インスピレーションで僕の霊聴に実際に日本語で語る担当の霊が数人いて、その数人は霊団上層部の指示を受けて僕に伝えるべき内容を日本語に変換して僕に分かるように降らせてくるという仕事を長年やっているものと思われるのですが、その霊団の声の中に聞き慣れないものが混じるようになっています。

ボイスボックス(肉体の声帯をエクトプラズムで拵え、そこに霊体の口をあてがって地上時代とそっくりの声で話す霊現象)で僕に語りかけているのではなくインスピレーションですから、声色などどうとでも操作できるはずで、いつもと違う声が聞こえたからと言ってあまり過度に気にする事はない、それより内容を重視すべきだと思うのですが、明らかに性格の違う事を言われています。(違う人物に思えるという意味)

モーセ氏のDVDを観て以降にこの変化が起こっています。僕はこのDVDは霊的にはあまり価値がないと判断していますが(霊関連書籍の方が断然価値は上)僕の予測では霊団内に新たな高級霊の方が参加しておられるとか、そういう事ではなくて、そういう空気感を演出する事によって僕を目くらましして何だかんだ言って僕を閉じ込め続ける事が目的だと思われます。

とにかく物質界の邪悪の事など何も考えていない、もはや霊団は僕を一生最悪の中に閉じ込める事以外何も考えていないと断言してもイイような事を言われているからです。その目的達成のための目くらましの声だと僕は思っているのであまり真剣に聞かないようにしているのですが、しかし言われている事は僕に突き刺さる内容なので困っているという状態です。

「I Appeal Unto Caesar」70%完成中「モーゼスの霊訓 下」98%完成中。間もなく「Paul In Athens」の作業にも突入します。そしてストーリーのネームは完成していますのでそろそろ線画を描き始めます。時間が足りない。あの最悪のところから脱出して作業時間を増やす事ができればモチョト使命遂行がスムーズに進行するはずなのです。脱出は何と言われても決行する。「感情と手は別レイヤー」ですから作業は続行中(祈)†

「じゃあねー♪」霊団が僕から離れるのだそうです、別にそれでイイですけど(祈)†■2023年9月27日UP■
「じゃあねー♪」霊団が僕から離れるのだそうです、別にそれでイイですけど(祈)†
「帰幽後に霊界で賜る霊的褒章」を人生目標としている僕にとっては、この霊団が降らせる物的苦難を乗り越えた先に得られる霊的喜びは想像を絶するものがあり、大いに耐え忍ぶ意味があるという事になるのですが、何かが引っかかるのは僕だけなのでしょうか。僕個人の霊的進歩向上の事は考えてくれているようだが、物質界の邪悪を滅ぼす気は全くない、強姦殺人され続けている奴隷の女の子たちの事など見向きもしない、この霊界上層界の人間たちの思考回路は一体何がどうなっているのか。やはり僕が公言している「物質界は地球圏霊界の刑務所」という言葉は正解だと思います。刑務所の生活環境を良くしてしまったら刑務所として機能しなくなってしまいます。やはりコイツら(霊団)は物質界の問題を解決するつもりが本当にないんじゃないのか。ただ僕のようにできるだけ多くの人間を向上させようとしている、そちらが上位の目的であり、物質界の邪悪性はその向上のためのトリガーとして必要だから改善させる訳にはいかないという事なのではないか…続きを読む→
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†■2023年6月21日UP■
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†■2024年4月17日UP■
「進歩に重大な障害をもたらす」これが霊団が僕を閉じ込める理由です、永遠に許さぬ(祈)†
訳者、近藤千雄先生が著書の中で何度も書いておられる事ですが、そもそも「守護霊」という言葉が間違いなのだそうです。この言葉はさも「人間を守ってくれる」かのような印象を与える言葉ですが、実際の守護霊の役割は全く逆で、守護を任された人間の罪障消滅をキッチリ完了させるために試練に立ち向かわせるのが仕事であり、守るどころか苦しめるのが仕事と言ってもいいくらいなのです。そういう意味では「守護霊」という名称より「監督霊」と言った方が正しいと近藤先生は仰っていました。僕も自分の体験からそのように思います。僕の守護霊様は僕が自発的に試練に立ち向かうようにウマく、本当にウマく仕向けました。そして僕は画家の試練Dreamworkと、山での修行というダブルの試練を自分に課す生活に突入し(イヤイヤやらされたのではなく自分の意思でノリノリで始めたのです)急速に向上を果たして一気に霊性発現にまで到達したのです。僕は守護霊様の事を「導きのプロ」と公言していますが、とにかく守護霊様は「やり方がウマすぎた」大大大Dai成功だった、という事です。それで霊団はムカついているが守護霊様は尊敬し永遠の恭順を誓うと言っているのです…続きを読む→

