インペレーターの身元について、モーゼス再度の要請

[この時期の私の精神状態はいかなる種類の現象にも満足できなくなっていた。私を支配している影響力は相変らず強烈で、私が何をやろうとしても満足を与える結果をもたらしてくれなかった。

そして私をしきりに過去を吟味するよう、そしてそこからまとまった見解を得るように仕向けるのだった。私の背後で何が行なわれているのか、当時はまるで理解できなかったが、今にして思えば、それは私の霊的教化の一環であった。

私は幾度も幾度も過去を徘徊させられた。そして、それまでの通信の内容をあらゆる観点から吟味し、再びそれをバラバラに分解してしまうことを余儀なくされた。昼も夜も心の安まることがなかった。

それほど、私を支配した力は強烈だったのである。私の心がこの通信以外のことを思うのは、わずかに教師としての仕事に携わっている時だけで、これだけは一切邪魔されることはなかった。

そこで私は自分で厳律をもうけた。それは通信に関わる問題を考えるのは日課を終えてから、ということで、これはここ10年間守りつづけている。日課を終え、さて、と思うと、とたんに私の心は通信の問題に襲われるのだった。

さんざん考え抜いたあげくに、私は、これまでインペレーターが相手にしてくれなかった問題を、これ以上いくら蒸し返しても無駄であるとの結論に達した。インペレーターの頑固な態度には何か特別の意味があると見たのである。

私はインペレーターの要求を何ひとつ拒絶したことはなかったが、逆にインペレーターは、意味がないと思われることは完全に無視する態度に出ていた。が、この目に見えない知的存在が一体何者であるかについて、私なりの得心を得るための証拠を要求する権利が絶対にあると考えた。

それによって自分が決して自分の空想や妄想、あるいは私を騙そうと企む一団によって弄(もてあそ)ばれているのではないとの確信が得られると思ったのである。

そこで私は率直に私の苦しい心境を述べ、それが今だに相手にされていないこと、私から手を引くかもしれないとの脅(おど)しは、事を悪化させるばかりであると述べた。

さらに私は、これからも待つ用意があること、これまでの通信を吟味するつもりであること、そしてこれ以後に付け加えてくれるものがあれば、それも読んで吟味したいとも述べた。

しかし同時に、身元についての得心が得られるまでは、これ以上先へ進むわけにはいかないとも断言した。私の態度に対する非難に具体性がなく曖昧であること、そして私が置かれている精神状態は、あのような表現では正しく表現されていないと指摘した。

また、イエスが“しるし”を見せろとの要求を全部拒絶し、自分の言葉だけで十分であると述べたのは確かに重要なポイントではあるが、これを引き合いに出すのは危険ではないかとも述べた。

総引きあげの件についても、そんなことをすれば、それはこの私を、不信とは言わないまでも、半信半疑の状態のまま放置することであり、結果は事態を私自身の手に負えない混乱状態に陥れることになるのみであること、何とか収拾がつけば為になる要素もあるかも知れないが、そうでなければまずもって無用であり、無益であり、そんなことをしても無駄であると述べた。すると、すぐに返事が来た – ]

総引きあげの警告の意図

友よ、そなたの述べたところを吟味してみて、われわれもそなたの言い分に妥当性を認めたく思います。われわれがあのような厳しい言葉で責めたのは、情報を得たいというそなたの欲求そのものではなく、われわれに応じきれない条件を強要するその心の姿勢です。

また、そなたのしつこい反抗的態度、少なくともその時のそなたの不安と不信の念がわれわれに与える印象を、ぜひそなたに知らしめたいと考えたのです。あのような乱れた精神状態はわれわれの妨げとなるからです。

われわれには果たさねばならない使命があります。いたずらに無為に過ごし、貴重な時と機会を無駄にするわけにはいかないのです。為さねばならない仕事があるのです。何としても果たさねばならないのです。そなたのサークルがだめとなれば、他のサークルを通じてでも果たさねばなりません。

われわれが総引きあげの意図がある旨を述べたのは、要求を満たしてくれなければ先へ進めないというそなたの言い分を受け入れたからにほかなりません。われわれの側として、そのような要求に応じるわけにはいかなかったのです。それで総引きあげの必要を感じたのです。

われわれとしても、せっかく築きあげた関係を打ち切り、辛苦の中に成就してきた仕事を1からやり直すことは、もとより望むところではありません。将来はそなたをいっそう強く支配することになるかも知れません。休息と反省とがわれわれとそなた自身にとってよい薬となるかも知れません。

今はひたすら瞑想し、交霊会は滅多に催さない方がよい。よくよく真剣な要求でもないかぎりは、われわれは応じません。これまでに述べてきた以上のことを付け加える第意図意図も、まったく持ち合わせません。そなたが要求している条件も感心しません。

そのような条件がひとつ増えるごとに環境が変化し、それが余計な心配と手間の原因となります。好都合をもたらす見通しでもあれば文句は言いませんが、この際はその見通しもなく、それゆえ、そなたの提案に同意するわけにはいかないのです。

そなたが霊媒となって行なうすべての物理的実験を、これ以後絶対に禁じます。それによる肉体的消耗にそなたは耐えられないからです。昨今はあまりに物理的現象に重きを置きすぎています。現象はせいぜい副次的な意味しか持ちません。しかもそなたは、他のサークル活動にも顔を出すという危険を冒している。

すべて差し控えてもらいたい。いたずらに進歩を遅らせ、ついには危害と落胆をこうむるのみです。そのような手段では、そなたの益になるものは得られません。これまではあえて出席を阻止することまではしませんでしたが、これ以後は阻止しなければならないことを承知されたい。

われわれとの仕事を継続するかぎりは、他のサークルの影響は排除してもらわねばなりません。これは大切なことです。排除してくれなければ、われわれの仕事はますます困難となり、他の霊にそなたが憑依される危険性もあります。

その霊たるや、そなたがもしもその本性を知れば、そなたの方から逃げ出したくなる類のものであり、およそわれわれと仕事を共にできる性質(たち)のものではありません。

そなたの霊能が他のサークルの霊にとって役に立つと思うのは誤りです。われわれはあえて阻止します。そのような方法ではそなたの求める証拠は得られないし、他の霊媒の為にもなりません。むしろ逆効果です。そのようなことにそなたが使用されるのを見過ごすわけにはいきません。

身元の証明を再度拒否

そなたが持ち出した問題について、今はこれ以上深入りしません。もしもわれわれがそなた本来の実直さと忠節を認めていなければ、とうの昔に、これほど実りのない苦労は中止していたことでしょう。

今少し賢明であれば行なわずに済んだであろうことを、そなたは無知ゆえに行なってきました。そなたの同志たちも、われわれが期待したほどには援助になっていないが、彼らにも、そしてそなたにも、できるかぎりの益をもたらしてきたつもりです。

しかし、こうした問題においては、われわれの力にも意志にも、限界があります。しかも、全体的にみて、そなたに相応(ふさわ)しくないものを押しつけることになれば、われわれの側に配慮が足らなかったことになります。

これよりのちも援助することになることでしょうが、差し当たってこの時点では、これ以上のことはできかねます。新しい試みをするつもりもありません。
これ以上無益な時間と労力とを費すわけにはいきません。無益であることを、そなたの状態をみて悟ったのです。そなたの言説を聞けば、少なくともそなたの知力はわれわれの仕事の本質を理解していないことがわかります。

大前提として要求している例の実験(1)には応じられないし、応ずる気にもなれません。そのようなことで確信が得られるものではなく、神の使徒であることの保証が得られるものでもありません。

そのような要求に応じても、そなたはまた新たな要求を突きつけてくるにきまっています。確信というものは、そのような物理的手段によって確立されるものではないのです。

それよりも、これまで為されてきたことをよく吟味するがよい。そなたは目の前に提出されたものを脇へ押しやっています。そなたが得心のいかないものを率直に拒否すること自体、少しも非難はしません。が、拒否されてしまえば、もはやわれわれとしては、他に取るべき手段を知りません。

ゆえにそなたの選択は永遠の重要性を秘めていることになるのです。そして、そなたはすでに最終的選択を行なっているやに察せられます。それが果たして賢明なる選択であるか否かは、時が証明してくれるでしょう。そして、その時に、その選択の誤りを幾分かは修正することができるかも知れません。

が、願わくば今、細心の反省を行なうことによって、その選択を撤回してくれることを祈り求めるものです。

†インペレーター

[翌10月4日も引き続いて通信が来た。その中にあまりに私的な内容のものが含まれているので、その部分は公表を控えさせていただく。が、全体として極めて威厳に満ちた言葉で綴られ、しかも最初は祈りの言葉で始まっている。

内容的には結局これまでの主張のくり返しであるが、部分的には私の要求の幾つかに譲歩を示している。とくに総引きあげの件についての譲歩は印象的で、純粋な人間的理性がにじみ、これまでの通信に終始一貫してみられる理路整然とした論調の典型を思わせるもので、幾分か私的な色彩があっても、そのまま紹介する。

きわめて読みやすい文字で、しかも猛スピードで書かれ、書き終えるまで私にもその内容がわからなかったほどである。]

他界した友人による仲裁

神の僕(しもべ)として、また使者として、そなたの指導と守護の任にある者として、わたしは、そなたに神の御恵みの多からんことを祈ります。至聖にして慈悲深き父なる神の祝福のあらんことを。目にこそみえなくとも、そなたを包む力強き神の御力が、何とぞそなたを良きに計らい給わんことを。

われわれは今、これ以後の計画をすべて放棄する前に、ぜひともしばしの間を置くようにとの要請を受けております。とくに〇〇氏 [他界したばかりの私の友人で死後すぐに通信してきた](2)から強い要請がありました。

彼は信仰問題でそなたが置かれている苦しい立場について、われわれより生々しく、かつ強烈な印象を有しているのであろう。

われわれの仕事は、もしそなたが駄目であれば別の者を通じて成就することになろうが、それはそれとして、ともかくしばしの猶予を考慮してやってほしい – そなたほどの証を手にする者が最後まで完全な確信に抵抗しうるはずはない、というのがその言い分である。

そなたの視点、いかに公明正大な精神も免れ得ない偏見、それに、交霊につきものの様々な困難 – こうしたものも考慮せねばなりません。そなたには疑わしく思えても、われわれはそ

の真相を知り尽くしているがゆえに、そなたのその頑固な態度がいかにも合点(がてん)がいかないが、それでもなお、われわれはそなたの疑念に率直さと現実味とを認め、それが、これよりのちの確信の可能性を示唆するものであろうとの希望を抱いております。

最後通牒についての弁明

これまでわれわれは、そなたの心が近づき難い雰囲気に包まれていないかぎり、そなたの悩みに答えてきました。が、あれほどの辛苦の末に結成したサークルも用を為さぬほどに調和を欠くに至った以上、もはやわれわれの計画も挫折し、これ以上の努力の意味なしと判断せざるを得ませんでした。

物理実験のしつこい要請はわれわれの望むところとあまりに懸け離れていました。われわれはそのような目的でそなたを選んだのではありません。かりにそうであったとしても、そなたの身体をあのような現象で消耗させるわけにはいきません。

さなきだに激しい消耗を強いられる生命力と、絶え間なく動揺する身体的特質を考慮した時、とてもあのような実験を許すわけにはいきません。あの種の実験にはそれなりの体質を必要とします。それには、反対に精神的現象の不得手な、より動物的体質の者が適切です。

そなたを通してわれわれは、こうして“書く”手段によって、述べたいことを実に効果的に伝えることを得てきました。が、振り返ってみるに、その大部分はそなたの抗議への対応に終始し、サークル活動も、その所期の目的は今だに達成されぬままとなっております。

そうした中において、さらにそなたは、われわれが不可能かつ不必要とみる実験を要請してきました。その折われわれは、これを、さらに新たな要求を突きつけてくる先がけにすぎないと受けとめたのです。

そして、そなたはまだわれわれのこれまでの言説を十分に吟味していないと見ました。その上われわれは、証拠ならばそなたが愚かにも要求しているもの以上のものを、われわれにとっての好機を見計らって出すこともできたのです。

そこでわれわれは、いっそのことそなたがこの仕事を中止すれば、言い換えれば、われわれがこの通信の仕事からしばし引きあげてしまえば、多分そなたの心はおのずと過去へ向かい、そこから正しい教訓を学んでくれると判断したのです。

が、別な見方もできます。つまり、たとえわれわれが引きあげたところで、そなたの霊的能力まで消すことはできない。われわれが使用を中止するということにすぎません。

するとその霊力が他の霊によって牛耳られ、悪だくみと虚偽の侵入を許し、ついには、われわれの仕事が完全に挫折してしまうことになりかねません。その危険を無視するわけにはいきません。もしもそなたをそのような状態に放置すれば、そなたが懐疑から不信へと陥るであろうことも十分承知しています。

直感的判断力よりはるかに幅をきかせているそなたの論理的判断の習性のために、恐らくそなたは、それまで毎日のように出ていたものが出なくなれば、その存在を信じなくなるでしょう。印象が薄れ、やがて消滅していくことでしょう。

