「Spiritual Unfoldment Two」こちらも少し英文見直し修正があるものの、ページ数が少ないのでそれほど時間もかからずにWordPressへUPできるかも知れません。とにかくやるだけはやります。

で、Google翻訳にかけた訳文を見ていますが、アリ?なんか「天使と妖精」の訳者の訳文に少し雰囲気が似てるような気もするなぁ。もしかして原文自体がそういう文体で、訳者はまぁまぁ忠実に訳していたのかも知れないとか思ってみたりなんかして。ただやはりこの訳者の訳文がどうにも気に入らないので(近藤先生の訳文が素晴らしすぎるのでそう思えてしまうのかも知れませんが)ホワイトイーグル霊の書籍は可能な限り僕の手で翻訳してみようと思います。

さぁ努力すればするほど最悪に向かって突き進むという絶対許せない人生を突き進んでいますが、まだ、まだ、脱出の見込みが立ちません。しかし永遠にあきらめません。脱出が実現するまで最後の1秒まで闘います。

先ほどある節約食材が到着してますが、まず食べてみて(ググるとそのまま食べるのはオススメしないみたいな事が書いてありますが)味は全く問題なし。僕はコレ全然イケる。あとは前回の煎り大豆のように身体に変調をきたさないかを確認しないと採用できませんので、しばらく食べ続けて様子を見ます。

大丈夫という事になればそれをロングドライブ時に使用し、だいぶ節約できる事になります。そうなってもらわねば困りますが。使命遂行と関係ないですがその食材について公表するかも知れません。

んー霊団が何も言ってきませんが、テキストと格闘しつつ絵も描こうかなぁ。僕の残された人生はそれをやるしかありませんので。復刊の道も閉ざされてしまいましたし(本当に頭にくる)かくなる上はブログを季刊誌(年4回)で出すというアイデアを採算抜きでやってしまおうか、などと考えたりもします。せっかくAffinityPublisherを使えるようになったのですからもったいないですし。んんん作業続行中(祈)†

「水星バカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が地球学校落第という意味です(祈)†■2022年6月15日UP■
「水星バカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が地球学校落第という意味です(祈)†
明仁、文仁、徳仁、悠仁はこの全宇宙最低の地球よりさらにヒドイところに生まれ直させられるのだそうです霊団によると。皆さまはそうは思われない事と思いますが、現在肉体をまとって地球圏物質界で生活している僕たち人間は「最下等の生命表現をしている霊的存在」なのだという事を理解しましょう。僕たちの本体である霊は無限です。その生命表現手法も無限です。物的肉体をまとっての生命表現は、この全宇宙の中の「もっとも程度の低い生命形態、初期的自己表現手段」という事です。「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、その最下等の生命表現よりさらに程度の低い生命表現媒体をまとわされての人生に突入するという事を霊団が強調しているのです…続きを読む→
「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†■2022年6月29日UP■
「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†
神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし(ガラテア6・7)神の摂理は絶対にごまかされません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染込んだ汚れが、それくらいの事で一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言で全てが赦されるとしたら果たして神は公正であると言えるでしょうか…続きを読む→
「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†■2022年7月20日UP■
「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†
【神】から神性の火花を賜って個的存在を獲得した僕たち人間は「永遠の存在であり死はありません」僕たち人間は物質界生活後も霊界で霊的表現媒体をまとって永遠に生き続けるのです。その永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界生活中に善いおこないをするか悪いおこないをするかによって、その後の人生に天と地ほどの差が生じます。皆さま、このふたりの人間、どちらが【かしこい】と思われますか。先ほど、王の生活をうらやましいと思う事が、霊的知識の無知から導き出される愚劣の極致の発言と書きました。近視眼という事です。どちらの人生が僕たちの歩むべき人生だと思いますか。もっと言いましょう【神】は僕たち子等に、どちらの人生を歩んでもらいたいと望んでおられると思いますか…続きを読む→

この機械自動翻訳文で果たしてイイのだろうか、せっかくの珠玉の霊界通信の重厚感が殺がれるのではないかという懸念が拭えないものの、とはいえ僕には英語能力がありませんので他にどうしようもありません。見直しが終了している英文パートをガンガン翻訳しています。やるしかないのです。

この調子で英語書籍の翻訳に慣れていくしかありません。僕という霊媒は機能する事はありません新規の霊言など降らないのです、だったらもうこの作業をやるしかないのです。できもしない事を明けても暮れてもやるやる言ってくるどっかの誰か(霊団)の言う事など構ってられません。

