痛みを和らげてくれるはずのコルセットが私に地獄の苦しみを与えていた。まさしく現代の鎧(よろい)である。背部は部厚い固いプラスチックで出来ている。それがぴったりと当てがわれ、首のつけ根から足の先までガッチリと固定している。
前の部分は、かつて海軍の製帆業者がステッチ台にしたキャンバスで出来ている。このオバケのような医療器具にはめ込まれた私の全身は、さらに、中世の拷問の責め道具やクラッシックカーのボンネットの固定に使われた“なめし革”で、がんじがらめに縛り上げられていた。
その苦しみに耐えることは、まさしく地獄の1丁目にいる思いだった。なにしろ全身がその器具の中にガッチリとはめ込まれている。自分のからだのどこ1つ動かせないのだ。生きるための最低限の活動である呼吸をすることすら容易なことではないのだ。
といって、その器具をゆるめようものなら、前にもまして耐え切れない激痛が走る。とくに右の太ももから足の先までが燃えるように痛む。私はワナにはまった動物も同然だった。
そもそもこんなことになったキッカケは、私が柄にもないことをやり始めたことにあった。私はもともとスポーツをする柄ではない。運動がしたくなったら、ベッドに横になってラクにしていると、そのやりたい気持がいつの間にか消えてしまうのが常だった。
ところが何を思ったのか、ある時ゴルフをやってみる気になった。どう記憶を辿っても、その理由がわからない。知り合いにゴルフをやる人間が特に多いわけでもない。むしろ私はゴルフに夢中になる人間を気の毒に思っていたほどである。
まるで人生に希望を失った者が、ああしてブラブラと時間をつぶす一種の中毒患者だぐらいに思っていたほどである。そんなスポーツに私が手を出し、挙げ句の果てに私の人生を変えてしまう体験をさせられることになったのであるから、なぜ選りに選ってゴルフを始めたのかがわからないというのが不思議なのである。
偶然でなかったことだけは確かである。なぜなら、この世に偶然というのはないからである。アナトール・フランスの言葉を借りれば「偶然とは神が署名したくない時に使う偽名である」というが、私もその通りだと思う。突如として、しかもこれといった理由もなしに、私はゴルフを始めていたのである。
サセックス州にある私の住いの近くにはいくらでもゴルフコースがあるのだが、1点スキのない服装をしたゴルファーが長々と列を作ってやっている中に混って、自分が最初のティーショットからさんざん苦労している姿を想像するとどうも気が進まず、ロンドンの勤務先の近くにある個人レッスンにまず通うことにした。
練習場はビルの地下室に設けてあった。インストラクターは小柄な人で、懇切ていねいに教えてくれた。まずティーの上にボールを置いて打ってみせた。ボールは猛烈な勢いで真っすぐにネットへ向けて飛んでいった。続けてもう1発打ってみせた。さらにもう1発。その人はどこからどうみても平凡な人なので、大したことはなさそうに思えた。
そのあと私の指導に入った。クラブの握り方から始まって両足の位置、目の方向、姿勢と、ひと通りの指導を受けたあと、ゆっくりと打ってみた。こうしたレッスンを3、4回重ねるうちに、私も結構いけるではないかという感触を得た。ただ私のからだの動きがいかにもスローだった。もしもスローモーション賞というのがあるとすれば、さしずめ私などその第1候補だったであろう。
問題はいかにしてその動きにスピードをつけるかにあった。私は古いドライバーとボール1ダースを借りて帰り、スピードをつける練習をすることにした。そして土曜日の午後それを携えて近くの空地へ行った。
私は背の低い、肌の浅黒い、ガッチリとした体格で、ロンドンで生まれサセックス州で育った純粋の英国人ではあるが、地中海の北部沿岸地方へ行けば似たような人間によく出合う。
