これが死後の世界だ

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これが死後の世界だ – 開かれた来世

W・H・エバンズ著
近藤千雄訳

本書を恩師間部詮敦(まなべあきあつ)氏の霊に捧ぐ(訳者)

【目次】

第1章 霊界通信はどこまで信用できるか

第2章 死後の環境

第3章 霊魂の成長と進化

第4章 地上生活の目的と意義

第5章 霊界の仕事

第6章 地上的縁の行方

第7章 神の啓示

まえがき

私は、かねがね、今まで自分が読んだ霊界通信を1冊にまとめてみたいと思っていたのであるが、その望みがようやく本書となって実現した。引用したものには私なりの解説を加えてある。全般的に観たかぎりでは、これで死後に関する一通りの知識は得られるのではないかと自負している。

もちろん人によっては説明不足の感を抱かれる箇所が無きにしもあらずだろうと思う。私もその点は充分意識しており、もっと専門的なものを出さなくてはと思うのであるが、それには大変な時間と労力とを要する。そういった科学的あるいは分析的な仕事は後輩にゆずって、私としては、ひと先ず、そういった専門的な仕事の資料を提供するだけで満足させていただきたいと思う。

死後に関する資料はすでに相当な分量にのぼる。時間と労力と情熱のある若い学徒は霊界(注1)の社会制度、生活手段、教育、進化といった個々の問題について詳しく分析研究して、ひとつ霊界の百科辞典のようなものを拵えてもらいたいものである。私としては、本書が死後に関する一般的知識を得る上でお役に立てば、それで満足である。

これまで死後の問題は信仰の領域とされてきた。が19世紀半ばから霊媒の組織的調査研究が盛んになるにつれて、その霊媒を通じて死後の事情が次々と明るみになってきた。むろん、その内容において必ずしもすべてが一致しているわけではない。その矛盾については本文で取り上げるが、少なくとも死後の世界の存在は単なる“信仰”から“事実”となってきた。

今や問題は果たして死後はあるかではなくて、死後は一体いかなる世界かということである。本書は、私が入手し得たかぎりの資料に基いて、その大まかな全体像を紹介したものである。かくして明るみにされた世界は、人間の理性を納得させるだけの合理性に貫かれた、あくまでも明るく進歩的な“動”の世界である。

深遠なる生命哲学の問題はさておいて、少なくとも肉体の死後に、ひとりの例外もなく、生命躍如たる明るい世界が待ちうけているという知識は、この悩み多き人生を生き抜く上で大いなる励みになるに相違ない。

おしまいに、本書の編纂に当って次の著書のお世話になった。記して感謝の意を表したい。

W・H・エバンズ


Practical Occultism
by J.J.Morse
モールス「実用神秘学」

In the Dawn Beyond Death
by C.D.Thomas
トーマス「死の彼方の夜明けに」

Life Beyond Death with Evidence
by C.D.Thomas
トーマス「実証による死の彼方の生活」

They Survive
by G.Cummins
カミンズ「彼らは今も生きている」

The Life Beyond the Veil
by G.V.Owen
オーエン「ヴェールの彼方の生活」

Arcana of Spiritualism
by H.Tuttle
タトル「スピリチュアリズムの秘義」

Heaven and Hell
by E.Swedenborg
スエーデンボルグ「天国と地獄」

Great Harmonia
by A.J.Davis
デービス「偉大なる調和」

Views of our Heavenly Home
by A.J.Davis
デービス「天界の住処」

Nature’s Divine Revelations
by A.J.Davis
デービス「大自然の神的啓示録」

(日本語訳は便宜上の直訳に過ぎない – 訳者)

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第1章 霊界通信はどこまで信用できるか

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来世に関する信仰の歴史をたどれば遠く太古にまで遡(さかのぼ)る。“神”の観念をもたなかった原始人でさえ“幽霊”というものの存在は信じていた。人間が霊的存在である以上それはごく自然なことであろう。

心霊研究というものに携わってみると尚更その感を深くする。つまり実験室で起きる心霊現象の原理を研究してみると全てが自然法則の原理に基いており、従ってそれと同じものが自然界に起きても少しも不思議ではないのである。

それがあくまでも自然現象であることは人間の歴史をみてもわかる。どんなものでもよいから、ちょっと歴史の本を開いてみるがよい。そこに、独りで物が宙を飛んだとか、死んだはずの人間が現われたとか、或いは不思議な声を聞いたとか、もっとありふれたものでは、手を触れただけで病気が治った、といったような現象の記事を数多く発見されるに違いない。実際そこには今日心霊現象と呼ばれているものの全てを見出すことが出来る。

ところが、そういった歴史上の不可思議な現象の存在は信じていながら、今日の実験室内の心霊現象は詐欺扱いにして、まるで信じようとしない人がいるから奇妙である。そういう人は、実験室で起きる現象とまったく同じものが、いつの時代、どの民族にも発生している事実を一体どう観るのであろうか。

彼らはある意味では懐疑論者と言えるかも知れない。が研究も検討もせずに頭から信じようとしない人が本当の懐疑論者と言えるだろうか。本当の懐疑論者とは、どう研究しても納得がいかないから信じないという人のことである。

心霊現象は原始時代から今日に至るまでの人類の歴史を通じて絶えず起きているという事実そのものが、その真実性のあかしであると私は思う。人間が死後の生命を信じるようになったのは、ほかならぬその現象のせいであることは間違いない。

決して、自然界の物理現象、たとえば独りで動くものや風にそよぐものは生命があるという考えや、地面や水面に映る自分の影が自分の身体が太陽に照らされたために起る現象だということからそう信じるに至ったわけではあるまい。

夢も心霊現象と隣接した要素をもつ現象には違いないが、別の範疇に入れるべきであろう。というのは、確かに夢には真実性のあるものや予言的要素をもつものもあるが、また一方他愛ない幻影にすぎないものもあるからである。

(1)霊媒の主観による脚色の問題

さて人間が霊的存在である以上は、心霊現象を起こす力は当然人間の構成要素の一部を占めていると観るのが自然である。ただ、個人によってその割合が多い人と少ない人とがあり、多い人はそれだけ霊的影響を受け易くなるから、必然的に、霊媒の仕事に携わる傾向も強くなる。

古来、予言者とか霊覚者と言われた人はみな霊的要素の強かった人で、いながらにして霊界(注1)の存在者を感知し、同時に、それらの霊魂がかつては地上で生活した人間であること、また条件さえ揃えばいつでも姿を見せ、あるいは声を聞かせることが出来るということも知っていた。

さて、そこまで判ると今度は、そうなると当然それらの存在者が生活している場所があるはずだという考えが生じ、それがいつしか“あの世”という言葉で表現され、かつ認識されるようになってきた。

その認識の方法および表現の仕方は当然その人の地上的体験による影響をまぬかれない。つまり地上的体験によって身につけた認識方法によってその霊的情報を理解するという宿命を背負っているのである。

さて、さらに人間が進化して動物的段階から道義心をもつ段階へ至ると、人間界に善と悪とがある以上は死後にも善と悪の区別があるはずだと考えるようになり、尚かつ、地上生活と死後の生活との間に道徳的因果関係、つまり地上で善いことをした人間は楽しい境涯へ行き、悪いことをした者は苦しい境涯へ送られるのが当然だという信仰が生まれた。

この信仰がさらに発展すると、死後の世界にも沢山の段階があり、また地上からすぐ次の世界へ行く途中、および死後の世界においてひとつの段階から次の段階へと進んでいく途中にも、衣更えをするための“中間境”というものが無くてはならぬということまで想像するようになった。

が、ここでひとつ疑問が生じる。本人の霊的体験ないし他の霊媒による霊界通信等によって得られた来世の概念が、その人の宗教観や信仰に似ているのはなぜかという疑問である。

このことについて「霊訓」(注2)のイムペレーターは「人間を通じて得られるインスピレーションは必然的にその人の主観によって脚色される」と言っているが、まさしくその通りであろう。「水は方円の器に従う」というが、インスピレーションもこれと同じで、霊媒の性格等によって何らかの脚色は免れないようである。

この脚色ということについてひとつの注目すべき傾向がある。それは、人間が理知的に進化して物事を合理的に考えるようになるにつれて、インスピレーションもアカ抜けのしたものになってきていることである。

もっとも、これも一概には言えない。たとえばスピリチュアリズム思想の発端となった米国ハイズビル村における通信(注3)などは、霊媒の考えはもとよりのこと、その当時の宗教思想とはまるきり違った高度なものだった。それを考えれば、脚色といっても枝葉末節のことにすぎないことがわかる。

今どきの霊界通信で「死後の世界は天国と地獄しかない」などと言ってくるものはない。たいていは「下は暗黒の世界から上は無上の幸福境まである」というふうに表現している。

結局、脚色といっても或る程度のことであって、重要な意味をもつ根本的な問題に関しては、ほとんどが一致した通信を受け取っているのである。イムペレーターの言葉は“或る程度”という言葉を挿入して読む必要がありそうである。

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(2)矛盾の生じる要因

一方、人間の信仰が正しかったことが霊信によって確かめられるケースはよくあることである。従って霊信どうしの矛盾の要因は霊界のスピリットの側にあるのではなくて、それを受け取る霊媒にあることがわかる。

スピリチュアリズムが勃興した当初のころは今よりはるかに霊界からの働きかけが強かったようで、同時に、研究に携わる人々の公明正大な態度と相まって、その時代の支配的な思想信仰とはまったく異る内容の通信が得られていた。

スエーデンの科学者スエーデンボルグ(注4)は、初めの頃はキリスト教の永遠の地獄説を固く信じていたために、一方ではその時代としては破天荒ともいうべき高等な思想を説きながら、他方において永遠の火刑などという、きわめて幼稚な思想が混っていた。当時の彼にはそれが少しも矛盾とは思えなかったらしい。

ところが晩年の思想をみると、地獄の存在は否定こそしていないが、その地獄は精神的状態であり、自分が勝手にこしらえるものであると説き、さらに「地獄は決して永遠なるものではない」とも説いている。言いかえれば、地獄に落ちた人間にも常に向上進化の道が用意されているというのである。

ところで、こうした矛盾があることを理由に全ての霊界通信をいい加減なものと見做す人がいるが、これは賢明な人間のすることではない。大切なのは各通信をよく検討し、その中に相通じる真理の核心を見出すことである。

さらに考慮すべきことは、これまで分ったところによれば、どうやら死後の世界の体験も地上の生活と同じく人によって各種まちまちであって、決して同一でないということである。

仮りに今、遠い星からふたりの人間が地球にやって来て、ひとりは赤道直下の熱帯地方に、他のひとりは北極のド真ん中に降りたとする。ふたりはそれぞれの土地を見物して出来るだけ多くの知識を集めようと努力するであろう。

しかしふたりがたとえ足にマメして調査して歩いても、ひとりは「地球とはやたらに暑いところ」だと報告し、もうひとりは「地球とは一面氷の世界」だと報告するに違いない。

ふたりの報告を聞いた人々はその矛盾の甚だしいのに驚いて、いろいろと問い質すに違いない。がふたりとも自分の報告に少しの誤りもないと言い張る。そしてそこに真偽の問題が生じてくることになろう。が実際、ふたりの報告はどちらも決して誤りではない。ふたりはそれぞれに見たままを正直に報告しているのである。

これとまったく同じことが霊界と人間界との間にも言える。霊界は決してひとつだけの「場所」ではない。地獄といってよいほど低級な世界から、天国とも言うべき歓天喜地の世界まである。分類の仕方によっては無限の世界があると言ってもよいであろう。

しかも、それぞれの世界にはそれぞれの生活形態があって、必ずしも一定しない。となると低級な霊魂から受け取る通信と高級な霊魂から受け取る通信との間に、大なり小なり差異が生じるのは当然すぎるほど当然なことと言えよう。

このことは、それで全ての問題が片付くものではないにしても、霊界通信を読む際に是非とも心得ておくべき大切なことである。

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(3)死後の世界も自然界である

次に霊界の生活形態について観てみよう。第一に認識しなければならないことは、エーテル界の生活が地上生活と同じく実感のある主観と客観の二元的生活であることである。古来、死後の世界が数多くの霊覚者や宗教家によって説かれて来たが、その世界は何かしら実質のない、ふわふわとした世界のような印象を与える。

が考えてもみるがよい。もしも人間が何らかの形で死後に存続するとすれば、当然その世界の環境に合った形体を具えていなければならないはずである。そして何らかの形体をもって生活する以上は、その形体は環境を実感をもって感識するように出来ているはずである。

もちろんその実感は相対的なものであって、われわれ地上の人間には感識できないものかも知れない。現にわれわれはその存在を感識していない。しかしその世界に住む者には立派に実感があるはずである。

要するに霊界では、どんなに高い界層へ行っても、どんなに低い界層へ行っても、みな主観と客観の二元的生活が営まれていると思えばよい。主観と客観の生活だからこそ体験というものが得られるのであり、その体験から得た教訓を交換し合うことも出来るわけである。

主観と客観とは自我と他我といってもよいし、内と外、あるいは表と裏といってもよい。大自然はこの二元性によって貫かれているのである。

この問題は霊界通信でもよく扱われる。通信者が言うには、霊界は地上の写しのようなもので、それが上へ行くほど精妙になっていくにすぎないという。

しかし、ここで注意しなければならないことは、彼ら霊界の人間が地上の人間に通信を送るためには、どうしても地上の言語を使用しなければならないということである。そうなると、地上とは比較にならぬほど広くかつ次元の高い世界のことであるから、中には地上の言語では絶対説明できないことがあるはずである。

極端に言えば、空気に住む小鳥が水中に住む魚に空の生活の説明を強いられるに似たような事情もあろうと思われる。そんな時に彼らは何らかの記号を使用して象徴的に説明せんとするのであるが、そうなると今度はその記号をどう解釈するかが問題となってくる。

そういったことを考慮すると、霊界通信で霊界とは地上の写しのようなものだとか、地上と同じく主観と客観の生活であると言ってきても、それはあくまで生活全体を抽象的に表現しているに過ぎないことを忘れてはならない。

何と言っても第六感、第七感と次第に新しい感覚が発達し、しかもそれが上へ行けば行くほど鋭くなっていくというのであるから、そこに展開される生活模様の複雑さ精妙さは、到底五感に縛られた人間には想像も理解もできないはずであり、ましてそれを限りある言葉で説明することは更に困難な仕事に違いない。

すべてを直感によって認識する生活がわれわれ地上の人間に想像できるだろうか。テレパシーが通信の手段の全てという生活が誰に想像できよう。無数の色と音が理想的に融合し合った世界とは一体どんな世界だろうか。

人間には想像も理解もできない。それを強いて表現せんとすれば、象徴的に表現する以外に方法がないであろう。が象徴的表現は誤解され易い。といって、ありのままを表現したところで何のことか皆目わからないということになる。

しかし、霊界通信が口を揃えて宇宙の合理性または自然性というものを説いていることは大いに注目を要することである。生活が複雑となり精妙となっていくのはいいが、もしどこかに合理性が欠けていたり自然法則と矛盾したりする世界が存在するとしたら、それこそ大変である。

それ故われわれとしては、死後の世界が地上と同じく主観と客観の物的生活であって立派に実感があること、上に行けば行くほど生活模様が複雑精妙になっていくこと、そして、それにもかかわらず最後まで合理性で貫かれている、ということさえ理解されれば十分であろう。

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(4)宗教と哲学

著者の観るかぎりでは、哲学は“見えざる世界”の存在を哲学的思索の対象としているとは言い難い。というのは、なるほど深遠な抽象的命題を扱ってはいるが、死後の世界の観念はその範疇には属さないからである。

ある若い哲学者が“哲学とは組織的ナンセンスだ”と断定した話があるが、あるいはそうかも知れない。哲学には哲学の世界にしか通用しない難解な用語が多く、一般の者には容易に理解できない。正直言って、哲学者自身も本当に解っているのだろうかと疑いたくなる。

が哲学することは必要である。われわれは大いに思索しなくてはならない。ただ、初期のスピリチュアリストたちは霊視的観察から得た実際の事実を思索の材料とした。

が、その観察事実そのものが科学者や哲学者、神学者に受け入れられなかった。しかし霊視能力の存在は今や疑う余地のない事実であり、われわれは初期の霊視家たちの行なった見えざる世界の観察に絶対的信頼を置く。

そういう立場から見た時、地上という物質の世界にのみ視点を置いた思索はあまりに近視眼的であり、かえって物質界の理解まで限定してしまうことがわかる。われわれは見えざる世界との関連において物質界を眺め、そうすることによって結局は可視不可視の区別なく“生命はひとつ”であることを知るのである。

一方、信仰心に頼っている宗教は、たとえばキリスト教を例にとってみると、宇宙は神の命令によって6日間で出来あがったという聖書の教えをそのまま鵜呑みにして何ら疑問を生じない。

つまり神が“宇宙よ生(あ)れ”と言ったら現在の如き森羅万象が生まれたのだと信じているのであるが、現代の進化論によれば宇宙間の万物は今なお進化の過程にあり、何ひとつとして完成されたものは存在しない。

また現在の段階に至るまでには何億、何十億という長い歳月を要しているのであって、聖書の言うように、神の命令によってわずか6日間で出来上がったなどというのは飛んでもない話である。みな最初は単細胞から発して多細胞動物へと進化し、しかも今なおその途上にあるのである。

しかし実は、この進化論を説く科学者も大きな誤りを犯している。それは、人間を万物の霊長と考えていることである。つまり五感を具えた人類を宇宙で最も進化した存在としているのであるが、これは、さきに指摘した通り、五感に頼って視野を物質界に限ることから生じる他愛ない謬見である。

A・J・デービス(注5)やハドソン・タトル(注6)などは、人間はもとより天体そのものも今なお進化の途上にあり、進化しつつ常に自己のエーテル体及び霊界を構成しつつあるのだと説いている。言いかえれば、人間も天体もいつかは現在の物質的段階から霊的段階へと進化していく宿命を背負っているというのである。

ではその説をA・J・デービスの「偉大なる調和」から抜萃してみよう。

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(5)デービスの宇宙創造説

「これまでの細心の研究から、私は次のような宇宙創造説を主張する。すなわち宇宙間のあらゆる物的天体は霊界を含めた全大宇宙の骨格であり身体である。つまり物的天体は全大宇宙組織の中心的組織であり、いわゆる霊魂の住む世界は、その中心的組織に当る身体が刻々と創成しつつあるところの“死後の生活の場”である。

結局物的天体はそれ自体が人間の生活の場としての機能を果たすと共に、常に人間の死後の生活場 – 自然にして神聖なる“住処(すみか)”を拵えつつあるということになる。その死後の世界と物的天体との関係は、人間の身体と霊体との関係と同じく密接にして不可分である。

人間の物質体が霊体の母体に相当する如く、物的天体は霊界の母体といってよい。前者について言えることは後者についても言える。従って人間について断言できないことは物的天体に当てはめることを控えねばならない。繰り返して言うが、霊界もある意味では物質界である。

つまりひとつの物的天体である。ただ同じく物質がありながら、霊界の方がその構成要素と形体とにおいて次元が高いというに過ぎない。本質的には岩石や樹木や動物、あるいは人体と少しも変わらない。

ちょうどバラの花弁とその澄んだ香との関係のようなものだと思えばよい。物的天体の放射する精妙稀薄な物質がその物的天体のエーテル体に吸収されて、そこに霊界という世界を構成しつつあるのである。

「次にその放射物質の進化の過程を追ってみよう。まず最初、未発達の地球は固い石ころのようなものであった。やがてその固体からガスが発生し、そのガスが凝縮して水となった。その水から今度は大気が発生し、その大気から電気が発生した。

次はその電気が進化して、もう一段精妙な磁気が発生し、そして最後に、以上のべた有形無形の総合体から、五感では感知できない物質が放射され、その放射物質が宇宙間に瀰漫(びまん)している。では一体それらの放射物質は最後はどうなるのであろうか – これは科学的見地から当然発せらるべき疑問である。

「大自然の大自然たる所以は調和にある。宇宙間どの現象をとってみても、ただそれのみの存在というものはない。必ず他の何らかの存在と協調的関係にある。それ故、人間について言えることは、何らかの形で宇宙全体に当てはめることが出来る。

そこで私が主張することは、人間の肉体が人間以下の物的存在の最も精妙なる要素によって構成されているのと同じように、物的天体の発する精妙なる放射物質は、親和力の作用を受けて、エーテル界というひとつの調和体を構成する。

水星、金星、地球、火星、木星、土星及び他の幾つかの惑星の発する精妙稀薄なオーラと原子とが、大気の如き形体をとって上昇し、宇宙空間で特に親和力の強烈なある一点を中心部として、そこに調和のとれた“場”を形成するのである(注7)。

そこではあらゆる放射物質が自他の区別を埋没して完全に融合調和する。しかもこの過程はそこで終るのではない。そうして出来あがった幾つかの霊界はさらに精妙なる物質を放射してもう一段高級な霊界を構成する。

この進化の過程は放射物質がほとんど非物質と言える段階まで続き、その最後の段階で構成する“黄金色の場”は宇宙の全体を包み込んでいる。斯くの如く霊界は物的天体から生まれ、その放射物質によって構成されるのである。それはちょうど花が土から生まれ土壌によって構成されているのと同じ原理に基いている。

従って地球人類の行く霊界は地球から生まれ地球の放射物質によって構成された世界である。それはちょうど人間の霊体が肉体から生まれ肉体の放射物質によって構成されるのと原理は同じなのである。

「こうして太陽系を出発点として内的宇宙すなわち霊界の創成過程を辿っていると、われわれは恍惚として夢の国をさまようが如き心地がする。その全大宇宙の内的大中心には愛と生命と叡智と正義と力の大根源 – “神”が在(ま)しますのである。

しかし私はいま宇宙の内的秩序を説く気にはなれない。私の目的はあくまで霊界の自然性を具体的に示すことにある。

「雲ひとつない夜空を見上げると、天の川が美しく尾を引いて流れている。かつて天文学者たちはそれを未だ天体となるに至らない星雲の集合だと考えた。ところがその後さらに精密な天体望遠鏡で調べてみると、ただの星雲と思われていたその天の川は実は無数の太陽と、たぶん知的生命の住む惑星の集団であることが分ったのである。

吾々の住む太陽系はその無数の太陽系の中のたったひとつにすぎない。吾々の太陽系の存在する位置は、その厖大な太陽系族の描く円の内側のずっと縁のほう – 結局その太陽系円族のあらゆる部分が見晴らせる位置にあるわけである。もちろん肉眼にはその円周のホンの表面しか見ることが出来ない。

が、いかに精密なる天体望遠鏡をもってしても、全大宇宙の視野から観れば、無数の太陽系集団の中のホンの一円族しか見ていないのである。霊界というのは吾々の目と科学的探求心によって知り得た天体とともに、この厖大な天体の集団に属しているのである。

「この太陽系集団の星はただいたずらに散らばっているのではない。それをまとめるために、ちゃんと裏打ちがしてある。他ならぬ霊界という名の魂のふるさとである。物的天体とい外殻の中にある。それはちょうど、人間の肉体が霊体の外殻にすぎないのと全く同じである。

その中身を見ようと思えば、どうしても霊眼という超天体望遠鏡(スーパースコープ)か、何かほかの霊覚が必要である。天文学者が物的天体望遠鏡のみに頼っているかぎり、その裏打ちの見事さを拝見することは到底望めそうにない。その内側の世界が私のいう“第2界”である。

その裏打ちはたった一重ではない。その裏、そのまた裏と、6重にもわたって強固な裏打ちがしてある。そして最後の6重目つまり第7界には至尊至高なる大宇宙生命力の渦が巻いている。界と界とは密接につながっており、結局物質界と第7界の神界との間にも完全なる連絡が取れている。

物的天体はその大中心から放射されて虚空に散らばり、常に中心から遠ざかろうとするが、魂は逆に生命の大本源すなわち神に向って戻ろうとする。が1度個別化された魂は、たとえ大本源に戻っても“個性”を失うようなことはない。自我は永遠に不滅なのである。

「人体を活エネルギーが循環している如く、エーテル界と天体との間にも活エネルギーが交流している。まず地球の南極から放射された磁気の流れは、激しく活動する太陽の表面に最も近い水星と金星の軌道を通って霊界へ流れ込む。

すると今度はその霊界の別のところに、その磁力よりもっと軽いエネルギーの流れすなわち電流の小川が生じ、地球の北極から流れ込んでくる。前者が陽極で後者が陰極であり、前者は地球から霊界へ、後者は逆に、霊界から地球へと流れ込む。私はこの証拠となるような現象を実際に観察している。

それは友人の死に際(ぎわ)を霊視した時のことであるが、いよいよ肉体から完全に分離した友人は、7マイルほど上空を流れる磁引力の作用を受けて急速に上昇し、ついにその流れに乗ってしまった。その流れは滔々(とうとう)としてまさに潮流の如き底深い印象を受けた。

結局その流れに乗った友人は7時間半近くかかって霊界へ消え入ってしまった。私は発達段階の異る霊魂、あるいは天使までもが、こうした流れに乗って“他力で”動いていると言っているのではない。

「その流れは、心臓から出た血液が頭のテッペンから足の先まで行ってまた戻ってくるのと同じで、心臓部に相当する霊界から流れ出て地球のすみずみに達し、老廃物を吸収しながら再び霊界へと戻っていく。宇宙にはこうした“生きた流れ”が無数に流れており、その大本源こそ、神々の在します神界なのである。

もちろんこうした生命の流れは地球とその霊界の間だけでなく、太陽系の他の惑星にも公平に流れている。心臓がひとつの器官だけでなく肉体のあらゆる部分に公平に血液を送っているのと同じように、神は宇宙のすべての天体にまんべんなく生命力を送っているのである。

またその流れは整然として且つむことがないから、その流れに乗りさえすれば何の努力もせずに宇宙旅行が楽しめる。鼻歌まじりの楽しい宇宙旅行が出来るのである。但し、その旅行にはひとつの大切なパスポートがいる。それは真理の理解という名のパスポートである。

神の真理に背を向けた邪(よこしま)なる心の持主は、たとえすぐそばを流れていても、その流れに乗ることは許されないのである。反対に神の心を我が心として生きて来た者は、その聖なる星の間を流れる天の小川の波にゆられつつ旅することを許されるのである。

「春には春の、夏には夏の収穫がある如く、宇宙は常に進化して淀むことを知らない。その宇宙の不変不滅の真理に目覚めた時の心の楽しさと静けさ、それは正に知る人ぞ知るである。

保守的宗教家は今もって宇宙の自然性すなわち調和というものを排斥してやまないが、宇宙の無限なる可能性を組織的かつ合理的に理解した者にとって、そんな幼稚な非難は物のかずではない。

たとえ彼らが知能と才能を総動員し、ベーコン哲学などを振りかざしても、あなたは常に神の使者として幸福と力とに満ちた意義ある生活を確保するに相違ない。まさしく真理こそ汝を自由にするのである。」

以上によって吾々は宇宙があくまで自然に出来ていることを知った。これを単なる主観的思素の産物と思ってはならない。ひとりの偉大なる霊覚者が実際に観察して得た宇宙の根源的一体性という輝けるビジョンなのだ。

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(6)霊体の誕生と成長

さて次に吾々が興味をつなぐ問題は、霊体がどういう過程で生まれ成長するのかということである。

この際忘れてならないことは、デービスの説では人間の個的存在は地上への誕生をもって始でまりとすることで、これが人間のいわば原初的状態である。従ってこの地上は魂の奥に内在する霊的才能とエネルギーの全部を開発できる場ではない。

それにはまだまだ幾段階もの新しい場が必要である。そこでデービスは死後の段階的過程を、その才能とエネルギーの開発のための場であると主張する。次にその主張を「偉大なる調和」第1巻から抜粋してみよう。

「ここで新たな問題が生ずる。人間はいかにして自己の霊体を支え旦つ維持しているかとい問題である。これは実に大きな問題ではあるが、これも“自然界の一連性”の原理の枠内で自然に解決がつく。

つまり霊体と物質との関係を説明すれば、それでおのずとその問題の解答となるのである。そこで私はその説明の第一段階として、まず脳髄と全身の機能との関係を説明することにする。

脳髄はいうまでもなく全身を支配する中枢器官であり、常に自己に必要な養分を摂取しては、それを浄化し純化してより高度な物質を生成する。

すなわち固形物を流動物と化し、流動物から活電気を生成し、さらにその活電気を精化して活磁気を拵え、そして最後にその活磁気を一種の霊素 – 吾々が物事を考え決断し、あるいは愛し合い、意志を働かせ、そして行動する時に使用する霊的カロリー源にしてしまう、生理学者がいうところの養分 – 顕微鏡などによって見ることの出来る養分が器官や筋肉や導管や細胞膜から脳髄へ運ばれるのではない。

すでに一通りの消化と純化を経てもはや物質の領域を超え、化学的手段ではその存在を確かめることの出来ないもので、それを脳髄、つまり霊が摂取し、調合し、そして使用する。

生理学でも説いているように、人間の身体は個々の組織また機能の完全密接な連絡関係によって維持されている。これを私は“機能の相互補助”と呼んだり“天の配剤の妙”と呼んだりしている。

食べたものを消化してくれるのは胃だけではない。腸はもとよりのこと、肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、心臓、肺臓、そして大親分の脳髄までが、たったひとつの食物の消化に関与しているのである。機能上から言ったら、脳がいちばん積極的で且つ高等な消化器官であるとも言えるのである。

「では、胃に入った食物はその後どういう変化の過程を辿るのであろうか。その過程は大きく7段階に分けることが出来る。まず胃に入るとすぐに化学的作用と電気的作用を受けて細かく砕かれる。それが胃に具わっている他の物質と結合し合って無数の組成物を作り上げる。

かくして出来あがった組成物つまり栄養分は、身体各器官の親和力の作用を受けて、骨、筋肉、内臓等に吸収されていく。が、これで消化吸収作用の全部が終ったと思ったら間違いである。

「そうやって各器官に吸収された栄養分は、こんどはその器官に具わっている消化機能の作用を受けてさらに消化され、そこで霊的ともいうべき高度な物質と化合して、精神の第1要素であるところの“運動(モーション)”の原動力となる。

その化合物がさらに消化と純化の過程を経ると、こんどは精神の第2要素であるところの“精力(ライフ)”の原素となり、それがさらに進むと、精神の第3要素であるところの“感性(センセーション)”の原素となる。そしてこの感性的要素がもう一段純化されると、ついに精神機能そのものの栄養素となってしまう。

「以上の作用を根本的に司るのは活電気と磁気、それに大脳に具わっているところのガルバーニ電気(注8)の3つである。かくして吾々は精神機能が肉体機能とまったく同じ原理、つまり一連性をもった相互補助の原理によって維持されていることを知った。」

デービスの説の特徴はあくまで物質を出発点としていることである。要するに精神的な力も能力も、あるいは霊体そのものも、ことごとく物質から養分やエネルギーを摂取していると言うのである、この説は霊魂というものをむやみに不可思議視して物的身体とまったく異質のものとしたがる神学者の考えと真っ向から衝突する。

しかし理性的に判断した場合どうしてもデービスの説に自然性つまり調和というものを認めざるを得ない。デービスの哲学はあくまで整然とした法則で出来あがっており、どこにも不可思議なもの或いは奇蹟といったものを雇い入れる余地がないのである。霊体も肉体と同じ原理によって出来あがっているのであり、その原理はエーテル界の生成にも当てはめることが出来るのである。

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(7)霊界はどこにあるか

ではそのエーテル界というのは一体どこに存在するのだろうか。果たして存在の“場”というものがあるのだろうか。あるとすれば、生前においてもそこを訪れることが出来るのだろうか。デービスの「よく受ける質問への回答」という著書の中から抜粋してみよう。

