねた。彼は答えて言った」
「イエスの弟子達」より→「“私は卑しい人間です。名乗る値打ちもない男です。しいて名付けるとすれば若き日に私の魂が小さく臆病で愚かであった事を表すものにしたいのです”それで彼は自ら「パウロ」と名付けた。(“小さき者”“小柄な人”の意)」
「イエスの弟子達」より→「後に彼が異邦の地で布教に専念している時、みんなは彼の事を先生と呼んでいた。そう呼ばせる事によって彼は主イエスの前では小さな存在である事、そして兄弟の誰よりも最も卑しい者であろうと努力したのである」

イエスの弟子達書籍img
『イエスの弟子達』【模範とすべき霊界通信の白眉 近藤千雄】霊媒のジェラルディン・カミンズと訳者の山本貞彰氏については『イエスの少年時代』の冒頭で私が必要最小限の紹介をさせて頂いた。本書で、編纂者による<序文>と訳者による<あとがき>で霊媒カミンズについて必要かつ十分な紹介が→
『イエスの弟子達』→なされているので駄弁は控えたい。ただ、とかく死角となりがちな観点から一言述べさせて頂けば、カミンズがもしも心のどこかに慢心を宿し、名誉心と金銭欲に駆られていたら、きっと新興宗教の教祖となり下がって、きらびやかな神殿をうち建て、歯の浮くようなお説教を→
『イエスの弟子達』→のたまっていた事であろう。が、神の道具としての霊媒の身分を弁えていた女史は、終生その立場を忘れる事なく、神の僕としての使命に徹した。モーリス・バーバネル、ハリー・エドワーズ、エステル・ロバーツ、その他スピリチュアリズムの多くの霊媒・霊能者についても→
『イエスの弟子達』→同じ事が言えよう。こうした真の意味での“神の使者”はその謙虚さゆえに、とかく目立たぬ存在となりがちである。そして一部の理解者を除いて、その真価を知る者は極めて稀である。しかし真理とはそういう人たちの存在があって初めて地上に根づき、後生へと引き継がれて行く→
『イエスの弟子達』→ものなのである。さて本書を読んで、まず編纂者の顔ぶれとその格調高い「序文」に圧倒される。彼らはただの編纂者ではなく、この霊界通信の真実性の“証人”なのである。先入観をひとまず脇に置き、事実は事実として自動書記の行われる現場に立ち合い、綴られた文章の内容の→
『イエスの弟子達』→信憑性を学問的に徹底的に検討し、その上で“正真正銘”の折り紙をつけたのである。霊界通信はまさしくこうした率直さをもって理知的に分析する態度、俗な言い方をすれば“疑ってかかる”事が大切である。もとよりそこに偏見や邪心があってはならないが…。
『イエスの弟子達』それに加えてもう1つ大切なのは、その内容が果たして霊から教わるほどの価値のあるものかどうか、という判断である。その点においても本書は、編纂者にも訳者にも“なるほど”と思わせる圧倒的な説得力をもった事実の連続のようである。
『イエスの弟子達』謎とされてきた聖書の欠落部分がみごとに埋められているというのである。霊媒が勝手にそう主張しているのではない。キリスト教の牧師や聖書研究家、それに心霊研究家が、それもたった1人や2人ではなく実に20数名も証言しているのである。
『イエスの弟子達』こうした専門的な学識と良識とを兼ね備えた人たちによる鋭い分析と理解、そして山本氏の達意の訳文が、クレオパスという、一般の日本人には馴染みの薄い初期キリスト教時代の霊からの通信を、興味ぶかしくも信頼の置ける読み物としてくれている。
『イエスの弟子達』山本氏は大小あわせて数冊からなるクレオパスシリーズの中から3つの大きい通信を選び、その中でも最も大きい1冊を2巻に分けられた。本書はその前半である。その中で使徒パウロの回心に至るいきさつが語られ、後半でその後の伝道活動が語られる。
『イエスの弟子達』これが第2巻で、さらに第3巻でジュリアス・シーザーへの直訴がテーマとなって展開し、そして第4巻で暴君ネロの悪行とローマの大火というクライマックスを迎える。そこには映画化してもよさそうな人間味たっぷりのドラマチックなシーンが展開する。
『イエスの弟子達』訳者の山本氏は以上の4巻でイエスの弟子達の聖書時代の真実の行状をテーマとしたシリーズとし、他方、既刊の『イエスの少年時代』と、これから手掛けられる『イエスの成年時代』の2巻でイエスの実像に迫るという雄大な構想を立てておられる。
『イエスの弟子達』既に形骸化してしまった在来のキリスト教に訣別された山本氏が奇しくもこうした霊界通信の翻訳によって真実のキリスト像とその教え、及びその弟子達の行状を日本に紹介する事となった。
『イエスの弟子達』これはまさしく山本氏の信仰的復活というべきであり、氏の仕事がこれからさらに他の大勢の読者を霊的に蘇らせていく事であろう。この歴史に残る画期的な訳業の完成・成就の日の到来を、心から待ち望んでいる。
-----