が、ゴルフに関するかぎり、その“背が低くてガッチリした体格”というのが問題のタネなのだ。というのは、ドライブショットの時は両足を固定し顔が右から左へ向くように急速に腰をひねる – まあ簡単に言えばそういう身体の動きが要求される。そこが問題なのだ。私にはそれがうまく出来ないのだった。
20分ばかり必死にその動きを繰り返した頃、私はえらいことを2つ仕出かしていた。1ダースのボールが全部行方不明になってしまったこと。そしてもう1つは、第4腰椎と第5腰椎の間の椎間板がはみ出てしまったこと。いわゆる椎間板ヘルニアである。
人間の背骨は言ってみれば人体工学の最高傑作の典型である。完璧なのだ。驚異的な重力や圧力に耐えることができる。これを折ろうとすれば余ほどの衝撃を一気に加えなければなるまい。体重よりも重いものを支えながら、どっちの方向でも動ける。
その動きを運動に譬えれば、ウェートリフティング(重量あげ)のクラッチのような運動からアクロバット(曲芸)の捻転運動、そしてバレリーナのあの優雅な動きに至る、ありとあらゆる運動をやりこなす。
脊椎というのは頭部から骨盤に至る言わば骨のチェーンで、1つ1つ形が違っている。その1つ1つの骨の間に円盤(ディスク)と呼ばれる軟骨のクッションがある。円盤の中央部は髄核と呼ばれる物質から出来ており、これが身体の動きに応じて動いてくれる。
クッションの役をしてくれているのである。もしも円盤がなくて骨だけのつながりだったら、ギシギシと気味の悪い音を立てることであろう。車で言えば緩衝器(バンパー)に相当する。円盤はショックを和らげるだけでなく背骨が自由に動けるようにする働きもあるということである。
その円盤が急激なショックや不自然な動きによって骨と骨の間からはみ出ることがある。時には髄核がつぶれることもある。すると肝心の中心部が脱水して位置がずれる。
ずれた円盤がこんどは坐骨神経を圧迫する。坐骨神経は脂肪性の太い神経で、両足まで至っている。それが圧迫されると背中と片足または両足に痛みが出る。脊椎のずれをかばおうとして身体がよじれてくる。
私はまさにその状態に陥ったのである。大体私の身体は長い間の運動不足から、その時すでにかなり柔軟性を失っていた。ロクな準備運動もせずに、いきなり腰をひねったものだから、はずみで第4腰椎と第5腰椎の間の円盤が片側へはみ出てしまった。
しかも髄核がつぶれて水分がほとんど失くなってしまった。それがもとで背骨全体が少しずり下がった。はみ出た円盤が坐骨神経を圧迫する。かくして私の地獄の苦しみが始まった。
腰に激痛が走る。まだ始めの頃は姿勢のとり方次第で – とっぷりと身体が沈められる肘掛イスなら – どうにかその痛みも和らげることが出来たが、和らいだといっても激痛にはかわりない。立っても坐っても横になっても痛い。まるで拷問にあっているようだ。
右脚の臀部から親指にかけて火がついたような痛みが走る。位置をどう変えても少しも和らがない。足先は痛みで完全にマヒし、肌に触れても何の感覚もない。それをかばって屈み込むような歩き方をするものだから、右の臀部(ヒップ)がずれてしまい、右脚が2/3インチほど左脚より短くなってしまった。
病院へ行った。が医者は別段驚いた様子も見せず、専門医を呼んでX線写真を撮った。診察の結果は今まで述べた通りの状態で、治療法としてはコルセットをはめて平板ベッドで寝るしかないということだった。
最初に当てがわれたベルトは厚地のがっちりとした布で出来ていた。その上から、なめし革で被われた鋼鉄製のステーを当てがわれた。さらに背部には鋼鉄製のサポーターで補強した革製のパッドが当てがわれ、前部をサドルレザーの革帯で締めあげられた。
昼間はこの状態でじっとしていて、どうしても歩く必要がある時は杖を使った。なにくそと元気を出そうと気張ってみても痛みには勝てない。夜は平板の上に横になった。
