(1)モーゼスの略歴

1839年、小学校の校長を父として生まれる。小学生時代に時おり、俗にいう夢遊病的行動をしている。1度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、ふたたびベットに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままで、書かれた作文は見事な出来だったという。しかし、それ以外には異常能力を見せた話はない。

オックスフォード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。24歳の若さながら、教区民から非常な尊敬と敬愛を受けた。とくに当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は、末永く語りつがれている。

1869年、30歳の時に重病を患い、S・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯にわたるスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。

博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。翌年、病気回復とともにドーセット州でふたたび牧師の職についたが、病気が再発し、ついに辞職して、以後、2度と聖職に戻ることはなかった。

翌年、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで教員となり、1889年に病気で辞職するまでの18年間教鞭をとった。その学識と人格によって、学生から大きな信望を得たという。

この霊界通信は、その教員時代の1871年から1882年にかけてのほぼ10年間に得られたもので、モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を求めた時期であり、人類にとっては大いなる霊的遺産を手にした、意義深い時期だったと言えよう。

(2)霊団の構成

右の(1)で紹介したスピーア夫人が、モーゼスの死後、ぜひとも公表すべきものとして編纂した続編 More Spirit Teachings の冒頭で、インペレーターが霊言で次のように語っている。

〈私こと Imperator Servus Dei(神の僕(しもべ)インペレーター)は、49名からなる霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は、私の指導と指示によって、仕事に当たります。

私は全知全能の神の意志を成就せんがために、第7界より参りました。使命達成の暁には、2度と地上には戻れない至福の境涯へと向上していくことでしょう。しかしそれはこの霊媒(モーゼス)が地上での用事を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において、地上よりさらに大きな使命を与えられることになりましょう。

私の下に、私の代理であり副官であるレクターがいます。彼は私の不在の折に私に代って指揮を取り、とりわけ物理的心霊現象にたずさわる霊団の統率に当たります。

レクターを補佐する3番目に高い霊が、ドクターです。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

次に控えるのが、地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、良い雰囲気をかもし出すことを任務とする2人の霊です。この2人にとって抗し切れないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。

そこで霊界の悪の勢力 – 霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする2人の霊が付いております。

じきじきに霊媒に付き添うこの4人を入れた7人で、第1の小霊団(サークル)を構成しております。私たちの霊団は7人ずつのサークルで構成されており、それぞれに1人の指揮官がいて、6人を統率しております。

第1のサークルは、このように守護と啓発を担当する霊 – 霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

第2のサークルは愛のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか、優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類いのものすべてを配慮します。

3番目のサークル – これも同じく1人が6人を主宰しています – は、叡智を司(つかさど)る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直観的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します。叡智を吹き込み、かつ判断を誤らせようとする邪霊からの影響力を排除します。

次のサークルは知識 – 人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また、霊媒のたどる困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身につけさせます。直感的な知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行なわれます。

その次に来るのが、芸術・科学・文学・教養・詩歌・絵画・音楽・言語等を指揮するグループです。彼らは崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練されたもの、教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的なうるおいを与え、気品あふれるものにします。

次のグループは、愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。それがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想が良く、心優しい、魅力あふれる霊たちです。

最後のサークルは、物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上で、ぜひ必要とみた物的証拠を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生をかねて、この仕事にたずさわっております。

この霊媒ならびにわれわれ背後霊団との接触を通じて更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類いに属し、心霊現象の演出の仕事を通じて、浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

このように、私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。

愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るい愛想の良い霊たち、この低い地上界の、単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて、低い境涯から高い境涯への進化という恩恵に俗さんとして勤しむ霊たち – この霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

いずれのグループの霊もみな、みずからも進歩を求めているのです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩を望んでいる者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによって、みずからも向上せんとしているのです。

われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。

全能の父なる神の祝福のあらんことを〉

以上がインペレーター自身による霊団の説明であるが、The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy(モーゼスの背後霊団)によると、このインペレーターの上にさらにプリセプター Preceptor と名のる総指揮者が控えていたという。

私の推察ではこれがモーゼスの守護霊(類魂の中心霊)で、地球全体の経綸に当たる“地球の守護神”の命令を直接受け取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたものと思う。

守護霊というのは表立った活動はしない傾向があり、たとえばインペレーターと並んで有名なシルバーバーチ霊の霊媒だったバーバネルには別に守護霊がいたはずであるが、60年間、そのことに言及すらされていない。

(3)霊団の身元

本文でインペレーターも繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは、単なる好奇心の満足になるだけで、それによってその霊に対する信頼性がいささかも増すものではない。だからこそ、シルバーバーチ霊などは六十年間ほぼ週一回の割で出現しながら、ついに地上時代の名前も国籍も明かさなかったわけである。

とは言え、興味の対象であることには違いないので、おもな霊の地上時代の名前を紹介しておくが、これはみずから明かしたのではなく、モーゼスのしつこい追求にあって、霊団の他の霊が「実はあの方は…」という形で漏らしたものである。

インペレーターは紀元前5世紀のユダヤの予言者で、旧約聖書の“マラキ書”の編纂者マラキ Malachi(マラカイとも)。

レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタス Hippolytus。

ドクターは紀元2世紀ごろのギリシャの哲学者アテノドラス Athenodoras。

プルーデンスは新プラトン主義哲学の創始者プロティノス Plotinus。

その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザーリ等の名が見られる。

ここで参考までに訳者の個人的見解を述べておきたい。スピリチュアリズムの発展にともなって守護霊・指導霊・支配霊等の、いわゆる背後霊の存在が認識されはじめたことは意義ぶかいことであり、背後霊の方でも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは、霊的指導において大いに差がある、というのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することとは、まったく別問題である。

地位が高かったとか名声があったとかいうことは、かならずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。

偉大なる霊ほど名声とか地位、権力、家柄といった“俗世的”なものとは縁のない道を選んで再生するというのが、多くの霊界通信が一致して指摘することで、したがってその生涯はいたって平凡であり、その死も身内の者を除いてほとんど顧(かえり)みられないことが多い。

したがって、そうした人物が死後、誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られるはずがないのである。しかも、霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。インペレーターの霊言に次のようなものがある –

<地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力(インフルエンス)であり、いわば放射性エネルギーです。そなたたちが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊信の非個人性に着目していただきたい。

この霊媒との係わりをもった当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく2段階、3段階と上がった霊は、そなたたちのいう個体性を失い、形体なき影響力となっていきます。

私は人間の世界に戻れる、ぎりぎりの境涯までたどり着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することはできます。私は今、そなたたちからはるか彼方におります。>

西洋においても日本においても、営利に走る霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にしすぎる傾向があるが、その正確さに問題があるばかりでなく、そのこと自体が本人にとって害にこそなれ、何の益にもならないことを強く主張しておきたい。たどればすべて神に行き着くのである。

その途中の階梯で“高い”だの“低い”だのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。

 

訳者 近藤 千雄(こんどう かずお)(平成元年8月写す)
昭和10年生まれ。18歳のときにスピリチュアリズムとの出会いがあり浅野和三郎の訳書の影響を受けて、大学で翻訳論を専攻。現在までに訳したスピリチュアリズム関係の原典約40冊、著書2冊。広島県福山市在住。

霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†■2023年7月19日UP■
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†
物質界に邪悪がはびこる、その根本原因は「霊的知識の無知」にあります。人間に死はなく、肉体の死後も霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界で永遠に生き続けるという霊的真理を知らず、物質界での人生のみが人間の人生だと考える事が全ての邪悪の出発点なのです。物質界で大量強姦殺人の人生を送ると帰幽後に霊界でどれほどの地獄をやらされるか、その「霊界と物質界の因果関係」もっと言うと【神の因果律】を全く理解していないから平然と犯罪をおこなう事ができるのです。神の因果律から逃れる方法はこの全宇宙に存在しません。なぜなら「宇宙は神の身体」だからです。僕たちは現時点で神の中に存在しているのですから、神の法則の効果範囲外に出るなどという事は有り得ないのです。自分のおこないが自分の帰幽後の人生にどれほど致命的欠陥、悲劇をもたらすかを知っていれば、おのずと自分のおこないに責任感が生じ、愚かな言動にブレーキがかかるはずなのです。邪悪なおこないをしている人間たちというのは「何も知らない人間」という事なのです。だから霊的知識の普及が急務なのです…続きを読む→
「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†■2023年10月11日UP■
「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†
どんな死に方をしても霊体には一切ダメージはありません。飛行機事故だろうと爆死だろうと溺死だろうと。そもそも肉体と霊体では振動数が違いますので。しかし、いわゆる自然ではない急激な死に方をすると、もともと人間は肉体からそういう急激な離れ方をしないようになっているので、帰幽後に霊体(幽体)の調整が必要になり、場合によってはそれが長くかかる事があるそうです。つまり日航ジャンボ機墜落テロで500人もの国民が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁(美智子)の手によって殺されましたが、それと同じようにこの強姦殺人魔どもは僕、たきざわ彰人の事もだまし討ちで飛行機に乗せて墜落死させようと画策している事は十分に考えられる事です。そうなった時、僕は肉体から自然ではない急激な離れ方をする事になり(かといって霊体になんのダメージもありませんが)調整が長くかかってしまって霊団が僕の帰幽後にやらせようとしている指導霊の仕事に支障が出てしまうから結果殺されるとしてもそういう急激な殺され方にはならないようにしている、という事かも知れません…続きを読む→

できもしない交霊会について、僕はこれまでどれだけのパワーを浪費してブログを書き続けてきたでしょう。書いても書いても僕という霊媒が機能する日は一向に来なかった。自動書記テストを9ヶ月にもわたって続行しても1文字たりともコイツらは降らせてこなかった。

そして今、僕の反逆に対してある事をやると言ってきてますが、僕はもう全く信用していないのです。コイツら(霊団)がやるやる言って実際にやった試しが1度たりともないからです。その逆で僕の人生を破壊する事は全て実行されています。

ですので今日霊団が降らせてきたインスピレーションも使命遂行を前進、進展させるという意味ではなく、僕の反逆に対してペナルティを課す、罰を実行するという意味に解釈するのがもっとも自然という事になるでしょう。

ガンバってもガンバっても徹底的にヒドイ目に遭わされる。全く何の結果にも到達しない。物質界の問題を解決させるという気概が1ミリたりとも感じられない。僕はココまで完全にイヤがっているのにコイツらと手を切る事ができない強制的にインスピレーションが降ってくる。この人生は地獄か。なぜ地獄に突入させられなければならないのか、その理由に思い当たるフシが全くない。

次回長文ブログネタとしてのインスピレーションはまたしても枯渇しており「もう撃たなくてもイインジャネ?」という気にさせられますが、何かしら撃つつもりではいます。地球圏霊界の人間というのはそこまでして邪悪を温存しようというのか、そんなに強姦殺人魔が大切か。1億回頭をひっくり返しても納得できる要素がない。

移住すると書きましたが、物質界生活中はもちろんの事、帰幽後の霊界生活においても、この邪悪を擁護し続ける人間たちと関わり合いになりながら生活するのは断固拒否します。僕にその資格はないと思われるものの、できる事なら善良な方々の境涯に赴いて生活したい。もうコイツら(霊団)と関わり合いになるのはまっぴらゴメンだ。ましてや共に仕事をするなど100%ムリ。手だけは作業続行中(祈)†

「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†■2022年7月20日UP■
「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†
【神】から神性の火花を賜って個的存在を獲得した僕たち人間は「永遠の存在であり死はありません」僕たち人間は物質界生活後も霊界で霊的表現媒体をまとって永遠に生き続けるのです。その永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界生活中に善いおこないをするか悪いおこないをするかによって、その後の人生に天と地ほどの差が生じます。皆さま、このふたりの人間、どちらが【かしこい】と思われますか。先ほど、王の生活をうらやましいと思う事が、霊的知識の無知から導き出される愚劣の極致の発言と書きました。近視眼という事です。どちらの人生が僕たちの歩むべき人生だと思いますか。もっと言いましょう【神】は僕たち子等に、どちらの人生を歩んでもらいたいと望んでおられると思いますか…続きを読む→
「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†■2023年3月22日UP■
「ゾウです」永遠の視点では勝者だが物質界生活中は最悪をやらされるという意味です(祈)†
聖書には真実でない事がたくさん書かれています。人類史上最大の汚辱と言っても過言ではない「ニケーア会議」の時に様々なウソが聖書に書き加えられ、そのウソが世界中に広まっていき、イエス様の2000年の苦悩へとつながっていったのです。キリスト者はイエス様の御名を悪用して私腹を肥やす事を2000年にわたって続けてきました。特に中世ヨーロッパの暗黒時代が最悪で、キリスト教の要職についていた人間たちは、自分たちの地位、生活を守るために真実を公言する人間を徹底的に処刑してきました。キリスト教の人間が「主よ、主よ」とイエス様の御名を連呼する時、それはイエス様に対する最大級の侮辱であり、イエス様の悲しみをさらに増幅させ、積年の誤謬(ごびゅう)を払拭するどころかさらに加速させ続ける、イエス様をさらに十字架にかけ続ける許されざる呪いの行為となります。僕、たきざわ彰人からお願いしたい事としましては、間違いだらけの聖書を読むのはやめましょう。「シルバーバーチの霊訓」を筆頭とした正真正銘の霊関連書籍に目を通すようにしましょう。そして教会に足を運ぶのもやめた方がイイでしょう…続きを読む→

