テキスト見直しは完了中、タグ挿入を経て全文UPとなりますがモチョトお待ち下さい。チョトだけコメントを撃とうかと思っていますので。
間もなくプロセス実行。間もなくプロセス実行(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
霊界通信によれば、死後の向上を妨げる罪悪の中でいちばん厄介なのが、上流階級の生活が生み出す罪悪 – 因襲に縛られ、意識的向上心に欠け、霊性は鈍り、自己満足と安逸にどっぷりと浸った退廃的生活が生み出すものだという。
自己に満足しきって反省の意識をツユほども持たず、魂の救済はどこかの教会か権力にまかせて、自らの努力を嫌う – こうした人間が最も危機的状態にあるというのである。
教会の存在そのものが悪いというのではない。キリスト教であろうと非キリスト教であろうと、霊性の向上を促進する機能を果たしているかぎりは、その存在価値はあるであろう。
が、そこへ通う信徒に、一個の儀式、あるいは一個の教義を信じる者が信じない者よりも少しでも有利であるように思わせたり、魂の向上にとって何よりも大切である“刻苦”が免除になるかの如く思わせたりする方向へ誘った時、その存在は有害なものとなる。
同じことがスピリチュアリズムについても言える。実生活での活動を伴わない信仰は何の役にも立たない。尊敬に値する指導者のもとで何の苦もなく人生を生き抜くことは可能かも知れない。
しかし、死ぬ時はひとりなのである。そのリーダーがいっしょについてきてくれるわけではない。そして、霊界入りしたその瞬間から、地上生活から割り出される水準の境遇に甘んじなくてはならない。霊界通信はそう説くのである。
では、未発達のスピリットに対する罰はどういう形を取るのであろうか。それは、要は発達を促進するような境遇に置かれるということである。もしかしたらそれは悲しみの体験という形を取るかも知れない。
この地上においても、貪欲で同情心のカケラもなかった人間が、悲哀の体験を味わうことによって、性格が和らぎ、人の心を思いやるようになるということはよくあることである。
バイブルには“嘆き悲しみ、歯がみをして苦痛に耐える外なる暗黒”という表現がある。バイブルには読み方を誤ると大変な害を及ぼしかねない箇所がいくつかある。東洋的な表現には“白髪三千丈”式の誇張が多く、その点を考慮せずにそのまま受け取ってしまって、感受性の強い子供や真っ正直な大人が心身症になっているケースが少なくない。
右の文も用心して読まないといけない。霊界通信によると、確かに“外なる暗黒”に相当する界層が存在することは事実のようである。“暗黒界”と呼んでいるが、そこは決して永遠の刑罰を受ける地獄ではない。いつかはみんな光明界へと向上していくのである。もしもそうでなかったら、全能の神にとって不名誉なことになろう。
■2021年12月31日UP■
■2023年1月11日UP■
■2024年10月23日UP■現在最終パートの見直しに入ってます、間もなく全文UPとなりますが、この書籍を見直していく作業、つまり頭からしっかり読み込んだという事になるのですが、僕のこれまでの12年(間もなく13年)の霊的使命遂行の人生と照らし合わせて「思う事」があり、チョトそれについて所感を書かせて頂こうかなとも思っています。
今日到着すると思っていた英語書籍は到着しません、そんなもんなんですよ、待つしかありませんが、脱出につながらない絶望感を突破して何とか書籍をまず1冊出したいと考えています。
そして復刊できなくても復刊用データをガンガン作成して、書籍としては完成させておいて、いつでも復刊できる状態で待機してやろうかな、なんて考えも沸いてきたりしています。なぜ脱出につながらない作業ばかり発生するのでしょうか。この人生は一体何がどうなっているのでしょうか。
もう僕の忍耐力はとっくの昔に限界値を突破しており、これ以上閉じ込められるのは死んでも有り得ませんので霊団にどれだけ妨害されようと何が何でも脱出を完了させる覚悟ですが、全く脱出できる見込みが立ちません。そこまでして閉じ込めた先に一体何の仕事の前進があるというのでしょうか。どう頭をひっくり返しても許せないんですけども。
さぁあとモチョトなので急ぎましょう。次回長文ブログネタとなるインスピレーションはほぼ皆無の状態、今度こそボイコットしてやろうかなと思いつつまずは全文UPを目指しましょう(祈)†
■2024年10月30日UP■
■2024年11月20日UP■