「人間の霊は常に霊界にあり、瞬時として霊界から離れることはありません。但しここでいう霊界とは、全宇宙に瀰漫する普遍的霊気の世界の意味であって、“第2界”とか“常夏の国”といった特定の世界を指しているのではありません。人間の霊はその普遍的霊気の中に浸っており、そのあいだ(あなたと霊気との間)には一分の空間(スキ)もありません。

「その霊がこうして物的世界に生活しうるのは、自己及び自己の外部にその媒介物が存在するからです。すなわち五感を例にとってみれば、(1)物が見えるのは眼と光の媒介があるから、(2)音が聞こえるのは耳と外気の媒介があるから、(3)味がわかるのは舌と流動物の媒介があるから、(4)臭いがわかるのは鼻と香気の媒介があるから、そして(5)固いとか柔いとかの判別が出来るのは皮膚とバイブレーションの媒介があるからです。

「これでお気づきと思いますが、人間の霊的自我が直接物質界に触れることは絶対にありません。ひとつの物体を握ろうとすると、“握る”という機能をもった手の媒介を経なければなりません。たとえば足もとの石ころを拾ったとします。その時あなたは何の不思議も感じないでしょう。

しかし実はあなたが拾おうとした“意志”と拾われた“石ころ”との間には数段階もの霊的な差があり、直接石ころに触れた時には最下等の生命すなわちバイブレーション、またはモーションの世話になっているのです。

「あなたの霊つまりあなた自身はそうした物質の霊化または精妙化の段階を経て始めて物的世界との関係を保っているのです。その物的世界での体験を感じ取っているところの“あなた自身”は常に普遍的霊気の世界に住んでおります。

結局あなたは普遍的霊気の世界の一存在として感じ、考え、決断し、そして行動していることになります。死はあなたの霊覚から物質という邪魔物を取り除いてくれて、そのお蔭であなたの感覚はさらに鋭さを加えることになりますが、しかし、あなたの目覚める世界が第2界であろうと常夏の国であろうと、あなたは依然として普遍的霊気の世界に住んでいることには変りはないのです。

結局あなたは個的存在としての生活を始めた時はすでに普遍的霊気の世界に住んでいたのであり、今後いかなることがあっても、永遠にその世界から超脱することはありません。

「そうなると、地球以外の霊魂の世界は今そこにおられるあなたのすぐ身のまわりに存在することになります。それ故、その内的世界を観るためにわざわざ遠くまで出かける必要はないのです。物質さえ超越すれば、いながらにして内的世界の存在物が見え、しかもただ見えるというだけでなく、その事物の本質を感じ取ることも出来るのです。

肉体と霊体とは生理的に見ても霊的に見ても完全に融合調和して一体となっておりますが、しかし、あなた自身は常に普遍的霊気の世界にいるのです。それだからこそ物質を客観的に見ることが出来るのであり、同時にその物質を種々な形に変えるべく、あれこれと思考をこらすことも出来るわけです。

「常夏の国というのは、その普遍的霊気の世界の中のある特定の広い地域のことです。」

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第2章 死後の環境

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スエーデンボルグの『天国と地獄』の中にはスエーデンボルグ自身が実際に訪れて観察した死後の世界の様子が綴られている。それを読むと、死後の世界では生活状態と環境が本人の内的性格(本性)によって左右されていることを知る。

同時に、霊界通信によくある「子供は天界においても成長を続け、真理を獲得することによって最後は天使的資格を得る」という文句が非常に具体的に説明されている。中でもわれわれの興味をひく言葉に次のような一節がある。

「宇宙間どの事物をとってみても、それには必ずそれに先立つ何物かが存在する。言いかえれば自分で自分を拵えたものはひとつもない。これを推し進めて行くと、結局、森羅万象は宇宙の第一原理から生まれたことになるが、彼等(天使)はその第一原理のことを全生命の究極的存在と呼んでいる。

また天使にもやはり生活というものがある。なぜなら、生活とは存在し続けることであり、存在し続けることは第一原理との関係を保ち続けることだからである。第一原理との関係が切れた時、その時は存在が消滅する時である。」この文句の中にもデービスのいう自然界の一連性の原理を窺うことが出来るのである。

『天国と地獄』で終始一貫して説いていることは、死後の生活環境が心の持ち方と常に一致しているということである。これをスピリチュアリズム流に表現すれば“親和力の法則”の働きが強烈なのである。罪深い人間が天国に住んでいるようなことは絶対にない。有り得ないのである。

なぜなら、罪深い人間はその罪の深さに相当した“心の地獄”を背負って歩くことになっているからである。しかしそれは絶対的なもの – つまり永遠に変えられないものではない。生命は常に変化と向上を求めてやまない。それ故、改心して努力しさえすれば必ず天国への道が開けるのである。

心と環境とが一致するということは、地上生活にも言えないことはない。ただ地上ではカネというものに物を言わせることが出来るので、カネさえあれば、どんなに罪深い人間でも御殿のような家に住み、暖衣飽食の生活を楽しむことができる。

しかしその生活はあくまでカネの力によるものであって、心の美しさ豊かさを示すものではない。逆に物に囚われるだけ、それだけ心の方がおろそかにされ、それが続くと、常に変化と進化を求めてやまぬ魂は不快と焦燥とを覚えるようになる。

その不快と焦燥こそ悪魔に笑みをもたらしめる本当の不幸の表われなのである。結局、親和力の働きは地上も死後も同じことである。ただ死後の世界の方がより速やかに働くというに過ぎない。では次に、その具体的説明を『天国と地獄』から抜粋してみよう。」

(1)衣服

抜粋を掲げる前に、スエーデンボルグの思想的特徴を説明しておこう。彼の思想を一語で言えば、神人同形同性説である。すなわち「宇宙は1個の人間に似た存在」であり、また「天界のあらゆる社会もそのひとつひとつが1個の人間のような存在」であり、そして「天使は完全なる人間的容姿を具えている」と説く。

その天使も彼の説によれば元は1個の人間であった。その点はデービスも同じ説を唱えている。デービスはそれを「物的生活のいちばん大きな目的は、生命の樹に完全無欠なる人間を実らせることである」と表現している。

スエーデンボルグはさらにこう説明する。

「宇宙は全体的に観ても部分的に観ても1個の人間に似た存在である。“主”の人間性が発現して全大宇宙となったのであるから、それは当然のことである。」

これを彼は6段階にわたって説明している。

「(1)“主”とは宇宙神のことである。
(2)その“主”の人間性が発現して宇宙となった。
(3)宇宙には無数の社会が存在する。その社会のひとつひとつがいわば小さな宇宙であり、そこに生活する天使はさらに小さな宇宙である。
(4)宇宙全体は1個の人間に似た存在である。
(5)天界に存在するあらゆる社会も同じく1個の人間に似た存在である
(6)天使は完全なる人間的容姿を具えている。」

この説明は「人間的容姿はいわば生命の樹に実った果実であり、永遠にその形体を維持する」というデービスの言葉の説明ともなっている。

このようにデービスの思想とスエーデンボルグの思想との間には非常に似通った所が多く発見されるが、デービス自身は右の言葉の載っている『大自然の神的啓示録』を著した時、まだスエーデンボルグの思想を全然読んでいなかったという。このことは大いに注目に値しよう。

もっともふたりの思想にキリスト教的色彩が色濃く見られることも注目しておく必要がある。特にスエーデンボルグの方には“暴君的”とも言えるほどの強烈な神学的影響が見られる。それに比べればデービスの方はよほどアカ抜けしていると言える。

では続いて『天国と地獄』から死後の世界の実情を伝える節を掲げることにする。霊魂の“衣服”とか“住居”とかを云々すると、知識人ぶった人はいかにも軽蔑的な笑いを浮かべるが、そういう人は実際は何も知らないのであるから相手にするには及ばない。スエーデンボルグは霊魂の衣服についてこう述べている。

「天使がもともと人間であり、また社会の一員としての生活を営む以上は、衣服や住居そのほか地上と同じ生活必需品をちゃんと備えている。ただ全てが地上のものより上等で完全に近いというに過ぎない。より上等で完全に近いわけは、彼らの精神構造がより高等で完全に近いからにほかならない。

その高等さ、その完全さは到底地上の言語では説明できないほどで、従って彼らが耳を傾け、目で観察するところのものも、言語を絶するほど高等であり完全である。天界では自己の叡智に相当したものが叶えられるのである。

「それ故、天使がまとうところの衣服はその天使の内的自我によく似合ったように出来ている。また内的自我と衣服との間にそういった相関関係が生じるということは、衣服が立派に実在物であることを示している。天使にかぎらず、天界のすべての生活者は自己の叡智の程度に応じた衣服をまとっている。

もちろん理智の発達程度には大なり小なりの差があるから、衣服の美しさ、完全さにも、いろいろな違いが見られる。高級な天使の衣服には、“炎”のごとき光輝を発するものと“光”のごとき光輝を発するものとがあり、程度が下がるに従ってその輝きの度が弱まり、しまいにはただ“明るさ”と“白さ”を留めるだけとなる。それがさらに下がると、今度は種々様々な“色”が見えるようになる。しかし宇宙最奥の天界に住む天使は何まとっていない。

「理智は神的真理の悟りから生じるものであるから、理智の程度に適合した衣服は同時に神的真理の悟りの程度にも適合している。それ故、衣服が“理智に適合している”と表現しても“神的真理に適合している”と表現しても意味は同じである。

また“炎”は善性の象徴であり、“光”はその善性に包まれた真理の象徴であるから、同じ程度の高級な天使の衣服に“炎”の如く輝いているものと“光”の如く輝いて見えるものとがある。

その輝きが失われていくことは、神的善性と神的真理の理解の程度が低くなっていくことを示し、最後に色だけとなることは、真理を好き勝手に理解していることの証拠である。明るさと白さとは“真理”を象徴し、色彩は多様性を象徴する。宇宙の最奥の天使は純粋無垢であり、無垢とは赤裸のことであるから、彼等は何もまとっていない。

「天界の衣服は実際に“見る”ことができるばかりでなく、手で“触わる”こともできる。また、われわれと同じように幾着もの衣服を揃えており、必要に応じて適当に着更えている。脱いだものはわれわれと同じように何処かに仕舞っておく。こういったことは天界の衣服が“衣服らしきもの”といったものでなく、衣服そのもの、つまり実在物であることを物語っていると言えよう。

私は又、天使がいろいろな型の衣服を持っていることも確かめている。その仕入れ先を尋ねてみたら、“みな主から戴いたものです。ご褒美として授かったものばかりです。時には戴いたことを知らずにいることもあります”という返事であった。

又、こうも言われた。“私たちの衣服も色が褪せたり綻びたりします。純白に輝いていたものが、何んとなく色褪せて見えることがあります。これもやはり心の状態の変化から生じることです。私たちといえども知性と叡智に動揺を来すことがあるのです。”

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(2)住居

「天界にも社会組織があり、天使が人間的存在として、つまり社会の一単位としてそこに生活する以上、彼等にも住居というものがなくてはならない。その住居もやはり衣服と同じく進化の程度に応じて御殿のようなものであったり、どこか壮厳さが欠けていたりする。

私はこれまで度々天界を訪れて、地上の人間が天界の住居についておよそ次のような概念を抱いていることを伝えておいた。すなわち今日地上で天界に住居があるなどということを信じてくれる者はまずいない。そのわけは、第一彼等は天使の存在自体を信じない。たとえ信じても、まさか人間のような生活を営んでいるとは思わない。

「大体地上の人間は、天界というとすぐにどこか大気中に住んでいるくらいに考える。しかし見たところ天使の姿はどこにも見当らない。そこで天使とはモヤのような形のない存在なのだろうと想像する。

モヤのような存在には形のある住居は必要でないから、結局天使は普遍的霊気の中に住んでいるものと考える。地上の人間は物的感覚に執着しきっていて、霊的といえばせいぜい形も実もないモヤのようなものを想像する。それ故、霊的な世界に“物”が存在するなどと言っても一向に合点がいかない。等々…。

「私が天使と話をした時はいつも住居の中であった。地上の家と少しも変った所がない。ただ一段と美しいというに過ぎない。私室もあれば奥の間もあり、寝室もある。中庭もある。その周囲には畠も作ってある。樹木も植わっている。芝生もある。何もかもある。ことに社会的集団生活を営んでいる所では、家と家とがキチンと隣り合わせて並び、ひとつの市を形作っている。

そこには街道もあれば小道もあり、ところどころに広場もある。何もかも地上とそっくりである。私は特別の許しを得て、その市の中を見物して歩いてみた。途中で何軒か立ち入ってみた。その間、私の意識は明瞭で、内的視覚の目覚めた状態にあった。

「また私は美事な御殿を幾つか拝している。その壮厳さは完全に筆舌を絶する。上のほうはまるで純金で出来ているかのように、眩ゆいほどの光輝を発し、下のほうも宝石類を散りばめた様に、きらびやかな光を発していた。

内部の美しさもまた格別であった。私にはそれをどう説明してよいか見当もつかない。地上の言語や知識では、到底、歯が立たないのである。南に面した窓からは幾つかパラダイスが見えた。

「どのパラダイスも同じように眩ゆいほどの光輝を発している。事物のひとつひとつが光り輝いているのだ。木の葉などは銀色に輝き、その実は、それぞれのものがあたかも金で出来ているかのように、眼を射るような光を発していた。

はるか彼方に眼をやると、視界がやっと届くところに別の御殿がいくつか見えた。天界はまさに芸術の都といってよい。しかしある天使はこれでもまだまだ完全とは言えないと語っていた。ずっと上の方へ行けば、もっともっと美事なパラダイスが見られるとのことであった。

同時にこうも語っていた。すなわち天使たちはそれらの美事さを“眼”で見るよりも“心”で感じて無上の喜悦に浸る。なぜなら、外界に見るものは自分が今までに築き上げてきた魂の進化の具象であり、それが又、ことごとく神から授かったものだからである、と。

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(3)天界のエルサレム

「住居ばかりでなく、その住居の内外の調度品や装飾品もまた、その所有主が“主”より戴いた内的善性に応じたものばかりである。住居そのものが所有者の全体としての性格と程度を示し、調度品や装飾品は所有者の内的自我の細かな徳性を表現している。

住居の外側にある事物は、その所有者が獲得した真理を象徴し、それは同時にその真理獲得のために駆使した理解力と知識の表象でもある。結局、住居も調度品も愛と叡智と理智の程度を表象していると言ってよい。

なぜなら、愛も叡智も理性もことごとく“主”より授かる内的善性の産物にほかならないからである。愛は善であり、叡智もまた善であり、同時に善より出た真でもある。だからこそ彼等天使たちは自己の環境に目をやっては、心に深い喜悦を感じるのである。

「これで私には、主イエスがご自分のことをエルサレムの宮殿にたとえられたわけが分る。また何故この天界のエルサレムが純金で出来ているのか、門がなぜパールで出来ているのか、土台がなぜ宝石ばかりで出来ているのかが分る。

つまりそれは地上の宮殿が“主”の神的人間性の表象であり、天界のエルサレムがこれからのちに建てられるべき都会を表わしているからである。その十二を数える門は善へ通じる真理を表わし、土台はその善を築く真理を表わす。

「その神々しき“主の御国”に住む最高級の天使は、地上で言えば山の頂上に相当する位置に住んでおられる。それより1段程度の低い天使の住む霊的天国は、地上の丘のような位置に相当しょう。

さらに1段低い天使の住む世界は、さらに下の岩石の多い土地ぐらいに相当しよう。これもやはり内部と外部の相関関係から来ている。宇宙最奥の内的善性を表現するものが最高の世界に住み、内部から遠ざかるほど低級となっていく。

「天使の中には社会的集団生活から離れて、個人的生活を営んでいるものがいる。彼らは最高界に属する天使の中の、さらに高級な天使たちである。

「その天使たちが住む住居は自分で拵えたものではなく、“主”より授かったものである。その住居は時々刻々その天使の心の変化に応じて変化していく。欲したものはすぐさま“主”がお授けになる。一切の持ち物は“主”より授かったものばかりである。」

スエーデンボルグの言説を読んでいると一種の思想的硬直性のようなものを感じるのは私だけではないであろう。中にはそれを理由に、スエーデンボルグの言説は誇大妄想だときめつけてしまう読者もいることであろう。

それもあながち当っていないとも言えない。細かく注意して読んでみると、彼の思想の中にはヨハネ黙示録の思想が少なからず反映しているのが判る。しかし同時に、ある種の自然性というものが終始一貫して流れていることも認めざるを得ないであろう。事実、当時子供だましと思われた言説がその後の研究で裏書きされたり証明されたりしたものが決して少なくないのである。

そうなると、果たして彼は本当に天界へ行って観察したものであるか、それとも単なる想像に過ぎないかといったことは問題でなくなってくる。それよりもっと大切なことは、その言説に自然性または合理性といったものが一貫しているかどうかということである。私は少なくとも本書に引用したものには立派に“合理的”あるいは“理性的”の印を押してよいと確信する。

そして更に大切なこと – 霊界の事情に関する言説を検討する際にぜひとも留意しなければならない大切なことは、次元の相違から生じるさまざまな困難に遭遇することは避けられないということである。

中でもいちばん厄介なのが時間と空間の取り扱い方ではなかろうか。われわれ地上人はとかく地上の時空の観念をそのまま霊界の事情に当てはめようとしがちであるが、実際には地上人と霊界人との間には、物を感じる働きひとつをみても、そこに時間的、空間的に大なり小なりの差異があるのである。

そのようにお互い異った条件下にある者同士のやる仕事であるからには、中にはどうしても伝えられないことが多々あることであろう。

しかし、お互いにそういうハンディキャップを何とか克服しながらやって行かねばならない宿命を背負っている。そこで私は次に、新しくJ・J・モールス氏の『実用神秘学』の中から、合理的と信じるに足る言説を抜粋して参考に供することにする。通信者は指導霊(ガイド)のティエン・シェン・ティユである。

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(4)他界直後

「地上を去って霊界へ入った当初は、誰しもその世界が地上とほとんど変らないことを知って安心する。そこに住む人間の恰好も自分に似ている。外部の生活環境も酷似している。自然環境もいま去ったばかりの地上とそっくりである。

あまりよく似ているので、中には寝ているうちに地上の別の土地へ運ばれたのだろうくらいに思って、そこが死後の世界であることに気づかずに過す者もいる。つまり自分が死んだことに気がつかないのである。

「しかし、死後の世界が死んだことを気づかせないほど地上と似ていることには、永遠なる叡智すなわち“神”のありがたき配慮があるのである。考えてもみるがよい。もしも死後最初に目覚める世界が地上とまったく環境の異る世界だとしたらどうであろうか。急激な変化によるショックと不安とに大変な意識の撹乱を来すに違いない。

神の愛は人類に大小高低の差別をしない。大なるものにも小なるものにも、高き者にも低きものにも、等しく愛の配慮を給われるのである。されば神は、地上を去って新しい世界へ入って行く一個の小さき人間のか弱い心の中を察し給い、出来るだけショックを少なくし、出来るだけ心の平静を保たしめんとして、地上に似た環境を与え給うのである。

「“前にも1度ここに来たことがある筈だが…景色も人間も覚えのあるものばかりだ。フム、これは気が楽だ。”これは大抵の新来者がもらす言葉だが、覚えのあるのが当然なのである。

何故なら、地上の人間は睡眠中に度々エーテル界を訪れて、その世界の美しさ素晴らしさを満喫し、時にはそこの生活者と楽しいひと時を過すこともあるからである。
突如新しい世界へやって来た人間が、最初はなんとなくではあるが、その世界に慣れることが出来るのは、そうしてエーテル界の住民となる以前から度々訪ねているからであることが、徐々に判ってくる。」

「が、そうしているうちに、やがて彼は地上時代から培ってきた中身、つまり本性が要求す世界へ自然に引き込まれていく。最初に目覚めた世界はショックを与えないようにという神の配慮によって用意された世界であったから、その変化の重大性に気づかない。

われわれが死によって人間は殆んど、あるいは全然変らないと言う時もその意味で言うのであって、それが地上人には議論のタネになることがあるわけだが、しばらくするうちにそうした事情に気づき、地上時代の人間の評価の基準ではその新しい世界は片づかないことを知り始める。

霊界の社会生活と、置きざりにしてきた地上生活との間に基本的な違いがあることに気づき、やがて自分が(地上時代の地位や肩書きや家柄ではなく)内部に培われた魂の発達程度に似合った位置に落着くことになることを理解しはじめる。その時点から本当の困難に遭遇することになる。

「来た当初は見るもの聞くもの全てが地上と同じであり、また気持がいいほど事が思うように運んでくれる。そこで誰しも心中ひそかにこう叫んでは晴々しい気持になる。“みな地上で教わった通りだ。地獄もない。悪魔もいない。罰を与えるような神様もいない。火あぶりの刑場もどうやら見当らぬようだ。よし、これでよし。何の恐れることも案ずることもない。”

「しかし、いつまでもそうは行かぬ。やがて辺りは一変し、事が次第に不如意になってくる。“はて、おかしいぞ。一体どうしたんだろう。様子が少し変だ。”そういう反省意識の芽生えとともに、彼は次第に内省的になっていくのである。

「その結果彼は次のようなことを悟るようになる。つまり人間は動機というものが大切なのだ。霊の世界は地上で蒔いたタネが芽を出すところなのだ。上手ばかりの生活を送った人間は、こちらでは相手にされなくなる。心の中がすぐに顔に表われてしまうから、上手が通じなくなるのだ。そして、そういう事態に遭遇することによって自己の通りに気づいていくのだ、」と。

「結局彼が悟るのは死後の霊的関係が親和力の法則に基いていることである。親和性に欠け、まわりの者と交われない者は、親和力の反作用ですぐにでも弾き出されてしまう。

地上では何とか本性を繕(つくろ)って付き合えた人たち、上手と“はったり”でごまかせた人々に近づけなくなってしまう。反撥力が働くからであり、どこか他の場所へ行かねばならない。ということは、その人たちから離れていくことだ。

「そこで彼はやっと悟り始める。地獄もなく、悪魔も見当らず、怒り狂う閻魔もいないとなると、その3つの具象を超えた何ものかがある – 魂の内部にあって自分を除け者にさせた何ものか – かつてその3つの恐怖の対象とすぐに結びつけられていた“邪心”がそうさせているのだと悟る。すると彼はむしろ地獄と悪魔が本当に実在してくれた方がましだと思うようになる。

というのは、低俗な性格と異常な精神の持ち主がそれまでの社会から弾き出されると、その社会が実は自分にとって最も居心地の良くない社会であることを知り、そこから逃れるためならどこへでも行き、何でもやりたいと考えるようになるものだからである。が実はそう思い始めた時から彼はまさに地獄へ落ちて行きつつあるのである。

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(5)地獄

「地獄は個人によって異った様相をとる。もしも自暴自棄的な反撥心を起こして胸も張り裂けんばかりの憤怒と憎悪に燃えたとしたら、その憤怒と憎悪に燃えさかる心がすなわちその人の地獄となる。

さらに悪意と復讐のかたまりへとその地獄の心がますます悪化していく。悪化していくその悪魔の如き心は、もれなく魂の奥深く刻み込まれ、同時にそれが形相に表われてくる。が、この形相に関して留意していただきたいことがある。

「魂に刻み込まれたものがすべて形相に表われ、それが性格の一部となっていくことは確かであるが、その人間と同程度ないしそれより程度の低い人間には決してその形相を読み取ることが出来ない。がそれより程度の高い者には容易に読み取ることが出来る。

彼らには形相を一見しただけで、またひとつの挙動を見ただけで、それでその人間の特性や全体としての程度の察しがつくのである。それはちょうど地上の人相見が顔を見ただけで、その人間の大体の性格を読み取ってしまうのと同じである。

「地上の人間はよく、この顔は狐、この顔は猿といった区別をするが、この場合、この顔は狐ということは全身が狐と同じ恰好をしているという意味ではなかろう。

それと同じで、霊界通信で、地獄に落ちた霊魂の中には狐やその他の動物の顔をした者がいるという時、それは狐やその他の動物の顔から受ける感じと同じような感じを与える者というほどの意味であって、実際に狐やその他の動物の姿をしているわけではない。通信者には勿論そう見えるし、それを正直に述べているのだが、それはさきに述べた霊界の事情をよく知らないがためである。

「さて、そういった人間は言うまでもなく地獄に落ちている。その地獄には彼と同じようにムラ気で恨み深い者ばかりが集まっている。そんな人間ばかりの生活に面白みのあろうはずはない。彼らは地上のやくざな人間と同じように、ちょっとしたことで大ゲンカを始めたりする。そうかと思うと、今度は全体が急に淋しさとやる瀬なさとに包まれて、みんなひっそりと考え込む。

「そうした挙動は彼らの本性の程度を示す以外の何ものでもない。要するに彼らの生活には秩序がない。秩序のない生活は、向上進化という目的からはずれた生活といってもよい。何故なら、向上進化を意識した時に始めて魂が目を開くのであり、その反応が幸福感となって表われるものだからである。

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(6)心の乱れが地獄を作る

「されば地獄とは無秩序の象徴とみることも出来る。そうなると、地獄はどこにあるかとい問題はもはや説明の要がなくなる。地獄とは“暗雲低迷し、火焰もうもうと猛り狂う奈落のそこには悪魔が歯をむいて神を呪っている”などというのは子供騙しの言説なのである。

神は決してそんな世界は作っておられない。その必要がないのである。なぜなら自分の悪業が芽を出し、それが我が身を責める – その時の苦しさ辛さが地獄なのであり、その地獄はひとりひとりの霊の心の中にある。(霊的な深い意味での)無秩序な心が地獄を拵えるのである。

「イエスは“天国は汝等の心に在る”と言ったが、同じ意味で“地獄は各人の心の中にある”ということである。地獄とは心の無秩序を言うのであるから、みずからが、みずからの力で、その無秩序な生活の殻を打ち破らない限り永遠にその地獄から脱け出られない。

要するに地獄の問題は個人的なものであり、従って地獄の体験といっても、当人の性格その他の事情によってその様相と凄さの程度が異るのである。

「かくしてわれわれは死後の世界に地獄という“場所”はないという結論に達した。地獄は各自が心の中に作り上げるのである。言いかえれば、自分が拵えた悪業が地獄の如き苦しみとなって現われるのである。

悪いのは神ではない。自分である。が実は、死後の世界に地獄は無いという結論は個人としての苦しみを主体として観察した結論であって、これを客観的に見た時は、やはり“地獄とも言うべき場所”が存在すると言わざるを得ないのである。

「これはさきの結論とまったく反対であるが、しかし決して矛盾ではない。仮りにあなた(モールス氏)が私(ティエン霊)といっしょに死後の世界を訪れて、これから私が地獄と名付けんとする“ある場所”へ行ったとしよう。あなたは辺りを見まわして私にきっとこう聞くに違いない。

“ここが地獄だとおっしゃるんですか。何故です。山は高々と青空に聳(そび)えているし、花も樹木もみな輝いて見えるではありませんか。小川がまるで銀の帯のように緑の平野を流れていますよ。ご覧なさい。遠くに見えるあの湖この湖。みな素敵じゃないですか。どうみても

地獄のものとは思えません。ほら、あの天へ聳え立つ見事な建物。ドームが実にきちんと均整が取れていますよ。あそこにいる人達。男性も女性も、青年も娘さんも子供も、みな立派な身なりをしています。どう見ても地獄の悪魔とは見えません。

ここをなぜ地獄だとおっしゃるんですか。どうしてあの人たちが悪魔なのですか。何か勘違いなさってるんじゃないですか。どう見てもきれいで素敵すぎますよ。”

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(7)それでも“地獄”はある

「いや、間違ってはない。あなたが見れば確かにきれいに見えるかも知れないが、ためしにその土地の人間をつかまえて果たしてその人もあなたと同じように美しいと思っているかどうか尋ねてみるがよい。まずあなたはその人の顔に苦のシワを見ることだろう。悲哀とやつれと不機嫌さがすぐに読み取れる。

彼はきっと眉にシワを寄せ、怒りを奥に秘めた表情でこう言うに違いない。“バカをおっしゃい。ここのどこが美しいというのですか。あの壁をごらんなさい。殺伐として陰気でいけません。あの淀みきった小川をごらんなさい。悪臭が鼻をついてやりきれんではないですか。

空気は汚いし、樹木には枯葉1枚ついていない。花も咲かん。あそこにいる人達 – あの人達はみな憎しみに燃えた者ばかりだ。私は見るのもイヤですよ。ああ、一刻も早くここから脱け出たい。脱け出てもう1度しあわせな楽しい暮らしを味わってみたい。”

「これを聞いてあなたは更に不審の念を深くすることであろう。“この美しい世界がなぜそんなに汚く映るのだろうか”あなたはきっとそう考えるに相違ない。実は同じ世界をあなたは美しい汚れのない心で見、彼は汚れた心で見ているのである。

あなたの心には汚れがない。それゆえ魂のもつ鋭い審美眼が働く。それに反して彼の心は過去の悪徳によってすっかり汚され、その汚れが魂の審美眼を妨げているのである。

彼の目にはもはや美しいもの、明るいものがその通りに映らない。映るものはホンの形骸だけだ。新緑に映える丘が荒涼たる禿山に見える。青々と繁った樹木も枯木に見える。快いメロディーを奏でて流れるせせらぎが淀(よど)んで見える。

「これは神に背を向けた者の悲しい報いである。大自然の美しさと壮観と神との調和を忘れた時、その時はすべてが荒涼として味気なく、時には恐ろしくさえ見える。まわりの人間が仇か憎たらしい人間に見えてくる。

そういう人間は知的にも霊的にも不道徳な人間であり、また大自然から見離され、神との連絡路を断たれた哀れむべき人間である。これを心理学的な言葉で表現すれば、自然がまともに見えぬ精神病患者なのだ。

「しかし彼らも、そういつまでもその状態でいるわけではない。“自分はなぜこんな世界にいるのだろう。死後の世界はみな一様にあるはずだ。なのに自分だけがこんな世界にいるのは少し変だ。”いつしかそんなことを考えるようになる。

「その答えは明瞭である。宇宙には人智を超えた或る力が働いており、それが彼をそこへ連れて来たのである。この場合の“そこ”とはもちろん固定した場所を指す。地上と死後とでは、同じ法則でもその働き具合が違うことがいくらでもある。

無知でふしだらで善悪を弁えぬような人間が、理知的で真面目な道徳的人間と同じ世界に住んで同じ取り扱いを受けるようなことは絶対にない。その点を理解しておけば、自分の言動がコントロールできるばかりでなく、何も知らない幼稚な人間を過ちから救ってあげることも出来るわけである。」

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(8)地獄は矯正の場

邪悪な生活を送った者が荒涼とした景色を見て、同じ景色を善人が見ると美しい緑の景色に見える – 読者の中にはこの説がどうしても納得できないと思われる方が少なくなかろうと思う。しかしそれは多分にその方が余りに地上的感覚に拘わりすぎているからではなかろうか。

そのひとつが“視覚”の問題である。地上では視力さえ良ければ如何なる悪人でも美しい景色を見ることができるし、反対に視力が悪ければ、たとえ底抜けの善人でも美しさは判らない。

それは結局、肉体機能が精神状態の如何にかかわらず働くからである。乱視には映像が歪んで見えるし、白内障にはボンヤリと映る。正常な目にはその持主が善人だろうが悪人だろうが、あるがままに映る。

しかし私の考えでは、純粋な機能上の現象を道徳性と結びつけるのは間違っていると思う。ティエン霊の説とは違ったことを言っている通信もあるのである。が次の一点だけは見逃してはならない。すなわち悪とは、一種の“無秩序”であり、悪に耽る人間は正常ではないということである。

が、ともかく地上と死後との事情の違いを考慮に入れても、ティエン霊の説は全面的には受け入れ難い。そこにはやはり霊界の生活には地上の人間に伝え難い特殊な事情があるのである。たとえば、これはあとで検討する課題だが、発達した霊ほど環境への影響力が強力になっていくという。それにしても精神状態がまわりの景色の映り方まで変えてしまうというのは信じ難いことである。

