ベールの彼方の生活 1巻

WordPress霊関連書籍ヘッダーベールの彼方の生活1巻

※OCR変換の誤変換部分が修正しきれず本文に残されているものと思われますが、とてもやり切れませんのでこのままUPさせて頂きます。通読、霊的知識摂取には問題ないと判断します(祈)†

霊界通信 ベールの彼方の生活 1巻 「天界の低地」篇

G・V・オーエン著
近藤千雄訳

The Life Beyond the Veil
Vol.1 The Lowlands of Heaven
by G.V.Owen
The Greater World Association
London, England

【目次】

1章 暗黒の世界

2章 薄明の世界

3章 暗黒から光明へ

4章 霊界の大都市

5章 天使の支配

6章 見えざる宇宙の科学

推薦の言葉 ノースクリッフ卿

私はまだオーエン師の霊界通信の全篇を読む機会を得ていないが、これまで目を通した部分だけでも実に美しい章節を各所に発見している。

こうした驚異的な資料は霊媒自身の人格が浅からぬ重要性を有(も)ち、それとの関連性において考察さるべきであるように思われる。私はオーエン師とは短時間の会見しか持っていないが、その時に得た印象は、誠実さと確信に満ちた人物を前にしているということであった。

ご自分に霊能があるというような言葉はついぞ師の口からは聞かれなかった。出来るだけ名前は知られたくないとの気持を披歴され、これによる収益の受取りを一切辞退しておられる。これだけ世界中から関心を寄せられた霊界通信なら大変な印税が容易に得られたであろうと思われるのだが。

(ノースクリッフ卿 Lord Northcliffe – 本名ウィリアム・ハームズワース Alfred Charles William Harmsworth。アイルランド生まれの英国の新聞経営者で、有名なDaily Mail(デイリーメール)の創刊者。死後、“フリート街の法王”と呼ばれたハンネン・スワッハー Hannen Swaffer がよく出席していた直接談話霊媒デニス・ブラッドレーの交霊会に出現、スワッハーがそれを「ノースクリップの帰還』Northcliffe’s Return と題して出版、大反響を呼んだ。 – 訳者)

↑目次へ↑

序 アーサー・コナン・ドイル

永かった闘いにも勝利の日が近づいた。今後もなお様々なことが起きるであろう。後退もあれば失望もあることであろう。が勝利は間違いない。

新らしい霊的啓示の記録が一般大衆の手に入った時、それに天啓的美しさと合理性とがあれば必ずや全ての疑念、あらゆる偏見を一掃してしまうものであることは、いつの時代においても、真理なるものに触れた者ならば断固たる確信をもつものである。

今そのうちの1つ – 至純にして至高、完璧にして崇高なる淵源(えんげん)をもつ啓示が世界の注目を浴びつつある。まさに、主の御手ここに在り、の思いがする。

それが今あなたのすぐ目の前にある。そしてそれが自らあなたに語りかけんとしている。本文の冒頭を読んだだけで素晴らしさを評価してはならない。確かに劈頭(へきとう)から素晴らしい。が読み進むに従っていよいよその美しさを増し、ついには荘厳さの域にまで達する。

一字一句に捉(とら)われたアラ探しをすることなく、全体を通しての印象によって判断しなくてはいけない。同時に、ただ単に新らしいものだから、珍らしいから、ということで無闇に有難がってもいけない。

地上のいかなる教説も、それがいかに聖なるものであろうと、そこから僅かな文句だけを引用したり、“霊的”であることを必要以上に強調しすぎることによって嘲笑の的とされることが十分有りうることを銘記すべきである。

この啓示が及ぼす影響力の程度と範囲を判断する規準は、読者の精神と魂へ及ぼす影響全体であり、それ以外には有り得ない。神は2000年前に啓示の泉を閉鎖された、という。一体何の根拠をもってこんな非合理きわまる信仰を説くのであろうか。

それよりも、生ける神は今なお、その生ける威力を顕示し続けており、苦難により一段と浄化され受容力を増した人類の理解力の進化と威力に相応(ふさわ)しい新たな援助と知識とをふんだんに授けて下さっている、と信じる方がどれほど合理的であろうか。

驚異的と言われ不可思議とされた過去70年間のいわゆる超自然現象は、明々白々たる事実であり、それを知らぬ者は自らの手をもって目を蔽(おお)う者のみと言ってよいほどである。現象のものは成るほど取るに足らぬものかも知れない。

がそれは実は吾々人間の注意を引きつけるための信号(シグナル)だったのであり、それをきっかけとして、こうした霊的メッセージへ誘わんとする意図があったのである。その完璧な一例がこの通信と言えるかも知れない。

啓示は他にも数多く存在する。そしてその内容は由ってきたる霊界の階層によっても異なるし、受信者の知識の程度によっても異なる。通信は受信者を通過する際に大なり小なり色づけされることは免れないのである。

完全に純粋な通信は純心無垢な霊媒にして初めて得られる。本通信における天界の物語は、物的人間の条件の許すかぎりにおいて、その絶対的純粋さに近いものと考えてよいであろう。

その内容は古き信仰を覆(くつがえ)すものであろうか。私は絶対にそうでないことを断言する。むしろ古き信仰を拡大し、明確にし、美化している。これまで吾々を当惑させてきた空白の部分を埋めてくれる。そして一字一句に拘(こだ)わり精神を忘れた心狭き変屈学者を除いては、限りない励みと啓発を与えてくれる。

真意を捉え難かった聖書の文字が本通信によって明確に肉付けされ意味をもつに至った部分が幾つあることであろうか。

たとえば「父の家には住処(すみか)多し」も、パウロの「手をもて造られたるにあらざる住処」も、本書の中に僅かに見られるところの、人間の知能と言語を超越した、かの栄光を見ただけで理解がいくのではなかろうか。

それはもはや捉え難き遠い世界の“まぼろし”ではなく、この“時”にしばられた暗き人生を歩むにつれて前方に真実にして確固たる光として輝き、神の摂理と己(おの)れの道義心に忠実に生きてさえいれば言語に絶する幸せが死後に待ちうけるとの確信を植えつけてくれることによって、よろこびの時にはより一層そのよろこびを増し、悲しみの時には涙を拭ってくれるのである。

言葉即(イコール)観念の認識に固執する者は、この通信はすべてオーエン氏の潜在意識の産物であると言うであろう。そう主張する者は、では他にも多くの霊覚者が程度の差こそあれ同じような体験をしている事実をどう説明するのであろうか。

筆者自身も数多くの霊界通信を参考にして死後の世界の概観を2冊のささやかな本にまとめている。それはこの度のオーエン氏の通信とはまるで無関係に編纂された。

オーエン氏の通信が私の2冊とは無関係に綴られたのと同じである。どちらも互いに参考にし合っていない。にも拘らず、このたび読み返してみて、私のものより遙かに雄大で詳しいオーエン氏の叙述の中に、重要と思える箇所で私が誤りを犯したところは1つも見当たらない。

もしも全体系が霊的インスピレーションに基づいていなかったら、果たしてこうした基本的一致が有りうるであろか。

今や世界は何らかの、より強力な駆動力を必要としている。これまでは言わば機関車を外されたまま古きインスピレーションの上を走って来たようなものである。今や新らしい機関車が必要なのである。

もしも既成宗教が真に人間を救うものであったのなら、それは人類史の最大の苦難の時にこそ威力を発揮したはず – 例えば第1次大戦も起きなかったはずである。その厳しい要請に応(こた)え得た教会が有ったであろうか。今こそ霊的真理が改めて説かれ、それが人生の原理と再び渾然一体となる必要があるのは明々白々たる事実ではなかろうか。

新らしい時代が始まりつつある。これまで貢献して来た者が、その立証に苦労してきた真理が世間から注目を集めつつあるのを見て敬虔なる満足を覚えても、それは無理からぬことかも知れない。そして、それは自惚(うぬぼ)れの誘因とはならない。目にこそ見えないが実在の叡智に富める霊団の道具に過ぎないことを自覚しているからである。

しかし同時に、もしも新たなる真理の淵源を知り、荒波の中を必死に邁進して来た航路が間違っていなかったことを知って安堵の気持を抱いたとしても、それが人間味というものではなかろうか。

(コナン・ドイル Arthur Conan Doyle – 言わずと知れた名探偵シャーロック・ホームズの活躍する推理小説の作者であるが、本職は内科医であった。そのシャーロック・ホームズ・シリーズによって知名度が最高潮に達した頃にスピリチュアリズムとの出会いがあり、さまざまな非難中傷の中を徹底した実証主義で調査研究し、その真実性を確信してからは“スピリチュアリズムのパウロ”の異名を取るほど、その普及に献身した。 – 訳者)

↑目次へ↑

まえがき G・V・オーエン

この霊界通信すなわち自動書記または(より正確に言えば)霊感書記によって綴られた通信は、形の上では4部に分かれているが、内容的には一貫性を有つものである。いずれも、通信を送って来た霊団が予(あらかじ)め計画したものであることは明白である。

母と子という肉親関係が本通信を開始する絶好の通路となったことは疑う余地がない。その点から考えて本通信が私の母と友人たちで構成された一団によって開始されていることは極めて自然なことと言える。

それが一応軌道に乗った頃、新らしくアストリエルと名告る霊が紹介された。この霊はそれまでの通信者に比べて霊格が高く、同時に哲学者的なところもあり、そういった面は用語の中にもはっきり表われている。

母の属する一団とこのアストリエル霊からの通信が第1巻『天界の低地』を構成している。

この言わば試験的通信が終わると、私の通信はザブディエルと名告る私の守護霊の手に預けられた。母たちからの通信に較べると流石(さすが)に高等である。第2巻『天界の高地』は全部このザプディエル霊からの通信で占められている。

第3巻『天界の政庁』はリーダーと名告る霊とその霊団から送られたものである。その後リーダー霊は通信を一手に引き受け、名前も改めてアーネルと名告るようになった。

その名のもとで綴られたのが第4巻『天界の大軍』で、文字どおり本通信の圧巻である。前3巻のいずれにも増して充実しており、結局前3巻はこの第4巻のための手馴らしであったとみても差し支えない。

内容的にみて本通信が第1部から順を追って読まれるべき性質のものであることは言うまでもない。初めに出た事柄があとになって説明抜きで出て来る場合も少なくないのである。

本通信中の主要人物について簡単に説明しておくと –

私の母は1909年に63歳で他界している。アストリエルは18世紀半ばごろ、英国ウォーリック州で学校の校長をしていた人である。ザブディエルについては全然と言ってよいほど不明である。

アーネルについては本文中に自己紹介が出ている。霊界側の筆記役をしているカスリーンは英国リバプール市のアンフィールドに住んでいた裁縫婦で、私の娘のルビーが1896年に僅か15ヶ月で他界するその3年前に28歳で他界している。

さて、“聖職者というのは何んでもすぐに信じてしまう”というのが世間一般の通念であるらしい。なるほど“信仰”というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかも知れない。

が、私は声を大にして断言しておくが、“新らしい真理”を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

因(ちなみ)に私が本通信を“信ずるに足るもの”と認めるまでにちょうど4分の1世紀を費している。すなわち、確かに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適(かな)っていることをはっきりと得心するのに15年かかった。

そう得心して間もなく、その回答とも言うべき現象が起こり出した。最初まず私の妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じて、お前も鉛筆を握って机に向かい頭に浮かぶ思念を素直に書き下ろしてみよ、という注文が私宛に送られて来た。

正直のところ私はそれが嫌で、しばらく拒否し続けた。が他界した私の友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持にもだいぶ変化が起き始めた。

こうした事実からも十分納得して頂けることと思うが、霊界の通信者は通信の目的や吾々に対する希望は述べても、そのために吾々の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決して無かった。結果論から言えば少なくとも私の場合は強引に書かせた方が手間ひまが掛からずに済んだろうにと思われるのだが…。

が、それでも私はすぐには鉛筆を握らなかった。しかし、そのうち注文する側の真摯な態度に好感を覚え、多分に懐疑の念を抱きつつも遂に意を決して、晩課(ばんか)が終わってからカソック姿(法衣の一種)のまま机に向かったのであった。

最初の4、5節は内容に統一性が無く、何を言わんとしているのか見当がつかなかったが、そのうち次第にまとまりが見えてきて、やがて厳とした筋が読み取れるようになった。それからというものは書けば書くほど筆が速くなった。読者が今まさに読まんとされているのがその産物である。
1925年秋

↑目次へ↑

1章 暗黒の世界

1 霊界の風景

1913年9月23日 火曜日

– どなたでしょうか(オーエン氏の質問 – 訳者)

あなたの母親です。他に援助して下さる方が幾人かお出でです。私たちは順調に進歩しております。しかしまだ述べたい事の全てを伝える事ができません。それはあなたの精神状態がこちらが期待するほど平静で受身的ではないからでもあります。

– 住んでおられる家屋と、今携(たずさ)わっておられる仕事について教えて下さい。

仕事はその対象となる人間の必要性によって異なります。非常に多種多様です。しかし現在地上にいる人々の向上に向けられている点は一様に同じです。例えばローズ(オーエン氏の妻 – 訳者)にまず働きかけて自動書記をやらせ、その間の危険から護ってあげる霊団を組織したのは私たちです。今でもその霊団が彼女の面倒をみております。

時おり近くに存在を感じているのではないでしょうか。多分そのはずです。必要とあればすぐに近くに参りますから。次は家屋について。これはとても明るく美しく出来あがっております。そして高い界におられる同志の方々がひっきりなしに訪れては向上の道へ励まして下さいます。

– (ここで1つの疑問が浮かんだ。母たちの目にはその高級界からの霊の姿が見えるのだろうか、それとも吾々人間と同じなのだろうか、という事である。

断っておきたいのは、この霊界通信を読んで行かれるうちに読者は、私が明らかに口に出していない思念に対する答が“イエス”あるいは“ノー”で始まって綴られているのを各所に発見されるはずである。その点をご諒承頂いて、特に必要がない限り、それが実際に口に出した質問なのか、それとも私の思念を読み取ったものかは断らない事にする。)

はい、見えます。その高い界の方たちが私たちに姿を見せようと思われた時は見られます。しかし私たちの発達の程度と、その方たちの私たちに対する力量次第です。

– では今住んでおられるところ – 景色その他を説明して頂けますか。

完成された地上、といった感じです。でももちろん4次元の要素が幾分ありますから、うまく説明できないところがあります。丘もあれば小川もあり、美しい森もあり、家々もあります。

それに、私たちが地上から来た時のために前もって先輩たちがこしらえてくれているものもあります。今は代わって私たちが今しばらく地上の生存競争の中に生き続けなければならない人々のために、環境をこしらえたり整えたりしてあげております。こちらへ来られた時には万事がうまく整っており歓迎の準備もできているという訳です。

ここで、最近私が目撃した興味深い光景(シーン)をお話致しましょう。そうです、こちらのこの土地でのシーンです。私たちの住んでいる家から程遠からぬ広い平地である儀式が取り行われると聞かされ、私たちもそれに出席するようにとの事でした。

儀式というのは、1人の霊が“偏見”と呼ばれている段階、つまり自分の特殊な考えと異なる人々への“ひがみ根性”からすっかり卒業して一段と広く充実した世界へと進んで行く事になったのを祝うものです。

言われるまま私たちも行ってみました。すると方々から大勢の人が続々とやってまいります。中には馬車で…なぜ躊躇するのですか。私たちは目撃した事をありのままに述べているのです。

馬車で来る人もいます。お好きなように別の呼び方をしても構いませんよ。ちゃんと馬に引かれております。御者の言う事がすぐ馬に通じるようです。と言うのは地上の御者のように手綱をもっていないのです。それでも御者の思う方向へ走っているようでした。

歩いて来る人もいました。空を飛んでくる人もいました。いえ、翼はついておりません。要らないのです。

さて皆さんが集まると円座が作られました。そこへさっきの方が進み出ました。祝福を受ける霊です。その方はオレンジ色の長い礼服を着ておられます。明るいオレンジ色で、地上では見かけない色です。こちらの世界の色はどれも地上ではみられないものばかりです。

ですが、地上の言葉を使う他はありません。さて指導霊がその人の手を取って円座の中央の小高い芝生のところに位置させ、何やら祈りの言葉を述べられました。すると実に美しい光景が展開しはじめました。

空の色 – 殆ど全体が金色(こんじき)です – が一段と強さを増しました。そしてその中から1枚のベールのようなもの、小鳥や花を散りばめた美事なレースで出来たように見えるものが降りてきました。白いというよりは金色に輝いておりました。

それがゆっくりと広がって2人を蔽うようにかぶさり、2人がそのベールに融けこみ、ベールもまた2人と一体となって、やがてその場からゆっくり消えて行きました。2人ともそれまでとは格段の美しさ、永遠の美しさに輝いておりました。何しろ2人とも1段階上の光明の世界へと向上して行ったのですから。

それから合唱が始まりました。楽器は見えないのですが、間違いなく器楽による演奏が聞こえ、それが私たちの歌声と融合し一体となっておりました。それはそれは美しい光景でした。

それは、向上して行く2人にとってはそれまでの努力を祝福する餞別(はなむけ)であり、見送る者、2人が辿った道をこれから辿らねばならない者にとっては、一層の努力を鼓舞するものでした。

あとで尋ねてみましたらその音楽は円座の外側にある寺院の森から流れてきていたとの事で、道理で一定の方向から聞こえて来るようには思えませんでした。それがこちらの音楽の特徴なのです。大気の一部となり切っているように感じられるのです。

お2人には宝石まで付いておりました。蔽っていたベールが消えた時、祝福を受けた霊の額に金色と赤色の宝石が見えました。そして指導霊 – この方には既に1つ付いておりましたが、新たにもう1つ左肩に付いており、それが大きさと明るさを一段と増しておりました。

どういう過程でそうなるのかは判りません。私なりの推測をしておりますが、あなたに言えるほどの確信はありません。それに私たちが理解している事を地上の言語で伝える事自体が難しいのです。儀式が終わると、みんなそれぞれの仕事に戻りました。

実際の儀式は今述べたよりも長時間に亘るもので、参加した人たちに深い感銘を与えました。儀式の最中の事ですが、私たちが立っていた位置から丘越しに見える平地の向う端に1個の光が輝いて見え、それが私たちには人間の容姿をしているように見えました。

今思うにそれは主イエスではなく、その儀式のためのエネルギーを供給し、目的を成就させるために来られた大天使のお1人であったようです。もちろん私より鮮明にそのお姿を拝した人もおられます。なぜなら霊的進化の程度に応じて見え方も理解の程度も異なるものだからです。

さて、ここであなたに考えてみて頂きたいのです。こうした話をあなた自身の頭から出たものだと思われますか、それとも“あなたを通して”あなたの外部から来たものだと思われますか。今日その机に向かって腰掛けた時、あなたはまさかこうした話が綴られるとは予想しなかったはずです。

私たちもあらかじめその点に配慮して先入観を入れないように用心したのです。でもこうしてあなたと霊的つながりが出来たとたんに、今の話を綴られました。そうではありませんか。

– その通りです。その点は正直に認めます。

そうですとも。では、これでお別れです。あなたとお別れするというのではありません。私たちはあなたに理解できない或る意味で常にあなたの側におります。あなたの手を借りて書くという仕事と暫しお別れという意味です。神の祝福のあらんことを祈りながら、ではまた明日まで、さようなら。

↑目次へ↑

2 悲しみの館

1913年9月24日 水曜日

あなたとの間に始められたこうした通信が究極においてどういう影響を及ぼすか – その事を少し遠い先へ目をやって現在のご自分の心理状態の成り行きとの関連において考察してご覧なさい。

私たち霊界の者から見た時、これまでの事の成り行きが私たちの目にどのように映っていたと思われますか。それはちょうど霧の海に太陽の光が差し込んだのと同じで霧が次第に晴れ上がり、それまで隠されていた景色がはっきりと、そしてより美しくその姿を見せてまいります。

あなたの精神状態もいずれそうなると私たちは見ております。しばらくは真理という名の太陽に目がくらみ、真相が判るよりはむしろ当惑なさるでしょうけど、目指すものは光明である事、究極においては影を宿さぬ光だけの世界となる事を悟られるでしょう。

光は必ずしも有難がられるものとは定(さだ)まっておりません。日光で生長するようにできていない種類の生物がいるのと同じです。そういう人はそれでよろしい。そしてあなたはあなたの道を歩まれる事です。進むにつれてより強い光、神の愛のより大きな美しさに慣れてくるでしょう。

光を好まぬ者には無限の叡智と融合したその光の強さは迷惑でしかないのでしょうけど…。ではここでもう1つ、神の御光そのものに輝くこの地域で見かけた楽しい光景をお伝えしましょう。

つい先ごろの事ですが私たちは美しい森の多い土地を散策しておりました。歩きながらおしゃべりを始めたのですが、それもほんの少しの間でした。と言うのは、全てを聖なる静寂の中に吸込んでしまうような音楽を感じ取ったのです。

その時です。前方に間違いなく上級界の天使と思われる神々しいお姿が目に入りました。その方は立ったまま笑みを浮かべて私たちを見つめておられます。何も語りかけません。がそのうち私たちのうちの1人に特別のメッセージを持って来られた事を私は感じ取りました。そしてそれが他ならぬ私である事もすぐに判りました。

私たちが立ち止まって待ち受けていますとすぐ近くまでお出でになり、身につけておられるマント風のもの – 琥珀色(こはくいろ)でした – を片手で少し持ち上げて私の肩に掛け、手も肩に置き、さらに頬を私の髪に当てて – 私より遥かに背の高い方でした – 優しくこうおっしゃいました。

「私はあなた方が信仰しておられる主イエス(※)の命を受けて参りました。主は全てをお見通しです。あなたはまだ先の事がお判りでない。そこでこれからあなたがおやりになる仕事のための力をお授けしましょう。実はあなたはこちらでの新たな使命に携わる1人として選ばれております。

もちろんそちらにおられる仲間の方々とお会いになろうと思えばいつでも出来ますが、申し訳ないが暫くお別れ頂いて、これからあなたが新しく住まわれる場所と、やって頂かねばならない仕事の案内をさせてください。」

(※他界後しばらく霊界の指導霊は当人の地上での信仰に応じた対応をするのが定石である。イエス・キリストの真実については第3巻で明かされる。)

天使様がそう言い終ると仲間の者が私の周りに集まって来て頬にキスをしたり手を握ったりして祝福してくれました。みんな自分の事のように喜んでくれました。いえ、この言い方ではぴったりといたしません。嬉しさを十分に言い表しておりません。

先程のお言葉の真意を私たちが語り合うのをお待ちになってから天使様が再び私に近づき、今度は私の手を取ってどこかへ連れて行かれました。しばらく歩いていくうちに、ふわっと両足が地面から離れ空中を飛びはじめました。別に怖いとは思いませんでした。

私には既にそれだけの力が与えられていた訳です。数々の宮殿のような建物の見える高い山並の上空を通過し、かなりの長旅の末にようやく降りました。そこは1度も来た事のない都市でした。

その都市を包む光は決して悪くはないのですが私の目がその明るさに慣れていないために周りの事がよく判りませんでした。がそのうち大きな建物を取り囲む庭の中にいる事が判ってきました。玄関へ向けて階段状に長い道がついておりその1番上にテラスのようなものがあります。

建物全体が各種の色彩 – ピンクと青と赤と黄 – の1つの素材で出来ており、それが全体として黄金のような輝き、柔らかさをもった輝きを見せておりました。その昇り段を天使の方へ上がって行き入口のところまで来ました。そこにはドアは付いておりませんでした。

そこで1人の美しい女性が迎えてくださいました。堂々としておられましたが決して尊大には見えません。実はその方は「悲しみの館」の主です。こんなところで不似合な言葉と思われるでしょう。実はこういう事なのです。

悲しみというのはここに住んでおられる方の悲しみではなく、世話を仰せつかっている人間の身の上の事です。悲しみに打ちひしがれている地上の人々の事です。この館に勤める人はそうした地上の不幸な人々へ向けて霊波を送り、その悲しみを和らげてあげるのが仕事なのです。

こちらでは物事の真相に迫りその根源を知らなくてはなりません。それには大変奥の深い勉強が必要であり、少しずつ段階的に進んで行く他はありません。今“霊波”という用語を用いたのもそれが真相をズバリ言い表した言葉であり、あなたにとっても1番理解しやすいと思うからです。

その女性はとても優しく私を迎えて中へ案内し、建物の一部を紹介してくださいました。地上とはまるで趣きの異なるもので、説明するのが困難です。強いて言えば建物全体が生命で脈打っている感じで、私たちの意志の生命力に反応しているようでした。

以来そこでの仕事が現段階での私の最も新しい仕事で、とても楽しいものになりそうです。でも私にはまだ地上から届いて感識される祈りと、耳に聞こえてくる – これも鑑識されると言った方が良いでしょう – 悶え苦しむ人々の嘆きがやっと判るようになり始めたばかりです。

私たちはそれを言わば感じ取り、それに対する回答をバイブレーションで送り返します。慣れれば無意識にできるようになるものですが、最初のうちは大変な努力がいります。私にはとても大変な事です。でもその努力にも、携わる者にはそれなりの恵みがあるものです。

送り届けた慰めや援助などの効果は再び跳ね返って来るものなのですが、勉強していくうちに判ってきたのは、地上と接触を保っているこちらの地域でも、この送り届ける慰めとか援助の他は私には何も知り得ない地域があるという事です。

今のところ私がその仕事に携わるのは1度にほんの僅かな間だけで、すぐにその都市や近郊の見学に出かけます。どこを見ても荘厳で、前にいたところよりもずっと美しいです。今ではかつての仲間を訪ねに行く事があります。

会った時にどんな話をするか、あなたにも大体の想像がつくと思います。仕事も楽しいですが、それに劣らず語り合うのも楽しいものです。当たりは主イエス・キリストのもとにおける安らかさに包まれております。そこは暗闇のない世界です。

あなたも、初めに述べた霧が晴れればこの土地を訪れる事になるでしょう。その時は私が何もかも案内して差し上げましょう。そのうち多分あなたも向上して、今度はあなたの方が、あの天使様がしてくださったように私の手を取ってあなたの携わるお仕事を見せに案内してくださる事になるでしょう。

ずいぶん意欲的だと思っておられるようですね。それはそうですよ。それが母親の、そうね煩悩というものかしら。いえ母親ならではの喜びではないかしら。

ではまたにしましょう。今のあなたの心の状態を見れば、全てを真実と信じておられるのが判ります。嬉しそうに明るく輝いて見えますよ。それは母親である私にも嬉しい事です。では、おやすみなさい。神よ、安らぎを垂れ給え。

↑目次へ↑

3 バイブレーションの原理

1913年 9月25日 木曜日

聖書の中に主イエスがペテロの事を自分への反逆者であるかの如く述べた部分があり、あなたはその真意を捉えかねている様子だから、今夜は十分ではないけど是非その事を明らかにしてみたいと思います。

ご存知の通り、その時イエスはエルサレムへ行く途中でした。そして弟子たちに対し自分はエルサレムで殺されるであろうと述べます。

その時のイエスの真意は、自分が殺される事によって一見自分たちの使命が終わったかの如く思われるかも知れないが、見る目をもつ者には – 弟子たちがそうであって欲しいとイエスは思った事でしょうが – 自分の真の目的はそれまでの伝道の道よりも遥かに強力にして栄光ある発展のための口火を切る事であり、それが神より授かった地上人類の霊的高揚の為の自分の使命なのだという事でした。

ペテロはそれが理解できない事を彼なりの態度で示しました。当然であり無理もない事です。がこの事についていつも見落とされている事があります。それは、イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。

それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。

悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。

もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。

そして遂にそうなりました。最もそれは悲しみの奥義を理解できるようになってからの事です。理解と言っても限られた程度のものでした。が、ある程度の理解は確かにできたのでした。

こうして文章で綴ってしまえば随分簡単な事のように感じられます。またある意味では現に単純なのです。神の摂理の基本的原理は全て単純だからです。ですが私たち、特に現在の私にとっては、あなたにも判然としないかも知れない重要性を秘めております。

と言いますのは今の私の生活の大半を過している新しい建物の中での主な課題がそれと同じ事、つまり人間界の悲しみのバイブレーションを喜びを生み出すバイブレーションに転換する事だからです。とても素敵な仕事です。

ですが自由意志の尊厳がもたらすところの数々の制約がいろいろと面倒な問題を生み出します。いかなる人間であっても、その人の自由意志を無視する事は許されないのです。

当人の意志を尊重しつつ、当人にとって望ましくもあり同時に相応しい結果、少なくともまずまずと言える程度のものを授けなければなりません。時にはうんざりする事もありますが、この仕事に携わる事によって強くなるにつれて、そうした念も消えていく事でしょう。

ところであなたの質問は何ですか。尋ねたいと思っている事があるようでしたが。 – いえ、ありません。特別な質問はありませんが。 – 尋ねたいと思われた事がありませんでしたか。あなたにこうして霊感を印象づける方法と関連した事で…

– そう言えば今朝方その事をお聞きしようと思ったことは事実です。すっかり忘れておりました。でも大して説明して頂くほどの事でも無いように思いますが如何でしょうか。私は“精神感応”と呼んではどうかと思います –

なるほど、当らずといえども遠からずですね。でもピッタリという訳でもありません。精神感応というのは未知の分野も含めた大雑把な用語です。私たちがあなたに印象づける手段は各種のバイブレーションです。

本質がそれぞれ少しずつ異なります。それをあなたの精神に向けて集中するのです。ですがどうやらあなたはこの種の問題は今はあまり気が乗らないようですね。またの機会に改めて述べる事にしましょう。今あなたが関心を抱いているものがあればおっしゃってみてください。

– ではあなたの住んでおられる家と、新しく始められた仕事についてもう少し話してください。 –

よろしい。では出来るだけ分りやすくお話致しましょう。住居(すまい)は内側も外側も実に美しく設備が整えられております。浴室(バス)もあれば音楽室もあり、私たちの意念を反映させていく上で補助的な役割をする道具もあります。ずいぶん広いものです。

私は今“住居”と言いましたが、本当はひと続きの建物で、その1つ1つがある種の仕事を割当てられていて、それが段階的に進んでいくように工夫されております。どの家からでも始めて次の建物へ進む事ができます。でもこんな話は人間には不思議で信じられないでしょうから、もっと分りやすいものを取上げてみましょう。

土地は広々としており、その土地と建物との間に何らかの関係、一種の共鳴関係のようなものがあります。たとえば樹木は地上と同じ樹木そのもので、同じように生長しておりますが、その樹木と建物との間に共鳴関係のようなものがあり、樹木の種類が異なると共鳴する建物も異なり、建物が目的としている仕事の効果を上げる作用を及ぼしております。

それと同じ事が森の中の1つのグループについても言えますし、小道の両脇の花壇、各所に見られる小川や滝の配置についても言えます。全てが驚くべき叡智から生み出され、その効果は“美しい”の一語に尽きます。

実を言うと同じ作用が地上でもあるのです。ただバイブレーションがそれを放射する側もそれに反応する側も共にこちらに比して鈍重であるために、その効果がほとんど目立たないだけです。でも実際にある事はあるのです。

例えば花や樹木の栽培が特に上手な人がいるのをご存知でしょう。それから花が他家(よそ)よりも長もちする家 – そういう家族があるものです。切り花の事です。荒削りではありますが、全て同じ事です。こちらでは影響力が強力で、受ける側も鋭敏なのです。ついでに言えば、この事は私たちが今携わっている仕事で個々のケースを正確に判断する上でよい参考になります。

大気も当然ここの植物と建物によって影響を受けます。と言いますのは、繰り返す事になりますが、そうした建物は単なる技術で建造されるのではなく、この界の高位の天使の方々の意念の結晶 – 産物と言ってもいいでしょう – であり、したがって大変強力な創造的念力によるものだからです。(その詳しい原理は第6章でアストリエル霊が解説。 – 訳者)

大気はまた私たちの衣服にも影響を及ぼします。更にはその生地と色への影響が私たちの性格そのものまで沁み込んで来ます。ですから霊的に性格が似ている者同士は同じ大気の影響を受けている訳ですから、身にまとっているものも色合いと生地が良く似ておりますが、実際には1人1人その個性の違いによって少しずつ違っております。

さらに私たちがたまたま位置したその地面の影響で衣服の色合いが変化する事があります。あたり一面に色とりどりの草花が繁茂している歩道や、さまざまな品種の植物の配置具合が異なる場所を通りかかると衣服の趣きが変化していくのを見るのは面白くもあり、ためにもなり、また見た目に美しくもあります。

小川がまた美しいのです。水の妖精の話はあなたも聞いた事があるでしょう。地上の話ですよ。あれは少なくともこちらでは本当の話です。その場全体に生命がみなぎり、すみずみまで浸透しております。という事は生命の存在がそこにあるという事です。

この事は前にいた界でもある程度知っておりましたが、この界へ来て辺りの不思議さ目新しさに慣れてくると、そうした事が一層はっきり認識され、同時にこの調子でいくとこれから先の界は一体どうなってるのだろうと驚異を抱きはじめております。この界の不思議さなどどこへ行っても当り前のように思えるからです。

でも、今日はこの辺で止めにしましょう。この美わしい御国の片隅を見せてくださった神はまた別の片隅も見せてくださる事でしょう。これはあなたへの言葉ですよ。今日はその言葉で終りとしましょう。それでは。

<原著者ノート>この日のメッセージの最初の部分を綴っている時、私はその話の流れが読み取れず、まとまりがなくて混乱しているように思えた。が、今読み返してみると決してそうではない事が判る。

悲しみのバイブレーションについて述べている事を“神の摂理の基本的原理”についての単なるヒントと受け取り、波動の原理を光や熱の解釈に当てはめるのと同じ推理を行えば次のようになりそうである。

悲しみを生ずるバイブレーションの組み合わせは“置き換え”ではなく“調整”によって行われる。つまり悲しみに沈む魂へ向けて別種のバイブレーションを送る事によって悲しみのバイブレーションのうちの幾つかが中和され、幾つかは修正されて別種のものに変化し、その効果が喜び、あるいは安らぎとなる。

こう見ればこの日のメッセージも意味をもち、多分人生における悩み事を実際に解決していく方法に光を当てる事になるかも知れない。確かにそれが神の1つの手法なのであろう。悲しみを生みだす外的条件が取り除かれるという意味ではない。(極端な場合はそうするかも知れないが)

別種のバイブレーションを吹き込む事によって悲しみを喜びへと転換してしまうという意味である。これなら日常生活でよく見かける事である。こうした説は科学的思考に馴染めない人には突拍子もない話に聞こえるであろうし“別種のバイブレーション”が実際に同じ“交換価値”をもつ数種のバイブレーションであるとする説を別に非合理的とは思わない人もいる事であろう。

なお最初に言及しているイエスの言葉はヨハネ第16章20である。

↑目次へ↑

4 光のかけ橋

1913年 9月26日 金曜日

前回の通信は、あなたにもう少し深入りした感応の仕方を試してみるべきであるとの霊団の1人の要請を受けてやってみたものです。が説明できるようにはなりましたが説明の内容はまだ十分とは言えません。そこで、あなたがお望みであれば引き続き同じ問題を取上げようと思いますが。

– 有難うございます。お願いします。

では、あなたにも暫く私たちと共にベールのこちら側から考えて頂かねばなりません。まず理解して頂きたいのは、こちらへ来てみると地上で見ていたものとは全く異なった様相を呈している事 – おそらく現在地上にいる人の目には非現実的で空想的にさえ思えるのではないかという事です。

