永遠にはらわたが煮えくり返る、死んでも許せない事を言われています。どうやってもそれを受け入れる事はできないので反逆続行させますが、僕の意思に関係なく強制的にそうさせられそうな空気感です。そしてそれは霊的使命遂行が全く前進しないように見える状態であり、それがいちばん許せないのです。

何が何でも、どうあっても「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を守り通すつもりなのか。霊界の仕事とは一体何なのか。この強姦殺人魔どもを滅亡させるつもりがないならなぜ僕に果てしなく邪悪の正体を教えてきたんだよ。「行動には動機がある」はずだろ。そこまでして邪悪を残したいのか。地球圏霊界って一体何なんだよ。

僕という道具をもう使うつもりがないなら帰幽させて地獄でもどこへでも落とせばいいだろ。無意味にダラダラ物質界に残され続けるのだけは死んでも許せない。残すなら仕事を前進させろ。やる気がないなら終わりにしろ。不愉快極まりないテキストになってしまうでしょうが次回長文ブログのタイミングでそのインスピレーションについて書くかも知れません。

書籍スキャン、OCR変換、テキスト見直し、表紙の線画、これら作業続行中。全て「絶版状態の霊関連書籍復刊に向けた作業」となります。僕という霊媒が機能しない、新規の霊言が降ってこないのだからこの作業をやるより他にどうしようもないのです。どうしても僕の物的脳髄で書籍を執筆する気になれません。

以前、「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を擁護する内容を自身のサイトに掲載していたスピリチュアリズム団体が、Amazonで冊子を出したりしています。肝心の事には全く触れていない。この人間たちも口ではキレイごとを言っているが結局邪悪に見て見ぬフリをしている。この怒りはどう表現したらいいんでしょうね。

そんなに強姦殺人魔が好きなのか。だったら自分の孫娘を強姦殺人すればいいだろ。そうなればあんたは逮捕されるが明仁、文仁、徳仁、悠仁はあんたの1000倍2000倍の女の子を強姦殺人しているが全く逮捕されない、それをどう国民に説明して納得させるつもりなんだ。やれるものならやって見せてくれ。

アッチの団体も偽善者(遠隔除霊の依頼を無視された事があります)コッチの団体も偽善者(手紙を出しましたが無視されています)あの霊能者も偽善者(幽体離脱時に数回嫌がらせを受けています)

僕は正しいおこないをしているつもりですが徹底的に変人扱いを受ける。あげくの果てに霊団が最悪の中に閉じ込め続けようとする、何もしようとしない。この人生、一体何がどうなってるんだ。僕は僕にできる作業を集中中(祈)†
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†■2023年7月19日UP■
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†
物質界に邪悪がはびこる、その根本原因は「霊的知識の無知」にあります。人間に死はなく、肉体の死後も霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界で永遠に生き続けるという霊的真理を知らず、物質界での人生のみが人間の人生だと考える事が全ての邪悪の出発点なのです。物質界で大量強姦殺人の人生を送ると帰幽後に霊界でどれほどの地獄をやらされるか、その「霊界と物質界の因果関係」もっと言うと【神の因果律】を全く理解していないから平然と犯罪をおこなう事ができるのです。神の因果律から逃れる方法はこの全宇宙に存在しません。なぜなら「宇宙は神の身体」だからです。僕たちは現時点で神の中に存在しているのですから、神の法則の効果範囲外に出るなどという事は有り得ないのです。自分のおこないが自分の帰幽後の人生にどれほど致命的欠陥、悲劇をもたらすかを知っていれば、おのずと自分のおこないに責任感が生じ、愚かな言動にブレーキがかかるはずなのです。邪悪なおこないをしている人間たちというのは「何も知らない人間」という事なのです。だから霊的知識の普及が急務なのです…続きを読む→
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†■2023年7月5日UP■
「背後霊の言う事を聞く」もちろんその通り、それは重々承知しているのですが(祈)†
物質界の評価に1ミリも興味はありませんので僕が物質界レベルで軽蔑嘲笑を受ける事になろうと知った事ではないのですが、ただ悲しいのは「僕が自分の人生を犠牲にしてこれほどの活動をしても、それでも皆さまの眼は開かれないのか」という事です。僕が殺されたあと、僕という人間を侮辱する、僕の人格を全く別物に書き換えるインチキ書籍が「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の手により複数出回ったとして、それをアッサリコロッと皆さまは信じてしまうというのでしょうか。物質界に興味がないと言っている僕でさえ悲しくなる眼の閉じっぷりです。僕の事は何とでも思って頂いて構わないとして、少なくとも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳だけは撃ち破ってもらわないと皆さまが帰幽後に恥ずかしくて居たたまれなくなると思うのですがいかがでしょう。帰幽後の霊界人生が人間の本当の人生です。そちらに照準を合わせて日々の生活を送らないといけないんですよ…続きを読む→
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†■2023年8月9日UP■
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†
霊界とは完全なる自己責任の世界であり、物質界生活時に果たさなかった仕事の責任を完全なカタチで取らされるようになっています。その責任を果たさないと高い境涯に向上する事は許されません。「身元の確認はしましょう」と言ってきたアナウンサー的男性も、天皇一族が強姦殺人魔だと知っていながらコイツらの事を善人だというニュースを流しまくり、自身も善人を装って物質界人生を送ったその自責の念、後悔の念が霊的向上の阻害となっており、その罪障中和の目的で「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する僕の背後霊として仕事をする事になった男性ではないのか。僕はその可能性は十分にあると考えるのです。ちなみにテレビ業界には今回の「身元の確認はしましょう」の男性と同じように、心の中ではよくないと知りながら、仕事を失わないために「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を善人であると洗脳ニュースを流し続け、そのおこないに後悔し心を痛めている人間がスゴイたくさんいると思っているのです…続きを読む→

実はこの世とまったく別の世界が存在するのである。スピリットの世界である。あなたはそこからやって来た。そして、またそこへ戻っていくのである。この世とは違うといっても時間とか距離的に違うのではなくて、物理学でいうところの振動の波長が異るのである。

かりにリップ・ヴァン・ウィンクル(日本の浦島太郎と同じアメリカの伝説上の人物)が100年後のいま戻って来たとしよう。あなたはさっそくリップにこう教えてあげる。

「あなたの身のまわりには無数の音楽が流れているんですヨ。交響曲あり、ダンス音楽あり、行進曲あり。歌もあるし、しゃべっている人もいるし、劇もやってますヨ」と。

それを聞いたリップは多分あなたを気狂い扱いにするであろう。そこであなたは、やおらポケットからトランジスタラジオを取り出してスイッチを入れる。なるほど、いろんな声、いろんな音楽が聞こえる。リップはキツネにつままれたような気分になるであろう。

実はスピリットの世界もこれと同じなのである。われわれの身のまわりに常に存在している。ただ波長が異るために感応しないだけである。従ってその世界の実体を知ろうと思えばトランジスタラジオのような特殊な受信器が必要となる。それがいわゆる霊媒または霊能者と呼ばれている人たちである。

霊媒を通じてわれわれ人間も霊界のスピリットと交信することが出来る。もっとも、交信はできても、霊媒の身体をのぞいて霊界が見えるわけではない。ラジオをのぞいても放局のアナウンサーは見えないのと同じで、要するに霊媒も受信器にすぎないのである。それが、条件さえ整えば、霊界の波長をキャッチする。

そのとき霊媒は無意識の状態(入神状態)にあるかも知れないし、人によっては見たところ平常と変わらないこともある。その状態で霊媒はスピリットからの波長をとらえて地上の人間に感応する波長に変えてくれる。無線の波長をとらえて人間の耳に聞こえる波長に変えてくれるトランジスタラジオと本質的にはそう違わない。

こうした霊界との交信は交霊会という形ですでに確実に定着している。霊界との交信が始まると、もはや霊媒をラジオに譬えるのは事実にそぐわなくなる。なぜかと言えば、ラジオはこちらから放送することは出来ないが、霊媒の場合がそれが可能だからである。スピリットと会話を交えることが出来るのである。

かくしてわれわれはこうした交霊を通じて死と死後の世界についての驚くべき知識を手にすることを得ているのである。スピリットは常に進化を求めて活動している。このためには経験と教育と悟りが必要である。地上というところは地上でなければ得られない特殊な体験を提供するところである。

言ってみれば特別の教育施設、それも極めて基礎的な教育を授ける場である。あなたがこの地上に来たのはその教育を受けるためである。あなたの魂の進化の今の段階で必要とする苦難と挑戦のチャンスを求めてやって来たのである。

地上生活中は霊界から何人かのヘルパーが付く。いわゆる背後霊である。あなたと同じ霊系に属するスピリットで、困難や悩みに際してアドバイスしてくれたり慰めてくれたり援助してくれたりする。

実はあなたがこの世に来るに際しても、その背後霊(となるべき仲間)といっしょになって、地上で辿るべき行程と体験について検討し、最終的には、あなた自身がこれだと思う人生を選んだのである。

その仲間たちはあらかじめ霊界から地上を調査して、あなたの霊的成長にとって適切な体験を与えてくれるコースを選んでくれている。あなたが得心がいくと、いよいよその仲間たちと別れを告げる。これは、あなたにとっても仲間たちにとっても悲しみであろう。