インペレーター、揮身の説得と祈り

そこで、困難を回避する唯一の道は辛抱強く待つことであるように思われます。将来の結果を予言することはできませんが、そなたの前に2本の道が横たわっていること、そのいずれを選ぶかはそなたの理性が決めることであること、この2点に間違いはありません。

われわれにも選択を迫りたい希望はあるが、それを強要する権利はありません。責任はすべてそなたにあります。選択に誤りがなければ、そなたの魂は進歩と啓発の道を歩むことになります。その道を拒絶すれば、当然、暗黒と退歩の道を進むことになりましょう。それもこれも、そなたの判断次第で決まることです。

われわれとしては、これまでの主張を一語たりとも削るつもりはありません。むしろ、さらに強調したいところです。その実相については、そなたもこののちいっそう明確に理解することになるでしょう。

が、今は神の使徒としてのわれわれの存在と、これまでの教説について、真摯に、祈りの心を込めて細かく吟味してもらいたい。過去を振り返ることです。教説を吟味することです。記録を分析し、その中からそなたなりの結論を引き出すのです。

その間の進歩の足跡に注目していただきたい。神より出された教義がいかに入念な配慮によって仕上げられてきているか、その過程に着目されたい。そして、その過去を踏まえて将来への展望を広げてみてほしい。

そなたは今まさに重大な境界線上に立っていること、魂の進歩の前に取り除かねばならぬものが数多くあること、建物を構築するに先立って地ならしの工事が必要であること、永遠がそなたを待ちうけていること、われわれが真理の扉を開くカギを授けんとしていることを認識されたい。

どうか、2度と訪れぬこの機を拒否する前に、しばしの間を置いてみられることを切望する。拒否したが最後、それは暗い影となって永遠にそなたの魂につきまとい続けることであろう。受け入れれば、それは魂の宝となって、永遠にその輝きを増し続けることであろう。

祈れ!父なる神に祈るのです!そなたを守り、われわれをして引き続きそなたを導くことを得さしめ給わんことを祈るのです。冷ややかにして陰気なる地上の雰囲気より脱し、そなたを導かんとして待機している明るい霊との交わりを求めて祈るのです。

そなたほど厚き看護を受けている者はいないものを、その看護をそなたほど無益にした者はいないということになっても構わぬのであろうか。そうならぬよう、また身体的にも霊的にも邪(よこしま)なる影響力から守られるよう、そして又、より高き知識の海原へ、さらにより確固として揺るぎなき信頼へと導かれるよう、そなたとともにわれわれも祈ろう。

父よ!永遠にして無限、全知全能なる神よ!子なるわれらに、御前に近づき、願いごとを述べさせ給え。きっとお聞き届けくださると信ずるゆえにほかなりませぬ。

永遠なる神よ!何とぞわれらを妨げんとする者たちと障害物とを取り除き給え。疑う心に一条(すじ)の光を照らされ、暗き心の片隅を明るく照らし、潜み隠(ひそ)れる敵対者を払いのけ給わんことを。

われらの労苦に慰めの愛を授け給え。労苦が大なれば、それだけその愛も大なるを要します。仕事が大なれば、それだけその愛の力も大なるを要するのでございます。

全能なる神よ!何とぞ御力を授け給え。われらの讃仰の御しるしと致させ給え。御前に感謝と崇敬の念を表明し、心からの敬慕の念を捧げさせ給え。

御身の使者たるわれらより、御力のしるしである宇宙を通じて、御身に栄光と祝福と名誉と讃美の祈念を捧げ奉ります!

†インペレーター

[この通信が事実上これまでの一連の議論の締めくくりとなった。むろん、これで私があっさりと確信に至ったわけではない。しばしの議論の小休止、とくに霊界との関係を全面的にストップしたことが、私にこれまでの通信の経過を自由な気持で振り返らせることになった。

それまでの霊的影響力を直接的に受けなくなってからは、以前よりも冷静に判断できるようになり、通信の実直さと誠意と真実性に対する確信が徐々に芽生えてきた。というよりは、信仰心が実感を伴って深まり、知らない間に懐疑心が薄れていったと表現したほうがよいであろう。]

[注釈]

(1)他の霊媒を通じてインペレーターがしゃべり、モーゼスを通じて働きかけている霊と同一であることを証明し、そうすることで、その存在が客観的存在でありモーゼスの第二人格でないことを証明するということ。

これは条件次第では可能なことで、シルバーバーチも1度だけ、エステル・ロバーツという女性霊言霊媒を通じてバーバネル夫妻に語りかけたことがある。

が、この場合、ロバーツ女史の背後霊団もシルバーバーチの霊団と同じスピリチュアリズムの大計画の一環を担った霊団であり、しかもバーバネルはそれまでにロバーツ女史の交霊会のほとんど全部に出席して、そのメモを取っていたほどの親密性があったからこそ出来たことである。

(2)モーゼスのサークルの数少ないメンバーのひとり。よほど霊的知識を理解した人であろう。そうでないと他界してすぐに通信を送ることはできない。この重大な時期に他界し、しかもその仲裁のおかげで霊団の使命がどうにか完(まっと)うできたことを考えると、インペレーターよりさらに霊格の高い霊で、この霊団の総監督であるプリセプターの配慮によるものと察せられる。

「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†■2023年10月11日UP■
「身の安全」とにかく僕の身に危機が迫っていて霊団はそれを回避させるつもりのようですが(祈)†
どんな死に方をしても霊体には一切ダメージはありません。飛行機事故だろうと爆死だろうと溺死だろうと。そもそも肉体と霊体では振動数が違いますので。しかし、いわゆる自然ではない急激な死に方をすると、もともと人間は肉体からそういう急激な離れ方をしないようになっているので、帰幽後に霊体(幽体)の調整が必要になり、場合によってはそれが長くかかる事があるそうです。つまり日航ジャンボ機墜落テロで500人もの国民が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁(美智子)の手によって殺されましたが、それと同じようにこの強姦殺人魔どもは僕、たきざわ彰人の事もだまし討ちで飛行機に乗せて墜落死させようと画策している事は十分に考えられる事です。そうなった時、僕は肉体から自然ではない急激な離れ方をする事になり(かといって霊体になんのダメージもありませんが)調整が長くかかってしまって霊団が僕の帰幽後にやらせようとしている指導霊の仕事に支障が出てしまうから結果殺されるとしてもそういう急激な殺され方にはならないようにしている、という事かも知れません…続きを読む→
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†■2023年8月9日UP■
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†
霊界とは完全なる自己責任の世界であり、物質界生活時に果たさなかった仕事の責任を完全なカタチで取らされるようになっています。その責任を果たさないと高い境涯に向上する事は許されません。「身元の確認はしましょう」と言ってきたアナウンサー的男性も、天皇一族が強姦殺人魔だと知っていながらコイツらの事を善人だというニュースを流しまくり、自身も善人を装って物質界人生を送ったその自責の念、後悔の念が霊的向上の阻害となっており、その罪障中和の目的で「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する僕の背後霊として仕事をする事になった男性ではないのか。僕はその可能性は十分にあると考えるのです。ちなみにテレビ業界には今回の「身元の確認はしましょう」の男性と同じように、心の中ではよくないと知りながら、仕事を失わないために「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を善人であると洗脳ニュースを流し続け、そのおこないに後悔し心を痛めている人間がスゴイたくさんいると思っているのです…続きを読む→

見えない事はないのですが細かいところが見えにくくなっていまして、いよいよ僕も老眼がやってきています。猛烈に悲しいですが、しかし僕にとって絵を描くのをやめる事は生きる事をやめるのと同義ですので、以前入手したものの気に入らなくて使っていなかった拡大鏡を急きょ取り出して、それをかけて絵を描いてみるとまぁまぁサクサク描けるので、それで描いています。

葛飾北斎氏の晩年の作品はキャンバスがデカいモノが多いようですが、これはやはり老眼が影響していたからではないかと僕は思ったりするのです。細かいところが見えにくくなっていたので細かく描かずに済むように作品自体がデカくなっていった、という事なのではないか。つまりそこまでして描き続けようとしたという意味で、その執念がスバラシイと僕は思ったりするのです。

アナログ絵379、間もなく2ページの線画完了中、止まらず3ページに突入しますが、もう山のアタック準備をしないといけません。節約のためにロングドライブ時に一切コンビニに立ち寄らないという事をやっている関係で、事前に家でアレコレ準備しないといけなくなっており時間がかかるのです。

この節約の成果があともう少しで数字として表れてくると思うので、そこからいよいよある脱出アイデアを実行に移すつもりです。これはもう霊団に何と言われようとやります。絶対にこれ以上閉じ込められるのを認める訳にはいかないのです。早く描き終えてテキストの作業に戻らなければ。帰幽までにやらねばならない作業が殺人的に控えている(祈)†

「行動には動機がある」邪悪の宇宙人の行動の動機が僕にはどうしても分からないのです(祈)†■2024年6月19日UP■
「行動には動機がある」邪悪の宇宙人の行動の動機が僕にはどうしても分からないのです(祈)†
まず罪もない、抵抗する術もない子供たちを次元間移動で拉致している時点でこの宇宙人たちが邪悪である事は明白です。そこに何ら正当化する理由はなく、このおこないをしている宇宙人が「霊格が極めて低い」という事も証明されていると言い切ってイイでしょう。オカルティックな筋によれば邪悪な宇宙人は人類創世の時からずっと地球にちょっかい出し続けて現在に至るそうで、ひたすらに地球人の進歩向上を阻害する事を続けてきたのだそうです。古代の地球人類たちはそれが理解できず、そのトカゲのような姿の邪悪な宇宙人たちを「神」と思い込んでしまったという古代文献の記録も多数あるようです。で、この話も深掘りしません、僕の知識がまだ足りませんので。つまり邪悪の宇宙人たちは年数は分かりませんがシュメール文明だの何だの、イヤそれよりもっと前から、それこそ1億年前とか、そういうレベルで地球にちょっかい出し続けている邪悪な者たちという事になるのですが、ココで僕は分からなくなる、頭が混乱するのです。そこまでして邪悪のおこないを続けたその先に「光」がない事くらい、自分たちの種族の幸福、向上、進化がない事くらい、1億年も生きていれば悟れるはずだろう…続きを読む→
「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†■2024年7月10日UP■
「ハァァよかったぁ、ってなります」耐え抜けば帰幽後にそのようになるという意味です(祈)†
僕は至ってまともな事を言っているだけだと思っていますが、帰幽後に僕に下される判断はそういうモノではないのでしょう、かなりキビシイ状態にさせられるのでしょう。それは了解してます、全てこの身に受けるつもりです。が、それでもなおあんたたちの導きに方向性はヒドすぎる、到底許容できないと思っているのです。「もうのむ訳にはいかない」「これしかないんだと」僕が強硬姿勢なら霊団も強硬姿勢で、もうアキトくんのワガママに折れる訳にはいかない、アキトくんの肉眼には全体像が映っていないから、この道の先にどれだけの悲劇が待ち受けているかを理解できない。我々の霊眼はアキトくんの未来の悲劇が見える。今はアキトくんは理解できなくてもいつかは必ず理解できる時が来るから、アキトくんがどんなに嫌がっているとしてももうこの道を進ませるしかないんだと、霊団がそのように言ってきてます。【い】【い】【か】【げ】【ん】【に】【し】【て】【く】【れ】【!】確か人間には「自由意思」というモノがあったはず。霊団はその自由意思を完全に無視する事を決定したとでもいうのか。それは霊界の決まりに完全に反する事なのではないか。そんな事が許されていいのか。ただ、裏返すとそれくらい僕の置かれている状況が危機的という事なのかも知れませんが…続きを読む→
「ロスタイムをここまで利用するのは普通では有り得ない」もう十分だ帰幽にしてくれ(祈)†■2024年7月17日UP■
「ロスタイムをここまで利用するのは普通では有り得ない」もう十分だ帰幽にしてくれ(祈)†
そして何の仕事をやらされるのかと思えば(その仕事内容を検討する霊界で催された会議に僕も霊体で参加しています。もっともその会議の内容は全く物的脳髄で反芻できませんでしたが)「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体および奴隷の女の子の悲劇の惨状の情報拡散というとんでもない仕事だったのです。霊界高級霊の方々は僕の心の中が丸見えです、僕より僕の事が分かっています。つまり僕なら物質界の邪悪の脅迫に屈せず仕事を続行できると踏んでこの仕事をやらせたのです。そして事実、僕はイエス様を筆頭とした霊界高級霊の方々の期待通り(なのかどうか今となっては疑問ですが)天皇一族が強姦殺人魔であると徹底的に拡散していきました。その情報拡散の中でSNS(Twitter)のアカウントをどれだけ消されてきた事でしょう、もう覚えていないほどやられてきました。そしてこれ以上消されないためにWordPressを開始したのです。つまりどれだけヒドイ目に遭わされても全く使命遂行をやめるつもりがなかったという事です。その部分は霊団の予測的中だったという事です…続きを読む→

眼前に残されている作業量を考えればボケっとしている時間などない、シャレじゃなく本当に帰幽までに全ての作業を完了させられない可能性が濃厚のため、作業時間を増やす事、作業スピードを上げる事は至上命題なのですが、言ってその通りにできれば誰も苦労しない訳で…実際はなかなかそうはなりません。