どんなに小さな事でも驚異に満ちておりますから、こちらへ来たばかりの人は地上での3次元的な物の考え方から脱しない限り、飛躍的な進歩は望めません。そしてそれが決して容易な事ではないのです。

さてここで例のバイブレーションという用語を使用しなくてはなりません。しかしこれを物的なもののように考えては真相は理解できません。私たちのいうバイブレーションは作用においても性質においても単なる機械的な波動ではなく、それ自体に生命力が宿っており、私たちはその生命力を活用して物をこしらえているのです。

言わば私たちの意志と環境とを結ぶかけ橋のようなものです。突き詰めれば全ての現象はその生命力で出来ているからです。環境は私たちを始め全存在を包む深い生命力の顕現したものに過ぎません。それを原料として私たちは物をこしらえ成就する事ができるのです。

バイブレーションというと何だか実体のないもののように思われがちですが、それがちゃんとした耐久性のあるものを作り上げるのです。たとえば光明界と暗黒界との間の裂け目の上に橋を掛けるのもその方法によります。

その橋がただの1色ではないのです。暗黒の世界の奥深いところから姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後に燦々たる光輝を発しながら光明の世界へと入り込んでおります。

その光明界の始まる高台に掛かる辺りはピンク色に輝き、大気全体に広がる何とも言えない銀色、アラバスターと言った方がよいでしょうか、そんな感じの光の中で輝いて見えます。

そうですとも。その裂け目に立派に“橋”が掛かっているのです。もし無かったら暗黒の世界から光明の世界へと闇を通り抜けて霊魂はどうやって向上進化してくるのですか。本当なのです。

言い落としておりましたが、怖ろしい暗黒の世界をくぐり抜けてその橋をよじ登り、裂け目のこちら側へやってくる霊魂が実際にいるのです。最も数は多くありません。大抵はその道案内の任に当たっておられる天使様の言う事が聞けずに後戻りしてしまうのです。

また、こういう事も知っておく必要があります。そうした天使様の姿は魂の内部に灯された霊的明りの強さと同じ程度にしか映らないという事です。ですから天使様の言う事を聞いて最後まで付いて行くには、天使様に対する信頼心も必要になってきます。

その信頼心は同時に光と闇とをある程度まで識別できるまで向上した精神の産物でもある訳です。実際人間の魂の複雑さは一通りでなく捉え難いものですね。そこでもう少し言葉で表現しやすい話に移りましょう。

私はそれを“橋”と呼びました。しかし「目は汝の身体の光である」という言葉がありますね。この言葉をここで改めて読んで頂きたいのです。そうすればそれが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言える事がお判りになると思います。

私はこれまで“橋”という呼び方をして来ましたが実際には地上の橋とはあまり似ていないのです。第一、巾がそれはそれは広いのです。“地域”と呼ぶのが1番当たっているようです。

私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておらず、その見た限りのものだけを話している事を念頭に置いて聞いて下さいよ。同じような裂け目や橋が他にも – 多分数え切れないほど – あるに相違ありません。その畝(うね)つまり私が橋と呼んでいるものを通って光明を求める者が進んできます。

実にゆっくりした足どりです。しかもその途中には幾つかの休泊所が設けてあり暗黒界から這い上がって来た霊魂がそのうちの1つに辿り着くと、そこで案内役が交替して今度は別の天使の一団が次の休泊所まで付き添います。そうやってようやくこちら側に着きます。

私が所属している例のコロニーでの仕事も、地上の救済の他に、そうやって向上して来る霊魂の道案内も致しております。それは先程述べた仕事とはまた別の分野に属します。私はまだあまり勉強しておりませんので、そこまでは致しません。そちらの方が難しいのです。

というのは、こちらの世界の暗黒界にいる者を取り巻く悪の影響力は地上のそれに比して遥かに邪悪なのです。地上はまだ善の中に悪が混じっている程度ですから“まし”です。

こちらへ来た邪悪な人間がうっかりその暗黒界へ足を踏み入れようものなら、その途轍(とてつ)もなく恐ろしい世界から抜け出る事の大変さを思い知らされます。想像を超えた長い年月に亘って絶望と諦めの状態で過ごす霊が多い理由はそこにあります。

暗黒の世界から這い上がって来た霊魂が無事その橋を渡り切ると天使様が優しく手を取って案内してあげます。やがて草木の茂った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした足どりで来たはずなのに辺りの美しさに打たれて喜びで気絶せんばかりの状態になります。

正反対の暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には僅かな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。

私は今“小高い丘”と言いましたが、高いと言ってもそれは暗黒の世界と比べた場合の事です。実際には光明の世界の中で1番低いところなのです。“裂け目”とか“淵”とかをあなたは寓話のつもりで受け止めているようだけど私が述べた通りに実際にそこに在(あ)るのです。

この事は以前にもどこかで説明があったはずです。それから、なぜ橋をトコトコ歩いて来るのか、なぜ“飛んで”来ないかと言うと、まだ霊的発達が十分でなくてそれが出来ないという事です。もしそんな真似をしたら、いっぺんに谷底へ落ちて道を見失ってしまいます。

私はまだ暗黒の世界へ深入りしておりません。ほんの少しだけですが、悲劇を見るのは当分これまで見たもので十分です。しばらく今の仕事に精一杯努力して、現在の恵まれた環境のもとで気の毒な人々に援助してあげれば、もっと暗黒界の奥まで入る事を許されるかも知れません。多分許されるでしょう。しかしそれはまだ先の話です。

あと1つだけお話しましょう。 – あなたはそろそろ寝(やす)まなくてはならないだろうからね。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、狐火のようなものがチラチラ見えるそうです。

私は実際に見ていないのではっきりした事は言えませんが、それは仲間を取り逃がした暗黒界の霊魂が悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪は所詮、善には勝てないのです。いかに小さな善にもです。が、この事については今はこれ以上深入りしません。

私が今述べた事は私が実際に見たものではなく又聞(またぎ)き、つまり人から間接的に聞いた事です。ですが本当の事です。ではおやすみ。神の御光と安らぎが注がれますように。その御光の中にこそ光明を見出される事でしょう。そうしてその輝きこそ無限に開け行く安らかなる魂の黎明なのです。

↑目次へ↑

5 キリスト神の“顕現”

1913年 9月27日 土曜日

– もう少し鮮明に感応できないものですか。

これまで以上に鮮明にする必要はありません。私たちからのメッセージは一応意図したとおりに通じております。つまりこちらでの私たちの生活ぶりや環境は一応理解して頂けております。

ただ、1つだけ付け加えておきたい事は、こちらへ来たばかりの私たちはまだ霊としての本来の能力を発揮しておらず、あなた方が実感を得ている環境が私たちにはモヤのように漠然としか映らず、その状態で最善を尽さねばならないという事です。

– 私がこうして書いている姿が見えますか。

見えますとも。ただし肉眼とは別のもので見ております。私たちの眼は地上の明りには慣れておりません。こちらの世界の明りは種類が異なり内部まで貫通する作用があります。

それであなたの心の中を見て取り、また心に直接話しかける – あなたそのものに語りかけるのであって、もちろんあなたのその左右の耳ではありません。同じように私たちがあなたを見る時はあなたそのものを見ており、その肉体ではありません。肉体は外郭に過ぎません。

ですから仮に私があなたに触れた場合、あなたはそれを肉体的に感じるのではなく霊的に感じる訳です。私たちの感応の具合を理解するにはその点を念頭において身体や脳といった器官の奥を見なければいけません。

どうやらあなたはこちらでの私たちの働きぶりや暮しの環境についてもっと知りたがっておいでのようですね。こちらへ来てからの進歩にとってぜひ理解しておく必要のある基本的な真理の1つは、神というものは地上と同じくこちらでも直接そのお姿を拝する事はできないという事です。

これは必ずしもこちらの世界へやって来る人間の全てが得心してくれるとは限らないのです。みんなこちらへ来たらすぐに神々しいお姿を拝せるものと期待します。そこでその信仰が間違っており神とはそういうものではないと言い聞かされて非常にがっかりします。

神の生命力と崇高さは別にこちらへ来なくても地上において、大自然の内奥を洞察する力をもつ者には明瞭に感得できるものです。こちらでも同じ事です。ただ異なるのは生命力により実感があり、その本性を知った者にはその活用が容易にできる事 – 辺りに脈動しており、より鋭敏な感覚を身につけた私たちには、それを地上にいた時よりも強く感得できるという事です。

以上は一般的な話として述べたのですが、これにもう1つ付け加えておく必要があるのは時おり“神の存在”を実感させる現象が特別の目的のために顕現される事がある事です。ではその1つをお話してみましょう。

ある時、私たちは田園地帯のある場所に召集されました。そこには地上時代の宗教も信仰も国籍も異なる人々が大勢集まる事になっておりました。到着すると一団の霊が地上との境界付近の一地域における救済活動の任期を終えて帰ってくるところでした。

地上を去って霊界入りしながら自分が死んだ事が自覚できずにいる霊を指導する仕事に携わっていた霊の一団です。その方たちに連れられて首尾よく死を自覚した霊が大勢まいりました。それぞれの落ち着くべき界へ行く前にそこで私たちと共に感謝の祈りを捧げるためです。

年齢は様々です。年ばかり取って若さも元気もない者、若くてまだ未熟な者など色々です。みんな一様に何か嬉しい事を期待している表情です。そして新しい仲間が次々と連れて来られるのを見て、民族による顔かたちの違い、地位や財産の違いから来る色とりどりの服装などを不思議そうにじろじろ見つめ合っておりました。

やがて全員が到着しました。すると突如として音楽が押し寄せる波の如く鳴り響いて、その大集団を家族的一体感で包み込みました。その時私たちの目に大きな光の十字架が見えました。その平野と接する大きな山の背に乗っているように見え、見ているとそれが砕けて細かい光の小片になり始めました。

だんだん判ってみると、それは高級界の天使の大集団で、それが山の上に十字架状に集結していたのでした。そのあたり一面が金色(こんじき)に輝き、遠くに位置する私たちにも暖かい愛の息吹(いぶ)きとなって伝わってきます。

天使の集団がこの低い環境(その天使達から見て低いという事ですが)に馴染むにつれて、その御姿が次第の私たちの視界に明瞭になってまいりました。するとです。ちょうど十字が交叉する辺りの上方にさらにもう1つの、一段と大きい天使の御姿が現れました。

それがどなたであるかは、そこに居合せた者には直感的に判りました。それはあなたにはもう察しがつくと思いますが、具象体(※)としてのキリスト神の一表現でした。

(※本来は形体をもたない存在が一時的にその存在を示すためにとる形態。それを見る者の理解度・宗教的信仰・先入観等によりさまざまな形態をとる。キリスト神とは地球神界の最高神つまり地球の守護神である。詳しくは第3巻で明かされる。 – 訳者)

大天使はしばらく黙ってじっと立っておられましたが、やがて右手を高々と上げられました。すると1本の光の柱が見え、それがその右手に乗りました。それは一種の通路だったのです。その光の柱の上を別の天使の一団が降りて来るのが見え、手のところまで来ると一たん立止まり、それぞれに両手を胸に当てて頭(こうべ)を垂れ、拝むような恰好でじっとしています。

すると大天使の手が大きく弧を画いて1回転し、その指先を平地へ向けられました。するとその光の柱が私たちの方向へ延びて来て、山の頂上と平地との間のかけ橋となり、その一番端がそこに集結していた私たちの上に掛りました。

見るとその光のかけ橋を通って先程の天使の一団が降りて来て、私たちの真上まで来ました。そこで両手を広げ、一斉に大天使のおられる山頂へ向きました。すると語るとも歌うともつかない大天使への賛歌が聞こえてまいりました。

その光景の美しさ、崇高さと言ったらありません。私たちは初めのうちはただただ畏れ多くて黙するのみでした。が、やがて私たちも一緒に歌いました。と言うよりは詠唱しました。それを教えるのが天使様たちの来られた目的だったのです。

詠唱していると、私たちとその山との間に青っぽいピンクの靄(もや)が発生し、それが不思議な働きをしたのです。まるで天体望遠鏡のレンズのように大天使の姿が大写しになり、そのお顔の表情まで見えるようになったのです。

同時に、すぐ下に立ち並ぶ天使の一段の姿も同じように大きく映って見えました。が私たちにはその優雅なお顔とお姿が見えるだけで、その真の霊格を読み取る力はありませんでした。その表情はとても私には述べる事は出来ません。

言葉では言い尽せない様々な要素が渾然一体となっておりました。愛と慈悲と喜びと威厳とが混じり合っておりました。その時に私が感じたのは、こうして神と私たちとが一体となった時、生命というものが実に聖なる尊さに溢れたものであるという事です。

仲間の者も同じものを感じ取ったと思いますが、その時はお互いに語り合うどころではなく、大天使様の御姿にただ魅入られておりました。やがてその靄が大気の中へ融け入ってしまいました。

山頂の十字架と大天使のお姿は同じ位置にありましたが前より鮮明度が薄れ、私たちの真上におられた天使の一団も今は去って大天使の上方に見えました。そして次第に全体が薄れて行き、やがて消滅しました。しかし大天使の存在感はその後も強烈に残っております。

多分今回のシーンを見せた目的はその存在感を印象づける事にあったのでしょう。私たちのように少しでもこちらにいる者に比べて、地上から来たばかりの者にはその見え方は鮮明ではなかったでしょうけど、それでも魂を鼓舞し安らぎを与えるには十分であったと思われます。

私たちはそれから少しの間その辺りを散策してから静かな足どりで家路につきました。誰もあまりしゃべりません。今見たシーンがあまりに印象的だったからです。そして又こうした顕現にはいろいろと考えさせられるものがあるのです。

その場にいる時はあまりの荘厳さに圧倒されて全部の意味を考えている余裕が無いのです。なので後になって段々に考えさせられる事になります。私たちは一緒に語り合い、印象を述べ合い、それを総合してそれまであまり理解していなかった事が啓示されている事を発見します。

今回の顕現で私たちが最も強い印象を受けた事は大天使様の“沈黙のうちに語る”その威力でした。一言も語られなかったにも拘らず、その動き1つ1つが声となって私たちに語りかけてくるように思えたのです。

それが何を語っているかは、実際に声に出しておられないのに、よく理解できました。今日はこれ位にしておきましょう。では、さようなら。求める者に主が何を用意されているか、そのうちあなたにも判る日が来る事を祈ります。

↑目次へ↑

6 暗黒界の天使

1913年9月29日 月曜日

これまでの通信をお読みになるに当たっては地上より高い視野から観るという事が実際にどんなものであるかを、十分に理解しておいて頂く必要があります。そうしないと私たちが述べた事柄に一見すると矛盾するかに思えるところがあって、あなたが不可解に思う事が少なくなかろうと思うのです。

前回の通信におけるキリスト神の具象体の出現と前々回の巨大な裂け目に橋が掛けられる話とは、私には極めて自然に繋ぐ事ができます。

というのは実体のあるものとして – もちろん霊界の私たちにとって実体があるという事です – 実感をもって私が目撃した暗黒界との間のかけ橋は、大天使と配下の霊団が今私たちが働いている界とその霊団のいる高級界との間にかけた“光の柱”と、実質的には同じ目に見えないエネルギーによる現象だからです。

私たちにとってその具象化の現象が、あなた方人間にとっての物質化現象のようなものである事がこれでお判りでしょう。あれは私たち低い界にいる者には使いこなせない高次元のバイブレーションによって、高級霊がこの“父の王国”(※)の中の2つの土地を結んだ訳です。

どういう具合にするのかは今のところ推察する他はないのですが、私たちのように地上からやって来た者には、この界と一段上の界とを結ぶ事は別に不思議な事とは思えないのです。

(※本書ではキリスト教的表現がそのまま使用される事が多い。これも聖書の中のイエスの言葉で、広義には死後の世界全体、狭義にはその上級界すなわち神界を指す事がある。 – 訳者)

あなたにもっともっと私たちの世界の脅威について勉強して頂きたいというのが私たちの願いです。そうすれば地上生活にありながらもそうした事が自然な事に思えるようになるでしょうし、さらにこちらへ来てから全くの不案内という事もなくて済むのではないでしょうか。

地上生活にあってもという意味は、つまりは地上は天上界の胚芽期のようなもので、天上界は地上を磨き上げて完成させたものだという事を悟るという事です。こちらへ来てからの事は言うまでもないでしょう。

そこで、この問題に関してあなたの理解を助ける意味で私たちが大切なものと大切でないものとを見分け区別する、その分類法についてお話してみようかと思います。

私たちは何か困った事が生じると – 私たちの仲間うちだけの話ですが -どこかの建物の屋上とか丘の頂上など、どこか高いところで周囲が遠くまで見渡せるところに登ります。そこでその困り事を口で述べ、言い終るとしばらく、言わば自分の殻の中に退避するように努めます。

すると普段の自分より高い次元のものを見聞きするようになり、大切なものがその視力と聴力に反応し、そのままいつまでも高い次元に存在し続けるのが判ります。一方、大して重要でないものについては何も見えもせず聞こえもせず、それで大切か否かが区別できる事になります。

– 判るような気もしますが何かよい例を挙げて頂けませんか。

よろしい。ではある婦人の例で“不信感”のために進歩を阻害され満足感が得られないまま過ごしていた人の話をしてみましょう。その方は決して悪い人ではないのですが自分自身の事も周りの人の事も、どうも確信がもてないのでした。

中でも一番確信がもてないのが天使の事 – 果たして本当に光と善の存在なのか、もしかしたら天使の身分でありながら同時に暗黒の存在という事も有得るのではないかと疑ったりするのでした。私たちは頭初なぜそんな事で悩むのか理解できませんでした。

と言うのは、ここでは何もかもが愛と光明にあふれているように私には思えるからです。が、そのうち判った事は、その方には自分より先に他界した親戚の人が何人かいて、こちらへ来てもその人たちの姿が1人も見当らず、どこにいるのかも判らないという事が原因なのでした。

そうと判ってから私たちはいろいろと相談したあげくに、ある丘に登ってその方を救ってあげる最良の方法を教えてくださいと祈ったのです。すると思いも寄らない驚くべき事が起きました。

ひざまずいていると丘の頂上が透明になり、私たちは頭を垂れていましたから丘を突き抜けて下の界の一部がくっきりと見えはじめたのです。その時私が見た情景 – 私たち5人全員が見たのですから幻影ではありません – は薄暗い闇の中に荒涼とした平地で、ひとりの大柄な男が岩に背をもたれて立っております。

そしてその男の前にはもう1人、少し小柄な人が顔を手で蔽った恰好で地面にひざまずいております。それも男性でした。どうやら立っている男に何か言い訳しているみたいで立っている男が不審の表情で聞いております。

やがて突然その男が屈み込み伏せている男を掴まえて自分の胸の辺りまで立ち上がらせ、そのまま遠くの地平線の、ほのかな明りの見える方向へと平地を大股で歩いて行きました。彼は小柄な男を引きずりながら相当な道のりを歩きました。

そしてやがて明りがずっと大きく見える辺りまで来ると手を離し、行くべき方向を指さしました。すると小柄な男がさかんに礼を言っている様子が見えます。やがてその男は明りの方向へ走って行きました。私たちはその男のあとを目で追いました。

あるところまで来ると大柄な男が橋の方角を指さします。それは前にお話したあの橋です。ただしそこは例の“裂け目”の暗黒界側の端です。その時点でも私たちはなぜこんな光景を見せられるのかが理解できませんでした。

が、とにかく後を追い続けると、その橋の入口のところに建てられた大きな建物に辿り着きました。見張りのための塔ではなく暗黒界側からやって来た者に休養と介助を施すところです。その塔からは、その男がずっと見えていた事が判りました。

と言うのは、その男が辿り着くとすぐに、橋の上の次の塔へ向けて合図の明かりが点滅されるのが見えたのです。その時点で丘が普通の状態に戻りました。そしてそれ以上何も見えませんでした。私たちはますます判らなくなりました。そして丘を降りて帰ろうとしました。

するとその途中で私たちの霊団の最高指導者であられる女性の霊が迎えて下さり、そしてその方と一緒にもう1人、私たちの界のある地域の高い地位の方と思(おぼ)しき男の方がおられました。私たちがまだ1度もお会いした事のない方でした。

指導霊がおっしゃるには、その男の方は今しがた私たちが見た光景について説明するためにお出で下さったとの事でした。お話によりますと小柄な男性は例の私たちが何とかしなければと思っている女性のかつてのご主人で、私たちからその婦人に早くあの橋へ行き、そこでしばらく滞在しておればご主人がやってくるであろう事を告げてあげるようにとの事でした。

例の大柄な男はその婦人ならさしずめ“闇の天使”とでも呼びたがりそうな存在で、暗黒界でも相当強力な勢力をもつ霊の1人だという事です。でもあのシーンからも想像できますように良い事もするのです。ではなぜいつまでも暗黒の世界に留まっているのですか、と私たちは尋ねてみました。

その方は笑顔でこう答えられました。「父なる神の王国はあなた方が想像されるより遥かに素晴らしいところです。これまであなた方は、いかなる地域もいかなる界層も他と完全に離れて独立し、それ自体で完全というところは1つも見当らなかったはずです。そのようなところは1つも存在しないのです。

あの暗黒の天使の本性の中にも各界層の知識と善性と邪悪性とが混ざり合っております。あの土地に留まっているのは、1つにはその本性の中の邪悪性のせいで、それが光明の土地に馴染めなくしているのです。

もう1つの理由は、心掛け次第で向上できるのに本人がそれを望まないという事です。それは1つには強情さのせいでもありますが、同時に光明を憎むところがあり、あの途方もなく急な坂道を登って行こうとする者を大バカ者だと思っております。

光明界と暗黒界の対比のせいで、その坂道を登る時の苦痛と煩悶が事さらに大きく感じられるからです。それで彼はその土地に留まるのです。彼のように一種の憂うつと麻痺的絶望感のために光明界へ来ようとしない霊が無数におります。

そうかと思うと彼は憎しみと錯乱から残忍性をむき出しにする事があります。あなた方が先程ご覧になったあの男にも散々残忍な行為を働き、いじめあげておりました。それも臆病なごろつきによく見られる残忍さをもってやっておりました。

が、その残忍性も尽き果てたのでしょう。ご覧になったように、男の嘆願が彼の魂の柔らかい琴線に少し触れると、気持ちが変らないうちにと男を放してやり、道まで教えてやりました。きっと心の奥ではあの愚か者が…と思いながらも自分よりは“ましな愚か者”だと思っていた事でしょう。」

こうした話は私にとって初めての事でした。あの暗黒界にも少しでも善性があるとは知りませんでした。でも今にして思えば、そうであって当然だと思います。なぜならもし完全な悪のかたまりであれば私たちのいる光明界へ来ようなどという心は起きないでしょうから。

– それにしてもこの話は最初に言われた大切なものとそうでないものとを見分ける事と一体どういう関わりがあるのでしょうか。

善なるものが全て神のものである事は言うまでもありませんが、われわれ神の子にとっては光明も暗黒も絶対ではなく、また絶対では有得ないという事です。両者は相対的に理解しなくてはいけません。今にして判った事は“暗黒界の天使”が大勢いるという事です。

その人たちは魂の本性に何か歪んだもの、善なるものへの志向を妨げる強情なところがあるために“今のところは”暗黒界にいる。が、そのうちいつか、長い長い生命の旅路において、もしかしたら今のところ彼らより祝福されている私たちを追い越し、神の王国において高い地位を占める事になるかも知れないのです。

ではお寝みなさい。私たちが書いた事をよく熟考して下さい。私たちにとっても大変勉強になりました。こうした事が地上にいる人々の多くの方々にも学んで頂ければ有難いと思うのですが。

↑目次へ↑

2章 薄明の世界

1 霊界のフェスティバル

1913年9月30日 火曜日

こうして私たちが地上へ降りて来て、今なお地上という谷間を歩む1個の人間と通信を交す時の心境はまずあなたには判らないでしょう。同じく霊界にいる者の中でも私たちは余ほど恵まれた境遇にある事を身に沁みて感じるのです。

それと言うのも、こうして人類の向上のために役立つ道がある事を自信をもって語れる段階まで来てみますと、善行と啓発の可能性は本当に無限にあるように思えるのです。もっとも、今のところ私たちにできる事は限られております。

あなたのように神を信じその子イエスに身をあずける事によって神に奉仕する者には何ひとつ恐れるものは無いとの信念のもとに、勇敢に私たちに協力してくれる者(※)が出てくるまでは、この程度で佳(よ)しとしなければならないでしょう。

(※オーエン氏はもともと英国国教会の牧師で「推薦文」の筆者ノースクリッフ卿が社主であった新聞 The Weekly Despatch にこの霊界通信を連載した事で教会長老から弾圧を受け撤回を迫られたが、それを拒否したために牧師の職を追われた経緯がある – 訳者)

今なお霊魂の存在と私たちの使命とメッセージに疑いをはさむ人のためにひとこと言わせて頂けば、私たちが美しい霊界の住処(すみか)を離れて地球を包む暗い霧の中へと降りて来る時は、決して鼻歌まじりの軽い気持で来るのではありません。私たちには使命があるのです。誰かがやらねばならない仕事を携えてやって来るのです。そしてその事に喜びを感じているのです。

さてあれから少し後 – 地上的な言い方をすれば – の事です。私たちは、とある広い場所へ案内されました。そこには大きな湖 – 湖盆と言った方がよいようなもの – があり、その中へ絶え間なく水が流れ込んでおり、周りにはかなりの感覚を置いて塔のついた大きな会館(ホール)のようなものが立ち並んでおります。

建築様式も違えばデザインも違い、素材も同じ種類ではありません。ホールの周りには広々とした庭園や森があって中には何マイルにも広がっているものもあり、そこには各種の動物や植物が群っております。大部分は地上でも見かけるものですが見かけないものもあります。

ただし私の記憶では現在は見かけなくてもかつては生息したものが少しはあると思います。以上が外観です。私がお話したいのは、そうしたコロニーの存在の目的です。目的は実は音楽の創造と楽器の製造に他なりません。ここに住む人たちは音楽の研究に携わっているのです。

各種の音楽の組み合わせ、その効果、それも単に“音”として捉えるのではなく、他の要素との関連をも研究します。幾つかの建物を見学して回りましたがそこに働く人全員が明るく楽しそうな表情で私たちを迎えてくださり、すみずみまで案内してくださいました。

同時に私たちに理解できる範囲の事を説明して下さいましたが、正直言ってそれはそう多くはありませんでした。では私たちに理解できた範囲の事を説明してみましょう。

ある建物 – 見学してみると製造工場というより研究所と呼んだ方が良いと思いました – の中では、地上で作曲の才能のある人間へ音楽的インスピレーションを送る最良の方法の研究に専念しており、またある建物では演奏の得意な人間に注目し、さらには声学の得意な人間、教会音楽の専門家、コンサートミュージック、あるいはオペラの作曲に携わる人間等々のために各々の建物が割り当てられているのです。

研究の成果は体系的に図表化されます。そこまでがここに働く人たちの仕事です。その成果を今度は別のグループの人たちが目を通し、それをどうすれば最も効果的に地上へ送れるかを検討します。検討が終るとさらに別のグループの人たちが実際にベールを通して地上へ送る作業に取り掛かります。

まず目標とすべき人間が選別されます。すなわちインスピレーションに最も感応しやすいタイプです。そうした選別を得意とするグループが別にいて細かい検討が加えられます。全てが整然としております。

湖の周りの研究所から地上の教室やコンサートホール、オペラハウス等へ向けて天上の音楽を送り届ける事に常時携わっている人たちの連繋組織があるのです。こういう具合にして地上に立派な音楽が生まれるのです…。

もちろんそうです。地上の音楽の全てがこちらから送られたものとは限りません。それはこちらの音楽関係者の責任ではなくベールのそちら側の入口に問題があり、同時にこちら側の暗黒界の霊団による影響もあり受け取った地上の作曲家の性格によって色づけされてしまう事もあります。

– 塔は何のためにあるのでしょうか。

これからそれを説明しようと思っていたところです。湖は広大な地域に広がっており、その沿岸から少し離れたい一円にさっきの建物(ホール)が建っております。

そして時おり、あらかじめ定められた時が来ると、それぞれの研究所(ホール)で働く人のうちの幾人か – 時には全員 – がそれぞれの塔に集まり、集結し終るとコンサート、まさにコンサートの名に相応しいコンサートが催されます。演奏曲目は前もって打合せができております。

1つの塔には1つのクラスの演奏者がおり、別の塔には別のクラスの演奏者がおり、次の塔に一定の音域の合唱団がおり、そのまた次の塔には別の音域の合唱団がおります。それが幾つもあるのです。

地上では4つの音域しかありませんが、霊界では音域がたくさんあるのです。さらに別の塔の人にも別の受持ちがあるのですが、私には理解できませんでした。私の推測ではそれぞれの塔からの音量を適度に調和させる専門家もいるようでした。

その事よりも私は催しそのもの – コンサート、フェスティバル、何でも宜しい – の話に入りたいと思います。私たちは湖の真ん中あたりにある島へ案内されました。そこは美しい木々と芝生と花が生い茂り、テラスや東屋、石または木でできた腰掛などがしつらえてあります。

そこでフェスティバルを聞いたのです。まず最初にコードが鳴り響きました。長く途切れる事なく、そして次第に大きくなって行き、遂にはその土地全体 – 陸も水も樹木の葉1枚1枚までも行き亘っていくように思えました。

それは全ての塔にいる楽団及び合唱団にキーを知らせるものでした。やがてそれが弱まっていき全体がシーンと静まりかえりました。すると今度は次第にオーケストラの演奏が聞こえてまいりました。多くの塔から出ているのですが、どの演奏がどの塔という区別がつきません。

完全なハーモニーがあり、音調のバランスは完璧でした。続いて合唱が始まりました。その天上の音楽を地上の言語で叙述するなど、とても無理な話なのですが、でもその何分の一かでも感じ取って頂けるかも知れないと思って述べているのです。

簡単に言えば全ての存在をより“麗わしく”するものがありました。“美しい”というだけではないのです。“麗わしさ”があるのです。この2つの形容詞は意味合いが違うつもりで使用しております。

私たちの顔に麗わしい色合いと表情が表れ、樹木は色彩が一段と深みを増し、大気は虹のような色彩をした霞に似たものに変化して行きました。それが何の邪魔にもならないのです。むしろ全てを一体化させるような感じすらいたしました。

さらには動物や小鳥までがその音楽に反応を示しているのです。1羽の白い鳥が特に記憶に残っておりますが、その美しい乳白色の羽根が次第に輝きを増し、林の方へ飛んでいく直前に見た時は、まるで磨き上げた黄金のような色、 – 透明な光あるいは炎のように輝いておりました。

やがて霞がゆっくりと消えて行くと私たち全員、そして何もかもが再びいつもの状態に戻りました。と言っても余韻は残っておりました。強いて言うならば“安らぎ”とでも言うべきものでした。

以上がこの“音楽の里”で得た体験です。私たちが聞いた音楽はその後専門家が出来具合を繰返し討論し合い、ここを直しそこを直しして、これを何かの時、例えばこちらでの感謝祭(※)とか、地上での任務を終えて帰ってくる霊団を迎えるレセプションとか、その他の用途に使用される事になります。

(※霊界でもよく祭日が祝われる話が他の霊界通信にも出てくる。地上を真似たのではなく、逆に霊界の催しが人間界に反映しているのである。 – 訳者)何しろこちらの世界では音楽が全ての生活面に浸透しております。

いえ、全てが音楽であるようにさえ思えるのです。音楽と色彩と美の世界です。全てが神の愛の中で生きております。私たちはとてもその愛に応え切れません。なのに神の愛が私たちを高き世界へと誘い、行き着くところ全てに神の愛がみなぎり、神の美を身につける如くにその愛を身につけなくてはいけないのです。

そうせざるを得ないのです。なぜなら天界では神が全てであり、何ものにも替えられないものだからです。愛とは喜びです。それをあなたが実感として理解するようになるのは、あなた自身が私たちと同じところへ来て私たちと同じものを聞き、私たちが神の愛を少し知る毎に見る事を得た神の美が上下前後左右あたり一面に息づき輝いているのを目の当りにした時の事でしかないでしょう。

力強く生きなさい。勇気をもって生きなさい。それだけの価値のある人生です。それは私たち自らが証言しているのですから。

ではお寝み。時おりあなたの睡眠中に今お話したような音楽のかすかな“こだま”をあなたの霊的環境の中に漂わせているのですよ。それは必ず翌日の生活と仕事の中に良い影響を及ぼしております。

↑目次へ↑

2 色彩の館

1913年10月1日 水曜日

昨晩の“音楽の里”について述べた事は私たちが見聞きした事のホンの概略を述べたものです。それに私たちはその里のごく一部しか見学していないのです。聞くところによりますと実際はその時想像していたよりも遥かに広いもので、湖を中心として遠く山岳地方まで広がっております。

その山の地方にも研究所があり、一種の無線装置によって他の研究所と連絡を取りながら全体としての共同研究が休みなく続けられております。見学を終えて帰り道で脇へ目をやると、また目新しいものが目に入りました。

とても大きな樹木の植林地で、その中にも高い建物が聳えております。前のようなただの塔ではなく、色とりどりの大小の尖塔やドームが付いており、その中に大小のホールが幾つもありました。それが1つの建物で、とても高くまた広々としております。

私たちが訪ねると住人の1人がとても丁寧に優しく迎えて中へ案内して下さいました。そしてまずその壁の不思議さに驚かされました。外側から見ると不透明なのに内側から見ると透明なのです。

そして大小のホールを次から次へと回って気がついたのは、各々のホールの照明の色調が多少ずつ隣のホールと違っている事でした。元の色彩は同じなのです。ですから別の色という感じはしないのですが、その深みとか明るさとかが少しずつ違っておりました。

小さいホールは殆ど同じ色調をしておりました。その数多い小ホールを通過して行くと幾つか目に大ホールがあり、そこに、それに連なる小ホールの色彩の全てが集められております。果たして小ホールの1つ1つが1個の色調を滲出していると断言する自信はありませんが思い出す限りではそんな印象でした。

見たものがあまりに多くて1つ1つを細かく憶えていないのです。それに、それがはじめての訪問でした。ですから大ざっぱな説明と受止めてください。

大ホールの1つは“オレンジホール”と呼ばれ、そこには原色のオレンジの有りとあらゆる色調 – ほんのりとした明るい黄金色から最も深いオレンジ色までありました。

さらにもう1つの大ホールは“レッドホール”と呼ばれ、ピンクのバラの花びらのうっすらとした色調から深紅のバラかダリヤの濃い色調までがホールいっぱいに漂っていました。

さらには“バイオレットホール”というのがあり、ヘリオトロープあるいはアメジストのあの微妙な紫の色調からパンジーのあの濃い暗い色調まで輝いております。

このような具合にしてその他の色彩にもそれぞれのホールがあるのですが言い落してならないのは、これ以外にあなたの知らない色 – 7色以外の言わば紫外色と赤外色もある事で、それはそれは素敵な色です。

そうした色調は1つに融合してしまう事なく、それぞれが独自の色調を発散しながら、それでいて全体が素敵に美事に調和しているのです。そうした透明な建物(ホール)が一体何のためにあるのかと思っておられるようですね。

それは各種の生命 – 動物、植物、それに鉱物、このうち特に前2者へ及ぼす色彩の研究をするところなのです。これに衣服も含まれます。私たちの衣服の生地と色調は着る人の霊格と性格を反映するからです。自分を取巻く環境は言わば自分の一部です。