入手予定の英語書籍は実はすごいイッパイあるのです。77冊以上の霊関連書籍の入手、スキャン、OCR変換まで終了して、あとはテキスト見直しだけ、やっと重責から解放されると思っていたらこの有様。ですので脱出を霊団に止められていますが作業時間の確保という意味でも脱出しなければならない状況なのです。シャレじゃなくホントに一生かけても終わらない作業量だと思いますので。

さらにさらに節約できないか、あらゆる可能性を調べています。間もなく注文していたあるモノが到着します。それが使えるようならさらにコンビニを使用しなくてすむようになり年間ベースで考えた時に節約となります。節約そのものが目的ではなくて「脱出」を実現させるためにここまでやっているという事になります。

そして、んー、どしよかな、そろそろフラー26本体デザインに戻りたい衝動もありつつ、英語書籍の翻訳でイッパイイッパイの時に時間とパワーをメチャもっていかれるフラーを描くかぁ?という思いもあり、さぁ困ったな。描き始めたら他の作業がピタリと止まってしまう事が分かっているので悩みどころです。

とにかく霊団は反逆(脱出)ヤメレヤメレを連発してきます、さっきバカとまで言われました。このまま一生閉じ込められるのは死んでも拒否する、ヴァカで結構、僕はそういう感じですが、帰幽後に死ぬほど後悔するハメになると予測できるので一瞬たじろぎます。

帰幽後の境涯をタテに脅してくるのは最大級に卑怯ですが、まずとにかく脱出は完成させます。それと使命遂行続行は別問題。作業だけは何が何でも続行中。霊団の脅しは卑怯ですがやるべきはやらなきゃいけないんだ(祈)†

■2021年9月10日UP■
■アナログ絵326「タワー展望ブリッジ」のストーリーUP。キツイ絵のオンパレードでした(祈)†
宇宙船クレスには「ふたつのブリッジ」が存在します。通常、ブリッジと言えば、艦長の守護霊様が指揮を執る、船の運行全般を司る「シップのブリッジ」の事を指しますが、もうひとつ、クレスで生活する人たちの生活全般の管理を仕事とした「タワーの展望ブリッジ」というものが存在します。今日は、ももちゃん、シルキーが展望ブリッジの見学にやってきました。これも霊的お勉強の一環です。シルキー「何コレ、タワー内の状況が全部1発で分かるようになってる」ももちゃん「人数がスゴイ、ホント、クレスって大きな船だよね」トライブ崎柿崎「たとえば今、この小学校で催し物のための新たなコンサートホールを思念で作っているところよ」シルキー「こ、こんな大きいのを作ってるんですか?」ももちゃん「でも何か、うまくいってないみたい」トライブ崎柿崎「小学校の子供たちが思念でモノを作るお勉強をしてるけど、子供たちだけではうまく作れないのよ、そういう時に、ホラ」…続きを読む→
「僕、たきざわ彰人はもう小我で先行してはいけません」交霊会の事を言っているのです(祈)†■2022年1月26日UP■
「僕、たきざわ彰人はもう小我で先行してはいけません」交霊会の事を言っているのです(祈)†
自分という存在の根源についての疑問を心のホンの片隅にでも入れておく事で、いつかそのタネが花開くキッカケを掴みやすくなると思うのです。霊的なモノをお勉強すればするほど物質界にはびこる数々の邪悪な諸問題の根本原因が「霊的知識の無知」にある事がことごとく理解できるようになります。肉体の死後も霊的身体をまとって霊界で永遠に存在し続ける、物質界生活時の行為、思念が帰幽後の自分の生活環境を決定する、物質界の金銭は一時的預かりモノであって自分のモノではなく、帰幽と共に全てを物質界に残して心ひとつで霊界に出発する、つまり物的金銭を蓄積しても自分の未来に何のプラスにもならない、こういう事を理解していない人間が利己的動機で同胞を虐げて自分だけ物的利益を得ようとしている、それが邪悪の根本原因だと考えます…続きを読む→

本書の大半を構成している通信は、“自動”書記ないし“受動”書記と呼ばれる方法によって得られたものです。これは“直接”書記とは区別する必要があります。

前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいはプランセット(1)に手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれるのに対し、後者においては、霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記されます。

自動書記というのは、われわれが漠然と“スピリット”(霊または霊魂と訳されるが、ここでは“霊”に統一する)と呼んでいる知的存在の住む、目に見えない世界からの通信を受け取る手段として広く知られています。

読者の中には、地上と交信するそんな得体(えたい)の知れない目に見えない存在 – 人類の遺物・かつて人間だった者の殻のような存在 – を“霊(スピリット)”と呼ぶことに違和感を抱かれる方がいるであろうことは承知しています。