先週、山のアタック中に霊団がまぁまぁ重要な事を霊聴に言ってきて、山ではメモできないので忘れる可能性が高いのですがその時は何とかゴールまでその内容を覚えていて、車内のクロッキーにメモったという事がありました。

山で霊団がピーチクパーチク言ってくる事は全然珍しい事ではなくむしろ日常茶飯事で、山でメモできないのはやはり使命遂行的に宜しくないという事を再認識しました。実は以前は「防水ノート」をちゃんとザックに入れていたのですが、全く使う機会がなく、使ってないのにザックに入れていただけでボロボロになって捨ててしまったという事があって、それきりザックにメモ帳を入れずにいたのです。

しかし防水ノートは高いけどこの安いメモ帳ならダメになってもイインジャネ、という事で先ほど入手しました。これをザックに入れて霊団が何か言ってきた時に備えます。ここまでやってるのに何ひとつ事態が進展、前進しない事に猛烈に頭にきますが(たぶん一生何もなく終わると予測)

しかし僕はできる限りの事をやった、物質界の状況が改善されなかったのはあんたたち(霊団)の仕事が怠慢だったからだ、と帰幽後に言える状況にするために、僕レベルでできる事はしっかりやっておく必要があるのです。もっともこんな小我の自己保身など【神の因果律】の絶対的公正の前には跡形もなく吹き飛んでしまい、僕という人間がハダカ同然にされて真実のみが浮き彫りにされる訳ですが。

実は今日、同僚女性に「復刊」に関する説明をするシチュが発生し、復刊をあきらめざるを得なくなった理由を説明する事となり、改めて悔しさがこみ上げてくるのでした。その説明はブログでも書いています、コチラ↓

「復刊事実上消滅」「霊媒として機能する条件」について説明させて頂きます(祈)†■2024年7月3日UP■
「復刊事実上消滅」「霊媒として機能する条件」について説明させて頂きます(祈)†
「シルバーバーチ愛の摂理」より抜粋 ある日の交霊会で菜食主義の是非について問われて こんなことを言うとまたわたしは不評を買うことになるでしょうが、真実は真実として申し上げねばなりますまい。理想的な霊媒のあり方としては、アルコールや肉類、タバコ、その他、人体の質を低下させるものは極力控える方が霊媒の進化にとって良いに決まっています。地上にあっては霊は肉体を通して自我を表現するしかありません。となれば、その肉体の質が高ければ高いほど霊媒の表現力も大きくなる道理です。したがってその肉体を汚すもの、間違った刺激を与えるものは、いかなるものであっても霊にとっては障害であり良いものではありません。肉体は霊の宿なのですから。これでもうわたしの答えはお判りでしょう。動物の肉、タバコやアルコールによる刺激があなたの心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な能力の開発に益があるでしょうか。もちろん無いに決まっています。適度に摂取するのであれば害は少ないというのは当たり前の理屈ですが、理想を言うならば、霊媒は大地からの産物のみに限るのが好ましいと言えます…続きを読む→

さぁストーリーはカラーリングの作業がありませんのでわりと早くUPできると思いますので急ぎましょう。まずはココまで(祈)†

■アナログ絵376「モーゼスの霊訓 上」表紙UP。復刊させるつもりでいるからここまで描いているのです(祈)†■2024年6月10日UP■
■アナログ絵376「モーゼスの霊訓 上」表紙UP。復刊させるつもりでいるからここまで描いているのです(祈)†
まず上巻表紙には霊媒モーゼス氏を登場させました。モーゼス氏が物質界に残した「霊訓“Spirit Teachings”」は人類史上に残る金字塔である事に疑いの余地はありません。これほど素晴らしい仕事をやり遂げたモーゼス氏ですから今頃素晴らしい境涯で生活しておられる事と思いますが、しかしモーゼス氏も懐疑の念が尋常ではありませんでした。このモーゼス氏の疑いの気持ち、霊団に対する反発心に比べれば、僕がずっと霊団に反逆している事などまだかわいく思えてきたりもします。特に中巻は壮絶を極めます。僕は霊団がムカついてどうしようもないですけど霊的な事を疑った事は全然ないですから、その部分がモーゼス氏と違うかも知れませんね。僕の場合は毎日霊団が霊聴にピーチクパーチクインスピレーションを降らせてきますので、霊的なモノを疑うとかそういうレベルのお話ではないんですよ、もう完全に人生の一部、日常生活の風景ですので。モーゼス氏はインスピレーションというカタチで霊団とコミュニケートはしていなかったそうですが、自動書記はガンガン受け取っていたという事です。僕は逆で、インスピレーションはガンガン受け取っているが自動書記テストはどれだけ続けていても全く手が動いて文章が綴られる事はありません…続きを読む→

[この時点でいろんな霊からの通信が届けられた。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて、私の心に確信を植えつけるためということだった。その中のひとりに、著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実をその人の身内の人に知らせてもよいかと尋ねた。すると – ]

他界直後の通信は不可能

それは無駄であり、賢明でもありません。彼の身内の者は交霊の事実を知らないし、われわれが知らしめようとしても不可能でしょう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山でしょう。

とにかく今は身内の者に近づくことはできないでしょう。これは、後に残した地上の肉親と何とかして連絡したいと思う、他界したばかりの霊が味わう試練のひとつなのです。

大体において他界してすぐは、身内の者に近づくことはできません。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのです。自分からのメッセージが何よりも証拠として効果があり、かつ望ましかろうと思いすごし、その強い波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破ろうとしても破れない強い障壁をこしらえるのです。

霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時にはじめて、霊は地上へ近づくことが可能となります。このことに関しては、このあと改めて述べることもあるでしょう。

さて、そういう次第で、そなたの知人は今は血縁関係の者との連絡を断たれております。受け入れる用意のない者に押しつけてみても有害無益です。これは、われわれにもどうしようもない不変の摂理のひとつなのです。

理解力のない者に霊的知識を押しつけるわけにはまいりません。哲人でさえなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を、3歳の童子に説いてみたところで無意味でしょう。

もっとも、童子には実害はないかも知れません。が、不用意に押しつけることによって、われわれの本来の目的達成が阻害され、真理を授かるべき者が授からずに終ることにもなりかねません。賢明な者はそのような愚は犯しません。

受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りです。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試そうとする者たちの、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるでしょう。そのような法の逆進は許されません。そう心得ていただきたい。

直接書記の演出

[ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記(1)によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合、霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信用するわけにはいかない、と強く抗議した。するとインペレーターが答えた – ]

今ここで身元確認の問題について議論しようとは思わないが、そなたが指摘していることは容易に説明のつくことです。あの霊の身元についてはこのわたしが保証し、そなたも、少なくともわたしの言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記した霊が犯したものです。

そなたらが直接書記と呼んでいる現象は、今回はそなたのたっての要請に応じて行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはいません。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊の、いわば代書のような役をするのが通例です。

これには、多くの場合、数人の霊が携わります。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったとみえる。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回のように容易に説明のつくものばかりであることがわかるであろう。

[私の精神状態の乱れのせいで、交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかし時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしいと、それから出る音も調子はずれで、軋(きし)むのです”と言ってきた。

が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に、神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。1873年9月30日に次のような通信が届けられた。]

霊的向上を妨げようとする邪霊の存在

神経を休ませ和(なご)ませることが可能な時もありますが、神経の1本1本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶いません。

われわれとしてはほとんど手の施しょうがなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯となります。そのような状態の時は、われわれの世界との交信は求めぬよう忠告します。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。

そなたはこれより急速に進歩し、それが、あらゆる種類の霊的影響を受けやすくします。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企(たくら)みます。悪そのものは恐れるに足りませんが、それによる混乱は避けられません。

高度に発達した霊媒(霊能者)は、指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会への出席は避ける用心が肝要です。交霊会に危険はつきものですが、今のそなたの精神状態では2重の危険性に身をさらすことになります。催す時は忍耐づよく、かつ受け身の精神で臨んでもらいたい。そうすれば、そなたの望む証拠も得やすいでしょう。

[私は、たとえそういう態度で臨んだところで、結局は私自身の判断力で判断するほかはないのではないか、と述べた。さらに私は、疑問を解くカギになると思える事柄を2、3指摘した。私の目には、地上で名声を謳(うた)われた著名人からの通信 – それも私をただ惑わせるだけだったこれまでの通信よりも、その方がよほど決定的な重要性をもっているように思えたのである。

どう考えても、世界的な大人物が、私ごとき一介の人間のために、人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやってくるとは思えなかった。そこで、むしろ最近他界したばかりの、生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす、何か良い証拠を出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。

さらに私は、スピリチュアリズム思想の拠(よ)ってきたる淵源と規模との問題点、とくに霊の身元の問題について、明快にして総合的な説明を切望した。私は、これまでの言説のすべてを真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を、完ぺきで間違いないものにしてくれないと困る、と述べた。

その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいる、といった程度のこと以外には、証言らしい証言は何ひとつ見当たらなかったのである。

それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力してみても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して、10月1日に次のような通信が届けられた – ]S

懐疑心と猜疑心とは違う

全能の神の御恵みの多からんことを!

そなたが提出した問題についてわれわれがそのすべてに対応せず、また議論しようともしないのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完ぺきな証拠を持ち出すことが不可能だからに過ぎません。

もっとも、多くの点においてそなたが率直で汚れのない真情を吐露してくれたことには、感謝の意を表したい。が、それでもなおかつ、そなたの心の奥底にわれわれの言説に対する不信と、われわれの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけにはいきません。

これは、われわれにとって大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられます。疑うこと自体は決して罪ではありません。ある言説が知的に受け入れられないことは、決して咎められるべきことではありません。

が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物にすぎない勝手な判断基準に照らそうとする態度は、悲しむべき結果に終るであろうし、そこに、われわれの不満の根源があるのです。

そなたの疑念にはわれわれも敬意は払います。そして、それが取り除かれた時はそなたとともに喜ぶことでしょう。が、それを取り除こうとするわれわれの努力を“あたら”無駄に終らせる態度は、われわれとしても咎めずにはいられないところであり、非難するところです。

その態度はそなたを氷のような障壁の中に閉じ込め、われわれの接近を阻みます。またそれは、率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄ともいうべき暗黒地帯へと引きずり込みます。

そうした意固地な心の姿勢は邪霊による破壊的影響力のせいであり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねません。

われわれは、そなたからそのような態度で臨まれるのはご免こうむります。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれわれの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪(たま)りません。

そなたは何かといえばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭におき、その視点から現在を見ようとする傾向がありますが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉が、われわれの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。

イエスが最後まで自分の言葉以外のしるしは与えなかったことは、そなたもご存知であろう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索しないでおきましょう。不可能だったのかも知れません。不必要とみたのかも知れません。

精神的土壌がそれを受け入れない状態にあったのかも知れません。今のそなたがまさにそれと同じ状態です。議論を強要する時の、その荒れた気性そのものが、われわれの適切な返答を阻んでしまうのです。

イエスの純心さ

イエスの場合も多分それと同じ事情があったのでしょう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、おのれの知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順な、心のか弱い人々、真理ひとつ拾うにも、おどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態でもたらされるものであるかも詮索しない、忠実にして真っ正直な人たちでした。

イエスのその態度は生涯変わりませんでした。その姿勢は、まさに父なる神が人間に対するのと同じでした。神の真実の恩寵に浴するのは、おのれの我が儘を押しつけておいてそれがすぐに満たされないと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってもなお“父よ、どうか私の望みよりも、あなたの御意(みこころ)のままに為さらんことを!”(2)と祈る、謙虚にして疑うことを知らない、敬虔な平凡人です。

霊団としての最後の弁明

これが神の御業(みわざ)のすべてを支配する摂理です。それを具体的にキリスト教界に見ることは、今は控えます。ただ、ここで指摘しておきたいことは、そなたの頑固(かたくな)な心の姿勢、こうと決めたら1歩も退こうとしない独善的議論の態度は、そなたにとって何の益にもならないということです。

不本意ながらも、われわれはその姿勢を譴責(けんせき)せねばなりません。過ぎこし方を振り返ってみるがよい。われわれとの関わり合いの中で体験したもろもろの出来事を思い返してみるがよい。

そなたの生活全体に行きわたっている背後霊の配慮について、そなたは何ひとつ知りません。

そなたの心に向上心を育(はぐく)ませるための配慮、邪(よこしま)な影響から守り通すための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解から救うための配慮 – – こうした目に見えない配慮について、そなたは何ひとつ知りません。しかし、その努力の証は決して秘密にしてきたわけではありません。

このところ、そなたのもとを離れたことは一日とてありません。われわれの言葉、われわれの働きかけは、そなたの知るとおりです。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺(あざむ)いた言葉があったであろうか。

われわれの態度に、卑劣なもの、利己的なもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われわれにとって不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対して侮辱的な言葉、愚かしい言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣な策略、浅ましい動機によってそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道から引きずり下ろすような行為をしたであろうか。

要するに、われわれがもたらした成果から判断して、果たしてわれわれの影響は“善”を志向するものだったであろうか、“悪”を志向するものだったであろうか。神を志向するものだったであろうか、その逆を志向していたであろうか。

