『シルバーバーチの霊訓③』
神よ、あなたは一体どなたに御し、いかなるお方に御すのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。私たち霊界の者はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。
『シルバーバーチの霊訓③』
例えば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鏡であり、あなたこそ全宇宙を創造し給いし無限の心であると説いております。
『シルバーバーチの霊訓③』
私たちには自然界の一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間の目に向けさせ、その全てがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
『シルバーバーチの霊訓③』
私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
『シルバーバーチの霊訓③』
あなたには特別の寵愛者など一人もいない事、不偏不党であられる事を信じます。あなたの事を独裁者的で嫉妬心を持つ残忍なる暴君の如く画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜならそのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
『シルバーバーチの霊訓③』
これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもない事を確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて―
『シルバーバーチの霊訓③』
―物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜならすべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
『シルバーバーチの霊訓③』
あなたの子等のすべてがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになればすべての悲劇、暗黒、苦悩、残虐行為、憎悪、戦争、流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らす事になるものと信じます。
『シルバーバーチの霊訓③』
ここに、ひたすらに人のために役立つ事をのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを―無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして―捧げ奉ります。
『シルバーバーチの霊訓③』
この祈りには宇宙についての、地上の人間に理解できる限りの理性的かつ合理的説明が含まれております。人類が暗闇の生活を余儀なくさせられているのは一方には自ら真理に対して目を閉じたがる者が多く、また一方には既得の特権を死守せんとする者が多いからです。
『シルバーバーチの霊訓③』
全ての戦争は人間が摂理に背いた生き方をする事―一個の人間、一つの団体、国家が誤った思想から、貪欲から、権勢欲から、支配欲から、神の摂理を無視した行為に出る事から生じるのです。直接の原因が何であれ、全ては宇宙の霊的法則についての無知に帰着します。
『シルバーバーチの霊訓③』
すべての者が霊的知識を具えた世界に独裁的支配は有得ません。一人の人間が一国を支配する事が不可能な組織となるからです。すべての者が霊的知識を具えた世界に流血は有得ません。争いの起こり得ない体制となるからです。
『シルバーバーチの霊訓③』
われわれの仕事はその霊的知識を広める事です。真実の意味での伝道者なのです。伝道の意味が今日の世の中では歪められてしまいましたが、真実の意味は真理または知識を広める事です。私たち霊団は今あなた方の世界で仕事をしておりますが、本来は別の世界の者です。
『シルバーバーチの霊訓③』
あなた方より1、2、もしかしたら3歩ほど先を歩んでいるかも知れません。これまで幾つかの大自然の摂理を学んできました。そして知った事はこの世に奇跡はなく、神の特別の寵愛者もなく、選ばれし民もなく、唯一の神の子もいない、あるのはただ法則のみだという事です。
『シルバーバーチの霊訓③』
宇宙がいかに巨大にして荘厳であるとは言え、すべてが絶対的法則によって支配されている事を知ったからこそ、こうしてその法則をお教えしようと努力している訳です。その法則とは、原因には必ずそれ相当の結果が伴うという事です。
『シルバーバーチの霊訓③』
自分が蒔いたタネは自分で刈り取るという事です。所詮はごまかす事はできない―なぜなら自分の言動がその性格と成長具合に消そうにも消せない印象を刻み込むからです。こうした真理を土台として真の宗教を築かねばなりません。