が、ティエン霊が述べる地獄の意味には合理性を見ることが出来る。つまり地獄の苦しみは己れの過去に気づかせるための矯正的な目的があるということで、その根本に合理性が見られる。永遠の刑罰は無意味であり、無目的であり、理性的反撥を覚えさせる。

すべては神への回帰を目的とした意図があり、その背後に神の愛がある。死後の生活はあくまで進歩的であり、いかなる重罪人といえども神への回帰の道が開かれているのである。

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(9)母親からの通信

次に紹介するのはオーエン氏(注9)の『ヴェールの彼方の生活』で、通信者はオーエン氏の実の母親である。死後の暗黒界について述べているが、やはり霊魂はその内的本性に似合った環境に落着くことを述べている。

「さて話がここまで来ると“バイブレーション”(振動波長)という言葉を使わなくてはなりません。しかし、このバイブレーションをただ機械的に振動する波と考えてはいけません。

こちらの世界のバイブレーションには生命力が宿っており、私たちはその生命力を利用して物を拵えたり動かしたりしているのです。いわば私たちと外部の環境とをつなぐ掛け橋のようなものです。死後の世界の環境は結局その生命力の宿ったバイブレーションの現象ということになります。

それを原料として私たちは物を拵え成就させることが出来るわけです。バイブレーションというと何だか実体のないものを想像しがちですが、ちゃんとした耐久性を具えているのです。

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(10)光の橋

「ひとつ例を挙げてみましょう。死後の世界は大きく“光明の世界”と“暗黒の世界”のふたつに分かれており、その中間には巾の広い大きな“裂け目”があります。その裂け目の上に、幾種類もの色で飾られた“光の橋”が掛かっております。

その橋は暗黒の世界の奥深いところから姿を見せ、次第に輝きを増しながら裂け目を越え、最後は燦々(さんさん)たる光輝を発しながら光明の世界の奥深く入り込んでおります。これがふたつの世界の連絡路なのです。そしてその橋はいま説明したバイブレーションによって出来ているのです。

「疑ってはいけません。裂け目の上には立派に“橋”といえるものが掛かっております。考えてもご覧なさい。もしもふたつの世界の間に両者を結ぶものがなかったとしたら、一体どうなります。暗黒の世界から光明の世界へと向上進化して来る霊魂の通り道が無いではありませんか。

私は暗黒の世界から脱け出た霊魂が光明の世界を目ざして、必死にその橋をよじ登りつつある光景をこの目で実際に見ております。もっとも、そう滅多に見られない光景です。たいていの霊魂は、その道案内の任に当っておられる天使様の言うことが聞けずに、すぐまた後戻りしてしまうのです。

「そうした霊魂には天使様の本当の美しさ神々しさを見る能力がないのです。自分の魂の内部に点(とも)された霊的灯火の強さと同じ程度のものしか映らないのです。ですから、天使様の言うことを聞いて最後まで付いて行くには、その天使様に対する信頼心も必要となってきます。

その信頼心は同時に光と闇とを識別する能力を鋭くしてくれます。人間の魂の複雑さは一通りでなく、捉えにくいものです。そこで、もう少し言葉で表現しやすいことを話しましょう。私はそれを“橋”と呼びました。

が、本当はそのことを言う前に、さきにも述べた“目は身体の光である”という言葉を思い出させるべきでした。その言葉をここで改めて読んでいただきたいのです。そうすればそれが地上の人間だけでなく、こちらの霊魂についても言えることがお判りと思います。

「私は今“橋”という言葉を使いましたが、それを聞いて地上の橋と同じものを想像してはいけません。第一、巾の広さからして比較になりません、こちらの橋は、いわゆる橋というよりはひとつの“地域”と言った方が当っているかも知れません。

たったひとつではありません。私はまだ死後の世界のほんの一部しか見ておりませんから詳しいことは言えませんが、恐らくそういった橋ともいうべき地域は、私が見たところ以外にもたくさんあるはずです。私には自分で体験したもの、実際に見たものしかお伝えできません。

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(11)天使の救済団

「さて私が見たその橋には途中に幾つかの休泊所が設けてあり、暗黒界から這い上がって来た霊魂がそのうちのひとつの休泊所に辿りつくと、そこで案内役が代って、こんどは別の天使様が次の休泊所まで付き添ってやります。

私が属している霊団も地上の救済のほかにそうやって光明の世界をめざして這い上がってくる霊魂の道案内を任務としております。霊団と言えば私が属している種類のほかに、もう一派、別の任務をもつ霊団が幾つか組織されているのですが、まだそこまで調べておりません。

死後の世界のことは何でもすぐに判りそうに思われるでしょうが、むしろ地上より難しい面もあるのです。そのいちばん大きな理由は、善と悪との区別がはっきりしすぎているからです。

地上のように善と悪とが隣り合って住んでいるような世界ならば、善人のことも悪人のこともすぐに調べがつきますが、こちらではそう簡単には行きかねるのです。ですから一たん暗黒の世界へ落ちてしまうと、よほど光明の世界に近づかないかぎり、光明の世界の存在に気づかないのです。幾千年も幾万年も絶望と暗黒の世界に住んでいる霊魂がいるのはそのためなのです。

「暗黒の世界から這い上がって来た霊魂が無事その橋に辿りつくと、天使様は優しく手を取って案内してやります。やがて草や木の繁った小高い緑の丘まで来ると、そこまで実にゆっくりとした歩調で来たはずなのに、辺りの美しさに打たれて気絶せんばかりの状態になります。

しかし、そこはまだまだ橋のほんの入口にすぎません。暗黒の世界に浸り切っていた霊魂には、わずかな光明にさえ魂が圧倒されんばかりの喜びを感じるのです。

「私は今“小高い丘”と言いましたが、高いと言っても、それは暗黒の世界と比べた場合のことです。実際には光明の世界の中でいちばん低い所なのです。

「“裂け目”とか“淵”とかをあなたは寓話のつもりで受けとめているようだけど、実際にそこにそれがあります。高級霊になるとその裂け目を易々と飛んで渡りますが、低級な霊魂にはそれが出来ません。霊的な修養を積んでいない低級霊がそんな真似をしたら、いっぺんに谷底に落ちて道を見失ってしまいます。

「私はまだ暗黒の世界へは深入りしておりません。見物したのは入口の辺りだけですが、今の私の仕事にとってはそれで十分なのです。今の仕事に精一杯努力してもっと多くの未熟霊の世話をしてからでないと、あまり深入りすることは許されません。今のところ、それはまだ遠い先の話です。

「さ、そろそろあなたも休まなくてはならないだろうから、あとひとつだけお話しておしまいにしましょう。霊魂が暗黒の世界から逃れて橋のところまで来ると、後ろの方から恐ろしい叫び声や怒号が聞こえ、それとともに狐火のようなものがチラチラ見えるとのことです。

私は実際に見ていないのではっきりしたことは言えませんが、その声や狐火は、仲間を取り逃した暗黒界の霊魂たちが悔しがって怒り狂う時に発するのだと聞いております。悪はいくら数ばかり多くても所詮は善には勝てません。それが彼らには悔しくて仕方がないのでしょう。」

この通信はティエン霊の通信と矛盾している。死後の世界にはっきりとした場所があることを認めながら、その場所は意念の力で自由に作り変えることが出来るとしている点である。それはすべての霊界通信が一致して述べていることで、外的環境はそこに住む人間の内的本性の反映だということである。

これは地上にもある程度まで当てはめることも出来ることは事実であるが、なにしろ環境を拵える材料が粗悪であるために、造り変えるためにはそれ相当の道具が必要となる。でもスラム街にはやはりスラム的人間が住まうことになる。もっとも、そのスラム街に生を受ける無垢の人間がいるという問題も忘れてはなるまい。

いずれにせよ、そうした心と物との相関関係は地上生活から始まって最高界まで続く。道徳的に荒廃した人間は霊界でそれ相当の荒廃した環境の中に自分を見出す。従って火焰もうもうたる地獄の存在を信じる者は、あながち間違っているとも言えない。

があまりそれに固執していると、右の通信のように、怒り狂う神による拷問ではなく天使の温い救済活動があることが信じられないかも知れないのである。

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第3章 霊魂の成長と進化

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スピリチュアリズムによれば、死後の世界は幾段階かの“界”に分けられ、それぞれの界にさらに幾つかの“境涯”があるという。境涯は地上の地域または国に相当し、そこでは性格の似通った者同士が地上と同じような共同生活ないし社会生活を営んでいるという。

親和力の作用によって自然にそうなっていくのであるが、その親和力の作用が地上とは比較にならぬほど強烈であるために、たとえ他の境涯を訪れることは出来ても、いつまでもそこに留まっているわけにはいかない。自分の境涯に引き戻そうとする“引力”と、他の境涯に寄せつけまいとする“斥力”とが働くからである。

ひとつの境涯と他の境涯とは性格的に異っているばかりでなく、高級低級といった程度の差もある。それゆえ霊格が向上してくると次第にそれまでの境涯にいたたまれなくなり、その向上した霊格に似合った他の境涯へ引っぱられていく。かくして宇宙は引力と斥力の作用によって常に調和作用を営んでいるのである。

しかし霊格がある程度以上に向上してくると、より一層の向上進化のために、自分の属する境涯より上の界を訪れたり、自分より下の界、時には地上の人間の守護、指導、救済のために降りたりすることも出来るようになる。

それは前章で紹介した天使の活躍ぶりを見れば明らかである。それは下界の霊魂のためばかりでなく、自分のための体験であり修行でもあるのである。

さて第2章では死後の環境について観てきた。そして地上と同じ主観と客観の生活であることを知った。そこで本章ではその主観的生活すなわち精神的生活と、客観的生活すなわち身体的生活について観てみたい。最初に紹介するのは前章と同じモールスの『実用神秘学』で、通信霊は同じくティエン霊である。

(1)霊体の栄養

「ところで人間が死後も永遠に生活し続けるとなれば、身体はどうなるのかという疑問が生じる。つまり死後にまとう身体に老化現象は起きないのかという疑問である。

これは死後の生活が地上と同じように心と身体の二元的生活であることが判った以上、当然その身体にはエネルギーの消費と磨耗と破壊とがあるはずだという考えから出てくるであろう。

それからもうひとつこれと関連して、その身体の構成要素の補給と、それを消化吸収するための器官があるはずだという考えが出てくる。この場合、問題を身体のみに限ってはならない。なぜなら、原理的には身体、精神、霊のいずれについても同じ疑問が生じてしかるべきだからである。

つまり成長とは内部からの発達であり、そのためには外部から何らかの要素を摂り入れなければならないからである。ひとつについて言えることは他のふたつについても言えるはずである。そこで私はこの問題を個人的存在としての発達成長という観点から観ていくことにする。

「霊魂の個人的生活には身体的と精神的と霊的の3つの面がある。死後の霊魂があなたたち地上の人間と同じように立派に形体を具えた知的存在であり、個的生活者であり、男であり女である以上、また何らかの表現形体を具えて主観と客観の生活を営んでいる以上、そして又、未だ表現機能なしに自己を表現できる段階にまで到達していない以上、当然その3つの面が生じてくる。

ここで注意しておきたいことは、身体的表現つまり表情や身振りは無論のこと、精神的な表現をする場合にも霊的な表現をする場合にも、かならず何らかの媒体つまり表現機能を使用しているということである。究極的にはどうなるにせよ、当面はその表現器官の存在を考えざるを得ないのである。

知性も地上と同じように何らかの表現器官が必要である – それがあなたという知的存在としての自己を表現する媒体なのである。そこで、これからその表現器官の存在と、その使用に伴う消費エネルギーの補給、さらには器官そのものの磨耗の問題について考察してみよう。

「霊体が肉体より次元の高い界の存在である以上、その機能作用は別の高い次元の法則によって支配されているはずである。それは肉体が地上的法則によって支配されているのと同じである。そして地上的生活を送るにはそれなりの絶対不可欠の作用があるのであり、霊体には地上とはまったく異質の作用があるのである。

「さて、そのように霊魂の身体にも生理的機能 – と表現した方が分りやすかろう – というものがある以上は、その機能の働きには人間の肉体と同じくカロリーの消費が伴い、同時にその消費しただけのカロリーを補給して健康と活動とを維持する必要が生じる。

かくして霊体の生命は地上と同じー – 精製、吸収の過程を通じて維持されている。一言にして言えば、肉体に宿っての物的生活は、霊的生活の次元の低い、お粗末な見本のようなものである。

「カロリーの補給過程の違いを知るためには、次のような実験をしてみるとよくわかっていただけると思う。それは、酷暑の日にノドの渇きを出来るだけ我慢しておいて、いよいよ堪らなくなった時に手先を水の中に浸す。

すると、しばらくするうちに手の皮膚を通って冷気と水分とが全身に行き亘り、いつの間にかノドの渇きも暑さも忘れてしまう。単純な過程ではあるが、実はこれが霊魂の身体の栄養補給法の見本なのである。要するに霊魂は浸透作用によって身体を維持しているのである。

同じことが磁気的にも心理的にも作用している。あなたがたも他人の心理的影響つまり愛情や憎しみ、その他の健康的要素も病的要素も互いに吸収し合っている。この吸収作用が、より高い次元において行われているのだと考えれば、私の説もあなが突っ拍子もないこととは言えないであろう。

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(2)精神の栄養

「以上は霊魂の身体生活を観たのであるが、次に霊魂の精神生活を観てみよう。精神には感識と観察と反省の3つの作用がある。この3段階の作用はいわば精神の消化作用であって、その消化作用を経て吸収されたものが精神的機能を構成していくのである。

この原理を霊的生活に当てはめてみると結局、愛と道義と叡智の3つが霊的な消化吸収作用を営んでいるといえよう。

「ここで大切なことは、以上の3面の生活、すなわち身体的生活と精神的生活と霊的生活とを切り離して考えてはならないことである。たとえば地上の人間も精神生活と霊的生活とを等しく営んでいるのである。

しかも地上生活において営んだ精神的生活が死後第一段目の世界で使う精神体を築き、同じくその第一段目の世界で獲得した生活体験が次の第二段目の世界で使う身体を築くといった具合に、われわれの個人的存在は常に向上進化の目的に備えた生活を営んでいるのである。そして次の世界へ行く時に、これまでに獲得した体験や知識の一切を携えて行く。

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(3)霊体の死

「では、霊界においてひとつの世界から次の世界へ行く時に何か変化が起きるのだろうか – やはり病気などで死んでいくのだろうか – そういう疑問を発する人がいるかも知れない。それはまったく違う。

霊界には病気はない。原理的には地上における死も霊界における死もまったく同じ、つまり古い身体を棄て去るだけのことであるが、霊界の死は、次の世界へ行くだけの霊格を身につけた者に自然に訪れる“脱皮現象”なのである。

「霊魂は常に進化を求める。言い変えれば、より高い霊格を求めてやまない。そしてある時期が来ると、その向上した霊格が今までの界に合わなくなってくる。合わなくなると共に、その霊格に合った次の世界がありありと見えるようになる。

その時期が来るまでにはたして何十年、何百年、あるいは何千年の歳月が流れるか、それは知らない。が、いつかは来る。必ず来る。するとそれまでに獲得したあらゆる体験と知識とが凝結しはじめ、それとともに一種名状しがたい心地よい睡気を催してくる。

「その時が脱皮現象の始まりである。やがて自我が無念無想の完全な睡眠状態に陥ると、あたかも蟬が殻から脱け出る如く、新らしい身体をまとった精気はつらつたる霊魂が脱け出ていく。やがて目を覚まして辺りを見まわすと、すでにそこは違った世界 – 今まで生活していた世界より一段と高い世界である。

実に夢見るが如き心地である。痛みもなければ悲しみも湧かない。身体の形はほとんど変わっていない。それでいて前の界では相応(ふさわ)しいと思っていたが今では相応しくなくなった或る霊的要素が抜け落ちている。

「が霊覚は一層するどさを増している。その鋭い霊覚で、魂に刻み込まれた過去の生活を点検し始める。必要を感じた時にいつでも出来る。あたかも映画でも見るように眼前に展開し、そのひとつひとつについて正直な判断をせまられる。

かくして過去の総反省を終えると、それによって得た教訓を携えて新たな生活へと入っていく。その時、それまで生活を共にした仲間に強い未練を感じるかも知れない。が、だからといって連れて行くわけにはいかない。どうしてもいっしょの生活がしたければ、その仲間がそこまで向上してくるのを待ってやるほかはない。」

霊界では霊格が上下の界を隔て、各界では親和力の作用で同じ霊性をもつ者が共同生活を営んでいる。類が類をもって集まっているわけである。しかし霊格がある程度まで発達してくると、その親和力に逆らって行動できるようになり、異質の霊性をもつ者同士が中間地帯のようなところに集まって情報の交換をしたり、本来属していない環境での体験を求めて修行の旅に出ることもある。

そうした巾広い生活を重ねていくうちに、その界での体験をしつくし、少しずつその界にいることが不自然に感じられるようになる。それは霊格が向上して次の界へ上がる用意が出来てきたことの表れである。

以上がティエン霊の要旨であるが、いささか抽象的すぎて、これだけでは具体的な印象がつかめないであろう。そこで私は再びデービスの書から具体的な描写を紹介してみようと思う。

書物は『天界の住処(すみか)』。いわゆる“常夏の国(サマーランド)”を訪れたデービスは眼前に7つの美しい湖を見ながらこう語る。

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(4)常夏の国

「実際これほど素晴らしい場所があろうとは夢にも思わなかった。その中の3つからは何とも言えない芳しい香気が発し、他の4つがその香気と天界の光とをふんだんに吸い込んでいるように見える。これぞパラダイスだ。

心清き者、気高き者のみが見ることの出来る本当のパラダイスだ。自然、天真、極美、完璧 – 私の心に浮かぶ言葉はただこれだけだ。住めるものなら何年でもここにいたい。何千年でも何万年でも感嘆に耽っていたい。その神々しさ、その美しさが永遠に讃美しつくせそうにない。

この至福、至善の境地にいると、すべての人間に愛を覚える。真澄みの空、静かなる黄金色のせせらぎ、美しき小鳥の声、神々しき天使の言葉。住めるものなら永遠にここに住んでいたい。

「そこから遠く東の方へ眼をやると、はるか彼方に帯状の丘が見える。あそこが火星や金星からの帰幽霊の住んでいる所だ。近づいてみると、そこに見える人間がみな夢見るが如き表情でぼんやりと周辺の心地よい雰囲気に浸っている。

周辺は実にきれいだ。ところが彼らはその美しさには一向に無頓着らしい。一体どうしたというのだろう。私にはすぐにその理由が判った。彼らは物的生活にかぶれた者たちなのだ。人生の意義を知らない垢抜けしない霊魂ばかりがここに集まっているのだ。

そう見ているうちに、そこへ地球から大勢の帰幽霊が運ばれてきた。南洋とアフリカの人々が多い。運ぶのは宇宙の親和力だ。その親和力に乗って、まるで生命のない風船のようにフワリフワリと漂いながら運ばれて来る。

「しかし父なる神は彼らの如き自覚のない者でも決してお見棄てにならぬ。よく見ると至る所の物陰に美しき天使が隠れていて、彼らの目覚めるのを待ち構えているではないか。その天使の中には現界で肉親だった者もいれば親友だった者もいる。みな温かき愛と清純なる善性に目覚めた霊なのだ。

ぼんやりとして怠惰を貪っている者たちに比べたら、まるで大人と子供の違いだ。天使たちは犠牲的な愛の温かみでもって彼らの凍てついた心を溶かしてあげてるようだ。その光景はほのぼのとした善の喜悦と愛の温かさでいっぱいだ。

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(5)天界の療養所

「しばらくするうちに、また地上からの帰幽霊の一団が運ばれてきた。が今度のは不具の子供ばかりだ。精神薄弱児、白痴、聾唖者、盲目 – 可哀そうにこれらの子供たちは物事を合理的に思考することを知らない。

健全な五体をもったためしがない。愛のよろこびを覚えたことがない。慰めの言葉さえ聞いたことがない。光と自然の美しさを見たことがない。心に思うことを言葉で表現したことがない。要するに半分しか生を体験していないのだ。

見よ、そうした薄幸の子供たちが次々とこの常夏の国へ運ばれてくる。ここはまさに天界の療養所なのだ。美わしき慈悲心、惜しみなき博愛、同情、心を癒やす優しさ – こうした美徳がこの常夏の国に一点の曇りもなく光り輝いているのだ。

「この国はあらゆる天体からの光 – 星の光からも太陽の光からも独立した自己発光の地域だ。どの湖も、どの小川も銀色の光輝を発し、どの山を見ても、どの景色を見ても、常に心地よい新緑に映えて衰えることがない。それ自らが光輝を発しているのだ。

天上を見上げると無数の太陽と惑星とが幾つもの集団を成して光り輝き、その星団がまた幾つか集まって更に大きな星団を構成している。その広大さ、その無辺さは人智の想像の域を超え、それを表現する言葉に窮するのである。」

読者の中にはこれを読んでいささか物的すぎる、あるいは地上的すぎるという印象を抱く方がおられるであろう。が、さきに述べたように、地上も死後の世界も“物”と“心”の二元的生活である点には変わりないのである。問題はその“物”に対する“心”の態度である。右のデービスの言葉にも“物的生活にかぶれた者”という言葉が見える。

大体“物”というのは使い方ひとつで害ともなれば益ともなる。たとえば原子力などは利用の仕方ひとつで地球全体を破滅に導くことも出来るし、無尽蔵のエネルギー源ともなる。

霊的能力も同じことである。人生の意義とか生命の本質などの解明にこれを利用しているのがわれわれスピリチュアリストであるが、魔法だとか魔術だとか占術といった、単なる興行や金儲けのために利用している者もいる。

要は理解力の差である。デービスの言う物的生活にかぶれた者というのは、要するに物的生活の意義を理解しないで五感の満足のみに耽った人という意味である。

物的生活そのものが悪いのではない。霊界の生活は立派に物的生活である。宇宙間に物的生活をしていない者はひとりもいない。あらゆる生命が物的生活を営んでいる。その物的生活のありようが問題なのである。単なる物的感覚に終始するか、それを超えて魂の修養を心がけるか、ということである。

再びデービスの観察に戻ろう。

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(6)智恵の都

「さて南を見ると、そこには又、豪華な都が見える。到るところに芸術の極地を思わせる美事な庭園、こんもりとした森、緑に映える野原、あるいは夢さそう幽玄な渓谷、静かなるせせらぎがある。まさに大自然の芸術だ。ここはロゴス(注10)の国 – いわゆる智恵の都である。

天上的愛と理智の中継所ともいうべき大帝国である。あらゆる天体の高級な霊界から放射される愛と叡智とが、この国を組識している幾つかのグループを通じて、劣れる者、求むる者に分け与えられるのだ。真の愛と真理とを求むる者は、ここへ来て初めて心の満たされるのを覚える。

宇宙に無数の太陽があるごとく、霊界にはこれに似た都が無数にある。そして太陽が惑星に光と熱を与えるように、そのひとつひとつの都は、自己に属する常夏の国のあらゆる生活者に光明と愛と叡智を授けているのである。この素晴らしき智恵の大帝国。ああ、私はただ拝見させていただくだけで、神の栄光に浸る思いがするのだ。

「その“グループ”というのが又、もったいないほど立派な方ばかりで組識されている。私が特にお世話になったグループにはフンボルト、ハーシェル、コロンブス、ガリレオ、ニュートン、フランクリンといったお歴々が1度も名前を聞いたことのない数十人の中に混っていた。

彼らは無限とか永遠といった観念的な問題は決していじくらない。信仰とか懐疑といった観念も意識しない。今さらそんな“理論の遊戯”や“感覚の夢”などに耽っていられないのだ。

彼らが意識しているのは真理と勤勉と探求と発見、それに成就 – ただそれだけだ。その生活ぶりときたら、まるで子供がピクニックに行った時のようだ。快活で、純情で、一心で、それでいてその表情や一挙手一投足に、なんとも言えない深みと理智のひらめきが見えるのだ。

が彼らは鏡を見たことがない。表面的な自意識にとらわれないのだ。彼らにとっては真理の発見だけが目的であり生活のすべてなのである。過去の成果など問題にせず、いつも真理の地図を広げては次の調査旅行の準備を整える。

「この智恵の都すなわち常夏の国の首都には、そうしたグループの発する叡智の光が都市全体を被い、ついには天空をも絢爛(けんらん)たる紅色に染めながら、限りなく広がっていく。これだ、これを詩人ワーズワースが

“賤(いや)しき者、穢(けがらわ)しき者、荒々しき者あり。
また鈍き者、有害なる者あり。されど
善より見離されし者ひとりとしてなし。
これぞ自然の摂理なり。”

とうたったのだ。

「天使たちが弱き者、穢(けがらわ)れし者を救いに行くのは、みなこの原理に基くのだ。智恵の都で英気を養うと彼らは力強く地上へと向う。

地上に着くと、ある者は社会悪に染まりがちな弱き心に勇気と希望とを吹き込み、ある者はその社会悪の根に巣くう偽善と陰謀とを根治すべく、ある時はその非道徳者に絶望感を吹き込み、あるいは罪悪感を吹き込んだりする。時には世話好きの善人が彼ら天使の守護のもとに社会悪の真っ只中での生活を余儀なくさせられることもある。

「悪の誘惑は人間界ではふたつの形をとる。ひとつは自己に宿す悪念悪感情であり、もうひとつは今のべた社会悪である。中にはそういった誘惑をまったく知らずに生涯を送る人間もいないではない。そういった種類の人間はたとえてみれば大自然の山奥を流れる清きせせらぎのようなものであろう。

が大方の人間にとっての最大の誘惑は自己の悪感情であり、これがつまりは社会悪という地上地獄を作っていくのである。その地獄に落ちた人間を救わんとするのが天使たちの仕事であり、そのために至純なる人間が石を投げつけられ、十字架に架けられることにもなる。社会悪の根絶される日は果していつのことか。

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(7)天界の政庁

「智恵の都 – それは実に奉仕の都であり、同胞愛に包まれた完全なる共同社会である。その都市全体の広さはフランスとイタリアを併せたほどもあるであろうか。が、その大きな都市はいわば完成された小宇宙であり、本当の意味でのパラダイスなのである。

その完全無欠の社会組織、そしてその千種万様のリズミカルな生活模様は、とても限りある言語、限られた時間、限られたページでは説明し尽くせそうにない。

「この都市を東西に横切ってネザールという名の大きな河が流れている。そのネザール河を境として北側には地上の歴史に名をはせた哲人傑士あるいは女傑と言われた人々が住んでおり、反対の南側には主として火星と木星と土星から帰幽霊が、なごやかな家族的雰囲気の中で協調的生活を営んでいる。

ネザールのほかにもうひとつラストラードと呼ばれる美しい河があり、これには4本の支流がある。ひとつはゲドールと呼ばれ、“山の市”という意味。もうひとつはパレストと呼ばれ“東の国”という意味。さらにもうひとつはエサスと呼ばれ“女神”を意味する。そして最後のアルナモンは“拘束なき交友”という意味をもつ。

その淀みなき流れの美しさを目の前にしていると、この都こそまさに“不滅なる霊の聖地”という感じがしてくる。「実はわれわれ地上の人類は、その発生当初からずっとこの都市の支配と恩恵にあずかってきている。智恵の都こそ実に人類の“霊的政庁”であり、各グループからの派遣者がその政庁のメンバーを構成している。

「さて、さらに遠く東の方へ目をやると、そこには山で囲まれた“落人(おちうど)の里”がある。疑うことしか知らぬ人間の集まる渓谷だ。音もなく声もしない絶望の谷間だ。自殺者と発狂者が次から次から送られてくる。

そこへ天使が訪れては救いの手を差しのべんとする。が彼らはその天使の姿を見ようともしなければ救う声に耳を傾けようともしない。見えないのだ。聞こえないのだ。精神的暗黒によって包まれているからだ。哀れなるかな自覚なき者よ。何故に肌寒きこの暗黒界で惰眠を貪るのか。

汝等はここへ来た時からすでに眠っていた。眠っている間に連れてこられたのだ。ここが似合いの場所なら致し方あるまい。四方を囲む山々を見るがよい。美しいではないか。美しいメロディーも聞こえてくるではないか。汝等はそれすら聞こえぬのか。ならば天使の授けんとする善の喜悦、愛の美しさが判らぬのも無理はない。

「汝らの如きわがままな者に奉仕のよろこびはわかるまい。いま味わっているその苦しみは、過去のわがままに対する償いであることを知るがよい。その過去はもはやどうすることも出来ぬ。

汝らはその苦しみの中に生き続けながら、自分と同じ苦しみの中に生きている者の存在に気がつかずにいる。わがままを克服し何ものかを他人に分け与えていたら、今のその苦しみの代りに幸福のよろこびを味わうことが出来たはずなのだ。友を助けていたら、その友によって救われることもあったはずなのだ。

しかし、もう遅い。自己に与えた理不尽な暴力が汝らをこの谷へ引きずり込んでしまったのだ。美徳と奉仕と幸せと美と、それに至純と慈悲の天使がそこにいながら、そのすべてに背を向ける。

なぜか。私が答えよう。理不尽な暴力をふるう者、耐えることを知らぬ者、道義を弁えぬ者 – 彼らは“神”を見ることを許されず、聞くことも許されず、ただ恥を知らされるのみなのだ。心清き者のみが神を拝し、神の御声を聞くことを許されるのだ。穢れし者は、たとえ神の御前にいようとも、ただ暗黒しか見えぬのだ。

「そして汝ら精神の狂える者たちよ。何故にこの谷へ来るのか。天使たちによって連れてこられたことを汝らは知るまい。しかし、よく聞くがよい。ここへ連れて来たのは、いたずらに汝らを苦しめんがためではない。今の苦しみを味わってこそ神への道が開けるからなのだ。

言うなればその苦しみは天上界の味の試食なのだ。“混乱”を通じて“調和”の妙味を味わうのだ。汝らが地上から携えてきた不浄なる思想、不道徳な過去 – それを全部そこで払い落すがよい。

ひとつ払い落すごとにきっと辺りの山々の柔らかき光が一筋ずつ見えてくるに違いない。次には頭上の星のきらめきが見えてくるであろう。かくして汝らは神への道を歩み始めるのだ。時間などどうでもよい。大切なのは魂の目覚めなのだ。

「自殺者よ、そして発狂者よ。汝らは何故に天使の温かき御手を嫌って地上の不浄なる場所へ急ぐのか。何故に神のエリュシオン(注11)へ行こうとしないのか。汝らにはそれすら判るまい。私が代ってお答えしよう。

それは汝らが地上で為すべき仕事が未だ残っているからなのだ。汝らの地上での体験が自我の芽を出すまでに至っていないということなのだ。経験が不十分なのだ。修養が足りないのだ。地上で生きるべき寿命を生き抜いていない者に死後の幸福は与えられないのだ。

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(8)物心一如

以上のようなデービスの観察記録を読んでこれを想像の産物と思われる方が無きにしもあらずであろう。確かに終りの方になると、見たものを記録したというよりは、むしろ見て感じたものを述べたといった方が当っているほど主観的になっている。

しかし何度も繰り返すように、地上と霊界とでは非常に勝手の違うことがあり、中にはまったく言語で表現できないこともあるとのことである。少し納得のいかないところがあるとすぐに“妄想”と決めつけるのは、理解力のない人間がよく使う言い逃れのための常套手段である。

右の引用文の中で注目すべきところが1、2点ある。心の状態が環境の映り方まで左右すると述べている点はティエン霊と一致する。自殺者や精神異常者には辺りの美しさが見えないらしいのである。またスエーデンボルグの説と一致するところもある。

ただスエーデンボルグの場合は、心の状態の大切さを説きつつも尚かつその具象としての“悪”の存在を説いていることである。従って“地獄”という名の“場所”が存在し、いかに心清き者が見てもそこに何ひとつ美しきものは見られないというのである。