240821十戒DVD01

DVD2枚組、計4時間を観終わりましたが、ウソを書く訳にはいきませんので(この作品のファンの方には申し訳ありませんが)霊性発現を果たして12年間にわたって霊現象に浴させて頂きながら人生を送ってきた僕が、この作品を観ての正直な感想を述べさせて頂きます。

えー、まず演出面がイマイチと感じました。このストーリーを見ながら「僕ならこのシーンはもっとこうやってああやって、そうすればもっとおもしろくなるのに」とか思いながらフラストレーションの中で4時間を過ごした訳ですが、この映画(DVD)はエンタテイメント作品ではない、旧約聖書を忠実に映像化したモノだと考えるべきなのかも知れませんね。

大昔の事ですから記録もほとんど残されていない中で数少ない資料をもとにストーリー展開を考えておられるのでしょうから、事実と違う事をアレコレ盛り込む訳にもいかないという事情もあっての事なのかも知れません。おもしろいストーリー展開にするために事実に反するシチュを次々挿入とか、そういう事はできないのかも知れません。

で、演出面はそういう事情等もあり仕方ないとして僕がもうひとつガックシさせられたのが「霊的内容の記述がほとんどない」という事です。イヤ皆さまは「有名なあんなシーンとかこんなシーンとか、霊的展開が十分盛り込まれているじゃないか」と思われるのかも知れませんが、僕的にはハッキシ言って不完全燃焼でした。

というのもモーセ氏と言えば地球圏霊界に燦然と輝く偉大な霊覚者ですから、その物質界生活時の様子は徹頭徹尾霊的展開だったはずなのです。それを考えた時、このDVDは霊的内容が薄すぎる、事実に反すると僕は感じたのです。

例えば、モーセ氏は大勢の民を率いて砂漠、荒野を40年間も放浪の天幕生活をしておられた訳ですから(出エジプト記、ですか?読んだ事ないんですけども…)その間の食糧問題はどうするんですか。みんなを食べさせなきゃいけないでしょ。

その時イエス様もおやりになった「数匹の魚を何千匹に増やした霊現象」を当然やっているはずなのです。数枚のパンを何千枚に増やして皆に食べさせていたはずです。絶対にやっているはずです。逆に考えてみて下さい。砂漠のど真ん中で食べるものが何もない大勢の人間たち、このままでは暑さと飢えで死んでしまう、そのとき人間は生き残るためにどうしますか。

十戒に「人を殺してはならない」って書いてあるのに仲間同士殺し合いの人肉喰いになるに決まってるじゃないですか。モーセ氏の霊団は十戒を降らせて正しい生活を人間に説いているのに十戒の内容と正反対の状況が発生してしまうんですよ、そこは霊的に解決するに決まってるじゃないですか。もっとも「モーセ五書」にはちゃんと書かれていてDVDの中にはそのシーンがなかっただけなのかも知れませんが。

さらに、荒野をさすらうという厳しい生活で、しかも幼い子供や老人もたくさんいます。ケガや病気も多発していたはずです。そうなればイエス様もヘリと一緒に砂漠の民と生活していた時に砂漠の民たちを治療していたように、モーセ氏も心霊治療家として民を治療したり、治療しきれない時は安らかに帰幽させてあげたりしていたはずなのです。これも絶対にやっていたはずです。

そういう霊的シーンが全然ないじゃないですか。これはおかしい、という事になるのです。これもやはり「モーセ五書」にはちゃんと書かれている、僕が知らないだけという事もあるのかも知れませんが。