そなた自身は、それによって“改善”されたと思えるであろうか、それとも“改悪”されたと思えるであろうか。無知が深まったように思えるであろうか、無知から救われたように思えるであろうか。少しでも“まし”な人間になったように思えるであろうか、“つまらぬ”人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じなくなったであろうか。

われわれの存在そのものについて、あるいはわれわれの教説について、誰が何と言おうと、筋の通ったものであれば、われわれは少しも苦にはしません。聞く耳をもつ者すべてに、われわれは公然と主張します – われわれの教説は神の教えであり、われわれの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われわれは、イエスがそうであり、みずからもそう述べているように、公言した教説については、必ずその証となるべき“しるし”を提供してきました。当然納得してしかるべき一連の証拠を提供しました。これ以上付け加えようにも、もはや困難なところまで来ています。

霊力の証を求めるそなたの要求に対しては、決して労を惜しむことなく応じてきました。それどころか、よりいっそう顕著な現象を求める同志の要求を満たさんとして、そなたの健康を損ねることまで行ないました。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれわれの高い視野から判断して望ましいとみたものは、すべて、喜んで応じてきました。

確かに、要求を拒否してきたものもあることは事実です。が、それは、そなたが無理な要求をした場合、ないしは、そうすることがそなたにとって害になることを知らずに要求した場合にかぎられます。そなたとは視点が異なることを忘れてはなりません。

われわれはそなたよりはるかに高い視点から眺め、しかも、そなたよりはるかに鋭い洞察力をもって眺めている。ゆえに、人間の無知と愚かさから出た要求は拒否せざるを得ないことが、しばしばあります。もっとも、そうした正当な理由によってわれわれが拒否してきたものは、要求に応じて提供した証拠に比べれば、微々たるものにすぎません。

その証拠は、地球に属さないエネルギーの存在、慈悲ぶかく、崇高にして尊い霊力の存在を証し、それがほかならぬ神の御力であることを証すに十分です。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、かつ又、われわれの身元についての言説を真剣に疑(うたぐ)る…。

どうやら、そなたにとっては、これまで崇めてきた尊い歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが、よほど引っかかるのであろう。

そこでそなたは拒絶し、無知からとはいえ、無礼にもわれわれを詐称者である – 少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善人ぶったことをしているのである、と非難する。

が、そう批判しつつも、そなたは、われわれが詐称しなければならない根拠を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれわれが地上に派遣された動機を見出し得ず、人間にとっての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

モーゼスへの酷しい譴責と警告

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われわれもその点は譴責せざるを得ません。あえて言おう。それはそなたにとって、もはや“罪”ともいうべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことは、われわれはご免こうむる。そのような視点から要求する証は提供するつもりはありません。

われわれは、もはやこれ以上1歩も譲歩できないギリギリの限界にきている。これまでそなたの前に披露してきたものを侮(あなど)るのは結構であるが、それによって危害をこうむるのはそなた自身にほかならないことを警告しておきます。

過ぎこし方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠を、ただの幻想として片づけることのないよう警告しておきます。

今はこれ以上は述べません。ともかくわれわれとしては、そなたのような判断を下されることだけはご免こうむります。われわれは当初、こうした霊的教訓の受信者として、そなたを最適任者として選んだ。

願わくば現在の無知と愚かさとから一刻も早く脱し、われわれがそなたを選んだ時の、あの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを切望する。そうしたわれわれの願いを、そなたが持てるかぎりの能力と率直さとをもって検討しなければなりません。

今後のそなたとの関係も、それによって決定されます。ぜひとも公正に、そして神に恥じぬ態度で判断してもらいたい。決して焦ってはなりません。早まってはなりません。事の重大性と、その決断のもつ責任の重大さを認識した上で決定されたく思います。

その間、新たな証を求めてはなりません。求めても与えられないと思っていただきたい。他のサークルとの交わりも避けるよう警告しておきます。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。いたずらに迷いを増幅させ、それがわれわれをいっそう手間どらせることになります。

やむなく生じた問題に関しては、われわれから情報を提供しよう。また、われわれのサークルでの交霊会は、決して勧めもしませんが、あえて禁止もしません。ただし、たとえ開いても、新たな証拠は出しません。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばなりません。

かつてわれわれは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがあります。このたびも、改めて同じことを述べておきます。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで、時には参加いたしましょう。その条件については後で述べます。が、なるべくならば当分は催さない方がよい。

こう申しても、決してそなたをひとりに放置しておくということではありません。そなたは常に2重3重に守られていると思うがよい。これにてひとまずそなたのもとを去りますが、祈によってそなたを守りつづけます。

みずからを律しきれずにいるそなたに、全能の神の導きのあらんことを!

†インペレーター

[注釈]

(1)モーゼスは“まえがき”の冒頭で自動書記のことを“直接書記”とは区別する必要があると述べたり、直接書記の専門霊媒ヘンリー・スレイドを引き合いに出したりしていることからも窺えるように、この現象には特別の関心を抱いていて、Direct Spirit Writing(霊による直接書記)という論文調の書物を出している(1878)ほどである。

その中にはいろんなタイプの例が紹介されているが、モーゼスらしく、自分自身の体験は述べていない。が、モーゼスの死後、スピーア夫人によって公表された本書の続篇 More Spirit Teachings の中に興味ぶかいモーゼス自身の体験が出ているので、それを《参考資料》として巻末に紹介しておく。

(2)ルカ22・42

「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†■2023年11月29日UP■
「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†
間もなく僕が公言している内容を一般の方々が恐怖に縮こまる事もなく暗殺の危機におびえる事もなく当たり前のように公言する時代がやってきます。なぜなら人々を永遠に脅迫で押さえつける事は絶対にできないからです。最終的には正義が必ず勝利を収めるようになっているのです。なぜなら僕たちの心には【神】がプレゼントして下さった「理性、良心」が具わっているからです。その理性、良心がイヤでも人々を正しい行動に駆り立て、遅かれ早かれ邪悪は滅ぼされるのです、単なる時間の問題です。ただ僕の希望としては「いつか皆さまも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言するようになる」のではなく、できれば今すぐに公言して頂きたい気持ちです。僕の使命遂行をご覧の方々の多くが「たきざわ彰人ガンバレ、強姦殺人魔をやっつけてくれ」と他力本願的に思っておられるかも知れませんが、イエイエ僕という人間には全く何のチカラもありません。社会は個人が集まってできています。ひとりひとりが行動を起こす事によって大きなムーブメントになっていきます…続きを読む→
「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†■2023年12月6日UP■
「36の材料組み合わせてお菓子ができる」とにかくイエス様はお喜びという意味です(祈)†
2000年前のイエス様の磔刑を思い出してみて下さい。この物質界はとにかく嫉妬、嫉妬、嫉妬であふれかえっています。イエス様も多くの霊能を発揮した事によって当時の律法学者どもの嫉妬をかって磔刑にされて殺されました。この地球圏物質界は一見進歩が進んでいるように見えますが、それは物質面のみが異常に発達しているだけであり、精神面はまだ全然進歩していないと思います。霊的知識がまるっきり理解されていない事がその証左といえるでしょう。僕がある状態になる事をおもしろくなく思っている人間がそれはそれはたくさんいるのです、そいつらが僕をそういう状態にさせないよう陰湿極まる妨害をしてくるに決まっています。それが世の常です。僕に関する言われなき悪い噂をメディアを駆使して広めたりして国民に僕という人間の悪印象を植え付けようとイメージ操作をしてくるでしょう。(例えば守護霊様の背の低さを悪用するなどして)そういう事を絶対にやってくるはずです…続きを読む→
「最後まで完成してる」僕から降らせる霊言の原稿が霊界側で既に完成しているそうです(祈)†■2024年1月3日UP■
「最後まで完成してる」僕から降らせる霊言の原稿が霊界側で既に完成しているそうです(祈)†
「霊的知識普及のための客寄せパンダ」というもので、霊団は試練の境涯である物質界から苦難の元凶(「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁)を取り除く事はしない。取り除いてしまったら物質界の存在意義(刑務所としての機能)が果たせなくなってしまうので邪悪は残し続けるが、霊的知識拡散のための「客寄せパンダ」としてこの強姦殺人魔どもを最大活用した、という事なのではないか。さらに言うと「神の因果律」の一環として、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらに徹底的に恥をかかせるという目的も含まれていたのではないかと僕は思っているのです。僕はこのバカヤロウどもはインペレーター霊の仰る「個的存在消滅」でイイと思っていますが霊界上層界の方々はそうは思っていなくて、何とかコイツらに反省させて進歩向上の糸口をつかませようとしているのかも知れない、それで大恥をかかせて心変わりをさせようとしているのかも知れない、なんて思ってみたりもするのです。そんなムダな努力する必要ネィだろ、コイツら(明仁、文仁、徳仁、悠仁)は絶対反省なんかできネィよ、人間失格なんだよ、霊の海に埋没して存在消滅すればイイんだよ(地獄より下という事)と僕は思うのですが上層界の方々は憐れみをもって眺めますのでそういう視点なのかも知れない…続きを読む→

何と言われたかはもう脳内から消えてしまっていますが、また僕が100%殺されると分かっているところに行けという感じの事を言ってきています。要するにもう使命遂行終了だから殺されに行けと言っているのでしょうか。まぁそれは了解ですが、僕は霊的知識普及の使命遂行は続行させるつもりで作業時間を増やそうとしてるんですよ。

なぜそこまで閉じ込める事にこだわるのか、僕がそれをあくまでも拒絶しているから今度は殺されに行けと言い始めているというのか。つまり閉じ込められる事に首をタテに振らせるための脅しだと僕は理解してますが、そこまでして閉じ込めた先に一体何の使命遂行の前進があるって言うんだよ。

何がどうなってるんだ、理解不能、意味不明、もはやサッパリ分かりません。こんなものどうやってブログに落とし込めというのでしょうか。要するにいつものように口だけピーチクパーチク動かして何もなくただ時間だけがダラダラ過ぎていくという状態になると予測されるので僕は僕レベルの作業をガンガン進めるしかありません。

アナログ絵379、1ページのゴミ取りをおこなってます、フラーが出てこないので描くのは早いです、一気に3ページまで描き上げるつもりです。イヤ霊団は行かせるつもりなんてネィんだよ、閉じ込め続けるための視点外しなんだよ。もう何もしないつもりなんだよ。ヒマつぶしで物質界の人間をいじくって遊んでただけなんじゃないのかと、そういう気さえしてくるのです。僕は脱出する、必ずやってみせる(祈)†

霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†■2023年7月19日UP■
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†
物質界に邪悪がはびこる、その根本原因は「霊的知識の無知」にあります。人間に死はなく、肉体の死後も霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界で永遠に生き続けるという霊的真理を知らず、物質界での人生のみが人間の人生だと考える事が全ての邪悪の出発点なのです。物質界で大量強姦殺人の人生を送ると帰幽後に霊界でどれほどの地獄をやらされるか、その「霊界と物質界の因果関係」もっと言うと【神の因果律】を全く理解していないから平然と犯罪をおこなう事ができるのです。神の因果律から逃れる方法はこの全宇宙に存在しません。なぜなら「宇宙は神の身体」だからです。僕たちは現時点で神の中に存在しているのですから、神の法則の効果範囲外に出るなどという事は有り得ないのです。自分のおこないが自分の帰幽後の人生にどれほど致命的欠陥、悲劇をもたらすかを知っていれば、おのずと自分のおこないに責任感が生じ、愚かな言動にブレーキがかかるはずなのです。邪悪なおこないをしている人間たちというのは「何も知らない人間」という事なのです。だから霊的知識の普及が急務なのです…続きを読む→
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†■2023年9月20日UP■
「全て自分の成長のためなんだよ」霊団が僕をある場所に閉じ込めるという意味です(祈)†
友人の守護霊は今ごろほくそ笑んでいるはずです。僕の守護霊様は今ごろ僕の霊団への反逆を見て困っている事と思われますが。人間とは霊界で永遠に生き続ける存在です。人間に死はありません。物質界とは修行のためにホンの一時期だけ降下させられるトレーニングセンターです。肉体は神の摂理で自動的に朽ち果てるようになっており、僕たちの本体(霊)はそれを脱いですみやかに霊的表現媒体に着替えて(幽体、霊体)霊界生活に突入します。この事実からも物質界が僕たちの永遠の住処でない事は明白です。そのホンの一時の束の間の場所についてお勉強する事と、永遠の住処である霊界についてお勉強する事と、どちらがプライオリティが上でしょうか。どちらが賢明かつ自分の霊的進歩向上に役立つでしょうか。そういう視点で自分の人生を考えられる人間こそ賢者と言えるのではないでしょうか…続きを読む→

一旦テキストの作業から離れて線画に集中しています。圧倒的絶対的に時間が足りない。霊団はそうは思っていないでしょうが僕的にはどうしても作業時間を増やしたい。そのためには脱出が不可欠となり、それを何としても実現させための手段として節約を開始しました。

生活のありとあらゆる部分を徹底的に見直して少しでも数字を減らせるところはすぐ実行して実際に浪費を抑えられているか経過を見てその節約アイデアが有効かどうかを見る、という事をやっています。間もなく複数の節約アイデアの結果が数字として表れてくると思うので、それをもって脱出アイデアを実行に移すつもりでいますが、まだ脱出できる保証はどこにもありません。