急きょこのような画像を制作しコンビニのマルチコピー機で10円プリントして部屋の目につくところに貼りました。僕は長年にわたり、本当にヒドイ、ヴァッカじゃネィのかと言いたくなるヒドイところに閉じ込められて1歩もそこから出られない状態にさせられているのです。

僕は“霊団に対する反逆”という表現を用いていますが、僕がやっている事はハッキシ言って反逆でも何でもなく人間として当たり前の事であり、あんな最悪のところに閉じ込められれば誰だって脱出しようと全力を尽くすに決まってるだろ。それが人間の通常反応だと思うからです。

なので霊団にどれだけ脅されても脱出の意思を全く曲げるつもりがなく、ただ脱出するだけではまた霊団の手によってその最悪のところに戻される可能性があるため、この土地そのものから完全に離れて2度と戻されないようにしようと思っているのです。それを何としても実現させるためにこのように部屋に貼り付けたのです。

ハァァ悲しいですが威力は霊団の方が上ですのでこの作業もむなしい努力となる可能性が高いですが、これくらいやってしまうくらいイヤだという僕の心の叫びなのです。本人がココまでイヤがっているのに閉じ込める事を強制する事はできないという事を僕は皆さまに訴えかけたいのです。

ちなみに自分でこんな事言いたくないですが、若い時にこういう貼り付けを何回かやった記憶がありますが、言われてみればその通りに実現した事が1回もなかったような気がしなくもないなぁ…もう覚えてないけど。

そうそうDreamwork(画家の夢)は一時期は実現したんだよ、霊団に霊的スイッチを強制的にONにさせられて(霊性発現つまり霊能者にさせられて)やめさせられたんだよ。12年経過した今でもまだムカつくんですよ。それくらい僕は画家の人生に本気だったという事なんです。

霊能者になった初期の頃は嬉しい気持ちが少しありましたよ、こんなヒドイ人生やらされるなんて夢にも思ってませんでしたからね。しかしそんな喜びの気持ちなどアッという間に吹き飛びました。霊性発現初期の頃から霊団は僕の心と正反対の事ばかり言ってきましたからね。初期の頃から実はムカついていました。あまりおおっぴらに言っちゃあいけないんでしょうけど。

さぁ書籍テキスト化の作業続行中ですが複数書籍を同時進行させていますので苦しみも倍増、チョト分散はやめた方がイイかも知れません。まずは「モーゼスの霊訓 下」テキスト見直し88%完成中ですのでコチラを優先的にやりましょう。

脱出実現のための節約アイデアも継続中。先ほどあるモノが到着してそれを冷凍庫の中に入れました。ロングドライブ時にコンビニを一切使用しないための作戦です。使命遂行と全然関係ありませんので詳細説明割愛させて頂きます。霊的な事が僕の頭の中からどんどん消えていきます。悲しいですがしょうがない(祈)†

「物質界に無数の光を照らしております」この言葉の通りなら僕も嬉しいのですが(祈)†■2022年1月19日UP■
「物質界に無数の光を照らしております」この言葉の通りなら僕も嬉しいのですが(祈)†
「神のご意志を物質界に送り届ける仕事」となりますから、その重大性は言語に絶するレベルとなります。霊団の「もう身勝手は許されません」の警告は、僕がこれまで何度となく幼稚、小我から反逆を繰り返してきた事に対する「アキトくん、これからはもうそのようなワガママは許されなくなる、重大性が桁違いだからだ」という意味となり、それは僕も激しく了解するところです。もし霊団が言っている通りになるのだとしたら、現在物質界に存在する霊界通信よりさらに進んだ内容の霊言を霊団が降らせてくる事になり、その霊言を物質界全土に広める事は「神のご意志を遂行する大中心の中の大中心の仕事」という事になり…続きを読む→
インスピレーションを読み返してますが、とにかく最悪がやってくるのです(祈)†■2022年3月2日UP■
インスピレーションを読み返してますが、とにかく最悪がやってくるのです(祈)†
この10年の努力は一体何だったのか。霊団におべっか使っていれば違う結末になったのか。霊界にはウソが存在しない事を知識として理解していたから僕は常に正直にブログを書いてきた。ウソを並べ立てて霊団を褒め称えておけば閉じ込められずに済んだとでもいうのか。1億歩譲って僕の事は仕方ないとしても、奴隷の女の子を全く助ける気がないというのは一体どういう事なのか。そもそも奴隷の女の子の存在を教えてきたのは霊団だ。教えてきたのに助けるつもりがない、ではなぜももちゃんの事を僕に教えてきたのか。ただの冷やかしだったのか。僕は「正直者がバカを見る」の状態にさせられます。真面目に使命遂行を続けてきた結果がこれですか。本当におもしろい…続きを読む→
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†■2022年3月9日UP■
「簡単に推し測ってはいけません」僕が殺されるのはほぼ決定的、問題はその先です(祈)†
僕の物的肉眼では全体像が見えませんので、ごく一部だけを見ている僕の意見より全体を俯瞰で眺める事のできる霊団の判断の方が最終的に正しいという事を知識として理解していますので、現在の僕には使命遂行が成功していないように映るとしても、より長いスパンで見た時に、アキトくんの使命遂行によって、あの当時は動きがなかったが、あの活動によって十分に“タネ”が蒔かれ、そのタネがアキトくんの帰幽後に芽を出し花を咲かせ、結果的に「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の滅亡、物質界の邪悪の消滅、奴隷の女の子の強姦殺人容認システムの破壊へとつながったのだ。という風になるのかも知れません…続きを読む→

[この頃には、迫ってくる例の影響力が一段と強まり、他の通信が一切締め出されてしまった。7月24日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが、ダメだった。その影響力には不思議と精神を高揚させるものがあり、それが私の精神活動を完全に支配していた。

日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に1分1秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい教えのことを考えた。考えはじめると、すぐにその影響力が割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。

それまで私はキリスト教神学を長年にわたって広く深く勉強してきたが、数ある教説も、アラ探しをする意図のもとに読んだことは1度もなかった。辻褄の合わない点も、批判するよりむしろ、うまくつなぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとってまったく新しい考え – それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆(くつがえ)しかねない思想を突きつけられている。

7月26日、私は前回のインペレーターの通信にふたたび言及してこう述べた – ]

[あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日ごろ尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何といっても、私たちが信仰の基本として教え込まれてきたキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、あえて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去1800年以上もの長きにわたって存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。

いったいあなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、また、イエスの名のもとに教えを説くかと思えば否定し、古い福音に代えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。

また、あなた自身の地上での身元の確認と、あなたが広言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力をそなえた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと、あるいは霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られてきた言葉だけで、神の起源とその拘束力とについて、これほど致命的な変化を受け入れるわけにはいきません。

また、そのように要求されるいわれもないように思われます。その変化には、徐々にではあっても、歴然たる相違点が発見されます。あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られてくる思想には団結性がないものと判断せざるを得ません。]

煩悶と懐疑は軽信に勝る

友よ、これほど真摯にして理性的な質問をそなたより引き出し得たことは、われわれにとって大いなる喜びです。真摯に、そして理知的に真理を求めんとする心 – その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しい理性によって検討し、その理性的結論には素直にしたがう用意のある心、これこそ神意にかなうものであることだけは信じて欲しく思います。

われわれはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛します。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには捨てず、一方、新しい言説は、形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる…そうした懐疑と煩悶の方が、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑(うの)みする軽信的態度よりはるかに価値があります。

思想的風雨にさらされても何の反省も生まれず、そよ風にも能面のごとき無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じない無感動と無関心の魂よりも、はるかに貴重です。

そなたの抱く懐疑の念は、むしろわれわれの指導の成功の証として称賛します。そなたがわれわれに挑む論議は、神の使者として述べた言説を、分別心をもって検討してくれていることの証拠として歓迎します。そなたを煩悶させている問題については、いずれ、われわれの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるつもりです。

われわれには、証拠を提示することの不可能な、ある超えられない一線があります。それは、われわれも十分に承知しております。われわれは人間世界で言うところの“証人”を立てることができないという、大きな不利な条件のもとで難儀しています。

われわれは地上の人間ではありません。それゆえ、法廷に持ち出すたぐいの証拠を提示するわけにはまいりません。そなたには、ただわれわれの証言を聞いてもらい、理解してもらう – 証拠によって明らかにし得ないものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのです。

木はその実によって知れる

それは、われわれの説くことが、われわれとともにこの仕事にたずさわる者を除いては、まずもって、これを支持してくれる者がいないからでもあります。実際には、われわれの霊団の者の多くが地上時代の身元を明かしております。(1)

そうして、その名前の歴史上の人物について、そなたは決定的ともいえるものを事細かく知り尽くしておられる。

あくまでもそれでは納得できないと言うのであれば – もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めた情報にすぎないというのであれば、われわれとしては、そなたとのこうした霊的な交わりのもつ霊的雰囲気に着目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄を収めざるなり(2)”とイエスが述べた判断の基準を思い出していただきたい。

われわれの教えが神意に適うものであるとの証を、全体の雰囲気の中にかならずや見出されるであろうことを断言して憚りません。

しかし、これ以上この点について弁明していては、われわれの使命の沽券(こけん)にかかわりましょう。そなたがこの点を質されたことには、われわれはみじんも驚きを感じておりません。

が、もしも右の弁明でもなお得心がいかないとなれば、われわれとしてはもはやこれ以上つけ加えるものを持ち合わせず、あとはそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐づよく祈るほかはありません。それまでは押しつけがましいことは言わずに、辛抱づよく待つことにしましょう。

人工の教義は、死後、無価値となる

われわれの霊団に所属する各霊 – 地上時代はそれぞれ異なる国家、異なる時代に生き、神および死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては、語ろうと思えば多くを語ることができますが、それはまた別の機会に譲るとしましょう。

差し当ってここでは、地上生活には避け難い誤解を指摘しておきます。地上の人間はいわゆる自説(オピニオン)というものがほとんど無価値であることを知りません。

死の過程をへて肉体から離れる。すると、目隠しをされていたベールが取り払われたように、それまで金科玉条としていた信仰が、いかに愚にもつかぬ、他愛ない幻想に過ぎないものであったかを思い知らされます。

が、目隠しをされている今は、それがわからないのです。一方、程度こそ違え、すべての神学的教義には、その奥に本質的にきわめて類似した真理の芽が宿されていることも知りません。

友よ、人間はとかく宗教というものを難解なものにしたがりますが、本来宗教とは決して難解なものではありません。人間に授けられている限りある知性によっても、十分に理解し得るものです。

かの神学的産物 – 神の啓示を被い隠している気まぐれな人工的教義はいたずらに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に、何の役にも立ちません。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探求は、いつの時代も同じでした。目の見えない者が光を求めるように、迷える魂が必死に真理を求めますが、迷信という名の迷路があります。無知という名の霧があります。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまづ)きつつ進み、時には路上に倒れて踏みつけられます。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつ、なおも光を求めます。

こうした彷徨(さまよえ)る魂は、そなたの目にはみな同じように映るかも知れません。が、われわれ霊界の者の目には、実に多くの相違点があることがわかります。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘(あえ)ぎつつ進む魂は、外側より見た目にはみな一様に見えるでしょう。

が、われわれから見れば、“教会”と呼ばれる各教派を特徴づけている神学上の教説は、そなたが考えているほど同一ではありません。われわれの目にはその質的な差異が見て取れます。

また、われわれは未知なるものについてまったく同一の理解をもつ者は2人と存在しないことを知っています。いかなる魂も、大なり小なり、他の魂と同じような見解は抱いていても、決して同一ではありません。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかありません。人間的詮索は肉体とともに滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りのない目に、それまでおぼろげに抱いていた真相が姿を現わし、鋭さを増した判断力によって地上生活の印象を修正していきます。