というのは、地上生活中も背後霊として援助するとはいっても、その意思の疎通は肉体によって大幅に制限されるからである。やがてあなたは一種の睡眠状態、死にも似た深い昏睡状態に入る。地上では、両親となるべき一対の男女が結ばれる。やがて女性の胎内で卵子が受精する。その瞬間をねらって、あなたというスピリットがその種子に宿り、まず胎内生活を始める。

ここでいま世界中で問題となっている堕胎について一言述べてみたい。いま言った通りスピリットは受胎の瞬間に宿る。従って、いわゆる産児制限は悪いことではない。受胎していない時はまだスピリットは宿っていないからである。が、いったん受精(妊娠)したら、すでにそこに生命が宿っていると考えねばならない。

それ故、堕胎(中絶)は一種の殺人行為と見なさねばならない。生命を奪う行為だからである。胎児は9ヶ月に亘って母体のぬくもりと気楽さの中で生長する。そして10ヵ月目に大気中に生まれ出て、独立した生活を営むようになるわけであるが、人間としての生命はすでに受胎の瞬間から始まっているのである。その瞬間から地上へ移行するのである。

われわれ地上の人間は子供が生まれると喜ぶ。そして死ぬと悲しむ。当り前と思うかも知れないが、霊界ではそれが逆なのである。人間界へ子供が誕生した時、霊界では悲しみを味わっている仲間がいる。なぜなら人間界への誕生はすなわち霊界への別れだからである。反対に人間が死ぬと霊界では喜びがある。仲間との再会があるからである。

さて話を戻して、あなたがこの世で送る人生は、あなた自身が自分の教育にとって必要とみて選んだのである。仲間のアドバイスや援助はあっても、最終的には自分で選んだのである。従って責任はすべて自分にある。苦難に直面したり病気になったり大損害を被ったりした人は私にこんなことを言う。

「私はなぜこんな目に遭うのでしょうか。私はまじめに生きて来たつもりです。人を傷つけるようなことは何1つした覚えはありません。なのに、なぜこんな苦しい目に遭わねばならないのでしょう」と。

実はその苦しみがあなたにとっての教育なのである。溶鉱炉で焼かれる刀はそれを好まないかも知れない。が、そうやって鍛えられてはじめて立派な刀となるのである。苦しみ悩んではじめて霊的に成長し、苦難を乗り越えるだけの力が身につくのである。

不平を言う人とは対照的に、苦しみを神の試練と受けとめて感謝する人もいる。苦難こそ自分を鍛えるのだと心得て、そうした試練を受けられるようになった自分をむしろ誇りに思うのである。

要するに地上生活は勉強なのだ。人生が提供するさまざまな難問を処理していくその道程においてどれだけのものを身につけるか。それがあなたの霊的成長の程度を決定づけるのであり、さらにどれだけ高度なものに適応できるかの尺度ともなるのである。

人間にはある限られた範囲内での自由意志が許されている。が、この自由意志と宿命については、とんでもない説が行われている。まず一方には東洋の神秘主義者が主張する徹底した宿命論がある。

人生はすでに“書かれてしまっている” – つまり人の一生はその一挙手一投足に至るまで宿命的に決まっており、どうあがこうと、なるようにしかならないのだと観念して、乞食同然の生活に甘んじる。

もう一方の極端な説は何ものをも信じない不可知論者の説で、何でも“自分”というものを優先させ、他人を顧みず、人を押しのけていく連中である。物事の価値をすべて物質的にとらえ、「これでいいんだよ、きみ」とうそぶく。

両者とも真理をとらえそこねている。まず宿命について考えてみよう。あなたは白人か黒人か、それともアジアの黄色人種であるかは知らないが、いずれにせよ、その現実は変えようにも変えられない。両親の系統の遺伝的特質も少しずつ受けついでいる。これもどうしようもない。

また、あなたはこの20世紀に生を享けた。できることなら16世紀に、西洋のどこかの王室の子として生まれたかったと思うかも知れない。が、それもどうしようもない。そうした条件のもとであなたは今という1つの時期にこの世に生を享けている。寿命の長さも定まっている。

どんな人生を送るか、その大よその型も定まっている。また苦難の中味 – 病気をするとか、とんでもない女(男)と結婚するとか、金銭上のトラブル、孤独、薬物中毒、アルコール中毒、浮気 – こうしたこともみな、あらかじめわかっている。

あなたがいよいよ母体に入って子宮内の受精卵に宿った時、それまでのスピリットとしての記憶がほぼ完全に拭い去られる。ただし地上生活中のある時期にかならず霊的自我に目覚める瞬間というのがある。これもわかっている。そうした総合的な鋳型の中にあっても、なおあなたには自由意志がある。

宇宙は因果律という絶対的な自然法則によって支配されている。従って自由意志はあっても、その因果律の支配からは逃れることは出来ない。水仙の球根を植えれば春には水仙の花が咲く。決してひまわりやチューリップは咲かない。自分の指を刃物で切れば血が出る。それもどうしようもない自然法則である。

科学も哲学も生命そのものも、この因果律という基本原理の上に成り立っている。それが地上生活を支配するのである。大切な行為にはかならず反応がある。あなたの行為、態度、言葉、こうしたものはいわば池に投げ入れた石のようなもので、それ相当の波紋を生じる。

さきに私は地上に生まれるに際して霊的記憶が拭い消されると言ったが、実際はわずかながら潜在意識の中に残っているものである。それが地上生活中のどこかで、ふと顔をのぞかせることがある。その程度は人によって異るし、霊的進化の程度にもよる。

たとえば、ひどい痛みに苦しんでいるとする。かりに骨関節炎だとしよう。これは医学では不治とされている。さんざん苦しんだ挙句に、ある心霊治療家を知って奇蹟的に治った。嬉しい。涙が出る。感謝の念が湧く。

実はその時こそあなたが真の自我に目覚めた時である。この機に、その感謝とよろこびの気持でもって自分に奇蹟をもたらしてくれた力は一体何なのか、人間はどのように出来あがっているのか、信仰とは、幸福とは、といったことを一心に学べば、その時こそあなたにとって神の啓示の時なのである。

こうした体験はそうやたらにあるものではないが、もっとよくある例としては、仕事の上で右と左のどっちを取るかに迷っている時が考えられる。道義的には右をとるべきだが、そうすると金銭上は大損をする。

左をとれば確実に儲かるが、それは人間として2度と立ち戻れない道義的大罪を犯すことになる、といった場合もあろう。神の啓示に耳に傾けるか否かの決定的瞬間がそこにある。

さらにもっと日常的な例では、自分自身には厳寒の厳しさをもって律しても、他人には温かい寛容と忍耐心をもって臨む。その選択の瞬間に神の啓示のチャンスがある。

因果律は絶対に変えられない。歪げることも出来ない。無視することも出来ない。このことをしっかりと認識し、自分の道義心に照らして精一杯努力し、困難を神の試練と受けとめ、ここぞという神の啓示の瞬間には、たとえ金銭的には得策でなくても、道義的に正しい道を選ぶことである。

生まれた土地、時代、遺伝的特質、人種 – こうしたワク組の中で、あなたにも自由意志が与えられているのである。この観点から言うと、リンカーンの例の有名なゲティスバーグ演説は間違っている。全部は無用だから、問題の箇所だけを引用しよう。

「87年前われらが建国の父たちは、自由の理念の中に育まれ人間はみな生まれながらにして平等であることを旗印とした新しき国家を、この大陸に建設したのである。」

政治理念としては極めて健全である。が前提が間違っている。人間は生まれながらにしてみな平等ではないからだ。霊的進化の程度において、われわれは1人1人みな違う。見た目には似通っていても、1人は霊的意識も発達し思想的にも大人であるが、もう1人は動物的で未熟で霊的に子供であるという場合もある。

2人はそれぞれの程度に応じた勉強のためにこの世に来た。1人はもうすぐ宇宙学校の大学課程へ進めるところまで来ているが、もう1人は地上という幼稚園でさえまだ手に負えない“だだっ子”かも知れない。2人は断じて生まれつき平等ではないのである。

また、1人は五体満足で、もう1人は何らかの障害を生まれつき背負っていることだってある。一方は音楽の天才で、他方は音痴ということもあり得る。絵を画かせると一方はすばらしいものを描くが、他方はまっすぐな線すら描けないかも知れない。

一方はオーケストラの一員になり、他方はオモチャのドラムもまともに叩けないかも知れない。1人は霊的な仕事に携わり、他方は徹底した俗人として生きるかも知れない。

英国の歴史家フルードは「人間は生まれつき不平等である。従って、あたかも平等であるが如く扱おうとしても無駄である」とはっきり断言している。その通りなのだ。完全な平等など絶対あり得ない。生まれついた環境が違い、遺伝因子が異り、霊的進化の到達度に差がある。

多分リンカーンが平等だと言ったのは、権利の行使において平等の機会を持っているという意味で言ったのだろう。だが、これとて現実とは違う。生まれつき原始人的性格と才能しか恵まれていない人間と、知的にも霊的にも発達した人間とでは、おのずから携わる仕事は違ってくる。