が、私は“霊”という用語がいちばん読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはありません。とにかく私に通信を送ってきた知的存在はみな自分たちのことを“霊”と呼んでいます。

多分それは私の方が彼らのことを”霊”と呼んでいるからでしょう。そして、少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊”でいいのです。

その霊からのメッセージが私の手によって書かれはじめたのは、ちょうど10年前の1873年3月30日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ1年後のことでした。

もっとも、それ以前にも霊界からの通信はラップ(2)や霊言(3)によって数多く受け取っていました。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、この方が便利ということと同時に、霊的教訓の中心となるべく意図されているものを“保存しておくため”でもありました。

ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当でした。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると、部分的に聞き落とすことがあり、さらに、当初のころはまだ霊媒(私)自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは、不可能でもありました。

そこで私は、ポケットブックを1冊用意し、それをいつも持ち歩くことにしました。すると私のオーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることがわかったのです。

それは、使い慣れたテーブルの方がラップが出やすく、霊媒自身の部屋の方が新しい部屋よりも現象が起きやすいのと同じ理屈です。スレートを使った通信(4)の専門霊媒であるヘンリー・スレイドも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかったといいます。が、今はこのことにこれ以上言及しません。その必要がないほど原理は明白だからです。

最初のころは文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと、そしてていねいに書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章を後から追いかける必要がありました。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのでした。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきました。文字はますます小さくなりましたが、同時にひじょうに規則的で、字体もきれいになってきました。あたかも書き方の手本のような観のするページもありました。

ページの頭のところに書いた私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていました。God(神)の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、うやうやしげに綴られるのでした。(巻頭グラビア参照)

その通信の内容はつねに純粋で高尚なものばかりでしたが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びておりました。1873年に始まって80年まで(5)途切れることなく続いたその通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たりませんでした。

それは当初から霊団側が公言してきた大目的、すなわち知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという目的にそぐわないものは、およそ見られなかったということです。

虚心坦懐(きょしんたんかい)に判断して私は、インペレーターを中心とする霊団の各霊はみずから主張していた通りの存在であったと断言して憚(はばか)りません。その言葉のひとつひとつに誠実さと実直さにあふれておりました。

初期の通信は、さきに説明した通り、きちんとした文字で書かれ、、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(6)でした。通信の内容も、それが書かれつづけた何年かの間ずっと変わることがありませんでした。

いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の10年間も、私自身のふだんの書体は変わっても、自動書記の方はほとんど変化がありませんでした。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに、通信全体を通してひとつの個性があったということです。

その存在は私にとって立派な実在であり、1人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただけば、私がふだん付き合っている普通の人間とまったく同じように、文体および表現に明確な特徴と個性をもった存在でした。

そのうち別の通信がいくらか出はじめました。筆跡によっても、文体および表現上の特徴によっても、それぞれに区別がつきました。その特徴は、いったん定着すると、変わることがありませんでした。私は、その筆跡を一目見て、誰からの通信であるかが判断できたほどです。

そうしているうちに次第にわかってきたことは、私の手を自分で操作できない霊がほかにも大勢いて、それがレクター(7)と名のる霊に書いてもらっているということでした。確かにレクターは私の手をよく使いこなし、私の身体の負担もあまりありませんでした。

不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が大きくなりました。そういう霊は自分が私のエネルギーを浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけです。

さらに、そうやって代書のような役になったレクターが書いたものは流暢で読みやすかったのに対して、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に、書体が古めかしく、いかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないこともありました。

そういうことから、当然の結果として、レクターがぜんぶ代書することになっていきました。しかし、新しい霊が現われたり、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は、当の本人が書きました。

念のために申し上げておきますが、私を通じて得られた通信のすべてがひとつの源から出ているわけではありません。ただし、本書で紹介したものにかぎって言えば、同じ源から出たものばかりです。すなわち本書は、インペレーター(8)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録です。

といっても、インペレーター自身が直接書いたわけではなく、レクターが代書しています。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは、明らかに別の霊団からの通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意しました。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の5年間は、とくに多くなっておりました。

通信が書かれた時の環境条件は、その時々でみな異なります。原則としては1人きりになる必要があり、心が受け身になるほど通信が出やすかったのは事実ですが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができました。

最初のころは努力を要しましたが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは、本書で紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていきました。本書はその見本のようなものです。

本書に紹介したものは、初めて月刊誌に発表した時と同じ方法で校正を施してあります。最初は心霊誌“スピリチュアリスト”(9)に連載され、その時は筆記した霊側が校正しました。内容の本質が変えられたところはありません。