地上の人間にとって心の状態が環境の映り方まで左右するという説が容易に得心がいかないことはすでに述べた。オーエン氏の抜粋の中に、未発達霊がその置かれた環境のみじめさに目覚めるまでそこにいるという話もあった。

そしていま紹介したデービスの本の他の部分にも、使命を帯びて暗黒界へ降りた高級霊がその環境の影響を受けて、戻ってから元の状態にもどるまで相当時間を要することが述べられている。

こうした観察の矛盾をどう判断するかは難しい問題である。霊媒がそれを記録した時の霊媒自身の個人的考えについては、われわれ読者は何も知らない。が個々の潜在意識が影響を及ぼすことは間違いないから、ある程度の脚色あるいは着色は免れないであろう。

先入観による偏見の影響は絶対ないというのであれば別だが、たとえその場合でも、“その人”の潜在意識を使い、“その人”の脳を通って、“その人”の、あるいは“その国”の言語によって表現せざるを得ない以上、同じ事実を述べる場合でも、ある程度のバリエーションは防ぎ得ないであろう。

ここで序論で紹介したイムペレータの言葉を思い出していただきたい。“インスピレーションはその通路(霊媒)によって影響を受ける”と言っているが、これは霊界通信を読む際にぜひ心得ていなければならないことであろう。

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第4章 地上生活の目的と意義

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前章で観た霊界の様子はいかにも天上的というべき雰囲気が強く、今ひとつ身近なものを感じさせない憾みがある。そこで本章ではもっと身近な問題にふれた内容の通信を通じて地上生活と死後の生活との係わり合いをみてみようと思う。

(1)友人からの通信

まず手始めにトーマス(注12)の『死の彼方の夜明けに』から、他界直後の様子を窺ってみよう。霊媒はオズボーン・レナード女史。通信者はトーマス氏の友人である。

「こちらへ来ると同時に私は目に見えて元気になるのが判りました。が、もっと驚いたのは、見覚えのある人たちが次々とやって来て再会の挨拶をしてくれたことでした。これには私も驚きました。中には私が地上で面倒をみてあげた人も幾人かおり、みな心から再会をよろこんでくれました。

その派手なにぎやかさときたら、まるでロンドンの市長がお役人衆を引き連れて市中を挨拶まわりする時のようでした。イヤ、あれ以上かも知れません。何しろ何百人もの人が代わるがわる私の手を握っては“しばらくでしたね”“ようこそ”と挨拶してくれたのですから。

「握手しただけで別れてしまうのが残念な人が大勢いました。間もなく私も自由に行動できるようになりましたが、歩いてみて始めて地上と違うところを発見しました。建物の様子や家財道具などは地上と少しも変わりませんが、目的地へ行くのにいちいち足を使わなくても、ただ目をつむって精神を統一すれば、いつの間にかそこに来ているのです。

始め私が歩こうとしたら指導霊からこう言われました。“いま誰かのところへ行く用事ができたとする。が、歩いてはだめだ。足を使わずに行く。それにはまず頭を鎮め、その頭の中でその人のことだけを考える。次にその人のところへ“行こう”という意思を働かせる。それだけでよい。気がついたらちゃんとその人のところへ来ている。”この説明に間違いないことは間もなく判りました。

何か知りたいことや見たいものがあるときは、歩いて行くのもいいですが、それではまどろこしくていけません。そんな時は地上でよく練習したのと同じ要領で精神を統一します。するとアッという間に目的地に着いております。同伴者がいれば同じことを一緒にやります。

「帰る時も同じようにやります。家のことを念じると、もう帰っているのです。面白いので何回も行ったり戻ったりして遊びました。みんなも面白がっていました。始めのうちはみんながじろじろと、まるで顕微鏡でのぞくような調子で新米がやるのを細かく見つめています。あなたのお父さんもそのひとりでした。

うまく行かない時に質問が出来るのでその方が有難いといえば有難いです。ようやくひとり前になった時は、まるで子供がはじめて凧(たこ)を上げた時と同じで、破らぬように失くさぬようにと、それは大事に大事にしたのと同じ心境でした。

「今の生活を反省してみると地上生活が意外にためになっていることが判ります。が私にはひとつだけ後悔していることがあります。それは、私が非常に神経質で、物事に動じ易かったことです。

たとえば道で気に食わぬ人に出会ったりすると、あっさりと見過せばいいものを、イヤだという気持を強く感じたものです。こちらでは心に思ったことがそのまま表に出るので、イヤな人に出会った時にいくら見過そうと思っても、心にイヤだという念を抱いているかぎり、それが出てしまうのです。

それについても指導霊からこう注意されました。“あなたは気にしなくてもいいことまで気にして、いつまでもクヨクヨ考え込むところがある。たとえば何の関係もない人なのに、あなたの方で勝手にその人を敵視して、あいつは自分のことをどう思っているんだろうか。こう思ってはいまいか、ああ思ってはいまいかと盛んに猜疑心を起こして、変に悩んでいることがある。実際にあなたの方から悪いことをしているのならともかく、自分に何のやましいところもないと確信したら、その人のことはそれきり忘れるようにしなさい”と。

「これを聞いてから私も、必要なことと必要でないこととを区別して、不要なことはすぐに忘れるように努力しているのですが、地上でそういう努力をしたことがないので、少しやっただけで大変な疲労を覚えます。大体、地上で経験したことはラクに出来ますが、経験のないことをこっちへ来て改めてやろうとすると、地上でやる以上の苦心と努力がいります。

その疲れようといったら、それはそれは大変です。全身がくたくたになってしまいます。その後私は実際に地上で私に迷惑をかけた人とも会いましたが、その時はほとんど敵という感じがしませんでした。今ではその方といっしょに仕事をすることさえあります。雑談に耽ることもあります。あなたも早くいらっしゃい。雑談のヒマもあるんですよ。

「現在の私はふたつの仕事を受け持っております。ひとつはひとりないしふたりの地上の人間の背後霊としての仕事、もうひとつは私のように急死によってこちらへ来た霊の世話です。あまりの急激な変化のために戸惑う人が多いのです。

私自身こちらで目覚めた時にこう言われました。“気をラクに持ちなさい。1度にいろいろなことを考えるとますます混乱します。ひとつひとつゆっくりと理解していきなさい”と。それからというものは実にスムーズに環境に慣れていき、すっかり慣れ切ってから“一体ここはどこなのか”といったことを考えはじめました。

「今では私が会いたいと思った人、あるいは私に用のある人といつでも気軽に近づくことが出来るようになりました。つまり自分で必要と思ったこと、あるいは正しいと信じたことなら何でも出来るようになりました。ただ、その”必要なこと“”と“”正しいこと”を判断することはなかなか難かしいことです。

「自分で善人だと思っている人の中には、実際は間違った道を歩んでいる人が少なくありません。いろいろと他人の世話を焼きたがる人がいますが、大切なのは世話をすることよりも、その動機または自分の立場です。

ご利益を目的として他人の世話をするのなら、むしろ他人のことは放っておいて、精々、つまらぬ欲心を抱かぬように心がける方がこちらでは為になります。今お父さんが大きくうなづきながらこう言っておられます。“そう、まったくその通りだ。正直はやっぱり最上の策だ。とくに自分の思想、動機、モットーなどには最後まで忠実でなきゃいかん。これは大切なことだ”と。

トーマス氏はこう付け加えている。「私にはこの友人の言っていることがいちいちよく解る。彼は確かに神経質で、忘れてしまうということの出来ない男であった。」

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(2)父親からの通信

では次にトーマス氏が霊界の父親と交わした問答を『実証による死の彼方の生活』から抜粋してみよう。霊媒は同じくオズボーン・レナード夫人である。

問「今までのお話だと結局父さんのいる界は、距離は別として、要するにイギリスの真上にあるということになりますが、では地球の自転との関係はどうなりますか。やはり一緒に回転するわけですか。」

父「その通りだ。静止していると言う人もいるが、そうではない。やはり地球と一緒に回転している。ただその動きがまったく感じられないのだ。高い界ほど速く回転している。中心からの距離が遠いほど速く回るわけだから。もっとも、その差は少しずつだから、地球へ来て戻るくらいでは何の変化も感じられないが。」

問「では地球からの距離はどうですか。」

父「その距離というのが実は当てにならんのだ。というのは、霊界のいちばん下層部は地球のずっと上の方にあるわけだが、上層部へ行くに従って“物”の形体に一定性というものが無くなってくる。意念による反応が敏感で、上の界へ行くほど速くなる。

いま“物”と言ったが、それは他に適当な用語が無いからで、地上と同じ物体を想像されては困る。地上では固いものは誰がいじっても固いが、こちらでは意念の強弱によって固さが違ってくる。つまり意念によって柔らかくすることも出来るということだ。

だから、こちらでは霊力と意念の強さというものが大切となってくる。こちらへ来たばかりの人間は霊力もないし意念も弱いので、ひとりでは何も出来ない。地上の赤ん坊がひとりで何も出来ないのといっしょだ。」

問「では、父さんの足の下はどうなってますか。」

父「やはり厚い層になっている。父さんの判断では地球よりはかなり浅いのではないかと思う。ただし、その成分はまったく違う。これはまったくはっきり断言できる。」

問「霊界の層は希薄ということのようですが、そうなると私たちが夜空の星を眺めている時は、その層を突き通して見ているわけですか。」

父「そういうわけだ。しかし、だからといってその層をモヤのように実質のないものと思ってはいかん。この界にいる者には確かに固く感じられるし、又、ふだんはその表面しか見えない。但し成分は地球とだいぶ違っている。

その層の厚みは、そうだな、何マイルもあるというくらいに表現しておこうか。もちろんその層を掘っていけば下の界の大気圏に出る。もっとも掘ってみるバカはいないがね。上の界ほど層が希薄に出来ているので、それだけ透視しやすい。

それから、上の界と下の界との間には地上のトンネルに似た道路が設けてある。設けた、というよりは、出来た、といった方が当っているだろう。というのは、みんな誰かが通った道を通るので、そこがいつの間にか一般の通路となってしまうわけだ。

お前だって学生時代、正門から入らずに塀に出来ている穴をくぐって通ったことがあるはずだ。ただ地上と違う点は、地上の人間が手や足を使って拵えるところを、こちらの人間は霊力と念力とでやってしまうことだ。」

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(3)動物の死後

問「動物も霊界へ行くのですか。」

父「むろんそうなんだが、ただ、個的存在は失ってしまう。つまり地上における動物生活で獲得した無意識の生理的生命力の類魂の中に融合してしまう。エーテル的エネルギーの集合体といってもいい。その類魂は動物の種類によってさらに幾つかに分かれており、こんど地上に生まれる時は牛なら牛の類魂の一部が物質と結合するわけだが、それには別に個性というものはない。」

問「ペット類はそのまま生き続けますか。」

父「その通りだが、いつまでもというわけにはいかない。飼主との愛の関係が切れないかぎりそのままの姿で霊界に生き続けるが、切れてしまうと今いった類魂の中に融合してしまう。

だからヘビとかライオンとかは見かけない。ペットにしていたトラなどを見かけることもあるが、ごく珍しいことだ。その場合もトラ自身の意思で生きているわけではない。人間の住む界に来るような動物は人間に可愛がられたものに限ると思えばよい。」

問「ペット類というのは馬、犬、猫、象、猿などのことですか。」

父「象はペットのうちには入るまい。あれは野生動物だろう。こちらで見かける動物といえば馬、犬、猫くらいで、猿はあまり見かけない。鳥はどこでも見かける。父さんはずっと上の界の小鳥を見てきたが、まるで金銀で出来ているみたいにピカピカ光っていたよ。その色合いの美しさはお前たちにはちょっと想像できんだろう。」

問「父さんの土地から太陽が見えますか。」

父「円く光っている太陽は見たことないが、光だけは届いているようだ。しかし、その光にばかりお世話になっているわけではない。父さんの考えでは、この界の人間は太陽光線なしで生きていけるのではないかと思う。

というのは、父さんが住んでいる土地自体が光を出しており、それだけで十分なのだ。自分で光を出しているから陰とか夜とかが無いわけだ。もっと上へ行ったら、それはそれは見事な色彩だよ。」

問「月、惑星、星などは如何ですか。」

父「形体そのものは見ていないが、地上へ近づいて何らかの方法で地上的感覚を利用すれば見えるはずだ。その時には透視能力に似たものを使用することになる。しかし今のところ、そうまでして見ようとは思わん。

こちらの人間は自分の進歩と仕事にとって為になること、つまりやり甲斐のあることしかやろうとしないものだ。お月さんなど有っても無くても別に関係ないよ。」

問「でも、月も神が創造なさったものですよ。ならば月を研究することは神を知ることになるんじゃないですか。」

父「神を知る道なら他にいくらでもあるさ。」

問「いろいろ解り易く説明していただいたのですが、これほど説明しても尚かつ死後の世界の実質性を疑う人がいるのですが…」

父「無理もない話だ。父さんもこうして説明しながら、その実質性の本当の実感を伝えるには言葉がいかにも不便で物足りなさを感じているのだ。実は同じ草にしても、樹木にしても、あるいは花にしても、言葉ではちょっと説明しかねるところが沢山ある。そういったところは実際に見た者でないと判らない。

いくら言葉で説明して聞かせても結局はムダだ。それはちょうど、お前が時おり感じる生命の悦び、昂揚、生き甲斐といったものを言葉で言い表わせないのと同じだ。生命とはそういうものだ。

魂の奥にあるものが顔をのぞかせる。目に見えないものが魂をゆさぶる。上へ行けば行くほど言葉に表わせない珍しいもの、あるいは言語に絶する生命の喜悦といったものを体験するようになる。地上より霊界の方がその生命の実相に近いわけだ。すばらしい世界だよ。」

こうした霊界通信を読むと、死というものが至って自然な現象で、霊界での受け入れ態勢もちゃんと出来ていることがわかる。あまり自然でうまく出来ているので、自分が死んだことに気づかず、納得するまでに相当期間を要する人がいるらしい。

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(4)霊界も地球から生まれる

右の問答の中でトーマス氏の父親は霊界の位置をはっきりと地球の上、つまり地球のまわりにあると断言し、それにはちゃんと厚みがあるとも言っている。奇異な感じを受ける方が少なくなかろうと思うが、そういう方には次に紹介するタトルの物質昇華説が参考になるであろう。出典は『スピリチュアリズムの秘義』。デービスの説と非常によく似ている点に注目されたい。

「これを理解せんとすれば是非とも物質界裏で行われている自然界の秘密を探らねばなるまい。これも例によって霊視による観察と霊界人からの啓示のお世話にならねばならない。

「宇宙はその無限の太古から誕生と老化と自然崩壊の過程を何回となく繰り返してきた。ただ機械的に繰り返してきたのではない。崩壊した前宇宙が残した混沌たる元素から新しい宇宙が出来た時、この新宇宙は質においてもエネルギーの量においても、前者より一段と進化したものとなっていった。

はたしてその過程が今日まで何回くり返されたか、それは知らない。が現在この宇宙がその何回もの精製過程によって出来あがった最後の完成体であることは確かである。

「その精製の目的は個霊に物的生活の場を提供することにある。つまり混沌たる無組織の宇宙を組織ある生活の場とすることである。

「個霊がまとうところの有機的身体はことごとく肉体から作られる。同様に、自然界の物的原子が精製されて霊的原子となっていく。

「霊界の生活者および霊視能力を具えた人間には、その精製された原子がちょうど水面から水蒸気が立つように物質から放出されていく様子を見ることが出来る。

「無機質の集合体がそれ自体の原子間の物理的作用と、電気と磁気による破壊作用によって、霊的微粒子を普遍的霊素の海へ放出しているのである。

「植物は地下から摂取した粗製の原子を細胞の中で精製して放出する。

「動物は植物を食し、体内での精製過程をへて、その一部を大気中に放出する。死と同時に動物の霊的要素は、一滴の水が蒸発するようにエーテルの海の中に融け込んで個性を失ってしまう。

「霊界はそれらの精製された放出原子によって構成される。それ故、死後の世界は結局地球が拵えていることになる。それはちょうど人間の霊体が肉体から生成されるのと同じである。

かくして霊界は地球のおかげで存在し、その精製機能のおかげで成長する。物的天体が無ければ、その天体の霊界も出来なかったであろう。霊界の存在には、その前提として、その核となる物質界の存在が必要なのである。」

以上が物質昇華説であるが、続いてタトルは霊界の位置について、大気中に放出されたその微粒子が、地球の自転に伴う遠心力と求心力の作用によって地球のまわりに霊的物質のベルト状の地帯を拵えると指摘し、さらにこう述べる。

「地球から出る霊的微粒子は地球の自転によって生じる螺旋(らせん)状の流れに乗って両極から放出される。この微粒子は、それぞれの程度に応じた引力の作用を受けて、その霊界の各層へ融合していく。

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(5)霊界の見学旅行

タトル氏の説はこれ位にして、次に再びオーエン氏『ヴェールの彼方の生活』から抜粋してみよう。通信者は前と同じくオーエン氏の母親である。

「ある時、私たち女性ばかりのグループは、上の方のお達しで、そこからずっと東にある都市まで使いに行ったことがありました。あなたはまた“東”という言葉を書き渋っているけど、私たちはその方角を東と呼んでいるのです

。というのは、こちらへ来てから始めてキリスト様の御姿と十字架の像を拝見したのがその方向だったからです。その方向にある山の上空は今も明るく輝いております。私にはそれが地上の日の出を象徴しているように思えてなりません。

「さて私たち5人は、その山の向う側にある都市を目指していよいよ出発しました。出発に先立って、よく道筋をお聞きしておきました。上の方のお話では、その都市の中央には黄金色のドームを頂いた大きい建物があり、その都市の中心街はコロネード(列柱)で囲まれているとのことでした。

始めは徒歩で行きましたが、あとは空を飛んで行きました。歩くより飛ぶ方が骨が折れるのですが、飛んだ方が速く行けるし、それに場所を探すには空から見た方が判り易いということになりました。

「やがてその都市の上空に来て目標のドームを見届けてから、正門めがけて着陸しました。本通りはその都市のド真ん中を一直線に横切っており、その反対の端の裏門から出るようになっています。その巾広い本通りを境にして、両側にはとても敷地の広い、宮殿のような建物がズラリと並んでおります。そこはその地域一体を治められる高官の方が住んでおられ、そこが主都になります。

「畑仕事に精を出している光景も見られます。また建物が沢山あります。一見して住居ではなくて別の目的をもっていることがわかります。やがてコロネードで囲まれた中心街に出ました。さすがに建物も庭園もそれはそれは見事なものでした。

どの建物にも必ずその建物にマッチした庭園がついております。それらを物珍しそうに見て歩きながら、ここらで待ち合わせてくださると聞いていた方からの合図を気にしておりました。こうした場合には連絡が先に届いて、待ち受けてくださっているのです。

「歩いているうちに、いつの間にか公園のような所に入りました。とても広い公園で、美しい樹木がほどよく繁り、ところどころに噴水池が設けてあります。それ以外は一面みどりの芝生です。

その噴水が水面に散る時の音はメロディといえるほど快よく、また、それぞれの噴水が異ったメロディを奏でており、それらが調和して公園全体を使い音楽で包んでおります。その噴水にある細工を施せば、えも言われぬ微妙な音楽が聞けるとのことです。

その細工をするのは度々ではないのですが、たまにやると、その都市に住む人はもちろんのこと、ずっと郊外の丘や牧草地帯に住んでいる人までが大勢集まってくるそうです。私たちが行った時は素朴な音楽でしたが、それでもそのハーモニー、その快さは見事でした。

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(6)天使の出迎え

「しばらくその公園の中を散歩しました。とても居心地がよいのです。芝生に腰を下ろして休んでいますと、そこへひとりの男性が優しい笑みを浮かべながら近づいて来ました。

私たちを迎えに来られたのだということはすぐに判ったのですが、そのお姿を拝見して、私たちとは比にならぬほど霊格の高い方であることが知れましたので、しばらくは、すぐ前にいながら言葉が出ませんでした。」

(オーエン氏)「どんな方ですか。出来れば名前も教えてください。」

「そのうちお教えしましょう。焦ることがいちぱんいけません。こちらの世界では焦らぬよう心ることがいちばんいけません。こちらの世界では焦らぬよう
にということがいちばん大切な戒めとされているほどです。焦ると判りかけていたものまで判らなくなります。

「その天使さまはとても背の高い方で、地上で言えば7フィート半は十分あったでしょう。私などは特にノッポの方でしたが、その私よりはるかに高い方でした。その時の服装は膝まで垂れ下がったクリーム色のシャツを無雑作に着ておられるだけで、腕も脚もまる出しで履物も履いておられませんでした。

私は今あなたの心に浮かぶ疑問に答えているのですよ。帽子?いえ、無帽です。髪形ですか?ただ柔らかそうな茶色の巻き毛を真ん中で左右に分けておられるだけで、それが首の辺りまで垂れ下がっておりました。頭には巾の広い鉢巻きのような帯を締めておられましたが、その帯は金で出来ており、真ん中と両側にひとつずつ宝石が付いておりました。

また胴には銀とピンク色の金属で出来た帯を締めておられましたが、何も飾っていないまる出しの手足からも柔らかい光輝が発しておりました。これらは全部その方の霊格の高さを示すものです。

「お顔は威厳に満ちていましたが、その固い表情の中にも言うに言われぬ優しい慈悲がにじみ出ており、それを見て私たちの心に安心感と信頼感が湧いてきました。もちろん尊敬の念も止めどもなく湧いてきました。

「やがて天使さまは私たちの波長に合わせていることがすぐに解るような、ゆるやかな口調でこう言われました。“私の名前はカス…”いけません。私はこちらへ来てからどうも名前を思い出すのが苦手です。そのうち思い出すでしょう。

とにかくご自分のお名前をおっしゃってから、こんなことを言われました。“私のことはすでにお聞きになっておられると思います。やっとお会い出来ましたね。では私の後について来て下さい。さっそくあなた方をお呼びした目的をお話致しましょう。”

私たちは言われるまま天使さまの後からついて行きましたが、その道すがら天使さまはとても気軽に話しかけられるので、いつの間にかすっかり天使さまに慣れてしまいました。

「天使さまと一緒に通った道は公園を出てすぐ左手にある並木道でしたが、いくらも歩かないうちに別の公園に入りました。入ってすぐ気がついたのですが、そこは私有の公園、つまり公園といってもよいほど広い庭園ということです。

真ん中にはそれはそれは見事な御殿が建っていました。一見ギリシャ風の寺院のような恰好をしており、四方に階段が付いております。よほど偉い方が住んでおられるのだろうと想像しながら、天使さまのあとについてその建物のすぐそばまで近づきました。

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(7)カストレル宮殿

「近づいてみてその大きさに改めて驚きました。左右の巾の広さもさることながら、アーチ形の高い門、巨大な柱廊玄関、そして全体を被う大ドーム。私たち5人はただただその豪華さに見とれてしまいました。黄金のドームを頂いた大きな建物と聞いていたのはその建物のことでした。

近づいてみるとドームの色は純粋の黄金色でなく少し青味がかっておりました。私はさっそくどんな方がお住みになっておられるのかお聞きしてみました。すると天使さまはあっさりとこう言われました。

“いや何、これが私の住居ですよ。地方にもふたつほど私宅をもっております。よく地方にいる友を訪ねることがあるものですから…それではどうぞお入り下さい。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました。”

「天使さまの言葉には少しも気取りというものがありません。“気取らない”ということが霊格の偉大さを示すひとつの特徴であることを学びました。地上でしたら、こんな時は前もって使いの者が案内して、恭々(うやうや)しく勿体(もったい)ぶって拝謁するところでしょうが、こちらではその辺がだいぶ違っております。

もっとも、必要な時はちゃんとした儀式もいたします。やるとなれば地上では見られないほど盛大でかつ厳(おごそ)かなものとなりますが、それはよほど意味のある時に限ります。

「さてカストレル様(やっと名前が出ました。詳しいことは明日の晩にでも)みずからのご案内で建物の中に入ってみますと、その優雅さ豪華さはまた格別でした。入口のところは円形になっていて、そこからすぐ、例のドームを見上げるようになっています。

そこはまだ建物の中ではなく、ポーチから少し奥まった形になります。大広間の敷石からは色とりどりの光輝が発し、絹に似た掛け物などは深紅色に輝いておりました。前方と両側にひとつずつ出入口があります。見上げると鳩が飛び回っております。ドームのどこかに出入口があるのでしょう。

そのドームは半透明の石で出来ており、それを通して柔らかい光が射し込みます。それらを珍しげに眺めてから、ふと辺りを見まわすと、いつの間にかカストレル様がいなくなっております。

「やがて右側の出入口の方から楽しそうな談笑の声が聞こえてきました。何事だろうと思ってその方向へ目をやりますと、その出入口から子供を据えた女性ばかりの一団がゾロゾロと入ってきました。総勢20人もおりましたでしょうか。

やがて私たちのところまで来ると、めいめいに手を差し出してにこやかに握手を求め、頰に接吻までして歓迎してくれました。挨拶を済ませると中のひとりだけが残って、あとはそのまま引き返して行きました。大勢でやってきたのは私たちに和やかな雰囲気を与えようという心遣いからではなかったろうかと思います。

「さて、あとに残られた婦人が、こちらへ来ませんかと言って私たちを壁の奥まったところへ案内しました。5人が腰かけると、その婦人はひとりひとりの名前を言い当て、ていねいに挨拶し、やがてこんな話をされました。

「“さぞかし皆さんは一体何のためにここへ遣わされたのかとお思いのことでしょう。また、ここがどんな土地で何という都市なのかといったこともお知りになりたいでしょう。この建物はカストレル宮殿と申します。

そのことは多分カストレル様から直々(じきじき)にお聞きになったことでしょう。カストレル様はこの地方一体の統治者にあらせられ、仕事も研究もみなカストレル様のお指図に従って行われます。話によりますと皆さまはすでに“音楽の街”も“科学の街”もご覧になったそうですが、そこでの日々の成果もちゃんと私どもの手許へ届くようになっているのです。

届いた情報はカストレル様と配下のお方が一々検討され、しかるべく処理されます。この地方全体の調和という点から検討され処理されるわけです。単に調和と申しますよりは協調的進化と言った方がよいかも知れません。”

「“たとえば音楽の街には音楽学校があり、そこでは音楽的創造力の養成につとめているのですが、そういった養成所があらゆる部門に設置されており、その成果がひっきりなしに私たちの手許に届いてまいります。

届きますとすぐさま検討と分析とをへて記録されます。必要のある場合はこの都市の付属実験所で綿密なテストを行います。実験所はたくさんあります。ここへお出でになるまでに幾つかご覧になっているはずです。かなりの範囲にわたって設置されております。

しかし実はその実験所の道具や装置はかならずしも完全なものとは申せませんので、どこかの界で新しい装置が発明されたり改良されたものが出来たりしますと、すぐに使いの者を出してその作り方を学んで来させ、新しいのを製造したり古いものに改良を加えたりします。”

「“そんな次第ですから、その管理に当る方は叡知にたけた方でなければなりませんし、また次から次へと送られてくる仕事を素早くかつ忍耐づよく処理していく能力が無くてはなりません。実はあなた方をここにお呼びしたのは、その仕事ぶりをお見せするためなのです。どうか存分にご見学なさってください。

もちろん全部を理解していただくのは無理でしょうし、とくに科学的な面はなかなか難かしい所が多かろうと思いますが、たとえ判らなくても、あなた方の将来のお仕事に役立つことが多かろうと思います。さ、それでは話はこれ位にして、これからこの建物をひと通りご案内して差しあげましょう。”

「婦人の話が終ると私たちにていねいに礼を言ってからさっそく建物の中の案内をお願いしました。すべてが壮厳としか言いようがありません。どこを見てもたった1色のものがなく、かならず何色かが混っています。

ただ何色混っても実に美しく調和しているので、ギラギラ輝くものでも、どこかしら慰められるような柔らかさを感じます。宝石、貴金属、装飾品、花瓶、台石、石柱、なんでもがそうでした。石柱には飾りとして1本だけ立っているものと東になったものとがありました。

それから通路には宝石類で飾られた美事な掛け物が掛けてありましたが、それが通りがけに肩などに触れると、何とも言えない美しいメロディを奏でるのです。庭に出ると噴水池がありました。魚も泳いでおりました。中庭には芝生と樹木と灌木とが地上と同じような具合に繁っておりましたが、その色は地上のどこにも見られないものでした。

「私たちはそれから屋上へ案内されました。驚いたことに、そこにもちゃんとした庭があり芝生も果樹園も灌木も揃っておりました。噴水池もありました。この屋上は遠方の地域と連絡するところです。

時には見張り所のような役目も果たします。もちろん通信方法は言語ではありません。強いて言えば無線電信に似たようなものですが、通信されたものが映像となって現われますから、実際には地上の無線とも異りましょう。

「私たち女性グループはだいぶ永い間そのカストレル宮殿にごやっかいになりながら近くの都市や郊外まで出て色々なものを見学してまわりました。その地域全体の直径は地上の尺度で何千マイルもありましょう。

それほど広い地域でありながら、全体と中心との関係が驚くほど緊密でした。その中心に当るのが今お話した大ドームの建物すなわちカストレル宮殿というわけです。さ、そろそろ時間ですね。」

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第5章 霊界の仕事

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以上4章にわたる説明で霊界というところが決して夢のような取りとめのない世界でなく、反対に、地上以上に整然たる秩序の中に生き生きとした“仕事の生活”が営まれている実在の世界であることを認識されたことと信じる。

しかし、これまでの説明では、ただ霊界にも仕事があるという漠然とした概念だけで、霊界にはどんな仕事があるのかという仕事の中味の問題や、どんな人がどんな仕事につくかという資格の問題、あるいはひとつの仕事が運ばれていく細かい過程については直接にタッチされていない。そこで本章ではそういった問題をトーマスとオーエンの書物を参照しながら観てみたい。

(1)他界直後

地上の人間は概して仕事を嫌うものである。自分の仕事に生き甲斐を感じ情熱をもって仕事に打ち込む人は少ない。その理由は3つ考えられる。第1は仕事と能力とが一致しないこと。言いかえれば適材適所ということが実行されていないことである。

第2はエネルギーの消耗と補給のバランスが取りにくいことである。もしもわれわれ地上の人間が霊界の人間のように、随時、必要なだけのエネルギーを摂取して疲労とか不快などを自由かつ完全に取り除くことが出来たら、ちょうど子供が疲れを知らずに遊びたわむれるように、われわれ大人も思う存分仕事に身を打ち込むことが出来るに違いない。

第3の理由は仕事の目的と意義を知らないことである。仕事とは要するに能力の作用であり、能力の作用を通じてこそ魂の成長が得られるのである。身体とはその作用のための道具であり、器械類はさらにその代用のようなものである。科学者や芸術家のように知性や想像力などを使用する人たちでも、手がなければ仕事にならないのである。

そうした地上における仕事の形態は霊界へ行ってもある程度まで維持されるものらしい。すなわち霊界の事情にすっかり慣れて、意念だけで生活できるようになるまでには相当な期間が必要であり、その期間中は地上と似たような仕事を続けるわけである。それを次の通信の中に見てみよう。出典はトーマス『実証による死の彼方の生活』。通信者はトーマス氏の父親と妹のエッタ。

父「たとえば旅行する場合をとってみても、こちらでは汽車とか自動車とかの交通機関は利用しない。しかし使用しないといっても原則的に言えばの話であって、例外的なことがたくさんある。

たとえば私は汽車や自動車なんかは絶対に使用しないし、また使用している人を見たこともないのだが、地上でエンジン関係の仕事に携わっていた人などは、指導霊から新らしく仕事を当てがわれるまではたいていエンジンのことを研究したがるのだ。

そういう人が何か新しいものでも発明すると、さっそく地上のエンジニアに教えてやろうとする。だが、そういった地上的な機械仕事にはすぐに飽きがくる。所詮、こちらの人間には不必要なものだからだ。が父さんの見るところでは、おそらく地上にもいずれそういった機械類が必要でなくなる時代がやってくると思う。