そのとき悟るのは、すべてに真理の芽が宿されていること、それが、ある者においては受容性豊かな心と霊的洞察力とによって生長を促進され、またある者においては、束縛された知性と卑しい肉体ゆえに生長を阻害されるということです。

しかし、神と、自分のたどる宿命についての真理を求めてやまない魂においては、死とともに地上時代の誤った信仰は速やかに影をひそめ、みな、その低劣さと非真実性を悟っていくものです。いつまでも地上時代のままを維持し続ける者は、真理への欲求を欠く者に限られます。

地上時代の信仰の相違は、死後は取るに足らぬものとなる

これでそなたにもわかるであろう。真理はいかなる人間、いかなる宗教の専有物でもないのです。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことができます。

ギリシャのヒポリタス(3)がおぼろげながら垣間(かいま)見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことができます。

同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめました。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には、教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しい理解がありました。

それと同じ真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与したのでした。

このように、彼ら指導者の教説には同じ純粋な宝石が輝いているのです。その光が彼らをして、人間が神から授かった真理の堆積物(たいせきぶつ)を清め、神の概念および霊のたどるべき宿命についての、より霊的な解釈を施すことによって人間の歩むべき道をいっそう気高く、いっそう崇高なものにするという共通の目的のために、一丸となって邁進(まいしん)せしめたのでした。

彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らないことなのです。そうした夾雑物はとうの昔にかなぐり捨て、かつて地上で魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは、跡形もありません。

それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておりません。“復活”の信仰も見当たりません。とうの昔に捨て去っております。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅です。

その啓発的影響力 – ただ存在するだけで他の魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上で大いに教説を異にした霊たちを結びつける、神秘的な親和力の絆が存在します。

今その彼らが、より崇高にして純粋な宗教的知識を広めるために共同の仕事に一丸となっていることが、決してそなたが考えるほど不可思議なことではないことの理由(わけ)が、これで得心がいくことであろう。

そのための地上の道具として最も適切とみて、そなたを選んだのです。その判断に誤りはないことは、われわれが1番よく知っています。われわれの述べたことを根気よく熟読玩味(じゅくどくがんみ)すれば、いずれそなたも、その合理性に得心がいくことであろうことを確信します。

その絶対的証拠は?と問うのであれば、それは、そなた自身が死のベールを突き破り、一点の曇りもない目をもってわれわれの仲間入りをするまで待つほかはありますまい。

今のわれわれとしては、精々、そなたが少しずつわれわれに対する確信を築き上げてくれることを望むのみです。どうかイエスが人を裁く時に使用した判断の基準 – おのれが裁かれんと欲するごとくに人を裁くべし、という神の摂理をわれわれにも適用して欲しく思います。

思想上の指導の難しさ

われわれの教説に矛盾があるように思うのは誤りです。これまでそなたと交信したさまざまな霊によって、いろいろな形での論議がなされ、取り挙げられた論点もまた多様でした。

確かにわれわれは、そなたをわれわれが伝えんとする根源的教説へ向けて徐々に導くために、取りあえずそなたの精神に深く根差し、われわれの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきました。

そのことは否定しません。われわれの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあったからです。それを目ざして、幾つかの接点を確保し、大切にして参りました。一方、それとは関わりのない問題点は避けてきました。

そうした、これまで見過ごしてきた点、論議を避けてきた諸点については、これ以後に取り挙げることになりましょう。が、これまでも、われわれから見て明らかに誤りがあり、いつまでも放っておけないとみた見解について、そなたの方から批判を求めてきた時は、遠慮なく啓発してきたつもりです。

われわれの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古い停泊所から運び出さんとする動きがよくみて取れます。それを見てわれわれは、そなたをその潮流と風のなすがままに放置し座礁(ざしょう)するにまかせておくに忍びず、われわれがその水先案内をしてきました。

その際われわれは、教説という名のロープを一本また一本と、少しずつ穏やかにゆるめ、より安全にして確実な港へ係留してきました。もしも一気にその港へ引っ張り込んでいたなら、古いロープは切れ、そなたの魂は疑念と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄(ほんろう)され、救われる見込みはなかったことでしょう。

われわれが衝突を避けられるものは避け、荒波を立てないよう配慮したことを咎(とが)めてはなりません。致し方のないことだったのです。そなたの思う方向へ向けて援助することは出来ないでもありません。

が、かりに援助してそのロープを締めることによって、そなたの魂を死物と化した遠い過去へいっそう強くつながれることにはしたくなかったのです。

そなたの心の態度ひとつで、われわれはそなたをその嵐から超然とさせ、新たな生命あふれる信仰をたずさえて、より静かでより広い海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を、首尾よく乗り切れるよう援助することが可能となるのです。

こうした作業においてわれわれは、そなたに過激な衝撃を与えぬようにと、慎重の上にも慎重を期してきました。いかなる点においても指導を誤ったことはないことを断言します。ごまかしたこともありません。そなたに与えたわれわれの教説には、あらかじめ徹底した吟味が為されております。

なるべくそなたの精神に宿る思想を取り出し、それを敷衍(ふえん)し発展させるよう心がけました。そうしてその中に、より新しい、かつより真実に近い見解を育み、導き、注入するよう努めましたが、いかなる点においても偽ったもの、歪められたもの、あるいは誤ったものは一点もありません。

また、われわれ霊団の者が個々に述べてきた教説には、実質上の齟齬(そご)は何ひとつありません。一見したところそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと、そなたの精神による種々の影響のせいです。

つまり、通信霊の未経験に起因する場合もあるでしょうし、そなた自身の先入観の影響も大いに考えられます。そなたの精神が受けつけようとしないものは、われわれも伝えることはできません。

そこでわれわれとしては、いつかそなたが曇りのない目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかありません。霊媒の魂があまりに煩悶している時、身体が苦痛にさいなまれている時、あるいは精神状態が病的になっている時には、明確な通信を伝えることはできません。

それどころか、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら、通信にいろいろと反映して、明確にそして十分に意を尽くすことを妨げるものです。そうしたことが、警戒心に満ちたそなたの目には“矛盾”として映るのでしょう。

が、それも些細(ささい)なことであり、また数の上でも取るに足りません。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することでしょう。そして又、ここぞという困難と危機に際して、高邁(こうまい)な霊的洞察力によって導かれていたことを知ることでしょう。

啓示には計画性がある

そなたはわれわれの説く教えが一般に受け入れられる見込みは乏しいとおっしゃるが、その点についてもそなたは真相をご存知ない。

お粗末なつぎはぎだらけの、朽ちかけた古い信仰が、より高尚にして崇高な信仰 – 本質的には対抗するものではなく補足ないし補充するもの – と置きかえられ、イエスの説いた福音が、より高い次元において理解されることになる日は、そなたが考えるよりもはるかに近い将来に迫りつつあります。

友よ、よく心されたい。今われわれが従事している神の計画が、人間の必要性との関連性を無視して不用意に届けられることは絶対にありません。われわれの仕事も神の一大計画のほんの一部門にすぎません。他にも数多くの霊団が、それぞれの使命に邁進しています。

その教えは徐々に、そして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくことでしょう。それが神の計画なのです。神の“時”を地上の“時”の概念で考えてはなりません。また、われわれの視界は人間の視界のような、狭く限られたものではありません。

いずれ、われわれの意図した通りの知識が地上に広まる日も到来することでしょう。その間、それに備えて、進歩的な魂は着々と教育を受けています。貴重な種子が蒔かれつつあります。やがてその収穫の時期も到来しましょう。その時を、そなたも、われわれとともに待たねばなりません。

われわれの述べたところを心して読めば、われわれが提供しつつある状況証拠などよりはるかに明確に、その本質を読み取ることができるはずです。繰り返しますが、神は決して福音の押し売りはしません。神はただ提供するのみです。それを受け入れるか拒否するかは、人間の選択に任されています。

が、そなたをはじめ、われわれが係わり合っている者のすべてが、いずれ、その神性を確信してくれることでしょう。あくまでも否定する者は、浅薄(せんぱく)な頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄のごときドグマによって束縛された者たちだけでしょう。

そうしたドグマ主義者、頑固な迷信家、偏狭な信者・独善家は、われわれは取り合うつもりはありません。魂にしみ込んだ古い信仰に何よりの安心立命を見出している者も又、われわれは取り合いません。神の御名にかけて、彼らには、そのまま古きものにすがらせておくことにしましょう。

彼らにもいずれ進歩の時が訪れることでしょう。今はその時ではないということです。そなた、およびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われわれが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はありますまい。

啓示には段階性がある

また、啓示についてのわれわれの言説を熟読玩味すれば、われわれの教説も、神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯にすぎないことを理解されるでしょう。すなわち、神を人間と同一と考えた神人同形同性説の時代から、人間的煩悩と感情を神の属性とすることの不合理を悟りはじめた現在に至るまで、神の啓示も、人間の進化とともに徐々に向上してきているということです。

本質的には、われわれの啓示はそれに先立つ啓示と何ら異なるところはありません。ただ、人間の知識と同様に、前より一歩向上したというにすぎません。その拠ってきたる根源は同じであり、それを送り届ける手段も同じです。

それは、今も昔も人間であり、完ぺきは期し難く、時には誤りを犯します。人間を通信手段とする以上、それは免れないことです。さらには、われわれの取っている態度を振り返ってみていただきたい。

われわれは一貫して、かの伝承的教説 – 単に古い時代のものという意味での伝統的教義 – を金科玉条とする盲目的信仰に代って、あくまでもそなたの理性に訴えるという立場を取っていることがおわかりいただけるはずです。

軽信に代って合理的・知性的検討をすすめ、確信に基づいた容認を要求しているのです。神の使者であるというだけで、われらの教説 – 今の時代に授けられたという意味での新しい教説を信じていただこうなどとは、さらさら考えておりません。

理性の天秤(てんびん)にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶すればよいのです。十二分に得心するまでは、決して同意することも行為に出ることも求めておりません。

それゆえ霊的教義の内容は、正しい理性を得心させるべきものであると同時に、われわれがそなたにその受け入れを求める根拠もまた、合理的かつ論理的思考を完全に満足せしめるものを有しております。

道を誤っているとはいえ真摯な求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において、過去1800年以上もの永きにわたって後生大事にされてきたもののことで、われわれが結果を焦るあまり、いたずらに反目させることになることは、神が許しません。

それほど永きにわたって大事にされてきたという事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていると言ってよいでしょう。ただ、われわれの広い視野から見る時、その説くところが古い蒙昧(もうまい)な時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ、霊性を賦与しなければならないと思うのです。

とは言え、われわれとしては急激な改革によって混乱を来(きた)すことは望みません。今あるものに磨きをかけ、新しい解釈を施したいと思います。引きずり下ろし、足で踏みにじるようなことは致したくありません。

シナイ山にて嵐のごとき口調で啓示された戒め(4)に代えて、イエスが慈悲と滅私の純心さをもって、より崇高な信仰を説いたように、われわれはそれをさらに新しいこの時代の受容能力と必要性にかんがみて説こうとするものです。

“そのようなものは今の時代でも受けつけない!”と申されるか。(5)なるほど、それもよろしかろう。われわれとしては、少なくともこうした見解の存在を知らしめるだけのことはしました。

ひとつの真理がはじめて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものです。収穫にはまずタネ蒔きの時期がなければなりません。

その後、雨にうたれ、霜に埋もれ、寒々とした冬の季節は、いかにも長く感じられることでしょう。が、やがて暖かい太陽の光に照らされてタネが芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実(みの)り、そして収穫の季節を迎えます。

耕作の時期は長いかも知れません。タネを蒔いたあとの“待つ時期”は、暗く憂うつかも知れません。が、収穫の季節はかならず来ます。その到来を阻止することはできません。

収穫時に手を貸すことはできます。タネ蒔きに手を貸すことはできます。が、手を貸す貸さないに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)はかならず到来します。

その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個々人の問題でしかありません。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そして、それに係わってきた天使が、あるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことにすぎません。

イエスは空前絶後の霊覚者

次にそなたは、われわれがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うておられる。われわれとしては、さまざまな時代に神によって派遣されたさまざまな指導者について、興味本位の比較をすることを控えたいと思います。まだその時期ではありません。

ただし、今、このことだけは明白に言えます。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け、かつ同胞に祝福を与えた霊はいないということです。

その滅私の愛によって、イエスほど人類の敬愛を受けるに相応しい霊は他にいません。イエスほど人類に祝福をもたらした霊は、他にいません。要するに、イエスほど神のために働いた霊はいないということです。が、しかし、神より遣わされた偉大な指導者を比較して論じる必要性を、われわれは認めません。