■2024年12月4日UP■悲しいですし認めたくないですが、書籍を出してみたところで脱出は叶わないでしょう、しかし書籍というカタチにして出したいという気持ちは強いモノがありまして、脱出できなくてもやりたい、という事で具体的に執筆方法を考えているところです。
なるほどなぁと思ってお勉強していた訳ですが(まさに僕のブログもその問題ど真ん中だよなぁと思いつつ)せっかくお勉強したのですからこの考え方をこれから書こうとしている書籍に活用してもイイんじゃネィのか、なんて思ってみたりみなかったり。
で、自伝の目次(設計図)は99%完成していたのですが、その目次1項目に対していくつもの「小見出し」を挿入する作業をやっていますが、長文にしないで簡単に分かりやすくしようかなぁ、そしてできるだけイラストを挿入してトコトン読みやすくしてみようかなぁと考え始めています。
テキスト撃ちはその方針で仮に行くとしても、問題はイラストの方でしょう、目次の項目数が現在約90あります、つまりイラスト枚数もたぶんそれくらいになるという事で、テキスト撃ちより絵を描く方が苦しいという事になるかも知れません。が、読む方々にとってはその方が書籍の内容に入っていきやすいのではないか、などと思ったりもします。
■2021年5月5日UP■
■2024年9月25日UP■しかし、そうした幸せなスピリットが従事している仕事の中に、迷える不幸なスピリットを更生させることが含まれているという話がよく出てくる。
そのために彼らは“降りて行く”という表現を用いて、低界層のスピリットに自分たちと同じレベルの波動の生活に耐えうるだけの霊性を身につけさせるように援助してやるのだという。それはちょうど、学業の遅れの目立つ生徒のために、上級生が面倒を見てやるのと同じなのかも知れない。
そのことをイエスは、たったひとりの罪深き者を悔い改めさせることの方が、99人の善人のことを喜ぶよりも、天界における喜びが大きいと述べているが、これは地上の罪人のことではなく、死後の低界層にいる罪深きスピリットを救出して一段と高い界層へ向上させてあげることを意味しているものと思われる。
ところで、この“罪”とは何ぞやという問題であるが、科学の発達した現代において、近代的道義と公正の感覚をもってこれを考察すれば、中世のあの得体の知れない不条理きわまる化け物のようなものでないことは明白である。
現代人は、あんな、依怙贔屓(えこひいき)のはげしい神による、みっともないお情けなどは求めない。もっともっと厳しい目で自己を見つめるようになっている。
もっとも、人間の心理をつきつめると、やれば出来るのに努力しようとしない面、知っていながら実行できない意志の弱さ、他人の立派な行ないは賞賛しながら自分はだらしない態度を取りつづける性格に起因する面が多分にあることは事実である。
が、その反面、生まれついた環境という不可抗力の産物、遺伝ないしは生まれながらの障害に起因するもの、さらには、明らかに身体的性向による罪悪を斟酌(しんしゃく)した時、積極的な意味での罪は大幅に少なくなる。
考えてもみるがよい。全知全能にして慈悲深き大神が、生まれながらにして障害をもつ哀れな人間が罪なことを心に抱いたからといって、これを罰するということが有り得ようか。熟練した医師によると、頭の形を見れば、罪悪を犯すタイプかどうかが分かるという。
歴史に記録をとどめている身の毛もよだつ罪悪のかずかず – 暴君ネロから殺人鬼ジャック(3)に至るまで – みな精神の疾患の産物であり、戦争という国家的罪悪も、集団的狂気というものの存在を示しているようにさえ思える。
となると、地上でそうした不利な条件のもとに苦しい生活を強いられた者を、死後、さらに地獄へ落として苦しめる必要はないではないかという観測もできる。
霊界通信でよくあるのが、意外に平凡な人物が、死後、大変な栄誉に浴しているのを知って驚くことがあるという話である。そこには人間的価値観と霊的価値観との違いがあることを物語っている。
となると、身体的特質が不可抗力となって罪深いことをしてしまった場合は、当然、そこに酌量の余地があってしかるべきであって、それは罪を見逃すというのとは別問題である。むしろ善人として生まれ、これといった善悪の意識もないまま、漫然とした人生を送った人間の方が、問題が大きいことも考えられる。
■2024年3月27日UP■
■2024年4月3日UP■復刊できないが書籍は作りたい、引用にも限度があり、結局は自分でかなりの分量の文章を撃たなければ書籍とする事はできない(引用文が大半を占めているとそれは引用とはみなされなくなるんだそうです)