イエスの成年時代書籍img
『イエスの成年時代』【求道者としての極限を生きた“人の子”イエスの実像  近藤千雄】前巻の『イエスの少年時代』のあと、待望久しかった本書がついに刊行の運びとなって慶賀に堪えない。同時に、前巻に引き続いてこの私がその巻頭を飾る一文を訳者の山本貞彰氏から依頼されて、→
『イエスの成年時代』→それをこの上ない光栄に思いつつ筆を執った次第である。本書のもつ意義については2つの視点があるように思う。1つは、従来の聖書(バイブル)の記述を絶対としてそれのみに頼ってきたイエスの実像とその行跡を見直すという視点である。
『イエスの成年時代』が、これについては山本氏が“訳者あとがき”でご専門の立場から述べておられるので駄弁は控えたい。『主の祈り』についての“訳者メモ”などは永年の体験があって初めて気づかれるところであろう。これは在来の聖書が、インペレーターやシルバーバーチその他の高級通信霊が→
『イエスの成年時代』→異口同音に指摘しているように“人為的な意図に基づく寄せ集め”である事を“語るに落ちる”式に、はしなくも露呈されている興味深い証拠と言えよう。もう1つの視点は、そうした通信霊が述べているイエス像とその行跡との比較という視点である。
『イエスの成年時代』キリスト教の専門家でない私はどうしてもそこに視点を置いて読むところとなった。私が“3大霊訓”と称しているモーゼスの『霊訓』(正続)、オーエンの『ベールの彼方の生活』(全4巻)、そして『シルバーバーチの霊訓』(全12巻)が申し合わせたように強調している事は、→
『イエスの成年時代』→“スピリチュアリズム”の名のもとに進められている現代の啓示と人類の霊的覚醒事業の中心的指導霊が、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物だという事である。これをすぐに“同一人物”とするのは早計である。
『イエスの成年時代』1個の高級霊が幾段階にもわたる“波長低下”の操作の末に母マリヤの胎内に宿り、誕生後それが肉体的機能の発達とともに本来の霊的資質を発揮して、そこに人間性をそなえた“ナザレ人イエス”という地上的人物像をこしらえた。
『イエスの成年時代』その幼少時の“生い立ちの記”が前巻であり、いよいよ使命を自覚して当時のユダヤの既成宗教の誤りと、その既得権にあぐらをかいている聖職者の堕落ぶりを糾弾していく“闘争の記”が本巻である。こうした救世主的人物の生い立ちや霊的悟りへの道程はとかく超人化され、→
『イエスの成年時代』→凡人とはどこか違う扱いをされがちであるが“十字架の使者”と名のる通信霊の叙述するイエスの生涯は、どこの誰にでもあるような、いや、それ以上に人間臭い俗世的喧騒に満ちており、また苦難の連続であった。
『イエスの成年時代』兄弟間のいさかい、親の無理解、律法学者やパリサイ人による怒りと軽蔑、同郷の者による白眼視―最後は“浮浪者”扱いにされるまでに至っている。「イエスの成年時代はこのようにして孤独の体験から始まった。イエスは故郷の人々に心を傾けて天の宝を与えようとしたのであるが」→
『イエスの成年時代』→「彼らはそれを拒絶したのである」という一文には胸をしめつけられる思いがする。しかしイエスはそうしたものを全て“魂のこやし”として霊性を発揮していき、愚鈍で気のきかない平凡な少年から“威厳、あたりを払う”風格をそなえた成年へと成長していく。
『イエスの成年時代』そこには求道者としての極致を生き抜いた姿が彷彿として甦り、2千年後の今、こうして活字で読むだけでも、その意気込み、精神力、使命への忠誠心に圧倒される思いがする。シルバーバーチが、人間的産物である“教義”を棄ててイエスの生きざまそのものを模範とするように→
『イエスの成年時代』→ならない限り人類の霊的新生は望めないと述べている言葉が思い出される。そのイエスが死後、物質化現象でその姿を弟子たちに見せて死後の存在を立証してみせたあと、地上的なほこりを払い落として本来の所属界へと帰って行った。
『イエスの成年時代』マイヤースは『個人的存在の彼方』の中でイエスの死後に言及してこう述べている。「ナザレ人イエスにとって中途の界層での生活は必要でなかった。彼は一気に創造主と一体となった。彼は地上に生きながら既に神だった―全宇宙をその意識、その愛の中に包摂するだけの」→
『イエスの成年時代』→「霊力をそなえていたのである」そのイエスが“私はまた戻ってくる”の預言どおりに、人類浄化の大事業の総指揮者として今その霊的影響力を全世界に行使しつつある。それが各種の霊界通信、奇跡的心霊治療、自由解放の運動となって現われているのである。