それはあなた方人間も同じです。中でも光が1つの要素、重要な要素となっています。私たちがホールで見たとおり、各種の条件下で実験する上でも重要な働きをしているのです。聞くところによりますと、こうした研究の成果が地球及び他の惑星の植物を担当しているグループへ手渡されるそうです。

しかし全てが採用される訳ではありません。繊細すぎて地球や他の惑星のような鈍重な世界に応用できないものがあり、結局ほんの一部だけが地球へ向けられる事になるそうです。残念ですがこれ以上の事は私には述べられません。

1つには今述べた環境上の制約がありますし、また1つには内容が科学的で私には不向きという事でもあります。ただ1つだけそこでお尋ねした事を付け加えておきましょう。そこでは原色の全てを1つのホールに一緒に集める事はしません。

なぜだかは知りません。もしかしたら私よりその方向に通じている仲間の人たちが考えているように、一緒にした時に出るエネルギーがあまりに強烈なので、特別に設計した建物を、それも多分どこか高い山の中にでも建てなくてはならないのかも知れません。

仲間の人たちが言うには、その場合は周辺のかなりの距離の範囲で植物が生育しないだろうという事です。さらに私たちがお会いした人々が果たしてそうした莫大なエネルギーを処理(コントロール)できるか疑問だと言っております。もっと高い霊格と技術が必要であろうと考える訳です。

しかしもしかしたら高い界へ行けば既にそうした研究所があって、それが今紹介した研究所と連絡が取れているのかも知れません。こちらの整然とした秩序から判断すれば、その想像はまず間違いないでしょう。

私がそのコロニー、あるいは総合研究所と呼んでも良いかも知れませんが、そこを出て中央のドームが見上げられる少し離れた場所まで来た時、私たちのこの度の見学旅行を滞りなく進めるために同伴していた指導霊が私たちの足を止めて、出発の時から約束していたお別れのプレゼントをお見せしましょうとおっしゃるのです。

何だろうと思って見つめたのですが何も見えません。少し間を置いてからみんな怪訝(けげん)な顔で指導霊を見つめました。すると指導霊はにっこり笑っておられます。私たちはもう1度よく見ました。やがて仲間の1人が言いました。

「さっきここで足を止めて見上げた時、あのドームは何色だったかしら」するともう1人が「赤色だったと思うけど」と言いますが誰1人確実に憶えている者はいませんでした。ともかくその時の色は黄金色をしておりました。

そこで「暫く見ていましょうよ」と言ってみんなで見つめておりますと、なるほど、やがてそれが緑色に変りました。ところがいつどの辺りから緑色に変色し始めるのかが見分けられないのです。その調子で次から次へと一様に色彩が変化していくのです。それが暫くの間続きましたが、何とも言えない美しさでした。

やがてドームが完全に見えなくなりました。指導霊の話ではドームはちゃんと同じ場所にあるのだそうです。それが各ホールからある種の光の要素を集めて組み合わせる事によって、そのように姿が見えなくなる – それがその建物で仕事をしている人が工夫した成果の1つだという事です。

そう見ているとドームと林の上空に – ドームは見えないままです – 巨大なピンクのバラが出現しました。それがゆっくりと色調を深めて深紅に変わり、その大きな花びらの間で美しい容姿をした子供たちが遊び戯れていたり、大人の男女が立ち話をしていたり、歩きながら話に興じたりしています。

みんな素敵で美しい、そして幸せそうな姿をしております。一方では小鹿や親鹿、小鳥などが走り回ったり飛び回ったり寝そべったりしています。花びらが膨張して丘陵地や小山等の自然の風景の舞台と化し、その上を子供たちが動物と楽しそうに可憐な姿で遊び戯れているのです。

それがやがてゆっくりと薄れて行き、そのうちただの虚空に戻りました。私はその場に立ったまま、そうした光景を幾つか見せて頂いたのです。

もう1つ見せて頂いたのは光の円柱で、ちょうどドームのある辺りから垂直に伸び、そのまま天空に直立しておりました。純白の光で、その安定した形を見ていると、まるで固形物のように見えました。

そのうち先ほどのホールの1つから一条の色彩を帯びた光が斜めに放たれて光の円柱に当りました。すると各々のホールからさまざまな色彩の光が放たれました。

赤、青、緑、紫、オレンジ – 淡いものから中間のもの、そして濃いものまで – いろいろで、あなたの知っているものはもちろん、ご存知でない色彩も幾つかありました。それらの全てが純白の光の柱の中間部に斜めにつながりました。

見ているとそれが形を整えはじめました。1本1本が道となり、沿道にビルや住居、城、森、寺院、その他が建ち並んでおります。そしてその傾斜した道を大勢の人が上がって行きます。1つの道は全部同じ色をしておりますが、色調は多彩でした。

それはそれは素敵な光景でした。円柱まで近づくと、少し手前のところでそれを取囲むような形で立止まりました。すると円柱の頂上が美しい白ゆりの花のように、ゆっくりと開きました。

そしてその花びらがうねりながら反(そ)り返って下へ下へと垂れて行き、立止まっている群集と円柱との間に広がりました。すると今度は円柱の底辺が同じように開き、円い踊り場のような形で、群集が立ち止まっている場所との空間を埋めました。

これで群集は上へ上がる事ができます。今や全体が – 馬も乗り物も – それぞれの色調を留めながら渾然となっております。その様子はまるで祝宴か祭礼にでも臨むかのように、多彩な色調をした1つの巨大なパビリオンに集まり行く素敵で楽しい大群衆を見ているという感じでした。

その群集の色調が天井と床つまり舗道に反映し、その全体から発する光輝は何とも言いようのないほど素晴らしいものでした。やがて群集は幾つかのグループに分れました。すると中央の光の円柱が巨大なオルガンのような音を鳴響かせました。

何が始まろうとしているかはすぐに判りました。間もなく声楽と器楽による“グロリア・イン・エクセルシス・デオ”(※)の大音楽が始まりました。

高き光の中に在(ま)します神 – 全ての子等に生命を与え、その栄光を子等が耐え得るだけの光の中に反映され給う全知全能なる神よ – と、大体そういう意味の讃歌が歌われ、そしてこのシーンも次第に消えて行きました。

多分この後その大群衆は光の道を後戻りして帰って行ったのでしょうが、それは見せて頂けませんでした。確かに、その必要もなかったのです。さ、時間が来ました。残念ですがこれにて終りにしなければなりませんね。では神の御加護のあらん事を。

(※ Gloria in Excelsis Deo “天なる神に栄光あれ”の意のラテン語で、キリスト教の大頌栄(しょうえい)の最初の句。ルカ2・14 – 訳者)

↑目次へ↑

3 意念の力

1913年10月2日 木曜日

“イスラエルの民に申すがよい – ひたすらに前進せよ、と”(※)これが私たちが今あなたに申し上げたいメッセージです。ひるんではいけません。行く道はきっと明るく照らしてくださいます。全能なる神と主イエスを固く信じる者には何1つ恐れるものはありません。

(※モーセが神のお告げに従ってイスラエルの民を引連れてエジプトを脱出する時、ひるみかける民を励ました言葉であるが、この頃オーエン氏は国教会長老から弾圧を受け内心動揺を来していた事が推察される – 訳者)

私たちが今さらこのような事を書くのは、あなたの心にまだ何かしら疑念が漂っているからです。私たちの存在を感じ取っておられる事は私たちにも判っております。

ですが前回に述べたような話が余りに“おとぎ話”じみて信じられないようですね。では申しますが実を言えばこうした天界の不思議さ美しさは、地上のいかなるおとぎ話も足もとにもよれないくらい“もっともっと不思議”で美しいのです。

それにおとぎ話の中に出て来る風景や建物は、こちらで見られるものと似ていない事もないのです。まだほんの僅かしか見物しておりませんが、その僅かな見聞から判断しても、地上の人間の想像力から生まれるものなどは、その不自由な肉体をかなぐり棄ててこの天界の光の中に立った時に待ち受けている栄光に比べれば、全く物の数ではない事を確信しております。

さて今夜お話したいのは、これまでとは少し趣が異なり、私たち新米を教え楽しませるために見せてくださった現象的な事ではなくして、こちらの事物の本質に関わる事です。今あたりを広々と見下ろす高い山の頂上に立ったとしましょう。そこから見晴らす光景はどこか地上とは違うのです。

例えば、まず空気の透み切り具合と距離感が地上とどこか違う事に気づきます。“遠い”と言っても地上での遠さとは違うのです。と言うのは、その頂上から地平線の近く、あるいはさらにその向うのある地点へ行きたいと思えば、わざわざ山を下りなくとも“そう念ずるだけで”行けるのです。

速く行けるか遅いかは意念の性質と霊格次第です。また今おかれている境涯の霊的性質より一段と精妙な大気 – とでも呼ぶより仕方ないでしょう – に包まれた地域へ突入できるか否かも、その人の意念と霊格次第なのです。

高級界からお出でになる天使のお姿が私たちに必ずしも見えないのはそのためです。見え方も人によって異なります。みんなが同じお姿を拝するのは、私たちの視覚に合ったように容姿を整えられた時だけです。

もしその方の後について行く、つまりその方の本来の世界へ向って行きますと途中で疲労を覚え、ついて行けなくなって来ます。霊力次第でもっと先まで行ける者もおりますが。

さらにその頂上に立ってみますと天空が不透明に見えるのですが、それは天空そのものの問題ではなくて霊的な光の性質つまり下の景色から距離が大きくなるにつれて強度を増して行く性質をもつ霊的な光の問題である事が判ります。ですから霊力次第で遠くまで見通してそこに存在する生命や景色が見える人もおれば見えない人もいる訳です。

また見渡せば一面に住居やビルが建ち並んでいるのが見えます。そのうちの幾つかは私が説明した通りです。しかしビルと言っても単なる建物、単なる仕事場、あるいは研究所というのではありません。

その1つ1つの構造からはその建物の性格は愚か、それを建築した人およびそこに住まう人の性格も読み取れない事でしょう。永遠に朽ちる事なく存在している事は確かです。が地上の建物がいつまでも陰気に立ち残っているのとは違います。

常に発展し、装飾を改め、必要に応じて色彩、形、素材を変えて行きます。取壊して再び建直すという手間はいりません。建っているままの状態で手直しをします。時の経過による影響は出てきません。崩れたり朽ちたりいたしません。

その耐久性はひとえに建築主の意念に掛かっており、意念を維持している限り立っており、意念次第で形が変えられます。もう1つ気がつく事は、小鳥が遠くから飛んできて、完璧な正確さで目標物にとまる事です。こちらにも伝書バトのように訓練された鳥がおります。

でも地上とは躾け方が違います。第一こちらの鳥は撃ち落とされたりいじめられたりしませんから人間を怖がりません。そこで鳥を1つの通信手段として使用する事があります。もちろん不可欠の手段という訳ではありません。他にもっと迅速で能率的な通信方法があるのですから。

ですが必需品でなくても美しいからというだけで装飾品として身につける事があるのと同じで、小鳥を愛玩動物として通信に使用する訳です。そんなのがしょっ中飛交っており、とても可愛くて愛すべき動物です。小鳥も仕事をちゃんとわきまえていて喜んでやっております。

面白い話を聞きました。ある時そんな鳥の1羽が仲間を追い抜こうとして、ついスピードを出しすぎて地球の圏内に入り込んでしまいました。それを霊視能力のある人間が見つけて発砲しました。

驚いた小鳥は – 銃の音に驚いたのではありません。撃とうとした時の意念を感じ取ったのです – ここは自分のいるところではない事に気づき慌(あわ)てて逃げ帰りました。感じ取ったのは“殺そうという欲念”でした。

それを不気味に思った小鳥はその体験を仲間に話して聞かせようとするのですが、うまく話せません。それはそうです。何しろそんな邪念はこちらの小鳥は知らないのですから。こちらでの小鳥の生活を地上の小鳥に話しても分ってもらえないのと同じです。

そして仲間がこう言いました – 君が話せないなら、もう1度地球へ戻ってその男を見つけ、どう話して聞かせたらいいか尋ねて来たらどうか、と。そう言われて小鳥はその通りにしました。するとその人間 – 農夫でした – が“ピジンパイ”と言えば分って貰えるだろうと答えました。

小鳥はその返事を携えて帰ってきましたが、さてその言葉をどう訳せばよいのかが判らず、第一その意味も分らなかったので自分の判断で次のような意味の事を伝えました。

すなわち、これから地球を訪れる者はそこが本当に自分にとって適切な界であるかどうかをよく確かめてからにしなさい、と。この話が教えんとしているのはこういう事です。与えられた仕事は、自分で納得がいき仲間も納得する範囲で努力すべき事 – 熱心のあまり自分の立場あるいは“領域”を確かめずに仲間を出し抜いてはならない。

さもないと自分では“進んでる”つもりでいて実はスタートした界より下の界層へ堕落し、そこの最高の者さえ自分本来の界の最低の者より進歩が遅れており、仲間として連れだって行く相手としては面白くないといった結果になるという事です。これなどは軽い小話(エピソード)程度に聞いて頂けば結構です。

が、これで私たちも時には笑い転げる事もある事、バカげた冗談を言ったり、真面目なつもりで間の抜けた事をしたりする事もある事、そして地上を去ってこちらへ来ても取り立てて成長していない面もある事がお判り頂ける事でしょう。では、さようなら。常に愉しい心を失わないようにね。

↑目次へ↑

4 死の自覚

1913年10月3日 金曜日

もしあなたが霊的交信の真実性に少しでも疑念を抱いた時は、これまでに受け取った通信をよく検討なさる事です。きっと私たちの述べた事に一貫した意図がある事を読み取られる事でしょう。

その意図とは、霊の世界が不思議な面もあるにせよ極めて自然に出来上がっている事をあなたに、そしてあなたを通じて他の人々に理解して頂く事です。実は私たちは時おり地上時代を振り返り、死後の世界を暗いものに想像していた事を反省して、今地上にいる人々にもっと明るく明確なものを抱かせてあげたいと思う事があるのです。

死後にどんな事が待受けているかがよく判らず従って極めて曖昧(あいまい)なものを抱いて生きておりました。それでよろしいと言う人が大勢おりますが、こうして真相の見える立場に立って見ると、やはり確固たる目的成就のためには曖昧ではいけないと思います。

確固たる来世観をもっておれば決断力を与え勇気ある態度に出る事を可能にします。大勢でなくても地上で善のために闘っておられる人々に霊界の実在と明るさについての信念を植えつける事ができれば、その明るい世界からこうして地上へ降りて来る苦労も大いに報われるというものです。

ではこれから地上の人間がこちらへ来た時に見せる反応をいろいろ紹介してみましょう。もちろん霊的発達段階が一様ではありませんから、こちらの対応の仕方も様々です。ご存知の通りその多くは当分の間自分がいわゆる“死んだ人間”である事に気づきません。

その理由は、ちゃんと身体をもって生きているからであり、それに死および死後について抱いていた先入観が決して容易に棄てられるものではないからです。そうした人たちに対して最初にしてあげる事は、ですからここがもう地上ではないのだという事を自覚させる事で、そのためにまたいろいろな手段を講じます。

1つの方法は既に他界している親しい友人あるいは肉親の名前をあげてみる事です。すると知っているけどもうこの世にはいませんと答えます。そこで当人を呼び寄せて対面させ、死んだ人もこうしてちゃんと生き続けている事を実証し、だからあなたも死んだ人間なのですよと説得します。

これが必ずしも効を奏さないのです。誤った死の観念が執拗(しつよう)に邪魔するのです。そこで手段を変える事になります。今度は地上の住み慣れた土地へ連れて行き、後に残した人々の様子を見せて、その様子が以前と違っている事を見せつけます。

それでも得心しない時は死の直前の体験の記憶を辿(たど)らせ、最後の眠りについた時の様子と、その眠りから覚めた時の様子とを繋いで、その違いを認識させるようにします。以上の手段が全部失敗するケースが決して少なくありません。あなたの想像以上にうまく行かないものです。

というのも性格は1年1年じっくりと築き上げられたものであり、それと併行して物の考え方もその性格に沁み込んでおります。ですからあまり性急な事をしないようにという配慮も必要です。無理をすると却って発達を遅らせる事にもなりかねません。

最もそんなに手こずらせる人ばかりではありません。物分りが良くてすぐに死んだ事を自覚してくれる人も居ります。こうなると私たちの仕事も楽です。

ある時私たちは大きな町のある病院へ行く事になりました。そこで他の何名かの人と共にこれから他界してくる1人の女性の世話をする事になっておりました。他の人たちはそれまでずっとその女性の病床で様子を窺っていたという事で、いよいよ女性が肉体を離れると同時に私たちが引き取る事になっておりました。

病室を覗くと大勢の人間がつめかけ、みんなまるでこれから途方もない惨事でも起きるかのような顔をしております。私たちから見るとそれが奇異に思えてならないのです。

なぜかと言えば、その女性はなかなか出来た方で、ようやく長い苦難と悲しみの人生を終え、病に冒された身体からもうすぐ解放されて光明の世界へ来ようとしている事が判るからです。

いよいよ昏睡状態に入りました。“生命の糸”を私の仲間が切断して、そっと目醒めを促しました。すると婦人は目を開き、覗き込んでいる人の顔を見てにっこりされました。暫くは安らかで満足しきった表情で横になっておられましたが、そのうちなぜ周囲にいるのが看護婦と縁故者でなくて見知らぬ人ばかりなのだろうと怪訝(けげん)に思い始めました。

ここはどこかと尋ねるのでありのままを言うと不思議さと懐かしさがこみ上げて来て、もう1度あとに残した肉親縁者を見せて欲しいと言います。婦人にはそれが叶えられました。(※)ベールを通して地上の病室にいる人々の姿が目に映りました。

すると悲しげに首を振って「私がこうして痛みから解放されてラクになった事を知ってくださればいいのに…」と溜息混じりに呟(つぶや)き、「あなた方から教えてあげて頂けないかしら」と言います。

そこで私たちが試みたのですが、そのうちの1人だけが通じたようです。がそれも十分ではなく、そのうちその人も幻覚だろうと思って忘れ去りました。(※誰にでも叶えられるとは限らない – 訳者)

私たちはその部屋を出ました。そしてその方の体力が幾分回復してから子供の学校へ案内しました。そこにその方のお子さんがいるのです。そのお子さんと再会した時の感激的シーンはとても言葉では尽せません。お子さんは数年前に他界し以来ずっとその学校にいたのです。

そこでは今やお子さんの方が先生格になってお母さんに色々と教えていました。微笑ましい光景でした。建物の中や構内を案内して色々なものを見せて回り、また友達を紹介しておりました。その顔は生き生きとして喜びに溢れ、お母さんも同じでした。

それから暫く私たち2人はその場を離れたのですが、戻ってみるとその母子(おやこ)は大きな木の下に腰かけ、母親が地上に残した人たちの話をすると子供の方はその後こちらへ他界してきた人の事やその人たちと巡り会った時の話、学校での生活の事などを話しておりました。

私たちは2人を引き離すのは辛かったのですが、遠からず再びそして度々きっと面会に来られるからという約束をして学校を後にしました。これなどはうまく行った例であり、こうしたケースは少なくありませんが、また別の経緯(いきさつ)を辿るものが沢山あるのです。

ところでこの母子が語合っている間、私たちは学校の構内を回って各種の教育器機を見学しました。その中に私が特に目を引かれたものがありました。直径6~7フィートもあろうかと思われる大きなガラスの球体で、2本の通路の交叉する位置に置いてあり、その通路の辺りの様子が球体に映っておりました。

ところがその球体の内部を覗くと、花とか樹木とか植物が茂っているだけでなくそれが遠い過去から枝分れして来たその根元の目(もく)まで見分られるようになっているのです。それはさながら地上における地質学の化石による植物進化の学習のようなものでした。

ただ地上と異なるのはそこにあるのは化石ではなく実際に生きており今も成長しているという事です。それも原種から始まって今日の形態になるまでが全部揃っているのです。

子供たちの課題は次のようなものであると教わりました。即ち実際にそこの庭に生長し球体に反射して見える植物、樹木、花などがどういう過程を経て進化してきたかを勉強し、そこから今度はそれが将来さらにどういう具合に進化していくかを心象として創造してみる事です。

知的才能のトレーニングとして実に素晴しいものですが創造されたものは大体において苦笑を誘うような“微笑ましい”ものが多いようです。さ、あまり長くなりすぎてもいけませんね。続きはまた書けるようになってからにしましょう。神のお恵みを。さようなら。

↑目次へ↑

5 天界の祝祭日

1913年10月6日 月曜日

この度の“収穫感謝祭”はまたずいぶん楽しかったではありませんか。あなたは気づかなかったようだけど私たちはずっとあなたの側にいたのですよ。忙しくて私たちの事を考える余裕がなかったのでしょうけど。地上にいる方々と共に礼拝に参加して何らかのお役に立てるのは嬉しいものです。

驚かれるかも知れませんが、こちらの光明界でも時おりあなた方と同じような儀式を行い豊かな稔りを神に感謝する事があります。地上の同胞の感謝の念を補うためでもあり同時に私たち自身の霊的高揚のためでもあります。こちらには地上のような収穫はありません。ですがそれに相当する他の種類の恵みに感謝する儀式を取り行うのです。

例えば私たちは周りに溢れる美と、仕事と向上への意欲を与えてくれる光明と愛を神に感謝する儀式を行います。そのような時には大抵高い界からの“顕現”が見られます。その1つをこれからお話しましょう。川のある盆地(※)で聖餐式(ユーカリスト)を催していた時の事です。

流域に2つの丘がその川を挟むような形で聳えております。私たちは讃仰(さんごう)と礼拝の言葉を述べ、頭(こうべ)を垂れ、こうした時に必ずみなぎってくる静かな安らぎの中で、その日の司祭を勤められている方からの祝福の言葉を待っておりました。

その方は丘の少し高い位置に立っておられるのですが何1つおっしゃらないので私たちはどうしたのだろうと思い始めました。(※原文では渓谷(バレー)となっている。“谷”というと日本人は切り立ったV字型の谷間を想像しがちであるが、本来は川を挟んだ広い低地を意味する事が多いので、ここでは盆地とした。 – 訳者)

暫くして私たちは頭を上げました。まるで“内なる声”に促されたように一斉に上げたのです。見ると司祭の立っておられる丘が黄金色の光に包まれ、それがベールのように被(かぶ)さっておりました。やがてそのベールがゆっくりと凝縮し司祭の身体のすぐ周りに集まってきました。

司祭はそうした事にも一切気づかないような態度で立っておられます。その時ようやく我に帰られ、その光のベールの中から出て私たちの方へ近づき“少しお待ち下さい。高き界から降りてこの儀式にご臨席になっておられる方のお姿を拝する事が出来ます”とおっしゃいました。そこで私たちは有難い気持でお待ちしました。

こちらではおっしゃった事は必ず実現するのです。見ると、凝縮していた光が上昇して流域全体を覆い、さらに止まる事なく広がり続けてついに天空を覆い尽くし、覆ったかと思うと今度はゆっくりと下降してきて私たちを包みました。

私たちはまさに光の海 – 私が本来属する界の光よりも遥かに明るいのですが柔らかくて心地よい光の海 – に浸っておりました。浸っているうちにその光で視力が増し、やがて目の前に約束の影像が展開するのが見えてきました。まず2つの丘が炎のように煌々(こうこう)と輝き始めました。

よく見ると両方の丘が“玉座”の側部ないしは肘掛となりその周りがイザヤ書と黙示録の叙述を髣髴とさせるように虹の色に輝いておりました。しかし玉座におられる方の真の姿は私たちには見えません。少なくとも形体をまとったお姿は見えません。

私たちの目に映ったのは父なる存在を示すための顕現の1つでした。そして丘の中腹の台地 – そこがちょうど玉座の“座”の位置になります – のところに大勢の天使が集まっており、側にある大きな揺り籠の中を覗き込む姿で礼拝しているのです。

その揺り籠の中に1人の子供がいて天使団に向って微笑んでおります。やがてその子供が両手を高々と伸ばしますと天空から一条の光が射し込んだように見えました。見るとその子供の両腕の中に黄金色に輝く一個の球体が降りてまいりました。

すると子供が立ち上がってそれを左手で捧げ持ちました。それは生命の光で躍動しキラキラと輝き燃えさかり、いやが上にも明るさを増してついにはその球体と子供以外は何も見えなくなり、その子の身体を貫いて生きた光が放射されているように見えました。

やがてその子は球体を両手で持ち、それを真二つに割り、その割れた面を私たちの方へ向けました。一方にはピンクの光線が充満し、もう一方には青の光線が充満しております。よく見ると後者には天界の界層が同心円状に幾重にも画かれており、その1つ1つが輝くばかりの美しい存在に満ち溢れております。

その輝きは内側ほど強烈で外側になるほど弱まりますが、私たちの目には外側ほど鮮明に見えます。それは私たちの界がそれに近いからです。一番中心部になると光輝が強すぎて私たちには何があるのか全然見えません。反対に外側の円は私たちの界層である事が判りました。

もう1つのピンクの半球はそれとは違って中に何の円も見えませんが、地球を含めた惑星上の動植物の全ての種が見えます。最も、あなた方が見ているものとは少し様子が異なり完成された姿をしております。人間から最下等の海の動物までと、大きな樹木や美味な果実から小さな雑草までがありました。

私たちが暫くそれを見つめていると、その子が両半球すなわち荘厳なる天界と完成された物質界とを1つに合わせました。合わさったとたんに継ぎ目が見えなくなりどっちがどっちだか見分けがつかなくなりました。

ところが見る間にそれが大きくなり始め、ついに子供の手から離れて浮上し、天空へ向けて少しばかり上昇したところで止まりました。美事な光の玉です。その時です。その玉の上にイエス・キリストの姿が現れたのです。左手に十字架を持っておられます。

その1番下の端は球体の上に置かれ、1番上は肩の少し上あたりまで来ております。右手で先ほどの子供を支え持っておられます。見るとその子供の額のところに紐状の1本の黄金の環が冠せてあり、胸のあたりには大きなルビーのような宝石が輝いております。

そう見ているうちに光の玉はゆっくりと天空へ向けて上昇し始め、視界の中で段々小さくなって行き、ついに2つの丘の中間あたりの遥か上空へと消えて行きました。そこで全てが普通の状態に戻りました。

仲間たちと一緒に腰を下ろして今見たものに感嘆し合い、その意味を考え合いました。が、こうではないかといった程度の事を言い合うだけで確信をもって述べられる者は1人もいませんでした。その時ふと司祭の事を思い出しました。

光に包まれ、見た目には私たちより遥かに強烈な影響を受けたように思いました。見ると司祭は岩の上に腰掛けておられ静かな笑みを浮かべておられました。何だか私たちが最後にこうして自分のところへやってくる事を見越して思い出すのを待っておられたみたいでした。

司祭は私たちにもう1度座るように命じられ、それから先ほどの幻想的シーンの説明を始められました。実は司祭は既にあの現象についてあらかじめ説明を受けておられ、それを私たちに授け、より高尚な意味、より深い意味については私たち自身でよく考え、自分なりの理解力に応じたものを摂取する事になっていたのです。

今回のような手段による教育が授けられる時はいつもそうなのです。ピンクの半球は私たちの界より下層の世界の創造を意味し、青の半球は私たちの界および上層界の創造を象徴しておりました。

が両者は“2種類の創造”を意味するのではなく、実は全体として1つであって2つの半球にも他の小さな区分にも隔たりはないという事を象徴していました。子供は始まりと進歩と終りなき目的を具象化したもので要するに私たちの限りなき向上の道を象徴していた訳です。

ルビーは犠牲を象徴し、黄金の環は成就を象徴し、光球が上昇した事、そこへキリストが出現し片手に子供を捧げ持った事は、現在の私たちには到達できない高い界層への向上心を鼓舞するものでした。もちろん以上は概略であってまだまだ多くの意味が込められております。

さっき述べたようにそれをこれから自分で考えて行く事になっている訳です。私たちの慣習としてそれをこれから先、折に触れて発表し合い議論し合う事になりましょう。

– どうも有難うございました。ここであなたに尋ねて欲しいという依頼のあった質問をさせて下さい。

お書きになるには及びません。あなたの心の中に読み取る事ができますから。その言葉も書かれる前から判っておりました。Eさんが教会の祭壇で見かけたというハトは、私が今述べた類(たぐい)の一種の“顕現”です。あの儀式には目に見えない集会も催されておりました。

祭壇の周りに大勢の霊がいて、受け入れる用意のある人にはいつでも援助を授けようと待機していたのです。その霊たちの心の優しさがハトとなって具現して、人を怖がる事なく飛び回っていたのです。

進歩の遅れた人にとっては、そうした恐れを知らない純真さを高級霊の前で維持する事は容易にできる事ではありません。その輝かんばかりの崇高さが時として、僅かながらも持っている彼らの徳を圧倒してしまい、気の毒な事ですが、疑いを宿す者を怖気させる事があるのです。

<原著者ノート>この通信を受ける数日前の事であるが、オックスフォードで催されたハローマス(※)の集会で出席者の1人が聖餐式(せいさんしき)の行われている最中に、祭壇の上を1羽のハトが飛び回っているのを霊視したと私に語ってくれていた。(※天上界へ逝った諸賢人の霊をまつる祝祭日。 – 訳者)

↑目次へ↑

6 念力による創造実験

1913年10月8日 水曜日

私たちからの通信の奥深い意味を理解なさろうとする方にとって大事な事が幾つかあります。今夜はそうした表面を見ただけでは判らない事 – 普通の物の考え方では見落されがちな問題を扱う上で役に立ち指針となるものをお教えしようと思います。

その1つは人間界から放射された思念がこちらへ届く時の様子です。善性を帯びた思念には輝きが見られますが善性が欠ける思念にはそれが見られません。その光輝は元々本人の身体(からだ)から出ており、それで私たちはその色彩(オーラ)を見て霊的性格を判断する事が出来ます。

単に明るい暗いとか、明るさの程度がどの段階であるといった事だけでなく、その人のどういう面が優れていて、どういう面に欠点があるという事まで判断します。その判断に基づいて、長所をさらに伸ばし欠点を矯正していく上で最も適当な指導霊を当てがう事になります。

こうして一種のプリズム方式によって性格を分析し、それに基づいて診断を下します。これは肉体に包まれた人間の場合であって、こちらではそんな事をする必要はありません。

と言うのは、こうした事は霊的身体(※)に関わる問題であり、こちらでは霊体は当然誰の目にも丸見えであり、それが言わば魂の完璧な指標なのですから、その人の霊的性格が全部分かってしまいます。

言い落しましたが、そうした色彩は衣服にも反映しますから、その中の支配的な色彩を見て、この人はどの界のどの程度の人だという判断を下す訳です。しかし思念は精神的行為の“結果”ですから、その霊が生活している環境を見てもどういう思念を抱いている人であるかが判ります。単に“見える”だけでなく“肌で感じる”事が出来ます。地上より遥かに正確でしかも強烈です。

(※日本の心霊学ではこれを幽体と霊体と神体とに分けるのが常識となっているが本書では霊体という用語を肉体とは別の“霊的な身体”という意味で用いる事にする。霊界についても同じである。 – 訳者)

こういう風に考えていけば私たちが強烈な思念を働かせれば、その思念が目に見える客観的存在となって顕現する事が当然有り得る事になります。という事は、美しいものを意識的に拵える事も出来るという訳です。

– 何か例をあげていただけますか。

よろしい。その方がよく分かって頂けるでしょう。ある時、こうした問題を勉強している仲間が集まって、どの程度進歩したかを試してみましょうという事になりました。そこで美しい森の空地を選び、全員である1つの像を念じてその出来具合を見ました。

私たちが選んだのは後で調べるのに都合が良いように固くて長持ちするものという事で象に似た動物でした。象とは少し違います。こちらにはいますが地上ではもう絶滅しました。

私たちは空地で円座を組み、その動物を想像しつつ意念を集中しました。すると意外に速くそれが目の前に姿を現しました。こんなに速く出来るものかと皆んなで感心しました。しかし私たちの目には2つの欠点が見えました。

1つは大きすぎるという事。全員の意念を加減する事を忘れたのです。もう1つは確かに生きた動物ではあるけれど、部分的には石像のようなところもある事です。生きた動物を想像して念じた者が多かったからそうなったので、結局は石と肉の混合のような妙なものになってしまいました。

他にも挙げれば細かい欠点がいろいろと目立ちます。例えば頭部が大きすぎて胴が小さすぎました。念の配分が片寄っている事を示すものです。こういう具合にして欠陥を知り、その修正方法を研究します。実験してみてはその成果を検討し再びやり直します。今紹介したのがその一例という訳です。

そうして拵えた像から注意を逸(そ)らして語り合っていると、その像が徐々に姿を消して行きます。そこでまた新たにやってみる訳です。私たちは同じモデルは2度と使用しない事にしました。送念の仕方が1つのパターンにはまってしまう恐れがあるからです。

そこで今度は果実の付いた樹木にしました。オレンジの木に似ていますが少し違います。今度は前よりはうまく行きました。失敗点の主なものとしては果実が熟したものと熟してないものとがあった事。それから葉の色が間違ってましたし枝の長さにまとまりがありませんでした。

こうして次から次へと実験し、その度に少しずつうまくなって行きました。あなたにはこうした学習の愉(たの)しさや、失敗から生まれる笑いやユーモアがある程度は想像して頂けると思います。

死後の世界には冗談も、従って笑いも無いかのように想像している人は、いずれその考えを改めて頂かねばなりません。そうしないとこちらへ来てから私たちとお付合いがしにくい – いえ私たちの方がその方たちとお付合いしにくいのです。

でも、そういう人でもやがてこの世界の愛に目覚め、至って自然にそして屈託(くったく)なく振舞う事ができる事を知り、そうならないとまともに相手にしてもらえない事を悟るようになります。地上というところはそれとは反対のように思いますが、いかがですか。

いえ地上には地上なりに生きてそれなりの教育を得る事です。そうすればこちらへ来て – ただブラブラするだけ、あるいはもっと堕落すれば別ですが – 当り前に生活すれば進歩も速いのです。そして学べば学ぶほど自由に使いこなせるエネルギーに感嘆するのです。

– アストリエル霊、昨日出られた方ですがここに来ておられますか。

今夜はお出でになりません。お望みであればまたお出でになりましょう、きっと。

– どうも。でもあなたにも来て書いて頂きたいですね。

ええ、それはもちろん。あの方も私も参りますよ。あなたのためでもあり同時に私たちにとっても、こうして霊感操作をする事が、今述べたのと同じように意念や霊力の使い方を勉強する上でも良い訓練になるのです。私たちが述べている事が映像となってあなたの意識に入ってくるのが見えませんか。

– 見えます。時には実に鮮明に見える事があります。そういう事だとは思ってもみませんでした。

おやおや、そうでしたか。でもこれでお判りでしょう、さっきの事を書いたのもそれなりの目的があったという事が。あなたはそれがどうもピンと来ない – 多分その通りだったのでしょう。

それは私たちも認めます – と思っておられましたし、一体何をを訴えんとしているのかといささか不愉快にさえ思っておられた。ね、そうではなかったかしら。私たちはあなたのその様子を見てニコニコしていたのですよ。

でもあなたは私たちの思念を、ほぼ私たちが念じた通りに解釈しておられましたし、そうさせた私たちの意図も、意念というものがあれほど鮮明に、そして実感をもって眼前に現れるものである事を判って頂く事にあったのです。では、さようなら。あなたに、そしてあなたのお家族に神の祝福を。