われわれとしてはその1人1人に称賛を贈り、克己と犠牲の愛の生涯を、それぞれの時代が要請した手本として賞揚したく思います。

キリストの例にしても、もしも人類がその際(きわ)立った素朴さと誠実さ、愛に発した献身と真摯な目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでいたならば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち、後の世に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚かきわまる思索の産物を残した者たちも、少しは有意義な存在となり、人類の呪いとはならずに、むしろ祝福となったことでしょう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴な教えを素直に受け入れていたことでしょう。しかるに彼らは、神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴な教えからいっそう遠ざけることになりました。

今やその名と教義は、派閥間の争いの戦場と化し、その教えは滑稽な猿真似(パロディ)となり下がってしまいました。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられます。

”儀文は殺す。されど霊は生かす”

友よ、神の摂理と人間的解釈とは、截然(さいぜん)と区別しなければなりません。われわれは主イエスの威厳の前にはひれ伏しますが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説 – イエスみずからが否認なさるであろう教説を黙認することによって、イエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとしません。そのようなことだけは絶対にいたしません。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱(はずか)しめるのは、バイブルを正しく理解せず、その心を掴みそこねて、ただ字句どおりの解釈に固執するあまり、無知のなせる業(わざ)とはいえ、逆に神への不敬を働いている者たちなのです。

われわれではなく、彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのです。たとえ永年の慣用の歴史を有するとはいえ、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定した書物(バイブル)からの引用によって飾ろうと、さらに又、それらの書に、そこに述べられていることに異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆しているのはわれわれではなく、彼らなのです。

われわれはその呪いの言葉を、哀れの情なくしては見つめることができません。われわれとしては差し当たって実害のない誤りは、あえて覆そうとは思いません。しかし、神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説は、赦しておくわけにはいきません。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人間に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛をおろそかにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかなりません。

狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマを、その一言一句に至るまで頑(かたくな)に遵守せんとする態度は、魂を束縛し、霊性を歪(ゆが)め、進歩を遮(さえぎ)り、生長を止めます。

バイブルには“儀文は殺す。されど霊は生かす(6)”とあります。それゆえわれわれは、火炎地獄のような作り話に見られる神の観念を否定します。贖罪説のような伝統的教説に代ってわれわれは、より清き、より理性的教説を宣言します。

要するに、われわれは霊性を基盤とする宗教を説くものです。死物と化した形式主義、生命も愛も見られない教条主義からそなたを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使による象徴的教訓、高き霊の界層へと誘(いざな)わんとするものです。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消します。

以上、われわれは事の重大性にかんがみて、細心の注意をもって語ったつもりです。そなたも細心の注意をもって熟読されたい。ひたすらに真理を求める心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望します。

†インペレーター

[注釈]

(1)巻末《参考資料》参照

(2)ルカ6-44

(3)ここに引用された古代の思想家および宗教家はすべてインペレーター霊団に属している。《参考資料》参照。

(4)モーセの「十戒」

(5)モーゼスの精神の中にそう反論する想念を見て取って、こう述べたもので、モーゼスが書いたのではない。

(6)コリント第2、3-6

上巻終

「魂の成長のためなんだよ」霊団が僕に苦難をやらせる理由です、もう聞き飽きた(祈)†■2024年3月20日UP■
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「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†■2024年3月27日UP■
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「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
「デビルストッピング」強姦殺人魔(悪魔)が停止中という意味か?分からないなぁ(祈)†■2024年4月10日UP■
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物質界生活中に邪悪な人間の手によって苦しめられ、大いに試練を味わわされた僕たち善良な国民は帰幽後、明るい境涯に赴き、大いに自由を堪能する事になります。そして物質界生活中に奴隷の女の子を強姦殺人し続けた明仁、文仁、徳仁、悠仁は、魂も凍る暗黒の底の底に落ちて千年万年にわたる正真正銘の地獄を味わわされる事になります。そういう意味では「神の公正」がこの宇宙に厳然と働いており、それに身を委ねている限り何も恐れる事も心配する事もないという理屈になるのですが、結局物質界が最悪の場所である事は変えようとしないという事ですか、その部分だけがどうにも納得いかない。確かに霊的知識によれば真の安寧(あんねい)は霊界にこそあり、物質界生活中に幸福を求める事自体が本末転倒であり、物質界でどれだけ頑張るかによって帰幽後の霊界での幸福度が決定するという意味では、霊界での幸せを求めて物質界人生を耐え抜く事が重要と言えるのですが…続きを読む→

まず「The Source of all our Strength」全ページスキャン& OCR変換まで完了中、Google翻訳をおこなうための英文見直しに入りますが、霊団はこれまで長い年月の中でたびたび「我々はもうキミから手を引く」といった趣旨の事を言ってきて僕を脅した事がありますが、今日もその手の事を言われました。

が、そう言ってきて本当に霊団が僕から離れた事は1度もなく、現在までこうしてヒドイ状況をやらされて苦しめられている訳ですが、要するに霊団はこのような事を言って僕を脅してきて導きに従わせようとしているのであり、その意図も重要性も分かるのですが、そう言われたからといってこの状況でこれ以上何をどう努力しろというのでしょうか。

僕はもうどうしようもありません。そのどうしようもない状況に閉じ込めたのは他でもないあんたたちだろ。閉じ込めて何もできなくさせておいて関係を断つと言ってくる、つまり最初から何もやる気がなかったと受け取れるような言い回しだ。本当に言ってる事がおかしい。ただひたすらに首を傾げる。

離れたきゃ離れればいいだろ、そんなモノ僕にハンドリングできないあんたたち主導の問題だろ。人生破壊はこの12年全力でやってきたが人生構築はひとつたりともやってこなかった。そしてあげくの果てに脅しの言葉を降らせてくる。この地球圏霊界の人間というのは一体何がしたくて生きている人間なのだろう。もはや目的が分からない。

えーひとつ新たな山域を目指そうかなぁと考え中ですがこのお話はまたのちほど。もう僕の頭の中から霊的な事がどんどん消えて行ってます。全然使命遂行が進行しないからです。そのうちインスピレーションが降ってこなくなるという事もあるかも知れません、それならそれでしょうがない、僕にはどうしようもない(祈)†

「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†■2023年11月15日UP■
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†
肉体は自動的に朽ち果てるようにできていますから、その肉体をまとっての人生で幸福を得ようと考える事がそもそも本末転倒であり近視眼の極致であり、歳をとる事もなく傷つく事もない永遠の若さを保っている霊体をまとっての霊界人生の方に真実の幸福があるのは至極当然の事であり、その霊界生活に備えて物質界で自分を鍛えなければならないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらはその「物質界の学び」を全てキャンセルしてワガママ放題で生活し、仕事もせず奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいます。つまり物質界で学ぶべき事を一切学ばずに帰幽する、霊界生活に何の備えもできていない人間という事になるのです。何の備えもできていませんからもちろん霊界生活に順応もできません、高級霊の方々から仕事を言いつけられる事もありません資格がないのですから。全く役立たずの人間、何の使い道もありませんから当然暗黒の底の底に落ちてそこで反省させられる訳です。それも物質界での苦しい期間をはるかに超える長い年月にわたって暗黒の中で悶絶する事になるので…続きを読む→
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†■2024年2月7日UP■
「7ヶ月で死刑」これが霊団が僕を最悪の中に閉じ込め続ける最大の理由のようです(祈)†
コイツらが僕を憎もうが憎むまいが、奴隷の女の子を信じられない人数、強姦殺人しまくって遊んできたコイツらは「神の因果律」によって自動的機械的に帰幽後、暗黒の底の底に落ちていく事になります。そこに僕の裁量などありません。自分のおこないによって自分を地獄に落としている、ただそれだけの事です。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらは自分たちが1番偉いと本気で信じ込んでいます、この宇宙、上には上がいる事を全く理解できません、物質界生活中、生まれてから死ぬまでワガママ放題、自分の全人生をウソで塗り固め、国民を虐げて私腹を肥やし続けてきた奴らですから人格が全く形成されていません、幼稚極まるガキという事です。そんな奴らが反省などできる訳がありませんからいつまでもどこまでも暗黒の底の底でのたうち回りながら僕に対する憎しみを燃やし続ける事になるでしょう。しかしその憎しみの念は上層界で進歩向上の生活を送る僕には全く届きません。霊界は思念フィルタリングという機能がありますので下層界の邪念は上層界に届かないのです。(※「ベールの彼方の生活2巻」7章 天界の高地 3 霊界の情報処理センター 参照)…続きを読む→
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†■2024年2月21日UP■
「なぜ地獄行きを命じたか」現在閉じ込められている状況がやはり地獄なのだそうです(祈)†
しかし僕の心が完全に霊団に対する怒り憎しみに包まれてしまっていて(絶対ムリと分かっていますが)地球圏を離れたいと切望するほどになっています。つまり僕は帰幽後に地球圏の仕事をやるのに適さない人間になってしまったという事になり、それで霊団がしょっちゅう「ゴメンね」とか「残念だ」とか言ってくるのではないか、という予測もあったりなかったり。ただ、仮にこの最後の予測が正解だったとしても、僕をそうさせたのは他でもないあんたたちだろ。守護霊様の管轄内で生活していた時は僕は現在のような精神状態には全くならなかった。Dreamwork一直線で迷いなど全くなく、山に行き続けてはシカちゃん鳥ちゃんに話しかけるような人間でしたので(純粋だったという事)100の光の霊団も守護霊様と同じような導き方をしていれば僕をこんな精神状態にしてしまう事もなかったはずなのです。100の光の霊団、特に支配霊バーバネル氏に僕が言いたい事は「守護霊様を見習えよ」という事です。霊性発現前は全てがうまくいっていた。そして超速的に霊性発現に到達した。守護霊様の導きは空前絶後の大成功だったと僕は思うのです。…続きを読む→

アナログ絵379、380の6ページストーリーのネームを当初の予定から大幅に変更しました、事情がありまして。で、僕の使命遂行の事を考えればこんな絵描いてる場合じゃないと霊団にも皆さまにも突っ込まれそうなのですが、イヤもう僕の残された物質界人生はこういう作業をひとつひとつこなしていくより他にどうしようもないのです。

霊団がもうまるっきりやる気ゼロなのですから絵を描くしかありません。それが元々の僕のキャラですので。で、使命遂行の作業として霊関連書籍のテキスト化を最大級に続行中ですが、まず「I Appeal Unto Caesar」翻訳文見直し60%終了中。「Paul in Athens」OCR変換まで完了中、これからGoogle翻訳にかけるところ。「モーゼスの霊訓 下」テキスト見直し75%完成中。「The Source of all our Strength」全ページスキャン& OCR変換まで完了中。「Spiritual Unfoldment Three」OCR変換まで完了中。

さらにホワイトイーグル霊の英語書籍を2冊注文中ですが(だいぶ前に注文していますが)全然到着しません。さらに英語の古書をもう3冊ほど入手する必要があるのですが、コレがググっても全く見つからない、今のところどうしようもない状況、たとえ見つける事ができてもアゴガ外れるような値段でしょう。

そして近藤千雄先生翻訳の日本語書籍のテキスト見直しがまだ50冊も60冊も残されています。これを地獄と言わずに何と言うのでしょうか。まさに一生かかっても終わらない(かも知れない)作業量となります。作業は絶望的、脱出も絶望的、帰幽後の霊界生活も絶望的。この状態でどう未来に希望を抱けというのでしょうか。フツーならとっくにイヤになってるはずです。

イヤ、僕は脱出だけは達成させますよ。他のモノは耐えられてもこの脱出だけは耐えられないので。これだけは霊団にどれだけ脅されても実行します。節約アイデアをググりまくり調査中。先ほど冷凍庫の中を片付けました。だいぶ空きスペースができました。ココを活用できないか、という事です(祈)†