『イエスの成年時代』この2巻に描かれたイエス像は、私が理解した限りでは、高級霊界通信が述べている事と完全に付節を合わしている。その1つ1つについて解説している余裕はないが、1つだけ誤解を解く目的で付言しておきたい事がある。それはマリヤの処女懐胎である。
『イエスの成年時代』前巻の8章で“神秘の受胎”として語られているが、私はこの章を読んだ時“やはり”という印象を受けた。私は生命の発生は、人類も含めて、どの種においても2つの性の生じない段階で行われたと考えている。それは物質化現象というものが実在する事を見れば明らかに可能な→
『イエスの成年時代』→事である。両性(男女・雌雄)による発生・誕生の仕組みは、それぞれの性がそれを可能とする段階まで発達したのちの事であって、それまでは幾通りかの“霊の物質界への顕現”の仕方があったはずである。少なくとも心霊学的には処女のまま懐妊するという事は有得るのである。
『イエスの成年時代』ではなぜシルバーバーチはイエスも普通の人間と同じように生まれたと言い、そこに奇跡はなかったと述べているのかと言えば、それは“処女懐胎だから聖純”とする誤った考え、言いかえれば性(セックス)を罪悪視する間違った認識を増幅させないための配慮があると→
『イエスの成年時代』→私は考えている。『霊訓』のインペレーターは“人間に知らせぬ方がよい事、知らせると害がある事”がたくさんあると言っている。人生学校の1年生、もしかしたら幼稚園児にすぎないかも知れない我々地上の人間の事であるから、そういう事は当然考えられる事である。
『イエスの成年時代』シルバーバーチもある日の交霊会で“イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか”と聞かれて次のように答えている。「そんな事について私の意見をご所望ですか。どうでもいい事ではないでしょうか。大切な事はイエスが何を説いたかです。(中略)」→
『イエスの成年時代』→「私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせる事です。人間はどうでもよい事にこだわり過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。(後略)」
『イエスの成年時代』さて最後に注意を促しておきたいのは、ギブス女史の存在である。モーゼスにはスピーア博士夫人、バーバネルにはシルビア夫人、イエスにはおばのマリヤ・クローパスの存在が大きな意義をもったように、このギブス夫人の理解と協力なくしては、こうした価値あるものは→
『イエスの成年時代』→生まれなかったであろう。表にこそ出ないが、中心的人物よりも往々にして側近の人物の方が大きな存在意義をもつ事があるものである。いくら偉くても人間は1人では何もなし得ないのである。本巻の最後にチラリと顔を出すクレオパスという弟子は、のちに“クレオパスの書”→
『イエスの成年時代』→の題で一連の通信を送ってくる事になる。その第1巻がすでに『イエスの弟子達』と題されて刊行されている。何だか2千年前の大きなドラマが今になってビデオテープを見るように再現される感じがして、心躍る思いがする。山本貞彰氏の一層のご健闘を祈りたい。
-----
-----序文
『イエスの成年時代』【序文】詩人のウイリアム・ブレイクは、いくつかの詩が『使者』からの口述である事を強く主張している。そして次のような言葉で語られている。「私は使者の秘書であり、真の作者は、永遠の大霊である」と。同じように『イエスの成年時代』も、→
『イエスの成年時代』→私の目の前で“十字架の使者”からジェラルディン・カミンズに口述されたものである。カミンズが、パレスチナ地方に行った事があるのではないかと尋ねられる事があるが、彼女は、一度もそんな経験はない事を、神名に誓って読者諸氏に言明しておく。 E・B・ギブス
-----
-----主な登場人物
『イエスの成年時代』【主な登場人物】エルダト…故郷を追われ失意のイエスを暖く迎え入れた農夫 アサフ…イエスを心から慕い続ける薄幸な障害者 ユダ…盗賊の首領に残された唯一の実弟、イエスの弟子 ヨハネ…イエスの最愛の弟子。稀にみるすぐれた霊覚者
『イエスの成年時代』ヨエル…人里はなれた山岳地帯に住む野人 ナタニエル…ヨエルの孫、ナタンの従兄弟。敬虔な信仰者で、後にバルトロマイと改名する シャンマイ…民衆の信望を集めていた、エッセネ派修道会の創設者 ヨナ…ペテロの従兄弟で、ユダの友人
『イエスの成年時代』マルコ…ペテロの親戚にあたる若者で、イエスを慕う ピラト…当時のユダヤを統治していたローマ総督 アリマタヤのヨセフ…ユダヤ国会議員の1人で、ピラトと親交があり、人目をしのんでイエスに師事していた人物
-----

ar7_akito