<原著者ノート>アストリエル霊のメッセージは数多く書かれているが、全体に連続性が見られない。なぜかはよく判らない。が結果としては母の通信の合間に割って入るために、アストリエル霊自身の通信はもちろん母の通信の連続性も破壊してしまう。そこでアストリエル霊の通信は日付の順で出さずに、巻末の第6章にまとめて紹介する。

↑目次へ↑

3章 暗黒から光明へ

1 愛と叡智

1913年10月10日 金曜日

私たちの日常生活とあなた方の日常生活とを比較して見られれば結局はどちらも学校で勉強しているようなものである事、実に大きな学校で沢山のクラスがあり大勢の先生がおられる事、しかし教育方針は一貫しており、単純な事から複雑な事へと進むようになっている事、そして複雑という事は混乱を意味するのではなく宇宙の創造主たる神を知れば知るほどその知る喜びによって一層神への敬虔なる忠誠心を抱くように全てがうまく出来あがっている事を悟るようになります。

そこで今日も従来からのテーマを取り上げて、こちらの世界で私たちが日頃どんな事をして過ごしているのか、神の愛がどのように私たちを包み、謙虚さと愛を身につけるにつれて事物がますます明快に理解されていくかを明らかにしてみましょう。

こちらの事情で大切な事の1つに叡智と愛のバランスが取れていないといけない事が挙げられます。両者は実は別個のものではなく1つの大きな原理の2つの側面を表しているのです。言わば樹木と葉の関係と同じで、愛が働き叡智が呼吸しておれば健全な果実が実ります。

解りやすく説明するために私たちが自分自身の事、及び私たちが指導する事を許された人々の世話をする中でどういう具合にその愛と叡智を取入れて行くか、1つの具体例をあげてみましょう。

つい先頃の事ですが、私たちは1つの課題を与えられ、その事で私たち5人で遠く離れたところにある地域(コロニー)を訪れる事になりました。目的は神の愛の存在について疑念を抱き、あるいは当惑している地上の人間に対して取るべき最良の手段を教わる事でした。

と言うのも、そうしたケースを扱う上でしばしば私たちの経験不足が障害となっていましたし、またあなたもご存知の通り地上にはそういう人が多いのです。

そこにあるカレッジの校長先生は地上では才能豊かな政治家だった方ですが、その才能が地上ではあまり発揮されず、こちらへ来て初めて存分に発揮できるようになり、結局地球だけが鍛練の成果が発揮される場でない事を身をもって理解された訳です。

訪問の目的を述べますと、その高い役職にも拘わらず、少しも偉(えらぶ)らず、極めて丁重で親切に応対されました。あなたたちなら多分天使と呼びたくなるだろうと思われるほど高貴な方で、もしそのお姿で地上に降りたら人間はその輝きに圧倒される事でしょう。

容姿もお顔も本当に美しい方で、それを形容する言葉としてはさしずめ“燦然たる光輝に燃え立つような”というところでしょう。親身な態度で私たちの話に耳を傾けられ時おり静かな口調で“それで?”と言って話を促され、私たちはついその方の霊格の高さも忘れて、恐れも遠慮もなく話しました。するとこうおっしゃいました。

「生徒の皆さん – ここにいる間は生徒という事にしましょう – お話は興味深く拝聴致しました。と同時に、そういうお仕事によくある問題でもあります。さて、そうした問題を私が今あっさり解決してあげれば皆さんは心も軽くお仕事に戻る事ができるでしょう。

がイザ仕事に携わってみるとまたアレコレと問題が生じます。なぜか。それは1番に心に銘記しておくべき事というものは体験してみなければ解らない細々(こまごま)とした事ばかりだからです。それがいかに大切であるかは体験してみて初めて解るという事です。では私についてお出でなさい。大事な事をこれからお教えしましょう。」

私たちは先生の後について敷地内を歩いて行きました。庭では庭師が花や果物の木の剪定などの仕事に専念しておりました。小道を右に左に曲りながら各種の植込みの中を通り抜けました。小鳥や可愛い動物がそこここに姿を見せます。やがて小川に出ました。

そしてすぐ側にエジプトの寺院のミニチュアのような石の東屋(あづまや)があり、私たちはその中に案内されました。天井は色とりどりの花で出来た棚になっており、その下の1つのベンチに腰掛けると先生も私たちのベンチと直角に置いてあるベンチに腰を下ろされました。

床を見ると何やら図面のようなものが刻み込まれております。先生はそれを指さしてこうおっしゃいました。「さてこれが今私があなた方を案内して回った建物と敷地の図面です。この印のところが今いる場所です。ご覧の通り最初に皆さんとお会いした門からここまで相当の距離があります。

皆さんはおしゃべりに夢中でどこをどう通ったかは一切気にとめられなかった。そこでこれから今来た道を逆戻りしてみるのも良い勉強になりますし、まんざら面白くない事もないでしょう。無事お帰りになってお会いしたら先程お聞きしたあなた方の問題についてアドバイス致しましょう。」

そうおっしゃって校長先生は立ち去られました。私たちは互いに顔を見合わせ先生が迷路のような道を連れて回られた目的に気づかなかったその“うかつさ”を互いに感じて、どっと笑い出しました。

それから図面を何度も何度も調べました。直線と三角と四角と円がごちゃごちゃになっている感じで始めは殆ど判りませんでした。がそのうち徐々に判りはじめました。それはそのコロニーの地図で、東屋はその中心、ほぼ中央に位置しております。

が入口が記されておりません。しかもそれに通じる小道が4本あってどの道を辿ればよいかが判りません。しかし私はこれは大した問題でないと判断しました。と言うのも4本ともコロニーの外郭へ繋がっており、その間に何本もの小道が交叉していたからです。

その判断に到達するまでのすったもんだは省きましょう。時間が掛かりますから。とにかく私の頭に1つの案が浮かび、参考までに提案してみたところ皆んなそれはなかなか良い考えだと言い、これで謎が解けそうだと喜びました。と言って別に驚くほどの事ではないのです。

どの方向でも良いからとにかく外へ出て1番直線的な道を選んでみるというだけの話です。言い方がまずいようですね。要するに東屋からどちらの方角でも良いから1番真直ぐな道を取るという事です。そうすると必ず外郭へ出る。

その外郭は完全な円形をしているから、それに沿って行けば遅かれ早かれ門まで来る事になる訳です。いよいよ出発しました。道中は結構長くて楽しいものでした。そして冒険的要素が無い訳ではありませんでした。

と言うのも、そのコロニーはそれはそれは広いもので、丘あり谷あり森あり小川ありで、それがまた実に美しいので、よほど目的をしっかり意識していないと道が2つに岐れたところに来るとつい方向を誤りそうになるのでした。

しかし必ずしも最短で直線的な道を選んだ訳ではないと私は思うのですが、私はついに外郭に辿り着きました。ついでに言うとその外郭は芝生の生い茂った幅の広い地帯になっていて、全体は見えなくてもその境界の様子からして円形になっている事はすぐに判ります。

そこで左へ折れ、そのまま行くと間違いなく円形をしていて無限軌道のように続いておりました。どんどん歩いていくうちに、ついに最初に校長先生にお会いした門のところまで来ました。

先生は、よく頑張りましたと言って迎えて下さり、その足で建物の前のテラスに上がり、それまでの冒険談 – 私が書いたものより遥かに多くの体験 – をお聞かせしました。先生は前と同じように熱心に耳を傾けて下さり

「なるほど。結構立派にやり遂げられまし目的を達成し、ここまで帰って来られたのですから。ではお約束通りあなた方の学ばれた教訓を私から述べさせて頂きましょう」と言って次のような話をされました。

「まず第1に行きたいと思う方向を確認する事。次に近道と思える道ではなく1番確実と思える道を選ぶ事。その道が1番早いとは限りません。限りなく広がると思えたこのコロニーの境界領域までまずやって来る。その境界線から振り返るとそれまで通り抜けて来た土地の広さと限界の見当がつく。

要はそれまでの着実さと忍耐です。望むゴールには必ず達成されるものです。又、その限られた地域とその先に広がる地域との境界領域に立って見渡すと、曲りくねった道や谷や小森が沢山あって、あまり遠くまで見通せなくても全体としては完全に釣合いが取れている – 要するに完全な円形になっており内部は一見すると迷路でごた混ぜの観を呈していても、より大きい、あるいはより広い観点から見ると全体として完全な統一体で、実質は単純に出来ている事が判るはずです。

小道を通っている時は迷うでしょうけど。それにその外郭を曲線に沿って行くと限られた範囲しか目に入らなかったでしょう。それでもその形からきっと求める場所つまり門に着けると判断し、その理性的判断に基づいた確信のもとに安心して辿って来られた。

そして今こうして辿り着き、少なくとも概略においてあなた方の知的推理が正しかった事を証明なさった訳です。さてこの問題は掘り下げればまだまだ深いものがありますが、私はここであなた方をこの土地にいて私を援助してくれている仲間たちにお預けしようと思います。

その人たちがこの建物や環境をさらにご案内し、お望みならもっと広い地域まで案内してくれるでしょう。面白いものが沢山あるのです。その方たちと私が述べた教訓について語り合われるとよろしい。少し後でもう1度お会いしますのでその時に話したい事や尋ねたい事があればおっしゃって下さい」

そうおっしゃって私たちにひとまず別れを告げられると、代って建物の中から楽しそうな一団が出てきて私たちを中へ招き入れました。まだまだ続けたいけどあなたにはまだお勤めが残っているから今日はこの辺で止めにしましょう。少しの間とはいえこうして交信のために降りてくるのは楽しい事です。あなたを始め皆さんに神の祝福を。母とその霊団より。

↑目次へ↑

2 霊界の科学館

1913年 10月11日 土曜日

昨夜は時間がなくて簡単な叙述に終ってしまったので、今日は引き続きあのコロニーでの体験のいくつかを述べてみたいと思います。そこには色んな施設があり、その殆どは地上の人間で死後の世界について疑問に思っている人、迷っている人を指導するにはどうすれば1番効果的かを研究するためのものです。

昨夜お話した私たちの体験を比喩として吟味されれば、その中に託された教訓を膨らませる事ができると思います。さて、あの後指導霊の一団の引率で私たちは既にお話した境界の外側へ出ました。

そこは芝生地ですが、それが途方もなく広がっているのです。そこは時おり取り行われる高級界の神霊の“顕現”する場の1つです。召集の通達が出されますと各方面からそれはそれは大勢の群衆が集合し、その天界の低地で可能な限りの様々な荘厳なるシーンが展開します。

そこを通り過ぎて行くうち次第に登り坂となり辿り着いたところは台地になっていてそこに大小様々な建物が幾つか立っております。その中央に特別に大きいのが立っており、私たちはそこへ案内されました。入ってみるとそこは何の仕切りも無いただの大きなホールになっております。

円形をしており周りの壁には変わった彫刻が施されております。細かく調べてみますとそれは天体を彫ったもので、その中に地球もありました。固定されているのではなく回転軸に乗っていて、半分が壁の中にあり半分が手前にはみ出ております。

その他動物や植物や人間の像も彫られていて、その殆どが壁のくぼみ、つまり“入れ込み”に置いてあります。尋ねてみますとそこは純粋な科学教育施設であるとの事でした。私たちはその円形施設の片側に取付けられているバルコニーに案内されました。

そこは少し出っ張っていますので全体が一望できるのです。これからそこの設備がどういう風に使用されるかを私たちのために実演して見せて下さる事になりました。腰掛けて見ておりますと、青い霞のようなものがホールの中心付近に立ち込め始めました。

と同時に一条(すじ)の光線がホールの中をさっと走って地球儀の上に乗っかりました。すると地球儀がまるでその光を吸収していくかのように発光し始め、間もなく光線が引っ込められた後も内部から輝き続けました。と見ているうちに今度はもう少し強烈な別の光線が走って同じように地球儀の上に乗りました。

すると地球儀がゆっくりと台座から離れ、壁から出て宙に浮きました。それがホールの中央部へ向けて浮上し、青い霞の中へ入ったとたんに膨張し始め、輝く巨大な球体となって浮かんでおります。その様子は譬えようもなく美しいものでした。それが地球と同じようにゆっくりと、実にゆっくりとした速度で回転し、その表面の海洋や大陸が見えます。

その時はまだ地上でよく使われる平面図にすぎませんでしたが回転を続けていくうちに次第に様子が変わって来ました。山脈や高地が隆起し、河や海の水がうねり、さざなみを立て、都市のミニチュア、建物の細々(こまごま)とした部分までが見えはじめたのです。

きめの細かさがどんどん進んで、人間の姿 – 最初は群集が、やがて1人1人の姿が見分けられるようになりました。直径80フィートから100フィートもあろうかと思える球体の上で生きた人間や動物が見えるというシーンは、とてもあなたには理解できないでしょう。

がそれがこの施設の科学の目的なのです。つまり各天体上の存在を1つ1つ再現する事です。その素晴らしいシーンはますます精度を増し、回転する球体上の都市や各分野で急がしく働いている人間の様子まで見えるようになりました。

広い草原や砂漠、森林、そこに生息する動物類の姿まで見えました。さらに回転していくうち今度は内海や外洋が見えてきました。あるものは静かに波打ちあるものは荒れ狂っております。そしてそこここに船の姿が見えます。つまり地上生活の全てが目の前に展開するのでした。

私は長時間そのシーンに見入っておりました。するとその施設の係の方が下の方から私たちに声を掛けられました。おっしゃるには私たちが今見ているのは現時点での実際の地上の様子で、もしお望みであれば過去へ遡(さかのぼ)って知性をもつ存在としての人類の起源までを再現できますという事でした。

是非その美事な現象をもっともっと見せて頂きたいと申し上げると、その方は現象の全てをコントロールしていると思われる器機のあるところへ行かれました。その話の続きは後にして、今あなたの心の中に見えるものについて説明しておきましょう。

そのホールは暗くはありません。全体が隅々まで明るいです。ですが球体そのものが、強烈でしかも不快感を与えない光に輝いているために、青い霞の外側が何となく薄暗く見えるまでです。その霞のあるところが球体の発する光輝の領域となっているようでした。

さて、程なくしてその回転する球体上の光景が変化し始めました。そして私たちは長い長い年月を遡り、人間がようやく森林から出て平地で集落を拵えるようになった頃の地上の全生命、人間と動物と植物の太古の姿を目(ま)のあたりにし始めました。

さて、ここでお断りしておかねばならないのは、太古の歴史は地上の歴史家が言っているような過程を辿ってはいないという事です。当時の現象は“国家”と“世紀”の単位でなく“種”と“累代”(※)の単位で起きておりました。(※地質学的時代区分を2つ以上含む最大の単位 – 訳者)

何代もの地質学的時代がありました。人間が鉄器時代とか石器時代、氷河期と呼んでいる時期を見ますと実に面白い事が発見されます。あらかじめある程度の知識をもつ者には、どうもその名称がでたらめである事が判るのです。

と言いますのは、例えば氷河期は当時の地球の1、2の地域には当てはまるかも知れませんが、決して全体が氷で覆われていた訳ではない事が、その球体を見ていると判るのです。それも大てい1時代に1つの大陸が氷で覆われ、次の時代には別の大陸が覆われていたのです。

が、そうした歴史的展開の様子は地球が相当進化したところで打ち切られました。そしてさっきも述べたように人類の出現はその時はすでに既成事実となっておりました。

どんどん様相を変えて行くこの多彩な宝石のような球体に魅入られ、これが他ならぬ我が地球なのかと思い、それにしては自分たちが何も知らずにいた事を痛感していると、その球体が次第に小さくなって元の壁の入れ込みの中へ戻り、やがて光輝が薄れて行き、ついには最初に見かけた時と同じただの石膏の彫り物のようなものになってしまいました。

この現象に興味をそそられた私たちが指導霊に尋ねると、そこの施設についていろいろと解説して下さいました。今見た地球儀にはもっと科学的な用途がある事、あのような美しい現象を選んだのは科学的鍛練を受けていない私たちには美しさの要素の多いものが適切と考えたからである事、科学的用途としては例えば天体と天体との関連性とか、それぞれの天体の誕生から現在までの進化の様子が見られるようになっている事、等々でした。

壁にはめ込まれた動物も同じような目的に使用されるとの事でした。地球儀の時と同じように光線が当たると光輝を発してホールの中心部へやって来ます。そこでまるで生きた動物のように動き回ります。事実ある意味でその間だけは生きた動物となっているのです。

それが中央の特殊な台に乗っかると拡大光線 – 本当の名称を知らないので仮で呼んでおきます – を当てられ、さらに透明にする光線を当てられます。するとその動物の内臓が丸見えとなります。

施設の人の話によりますと、そうやって映し出される動物や人間の内部組織の働き具合を見るのは実に見ごたえのあるものだそうです。そのモデルに別の操作を施すと今度は進化の過程を逆戻りして次第に単純になって行き、ついには哺乳動物としての原初形態まで遡っていく事ができます。

つまりその動物の構造上の発達の歴史が生きた姿のまま見られるという訳です。面白いのはその操作を誤ると間違ったコースを辿る事がある事で、その時は初期の段階が終った段階で一たん元に戻し、もう1度やり直して、今度は正しいコースを取って今日の段階まで辿り着くという事があるそうです。

また、研究生が自分のアイデアを組み入れた進化のコースを辿らせてみる事もできるそうです。動物だけでなく、天体でも国家でも民族でも同じ事ができるそうですが、それを専門的に行う設備が別のホールにあるとの事でした。

1度話に出た(2章4参照)子供の学校の構内に設置されていた球体は実はこの施設の学生の1人が拵えたのだそうです。もちろんここにあるものよりはずっと単純に出来ております。もしかしたらこの施設の美しさを見た後だからそう思えるのかも知れません。

今日はこれ位にしておきましょう。他にも色々と見学したものがあるのですが、これ以上続けると長くなりすぎるので止めにします。何か聞きたい事があるみたいですね。

その通りです。私は月曜日の勉強会に出席しておりました。あの方が私に気づいておられたのも知っておりました。私の述べた言葉は聞こえなかったようですけど。ではさようなら。明日またお会いしましょう。

<原著者ノート>最後のところで言及している勉強会の事について一言述べておく必要がある。前の週の月曜日の事である。私はその日、礼拝堂の手すりと手すりの間に着席し、勉強会のメンバーは聖歌隊席で向い合って着席していた。聖歌隊席の至聖所側の1番端で私の右手になる位置にE婦人が着席していた。

そのE婦人が後で語ってくれたところによると、私が会の最後の締め括りの言葉を述べている最中に私の母親が両手を大きく広げ、情愛溢れる顔で祭壇から進み出て私のすぐ後ろまで来たという。その姿は輝くように美しく、まるで出席しているメンバーと少しも変わらない人間の身体をまとっているようだったという。

E婦人の目には今にも私を抱きしめるかに見えたそうで、あまりの生々しさに一瞬自分以外の者には見えていない事を忘れ、今にも驚きの声を出しそうになったけど、どうにかこらえて目をそらしたという。私が質問しようと思っていたのはその事だった。

↑目次へ↑

3 霊界のパビリオン

1913年10月13日 月曜日

例のコロニーでの、あなたの喜びそうな体験をもう1つお話しましょう。私にとっても初めての体験で興味深いものでした。全体として1つのグループを形成している各種の施設を次々と案内して頂いていると、屋外パビリオンのようなものに出ました。

何本もの高い円柱の上に巨大なドームが乗っているだけで囲まれている内部に天井がありません。建物の周りについている階段から壇上に上がると、その中央に縦横3フィート、高さ4フィートばかりの正方形の祭壇が設けてあります。

その上に何やら日時計のようなブロンズ製の平たい板が立ててあり、直線やシンボル、幾何学的図形等がいろいろと刻まれてありました。その真上のドーム中央部に通路があり、そこから入って行くとその施設の器機の操作室に出るとの話でした。

私たちをその文字盤(と呼んでおきましょう)の周りに並ばせて案内の方はその場を離れてドームの天井へ上がり操作室へと入られました。何が起きるのか判らないまま私たちはじっとその文字盤を見つめておりました。すると様子が変化し始めました。

まず空気の色彩と密度が変わってきました。辺りを見ますと、さっきまでの光景が消え、円柱と円柱との間に細い糸で出来たカーテン状のものが広がっておりました。様々な色調の糸が編み合わさっています。それが見る見るうちに1本1本に分かれ、判然とした形態を整えていきました。

すっかり整え終わった時、私たちは周りを林によって囲まれた空地の中に立っておりました。そしてその木々がそよ風に揺れているのです。やがて小鳥のさえずりが聞こえ、木から木へと飛び交うきれいな羽根をした小鳥の姿が目に入りました。

林はなおも広がり美しい森の趣きとなってきました。ドームも消え、屋根のように樹木が広がっているところを除いては一面青空が広がっておりました。再び祭壇と文字盤に目をやると、同じ位置にちゃんとありましたが、文字盤に刻まれた図形やシンボルは祭壇の内部から発しているように思える明りに輝いておりました。

やがて上の方から案内の方の声がして文字盤を読んでみるようにと言われます。最初のうちは誰にも読めませんでしたが、そのうち仲間の中で1番頭の鋭い方が、これは霊界の植物と動物の身体を構成する成分を解説しているものですと言いました。

その文字盤と祭壇とがどのような関係になっているのかも明らかとなりましたが、それは人間の言語で説明するのはちょっと無理です。ですが判ってみるとなるほどと納得がいきました。その後案内の方が再び私たちのところへ来られ、その建物の使用目的を説明して下さいました。

ここの研究生たちが“創造”についての進んだ科学的学習を行うためには創造に使用される基本的成分について十分に勉強しておかねばならないようです。それは当たり前と言ってしまえば確かに当たり前の事です。

この建物は研究生が最初に学習する施設の1つで、例の文字盤は上の操作室にいる研究生が自分なりに考えた成分の組み合せやその比率などの参考資料が記されているのです。案内して下さった方はその道の研究で相当進んだ方で、さっきの森のシーンも同じ方法で拵えたものでした。

進歩してくると、その装置を使用しなくても思い通りのものが創造できるようになります。つまり1つずつ装置が要らなくなり、ついには何の装置も使わずに自分の意念だけで造れるようになる訳です。そこで私たちは、そうした能力が実生活においてどのような目的に使用されるかを尋ねてみました。

するとまず第1に精神と意志の鍛練が目的であるとの事でした。その鍛練は並大抵のものではなく大変な努力を要するとの事で、それが一通り終了すると次は同じくこの界の別のカレッジへ行って別の科学分野を学び、そこでもさらに多くの段階の修練を積まねばなりません。

その創造的能力が本当に自分のものとなり切るのは幾つもの界でそうした修練を経たのちの事です。その暁にはある1人の大霊、大天使、あるいは能天使(本当の呼び方は知りません)の配下に属する事を許され父なる宇宙神の無限の創造的活動に参加する事になります。その時に見られる創造の過程は荘厳を極めるとの事です。

お話を聞いた時はそれは多分新しい宇宙ないしは天体組織の創造 – 物的か霊的かは別として – の事かも知れないと考えたりしました。が、そんな高い界の事は現在の私たちにはおおよその概念程度の事しか掴めません。しかもそこまで至るには人智を絶した長い長い年月を要する事です。

もちろんそういう特殊な方向へ進むべき人の場合の話です。どうやらそこを訪れた私たち5人の女性にとっては、向上の道は別の方角にあるようです。でも、たとえ辿るべき宿命は違っても様々な生命活動を知りたいと思うものです。

全ての者が宇宙の創造に参加するとは限らないと私は思います。遥か彼方の、宇宙創造神の玉座に近いところには、きっと創造活動とは別に、同じく壮大にして栄光ある仕事があるものと確信しております。

芝生の外郭を通って帰る途中で、別の科学分野を学ぶために別のカレッジへ行っていた研究生の一団と出会いました。男性ばかりではありません。女性も混じっております。

私がその女性たちにあなた方も男性と同じ分野を研究しているのですかと尋ねると、そうですと答え、男性は純粋に創造的分野に携わり、女性はその母性本能でもって産物に円(まる)みをもたせる働きをし、双方が相俟って完成美を増す事になるという事でした。

もちろん完成美といってもその界での能力の範囲内で可能な限り美しく仕上げるという意味です。まだまだ天界の低地に属するこの界では上層界への進歩が目的であって、完璧な完成という事は有り得ないのです。やがて私たちはこの円形のコロニーの校長先生と出会ったところに帰り着きました。

– なぜそのお方のお名前を出されないのですか。

お名前はアーノルとおっしゃいます。少し変わったお名前で、地上の人間はとかく霊の名前に拘るので、出すのを控えていただけで他意はありません。霊の名前の由来はあなたには理解し難いのでこれ以後もただ名前を述べるに留めて意味には言及しない事に致します。

– そうですね。その方が回りくどい説明が省けていいでしょう。

そうなのです。でも私たちがこうして霊界の生活を説明する時の霊的情況の真相がもし理解できれば手間が掛るほど間違いが少ないという事が判って頂けると思います。例のアーノル様のコロニーでの私たちの体験と教訓を思い出して下さい。

– それにしても名前を出すという事がなぜそうまで難しいのでしょうか。難しいものであるという話は再三聞かされておりますが。

その難しさを説明するのがまた難しいのです。人間の立場から見れば何でもない事のように思えるでしょうけど。こういう説明ではどうでしょう。あなたもご存知の通りエジプト人にとっては神ならびに女神の名称には、頑迷な唯物主義の英語系民族(アングロサクソン)が考える以上に深い意味があったのです。

名前に何の意味があると言うのか – そう思われるかも知れませんが、私たち霊界人から観ると、そしてまた(こちらへ来てから得た資料で知ったのですが)古代エジプトの知恵から観ても、名前には大いに意味があるのです。

名前によってはそれを繰り返し反復するだけで現実的な力を発揮し、時には危害さえもたらすものがあります。地上にいる時は知りませんでしたが、こちらへ来てそれを知ったのです。

それで私たちは、あなたには多分愚かしく思えるかも知れませんが、“名前”という実在に一種の敬虔さを抱くようになるのです。最も物分かりの悪い心霊学者が期待するほどに霊界通信で名前が出てこないのは、それだけが理由ではありません。

こうして地球圏まで降りて来ますと、名前によっては単に口にしたり書いたりする事さえ、あなたが想像する以上に困難な事があるのです。その辺の事情は説明が難しいです。こちらの4次元世界の事情にもっともっと通じて頂かないと理解できないでしょう。

この“4次元”という用語も他に適当な用語が無いから使用しているまでです。では2、3の例を挙げてそれで名前の問題は終わりにしましょう。その1つは例のモーセが最高神の使者から最高神の名前を教えてもらった話(※)ですが、今日まで誰1人としてその名前の真意を知り得た者はおりません。

(※この説話は旧約聖書「出エジプト記3章」に出ているが、ステイントン・モーゼスの『霊訓』の最高指導霊インペレーター、実は旧約聖書時代の予言者マラキによると、これは紀元前130年頃の予言者、今で言う霊言霊媒チョムを通じて告げられたもので、その時の言葉は Nuk – Pu – Nuk 、英訳すれば I am the I am 、すなわち“私は有るがままの存在である”となり、宇宙の普遍的エッセンス、生命の根源をさすという – 訳者)

次はそれより位の低い天使がヤコブから名前を聞かれて断られています。アブラハムその他、旧約聖書中の指導者に顕現した天使は滅多に名を明かしておりません。新約聖書においても同じように殆どが“天使”と呼ばれているだけです。

名前を告げている場合、例えばガブリエルの場合(※)も、その深い意味は殆ど理解されておりません。(※同じく『霊訓』によると、ガブリエルは同じ大天使の中でも“守護救済”の任に当たる天使団の最高位の霊であり、ミカエルは悪霊・邪霊集団と“戦う天使団”の最高霊であるという – 訳者)

– ところであなたの名前 – そちらでの新しいお名前は何でしょうか。明かす事を許されているのでしょうか。

もちろん許されておりますが、賢明ではありません。明かした方がよければ明かします。でも差し当っては差し控えます。理由(わけ)はよく判って頂けなくても、あなたの為に良かれと思っての事である事は判って頂けるでしょうから。

– 結構です。あなたの判断にお任せします。

そのうちあなたにも判る日が来ます。その時は「生命(いのち)の書」(※)の中に記されている人々にいかなる栄光が待ち構えているかを理解されるでしょう。この書の名称も一考に値するものです。軽々しく口にされておりますが、その真意は殆ど、あるいは全然理解されておりません。

(※正式には Book of Life of the Lamb で「キリストの生命の書」。天国に召されるのを約束された聖人を意味するとされている – 訳者)ではあなたにもローズにもそしてお子たちにも、神の祝福のあらん事を。

ルビー(まえがき参照)が間もなく行けるようになると言ってちょうだい、と私に可愛らしく告げてます。“指図を書き留められる”ようになって欲しいなどと言ってますよ。まあほんとに無邪気な子ですこと。みんなから可愛がられて。ではさようなら。

↑目次へ↑

4 暗黒界からの霊の救出

1913年10月15日 水曜日

自分のすぐ身の回りに霊の世界が存在する事を知らない人間に死後の存続と死後の世界の現実味と愛と美を説明するとしたら、あなたなら何から始められますか。多分第一に現在のその人自身が不滅の霊である事を得心させようとなさる事でしょう。

そしてもしそれが事実だったら死後の生活にとって現在の地上生活が重大な意味をもつ事に気づき、その死後の世界からの通信に少しでも耳を傾けようとする事でしょう。何しろその世界は死というベールをくぐり抜けた後に例外なく行き着くところであり、否応(いやおう)なしに暮さねばならないところだからです。

そこで私たちは、もし地上の人間が今生きているその存在も実在であり決して地上限りの果敢(はか)ないものではない事を理解してくれれば、私たちのように身をもって死後の生命と個性の存続を悟り、同時に地上生活を正しく生きている人間には祝福が待ち構えている事を知った者からのメッセージを、一考の価値あるものと認めてくれるものと思うのです。

さて、その死の関門をくぐり抜けてより大きい自由な世界へと足を踏み入れた人間が、滞(とどこお)りなく神の御国での仕事に勤(いそ)しむ事になるのは何でもない事のようで、実はただ事ではないのです。

これまで私たちは地上生活と死後の世界との因果関係について多くのケースを調べてみて、地上での準備と自己鍛錬の重要性はいくら強調しても強調しすぎる事はないという認識を得ております。多くの人間は死んでからの事は死んでからで良いと多寡(たか)をくくっておりますが、イザこちらへ来てみるとその考えが認識不足であった事に気づくのです。

– 今お書きになっているのはどなたですか。

あなたの母親と霊団の者です。アストリエル様は今夜はお見えになっておりません。またいつかお出でになるでしょう。霊団と共に通信に来られた時はお知らせします。では話を続けましょう。“橋”と“裂け目”の話は致しました…

– ええ聞きました。それよりもアーノル様のコロニーでの体験と、あなたの本来の界へ戻られてからの事はどうなりました。他に面白いエピソードはもう無いのですか。

いろいろと勉強になり、知人も増え、お話した事より遥かに多くを見学したという事以外に申し上げる事はありません。それよりも是非あなたにお聞かせしたいと思っている事があります。あのコロニーでの話を続けてもいいのですが、これも同じように為になる話です。

“裂け目”と“橋” – 例の話を思い出して下さい(1章4 光のかけ橋 参照)その橋 – 地上の橋と少し趣が異なるのですが引続きそう呼んでおきます – が暗黒界から延びてきて光明界の高台へ掛るあたりで目撃したエピソードをお話しましょう。

私たちがそこへ派遣されたのは恐ろしい暗黒界から脱出して首尾よくそこまで到達する1人の女性を迎えるためでした。その方は“光”の橋を渡ってくるのではなく“裂け目”の恐怖の闇の中を這い上がってくるというのです。私たちにはもう1人、すぐ上の界から強力な天使様が付いて来て下さいました。

特別にこの仕事を託されている方で、首尾よく救出された霊が連れて行かれるホームを組織している女性天使団のお1人でした。

– お名前を伺いたいのですが。

ビーニ…いけません。出てきません。後にしましょう。書いているうちに思い出すかも知れません。到着してみると谷を少し下った岩だらけの道に1個の光が見えます。どなたか男性の天使の方がそこで見張っている事が判りました。やがてその光が小さくなり始め谷底へ下りて行かれた事を知りました。

それから少しすると谷底から上に向けて閃光が発せられ、それに呼応して“橋”にいくつか設けられている塔の1つから照明が照らされました。それはサーチライトに似てない事もありません。それが谷底の暗闇へ向けられ1点をじっと照らしています。

するとビー…、私たちに付いて来られた天使様が私たちに“しばらくここにいるように”と言い残してその場を離れ、宙を飛んで素早く塔のてっぺんへ行かれました。次の瞬間その天使様の姿が照明の中に消えて失くなりました。仲間の1人が天使様が光線に沿って斜めに谷底へ下りて行くのを見かけたと言います。

私には見えませんでしたが間もなくその通りだった事が判明しました。ここで注釈が要りそうです。その照明は見え易くするためのものではありません。(高級霊は自分の霊眼で見えますから)その光には低級界の陰湿な影響力から守る作用があるのです。

最初に谷底へ下った霊から閃光が発せられ、それに呼応して常時見張っている塔から照明が当てられたのも、そのための合図だったのです。私には判りませんでしたが、その光線には生命とエネルギーが充満しており – これ以上うまい表現が出来ません – 谷底で援助を必要としている霊のために発せられた訳です。

やがて2人の天使が件(くだん)の女性霊を連れて帰って来られました。男の天使の方は非常にお強い方なのですが、疲れ切ったご様子でした。後で聞いたところによりますと、途中でその女性霊を取り返そうとする邪霊集団と遭遇したのだそうで、信号を送って援助を求めたのはその時でした。

お2人はその女性霊を抱きかかえるようにして歩いて来ましたが、その女性は光の強さに半(なか)ば気絶しかかっておりました。それを気遣いながら塔へ向けてゆっくりと歩いて行かれました。

私にとってこんな光景は初めてでした。もっとも似たような体験はあります。例の色とりどりの民族衣装を着た大集団が集結した話(1章5 キリスト神の“顕現” 参照)をしましたが、今度の光景はある意味ではそれよりも厳粛さがありました。

というのは、あの光景はただただ喜びに溢れておりましたが、今目の前にした光景には苦悩と喜びとが混ざり合っていたからです。3人はついに橋に辿り着き、そこで女性霊は建物の一室に運び込まれ、そこで十分に休養を取り回復した後私たちに引き渡されたのでした。

この話は私たちにとって新しい教訓が幾つかあり、同時にそれまでは単なる推察に過ぎなかったものに確証を与えてくれたものが幾つかあります。そのうちの幾つかを挙げてみましょう。

まず、女性霊を救出した2人の天使を見れば判る通り、霊格の高い天使が苦しみを味わう事が無いかのように想像するのは間違いだという事です。現実に苦しまれるし、それも度々あるのです。邪悪な霊の住む領域に入ると天使も傷(や)られます。

ならば、その理屈でいくと邪霊集団が大挙して押し寄せれば全土を征服できそうに思うのですが、光明と善の勢力の組織がしっかりしていて且つ常に見張っておりますので現実にそうした大変な事態になった話を聞いた事がありません。しかし彼らとの闘いは事実“闘い”なのです。

しかも大変なエネルギーの消耗を伴います。これが第2の教訓です。高級霊でも疲労する事があるのです。がその苦痛も苦労も厭(いと)わないのです。逆説的に聞こえるかも知れませんが、高級霊になると必死に救いを求める魂の為に自分が苦しみを味わう事に喜びを感じるものなのです。