赤いカプセルの鎮痛剤を日に3錠、白と黒のまじった精神安定剤を4錠、そして夜は睡眠薬として黄色いカプセルを2個のまされた。ベッドのわきはまるで薬局だった。が、それらが一向に効かない。痛みが取れないから寝てもウトウトするだけで、ほとんど眠れない。まるで中毒患者だ。精神が安定するわけがなかった。
やがて夏が来た。コルセットが暑苦しくて仕方がない。もともと第2次大戦以来私は神経性の皮膚炎を患っていた。それがこの暑苦しいコルセットを当てがわれて、暑さと汗とで猛烈な痛みが走る。
私はもう頭がおかしくなるほどイライラしてくる。そこで新たに軟膏と一段と強力な精神安定剤がベッドのわきに並ぶことになる。夏も盛りに入ったころ、コルセットが夏用に取り替えられた。
といっても、サドルレザーが汗をよく吸収するシャモア革に、厚地の布が小さい穴の開いた目の粗い木綿の布に取り替えられただけで、型は前と少しも変わらなかった。たしかに少し暑さが退いたようだ。が、弾力性がありすぎるせいか、痛みは前より激しくなった。
その間、私がこの半不具者的状態を平然と耐え抜いてきたように思われては困る。整骨療法、指圧、温熱療法、そしてぶらさがり療法といろいろ試してみたが、どれも効果がなかった。
1年と5か月、私は痛みと不便さと絶望感を忍んだあと、気分転換のために旅行へ出てみようと考えた。1959年8月、家族と共にフランスのブルターニュへ飛んで沿岸の小さなホテルに落ち着いた。
「フランス語なるものを発明した神を私は許せない」と言ったのはピーター・アスチノフだが、私だったら「フランス語」を「フランスベッド」と置きかえたいところだ。そこで過した数日間、私はそのベッドのためにさんざん苦しめられた。
そしてついに病院を訪ねた。診察した医師は絶対入院をすすめた。私も観念して言われるまま従った。さっそく救急車で空港へ運ばれ、30分後には現在住んでいる市のヘイワーズヒース病院の個室に入れられた。
ここでもまた酷い目にあった。私は拷問台というのはもうとっくに使われなくなったと聞いていたが、これはウソだった。ヘイワーズヒース病院にもそれが1つ残っていたのだ。それが、あろうことか、この私のために使われたのである。
ベッドの上に1枚の板が置いてある。その上に横になると、脚を置いている部分が18インチほど上昇する。当然私は頭部の方へ向ってずり落ちそうになる。それを防ぐために吊り革をヒップに巻き、それをロープでつないで、ベッドに取り付けた滑車を通してその先端に重しをぶらさげる。18ポンドと聞いたが、私には何100ポンドにも感じられた。
要するに私の背骨を引き伸ばそうというわけである。頭の方へずり落ちそうになると、ロープがヒップのところを引っぱる。すると腰椎と腰椎の間がゆるむ。その時に円盤がもとの位置に戻ってくれることを期待するわけである。一応面白い実験ではあった。
その状態を昼夜の区別なく3週間続けた。痛みは幾分和らぐが、その姿勢をじっと維持するのは痛いことよりさらに辛く、不愉快でならなかった。例によって鎮痛剤からトランキライザー、鎮静剤、スキンローションと、おきまりのコースをエスカレートしていった。
その状態での入院生活が3週間続いたころ、最初にコルセットをこしらえてくれた専門医が再び現われて背中の湿性の鋳型を取っていった。それでベッドの外で動きまわれる柔軟性のあるコルセットを作るということだった。要するに石膏で固めようという考えだったが、そのころの私の皮膚炎は悪化の極にあり、気も狂うかと思うほどの状態だった。
普通のコルセットなら自分で取りはずしも出来るが、石膏ではそれが出来ない。が、背に腹はかえられない。私はついに背中を石膏で固められ、三か月に及ぶ薬づけの入院生活の挙句に、絶望感を抱きながら自宅での療養生活に入った。