幽体離脱から帰還後、トランスを維持して1番目に降ってくるインスピレーションがとても重要なのですが、昨日の1番目は「幽界K人」でした。これは僕が幽界K人されるという意味ではなく、僕のブログが相当の驚きをもって読まれ、ある女性の父親と兄、さらにその父に影響力を及ぼしたという事です。
01-26 15:11

昨日のトランス時、とにかく凄かった。休みなくインスピレーションが降りまくり、僕は忘れないよう必死にクロッキーにメモるのでした。特に幽体離脱が凄かったのです。少し幽体離脱して帰還、時計を見ると20分が経過してましたが、離脱中の体験は10時間とも言える膨大な内容だったのです(祈)
01-26 14:59

アタック帰還。出発前に受取らせた頂いたインスピレーション、情報量が膨大すぎて頭の中で整理するのが大変です。が、クロッキーを読返すほどに、ある女性の肯定的思念が溢れているのです。僕の事がイヤになって幽界K人しようとしたのではなく父親とその兄に言われて首をタテに振らされたんですね。
01-26 14:32

ブログ、ツイッターで何度か書いていますが、僕はこの“霊的知識普及の使命”が終了して無事帰幽を果たした暁には、霊界において僕にひたすら正反対のメッセージを送り続けた方々とは共に暮さず、当分の間は動物たちと暮したいと宣言しています。現在でもその想いに大筋変りはありませんが、僕がこういう考えに到達して以降、幽体離脱にて“動物たちとの出会い”が複数あったのです。その出会いがとても印象深いものでしたので、今回まとめて紹介させて頂こうと思います。
まずは“カラス”との出会いです。僕はある境涯のある家の中にいました。その広い家の中には沢山の人間がいて、さらに沢山の小鳥たちもいました。その中には僕が以前飼っていた白文鳥のユキもいました。しかし、その時僕が訪れた境涯は明らかに“低い”境涯で、物質を所有する事に満足を得る段階から抜け出せていない人間たちから発せられる何とも言えない“不愉快”な雰囲気が家中を包み込んでいたのでした。
僕は周りの人間が小鳥たちにひどい事をしようとするのを何とか止めようと必死で、不愉快な気分に包まれつつも何とかその人たちに言って聞かせようとしてました。ユキもその低い境涯の雰囲気に呑まれてしまっている様子で落着きがなく、僕はユキを手の中に包み込んで撫でながらなだめたりするのでした。そんな混沌とした空気に包まれた家の中で、僕の真横、窓際に1羽の“カラス”がいました。
その場全体が何とも不愉快な雰囲気に包まれている中、そのカラスだけは明らかに他の人間たちとは違って、威風堂々としていて落着き払っていたのです。窓際に座りながら冷静に家の中全体を見ている…そんな風にさえ見えたのでした。明らかにこのカラスはこの界より上の界の住人だ…僕はそう確信しました。そのカラスの落着いた雰囲気、そして黒く美しい羽(黒といっても様々な色彩が混じりあった美しい黒なのです)に、僕は強烈に惹かれたのでした。
その後、物質を所有する事でしか満足を得られない粗野な集団が家の中に大勢進入してきて家の中が騒然となったため、僕は急いでユキを鳥かごの中に避難させ、窓を開けてカラスに向って「ここは危険だから離れた方がいい」と思念を送りました。その思念を受けてカラスは空へ飛び立って行ったのでした。
その後のすったもんだは省略します。とても不愉快な結末でしたので。ただ、あの美しいカラス(ハシボソガラスだと思います)の、ステージの違いを思わせる堂々とした雰囲気が僕の心に強烈に残された、という事だけ記しておきます。
そして実は、僕が霊性発現してから初期の頃、2012年秋頃だと思うのですが、その頃にも一度カラスとの出会いがあったのです。それについてツイートした内容がありますのでそれも合わせてご紹介します↓
-----
どういう鳥かは分からないのですが以前幽体離脱中に黒い鳥と出会い、馴れて僕の手に乗ってて可愛かったのですが、珍しがってたくさんの人が押し寄せてきて黒い鳥を見回してメチャメチャにするので「ちょ、お待ちなさいっつーの!」ってその黒い鳥を抱いてかばった事があります。会えるかな?(祈)
以前幽体離脱中に出会った黒い鳥、野鳥図鑑で調べましたがやはり「ハシボソガラス」かなぁ?「オウチュウ」にも少し似てる(考)カラスは最高に頭の良い鳥です♪ユキ共々一緒に暮らしたりできないかなぁ、できるだけ鳥達と身近に接しながら暮らしたいんです、思念描画の役に立つはずですから(祈)
-----
…はい。この時も今回と似たような境涯でした。あまり雰囲気の良くない低い境涯だったのですが、このカラスはおとなしく僕の手に乗っていて、とても可愛かったのです。僕は鳥が好きで絵のモチーフとしても度々使用していましたので、鳥の身体や羽の構造にとても興味があり“良かったらキミの羽の構造を見せてくれないかなぁ?”ってカラスに思念を送ったら、そのカラスは僕の思念に応えて羽を大きく広げて見せてくれたのでした。