また例の照明の光 – エネルギーと活力の光線とでも言うべきかも知れません – の威力は強烈ですから、何かで光を遮断してあげなかったら女性霊は危害を被ったはずです。あのように光に慣れない霊にとってはショックが強すぎるのです。

さらにもう1つ。その光線が暗闇の地帯の奥深く照らされた時、何百マイルもあろうかとおもえる遠く深い谷底から叫び声が聞こえてきました。それは何とも言えない不思議な体験でした。

と言うのは、その声には怒りもあれば憎しみもあり、絶望の声もあり、はたまた助けとお慈悲を求める声も混じっていたのです。それらが混ざり合ったものが至る所から聞こえてくるのです。

私にはそれが理解できないので、後で件(くだん)の女性霊を待っている間にビーニックス Beanix – こう綴るより他ないように思えますのでこれで通します。綴ってみるとどうもしっくり来ないのですが – その方に何の叫び声でどこから来るのかお聞きしました。

するとビーニックス様は、それはよくは知らないが霊界にはそうした叫びを全部記録する装置があって、それを個々に分析し科学的に処理して、その評価に従って最も効果的な方法で援助が差し向けられるとの事でした。

叫びの1つ1つにその魂の善性または邪悪性が込められており、それぞれに相応(ふさわ)しいものを授かる事になる訳です。件の女性をお預かりした時、私たちはまずは休養という事で、心の安まる雰囲気で包んであげるよう心掛けました。そして十分に体力が回復してから用意しておいたホームへご案内しました。今もそこで面倒を見てもらっています。

私たちはその方に質問は一切しませんでした。逆にその方から2、3の質問がありました。何とあの暗黒界に実に20年以上も居たというのです。地上時代の事は断片的にしか聞いておらず、1つの話につなげられるほどのものではありません。

それに、そんな昔の体験をいきなり鮮明に思い出させる事は賢明ではないのです。現在から少しずつ遡って霊界での体験を一通り復習し、それから地上生活へと戻ってこの因果関係 – 原因と結果、タネ蒔きと収穫 – を明確に認識しないといけないのです。

今日はこの程度にしておきましょう。ではさようなら。神の祝福と安らぎを。アーメン。

↑目次へ↑

4章 霊界の大都市

1 カストレル宮殿

1913年10月17日 金曜日

前回のあのお気の毒な女性 – 今は十分祝福を受けておられますが – をお預けするホームへまだ到着しないうちから私はもう1つの使命を思い出しました。そこから遥か東方にある都市まで行く事になっていたのです。

あなたはまた“東”という文字を書き渋っているけど、私たちはその方角を東と呼んでいるのです。と言いますのは、こちらへ来て初めてイエス様の御姿と十字架の像を拝見したのがその方角だったのです。その方向にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。

さて私たち5人はその山の向こう側にある都市を目指して出発いたしました。出発に先立ってよく道順をお聞きしておきました。上の方のお話ではその都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとの事でした。

初めは徒歩で行きましたが後は空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が難しいのですが、飛んだ方が速いし、それに場所を探すのには空から見た方が判りやすいという事になりました。

やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから正面入口めがけて着陸し、そこから本通りへ入りました。本通りはその都市のど真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。

その幅広い通りを境にして両側はとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一帯を治められる高官の方が住んでおられ、そこが首都になります。畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物が沢山見えます。

一見して住居ではなくて別の目的をもっている事が判ります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。どの建物にも必ずその建物に相応しい色彩とデザインの庭園がついております。

それらを見て歩きながら、この辺で待ち合わせて下さると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて待ち受けて下さっているのです。歩いていくうちに、いつの間にか公園のようなところに入りました。

とても広い公園で美しい樹木が程よく繁り、所々に噴水池が設けてあります。それ以外は一面緑の芝生です。その噴水が水面に散る時の音はメロディと言えるほど快く、またそれぞれの噴水が異なったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を快い音楽で包んでおります。

その噴水にある細工を施すと得も言われぬ霊妙な音楽が聞けるとの事です。その細工を施すのは度々ではないのですが、時折行われますと、その都市に住む人はもちろんの事、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まってくるそうです。

私たちが行った時は素朴な音楽でしたがそれでもそのハーモニー、その快さは見事でした。暫くその公園の中を散歩しました。とても心の安まる美しいところです。芝生に腰を下ろして休んでいますとそこへ1人の男性が優しい笑みを浮かべて近づいて来ました。

私たちを迎えに来られたのだという事はすぐに判ったのですが、お姿を拝見して私たちとは比較にならぬほど霊格の高い方である事が知れましたので暫くは言葉が出ませんでした。

– どんな方ですか。出来れば名前も教えて下さい。

そのうちお教えしましょう。焦る事が1番いけません。こちらの世界では“焦らぬように”という事が1番大切な戒めとされているほどです。焦ると判りかけていたものまで判らなくなります。その天使様はとても背の高い方で、地上でいえば7フィート半は十分あったでしょう。

私は地上にいた時より背が高くなっていますが、その私より遥かに高い方でした。その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無造作に着ておられるだけで腕も脚も丸出しで、足には何も履いておられませんでした。私は今あなたの心に浮かぶ疑問にお答えしているのですよ。

帽子?いえ無帽です。髪型ですか。ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。頭には幅の広い鉢巻のような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており真ん中と両側に1つずつ宝石が付いておりました。

また胴にはピンクの金属で出来たシンクチャーを締めておられましたが、何も飾っていない丸出しの手足からも柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊格の高さを示しておりました。

お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私たちの心に安心感と信頼心が湧いてきました。また尊敬の念も自然に湧いて来ました。

やがて天使様は私たちの波長に合わせている事がすぐに判るような、ゆるやかな口調でこう言われました。ゆるやかでもその響きの中に心に沁みわたるものを感じ取る事ができました。「私の名はカス…」いけません。

名前は私の弱点のようでして、地上へ降りて来るとどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんな事を言われました。

「私の事は既にお聞きになっておられると思います。やっとお会いできましたね。では私の後に付いて来て下さい。さっそくあなた方をお呼びした目的をお話いたしましょう。」

私たちは言われるまま天使様の後から付いて行きましたが、その道すがら気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり気安さを覚えるようになりました。

天使様といっしょに通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、やがて別の公園に入りました。入ってすぐ気づいたのですが、そこは私有の公園つまり公園と言ってもよいほど広い庭園という事です。真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。

一見ギリシャ風の寺院のような恰好をしており四方に階段がついております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら天使様の後についてその建物のすぐ側まで近づきました。近づいてみてその大きさに改めて驚きました。

左右の幅の広さもさる事ながらアーチ型の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私たち5人はただただその豪華さに見とれていました。黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物の事でした。近づいて見るとドームの色は黄金色でなく少し青味がかっておりました。

私はさっそくどんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使様はあっさりとこう言われました。

「いや何、これが私の住居ですよ。地方にも2つ私宅をもっております。よく地方にいる友を訪ねる事があるものですから。それではどうぞお入り下さい。遠路はるばるようこそいらっしゃいました」天使様の言葉には少しも気取りというものがありません。

“気取らない”という事が霊格の偉大さを示す1つの特徴である事を学びました。地上でしたらこんな時には前もって使いの者が案内して恭々(うやうや)しく勿体ぶって拝謁(はいえつ)するところでしょうが、この度はその必要もないので全部省略です。最も必要な時はちゃんとした儀式もいたします。

行うとなれば盛大かつ厳粛なものとなりますが、行う意味の無い時は行われません。さて、カストレル様 – やっと名前が出ましたね。詳しい事は明晩にでもお話致しましょう。あなたもそろそろ寝まなくてはならないでしょう。ではおやすみ。

↑目次へ↑

2 死産児との再会

1913年10月18日 土曜日

カストレル様のご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐに例のドームを見上げるようになっています。そこはまだ建物の中ではなくポーチの少し奥まったところになります。

大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛物などは深紅色に輝いておりました。前方と両側に1つずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。

それらを珍しげに眺めてからふと辺りを見回すと、いつの間にかカストレル様が居なくなっております。やがて右側の出入口から楽しそうな談笑の声が聞こえて来ました。何事だろうとその方向へ目をやると、その出入口から子供を混じえた女性ばかりの一団がぞろぞろと入ってきました。総勢20人もおりましたでしょうか。

やがて私たちのところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め頬に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中の1人だけが残って後の方はそのまま引き返して行きました。

大勢で来られたのは私たちに和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。さて後に残られた婦人が、こちらへお出でになりませんかと言って私たちを壁の奥まったところへ案内しました。

5人が腰掛けると、婦人は1人1人の名前を言い当て、ていねいに挨拶し、やがてこんな風に話されました。

「さぞかし皆さんは一体何のためにここへ遣(つか)わされたのかとお思いの事でしょう。またここがどんな土地で何という都市なのかといった事もお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。その事は多分カストレル様から直々(じきじき)にお聞きになられた事でしょう。

カストレル様はこの地方一帯の統治者にあらせられ仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆様は既に“音楽の街”も“科学の街”もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手元へ届くようになっているのです。

届けられた情報はカストレル様と配下のお方が一々検討され然るべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるのです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方が良いかも知れません。

例えば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成に努めているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私たちの手元に届けられます。届きますとすぐさま検討と分析を経て記録されます。

必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所は沢山あります。ここへお出でになるまでに幾つかご覧になられたはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。

しかし実はその実験所の道具や装置は必ずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたりすると、すぐに使いを出してその製造方法を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。

そんな次第ですから、その管理に当る方は叡智に長けた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早くかつ忍耐強く処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのはその仕事ぶりをお見せするためなのです。

ここにご滞在中にどうか存分にご見学なさって下さい。もちろん全部理解して頂くのは無理でしょうし特に科学的な面はなかなか難しいところが多かろうと思いますが、たとえ判らなくてもあなた方の将来のお仕事に役立つ事が多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にしてこれからこの建物を一通り案内してさしあげましょう。」

婦人の話が終わると私たちは丁寧にお礼を述べて早速建物の中の案内をお願いしました。全てが荘厳としか言いようがありません。どこを見てもたった1色というものがないのです。必ず何色かが混ざっています。

ただ何色混ざっていても実に美しく調和しているのでギラギラ輝くものでもどこかしら慰められるような柔らかさを感じます。宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、何でもがそうでした。

石柱には飾りとして1本だけ立っているものと束になったものとがありました。それから通路には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてあります。通りがけにそれが肩などに触れると何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。

庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色彩は地上のどこにも見られないものでした。それから屋上へ案内されました。

驚いた事にそこにもちゃんとした庭があり芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡を交わすところです。時には見張り所のような役目も果たします。

通信方法は強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが言語でなしに映像となって現れますから(※)実際には地上の無線とも異なりましょう(※この通信が書かれた頃はまだテレビが発明されていなかった事、そして地上の発明品はことごとく霊界にある物の模造品である事を考え合わせると興味深い – 訳者)

私たち女性グループはずいぶん永い間その宮殿にごやっかいになりながら、近くの都市や郊外まで出ていろんなものを見学しました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。それほど広い地域でありながら全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。

その中心に当たるのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿という訳です。その全部をお話すると幾ら時間があっても足りません。そこでそのうち幾つかをお伝えしてそれによって他を推察して頂きましょう。もっともそれもあなた方の想像も及ばないものばかりですけど。

第一に不思議に思った事はその都市に子供がいる事でした。なぜ不思議に思ったかと言いますと、それまで私は子供には子供だけの世界があって皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。

私はその中の1人にそこの子供たちがみんな幸福そうで愛らしく、こんな厳かな宮殿でいかにも寛いでいる事には何か特別な理由(わけ)があるのですかと尋ねてみたところ、大よそ次のような説明をしてくれました。

“ここで生活している子供はみな死産児で、地球の空気を吸った事のある子供とは性格上に非常な違いがある。わずか2、3分しか呼吸した事のない子供でも、全然呼吸していない死産児とはやはり違う。それ故死産児には死産児なりの特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より速い。

まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。が、ただ美しく純粋であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら今度は地球と関係した仕事に従事している方の手に預けられ、その方の指導の元に間接的ながら地上生活の体験を摂取する事になる…。”

私は初めこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気(のんき)な心の静寂を突き破って、この都市へ来たのは実はその事を知るためだったのだという自覚が油然として湧いて来ました。私にも実は1度死産児を生んだ経験があるのです。

それに気がつくと同時に私の胸にその子に会いたいという気持が止めどもなく湧いて来ました。“あの子もきっとここに来ているに違いない”そう思うや否や私の心の中に感激の渦が巻き起こり、しばし感涙にむせびました。その時の気持はとても筆には尽せません。

そばに仲間がいる事も忘れて木陰の芝生にうずくまり、膝に顔を押し当てたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持ちを察して黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から抜け出るのを待っておりました。やがて少し落ち着くと仲間の1人が優しくこう語ってくれました。

「私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです」

それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私の願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取って一緒に立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。

ふと我に帰ってみると、その木立の繁みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。

まだ実際に子供に会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるんだろうか – 私はそんな事を心配しながら木立に近づきました。表現がまずいなどと言わないでおくれ。そう遠い昔の事ではありません。

その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどとは考えてもみませんでした。ですから突如としてその事実を知らされた時は、私はもう…ああ、私にはこれ以上書けません。

どうか後は適当に想像しておくれ。とにかくこの愚かな母親にも神はお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせて下さったのです。私がもっとしっかりしておればもっと早く会わせて頂けたでしょうにね。最後に1つだけ大切な事を付加えておきましょう。

本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい感激にかまけてしまって…その大切な事というのは子供がこちらへ来るとまずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上の事を勉強させます。地上生活が長ければ長いほどこちらでの地上の勉強は少なくて済みます。

死産児には全然地上の体験が無い訳ですが地球の子供である事に変りありませんからやはり地球の子としての教育が必要です。つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。

またいよいよ近づく時は守護に当たる方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので地上生活を体験した子に比べて準備期間が長いようです。やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが速いようです。

もちろんこれは大体の原則を述べたまでで個々に適用される時はその子の性格を考慮し、その特殊性に応じて変更され順応されます。ともかく全てがうまく出来上がっております。では神の祝福を。おやすみなさい。

↑目次へ↑

3 童子が手引きせん

1913年10月20日 月曜日

引続きカストレル様の都市の見学旅行中の話です。中央通りを歩きながら私はなぜこの都市には方形の広場が多いのか、そしてその広い中央通りの両側にある塔のように聳える建物が何のために建てられているのかを知りたいと思っていました。

そのうち中央通りの反対側の入口に到着してやっと判ったのは、その都市全体が平地に囲まれた非常に高い台地にあるという事でした。案内の方のお話によりますと、そこに設けられている塔からなるべく遠くが見渡せるようにという事と、周りの平地の遠い住民からもその塔が見えるようにという配慮があるとの事でした。

そこがその界の主都で全てがそこを焦点として治められているのでした。帰途も幾つかの建物を訪れ、どこでも親切なおもてなしを受けました。その都市ではカストレル様のお住まいでみかけた以外に子供の姿はあまり見かけませんでした。ですが時折そこここの広場で子供の群を見かけます。そこには噴水があり周りの池に流れ落ちて行きます。

池の水はその都市を流れる大きな川につながり、無数の色彩と明るい輝きを放散しながら下の平地へ滝となって落ちて行きます。その滝の流れはかなり大きな川となって平地をゆったりと流れて行きますが、その川のあちこちで子供たちが水浴びをして遊んでいるのを見かけたのです。

しきりに自分の身体に水をかけております。私はその時はあまり深く考えなかったのですが、そのうち案内の方から、あの子供たちはあのような遊びをするよう奨励されているとの話を聞かされました。と言うのは、そこの子供たちは死産児として来たので体力が乏しく、あのような遊びによって生体電気を補充し体力を増強する必要があるというのです。

それを聞いて私が思わず驚きの声をあげると、その方は「でも別に何の不思議もないでしょう。ご存知のように私たちの身体は肉も血もないのにこうして肉体と同じように固くて実体があります。また現在の私たちの身体が地上時代よりはるかに正確に内部の魂の程度を反映している事もご存知のはずです。

その点あの子供たちの大半がやっと成長しはじめたばかりで、それを促進するための身体的栄養が要るのです。別に不思議ではないと思いますが…」とおっしゃいました。別に不思議ではない – 言われてみれば確かにその通りです。

私はさきに天界を“完成された地上のようなところ”と表現しましたが、その本当の意味が今になってようやく判ってきました。多くの人間がこちらへ来てみて地上とあまりによく似ている事に驚くはずです。もっとも、ずっと美しいですけど。

大抵の人間は地上とは全く異なる薄ぼんやりとした影のような世界を想像しがちですが、よく考えてごらんなさい。常識で考えてごらんなさい。そんな世界が一体何の意味がありますか。それは段階的進歩ではなく一足跳びの変化であって、それは自然の理に反します。

確かにこちらへ来てすぐから地上と少しは勝手が違いますが、不思議さに呆然(ぼうぜん)とするほどは違わないという事です。特に地上生活でこれといって進歩のない生活を送った人間が落着く環境も地上と見分けがつかないほど物質性に富んでおります。

そういう人間が死んだ事に気づかない理由はそこにあります。低い界から高い界へと向上するにつれて物質性が薄れて行き、環境が崇高さを増して行きます。しかし地上性を完全に払拭(ふっしょく)した界、地上生活と全く類似性をもたない界まで到達する霊は稀です。

特殊な例を除いてまず居ないのではないかと思っております。が、この問題については私に断定的な事を言う資格はありません。何しろ地上生活と全く異なる界に到達していないどころか、訪れてみた事もないからです。

今いる所はとても美しく、私はこの界の美と驚異を学ばねばなりません。学んでみると、実は地球はこの内的世界が外へ向けて顕現したものに他ならず、従って多くの細かい面において私たち及び私たちの環境と調和している事が判ります。

もしそうでなかったら今こうして通信している事も有得ないはずです。そしてまた – 私みたいな頭の良くない人間にはそう思えるというまでの事ですが – もしあなた方の世界と私たちの世界に大きな隔り、巨大な真空地帯のようなものがあるとしたら、地上生活を終えたあと、どうやってこちらへやって来れるのでしょう。

その真空地帯をどうやって横切るのでしょうか。でもこれはあくまで私自身の考えです。そんな事はどうという事は無いのかも知れません。ただ確実に言える事は、神と神の王国は1つしかない事、その神の叡智によって宇宙は段階的に向上進化していくように出来ているという事さえ銘記すれば、死とは何か、その先はどうなっているのかについての理解が遥かに深くなるであろうという事です。

死後の世界にも固い家屋があり、歩くための道があり、山あり谷あり樹木あり動物や小鳥までいるという事が全くバカバカしく思える人が多い事でしょう。その動物が単なる飾り物として存在するのではなく、実際の用途をもっております。

馬は馬、牛は牛の仕事があり、その他の動物も然りです。が動物たちは見た目に微笑(ほほえ)ましいほど楽しく働いております。私は1度ある通りで馬に乗ってやって来る人を見かけた事がありますが、何となく人間よりも馬の方が楽しんでいるように見えたものです。

でもこうした話は信じて頂けそうにありませんから話題を変えましょう。その広い市街地の建物の1つに地方の各支部から送られて来る情報を保管する図書館がありました。また新しいアイディアを実地にテストするための研究所もありました。

さらには教授格の人が自分の研究成果を専門分野だけでなく他の分野の人を集めて発表するための講堂もありました。そしてもう1つ、風変わりな歴史をもつ建物がありました。それは少し奥まったところに立っていて木材で出来ておりました。

マホガニー材をよく磨いたような感じで木目には黄金の筋が入っております。ずいぶん古い建物で、カストレル様がその領地の管理を引き継がれるずっと前に当時の領主のための会議室として建てられたものです。

かつては領主がそこに研究生たちを召集され、それぞれに実際的知識を発表する事に使用されておりました。こんな話を聞きました。その発表会の事です。青年が立ち上がって講堂の中央へ進み出て学長すなわち領主に向って両手を広げて立ちました。

立っているうちにその青年の姿が変化しはじめ、光輝が増し半透明の状態になり、ついに大きな光の輪に囲まれました。そしてその光の輪に中に高級界からの天使の姿が無数に見えます。学長が意味ありげな微笑を浮かべておられますが青年にはそれが読み取れません。

彼 – 首席代表であり領主のあとを継ぐべき王子のような存在でもあります – が何か言おうと口を開きかけた時です。入口から1人の童子が入って、大勢の会衆に驚いた様子できょろきょろ見回しました。

その子は光の輪の側まで来て、層を成して座っている天使の無数の顔を見つめて気恥ずかしそうにしました。そしてその場から逃げ帰ろうとした時に中央におられる学長の姿が目にとまりました。光と荘厳さに輝いておられます。

瞬間、子供は一切を忘れて両手を広げ満面に笑みを浮かべて学長めがけて走り寄りました。すると学長は両手を下げ腰を屈めてその子を抱き上げ、ご自分の肩に乗せ青年のところへ歩み寄ってその子を青年の膝の上に置き、元の位置の戻られました。

が、戻りかけた時から姿が薄れ始め、元の位置に来られた時は完全に姿が見えなくなり、その場には何もありませんでした。子供は青年の膝の上にいて青年の顔 – 実に美しいお顔立ちでした – を見上げてニッコリと致しました。やがて青年は立ち上がり、その子を左手で抱き、右手をその頭部に当ててこう言われました。

「皆さん、聖書に“彼らを童子が手引きせん”という件(くだり)があります。(イザヤ書11・6)それをやっと今思い出しました。今我々が見たのは主イエス・キリストの顕現(※)であり、聖書の言葉通り、この童子は主の御国から贈られた方です」

そう述べてから童子に向かい「坊や、さっき先生に抱かれて私のところまで連れて来られた時、先生は坊やに何とおっしゃいましたか」と尋ねました。(※これまでの“顕現”と種類が異なり、これは霊界における“変容現象”と見るべきであろう。イエス自身、地上時代に丘の頂上で変容した話がマタイ17、マルコ9に出ている – 訳者)

すると子供は初めて口を開き、子供らしい言い方で大勢の人を前に恥ずかしそうにしながらこう言いました「僕が良い子をしてお兄さんの言いつけを守っていたら時々あの先生がこの都市と領土のためになる新しい事を教えて下さるんだそうです。でも僕には何の事だかよく判りません。」

それは青年も他の生徒たちも最初のうちは判りませんでした。が青年が閉会を宣し、その子を自宅へ連れて帰ってその意味を吟味しました。その結果辿り着いた結論は、あれはエリとサムエルの物語(サムエル書1・3)と同じだという事でした。

そして事実その結論は正しかったのです。その後その子は研究所やカレッジの中を自由に遊びまわる事を許されました。少しも邪魔にならず、面倒な質問もせず、反対に時折厄介な問題が生じた時などにその子が何気なく口にした言葉が問題解決の鍵になっている事があるのでした。

時がたつにつれて、この事があの顕現のそもそもの目的だった事が理解できました。つまり子供のような無邪気な単純さの大切さを研究生たちは学んだのです。特殊な問題の解決策が単純であるほど全体としての解決策にも通じるものがあるという事です。

他にも学生達がその“顕現”から学んだものは色々とありました。例えばキリスト神は常に彼らと共に存在する事、そして必要な時はいつでも姿をお見せになる事。これはあの時学生の中から姿を現された事に象徴されておりました。また広げた両手が自己犠牲を意味しておりました。

あの後光が象徴したように、荘厳さに満ちたあのコロニーにおいてさえも自己犠牲が必要なのです。その後あの童子はどうなったか – 彼は例の青年の叡智と霊格が成長するにつれて成育し、青年が1段高い界へ赴(おもむ)いた後、青年の地位を引き継いだという事です。

さて以上の話はずいぶん昔の事です。今でもそのホールは存在します。内側も外側も花で飾られて常によく手入れされております。しかし講演や討論には使用されず礼拝場として使用されております。その都市の画家の1人が例の“顕現”のシーンを絵画にして、地上でも見られるように祭壇の後ろにおいてありました。

そこにおいて主イエスを通しての父なる神への礼拝がよく行われます。それ以上に盛大に行われるのはあの顕現の時の青年が大天使として、今では指導者格となっている例の童子を従え、あの時以降青年の地位を引き継いだ多くの霊と共にそこに降臨する事があります。

そこに召集された者は何か大きな祝福と顕現がある事を察知します。しかしそういう機会に出席できるのはそれに相応しい霊格を備えた者に限られます。一定の段階まで進化していない者にはその顕現が見えないのです。

神の王国はどこも光明と荘厳さに満ち溢れ素晴しいの一語に尽きますが、その中でも驚異中の驚異と言うべきものは、そうやって無限の時と距離を超えて宇宙の大霊の存在が顕現されるという事実です。

神の愛は万物に至ります。あなたと私の2人にとっては、こうして神の御国の中の地上界と霊界という2つの世界の間のベールを通して語り合えるようにして下さった神の配慮にその愛を見る事ができるのです。

↑目次へ↑

4 炎の馬車

1913年10月21日 火曜日

カストレル様の都市についてはまだまだお話しようと思えば幾らでもあるのですが、他にも取り挙げたい問題がありますのであと1つだけ述べて、それから別の話題へ移りたいと思います。宮殿のある地域に滞在していた時の事です。そこへよく子供たちが遊びに来ました。その中には私の例の死産児も含まれておりました。

他の子供たちはその子の母親つまり私と仲間の4人と会うのが楽しみだったようです。そして私たちがそれまで訪れた土地の話、特に子供の園や学校の話をすると飽きる事なく一心に聞き入るのでした。来る時はよく花輪を編んでお土産に持って来てくれたのですが、実はそのウラにはゲームで一緒に遊んでもらおうという下心があったのです。

もちろんよく一緒に遊んであげました。その静かで平和な土地で可愛い幼児とはしゃぎ回っている楽しい姿は容易に想像して頂けると思います。ある時、あなたも子供の頃遊んだ事のあるジョリーフーパーゲームに似た遊びで、子供たちが考え出したゲームに興じておりました。

大抵私たち5人が勝つのですが、そのうち私たちと向かい合っている子供たちが突然歌うのをやめて立ち尽くし、私たちの頭越しに遠くを見つめているのです。振り向くと、その空地の端の並木道の入口のところに他でもない、カストレル様のお姿がありました。

笑みを浮かべておられます。風采からは王者の威厳が感じられますが、その雰囲気には力と叡智が渾然となった優しさと謙虚さがあるために見た目には実に魅力がありつい近づいてみたくなるものがあります。こちらへゆっくりと歩を進められ、それを見た子供たちが走り寄りました。

するとその1人1人の頭を優しく撫でてあげておられます。やがて私たちのところまで来られると「ご覧の通りガイドなしで1人でやってまいりましたよ。どこにおられるかはすぐに判りますから。ところで悪いのですが、遊びを中断して頂かねばならない用事が出来たのです。

あなた方もぜひ出席して頂きたい儀式がもうじき催されます。こちらにおられる“小さい子供さん”はそのままゲームを続けなさい。あなた方“大きい子供さん”は私と一緒に来て下さい」とユーモラスにおっしゃるのです。

すると子供たちは私たちの方へ駆け寄ってきて嬉しそうに頬にキスをして、用事が終わったらまたゲームをしに来てね、と言うのでした。それからカストレル様の後について頭が届きそうなほど枝の垂下がったトンネル状の並木道を進み、やがてそこを通り抜けると広い田園地帯が広がっていました。

そこでカストレル様は足を止めてこうおっしゃいました。「さて、ずっと向こうを見てごらんなさい。何が見えますか。」私たち5人は口を揃えて、広いうねった平野と数々の建物、そしてさらにその向こうには長い山脈のようなものが幽かに見えます、と答えました。

「それだけですか」とカストレル様が聞かれます。私たちが目立ったものとしてはそれだけですと答えると、「そうでしょうね。それがあなた方の現在の視力の限界なのでしょうね。いいですか。私の視力はあなた方よりは発達していますから、その山脈のさらに遠くまで見えます。よく聞いて下さいよ。これから私の視力に映っているものを述べていきますから。

その山脈の向うに一段と高い山脈が見え、さらにその向うにそれより高い山頂が見えます。建物が立っているものもあれば何もないものもあります。私はあの地方に居た事があります。

ですからあそこにも、ここから見ると小さく見えますが、実はこの都市を中心とした私の領土全体と同じくらいの広さの平野と田園地帯がある事を知っております。私は今その中の1つの山の頂上近くのスロープを見つめております。地平線ではありません。

あなた方の視力の範囲を超えたところに位置しており、そこにこの都市よりも遥かに広くて豊かで壮大な都市が見えます。その中央へ通じる道の入口がちょうど我々の方を向いており、その前は広い平坦地になっております。今の通路を騎馬隊と四輪馬車の列が出てくるところです。

集合し終わりました。いよいよ出発です。今その中からリーダーの乗った馬車が進み出て先頭に位置しました。命令を下しております。群集が手を振って無事を祈っております。それを先頭に残りの隊がついて来ます。さあ、こちらへ向かっていますよ。私たちも別の場所へ行って到着の様子を見ましょう。」

何のためにやってくるのか、誰1人尋ねる者はいませんでした。畏れ多くて聞けなかったのではありません。お聞きしようと思えばどんな事でもお聞きできたのですが、なぜか以心伝心で納得していたようです。

ですがカストレル様は一応私たちの心中を察して「皆さんはあの一隊が何のためにやって来るのかを知りたがっておられるようですが、そのうち判ります」とおっしゃって歩を進められ、私たちも後についてその都市を囲む外壁のところまで至り、そこから平地の向こうの丘を見ました。

が、さっき述べたもの以外は相変らず何も見えません。「隊の姿を誰が1番に見つけますかな」とカストレル様がおっしゃいます。そこで私たちは目を凝らして一心に見つめるのですが、一向に見えません。そのうち私の目に遥か山脈の上空に星が1つ輝いて見えた気がしました。

それと時を同じくして仲間の1人が「先生、あそこに見える星はここに来た時は無かったように思います」と大きい声で言いました。「いえ最初からあったのですが、あなたに見えなかっただけです。ではあなたが最初ですか、見えたのは」と聞かれます。

私はどうも“私にも見えておりました”とは言いたくありませんでした。先に言えば良かったのでしょうけど。するとカストレル様は「私にはもう1人見える方がいるような気がするのですがね。違いますか」と言って私の方を向いてにっこりされました。

私は赤くなって何だか訳の分らぬ事を口ごもりました。するとカストレル様が「よろしい。よく見つめていて下さい。他の方もそのうち見え始めるでしょう。あの星は現時点では数界を隔てた位置にあります。まさかあの界まで見える方がこの中に居られるとは予想しませんでした」

とおっしゃって、私たち2人の方を向かれ「ご成長を祝福申し上げます。お2人は急速に進歩を遂げておられますね。この調子で行けばきっと間もなく仕事の範囲も拡大されます」と言って下さいました。2人はそのお言葉を有難く拝聴しました。

さて気がついてみますと、その星がさっきよりずっと明るく輝いて見え、みるみる大きく広くなって行きます。その様子を暫く見続けているうちに次第にそれが円盤状のものではなくて別の形のものである事が判り、やがてその形が明瞭になってきました。

それは竪琴(リラ)の形をした光のハープとも言うべきもので、まるでダイヤモンドを散りばめた飾りのようでした。が、だんだん接近すると、それは騎馬と馬車と従者の一団で、その順序で私たちの方角へ向けて虚空(こくう)を疾走しているのでした。

やがて都市の別のところからも喚声が聞こえて来ました。同じものを発見したのです。「あの一隊がこの都市へやって来る目的がそろそろお判りでしょう」とカストレル様がおっしゃるので「音楽です」と私が申し上げると「その通り。音楽と関係があります。とにかく音楽が主な目的です」とおっしゃいました。

さらに近づいたのを見ると、その数は総勢数百名の大集団でした。見るも美しい光景でした。騎馬と炎の馬車 – 古い伝説に出てくるあの炎の馬車は本当にあるのです。 – それが全身から光を放つ輝かしい騎手に操られて天界の道を疾走して来たのです。

ああ、その美しさ。数界も高い天界からの霊の美しさはとても私たちには叙述できません。その中の1番霊格の低い方でもカストレル様と並ぶほどの方でした。が実はカストレル様はその本来の光輝を抑(おさ)え、霊格をお隠しになっておられました。

それはこの都市の最高霊であると同時に1人の住民でもあるとのご自覚をお持ちだからです。ですが、高級界からの一隊がいよいよ接近するにつれてカストレル様のお姿にも変化が生じ始めました。お顔と身体が輝きを増し、訪問者の中で1番光輝の弱い方と同じ程度にまで輝き始めました。

なぜカストレル様が普段この天界の低地の環境に合わせる必要があるのか。私は後で考えて理解がいきました。それはこうして普段より光輝を増されたお姿を目の前にしますと、まだまだ本来の全てをお出しになっておられないのに私たちはとても近づき難く、思わず後ずさりさせられるほどだったのです。

おっかないというのとは違います。意外さに思わず…というより他に表現のしようがありません。一隊は遂に私たちの領土の上空まで来ました。最初の丘陵地帯と私たちのいる位置との中ほどまで来た時、速度を緩めて徐々に編隊を変えました。今度は…の形(※)をとりました。

そして遂に都市の正面入口の前の広場に着陸しました。(※末尾のところで説明が出る – 訳者)カストレル様はその時は既に私たちから離れておられ、一隊が着陸すると同時に正面入口からお付きの者を従えて歩み出られました。

光に身を包まれて…と表現するのがその時の印象に1番近いでしょう。王冠はかつて見た事も無いほど鮮やかに光輝を増しております。腰に付けられたシンクチャー(帯の一種)も同じです。隊長(リーダー)の近くまで来るとそこで跪(ひざま)ずかれました。

カストレル様より遥かに明るい光輝を発しております。馬車から降りられるとカストレル様に急ぎ足で歩み寄られ、手を取って立ち上がらせ、抱き寄せられました。その優雅さと愛に満ちた厳かな所作に一瞬、全体がシーンと静まり返りました。

その抱擁が解かれ、私たちに理解できない言語での挨拶が交されてから、カストレル様が残りの隊へ向かってお辞儀をし、直立の姿勢で都市の外壁の方へ向かれ片手を挙げられました。すると突如として音楽が鳴り渡り、全市民による荘厳なる賛美歌が聞こえて来ました。

前に1度同じような大合唱のお話をした事がありますが、それとは比較にならない厳かさがありました。この界があの時より1界上だからです。その大合唱と鐘の音と器楽の演奏の中を2人を先頭に一隊から都市の中へ入っていきました。

こうして一隊はカストレル宮殿へ向う通りを行進し、いよいよ例の並木道へと入る曲り角で隊長が馬車を止め、立ち上がって四方を見回し、手を挙げて沿道の市民にその都市の言葉で祝福を述べ、それから並木道へと入り、やがて一隊と共に姿が見えなくなりました。

でもダメですね、私は。今回の出来事の荘厳さを万分の一でもお伝えしようと努力してみましたが、惨めな失敗に終わりました。実際に見たものは私が叙述したものより遥かに遥かに荘厳だったのです。

私が主として到着の模様の叙述に時間を費やしたのは、今回の一隊の訪問の使命についてはよく理解していなかったからです。それは私ごとき低地の住民には理解の及ばない事で、その都市の指導的地位にある方や偉大な天使が関わる問題です。

せいぜい私が感じ取ったのは、あのコロニーの中で音楽の創造に関わっている人の中でも最高に進化した人々による研究に主に関連している、という事だけです。それ以上の事は判りません。もちろん私以上に語れる人が他にいるのでしょうけど。

さっき出なかった言葉(※)は“惑星”です。編隊を変えた後の形の事です。いえ“惑星”ではありません。“惑星系組織”です。地球の属する太陽系なのかどうか – たぶん他の太陽系でしょうが、私にはよく判りません。

今夜はこれでおしまいです。祝福の言葉をお待ちのようですね。では神の祝福を。目を真直ぐに見据(みす)えて理想を高く掲げる事です。

そして私どもの世界の本当の栄光に比べれば地上で想像し得る限りの最高の栄光も、太陽に対するローソクのようなものでしかない事、それほど霊の世界の栄光はすばらしい事をお忘れにならぬように。

↑目次へ↑

5 “縁”は異なもの

1913年10月22日 水曜日

もし地球全体が1個のダイヤモンドか真珠のようなものであったら、太陽や星に光を反射して地球の周りがどんなにか明るく輝く事でしょう。もちろん地球に輝きが無い訳ではありません。少しは輝いております。ただ表面にツヤが無いために至ってお粗末なものに見えます。

その輝きと真珠の輝きとを比較して頂けば、地上生活と私たちが今いる光と美の境涯いわゆる“常夏の国”(※)との違いが想像して頂けると思います。(※かつては“常夏の国”が天国とされていたが、近代の霊界通信によってそれがまだまだ霊界の入口あたりに過ぎない事が明らかとなってきた。本通信でも“天界の低地”に属し、善と悪、暗黒界と光明界の二面性がある事が窺える – 訳者)

この常夏の国の平野や渓谷に遠く目をやっておりますと、地上の大気による視覚への影響をほとんど忘れております。もっとも地上独特のものでこちらに存在しないものを幾つか思い出す事は出来ます。たとえば距離です。距離感覚は“ぼやけて”行くのではなく、少しずつ“消滅して”行くのです。

樹木や植物は地上のようにシーズンが来ると咲きシーズンが終わると枯れて行くというのではありません。いつも咲いております。それを摘み取ってもずいぶん永い間いきいきとしております。

やがて萎(しお)れるのかと思うとそうではなく、これもいつの間にか大気の中へ消滅して行くのです。大気は地上と同じような感じがしますが必ずしも無色透明ではありません。カストレル様の都市はどこか黄金の太陽の光のようなものに包まれております。モヤではありません。

それが視力を妨げる事もありません。それどころか他の様々な色彩を邪魔する事なく一切を黄金の光輝の中に包み込んでいるのです。うっすらしたピンクや青色をしている地方もあります。各地方に独特の色調または感じがあって、それがそこの住民の本性と性向と仕事の特徴を現しているのです。

大気の色調はこの原理に基いているようです。が同時に、その色調が住民の言動に反映しています。他の地域を訪れるとそれがよく判ります。霊格が高くなると、その土地へ足を踏み入れるとすぐに、そこの住民の一般的性向と仕事の内容が判るようになります。と同時にその人もすぐにその影響を受ける事になります。

もちろん根本的性格は変わりません。感覚的な面で影響を受け、それがすぐに衣服の変化となって表れます。ですから見知らぬ土地へ行っても、内面的にも外面的にもすぐに同胞意識を覚えるようになります。これは私が知った最大の喜びの1つです。どこへ行っても兄弟姉妹がいるようなものです。

もし地上がそういうところだったらどうなるか、想像してご覧なさい。居ながらにして天使の平和と善意のメッセージが現実となり、地上が言わば“天界の控えの間”となる事でしょう。さて私たちはカストレル様の都市の訪問を終えての帰路、今回の体験で私たちがどう変わったか、いかなる教訓を学んだかを反省いたしました。

私自身について言えば、それはもう、あの死産児に会えたという事だけで十分であったという気持です。思いも寄らなかった神からの贈物です。が、平野をのんびりと歩きながら、私だけでなく仲間の1人1人がその人なりの祝福を得ていた事を確かめ合った事でした。

都市を訪れる時は天空を飛行しました。そこで帰りは山脈のところまでは歩いて行きましょうという事になった訳で、その道すがらずいぶん色んな事を語り合いました。それを全部綴れば大変なページ数になります。

そして内容も興味深いものばかりですが、私たちと違い、あなたにとって、また新聞社にとっては時間と紙面が大切な要素ですから(※)それは割愛して、どうしても語っておかねばならない事だけを述べる事にしましょう。(※この霊界通信は1920年から21年にかけて新聞に連載されている。霊界側は当初よりこういう形での公表を念頭において通信を送ってきた事が窺える – 訳者)

私たち5人が本来の界へ帰り着いた時、私たちの属する霊団の最高指導霊であらせられる女性天使も例の“かけ橋”での用事を終えて既に帰っておられました。この度はあなたもよくご存知の婦人を連れて帰られました。

– どうぞその方のお名前を!