これまでといちばん変わったところは、普段の買いもので生鮮食料品しか買わなくなった、それ以外のモノはほとんどお店で買わなくなったという事です。お買いもの時の数字の消費が以前と比べて明らかに減りました。そのぶん別のところでまとめ買いをして、長期的に消費を抑えようとしています。買う前に必ず計算機でシミュレーションをして、数字を減らせる事を確認してから買うようにしています。

そこまでしなくても、というくらい徹底的に細かいところまでそれを実行しています。全ては脱出を実現させるためです。本気中の本気だからココまでやっているという事なのですが、霊団は何が何でも僕を最悪に閉じ込めようとしてきます。どうしてもその導きに従う事ができません。

こんなお話はともかくとしてまずはストーリーを完成させましょう。作業時間を増やしてみせる、そしてできれば移住も決行したい。もちろんこんなモノは霊団の導きの中に一切含まれていません僕の小我の独断です。地名には旧地名というモノがあって、その意味を調べるとその土地の危険性を知る事ができるという事もあります。一応その方向でも調べています。移住するつもりでいるからこういう事も調べているのです。

さぁ作業続行中、イヤでどうしようもないところに延々閉じ込められるのはどうやっても認められない。死んでも受け入れられない。必ず脱出してみせる。もうこれに関しては霊団が何を言ってこようと僕の意思を書き換えるのは不可能だと思います(祈)†
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†■2022年12月7日UP■
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†
心臓が鼓動しているのが、血液が全身を循環しているのが、脳髄でアレコレ思索を巡らせる事ができるのが霊のチカラのおかげだというこの単純な真理が理解されるのにあと何千年かかるというのか。2000年前にイエス様が同じ事を言っていたじゃないか、まだ分からないのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体にも、自分が霊的存在であるという事実にも、一体人々はいつになったら気が付くというのか。この狂った腐った物質界は、あと何千年、正しいおこないをする者を磔刑(はりつけ)にし続けるというのか。そんなに洗脳が好きなのか、そんなに帰幽後に地獄に落ちたいのか。ステキな境涯に案内してあげようと大切な事を教えるために物質圏に犠牲的降下をして下さっている高級霊の方々の愛を、あと何千年裏切り続ければ気が済むのか…続きを読む→
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†
2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†■2023年5月3日UP■
「行為のひとつひとつに責任を取らされます」僕の人生はやはりカルマの解消なのでは(祈)†
イエスは死を超越した真一文字の使命を遂行していたのであり、磔刑(はりつけ)はその使命の中における1つの出来事に過ぎない。それが生み出す悲しみは地上の人間が理解しているような“喜び”の対照としての悲しみではなく、むしろ喜びの一要素でもある。なぜならテコの原理と同じで、その悲しみをテコ台として正しく活用すれば禍転じて福となし、神の計画を推進する事になるという事でした。悲劇をただの不幸と受止める事がいかに狭い量見であるかは、そうした悲しみの真の“価値”を理解して初めて判る事です。さてイエスは今まさに未曾有の悲劇を弟子たちにもたらさんとしておりました。もし弟子たちがその真意を理解してくれなければ、この世的なただの悲劇として終わり、弟子たちに託す使命が成就されません。そこでイエスは言いました「汝らの悲しみもやがて喜びと変わらん」と。そして遂にそうなりました…続きを読む→

[くり返し反論したきた問題 – これまで再三にわたって言及してきたものが、8月31日になってようやく本格的な回答を得た。]

これまでにも何度か言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思います。そなたは、われわれの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めがなく、実体が感じられないという主張を固持し、それを再三にわたって表明してきました。

その主張によれば、われわれの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代る新たな合理的信仰を持ち合わせないという。その点に関しては、これまでも散発的には述べることがありましたが、大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に解説したことはありませんでした。それを、これより可能なかぎり述べることとします。

全知全能の神は御業(みわざ)によって知るのみ

まず、われわれは全創造物の指揮者であり審判者であるところの宇宙神 – 永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしましょう。その至高の尊厳の前にわれわれは厳粛な崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものです。

その御姿を拝したことはありません。また、御前に今すぐ近づこうなどとも思いません。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることでしょう。それはもはや限りある数字で表わせるものではありません。

が、たとえ拝したことはなくとも、われわれはその御業を通して奥知れぬ完ぺきさをますます認識しております。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりなのです。それはそなたには叶わぬことですが、われわれは無数の方法によって、その存在を認識することができます。

地上という低い界層には届かない無数の形で認識しております。哀れにもそ
なたたちは、神の属性を独断し、愚かにも、人間と同じ形態をそなえた神を想像していますが、われわれにはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し、感受しております。われわれとの関係(つながり)の中に優しさと愛とを感受するのです。

過去を振り返っても、慈悲と思いやりに満ちあふれていることを知ります。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われております。未来は…これは、われわれも余計な憶測はいたしません。これまでに身をもって味わってきた力と愛の御手に、すべてを託します。

詮索好きな人間がするような、おのれの乏しい知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯しません。神への信頼があまりに実感あふれるものであるがゆえに、あえて思案をめぐらす必要を感じないのです。

われわれは神のために生き、神に向かって生きてまいります。神の意志を知り、それを実践せんと心がけております。そうすることが、自分のみならず全創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからです。

また、そうすることが、神に対する人間的存在としての当然の敬意を表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのです。われわれは神を敬愛します。神を崇拝します。神を敬慕します。神に絶対的に従います。が、神の御計画に疑念をはさみ、あるいは神の秘奥をのぞき見するような無礼はいたしません。

人間に明かすことを許されていない神秘もある

次に人間についてですが、われわれはまだ、知っていることのすべてを語ることを許されておりません。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、そなたの精神を惑わせることにしかならない知識を明かすことも、許されておりません。

人間の霊性の起原と宿命 – いずこより来ていずこへ行くのか – については、いずれそのすべてを語るべき時期が到来することを信じるに留めてもらいたい。さし当たっては、神学が事細かに語り広く受け入れられているところの“アダムとイブの堕罪”の物語は、根拠のない作り話であることを知られたい。

恐らくそなたたちキリスト者においても、これにまともな思考をめぐらせたならば、あのような伝説には理性がついていけないのが正直な事実でしょう。取りあえず人間が物質をまとった霊魂であることを認識し、支配する神の摂理にしたがって進歩していくことこそが、地上での幸せと死後の向上を導くものであることを理解すべく努力をすることです。

はるか遠く高き世界 – 洗練され浄化されつくした霊のみが入ることを許される天上界のことは、ひとまず脇へ置いておくことです。その秘奥は、限りある人間の目には見ることはできません。

天上界への門扉(もんぴ)は聖なる神霊にのみ開かれます。そして、いつの日かそなたにも、十分な試練と進化の暁にその列に加えられる時がきっと訪れることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたにとっては、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要でしょう。人間は、そなたも知るごとく、一時期を肉体に宿っている“霊魂”なのです。霊的身体を具えており、それは肉体の死後もなお生きつづけます。そのことについてはバイブルでも述べられています。

仔細の点では誤りも見られますが、一応正しいとみてよいでしょう。その霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばなりません。死後の生活は、人間の知性の届くかぎりにおいて無限です。

こういう言い方をするのは、人間には“無限”の意味は理解できないからです。さし当たってそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておきましょう。

その霊的存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿って生活するにすぎないとはいえ、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なされております。

肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心 – 往々にして粗末であり未熟ではあるが – を先天的にそなえております。各自、その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請がありしだい与えられる援助の手段も用意されています。

こうした事実についてはすでに述べました。こののちもさらに述べることもありましょうが、取りあえず地上という試練の場における人間の義務について述べたいと思います。

地上の人間としての理想の資質

人間は責任ある霊的存在として、自分と同胞と神に対する義務を有します。その昔、そなたたちの先師たちは、その時代の知識の及ぶかぎり、そして表現しうる能力のかぎりにおいて、霊的生活にとって適切な道徳的規範を説きました。

しかし、彼らの知識の及ばぬところ、そして彼らには伝え得ないところにも、まだまだ広く深い真理の領域が存在します。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によって理解され始めたところです。

が、この事実によって、人間の向上進化を促す勢力と妨害する勢力とが存在することを窺い知ることができるでしょう。このことに関しては、こののちさらに述べる機会もあることでしょう。

それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は“向上進化”の一語 – おのれに関する知識をはじめとして、霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されましょう。

次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は“教養”の一語に要約されましょう。ひとつの枠に限られない幅広い教養を積むことです。地上生活のみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動です。

そして肉体に宿る一個の霊としての自分に対する義務は、思念と言葉と行為における“純粋”の一語に要約されましょう。以上の“進歩”と“教養”と“純粋”の3つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そして肉体的存在としての人間の、自己に対する義務が要約されていると言えるでしょう。

次に一単位として生をうけた民族、所属する共同社会の一員としての義務についてですが、これを強いて一語で表現するとすれば、その中心となるべき心掛けは“慈悲心”に要約されましょう。

意見の相違に対しては寛容心を、それを是正する時の言葉には同情心を、交わりには優しさをもって臨み、援助には見返りを求めず、日常の品行に礼儀と穏やかさを心掛け、誤解をうけても我慢し、正直で一途(ず)な目的意識に情愛と寛容を加味し、同情と哀れみと優しさに満ちた心をもち、所属する社会の公的義務は遵守し、同時に弱き者、意志薄弱なる者の権利も尊重する。

以上の、そしてこれに類する資質これぞまさしく“キリスト”(1)の名にふさわしい性格のエッセンスです – を、われわれは慈悲心もしくは能動的な愛の一語に要約します。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは、いかに低い界層の者といえども、“無始の光の泉”“万物の創造者”であり、“父”であるところの大神に近づく可能性をもつものであらねばなりません。

大神を目の前にした時の人間にふさわしい態度は、そなたたちのいう聖なる記録の中で“天使もその翼もて顔を被う”(2)と表現されていますが、まさにその通りです。それは人間の霊にとって最もふさわしい畏敬と崇拝の念を象徴しているのです。

敬(うやま)い畏(おそ)れるのです。奴隷的恐怖心ではありません。崇(あが)め拝(おろが)むのであって、屈従的恐怖心に身をすくめるのではありません。神と人とを隔てる計り知れない距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、かりそめにもその御前に今すぐ侍(はベ)ることを求めてはなりません。

ましてや、天使にしてなお知り得ない深い神秘をのぞき見せんとする傲慢(ごうまん)な態度は慎まなければなりません。“畏敬”と“崇拝”と“愛”、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性です。

きわめて大まかですが、以上が自分と同胞と神に対する人間の義務です。枝葉の点については追って付け加えることになりましょうが、以上の中に人間が知識を広め、良き住民となり、すべての階層の人間の手本となるべき資質が述べられております。

この通信ならびにこれまでの通信の中に、パリサイ派の学者が重んじた儀式的ないし形式的義務に関しての叙述が見られないのは、われわれがその必要性を認めないからではありません。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切です。

われわれがその点について詳しく言及しないのは、その重大性について、あえてわれわれが述べずとも事足りているとみたからです。われわれの中心的関心は霊性にあります。すべてを生み出すところの霊性です。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為もおのずと正しく行なわれるはずのものです。

われわれはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱ってまいりました。その原則とは、そなたの関心を真の自我であるところの“霊”に向けさせ、すべての行為をその内的自我の発現として捉えさせることです。その霊性こそが、地上を去ったのちの霊界生活のすべてを決定づけるからです。

そこに真の叡智が存在します。すべてを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移りゆく姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えます。現時点においてわれわれがそなたに示しうる義務は以上のごときものですが、次に、その義務を果たした時と怠った時にもたらされる結果について述べねばなりません。

満足は堕落の始まり

自己の能力のかぎりにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして、生き甲斐と向上が得られます。あえて“向上”を強調するのは人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すという不変の真理を見失いがちだからです。

“これでよし”との満足は、真の自我(魂)にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかありません。魂は過ぎ去ったものの中に腰を下ろすことは許されません。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもちません。

過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める、希望と期待の表われです。満足感に浸り、それで目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、その時の魂は退歩の危機にあります。

霊的存在としての正しい姿勢は、常により高い目標に向かって努力し続けることです。その絶え間のない向上の中にこそ真の幸せを見出すのです。これで終りという時は来ません。絶対に来ません。

永遠の刑罰はない

このことは、人間が人生と呼んでいる地上の一時期のみに限りません。生命の全存在に関しても言えることです。そうです、肉体に宿って行なった行為は、肉体を捨てたのちの霊界の生活にも関わりをもつものです。その因果関係は、人間が死と呼んでいる境界には縛られません。

それどころか、霊界へ来て落着く最初の境涯は、地上の行為がもたらす結果によって定まるのです。怠惰と不純の生活に浸っていた霊は、当然の成り行きとして、霊界でそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになります。

犯した罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、1歩また1歩と高い境涯へと向上して行く – これが神の摂理を犯した者に与えられる罰です。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではありません。意識的生活の中で犯した違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰です。