で、その後の展開は上記に紹介した通りです。その境涯に暮す人々がワラワラと集まってきてカラスをもみくちゃにしようとして僕が必死にかばう…そんな感じの幽体離脱だったのです。以前の出会い、そして今回の出会いで、僕はカラスという鳥にとても好感をもちました。帰幽後はぜひカラスと行動を共にしてみたいものです。
次は、あるチンパンジー(だと思うのですが)との出会いです。その時、幽体離脱して赴いた境涯も正直あまり心地の良い境涯ではなく、僕はある家の中にいたのですが、その家の面々から発せられる思念、感情のようなものが僕に何とも言えない不快感を与え、僕はその家から必死に出ようとしていました。
すると、ある開け放たれた窓からコソコソ隠れ動くような人影が見えました。よく見ると身長は人間と同じなのですが外見はチンパンジーのような感じで、前かがみ気味で歩いていました。そしてそのチンパンジーが抱く思念が僕に伝わり(そのチンパンジーを見ていた窓はキッチンの窓だったのですが)どうやらキッチンに置いてある豆のパックを欲しがってる様子だったので、僕は窓越しにその豆のパックをホラ、と言って投げてやったのでした。
その後、僕は家の出口を見つけ、ようやく脱出する事ができたのですが、その僕の背中に何かがポツ、ポツ、と当たるのです。振返って見ると、壁に半身を隠しながら、さっきのチンパンジーが僕があげた豆を1粒、また1粒と背中に向けて投げていたのでした。その時チンパンジーから感じた雰囲気はイタズラ好きな、楽しい、愉快な雰囲気でした。僕はこのチンパンジーに悪意が無い事を瞬時に感じ取り、そのイタズラに付き合うつもりで「コラー!待てー!」とか言って笑顔でチンパンジーを追いかけました。
チンパンジーも楽しそうな雰囲気を全身から醸し出しながら逃げて行きます。まるで「ボクと遊んでよぅ」とでも言ってるかのような感じがしたのです。そして程なくして僕はそのチンパンジーを捕まえ、向き合って両手を掴みました。その時、僕とチンパンジーを楽しい、嬉しい、愉快な、何とも言えない雰囲気が包み込んだのでした。あの、チンパンジーと手を取り合った時に感じた楽しい雰囲気、空気感がものすごく強烈に僕の心に残って、今でも忘れられないほどです。本当に強烈な体験でした。
そのチンパンジーとの出会いの後、さらに別の場所である“馬”と出会いました。しかし、その馬はとても馬とは呼べないほどの“超巨大な馬”だったのです。その超巨大な馬が僕の目の前で、いわゆる“伏せ”をしてくれて、首も頭もピタリと地面に付けたのです。馬がそのポーズを取ってくれてもなお、僕はその馬の瞳を見るために見上げねばならないほどの頭の大きさだったのです。
古いたとえで本当に申し訳ありませんが(謝)かなり古い映画「ネバーエンディングストーリー」に登場する白い龍“ファルコン”の頭よりもさらに大きな頭だったのです。その巨大な頭から、全身の大きさを推察して頂きたいです。何故そんなに大きかったのかは分りません。チンパンジーの身長が人間と同じだった理由も分りません。ひょっとしたら霊界において動物たちは巨大化するのでしょうか?しかしこれは全く自身をもって言う事はできません。
そして、その伏せてくれている馬から“私に乗ってみる?”という感じの思念を僕は感じ取ったのですが、高すぎて登るに登れず、僕はじっとその馬の瞳(左側の瞳)を見上げていました。その馬の、大きいですが何とも言えない“優しいまなざし”を見つめながら僕は、あのまなざしは母馬が仔馬に向けるまなざしそのものだと感じました。とても優しい雰囲気に包まれていたのでした。…が、結局僕はその超巨大な馬に乗らずに離脱が終了してしまい、僕の霊体は肉体へと引き戻されたのでした。
…はい。どうだったでしょうか。僕は霊性発現以降、自分が体験してきた霊的事象についてトコトン公言しまくって来ていますが、今回のブログはその中でもかなり特殊な内容なのではないかと思います。僕が幽体離脱にて出会った動物たち、みな愛すべき素敵な動物たちでした。本当に素晴しい体験をさせて頂きました。帰幽後、再び今回のように動物たちに触れ合ってみたいものです。
-----
霊界の方々からことごとく僕の心と正反対のメッセージが降り続けて、本当にこんな事を言ってはいけないのですが、正直僕は最高に嫌気がさしていました。そして帰幽後は、僕に正反対のメッセージを送り続けた方々とはお会いしたくない、僕は当分の間、本当に当分の間、僕に正反対の事を言ってこない動物たちと暮しながら、心静かに、自分のペースでゆっくりと思念描画の練習に取掛かりたいと願い、何度も霊界の方々にそう宣言していたのでした。