S婦人です。あの方は死後、不如意な体験が重なりました。こちらへ来られた当初は急速な進歩が得られる境涯へ案内されたのですが、あの方の場合は複雑でした。性格が複雑な方だったために、どこに置かれてもしっくり来なかったのです。

いろいろと工夫して援助してあげたのですが、しかし – これはあなたもぜひ知っておくべき事ですが – こちらでは自由意志と個性が非常に重要視され、いくらその人のためになる事でも押し付ける事は許されないのです。S婦人は間もなく気持ちが落ち着かなくなり、私たちも本人の好きにさせる他はないと判断しました。

そこで警告と忠告を十分に与えた上で2つの道の岐路に案内して、好きな方角を選ぶに任せたのです。但し指導霊を付けて蔭から監視させ、必要とあらばいつでも援助の手を差伸べる用意をした上での事です。さて婦人は自分の求めるもの、つまり“心の落ち着き”を得るためにはどこへ行けばよいか、何をすればよいか迷っておりました。

それで相当永い間、例の“かけ橋”の近くをウロウロしておりました。そのS婦人がようやく自分の誤りに気づいて光明の方へ足を向け、女性天使に連れられて最初の境涯へ戻ってくる事になったのは、我が侭(わがまま)を通せば通すほど暗闇が増し、会う人も見る光景も聞く音も心地良さが薄れ、時には恐怖さえ覚えさせるものになって行きつつある事に気づいてからでした。

今もまだまだ進歩は遅いようです。ですが頑(かたく)なな心が次第に和らかさを増し、謙虚さと信頼心が強まりつつあります。そのうち立派になられるでしょう。これまで私がS婦人の消息が判らずお役に立てなかったのも、こうした経緯があったからです。

これからは時の経過と共に少しずつ力になってあげられる事と思います。私がこれから当分の間仕事に従事する事になっているこの土地へ連れて来られたのも多分そのためでしょう。あの方の事は私は地上ではあなたを通じて存じ上げていただけで、あまりよく知りませんでした。

私とのこの度のご縁は多分あの方のお子さんたちとあなたとの情愛がかけ橋となっているのでしょう。こちらでは地上でのご縁が全て生かされております。ふとした縁、行きずりの縁も意味があるものです。人生におけるあらゆる出会いが何らかの影響を及ぼしております。

たまたま隣り合わせに腰掛けた人と交わした会話、偶然の出会い、ふと買い求めた1冊の本、友人の紹介で握手を交わし、それきり生涯会う事の無かった人等々、全てが記録され、考慮され、整合されて、必要に応じて利用されます。

今回の私とS婦人との関係もその1つの例と言えましょう。ですから日常の行為の1つ、言葉の1つにも気をつけなくてはいけません。神経質になるのではなく常に人の為を思いやる習慣を身につける事です。いつでも、どこでも親切の念を出し続ける習慣です。これは天界では大変重要な事で、それが衣服に明るさを、そして身体に光輝を与えるのです。

ではお寝みなさい。この挨拶は“良い夜”をお過ごし下さいという意味ですから地上の方には意味がありますが、私たちには意味がありません。こちらでは“善”を愛する者にとっては全てが“良い”事ばかりであり、絶対的な光に満ちておりますから“夜”が無いのです。

↑目次へ↑

5章 天使の支配

1 罪の報い

1913年10月23日 木曜日

天界における向上進化の仕組みは実に細かく入り組んでおり、いかに些細な要素も見逃さないようになっておりますから、それを細かく説明していったらおそらくうんざりなさる事でしょう。ですがここで1つだけ実例を挙げて昨晩の通信の終りで述べた事を補足説明しておきたいと思います。

最近の事ですが、また1人の女性が暗黒界から例の“橋”に到着するという連絡を受け、私ともう1人の仲間2人で迎えに行かされた事がありました。急いで行ってみますと、件(くだん)の女性が既に待っておりました。1人ぽっちです。

実はそこまで連れて来た人たちがその女性に瞑想と反省の時を与えるためにわざと1人にしておいたのです。これからの向上にとってそれが大切なのです。1本の樹木の下の芝生の坂にしゃがんでおり、その木の枝が天蓋(てんがい
)のようにその方を覆っております。見ると目を閉じておられます。

私たちはその前に立って静かに待っておりました。やがて目を開けると怪訝(けげん)そうな顔で私たちを見つめました。でも何もしゃべらないので私から「お姉さま!」と呼びかけてみました。女性は戸惑った表情で私たちを見つめていましたが、そのうち目に涙をいっぱい浮かべ、両手で顔を覆い、膝に押し当ててさめざめと泣くのでした。

そこで私は近づいて頭の上に手を置き「あなたは私たちと姉妹になられたのですよ。私たちは泣かないのですから、あなたも泣いてはいけません」と言いました。「私が誰でどんな人間か、どうしてお判りになるのでしょう」 – その方は顔を上げてそう言い、しきりに涙をこらえようとしておりましたが、その言葉の響きにはまだどこか、ちょっぴり私たちに対する反撥心がありました。

「どなたかは存じませんが、どんな方であるかは存じ上げております。あなたはずっと父なる神の子の1人でいらっしゃるし、従って私たちと姉妹でもありました。今ではもっと広い意味で私たちと姉妹になったのです。

それ以外の事はあなたの心掛け1つに掛かっております。つまり父なる神の光の方へ向かう人となるか、それともそれが辛くて再びあの“橋”を渡って戻っていく人となるかは、あなたご自身で判断を下される事です」

と私が述べると暫く黙って考えてから「決断する勇気がありません。どこもここも怖いのです」と言いました。「でもどちらかを選ばなくてはなりません。このままここに留まる訳には行きません。私たちと一緒に向上への道を歩みましょう。そうしましょうね。私たちが姉妹としての援助の手をお貸しして道中ずっと付き添いますから」

「ああ、あなたはこの先がどんなところなのかをどこまでご存知なのでしょう」 – その声には苦悶の響きがありました。「今まで居たところでも私の事をみんな姉妹のように呼んでくれました。私を侮っていたのです。姉妹どころか反対に汚名と苦痛の限りを私に浴びせました。

ああ、思い出したくありません。思い出すだけで気が狂いそうです。と言って、この私が向上の道を選ぶなんて、これからどうしてよいか判りません。私はもう汚れ切り堕落しきったダメな女です」その様子を見て私は容易ならざるものを感じ、その方法を断念しました。

そして彼女にこういう主旨の事を言いました – 当分はそうした苦しい体験を忘れる事に専念しなさい。そのあと私たちも協力して新しい仕事と真剣に取り組めるようになるまで頑張りましょう、と。彼女にとってそれが大変辛く厳しい修行となるであろう事は容易に想像できました。

でも向上の道は1つしかないのです。何1つ繕(つくろ)う事が出来ないのです。全ての事 – 現在までの1つ1つの行為、1つ1つの言葉が、あるがままに映し出され評価されるのです。神の公正と愛が成就されるのです。それが向上の道であり、それしかないのです。

がその婦人の場合は、それに耐える力が付くまで休息を与えなければならないと判断し、私たちは彼女を励ましてその場から連れ出しました。さて道すがら彼女はしきりに辺りを見回しては、あれは何かとか、この先にどんなところがあるかとか、これから行くホームはどんなところかとか、いろいろと尋ねました。

私たちは彼女に理解できる範囲の事を教えてあげました。その地方一帯を治めておられる女性天使の事、そしてその配下で働いている霊団の事等を話して聞かせました。その話の途中の事です。彼女は急に足を止めて、これ以上先へ行けそうにないと言い出しました。

“なぜ?お疲れになりましたか”と聞くと“いえ、怖いのです”と答えます。私たちは婦人の心に何かがあると感じました。しかし実際にそれが何であるかはよく判りません。何か私たちに掴みどころのないものがあるのです。

そこで私たちは婦人にもっと身の上について話してくれるようお願いしたところ、ついに秘密を引き出す事に成功しました。それはこういう事だったようです。

“橋”の向こう側の遠い暗闇の中で助けを求める叫び声を聞いた時、待機していた男性の天使がその方角へ霊の光を向け、すぐに援助の者を差し向けました。行ってみると悪臭を放つ汚れた熱い小川の岸にその女性が気を失って倒れておりました。

それを抱きかかえて橋のたもとの門楼まで連れて来ました。そこで手厚く介抱し、意識を取り戻してから、橋を渡って私たちが迎えに出た場所まで連れて来たという訳です。さて、救助に赴いた方が岸辺に彼女を発見した時の事です。

気がついたその女性は辺りに誰かがいる気配を感じましたが姿が見えません。とっさに彼女はそれまで彼女をいじめにいじめていた悪(わる)の仲間と思い込み、大声で「さわらないで!こん畜生!」と罵(ののし)りました。が次に気が付いた時は門楼の中に居たというのです。

彼女が私たちと歩いている最中に急に足を止めたのは、ふとその事が蘇(よみがえ)ったからでした。彼女は神の使者に呪いの言葉を浴びせた訳です。自分の言葉が余りに酷かったので光を見るのが怖くなったのです。実際は誰に向って罵ったか自分でも判りません。

しかし誰に向けようと呪いは呪いです。そしてそれが彼女の心に重くのしかかっていたのです。私たちは相談した結果これはすぐにでも引き返すべきだという結論に達しました。つまりこの女性には他にも数々の罪はあるにしても、それは後回しに出来る。

それよりも今回の罪はこの光と愛の世界の聖霊に対する罪であり、それが償われない限り本人の心が安まらないであろうし、私たちがどう努力しても効果はないと見たのです。そこで私たちは彼女を連れて引き返し“橋”を渡って門楼のところまで来ました。

彼女を救出に行かれた件(くだん)の天使に会うと、彼女は赦(ゆる)しを請い、そして赦されました。実はその天使は私たちがこうして引き返してくるのを待っておられたのです。

私たちより遥かに進化された霊格の高い方で、従って叡智に長(た)け、彼女がいずれ戻って来ずにいられなくなる事を洞察しておられたのです。ですから私たちが来るのを門楼からずっと見ておられ、到着するとすぐ出て来られました。

その優しいお顔つきと笑顔を見て、その女性もすぐにこの方だと直感し、跪いて祝福を頂いたのでした。今夜の話にはドラマチックなところは無いかも知れません。が、この話を持ち出したのは、こちらでは一見何でもなさそうに思える事でもきちんと片付けなければならないようになっている事を明らかにしたかったからです。

実際私には何か私たちの理解を超えた偉大な知性が四六時中私たちを支配しているように思えるのです。あのお気の毒な罪深い女性が向上していく上において、あんな些細(ささい)な事でもきちんと償わねばならなかったという話がそれを証明しております。

“橋”を渡って門楼まで行くのは実は大変な道のりで、彼女もくたくたに疲れ切っておりました。ですが自分が毒づいた天使様のお顔を拝見し、その優しい愛と寛恕(かんじょ)の言葉を頂いた時に初めて、辛さを耐え忍んでこそ安らぎが与えられるものである事、為すべき事を為せばきっと恵みを得る事を悟ったのでした。

その確信は、彼女のように散々神の愛に背を向けてきた罪をこれから後悔と恥辱の中で償っていかねばならない者にとっては、掛けがえのない心の支えとなります。

– その方は今どうされてますか

あれからまだそう時間が経っておりませんので目立って進歩しておりません。進歩を阻害するものがまだいろいろとあるのです。ですが間違いなく進歩しておられます。私たちのホームにおられますがまだまだ他人のための仕事を頂くまでには至っておりません。

いずれはそうなるでしょうが、当分はムリです。罪悪というのは本質的には否定的性格を帯びております。が、それは神の愛と父性(※)を否定する事であり、単に戒律(おきて)を破ったという事とは比較にならない罪深い行為です。魂の本性つまり内的生命の泉を汚し、宇宙の大霊の神殿に不敬を働く事に他なりません。

その汚れた神殿の清掃は普通の家屋を掃除するのとは訳が違います。強烈なる神の光がいかに些細な汚点をも照らし出してしまうのです。それだけに又、それを清らかに保つ者の幸せは格別です。何となれば神の御心のままに生き、人を愛するという事の素晴しさを味わうからです。

(※民族的性向の違いにより神を“父なる存在”と見なす民族と“母なる存在”と見なす民族とがある。哲学的には老子の如く“無”と表現する場合もあるが、いずれにせよ顕幽にまたがる全大宇宙の絶対的根源であり、神道流に言えばアメノミナカヌシノカミである。 – 訳者)

↑目次へ↑

2 最後の審判

1913年10月27日 月曜日

今夜もまた天界の生活を取り上げて、こちらの境涯で体験する神の愛と恵みについてもう少しお伝えできればと思います。私たちのホームは樹木のよく繁った丘の中腹に広がる空地に建っております。

私がお世話している患者 – 本当に患者なのです – は明りの乏しい言わば闇が魂に忍び込むような低地での苦しい体験の後にここへ連れて来られ、安らぎと静けさの中で介抱されております。来た時は大なり小なり疲労し衰弱しておりますので、ここから向上して行けるようになるのは余程体力を回復してからの事です。

あなたはここでの介抱の仕方を知りたいのではないかと思いますので申し上げましょう。これを煎じ詰めれば“愛”の一語に尽きましょう。それが私たちの指導原理なのです。

と言う事は私たちが罪を裁かず、罰せず、ただ愛をもって導いてあげるという事ですから、その事実を知った患者の中にはとても有難く思う人がいます。ところが実はそう思う事が原因となって却ってそこにいたたまれなくなるものなのです。

例えばこんな話があります。最近の事ですが、患者の1人が庭を歩いている時に、私たち霊団の最高指導霊であられる女性天使を見かけました。その人はつい目を反(そ)らして脇の道へ折れようとしました。怖いのではありません。畏(おそ)れ多い気がしたのです。

すると天使様の方から近づいてきて優しく声を掛けられました。話をしてみると意外に気楽に話せるものですから、それまで疑問に思っていた事を尋ねる気になりました。

「審判者はどこにおられるのでしょうか。そして最後の審判はいつ行われるのでしょうか。その事を思うといつも身震いがするのです。私のような人間はさぞ酷(ひど)い罰を言いつけられるに決まっているからです。どうせなら早く知って覚悟を決めたいと思うのです。」

この問いに天使様はこうおっしゃいました。「よくお聞きになられました。あなたの審判はあなたが審判を望まれた時に始まるのです。今のあなたのお言葉から察するに、もうそれは始まっております。ご自分の過去が罰を受けるに値すると白状されたからです。それが審判の第一歩なのです。

それから審判者はどこに居るのかとお尋ねですが、それ、そこにおられます。あなたご自身ですよ。あなた自身が罰を与えるのです。これまでの生活を総点検して自分の自由意志によってそれを行うのです。1つ1つ勇気をもって懺悔(ざんげ)するごとに向上して行きます。

ここにお出でになるまでのあの暗黒界での生活によって、あなたは既に多くの罰を受けておられます。確かにあれは恐ろしいものでした。しかしもうそれも過去のものとなり、これからの辛抱にはあんな恐ろしさは伴いません。もう恐怖心とはおさらばなさらないといけません。

ただし苦痛は伴うでしょう。大変辛い思いをなさる事と思います。ですがその苦痛の中にあっても神の導きを感じるようになり、正しい道を進めば進むほど一層それを強く感じるようになるでしょう。」

「でも報酬を与えたり罰したりする大審判者つまりキリスト神の玉座が見当たらないのはおかしいと思うのです。」

「なるほど、玉座ですか。それならいずれご覧になれる日が来るでしょう。でもまだまだです。審判というのはあなたがお考えになっているものとはだいぶ違います。でも怖がる必要はありません。進歩するにつれて神の偉大な愛に気づき、より深く理解して行かれます。」

これは実はこちらへ来る人の多くを戸惑わせる問題のようです。悪い事をしているので、どうせ神のお叱りを受けて拷問にかけられるものと思い込んでいるので、そんな気配が無い事に却って戸惑いを感じるのです。

また、自分は立派な事をしてきたと思い込んでいる人が、置かれた環境の低さ – 時には惨めなほど低い環境にとても落胆する事がよくあります。内心では一気にキリスト神の御前に召されて“よくぞやってくれた”とお褒めの言葉でも頂戴するものと思い込んでいたからです。

もうそれはそれは、こちらへ来てからは意外な事ばかりです。喜ぶ人もおれば悲しむ人もいる訳です。最近こんな人を見かけました。この方は地上では大変博学な文筆家で何冊もの書物を出版した人ですが、地上でガス工場の“かまたき”をしていた青年に話しかけ色々と教わっているところでした。

楽しそうな様子なのです。というのも、その人は謙虚さを少しずつ学んでいるところだったのです。ですがこの人のいけないところは、そんな行きずりの若造を相手に教えを乞うのは苦にならないのに、既にこちらへ来ている筈のかつての知人のところへ赴いて地上での過ちや知的な自惚(うぬぼ)れを告白する事はしたくないのです。

しかし、いずれはしなければならない事です。青年との関係はそのための準備段階なのです。しかし同時に私たちの目にはその人の過去も現在も丸見えであり、特に現在の環境が非常に低い事が明白なのに本人が相変らず内心の自惚れは他人には知られてないと思い続けているのが哀れに思えてなりません。

こういう人には指導霊も大変な根気がいります。が、それがまた指導霊にとっての修行でもあるのです。ここで地上の心霊家を悩ます問題を説明しておきましょう。問題というのは心霊上の問題点についてなぜ霊界からもっと情報を提供してくれないかという事です。

これにはぜひ理解して頂かねばならない事情があるのです。こうして地上圏まで降りて来ますと私たちは既に本来の私たちではなく、地上特有の条件による制約を受けます。その制約が私たちには既に馴染(なじ)めなくなっております。

例えば地上を支配している各種の法則に従って仕事を進めざるを得ません。そうしないとメッセージを伝える事も物理的に演出して見せてあげる事もできません。

実験会では出席者がある特定の霊の姿を見せてほしいとか話を交わしたいとか、あるいはその霊にまつわる証拠について質問したいと思っている事は判っても、それに応じるには私たちは非常に制約された条件下に置かれています。

例えばその出席者の有する特殊な霊力を活用しなければならないのですが、こちらが必要とする肝心なものは閉じられたままで、結局その人が提供してくれるものだけで間に合わせなくてはならない事になりますが、それが往々にして十分でないのです。

さらにその人の意念と私たちの意念とが言わば空中衝突をして混乱を生じたり、完全に実験が台無しになったりする事もあります。なるべくなら“私たちを信頼して”私たちの思い通りにやらせてほしいのです。

その後で私たちが何を伝えんとしているかを“批判的態度で”検討して下さればいいのです。もし特別に情報が欲しいと思われる問題点があれば、それを日常生活におけるのと同じように時折心の中に宿して頂けばそれでよろしい。

私たちがそれを察知して検討し、もし可能性があり有益でもあり筋が通っていると判断すれば、チャンスと手段を見つけて、遅かれ早かれ、それに応じてあげます。実験その他、何らかの形で私たちが側(そば)に来ている時に要求をお出しになるのであれば、強要せずに単に想念を抱くだけでよろしい。

後は私たちに任せて下さい。出来るだけの事をして差し上げます。しつこく要求してはいけません。私たちはお役に立ちたいという意図しかないのですから、あなたのためになる事なら出来る限りの事をしていると信じて下さい。

ちょうどその好い例があります。あなたはずっとルビーの事を知りたいと思っておられました。それをあなたがしつこく要求する事がなかったので私たちは存分に準備する事が出来たのです。これからその様子をお伝えしましょう。

ルビーは今とても幸せです。そして与えられた仕事もなかなか上手にこなせるようになりました。つい最近会ったばかりで、もうすぐあなたやローズにお話をしに行けそうだと言っておりました。

なぜ今夜来れないのかと思っておられるようですが、あの子には他にする事がありますし私たちは私たちで計画に沿って果たさねばならない事があります。そう、こんな事も言っておりました –

「お父さんに伝えてちょうだい。お父さんが教会でお説教をしている時の言葉が私たちのところまで届けられて、その中の幾つかを取上げて皆で討論し合う事があるって。地上で学べなかった事についてのお話が入ってるからなの」と。

– ちょっと考えられない事ですね。本当ですか。

おやおや、これはまた異(い)な事を。本当ですか、とは一体あなたはこちらの子供をどんな風に考えておいでですか。いいですか、幼くしてこちらへ来た者はまずこの新しい世界の生活と環境について学び、それが終わってから今度は地球と地上生活について少しずつ勉強する事を許されます。

そしていずれは完全な知識を身につけないといけないのです。そのために、慎重を期しつつあらゆる手段を活用する事になります。父親の説教を聞いて学ぶ事以上に素晴しい方法があるでしょうか。これ以上申しません。これだけ言えば十分のはずです。“常識的に”お考えになる事です。少しは精神構造が啓発されるでしょう。

– でも、もしあなたのおっしゃる通りだと、人間はうっかり他人にお説教など出来なくなります。それと、どうか気を悪くなさらないで下さい。

ご心配なく。機嫌を損ねてなんかいませんよ。実はあなたの精神に少なくとも死後の環境とその自然さについて、かなりの理解が見られるようになって有難く思っていたのです。ところが愚かしい漠然とした死後の観念をさらけ出すような、あのような考えを突如として出されたので驚いたのです。

でも、他人に説教する際はよくよく慎重であらねばならないと思われたのは誠に結構な事です。でも、この事はあなた1人に限った事ではありません。全ての人間がそうあらねばならない事ですし、全ての人間が自分の思念と言葉と行為に慎重であらねばなりません。

こちらではそれが悉(ことごと)く知れてしまうのです。でも1つだけ安心して頂ける事があります。万が一良からぬ事、品のない事をうっかり考えたり口にしたりした時は、そういうものはルビーがいるような境涯へは届かないように配慮されております。ですからそちらではどうぞ気楽に考えて下さい。

思いのままを遠慮なくおしゃべりになる事です。こちらの世界では誠意さえあれば、たとえその教えが間違っていても、間違いを恐れて黙っているよりは歓迎されるのです。さ、お寝みなさい。皆さんによろしく。神の祝福を。そして神が常にあなたに勇気と忠誠心をお与え下さいますように。

↑目次へ↑

3 使節団を迎える

1913年10月28日 火曜日

これまでに私たちが伝えたメッセージは全てあなたの精神(マインド)(※)に私たちの思念(しねん)や言葉を印象づける方法で行われております。このために私たちはあなたの精神に宿されているものを出来るだけ多く取り出し、活用して、少しでもラクに伝わるように工夫します。

ですが、それがうまく行かなくて、やむを得ずあなたの霊を地上環境から連れ出して、私たちが伝えんとしている内容を影像の形で見せ、それをあなたに綴らせるという手段を取る事がよくあります。

(※霊側から見た精神には実体があり、そこに宿された想念や記憶が具体的に手に取るように見える。いわゆる潜在意識もこれに含まれる。 – 訳者)いいえ、あなたをその身体から連れ出すという意味ではありません。だって、あなたはその間ずっとそこに居て意識をもち続けている訳ですから。

私たちが行うのは言わばあなたの内的視覚 – 霊体の視力 – に霊力を注ぎ込むために一時的にあなたの注意力を私たちが吸収してしまうのです。するとその間はあなたは環境をほとんど意識しなくなります。つまり周囲の事を忘れ、気を取られなくなります。

その瞬間を狙って今述べた霊界の影像を伝達して、それに私たちが実際に見た出来事の叙述を添えるという事をする訳です。

例えばカストレル様の都市へ音楽の使節団が光のハープの編隊を組んで到着するシーンを述べた時、シーンそのものは実際のものをお見せして、それに群がる群衆や正面入口での挨拶の様子、その他、伝えたいと思った事を後で私たちが復元して添えたものです。

そういう次第だったのです。具体的にどういう風にするかは、いずれこちらへお出でになれば判ります。さて、これから私たちはもう1つの光景をお見せして“みよう”かと思います。

“みよう”という言い方をしたのは、大事な事については私たちはそう滅多にしくじる事はありませんが、所詮私たちも全能ではありません。いろいろと邪魔が入り、思うに任せない事もあるからです。

それではこれから暫くあなたの注意力をお貸し頂いて、私たちのホームへ使節団が見学に訪れた時の様子を叙述してみましょう。私たちはよくお互いに使節団を派遣し合って、他のホームでの仕事ぶりを学び合うという事を致します。

私たちはホームの裏手にある丘の頂上近くに立って使節団の到着を待っておりました。やがて広々とした平野の上空はるか彼方にその姿が見え始めました。そのあたりの空は深紅と黄金と緑の筋が水平に重なって見えます。

それを見て私たちはその使節団がどの地域からのもので、どんな仕事に携わっている人たちであるかが判断できます。その使節は主に儀式と式典の正しい在り方を研究している人たちで、非常に遠方のコロニーからお出でになられたのでした。

虚空(こくう)を翔(かけ)る様子を見つめておりますと、平地で待機していた私たちのホームの出迎えの代表団が空中へ舞い上がりました。大空での出迎えの様子を見るのもまた一興でした。

はるか上空でお互いが接近し、いよいよ距離が縮まると、こちらの一団の何人かが形も色もポストホルン(※)に似たものを吹奏し、それに応じて他のグループが別の楽器を取り出し、演奏を始めると同時にさらに別のグループが歓迎の合唱を始めました。

(※むかし駅馬車や郵便馬車の到着を知らせるために御者が用いた2~3フィートの真ちゅうのラッパ。 – 訳者)やがて歓迎の儀式が終りました。後方に1台の2頭立ての馬車が用意してあります。昔の(天蓋のない)馬車にそっくりです。

近代風の馬車を使用してもよいのですが、こちらでは天蓋は不要なのです。それで古代の馬車がずっと使われている訳です。使節団はさらに近づいて、こちらの一団と向かい合って並びました。そのシーンを想像して下さい。

あなたには不思議に思える事でしょうが、私たちの世界では至って自然な事である事がそのうちあなたにもお判りになる日が来るでしょう。さらに向上すると空中で立つだけでなく地上と全く同じように跪いたり、横になったり、歩いたりする事まで出来るようになります。

さて、私たちのお迎えのリーダーと使節団のリーダーとが進み出ました。そして両手を握り合い、互いに額と頬に口づけをしました。それからお迎えのリーダーが右手で相手の左手を取って馬車まで案内し、迎えの残りの者が間を開け敬々しくお辞儀をしてお通ししました。

お2人が馬車に乗ると、今度は双方の残りの人々が両手を広げて近づき合い、同じように額と頬に口づけをし合いました。それから全員が私たちの方角を向き、ゆっくりとした足どりで降りて来て、ついに丘の麓まで来られました。

空中を行くとどんな感じがするか – これはあなたにはちょっと判って頂けないでしょう。私も1度ならず試した事があります。が、その感じはあなたの想像を超えたものです。ですからそれを述べるよりも、見た目に美しいものだと言うに留めておきましょう。

カストレル様やアーノル様のような霊格の高い天使になると、地面を歩かれる時の姿は単に気品があるというに留まらず、その落ち着いた姿勢や動作にうっとりとさせられる美しさがあるのです。空中になるとそれが一層美しさを増します。

静かで穏やかな威厳と力に溢れた、柔らかで優雅な動きは、まさしく王者の風格と神々しさに満ち満ちております。今目の前にしたお2人もまさにその通りでした。一行は曲りくねった小道を歩いて私たちのリーダーの住居に至りました。

ここにおいて私たちの指導霊である女性天使と共にこの領土を支配しておられます。私にはお2人の間に霊格とか地位の差は無いように思われます。全く同じではないにしても、どちらが上か下かは直接お聞きしてみないと判らないほどで、それはちょっとお聞きしかねる事です。

お互いの愛と調和性はとても程度が高く、命令と服従との関係が優雅で晴々とした没我性の中で行われるために、お2人の霊的な差を見分ける事が出来ないのです。そのお住まいはあなたがご覧になればきっと中世の城を思い出される事でしょう。

山の中腹の岩の上に建てられており、周りは緑と赤と茶と黄色の樹木と、無数の花々と芝生に囲まれております。使節団は玄関道を通って中へ入り、そこで私たちからは見えなくなりました。が中へ入った一行の光輝によって、あたかも1度に何千もの電灯が灯されたように、窓を明るく照らし出しました。

その色彩豊かな光輝は何とも言えない美しさでした。1つに融合してしまわずに、それぞれの色調を保ちつつ渾然と混ざり合い、あたかも虹の如く窓を通して輝くのでした。

これまでの私の叙述に“出入口”がしばしば出てきましたが“門”については特に述べていない事にお気づきと思います。実は私はこれまで出入口に至る門を見た事がないのです。“ヨハネ黙示録”の中には天界の聖都とその門についての叙述があります。(21章)

私はヨハネが霊視したと思われる都市に酷似した都市の門を思い出していろいろ考えたのですが、どうも今いる都市には出入口に通じる門は見当らないように思います。

で、私が思うにヨハネが“聖都の門は終日(ひねもす)閉じる事なし”と述べておいて、その後すぐ地上の都市では昼間は戦いでもない限り門は閉じられる事はなく夜はずっと閉じられている事を思い出して – “(ここに夜あることなきが故なり)”とカッコして釈明を付け加えたのは、本当は地上と同じような門は無かったからではないかと思うのです。

これは私個人の考えです。間違っているかも知れませんが、是非あなたも改めて黙示録を読み返し、私の意見を思い出して、あなた自身で判断してみて下さい。お城の中でのフェスティバルの事は私自身出席しておらず、出席した方からお聞きしただけですので、ここでは述べない事にします。

それよりも、私が目撃したものを述べておきましょう。その方が生き生きと表現できますから。しかしあれだけ多くの高級霊が一堂に会したのですから、それはそれは荘厳なフェスティバルであったろう事は容易に想像できます。

そうね。あなたやあなたの家族もこの神の愛と祝福が草原の露の如く降りて、辺り一面に芳香を漂わせる神の御国へお出でになれば、こうした事を全部目(ま)の当たりにする事が出来ます。

“授かる”よりは“授ける”方が遥かに幸せである事に何かにつけて学ばされている私たちが、その素敵な芳香を私たちの言葉を通じて地上の方にも味わって頂き、いかに神の愛が有難く優しいものであり、神を信じる者がいかに幸せであるかを判って頂きたいと思うのは少しも不思議でない事が、これでお判りでしょう。

幾久しく神の祝福のあらん事を。アーメン。

↑目次へ↑

4 強情と虚栄心

1913年10月30日 木曜日

その手をご自分の頭部へ当ててみて下さい。そうすると通信が伝わりやすくなり、あなたも理解しやすくなります。

– こうですか。

そうです。あなたと私たち双方にとって都合がいいのです。

– どういう具合に?