「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†■2023年6月14日UP■
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†
現在の苦難を耐え抜かなければその罪障消滅が達成されず、キミはまた物質界に再降下しなければならなくなるんだよ。我々はキミのためを思ってキミをその苦しみの中に閉じ込めているんだよ。罪障消滅が達成されなかったらキミがまた苦しい思いをする事になるんだよ。これで終わりにするためにその苦しみに耐えるんだ。という意味で霊団が僕を脅し続けているのかも知れません。イヤ、僕のこれまでの人生をよくよく振り返ってみた時に、僕はそういう理由で物質界に降下した人間じゃないと思う。幼少の頃から絵を描き続け、マンガ家も経験し、Dreamworkに突入して死ぬまで絵を描き続ける事を固く固く決断していた。僕はそういう罪障消滅目的の人間ではないと思う、そうだったら絵の才能を賦与されていないと思う。僕に関してはそれはちょっと違うと思う。現在の僕の状況は霊性発現によって「後説」で賜ってしまった追加試練だと思う。守護霊様の管轄内で生活していた時はこんな状況には全くならなかった。「100の光の霊団」の管轄に切り替わってから僕の人生が一気におかしくなった…続きを読む→
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†■2023年8月9日UP■
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†
霊界とは完全なる自己責任の世界であり、物質界生活時に果たさなかった仕事の責任を完全なカタチで取らされるようになっています。その責任を果たさないと高い境涯に向上する事は許されません。「身元の確認はしましょう」と言ってきたアナウンサー的男性も、天皇一族が強姦殺人魔だと知っていながらコイツらの事を善人だというニュースを流しまくり、自身も善人を装って物質界人生を送ったその自責の念、後悔の念が霊的向上の阻害となっており、その罪障中和の目的で「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する僕の背後霊として仕事をする事になった男性ではないのか。僕はその可能性は十分にあると考えるのです。ちなみにテレビ業界には今回の「身元の確認はしましょう」の男性と同じように、心の中ではよくないと知りながら、仕事を失わないために「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を善人であると洗脳ニュースを流し続け、そのおこないに後悔し心を痛めている人間がスゴイたくさんいると思っているのです…続きを読む→
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†■2023年8月24日UP■
■アナログ絵356UP。クレスで定期的におこなわれる「フラー講習会」の1シーンです(祈)†
そしてももちゃんの成長ぶりを少し描きました。アナログ絵168の時と比べてだいぶオトナになっていますよね。使命感みたいなものも芽生えているようです。イエス様と出会ったばかりの時はシルキーと一緒になってただ単にはしゃいでいただけですが、その後イエス様にまつわる様々な事情をお勉強した事によって精神的に成長を遂げているという事を短いながら表現しています。で、この「イエス様とももちゃんのやりとり」の中にはひとつ間違いがあります。イエス様はももちゃんが質問する前からももちゃんの心の中が分かっていますから「ん?どうしたんだい?」と聞き返す事はないはずで、ももちゃんが質問を投げかける前にいきなり答えを話し出すはずです。…続きを読む→

[不服だったので、私は時間をかけて、書かれた通信の内容をじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立するものだったが、それが書かれている間じゅう私は、心を高揚させられる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に、私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教説はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、ふつうならキリスト教的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。

さらに又、そのような、何となく立派そうな見解 – 当時の私にはそう映った – は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といった主旨のものだった。すると次のような回答が来た – ]

イエスとその弟子たち

友よ、よい質問をしてくれたことを嬉しく思います。よろこんで論議するとしよう。

われわれがいかなる権能を有する者であるかについては、すでに述べました。われわれは神の使命をおびて参った者であることを公言します。そして時が熟せば、いずれその真実性が認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待ちます。

それまでに着実な準備をなさねばならないし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われわれの教えをすべて受け入れることのできる者はいないであろうことも、先刻覚悟はできております。それは、われわれにとって格別の驚きではないことを表明しておきます。

考えてもみられよ!より進歩的な啓示が1度に受け入れられた時代があったであろうか。いつの時代にも、知識の進歩にはそれを阻止せんとする勢力はつきものなのです。

愚かにも彼らは真理は古きもので事足れりとし、すべては試され証明されたと絶叫します。一方、新しいものについては、ただそれが新しいものであること、古いものと対立するものであること以外に、何ひとつ知らないのです。

イエスに向けられた非難もまさにそれでした。モーセの教えから難解きわまる神学を打ち立てた学者たち – その教えはその時代に相応しい、それなりの意義があったとはいえ、時代とともにより高い、より霊性のある宗教へと生長していくべきものであったのに、彼らは後生大事にその古い教えを微に入り細を穿(うが)って分析し、ついに、ただの儀式の寄せ集めとしてしまいました。

魂のない身体 – そうです!生命のない死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に、彼らの神の冒瀆者 – 不遜にも彼らは人類の宗教の“救い主”をそう呼んだのです – であるイエスはモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者である、と絶叫しました。

律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその教えを非難しました。かの偉大な人類の指導者を十字架にかけるに至らしめた、その怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです。

イエスが神の名誉を奪う者でなかったことは、今のそなたには明々白々のことです。イエスは神の摂理を至純なものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦(よみがえ)らせんがために、人間的虚飾を破壊しようとしたにすぎません。

親へのうわべだけの義務 – 愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務 – を説く、わびしい律法に代って、イエスは愛の心から湧き出る、子としての情愛、からだの授け親と、父なる神に対する無償の、惜しみない施しの精神を説きました。

うわべだけの慣例主義に代って、衷心からの施しを説きました。いずれが正しく、いずれがより美しいでしょうか。

後者は果たして前者を踏みにじるものだったでしょうか。むしろ前者の方が、生命のない死体が生きた人間に立ち向かうのにも似て、後者にむやみに抵抗したにすぎなかったのではないでしょうか。

にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れてよろこぶ卑しい連中が、イエスを、旧(ふる)い宗教を覆(くつがえ)そうと企(たくら)む不敬者として、十字架にかけたのでした。カルバリの丘での処刑シーンは、まさに堕落した宗教の絶好の象徴と言えます。

その新しい福音をよろこばず、かつ、それを受け入れる用意のできていなかった世に敢然と立ち向かったイエス、そのイエスの弟子たちにしつこく向けられた非難も、やはり、新しい教義をもって旧い信仰を覆さんとしている、というものでした。

そうして、何とかして彼らを告発するための罪状を見出さんと策を弄(ろう)しました。が、“四面楚歌”の、新しい信仰に対するいかなる非難をも甘受する、その弟子たちの説く教えには、何ひとつ不埒(ふらち)千万なものを見出すことができませんでした。

彼らは確かに非合法の集団でした。が、ユダヤ教信仰と”時の権力”には忠実に従っていたために、告発せんとして見守る者たちも、そのいわれを見出すことができませんでした。彼らは次々と新しい無垢の信者を集めていきました。

愛の心に満ちた、心優しいイエスの後継者である彼らの教えには、何ひとつ不埒千万なものはありませんでした。今、われわれの教えと使命の信頼性を失墜させるものならよろこんで信じたがる者も、当時のそうした反抗者と大して選ぶところはありません。

進歩に抵抗はつきもの

しかし、いつの時代でもそうだったのではないでしょうか。新しいものが非難され、信頼が得られないのは、宗教において、科学において、そして有限な人間の為すことのすべてにおいて、いつの時代にも変らぬ物語です。それが人間的知性の特性のひとつなのです。

すなわち見慣れたものが気に入られ、目新しくて見慣れないものが、懐疑と不信の目で眺められるのです。それゆえわれわれは、スピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たって、劈頭(へきとう)から懐疑の目をもって迎えられることに、いささかも驚きの念を感じません。いずれは、すべての人がその教えの美しさと神聖さを認める日が到来することでしょう。

われわれの説くところが人間のこしらえた教説と衝突することは、別に驚くには当たりません。否、むしろ、遠い太古において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた教えと矛盾しないことの方が不自然です。

バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの教えを融合し得ないものが見出されて当然であることを指摘せずにおくわけにはいかないのです。この点についてはすでに述べましたので、繰り返す必要は認めません。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られないわけでもありませんが、細部において不合理きわまる自家撞着(じかどうちゃく)を少なからず含んでいます。その上、霊媒を通過する際にまぎれ込んだ人間的誤謬もまた、少なくありません。

その中から真相を読み取るには、バイブル全体の流れを読むほかはありません。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、当人の個人的見解にすぎず、信仰の対象としての価値はいささかも認められません。

そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令のごとく考えること自体、愚かというほかはありません。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾します。

申すまでもなく、キリスト者が“神の声”と呼ぶ書を筆録者たちが記述した時代においては、“イエスは神なり”との信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられたものでした。また、そう信じた者たちは、同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議な方法で雲間に姿を現わす – それも、その世紀の人類が滅びる前である、と信じました。

どちらの信仰も間違いでした。そうして、その時以来、少なくとも1800年が過ぎ去りましたが、イエスは再臨しておりません。このことに関連して、今少し述べておく必要がありそうです。

ぜひともそなたに理解を望みたいことは、神の啓示といえども、人間にそなわっている“光”つまり理性によって判断しなければならないということです。説教者の言葉を鵜呑(うの)みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言いまわしにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばなりません。

われわれ自身、およびわれわれの教説について判断する際にも、得体の知れない古い予言に合うの合わぬだのといった観点からではなく、自分が真に求めるもの、自分と神とのつながり、そして自分の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断しなければなりません。

つまるところ、一体われわれが何を説かんとしているのか、その説くところがどこまで理性を納得させているか、神について何と説いているか、自分の魂にとってそれがどこまで為になるか、そう問いかけなければなりません。

理性が承服しないキリスト教のドグマ

正統派の教会が説く教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中から選ばれた少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果てることもなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだといいます。

その“恩寵”にあずかられない他の人類は、すべて天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難い苦しみを永遠に受け続けるといいます。

この“至福”にあずかれない哀れな者たちは、ある者はそういう信仰を受け入れないからそうなるのであり、ある者は邪霊と環境によって堕落させられたためであり、ある者は恐ろしい煩悩の誘惑に負けて罪を犯したためであり、さらにある者は、多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗しきれなかったためです。

また、もし知っていれば喜んで努力したであろうに、何を為すべきかを知らなかったための者もいます。救われたくば信じよ、と説かれた教義が知性的にどうしても受け入れられなかった者もいます。そして、さきに述べたように、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意しなかった者もいます。

こうした者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れな者たちを、祝福された者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかな満足を得るのだといいます。その実、彼らの多くは、地上で悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白しただけで救われたというに過ぎません。

肉欲と怠惰の生活、あらゆる法に違反した生活も、信仰の告白というひとつの行為によって、すべてが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきました。

いかに粗暴で肉欲に狂った者でも、死の床でイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒瀆していたはずの神のもとへ一気に招かれるといいます。不純にして卑しい堕落者が、清純にして気高い聖人とともに、完全無垢の神のもとにかしずけるとは!

指摘すれば枚挙にいとまなしですが、われわれの説くところと比較対照するには、以上で十分でしょう。われわれは決してそのような神 – 理性が身ぶるいし、父性的本能が嫌悪の念を催すような神の概念は説きません。同じく愛の神とはいえ、そのような偏った愛の神をわれわれは知りません。

それは人間が発明した神であり、われわれは知りません。そのような人間的偶像は野蛮な精神の哀れな戯言(たわごと)にすぎないことは、われわれが指摘するまでもありますまい。

至純至聖の神を滑稽化する、その不敬きわまる無知と愚かさに、われわれとともにそなたも驚きを感じてほしく思います。

友よ、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われわれの説く福音を切望している者に相違ありません。

神は摂理を通して顕現する

われわれが知るところの神、そしてそなたたちに確信をもって説く神こそ、真の意味での愛の神 – その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲はすべての創造物に及び、尽きることを知りません。いかなる者にも分け隔てせず、すべてに絶対的公正をもって臨みます。

その神と人間との間には無数の天使が階悌をなして待機し、神の愛の言葉をたずさえ、神の意志を時に応じて啓示します。この天使の働きによって、神の慈悲は途切れることなく人類に及ぶのです。これぞわれわれが説く神 – 摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神です。

では、人間についてわれわれはどう説くか。たった1度の改心の叫び声、たったひとつの懺悔(ざんげ)の言葉、節の通らぬ恐ろしい教義への信仰の告白行為ひとつで、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での“不滅の魂”なのか。

違います!断じて違います!人間はより高い霊的生活への鍛練を得るために、ほんのわずかな期間を、肉の衣に包まれて地上にいるにすぎません。その霊の世界にあっては、地上生活でみずから蒔(ま)いたタネが実をつけ、みずから育てた作物を刈り取るのです。

待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという、児戯(じぎ)に類する夢幻(ゆめまぼろし)のような世界ではなく、より価値ある存在を目ざし、絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのです。

本当の意味での天国と地獄

その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律です。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は堕落させ進歩を遅らせます。真の幸福とは、向上進化の中、すなわち1歩1歩と神に近づく過程の中にこそ見出されるのです。

神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂のよろこびを味わいます。ものぐさな怠惰をむさぼる者など1人もいません。より深く、より高い真理への探究心を失う者もいません。人間的情欲・物欲・願望のすべてを肉体とともに捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活に勤(いそ)しみます。これぞ真実の天国なのです。

地獄 – それは個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しません。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶(もだ)え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛にさいなまれる – これぞ地獄です。

その地獄から抜け出る道はただひとつ – たどってきた道を後戻りして、神についての正しい知識を求め、隣人への愛の心を培(つちか)う以外にはありません。

罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりですが、その罰とは、怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではありません。