その宣言と時を同じくして、幽体離脱にて複数の動物たちとの出会いがあった訳です。この出会いはもちろん僕の背後霊団による演出であり、僕の心理状態をかんがみて動物たちとの出会いを用意して下さった訳です。この“演出”にはどういう意味があるのか?簡単です。幼い子供が泣きやまない時、お母さんはどうしますか?その子のお気に入りのオモチャを与えてなだめますよね?そう、今回の動物たちとの出会いは、泣きじゃくる子供(僕)をなだめるために霊団がオモチャ(動物)を与えた…まさにこういうシチュエーションなのです。
今回の複数の動物たちとの出会いは、僕に大きな喜びを与えてくれたとても素敵な体験だったのですが、ただひとつ残念だったのは、動物たちは本当に素敵だったのですが、その動物たちと出会った“境涯”は、ことごとく低い境涯であった…という事でした。動物たちが高い境涯にはいない、何て事は決してありません。「ベールの彼方の生活」をお読み頂ければよく分ります。次に動物たちに出会う時は、ぜひとも素晴しい高い界で会ってみたいものだと思いました(祈)

※このブログは、普及会の方々に向けて再度放つ“最後のカード”の内容です。下記のテキストと同様のものを手紙にて普及会のお二人に既に送付しています。普及会のお二人の心にこのカードが届き、サークルメンバーとなって頂き、交霊会が開催されるか否か、重大な分岐に差し掛かっています。さぁ、どちらに傾くのでしょうか。では普及会以外の方々もご覧下さい↓
-----
僕を霊媒として交霊会を開催するためにどうしても必要な“サークルメンバー”を集めるための“最後のカード”が前回のやりとりにおいて空を切り、僕の帰幽が再度決定したのでした。しかし帰幽に向けて山にアタック中に強烈なる“回心インスピレーション”を受取ってしまった事で、僕は帰幽寸前でまたしても地上に留められてしまい、その後いくつかの作業を経て、再び最後のカード、普及会のお二人に向けて手紙を書かせて頂く事となりました。
まずは今回送付しました内容物を紹介させて頂きます↓
-----封書の内容-----
■手紙4枚
■僕が山へアタックしている時の写真3枚
■僕の作品を印刷したポストカード2枚
■履歴書
■免許証のコピー
-----
日本のスピリチュアリズムの最前線を歩んでおられるお二人が、僕が背負ってしまった“霊的知識普及の使命”の意味の重大性、イエス様を総指揮官としたスピリチュアリズム普及活動の重大性を理解できないはずがありません。それでも前回、最後のカードが空を切ってしまった理由は、やはり“僕のキャラクター”にあるのではないか…現時点でそういう予測に達しています。僕のキャラクターなどという小さな地上的問題は、これから始まる仕事の重大性をかんがみてお二人にはぜひ飛び越えて判断して頂きたかったのですが、どうにも好まれていない空気感を感じていますので、今回はお二人に僕という人間を少しでも知って頂こうという思いで、渾身の力を込めて“自己紹介”をさせて頂きたいと思います。
まずは学生時代から画家活動に突入するまでをごく簡単にご紹介します。中学生の時はバレーボール部に所属し、セッターをやっていました。思わぬ体勢から思わぬ方向にトスを上げる僕に、スパイカーの先輩方が「お前のトスはトリッキーすぎてわかんねーよ、敵のブロックをだませよ、味方の俺たちまでだましてどうすんだよ」と半笑いで僕をからかったものでした。また、けん玉に夢中になって相当の練習をしました。現在でもまぁまぁ難易度の高い技ができます。得意技は段の技“回転灯台”です。
高校3年の時の文化祭で“仮面ライダーSHOW”の怪人役をやり、段ボールで作った鎧を着て顔にペインティングを施し、校舎内の広間でライダー役の男と大格闘戦を演じました。そしてその年の文化祭の賞を受賞したのでした。そして幼少の頃から絵を描く事が大好きで、1日たりとも絵を描かなかった日がないほど絵を日々描き続けていた僕は、何の迷いもなく高校卒業と同時に“漫画界”に身を投じたのでした。
複数のアシスタント経験を経つつ自分の作品を描き続け、“藤子不二雄賞”で入選を果たし、何とか連載にこぎつけましたが、児童向漫画では“オリジナル作品”が描けないという事実を知って大いに苦しみました。オモチャとのタイアップ漫画が主流だったからです。僕は“自分の作品”が描きたかったのです。その思いが障壁となって結局連載は短期で終了してしまい、僕は心に大きな傷を負って漫画界を去りました。
その後、コピック(色数多彩なマーカー)と水彩アクリル絵具でフルカラーの絵本を数冊描きましたが、この経験でアナログの画材での色彩表現の限界を痛切に感じ、PCを画材として使用した“デジタル色彩表現”をどうしてもやりたいと強く思うようになりました。僕がパソコンの勉強を始めたきっかけは“インターネットをやりたい”ではなく“デジタルの美しい絵を描きたい”だったのです。僕の心の中は“いつか自分の作品をデジタルで思いのまま描いてみたい”という夢でいっぱいになっていきました。