これは懲らしめのムチと言えなくもないでしょう。が、それは復讐心に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではありません。愛の神が我が子にその過ちを悟らせるために用意した因果律の働きなのです。

天国での安逸的生活もない

同様に、善行の報いは天国における“永遠の休息”などという、感覚的な安逸ではありません。神の玉座のまわりで讃美歌三昧に耽ることでもありません。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる、白日夢のような無為の生活でもありません。

義務を果たした充足感、向上した喜び、さらに向上できる可能性を得たという確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持したという自信 – こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に初めて味わえるものです。

休息の喜びは働かずしては味わえないように、食事の美味(おい)しさは空腹の者にしか味わえないように、一杯の水の有り難さは渇いた者にしか味わえないように、そして、我が家を目の前にした時の胸の高まりは、久しく家を離れていた者にして初めて味わえるように、善の報酬は、生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇いた者にして初めて、その真の味が賞味できるのです。

怠惰な感覚的満足は、われわれの望むところではありません。あくまでも全身全霊を込めて努力したのちにようやく得られる心の充足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのです。

贖罪(しょくざい)説は卑怯(ひきょう)な考えの産物

以上に見られるように、われわれは人間というものを、果たすべき義務と数かぎりない闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱っております。別の要素として背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もありますが、ここでその問題を取り上げる必要性を認めません。

取りあえずそなたの視野に映り、そなたみずから検討しうる範囲内の事柄にかぎって述べてきました。又、われわれとしては罪なき神の御子、というよりは、神との共同責任者としてのイエスにおのれの足らざるところをすべて償わせるような、都合のよい言説は説きません。

1度の信仰告白によって魔法のごとく罪を消すという、かの贖罪説は説きません。卑しい邪悪な魂も、死の床にて懺悔(ざんげ)すればイエスがその罪のすべてを背負ってくれて、立ちどころに“選ばれし者”の中に列せられ、神の国へ召されるなどという説は、とても認めるわけにはいきません。

われわれは、そのような卑屈にして愚劣な想像の産物に類することは一切述べたことはありません。援助はあります。常に身近かにあり、いつでも活用できる強力な霊力が控えております。

しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くした人間が、その最期の一瞬に、聖者のひとりとして神の聖域に列せられるために自由に引き出せる、そのような都合のよい徳の貯えなどは、どこにも存在しません。

臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼びおこす死後の苦しみに怯(おび)えるあまりにすがろうとする身代りの犠牲など、どこにも存在しません。そのような卑怯な目的のためには、神の使者は訪れません。そのような者に慰めを
与えに参る霊など、ひとりもいません。

幸にしておのれの罪深さに気づいて後悔することになれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるでしょう。神の愛のムチを当てられるままに放置することでしょう。何となその苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからです。

しかるに神学者は、そのような者のために神は御子を遣わし、そしてすべての罪を背負って非業(ひごう)の死を遂げさせたのである!と説きます。それをもって最高の情けある処置である!神の慈悲の最高の表現である!と説きます。

そのような作り話は、われわれの知識の中には存在しません。徳の貯えは自分みずからひとつひとつ刻苦勉励の中に積み重ねたもの以外には存在しません。至福の境涯に至る道は、かつて聖者たちがたどった苦難の道と同じ道以外にはありません。

一瞬にして罪深い人間を聖者に変え、したたかな無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたたちのいう天国にふさわしい霊に変えてしまう魔法の呪文など、われわれは知りません。そのような冒瀆的想像の産物は、およそわれわれとは縁はありません。

霊的援助は身近かにある

人間は一方においてそのような無知が生み出す、到底あり得ない空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻くせっかくの霊的援助と加護にはまったく気づかずにいます。われわれは人間みずから果たすべきことを代って果たしてあげる力は持ち合わせません。

が、援助はできます。慰めることはできます。心の支えとなることはできます。われわれは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっているところです。

時として、あまりにあくどく、あまりに物質かぶれしすぎて、われわれの霊力に感応せず、霊的なものを求めようとしない者に手こずり、あるいは愚弄されることもありますが、霊的援助は常に用意されており、真摯な祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのです。

ああ!何たる無知でしょうか。至純・至聖・至善なる霊が常に援助の手を差しのべんと待機しているものを、祈ることを疎(おろそ)かにするために、その霊との交わりを得ることができないのです。

魂を神に近づける崇拝の心、そして天使を動かす祈りの心、この二つはいつでも実行可能な行為です。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手な信仰、教義、宣誓、身代り等々、事実とはほど遠い、根拠のない作り話に託しております。

信条より行為が大切

われわれは、そうした個々の信仰は意に介しません。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩、改められていくものだからです。狂気のごとき熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体から解放されれば、一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられます。

生涯抱きつづけた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散します。いかに誠意をこめて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われわれは“信条”にはさしてこだわりません。それよりもわれわれは、“行為”を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。

なぜなら、人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解しているからです。そうした性格は長い苦難の過程をへてようやく改められるものであり、それゆえにわれわれは、言葉より行ないに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。

われわれの説く宗教は、行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれな信仰の宗教ではありません。身体の宗教でもあり、魂の宗教でもあります。打算のない、進歩性に富む真実の宗教です。

その教えには終局というものはありません。信奉者は数知れない年月を掛けてひたすら向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされた霊 – 苦しみと闘争と経験によって磨き上げられた霊 – が、その純真無垢の姿で大神の足もとに跪(ひざまず)くのです。

この宗教には怠惰も安逸も見出せません。霊の教育の基調は真摯と熱意です。そこには、おのれの行為がもたらす結果からの逃避は見出せません。不可能なのです。罪科はそれみずからの中に罰を含むものだからです。

また、おのれの罪を背負ってもらう都合のよい身代わりも見出せません。みずからの背に負い、その重圧にみずから苦悶せねばならないからです。

神のお情けはない

さらに又、われわれの宗教には、これさえ信ずれば堕落した生活がごまかせるとか、これさえ信ずれば魂の汚れが覆い被せるなどという、卑怯な期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽(あお)るような要素も、いずこにも見出せません。

われわれが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではありません。そのような気まぐれな隠れ蓑(みの)は死とともに一気にはぎ取られ、汚れた生活が白日のもとにさらされ、魂はそのみすぼらしい姿を衆目にさらします。

また、われわれの説く宗教には、そのうち神は情けを垂れて、すべての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさいお情けを求める余地など、さらさら見出せません。そのような人間的想像は、真理の光の前に呆気なく存在を失います。

神の情けは、それを受けるにふさわしい者のみが受けるのです。言いかえるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進歩がおのずとその報酬をもたらすのです。そこにはもはや情けも哀れみも必要としません。

以上が、われわれの説く霊と身体の宗教です。神の真理の宗教です。そして、人類がこれを理解する日も、ようやく近づきつつあります。(3)

[注釈]

(1)the Christ(ザ・クライスト)というのは語原からいうと“聖油を注がれた人”という意味の称号で、スピリチュアリズム的にいえば霊的真理を理解した人、すなわち“霊覚者”ということである。17節[注釈](5)参照。

(2)この引用句どおりの言葉は新約聖書・旧約聖書のいずれにも見当たらない。その前で“バイブル”と言わず“聖なる記録”と言っているところをみると、古代インドかどこかの聖典の中にあるのであろう。

(3)本節はタイトルどおりスピリチュアリズムの真髄を説いたもので、ほぼ半世紀後に出現したシルバーバーチ霊の教えと完全に付節を合している。これによっても、スピリチュアリズムの名のもとにおける地球浄化のためのさまざまな事業 – 物理的ならびに精神的心霊現象、奇跡的心霊現象、独裁者の失脚と自由思想の発展等々 – が、地上でイエスと呼ばれた霊を最高指揮者とする地球規模の霊団によるものであることが肯(うなず)かれる。その最大の基盤となるのが、本節で説かれている霊的真理である。

インペレーターとシルバーバーチの相違点を強いて指摘すれば、再生(生まれ変り)について双方ともその事実は認めながら、インペレーターは“人間が考えているようなものとは違う”と言うに留まっているのに対し、シルバーバーチは因果律を基本とした魂の向上進化にとって不可欠の要素として、思い切って前面に押し出して説いている点であろう。

「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†■2022年4月27日UP■
「愛の表現、怒るな」霊団の軽薄極まる言葉です。とにかくこの人生の責任取れ(祈)†
「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁は、自身の大犯罪を隠し通さなければ本当に逮捕になってしまうため、いつまでもどこまでもウソ洗脳ニュースをメディアに流し続けて国民をダマし続けなければならない。つまり「明仁、文仁、徳仁、悠仁にはウソをつき続けなければならない理由、動機、必要性がある」僕、たきざわ彰人には、これほど長い年月にわたって画家の夢Dreamworkを捨てさせられてブログでウソの内容を書き続けるなどという行為をしなければならない必要性が全くない。そもそも僕の人生の目的は全く別のところにある。「僕にはウソを公言する理由、動機、必要性がない」そんな事しても別に何にもならない…続きを読む→
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†■2022年5月4日UP■
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†
僕が本当にこういうヒドイ状況にさせられても全く誰の目も開かないというのか。誰ひとりとして真実に目覚めないというのか。僕の人生がこれだけ破壊されても日本国民の洗脳が1ミリたりとも破られないというのか。物質界はここまで腐りきっているのか。この期に及んでもまだ「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を陛下だの殿下だのと呼び続け笑顔で手を振り続け、奴隷の女の子を強姦殺人する手助けを続けるつもりなのか。「無知ほどこわいものはない」この言葉に帰着します…続きを読む→
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†■2022年8月24日UP■
「神に委ねてみませんか」これが実は到底承服できない最低最悪の意味なのです(祈)†
僕も神に反逆するほどバカではありません。ぜひ皆さまにも「インペレーターの霊訓」をお読み頂きたいですが、霊的知識を獲得しておきながら神の意に反する行いをした者がどういう状態にさせられるかをインペレーター霊が語っておられます。僕はその知識がありますのでそこまでバカな事をするつもりはありません。ただとにかく「物事には限度というモノがある」これを強調して終わりとさせて頂きます。キビシすぎ、苦難、試練を降らせすぎ、僕ひとりに何もかもやらせすぎ、本気でいい加減にしてくれ、という事です…続きを読む→

100%殺されるから行くなと霊団はずっと言い続けてきました、その旨のブログも何度も書き続けてきました。しかしその僕が殺されるところに行け、と意味を受け取れそうな感じの事を言い始めています。なぁーにがどぉぉなってるんだよ。殺されに行けってか。僕の反逆がそういう宜しくない方向に飛び火していると言いたいのか。

アナログ絵379、前半3ページ線画15%完成中、複数作業を同時進行したり節約のためのテストをおこなったりしている関係で進行が遅くなってしまっていますが何とか描いてます。霊団がああなるこうなると言ってその通りになった事が霊性発現以来1度たりともない異常人生をやらされていますので、今日霊団が言ってきた事もスルーしますが、作業時間は増やしたい、それは切実に思っているのです。

全作業を完了させられずに帰幽するのはもちろん悔しいですので(かといって帰幽を遅らせる事もおもしろくない、できるなら今すぐにでも帰幽実行して欲しい)帰幽1秒前までできる限りの作業を続行するつもりでいますが、本当にこの物質界というところは一体何なんだろうとつくづく思うのです。

問題の改善なんて夢のまた夢、洗脳と誤解と堕落と怠惰が大手を振ってのさばっており、さらに悲しい事はほとんどの人間がその悲劇的状況に気付きもしない、何も知らない、霊的な事も何も理解しないまま無知の状態で帰幽して下層界にたむろするばかり。っとと、長くなりますので一旦切りましょう。作業続行中。僕はやる、今できる事を全力でやる、周りは関係ない(祈)†

英文の一部が抜け落ちていて全然別のところに記述されていたりして、それを見つけて元のところに挿入したりしているので恐ろしく時間がかかっています。現在7%終了中といったところ、いつになったら全文UPできるのか、テキスト化を開始して以来最大級の絶望感と言ってイイかも知れません。

先ほど霊団が「導き…(聞き取れなかった)」みたいな事を言ってきましたが、たぶん導きに従えと言っているのでしょう。閉じ込められるのは死んでもイヤですが、この絶望的作業を思うと従うより他にどうしようもないのかも知れないと思ったりもします。導きに従うのがベストルートだという事は分かってますがどうしてもあの場所に閉じ込められるのだけはイヤなんです。

アナログ絵379、380の6ページストーリーですが今回もフラーは登場しませんので描くのは早いです。できるだけ早く描き上げて次の作業に移行しなければなりません。僕としてはどうしても脱出して作業時間を増やしたい。そうすればテキストも撃てる絵も描ける、ムービーも作れる、良い事だらけなのです。

トレイルムービー以来久々に動画編集をやった勢いを止めずに「十戒」DVDの中の霊的シーンをもう少し抜き出してみましょうか。小さな霊的シーンが数個残されていますので。実は以前から「アクションカメラ」の入手を企んでいるのですが、これが僕には数字的ハードルが高くて入手できずにいまして、もし入手できればもちろん山での撮影を再開させるのですが、なかなかそういう風になりません。