悪と知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へと導くための、自然の仕組みにほかならないのであり、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしいドグマへの口先のみの忠誠を誓うような、そんな退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてありません。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性にかない宗教心に発する行ないを為す者なら誰もが手にすることができるものです。

神の摂理を意識的に侵す者にかならず不幸が訪れるように、正しい理性的判断はかならずや幸福をもたらします。そこには、肉体に宿る人間と、肉体を捨てた霊との区別はありません。

霊的生命の究極の運命については、われわれも何とも言えません。何も知らないのです。が、現在までに知り得たかぎりで申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間も、われわれ霊もともに、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守(じゅんしゅ)する者は幸福と生き甲斐を味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できます。

神への責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この3つの根本的責務については、すでにその大要を述べました。よってここでは詳説はしません。いずれ敷衍(ふえん)して説く日も到来するでしょう。

人知の限界を知ることが大切

以上述べたことを篤(とく)と吟味していただきたい。われわれが当初から宣言している主張、すなわち、われわれの教えが純粋にして神聖であり、イエスの教えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知っていただくには十分でしょう。

これが果たして正統派の教義と較べて明確さを欠き、曖昧でしょうか。たしかに、そなたに反発心を起こさせる箇所については詳細を欠いているかも知れません。

が、全体を通じて、より崇高にして清純な雰囲気が漂っているはずです。高尚にして神聖な宗教を説いているはずです。より神聖の高い神を説いているはずです。

実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもありません。そう映るのは、敬虔な心の持ち主ならば浅はかな詮索をしたがらないはずの課題を扱っているからにほかなりません。

知り得ないことは知り得ないこととしておき、決して勝手な憶測はしません。全知全能の神について、いい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのです。

もしも、人知を超えた神にベールを掛けることをもって曖昧と呼ぶのであれば、たしかにわれわれの教えは曖昧であり、明確さに欠けるでしょう。

しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得たかぎりのことしか述べないこと、憶測するより実践すること、盲目的に信じるより実行することの方が賢明な態度であるならば、われわれの態度こそ、叡智の命じるところに従い、理性を得心させ、神の霊感にあずかれるものであると言えましょう。

われわれの教えには、理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性があります。遠い未来においてもその価値をいささかも失わず、数知れない魂を鼓舞し続けることでしょう。

一方、これに異議を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ないことになりましょう。それは、その信念をたずさえて進んだ無数の霊を幸福と向上の道へ導き、他方、その導きを拒否し霊性を閉ざしてしまう者は、魂の抜けた肉体と同じ運命をたどることになりましょう。

愚かな無知からわれわれの教えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信じる者を悪魔の手先と非難しようとも、その教えは存続し続け、信じる者を祝福し続けることでしょう。

†インペレーター

– おっしゃることは筋が通っており、立派な教えだと思います。また、曖昧であるとの批判に対しても納得のいく回答をいただきました。しかし、一般の人は、あなたの説くところを事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこでお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくにそれが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。

それについては、いずれ時機をみて説くとしましょう。今は控えます。先を求める前に、これまでわれわれが述べたところを篤と吟味してもらいたい。

そなたを導く御力をわれわれに給わんことを!

[注釈]

(1)Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。

(2)Pharisees 儀式・慣習等を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。

(3)これは、第2節の注釈でも述べたように、イエスの死後、まだキリスト教という用語もできていない初期の時代のことで、その信仰に目をつけたローマ皇帝コンスタンチヌスによって例のニケーア会議(325年)が開かれ3か月に及んだ会期中に、その信仰を国策としての新しい宗教とするための大々的陰謀がなされ、そこから“キリスト教”と呼ばれるものが誕生した。

「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†■2021年12月10日UP■
「コイツらいよいよおかしいぞ」霊団の本性が暴かれる、なんて事があるかも(祈)†
とにかく(人生の)破壊の程度がひどすぎる。この一言に完全に集約されます。僕の人生を犠牲にしてでも何が何でも達成したい悲願があった、やってもらいたい仕事があった、僕はそう理解しているからこそここまで歯をくいしばって耐えてきた訳ですが、どうもこいつらの真の目的は「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡つまり物質界の邪悪の討伐ではなくて、僕の人生の破壊そのものがそもそもの目的だったのではないかという気さえしてきました。奴隷の女の子の存在を教えてきておいて全く助ける気がないというのが最大級に理性を反駁させるのです。どう考えてもおかしい…続きを読む→
「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†■2024年7月10日UP■
「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†
僕は至ってまともな事を言っているだけだと思っていますが、帰幽後に僕に下される判断はそういうモノではないのでしょう、かなりキビシイ状態にさせられるのでしょう。それは了解してます、全てこの身に受けるつもりです。が、それでもなおあんたたちの導きに方向性はヒドすぎる、到底許容できないと思っているのです。「もうのむ訳にはいかない」「これしかないんだと」僕が強硬姿勢なら霊団も強硬姿勢で、もうアキトくんのワガママに折れる訳にはいかない、アキトくんの肉眼には全体像が映っていないから、この道の先にどれだけの悲劇が待ち受けているかを理解できない。我々の霊眼はアキトくんの未来の悲劇が見える。今はアキトくんは理解できなくてもいつかは必ず理解できる時が来るから、アキトくんがどんなに嫌がっているとしてももうこの道を進ませるしかないんだと、霊団がそのように言ってきてます。【い】【い】【か】【げ】【ん】【に】【し】【て】【く】【れ】【!】確か人間には「自由意思」というモノがあったはず。霊団はその自由意思を完全に無視する事を決定したとでもいうのか。それは霊界の決まりに完全に反する事なのではないか。そんな事が許されていいのか。ただ、裏返すとそれくらい僕の置かれている状況が危機的という事なのかも知れませんが…続きを読む→

この小さい不思議な本もスキャンしてますが、たぶんホワイトイーグル霊が語った内容をそのまま掲載しているのではなく、のちの人間によって編集された書籍ではないかと思われます。良い言葉を集めて1冊にまとめたエッセンス集みたいな感じなんじゃないかな、翻訳してみないと分からないけど。

で、現在英語書籍に集中してますが、近藤千雄先生翻訳の日本語書籍のテキスト見直しがまだまだ残されていますのでそちらにも着手しないといけません。本当に大げさな表現ではなく一生かかっても終わらないかも知れない作業量となりますので、止まっているヒマはない、日々淡々とこなしていかなければゴールが全く見えてきません。絶望的作業です。

で、節約対策としてオートミールを導入しましたが、やはり気のせいではなくこのオートミールを食べると〇ン〇が1日3回くらい出る、身体の健康という意味ではイイのかも知れませんがロングドライブ時に使用するのは相当問題アリという事が分かって残念ながら不採用となってしまい、現在新たなモノを注文中。

これも脱出に向けた外堀固めの作業となります。絶対にあきらめない、何としても脱出完了させる。霊団は意味不明の幽体離脱時映像を見せてくるだけで何も言ってきません。もう僕という霊の道具をまるで使用する気がないようですので、だったら本当に帰幽でイインジャネ、と思うのですが。しかしやるべき作業は恐ろしいほど殺人的にありますので手だけは動かし続ける(祈)†

「霊的知識なんて知った事か」文仁が原始人である事を証明する思念となります(祈)†■2022年3月23日UP■
「霊的知識なんて知った事か」文仁が原始人である事を証明する思念となります(祈)†
宇宙一のバカ、文仁は肉体の死後にも人生がある事、地上時代の行いと帰幽後の霊界生活との因果関係を全く理解しておらず、自分のこれまでの大量強姦殺人の人生が自分の未来を地獄の底に落としている事を全く理解しておらず、ただ自分を嫌っている幼い女の子をレイプする事しか頭にない原始人、という事になります。僕から皆さまにぜひ強調したい事としましては「霊的な事を子バカにするという事は、この原始人、文仁と同レベルの人間である事の証明となり、大変な恥となりますよ」という事です。皆さまはそんなに強姦殺人魔が好きですか。そんなに霊的な事がキライですか。今あなたが生き、動き、呼吸し、考えを巡らせる事ができるのは全て霊の賦活作用があるからなんですよ…続きを読む→
「失われた10年を返せ」人生破壊、人権蹂躙の究極形、永遠に理解できないのです(祈)†■2022年3月30日UP■
「失われた10年を返せ」人生破壊、人権蹂躙の究極形、永遠に理解できないのです(祈)†
僕、たきざわ彰人は、全く違う人生を送るはずでした。「山を愛する“画家”・たきざわ彰人」として生涯1000作品を描く事を固く心に誓っていたのでした。しかし、壮絶な負荷を自分に課しての絵画作品の描画(一切手抜きをしなかったという事)そして山での果てしない修行によって肉体、精神の浄化が進んだからなのでしょうか、僕の人生は「霊性発現(2012年6月)」という想像だにしない展開に突入したのでした。自身の背後霊団の声が1日中霊聴に聞こえ始め、霊体のアチコチでスイッチがカチ、カチ、と入れられる感覚が走り、その後、猛烈な「法悦状態」に突入し、だいぶ長い間(正味6~8ヶ月くらいだったでしょうか)法悦の霊力が降り続け、僕はずっと鼻がキィィィン、頭、身体がフワァァァ、という状態で生活していたのでした…続きを読む→
霊団が奴隷の女の子たちを救出しない決定を下している理由についての個人的所感(祈)†■2022年4月6日UP■
霊団が奴隷の女の子たちを救出しない決定を下している理由についての個人的所感(祈)†
霊団側はブループリント作成の時点で「この使命遂行を実行するにあたり、ああなるだろう、こうなるだろう」という事があらかじめ分かっているという事です。つまり霊界側は「現在の物質界は、まだ奴隷の女の子たちを救出するに必要な悟りの境地に到達していない、まだその時期は到来していない」という事もあらかじめ分かっていたはずなのです。だったらなぜ僕に奴隷の女の子の存在を怒涛に教えてきたんだよ。助けてあげられると思ったから教えてきたんじゃないのかよ。助けられないという事だったらなぜ教えてきたんだよ…続きを読む→

霊団に言われている事を見返して複雑な思いが去来しながらも「じゃあどうしろって言うんだよ」どうもできないのです、僕はもう完全に閉じ込められて何もできない状態にさせられているのです、眼前の作業をやるより他にどうしようもないのです。本当に物質界という名の刑務所に放り込まれている気分です。

「I Appeal Unto Caesar」も苦しい(本当に苦しい)Google翻訳文見直し60%終了中、あとモチョトでふたつUPできるかも知れません。僕は英語の能力がありませんのでGoogle翻訳の翻訳文が多少違和感があってもどうかご勘弁下さい。僕にはこれ以上どうしようもできないのです。

脱出できない、とにかく何をどうやっても脱出アイデアを実行に移すところまでいきません、恐るべき霊団の閉じ込め能力という感じですが、僕は1ミリたりともあきらめていません。時間はかかっても必ず出てみせる。いつでも出られるように徹底的に外堀固めをおこなっているのです。

ストーリーのネームも描いてますがコチラはやや詰まってまして、今回もあるキャラが登場するのですが、そのキャラにアレコレしゃべらせるシーンがあって、そのセリフが「マズいだろう」という内容で、どう表現してイイのか分からなくて止まっている状態です。セリフを極限まで少なくするというのがいちばんの安全策なのでたぶんそういう感じにまとめて線画を描き始めると思います。アナログ絵379、380の計6ページストーリーになる予定です。

モォォイヤダ、この人生ヤダ、いつまで僕は閉じ込められなければならないんだ。本当に一生このままにするつもりなのか霊団は。本気で永遠に憎むよそんな事したら。少なくとも帰幽後に地球圏の仕事は絶対にやらない。脱出の外堀固めを続けます、いつか必ず脱出完了させてみせる(祈)†