一方は屠殺場で働くことになり、本人も別にイヤとも思わないかも知れない。他方は地上体験の最後の仕上げのための奉仕の生涯を送り、一国の命運を左右するほどの神の啓示に浴するかも知れない。2人のどこに平等があろうか。

人間は決して生まれつき平等ではない。かつてもそうだったし、今でもそうである。それを、無理してあくまで平等であるとの前提のもとに事を進めると、いわゆる悪平等となり、人類全体の程度を最低線まで下げることにもなりかねない。

人間は生まれつき平等ではない。また機会も均等ではない。となると、一体あとに残るものは何か。すでに述べたように、われわれはこの地上に自分の意志による選択のもとにやって来た。このことを“しかと”認識していただきたい。

一度だけではない。すでに何度もこの世を経験している。その目的は、その時その時の進化の程度に応じて最も適切と判断した環境に生を享けている。そこで必要な体験を得るためである。

地上の人間には2つの大きなハンディキャップがある。1つは無明または無知。要するに真理を悟れずにいることである。この世に来るのはその悟りに向けて必要な体験を積むためである。無明から解脱するまではそのハンディキャップによる障害は避けられない。

もう1つは肉体的制約である。頑健で元気いっぱいの身体をもって生まれる人もおれば、生まれつき虚弱児だったり、奇形児だったり、障害児だったりする。肌色も違えば背丈も違う。その身体をコンピュータのような素晴らしい頭脳が操る場合もあれば、精神薄弱児だったりする。

が、そうした様々な条件下において、自分は自分なりに最善を尽くすこと – 霊的に、知的に、そして身体的に自分に具わったものを最大限に活用すること。それが地上に生を享けたそもそもの目的であり、そこに地上生活の意義がある。全ての人間は、その点においてのみ平等と言える。なぜなら、それ以外に地上生活の目的も意義もないからだ。

■2021年9月22日UP■
「実際に戦争に送ろうと思ってるんだよ」明仁、文仁、徳仁、悠仁が僕を体よく殺そうとしているのです(祈)†
皆さまは「戦争」というものを「勃発してしまったら国民は戦争に赴かなければならないものなんだ、イヤでもやらなければならないものなんだ」みたいに考えておられますか。皆さま霊的知識をお勉強して下さい。その考えは1億%間違っています。僕たち人間は年齢、性別、人種等に関係なく全員が【神】から「神性の火花」を賜って個的存在を獲得した「神を共通の父(親)とした霊的同胞、霊的兄弟、霊的大家族」です。霊的知識を正しく理解すると、戦争で敵国の兵士を殺す事は「自分の家族を殺す事と同義」という事が理解できます。戦争というものは無知から生じる大変愚かな行為という事になります。そして僕は以前「コロナウソ」に関してこのような事を書いた事がありますが…続きを読む→
■2021年9月15日UP■
「いよいよ存在価値がなくなっていく」お分かりですね、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事ですよ(祈)†
日航ジャンボ機を墜落させて自分たちの邪悪の正体を公言しようとした人間を一気に殺したのも、その他いくらでもある事と思いますが、それらの行動には全て「動機」があるという事になります。その動機こそ霊団が言ってきた「人生イコールS〇X」この言葉ひとつに集約されるのです。コイツらの人生の目的、行動の動機は「S〇X1本」です。幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」で四肢切断、強姦殺人し続けるために全てのウソをついているのです。抵抗する術を知らない盗んできた(パレットから買ってきた)女の子たちをレイプし続けるために生まれてから死ぬまで自分の人生の全てをウソで塗り固めるのです。コイツらは何もかも全てがウソなのです。そこまでしてウソをつき続ける理由が「S〇Xを守るため」という事なのです…続きを読む→
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†■2022年12月7日UP■
「地球上でもっとも寂しい」僕が突入させられる悲劇です。試練にも限度がある(祈)†
心臓が鼓動しているのが、血液が全身を循環しているのが、脳髄でアレコレ思索を巡らせる事ができるのが霊のチカラのおかげだというこの単純な真理が理解されるのにあと何千年かかるというのか。2000年前にイエス様が同じ事を言っていたじゃないか、まだ分からないのか。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体にも、自分が霊的存在であるという事実にも、一体人々はいつになったら気が付くというのか。この狂った腐った物質界は、あと何千年、正しいおこないをする者を磔刑(はりつけ)にし続けるというのか。そんなに洗脳が好きなのか、そんなに帰幽後に地獄に落ちたいのか。ステキな境涯に案内してあげようと大切な事を教えるために物質圏に犠牲的降下をして下さっている高級霊の方々の愛を、あと何千年裏切り続ければ気が済むのか…続きを読む→

「心霊と進化と」コチラも現在見直し中ですが、止まらず「私の霊界紀行」の見直しも開始しています。キンドルファイヤーを使用しての校正作業が大変間違いを発見しやすいという事が分かりましたので、テキストエディタ上で作業を完結させようとは思わず、まずは全テキストの段落を整えて、あとはAffinityPublisherにテキストを強制的に流し込んで最終校正の作業に入ります。その方がはるかに作業時間短縮になるはずですので。

止まらず、止まらず「インペレーターの霊訓」の書籍表紙の線画も描きます。僕はキャラのカラーリングがあまり得意ではないのですが、AIで線画に自動で色を塗ってくれるサービスとかがあって、それを試したりするのですが、たぶんサブスクで高い金額を支払うモノとかを使用すればきれいに塗ってくれるのでしょう。

先ほど試した無料のモノはまるっきりお話にならない出来で、いちばん問題なのは塗った画像をダウンロードするのですが、それが縮小画像だという事です。僕は600dpiでスキャンした線画で作業しますので、こんな縮小画像ではお話になりません、どのみちムリです。

最低限長辺5000pxくらいの画像を書き出してくれるサービスとかがなければこのアイデアは使えません。ですので自分でカラーリングするしかないようです。作業時間短縮につながるかと思ったのですが残念です。

んー、んー、んー、ここに書きたくない事をまたしても霊団に言われていますが、ただし霊的知識的に分からなくもないという内容で、ただただ物質界の道具(僕)は忍耐を要求され続けるという意味でした。ウンザリ×1億、もぉぉやだ、この人生いい加減にしてくれとシャウトしたいそのパワーを線画に回して早く描き上げましょう。

11年忍耐をやらされ続けて、全く何に結果にも到達せずさらに忍耐を要求され続ける。この仕事は一体何がどぉぉなってるんだよ。あんたたち(霊団)は人の人生を何だと思ってるんだよ。「僕の人生はお前ら(霊団)のオモチャじゃない」テキストと線画の作業続行中(祈)†

「だいたい2まで書けています」新規の霊言が霊界側で2巻分書き上がっているようです(祈)†■2023年11月22日UP■
「だいたい2まで書けています」新規の霊言が霊界側で2巻分書き上がっているようです(祈)†
「イエスが全部おこなうから」これは僕という霊の道具を使用しての霊的使命遂行の全仕事をイエス様がおこなっているという意味ですが、皆さまにくれぐれもお間違えのないようにして頂きたいのは、イエス様は「スピリチュアリズム普及の総指揮官」であり、個的形態をまとって物質圏付近に降下などできるはずもないはるかはるか向上を果たした超高級霊のお方です。そのイエス様が僕などというグズるお子ちゃまの面倒を見るためにアレコレ手を焼く事は絶対にありません。全体を計画し、想像もつかないほどの大人数の部下(天使)を従えて、指示を与えて仕事を推進するのであり、イエス様が直々に手を動かして仕事をするという事は有り得ないのです。しかし「スピリチュアリズムの真髄」の中に、イエス様が天使の大軍勢を従えて霊媒マッカロウ氏のところまで降下してこられ、実際に霊言を語ったという事が紹介されています。ですのでイエス様が僕という霊媒を使用して霊言を語るという可能性は絶無ではないのかも知れませんが、限りなくゼロに近いでしょう…続きを読む→
■2021年6月2日UP■
超久々に霊団最接近の「ブゥン!ブゥン!」という振動音を霊聴に聞きましたが、その意味は…(祈)†
霊団が犠牲を払って地上圏に降下するのには“理由”があります(祈)†だいぶ前にこのようなブログを書いた事がありますが、ここで説明している「ブゥン!ブゥン!」という、霊団が僕の肉体に最接近した時に聞こえる高速振動音を今日再び霊聴に聞きました。ずっとそれが霊聴に響き続けていたせいで寝不足にさせられて正直カチンと来ていますが、この霊団最接近の意味は過去ブログでも「祝福」か「慰め」だと書いていますが、今回は間違いなく悪い方の意味だと予測します…続きを読む→
霊関連書籍ムービー化『母と子の心霊教室 - 不思議な心の世界』訳者(やくしゃ)まえがき(祈)†■2022年1月27日UP■
霊関連書籍ムービー化『母と子の心霊教室 – 不思議な心の世界』訳者(やくしゃ)まえがき(祈)†
いちばんの謎(なぞ)はじつは“人間そのもの”なのです。人間については、はっきりとわかったことはなにひとつないといってもいいのです。たとえば、なぜ人間は物ごとを“考える”のか。なぜ“よろこび”、なぜ“悲しむ”のか。夜“寝て”朝なぜひとりでに“目が覚める”のか。その人体ができあがるいちばん最初は、目に見えないほど小さな細胞(さいぼう)でした。それが大きくなって科学を研究し、芸術を鑑賞(かんしょう)し、文学を語りスポーツを楽しむという、じつにさまざまな活動をするようになる、その知性と才能とエネルギーはいったいどこから生まれてくるのか、みな謎(なぞ)ばかりなのです。そうした謎(なぞ)について、ああでもない、こうでもないと思いあぐねていたときに、それを見事に説き明かしてくれる新しい思想が生まれました。スピリチュアリズムがそれです…続きを読む→