秋になった。私の忍耐もそろそろ限界に来ていた。坐っても、立っても、横になっても、そのほかどんな姿勢をとっても痛みは和らがない。仕事のことなど思いもよらない。だから生活費が入らない。人とも会えない。社会生活が完全に閉ざされてしまった。
そこで私は往診に来た医者に、どこかにこの道の最高権威はいないのかと尋ねた。このままではどうしようもない。何とかして最高の腕をもった人に診てもらって、思い切った診断を聞きたい。ずっとこのまま我慢しなければならないのか、それとも何かほかに方法があるのか。とにかく知りたい、と。
紹介されて私が訪れた医師は“円盤”のエキスパートで、専門のテキストまで著しているほどの人だった。私はこの人を最後の頼みとした。その診察室にやっとの思いで辿り着き、診察台にころげるようにして横になった。診察が終って私がやっとの思いで服を着直した時は、すでに診断書ができていた。
円盤の脱出がひどい。その専門医もはじめてみるほど位置がずれている。それが坐骨神経を圧迫して右脚がしびれる。唯一残された手段は、手術をしてその圧迫を和らげてやるしかないが、手術箇所は脊髄とつながったところなので、神経外科医に頼まないといけない。
しかし手術をしても良くなる可能性はせいぜい40パーセントで、それもなるべく早い時期でないといけない。あまり遅れると右脚が完全に機能を失ってしまうおそれがある。そこまで行ったら何も請け合えない。そういう診断だった。
それを聞いて私は尋ねた。私には妻と3人の子供、コンサルタントとしての仕事、そのほか面倒をみてやらねばならない人が何人かいる。手術まで最大限何日の余裕があるか、と。すると、せいぜい2か月が限界という返事だった。その日は10月21日だった。私はクリスマスが終ってからにして下さいとお願いした。
■2023年2月15日UP■「私は確信をもって今の時代に役立つと思います」シルバーバーチ霊の思念と思われますが(祈)†僕もこれまで果てしなく霊的知識をお勉強し続けてきて、霊言を降らせる事の重大性は十分すぎるほど理解していますから、シルバーバーチ霊の言葉に反対を表明するほど愚かではありませんが、霊界にはウソというモノが存在しません、僕の心の中など霊団およびシルバーバーチ霊には全て丸見え筒抜けですからあえて正直に書かせて頂きますが、ハッキシ言ってもうウンザリなんですよ。霊性発現(2012年6月)から一体どれだけの月日が流れていますか。この10年以上、霊団はひたすら口だけをピーチクパーチク動かし続けてきましたが物的状況には一切変化はありません、さも今動く、今変わる的な事を延々言われてその通りにしてきてハッとうしろを振り返ってみたら最低最悪の場所にただ閉じ込められ続けただけだった。僕が霊団に対して抱いている怒り憎しみの念はもはやただ事ではないレベルになっているのです、長年の蓄積があるからです…続きを読む→ ■2023年9月13日UP■「飴(あめ)ちゃん投げつける」僕の反逆に対して霊団が猛烈に不快感を示しています(祈)†認めたくありませんが、まぁ脱出は結局実現しないでしょう。最後の最後まで閉じ込められる事になるでしょう。しかしそう思ってあきらめながら暮らすのは僕的には絶対に有り得ないのです。僕はいつでも全力です。自分にできる事を全力でやるのです。とにかく当分は絵を描き続けます。死んだ魚の眼をしながら無目的でただ物質界に残り続けるなんて死んでもガマンできない。何かに燃えなければ生きられない。霊団が使命遂行やる気なしの態度をこれほどハッキリ撃ち出しているんだから僕は僕本来の燃えるモノを追いかける以外にないだろう。いつかは反逆から手を引かざるを得なくさせられるだろうと容易に予測できますが、その「下を向きながら生きる」姿勢が許せないんだよ。最後の1秒まで全力でやるべき事をやれよ。人の人生これだけブチ壊してるんだから責任を果たせよ…続きを読む→