そのわけは、霊界の人間が使用している能力は地上の人間にもちゃんと宿っているからだ。ただ居睡りをしているにすぎん。フィーダ(注1)の話によると、お前(トーマス氏)の友だちで地上で工場を経営していたC・B君、あの人はこちらへ来てからも相変らず工場を経営しているそうだ。

が進歩的な彼のことだ。そういつまでも続けることはせんだろう。いまに趣味が変わって次第に霊的な生活に入っていくものとみている。もっとも今のところは生き甲斐を感じているらしいから、もうあと2、3年は工場の仕事を続けるだろうよ。

「園芸などはこちらでも特に盛んな仕事のひとつだ。芸術の中では音楽と絵画が盛んだが、なかでも音楽は非常に盛んだ。もちろん彫刻もあるし、綴織(つづれおり)なんかもある。一口で言えば地上の人間が楽しむものは一応全部揃っている。

そういった仕事には当然作品や製品等が生まれ、時間の経過と共に不要品も出てくる。たとえば作者または所有者が上の界へ行ってしまった場合などがそれだ。そうなると当然その不要品の処理ということが問題となる。

新参者が引き続いて使用してくれることもあるが、そうでなかったら、こちらには“昇華”または“変質”の技術がある。その技術でまったく異質のものにしてしまう。それに使用するものはやはり意念であり、その仕事を受け持つのは物を造ることを専門にしている人たちだ。

「このあいだお前に通信したストレベット君、彼などは全然ダメだ。あの人は地上にいた時にまったく創造力というものを働かせたことがないので、精神力が非常に弱い。素質もあるし立派な知性も具えている人なんだが、ただ持っているというだけで、それを実際に使って鍛えるということをやったことのない人だ。だから彼には何ひとつ自分で拵えたものがない。他人が作ったものばかり使っている。

その点このあいだ交霊会に出た人(トーマス氏の友人)などはまったく対照的な人だ。あの人はこちらへ来てみたらすでに自分の思う通りの環境が出来ていた。地上生活中に着々と拵えていたわけで、それだけ彼の創造力が強かったわけだ。

もちろん普段の意識では気がついていなかったが、潜在意識はちゃんと知っていた。彼の創造力は晩年になってますます強さを増したが、それでも今と比べたら話にならん。今の彼は心身ともに若返って、それは立派なものだ。

彼の場合は生活そのものにも次から次へと新しい喜びや興味が湧いてきて、実に幸福そのものだ。がそれは皆、地上生活中に蒔いたタネが実ったもので、結局それだけのものを頂戴する資格があるわけだ。」

問「着物の話をされましたが、そちらで着る衣服は地上で着る衣服の写しですか、それとも新しく誂えるわけですか。」

エッタ「結局は両方ということになるでしょう。地上でも衣服を裏返したりして、見かけの上ではすっかり新しいものに作り変えることが出来るでしょう。あれと同じようなことがこちらでも行われます。同じといっても、やり方はこちら独特のものです。

つまり地上で気に入っていた衣服への執着が強く残っているので、その念を型にして拵えるわけです。もちろん大切なのは意念の働きです。こちらでは何かにつけ意念というものがいちばん大切です。ですが何もかも意念でやってしまうのかというと、そうでもありません。

たとえば地上からやってきたばかりの人は物的感覚が強いですから、すぐさま意念だけで仕事をさせるのはムリです。地上で建築の仕事に携わっていた人にすぐ設計の仕事をさせてもうまく行きません。やはり本人がやりたいと思うことから始めるのがいちばんです。

婦人は衣服の仕事をしたがる人が多いです。責任ある仕事にはつけません。頭がいいとか技術がすぐれているというだけでは上の界へ行くことは出来ません。大切なのは魂の善性ないし霊格です。私たちのいる界より下の界に、私たち
より頭のいい方や技術のすぐれた方がたくさんおります。

そうかと思うと底抜けの善人ではあっても思考技術の不足した方が高い世界にいます。そういう方は絵画を額縁に入れたり椅子にカバーを取りつけたりする仕事を好みます。精神的な仕事より手先の仕事の方が面白いのでしょう。」

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(2)庭作り

次は同じくトーマス『死の彼方の夜明けに』からの抜粋で、ここでは意念の働き方が滑稽な実話で語られていて面白い。

「この交霊会で私(トーマス氏)の父は園芸の話を持ち出し、私の知人で地上で園芸を専門にやっていたホーキングス氏を呼んで話をさせた。ホーキングス氏はフィーダを通じて今日の会の様子はいちいち耳に入っていたこと、そして私の父が説いた説は非常に面白いと思うと述べ、さらに次のように語った。

ホーキングス氏(注14)「では私の話を聞いていただきましょうか。先日とても面白い体験をしたのです。私はこちらへ来てから間もなく、ある一家の庭園の世話を言いつけられました。その一家はもちろんひとりずつ前後してこちらへ来たわけですが、ちょうど私の界で家族の者全部がいっしょになったわけです。

そこで庭園を作ろうという話が出て、私がその指導をすることになったわけです。こちらでの私の仕事は、本当に庭作りに興味をもっている人、あるいは園芸の観賞力をもっている人のために前もって庭園を作っておいてあげることです。

「その一家の世話は私もまったく予期していませんでしたので、突然指導霊から言いつけられた時は本当にびっくりしました。が、その家へ行ってみて尚更おどろきました。でたらめもでたらめ、それこそお話にならない庭の様子だったのです。

ひとりがバラを植えようとし、もうひとりがヒエン草を植えようと考える。その念が同じ場所に働くものですからゴチャゴチャになるわけです。いつの間にかバラ園のド真ん中にリラの木が立っていたりすることもあります。まるでツギハギだらけの敷物のようで、見られたものではありません。

ひとりが畑の真ん中に細い道を作っていくと、いつの間にかその道に石ころが積み上げられています。岩石庭園(ロックガーデン)を作りたいという誰かの意念がそうさせるわけです。そうみているうちに今度はそのド真ん中が泥沼になっていきます。誰かが水蓮を植えようと考えているのでしょう。その様子を見ていた私は思わず“ヤレヤレどうしましょう”と叫んでしまいました。

しかし相変らずみんな自分の思い通りにやろうとして1歩も退きません。そこで私はみんなに一たん手をひくように説得して、庭にあったものを全部取り払ってしまいました。壊してしまったわけではありません。しばらく別の場所へ持って行ったのです。」

トーマス氏「いっそのこと壊してしまった方が手っ取り早いのではないですか。」

ホ氏「いえ、新参者にそんなことをすると、せっかく出始めた創造力の芽を摘み取ってしまうことになりかねません。お粗末とは言え折角の創造物なのですから、一応尊重してやらねばなりません。とは言え、その時の庭のひどさに私はすっかり呆(あき)れ果ててこう言いました。

“ほう、誰かさんは水蓮を植えたくて池を拵えようとしましたね。なかなかいいのが出来てるではないですか。誰かさんはリラの木とバラの花がお好きなんですね。それからどなたか芝生を植えて真ん中に水蓮池を拵えようと考えましたね。小道が半分まで出来ていて、石ころが少しばかりころがっていますね。”と」

ト氏「ずいぶんひどいですね。で、それらを全部取り払ったわけですか。」

ホ氏「ええ、始めのうち、ちょっとした諍(いさか)いがありましたので私が“もうよろしい。私に任せて下さい。私はそれが目的で呼ばれたのですから”と言って、一応庭にあるものを取り払ってしまいました。それには時間らしい時間はかかりませんでした。すっかり無くなった庭を見て、みんな口々に“せっかく作ったのに”と言って不服そうにしていました。」

ト氏「小道や芝生まで消えてしまうなんて私たちには考えられませんね。」

ホ氏「作るのも消すのも自由自在ですよ。その原理はお父さんに説明していただいた方が確かだと思います。別に私がひとつひとつ他所(よそ)へ持っていくわけではありません。いつの間にか失くなっているのです。

(ここでホ氏が何か化学的変化が起きるのだろうと思うと言うと、父が割って入って、その原理は氷が溶けて水となり、さらにそれが水蒸気となり、こんどは逆に水蒸気が水となり再び氷になるのと同じ理屈だと説明した。)

ホ氏「もちろんその変化を司(つかさど)るのは意念です。その作用の原理は温度が食物を変化させるようなものだと思えばよいでしょう。」

「さっきの続きですが、一応庭を元どおりにしてから私はこう言ってやりました。“バラ園を作る時はバラ園のことだけを考えなさい。バラ以外のことは絶対に考えないように。そしてバラ園が恰好がついたら、次に芝生のことを考えなさい。もちろんその時は芝生以外のことは一切考えてはいけません。”

そう注意しておいて私は仕事をバラ園、芝生、顕花灌木というふうに分け、それを家族ひとりひとりに分担してやりました。そしてロックガーデンのことは後回しにして、しばらく自分の受け持ちに意念を集中するように言いつけました。」

「さて、そうやってひとりひとりに仕事を分担させておいて、大体の形が出来あがったところでそれを順々に庭へ置いていきました。まず芝生を作り、その中にバラ園を置き、次に水蓮池を適当な場所に据えました。水蓮池は一部しか出来ていなかったのですが、“あとで仕上げますから”と言って一応そのままで使いました。

「そこまで済ませた時、私の頭に小石を敷いた小道で囲まれた円形のロックガーデンの光景が浮かびました。私はその光景を水蓮池の完成図と共にひとまず“精神の戸棚”の中にしまっておいて、取りあえず通用路の完成を急ぎました。

「間もなく通用路が出来あがったので、次に水蓮池を仕上げ、最後にロックガーデンを拵えてみました。家族の人たちは私の仕事ぶりを観察しておりましたが、非常に感心したらしく、また出来あがった庭園がいかにも気に入った様子でした。これがその一家にとってよい教訓となったことは言うまでもありません。庭園についての諍いも、もうないでしょう。

「もちろんこの庭作りはその一家がこちらへ来て間もない頃のことだったのですが、私にとっては、こちらでやった仕事の中ではいちばんの難儀でした。何しろ芝生をきれいに手入れして、やおら振り返ってみると、いつの間にか石ころがころがっていたりするのですから。誰かが石ころのことを考えたからです。

私には誰が念じたかがすぐに判るので、すぐにそのことを注意してやります。実際しゃくにさわりますよ。あなただって、せっかく芝刈機できれいにしたあとに石ころを投げ入れられたら面白くないでしょう。その気持と同じですよ。そんな時は、やった者に仕末をさせます。もちろん意念でやらせるのです。いい勉強になりました。

「私はもともと庭を作ってあげるだけが本職なのですが、実際には今お話した場合のように庭作りを通じて何らかの教訓を授けること、そのほか目に見えない目的をもたされております。

いまの一家も、あの経験によって物事は“秩序だてて”実行すべきこと、そして同時に工夫ということをしなければならないことを学んだはずです。私は工夫するということを第一と心得ております。いい加減な庭は決して作りません。どうしてもいい庭が作れない人の世話もしましたが、結局そういう人は工夫ということをしないからです。」

「お父さんから頼まれた庭作りの話は以上ですが、私はこんなことばかりやっているのではありません。そうね、“本部”とでも言うべき所での仕事もあります。材料を配布する施設で、地上の郵便局に似たところがあります。投函された手紙が集められて本局に持って来られて、そこで選り分けられて各地へ発送されるという、あの仕組みにそっくりです。

フィーダ「ホーキングスさんはまだ話を続けています。本部の仕組みは地上よりはるかにうまく出来ていると言っています。地上だと果物を生産した人はそれをどこの市場に出すといちばんよく売れるかが判らない。だから需要のない時はせっかくの産物を捨ててしまうこともある。

地上もいつかはこちらと同じやり方にしなければならなくなるだろうと言っています。つまり情報部があって、どこで何の需要があるということが判るようになっていて、その需要に応じて供給されるわけです。」

「情報がどういう形で入ってきて、それをどう処理するかを説明しようとしていますが、私には何のことだかわからないので、言葉をそのまま取り次いでみます。

ホ氏「この本部の仕事だけど、私も時おり手伝います。ここでもやはり着実と迅速がモットーです。バラ畑だのユリ池だのという注文が各地からいっぱい届く。その注文を郵便局でやるように地区別に分類することが出来るのです。係をきめて、君はバラ畑、君はユリ池、という具合に分けるのです。担当者は自分の受け持ちの情報だけに注意していればいいわけです。」

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(3)建築

庭作りに続いて今度は建築の仕事ぶりを見てみよう。出典はオーエン『ヴェールの彼方の生活』。通信者はこの自動書記通信全5巻(注15)のために特別に組織された霊団の最高指導霊。

「この度は吾々の側より話題を用意していった。願わくは再度、汝の精神を貸されたい。つい最近わが管轄に属する界にて起きた出来ごとを是非汝にも知らせておきたいと望むからである。

「出来ごととは他でもない、建物の建造である。形は寺院に似ておる。その建造の目的は地上と天界との連絡を促進することにある。目下ゆっくりと最後の仕上げをしており、完成も間近い。これより先ずその建物に使用せる資材を説明し、続いてこの建物の使用目的を教えるとしょう。

「資材には種々様々な色彩と密度とがある。さりとて地上の如くレンガや石等を積み重ねるのではあらぬ。様々な色彩と密度とを有しつつ、資材としてはたった1種類である。吾々は設計図が出来上がったところで、挙(こぞ)って予定された敷地へ向った。その敷地は第5界(注16)の低地と高地の中間に位置する台地にある。

「敷地に到着すると吾々はまず全員の創造エネルギーを一丸とするための精神統一を行った。それが終ると今度はそのエネルギーを基礎工事に向けた。すると、やがてその敷地から吾々の照射したエネルギーがゆっくりと湧き出で、そのまま高く伸びて頂上にドーム形の屋根を拵えた。

そこへ総指揮者たる大天使が御姿を現わされ、吾々のエネルギーをひとつにまとめ、大天使みずから意念を放射され給い、一段落した吾々の仕事に細かい手を加えられた。その間吾吾は念波の放射を控え、静かにその様子を拝見した。

「何ゆえ大天使まで出現するのか、汝にはそれが不思議に思われるであろう。理由(わけ)を述べよう。創造という仕事では吾々もそれ相当の修養を積み、又、協調ということについても過去幾十年幾百年にも亘りて努力に努力を重ねてきたことは、自ら公言して憚らぬところである。

が、その吾々が総力を挙げて為す仕事にも、より高き世界の天使からご覧になれば、不備と欠点とを免れぬのである。それゆえ第一期の基礎工事の完成に当りては、是非とも大天使の御力によりて、吾々の放射せるエネルギーを調節していただき、且つ又、不備の点を補っていただかねばならぬのである。

もしそれを怠れば、形体にキズが残り、あるいは思わぬ不備から構造が崩れ、折角の吾々の努力も烏有(うゆう)に帰してしまうことが有り得るのである。

「斯くの如く、第一期はまず外形の完成に集中する。が、あくまで外形であり、そのまま手を引けば見る間に消滅してしまう。一服した吾々は引き続き第二期の基礎工事に着手した。第二期は柱、門、並びに塔を強固にすることである。最下部から始めて徐々に上方へ向けて手を加えていき、最後にドームまで到達する。

これを幾回となく繰り返した。まだ外形のみである。が外形としては一応完成した。残るは色彩を鮮明にすることと、細かい装飾、そして最後に全体を引きしめて持続性を与えることである。

「吾々はしばらく工事をしては少し休み、その間にエネルギーを注ぎ込み、再び工事に着手するといった過程を幾度となく繰り返し、その寺院風の建物の完成に全身全霊を打ち込んだ。実際に創造の仕事に携われる者にとりて、自己の創造物の美しき姿を見ることほど楽しく且つ有難きものはない。

吾々の建造せるその寺院風の建物は、大きさにおいてもデザインにおいても並はずれて雄大なるものであった。それ故、その雄姿が着々と美しさを増して行くのを見て味わう吾々の喜びは、まさに言語に絶するものであった。

「こちらの世界における建築がすべて吾々と同じ方法で行われるとは限らぬ。が、如何なる方法にせよ、出来あがれるものは建築家による建造物というよりは吾が子の如き存在となる。すべては建造者のエネルギーと創造力とによりて造られたるものだからである。

そうして出来上がれる建物が、のちにその建物にて仕事をする者の理想に叶っていることも論を俟(ま)たぬ。何となれば、その建物にはすでに生命がある。意識的生命ではないが一種の感性を宿しているからである。

「こちらの世界の建物とその創造者との関係は、言うなれば、肉体とそれに宿る霊魂との関係に似ておる。肉体と霊魂とは覚醒時は言うに及ばず睡眠中といえども常に連絡を保持しておる。

それと同じく、吾々建造者は、たとえ完成後に諸処に分散しようとも、常にその建物を意念の焦点としてお互いが連絡し合っておるのである。その生き生きとした実感と満足感とは実際にこちらへ来て創造の仕事に携わってみなければ判らぬ。もっとも汝がこちらへ来たとて必ずしも建築の仕事に携わるとは限らぬが。

「さて建物としての一応の形式が整い、さらにそれを強固にし終ると、あとに残された仕事は内部装飾の仕上げである。すなわち各室、ホール、聖堂等をそれ相当に装飾し、柱廊は柱廊らしく、又、噴水には実地に水を通してみて水が切れぬか否かを確かめる。それをするに吾々はまず外部に立って念波を送り、それから内部に入って手並みのほどを点検する。手先はあまり使用せぬ。主役を演ずるのは頭と心である。

「そこまで終ると、以後は吾々が実際にその建物で生活しつつ、気づいた箇所をその都度手入れした。かくして最初の設計どおりの美しい寺院が出来上がったのである。

「そして吾々の仕事が完了した暁に、畏れ多くも大天使さまが再度はるか高遠の世界より降りて来られ、細かく点検してまわられた。そして若しも不備の点があれば大天使みずから手を加えられた。が時として吾々の勉強のためを思われて、吾々に直接お言いつけになることもある。

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(4)創造力の驚異

この通信は実にさまざまな示唆を与えてくれる。第1は創造の根本が意念であること、言いかえれば眼に見える創造物はことごとく眼に見えぬものによって支えられているということである。この事実を吾々はもっと真剣に噛みしめる必要がありはしないだろうか。何故なら人類はまだまだ精神の本当の威力と大切さを理解しているとは言えないからである。

次に教えられることは、霊界の協調的仕事が単に横の関係のみでなく上下にも徹底していることである。つまり各自は自己の力量と位置(霊格)を自覚して、あくまでもその範囲を守り、全体としての責任と仕上げはその一団の最高指揮者に任せる。仕事の進め方も最初の設計どおりである。決して勝手な好みを差し挿むようなことはしない。

さらにここでわれわれが思い出すのは「初めに神は天と地を造り給えり」という聖書の言葉である。「天」とは天界つまり霊界のことであり、「地」とは地界つまり物質界のことであろ「天」とは天界つまり霊界のことであり、「地」とは地界つまり物質界のことであろう。結局この言葉を全宇宙が天界の政庁の神々の創造力によって造られたことを意味していると思われる。

創造の仕事は常に内部より発する。神の御胸には次の新しい宇宙の構想が宿されているに相違ない。が創造された側のわれわれ人間にも、お粗末ながら同じ創造力が宿っているのである。ここが大切な点であろう。

われわれは決して創造されっぱなしでこのまま消えて失くなる運命にあるのではない。それどころか、現在のわれわれにも、いずれは宇宙の創造者と一体となれる要素が具わっているのである。この事実の厳粛性を悟った者がなんと少ないことであろう。われわれ人間はその創造力によって地上に天国を作ることも可能なのだ。

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(5)天界の保育園

次に少し趣きを変えて子供の世界にスポットライトを当ててみたい。

幼くして霊界入りした霊魂はまず「天界の保育園」へ連れて行かれる。そこには子供の養育に必要なあらゆる設備が揃っており、そこで働く保母たちの愛によって子供たちはすくすくと育っていく。“子供は無限なる可能性の宝庫である”とはデービスの言葉であるが、この可能性を伸ばしてやることが保母の使命なのである。

ここで特に指摘したいことは、いわゆる死産児も霊魂として立派に霊界に生き続けていることである。一般には母体から出ることを誕生と言い、その瞬間を人間としての出発点とするが、実際には霊魂が母体内に宿った時が本当の意味での誕生であって、空気を吸う吸わないは関係ないのである。死産児からこれこれしかじかのことを“お母さん”に伝えてくださいという通信を受け取った話はいくらでもある。

ある霊能者から、如何なる死にも必ず産婆のような役をする霊魂が幾人かついているが、その役は性質のこまやかさ故に死産児が受け持つことが多いといった意味の話を聞いたことがあるが、それに違いないと思う。なぜなら「死」は霊界への「誕生」だからである。

1度母体に宿った生命が永遠に不滅であるという事実、さらにその子供といつの日か元気な姿で再会できるという事実は、世の母親、また父親にとっても何よりの福音と言えよう。私はそこにも神の愛の大きさを痛感せずにはいられない。

では次にオーエンの『ヴェールの彼方の生活』からオーエン氏の母親が例のカストレル宮殿を訪れた時の話の続きを紹介してみよう。

「その時不思議に思ったことは、その中に子供が混っていることでした。なぜ不思議かというと、それまで私は子供には子供だけの特別の世界があって皆そこへ連れて行かれるものと思い込んでいたからです。

最後に居残ってお話をしてくれた婦人はそこの母親のような地位にあられる方で、その他の方々はその婦人の手助けをされてるらしいのです。私はその中のひとりに、そこの子供たちがみな幸福そうで愛らしく、こんな宮殿でもいかにも寛(くつろ)いでいることには何かわけがあるのですかと尋ねてみたところ、大略次のような説明をしてくれました。

「ここで生活している子供は死産児ばかりで、地球の空気を吸ったことのある子供とは性格上に非常な違いがある。わずか2、3分しか呼吸したことのない子供でも、全然呼吸していな死産児とはやはり違う。

それ故、死産児には死産児として特別の養育が必要であるが、死産児は霊的知識の理解の点では地上生活を少しでも体験した子より早い。まだ子供でありながらこうした高い世界で生活できるのはそのためである。

が、ただ美しく純真であるだけでは十分とは言えない。ここで一応の清純さと叡智とを身につけたら、こんどは地球と関係した仕事に従事している方の手にあずけられ、その方の指導のもとに間接的ながら地上生活の体験を摂取することになる。

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(6)死産児との再会

「私は初めこの話を興味本位で聞いておりました。ところがその呑気(のんき)な心の静寂をつき破って、この都市へ来たのは実はそのことを知るためだったのだという自覚が油然として湧いてきました。私にも実は1度死産児を生んだ経験があるのです。それに気がつくと同時に私の胸には、その子に会いたいという気持が止めどもなく湧いて来ました。

“あの子もきっとここに来ているに違いない”そう思うや否や私の心の中に感激の渦が巻きおこり、しばし感涙にむせびました。その時の気持はとても筆には尽くせません。

そばに仲間がいることも忘れて、木蔭の芝生にうづくり、膝に頭を押しつけたまま、湧き出る感激に身を浸したのでした。親切なその仲間は私の気持を察して、黙って私の肩を抱き、私が感激の渦から脱け出るのを待っておりました。

「やがて少し落着くと、その仲間のひとりが優しくこう語ってくれました。“私もあなたと同じ身の上の母親です。生きた姿を見せずに逝ってしまった子を持つ母親です。ですから今のあなたのお気持がよく判るのです。私も同じ感激に浸ったものです。”

「それを聞いて私はゆっくりと顔を上げ、涙にうるんだ目をその友に向けました。すると友は口に出せない私の願いを察してくれたのでしょう。すぐに腕を取って一緒に立ち上がり、肩を抱いたままの姿勢で木立の方へ歩を進めました。ふと我に帰ってみると、その木立の繁みを通して子供たちの楽しそうなはしゃぎ声が聞こえてくるではありませんか。

多分私はあまりの感激に失神したような状態になっていたのでしょう。まだ実際に子供に会ってもいないのにそんな有様です。これで本当に会ったら一体どうなるか – 私はそんなことを心配しながら木立に近づきました。

「表現がまずいなどと言わないでおくれ。時間的に言ったらそう昔のことでもありませんが、さりとて昨日(きのう)や一昨日(おとつい)のことでもありません。なのに、その時の光景と感激とが生き生きと甦ってきて、上手な表現などとても考えておれないのです。地上にいた時の私は死産児にも霊魂があるなどということは考えも及びませんでした。

「ですから、突如としてその事実を知らされた時は、私はもう…ああ、私にはこれ以上書けません。どうかあとは適当に想像しておくれ。とにかく、この愚かな母親にも神さまはお情けを下さり、ちゃんと息子に会わせてくださったのです。私がもっとしっかりしておれば、もっと早く会わせていただけたでしょうにね。

「最後にひとつだけ大切なことを付け加えておきましょう。本当はもっと早く書くべきだったんでしょうに、つい思い出にかまけてしまって….。その大切なことというのは、子供がこちらへ来ると、まずこちらの事情に慣れさせて、それから再び地上のことを勉強させます。

地上生活が長ければ長いほど、それだけこちらでの地上の勉強は少なくて済みます。死産児には全然地上の体験が無いわけですが、地球の子供であることには変わりありませんから、やはり地球の子としての教育が必要です。つまり地上へ近づいて間接的に地上生活の経験を摂取する必要があるのです。

もちろん地上へ近づくにはそれなりの準備が必要です。また、いよいよ近づく時は守護に当る方が付いておられます。死産児には地上の体験がまるで無いので、地上生活をした子供にくらべてその準備期間が長いようです。やはり地上生活が長いほど、またその生活に苦難が多ければ多いほど、それだけこちらでの勉強が少なくて済み、次の勉強へ進むのが早いようです。

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(7)子供の教育

では子供たちはいかなる方法でいかなる教育が授けられるかとなると、これは一概には言えないであろう。教育の究極の目的が魂の開発にある以上、各自の性格と発達程度に応じ、必要性とにらみ合わせてひとりひとり異った方法を編み出さねばならないはずだからである。

その観点からみて天界の教育法の中にひとつだけ注目すべきことがある。それは子供の生活の場が常に家庭的雰囲気に包まれていることである。つまり先生又は保母と生徒たちとは文字どおり母と子の関係にあり、決して地上の学校制度のように規律化された形式的なものではない。

子供たちは言わば孤児であり、先生も“先生という役”につけられたものではあるが、表面的にはそうでも、霊的には血縁よりさらに強い“愛”の関係によって結ばれており、その上神の叡智による深遠なる配慮が働いているのである。では霊界での教育方法の一例を同じく『ヴェールの彼方の生活』に見てみよう。

「さてその婦人(かた)がお坊っちゃんと話をされている間、私たちはその近辺をぶらついて子供の教育施設を見てまわりました。その中にひとつだけ特に目をひくものがありました。

「それは直径6~7フィートもあろうかと思われるガラスの球体で、2本の通路の交叉点に据えてあります。中をのぞいてみると、いろんな種類の花や樹木、草などが植えてありましたが、無雑作に植えたものではなく、植物の進化の順を追って植えてあるのです。

つまり地上なら化石をいろんな角度から観察するところを、こちらでは実際にその進化の過程を再現して勉強しているのです。全部立派に生きており、この球体をのぞけば、どの種類の植物がどんな過程をへて現在の形体まで進化したかが一目瞭然と判るようになっているのです。

「ですから、ここの子供たちの仕事は結局、植物の現在に至る進化の過程を研究することによって、それがさらに今後いかなる過程をへてどのような形体に進化していくかという未来の進化過程を推測することです。知力を伸ばすための素晴らしいトレーニングで、みんな結構楽しみながらやっているとのことです。

「他の部門でも少し年長の生徒たちが同じことを研究していますが、そこでは実生活への応用ということが加味されており、さっきのガラスの球体も実はその年長の生徒たちが拵えたものなのだそうです。

未来の標本を作るに当っては子供たちなりに想像力を働かせて、こうなるだろうと思うものを拵えます。感心させられるような立派なものもありますが、中にはどうも危なっかしいのが湿っており、時にはちょっと想像できないような珍妙な恰好をしたものもあります。

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(8)少女からの通信

以上は大人の見た子供の生活であるが、今度は子供自身はどんな観方をしているかを子供自身の口から聞いてみよう。出典はカミンズ(注17)の『彼らは今も生きている』。質問者はカミンズ女史のよき理解者で協力者のギブズ女史。

語っているのはエリザベスと名告る少女。本来カミンズ女史は自動書記霊媒であるが、この通信だけは突如として現われた入神談話である。用語は曖昧であるが全体に自然さが流れている点に注目していただきたい。

エリザベス「またお話しできるのね。このあいだもずいぶん話したっけ。でもあの時はママに伝えてほしいことばかりしゃべっちゃって…。だって、あたし、地上にいた時よりずっと賢くなっていることをママに知ってもらいたかったの。今なら絶対ママに負けないと思うわ。ところで、おばさんはお人形と遊んだことある?」

(私は「おばさんはお転婆だったから、お人形がきらいだった」と笑いながら答えておいた。)

エ「こうして地上に戻って昔のあたしに帰るのは、ちょうどお人形さんと遊ぶ時みたいで、とっても面白いわ。でもね、こうして話をしているあたしは本当のあたしの一部分、それも、つまんないところだけなの。あたしのママだって同じことよ。こちらの世界ではママのもっと素敵な部分がママの来るのを待っているのよ。」

問「お嬢ちゃんが死んでから最初に連れて行かれたところはどんなところだったか教えてくれない?」

エ「そうね、話してみようかしら。だけど、おばさんて面白い人ね。まるで先生みたい。だって、聞いてもわかんないくせに色んなことを聞いてみるんですもの。(クスクス笑う)小さい時に死んだ人は死んでからずいぶん長いあいだ睡るんだけど、生まれてすぐ死んだ人だとすぐにほかの身体に入って、そのまま大きくなることがあります。

でもそれは滅多にないことよ。大ていの人は目が醒めると大人の人に連れられて、地上と同じ家のたくさんあるところへ行くのです。いま家があると言ったけど、本当は無いんです。でも地上の家と同じように、そこに住むことが出来るんです。そういうことは案内してくれる大人の人がちゃんと教えて下さいます。

「つまりね、おばさん、あたしが心の中で家のことを考えるとそこに家が出来るんです。あたしたちのお友だち同士が子供に見えるのも、お互いが心の中に子供のイメージを画いているからなのです。おばさんたちだって、お互いが子供の気持になって付き合ったら、次第に子供に見えてくるはずよ。

「それから、あたしの身体は地上の人が固いと言ってるもので出来ているのではありません。空気よりもずっと軽くてキメの細かいもので出来ています。その身体には自分が思う通りの形や色を付けることが出来ます。

おばさんは気づかなかったでしょうけど、あたしは1度おばさんの心に絵を画いてみたことがあるのよ。あたしは心に思っただけで絵が画けるんです。おばさんもこちらへ来たら画き方を教わります。家を建てようと思えば心の中に家の絵を画くんです。すると、まわりにニョキニョキと家が建ち始めます。お伽話もぜんぶ本当にあることばかりよ。

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(9)魔法のような力

「魔法の杖を握ったらおばあさんが少女になったり、魔法のじゅうたんに乗ればどこへでも飛んで行けたりするのも、みんな魔法のような力をもった心がそうさせるのです。人が止めよようとしても止められないの。すごいんだから、その力は。

おばさんには信じられないかも知れないけど、ぜんぶ本当なんです。本当にあったことばかりなんです。でも、来たばかりの子供にはそんなことは出来ません。心の使い方がわからないからです。始めはただ地上に似たきれいな国や立派な人々や家なんかを見るだけです。本当は同じでないんだけど、同じように見せかけてあげないと寂しいでしょ。