たきざわ彰人の霊覚者としてのインスピレーションに迫る
たきざわ彰人の霊覚者としての背景

たきざわ彰人は霊覚者として長年の経験を持っています。彼は自身の霊的な力を用いて、人々にメッセージやインスピレーションを届ける役割を果たしています。その立場にある彼は、精神性や霊的な存在への理解を深めるために努力しています。

霊覚者としての立場

たきざわ彰人は霊視や霊感を通じて様々な世界や存在を感知することができます。彼は自身の能力を使い、人々が抱える悩みや問題に対して助言や癒しを提供し、彼らが幸せな人生を送ることを支援しています。彼の霊覚者としての立場は、多くの人々にとっての心の支えとなっています。

帰幽についての想い

たきざわ彰人は帰幽というテーマについて多くの言及をしています。帰幽とは、霊的な存在や魂などが現世からあの世へ戻ることを指します。彼は11年間帰幽についての試練を続けており、それによって得た知識や経験をもとに、人々に希望や勇気を与えることを願っています。

霊的使命遂行の意義

たきざわ彰人は霊的な使命遂行に対して強い意義を感じています。彼は自身が受け取ったメッセージや霊的な啓示を伝えることで、人々の人生に希望や癒しをもたらすことができると信じています。そのため、苦難や困難な作業にも立ち向かい、使命を遂行することに情熱を注いでいます。

インスピレーションの源泉

たきざわ彰人の霊覚者としてのインスピレーションの源泉は、様々な要素によって形成されています。インスピレーションは彼の霊的な経験と知識に根ざしており、彼の霊的な使命遂行の一環としても現れています。

インスピレーションの発生条件

彼のインスピレーションは、特定の状況や条件が揃ったときに生まれます。彼は自身のブログで、長文ブログの完成が進んでいないことを明かしています。その一方で、帰幽というテーマが彼の作品に頻繁に取り上げられており、11年間帰幽できない試練が続いていることも述べられています。これらのテーマや試練は、彼のインスピレーションの発生条件の一部と言えるでしょう。

日常生活でのインスピレーション

彼の日常生活も彼のインスピレーションの源泉です。彼は霊的な使命遂行のために、70冊以上の書籍をスキャンし、OCR変換を行ってきました。これらの活動は途方もない作業量を必要とし、彼の精神的な負担も大きいものとなっています。さらに、彼は天皇一族の強姦殺人魔とされる存在についても言及し、彼らの犯罪と死刑に関する訴えも行っています。彼の日常生活は、彼の霊的な使命と関連しており、彼のインスピレーションが生まれる一因となっています。

インスピレーションを活用した作品作り

彼は自身で描いた作品についても言及しています。彼の作品の一つには「フラー」と呼ばれる絵がありますが、その作業が進んでいないことが明かされています。最終校正作業の難しさや脱出の困難さも彼が直面している課題です。これらの作業は彼の霊的な使命遂行の一環であり、彼のインスピレーションを具現化するための重要なステップとなっています。

インスピレーションを通した霊視の世界

たきざわ彰人は霊視を通じて、私たちが普段見ることのできない世界を目にすることができます。

霊視を通じて見える世界

霊視を通じて見える世界は、私たちの感覚では捉えることのできない魂や霊的な存在が存在する世界です。たきざわ彰人は霊視を通じて、霊的な次元に存在するエネルギーや存在の波動を感じ取ることができます。これにより、私たちの目には見えない現実を見つけ出し、それについての情報やメッセージを受け取ることができるのです。

インスピレーションと霊視の相互関係

霊視とインスピレーションは、たきざわ彰人にとって密接に関連しています。霊視を通じて見える情報やメッセージは、彼のインスピレーションの源泉となります。彼は霊的な世界からの導きを受け、その導きに基づいてアイデアや創作のインスピレーションを得るのです。霊視を通じて得た情報が彼の創作活動や情報提供に活かされているのです。

霊視を活用した対話と情報提供の方法

たきざわ彰人は霊視を活用して、人々との対話や情報提供を行っています。彼は霊的な存在とのコミュニケーションを通じて、人々の悩みや問題に対する解決策を提案したり、人々の心に安らぎや希望を与えるメッセージを伝えたりしています。

彼はまた、霊視を通じて得た情報をブログや書籍で公開しています。これにより、多くの人々が彼の霊視によって見える世界に触れ、新たな視点や気づきを得ることができるのです。


「天皇一族、強姦殺人魔」とか「フラー」とかのキーワードが盛り込まれてきたのには驚きましたが、僕本人がこの自動生成テキストを読んでみての率直な感想は「なんだかなぁ~」ですね。

正解の部分もある事はありますが、ほとんど不正解、と言うより表現があいまいで何が言いたいのか分かりません。もっとズバッと言えよ。僕がよく書く「気の抜けた炭酸水」という感じのテキストですね、ペライです。インスピレーションに関する記述はほぼ100%間違っています。

サブスクでしかもまぁまぁの数字のサービスとかを使用したらもっと違うテキストが生成されるのかも知れませんが、どうしたもんか。僕本人が「たきざわ彰人まとめブログ」を作ってやろうか、なんて思ってこういうテストをしてみたのです。ただ正直言って上記の自動生成テキストは気に入らないんですよ。これが僕が撃ったテキストだと誤解されると困る。とはいえ何とか活用できないものかなぁ、と思ってのテストでした(祈)†

■アナログ絵357「フラー26キャラ“ハチちゃん”設定資料」UP。ブンブンブン♪(祈)†■2023年12月16日UP■
■アナログ絵357「フラー26キャラ“ハチちゃん”設定資料」UP。ブンブンブン♪(祈)†
今回のハチちゃんも「インナーフレーム」での変形となります。前回のフラー06ver2.0のハチちゃんは腕に変形させる事を優先してハチちゃんらしい外見とは言えませんでしたので、今回のフラー26のハチちゃんは「ハチちゃんらしさ」にこだわりました。そのぶん腕に変形させるのが難しく、インナーフレームを駆使してかなり強引に変形させたという感じです。実は当初、フラー25のちょうちょちゃんと同じように3段変形させるつもりでいたのですが、何しろハチちゃんは1匹1匹が小さいですので「どう考えてもムリだ」という結論に早々に到達し、あきらめて通常の変形としました。イヤ、小さくはありません、このハチちゃん1匹の頭からお尻まで全長、オトナの身長くらい、イヤもっとあるかも知れません。子供なら3人くらい背中に乗せてブンブン飛べる大きさです。まぁフラーのキャラはどうしてもそういう「キモイサイズ感」になってしまいます…続きを読む→
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†■2023年11月15日UP■
「言う事を聞きなさい」んーイエス様のお言葉のようにも聞こえる、耳がイタイ(祈)†
肉体は自動的に朽ち果てるようにできていますから、その肉体をまとっての人生で幸福を得ようと考える事がそもそも本末転倒であり近視眼の極致であり、歳をとる事もなく傷つく事もない永遠の若さを保っている霊体をまとっての霊界人生の方に真実の幸福があるのは至極当然の事であり、その霊界生活に備えて物質界で自分を鍛えなければならないのです。「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁、コイツらはその「物質界の学び」を全てキャンセルしてワガママ放題で生活し、仕事もせず奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくって遊んでいます。つまり物質界で学ぶべき事を一切学ばずに帰幽する、霊界生活に何の備えもできていない人間という事になるのです。何の備えもできていませんからもちろん霊界生活に順応もできません、高級霊の方々から仕事を言いつけられる事もありません資格がないのですから。全く役立たずの人間、何の使い道もありませんから当然暗黒の底の底に落ちてそこで反省させられる訳です。それも物質界での苦しい期間をはるかに超える長い年月にわたって暗黒の中で悶絶する事になるので…続きを読む→

アナログ絵357

今回のハチちゃんも「インナーフレーム」での変形となります。前回のフラー06ver2.0のハチちゃんは腕に変形させる事を優先してハチちゃんらしい外見とは言えませんでしたので、今回のフラー26のハチちゃんは「ハチちゃんらしさ」にこだわりました。

そのぶん腕に変形させるのが難しく、インナーフレームを駆使してかなり強引に変形させたという感じです。実は当初、フラー25のちょうちょちゃんと同じように3段変形させるつもりでいたのですが、何しろハチちゃんは1匹1匹が小さいですので「どう考えてもムリだ」という結論に早々に到達し、あきらめて通常の変形としました。