その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての刊行のことは、一切ありませんでした。が、多くの友人・知人からサンプルの出版を頼まれて、私はその選択に取りかかりました。もっとも、脈絡のことは考えませんでした。

その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に出すまいということだけで、それは当然、まだ在世中の人物に言及した部分も避けることにもなりました。

私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからです。結果的には、しかし、私にとってある意味でもっとも衝撃的で感動的な通信を割愛(かつあい)することになってしまいました。

本書に発表されたものは、そうした、今は日の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含め誰1人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき膨大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたいと思います。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、たしかに一考を要する問題です。私としてはそれを避けるために異常なほどの配慮をしたつもりです。最初のころは筆致がたどたどしくて心もとなく、書かれていく文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどですが、それでも内容は私の考えとは違っていました。

しかし、間もなくその内容が、私の思想・信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのです。そこで私は、筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を推理・分析しながら読むことさえできましたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていきました。

こうした中で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼりますが、驚くのは、その間に一語たりとも訂正された箇所がなく、ひとつの文章上の誤りも見出せないことで、一貫して力強い美しい文体で綴られております。

だからと言って、決して私は、私自身の精神が使用されていないと言うつもりもないし、得られた通信が、それが通過した私という媒体の知的資質によって、形体上の影響を受けていないと言うつもりもありません。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常で、影響がまったく無いということは、まず考えられません。

しかし確実に言えることは、私に送られてきた通信の大部分は、私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信仰とも概念上において対立しており、さらに、私の知らなかったことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメ細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということです。

テーブルラップによって多くの霊が自分の身元についての通信を送ってきて、それが後に確認されたことが多くの交霊会(10)でありましたが、私の自動書記によっても、その種の情報がくり返し送られてきました。

私はその通信のひとつひとつに議論の形で対処しています。そうすることで、ある通信は私にとってまったく新しい知識であることが明確となり、また別の通信では、私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけです。

本書に集録した通信の多くは、その本質をつきつめれば、多分まったく同じ結論に帰着するはずです。

通信はいつも予期していない時に来ました。私の方から要求して始まったことは1度もありません。要求しても、まず与えられませんでした。突如として、一種の衝動を覚えます。どういう具合にかは、私にも説明できません。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をします。

一連の通信が規則正しく届けられている時は、1日の最初の時間をそれに当てました。私は早起きです。そして起きるとまず、私なりの朝の礼拝をします。衝動はしばしばその時に来ました。と言って、それを当てにしていると、絶対に起きませんでした。

自動書記以外の現象(11)もよく起きました。健康を損(そこ)ねている時(後半はよく損ねました)を除き、いよいよ通信が途絶えてしまうまで、何の現象も起きないということは滅多にありませんでした。

さて、膨大な量の通信の中でも、インペレーターと名のる霊からの通信が、私の人生における特殊な一時期を画(かく)しております。本書の中で私は、そのインペレーターからの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、その後、求めても滅多に得られない心の安らぎに包まれた時のことに言及してあります。

それは、私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には、私にとって一種の霊的新生となりました。

その期間に体験したことは他人に伝えようにも伝えられる性質のものではありませんし、また伝えたいとも思いません。しかし、内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとした、その厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけるものと思います。

表面的にはあれこれと突拍子(とっぴょうし)もないことを考えながらも、また現に、問い質(ただ)すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来、インペレーターという霊の実在を真剣に疑ったことは、ただの1度もありません。

この“まえがき”は、私としてはまったく不本意な、自伝風のものとなってしまいました。私に許される唯一の弁解は、1人の人間の霊的体験の物語は、他の人々にとっても有益であることを確信できる根拠が私にあるということだけです。

これから披露するものを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのです。私はその必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが、霊的体験のひとつの典型として、心の琴線に触れる人にとっては有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにしました。

真理の光を求めて2人の人間がまったく同じ方法で努力することは、まずないでしょう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には、家族的ともいうべき類似性があると信じています。

ある人にとって、私が取った方法によって学ぶことが役立つ日が来るかも知れないのです。現にこれまでも、そうした方がおられたのです。私はそれを有り難いことと思っております。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もありますが、これはきわめて些細(ささい)な問題です。通信の価値を決定づけるのは、その通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理です。

その真理が真理として受け入れられない人は多いことでしょう。愚か者のたわごととしか思えない人もいることでしょう。私は決して万人に受け入れてもらえることを期待して公表するのではありません。その人なりの意義を見出すことのできる人にとって本書が少しでも役立てば、それで私は満足です。

1883年3月30日

M・A(12)

[注釈]