『シルバーバーチの霊訓③』
大主教の宮殿で何を説こうと、大聖堂で何を説こうと、寺院、教会堂、礼拝堂、その他世界中いかなるところで何を説こうと、それが今述べた単純な基本的真理と矛盾したものであれば、それは誤りです。
『シルバーバーチの霊訓③』
極めて簡単な真理なのです。人生を霊的摂理が支配している事、お互いが扶け合う事が一番大切である事、それが霊を成長させ、性格を形成し、死後に待ち受ける新しい生活に霊的な備えを与える事になる―ただそれだけなのです。
シルバーバーチ霊が多大な犠牲を払って地上人類にもたらしてくれた“ダイヤモンドの輝き”に譬えられる珠玉の霊的真理。僕たちはその美しい霊言の数々に触れる事で、大切な知識を得るチャンスを与えて頂いたのです。人類の宝とも言える霊界通信の書籍は、すぐ手の届くところにあるのです☆(祈)
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『シルバーバーチの霊訓③』
何も知らない人たちを光明から顔を背けさせ、カビの生えたドグマを信じさせ、今日の世でも受けられるインスピレーションを無視させ、遠い薄暗い過去のインスピレーションの残骸に目を向けさせようとする既成組織を私たちが非難するのは―
『シルバーバーチの霊訓③』
―そうした本来私たちと手を取り合うべき人たち、本来宗教を説くべき立場にある人々が私たちの敵に回っているからです。人間として非難するつもりはありません。彼らの多くは彼らなりに正しいと思う事に携わっているのです。
『シルバーバーチの霊訓③』
真面目な徒であり、困難な状況の中で最善を尽しております。私たちが非難するのはその組織です。真理を知る可能性がありながら虚偽に縛りつけ、光明を見出すチャンスがありながら暗闇の中に閉じ込めておこうとする組織です。
『シルバーバーチの霊訓③』
これ以上簡単な教えが一体どこにあるでしょうか。地上は今まさに大戦の真っ只中にあります。世界中に悲劇と苦悩が満ち、数知れぬ人が慰めを求め、すがるべき杖を探し、神が存在する事、わが子の苦しみに無関心ではいられないはずの親が存在するその証を求めております。
『シルバーバーチの霊訓③』
牧師のもとへ行っても相も変らず古い教説に少しばかり現代風な味を加えて説くばかりです。そしてすぐに“聖なる書”を引用します。国によって大小さまざまな体裁をしていても、中身は同じ古い言葉ばかりです。うんざりするようなお決まりの教説を聞かされるだけです。
『シルバーバーチの霊訓③』
彼らは霊的実在が存在する証は何一つ持ち合わせていません。その信仰は彼ら自らが心の奥では信じきれなくなっているものです。自分が自信を持てないで、どう他人に確信が与えられましょう。人類の歩むべき道を自分が知らずに、どう他人に慰安が与えられましょう。
『シルバーバーチの霊訓③』
いわゆる“あの世”について自ら疑問符を付けている者が、どうして肉親に先立たれた人たちを慰めてあげられましょう。先の事を何も知らない者が、どうして魂の飢えた、心の満たされない、さ迷える人々を導く事ができるでしょう。
『シルバーバーチの霊訓③』
ところが真理はすぐ目の前にあるのです。求めさえすれば知識の宝、叡智の泉、真理の光がすぐ身のまわりで待ち受けているのです。宗教が無力なのではない事を彼らは理解していないのです。無力なのは宗教の名を借りた“漫画”なのです。
『シルバーバーチの霊訓③』
三位一体説が宗教と何の関係がでしょう。無原罪懐妊(聖母マリアはその懐妊の瞬間から原罪を免れていた事)が宗教と何の関係があるのでしょう。
『シルバーバーチの霊訓③』
処女降誕が宗教と何の関係があるのでしょう。贖罪説(イエスがすべての罪を背負ってくれているという事)が宗教と何の関係があるのでしょう。こうした説を信じた者は信じない者より少しでも宗教的な人間になるというのでしょうか。
『シルバーバーチの霊訓③』
地上の人間は肩書きやラベルや名称を崇めるのがお好きです。が、クリスチャンを名乗ろうと無神論者を名乗ろうと何の違いもありません。大切なのは実生活において何をするかです。仮にここに宗教など自分には無縁だという人がいるとしましょう。
『シルバーバーチの霊訓③』
神の名を唱えても頭を下げようとしません。しかし性格は正直で、人のためになる事を進んで行い、弱い者に味方し、足の不自由な犬が柵を越えるのさえ手助けしてやり、打ちひしがれた人々の身になって考え、困った人を援助しようと心掛けます。
『シルバーバーチの霊訓③』
もう一人は見たところ実に信心深い人です。あらゆる教義、あらゆる教説を受け入れ、信仰上の礼儀作法には口やかましく気を使います。しかし心の奥に慈悲心は無く、生活の中において何ら人のためになる事をしません。前者の方が後者よりはるかに宗教的人物といえます。
【過去コメ】僕は守護霊様の導きに従い、果てしなく読書してきました。それだけでも十分霊的知識の理解を深める事ができましたが、今こうして“抜粋”する事でさらに内容を復唱し、さらに×10 理解が深まっていくのを感じます。勉強して無駄な事なんて何もないと自らの体験を通して心底実感するのです(祈)