「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†■2022年10月12日UP■
「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†
霊格がある一定以上まで高まると物質圏付近に降下する事さえできなくなるそうで、影響力を行使しようにもできなくなる、それで霊力に感応する僕のような人間に対して働きかけて間接的に仕事を前進させようとする訳です。霊界高級霊の方々は自分で最低界に降下して仕事をする事は基本的にできない(ごくまれに使命に燃えて肉体をまとって降下する神霊も存在するそうです、イエス様がその代表ですね)ですので霊力に感応する物質界の人間に仕事をやってもらう事になる訳ですが、僕の霊団に対する反逆ぶりを見ればお分かりのように、ああでもないこうでもないと文句ばかり言って高級霊の言う通りには動いてくれないものです。それで霊界側で作成した使命遂行ブループリントの全てを達成できず霊媒は帰幽し、残りの仕事は次の霊媒を見出してその人物にやらせるという事になるのですが、その霊媒が物質界に全くいないのです…続きを読む→
「あなたを守りたい」これがつまり奴隷の女の子を助けないという意味なのです(祈)†■2022年10月5日UP■
「あなたを守りたい」これがつまり奴隷の女の子を助けないという意味なのです(祈)†
僕が奴隷の女の子を救出すると、その霊団が降らせて教えてきた物的攻撃に晒される事になり、霊団はその攻撃から僕を守るために奴隷の女の子の救出をあきらめざるを得ないといったような事を言っているのです。そして奴隷の女の子の事をあきらめさせるために交霊会の事をずっと言い続けてくるのです。「アキトくんの気持ちは分からないでもないが、奴隷の女の子たちは自らの罪障消滅のため、霊的向上のために自ら志願してその人生を選択し、奴隷の女の子として物質界に降下した人間なのだ。それよりキミは自分の使命遂行を成功させる事を考えなさい」とでも言っている霊団の声が聞こえてきそうです。要するに奴隷の女の子たちを見殺しにするのは非情というのとは違う、霊的視点に立って考えないと真実の理解には到達しない、という事なのですが、この心の中に渦巻く釈然としない気持ちはどうやっても拭う事ができません…続きを読む→

[前節で紹介した説には当時の私に訴えるものがまったく見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説とまったく相容れないものであること、しかも、畏(おそ)れ多くも、キリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。

そして、あの通信には途中で不純なものが混入しているのではないか、それに、私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあの程度のもので人生の指針として完ぺきだというのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた – ]

破邪は顕正(けんしょう)に先立つべきもの

前回述べたところはおよその指針にすぎないが、それなりに真実です。ただし、すべてを尽くしているとは言いません。きわめて大まかな原則であり、不鮮明な点、欠落していることが少なからずあります。が、本質的には間違っておりません。

確かに、そなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれた教義を、多くの点で侵していることは認めます。また、何の予備知識もない者には新しい説のように聞こえ、古い信仰形体を破壊するもののごとく思われるかも知れません。

が、実際はそういうものではありません。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ、新たな心理探求に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれわれの霊的教訓を受け入れることができるはずです。

古い偏見によって足枷(かせ)をはめられることさえなければ、すべての人間に薦められる性質のものであると信じます。さきにわれわれは、まず夾雑物を取り除かねばならないと述べました。

破邪が顕正に先立たねばならないと述べました。古いもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べました。要するに、建設のためにはまず地ならしが必要であることを述べたのです。

– その通りですが、私から見て、あなたが取り払おうとなさっている夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にもわたって信仰の絶対的基盤としてきたものです。

違います。かならずしもそうではありません。そなたの言い分には、いささか誇張があります。イエスの地上生活についての記録はきわめて不完全です。その記録を見ても、キリスト教会が無理やりに押しつけてきたイエスの位置、立場について、イエス本人は一言も語っていないことがおわかりになるはずです。

真実のイエスは、その名を戴く教会の説く人物より、はるかにわれわれの説く人物に近い存在だったのです。

– そんなはずはありません。それに、例の贖罪説、あれをどう思われますか。

贖罪説はこじつけ

ある意味では間違っておりません。それ自体は否定しません。われわれからみて許せないのは、神を見下げ果てた存在 – わが子の死によってご機嫌を取らねばならない残忍非情な暴君に仕立てあげている、幼稚きわまる言説です。

イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話 – そのためにかえってイエスの生涯の素朴な偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となっている誤ったドグマを否定したからとて、それは、いささかもイエスの偉大さを減じることにはなりません。

そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、あげくの果てに、それを否定あるいは拒絶することが大罪とされるに至った過程については、いずれ詳(くわ)しく語る時節も到来するでしょう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、すべてを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深い人間のためにわが子イエスに大権をゆだねて地上へ派遣した事実を否定することが、永遠の火刑もやむを得ない大罪とされても致し方ないかも知れません。

キリスト教のある大きな教派は、その最高位の座にある者の絶対的不謬性を主張し(1)、それを受け入れない者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説きます。

これなどはキリスト教会においても比較的新しい説です。が、すべてのドグマはこうして作られてきたのです。かくして人間の理性のみでは、神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となります。

同時にまた、その夾雑物を取り除こうとする勇気ある者が、攻撃の的とされます。いつの時代にもそうでした。われわれがより高い視点から人間的爽雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤った行為であると非難される筋合いはないのです。

– そうかも知れません。しかし、キリストの神性と贖罪の信仰は、人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも、署名の頭にかならず十字(クロス)を冠しておられます(†Imperator)。私の推測では、あなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。

通信者のレクターも同じように署名に十字を冠しています(†Rector)。あの方などは、絶対とは言いませんが、おそらくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。

つまり、もしもその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの、もしくは完全な誤りであるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後、ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。

もしそうでなかったのなら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしもクリスチャンだったのなら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それひとつに関わっています。

現在のあなたの言説と、地上時代に抱いておられた信仰とが、どこでどうつながるのか、そこがわからないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。また、どうみても、署名に十字を付ける人の説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きにすぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私には、あなたの言葉と態度以外に判断の拠(よ)り所がないのです。

私に判断しうるかぎりにおいて、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理性もあります。しかし、キリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示しねがいたいと申し上げるのみです。

いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとしたい。

[私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようとしたが、6月20日まで何も来なかった。右の通信は16日に来たものである。そして、ようやく届けられた返答は次のようなものだった – ]

バイブルの字句にこだわることが生む弊害

友よ、これより、そなたを悩ませてきた問題について述べることにしよう。十字架がわれわれの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしましょう。

そもそも、主イエス・キリストの教えとして今地上に流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実を、まず述べたいと思います。各派の狂信家はその字句にのみこだわり、意味をおろそかにする傾向があります。

執筆者1人ひとりの用語に拘泥(こうでい)し、その教えの全体の流れをおろそかにしています。真理の探求と言いつつも実は、あらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを“真理”と銘うっているにすぎません。

そなたたちのいう“聖なる書”(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中から断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図していない意味をもつに至っています。

またある者は、いささかの真理探求心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルの用語や文句を借用します。それはそれなりに目的を達するであろう。

が、そうすることによって徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立て、それをこじつけることをもって良しとする者たちによって、ひとつの体系が作り上げられていきます。いずれも、バイブルというテクストから1歩も踏み出してはいないのです。

さきにわれわれは、これから説くべく用意している教えは多くの点において、キリスト教でいう“神の啓示”と真っ向から対立すると述べました。

正統派のキリスト者たちは、1人の神秘的人物 – “完全なる三位一体”を構成する1人 – が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理のすべてを地上にもたらしたと説きます。それが全真理であり、完全であり、永遠の力を有するといいます。

神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されません。神の語った言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも、全真理がその語句と言い回しの中に収められているといいます。

ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の教えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであるといいます。

要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのです。英語に訳されたものであっても、やはりその一言一句が神の言葉であり、そのつもりで細かく分析・解釈するに値するものとされています。

なぜなら、その翻訳にたずさわった者もまた、その驚異的大事業の完成のために神の命を受けた者であると信じられているからです。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もない結論が打ち出されることになります。無理もないことかも知れません。なぜなら、彼らにとっては、その一言一句が人間的謬見(びゅうけん)に侵されることのない“聖なる啓示”だからです。

しかるに、その実彼らの為せることは、自分に都合のよい文句のみを引用し、不都合なところは無視して、勝手なドグマを打ち立てているにすぎません。が、ともあれ、彼らにとってはバイブルは神の言葉そのものなのです。

啓示は時代とともに変化する

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く捨てた者がいます。彼らは、バイブルの絶対性を打ち砕くことから出発し、ついにたどり着いたところが、ほかならぬ、われわれの説くところと同じ見解です。

彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意は払います。しかし同時に、それはその時代に相応しいものが啓示されたものであり、ゆえに今なお現代に相応しい啓示が与えられつつあると見ます。

バイブルは、神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとして読みます。無知と野蛮の時代には、神はアブラハムの友人であり、テントの入口でともに食し、ともに語り合った。次の時代には民族を支配する士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦った王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なった暴君であった。

それが時代の進歩とともに、優しさと愛と父性的慈悲心をそなえた存在となっていった…心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、真摯な探求の末に、その成長は決して終息することがないこと、神の進歩的啓示が閉ざされたことは1度もないこと、たとえ神についての知識が完全よりほど遠くても、それを求める人間の理解力が、その渇望を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着きます。

ゆえに真理を求める者は、少なくともその点についてのわれわれの教えを受け入れる用意はあるはずなのです。われわれが求めるのはそういう人物なのです。すでに完全な知識を手にしたと自負する者に、われわれは言うべき言葉を知りません。

彼らにとっては、まず神と啓示に関わる問題についての無知を悟ることが先決です。それなくしては、われわれが何と説こうと、彼らは固く閉じ込められた、無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることはできません。

彼らとしては、これまで彼らの霊的成長を遅らせ、未来の霊的進歩の恐ろしい障害となる、その信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされるほかに残された道はありません。以上のことをそなたが正しく理解してくれれば、さらに1歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べるとしましょう。

啓示に霊媒の主観の混入は不可避

われわれに言わせれば、バイブルを構成している数々の書、およびその中に含まれていない他のもろもろの書はみな、神が人間に啓示してきた神自身についての知識の、段階的発達の記録にすぎません。その底流にある原理はみな同じであり、ひとつなのです。

それと同じ原理が、そなたとのこうした交わりをも支配しているのです。人間に与えられる真理は、人間の理解力の及ぶ範囲のものに限られます。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられません。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのです。

さて、その真理は1個の人間を媒体として届けられます。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れることはできません。絶対にできません。通信霊は、必然的に、霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ないからです。

つまり所期の目的にそって、その素材に新たな形体を加えるのです。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになりますが、元になる材料は、霊媒が以前から宿していたものです。したがって通信の純粋性は、霊媒の受容性と、通信が送られる際の条件が大いに関わることになります。

バイブルのところどころに、執筆者の個性と、霊的支配の不完全さと、執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためです。それとは別に、その通信が授けられる民族の特殊な必要性による、独特の色彩が見られます。もともと“その民族のために”意図されたものだからです。

そうした例ならば、そなたにも幾らでも見出せるはずです。イザヤがその民に霊の言葉を告げた時、彼はその言葉に自分の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのでした。

申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念がありました。しかし、それを詩歌(しいか)と比喩(ひゆ)によって綴った時、それはエゼキエル(2)がその独特の隠喩(いんゆ)でもって語ったものとは、はるかに異なったものとなりました。

ダニエル(2)にはダニエル独自の神の栄光の心象がありました。エレミヤ(2)にはエレミヤを通じて語った“主”の観念がありました。ホセア(2)には神秘的象徴性がありました。そのいずれも同じ神エホバを説いていたのであり、知り得た通りを説いていたのです。ただ、その説き方が違っていただけなのです。

のちの時代の聖なる記録にも、同じく執筆者の個性が色濃く残されています。パウロ(3)しかリ。ペテロ(3)しかり。同一の真理をまったく異なった角度から見ているのも、やむを得ないことです。

真理というものは、2人の人間が異なる視点からそれぞれの手法によって説いても、いささかもその価値を減ずるものではありません。相違といっても、それは霊感の本質ではなく、その叙述の方法の違いにすぎないからです。霊感はすべて神より発せられます。が、受け取る霊能者は、あくまでも(肉体に宿った)人間なのです。

読む者は自分の心の投影しか読み取らない

ゆえに、バイブルを読む者は、その中に自分自身の心の投影を読み取るということになります。いかなる気質の人間でも同じです。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解があまりに乏しいゆえに、過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さないことになります。

彼はバイブルに自分の理想を見出さんとします。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神程度の者のための知識のみです。1人の予言者の言葉で満足しない時は、他の予言者の言葉の中から気に入った箇所を選び出し、他を捨て、その断片的知識をつなぎ合わせて、“自分自身の”啓示を作り上げていきます。

同じことがどの教派についても言えます。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証するためにバイブルから“都合のよい箇所”のみを抜き出します。もとより、バイブルのすべてをそのまま受け入れられる者は皆無です。

何となれば、すべてが同質のものとは限らないからです。各自が自分の主観にとって都合のよい箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって“啓示”と称します。

他の箇所を抜き出した者の啓示(と称するもの)と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易な意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図しなかった意味に解釈されていることが明らかとなります。

こうし折角の霊感の産物が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは、好みの武器を取り出す重宝(ちょうほう)な兵器庫とされ、神学は、誤った手前勝手な解釈によって都合よく裏づけされた、個人的見解となり果てたのです。

こうして組み立てられた独りよがりの神学に照らして、われわれの説くところがそれに相反していると非難されています。確かに違うでしょう。われわれはそのような神学とは一切無縁なのです。それはあくまでも地上の神学であり、俗世のものです。