とはいえDVDの中に数が少ないですが霊現象と思われるシーンがいくつか登場します。が、そこに霊的説明を入れてくれよと、僕はスゴク言いたいのです。

何だかよく分からない感じでボンヤリそのシーンが過ぎ去って次のシーンに強制的に切り替わるみたいな感じで「イヤイヤ、今のは霊団のこういう方がこういう風にモーセ氏を使用して起こした霊現象で、この時はエクトプラズム量が不足していたので長時間はできなかった」とか、そういう解説のアナウンスが挿入されるべきだと思うんですよ。じゃなきゃ観てる側(僕たち)が分かんないじゃないですか。

ちなみに補足ですが、インペレーター霊によりますと「モーセ五書」はモーセ氏本人によって書かれたモノではなくて後世の人間が書いたものなのだそうですね。で、その書いた人間が霊的な事をあまり分かっていない人間だったとしたら、そういう霊的記述がスッポリ抜け落ちた書籍になっているという事は十分に考えられます。

つまりこのDVDのストーリーはそもそも正確ではない大昔の書籍を参考にして制作された不正確なストーリー、という事になると思いますので、あまり作者を責めるような事を言うのは酷だと思うのですが、たぶんこの映画の作者は霊関連書籍(つまりスピリチュアリズム)にあまり、イヤほとんど精通しておらず聖書のみを参考にしてこのストーリーを書いたのではないかと予測されます。

だから霊的説明がほとんど入っていない、つまり霊的知識としても頭に入っていなかったし自身が霊性発現している訳でもないので霊的体験もない、なので霊的ストーリーが書けるはずもない、知らないんだから、という事なのではないか、と思ってみたりみなかったり。

インペレーター霊が聖書の間違いをたくさん指摘して下さっています。僕たち物質界で生活している地球圏霊界の幼稚園児はインペレーター霊の言葉に何としても耳を傾け、間違った情報に毒されず正しい霊的知識を獲得するよう努めなければなりません。そういう意味ではこの映画の作者の方に申し訳ないのですが、霊的な事をお勉強したいと思っておられる方には僕はこのDVDはオススメしません。

このDVDを観るより「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍を通読した方がはるかにはるかに正確に霊的知識を獲得できます。それは僕が絶対の自信をもって断言させて頂きます。イヤ、あの、お安いので1枚手元に持っておくくらいはイイんじゃないでしょうか、とフォローを入れたりなんかして。

ハァァ、夏休みの読書感想文の状態になってしまいましたが、観た所感を僕なりに正直に述べさせて頂きました。不完全燃焼、霊的記述がペライ、もっと霊現象を盛り込んでくれ、ちゃんと霊的説明のMCを挿入してくれ、という感じですね。

ハァ疲れた、テキストの作業およびアナログ絵ストーリーの描画を進めます(祈)†

[本質においてプライベートな内容のものを公表するのは、決して私の本意とするところではないが、それを、あえてこうした形で公表するのは、1人の人間の思想的遍歴が他の大勢の人たちの経験となることも有り得るであろうし、私がたどってきた精神的および霊的な葛藤の過程が、同じような過程をたどりつつある人たちにとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、霊による宗教上の教えに関する通信が途絶えていたが、私の胸には、以前にもましてさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせてもらった。

当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んでは途方に暮れ、茫然(ぼうぜん)自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして、私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”だった。

その時の私の考えでは、霊の教説をうんぬんするよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。また、それくらいのことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えてもらえないことに焦燥を覚えたのである。

今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時(1873年7月)の私には理解できなかったのである。

さらに私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが、決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく、かつ、いい加減なものであるという印象を拭い切れないことだった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者の方が上だった。

また私には、霊の見解の中に大きな矛盾があり、いろんな思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもそのほとんどに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。

内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私は、さきに述べた疑問点を書き連ねた。それは、主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係(つながり)、およびスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものだった。次に掲げるのがそれに対する回答である – ]

神の啓示も人間を通じて届けられる

友よ、ふたたびそなたと対話を交えることをうれしく思います。そして、たとえこの機会にそなたの質問のすべてに答えることができず、またすべてを解決し得ずとも、神と人間との関係、ならびにわれわれの使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを正すことができるでしょう。

そなたの誤解の根源は、神および神と人間との関係についての間違った概念にあるように思えます。人類の歴史を通じて、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはありません。

が、人間がその啓示を理解しようとするうちに、愚かにもその本性と働きについて、真実から大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するにいたりました。