「そのうち次第に自分の心に強い力があることを知ります。すると遊びをやめて、その力の使い方を勉強しようと思い始めます。いちばん最初に教わるのは自分の好きな場所の拵え方です。最初どんなものが出来るか、おばさんが見たら笑いころげるだろうな。もちろん始めはひとつずつ拵えて行きます。

あたしが最初に作ったのはお馬さんでした。心で考えてからしばらくすると、すぐ目の前に1頭の馬が現われたのです。その時はうれしくて、うれしくて。パパにもこんなことは出来ないと思うな。

「お友だちの中にはつまんないものを拵えるのがいてね。あるお友だちなんかジャングルとプレーリー(大草原)なんかを欲しがったの。その子は頭のいい子だったからすぐに拵えることが出来たんだけど、ところがね、拵えてみると薄暗くてヘビなんかがウヨウヨしてるでしよ。急にこわくなって大急ぎでホラ穴を据えて、その中でブルブルふるえていたんですって。もちろんその穴も心で拵えたのよ。

「結局あたしたちはこちらでも地上と同じ生活をするんだけど、ただ違うのは、家なんか、大人の方が拵えたものだということ、そして、そのうち心の使い方を教わると自分でいろんなものを拵えたり、大人の方が作ってくれた場所(環境)を作り変えたりするってことね。

もちろん手や筋肉を使うのではなくて、心に絵を画いておいて、次にそれが本当にそこにあるのだと信じるの。いちばん難しいのは信じるってことね。あたしも最初は信じることを何回も練習したっけ。悪い人はこちらへ来ても悪いことばかり考えるから、いやあな場所が出来ちゃうの。

子供は教わったことを信じて、そのことだけに一生けんめいになるから、いつも楽しいことばっかりよ。だけど、ただひとつだけどうしても作れないものがあるの。それはね、人間。パパやママはどんなに拵えようとしても絶対にダメ。

大人の方に聞いてみたら霊魂(スピリット)だけは誰にも作れないんですって。そういうことを教えて下さる大人の方はみんな優しくて親切な人ばかりだから、私たち子供がびっくりしないように、いつも姿を変えて来て下さるのよ。」

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(10)空を飛ぶ

問「拵えたものはいつまでもそのままかしら。」

エ「そのままにしておこうと努力しなければダメね。最初は大人の方が作って下さるんだけど、いったん自分で拵えることを教わったら、それからは自分で家なら家のことをずっと考えてなきゃいけないの。

あたしなんか、家や場所を拵えることなんか平気になっちゃって、今はもっとほかのことが出来るわ。ほかのことというのはね、ルースちゃんといっしょに練習したんだけど、空を飛ぶこと。飛ぶ時に乗っかるものは、家を拵える時に使うのと同じものです。

ちょっと見ると空気みたい。面白いのよ。それには色がいっぱいあって、あたしたちはその色の上に乗っかるの。汽車ぐらいの速さで飛ぶこともあるし、風みたいにさっと飛ぶことも出来るのよ。とっても面白い!」

問「今はどんなことをしてるの?」

エ「近ごろはね、噴水のある素敵な土地に住んでるの。その噴水のある庭は地上で季節が変わるのと同じように次々と様子が変わって行きます。あたしがそこで教わっていることは、地上の四季の変化に合わせて庭の様子を変えていくことです。

庭にあるものを見ていると、マンボちゃんやジェーンちゃん、それからパパ、そのほかいろんな人を思い出します。その庭はあたしたちが思い出すもので作られているのです。地球のように固くはないんだけど、固いものと思っていじくるから地上の庭と同じ感じがします。全部あたしたちが知っているものに似せて作ります。でもやっぱり自分で工夫しなければダメです。」

「もちろん少しは大人の方に手伝っていただくんですけど、もし自分で工夫しなかったら、あたりに光が見えるだけで、何も出来ません。あたしたちの作り方は地上の子供がレンガで家を拵えて遊ぶのに似ています。あたしはレンガの作り方も教わりました。でも、おばさんに見せてあげても、きっと何も見えないと言うにきまってるわ。空気みたいだと言うかもね。面白いでしょ?」

問「近ごろお嬢ちゃんのお母さんがどんなことしてるか、そちらから判る?」

エ「ああ、ママのこと?いっぱい知ってる。近ごろは特にジェーンちゃんのことで心配してるらしいわね。でも、あの事、あたし少し難しいと思うわ。もう1、2年たてばずっとラクになると思うんだけど…。

というのはね、おばさん、あたしには秘密があるの。それはね、誰かが死んでママに少しばかりお金が入るってこと。それだけはハッキリわかるわ。いつの日のことかは言えないけど、ママがそれでラクになることだけは確かよ。

「今あたしにはいっぱいお友だちがおります。ほとんどおばさんの知らない人ばっかり。このごろは前みたいに遊んでばかりいるのがイヤになっちゃった。遊んでるより物を拵えてる方がずっと面白いんです。だって、拵えたものが本当に生きてるんですもの。

でも、今やってる仕事はとても難しい仕事です。それはね、睡りから覚めた小さい子の世話をしてあげることです。なぜ難しいかというと、自分が死んだことに気づかない子や、気がついても何のことかわからない子が沢山いるんです。

そういう子は大てい泣きながら乳母やお母さんを探します。あたしにはそういう子の気持がよくわかるから、いっしょに遊んであげながら色んなことを教えてやるのです。

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(11)馬・犬・小鳥

「たとえば新しい眼を使うことや、肉体よりもっと上等なからだをもっていることなのです。あたしたちのからだは痛みも感じないし食べ物もいりません。空気と光だけあれば生きて行けるのです。

それから、あたしたちが用意した土地へその子たちを連れていくのです。全部1度見たことのあるものなので、すぐに慣れてよく遊ぶようになります。そうなったら、もう、自分が死んだことを知らされても少しもこわがりません。あたしたちが拵えた世界の方がすばらしいからです。」

問「動物はどうなるのかしら。そちらへ行っても会えるかしら?お嬢ちゃんはそちらで動物を見たことある?」

エ「はい、あります。馬も犬も小鳥も見ました。偉い方から教わったことなんですけど、その方たちは地上で死んだ動物を引き寄せて元どおりの生きた動物にしてやることが出来るんですって。こちらの動物は少しも人間を恐れません。だって、動物に意地わるする人なんかひとりもいないんですもの。

もしも動物をいじめたら、その人はしばらく何もない暗い場所へ行かされます。でも、なぜかこちらの人は決して動物をいじめたりしません。そのわけはこうじゃないかしら。

つまり地上で悪いことをするのは大てい肉体(からだ)のせいでしょ?ところが、こちらに来ると空気で出来てるみたいな、軽くて使いやすいからだの中に入るので、ひどいことや、いじわるがしたくなくなるのだと思うの。

みんな他人(ひと)の身になって親切にしてくれる人ばかりだから、ウソなんかつく必要がないし、空気と光だけあれば生きていけるから、他人のものを盗む必要もない。それに、欲しいものが何でも自由に作れるからケンカも起きない。地上の人間の肉体は自分が持っていないものを欲しがるように出来ているのね。」

問「動物も地上のことを覚えてるかしら?」

エ「ええ、あたしは実際に動物が地上のことを思い出しているところを何度も見ました。1度はお腹(なか)をすかせた猫が家がなくてドブの中へ入って死んでしまう、可哀そうな場面を見たことがあります。

でも猫にも大人の人がいう“生命の精”がありますから、肉体はほろびてもその生命の精だけは死なずにこちらへ来ます。あたしは動物の世話もします。賢い動物です。あたしたちが拵えた世界へやってくるのです。もちろん、ほかの人のところへも行きます。

あたしは動物はしばらくしたらまた地上へ戻るんじゃないかと思うの。そのわけは、進歩するには地上の生活がいちばん為になるからです。戻る時は動物の身体か人間の赤ちゃんの身体に宿るんだけど、どっちにするかは動物によって違います。」

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第6章 地上的縁の行方

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子供の問題は必然的に親子の関係を連想し、親子の関係はさらに夫婦の関係を想起させずにはおかない。

聖書によればイエスは「天国では嫁にやるとか婿をとるなどということはない。天使としての生活を送るのみである」と言ったそうであるが、すでに霊界にも厳とした男女の区別があることを知ったわれわれには、このイエスの言葉はあまりに単純に響く。地上的な意味での夫婦関係を超えて、何かもっと豊かで充実したものを想像したいのである。

では近代の霊界通信はそういった地上的縁の問題についてどう述べているであろうか。

(1)家族的情愛

親子の情が不滅であることは前章の実話が示してくれているので問題はないとして、ではその情愛はその後いかなる行方を辿るのであろうか。『実用神秘学』の著者モールス氏も同じような疑問を抱いて、指導霊のティエン・シエン・ティエに質問している。

問「高い世界へ行けば、いわゆる家族的情愛というものは普遍的愛の中に吸収されてしまうのでしょうか。」

答「よほど高い世界へ行けばそうなる。一単位としての家族的情愛、つまり親と子という限られた範囲の利己的なよろこびは高い世界ほど広くかつ大きな性質を帯びていき、ついには利己的な殻から脱する。ということは家族的という局所的な愛の中にも普遍的な愛の種子が宿されていることを意味する。

「つまり家族的情愛の中にこそ普遍的愛が培われ、芽を出し、枝を広げ、美化されつつ不変不滅の要素を獲得し、それがついには人類愛となって完成するというわけだ。その時には家族的情愛は人類愛という大なるものの中に包容されてしまう。が包容されるということは破壊されるということにはならない。

「内部的な力と縁によって結ばれた者同士、純粋なる霊的なつながりによって結ばれた者同士は、以後も永遠にその関係を保持するが、霊的感覚が巾を広げるとともに、お互いの抱く理想も巾を広げ、その愛の働く範囲が広くなっていく。

「愛がいち個人的、局所的であるかぎり、愛による利益もまた局所的であるを免れない。個人的殻を脱し、愛の行使範囲を広げ、それが人類全体にまで及ぶようになれば、生活と進化の舞台もより広くより高いものとなっていく。」

親子の愛が不滅ならば夫婦の愛もまた不滅でなければならない。事実それを証明する実話がオーエン『ヴェールの彼方の生活』に出ている。結婚の本質はあとで論ずることにして、ひとまずその実話に耳を傾けることにしよう。通信者はオーエン氏の守護霊ザブディエルである。

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(2)夫婦の情愛

「ま緑と黄金色に輝き、色とりどりの花の香りが心地よく漂う丘の中腹に、初期の英国に見る如き、多くの小塔とガラス窓をもった切妻の館がある。それを囲む樹木も芝生も、また麓の湖も、色とりどりの小鳥が飛び交って、さながら生を楽しんでいる如く見える。地上の景色ではない。これもヴェールの彼方の情景である。

「今さら、こちらにも地上さながらの情景が存在することは論ずるまでもあるまい。ヴェールの彼方には地上の善なるもの美なるものが、その善と美を倍加されて存在する。この事実は汝等地上の人間にとってはひとつの驚異であるらしいが、汝等がそれを疑うことこそわれらにとりての驚異なのだ。

「さて、その館の櫓(やぐら)の上にひとりの貴婦人が立っている。身にまとえる衣服がその婦人の霊格を示す色彩に輝いているが、その色彩が地上に無い故、何色とも言うことが出来ぬ。黄金の深紅色とでも言えようか。

が、これでは汝が想像できまい。婦人は先ほどから湖の水平線の彼方に目をやっている。ここに見える低き丘は水平線の彼方から来る光に美しく照り映えている。

「婦人は見れば見るほど美しい方である。姿は地上のいかなる婦人にもまして美しく整い、その容貌はさらにさらに美しい。その目は見るもあざやかなスミレ色の光輝を発し、額に光る銀の星は、心の変化に応じて千変万化の色彩を発している。その星は婦人の霊格を表象する宝石である。言わば婦人の霊的美の結晶であり、その輝きひとつが全容姿の美を倍加する。

「この方は数知れぬ乙女の住むその館の女王なのである。乙女たちはこの婦人の意思の行使者であり、婦人の命に従って引きも切らず動きまわっている。それほどこの館は広いのである。

「実はこの婦人は先ほどから何者かを待ちこがれている。そのことは婦人の表情を一見すればただちに察しがつく。やがてその麗しき目からスミレ色の光輝が発し、それと同時に口元から何やら伝言が発せられた。

そのことは婦人の口のすぐ下から青とピンクと深紅色の光が放射されたことで判った。その光は汝等には行方を追うことさえ出来まいと思われるほど素早かった。

「すると間もなく、地平線の右手に見える樹木をぬって、1隻のボートが勢いよくこちらへ向けてやってくるのが見えはじめた。オールが盛んに水しぶきを立てている。金箔を着せた船首が散らす水しぶきはあたかもガラス玉のごとくキラキラと輝きながら、あるいはエメラルド、あるいはルビーとなって水面へ落ていく。

「やがてボートは船着場に着いた。着くと同時に眩ゆいばかりに着飾った一団が、大理石で出来た上り段に降り立った。その上り段は緑の芝生へ通じている。一団は足どりも軽やかに上って来たが、中にただひとりゆっくりとした歩調の男がいる。その表情は喜びにあふれているが、その目はあたりを柔らく包む神々しい光にまだ十分慣れておらぬらしい。

「その時、館の女王が大玄関より姿をお見せになり、一団に向って歩を進められた。女王は程近く接近すると歩を止め、その男に懐かしげな眼差しを向けられた。男の目がたちまち困惑と焦燥の色に一変した。

「すると女王が親しみを込めた口調でこう挨拶をされた。“ようこそ、ジェームズ様。ようやくあなた様もお出でになりましたね。ようこそ。ほんとにお懐しうございます。”

「が彼は尚も当惑していた。確かに妻の声だ。が昔と大ぶ違っている。それに妻は、死んだ時は病弱な白髪の老婆だったはずだ。それがどうしたことだ。若さと美しさにあふれているではないか。こうした思いが彼の胸中を去来するのである。

「すると女王が言葉を継いだ。“あれよりこの方、私は蔭よりあなた様の身をお護りし、寸時とて離れたことがございませんでした。たったおひとりの生活で、さぞお淋しかったことでございましょう。が、それもはや過去のこと。

かくお会いしました上は、孤独とは永遠に別れを告げられたのでございます。ここはあなた様も永遠に年を取ることのない神の常夏の国。息子たちやネリー(女の子)も地上の仕事が終ればいずれこちらへ参ることでございましょう。”

「女王はそう語ることによって自分が妻であることを明かさんと努力した。そしてその願いはついに叶えられた。彼はその麗わしく神々しい女王こそまさしく吾が妻、吾が愛しき人であることを判然と自覚し、そう自覚すると同時に感激に耐えかねて、どっと泣きくずれたのである。再び甦った愛はそれまでの畏敬の念を圧倒し、左手で両目を押さえたまま1歩2歩と神々しき女王に近づいた。

「それを見た女王は喜びに顔をほころばせつつ、急いで歩み寄り片腕を彼の肩にかけ、もう片方の手で彼の手を握りしめ、厳かな足取りで彼と共に石段を登り、その夫のために用意していた館の中へ入って行ったのであった。(注18)

実に情感あふるる、人間味豊かな情景ではないか。真の愛によって結ばれた者同士は永遠に離れることがないことを、この物語は教えている。

が、そうして再会したふたりは以後いかなる生活を営むのであろうか。言いかえれば、天界の結婚生活はいかなる意義と目的をもっているのであろうか。それをスエーデンボルグの『天国と地獄』にみてみよう。

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(3)天界の結婚生活

「天国は人類によりて築かれるものなるが故に、そこの住人たる天使にも必然的に男性と女性の区別が存在する。また女性は男性に仕え、男性は女性に仕え、お互いがお互いのために生きよというのが宇宙の創造当初からの神の厳令であり、また異性愛は両者に等しく潜在するものなるが故に、地上と同じく天国にも結婚というものがある。同じく結婚でも天国のそれと地上のそれとの間には大きな相違がある。如何なる点が違うか。それを次に説明する。

「天国における結婚はふたつの心が結合してひとつとなることである。ひとつとなるとは如何なる意味か。まずそれから説明しよう。人間の心はふたつの部分から成り立っている。ひとつは理解力と呼ばれるもの。もうひとつは意思と呼ばれるものである。この両者が一体となって働くことをひとつとなると言う。

「天国にあっては夫が理解力と呼ばれる心を受け持ち、妻が意思と呼ばれる心を受け持つ。本来内的であるべきこの結合が身体的なものまで低下した際に、その結合は愛欲として感識される。それが結婚愛である。

それ故結婚愛のそもそもの根源はふたつの心が結合してひとつとなることにあり、その状態を天国では“共に暮らす”と言う。数えればふたりであるが、天国ではその結合体を単位として、これをひとりと呼ぶ。

「天使から直接聞いた話によると、両者がそのような状態にあるかぎり結婚愛の関係にあると言うことが出来る。同時に理智と叡知と幸福とに目覚めているとも言える。なぜなら、結婚愛の中にこそ理解と叡智と幸福の源泉たる神的善性と神的真理とが流れ込むものだからである、と。

要するに結婚愛は神性の流れる場なのである。男女の結婚とはすなわち真理と善との結婚でもあるからである。理解力と意思との結合は真理と善との結合と同じなのである。なぜというに、理解力は神的真理を吸収して威力を増し、意思は神的善性を吸収することによって威力を増すものだからである。

「誰しも知る如く、愛し合う者同士は内的に結合しているのであり、その“心の結合”こそ結婚の本質なのである。

「異教者の間には結婚愛は生じない。一方の真理が他方の善性に適合しないふたつの異質のものを一体化することは不可能だからである。それ故、その両者間の愛が霊性を帯びることはあり得ず、かりに合意によって共に暮らすことがあっても、それは地上的縁が一時的に取りもったにすぎない。

天国ではひとつの社会に同質の善性と真理とを具えた者だけが住む故に、天国の結婚は同じ社会に住む者同士の間で行われ、他の社会に住む者との結婚はあり得ない。

「私は天国で結婚が成立する様子を実際に見せていただいている。天国においては同質の者が集まると、いずこを構わず社会を形成し、異質の者は離れていく。みずからそう意識してそうなるのではなく、すべては主の御心によるのである。

結婚もこれと同じ原理に基く。つまり完全なる結合の可能性を有するふたりが互いに引き合い引かれ合うのである。ふたりは一目見て愛し合い、この人こそ自分が結婚すべき相手であることを悟って、間もなく魂と魂との結婚生活へと入っていく。

かくの如く天国の結婚も主の御心によるのである。結婚式も取り行われ、数多くの人々が参列して祝福する。儀式は社会によって違っている。」

スエーデンボルグの言わんとするところは要するに霊界における結婚が魂と魂との結合であること、そしてその結合は地上の結婚によくあるような当人同士の打算や外部からの強制によるのではなく、魂に宿された調和的親和力の作用によるというのである。

これをスエーデンボルグは“主の御心によって”と表現しているが、これは明らかにキリスト教的表現であって、神の摂理によってと言うべきところである。

宇宙がことごとく神の摂理によって動いていることは、これまで紹介した通信のどれからも窺えることであるが、直接その問題にふれた通信を次に紹介しよう。出典はトーマスの『実証による死の彼方の生活』。

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(4)神の摂理

問「そちらの政治機構といったものについてご説明ねがえませんか。」

父「ずっと上の世界へ行くと、すべてが神の法則または原理どおりに運用されている。そこではもはや意識的な整理(処罰)などというものは必要でない。宇宙を根本的に統治する政庁 – 本当の意味での“活動の世界”のすぐ近くで生活しておるのだから、その法則の完全無欠さを目(ま)のあたりにすることが出来るわけだ。

その世界から少しずつ下へさがるに従って法則の働きが完全さを欠くようになり地上に至ると法則そのものが歪曲されたり、不服を言われたり、時には抹殺されるようなことにもなりかねない。

「そんな地上にいるお前にこちらでみるような霊的組織の見事さ、または法則の正確無比な働き具合を知って貰うのはちょっと無理かも知れない。実に素晴らしい組織になっているんだが…

「たとえばだ。今かりに下界に重大な事態が生じて、その事態に処するための会合が上の界で開かれることになったとする。下界といっても地上とは限らぬが、地上の場合だとて同じことだ。

その会合に出席すべき霊は会合の時刻が来たらちゃんと出席しなければならぬわけだが、その時刻は誰が知らせるのかというと、実は誰でもないのだ。法則がちゃんと出席すべき霊を集めるのだ。

「その法則は愛の法則と呼んでもよいし、奉仕の法則と呼んでもよい。とにかく法則が自動的に出席者を招集してくれる。そういう芸当ができるわけは、結局その世界の霊が神の意志であるところの原理すなわち摂理に絶対忠実に動く鍛錬が出来ているからだ。

神の意志という言葉を抽象的に解釈してはいかん。父さんはそれを具体的な“事実”として話してるんだ。だってそうではないか。神の意志というのは引力と同じように、イヤそれ以上に厳然として動かし難い実在の法則を言うんだから。

その意志が宇宙全体に行き亘っていることは言うまでもないが、その意志をじかに感識し、同時にその奥義を理解し得るのは各天体の最高界の霊だけだ。

「そんな次第だから、最高界の統治は個別的な霊の集合体によるのではなく、神が直接に統治しているとも言える。その最高界の最高の地位にあるのは言うまでもなくキリスト神だ。神の霊と意志はこのキリスト神を通じて顕現され行使される。キリスト神こそは地球を代表する生きた神意の象徴だ。

「さて、さきの会合の話だが、その界にいる者は神意への絶対的服従者ばかりであることは言うまでもない。もしそれが出来なければその界には居られんはずだ。また彼らはその神意を完全に理解している。だから今いったような会合の必要性が生じた際にも、いちいち伝令を送る必要がないわけだ。

父さんが見たところでは、会合を開く必要があるという事実そのものが出席すべき霊を招集するらしい。結局彼らはただその必要性に従っているにすぎないわけだが、彼らは別にそれを不思議とは思わぬらしい。それはちょうど大昔の人間には奇蹟と思われたに違いない電話が、お前には少しも不思議に思えぬのと同じだ。

「1度父さんはキリスト様を拝みたいという者ばかりを案内してあげたことがある。その時のことだが、第7界まで来たら不意に高級霊の一団の出迎えを受けた。大昔に地上を去った立派な方ばかりだ。

その時の様子を今もはっきりと覚えているのだが、その地点に到達すると同時に、その方たちがそれぞれ違った方角から1度にぱっと集まったのだ。場所も同じだし時間も正確そのものだ。早すぎた者もいないし遅すぎた者もいない。

実にぴったりだった。その方たちも言っておられたが、父さんたちが来ることは前々から予知していたことで、いよいよ時刻が来たと感じたからやって来たらしい。別に知らせを受けたわけではないとのことだった。

「父さんの考えでは、その方たちは宇宙間の事物の全部、つまり神のプランの全てに通じているのではないかと思う。そのホンのひとかけらが父さんに手渡され、その一部がさらにこうしてお前に伝えられているわけだ。がそれでいいのだ。

もしも全プランが1度にお前に手渡されたら、お前は目をまわし頭がおかしくなって、ブッ倒れてしまうよ。だからその方たちの事物の認識方法をお聞きしても、恐らく父さんにだって教えてくれないだろうと思う。聞いても解らんだろう。

何しろ1度に全部を理解してしまうそうだし、いちいち細かいことにはタッチていないようでいて、実際にはちゃんと行き届いている。とにかく、やること為すこと全てが完璧なんだから。

エッタ「あたしが譬え話で説明してあげましょう。たとえばピアノを習う場合だけど、誰だって最初はゆっくり間違わないように弾くでしょう。ゆっくり弾くから指先が鍵盤を叩いていく様子がいちいち判ります。

ところがピアニストのような熟練した人になると、もうどの指がどのキーを叩いているかなどということは、いちいち考えません。が、それでいて初心者より正確に、しかも上手に弾きます。これは結局その音楽全体をひとまとめに理解しているからです。

細かいこと、たとえばドの音はここ、ファ音はここといったことはもう意識していないでしょう。高い世界へ行くと、そういった無意識の理解の方が意識的な理性的判断よりも大切になってくるのです。意識的に“知ろう”とするのではなくて“解る”のです。

父「エッタの言う通りだ。人間には推理的判断よりもっと高級な直感という能力が具わっている。ある人はこれを良識と呼び、ある人は本能と呼んでいるが、要するに知ろうとする手間へずに理解してしまう感覚だ。

高級界の統治はみなこの直感方式によるわけで、言わば“わかる組織”になっていると言えるだろう。むろんずっと下の界から一足跳びにその世界へ行くことは出来ない。1歩1歩向上して行かねばならない。

だから、いよいよその世界へ辿り着いた時はすでに、その直感力によって物事を察知したり、統治したり、あるいは逆に統治されたりする生活形態への準備が出来ていることになる。神の摂理を完全に理解しているから、自分より下の者を統治することも、自分自身をその摂理に素直に従わせる修練も出来ているわけだ。

「父さんが今住んでる第3界の統治形式はどちらかと言えば地上の政治形態に近い。もっとも、そう法律でがんじがらめにはなってないがね。やはり規律というものがあって、やってよいことと、やってはならないことはある。第3界へ来たくらいではまだまだ未熟だ。

だから自分ではベストを尽くしているつもりでも、実際には無駄だらけだ。そういう人間に好き勝手なことをさせておくわけにはいかないから、ある程度の監督が必要となってくる。そうしないと、動機は正しくても、実際には為にならんことに一生けんめい精を出していることがあるのでな。

そこで父さんの世界には助言局とでも言ってよさそうなものが設置してある。ある霊はとんでもない方法で地上の友人を援助しようとし、ある者は何の役にも立たない仕事を始めようとしている。そういう場合はその霊を助言局へ呼んでいろいろと間違いを指摘してやる。

概してこちらへ来て間もない霊が多いようだが、決して強制はしない。地上と違ってその必要があまりないのだ。忠告してもなお本人がどうしてもやるんだと言って聞かない場合は、幾人かの監視をつけて、なるべく過ちの少ないように、また、なるべく早く自己の通りに気づくように指導させることになる。」

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(5)地上生活の記憶と回想

家族または知人との再会がありうるとなれば、当然、記憶とその回想ということが問題となる。ちょうどその問題に触れた通信が同じトーマス『実証による死の彼方の生活』に出ている。次にそれを紹介して本章を閉じることにしよう。

問「過去の記憶はどのようにして思い出すのですか。」

父「父さんの世界では別に“思い出す”というようなことはしない。なぜかというと、全てが一体となって存在するからだ。つまり過去も現在も同じページに記されている。だから父さんたちにとっては過去はすなわち現在であるとも言えるわけだ。

第一、忘れるということが不可能だ。別に始終過去に目をやっているわけではない。見ようと思えばいつでも見られるようになっているまでだ。記憶を留めておこうと努力しているわけでもない。」

問「でも、やはり実際に体験した時よりは実感が薄いでしょう。」

父「いや、意思さえ働かせれば実際と同じ実感を覚える。」

問「すると結局地上生活のいちばん幸せなシーンをもう1度そっくりそのまま味わえるわけですか。」

父「味わえるし、現に始終味わってるよ。特に愉快なのは、記憶の中の相手といっしょに回想する場合だ。地上ではふたりで昔の思い出話を語り合っても、相手がはっきり覚えてなかったり別の事を思い出したりして、懐しさが半減してしまうことがあるが、こちらではそれがない。お互いが同じ場面をはっきりと思い出すことが出来る。そこが地上と違うところだ。

「今の父さんは個性というものが永遠に不滅であることを十二分に得心している。いまだにこれに反論する者に出くわさないのだ。自我は決して無くならない。ただ完成されていくのみだ。

つまり無上の法悦境に至るまで自我を磨き上げるのだ。そのためには我欲を捨てなければならぬが、自我の善い面は決して失わない。全ての者が同じタイプになってしまうという意味ではない。善い面の個性は決して失われない。

「たとえばエッタは今もって衝動的で、せっかちで、興奮しやすいところがあるが、そういった性格は善い方に利用すればいいのであって、全部捨ててしまう必要はない。地上の宗教思想家の中には人間は最後は“霊の海”の中に融合して個性を失ってしまうと説く者がいるようだが、とんでもない話だ。

エネルギーと叡智の根源と一体となることはあっても、その中に融け込んで個性を失ってしまうようなことは絶対にない。なぜなら“神は自己に似せて人間を造り給”いし如く、自己に似せて人間を愛し続け給うからだ。」

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第7章 神の啓示

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最後に紹介するのはデービスの『大自然の神的啓示録』である。引用する前に、本書が書かれるに至った経緯(いきさつ)を述べておくのも無駄ではなかろう。

デービスは1826年アル中の靴職人を父親として生まれた。当然のことながら家は貧乏を極め、デービスは小学校さえロクに通えなかった。がデービスには子供の頃から霊視と霊聴の能力があり、そのお告げに従って家族はブルーミングローブからパキプシーへ転居し、そこでデービスはアームストロングという靴屋に奉公した。

16才の時その町にグライムズという人が催眠術(メスメリズム)の講演にやって来た。デービスも聞きに行って自分を実験台にしてもらったが、まるで効果がなかった。その後リビングストンという仕立屋がその講演を聞き、面白がってある晩デービスの家を訪れ実験台になってほしいと言う。

やってみるとこれが実に美事に成功し、デービスは催眠状態で透視能力を発揮しはじめた。ただ物が見えるというだけでなく、人間を透視するとその人のからだの悪い箇所が判り、治療法まで教えることが出来た。

特に不思議だったのは、まるで教育を受けていないはずの少年が人体の各器官の名前や医学用語を使い、さらに、その部屋にいる人も知らない解剖学的知識まで披露した。(これはテレパシーでないことの証拠になる。)このことで店の主人のアームストロングはデービスに奉公をやめてリビングストンといっしょに治療活動をすることを許した。

そんなある日のこと、デービスは催眠状態で、そのうち人類へ向けて一大メッセージを告げる予定であると言い、しかし同時に、それは催眠状態では適当でないとも述べた。

リビングストンは残念がったが、デービスは或る力に導かれてリヨンという医師のもとを訪れ、自分に霊視能力があることを証明してみせてから、“お告げによるとあなたが私の新しい指導者(さにわ)となり全人類へのメッセージがニューヨークで告げられることになっている”と述べた。

これを本物と信じたリヨンはその土地を払ってニューヨークへ行き、そこでまず開業医としての生活の確保に努力し、次にフィッシュバウという牧師に頼んで速記者になってもらうことにした。

そしていよいよ1日のうちのわずかずつの時間をデービスの入神講演に割き、やがてそれがまとめられて3部作“大自然の原理”“その神的啓示”“人類に告ぐ”となって出版された。これが私がこれから紹介せんとする「大自然の神的啓示録」である。

その中でデービスは宇宙を7界に分け、物的宇宙を第1界としている(注19)。従って、当然死後の世界の描写は第2界からとなっている。

第2界

「いまや私の霊眼には地上のさまざまな存在物と、私を含めた幾人もの人間の身体がかつてなかったほど明るく且つ生き生きと映ってくる。その時気づいたことだが、私がそれらの存在を認めることが出来るのは、霊視能力という霊魂の光があるからだ。

霊視能力にとって肉体なぞ少しも障害にならない。見えるのは生き生きとした霊の姿ばかりだ。かくして私は、この霊視能力のお蔭で第2界の存在物と親しい交わりをもつ準備が整った。すると、いつしか眼前に第2界の広々とした生活風景が展開しはじめた。

「第2界の生活者は大きく3種類に分類することができる。まず精神的に若くて未熟な者。次に人間でいえば中年期に相当する者で、かなり進歩している。第3が第2界の最高層に位置する者で、形体においても実力においても第2界では完全である。

「地球に限らず、あらゆる天体上で幼くして死んだ幼児の霊魂はみな、まずこの第2界において真理の教育を受ける。その真理は第2界のことだけとは限らない。未熟のまま捨て去った地上生活のこともあわせて教育される。そしてみな立派に成長し完成されていく。