私からあなたへ向けて一本の磁気の流れがあります。今言った通りにして下さればその磁気の散逸が防げるのです。

– さっぱり判りません。

そうかも知れません。あなたにはまだまだ知って頂かねばならない事が沢山あります。今述べた事もその1つです。それ1つを取り上げれば些細な事かも知れませんが、それなりに大切なのです。成功を支えるのは往々にしてそうした些細な事の積み重ねである事があります。

ところで私たちはこうした通信で採用する方法については所詮あなたに完全な理解を期待するのは無理ですから、あまり細かい事は言うつもりはありません。でもこの事だけは述べておきたいのです。

つまり私たちが使用するエネルギーはやはり“磁気”と呼ぶのが1番適切である事、そしてその磁気に乗って私たちのバイブレーションがあなたの精神に伝わるという事です。そうやって手を当てがって下さると、それが磁石と貯蔵庫の2つの役目をしてくれて私たちは助かるのです。

でもこの問題はこれ位にして、もっと判り易い話題に移りましょう。この“常夏の国”では私たちは死んでこちらへやって来る人と後に残された人の双方の面倒を見るように努力しております。これは本当に切り離せない密接な関係があります。

と言うのも、こちらへ来た人はあとに残した者の事で悩み、背後霊がちゃんと面倒を見てくれている事を知るまで進歩が阻害されるケースが多いのです。そこで私たちは度々地上圏まで出かける事になるのです。

先週も私たちのもとに夫と3人の幼い子供を残して死亡した女性をお預かりしました。そして例によってぜひ地上へ行って4人のその後の様子を見たいとせがむのです。あまりにせがまられるので、已むを得ず私たちは婦人を地上へ案内しました。

着いた時は夕方で、これから夕食が始まるところでした。ご主人は仕事から帰ってきたばかりで、これからお子さんに食事をさせて寝させようと忙しそうにしておりました。いよいよ4人が感じのよい台所のテーブルを囲み、お父さんが長女にお祈りをさせています。

その子はこう祈りました。“私たちとお母さんのために食事を用意して下さった事をキリストの御名において神に感謝します”と。その様子を見ていた婦人は思わずその子のところへ近づき頭髪に手を当てて呼びかけましたが、何の反応もありません。

当惑するのを見て私たちは婦人を引きとめ、少し待つように申しました。しばらく沈黙が続きました。長女と父親の脳裏に夫人の事が去来しています。すると長女の方が口を開いてこう言いました – 「お父さん、母さんは私たちが今こうしているのを知ってるかしら?それからリズおばさんの事も。」

「さぁ、よく判らないけど、きっと知ってると思うよ。この2、3日、母さんがとても心配しているような何だか悲しい気持がしてならないからね。リズおばさんの念かも知れないけどね。」

「だったら私たちをおばさんとこに預けないでちょうだい。○○婦人が赤ちゃんの面倒を見てくれるし、私だって学校から帰ったら家事のお手伝いをするわ。そしたら行かなくて済むでしょ。」

「行きたくないのだね?」「私は行きたくないわ。赤ちゃんとシッシーは行くでしょうけど私はイヤよ。」「なるほど。父さんもよく考えておこう。だから心配しないで。みんなで何とかうまくやって行けそうだね。」

「それに母さんだってあの世から助けてくれるわ。それに天使様も。だって母さんはもう天使様とお話が出来るのでしょ?お願いしたらきっと助けてくれるわ。」父親はそれ以上何もしゃべりませんでした。が、私たちにはその心の中が見えます。そしてこんな事を考えているのが読み取れました –

“こんな小さな子供がそれほどの信仰をもっているからには自分もせめて同じくらいの信念はもつべきだ”と。

それから次第に考えが固まり、とにかく今のままでやってみようと決心しました。もともと子供を手放すのは父親も本意ではなく、引き止めるための言い訳ならいくらでもあるじゃないか、と思ったのでした。こうした様子を見ただけで母親が慰めを得たとはとても言い切れません。

が地上をあとにしながら私たちはその婦人に、あの子の信仰が父親の信念によって増強されたら私たちが援助して行く上で強力な手掛りとなりますよ、と言ってあげました。そうでも言っておかないと、今回の私たちが取った手段が間違っていた事になるのです。

帰るとその経過を女性天使に報告しました。すると即座に家族が別れ別れにならぬように処置が取られ、その母親には、これから一心に向上を心掛け、早く家族の背後霊として働けるようになりなさいとのお達しがありました。

それからというもの、その婦人に変化が見られるようになりました。与えられた仕事に一心に励むようになったのです。私たちの霊団に加わって一緒に地上へ赴き、彼女なりの仕事ができるようになる日もそう遠くはないでしょう。

この話はこれ位にして、もう1つ別のケースを紹介してみましょう。先頃私たちのコロニーへ1人の男性がやって来ました。この方も最近地上を去ったばかりです。自分の気に入った土地を求めてさ迷い歩き、私たちのところがどうやら気に入ったらしいのです。

ずっと1人ぽっちだったのではありません。少し離れたところからいつも指導霊が見守っていて、いつでも指導する用意をしていたのです。この男性も私たちが時折見かける複雑な性格の持ち主で、非常に多くの善性と明るい面を持ち合わせていながら、自分でもどうにもならない歪んだ性格のために、それが発達を阻害されているのでした。

その男性がある時私たちのホームのある丘からかなり離れた土地で別のホームの方に呼び止められました。その顔に複雑な表情を見て取ったからです。実は出会った時点ですぐに、少し離れた位置にいた指導霊から合図によってその男性の問題点についての情報が伝わり、その方は即座にそれを心得て優しく話しかけました。

「この土地にはあまり馴染みがない方のようにお見受けしますが、何かお困りですか。」「お言葉は有難いのですが別に困ってはおりません。」「あなたが抱えておられる悩みはこの土地で解決できるかも知れませんよ。全部という訳には行かないでしょうけど。」

「私がどんな悩みを抱えているかご存じないでしょう。」「いや少しは判りますよ。こちらで1人も知り合いに出会わない事で変に思っておられるのでしょう。そして何故だろうと。」「確かにその通りです。」「でもちゃんとお会いになってるのですよ。」

「会った事は1度もありません。一体どこにいるのだろうと思っているのです。実に不思議なのです。あの世へ行けば真っ先に知人が迎えてくれるものと思っておりました。どうも納得がいきません。」「でも、お会いになってますよ。」

「知った人間には一人も会っておりませんけど。」「確かにあなたはお会いになっていませんが、相手はちゃんとあなたにお会いしています。あなたが気づかないだけ、いや気づこうとなさらないだけです」「何の事だかよく判りませんね。」

「こういう事です。実はあなたが地上からこちらへ来てすぐから、あなたの知人が面倒を見ているのです。ところがあなたの心は一面なかなか良いところもあり開かれた面もあるのですが、他方、非常に頑(かたく)なでむやみに強情なところがあります。あなたの目に知人の姿が映らないのはそこに原因があるのです」

男はしばらくその方を疑い深い目でじっと見つめておりました。そしてついに、どもりながらもこう言いました。「じゃ、私のどこがいけないのでしょう。会う人はみな優しく幸せそうに見えるのに、私はどの人とも深いお付き合いが出来ないし落着ける場所もありません。私のどこがいけないのでしょう」

「まず第1に反省しなくてはいけないのは、あなたの考える事が必ずしも正しくないという事です。ちなみに1つ2つあなたの誤った考えを指摘してみましょう。1つは、あなたはこの世界を善人だけの世界か、さもなくば悪人だけの世界と考えたがりますが、それは間違いです。

地上と似たり寄ったりで、善性もあれば邪悪性も秘めているのです。それからもう1つ。数年前に他界された奥さんは、あなたがこれから事情を正しく理解した暁に落ち着かれる界よりも、もっと高い界におられます。地上時代は知的にはあなたに敵(かな)いませんでしたし、今でも敵わないでしょう。

ところが総合的に評価すると霊格はあなたの方が低いのです。これがあなたが認めなくてはならない第2の点です。心底(しんそこ)から認めなくてはダメです。

あなたのお顔を拝見していると、まだ認めてないようですね。でもまずそれを認めないと向上は望めません。認められるようになったら、その時はたぶん奥さんと連絡が取れるようになるでしょう。今のところそれはまだ不可能です。」

男の目が涙で曇ってきました。でも笑顔を作りながら、どこか寂しげに言いました。「どうやらあなたは予言者でいらっしゃるようですね。」「まさしくその通り。そこであなたが認めなければならない3つ目の事を申上げましょう。それはこういう事です。

あなたのすぐ近くにあなたをずっと見守り救いの手を差しのべようとして待機している方がいるという事です。その方は私と同じく予言者です。先覚者と言った方がよいかも知れません。さっき申し上げた事は全部その方が私に伝達してくれて、それを私が述べたにすぎません。」

それを聞いて男の顔に深刻な表情が見えてきました。何かを得ようとしきりに思いつめておりましたが、やがてこう聞きました。「結局私は虚栄心が強いという事でしょうか。」

「その通り。それもいささか厄介なタチの虚栄心です。あなたには優しい面もあり謙虚でもあり愛念が無い訳ではありません。この愛こそ何にも勝る力です。ところがその心とは裏腹にあなたの精神構造の中に一種の強情さがあり、それは是非とも和らげなくてはなりません。

言ってみれば精神的轍(わだち)の中にはまり込んだようなもので、一刻も早くそこから抜け出て、もっと拘泥(こだわり)を捨て、自由に見渡さなくてはいけません。そうしないといつまでも“見えているのに見えない”という矛盾と逆説の状態が続きます。

つまり、あるものは良く見えるのにあるものはさっぱり見えないという状態です。証拠を突きつけられて自説を改めるという事は決して人間的弱さの証明でも堕落でもなく、それこそ正直さの証明である事を知らなくてはいけません。もう1つ付け加えておきましょう。

今言ったように、その強情さはあなたの“精神構造”に巣食っているのであって、もしそれが霊的本質つまり魂そのものがそうであったなら、こんなに明るい境涯には居られず、あの丘の向こう側 – ずっとずっと向うにある薄暗い世界に落ち着くところでした。

以上、私なりにあなたの問題点を指摘して差し上げました。後は別の人にお任せしましょう。」「どなたです?」「さっきお話した方ですよ。あなたの面倒を見ておられる方。」「どこにおられるのですか。」「ちょっとお待ちなさい。すぐに来られますから。」

そこで合図が送られ、次の瞬間にはもうすぐ側に立っていたのですが、その男には見えません。「さあ、お出でになりましたよ。何でもお尋ねしなさい。」男は疑念と不安の表情で言いました – 「どうか教えて下さい。ここにおられるのであれば、なぜ私に見えないのでしょうか。」

「さっきも言った通りあなたの精神構造に“見えなくさせるもの”が潜(ひそ)んでいるからです。あなたがある面において盲目であるという私の言葉を信じますか。」「私は物が良く見えています。非常にはっきり見えますし田園風景も極めて自然で美しいです。その点では私は盲目ではありません。

ですが、同じく実質的なもので私に見えないものが他にあるかも知れないと考え始めております。多分それもそのうち見えるようになるでしょう。でも…」「お待ちなさい。その“でも”はやめなさい。さぁここを良く見なさい。あなたの指導霊の手を私が握ってみせますよ」

そう言って指導霊の右手を取り「さ、よく見なさい。何が見えますか」と聞きましたが、男にはまだ見えません。ただ何やら透明なものが見えるような気がするだけで実体があるのか無いのかよく分りませんでした。

「じゃ、ご自分の手で握ってみなさい。さ、私の手から取ってごらんなさい。」そう言われて男は手を差し出し、指導霊の手を取りました。そしてその瞬間、どっと泣き崩れました。

男にそうした行為が出来たという事、そして指導霊の手を見、さらにそれに触れてみる事ができたという事は、男がその段階まで進化した人間であった事を意味します。手を出しなさいと言われた時は既にそれまでのやり取りの間に男がそれが出来るまで向上していたという事で、さっそくその報いが得られた訳です。

指導霊はしばらくの間、男の手をしっかりと握りしめておりましたが、そのうち男の目に指導霊の姿がだんだん見えはじめ、且つ、手の感触も強くなっていきました。それまで相手をされた方はそれを見てその場を去りました。

男は間もなく指導霊が見えるだけでなく語り合う事も出来るようになった事でしょう。そして今はきっと着々と霊力を身につけて行きつつある事でしょう。

ルビーがあなた方両親にこんなメッセージを伝えて欲しいとの事です – 「お父さん、お母さん、地上の親しい人が良い行いや親切な事をしたり、良い事を考えたりお話したりする事が全部映像になってこちらへ伝わってくるのは本当です。

私たちはそれを使って部屋を美しく飾ったりします。リーンちゃんがあのお花で部屋を飾るのと一緒よ」と。では神の祝福を。お寝みなさい。

<原著者ノート>最後のルビーからのメッセージの中の“あのお花”というのは、学校で寮生活をしている姉のリーンに私たちが時折送り届けている花の事のようである。以上で母からのメッセージは全部終了し、このあと通信は私の守護例であるザブディエルに引き継がれる。それが第2巻「天界の高地」篇である。

↑目次へ↑

6章 見えざる宇宙の科学

【本章は、これまでのオーエン氏の母親からの通信の中に時おり割り込む形で綴られた、アストリエルと名告る霊からの通信をまとめたものである。2章6<原著者ノート>参照 – 訳者】

1 祈願成就の原理

1913年10月7日 火曜日

このたび初めて同行して来た霊団(グループ)の協力を得て私はこれよりベールのこちら側より観た“信仰”の価値について少しばかり述べてみたいと思う。キリスト教の“使徒信条”に盛り込まれた教義については今ここで多くを語るつもりはありません。

既に多く語られ、それ以上の深いものを語るにはまだ人間側にそれを受け入れる用意が十分に出来ていないからである。そこで吾々は差し当たってその問題については貴殿の判断にお任せし、どの信条も解釈を誤らなければそれなりの真理が含まれている、と述べるに留めておきます。

そこで吾々としては現在の地上の人間が余り考察しようとしない問題を取り上げる事にしたい。その問題は、人間が真理の表面 – 根本真理でなく真理のうわべに過ぎないもの – についての論争を卒業した暁に必ず関心を向ける事になるものである。

それを正しく理解すれば、今人間が血眼(ちまなこ)になっている問題の多くがどうでもよい些細な事である事が判り、地上だけでなくこちらの世界でも通用する深い真理へ注意を向ける事になるでしょう。その1つが祈りと瞑想の効用の問題である。

貴殿はこの問題については既にある程度の教示を受けておられるが、吾々がそれに追加したいと思います。祈りとは成就したいと思う事を要求するだけのものではない。それより遥かに多くの要素をもつものです。であるからには、これまでよりも慎重に考察されて然るべきものです。

祈りに実効を持たせるためには、その場限りの目先の事柄を避け、永遠不易のものに精神を集中しなくてはならない。そうすれば祈りの中に盛り込みたいと思っていた有象無象(うぞうむぞう)の頼み事の大部分が視界から消え、より重大で幅広い問題が創造力の対象として浮かび上がって来る。

祈りにも現実的創造性があります。例えば数匹の魚を5000人分に増やしたというイエスの奇跡(ヨハネ6)に見られるように、祈りは意念の操作による創造的行為である。

その信念の元に祈りを捧げれば、その祈りの対照が意念的に創造され、その結果として“祈りが叶えられる”事になる。つまり主観的な願いに対し、現実的創造作業による客観的回答が与えられるのです。

祈りの念の“集中”を誤っては祈りは叶えられません。放射された意念が目標物に当らずに逸(そ)れてしまい、僅かに適中した分しか効果が得られない事になる。さらにその祈りに良からぬ魂胆が混入しても効果が弱められ、こちら側から出す阻止力または規制力の働きかけを受ける事になります。

どちらを受けるかはその動機次第ですが、いずれにせよ望み通りの結果は得られません。さて、こうした事は人間にとっては取りとめのない話のように思えるかも知れませんが、吾々にとっては些(いささ)かもそうではない。

実はこちらには祈りを担当する専門の霊団がいて、地上より送られて来る祈りを分析し選別して、幾つかの種類に区分けした上で次の担当部門に送る。そこでさらに検討が加えられ、その価値評価に従って然るべく処理されているのです。

これを完璧に遂行するには、地上の科学者が音と光のバイブレーションを研究するのと同じように祈りのバイブレーションを研究する必要があります。例えば光線を分析して種類分けが出来るように祈りも種類分けが出来るのです。

そして科学者にもまだ扱い切れない光線が存在する事が認識されているように、我々のところへ届けられる祈りにも、こちらでの研究と知識の範囲を超えた深いバイブレーションをもつものがあります。

それはさらに高い界層の担当者に引き渡され、そこでの1段と高い叡智による処理に任される。高等な祈りが全て聖人君子からのものであると考えるのは禁物です。往々にして無邪気な子供の祈りの中にそれが見出されます。

その訴え、その嘆きが、国家的規模の嘆願と同じ程度の慎重な検討を受ける事すらあるのです。「汝からの祈りも汝による善行も形見として神の御前に届けられるぞよ」 – 天使がコルネリウス(※ローマ教皇 251 – 253)に告げたと言われるこの言葉をご存知であろう。

これは祈りと善行がその天使の前に形体をとって現れ、多分その天使自身を含む霊団によって高き世界へと届けられる実際の事実を述べたものであるが、これが理解されずに無視されています。この言葉は次のように言い変える事が出来よう –

“貴殿の祈りと善行は私が座長を勤める審議会に託され、その価値を正当に評価された。吾人はこれを価値あるものと認め、吾人よりさらに上の界の審議官によりても殊のほか価値あるものとのご認知を頂いた。依ってここに命を受けて参じたものである”と。

吾々はわざとお役所風に勿体ぶった言い方で述べましたが、こちらでの実際の事情を出来るだけ理解して頂こうとの配慮からです。以上の事実に照らしてバイブルに出ている祈りの奇跡の数々を吟味して頂けば、吾々霊界の者が目の当りにしている実在の相(すがた)をいくらか推察して頂けるであろう。

そして大切なのは、祈りについて言える事がそのまま他の“あまり感心できぬ”心の動きにも当てはまるという事です。例えば憎しみや不純な心、貪欲(どんよく)その他もろもろの精神的罪悪も、そちらでは目に見たり実感したりは出来ないでしょうが、こちらでは立派な形態をとって現れるのです。

悲しいかな、天使は嘆く事を知らぬと思い込むような人間は、地上で苦しむ同胞に対して抱く吾々の心中をご存じない。神から授かれる魂の使用を誤っているが故に悩み苦しむ人々のために吾々がいかに心を砕いているかをご覧になれば、吾々に愛着を感じて下さると同時に、無闇に神格化してくれる事も無くなるでしょう。

さて、この問題は貴殿がその価値をお認めになれば、あとはご自分でさらに深く考究して頂く事にして、貴殿はもう少し通信を続けたいとのお気持なので、貴殿にとって興味もあり為にもなる別の話題を提供しようかと思います。貴殿の教会の尖塔に風見鶏が付いております。あれは貴殿があのような形にしようと決められた事は憶えておられる事と思いますが、いかがであろう。

– 今あなたから指摘されるまですっかり忘れておりました。おっしゃる通りです。建築家から何にするかと言われて魚と鶏のどっちにしようかと迷ったのですが、最終的には鶏にしました。でも、そんな事が何の意味があるのでしょうか。

ごもっとも。貴殿にとっては些細な事でしょうが、吾々の世界から見ていると些細な事というのは滅多にないものです。鶏の恰好をしたものがあの塔の先に付いている光景は実は5年前に貴殿の精神の中での一連の思念の働きの直接の結果でした。一種の創造的産物という訳です。

こんな話を聞けばお笑いになる方も多いでしょうが、それは一向に構いません。吾々の方から見ても人間のする事に苦笑する事が多々あり、なぜ笑うのか理解に苦しまれるであろう事があるものです。

貴殿が何気なく決めた時の一連の思念の働きというのは、風見鶏を見る事によって信者の方にペテロが主イエスに反(そむ)いた事を思い出してもらおうという事でした。

思うに貴殿は今の時代に2度とペテロと同じ過ちを繰り返さぬようにその警告のつもりだったのでしょう。しかし、ただそれだけの一見些細に思える決断が吾々の世界へ届き、吾々はそれを真剣に取り上げたのです。

申し上げますが、新しく教会を建立するという事は実はこちらの世界からの大いなる働きかけを誘う大事業です。新しい礼拝の場の建立ですから、礼拝に出席する霊、建物を管理する霊、等々実に大勢の霊がそれぞれの役目を与えられてその遂行に当たります。

貴殿の同僚の中にはその様子を霊視した人がおられますが、その数は極めて限られております。牧師、会集、聖歌隊、等々のそれぞれの性格を考慮に入れ、吾々の中の最適の霊つまり指導する対象にとって最も相応しい霊を選出し、さらには建物の構造まで細かく配慮する。

象徴性は特に念入りに検討します。人間には気づかない重要な意味があるからです。風見鶏もその意味で考慮した訳です。話題としてはもっと大きなものを取り上げても良さそうですが、一見何でもなさそうに思えるものにもちゃんと意味がある事をお教えしたくてこれを選んだ訳です。

さてシンボルとして貴殿が雄鶏を選んだからには吾々としてもそれに応えて教会に何かを寄贈しようという事になった。それが吾々の習慣なのです。そこで選ばれたのが例の鐘で、そのために聖歌隊の1人に浄財を集めさせたのです。教会が完成して祝聖式が取り行われた時はまだ鐘は付いておりませんでした。

雄鶏は中空高く聳えていても、その口からは貴殿の目論(もくろ)む警告が発せられない。そこで吾々がその“声”を雄鶏に与えたという次第です。鐘の音が雄鶏の言葉 – “夕べの祈り”の時も聞こえていた如く – です。貴殿はこうした事を霊界での幻想とでも思われますか。ま、そういう事にでもしておきましょう。でも、とにかくあの鐘の事は有難いと思われたのではないですか。

– それはもう、本当に嬉しかったです。この度の通信にもお礼申し上げます。宜しかったらお名前を伺いたいのですが。

吾々は貴殿のご母堂が時折訪れる界から参った者です。実はご母堂から吾々にもっと貴殿を身近に観察して、出来れば何かメッセージを送って欲しいとのご要望があった。仲間の方と一緒に来られたのです。

霊団を代表して私から言わせて頂けば、この度の事は吾々も喜んでお引き受け致しました。が実は貴殿の事も教会の建立の事も、ご母堂からお聞きする前から知っておりました。

– ご厚意に感謝致します。お名前をお聞きするのは失礼に当たりましょうか。

別に失礼ではありませんが申し上げても貴殿はご存じないし、その名前の意味も理解できないのではないかと思いますが。

– でも宜しかったら是非お教え下さい。

アストリエル。神の祝福を。†

<原著者ノート>アストリエル霊は通信のおしまいに必ず十字架のサインをした。

↑目次へ↑

2 神々の経綸

1913年10月9日 木曜日

この度も貴殿のご母堂の要請を受けて参じました。再びベールのこちら側より語りかける機会を得て嬉しく思います。こうして地上へ戻って来る事を吾々が面倒に思っているとは決して考えないで頂きたい。

もちろん地上の雰囲気は吾々の境涯に較べて明るさに欠け楽しいものでない事は事実ですが、こうして使命を仰(おお)せつかる事の光栄はそれを補って余りあるものがあります。今回は天体の科学について述べてみたいと思います。貴殿にも興味があるであろうし役に立つと考えるからです。

科学と言っても地上の天文学者が行っている単なる物質の表面的分析の事ではありません。その構成要素の内奥に関わるものです。

ご承知のように恒星はその1つ1つが周囲に幾つかの惑星を従えた一個の組織を構成しているというところまでは認識されていますが、実はそれのみではなく組織全体に亘って地上のいかに精巧なる器機や秀れた頭脳をもってしても感識できないほど精妙な粒子が行き亘っております。その粒子は物質と霊質との中間的存在で、物質的法則と霊的法則の両方の働きに反応します。

それというのも、両者は根源的には多面性を有する1個の進化性をもつ有機的組織の2つの面を表すにすぎず、あたかも太陽とその惑星の関係の如くに互いに作用と反作用を繰り返しています。重力もその粒子に対し物的・霊的の両面において反応します。

吾々が心霊実験において写真の乾板に、さらには肉眼に感応するまでに霊体に物質性を付加する時に使用するのがこのエネルギーです。本当は貴殿には理解できない要素があるのですが、貴殿の知る用語としては“エネルギー”しか無いので取りあえずそう呼んでおきます。

それ以外にも広い規模で機能しております。たとえばもしその粒子が存在しなかったら大気は真っ暗になります。つまり太陽や恒星からの光線が地球まで届かないという事です。なぜかと言えば、そもそも光線が肉眼に映じるのは光波がその粒子に当った時の反射と屈折の作用のせいだからです。

“伝導”というのは正しくありません。伝導とか伝達には別の要素が関わっており、それについてはここでは次のように述べるに留めておきます。すなわち、人間の肉眼に映じているのは光線でもなく光波でもなく、光線がその精妙な粒子に当たった時の衝撃によって生じる波動である、と。

この問題に関しては地上の科学者はまだまだ学ばねばならない事が沢山あります。と言って、それを吾々がお教えする事は許されません。人間が自らの才能を駆使して探るべきものだからです。もしその範囲を逸脱して教えてしまえば、地上という物的教育の場が地球ならではの価値を減じます。

人間の個人的努力ならびに協調的努力によって苦心しながら探る事の効用を台無しにする事のない範囲に援助を抑えているのは、そういう理由によります。この点をよく銘記して頂きたい。その点を理解して頂けば、こうした通信において吾々がよく釈明する事がある事も納得が行かれると思います。

さて恒星は光を反射している。が放射するためには内部にそれを蓄えておかねばならない。しかし恒星は自らを自らの力で拵えた訳ではない以上、エネルギーを蓄えるにはどこからか与えてもらわねばならない理屈になります。では一体誰が与え、どういう過程で与えられるのであろうか。

「それは神が与えるのである。何となれば神は万物の根源だからである」 – こう言ってしまえばむろん簡単である。そしてそれは確かにその通りなのであるが、実際にその事に携わるのは神の使徒たる天使(※)であり、その数は人間的計算の域を超えます。

そしてその1人1人に役目が割り当てられているのです。(※日本神道でいう八百万(やほよろず)の神々である。 – 訳者)実は恒星は、整然たる秩序と協調性をもって経綸にあたるその数知れぬ霊的存在からエネルギーを賦与されている。

霊的存在が恒星の管理に当たっているのであり、各々の恒星が天体としての役目を遂行するためのエネルギーはそこから受けるのです。貴殿に是非とも知って頂きたいのは、神の造化の王国には何1つとして盲目的ないし無意識的エネルギーは存在しないという事です。

光線1本、熱の衝撃波1つ、太陽その他の天体からの電波1つにしても、必ずそれには原因があり、その原因には意識的操作が加わっている。つまり、ある意識的存在による確固たる意図に基いた、ある方角への意志の働きがあるという事です。

その霊的存在にも無数の階級と種類があり、霊格は必ずしも同じではなく、形態も同一ではありません。(※)がその働きは上層界の霊によって管督され、その霊もまたさらに高い霊格と崇高さを備えた神霊によって管督されているのです。

(※日本の古神道ではこれをひとまとめにして“自然霊”と呼んでいる – 訳者)これら物質の大きな球体は、ガス体であろうが液体であろうが固体であろうが、あるいは恒星であろうが彗星であろうが、全てが連動され、エネルギーが活性化され、それぞれに存在価値を与えられている。

何か機械的な法則の働きによるのではなく、そうした意識的存在が内面よりさきに述べた法則に則(のっと)って働きかけております。今“知的存在”と言わずに“意識的存在”と言いましたが、創造神のもとで造化の大事業に勤(いそ)しむ霊的存在はその全てが必ずしも“知的”ではありません。

貴殿が理解しているところの“知性”をもつ存在は全体の割合から言うと極めて限られております。ただし驚かないで頂きたいが、貴殿が“知的存在”と呼ぶであろう存在は、実は下等な存在と高等な存在の中間に位置する程度であり、その下等な存在は知的とは言えませんが、全体の経綸に当たる高等な存在になると貴殿の言う“知的”という用語の意味を遥か超えた、崇高なる存在ばかりです。

その下等と高等の中間に、知的存在と呼ぶに相応しい霊の住む界層がいくつも存在します。注意しておきますが下等といい高等といい知的存在といい、その意味するところは地上の人間が使用するものとは違います。

貴殿がこちらへ来られてある程度こちらの事情に慣れれば、その本来の意味が判るでしょう。私は地上の言語を使用しているのであり、貴殿の立場に立って説明している事を忘れないで頂きたい。

さて以上の説明によって霊と物質とがいかに緊密なる関係にあるかがお判りになるでしょう。そしてまた、先日の夜にお話した貴殿の教会の建立と指導霊の働き、なかんずく例の風見鶏に関するものは、今述べたのと同じ創造の原理を小規模の形で物語ったものに他なりません。

数知れぬ恒星と惑星の存在を維持するための機構と同じものが、各種の原子の集積体 – 石材、木材、レンガ等 – の配列に関与し、その結果があの教会と呼ぶ1個の存在の創造となった訳です。

その存在は奔流の如き意念の働きによって、それぞれの位置にあってしっかり他と連動されています。他とのつながりなしに置かれているのではありません。もしそんな事をしたらすぐに崩壊が始まり、バラバラになってしまいます。

以上述べた事に照らして、貴殿らが教会とか劇場とか住居とか、その他もろもろの建物に入った時の“印象の違い”について考えてみられるとよろしい。それぞれの機能に相応しい影響力が放射されておりますが、それは今吾々が解説したのと同じ原理が働いた結果です。

言ってみれば霊から霊への語りかけ – 物的身体をもたない霊が物的粒子を媒体として、その建物に入ってくる人間の霊に働きかけているのです。

お疲れのようですね。通信がしにくくなって来ました。これにて失礼します。良ろしければ改めてまた参りましょう。貴殿ならびにご家族、教会関係の皆様に幾久しき神の祝福のあらん事を。 アストリエル†

↑目次へ↑

3 天体の霊的構成

1913年10月16日 木曜日

吾々が霊界の事情について述べる事の中にもしも不可思議で非現実的に思えるものがある時は、こちらには地上の人間には捉えられないエネルギーや要素が沢山ある事を銘記して頂きたい。

そのエネルギーは地上の環境の中に全く存在しない訳ではありません。“大半が”人間の脳では感知し得ない深いところに存在するという事です。霊的感覚の発達した人にはある程度 – あくまで“ある程度”でしかありませんが – 感知できるかも知れません。

霊的に一般のレベルより高い人は平均的人間にとって“超自然的”と思える世界との“境界線”あたりまでは確かに手が届いております。その時に得られる霊的高揚は知能や知識をいくら積んでも得られない性質のもので、霊的に感得するしかないものです。

今夜もまたご母堂の要請で、人間界について吾々が見たまま知り得たままを語りに参りました。可能な範囲に限ってお話しましょう。それ以上の事は既に述べた如く吾々には伝達技術に限界があり、従って内容が不完全となります。

– アストリエル様ですか。

アストリエルとその霊団です。まずは主イエス・キリストの名において愛と平和のご挨拶を申し上げます。吾々にとっての主との関係は地上における人間と主との関係と同じです。ただ、地上にいた時に曖昧であった多くの事がこちらへ来て明らかとなりました。

そこで厳粛なる気持で申し上げます – 主イエス・キリストの神性の真意と人類との関わりの真相を知らんと欲する者は、どうか、恐怖心に惑わされる事なく敬虔なる気持をもって一心に求めよ、と。そういう人にはこちらの世界から思いも寄らない導きがあるものです。

そして又、真摯に求める者は主の説かれた真理の真意がいずこにあるかをいかに“しつこく”問い詰めようと、決して主への不敬にはならない – 何となれば主がすなわち真理だからである、という事を常に心に留めて頂きたく思います。

しかしながら、吾々にもそれと同じ大胆さと大いなる敬意を込めて言わせて頂けば、地上のキリスト教徒の間で“正統派”の名の下に教えられているものの中には、こちらで知り得た真相に照らしてみた時に多くの点において適正さと真実性に欠けているものがあります。

と同時に、それ以上のものを追求しようとする意欲と、神の絶対愛を信じる勇気と信念に欠ける者が多すぎます。神は信じて従う者を光明へと誘(いざな)い、その輝ける光明が勇気ある者を包み、神の玉座へ通じる正しく且つ聖なる道を教え示して下さる。

その神の玉座に近づける者は何事をも克服していくだけの勇気ある者のみである事、真に勇気ある者とは、怖(お)じ気づき啓発を望まぬ仲間に惑わされる事なく、信ずる道を平然と歩む者の事である事を知って下さい。

さて前回の続きを述べましょう。貴殿に納得のいくものだけを信じて頂けば宜しい。受け入れ難いものは構わないで宜しい。そのうち向上するにつれて少しずつ納得がいき、やがては全体の理解がいきます。前回は天体の構成と天体間の相互関係について述べました。

今回はその創造過程と、それを霊的側面から観察したものを少しばかり述べましょう。ご承知の如く、恒星にも惑星にも、その他物的なもの全てに“霊体”が備わっております。その事は貴殿はご存知と思いますので、それを前提として吾々の説を披露します。

天体は“創造界”に属する高級神霊から出た意念が物的表現体として顕現したものです。全天体の1つ1つがその創造界から発せられた思念と霊的衝動の産物です。その創造の過程を見ていると、高級神霊が絶え間なく活動して、形成過程にある物質に霊的影響力と、その天体特有の言わば個性を吹き込んでおります。

かくして、例えば太陽系に属する天体は大きな統一的機構に順応はしていても、それぞれに異なった性格をもつ事になる。そしてその性格は責任を委託された大天使(守護神)の性格に呼応します。

天文学者は地球を構成する成分の一部が例えば火星とか木星とか、あるいは太陽にさえも発見されたと言う。それは事実であるが、その割合、あるいは組み合せが同じであると考えたら間違いです。各天体が独自のものをもっております。

ただそれが1つの大きな統一体系としての働きに順応しているという事です。太陽系を構成する惑星について言える事は、そのままさらに大きな規模の天体関係についても当てはまります。

つまり太陽系を一個の単位として考えた場合、他の太陽系とは構成要素の割合においても成分の組み合せにおいても異なります。各太陽系が他と異なる独自のものを有しております。さて、そうなる原因(わけ)は既に説明した通りです。各太陽系の守護神の個性的精神が反映する訳です。

守護神の配下にさらに数多くの大天使が控え、守護神の計画的意図に沿って造化の大事業に携わっている。とは言え、各天使にはその担当する分野において自由意志の行使が許されており、それが花とか樹木、動物、天体の表面の地理的形態といった細かい面にまで及ぶ。

千変万化の多様性はその造化の統制上の“ゆとり”から生まれます。一方、そのゆとりある個性の発揮にも一定の枠が設けられているために、造化の各部門、さらにはその部門の各分野にまで1つの統一性が行き亘る訳です。

こうした神霊の監督の下に、さらに幾つもの段階に分れた霊格の低い無数の霊が造化に関わり、最下等の段階に至ると個性的存在とは言いかねるものまでいる。その段階においては吾々のように“知性”と同時にいわゆる自由意志による独自の“判断力”を有する存在とは異なり“感覚的存在”とでも呼ぶべき没個性的生命の種属が融合しております。

– 物語に出てくる妖精(フェアリー)とか小妖精(ピクシー)とか精霊(エレメンタル)といった類の事ですか。

その通り。みな本当の話です。それに大ていは優しい心をしています。ですが進化の程度から言うと人類よりは遥かに低く、それで人霊とか天使と呼ばれるほどの高級霊ほどその存在が知られていない訳です。さて地球それ自身についてもう少し述べてみましょう。