太古においては、そのお粗末な概念は何らかの物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬(いけい)され、叶えられなかったら即座に捨て去られることの繰り返しでした。

当時の人間は、目の前の物体そのものには何の霊力もなく、背後に霊が控えていて、筋の通る祈りは叶えてあげようとしている事実を知りませんでした。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのです。目に見え、手に触れるものにしか、神の概念を託すことができなかったのです。

この点を“とくと”注意してもらいたい。“彼ら自身の神の概念”を託したのです。神そのものではなく、彼らが精いっぱい想像した未熟な概念だったのです。いい加減な占いの結果からお告げを引き出し、それを基準にして勝手な祭礼の規範をこしらえ、あげくには、それをもって神まで裁くにいたりました。

自分たちの想像した神を裁いたのです。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えました。人間から切り離せない幾つかの弱点を、神も有するものと考えたのでした。

こうして出来あがった神は、何よりもまず、おのれの名誉の維持に腐心する神であり、ときに我慢づよく、ときには優しい慈悲心をもつ神でした。しょせんは神を語る者自身が、神はかくあるべきであると“想像したもの”だったのです。

要するにそれは栄光を授けられた“人間”、普遍絶対性と全知全能をそなえた“人間”だったわけです。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならばこうするであろうと考えたのでした。

かくして、いつの時代にも、神の概念にはその時代の特色が反映しているわけです。それは、しかし、人間の成長とともに進歩します。その知的発達と人間性の洗練の度合に応じて進歩したものとなっていきます。

ほかでもない、その通路となる霊媒(霊覚者)が無知の足枷から解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神についての正しい概念を把握することが可能となるからです。

人間の受容度を超えたものは届けられない

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるという事実は、これまでもたびたび述べてまいりました。当然そういうことになるのです。神も、人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示できないのが道理だからです。

それは、そなたには奇異に思われ、理解することは不可能でしょう。ゆえに、これ以後も、われらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入してまいります。そして、いずれは現在のそなたの概念の誤りに気づいてくれる日も来ることでしょう。

が、今はまだその時期ではなさそうです。神について人間各自が抱いている概念がすなわちその者にとっての絶対的な神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対に有りえないのです。事の本質上、それは不可能なのです。

それゆえ、そなたが神の働きの真意にまで言及して「そのような絶対に有りえない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神もそのような行為に出られなかったからである」と述べるということは、言い変えれば、「私の神の概念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の概念を受け入れるわけにはいかない。私の信じるところによれば、私の神はそのような態度を取られるはずはないからである」と述べていることになります。

われわれが指摘せんとするのは、まさにそこです。そなたは自分で自分の神をこしらえ、自分がふさわしいと考えるとおりの働きを、神に強要しているのです。そのうち – この地上にせよ、死後にせよ – そなたの視野が広がるにつれて新たな光が射し込み、「なるほど自分は間違っていた。神は自分が想像していたものとは、まるで違う。なぜあのような愚かな概念を抱いていたのだろう」と述懐する日も到来することでしょう。

これは、すべての進歩的人間に言えることです。その目覚めの時は、かならずしも地上生活中に到来するとはかぎりません。ある者は死後の新たな生活まで待たねばなりません。

が、この地上において洪水のごとき知識の恩恵に浴する者もいます。魂が古い信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求めます。干天の慈雨のごとく、生命を生き返らせる何ものかを求めるのです。

さて、そなたはそなたなりの啓示を得られた…いや、今まさに手にされつつあるところです。見方によれば、これはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の概念の入る余地ができたしるしと言えるでしょう。

さらに見方を変えれば、外部から新しい豊かな神の啓示 – 人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示 – が流入したと考えることもできましょう。

それはどちらであっても構いません。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にあります。受容力がそなわるまでは知識は授かりませんし、精神がその不足を意識するほどに進化するまでは、より高い啓示は得られません。その理由は単純です。精神そのものが啓示を受ける通路だからです。

バイブルの神は未熟な人間の精神の産物

そなたが抱いている神の概念は、すべて、人間の精神を濾過器として地上にもたらされてきたものです。神を求める人間的渇仰が具象化したものです。未熟な精神の産物であり、その精神の欲求はかならずしもそなたの真実の欲求とは一致せず、したがってその神は、というよりは、神についてのその見解は、そなたにとっては違和感があります。