その点は子供にかぎらず無知な霊すべてに言えることである。いや無知な者ばかりではない。地上でインテリと言われ高い教養を積んだ者も、やはりこの界において全存在について改めて学ばねばならない。なんとなれば彼らはこの第2界において子供や無知な者より当然高い地位を占める者だからである。

「右の3種の霊は進歩の程度と親和力の性質に応じてさらに3つの“社会”又は“集団”を構成している。そしてさらにそれぞれの社会は三種三様の霊的大気によって包まれている。その大気はそこに住む霊魂の発する霊的光線の反映である。

むろん個々の霊もそれぞれに異った特有の雰囲気を放っているが、同時にその社会全体に共通した“一般的雰囲気”をも出している。共通なものを有すればこそひとつの集団として共存できるのであり、互いに親しく近づき合うことも出来るのである。

「よく見ると近づき合う者同士はその明るさの度合が大体似ている。同質性と親和性つまり愛の法則がそうさせるのである。同一社会に住む霊魂の開発せる愛と純粋性の度合が大体一致しており、お互いが愛慕の情を抱き合っているのであり、かくして3つの共同体が構成されているのである。

「第1の社会は幼児と未熟な霊によって占められている。彼らは地上から来たばかりで、地上を去った時と同じ姿、同じ発達程度のままである。発達程度を異にする種々様々の未熟な霊が湿り合っている。

それが第2の社会へ行くと、神の原理と真理とにある程度の悟りをもった者が集まっている。第3の社会になると第2界では最高といえる霊格を具えた者が集まっている。その大部分は木星、土星等からの渡来者であり、さらに他の太陽系の惑星からの渡来者も混っている。

この第3の社会を包む大気は非常に高度な光に輝いており、下のふたつの社会の霊が近づこうとしても、その光の強さに圧倒されて近づくことが出来ない。非親和性のために弾き返されてしまうのである。

「第1の社会を包む大気は雑多でボンヤリとした光輝を発している。上の社会に比して元気が無く、言わば陰うつで暗くて調和性に欠けている。低級な未熟霊の発する光輝なので無理もないが、しかしその中にも地上に見られない或る種の純粋性を認めることが出来る。

「第2の社会を包む大気は第1の社会に比べると余ほど融和性に富んだ光輝を発しており、そこに住む霊の純粋性と高尚さを示している。その光輝は地上では見られない多種多様の色彩を帯びている。その調和の完全さは純粋性と高尚さの象徴のように感じられる。

さらに大気全体に叡智の輝きが見られるが、その叡智は主として物的または基礎的なことに関する叡智である。個々の霊を比較すれば知的な面で大きな差が見られるが、叡智つまり真理の理解の程度においては大体似たような霊が集まっている。

「第3の社会を包む大気は霊妙そのもので、そこに住む霊の霊格の完全さを表象している。ありとあらゆる色彩が混合しており、さらに第1及び第2の社会の大気が反射していて、一層その美しさを引き立てている。その美しさは殆んど言語に絶する。

「第1の社会の霊は依然として物的観念から脱していない。すなわち地上生活で得た教訓と印象の範囲内で生活しながら、第2第3の社会へ向上するための叡智を摂取しているのである。

「第2の社会は“原因”の世界である。すなわち地上という可視的結果の世界を操っている不可視の内的原因に通じている。それ故、第2の社会の霊には地上の生活現象が何から起こり如何なる過程を経ていくかが手に取るように判る。が彼らに判るのはそこまでであって、その因果関係に如何なる目的があるかについては何も知らない。

「第3の社会は“結果”の世界である。ここに住む霊は全計画に通じ、あらゆる事物の存在意義を察知する能力を具えている。完全に開眼した心眼と鋭い洞察力は外的事物を貫通して内部の本性と特性のみを感識する。彼らの視界は自己の生活のすみずみまで行き亘り、同時に下界のあらゆる創造物にも通じている。

彼らの叡智は、ある時は光となり、ある時は愛となり、またある時は英智となり、さらにまた法悦ともなる。その光、その愛、その英智、その法悦の素晴らしさはことごとく言語的説明の域を超えている。その霊覚に映じる世界の広さと美しさは到底地上人の想像、理解を超えている。

「第3の社会は原因の世界から結果の世界への超脱であると同時に、第2界から第3界へ進むための修行場でもある。

「見落してならないのは、以上の如き相違があるにもかかわらず、3つの社会は完全に調和し、互いに依存し合った生活を営んでいることである。第1の社会からひっきりなしに愛慕の念が湧き出で、それが渦を巻きつつ上昇して第2の社会を通って、第3の叡智の社会にまで到達する。

すると反射的に第3の社会から愛に育(はぐく)まれた叡智の渦が生じ、第2の社会を通って第1の社会にまで行き亘る。行動の一体性、身分関係の円満さ、各自の立場の妥当性がみずから第2界を完全なる兄弟関係にまとめている。

「第2界における会話は“音声”によるのではなく、相手に自分の考えを浸透させるのである。その浸透は一種の呼吸作用によって行われる。目によって相手の意中を察することもある。

なぜなら目は内的自我が顔をのぞかせる窓だからである。また一見したところでは耳を使用しているようにも見える。が、これは物質界における音声による生活の癖が残っているからにすぎない。

「事物の本性を観察する際には映像の形で感識する。が彼らは映像は本性そのものでなくその反射にすぎないことをよく知っている。それ故、受け取ったものをそのまま鵜呑みにするようなことはしない。呑み込む前に一応の判断を下すが、その判断は映像の形態によるのではな洞察力または看破力によって直接その本性を見抜くのである。

「この界の霊も地上の人間同様、親和性の作用によって近づき合うが、地上と違うのはその親和性の働く動機である。地上の人間関係は得てして下品な肉体的感能を伴うが、第2界の関係にはそれがない。すなわち近づき合う前に互いが相手の内的親和性の愛の程度を判断している。

「さらに気づいたことは、過去のあらゆる体験が漏れなく記憶に留められていることである。衝撃的な体験は言うに及ばず、何気ない些細な体験でもちゃんと記憶の層に収められている。ただその印象の強弱によって回想の際の鮮明度が違うだけである。

「外界からの影響のみならず心に宿した考えや思想もそのまま記憶に残っていて、良きにつけ悪しきにつけ現在の生活に影響を及ぼす。概して思い出したくないような不愉快な体験は記憶の層の奥に押しやられ、愉快な楽しい体験が表面を占めていて、時おり意識に上(のぼ)っては魂をよろこばせてくれる。

それ故に人間はなるべく楽しいこと愉快なことを考えるようにし、且つ実行しておくことである。もし社会的環境がそれを許さないというのであれば、その環境の方を改めて、死後の生活に備えるべきである。

「会話中たまたま話題が過去の記憶にふれると、たちまち眼前にその体験時の情景が展開する。それが相手にもわかる。私は高級霊が記憶を甦らせているところを目撃したが、その情景は実に“美しい”の一語に尽きる。高級な霊ほど回想する体験も高尚で美しく、また教訓に富んでいる。

「この界ではすべてが叡智の働きによって創造され表現される。完全な秩序と調和とが行き亘っているのはそのためであり、その秩序ある調和に満ちた生活から言うに言われぬ幸福感が湧き出るのも、叡智の支配が徹底しているからこそである。彼ら第2界の生活者は自分に授かったものは、いかなるものであっても神の光と生命の贈物、神的叡智の命令と信じて、感謝して受け入れる。

「こうした第2界の同胞愛に満ちた共同生活を見ることは実に楽しいかぎりである。どの霊を見てもみな幸福感に満ちあふれた明るい表情をしている。彼らの生活は何もかも自然で低俗な不純さがない。それは結局彼らの内的自我そのものが、そうした不自然さや見苦しさを超越しているからに他ならない。

もちろん第3の社会に比べれば第1の社会はよほど低級である。が第2界全体としてみた時、そこには上下左右の完全なる調和と秩序とが行き亘っていて、少しの不自然さも感じさせない。

違うことといえば、ただ進化の程度のみである。下は上にあこがれ、上は下に愛の手を差しのべる。個人としてみればことごとく違った個性と愛と叡智を具えているが、過去の生活の反省による現在の生活の改善向上という目的においてはみな同じである。

「第2界の美しさ、それはもはや美しいというよりは壮厳と言った方がよい。なぜなら第2界全体が3つの社会と個々の霊の発する神々しい光輝によって輝き亘っているからである。その色彩は地上ではついぞ見たためしがない。第3の社会の壮厳さに至っては、第1の社会の霊魂さえも圧倒されて平伏してしまうほどである。

「この界では個々の霊が自己の立場をよく認識して、決して調和を乱すようなことはしない。厳然たる上下の差を意識すれば自ずと謙虚であらざるを得なくなるのである。要するに彼ら霊と霊との関係は自己の開発せる霊的感覚と力量によって程度と範囲が定まるのである。

また花がその種子の中にその植物の種(しゅ)を保存するように上の界の霊は常に下の界の霊の宿す霊的可能性を開発させるべく配慮し、かくして互いにより高い霊性と知性とを身につけることに努力しているのである。

「次に第2界の外面的美しさを説明してみよう。高級な世界の生活様式を明確に述べておくことが、地上の生活状態の社会的ないし霊的改善のためにも是非とも必要と思うからである。

「要するに第2界は物的世界の善い面のみをさらに一層完成せしめたものと観ぜられる。つまり物質界は第2界の初期的段階であり、それ故それぞれの天体生活は言わば第2界の索引または案内書のようなものである。自然がすべての母であり、霊的なものも根本においては物的なものから生まれ完成されていくのである。

「広漠たる表面には調和のとれた穏やかな起伏があり、それが全体に変化と魅力を与えている。そこここに純粋性と天上的愛の象徴の如き庭園がある。その庭園に設けられた幾すじもの小道は、常に新しい地所に進むように出来ている。その設定の様子はさながら宇宙の調和の二大要素たる神的愛と叡知を表現している。

咲き乱れる花、そしてその葉までが、あたかも自己の内的完全さと自己の母たる無限の神の美しさを詩(うた)っているかのようである。植物が、花が、小鳥が、そして樹木の1本1本が、みな神の愛と働きとをそっくりそのまま表現しているかに観ぜられる。

「ひとつひとつの創造物の形体が皆それなりの美を具えている。それは天上的愛と叡智の表現に他ならない。中でも花と葉が最も変化に富んだ光景を見せている。その変化に富んだ光景は種々様々な教訓を暗示するとともに、見る者に清らかで啓発的な思念を呼び起こさずにはおかない。

絶え間なく放射される芳香は天高く上昇し、外気に生命と光彩とを与えている。それは更に愛の芳香となって吸い込まれ、叡智の言葉となって発散する。すべての創造物に生きた愛と愛慕の念が宿されていて、これが次々に伝播し、言わば電気的に反応し、輝きを見せる。

ひとつの花が他の花に己れの美を賦与し、その花が次の花に美を賦与していく。かくして第2界では神的愛と神的叡智の表現の生活が営まれている。

「この界の無数の事物の間には各々の形体がもつ本来の情愛の一種独特の融和が存在する。これは霊界のすべての事物について言える。その事物の始めと終りは判らぬが、その現実の存在そのものが生きた美を見せている。

「天界の叡智は言葉によって表現されるのでもなければ、記憶のままに留められているのでもない。天界の事物そのものがことごとく表現しているのである。言いかえれば、教訓や忠言も言葉ではなく行動と表現の中から汲み取るのである。無駄なものはひとつも存在しない。全てが啓発的、実用的に出来ている。

「第1の社会に住む霊もむろんその変化に富める景色の美を満喫するが、彼らの観賞は感覚的な域に留まり、叡智的な観賞にまで至っていない。しかしその感覚的な観賞の中に叡智的な審美眼が徐々に培われつつあるのである。すなわち彼らがその景色に止めどもない美を感じて近づくと、その美は生きた愛を彼らに吹き込み、その愛は彼らの心に叡智の炎を燃え上がらせる。

このように全てが霊魂の進化のために創られているのである。彼らはその完全なる適合性を本能的に感識すると同時に、善なる道を歩まんとする道義的欲求によっても認識する。

「第2の社会に住む霊も第1の社会の和と喜びを味わい、一方、理解の及ぶかぎりの存在物を分析研究し、その叡智と創意の結晶を生み出していく。

「第3の社会に住む霊は第1及び第2の社会の霊の守護に当ると同時に指導にも当る。彼らは高度な叡智の完璧な模範である。その広遠な知識は第1及び第2の社会、そして第2界全体の霊的存在を美化し荘厳化している。

「散在する花園の間をぬって、清く美しき小川が幾筋も流れている。その淀みない流れは創造物に光と生命とを賦与する神的愛と神的叡智の淀みない流れを象徴している。

「ひとつの社会に湧出した神的愛は、あたかもめる池に小石を投じた時のごとく、上下の界へ広がりつつ最後には宇宙全域に行き亘る。その愛の波を妨げる何物もない。寄せては返す波の如く、すみずみを洗いつつ最後は神的叡智の中へ融け入っていく。愛こそは実に創造の第一原理なのである。

「愛を運ぶその川は実に神の創造の具体的表現と言ってよい。同時に生命現象の象徴とも言えよう。何故なら、川が湧き水より生じて最後に大海へ注ぐ如く、生命も宇宙の内奥から出てて最後には全創造物を支える普遍的宇宙魂となっていくからである。

どの川も底が透き通って見えるほど清く澄み亘り、天空の絢爛たる光景がそのまま映っている。夜が星を輝かせるように、その澄み切った川が天空の美を一層引き立てている。

「川はさらに谷間をも流れている。その谷間も種々様々な美しき創造物に富み、全体がさながら生命と叡智の完全なる具象である。

「さらに私の霊眼には、うっとりするような魅惑的な森が映った。その美しさは見る者の心に美しき思念を呼び起こさずにはおかない。その森の中には神の御心である叡智を求め、且つ愛する者たちが憩いの一時を楽しんでいる。

愛ひとすじに生きる第1の社会の霊もそこに憩の木蔭を求め、謙虚にしてしかも尊厳に満ちた態度で、上下左右に存在する天界の美を観賞し、同時に高級霊の説明に耳を傾ける。

「第2界ではすべての霊が他を愛することを心がけ、常により高い幸福を求めている。相手によって善意を割り引くようなことは決してしない。また彼らは研究心に富み、常に物事の原因を深めることを心がける。そしてそこから神の愛と叡智とを摂取する。倦怠、無気力 – そうしたものは彼らは知らない。

天界のいずこに目をやっても、そこには活動と精励努力があるのみである。むろん彼らが精を出す仕事は自分が心から興味を覚えるものに限られる。それ故、他人との間に混乱が生じることがない。同時に彼らはその仕事に愛着をもつだけの資格を具えている。

むろん仕事への愛着はそれぞれの霊格に応じてまちまちであるが、各自がその力量を謙虚に考慮して仕事を選ぶから、各自はそれなりに妥当な扱いを受けているわけであり、有益でもあり、全体としての調和性にも適っているわけである。すべてがその欲求に相応しい環境へと引かれていくのである。

「さらに私はこの界で最も壮厳な建築物も見物した。天界の創造物はことごとく愛によって生み出され叡智によって完成される。要するに心の投影なのである。私は荘厳な建物が建てられていく様子を実際に見たが、建物だけでなく平野も谷も小川も森も、ことごとく心の産物なのだ。

「従って霊格の違いがそのまま産物に表われる。第1の社会の産物も愛と意志と叡智とによって造られていることには変わりないが、やはりお粗末である。

それが第2の社会へ行くとずっと垢抜けしてきて、統一性と秩序と実用性とを増してくる。それが第2の社会の実用性に合っている。第3の社会の産物となると、その完全さと荘厳さは完全に地上人の理解の限界を超えている。

「また彼らの生活全体に何とも言えない幸福感が漂っている。荒(すさ)んだ心を慰め、乱れた心を鎮めてくれる寛恕に満ちた愛の心、つまり普遍的な愛に満ちているのだ。

愛の交換には真心がこもり、互いが抱く独自の思想の間にもどこか調和がみられる。宇宙を動かす大生命と愛とが極めて自然に実生活に表現されているのである。

「思想の交換には実感がこもり、また自己に不必要な、あるいは不適当な思想は決して受けつけない。天界には常に思想の波が漂い、下降と上昇を繰り返しながら、上は最高界の神の座にまで到達している。

「ここには地上では得られぬ神秘的な真理が存在する。が私にはそれを語ることは許されない。なぜならその真理は地上人にとって不必要なものだからだ。それよりも霊界生活者の思想、信仰、経験と直結したもので地上人に必要な真理がいくらでもある。それを次に述べよう。

「地上で幼児が死ぬと、その霊は第1の社会へ連れて来られる。それを霊界人は地上における誕生と同じ気持で祝福する。幼児の霊は第2界の崇敬の的である。なぜなら幼児こそは優しさと親切心と純粋性の権化だからである。それ故に彼らは第2界で非常に可愛がられ、最高の愛と叡智でもって丁重な養育と指導とを受ける。

幼児は愛のみで出来ていると見なされ、また完璧さを成就できる可能性を秘めていると見なされている。目的はただひとつ、その魂に宿された神的可能性の開発である。それが実に純粋で優しい方法で行われる。

「過った地上生活のために正常な発達を阻害された未発達霊も、右の幼児と同様の取り扱いをうける。また病気や不慮の事故のために精神の発達を阻害された精神異常者も、やはり同じように未熟霊として同様の取り扱いを受ける。

「また地上生活を悲劇の中に終始し、何らの楽しみも知らずに霊界入りした霊は、あたかも母親が吾が子を抱きしめて愛撫するように、それ相当の社会において最大限の愛撫を受け、無上の法悦を味わう。各霊の深奥に宿る情愛でもって優しく愛されるのである。

「何よりも有難いことは、相手の性格を表面的な感情や衝動から判断せず、内的本性を直接感識してくれることである。それ故に判断に誤解とか狂いというものがない。霊界入りした霊が受ける待遇は本性の判断に従って用意される。だから、誰も不当な待遇は決してうけない。つまり過分の愛を授かることもなければ、反対に不公平な取り扱いを受けることも有り得ない。

「奇妙なことに、霊界入りした霊のほとんどが自分で死んだことに気がつかない。大ていの人間は見知らぬ他国へ来たぐらいに考える。それほど死という現象は自然なのである。

が、やがて霊的感覚が目覚めるとともに自分がいわゆる“死んだ人間”であることに気づき、それと同時に、なぜこんなこと(霊界の存在)が地上にいた時に気づかなかったのだろうかと不思議に思うのが常である。なぜというに、どこをどう見ても宇宙が自然そのものに出来あがっていることを知るからである。

「また地上で過ったドグマを信じていた者は、こちらへ来てその過りに気づき、自分はなぜこんなにまで他人の言説に迷わされ易かったかと驚き且つ情なく思うものである。たとえば復活を文字どおり肉体の復活を信じていた者は、それを恥ずかしく思ってそれを他人に気づかれまいと努力する。

またある者は過った思想・信仰をつくろって現在の事実と調和させようとする。その過った思想信仰を吹き込んだ者も同じである。こちらへ来てその通りに気づき、何とか隠そうとする。が、それも永続きはしない。

やがて“この世界ではごまかしがきかない”ことを悟ってその過失を認め、ドグマをかなぐり捨てて、真の向上の道を歩み始めるのである。

「第1の社会は愛の社会であり、第2の社会は意志の社会であり、第3の社会は叡智の社会である。いずれも家族とグループと団体とによって構成されている。秩序と形体と発達段階と地位とが厳然と存在するが、全体として完全な同胞精神の中で生活している。

「どの社会の人口も太陽系上の総人口よりも多い。否、第5太陽族(注7参照)の総人口よりも多いかも知れない。その数は完全に計算の域を脱している。また3つの社会のうちの第1の社会は最後の物的創造つまり第5太陽族から生まれたものである。

今の私には人間がこの事実を知らずにいたことが不思議に思えてならない。が、それも無理からぬことかも知れない。なぜなら、霊魂というものは肉体に宿ったが最後、物以外の存在物を感識することが出来なくなるからである。

肉体を棄てれば(形体こそ変わらないが)、それまで肉体的感覚の下に埋もれていた霊的感覚が芽を出し、そこで初めて霊的世界の存在に気づくのである。

「第2界の第1の社会の生活者は主として水星、金星、地球、火星からの渡来者である。その他の天体からの渡来者は思想的にも叡智的にも、もう1段高い地位を占めているようである。

「霊界には一種の荘厳なる静けさが行き亘っている。また、言うに言われぬ幸福感がみなぎっている。そして法悦と歓喜と讃美の念波が上界へ上界へと止めどもなく上昇している。あまりの純粋さ、あまりの荘厳さに、私の心は今にも圧倒されそうで、その実感はとても言語では尽くせそうにない。

が、ここにおいて私にかつてない力が開発され、そのおかげでこうした真理の急流を受け止め、荘厳なる天界の美を観賞することを得ているのである。

「第2界の霊にも音楽的感覚がある。が彼らが音楽を聞くという場合、“音”を聞くのではなく“ハーモニー”を感識する。ハーモニーこそ音楽の真髄である。霊界には常にこのハーモニーが漂い、ちょうど花の香が嗅覚を通して感識される如く、それが霊魂の音楽的感覚を通して感識される。

花にも森にも音なきメロディがある。否、霊界のみではない。物的、霊的の別を問わず、全宇宙に神の妙なるメロディが漂っている。私にもそれが判る。霊界のいかなる迷路、いかなる通路も、この宇宙的ハーモニーのバイブレーションとエコーの届かぬところはない。

魂に宿れるいかなる思いも、このハーモニーに鼓舞されて生命の息吹きを得、神を讃美する行為へと駆り立てずにはおかない。物的、霊的の別を問わず、宇宙はすみずみまで生命と光と愛が行き亘り、そこには必ず神のメロディがあふれている。故に全ての存在が音楽を愛し、その美を詩(うた)う。それが完全な形で成就されるのは第2界においてである。

「私は霊からでも人間からでも記憶を読み取ることが出来る。それも、まるで書物を読むように簡単に出来る。だから私には地上人の知らない霊界特有の体験と知識を吸収することが出来るのである。が、それを全て地上人に語ることは許されない。なぜなら、その中には地上人が知ってはならぬことがあるからである。

「書き落せないことがもうひとつある。それは、地上で出来た縁は、それがもし純粋で真実のものであれば、そのまま第2界に持続され、さらに第3界、第4界と、以後も限りなく永続するということである。たとえ片方が先に他界しても変わりはない。

両者はいずれ第2界、第3界、あるいは第4界において、地上における再会の如き懐しい再会を楽しむことが出来るのである。両者に霊格上の差異がある場合は、進歩している方がその叡智によって他方を抱擁し愛を目覚ましめることによって両者の縁を持続し、本性的に一体となれる日を待つ。

縁の根本は愛であり、その愛を脚色し完成せしめるものが叡智である。それ故、地上の縁は概して愛的であり、天界の縁は叡智的であると言えよう。

「子供が可愛がられるのは地上も天界も変わりはない。ただ天界の親子の愛には叡智が加わっている。幼くして他界した子供は親が他界する頃までには見違えるほど成長しているのが常である。が愛は不変不滅である。互いの魂の奥に宿された愛が甦るや否や、容姿の変化に戸惑うことなく互いを認知し、相かけ寄って抱き合う。

「縁は魂の浄化よりむしろ魂の本性の類似性によってその強さが定まるものである。これは物的霊的の如何を問わず全宇宙を支配する大原理である。

「以上が第2界の生活と法則である。第2界と地球及び他の天体との関係は、程度の差こそあれ大同小異である。天上界の生活と法則とを知ることは、地上生活を進化という目的に適ったものにする上で極めて重要なことである。

それがこの啓示のそもそもの目的であり、必ずやその目的を成就せずにはおかない。成就せる暁には人類は社会的にも道徳的にもより高度な文化を達成し、神聖にして至福かつ完全となるであろう。

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第3界

「天体上に続々と新しい生命が誕生しつつあるように、第2界へも物的天体から続々と新しい霊魂が送り込まれてくる。それと同じく第3界へ第2界からの新参者が間断なく送られてくる。その絶え間なき生命の流動の数は創造者たる神のみの知るところである。

「第2界から第3界への誕生も形式上は地上人の言う“死”と同じであるが、彼らの死には地上人がその言葉から受けるあの暗さがみじんもない。それどころか、神への信頼と永遠の向上心に徹した彼らは、いよいよ第2界へ別れを告げる時期が来ると、筆に尽くせぬ無上のよろこびに浸る。

なぜなら彼らはその死の彼方に幸福と叡智に満ちあふれた新世界が待っていることを知るからである。その法悦は霊のみの知るところである。さらに美しいのは、そのよろこびも叡智の支配下にあることである。

死といっても第2界からより霊格に合った上の世界へ行くだけであって、死の痛みは生と美のよろこびによって掻き消されてしまう。復活の真の証(あかし)がここにある。第2界の霊は上の界への飛躍を復活と考えており、それもあくまで自然法則の働きによるのである。

「第3界にも同じく3つの社会が存在し、三種三様の光輝を発している。それは完成された愛と、完成された叡智と、天上的純粋性に相当する。第1の社会には第2界の第3の社会から来た霊が住んでいる。

彼らの有する愛と意志と叡智とは、第3界でこそ最下等であるが、地上人の想像を絶するほど完成されている。その清純なる愛はあたかも電気的炎(ほのお)の様相を呈して容貌に表われ、それが互いに反応し合って、全体に柔らかい雰囲気をもたらしている。

彼らの完全なる意志 – 不徳なこと、あるいは社会全体に迷惑を及ぼす行為を決してしない謙虚な意志の働きを見るのは快(こころよ)いものである。またその高度に開発された叡智の働きを見るのは美しいという形容を超えている。

なんとなれば、その叡智は地上のいかなる花も及ばない香気を発散しているからである。その香りが天界の霊を心地よくさせている。

「第2の社会に進むとさらに高度な愛と意志と叡智とを身につけた霊が住んでおり、その協調的生活は第三者に個人的区別を意識させぬほどである。

「第3の社会には第3界で最も進化した霊が住んでいる。どの霊も低い霊には近づき難い天上的清純さにあふれ、ひとりひとりがあたかも太陽の如き、いやそれ以上に素晴らしい光輝を発している。

その光輝は愛と叡智と天上的清純さの結晶であり、第3界の守護神ともいうべき存在である。彼らは引きも切らず下の界へ降りていく。純粋性を渇望する霊の心を満たし、神聖にして天上的欲求に応(こた)えんがためである。

「第3界の表面も地上と同じく大海の波の如き起伏があって、美しい景色を展開している。永遠なる神の国に美しく咲く色とりどりの花が快い香気を発散しているのがわかる。私は霊眼によってその花の種類を識別することが出来る。見るからに美わしいその花は、ひとつひとつが不滅の真理を象徴する聖園の天使である。

「ここで見落してならぬことがひとつある。それは、天界の存在物のどれひとつをとっても、それには必ずそれなりの用途と計画とがあることである。つまり万物はそれぞれの目的を具えており、しかもその目的は結局は人間の霊的進化ということに統一されているのである。

万物は神の意志の象徴であり、有為転変は神の言葉の表現である。第3界の生活者はそうしたことをただ聞いて知っているに留まらず、よく理解している。すなわち見たり聞いたりして知る地上的感覚から脱して、全能力が一丸となった高度の霊覚によって理解しているのである。

「次に私の霊眼には谷が映った。が私にはその谷の果てを見極めることも、またその美しさを賞味しつくすことも出来ない。それは第3界に住む者のみしか理解できぬものである。そうだ、ここの谷はそのひとつひとつが人間に読みつくせぬ大部な書物のようなものだと言えばよかろう。それほど教訓に満ちた谷なのだ。

「次に私が見たものは清らかな小川である。その荘厳な美しさはとても言語では形容しかねる。が、それよりも尚一層私の心を打ったものは、その流れと大気とがいかにもつつましやかに常に融和せんとする感じにあふれていることである。静かなる水は永遠不滅の生命へと流れ込まんとするようで、また絢爛たる天空とあたかも意気投合せる如く遊び戯(たわむ)れているようにも見える。

「さらに私はその小川にそった緑の木立ちに視線を移した。私にはその木立ちの1本1本の木の形、ひとつひとつの蕾(つぼみ)、1枚1枚の葉、そして花が、天上的な美を増すために精密に計算されているように思えてならない。実際その木蔭さえもが、そこに憩う霊に活力と快活さを賦与するように出来ている。

げに、森羅万象は人間の霊的進化のために細かく配慮されているのだ。「すべての霊がそれぞれに内部の霊性と純粋性を示す美事なオーラをもっており、ひとりひとりがみな違っている。そうした霊のオーラの色とりどりの色彩によって各界がそれぞれの特色を見せている。

複雑に混り合った色もあれば、たった1色だけ見せている界もある。私はまた、各天体も、その天体上のひとつひとつの鉱物、植物、動物、人間そして霊、さらに最低界から最高界にいたる全ての界が、その内的特性を示すオーラをもっていることを知った。各霊を包む純粋なオーラを見るのは実に楽しいかぎりである。

「この3界の存在物のひとつひとつが“言葉”をもっていて、霊はその言葉に幼児の如き素直さで耳を傾ける。彼らにとっては第3界全体が1冊の書物のようなものだ。その内容は神的真理に満ちている。

泉、せせらぎ、小川 – これらは言わばその大著の序説であり、林、谷、森は言わば余白に記した注釈であり、宇宙の調和と愛を物語っている。そして美しい家々の立ち並ぶ流域や平野、公園等は言わば内容を綴る用語と言えよう。天使たちはその叡智の泉で心を潤(うるお)し、天上的愛の野と庭園を歩く。

「実際、これまで私が説いて来たことも、かりに宇宙の全真理を地球1個に譬えれば、その1原子ほどにも相当するであろうか。それほど宇宙は大きく、広く、深く、美しく、そして永遠なのである。

「そそっかしい地上の人間はそれでも尚その真理の全てを極めんとあがくことであろう。が所詮は無駄である。人類の全知能を総結集したところで、第3界ひとつさえ完全に理解することは不可能であろう。

「われわれはやっと真理の玄関口に到達したにすぎないことを銘記すべきである。続いて第4界の観察に入ろう。

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第4界

「ここに来て各界の序列が判ってきた。第1界が自然界、第2界が霊界、第3界が天界、第4界が超自然界、第5界が超霊界、そして第6界が超天界である。
「第4界にもやはり3つの社会が存在し、それに応じて3段階の愛と意志と叡智とが存在する。

「第3界からも続々と新しい霊魂が誕生し、同時にこの界を首尾よく修了した霊がもう一段上の界へ続々と向上して行きつつある。

「言うまでもなく、これまでのどの界にも増してこの界が美しく純粋であり、最早や究極的完全の域に達したかと思われるほどである。今までの私は第3界の生活者を全ての点で完璧と思っていた。が一段上のこの界に来てみると彼らもやはりまた未完成であったことがよくわかる。

「この界を被う光輝は実に強烈で、最早や私には、たとえ一瞬たりとも彼らの中に立ち入って生活を共にすることは出来ない。否、近づくことさえ容易でないのだ。

私に見極めることは、ただ、この界の全存在物がそれぞれ独特の色彩を発しながら刻一刻と究極の実在へ向けて進化の一途を辿っているということのみである。それらの存在物はもはや単なる存在物というよりは神の言葉そのものと言いたい。

「第1の社会の人口は無数と言ってよい。その無数の霊のひとりひとりから自然発生的に愛の要素が発し、それが上の社会を包む純白のオーラに反映している。

「第2の社会から発するものは意志である。それが愛の温かさに包まれながら最後には叡智に包まれていく。

「第3の社会からはあたかも泉の如く叡智が湧き出でて、第2及び第1の社会へ降りそそいでいる。この社会は言わば第4界の智恵の貯蔵所である。が、その智恵を授かるには強烈なる精神の統一が必要である。