地質学者は岩石の形成過程を沖積層とか火成岩とかに分けますが、よく観察すると、その中には蒸気状の発散物 – 磁気性の成分とでも言ってよさそうなものを放出しているのがあることが判ります。それが即ち、その形成を根源において担当した霊的存在による“息吹き”の現われです。

こうした性質はこれまで以上にもっともっと深く探求する価値があります。化学的成分の分析はほぼ完了したと言えますが、休む事なく活動しているより精妙な要素の研究が疎(おろそ)かにされている。

岩石の1つたりとも休止しておらず、全成分が整然と休む事なく活動しているというところまで判れば、その作用を維持し続けるためには何か目に見えざる大きなエネルギーが無ければならない事、さらにその背後には或る個性をもった“施主”が控えているに相違ないという考えに到達するには、もうあと1歩でしかありません。

これは間違いない事実です。その証拠に、そうした目に見えない存在に対する無理解のために被害をこうむる事があります。これは低級な自然霊の仕業です。一方“幸運の石(ラッキーストーン)”と呼ばれるものをご存知と思いますが、これはいささか曖昧ではありますが背後の隠れた真相を物語っております。

こうした問題を検討するに際しては“偶然”の観念を一切拭(ぬぐ)い去って秩序ある因果律と置き換え、その因果律を無知なるが故に犯しているその報いにすぎないとお考えになれば、吾々が言わんとする事にも一理ある事を認めて頂けるでしょう。

便宜上、話題を鉱物にしぼりましたが、同じことが植物界や動物界の創造にも言えます。今夜はそれには言及しません。こうした話題を提供したのは、科学に興味を抱く人でこれまでの科学では満足できずにいる人に、見えざる世界に臆することなく深く踏み込める分野がいくらでも開けていることをお知らせしようという意図からです。

以上を要約してみましょう。それに納得が行かれれば、吾々が意図した結論も必然的に受け入れねばなりません。つまり物的創造物はどれ1つとってもそれ自体は意味がないし、それ1つの存在でも意味がない。

それは高級神霊界に発した個性的意念が低級界において物質という形態となって表現されているもので、霊的想念が原因であり、物的創造はその結果だということです。

ちょうど人間が日常生活において自分の個性の印象を物体に残しているように(※)、創造界の神々とその霊団が自然界の現象に個性を印象づけているわけです。(※サイコメトリという心霊能力によって、物体を手にするだけでその物体に関わった人間のことが悉く読み取れる。 – 訳者)

何1つ静止しているものはありません。全てがひっきりなしに動いております。その動きには統一と秩序があります。それは休むことなく働きかける個性の存在を証明するものです。

下等な存在が高等な存在の力によって存続するように、その高等な存在はさらに崇高なる守護神の支配を受け、その守護神は宇宙の唯一絶対のエネルギー、すなわち宇宙神の命令下にあります。が、そこに至るともはや吾々の言語や思索の域を超えております。

宇宙神に対しては、全てはただただ讃仰の意を表するのみであり、吾々は主イエスの御名において崇敬の意を表するのみです。全ては神の中に在り、全ての中に神が在(ま)します。

アーメン†

↑目次へ↑

4 霊的世界の構図

1913年10月24日 金曜日

今夜もまた貴殿のご母堂ならびにその霊団の要請を受け、私の霊団と共にメッセージを述べに参りました。

貴殿にとって何がもっとも興味があろうかと考えた挙句に吾々は、地上へ向けられている数々の霊力の真相をいくらかでも明かせば、貴殿ならびに貴殿の信者にとって、地上生活にまつわる数々の束縛から解脱した時に初めて得られる厖大(ぼうだい)な霊的知識へ向けて1歩でも2歩でも近づく足掛かりとなり、天界の栄光へ向けて自由に羽ばたくことになろうとの結論に達しました。

– どなたでしょうか。

前回と同じ者 – アストリエルとその霊団です。第10界(※)より参りました。話を進めてよろしいか。(※界が全部で幾つあるかについての回答はこの先に出てくる。 – 訳者)

– どうぞ。ようこそこの薄暗い地上界へ降りて来られました。さぞ鬱陶(うっとう)しいことでしょう。

“降りて来る”とおっしゃいましたが、それは貴殿の視点からすればなかなかうまい表現ですが、実際の事実とは違いますし完璧な表現でもありません。

と言うのは、貴殿が生活しておられる天体は虚空に浮いているわけですから“上”とか“下”とかの用語の意味がきわめて限られたものとなります。そのことはすでに貴殿の筆録したもの、と言うよりは霊的に印象づけられたものをお読みになって気づいておられるはずです。

最初に“地上へ向けられている数々の霊力”と申しましたが、これは勿論地上の一地域のことではありません。地球と呼ばれる球体全部を包括的に管理している霊力の働きのことです。地球のまわりに幾つもの霊的界層があり、言わば同心円状に取り巻いております。

下層界ほど地表近くにあり、距離が遠のくほど力と美が増して行きます。もっとも、その距離を霊界に当てはめる際は意味を拡大して理解していただかないといけません。吾々にとっては貴殿らのような形で距離が問題となることがないからです。

例えば私がそのうちの10番目の界にいる以上は、大なり小なりその界特有の境涯によって認識の範囲が制限されます。時おり許しを得てすぐ上の界、あるいはさらにその上まで訪れることは出来ますが、そこに永住することは許されません。

一方、下の界に住むことは不可能ではありません。何となれば私が住む第10界も球体をしていますから、幾何学的に考えても、下の9つの界を全部包含(ほうがん)していることになるからです。従ってこれを判りやすく言いかえれば次のようになりましょう。

すなわち地球は数多くの界の中心に位置し、必然的にその全ての界層に包まれている。故に地上の住民はその全ての界層と接触を取る可能性を有しており、現に霊的発達程度に応じて接触している – あくまで“霊的”発達程度です。なぜならその界層はすべて霊的であり物質的なものではないからです。

その地球の物質性も実は一時的な現象にすぎません。と言うのは、地球はそれを取り巻く各界の霊力が物質となって顕現したものだからです。実はそれらの界の他にも互いに参透し合っている別の次元の界の影響もあるのですが、それは措(お)いておきます。当面は今まで述べたもののみの考察に留めましょう。

さて、これで人間の抱く願望とか祈願とかかどういう意味をもつかが、ある程度おわかりでしょう。絶対的創造神ならびに(貴殿らに判りやすい言い方をすれば)最高界ないしは最奥界にあって他の全ての界の全存在を包含する聖霊との交わりの手段なのです。

従って地球は創造神より託された計画のもとに働く聖霊によって行使される各種の、そして様々な程度の霊的影響力によって取り囲まれ、包み込まれ、その影響を受けているのです。

しかし、向上して行くと事情は一段と複雑となってまいります。地球に属するそうした幾つかの界層に加えて、太陽系の他の惑星の1つ1つが同じように霊的界層を幾つも持っているからです。地球から遠く離れて行くと、地球圏の霊界と1ばん近くの惑星の霊界とが互いに融合し合う領域に至ります。

各惑星にも地球と同じように霊的存在による管理が行き届いておりますから、それだけ複雑さが増すわけです。ここまで来ると、霊界の探求が地上の熱心な方がお考えになるほどそう簡単に出来るものでないことが判り始めます。

ちなみに太陽を中心に置いてそのまわりに適当に惑星を配置した太陽系の構図を画いてみて下さい。それから、まず地球のまわりに、さよう、100個ほどの円を画きます。

同じことを木星、火星、金星、その他にも行います。太陽にも同じようにして下さい。これで、神界までも探求の手を広げることの出来る、吾々の汲めども尽きぬ興味のある深遠な事情が大ざっぱながら判っていただけるでしょう。

しかし、事はそれでおしまいではありません。いま太陽について行ったことを他の恒星とその惑星についても当てはめてみなくてはなりません。こうして各々の太陽系について行った上で、こんどは太陽系と太陽系との関係についても考えなくてはなりません。

これで、あなたがこちらへお出でになったら知的探求の世界が無限に広がっていくと述べた真意が理解していただけるでしょう。ところで、その霊的界層は全部で幾つあるかという質問をよく受けます。ですが、以上の説明によって、まさか貴殿が同じ質問をなさることはありますまい。

万一お聞きになっても、たかが第10界の住民にすぎない吾々にはこうお答えするしかありません – “知りません。また、これ以後同じ質問を何百万回、何億回繰り返され、その間吾々が休むことなく向上進化し続けたとしても、多分同じ返事を繰り返すことでしょう”と。

さて貴殿にはこの問題を別の角度から考えてみていただきたい。以上述べた世界は霊的エネルギーの世界です。ご承知の如く天体は科学者が“引力”と呼ぶところのエネルギーによって互いに影響し合っておりますが、各天体の霊界と霊界との間にも霊的エネルギーによる作用と反作用とがあります。

さきほどの太陽系の構図をご覧になればお判りのとおり、地球はその位置の関係上、必然的に数多くの界層からの作用を受け、それも主として太陽と2、3の惑星が1ばん大きいことが推察されます。

その通りです。占星術にもやはり意味があるのです。科学者はそれについて余計な批判はしない方がいいでしょう。と言うのは、霊的エネルギーというものが厳として存在することを理解しない科学者には到底理解しがたいことであり、ともすると危険でもあるからです。

霊的エネルギーには実質があり驚異的な威力を秘めております。それがあればこそ各界がそれなりの活動ができ、なおかつ他の天体の霊界との関係も維持されているのです。こうした問題になると最高の崇敬(すうけい)の念と祈りの気持をもって研究に当たらねばなりません。

何となれば、そこは天使の経綸する世界であり、さらにその上には全ての天使をも1つに収めてしまう宇宙の大霊が在(ま)しまし、吾々はただ讃仰を捧げるのみ。何とお呼びすべきかも知りません。

近づかんとすれば即座に己れの力の足らなさを思い知らされます。距離を置いて直視せんとしても、その光の強さに目が眩み、一面真っ暗闇となってしまいます。

しかし貴殿に、そして未知なるものへ敬虔(けいけん)の念を抱かれる方に誓って申し上げますが、たと驚異によりて幾度も立ちすくまされることはあっても、神の存在感の消え失せることは決してないこと、神の息吹きとは即ち神の愛であり、その導きは慈母が吾が子を導く手にも似て、この上なく優しいものであることを自覚せぬときは一時(いっとき)たりともありません。

それ故、貴殿と同じく吾々は神を信じてその御手にすがり、決して怖れることはありません。栄光よりさらに大いなる栄光へと進む神々の世界は音楽に満ち溢れております。友よ来たれ。挫(くじ)けず倦(う)まず歩まれよ、と申し上げたい。

行く手を遮(さえぎ)る霧も進むにつれて晴れ行き、未知の世界を照らす光が一層その輝きを増すことでしょう。未知の世界は少しも怖れるに及びません。故に吾々は惑星と星辰の世界の栄光と神の愛の真っ只中を幼子の如く素直に、そして謙虚に歩むのです。

友であり同志である貴殿に今夜もお別れを述べると同時に、この機会を与えて下さったことに感謝申し上げます。吾々の通信が、たとえ数は少なくとも、真理を求める人にとって僅かでもお役に立つことを祈っております。では改めてお寝みを申し上げます。神のお恵みを。†

↑目次へ↑

5 果てしなき生命の旅

1913年10月25日 土曜日

今夜も、もしよろしければ、死後の世界に関する昨夜の通信の続きをお届けしようと思います。引き続き太陽系に関してですが、昨日の内容を吟味してみると、まだまだ死後の世界の複雑さの全てを述べ尽くしておりません。

と言うのも、太陽と各惑星を取り巻く界層が互いに重なり合っているだけでなく、それぞれの天体の動きによる位置の移動 – ある時は接近しある時は遠ざかるという変化に応じて霊界の相互関係も変化している。

それ故、地球へ押し寄せる影響力は1秒たりとも同じではないと言っても過言ではありません。事実そのとおりなのです。また同じ地球上でもその影響の受け方、つまり強さは一様ではなく場所によって異なります。それに加えて、太陽系外の恒星からの放射性物質の流入も計算に入れなければならない。

こうした条件を全て考慮しなければならないのです。何しろそこでは霊的存在による活発な造化活動が営まれており、瞬時たりとも休むことがないことを銘記して下さい。

以上が各種の惑星系を支配している霊的事情のあらましです。地上の天文学者の肉眼や天体望遠鏡に映じるのはその外面にすぎません。ところが実は以上のべたことも宇宙全体を規模として考えた時は大海の一滴にすぎない。船の舳先(へさき)に立っている人間が海のしぶきを浴びている光景を思い浮かべていただきたい。

細(こま)かいしぶきが霧状になって散り、太陽の光を受けてキラキラと輝きます。その様子を見て“無数のしぶき”と表現するとしたら、ではそのしぶきが戻って行く海そのものはどう表現すべきか。キラキラ輝く満天の星も宇宙全体からすればその海のしぶき程度にすぎません。それも目に見える表面の話です。

しぶきを上げる海面の下には深い深い海底の世界が広がっている如く、宇宙も人間の目に映じる物的世界の奥に深い深い霊の世界が広がっているのです。もう少し話を進めてみましょう。そもそも“宇宙”という用語自体が、所詮表現できるはずのないものを表現するために便宜的に用いられているものです。

従って明確な意味は有(も)ちあわせません。地上のある詩人が宇宙を一篇の詩で表現しようとして、中途で絶望して筆を折ったという話がありますが、それでよかったのです。もしも徹底的にやろうなどと意気込んでいたら、その詩は永遠に書き続けなければならなかったことでしょう。

一体宇宙とは何か。どこに境界があるのか。無限なのか。もし無限だとすると中心が無いことになる。すると神の玉座はいずこにあるのか。神は全創造物の根源に位置していると言われるのだが。

いや、その前に一体創造物とは何を指すのか。目に見える宇宙のことなのか、それとも目に見えない世界も含むのか。実際問題として、こうした所詮理解できないことをいくら詮索してみたところで何の役にも立ちません。

もっとも、判らないながらもこうした問題を時おり探ってみるのも、人間の限界を知る上であながち無益とも言えますまい。そう観念した上で吾々は、理解できる範囲のことを述べてみたいと思います。

これまで述べて来た霊的界層にはそれぞれの程度に応じた霊魂が存在し、真理を体得するにつれて1界また1界と、低い界から高い界へ向けて進化して行く。そして、さきに述べたように、そうやって向上して行くうちにいつかは、少なくとも2つ以上の惑星の霊界が重なり合った段階に到達する。

さらに向上すると今度は2つ以上の恒星の霊界が重なり合うほどの直径をもつ界層に至る。つまり太陽系の惑星はおろか、2つ以上の太陽系まで包含(ほうがん)してしまうほどの広大な世界に至る。

そこにもその次元に相応しい崇高さと神聖さと霊力を具えた霊魂が存在し、その範囲に包含された全ての世界へ向けて、霊的・物的の区別なく、影響力を行使している。ご承知のとおり吾々はようやく惑星より恒星へ、そして恒星よりその恒星の仲間へと進化して来たところです。

その先にはまだまだ荘厳にして驚異的な世界が控えておりますが、この第10界の住民たる吾々にはその真相はほとんど判らないし、確実なことは何1つ判らないという有様です。

が、これで吾々が昨夜の通信の中で“神”のことを、何とお呼びすべきか判らぬ未知にして不可知の存在のように申し上げた、その真意がおぼろげながらも理解していただけるのではないかと思います。

ですから、貴殿が創造主を賛美する時、正直言ってその創造主の聖秩(せいちつ)について何ら明確な観念はお有ちでない。“万物の創造主のことである”と簡単におっしゃるかも知れませんが、では“万物”とは一体何かということになります。

さて少なくとも吾々の界層から観るかぎり次のことは確実に言えます。すなわち“創造主”という用語をもって貴殿が何を意味しようと、確固たる信念をもって創造主に祈願することは間違っていない。

その祈りの念はまず最低界に届き、祈りの動機と威力次第でそこでストップするものとそこを通過して次の界へ至るものがある。中にはさらに上昇して高級神霊界へと至るものもある。吾々の界のはるか上方には想像を超えた光と美のキリスト界が存在する。

そこまで到達した祈りはキリストを通して宇宙神へと届けられる。地上へ誕生して人類に父なる神を説いたあの主イエス・キリストである。(この問題に関しては第2巻以降で詳しく説かれる。 – 訳者)

ところで、以上述べたことは全て真実ではあるが、その真実も、語りかける吾々の側とそれを受ける貴殿の側の双方の能力の限界によって、その表現がきわめて不適切となるのです。

例えば段階的に各界層を通過して上昇して行くと述べた場合、あたかも一地点から次の地点へ、さらに次の地点へと、平面上を進むのと同じ表現をしていることになります。ですが実際は吾吾(われわれ)の念頭にある界層は“地帯”というよりは“球体”と表現した方がより正確です。

なぜなら、繰り返しますが、高い界層は低い界層の全てを包んでおり、その界に存在するということは低い界の全てに存在するということでもあるからです。その意味で“神は全てであり、全ての中に存在し、全てを通じて働く”という表現、つまり神の遍在(へんざい)性を説くことはあながち間違ってはいないのです。

どうやら吾々はこのテーマに無駄な努力を費しすぎている感じがします。地球的規模の知識と理解力を1つの小さなワイングラスに譬えれば、吾々はそれに天界に広がる広大なブドウ畑からとれたブドウ酒を注がんとしているようなもので、この辺でやめておきましょう。

1つだけお互いに知っておくべきことを付け加えておきますが、その天界のブドウ園の園主(宇宙神)も園丁(神々)も霊力と叡智において絶対的信頼のおける存在であるということです。

人生はその神々の世界へ向けての果てしない旅であり、吾々は目の前に用意された仕事に精を出し、完遂し、成就し、それから次の仕事へと進み、それが終わればすぐまた次の仕事が待っている。

かくして、これでおしまいという段階は決して来ない。向上すればするほど“永遠”あるいは“終わりなき世界”という言葉に秘められた意味の真実性を悟るようになります。しかし貴殿にそこまで要求するのは酷(こく)というものでしょう。失礼な言い分かも知れませんが。

では再び来れることを希望しつつお別れします。ささやかとは言え天界の栄光の一端をこうして聞く耳をもつ者に語りかけることが出来るのは有難いことであり、楽しいことでもあります。どうか、死後に待ちうける世界は決して黄昏(たそがれ)に包まれた実体なき白日夢の世界ではないことを確信していただきたい。

そしてそのことを聞く耳をもつ者に伝えていただきたい。断じてそのような世界ではないのです。そこは奮闘と努力の世界です。善意と努力とが次々と報われ成就される世界です。

父なる神へ向けて不屈の意志をもって互いに手を取り合って向上へと励む世界です。その神の愛を吾々は魂で感じ取り鼓舞されてはおりますが、そのお姿を拝することも出来ず、その玉座はあまりに崇高なるが故に近づくことも出来ません。

吾々は向上の道を必死に歩んでおります。後に続く者の手を取ってあげ、その者のスソをその後に続く者が握りしめて頑張っております。友よ、吾々も奮闘していることを忘れないでいただきたい。まさに奮闘なのです。貴殿と、そして貴殿のもとに集まる人々と同じです。

吾々が僅かでも先を行けば、つい遅れがちになる人も大勢おられることでしょう。どうかそういう方たちの手を貴殿がしっかりと握ってあげていただきたい – “優しく”握ってあげていただきたい。

貴殿自身も同じ人間としての脆(もろ)さを抱えておられることを忘れてはなりません。そして、たとえあなたに荷が過ぎると思われても決して手を離さず、上へ向けて手を伸ばしていただきたい。

そこには私がおり、私の仲間がおります。絶対に挫折はさせません。ですから明るい視野をもち、清らかな生活に徹することです。挫折するどころか、視野が燦然(さんぜん)たる輝きを増すことでしょう。聖書にもあるではありませんか – 心清き者は幸なり。神を見ればなり、と。(マタイ5・8)†

↑目次へ↑

6 予知現象の原理

1913年10月31日金曜日

吾々がこうして地上を訪れるのは人間を援助するためである、と思ってくださるのは結構であるが、人間本来の努力が不要となるほどの援助を期待されるのは間違いです。

地上には地上なりの教育の場としての価値があり、その価値を減じるようなことは許されません。これはもう自明の理と言ってもよいほど当たり前のことでありながら、人間にしか出来ないことまで吾吾に依頼する人が多く、それも“ほどほど”ならともかくも、些(いささ)か度を超した要求をする人が多くて困ります。

– どなたでしょうか。

ご母堂と共に参りました。アストリエルとその霊団の者です。

– どうも。いつもの母の霊団の文章とは違うように思えたものですから。

違いましょう。同じではないはずです。その理由(わけ)は1つには性格が異なり、属する界が異なり、性別も違うからです。性別の違いは地上と同じく、こちらでもそれぞれ特有の性格が出るものです。もう1つは、地上での時代がご母堂たちとは違うからです。

– 古い時代の方ですか。

さよう。英国でした。ジョージ1世(1660~1727)の時代です。もっと古い時代の者もおります。

– 霊団のリーダーとお見受けしますが、ご自身について何かお教えねがえませんか。

いいでしょう。ただ地上時代の細かい事柄は貴殿らには難なく分かりそうに思えても、吾々には大変やっかいなものです。でも分かるだけのことを申し上げましょう。

私はウォーリック州に住み、学校の教師 – 学校長をしておりました。他界したのが何年であったか、正確なことは判りません。調べれば判るでしょうが、大して意味のないことです。

では用意して来たものを述べさせていただきましょうか。吾々は援助することは許されていても、そこには思慮分別(しりょふんべつ)が必要です。たとえば吾々霊界の者は学問の分野でもどんどん教えるべきだと考える人がいるようですが、これは、神が人間なりの努力をするための才能をお授けになっていることを忘れた考えです。

人間は人間なりの道を踏みしめながら努力し、出来るかぎりのことを尽した時にはじめて吾々が手を差しのべ、向上と真理探求の道を誤らないように指導してあげます。

– 何か良い例を挙げていただけますか。

すぐに思い出すのは、ある時、心理学で幻影と夢について研究している男性を背後から指導していた時のことです。彼は夢の中に予知現象が混じっている原因を研究していました。

つまり夢そのものと、その夢が実現する場合の因果関係です。私との意志の疎通ができた時に、私は、今までどおりに自分の能力を駆使して研究を続けておれば時機をみて理解させてあげようという主旨のことを伝えました。

その夜彼が寝入ってから私は直接彼に会い(※)、現在という時の近くを浮遊している出来ごと、つまり少し前に起きたことと、そのすぐ後に起きることとを影像の形で写し出す実験をする霊界の研究室へ案内しました。

そこでの実験にも限界があり、ずっと昔のことや、ずっと先のことまでは手が届かないのです。それはずっと上層界の霊にしか出来ません。

(※睡眠中人間は肉体から脱け出て、地上又は霊界を訪れる。その時かならず背後霊が付き添うが、その間の体験は物的脳髄にはめったに感応しない。きちんと回想できる人が霊能者である。 – 訳者)

吾々は器具をセットしてスクリーンの上に彼の住んでいる地区を映し出し、よく見ているように言いました。そこに“上演”されたのは、さる有名な人物が大勢の従者を従えて彼の町に入ってくる光景でした。終わると彼は礼を言い、吾々の手引きで肉体へ戻って行きました。

翌朝目を覚ましたとき何となくどこかの科学施設で実験をしている人たちの中にいたような感じがしましたが、それが何であったかは思い出せません。が午前中いつもの研究をしている最中に、ふと夢の中の行列の中で見かけた男性の顔が鮮明に蘇って来ました。それといっしょに、断片的ながら夢の中の体験もいくつか思い出しました。

それから2、3日後のことです。新聞を開くと同じ人物が彼の住んでいる地区を訪問することになっているという記事を発見したのです。そこで彼は自分で推理を始めました。

吾々が案内した実験室も、スクリーンに上演してみせたものも思い出せません。がその人物の顔と従者だけは鮮明に思い出しました。そこで彼が推理したのはこういうことでした。 – 肉体が眠っているとき人間は少なくとも時たまは4
次元の世界を訪れる。

その4次元世界では本来のことを覗き見ることが出来る。が、この3次元の世界に戻る時にその4次元世界での体験の全てを持ち帰ることは出来ない。しかし地上の人物とか行列の顔といった3次元世界で“自然”なものは何とか保持して帰る、と。

予知された夢と実際の出来ごととの関係は4次元状態から3次元状態への連絡の問題であり、前者は後者より収容能力が大きいために、時間的にも、出来ごとの連続性においても、後者よりはどうしても広い範囲に亘ることになります。

さて、こうして彼は自分の才能を駆使して、私が直接的に教示するのと変わらない、大いなる知識の進歩を遂げました。それは同時に彼の知能と霊力の増強にも役立ちました。

むろん彼の出した結論はこちらの観点からすればとても合格とは言えず、幾つか修正しなければならない点がありますが、全体的に見てまずまずであり、実際的効用をもっております。私が直接的にインスピレーションによって吹き込んでも、あれ以上のことは出来なかったでしょう。

以上が吾々の指導の仕方の一例です。こうしたやり方に不満を抱き、人間的観点からの都合のよいやり方をしつこく要求する人は、吾々は放っておくしかありません。謙虚さと受容性を身につけてくれれば再び戻って来て援助を続けることになります。

ではこの話が差し当たって貴殿とどう関わりがあるかを説明しましょう。貴殿は時おり吾々の通信が霊界からのものであることに疑念も躊躇もなしに信じられるよう、なぜもっと(貴殿の表現によれば)“鮮明に”してくれないのかと思っておられるようであるが、以上の話に照らしてお考えになれば、貴殿がみずから考察して行く上でヒントになるものはちゃんと与えてあることに納得が行かれるはずです。

忘れないでいただきたいのは、貴殿はまだまだ“鍛練”の段階にあるということです。本来の目的はまだまだ成就されておりません。いや、地上生活中の成就は望めないでしょう。ですが吾々を信じて忠実に従って下されば、事情がだんだん明瞭になって行きます。

自己撞着(どうちゃく)のないものだけを受け入れていけばよろしい。証拠や反証を求めすぎてはいけません。それよりは内容の一貫性を求めるべきです。吾々は必要以上のものは与えませんが、必要なものは必ず与えます。批判的精神は絶対に失ってはなりません。がその批判に公正を欠いてはなりません。

貴殿のまわり、貴殿の生活には虚偽よりも真実の方がはるかに多く存在しています。少しでも多くの真理を求めることです。きっと見出されます。虚偽には用心しなければなりませんが、さりとて迷信に惑わされて神経質になってはなりません。

例えば山道を行くとしましょう。貴殿は2つの方向へ注意を向けます。すなわち一方で正しい道を探し、もう一方で危険が無いかを確かめます。が、危険が無いかというのは消極的な心構えであって、貴殿なら正しい道という積極的な方へ注意を向けるでしょう。

それでよろしい。危険ばかり気にしては先へ進めません。ですから、滑らないようにしっかりと踏みつけて歩き、先を怖がらずに進むことです。怖がる者はとかく心を乱し、それがもとで悲劇に陥(おちい)ることがよくあります。

では失礼します。こちらでの神の存在感はただただ素晴らしいの一語に尽きます。そして地球を取り巻く霧を突き抜けて輝き渡っております。その輝きは万人に隔てなく見えるはずのものです – 見る意志なき者を除いては。神の光は、見ようとせぬ者には見えません。

<原著者ノート>読者は多分、母からの通信を中心とするこのシリーズの終わり方が余りに呆っ気なさすぎるようにお感じであろう。筆者もその感じを拭い切れない。そこで次に通信を引きついだザブディエル霊にその点を卒直に質してみた。(第2巻の冒頭で – 訳者)

– 私の母とその霊団からの通信はどうなるのでしょう。あのまま終わりとなるのでしょうか。あれでは不完全です。つまり結末らしい結末がありません。

さよう、終わりである。あれはあれなりで結構である。もともと1つにまとまった物語、あるいは小説のようなものを意図したものではないことを承知されたい。断片的かも知れぬが、正しき眼識をもって読む者には決して無益ではあるまい。

– 正直言って私はあの終わり方に失望しております。あまりに呆気(あっけ)なさすぎます。また最近になってこの通信を(新聞に)公表する話が述べられておりますが、そちらのご希望は、有りのままを公表するということですか。

それは汝の判断におまかせしよう。個人的に言わせてもらえば、そのまま公表して何ら不都合はないと思うが。ただ一言申し添えるが、これまでの通信も今回新たに開始された通信も、これより届けられるさらに高尚なる通信のための下準備であった。それを予が行いたい。

結末について筆者が得た釈明はこれだけである。どうやら本篇はこれから先のメッセージの前置き程度のものと受け取るほかはなさそうである。

G・V・オーエン

↑目次へ↑

解説 霊的啓示の進歩

本書は原著者の「まえがき」にもあるとおり1913年から始まった本格的な霊界通信を4つの時期に分けてまとめた4部作のうちの第1部である。

「推薦の言葉」を寄せたノースクリップ卿が社主をつとめる「ウィークリー・ディスパッチ」紙上に連載され、終了と同時に4冊の単行本となって発行されたのであるが、これとは別に、オーエン氏の死後、残された霊界通信の中から断片的に編集されたものが2編あり、それが1冊にまとめ第5巻として発行されている。

誰れが編纂したのか、その氏名は記されていない。それは己むを得ないとしても、内容的に前4巻のような一貫した流れがなく、断片的な寄せ集めの感が拭えないので、今回のシリーズには入れないことにした。

通信全体の内容を辿ってみると、第1巻の本書はオーエン氏の実の母親からの通信が大半を占め、その母親らしさと女性らしさとが内容と文体によく表われていて、言ってみれば情緒的な感じが強い。

がその合間をぬってアストリエルと名告る男性の霊からの通信が綴られ、それ
が第6章にまとめられている。地上で学校長をしていたというだけあって内容がきわめて学問的で高度なものとなっている。がそれも第2巻以後の深遠な内容の通信を送るための(オーエン氏の)肩ならし程度のものであったらしい。

第2巻を担当したザブディエルと名告る霊はオーエン氏の守護霊であると同時に、本通信のために結成された霊団の最高指導霊でもある。が地上時代の身元については通信の中に何の手掛かりも出て来ない。

高級霊になると滅多に身元を明かさないものであるが、それは1つには、こうした地上人類の啓発のための霊団の最高指揮者を命ぜられるほどの霊になると、歴史的に言っても古代に属する場合が多く、たとえ歴史にその名を留めていても、伝説や神話がまとわりついていて信頼できない、ということが考えられる。

さらには、それほどの霊になると地上の人間による評判などどうでもよいことであろう。このザブディエル霊の通信の内容はいかにも高級霊らしい厳粛な教訓となっている。

これが第3巻そして第4巻となると、アーネルと名告る(ザブディエルと同じ界の)霊が荘厳な霊界の秘密を披露する。とくにイエス・キリストの神性に関する教説は他のいかなる霊界通信にも見られなかった深遠なもので、キリストを説いてしかもキリストを超越した、人類にとって普遍的な意義をもつ内容となっている。まさに本通信の圧巻である。

さて近代の霊界通信と言えば真っ先に挙げられるのがステイントン・モーゼスの自動書記通信『霊訓』であり、最近ではモーリス・バーバネルの霊言通信『シルバーバーチの霊訓』である。そして時期的にその中間に位置するのがこの『ベールの彼方の生活』である。

内容的に見ると『霊訓』はキリスト教的神学の誤謬(ごびゅう)を指摘し、それに代わって霊的真理を説くという形で徹頭徹尾、文字どおり“霊的教訓”に終始し、宇宙の霊的組織や魂の宿命、たとえば再生問題などについては概略を述べる程度で、あまり深入りしないようにという配慮さえ窺われる。それは本来の使命から逸脱しないようにという配慮でもあろう。

これが『ベールの彼方の生活』になると宇宙の霊的仕組みやキリストの本質について極めて明快に説き明かし、それが従来の通念を破るものでありながら、それでいて理性を納得させ且つ魂に喜悦を覚えさせるものをもっている。もっともそれは、正しい霊的知識をもつ者にかぎられることではあるが。

そしてシルバーバーチに至ると人間世界で最も関心をもたれながら最も異論の多い“再生”の問題について正面から肯定的に説き、これこそ神の愛と公正を成就するための不可欠の摂理であると主張する。

ほぼ50年続いた霊言に矛盾撞着は1つも見られない。同時にシルバーバーチが“苦難の哲学”とでも言えるほど苦しみと悲しみの意義を説いているのも大きな特徴で、「もし私の説く真理を聞くことによってラクな人生を送れるようになったとしたら、それは私が引き受けた使命に背いたことになります。

私どもは人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。それに敢然と立ち向かい、それを克服し、そして一層力強い人間となって下さることが私どもの真の目的なのです」と語るのである。

こう観て来ると、各通信にそれぞれの特徴が見られ、焦点がしぼられていることが判る。そして全体を通覧した時、そこに霊的知識の進歩のあとが窺われるのである。それをいみじくも指摘した通信が『霊訓』の冒頭に出ている。その一部を紹介する。

『啓示は神より授けられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾することは有り得ぬ。但しその真理は常にその時代の必要性と受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに見えるのは真理そのものにはあらずして、人間の心にその原因がある。

人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過とともに、いつしか頭初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなって行く。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなってしまう。やがて新らしき啓示が与えられる。

がその時はもはやそれをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新らしきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾は無い。が矛盾せるが如く思わしめる古き夾雑(きょうざつ)物がある。

まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間は己れに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。

神は決して真理の押し売りはせぬ。この度のわれらによる啓示も、地ならしとして、限られた人間への特殊なる啓示と思うがよい。これまでも常にそうであった。モーセは自国民の全てから受け入れられたであろうか。

イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が1人でもいたであろうか。神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押しつけはせぬ。用意の出来ていた者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである。』

今あらためて本霊界通信を通覧すると、第1巻より第4巻へ段階的に“進歩”して行っていることが判る。それを受け入れるか否か、それは右の『霊訓』のとおり“己れに宿る理性の光”によって判断していただく他はない。願わくば読者の理性が偏見によって曇らされないことを祈りたい。

訳者としてはただひたすら、本通信に盛られた真理を損ねないようにと努めるのみであるが、次元の異なる世界の真相をいかに適切な日本語で表現していくべきか、前途を思うと重大なる責任を感じて身の引きしまる思いがする。が“賽(さい)は投げられた”のである。あとは霊界からの支援を仰ぐほかはない。

シルバーバーチの言葉を借りれば、“受け入れる用意の出来た人々”が1人でも多くこの霊界通信と巡り合い、その人なりの教訓を摂取して下さることを祈る次第である。

(1985年)


新装版発行にあたって

「スケールの大きさに、最初は難解と思ったが繰り返し読むうちに、なるほどと、思うようになりました」こんな読後感が多数寄せられてきた本シリーズが、この度、装いも新たに発行されることになり、訳者としても喜びにたえません。

平成16年2月
近藤千雄


霊界通信
ベールの彼方の生活
第1巻「天界の低地」篇 – 新装版 –

近藤千雄(こんどう・かずお)
昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1985年英国を訪問、著名霊媒、心霊治療家に会って親交を深める。主な訳書 – M.バーバネル『これが心霊の世界だ』『霊力を呼ぶ本』、M.H.テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』、『シルバー・バーチの霊訓』『古代霊は語る』『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』(いずれも潮文社刊)

↑目次へ↑

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†