それでどうしても自分の主張を書かざるを得なくなるのですが、そうなるとどうしても「ああなんですよ、こうなんですよ」といった感じで僕が読者の皆さまに「教える口調」の文体になると思うのです。僕はそれがどうも書く気になれない。
さぁ困ったな、本を書きたいのに書けない、やはり自伝しかないのか。しかしオサンの自伝など誰が読む。イヤ、そんな事言ってるヒマがあったらテキスト撃て、という事かも知れない。しかし脱出できそうもないという事実だけは動かしようがない。この絶望感が恐ろしすぎる。
「死後の世界も自然界である」テキスト見直し80%完成中。本当に校正が甘い、間違いがたくさんあります、近藤先生がそれを甘受しなかったはずですが、出版のためにはある程度ガマンしなければならなかったのかも知れません。
明日、英語書籍2冊中1冊到着予定、まぁたスキャン地獄が始まりますがこの2冊はページ数は少ないので一気に終わらせてしまいましょう。さぁ本当にどぉぉするか。本は作りたい、すごく作りたい、しかし復刊できない、引用にも限界がある、どう原稿を書くか、脱出だけがどうもがいても実現しない、大問題です(祈)†
■2024年1月24日UP■
■2024年2月14日UP■詳細は全文UPしてそちらをご覧頂きたいと思いますが、ティンダルは聖書を英語に翻訳しようとしますが、そのための許可をどうやっても得られない事を知ると、翻訳した先に死刑が待ち受けている事を知りながらも翻訳を決意し、ヨーロッパに逃亡すると、そこには志(こころざし)を同じくする仲間がたくさんいた。そんな感じのストーリーです。
僕の脱出の決意、覚悟には1ミリの揺らぎもなく、霊団が僕を一生閉じ込めるつもりだろうが何だろうが、僕の脱出のための努力は帰幽1秒前まで続く事になります。僕という霊の道具を使用してあんたたち(霊団)はやりたい仕事があったんじゃなかったのか。
ちなみに間もなく英語書籍が2冊到着します、そちらのスキャンが始まりますのでその前にできる限りテキスト見直しの作業を進めているところです。そろそろこの英文見直しに決着をつけたいところですが(苦しくてしょうがないので)しかしまだ未入手のホワイトイーグル霊の書籍がたくさんあります。
さぁ2サイトで脱出するのはほぼ不可能というイヤな結論に到達してしまっていますが、僕は本大好き人間ですので書籍はぜひ作りたいのです。どういう風に本を書くか具体的に考え始めています。とにかくこれ以上閉じ込められるのは絶対に耐えられないんだよ、死んでもムリなんだよ、あんたたちが何を考えていようが僕のこの決意は変わらないんだよ。
■2023年8月2日UP■
■2023年9月6日UP■
■2023年10月25日UP■喜びと楽しさに満ちあふれた世界である。各種の競技会もあり、娯楽もスポーツもある。ただし、動物に苦痛を与えるような種類のもの(狩りなど)はない。飲食に関していえば、地上のような重々しいものではなく、ただ風味だけを楽しむといった程度のものなら存在する。そこのところの誤解がある種の混乱を生むようである。
しかし、何より大切なのは、この地上と同じく、才能とエネルギーと個性とバイタリティに富む者が – それを正しく行使すればのことであるが – 人の上に立つ仕事をするし、無欲性と忍耐力と霊性に富む者は、やはり地上と同じく、魂の質が高いことを示すという。
それは、霊界入りする以前の地上での幾多の苦難の体験によって培われていることが多く、それが霊界へ来てからの活性化と促進の原動力となっているという。
地上にある時はその苦難の意義が理解できず、残酷にすら思えることがあっても、霊界へ行ってみれば、それなくしては地上生活は不毛で無益であることが分かるものらしいのである。
新しい啓示によって、グロテスクな地獄もファンタスティックな天国も存在しないことがわかった。
あるのは生命の階段を下から上へと徐々に昇っていくという概念のみで、罪人(つみびと)が一気に天使になったり、聖人君子のような人が、ただキリスト教の信仰を受け入れなかったからというだけで地獄へ蹴落とされるような、そんな不条理な話は説かれていない。
もっとも、かつての地獄・極楽説は別にスピリットによる啓示だったわけではないから、これをもって新しい啓示と古い啓示との間の矛盾と受け取ってはならないであろう。
古い時代の地図を見ると、未調査の地域は空白になっていて、“ここには人食い人種がいたらしい”とか、“マンドレーク(麻薬の原料)が取れる”といった言い伝えを書き込むのが通例だったという。