使命遂行をやめるつもりは毛頭ない、しかし閉じ込められるのは死んでもガマンできない。イヤでどうしようもないところからは脱出し、その脱出実現によって作業時間を増やして使命遂行を前進させると、僕なりの正当化をしてますが、もちろん霊団は僕の言い分など認めません。やはり僕が望まない状況に強行突入させられるのだろうか。いちばん望まないのはこのまま閉じ込められ続ける事。

ハァァ「感情と手は別レイヤー」ですから作業は何が何でも進めないといけません。今できる事をひとつずつこなしていきましょう(祈)†

■2021年8月4日UP■
「彼らも悪しざまに言われました」シルバーバーチ霊の言葉をタイトルに冠させて頂きました(祈)†
彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲(なげう)ったのでした。彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力が再び地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしてもその潮流をせき止める事はできません…続きを読む→
「どんなに隠しても表に出てくる」真実は絶対隠し通せないという意味です(祈)†■2022年1月5日UP■
「どんなに隠しても表に出てくる」真実は絶対隠し通せないという意味です(祈)†
国民の同情を誘う美しいスローな楽曲がバックに流され、かわいそうな人たちに文仁がやさしく声をかけてその人たちを笑顔にさせる映像が、柔らかい暖色系のフィルターをかけた状態でキラキラと光のモーションエフェクトをちりばめて再生スピードを若干落としたスローペースで流され、文仁にやさしく声をかけてもらった国民(もちろんさくら)が感動の涙を流しながら文仁を賛美するコメントの映像が流され、それを見た皆さまはその洗脳演出にアッサリコロっとダマされて「あぁこの人はイイ人なんだ」などとは死んでも思わないようにして下さい…続きを読む→

[8月26日。私はこれまでの通信を読み返し、そこに象徴されている意味について、あれこれと思いをめぐらした。自分の解釈が字句にこだわりすぎているのだろうかと考えて、この点を霊側に質(ただ)してみた。すると、まだ私の精神状態は通信をするのに相応(ふさわ)しい状態になっていないという返事だった。

このように、交信の難しさをはっきりと言ってきたことは何度もあった。気分の転換が必要であることも指摘された。あいにくその日は空模様のうっ陶しい、憂うつな日だった。

私の身は見知らぬ土地にあり、健康も勝れなかった。私は言われるまま気分転換になることをしたあと、机に向かった。すると、初めのうちは少し書きづらく速度もゆっくりだったが、やがてラクに筆が運ぶようになった。]

大切な日常生活での健康管理

状態はまだ十分とはいえないが、前よりは良好となってきました。通信を求めるに際しては、精神と肉体の双方を整えることが肝要です。満腹状態の身体が操作しにくいことは前に述べましたが、逆に機能の低下した弱々しい身体もまた、われわれの目的に適さないことをここに指摘しておきます。

飽食と泥酔はもとより感心しませんが、度の過ぎた節制による体力の低下も感心しません。われわれは全てにおいて中庸を説きます。極端な節制も、節度を失った放縦(ほうしょう)も、ともに好ましからぬ結果を招きます。中庸こそ身体機能を自由に働かせ、一方、精神的能力を曇りなく、かつ激することなく自在に発揮させます。

われわれが求めるのは、明晰にして元気はつらつとし、それでいて興奮することのない精神と、活力に溢れ、その活力を使いすぎもせず欠乏もしない身体です。

各自がこの思慮分別に基づいて、おのれに課せられた地上の仕事に勤しむ上でよりいっそう適切な身体をそなえ、同時にその援助のために派遣された背後霊からの指示を素直に受け取れる精神を整えることが大切です。日常生活における習慣はとかく感心しないものが多く、徐々に心身を蝕(むしば)んでいきます。

われわれは、一般原則としての注意と節制を説く以上のことはしません。当人にとって何がもっとも適切であるかは、当人と深く関わってみなければわからないものです。自分のことは自分で判断して、もっとも適切と思うものを決めることです。

われわれの使命は、もとより魂の宗教を説くことにありますが、その一部として、身体の宗教も説かねばなりません。そなたに、そして全ての人間に宣言しますが、身体の健康管理は魂の成長にとって不可欠の要件です。

魂が地上という物質の生活の場において自己を表現していくために肉体に宿っているかぎりは、その肉体によって魂が悪影響を受けないよう、これを正しく管理していくことが必須です。

ところが現実には、衣食の選択と日常の生活習慣に賢明な配慮がなされることは、実に稀れです。現在の地上に見られる人工的傾向、健康に悪影響を及ぼすものに関しての無知、ほぼ地上全域に見られる暴飲暴食の傾向、こうしたものはすべて、真の霊的生活にとっては障害であり妨害となります。

教義に縛られた信仰の弊害

そなたの質問であるが、これまで幾度も述べたように、われわれはそなたの精神の中に存在するものを取り出し、付着した夾雑物を払い落とし、霊的意義を賦与してこれを土台とし、有害なもの、真実でないものは放棄します。古い言説については、イエスがユダヤの律法を扱ったのと同じ扱い方をします。

すなわちイエスは、この字句にこだわることを戒め、その律法の精神に新たな意味、崇高な意味を賦与しました。われわれが現代のキリスト教の言説とドグマを扱うに際しても、イエスがモーセの律法とパリサイ派的学説、ならびにラビ(1)的学説を扱ったごとくに扱います。

イエスは中身の精神を生かすためには字句にこだわらぬがよいと説きました。これはいつの時代にも同じであり、われわれもバイブルの言葉を引用して、儀文は殺し霊は生かす(2)、と述べておきましょう。

律法の字句にあまり厳格にこだわることは、肝心の精神をおろそかにするのと同じ、というよりは、次第におろそかにさせていくものです。儀文のひとつひとつを几帳面に守る信仰態度は、高慢不遜にして鼻もちならない独善家を生み、やがて神学の流れの中に完全に呑み込まれて、自分は他の連中とは違うのだという特殊意識を抱き、その意識の中で神に感謝するようになります。

われわれが断固たる闘いを挑むのは、こうして知らぬ間に進行する信仰上の悪弊に対してです。人間の勝手な産物である神学に束縛されて生きるよりは、たとえ迷い多くとも、きっと神を見出してみせるとの信念のもとに、いかなる教義にもすがることなく暗中模索する方が、真理を求める魂にとってどれほど良いか知れません。

神学は神への道を規定してしまいます。その道へ入る狭き門は神学という名のカギがなくては開かないことになっています。それのみではない。神学が神そのものを規定するのです。

かくして魂はその自然の発露を閉ざされ、思想の高揚を抑えられ、霊性の一片もない機械的信仰生活へと落ちぶれ果ててまいります。そんな、霊性豊かな宗教の猿真似(パロディ)のようなものよりは、自由な魂の葛藤の方がはるかにましであることを断言します。

確かに、キリスト教の高位高階の者の中にさえ、宗教の深い思想に関しては“出来合い”の信仰教義でなければならない者がいます。彼らにとって、その教義から逸脱して自由に思いをめぐらすことは即ち疑うことであり、躊躇することであり、絶望することであり、死を意味します。

目も眩(くら)む高所に登り、隠された秘密をのぞき込み、曇りない“真理の太陽”の輝きを目(ま)のあたりにすることなど、思いもよりません。

“永遠の真理”の横たわる深い谷間を見下ろす高い峰に登ることは、彼らにはできません。落ちることを恐れて、のぞき込むことができないのです。否、その前に、その峰に登ることがすでに苦痛なのです。

そこで彼らは、たとえ辛く不確かではあっても、すでに他の者が通ったより安全な常道を選ぶことになります。その道は両側に高い壁がそそり立ち、その外側は見ることができません。油断なく1歩1歩、転ばぬように、あらゆる起伏を避けつつ進みます。頑強な教会が規定するドグマにすがるのです。

そうするようにと、教会の浅はかな知恵が主教たちを通して説いているのです。疑うことは破滅を意味するのです。思考することは結局は迷いに終るのです。信じることが唯一の安全策なのです。

ゆえに、信じて救われよ、信じぬ者は地獄へ落ちるがよい – そう説くのですが、彼らには、内心では、それが素直に受け入れられません。そんなものが、どうして受け入れられましょう。彼らは知的理解の入口に横たわる真理の断片すら理解できないのです。ならば、真理を秘納せる奥の院まで、どうして入ることを得ましょう。

先祖からの習慣としての信仰

中にはまた、これが神の真理のすべてである、と教え込まれた古来の神学と相容れない教説を受け入れる能力に欠けると同時に、それを喜ばない者もいます。

キリスト教の聖徒にとってはその神学で十分でした。殉教者はその信仰ゆえに笑顔をもって刑台に上がり、死の床にあっても心の慰めを得てきました。それは今も昔も変わりません。その信仰は先人達の残してくれた大切な教義であり、母親の口から聞かされた救いの福音でした。

それは言わば真理の遺産として受け継いだものであり、ぜひとも自分たちが子供たちに譲渡していかねばならないものであり、代わってその子供たちがさらにその子供たちへと引き継いでいきます。

そうなれば当然、彼らの心はその信仰、それほどの伝統的なつながりと思い出をもつ信仰と少しでも衝突するものには、目もくれぬことになります。彼らはその伝統的信仰の擁護者をもって任じているのです。

その心の中には殉教者の情熱が燃えつづけております。われわれの語りかける言葉は、彼らの耳には届きません。われわれとしても、それほどまで居心地のよい安住の世界にあえて踏み込もうとは思いません。

万一踏み込むとなれば、彼らが作りあげた信仰の殿堂を根底から突き崩さねばならないでしょう。それほどまで大切にされている信仰に対して宣戦布告し、容赦なく切りつけねばならないことになるでしょう。

彼らにとっての絶対神、型にはまった宗教 – それは幾世紀にもわたっていささかも変わらず、また変わりようもないのですが – これに攻撃をかけ、たとえ神の観念は変わらずとも人間の心は変化し、過去の世代には事足りたものも次の世代には十分ではないかも知れず、現に満足できなくなっている事実を指摘せねばなりません。

さらに彼らが露ほども気づかずにいる啓示の進歩性、思想の自由の度合に応じた人間の啓発、そして彼らが“神の啓示”と銘うって崇めている、おびただしい量の人間的創作に反省を迫ることになるでしょう。

が、それも所詮は徒労に終ることでしょう。われわれは、そうと知りつつあえて試みるほど愚かではありません。彼らは、地上とは別の世界(死後)において必要な知識を得るほかはありますまい。

世間体(てい)としての信仰

これとは種類を異にし、そうした問題について一切思考をめぐらさない者もいます。宗教とは名ばかりで、一種の世間体としての意味しか持たない者たちです。

ゆえにその信仰心はきわめて薄く、慣習としての場(教会など)を除いては意識することもありません。言わばよそ行きの衣服であり、単なる見せかけ以上のものではありません。遠くから見て“それらしく”見えれば、それでいいのです。

こうした人種、およびこれに類する人々は、われわれにとって難敵です。彼らにとっては宗教について思索を強いられること自体が退屈であり迷惑なのです。不愉快きわまる問題であり、慣習により、やむを得ず、軽く体裁(ていさい)をつくろう程度にしか関わろうとしません。人間としての正しい道は牧師が決めてくれるものと考え、言われるがままに信じるのみなのです。

ましてや、古い信仰の欠点を指摘され、新しい信仰の美点を説き聞かされることは、彼らにとっては二度手間(でま)であり、有り難迷惑なのです。そのいずれも理解できないのです。

相変わらず古いものにすがり、その中で生き永らえるのみです。今のままで結構なのです。進歩はご免こうむりたいのです。自由など思いもよらず、精々、自由とは所詮は屈従に近づくことであるとの教えしか念頭にありません。

自由な思索は、彼らにとっては懐疑と不信と無信仰を意味します。そのいずれも有り難からぬものであり、一種の社交上の誤りを犯すことになります。進歩することは国策上からも宗教上からも恐るべきことなのです。単に尻込みするに留まらず、嫌悪と侮蔑をもって自由を見つめます。

彼らの理想はすべて古き良き時代に大切に仕舞い込まれています。その古き良き時代には、自由だの進歩だのという問題は一切語られていません。ゆえに、それは彼らにとっては邪悪なものであり、避けねばならぬものなのです。

以上の3種の人間にわれわれが一切の関わりをもたないことは、そなたにも明白であることを疑いません。同時にこの中間に存在し、能力もなければやる気もなく、さりとて堂々と反抗的態度に出るでもない人種にも、われわれは関知しません。それがわれわれの選択を超えた問題であることは、いずれそなたにもわかる時がくるでしょう。たとえ手を出したくても、“出せない”のです。

信仰に恐怖と束縛は禁物

神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件のひとつを犯していること、こうしたことをわれわれは教えんとしているのです。神への道を閉ざし、この門戸にカギをかけ、おのれの説く道へ強要する権利を有する者はひとりもいないと言っているのです。

硬直化した神学、人間が発明した用語で勝手に規定した頑固(かたくな)な信仰、その道から外れた者は神から見放されると説き、一字一句たりとも動かせないという教説 – これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたこうとする魂を引きとめ、地上にクギづけにする拘束物であるということです。