それをそなたは何とかして自分の思想構造に適合させんとしておられるが、しょせん、それは叶わぬことです。何となれば、その概念たるや、発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからです。

よく考えていただきたい。そなたは、われわれの述べるところの概念が、そなたが“聖なる記録”から引き出す概念と相容れないことを理由に、われらを神の使徒とは認めないという。

ではお尋ねするが、われらの説く神は、いったいどの神と異なると言うつもりであろうか。アダムとともに人間の姿で地上を歩き、何も知らない者たちの犯した罪 – 今ではささいな過ちにすぎないとされている罪 – に恐ろしい報復をしたと、まことしやかに語られている神のことであろうか。

それとも、忠実な友にそのひとり子を供物として捧げることを命じたという神のことであろうか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍とともに戦場におもむき、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上ない法律と法規とを発令したという神のことであろうか。

もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。

それとも、自分が選んだ民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後100年にもわたって手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことであろうか。

さらに、われわれの教えは、バイブルの大予言者たちの説く神々のいずれと相容れないというつもりであろうか。イザヤの神であろうか。エゼキエルの神であろうか。それともエレミヤの病的な心の産物である、あの陰気な神のことであろうか。

それとも、かのダビデの神 – 半ば慈父のごとく、半ば暴君のごとく、残忍さと寛大さとを交互に見せ、つねに矛盾と不合理に満ちた神のことであろうか。それともヨエルの神であろうか、ヨハネの神であろうか。

それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢のごとき物憂(ものう)げな天国等々の幻想のことであろうか。それらのいずれと矛盾するというつもりであろうか。パウロかヨハネか、はたまたイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にも、その時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされております。言い換えれば、神の概念は、鮮明度の差こそあれ、それを受けた霊感者の考えであったと言えます。

精神に印象づけられた霊示が、その霊感者を取り巻く精神的環境によって形を賦与されていったのです。すなわち、その霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが当人の考えによって形を整えたのです。

真理のすべてを授かった者は1人としておりません。みな、その時代、その民族の特殊な要請にかんがみて、必要な分量だけが授けられたのです。今も引き合いに出したように、神の概念が種々様々であるのはそのためです。

むろん、われわれと、われわれの説く神とは、ヨシュアとその神とは異なります。パウロとその神とも違います。もっとも、神なるものを最も正しく理解し、その真近かで生活したイエスによって、何も知らない民に寓話に託して説かれた曖昧な神の概念を、われわれの説く神と同列に置いて比較しようとは思いません。

イエスは、弟子の誰よりも鮮明に神を認識しておりました。その説くところは、きわめて単純にして平易であり、そして真摯(しんし)でした。その神の教えもまた、平易そのものでした。“天に在(ま)しますわれらが父” – 無知な人間が勝手に神の属性ときめつけ、他愛ない要求を神に押しつけている神学上の教説に比して、これはまた何という違いでしょう!

神!そなたはまだまだ神の何たるかをご存知ない!そのうちそなたも、その目をさえぎるベールの内側に立った時、それまで愚かにも想像していた神の概念の誤りを知って驚くことであろう。

真実の神は、およそそなたが想像しているものとは異なります。もしも神がキリスト教の説くとおりのものであるとすれば、その神は、創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけた傲慢無礼なる人物に報復すべきところです。

神の本質は人間の理解力を超えている

が、神はそのようなものではありません。人間の哀れな奴隷根性などで捉えられる性質のものではないのです。神はそうした卑屈な想像しかできない愚昧な人間の無知を哀れみ、赦されます。けっして咎めだてはなさいません。無知は、故意でさえなければ、けっして恥ではありません。

が、神は、低劣な概念をいつまでも御生大事にする愚かさ、おのれの偶像を宿す暗くカビ臭い心に、新たな光を入れようとしない態度をこそ、お咎めになります。

闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟な幻想にしがみつき、イエスの説いた単純素朴にして雄大な神に美を見出すことができずに、その崇高な概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木しないと承知できない者たちをこそ咎められるのです。

それ以上の崇高な教えを受け入れられない者は今なお、けっして少なくありません。が、まさかそなたはその1人ではありますまい!