そしてPCの勉強に明け暮れながら、小さなパソコン教室の講師をしつつ更なる学習の場を求めて派遣登録し、その派遣会社から最初に紹介されたのが、何がどうなっているのか“○○○○。○○○○○社”だったのです。漫画家あがりで社会経験の乏しい僕は、その職場で大いに苦しい思いを味わいました。女性上司との激しい確執にもがきつつも、僕は自分のデザインの能力を発揮し続け、その女性上司と開発に取り組んでいた携帯電話アプリ“Feel*Talk(フィール・トーク)”が、その年のグッドデザイン賞を受賞したのでした。
その後さらに複数のデザイン関連の仕事を経験し、様々なデザイナーのスキルに触れ、PC関連の書籍も相当数読みあさった事で僕のデザインスキルは確実に上昇していったのでした。“自分の作品をデジタルで思いのまま描きたい”この夢が次第に現実味を帯びていき、僕はこの夢の事を“Dreamwork(ドリームワーク)”と呼んで、いつかあらゆるものをかなぐり捨ててドリームワークに突入しようと試行錯誤を繰返していたのでした。そしてついにドリームワークに突入した…それ以降については2014年1月に書いたブログ「ドリームワークについて」をお読み頂きたいと思います。
そしてドリームワークにおいて僕は果てしなく山にアタックし続け、自分の作品を一切手を抜く事なく高負荷に描き続けるという生活を苦悶に顔を歪めながら続けたのでした。そして…ついに…“霊性の発現”となったのです。。。
…はい。僕が霊性発現して、画家活動を我慢して現在のような活動をするに至った経緯を簡単ではありますが紹介させて頂きました。普及会のお二人、どのようにお感じになられたでしょうか?僕という男が、宗教的活動と全く!全く!縁のない、全然関係のない、ただ絵が大好きで自分の作品を思いっきり描きたかっただけの男である事が少しでも理解して頂けたでしょうか?僕は現在“霊覚者”などと名乗ってこそいますが、本来の僕、本当の僕はあくまでも“画家”であるという事を分って頂けると、僕は本当に嬉しいです。
そして手紙と同時に送付しました品々についても軽く説明させて頂きます。まず写真3枚ですが、これはいずれも標高2500m以上、樹木が生育できない“森林限界”という境界をオーバーした稜線上にて撮影したものです。普及会のお二人、その写真をご覧になっていかがでしょうか。僕が毎週果てしなく行っている“山へのアタック”が、ホンのおふざけ、お遊び、軽い気持で行っているように見えますでしょうか?僕は本気でアタックしています。毎週、自分に対して可能な限り高い負荷をかけ、自分の全存在をかけてアタックしているのです。この山へのアタックも、僕の霊性発現につながった重要なファクターなのです。
次にポストカード2枚ですが、■035 スターゲイザー と、■042 銀河樹 を送付させて頂きました。画家時代にイベントで販売するために準備していたカードです。特に“銀河樹”の方はA2作品であり、原寸画像はとても、とても、巨大です。ポストカードの大きさではとても細かい部分まで見る事はできませんが、まさかA2作品を送り付ける訳にはいきませんので、ポストカードにて同梱させて頂きました。その大きさでは伝わらないかも知れませんが、普及会のお二人、ご覧になっていかがでしょうか。僕がドリームワークに突入して、あらゆるものを犠牲にして渾身の力を込めて描いた作品です。その作品がホンのいい加減な気持で描いた作品ではないという事を、お二人に理解して頂ける事を願ってやみません。
さらに僕のプライバシーに触れるような書類も送付させて頂きました。履歴書、及び免許証のコピーです。交霊会開催が叶うなら、イエス様の悲願が叶うなら、僕などという男のプライバシーなど安いものです。どうぞご覧になり、どうしても腑に落ちないようでしたら僕の犯罪歴でも何でも調べて頂いて結構です。スピード違反で2回捕まってゴールド免許ではなくなってしまいましたが、それ以外は至って“真っ白”だと僕自身は思っています。どうにもこうにも僕という男、キャラクターが信用するに足りないという事でしたら、どうぞお二人のお気の済むまで調査して頂きたいと思います。
僕はここまで晒しました。今の僕は鎧も盾も投げ捨て、ほぼ素っ裸の状態でお二人の前に仁王立ちしています。僕は霊性発現直後に、霊団の方々に向けて“フルオープン宣言”をしていますので(僕の心の中をどうぞ全て見ちゃって下さい、という意味です)普及会のお二人にも僕の全て、とまではいかないでしょうが可能な限り、プライバシーに少し触れる部分までも紹介させて頂きました。いかがだったでしょうか?僕という男の“人間性”について、ホンの僅かでも理解する助けとなったでしょうか?
