1913年11月4日 火曜日
神の恵みと安らぎと心の平静のあらん事を。これより述べていく事について誤解無きを期するために、あらかじめ次の事実を銘記しておいて欲しい。
すなわち我々の住む境涯においては、差し当たり重要でないものは“しつこく”構わず、現在の自分の向上進化にとって緊要な問題と取り組み、処理し、確固たる地盤の上を1歩1歩前進して行くという事である。
もとより永遠無窮の問題を心に宿さぬわけではない。“究極的絶対者”の存在と本質およびその条件等の問題をなおざりにしているわけではないが、今置かれている界での体験から判断して、これより先にも今より更に大いなる恩寵が待ち受けてくれているに相違ない事を確信するが故に、そうした所詮理解し得ない事は理解し得ない事として措(お)き、そこに不満を覚えないというまでである。
完全な信頼と確信に満ちて修身に励みつつ、向上は喜ぶが、さりとてこれより進み行く未来について“しつこく”求める事はしないという事である。それゆえ、これより扱う善と悪の問題においても、我々が現段階において貴殿に明確に説き得るものに限る事にする。
それは、仮に虹を全真理に譬えれば、1滴の露ほどのものに過ぎぬし、あるいはそれ以下かも知れない事を承知されたい。“悪”なるものは存在しないかの如く説く者がいるが、これは誤りである。もし悪が善の反対であるならば善が実在する如く悪もまた実在する。
たとえば夜という状態は存在しない – それは光と昼の否定的側面に過ぎない、という理屈が通るとすれば、悪なるものは存在しない – 実在するのは善のみであるという理屈になるかも知れない。が、善も悪も共に唯一絶対の存在すなわち“神”に対する各人の心の姿勢を言うのであり、その1つ1つの態度がそれに相応(ふさわ)しい結果を生むに至る必須条件となる。
ならば当然、神に対する反逆的態度はその反逆者への苦難と災害の原因となる。神の愛は強烈であるが故に、それに逆らう者には苦痛として響く。流れが急なれば急なるほど、その流れに逆らう岩の周りの波は荒立つのと同じ道理である。火力が強烈であればあるほど、それに注ぎ込まれる燃料と供給される材料の燃焼は完全である。
神の愛をこうした用語で表現する事に恐怖を感ずる者がいるかも知れないが、父なる神の創造の大業を根源において支えるものはその“愛”の力であり、それに逆らう者、それと調和せぬ者には苦痛をもたらす。
この事は地上生活においても実際に試し、その真実性を確かめる事ができる。罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。
これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない。それによって味わう地獄を実在と認めないとすれば、では地獄の苦しみに真実味を与えるものは他に一体何があるのであろうか。
現実にその情況を目(ま)の当たりにしている吾々は、神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみが降りかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかった事を知るのである。
が、そうなると、つまり悪に真実味があるとなれば、悪人もまた実在する事になる。盲目は物が見えない事である。が物が見えない状態があると同時に、物が見えない人も存在する。また物が見えないという状態は“欠如”の状態に過ぎない。
つまり五感あるべき所が四感しかない状態に過ぎない。が、それでもその欠如には真実味がある。生まれつき目の見えない者は視覚の話を聞いて始めてその欠如を知る。そしてその欠如の状態について認識するほど欠如の苦しみを味わう事になる。
罪もこれと同じである。暗闇にいる者を“未熟霊”と呼ぶのが通例であるが、これは否定的表現ではない。“堕落霊”の方が否定的要素がある。そこで私は盲目と罪とを表現するに“無”とは言わず“欠如”と言う。
生まれつき目の見えない者は視力が“無い”のではない“欠如”しているにすぎないのである。罪を犯した者も、善を理解する能力を失ったのではない“欠如”しているにすぎない。
譬えてみれば災難によって失明した状態ではなく、生まれつき目が見えない人の状態と同じである。これは聖ヨハネが“真理を知る者は罪を犯すこと能(あた)わず”と述べた言葉の説明ともなろう。
但し論理的にではない。実際問題としての話である。と言うのは、真理を悟って光と美を味わった者が、自ら目を閉じて盲目となる事は考えられないからである。それ故に、罪を犯す者は、真理についての知識と善と美を理解する能力が“欠如”しているからである。
目の見えない者が見える人の手引きなくしては災害に遭遇しかねないのと同じように、霊的に盲目の者は、真理を知る者 – 地上の指導者もしくは霊界の指導霊 – の導きなくしては罪を犯しかねないのである。
しかし現実には多くの者が堕落し、あるいは罪を犯しているではないか – 貴殿はそう思うかも知れない。その種の人間は視力の弱い者または不完全な者、言わば色盲にも似た者たちである。つまり彼らは物が見えてはいても“正しく”見る事ができない。
そして何らかの機会に思い知らされるまでは自分の不完全さに気付かない。色盲の人間は多かれ少なかれ視力の未発達な者である。そうした人間が道を誤らないためには“勘”に頼る他はない。それを怠る時そこには危険が待受ける事になる。罪を犯す者もまた然りである。
が、貴殿は当惑するかも知れないが、一見善人で正直に生きた人間が霊界へ来て、自分を未発達霊の中に見出す事が実に多い。意外に思うかも知れないが、事実そうなのである。彼らは霊的能力の多くを発達させる事なく人生を終え、全てが霊的である世界に足を踏み入れて始めてその欠如に気付く。
知らぬ事とは言え、永きに亘って疎(おろそ)かにしてきた事について、それから徐々に理解していく事になる。それは色盲の人間が自分の視力の不完全さに気付く事なく生活しているのと同じ事である。しかも他人からもそうとは知られないのである。
– 何か好い例をお示し願えませんか。
生半可な真理を説く者は、こちらへ来て完全な真理を説かねばならなくなる。インスピレーションの事実を知る者は実に多いが、それが神と人間とのごく普通の、そして不断の連絡路である事は認めようとしない。
こちらへ来れば代って自分が – 資格が具われば – インスピレーションを送る側にまわり、その時初めて自分が地上時代にいかに多くのインスピレーションの恩恵に浴していたかを思い知る。こうして彼らはまず自分に欠如した知識を学ばねばならない。向上はそれからの事であり、それまでは望めない。
さて、悪は善の反対である。が、貴殿も知る通り双方とも一個の人間の心に存在する。そのいずれにも責任を取るのはあくまで自由意志に係わる問題である。その自由意志の本質とその行使範囲については又の機会に述べるとしよう。
神のご加護のあらん事を。アーメン†
「太陽の方を向きなさい」これは帰幽後の話で物質界生活中は最悪という意味です(祈)†
ある意味「暗殺よりヒドイ」と僕は思っていまして、何をどう頭をひっくり返しても許容できない事を霊団に言われているのです。信じられない、本当に最悪、こんな人生死んでも有り得ない、霊団はそういう状況に僕を突入させる事を完全に決定したと意味を受け取れる内容であり、到底承諾できません。その苦しみを身に浴びる事によって「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡の実現につながり、奴隷の女の子たちの救出につながるという事であれば、まだ耐える意味を見出す事もできると思うのですが、霊界側はもう完全に女の子たちを見殺しにする事を決定した様子で「目標に到達できないのに苦しみだけ続行させられるとはどういう事だ」という考えがイヤでも出てきてしまうのです…続きを読む→
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→