もしもそなたが、軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしては次のように答えるほかはありますまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような、腹を立て嫉妬するような人間的暴君に仕立てた、古い不愉快きわまる教説とは大いに矛盾するであろう。

が、イエスを通じて授けられた神聖そのものの啓示とは完全に軌(き)を一(いつ)にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手な欲求によって堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けさせるに至ったのである(2)、と。

もしもわれらの述べる神、および死後の生命についての言説に何ひとつ心に訴えるものを見出しえないとすれば、それは、そなたの魂が、かつて喉を潤(うるお)した雄大にして単純素朴な概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ありません。

多分そなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間をさえぎる暗雲が、そなたに恐ろしい影響を及ぼしつつあるということであるに相違ありません。願わくばわれらがその暗雲を取り払い、今一度、感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことができればと思います。

永遠に拭(ぬぐ)いきれない危害がそなたに及ぶとは危惧しておりません。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思いません。それも無益ではないでしょう。

“悪魔”も人間の産物

さしたる意味もない、ささいな問題に囚(とら)われることは止めることです。大きな問題、神についてのより明瞭な啓示の必要性、神およびわれわれ使徒について今地上にはびこっている冷ややかな無関心と無知の問題、われわれが明かす生命躍如たる来世観を十分に検討してもらいたい。

想像の産物にすぎない“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることです。真摯な心の持ち主、純真な心の持ち主、誠意ある心の持ち主にとって、神学がまことしやかに説く悪魔も魔王も存在しません。悪は近づけないのです。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となるのです。

そのまわりは天使によって保護され、明るい霊の支配を受け、進むべき正しい道へと導かれます。彼らの前途には限りない知識と、彼らの知性を高揚し気高くするものが待ち受けております。

悪魔などは、みずから創造しないかぎり、恐れるに足りません。善性への親和力が善なるものを引き寄せるからです。まわりには守護にあたる霊たちが控え、みずから求めぬかぎり、邪霊の餌食(えじき)とはなりません。

と言って、悪の誘惑や罠(わな)が特別に免除されるというのではありません。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることはできません。魂が悲しみと懊悩(おうのう)の暗雲におおわれ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れません。すなわち、辺りに見る不幸と悪におのれの無力さを感じ、良心の呵責に苦しめられることもあるでしょう。

が、悪魔が彼らを囚(とりこ)にし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは、絶対にありません。そうした懊悩も悲しみも、良心の呵責も、しょせんは魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上していきます。

それは進歩の手段として背後霊が用意した試練であり、ゆえに細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのです。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏った者のみが、肉体を捨てたのちもなお肉体的欲望を捨てきれない同質の未発達霊を引き寄せるのです。悪の侵入の危険性にさらされているのは、そうした類いの人間のみです。その性癖そのものが悪を引き寄せるのです。

“招かれた悪”が住みつくのです。そうした人間が地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのです。

さきに、そなたは軽率にも、霊界通信なるものがいい加減で益になるとは思えないと述べたが、それはすべて、その種の低級な邪霊の仕わざなのです。

人間的愚かさが悪を生む

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級な人間がみずから招いている低級な霊の仕わざをもって、われわれを咎めてはなりません。咎められるべきは、聖純なものや高尚なものを嫌い、低俗にして下劣なものを好む、他愛ない人間的愚行の方です。

かの愚かな法律をまず咎めるべきです。単なる慣習と流行によって助長されたにすぎない愚行と罪状によって行く手を阻まれ、堕落の道へと引き下ろされた数多くの人間を、何の予備知識もないまま死後の世界へ追いやる法律を、まず咎めるべきです。

さらには酒場、精神病院、牢獄、そして、そういうものによって増幅された情欲と悪魔のごとき強欲(ごうよく)を咎めるべきです。無数の霊が永遠に火刑に処せられるとは、実にこのことです。キリスト者が想像した物的な炎ではありません。死後もなお消えやらぬ強欲が、炎のように魂を焼き続けるのです。

燃えるだけ燃え、その強欲を焼きつくせるだけ焼きつくして、ようやく魂が清められるのです。さよう、咎められるべきは、善霊を偽って人間をたぶらかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる、低級霊たちです。