「この界にも平野がある。その生命躍如たる様、その美しさは、人間的想像の域を脱している。また平野全体に何とも言えない清浄感が漂っている。それは生命そのものが有する感じの如く思われる。

「同じく清き川の流れがある。そのゆるやかな流れは、この界の静寂と幸福とを謳(うた)っているかのようである。また、その源から尽きることを知らないかのように湧き出る様は、まさに神の無限性を象徴しているかのようである。その間
「そのほか渓谷あり、森林あり、そして全体が人間的想像を絶した美に輝いている。
「この界の生活者の純粋さに至っては、もはや言語的表現の域を超え、個人的存在を超越して、全体が完全に一体となり、天界の栄華と不滅性を讃(たた)えている。

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第5界

「死は何物も破壊し得ない。第4界を首尾よく修了した霊は、しばしの休息ののちに第5界に誕生する。私も同じ過程をへて、いよいよ真理の館(天界)の第5界の観察へと進んだ。

「第5界になるともうこの私には近づき難い強烈な反撥力を感じる。が、意念を集中してどうにかその広々とした風景と、生き生きとした幸福境を眼中に収めることが出来た。その素晴らしさは第4界さえも不完全に思えてくるほどである。私自身にはその素晴らしさ、その美しさがひしひしと魏に迫ってくるのであるが、どうしても言葉に表わすことが出来ない。

「第一の社会は例によってすぐ下の界の第三の社会から生まれてくる。彼らの抱く愛、意志、そして叡智は、第4界にいた時より一層美しさと鋭さと素朴さと純粋性を増している。

「神の座に近づくにつれてより素朴に、より美しく、そしてより清くなっていくことは留意すべき重要な事柄であろう。霊は向上するほど透明度を増し、衣服などの外面的つくろいが少なくなっていき、ついには形体そのものまで不要となる。

「各社会の発する光輝はいかなる物的太陽にも増して強烈である。また個々の霊の純粋さと思想の高尚さのもつ魅力が強く私を引きつけて離さない。いかなる思想も全体としての融和性に富み、その奥には強い同胞愛が漂っている。彼らの心は言わば開いた花であり、思想はその香りにも相当しよう。その愛はバラの花にも似て優しく美しい。

その叡智は尽きることを知らぬ泉であり、渇いた心を潤し、傷ついた心を癒し、美しい心をさらに美しくする。その叡智をすべての思想、すべての行為、すべての意志と愛の表現の中に見ることが出来る。その美しさを表現する言葉がないのが悔しくてならない。

「この界の自然物は第4界に比べてさらにさらに美しく且つ荘厳である。一層強く神の意志が表現されているのである。平野も渓谷も森林も、また生き生きとした川の流れも、宇宙の美化と純化に重大な役割を果たしている。また、すべては霊的精励と普遍的愛の具象的表現であり、同時に神の完全性の鼓吹者でもあるのである。

「この界の霊の愛と親和性は努力なしにすぐさま一体となれるほどまでに達している。霊のみならず、存在物のすべてが親和力をもち、ただその発達の程度が異るのみである。このことは、さきに述べた如く、すべてはたったひとつの生命のエッセンスから造られたことを証明している。

「第5界ともなれば霊的大太陽との関係が密接不離となってくる。それほどの高級界の事情が、宇宙の塵のごとき地球上の人間に理解できようはずがない。

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第6界

「生命の根源たる霊的大太陽に最も近い第6界に至ると、自然物も生活者も文字どおり完全なる極地に達したものばかりである。が彼らと言えどもやはり1度はいずこかの天体上の住民だったのである。それが無限に等しい時を経ながら1界また1界と向上し、ついにこの完全の域まで到達したのである。まさに第6界は真善美の極地である。

「霊界のひとつの社会の住民の数さえ数字で表わせないほどであるが、第1界から第6界までの総人口を併せても、この第6界の天使の数の半分にも満たぬであろう。

にもかかわらず宇宙は今やっとその創造の1歩を踏み出したところである。つまり愛も意志も叡智も宇宙全体の進化という点から観た時は、まだまだ未発達の段階にあるのである。

「第6界にこそ真のパラダイスが存在し、そこには絵に見るが如き華麗なる天使の館(やかた)が建っている。その館の内部の美しさは、あたかも神の御心が森羅万象を通じて顕現されている如く、その館の住人たる天使を通じて顕われている。そこは全てを受け入れ、全てを愛し、息吹きを与え、そして完成せしめる神の温かき懐(ふところ)である。

「森羅万象には神性が内在し、その神性は常に向上進化を求める。つまり神の御胸に帰ろうとするのである。しかも如何なる存在物もこれのみの絶対孤立的存在は許されない。協調的進化こそ宇宙本来の姿であり、そこに叡智の働きが要請されてくるのである。

「天界と地界のすべての美がこの超天界において一体となり、発展し、そして完成されている。従ってそれは人間的理解力を超えており、細かく語ることは不可能である。地上の人間のみではない。第3界の霊でも理解することは不可能である。

それはこれまで描写してきたことがどれほど理解し得たかを考えていただけば、おのずと判っていただけよう。“何故に全てを語ってくれぬのか”と言える者はおるまい。この界の明るさは人間的想像の域を超え、その優雅さ、威厳、エネルギー、豪華さ、幸福感も、人間的感覚をはるかに超えている。

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第7界

「いま私がいる位置から第7界すなわち愛と叡智の根源、大宇宙の霊的大太陽の存在が意識され、また、それをある程度まで理解できる。その偉大なる太陽も実は物的太陽から生じ、成長し、そして今日の如く完成したのである。そして今や物的太陽は物質界を照らし、霊的太陽は天界を照らす。

そして神の意志が最も強く表現されているのはこの第7界であり、天界はその叡智と愛とによって支えられ、指揮され、純化され、そして完成されつつあるのである。

「かくして霊的世界は霊的太陽に統一され、物的世界は物的太陽に統一されている。しかし両者はあたかも魂と肉体の如き密接不離の関係にあり、両者の一体的行動によって創造が進められている。

また第2界は第5太陽族と直結し、第3界は第4太陽族と直結し、第4界は第3太陽族と直結し、第5界は第2太陽族と直結し、第6界は第一太陽族と直結し、そしてその上に、創造の大中心たる大太陽、すなわち第7界が存在するのである。

「大太陽こそ神の摂理と調和の完全なる具象的表現体であり、又、神の不滅の霊と肉の一体的表現なのである。

「第7界についてこれ以上語ることは無駄である。なぜなら、何もかも人間的理解を絶するものばかりだからである。ただ言い得ることは、第7界こそ宇宙の生命と光であるところの愛と、宇宙の秩序と統一の第1原理であるところの叡智、このふたつの大根源であるということである。大太陽こそ宇宙の大中心であり、至純、至尊、至高なる神の玉座なのである。」(注20)

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第8章 むすび

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以上で死後の世界についての一通りの紹介を終えた。読者の脳裏には死後について様々な概念が浮かんでいることであろう。矛盾しているように思えるところもあろうが、全体を通じて一貫したものが厳然と存在することも認められるであろう。

そのうちの幾つかを拾ってみると、まず第1に言えることは、死後の世界が夢まぼろしのような“静”の世界でなくて、しっかりとした実感のある“動”の世界だということである。

その実感は地上人の理解を超えるほど強烈で、上の界へ行くほど一層強烈になっていくという。デービスの言う通りこの地上こそ“存在の初歩的段階”であるらしい。

次に指摘したいのは、死後の世界が向上進化の世界であるということである。どの霊も霊格の成長と共に1界また1界とその霊格に合った境涯へと向上して行き、理屈はともかく、実際上は終りというものがないと語っている。

こうした来世観はわれわれ人間に大いなる希望と勇気と生きがいを抱かせてくれる。物質的に、あるいは精神的に苦境に喘ぐ人は、逃避しがちな消極的姿勢から、それを正面から受け止めて忍耐と希望をもって克服せんとする積極的姿勢へと転換するキッカケを与えられる。

霊界あくまで進歩的であるように、地上生活もまた進歩的であり同じ状態がいつまでも続くはずはないという信念も生まれて来よう。カギは本人の心の姿勢にある。そこに長幼の別、男女の別、民族の別、宗教・信仰の別はないのである。

こうした思想は当然キリスト教の教義と対立する。キリスト教では善の神と悪の神いわゆる悪魔の存在を説き、教義に忠実に生きた者は天国に召され、罪を犯した者は地獄へ落ち、悪魔の裁きのもとに永遠の刑罰を受ける。そこから救われる道はイエスへの信仰しかないと説く。いわゆる贖罪(しょくざい)説である。

しかし、霊界通信でこうした説を確認したものはひとつもない。死後の世界では教義や信仰は何の役にも立たない。身分や家柄も意味がなくなる。大切なのは内的人間性すなわち霊性のみだという。

如何なる人間も他人の罪を背負うことは出来ないし、自分の罪を肩代りしてくれる人はどこにもいない。自分が蒔いたタネは自分で刈り取らねばならないのである。その意味で、地獄も天国も自分で拵えることになる。

人間に霊魂がある以上、これが生活する場すなわち霊界があるというのは理論的に当然の帰結である。その生活の場は事実上限りなく続く。地上はその個的意識をもった人間の永遠の旅の出発点であるらしい。

つまり普遍的霊の世界から有限の個的意識体がこの物質界に誕生し、そこから1界1界と向上していく。地上生活の目的は実にそこにある。古賢の言葉に「生命は鉱物の中で眠り、植物の中で胎動し、動物の中で夢を見、そして人間において目を覚ます」というのがあるが、まさにその通りかも知れない。

その目を覚ました人間が魂に宿る霊性のすべてを開発するには地上の人生はあまりに短かすぎる。が、死後にも無限の生活の場が用意されている。デービスの啓示録を見てもわかる通り、その無限性はとても人智の及ぶところではない。

が、その人間的理解を超えた宇宙は神の愛と叡智によって支配され、いかなる極悪人も、いかなる重罪人も、いかに信仰なき人間も、宇宙から放り出されたり、見放されたり、見落されたりすることはない。

ある霊は、地上の人間は半分居睡りしているようなものだと言う。そして、死んで始めて目が覚めるのだと言う。となると、その半醒半夢の地上生活で犯す過ちは一夜の悪夢にすぎぬのかも知れない。

蝶がさなぎから飛び立つように、肉体から解放された霊は始めて本当の自分に目覚め、地上生活の垢を落としつつ新しい世界での旅を始める。そこには病気も金銭的苦労もない。何と希望に満ちた生命観であろうか。

デービスの説く調和哲学、つまり物質界を出発点として内的宇宙が進化という至上目的のために協調的生命活動を営みつつあるという宇宙観は極めて重要な意味をもつ。

というのは外面的に見れば宇宙は幾層かの界に分かれ、地上界を最低界として上は宇宙の大中心たる神界にまで至っていても、内面的にはその全体が霊性によってつながっている。従って霊的能力さえ目覚めればその内的世界をのぞくことが出来る。

宗教家の啓示も、芸術家のインスピレーションも、科学者の発明発見も、ことごとくその内的世界からの贈物なのである。それは人間が地上にいながら実質は霊の海の中で生きていることの証拠である。地上は決して宇宙の中の特殊な生活場ではないのである。

その全大宇宙を不変不滅の神の摂理が支配している。誰ひとりとしてその支配から逃れられない。神は絶対にごまかせない。一個人であろうと一国家であろうと、蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない。摂理を無視した時、その代償は自分にかかってくる。

人間は煩悩に迷わされ、道義の鏡を曇らされて過ちを犯す。地球誕生以来、地上には幾度となく文明が発生しては滅びていった。滅びたあとまた新しい文明が生まれるが、煩悩ゆえの争いから再び自分の手で滅ぼしてしまう。それを幾度となく繰り返し、今まさにまた“いつか来た道”を歩みつつある。

同じ過ちを繰り返さないためには、地上生活の意義と目的を知るしかない。果てしない宇宙の中にあって地球はいかなる位置を占めているのか。何のためにこの地上に生まれてくるのか。そうしたことを正しく理解することである。

そのためには死の彼方の人間の宿命を知らねばならない。死によって全てがおしまいになるのではないことをまず知る必要がある。そしてその死後の世界へ旅立った先輩たちからの忠言に耳を傾ける必要がある。

死後の世界の情報は読めば読むほど希望に満ち、人間に生きる勇気を与え、善意の心を呼び覚ましてくれる。その全ては理解しつくせないが、少なくとも死の彼方にも生命の旅が続くということだけは厳然たる事実である。

本書はその死後の世界の一端を披露したにすぎないが、これが読者の生活に新しい視野を開かせることになれば幸いである。(注21)

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訳者あとがき

事実は肯定するより否定する方が難しい。こういうものが存在すると主張するより、そんなものは存在しないと断言する方が、よほど難しいし慎重を要する。霊の存在、並びに霊界の存在も、これをきちんとした論拠なり実証でもって否定することはまず不可能である。

ところが現実には大半の人間が死後の存続を否定する。私自身も初めそのひとりだった。その根拠はそれが目に見えないということにあるのであろう。それ以外に否定する根拠は何ひとつ無いからである。

観方を変えれば、地上の人間はそのような精神構造に出来あがっているとも言えよう。つまり五感で捉えられないものは存在感を感じないのである。

考えれば考えるほど人間というのは地球という生活環境によって、徹底的に観念ないし感覚が固定化されていることを痛感する。ところが実際はその地球そのものについて全てを知りつくしているわけではない。

植物にしろ昆虫にしろ動物にしろ、思いも寄らない奇妙なものが幾らでも存在する。が別にそれらが“変わっている”わけではない。“見慣れないから”奇異に感じるにすぎない。むしろ見慣れたもの、当り前に思っていることの中に、本当は奇異に思ってもよいことが幾らでも存在する。

第一、ぐるぐる回転する円い球体の表面でこうした生活が営めること自体が驚異であり奇蹟と言ってよい。人体を考えても、よくもこんなものが出来たものだと思うし、それがよくも次次と誕生してくるものだと感心する。

英国の世界的物理学者オリバー・ロッジが「死後にも生命があるのだろうかというのは主客転倒した疑問だ。地上に生まれ出て来たことの方がよほど危険な冒険であって、こうして地上で肉体に宿って生活できること自体が奇蹟なのだ」と言っているが、まさに至言である。

死後の世界の存在は、もはや信仰の領域を出て、厳然たる事実となったと言ってよい。事実はどうしようもない。在るものは在るのである。ガリレオが“それでも地球はまわる”と言いながら死んだというが、いかに否定してみたところで霊の世界は厳然と存在する。しかもその世界から次々と通信が送られて来ている。

死後の世界をそうした霊界通信からの抜粋で紹介したものは、私の知るかぎりでは、本書の他にはジョン・レナード『スピリチュアリズムの真髄』The Higher Spiritualism by John Leonard があるくらいではないかと思う。

レナードの方が思想的ないし哲学的に広く深く突っ込んだ問題を扱い、従って本書に引用されていない霊界通信からの抜粋も多いが、死後の世界への案内書としては本書の方が一般向きであろう。

モーリス・テスターが『死とは何か』の中で「“死ぬ”ということは“生きる”ということと全く同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日1日と迫ってきている。

アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければ行かなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身で通したければそれでもよい。が死だけはそうはいかない。」と言っているが、まさにその通りである。その、どうしても行かざるを得ない世界についての案内書が本書である。

大半の人間は必ず死ぬことを知っていながら、現実には永遠に死なないかのような呑気な生活をしている。一方、明日の命も危ない状態で必死で生きている人もおられるであろう。

そのいずれの人にとっても死後の存続という事実は、放っておけない重大な事実に違いない。本書があなたの現在の生活にとって何らかの意味でカツを入れることになれば、訳者として有難いと念じている。

昭和58年11月

近藤千雄

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訳注

(注1)霊界

死後の世界の呼び方にはいろいろあり、来世と呼んだり天界と呼んだり、あるいは幽界、霊界、神界に分類したり、天国と地獄とに分けたりと、説く人によってさまざまであるが、本書ではそうした細かい分類の仕方よりも死後の生活そのものに焦点が当てられているので、これを霊界という呼び方に統一した。

(注2)霊訓 Spirit Teachings

英国国教会の牧師であり学者でもあった霊媒ステイントン・モーゼスの手になる自動書記通信。この通信のために総勢50名から成る霊団が組織されたと言われ、イムペレーターはその最高指導霊。

内容は国教会というキリスト教の教説に凝り固まったモーゼスの考えを正そうとする霊側と、それを守ろうとするモーゼスとの熾烈な論争の形で、霊界の事情よりも道徳的ないし倫理的教訓が説かれており、その高度な内容と重厚な文体の故にスピリチュアリズムのバイブルと言われ、今なお多くの読者をもつ。(スピリチュアリズム→注3参照)

(注3)ハイズビルの心霊現象(フォックス家事件)

それまでの漠然とした心霊思想を組織的に体系づける端緒となった事件で、1848年3月、米国ニューヨーク州のハイズビルという一寒村の住民フォックス家に起きた。

当時フォックス家には長女マーガレット(12)と次女ケート(9)のふたりの子供がいたが、不思議なことにふたりのいる場所にかぎってバタバタとかパチパチという出所不明の叩音が連続的に起きるのだった。

始めのうちは気のせいにしていたが、あまりしつこく付いてまわるので、試しにその叩音を符牒(コード)にしてイエスとノーで問答を重ね、さらにそれを使用してABCで綴ってみると、驚いたことに、その音の発信者はひとりの死者の霊で、名前の頭文字がC・R、5年前にこの家に行商に来て殺され、死体を地下室に埋められたという。

驚いたフォックス家の人は警察に通報し、通信文をたよりに掘ってみたところ、本当に白骨の死体が出て来た。このニュースは米国はもとよりヨーロッパ全土に広がり、それが端緒となって異常現象に関する科学的研究が盛んになり、ほどなくしてその研究成果を土台とした思想が各地に発生し、その結論が図らずも全世界ことごとく一致したのである。

これには化学者のウィリアム・クルックス、物理学者のオリバー・ロッジ、天文学者のカミール・フラマリオン、古典学者のフレデリック・マイヤース、小説家で医師のコナン・ドイル等々、世界的著名人が多く参加した。そうした研究を心霊研究といい、その研究結果と霊魂からの通信を資料として生まれた思想を近代スピリチュアリズムと言う。

(注4)スエーデンボルグ Emanuel Swedenborg

フォックス家事件より約1世紀前ごろ(1688~1772)に活躍したスエーデンの自然科学者、宗教学者。主著は「天国と地獄」。

(注5)A・J・デービス Andrew J. Davis

フォックス家事件前後(1826~1910)にかけて活躍した米国の天才的霊能者。20才の時に入神講演をまとめた3部作「大自然の原理」「大自然の神的啓示録」「人類に告ぐ」を発表。以後84才で他界するまでの約60年間、陰に陽にスピリチュアリズム思想誕生の地ならしをした。

主著としては右の3部作のほかに「偉大なる調和」(全5巻)「魔法の杖」「天界の住処」等があるが、すべて絶版となっている。但しその真髄いわゆる“調和哲学”は本書の著者エバンズや「スピリチュアリズムの真髄」の著者ジョン・レナード等によって紹介されている。

(注6)ハドソン・タトル Hudson Tuttle

デービスと同時代の米国の心霊著述家。主著は「スピリチュアリズムの秘義」。進化論のダーウィンが彼の著書「物的人間の起原と過去」を参照した話は有名。

(注7)

「デービスが7つのエーテル界を論じる場合、彼はその視野を宇宙全体に置いている。すなわ彼によれば宇宙には無数の太陽が存在し、その太陽が幾つか集まって太陽族ともいうべき集団を構成している。

その太陽族は全部で6つあり、その中心には大太陽が存在する。それが宇宙の中心である。吾々が拝んでいる太陽及び天の川はその6つの太陽族のうちのひとつに属し、しかもそのずっと緑に位置している。

個々の太陽族には個々のエーテル界が存在するが、地球の属している太陽族は順序からいえば5番目に位置し、宇宙エーテル界の第1界に相当する。第6番目すなわち最後の太陽族は彗星状の天体から成っていて、いまだ完全なる太陽族となるに至っていない。」ジョン・レナード「スピリチュアリズムの真髄」より。

(注8)ガルバーニ電気 Galvanism

イタリアの生理学者ルイージ・ガルバーニ(1737~98)が発見した、化学反応によって起きる動物電気。

(注9)オーエン George V. Owen(1869年~1931)

20年間の牧師生活ののちに自動書記通信『ヴェールの彼方の生活』全5巻を出版したことで国教会の長老の怒りを買い辞職、のちにスピリチュアリスト教会の指導者となり、スピリチュアリズムの発展と普及に寄与。他にFacts and the Future Life, The Kingdom of God ほか多数。他界した翌年に霊媒フレデリック・ヘインズを通じて自動書記通信があり A Voice of Heaven と題されて出版された。

(注10)ロゴス Logos

神学上では三位一体の第二位であるところのキリストを意味し、哲学上では宇宙構造または宇宙秩序の根本原理としての理法・理性を意味する。

(注11)エリュシオン Elysian

ギリシャ神話で善人が死後住むという至福境。仏教でいう極楽浄土。

(注12)トーマス C. D. Thomas

スピリチュアリズムの著述家の中でも有益な著書を数多く残した人。通信の真実性を確かめるために霊界の父親との間でブックテストというのをやったことは有名。

たとえば交霊会が終りに近づくと、その日の通信がトーマス氏の主観によるものでなかったことを示す何らかの証拠を父親に要求する。すると父親から「家に帰ったら窓の方を向いた本棚のいちばん上の段の左から5冊目の本の33ページを見なさい。真ん中あたりから父さんが晩年に口にしていた思想とよく似たことが書いてあるから。」といった返事がある。

もちろんそういった本はトーマス氏が1度も読んだことのないものに限られる。こうして自分の主観や潜在意識の排除につとめた。主著は本書に引用したもの以外に「死後存続に関する新たな証拠」「人生の日没の彼方」等。

(注13)フィーダ Feda

英国の生んだ世界的霊言霊媒オズボーン・レナードの支配霊。トーマス氏の著書は主としてこのレナード夫人を通じて得た霊言をまとめたもの。

(注14)

フィーダはよく通信の取り次ぎをすることがあり、この場合も実際に語っているのはフィーダである。直接取り次ぐ時は“私”と言い、そのうち“彼”に変わったりして、全体の話の流れに注意していないと混乱してしまう。

その混乱を避けるためにここでは直接話法に統一した。その取り次ぎの様子が浅野和三郎著「心霊研究とその帰趨」に出ている。問はトーマス氏、答えはその父親とフィーダ。

問「フィーダが取次ぎをする時、通信者は実際フィーダの前にいるのですか、それとも単に思念を送るだけですか。」

父「それはどちらの場合もある。フィーダの眼にこちらの姿が見えている場合もあれば、フィーダがこちらの思想のみを把む場合もある。いつでも見たり聞いたりするというわけではない。概してフィーダとわれわれとの連絡は確実であるが、人間界との連絡はそれほどうまく行かない。」

問「あなたがフィーダに話しかける時、彼女が聞くものは何ですか。」

父「それは私の言葉イヤむしろ私の言葉の含んでいる思想の波を捕える。地上の人と人との間にあっても思想伝達は可能だ。われわれ霊界居住者にとっては思想伝達が生命だ。それは言葉以上に正確だ。言葉そのものを送ることも不可能ではないが、しかし思想を送るよりはるかに困難だ。」

問「フィーダはどんな具合に通信を受け取るのですか。」

フィーダ「通信者は私に感じさせたり見せたり聞かせたり、いろんなことをします。私には感じることがいちばん容易のようです。先方で冷たいと感ずれば私にも冷たく感じ、熱いと感ずれば私にも熱く感じられます。つまり催眠術の暗示みたいなものです。」(一部改める)

(注15)

その「まえがき」には参考になる箇所が少なくない。通信が完成するまでの経緯を述べたあと、こう述べている。

「ところで聖職者というのは何でもすぐ信じてしまうというのが世間一般の通念らしい。なるほど信仰というものを生命とする職業であれば、そう観られてもあながちお門違いとも言えぬかも知れない。が私は声を大にして断言するが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。

ちなみに私が本通信を信じるに足るものと認めるまでにちょうど4分の1世紀を費している。すなわち、たしかに霊界通信というものが実際にあることを認めるのに10年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることを得心するのに15年かかった。

そう得心して間もなく、その回答ともいうべき現象が起こり出した。すなわち最初まず妻が自動書記能力を発揮し、やがてその手を通じて“お前も鉛筆を握って静座し頭に浮かぶ思想を素直に書き下してみよ”という注文が来た。

正直なところ私は初めそれがイヤで、しばらく拒否し続けた。が、他界した友人たちがしきりに私を通じて通信したがっていることを知るに及んで、私の気持にもだいぶ変化が起きてきた。

こうした事実からも納得していただけると思うが、霊界側の通信者は通信の目的や希望ははっきり述べても、そのために吾々人間側の都合や意志を無視したり強制したりするようなことは決してしなかった。結果論から言えば少なくとも私の場合は、強引に書かせた方が手間が掛からずに済んだろうにと思われるのだが…」

(注16)

「ヴェールの彼方の生活」では霊界を15界に分けている。それ故デービスのいう5界と一致するか否かを論じるのは適当でない。(注19参照)

※たきざわ彰人_補足 7界説と15界説を僕なりに図にまとめた事がありますのでそれを参考までにUPさせて頂きます。(「母と子の心霊教室」に掲載されている画像を使用して制作した図です)

日本の天皇一族、明仁、文仁、徳仁、悠仁は【強姦殺人魔】です。「死刑」にしましょう(祈)†

(注17)

英国の自動書記霊媒。古典学者のフレデリック・マイヤースからの通信といわれる「永遠の大道」The Road to Immortality と「個人的存在の彼方」Beyond Human Personality はスピリチュアリズムの霊界通信の中でも白眉とされている。

(注18)

原典ではこのあとさらに次のように続いている。

「さよう、その館こそ実にふたりが地上にて愛の巣を営み、妻の死後その妻を弔いつつ彼がひとりさびしく暮らしたドーセット(英国南部の州)の家の再現なのである。

この物語は汝に天界なるものが感傷的空想の世界でなく、生き生きとして実感あふれる実存の世界であることを知らしめんとの意図のもとに綴ったものである。家、友、牧場 – 天界には汝等が親しめる美しきものが全て存在する。否、こちらへ来てこそ、地臭を棄てた崇高なる美を発揮する。

この夫婦の如く、地上において貧しき者にも富める者にも等しく親切にしてあげた純心で神への畏敬の念に満ちた者は、必ずや天界にてその真実の報酬を授かる。その酬いはこの物語の夫婦の如く、往々にして予期せざりしものなのである。

この再会の場面は私が実際に見たものである。実は私もその時の案内役としてその館まで彼に付き添った者のひとりであった。そのころは私はまだ常夏の国の住人だったのである。」

(注19)

死後の世界の分類方法は視点の置きどころの違いによって諸説がある。が、公平に見て、この問題をいちばん常識的に取り扱っているのはトウィーデール「他界からの通信」News from the Next World by C. L. Tweedale で、その中でトウィーデール氏は多くの霊に個別にこの問題を提出して、その結果次のような結論を出している。

(1)地球の表面と大気圏の下層部との間に霊魂の生活場(界ではない)がある。そこはコナン・ドイルが“人生の終着駅”と呼んだ中間境で、肉体を棄てた人間はひとまずそこへ行く。

(2)この中間境の上方には幾つかの“界”が存在する。

(3)界と界との間に必ず中間境がある。

(4)上の界から下の界へは自由に行けるが、下の界から上の界へは自由には行けない。

(5)ひとつの界には幾つもの“地方”が存在する。

(6)以上のことは全ての天体に共通する。

(7)他の天体及びその霊界を訪れることが出来るのはよほど進化した霊にかぎられる。

(8)死後の世界の生活にもそれぞれの界での波長に応じた“実感”がある。それは吾々地球人が五官を通じて物質的生活から実感を味わっているのと原理は同じである。

通信者のひとりで地上で天文学者だったロバート・ポールが画いた図解によると、死後の世界は地球を取り囲むようにベルト状に3層に分かれており、その間に中間境がある。従って地上を入れれば4つの界が存在するわけで、これは浅野和三郎氏の説と一致する。浅野氏は死後の3界を幽界、霊界、神界と呼んでいるが、日本人にはこれがいちばん理解しやすいように思われる。

(注20)

他の抜粋は言うまでもないが、長文とは言えこの啓示録も主要部分の抜粋である。それを更に私は、訳者としての良心の許すかぎりにおいて部分的に削除し、他の部分も抄訳に留めたところが多い。

お読みになってお判りの通り、その内容があまりに具体性を欠き、主観的表現が多すぎて、これを死後の世界の文献とするのは適当でないというのが正直な私の考えで、初めこの7章全部を削除することも考えたのであるが、それではデービスを崇拝する著者に対して失礼な気がしたので、その内容を損わない程度において抄訳し且つ部分的に削除したことを諒解ねがいたい。

デービスとスエーデンボルグの著書は徹底的に主観的なもので、その後のスピリチュアリズムの霊界通信が証拠性(エビデンス)に重点を置いて吟味されているのとは本質を異にしている。

たとえば注15で紹介したように、オーエンは『ヴェールの彼方の生活』を正真正銘の霊界通信と確信するのに実に25年も掛けている。

その間、徹底的に疑ってかかる熊度に貫かれ、どうしても本物と認めざるを得なくなり疑念が確信に代った段階でようやく公表した。その確信の程度は、それが原因となって国教会の長老から批難された時、いさぎよく牧師の職を辞したという事実が何よりも雄弁に物語っている。

といってオーエンの主観が絶対入っていないとは言えない。がその場合の“主観”と前二者の場合の“主観”とは意味が違う。デービスとスエーデンボルグは、その意味で、参考文献といった程度に扱うべきであると私は考える。

(注21)

この“むすび”には著者エバンズの私見がまとめられているのであるが、私は一応それを骨子としながらも、内容的にはスピリチュアリズムの観点から添削を施しつつ抄訳した。

その理由は、本書が書かれたのがおよそ30年前であり、当然のことながらその後も重大な霊界通信が続続と出ており、それまで異論の多かった問題に決着をつける通信が出ているケースがあるからである。

たとえば再生の問題つまり生まれ変わりについてエバンズは一方的(ラジカル)に否定し、そういう事実を認める通信に出会ったためしがないと述べているが、これは誤りである。

エバンズの時代にも肯定説が皆無だったわけでは決してない。現に第5章のでエリザベスという少女がそれを示唆することを述べている。これは少女の言っていることなのでそのまま信じるわけにはいかないが、再生の事実を理論と実際の両面から肯定している霊は当時から決して少なくない。

エバンズが寡聞にして知らなかったか、偏見があったかのいずれかで、多分後者であろう。というのはエバンズが尊敬しているデービスが否定論者であり、当時の肯定説の筆頭が霊智学(セオソフィー)のいわゆる輪廻転生説という、インドの古代信仰だったので、当時の否定論者の頭にはそれがあったようである。

信頼できる霊界通信にみる再生説はそんな単純なものではない。しかも、たったひとつではなく、少なくとも3つはある。といって、それらが相矛盾しているわけではない。再生の仕方が3通りもあることを物語っているまでで、それほど再生の手続きは複雑なのである。

本来ならここでそのあらましでも紹介したいのであるが、それだけの紙面もない上に、もともと本書が死後の世界の案内書であって、深い生命哲学を論じることが目的ではないので、これ以上深入りすることは控えたい。いずれ再生説を本格的に論じたものを紹介したいと思っている。


W.H.エバンズ(1877~1960)

幼少時より超能力を発揮、特に入神霊媒として活躍した時期もあるが、後半生は A. J. デービスの『調和哲学』スピリチュアリズム的に解説して、各心霊紙に寄稿。著書には『A. J. デービスの調和哲学』その他数多い。


近藤千雄(こんどうかずお)

1935年生。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり、明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳・紹介に専、著訳書多数。

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†