イヤ、小さくはありません、このハチちゃん1匹の頭からお尻まで全長、オトナの身長くらい、イヤもっとあるかも知れません。子供なら3人くらい背中に乗せてブンブン飛べる大きさです。まぁフラーのキャラはどうしてもそういう「キモイサイズ感」になってしまいます。

アナログ絵257

はい、何をどうもがいても反逆(脱出)が完了しない状態に悶絶しながら複数作業を同時進行させている関係で、とにかく作業スピードが遅れに遅れまくってます。僕はモチベーションは高いです、しかし霊団が完全にやる気ゼロの状態で事態を進展、前進させるつもりが本当に全く無いようなのです。

だったら何で僕のDreamwork(画家活動)を破壊してまでこの使命遂行をやらせたんだよ。確か初期の頃の幽体離脱時、霊体の僕も霊界でおこなわれた会議に参加してたよな?(もっともその会議の内容は反芻できませんが)そこで僕にやらせる仕事の内容が話し合われたはずだよな。

まさかその会議の場で「アキトくんには何もしない残念な一生を送ってもらう事とする」という意見が主流となって満場一致で採択された、などとは言わせないぞ。そんなモノ僕が承諾する訳ネィだろ。つまり当初の予定と現在とが違う状況になっているという事になる。

っとと、このお話はまた別の機会にしましょう。まずはフラー26本体デザインに着手し、できる限り早くアナログ絵358「フラー26設定資料」をUPさせる事を目指しましょう。さらに「インペレーターの霊訓」の書籍データがほぼ完成しています。あとは表紙をもう1枚描いて、現在の表紙とどちらかふさわしい方を採用して、いよいよシチメンドクサイ復刊に向けての事務作業に突入するつもりです。

さらに止まる事なく復刊2冊目、3冊目、4冊目と、ジャンジャン出していくつもりです。そのつもりだから1年7ヶ月前から70冊以上の書籍の全ページをスキャン、OCR変換し続けてきたのです。断じて遊びでやっていたのではないのです。確固とした目的があっての事です。

フラーのプライオリティがあからさまに下がっていまして正直描き続けるのどうしようかなという思いもなくもないのですが、イヤ絵は描き続けましょう。絵を描くのをやめたら僕が僕である意味がなくなってしまう。フラー30到達という目標も掲げていますし(そこまで到達できない可能性も結構濃厚ですが)書籍復刊の作業と同時進行させるのがメチャキツイですが挫けず描き続けてみましょう。

絶版状態の霊関連書籍の復刊、できる事なら年6冊ペース(2ヶ月に1冊ぐらい)で出し続けられないかなぁとおぼろげに目標を掲げています。何しろ復刊自体がまだできるかどうか分かりませんのであくまでも希望の範疇です。その連続復刊の先に「出版社設立」という目標が控えているからです。

さぁフラー26本体デザインをクロッキーに向かって開始しつつ「インペレーターの霊訓」の表紙の線画を描きましょう。何が何でも脱出を完了させる、絶対にこの状況に閉じ込められはしない。今自分にできる全てをやる(祈)†
■アナログ絵353「フラー25キャラ設定資料」UP。ちょうちょちゃん3段変形です(祈)†■2023年4月27日UP■
■アナログ絵353「フラー25キャラ設定資料」UP。ちょうちょちゃん3段変形です(祈)†
フラーは「お花ちゃん」です。お花ちゃんといえばちょうちょちゃんです。これまで04、09、13、19と4回ちょうちょちゃんをフラーのキャラとして登場させましたが、今回のちょうちょちゃんはフラー11ver2.0プティットフラーのように「3段変形」します。しかしちょうちょちゃんは身体のほとんどがペラい羽です、この薄い羽の中に3段変形のギミックを盛り込まねばならず、相当に苦心しましたが、何とか汎用モード、そしてフラー25汎用モード時の腕に変形させる事ができました。お分かりになりますかね、腕に変形させるのにちょうちょちゃんの羽が超強引に折りたたまれまくっているのです。そしてちょうちょちゃん汎用モード時の腕の格納スペースが全くなかったのでやむを得ず触角としました。細い薄いパーツのオンパレードで強度的にだいぶ問題があるキャラとなりますが…続きを読む→
アナログ絵354「フラー25設定資料」UP。ちょうちょちゃんスカートフラーです(祈)†■2023年6月8日UP■
■アナログ絵354「フラー25設定資料」UP。ちょうちょちゃんスカートフラーです(祈)†
お花ちゃんと言えばちょうちょちゃん、今回のフラー25はちょうちょちゃんをキャラとしたスカートフラーになりましたが、ちょうちょちゃんのペライ羽の中に3段変形のギミックが盛り込まれていて描くのが超しんどい。「地獄のフラー」と命名されているフラー13に匹敵する「描き手泣かせの機体」となりました。このフラー25もフラー13同様、フラーを代表する機体としてストーリーに登場させたいところなのですが、フラー13の時は描くのが苦しすぎて全く登場させる事ができませんでした。今回のフラー25も同じ事になる可能性がありますが、何とかももちゃん、シルキーに搭乗させたい。描く僕は地獄。航行モード時の茎の部分に前後ふたつ、ちょうちょちゃんが止まるアタッチメントがあります。葉っぱウイングの格納がやはりネックで、他のスカートフラー同様、汎用モード時の脚部に超強引に折りたたまれています。他にどうしようもないんですよ…続きを読む→
■アナログ絵355「フラー25カラーリング」UP。長い長い地獄の旅でした(祈)†■2023年7月2日UP■
■アナログ絵355「フラー25カラーリング」UP。長い長い地獄の旅でした(祈)†
フラーのカラーリングの時はいつも同じ事を書いているような気もしなくもないのですが、このフラー25も本当にキビシイ機体でした。塗っても塗っても全く終わりが見えてこない無間地獄。フラー11ver2.0の悪夢が(最後まで塗り切れなかった)何度となくよぎりながら、何とか心を奮い立たせてAffinityPhotoと格闘し続けました。AffinityPhotoの再勉強をした方がイイかも知れません。何かしらスピードアップのヒントが得られるかも知れませんので。マクロだけじゃ足りない、もっと技が欲しい。今回のフラー25は特にカラーコンセプトも考えていなかったのですが、こうして塗ってみると、特にちょうちょちゃんは「ゴスロリ」といった“たたずまい”でしょうか。フラーをデザインし始めた初期の頃は霊団が「フラーのキット化」とか言ってきたものでしたが、もうそんな事は夢幻(ゆめまぼろし)のお話となっていて、キット化どころか僕は今にも殺される寸前という状況なのだそうです。塗っている最中にも決定的な事を言ってきています…続きを読む→
■2019年4月1日UP■
■アナログ絵257「フラー06ver2.0カラーリング」UPです。カラーコンセプトは「チョコミント」です♪(祈)†
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数年前、私は『死とは何か – 悩める人へのガイドブック』という短い記事を書いたことがある。長年の治療体験から、人間が「死」についてあまりに間違った観念を抱いていることを痛感していたので、それを簡潔にまとめたものだった。

それを第1章で紹介した私の恩人であるモーリス・パーパネル氏のもとに送った。短いものではあるが、1度に出す記事としては長すぎるし、さりとて書物にするには短すぎたのであるが、それに対するバーバネル氏の返答は簡潔にして明快であった。氏の編集している心霊誌の連載記事を全部休んで、私の記事を一挙に掲載したのだった。

これにはすごい反響があり、抜き刷り(リプリント)の要求が次々と来た。はじめのうち丁寧に応じていた出版社も、あまりの多さに手を焼き、それを24ページほどの小冊子として出版した。その時バーバネル氏による次のような「まえがき」をいただいた。

死とは何か – これがわからないようでは人生の意味を理解したとは言えない。この小冊子はその生と死の全体像を見事に明らかにしている。原稿に目を通した私はさっそく著者に賛辞を送った。長年の編集者としての経験から、こうした心霊問題を簡潔でコクのある生き生きとした文章で無駄なく描写することの難しさを熟知している。そのたいへんな仕事をテスター氏は見事にやってのけてくれたからだ。

小冊子とは言え、著者は長年にわたる世界の宗教の比較研究の成果をこれに注ぎ込んでいる。そもそも氏をその研究に駆り立てたのは、キリスト教神学のお粗末きわまる教義に満足しきれなかったことで、結局著者の知性がそれを容認できなかったということである。

深い洞察力と鋭敏な感受性の持主であるテスター氏は、この道に入る以前も、専門的知識はもちろん豊かな才能と鋭い知性を必要とする仕事で成功の道を歩んでおられた。それが思わぬ病魔によって廃業の危機に瀕した。英国一流の専門医も始めてというほどの重症の腰椎ヘルニアで激痛との闘いの毎日となったのである。

それが心霊治療家フリッカー氏のたった1回の手当てで全快し、専門医から“絶対必要だが成功の保証はできない”と宣告されていた手術も避けられた。その奇蹟の体験のあと、フリッカー氏から治療能力があることを教えられ、その後急速にその能力が開発されて今日なお治療の毎日を送っておられる。