これ以上のことは又の機会としよう。すでにわれわれは予定していたもの以上のことを述べました。それに、わたしの耳に、神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえます。これより、わたしもその礼拝の儀式に参列することになっております。(3)

願わくばわたしの祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこから流れ出る御恵みの流れのひとすじがそなたにも届き、和(なご)みと静かなる確信がその悩める魂を癒やし、慰めとなるよう祈ります。

†インペレーター

[注釈]

(1)John Calvin 16世紀のフランス生まれの神学者。スイスにおける宗教革命家。カルビンとも。

(2)イエスの実像に関しては本書のいたるところで述べられており、端的に言えば、インペレータ霊団はイエスとバイブルに関する誤った認識を改める作業を通じて基本的な霊的真理、いわゆるスピリチュアリズム思想を説くことを使命としていたと言えよう。

それと同じことを英国の元牧師のモーリス・エリオットが心霊科学とスピリチュアリズムの観点から行なった著作が、同じく元牧師の山本貞彰氏によって翻訳され、『聖書(バイブル)の実像』のタイトルでコスモ・テン・パブリケーションから出版されている。

新約篇と旧約篇とがあり、その内容は本書で述べられていることと完全に一致している。とくにバイブルが原典から翻訳される際の誤訳にまで言及しているところは、学問的な説得力がある。

たとえば、“マグダラのマリヤ”といえば売春婦だったというのが通説だが、“マグダラ”という用語には“癒やされた”という意味があるという。つまり、イエスによって奇跡的に癒やされた女性で、それがきっかけで生活物資の面でイエスを援助したというのが真相らしいのである。

その他、イエスとバイブルの実像が納得のいく形で鮮明に描き出されていて、キリスト教に関心のある方にとって画期的な必読書といえる。

(3)これはシルバーバーチの霊言の中にもたびたび出てくる霊界の上層界での行事のことで、世界各地で行なわれている地球を霊的に新生(スピリチュアライズ)させるための活動、いわゆるスピリチュアリズム活動の指導霊が一堂に会して行なう、審議と祈りの集会のことである。

が、これ以外にも、上層界へ行くほど讃仰(ごう)の祈りがしばしば行なわれているらしい。参考までに2つの例を挙げておく。

ひとつは“コスモのテン・ブックス”の1冊となっている『妖精世界』の著者ジェフリー・ホドソンが霊視したもので、それを日本のスピリチュアリズムの先駆者・浅野和三郎氏が「心霊と人生」誌に訳出しておられるので、それを漢字・かなを一部修正して紹介しておく。出典は Coming of the Angels。

≪天使たちは太陽を全組織の大中心、一切の生命の大本源と考える。ただし、天使たちが太陽について抱く神秘的な意義は、一般の人類には十分にわかっていない。太陽は実に最高級の天使たちの大本営であり、それより以下のすべての天使、すべての自然霊にとって、実に憧憬・渇仰の中心なのである。一切の活力、一切の指導方針はみなそこから賦与される。

むろん最高級の天使においては、全組織の中に遍在する霊気と合流融合してしまっているから、外部的に具体化した神の姿を特別に崇拝することはしない。彼らは万有に宿れる神と合一し、彼らにとって神は随所に存在するのである。要するに神とは力・光・生命および意識の没人格的大中心なのである。

しかし、それは最高の理想の境地であって、その域に達することは、わずかに少数の天使たちにのみ可能である。ふつうの天使はみな、太陽を崇拝の中心とするのである。

これがため、彼らは時として地界から遠く離れた天空に留まり、各自の神格に応じて、秩序整然たる幾重の円を描いて、感謝と祈願の誠を捧げる。円の層は一段また一段と次第に高くなり、末は渺茫(びょうぼう)として無形の世界へ消える。

天使たちの身体はいずれも光り輝いているので、かくして造られた集団は、宛然(えんぜん)、生きた光のさかずきである。すべての心は愛と絶讃とに満ち、すべての眼は、生命の本源たる日の大神にさし向けられ、それらが渾然(こんぜん)融合して、ここに清き尊き力の凝体ができ上がる。

その中から奔流のようなすさまじさをもってほとばしり出る光の流れは、上へ上へと上昇して太陽神の御胸に達する。

俄然として虚空にいみじき音楽が起こる。礼拝者たちの胸の高鳴りが加わるにつれて楽声もまた強さを増し、ここに歓天喜地の、光と音との、世にも妙(たえ)なる世界ができ上がる。