地獄・極楽説も、そうした不明の箇所を勝手な作り話で埋めたものである。神の玉座のまわりで永遠に賛美歌をうたい続ける天国だの、永遠に焼かれ続ける地獄だのを、理性ある現代人に信じられるであろうか。
しかし、ここでひとつ疑問が出て来そうである。死後の世界が存在し、そこがこれまで私が紹介してきたような幸せいっぱいの世界であることを一応認めるとしても、そういう幸せに浴さずにいるスピリットはどうなっているのか – 霊界通信は彼らのことについてどう述べているのかということである。
が、ここでも右のキリスト教のドグマのように、それはこうだと断定的に述べるわけにはいかない。これまでに入手した情報をもとに、大よその傾向を述べる程度のことしかできない。
と言うのは、地上を去ったスピリットのうちで、われわれの呼びかけに快く応じてくれるのが死後に幸せを見出した者にかぎられるからだ。これはきわめて当然のことであろう。親和力の原理から言っても、こちらが敬虔な宗教心をもって臨めば、それに応じてくれるのは敬虔な宗教心に富むスピリットのはずだからである。
■2022年8月31日UP■
■2022年12月28日UP■
■2023年5月3日UP■「世界心霊宝典5 人間個性を超えて 個人的存在の彼方」OCR変換が途中で止まっていたのに気づいて慌てて残りのページの変換を完了させました。あとはテキスト見直しを完了させればWordPressに全文UPできます。
ココまでやってきたのはもちろん酔狂ではなく「人類の宝である霊関連書籍が絶版状態のまま失われてしまうのを防ぐため」という大目的があっての事なのですが、とにかく物質界の法律に阻まれて復刊ができない。考えに考えるのですが今のところ方法としては「引用」で書籍を出すしかない、という事です。
この引用書籍を何冊出してみたところで脱出にはつながらないでしょう(何しろ絶版になったり出版社自体が自主廃業したりしている、つまり売れなかった書籍という事ですから)
どうしても脱出できない、絶望感から逃れられない、しかし手を止めていてもどうしようもない、ダメでも何でもやるしかない。本当に恐るべき絶望感です。とても耐えられそうにないのですが仕方なく引用書籍制作に向けて作業を続行させています。
引用書籍を出すなら表紙も描かないといけません。山で撮影した画像を使えばイインジャネ、とも思うのですが、僕が普段撮っている画像ってUPで見るとかなりボケていてあまりクオリティは高くないのです。まぁ状況を見て絵を描くか撮影画像を使用するか判断しましょう。この絶望感を何とかしてくれ(祈)†
■2022年1月5日UP■
■2022年5月25日UP■
■2022年7月6日UP■「死後の世界も自然界である」テキスト見直し中ですが、校正が甘いですね、いくつも明らかに間違っているところがあり、中にはどういう原文だったのか判断できないほど思いっきり間違っているところさえあり、僕の独断で勝手な文章に直す訳にも行かないのでその間違った文章のままにしてあります。
で、脱出できない作業なのですが、以前「復刊」を目指して計7冊もの書籍データを作成しました。校正刷りもおこなっていてあとは出版開始するだけの状態、つまり書籍として完成している状態のまま強制待機させられているのですが、この「作ってみたところで復刊できない不毛な作業」を続行しようかという気持ちになってきています。
その努力の結晶の書籍群がほとんど絶版状態になっている事は霊界側にとって悲しい事なんじゃないですか。僕ならその書籍群ほぼ全ての書籍データを作成できるんですよ、何しろほぼ全ての書籍を入手済み、スキャン済み、OCR変換済みなのですから。あとはテキスト見直しを完了させれば即AffinityPublisherで書籍データを作成できるのです。
あぁたたちは僕の霊的スイッチを僕の了解なしに強制的にONにして霊性発現させて、以来12年以上、僕の霊聴にピーチクパーチクしゃべり続けてきましたが、何かひとつくらい仰け反るような奇跡的霊現象を起こしてくれてもイイんじゃないですか、と思ったりもするのです。
今、僕の手元にAmazonで「校正刷り」をした「イエスの少年時代」の書籍があります。こういうサイズ感で書籍を制作してみたいとスゴク思うのです。2サイトの事がスッカリ頭から飛んでしまっているのが有り得ない、セミナー費用を払ってまで脱出につなげようとしてるのになぜ全然やる気がなくなってしまうんだ。本当におかしい。
■2021年8月4日UP■
■2021年10月20日UP■