ついでにもうひとつ、ごく最近の僕の顕著な傾向としてこのふたつが挙げられると思います↓
-----
■すぐ泣く
■感情に任せてツイートする
-----
これは、本来の僕、画家という“個性”を殺し続けて元々の自分とは全然違う現在のような活動を、イエス様の怒涛の連続顕現をきっかけに行う事になってしまった僕の、心の“潜在的反応”なのでは…と思ったりもしています。
普及会のお二人へ。お二人が交霊会を開催する事の霊的意義を正しく理解しておられる事は疑う余地がありません。今回、このような形で僕という小さなチリの一粒の男の紹介をさせて頂きましたが、どうか、どうか、大局的霊的視点に立ち、僕というつまらぬ男のキャラクターを飛び越えて、ぜひともサークルメンバーになって頂きたいと思うのです。何度も書いていますが、僕の事で気に入らない事がありましたら、どうぞいくらでも普及会のサイトで徹底的に糾弾して頂いて構いません。が、この仕事だけは、この霊的使命だけは、何としても遂行せねばなりませんので、どうか、どうか、お二人がこれまで獲得してこられました正しき霊的知識に照らし合わせて、正しい判断をして頂きたいと強く強く願っています。
上記にて説明しました通り、僕はこういうキャラです。“撃って出る”と称してこれまで果てしなく公言の限りを尽してきました。今後も撃って撃って撃ちまくります。シャウトも決してやめません。僕はずっと“一歩も退く気はない”と発言し続けています。普及会のお二人にこれだけは言わせて頂きます。僕はいくらお二人に“気に入られない”としても、この人格を変えるつもりはありません。そうでなくても“絵”を奪われて苦悶の使命遂行を余儀なくされているのに、その上“人格”まで奪われてしまったら、僕は完全に人形になってしまいます。普及会のお二人、どうか、僕を人形にするような判断はなさらないで下さい。お願いします。
もう霊界側の準備はすっかり整っているのです。ですから、とりあえず受取っておきましょうよ。それをどうするかは受取ってから考えましょうよ。受取らない事には、その霊言が真実であるか否であるかの判断はできないのですから。僕という道具を通って降ってきた霊言を普及会の方々には存分に吟味して頂き、その上で「これは誤りである」とおっしゃるのであれば、どうぞ普及会のサイトにて「ニセモノ霊媒 たきざわ彰人」という記事でも何でも書いて頂いて結構ですので、とりあえず霊界の方々が準備して下さっている霊言を受取るだけは受取っておきましょうよ。
僕の事は煙たがって頂いて結構ですので、どうか、イエス様の悲願を無に帰す事だけはないよう、この、日本に最新の霊言が、しかも膨大な量のダブルの霊言がもたらされるという“最大級の霊的ビッグチャンス”を無に帰す事だけはないよう、ここに改めて、渾身の力を込めて普及会のお二人にお願い申上げます。僕を霊媒とした交霊会の“サークルメンバー”になって頂けないでしょうか。英国の次は日本で“スピリチュアリズム・セカンドシーズン”が始まるのです。そのためにはお二人のお力がどうしても必要なのです。どうか、どうか、僕のキャラという小さきチリの一粒の問題を飛び越えて、正しい霊的判断を下して頂きたいと思います。では、どういう方法でも構いませんので、レスポンスをお待ち致しております。
心の底から、宜しくお願い致します。
山を愛する画家 たきざわ彰人
-----
○○○.○○○@○○○
-----
※はい、こんな感じで“徹底自己紹介”ともいうべき内容を手紙にて送付させて頂きました。僕の小さな事象などはもうどうでもよいのです。上記の“交霊会開催が叶うなら、イエス様の悲願が叶うなら、僕などという男のプライバシーなど安いものです”のテキストを撃った次の瞬間、ピィィィンって、いつも受取らせて頂いている高い波長が霊聴に響いたのでした。イエス様…ありがとうございます…(感謝涙)
交霊会開催なるか、日本に最新の霊言がもたらされるのか、それともやはり僕の帰幽が実行に移されるのか…本心は帰幽カモンだけど普及会の方々サークルメンバーカモン(祈)