かくして運命の紡ぎ車がまわり、治された患者が治す側にまわった。この事実は、霊的エネルギーが聖書の時代と同じく今日もなおこの世に顕現しつつあることを物語っている。テスター氏にとってはそれが日常茶飯事となっている。面会依頼の電話があっても、その要件が本職のコンサルタントとしてなのか治療家としてなのか、直接会うまではわからないと、氏は笑いながら語っていた。

人生の暗闇の中で苦しみつつ生きている人々に救いの手を差しのべる人として、テスター氏はうってつけの人である。氏みずからが激痛と煩悶と不信の嵐の中をくぐり抜けた人だからだ。

この小冊子は米国でも出版され、今なお両国でよく売れている。その根強い需要が何を意味するかは容易に察しがつく。われわれは、よく「もしも私が死んだら」という言い方をする。この“もしも”という言い方が現実にそぐわないことは誰もが知っている。

“もしも”ではなく“かならず“死ぬのである。死は例外なく全ての人に訪れる。なのに死についての権威ある解説書は1冊もない。その辺に私の小冊子がよく出る理由がある。

今かりに大きな図書館へ行って婦人科のコーナーを一覧されるとよい。そこには出産についての書物がところ狭しと並んでいる。医学の専門書ばかりではない。われわれ門外漢 – 門外婦人と言うべきか – のための本も大変な数である。

それに加えて最近では至るところで婦人のための講演会があり、テレビ番組がある。人間の誕生については驚くべき段階まで進んでいるといえる。テキストあり、専門家あり、伝統あり、おまけに無責任な説まである。

さて無事出産の過程をへてこの世に出てくると、こんどはいかに生きるかについての資料が揃っている。活字だけでなく目にも見せてくれる。生理学についての本は無数にあり、食事や運動、その他、健康管理全般にまで及んでいる。

スリムになりたい人、豊かなバストになりたい人、あるいは円満な夫婦生活の秘訣を知りたい人は、それぞれの分野の専門書を簡単に手に入れることが出来る。

人生に関する書物も同じように十分揃っている。とくにこの10年ばかりは如何に生きるべきか、幸福になるにはどうすればよいか、金を貯める秘訣は何か、といったことについての指南書が洪水のように出版されている。

地球を破壊するか、それとも物欲と快楽の場にするかに躍気になっているかに思える今の時代に、こうしたとかく無視されがちな問題を扱う本が続々と出ていることは注目に値することではある。

もっとも“どう生きればいいか”についての本は文字というものが生まれた頭初からあった。ただそれは“人生哲学”と呼ばれて、大体において宗教家か学者の専売特許とされていた。

そのほかにも、たとえば聖書(バイブル)などが一種の道しるべとして、模範とすべき人物や説話がそこから引用されてきた。かつてはそれが牧師や一家の父親がお説教の材料として使用された時代があった。

このように、出産についての心がけから、その後の生き方についての知識だけは十分に揃っている。が、いかにして死を迎えるべきかについての本は1冊もない。

もちろん死を主題とした話は多くの人が書いている。が、それらも分類すると2つに分けられる。1つはロマンチックに死を見つめる詩的人間で、死を悲しむ情で書く。いかに死を見つめるかを説くのではない。死に直面した人間の生への惜別の言葉にすぎない。

もう1つは例の神学者だ。彼らは伝統的信仰をバックにして死を説こうとするために、その教説は“しどろもどろ”で、何を言わんとしているのかよくわからない。

たいていの宗教、特に西洋の宗教は徹底した勧善懲悪説に基いているために、その論法は現実と矛盾したものにならざるを得ない。すなわち善いことをすれば – 教義に忠実に生きておれば – 幸福になり、悪いことをすれば – 教義からはずれたことをすると不幸になるというのであるが、実際にはまじめに教義に則(のっと)って生きている人がみじめな死に方をし、好きに生きている人が裕福で楽しい生活をエンジョイしている。

そこで彼らは、神の賞罰は死んだ後に与えられるのだと言い変える。善いことをしておれば天国へ行き、悪いことをすると地獄へ送られる、と。こんな子供だましの論法から、死についてまともな説が出るはずがない。

賞と罰、言いかえれば天国と地獄の説でしか生と死を説けないのだ。私に言わせれば、彼らは死をテーマにして頭の体操をしているにすぎない。そこから混乱が生じても別に不思議はない。

ほかにもう1つ問題がある。私は本を読んでいていつも感じるのであるが、本当によくわかった人が書いたものは平易な文体で書かれていて、しかも要を得ている。実にわかりやすいのである。

が、よく知りもせず書いた人の本は文章が冗漫で読みにくく、しかも自分で勝手に用語をこしらえるので、ふだん理解している意味で読んでいくと理解できないところが出てくる。読み終ってみると、読み始める前よりもいっそうわからなくなっている、といったことになる。

死についての信頼のおける本が出ない本当の理由は、それを書く人が1度も死を体験したことがないということに尽きる。その内容は勝手な推測か、さもなくば他の理論家の諸説の取り合わせにすぎない。

これでは平凡人が死について迷うのも無理はない。年を取り、死が近づいてくると、おくればせながら何か“死後の保証”のようなものが欲しくなる。神なんかいるものかと大きな口を利いていた人が、いそいそと教会へ通いはじめるのもそのあらわれである。慈善事業に寄付したりするのもそのためである。

そして、いいおじいちゃん、いいおばあちゃんと言われるように努力しはじめる。それもこれも、6、70年にわたって人の迷惑も考えずに必死に生き抜いてきたガムシャラな人生が、そうしたわずか2、3年あるいは数年の“殊勝な行い”によって、そのまろやかな温かさの中に忘れ去られてしまうことを祈ればこそなのである。

ある保険の外交員が言っていたことだが、見たところ迷信など信じそうにない教養ある人が死ぬ間際になるとカトリックの牧師を呼ぶケースがよくあるのも、別に不思議はないと言う。

洗礼を受け、信徒となり、罪を告白し、最後の聖油を注いでもらう(死の床でのカトリックの儀式)のは別に努力のいることではないし、費用もほとんどかからない。それだけで天国への約束が得られるのであるから、「いちばん安価な保険ですよ、まったく」とその外交員が言っていた。

もうそろそろ死への手引書があってもよい時代である。それも、お座なりの宗教的教説にしばられず、陳腐な神学者流の理論から完全に脱却し、しかも実際に死を体験した人間つまり霊界のスピリットによって書かれた死の参考書が必要なのである。

“死ぬ”ということは“生きる”ということとまったく同じように重大な問題である。しかもそれがあなた自身にも日1日と迫ってきている。アイスランドへの案内書を読んでも、行きたくなければ行かなくてもよい。結婚についての本を読んでも、生涯独身でいたければそれでもよい。が死だけはそうはいかない。かならず通過しなければならない重大な関門である。ならば本書を読まれたことは決して無駄ではないであろう。

そこで、あなたがまず第1に実行しなければならないことは、長い間あなたを混乱させてきた幼稚な教えを捨て去ることである。死について教え込まれてきた先入観を一切合切洗い落とすことである。

天国も地獄も忘れよう。天国へ行くとハープを弾きながら性を知らない乙女に世話をしてもらうとか、反対に地獄へ行くと悪魔によって焼かれたりいじめられたりするとか、そんな子供だましの観念を拭い去ってしまおう。

さらに“最後の審判”の教えも忘れてしまおう。要するに聖典教典の類いを忘れてしまうのである。そして死というものを1度も考えたことのない自分に戻ってみるのである。つまり赤ん坊の時代に戻るのである。さらにこんどはその前つまり生まれる瞬間の自分に戻ってみよう。そしてさらにその前の、母親の胎内に宿った時に戻ってみよう。そして更に…。

こうして原初に立ち帰るのである。一体自分とは何だろう。この肉体だろうか。いや違う。肉体は確かに便利な道具ではある。歩く、しゃべる、歌う、車を運転する、が肉体そのものがそうしているのではない。そうさせる何かが内部にある。

その何かが“精神”である。ではその精神が自分そのものだろうか。いや、やはり違う。精神は肉体を操るコントロールルームのようなもので、そこから筋肉や各種の腺に指令を発している。

脳もあなたの一部である。器官の中で最も複雑で最も重要な器官である。まさしくコンピューターと言えよう。が、どこの医学校でもその脳を取り出してビンの中で保存している。やはり脳も身体の一部にすぎないことがこれでわかる。肉屋さんへ行けば動物の脳味噌を売っているし、それをよろこんで買って食べる人もいるわけだ。

実はこうしたものとは全く別に第3の要素があって、それが肉体と精神とともに、あなたという1個の人間を構成しているのである。その第3の要素がスピリットである。スピリットこそあなた自身である。地上においてはそのスピリットが肉体と精神をまとって生活しているのである。

ではその証拠を見せてくれ – あなたはそうおっしゃるかも知れない。スピリットを見せろとおっしゃるかも知れない。が、スピリットは残念ながら人間の目には見えないのである。ここに1人の人間がいる。衣服をはぎ取れば肉体が見える。頭にドリルで穴をあければ脳味噌が見える。がスピリットはどこにも見えない。