(1)原理的にはコックリさんと同じで、エンピツで文字が綴られる仕掛けになっている点が異なる。

(2)Rapping 文字どおり叩く音によって通信する方法で、いちばん多いのはテーブルが傾斜し上下運動をしながら脚の1本が床を叩いて通信するもの。前もってモールス信号のような符丁を取り決めておく必要がある。

(3)Trance Speaking 入神(トランス)状態になった霊媒の発声器官を使って霊がしゃべる。世界的に有名なのが、モーリス・バーパネルを霊媒として60年間にわたって週1回の割で出現した、シルバーバーチと名のる霊による霊言。

(4)Slate Writing 2枚のスレートを合わせて置いておくだけで、その片面または両面に通信が書かれる。一種の直接書記現象。

(5)これは本書に収められた、インペレーター霊を中心とする霊信にかぎってのことで、最初のラップによる通信から最後の途切れとぎれの通信までを入れると、1871年から82年までとなる。

(6)Doctor,the Teacher 巻末《参考資料》参照

(7)Rector 巻末《参考資料》参照

(8)Imperator 巻末《参考資料》参照

(9)Spiritualist のちに Light と改名。

(10)自動書記は自分の部屋で1人で行なったが、モーゼスは他の霊媒によって行なわれていたテーブルラップや霊言等による交霊の場にもよく出席していた。インペレーターの身元に関する情報を得たいという気持からだったが、波動がよくないから行かないようにと忠告する文章が本文の後半によく出てくる。

(11)本書ではそれは紹介されていないが、モーゼスの死後にスピーア博士夫人(第4節注2参照)が編纂した More Spirit Teachings(日本語訳「インペレーターの霊訓」潮文社)には、かなり詳しく出ている。

(12)Master of Arts の略で、日本の文学修士号に相当する。モーゼスはオックスフォード大学を出ている。

「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†■2022年12月7日UP■
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心臓が鼓動しているのが、血液が全身を循環しているのが、脳髄でアレコレ思索を巡らせる事ができるのが霊のチカラのおかげだというこの単純な真理が理解されるのにあと何千年かかるというのか。2000年前にイエス様が同じ事を言っていたじゃないか、まだ分からないのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体にも、自分が霊的存在であるという事実にも、一体人々はいつになったら気が付くというのか。この狂った腐った物質界は、あと何千年、正しいおこないをする者を磔刑(はりつけ)にし続けるというのか。そんなに洗脳が好きなのか、そんなに帰幽後に地獄に落ちたいのか。ステキな境涯に案内してあげようと大切な事を教えるために物質圏に犠牲的降下をして下さっている高級霊の方々の愛を、あと何千年裏切り続ければ気が済むのか…続きを読む→
「自分を霊媒にする事を考えるのです」僕は書籍テキスト化に全力を尽くします(祈)†■2023年2月22日UP■
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「サークルメンバー問題」についてお話しますが、交霊会は霊媒ひとりではおこなえません。上記に説明したように低級霊のジャマが入りますのでそのジャマを排除せねばなりません。そこで必要になるのが「サークルメンバーつまり霊的仕事をおこなうためのある一定レベルの資格を有した数名の人間から抽出したエクトプラズム」なのです。サークルメンバーからエクトプラズムを抽出し、そこに霊界から持参した成分をミックスさせて、低級霊を締め出す「防御壁」のようなモノを拵えるのだそうです。その防御壁がなければ霊媒は低級霊のオモチャにされてしまうのですが、霊団が言うには僕という霊媒の交霊会ではその防御壁がしっかりしているので「邪悪が入る余地はない」のだそうです…続きを読む→
「愛の試練・霊障イペルマルシェ」再び。まだやってくるか、超頭にくるんですよ(祈)†■2023年5月31日UP■
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眠気防止対策でポテチを食べたりするのですが、今回に関しては全く効果がなく、とにかく運転中に目が閉じまくり何度も反対車線に飛び出しそうになります。僕は上半身を激しく前後にガクガク動かしながら(ハンドルに近付けたり遠ざけたりして)運転を続けますが、何をどうやっても目が閉じ続けます。駐車場に続く林道セクションに入ってからも全く目が開く事はなく、180度カーブを曲がり切れなくて何度も岩の壁にぶつかりそうになりながら、頭を振って上半身を徹底的にゆさゆさ動かし続けて強引に目を開けながら運転を続け、かろうじて駐車場に到着したのでした。そして車内で着替えを始めると、さっきまでの運転時の目を閉じられていた状態がウソみたいにまるっきり普通に着替えているのです。猛烈に眠いのであれば着替え中も眠いはずです。その瞬間に「これは完全におかしい、超久々にバーバネル氏がやりやがったんだな」と理解したのでした…続きを読む→