その神の概念は卑俗であり低俗です。魂を堕落させ、“神の啓示”を標榜(ひょうぼう)しつつ、その実、神を冒潰しています。そのような神学とは、われわれは何の関わりも持ちません。

矛盾するのは当然至極であり、むしろ、こちらから関わり合いを拒否します。その歪んだ教えを修正し、代って神と聖霊について、より真実味のある、より高尚な見解を述べることこそ、われわれの使命なのです。

神の概念は言語を超越する

バイブルから出た神の概念がこうまではびこるに至ったもうひとつの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているにすぎないものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにあります。

人間の理解の及ばない観念を伝えるに当たっても、われわれは、人間の思考形式を借りて表現せざるを得ないことがあります。

正直のところ、その表現の選択においてわれわれもしばしば誤りを犯します。表現の不適切なところもあります。霊的通信のほとんどすべてが象徴性を帯びており、とくに人間がほとんど理解していない神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤る場合が生じるのは、やむを得ないことです。

いずれにせよ、しょせん象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈していただかねばなりません。神についての霊信を“字句どおり”に解釈するのは愚かです。

さらに留意すべきことは、それを授かる者の理解力の程度に合わせた表現方法で授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならないということです。

バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は、その一字一句を字句どおりに受け止め、その結果、誤った結論を下すことになります。

衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(4)の信者に説き聞かせた誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉とにおいて大いに、あるいは完全に異質の他民族に、その字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、いたずらに惑わせることになりかねません。

神についての誤った冒瀆的概念も、多くはそこに起因しているとわれわれは見るのです。そもそも言語なるものが不備だったのです。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く外れます。

それが、われわれが指摘したように、後世の者によって字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着します。そうなってはもはや神の啓示とは言えません。それは神について人間が勝手にこしらえた概念であり、しかも、未開人が物神に対して抱いた概念と同じく、彼らにとってはきわめて真実味をもっているのです。

繰り返しますが、そのような概念にわれわれは同意できません。それどころか、あえてその誤りを告発するものです。それに代わる、より真実にしてより崇高な知識を授けることが、われわれの使命なのです。またその使命の遂行に当たっては、われわれは一つの協調的態勢で臨みます。

まず1人の霊媒に神の真理の一端を授けます。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をします。正しく発展する箇所もあれば、誤った方向へ発展する箇所もあります。若き日に培われた偏見と躾(しつけ)の影響によって歪められ曇らされる部分もありましょう。

では、より正しい真理を植えつけるに当たって、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか、精神から一切の先入観念を払拭(ふっしょく)すべきか – それはなりません。

われわれはそうした手段は取りません。万一その手段を取ろうとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛のまま放置することになりかねません。

新しい啓示も霊媒の潜在意識を利用する

そのようなことはできません。あらかじめ存在している概念を利用し、それを少しでも真理に近いものに形作っていくのです。いかなるものにも“真理の芽”が包蔵されているものです。

もしそうでなければ、一挙に破壊してしまうところです。が、われわれはそうしたささやかな真理の芽を大切にし、それを成長させ発達させようとします。人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なものかが、われわれにはよくわかっています。

それはわれわれが導く真理の光を当てれば自然崩壊していくものと信じて、他の重要な問題についての知識を提供していきます。取り除かねばならないのは排他的独断主義です。これが何より重大です。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、あえて取り合いません。

そういう次第ですから、在来の信仰のトゲトゲしさが和らげられてはいるものの、きわめて似た形で残っているものが多々あります。そこで人は言います – 霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎないではないか、と。

そうではありません。今こうしてそなたに説いていることが、その何よりの証拠です。

たしかに、われわれは霊媒の精神に以前から存在するものを利用します。が、そのまま使用するのではありません。それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的にそったものに適合させます。

しかも、それを目立たないように行ないます。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにドグマ的で、そのままでは使いものにならない時です。

かりにここに、神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めない者がいるとしましょう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信じると言い出せば、そなたもその変わりように目を見張ることでしょう。

それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しい信仰が色調を穏やかなものに塗り変えられていった場合、人間はその変化に気づかないでしょう。徐々に行なわれ、かつ微妙だからです。が、実はわれわれにとっては、着々と重ねた努力の輝かしい成果なのです。

荒々しさが和らげられた。頑固で冷酷、かつ陰湿なところが温められ、愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さがいっそう輝きを増し、善性が威力を増した。かくし真理を求める心が、神と死後の世界について、より豊かな知識を授けられることになるのです。

人間的見解を頭ごなしに押さえつけたのではありません。それに修辞を施し、変化を与えただけです。その霊的影響力は、現実にそなたのまわりに存在しているのです。そなたはまったくそれに気づいていませんが、われわれに課せられた霊的使命の中でも、もっとも実感のある、有り難い仕事なのです。

ですから、霊は人間の先入観を繰り返すだけではないかと人が言う時、それは、あながち誤りとも言えないのです。その先入観は、害を及ぼさないものであるかぎり、そのまま使用されているからです。ただ、気づかれない程度の修飾を施してあります。有害とみたものは取り除いて、抹消してしまいます。

信仰は形式より中身が大切

とくに神学上の教義の中でも特殊なものを扱うに当たっては、可能なかぎり除去せずに、新しい意義を吹き込むように努力します。なぜならば、そなたには理解できないかも知れませんが、信仰というものは、それが霊的であり生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたないものだからです。それゆえわれわれは、すでに存在している基盤の上に新たなものを築こうとするのです。

とは言え、その目的の達成のためには、今も述べたように真理の芽を留めている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存するものの、他方、ぜひ取り除かねばならない誤った知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なくありませんから、建設の仕事に先立って破壊の仕事もしなければならないことになります。

魂にこびり付いた誤った垢(あか)を拭い落とし、できうるかぎり正しい真理に磨きをかけ、純正なものにします。われわれが頼りとする人間に、まずその者が抱いている信仰の修正を説くのはそのためです。

さて、ここまで述べれば、今のそなたの苦悶のいわれが分かるはずです。われわれはそなたが抱いている神学上の見解を根こそぎにしようというのではありません。それに修正を加えようとしているのです。振り返ってみていただきたい。

かつての狭隘(きょうあい)な信仰基盤が、徐々に抱括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が分かるはずです。われわれの指導のもとに、そなたは数多くの教派の神学に触れてきました。そしてそれぞれに、程度こそ違え、真理の芽を見てこられました。ただ、その芽が人間的偏見によって被い隠されているに過ぎません。

またキリスト教世界の多くの著書を、みずからの意志で念入りに読んでこられました。そこにさまざまな形態の信仰を発見して、そなたの信仰の偏りが是正され、荒々しさが和らげられました。太古の思想の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこから自分に理解しうるものを吸収するまで、実に長く、そして遅々とした道程でした。

すでに生命を失い、呼吸することのないドグマで固められた東方正教会の硬直した教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に、待望久しい痛撃を浴びせてくれたドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思策の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々 – そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なものを身につけてこられた。

長く、そして遅々とした道程ではありましたが、われわれはこれよりさらに歩を進め、いよいよ理想の真理 – 霊的で捉えどころはなくても魂にとっては実感のあるものであり、これまでにそなたが学んできたものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思うのです。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在をお見せしたいと思うのです。

そこで、まずそなたに知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的思想は、神との和解だの、贖罪(しょくざい)だのという付帯的俗説も含めて、そなたの考えているものとは、およそ本質を異にするものであるということです。

それはあたかも古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ています。われわれはそなたの理解しうるかぎりにおいて、“救い主”“贖(あがな)い主”“神の子”として崇めるイエスの生涯の奥に秘められた霊的真実を知らしめたいと思います。

イエスがその地上生活で身をもって示そうとした真の意義を教え、われわれが取り除こうとする俗説がいかに愚劣で卑劣であるかを明らかにしたいと思うのです。

十字架が象徴するもの

そなたは、そうしたわれわれの教えがキリストの十字架の印とどう関わりがあるのかと尋ねられた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われわれが普及を宣言するところの根本的真理なのです。

自分の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛、これぞ純粋なキリストの精神であり、これこそわれわれが神のごとき心であると宣言するものです。

その心こそ、卑劣さと権力欲、そして身勝手な驕(おご)りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いです。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめるのです。

これこそ真実の贖罪(しょくざい)なのです。罪なき御子を犠牲(いけにえ)にして、怒れる神に和解を求めるのではありません。霊的本性を高め、魂を浄化する行為の中で償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(5) – 身は地上にあっても魂をよりいっそう神に近づけていくこと、これぞ真実の贖罪なのです。

キリストの使命も、その率先垂範にありました。その意味において、確かにキリストは神性のひとつの発現であり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主でした。

が、同じ意味においてわれわれもキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行してまいります。十字架の旗印のもとに働き続けます。キリストの敵 – たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとではあっても、無明(むみょう)のゆえに、あるいは強情のゆえに、キリストの名を汚す者には、われわれは敢然と闘いを挑みます。

ある程度まで霊的真理に目覚めた者にとっても、われわれの説くところには新しく、かつ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像されます。が、いずれは、キリストの教えがわれの説くところと、本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れることでしょう。

その暁には、それまで真実を被い隠していた愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中で崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳な真実の姿を見ることになりましょう。

その時のイエスへの崇敬の念はいささかも真実味を減ずるどころか、より正しい認識によって裏づけられることになります。すなわち、われわれが印す十字架は不変の純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのです。その認識をそなたに得さしめることこそ、われわれの真摯な願いです。

願わくばこれを基準としてわれわれの使命を裁いてもらいたい。われわれは神の使命をおびて参りました。その使命は神のごとく崇高であり、神のごとく純粋であり、神のごとく真実です。人類を地上的俗信の迷いから救い出し、汚れを清め、霊性と神性とにあふれた雰囲気へと導いていくことでしょう。

われわれの述べたところをよく吟味されたい。そして、導きを求めよ。われわれでなくともよい。その昔、神がかのイエスという名の、無垢と慈悲と滅私の霊を地上へ送られたように、今われわれを地上へ送られたイエスを通して祈るがよい。

イエスを今なおわれわれは崇める。
その御名をわれわれは敬う。
その御言葉をわれわれは繰り返す。
その御教えが再びわれわれの中に蘇(よみがえ)る。
イエスもわれわれも神の使いである。
そして、その御名のもとにわれわれは参る。

†インペレーター

[注釈]

(1)ローマカトリック教会には“教皇不謬説”というのがある。1870年の第1回バチカン公会議で教義として決定されたもので、教皇(法王)はキリスト教の代表者として聖霊に導かれているので、信仰と道徳について宣言することに絶対に誤りはない、とされる。

(2)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。

(3)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。

(4)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。

(5)“贖い”を意味する英語 atonement が語源的には at-one-ment すなわち“ひとつになること”を意味することを示唆しながら説いている。

(6)現在スピリチュアリズムの名称のもとに広がりつつある地上の霊的浄化活動 – その一環としこうした霊的真理が説かれているのであるが – その総指揮を取っているのが、地上で“ナザレのイエス”と呼ばれた人物であることは、西洋の高等霊界通信が異口同音に指摘していることである。

30有余にわたって東西の霊的資料を吟味・検討してきた訳者個人の直観的結論として、イエスは、地球神界の最高政庁(ヒエラルキー)の1人、言いかえれば地球の守護神直属の神霊の一柱、西洋でいう大天使の1人が降臨したものと信じている。

Spiritualism(スピリチュアリズム)とか Silver Birch(シルバーバーチ)とか Imperator(インペレーター)といった横文字を見て、古い国粋主義的排他根性を抱くのは禁物である。これは地球規模の問題なのである。

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この11年、霊団は「人生破壊」以外に何もやりませんでした。口だけをピーチクパーチク動かし、実際の行動は何ひとつ起こしませんでした。人の人生をブチ壊すだけブチ壊しておいて、その補填らしきものは一切なくホッポラカシ。あげくの果てに自分たちで言い出して僕にやらせた仕事を全力でやめさせようとしてくる始末。一体何がどうなってるんだよあんたたちの頭の中は。永遠に理解できない「※地球圏霊界は強姦殺人魔を守り通す狂気の国」霊関連書籍にはこのような記述は一切ありませんが、僕は自身の長きにわたる霊的体験から、絶対の自信をもってこの言葉を公言させて頂きます。地球圏霊界、おかしい、全てがおかしい。全宇宙最低ランクにもほどがある。いくら何でも最悪すぎる。僕は帰幽後、まず実現は不可能と思われますが、一応希望としては地球圏霊界と完全に縁を切るつもりでいます。少なくとも霊団とは縁を切ります。これは絶対です…続きを読む→