そのような宗教を教え込まれるまま受け入れて自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として、みずから迷い、みずから祈り、みずから思考し、みずから道を切り開くことによって真理の日の出を拝むにいたる方が、よほど立派であることを改めて述べておきます。

その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、また、心を満たしてくれなくてもよい。冷たい風に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく、風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても与えられるのは石ころのごとき古い教説であり、化石のごとき人間的無知の産物でしかない生活よりは、はるかに、はるかによい。

複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴ではあっても、背後霊の直接の働きかけによって自分なりの“大いなる父”たる神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方が、どれほどよいか知れません。

自分に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第1の条件です。これなくしては魂は羽ばたくことができません。そして、これさえあれば必ず進歩します。

イエスが人類最高の模範

このことを、主イエスの生活に示された模範的な生きざまの中に、今少し見てみる必要があります。

霊性に目覚めた人間の取るべき態度はどうあるべきかについては、すでに述べました。幸にして勇気をもって因習から脱け出し、神を求める旅に発った者は、必ずや、聖書の字句どおりのドグマ的解釈に代って、われわれが説くところの崇高な霊的信仰へと導かれます。

霊の啓示には目に映る形而下的意味と同時に、霊的意味も含まれているからです。物的傾向の色濃い時代には、この霊的解釈が完全におろそかにされます。

かくして人間は、イエスの教説のまわりに推論と憶測と形而下的解釈によって作り上げた壁を張りめぐらしました。それは、パリサイ派の学者がモーセの律法のまわりに張りめぐらした壁と同じです。

こうした傾向は人間が霊界の存在を忘れるに比例して強くなります。かくして今やわれわれの目に映るのは、本来なら霊性を吹き込み物的儀式を排除すべく意図されたはずの教説から導かれた、硬直化した冷ややかな物質偏重の教説です。

われわれの任務は、イエスがユダヤ教のために行なったのと同じことを、そなたたちのキリスト教のために行なうことです。すなわち古い霊的意義を賦与し、新しい生命を吹き込むことです。

排除しようというのではありません。復活させることこそわれわれの望むところなのです。くり返しますが、イエスが地上にもたらした教えの一かけらたりとも、われわれは排除しません。排除するのは人間の勝手な産物であり、それも、その奥に隠されて見えなくなっている霊的な意味を表に出してみせるためです。

われわれはそなたを肉体的支配下の日常生活から少しでも救い出し、そこに浸透している霊的生活の象徴的意義をより一層理解させんと努めているところです。字句にこだわって非難する者は、われわれの教説の皮相的解釈しかできない人種です。

われわれはそなたを身体中心の生活から引き上げ、肉体を棄てたのちの生活にとって意義のある生き方へ導かんと願っているのです。目下のところ、それにはまだほど遠い状態です。

が、いずれそなたにも、この地上にありながらも真の霊的生活の尊厳と、そこに満ちあふれる隠れた神秘を見ることができる日も到来するでしょう。それは、今のそなたの精神状態では、われわれも説明することは困難です。

その時節が到来するまでは、何ごとにも霊的な意義が秘められていること、バイブルもその霊的意義にあふれていること、神学に見られる人間的解釈も定義も注釈も、霊的真理の核心を包蔵している形而下的な“殻”にすぎないことを知るだけで、よしとしなければなりません。

もしもわれわれがその殻を一気にはぎ取る挙に出れば、その核心は萎(しお)れ、生命を失うでしょう。そこでわれわれとしても、そなたの理解力の届く範囲において、そなたが長いあいだ親しんできた形而下的教説の下に隠れている生きた真相を指摘する程度で満足しなければなりません。

イエスは人間生活の改革者

イエスの使命もそこにありました。律法を廃止することでもなく、削除することでもなく、正しく成就させることこそ使命であると公言したのです。モーセの戒律の根底にひそむ真理を指摘しました。

パリサイ派の儀式にまつわる夾雑物を取り除き、ユダヤ学者の空理空論を排除し、その奥底に横たわる霊的真理埋葬されかかっていた崇高な原理を白日のもとにさらしました。イエスは宗教改革者であると同時に、社会改革者でもあったのです。

その生涯の大事業は、人間を霊肉ともに向上させることであり、偽善者の正体を暴くことであり、偽善的行為の仮面をはぎ取ることであり、暴君から逃れんとしてあがく魂を、その魔手から救い出すことであり、そして神から託された真理の力によって人間を解放することでした。イエスはいみじくもこう述べています –

「私は真理を教えてあげようとしているのです。その真理こそ魂の束縛を解いてくれるのです。そのとき真の意味であなた方は自由の身となるのです」(ヨハネ8・32)(3)

イエスは生と死と永遠の生命について説きました。人間の真の尊厳を説きました。神についての進歩的知識を得る方法を説きました。摂理の偉大な体現者として地上へ降りたのでした。摂理が意図としている真の目的、すなわち人類の霊的改革を身をもって実践する人間のひとりとして地上へ来たのです。

心の奥底を見つめるよう、生活を反省するよう、動機を吟味するよう、そして宗教的行為のすべてを唯一の尺度つまり、それがもたらす結果によって価値判断をするよう、民衆に説きました。

常に謙虚に、慈悲心を忘れず、誠実で純心で私心なく、自分に正直であれと説きました。そして、みずからそれを実践してみせたのでした。

イエスは偉大な社会改革者でした。その目的は死後の幸せを説くことであると同時に、この世での幸せを説くことであり、偏屈と利己主義と狭量の生活から解放することでした。

言うなれば、イエスは日常の宗教を説いたのです。より高い真理を求める日々の生活においての、霊性の道徳的向上の必要性を説いたのです。過去の過ちを反省し、償い、そして向上する – そこにイエスの教えのほぼすべてが要約されています。

イエスが目にした地上は無知に埋もれ、その信仰は厚顔無恥の聖職者の言うなりとなり、その政治は暴君の圧制下にありました。そこでイエスは、信仰と政治の双方の自由を説きました。が、その自由とは気ままな自由ではありません。

神と自己に対する責任をもつ自由であり、置かれた環境における同胞への責任をもつ自由でした。人間の真の尊厳を示さんとしたのです。摂理の尊厳 – 人間性を束縛から解き放す霊的摂理の偉大さを民衆に知らしめんとしたのです。

身分にはこだわりませんでした。同志も伝道者も、身分の低い貧しい階層の者の中から選びました。そして庶民と共に生きました。庶民の味方であり、庶民と交わり、庶民の家に宿をとりました。そして、人間として必須の、しかも彼らに理解できる素朴な教えを説きました。

伝統的信仰と高貴な社会的地位に目を曇らされ、打算的知恵に長(た)けた者たちの中には、滅多に足を運びませんでした。慣習的に教え込まれた信仰から少しでも気高く、少しでも崇高な真理を求めんとする情熱を、庶民の心に湧かしめたのです。そして、その真理を手にする方法をも説いたのでした。

人類にとって真の福音というべきはイエスの福音です。それこそ人間にとって唯一にして必須の真理です。人間の欲求を満たし、その必要性に応える唯一の福音です。

われわれはイエスから引き継いで同じ福音を説くものです。イエスを地上へ送った神と同じ神の命令を受け、同じ神の権能と霊示を受け、今まさに同じ福音を説きに参ったのです。イエスが説いたのと同じ真理をわれわれも説きます。

人間的無知と誤解による夾雑物を払い落として、改めて説きます。物欲的生活の下に埋もれた真理を甦らせんと望むものです。墓場へ葬られてしまった霊的真理を掘り起こし、それが今も生き続けていることを、聞く耳をもつ者に教えてあげたいと願っているのです。

人間の進歩性と、人間への神の絶え間ない関わり、そして昼夜を分かたぬ天使の看護という、単純にして荘厳な真理を教えてあげたいと願っているのです。

独善的宗教家集団が背負わせた荷は、われわれが風に吹き飛ばさせましょう。魂の生長を妨げ、向上心の足を引っぱるドグマは、われわれが引き裂いて、魂を解き放してあげましょう。

われわれの使命は、人間があまりに歪めすぎた古い教えの真実の姿を継承することです。その源は同一であり、そのたどる道も同じであり、その向かうところもまた同じです。

“イエスの再臨”の真意

[インペレーターの指揮のもとに続けられているこの教化活動は、イエスの命令によるものと理解してよいかとの問いに対して – ]

その通りです。さきにわたしは、わたしの使命が“動”の世界より“静”の世界へと突入した一柱の霊から授けられ、今なおその指揮下にある、と述べました。イエスは過去に蓄積された誤った信仰を払い清めると同時に、これより一段と啓示を押し進めるために、天使を召集する計画を用意なさりつつあります。

– 他の交霊会でもこれに類する話を耳にしましたが、これが“イエスの再来”ということでしょうか。

イエスの再来とは霊的再来のことです。人間が夢想するような、肉体に宿っての再生ではありません。使徒を通じて、聞く耳をもつ者に語りかけるという意味での再来です。イエス自身もこう述べております – 「聞く耳をもつ者が聞いてくれればよいのです。受け入れる用意のある者が受け入れてくれればよいのです」と。(4)

– こうした通信は多くの人々にもたらされているのでしょうか。

さよう。神がこの時期にとくに影響力を強めておられることを、大勢の人々に知らしめているところです。が、今はこれ以上のことは述べません。神の祝福のあらんことを。

†インペレータ

[注釈]

(1)ユダヤの律法学者。空理空論を振り回す人の意味にも用いる。

(2)コリント第2・3・6巻第11節参照。

(3)バイブルにくわしい方はすぐにお気づきと思うが、このヨハネ伝によると、最後の「そのとき…」の前に弟子たちの質問があって、それに答えた形となっている。が、インペレーターの引用文にはそれがなく、シルバーバーチも同様であることから、私はイエスは実際は一気にそうしゃべったのではないかと考えている。それを筆録者が加筆したのであろう。

また私の訳文がバイブルの文章とかなり違うこともお気づきであろう。が、その前後の文脈から考えて、私はイエスはそういう意味で語ったはずだと確信した上で、そう訳した。これが言わば、イエスの教えのエッセンスなのである。

(4)これもバイブルでは2つに分かれていて、前文がマタイ11・35、後文が同19・12に出ているが、原文ではひとつにまとめられている。便宜上そうしたにすぎないのかも知れないが…。

「とんでもない悲劇が」まだ試練を浴びせ足りないのか、地球圏霊界を脱出したい(祈)†■2024年6月12日UP■
「とんでもない悲劇が」まだ試練を浴びせ足りないのか、地球圏霊界を脱出したい(祈)†
どうもこのプレアデスの男性と霊団の動きが似ているような気がしてならない。これは霊界上層界の、守護を命じられた人間(霊)を進歩向上させるための厳格なルールみたいなものがあって、それを順守しているのでプレアデスの男性と僕の霊団の動きが似てくるのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。で、エレナさんはその邪悪の宇宙人どもに「脳内にチップを埋め込まれている」そうですが、それを取り除くシーンも紹介されていて、そこでプレアデスの男性と女性クルーとの間でバトルがあって、結局チップを取り除かずエレナさんの脳内に残したのです。これもおかしいだろう、取ってやれよ。たぶんですが、霊格が高まった方々にとっては肉体に起こる出来事など「ホンの一瞬の過ぎ去っていく出来事」であり、エレナさんの脳内にチップが残されているか取り除くかが問題なのではなく、エレナさんが物質界人生で学ぶべき事をしっかり学びきる事をプレアデスの男性は優先してわざと取り除かなかったのではないか、なんて思ってみたりみなかったり。肉体などというモノは自動的に脱ぎ捨てるものであり、現在の肉体のエレナさんの姿がその女性本来の姿ではない、エレナさん本来の外郭(霊体?)はプレアデスに保管してあって、地球圏での仕事が終わったらエレナさんはその衣服に着替えて、肉体に埋め込まれたチップともども脱ぎ捨てて、そんな低次元のモノとはすっかり縁が切れるのだから、それよりも経験を積ませる事を男性は優先させたのではないか…続きを読む→
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†■2024年5月22日UP■
「目指す事は安全」僕がこれほどムカつかされるのは身の安全のためという事のようですが(祈)†
実は何もやる気がないのではないか。この12年の霊団の動きを見ればおのずとそういう回答が導き出されるのではないか。僕は霊団の事を「口だけ霊団」と公言していますが、この言葉は実は大正解なのではないか。本当にこの霊団とか名乗っている奴らは最後まで口だけピーチクパーチク動かして何もやらずにボケっと見てるだけで終わらせるつもりなんじゃないのか。要するに「アキトくんの場合はインスピレーションで事足りているのでわざわざ低次元の霊媒現象をやらなくても我々の目的をだいたいにおいて達成している」という事なのかも知れません。インスピレーションが霊界側にとってもっとも自然な交信方法という事は霊的知識をお勉強して頂ければ分かります。霊媒現象というのは霊力に感応しない物質界の人間に霊的な事を理解させるために霊界側が物的次元まで波長を下げる犠牲的仕事ですが、物質界の人間がインスピレーションを受け取れるようになってくれれば、そしてさらにそのインスピレーションによる導きに従ってくれれば、霊界側はその犠牲的仕事をせずに済み、思念の送信だけで目的達成できますからこんな簡単な事はない、という事になります…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→