死体をごらんになったことがあるだろうか。衣服を脱がせて解剖してみても、もうそこにはその人はいない。ただの脱け殻。肉と骨と繊維のかたまりにすぎない。放っておくとすぐに腐敗が始まるので、穴を掘って埋めるか焼却してしまわねばならない。

死体がその人そのものだったのだろうか。その肉のかたまりが愛し、よろこび、音楽を作曲し、名句を吟じ、発明し、想像力を働かせ、理論を立て、異性に求愛したのだろうか。誰にもそうは思えない。何か大切なものが失くなっている。つまりスピリットが脱けているのである。つまりその肉体が死んだのである。

人間は肉体と精神とスピリットの3つの要素から出来あがっている。そのことをしっかりと認識していただきたい。この地上を旅するための道具にすぎない肉体、その肉体をコントロールするメカニズムとしての精神、そしてその肉体と精神の両者に生命を賦与し、1個の生命体としての存在を与えているスピリット、この3つである。

死に際して消滅するのは肉体だけである。スピリットは絶対に死なない。“自分”は絶対に失くならないのである。つまり究極のあなたという存在はスピリットそのものであり、それが肉体という物質を通して6、70年あるいは8、90年の地上生活を自分で表現している。そのスピリットこそあなたなのである。

「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†■2022年5月18日UP■
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†
とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→
「進化が足りない」物質界の苦難の存在理由を僕は理解できていないという意味です(祈)†■2022年5月11日UP■
「進化が足りない」物質界の苦難の存在理由を僕は理解できていないという意味です(祈)†
物質界で味わった苦しい思いは、帰幽後に霊界で存分にその埋め合わせが用意されており、苦難から逃げずに立ち向かった者には霊的褒章が、苦難から逃げて物的享楽に走った者には幽界下層界での反省の人生が待ち受けています。さらに同胞(他人)を虐げて(肉体的精神的に傷つけて)私腹を肥やした人間には暗黒、地獄とも表現できる低い境涯にて永遠とも思える長い年月にわたる大変キビシイ未来が待ち受けています…続きを読む→
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†■2022年5月4日UP■
「悲劇」僕の残された物質界の人生はもう悲劇決定だそうです。永遠に許さぬ(祈)†
僕が本当にこういうヒドイ状況にさせられても全く誰の目も開かないというのか。誰ひとりとして真実に目覚めないというのか。僕の人生がこれだけ破壊されても日本国民の洗脳が1ミリたりとも破られないというのか。物質界はここまで腐りきっているのか。この期に及んでもまだ「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を陛下だの殿下だのと呼び続け笑顔で手を振り続け、奴隷の女の子を強姦殺人する手助けを続けるつもりなのか。「無知ほどこわいものはない」この言葉に帰着します…続きを読む→

書籍文藝年鑑2018

オーファンワークス関連で、図書館にてこれら書籍を閲覧、とされている書籍を(図書館に行っている時間がないので)安かったので入手しさっそく調べるのですが、アリ?必要な情報のかけらも掲載されてないぞ。これは一体何なんだ。もっと分厚い書籍かと思ってましたが案外ペライ。何だろなぁ。

フラー26キャラ線画のゴミ取り70%完成中、明日にはアナログ絵357としてUPできる予定、作業を急ぎつつインペレーターの霊訓の表紙の線画も同時進行で描いていきます。書籍データを完全なカタチで完成させたらいよいよ最高にメンドクサイ「復刊に向けた事務作業」に取り掛かるつもりです。ホントイヤだやりたくない。僕はデザイン作業に集中したい、外注したい、しかし外注費なんてない。

まぁた霊団がダンマリを決め込んでます。ただ見下ろしてるだけ、なんてお気楽な奴らなんだ。コッチは膨大な作業量をこなしているっていうのに。ホンット頭きますよ。しかし明日のUPを目指して手を止めずに行きましょう(祈)†

「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†■2022年10月12日UP■
「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†
霊格がある一定以上まで高まると物質圏付近に降下する事さえできなくなるそうで、影響力を行使しようにもできなくなる、それで霊力に感応する僕のような人間に対して働きかけて間接的に仕事を前進させようとする訳です。霊界高級霊の方々は自分で最低界に降下して仕事をする事は基本的にできない(ごくまれに使命に燃えて肉体をまとって降下する神霊も存在するそうです、イエス様がその代表ですね)ですので霊力に感応する物質界の人間に仕事をやってもらう事になる訳ですが、僕の霊団に対する反逆ぶりを見ればお分かりのように、ああでもないこうでもないと文句ばかり言って高級霊の言う通りには動いてくれないものです。それで霊界側で作成した使命遂行ブループリントの全てを達成できず霊媒は帰幽し、残りの仕事は次の霊媒を見出してその人物にやらせるという事になるのですが、その霊媒が物質界に全くいないのです…続きを読む→

アナログ絵357「フラー26キャラ設定資料」コチラは線画のみ、カラーリングはありませんのでゴミ取りを終えればほぼ完成、すぐUPできますので急いでます。そしてUP後すぐにフラー26本体デザインに着手しつつ同時進行で書籍「インペレーターの霊訓」の表紙の線画を描きます。現在15%完成中。

僕はフラーのカラーリングは果てしなくおこなっていますがキャラのカラーリングはあまり得意ではありませんので、この表紙のカラーリングが気に入らなくてボツにする可能性があります。そうなったとしても線画を巻末にオマケ掲載するつもりです。せっかく描くのですから。

チョト切ります失礼、作業を急ぎます、と言っても今日のUPはムリです、超特急でゴミ取りを終わらせましょう(祈)†

私のところを訪れる人のほとんどが、どうしてよいのかわけがわからなくなっている。言うことが支離滅裂でつじつまが合わない。情緒が不安定である。その根源にあるものは、これまで度々指摘したとおり、幼少時代からの宗教的思想のゆがみである。

そこで私の治療によって痛みが取れてラクになると色々と質問しはじめる。次に紹介するのは私が患者からいちばんよく受ける質問とそれに対する私の答えである。

「私はなぜこんな目に遭うのでしょう。」

こんな目に遭うという言い方のウラには、その災難を何かのバチと受けとめている心理が働いている。しかし事実はそうではなく、その原因はみずから呼び寄せている場合が多い。信念のない人間には迷いとイライラがつきまとう。それだけで潰瘍が生じることもある。

ではその潰瘍は迷いとイライラのバチかというと、それは観方1つだ。バチが当ったのではなく、イライラの心が潰瘍を生じることを知らずに間違った心の姿勢を続けたその結果にすぎないと受けとめれば、単なる因果律の働きにすぎない。

人間の悩みの大半は、存外、人間みずからが引き寄せているものだ。つまり悩みとして受けとめているにすぎない。実際は悩みでも何でもないことなのだ。といって私は人間に悩みや苦しみはないと言っているのではない。確かにある。がそれは悩みではなくて神が与える試練なのだ。つまりそれにどう対処するかであなたの真価が問われる重大な時なのだ。

神は人間を深みに連れて行くことがある
おぼれさせようとするのではない
魂の洗濯をさせるためだ

これは私がよく患者に引用して聞かせる言葉である。挫けてはいけない。勇気をもって事に当ることだ。なぜこんな目に、という疑問をもつということは、あなたが真理を求めようとしはじめた1つの表れでもあるのだ。

「癇癪をおこすのはいけないことでしょうか。」

怒りは神学でいう7つの大罪つまり致命的な罪悪の1つに数えられている。あなたにとって致命的という意味である。これは生理的にも致命的であることがわかっている。腹を立てるとアドレナリンというホルモンが多量に血液中に流れ込む。

すると脈拍が上がり、血圧が上がり、凝血度が上がる。そして、こんなことがあまりひんぱんに繰り返されると、あなた自身も天へ上がる – 血栓症か脳出血で。冷静を失うと運命のコントロールを失い、友を失い、健康を失い、そして生命まで失いかねない。癇癪の代償は少し高すぎないだろうか。

「菜食主義にすべきでしょうか。」

人間は動物ではない。動物以上の存在であり、動物を庇護すべき立場にある。人間のエゴイズムから動物を食糧とするのは間違っている。私はそう信じるのである。このことは同時に娯楽のための狩猟、医学の名のもとに行われる動物実験、食用のための飼育も許されるべきことでないということである。

もしもあなたが私のこの考えに賛成されるのであれば、あなたは肉食をやめて菜食中心にすべきである。もし賛成されなくても、霊的に成長された時になるほどと思われるはずである。どちらでもない、よく分からない状態であれば、1度屠殺場へ行って現場をご覧になることである。はっきりとお分かりになるはずである。

「神の存在を信じますか。」

私は信じる。どこを見ても自然界には見事な意匠(デザイン)がある。その全てを見ることは不可能であり、これからのちも不可能であるが、わずかではあっても、これまでに見ることを得たかぎりでも、ただただ驚異というほかはない。

その見事なデザインがあるからには、それを拵えたデザイナーがいるはずである。それをゴッドと呼んでもいいし、アラーと呼んでもいいし、大霊と呼んでもいいし、生命力と呼んでもいい。『ガリバー旅行記』で有名なスイフトの次の言葉に私も賛成である。