それにつられて、いかなる天使も、日ごろ住むおのれの領域よりはるかに高き境涯に進みのぼりて、太陽神の荘厳無比の御姿を目(ま)のあたりに拝するのである。

かくて全てが随喜渇仰の最高潮に達した瞬間に、大神の御答えが初めて下される。それは黄金の光の洪水となって、すべての天使の魂にひしひしとしみ込む。前後左右、天上天下、辺りはただ澎湃(ぼうはい)たる光の海。

そしてその真っただ中に、いちだん清く、強く、そして美しき日の大神の御姿が浮かぶ。むろん神の御姿は見る者の霊格によってそれぞれに異なる。いかなる者も、自己の器量だけしか拝むことはできないのである。≫

もうひとつは、ジョージ・オーエンの霊感書記通信『ベールの彼方の生活』の中で、アーネルと名のる通信霊が、暗黒界の探訪を終えて、その報告のために上層界に戻ってきた時の体験をこう綴っている。

≪その界を取り囲むように連なる丘の上でわれわれは一団の出迎えを受けました。みんな大喜びでわれわれの帰還を待ちわびており、みやげ話を熱心に聞きたがりました。

そこでわれわれは、いっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ“聖なる山”の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて“聖なる山”をのぼり、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。

そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来てみると、そこに大群集が集まっており、跪(ひざまず)いて、姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。

われわれはそこを通り抜けて最後部で待機していたのですが、われわれの動きに一べつすらくれる者は1人もいませんでした。

地上の人間は真の静寂というものを知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。が、あの大聖堂での讃仰の祈りの時は、まさしく静寂そのもので、荘厳さと畏敬に満ちておりました。≫

「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†■2024年4月3日UP■
「ちょっとでも匂わせる事言ったらたちまち死刑」つまりもう何もしないという意味です(祈)†
僕に情報拡散をさせてきっかけを作るところまでは許されたが、それ以上の干渉は許されていないという事なのではないか。で「今回では達成されません」というインスピレーションもありますように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体に関する情報拡散は進み、人々の洗脳は相当に破られて真実の理解が浸透するが、僕の物質界生活中に邪悪の滅亡までは到達しない。その実現は僕の帰幽後に別の使命遂行者によっておこなわれるか、もしくは特定の人物によるものではなく人々の認識の広まりによって自動的にそういう風になっていくとか、そういう事を霊界側は考えているのかも知れません。平たく言うと「無血解決」1滴も血を流さずに邪悪を滅ぼすという事です。僕の物質界生活中に「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を滅ぼそうとすると僕なり誰かなりの血が流されてしまうので霊界側はそこまでゴリ押ししようとしない。何しろ霊界には時間の概念がありませんので僕だろうが次の使命遂行者だろうがそんなモノは大した問題ではないはずです。が、僕から言わせてもらえればその生ぬるい考えがムカつくんだよ。決める時にバシッと決めろよ…続きを読む→
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†■2024年3月20日UP■
「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†
「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁に鉄槌を喰らわせる事もしなければ奴隷の女の子たちを助けてあげる事もせず、ただ半笑いで僕が苦しむところを見ているだけで終わらせるつもりなんじゃないだろうな。で、次世代降下チーム(霊界側で同じ時代に同じ地域に降下するチームがあらかじめ結成されるという事)が、僕が一生かけて蒔いたタネを活用してそこでようやく物質界の諸問題が解決されるとか(つまり僕の帰幽後のお話、今から50年後、100年後とか)そういうストーリーか。僕は前座か。本当に損な役回りだな。フゥゥ、僕なりに霊的知識を果てしなくお勉強していますが、確かに偉大な功績を残した先駆者の方々というのは、物質界では認められず帰幽後に霊界にて真の評価を下され、向上を果たし上層界に召されていると理解しています。※つまり逆に物質界で偉人とされて歴史に名を残している人物というのは霊界では全く評価されておらず暗黒の底に落ちているという事です。戦争勝利将軍とか、慈善家とか、富豪とか、そういうたぐいの人間です。「後なるものが先に」これは偉大な真理なのですが、物質界ではこの意味が全く理解されていません…続きを読む→