「アルファベットの寄せ集めによって哲学の大論文が出来るわけがないのと同様に、宇宙が原子の偶然の集合によって出来あがったとは信じられない。」

「心配することはいけないことですか。」

心配の程度があなたの信念の欠如の程度を表わす。心配の念は判断力を曇らせ、身体機能を鈍らせ、不審と不機嫌の雰囲気を作る。よく寝られない。寝起きが悪い。その不愉快の雰囲気はやがてまわりの人へも伝染していく。

問題が生じたらじっくりと考え、分析し、あなたなりに最善を尽くし、やるだけのことをやったら、あとは何も考えず全てを背後霊にまかせることだ。あとのことはあなたにはどうしようもないからだ。

「どこかの慈善団体に加入すべきでしょうか。」

慈善事業を目的とする団体に加入すればもう個人的な善意の行為をしなくてもいいということにはならない。確かに慈善団体はコンサート、舞踊会、宝くじ、等々の仕事を通じて大いに人の為に奉仕しているが、その組織力の威力が個人的な小さな善意の施しを無意味であるかに思わせている点も見逃せない。

どんな小さな施しでもよい。心のこもったものを寄付するということでよい。私はこの施しの精神は人生哲学の中において大切な意味をもっていると信じている。日常生活における“当然の行い”の一つとすべきだと思う。「施すは受くるより幸いなり」という聖書の言葉を知らぬ者はないが、自分みずから何かを人に施すべきであることを、みんな忘れてはいないだろうか。

「アルコールはいけないでしょうか。」

アルコールも一種の麻薬である。テレビのコマーシャルで宣伝されてるとか、自由に手に入るからといって、それで飲むことが正当化されると思ってはいけない。一種の麻薬であるから中毒になる危険性がある。

出来ることならアルコール類とは一切縁を切るほうがいいが、どうしてもダメという方は、ほどほどにということを心がけることである。本当の寛ぎとか気晴らしは霊的な修養から来るもので、麻薬や薬品、アルコール等にたよるのは邪道である。

「たばこはやめるべきでしょうか。」

もちろんである。たばこの害は科学的にもはっきりとした結果が出ていて、百害あって一利なしのいちばんの見本である。吸い込んだ煙が気管支から肺へかけてどんな影響を及ぼしているかを1度見たら、いっぺんに気分が悪くなり吸うのが怖くなるはずである。

そのことならよく知っている。命を縮めることも知っている。肺を傷めることも知っている。金のムダであることも知っている。でも、だからといってたばこをやめようとは思わないという方は、吸えばいいのである。知らずにやっているのならムリにも止めるが、百も承知の上なら自由にやるがよろしい。所詮は自分自身の問題なのだから。

「磁気療法や信仰療法は心霊治療とどこが違うのですか。」

治療法には大きく分けて磁気療法と心霊療法の2つがある。磁気療法は治療家自身の身体に蓄積している磁気エネルギーを注入することによって患者の衰弱した身体を回復させるもので、従ってあまり多くの患者を治療すると疲労を覚える。エネルギーの蓄えが無くなるわけである。

実はこの磁気による影響は一般の人もいろんな形で体験しているはずである。馬丁が興奮しているサラブレッドを鎮めるのも、看護婦が深夜に病棟をまわって患者に声をかけたり枕を直してあげたりしたあと、患者が心の落着きを感じてよく寝られるのも、あるいは、わいわい騒いでいる教室に先生が入ってくると水を打ったように静まり返るのも、医者が回診してベッドのわきに来ただけで病状が好転するといったことも、ある庭師が手入れすると不思議に生育がよくなるといったことも、あるいはその人に会っただけで心の重みが軽くなるといった体験も、みな、その人のもつ磁気力の影響である。

そういう人はみな例外なく強烈な個性の持ち主である。ただしその個性を支えるものとして、楽天的精神構造と信念がある。積極性と楽天性と信念とが相まって強力なオーラを作り出し、そのオーラが人間はもとより動物や植物、時には偶然と思われる出来ごとの展開にさえ影響を及ぼす。

その人に会うと、会っている間だけはその人の徳性を身にまとう。すると当然その徳性はその人の魂に影響を及ぼす。魂が洗われ、身体との自然な調和が取り戻され、不思議に元気が出てくる。一種の磁気治療を受けたのと同じことになる。

いわゆる信仰治療家も実はこの磁気の作用を大いに活用している。元来信仰治療家も強力な個性の持ち主である。そして人間の身体に自然治癒力つまり自分みずから治す力が具わっていることを知っているので、まず患者にそのことを認識させる。

さらにその強力な個性の力で患者を何となく良くなったような気持にさせ、その調子でどんどん良くなっていくという信念をもたせる。その信念が信仰心にも似た自信を生む。この自信というのが実はすごい威力を発揮するのである。

心身症なども改善し、あるいは完治させる。結局信仰治療家の武器はまず治療家自身の強烈な個性であり、次に患者にもたせる“治る”という自信であり、そしてその自信を生む温床となる感動的ムードである。

私は信仰治療家ではない。磁気療法も用いない。もちろん磁気が作用していないことはない。心理的な作用もあるだろう。私のところに来ただけで良くなったり、極端な場合は来る途中で治ったりすることがあるのをみても分る。

が私の場合の磁気作用は私の霊的エネルギーを受け易い状態に誘導する程度の作用であって、それ自体が治癒をもたらすことはない。私はあくまで心霊治療家なのである。

私たちの身のまわりには私が“生命エネルギー”と呼んでいる莫大なエネルギーが潜在している。私が、と言ったが、最初にその用語を用いたのはバーナード・ショウで、私はいい呼び方だと思う。特別なエネルギーではない。春になると木々が芽を出し花を咲かせるそのエネルギー。

四季をめぐらせ、秋になると作物や果物を実らせるエネルギー。精子と卵子の結合から赤ん坊となり1人前の成人へと成長させるエネルギー。そうした自然界の隅々まで動かしているエネルギーとまったく同じものが病気を治し元気を回復させるのである。

病気の人はそのエネルギーを必要としている。全身にまんべんなく注ぐ必要がある人もいるし、患部に集中的に注ぐ必要がある場合もある。いずれにせよ、その注入には道具がいる。コンデンサーのようにエネルギーを集積し、トランスのように波長を患者に応じて変化させ、それを患者の全身、時には器官や関節などに集中的に照射する。

その道具は機械ではなく、私のような人間である。生まれつきコンデンサーやトランスのような働きを具えた人間であり、そう多くはいない。それだけに極めて貴重であり、重大な任務を背負っていることになる。だから、こうした才能に恵まれた人はつとめて精進する必要があるが、同時にその人間を最大限有効に活用するために、それ専門の背後霊(スピリット)が付いている。

この場合のスピリットは、霊界での生活体験の中で病気に苦しむ地上の人間を救うという使命を帯びて一時的に私のような治療家を援助する。それがそのスピリットの霊的向上にとっての必須体験となるわけである。といっても、一時の思い付きでそうするのではない。

実際には治療家が地上に生を享ける以前から、あらかたの準備は出来ているのである。そしていよいよ地上へ生を享けた瞬間から人間としての生長を見守り、治療としての必要な体験を積ませ、これでよしとみた時期から治療力を発現させる。つまり指導霊(ガイド)なのである。

患者によってはいちばん悪い箇所をいきなり治療できないことがある。全身の衰弱がひどくて治療に耐え切れないからである。そこでスピリットは治療の手順を変え、患部はそのままにしておいて、まず全身にエネルギーを注入する。

これで新陳代謝が活発になり動きがラクになる。これを二、三回繰り返すうちにすっかり体力が回復してくる。その段階でいよいよ患部に向けて、ほんのわずかな時間だが、集中的にエネルギーを照射する。それであっさりと治る。

その点信仰治療家は患者自身の信念や自信で治すのであるから、そういう信念や自信をもたせるように、治療家自身をはじめとして治療室全体のムードを盛り上げるように飾り立てる必要がある。

たとえば治療室として教会のような“聖なる場所”を選び、香を焚き、大きなローソクを並べ立て、“聖なる音楽”を流し、治療家は何やら神秘的なムードのする衣服をまとい、九字を切ったりして仰々しい儀式を行う。

私はそうしたこととは一切無縁である。明るい普通の部屋でワイシャツ姿で治療する。私にとって場所はどこでもいいのである。請われれば病院でも自宅でも、その人の都合のいいところへ出向いて治療してあげる。

治癒エネルギーは私から出るのではない。霊界の医師が操作して、私の身体を通して患者へ注入する。私はその通路にすぎない。通路にすぎないから、治療によって私から奪われるものは何もない。

むしろ私の身体を通過する際に少しずつエネルギーの“おこぼれ”が残っていくらしく、1日の治療 – 20人も治療することがある – が終ったあと、疲れが残らないどころか、逆に元気はつらつとなるのだ。

「完全に離れさせる」僕を使命遂行から離す、危機を回避させるという意味です(祈)†■2022年11月30日UP■
「完全に離れさせる」僕を使命遂行から離す、危機を回避させるという意味です(祈)†
奴隷の女の子たちの悲劇の惨状の認知、そして霊的知識普及活動がだいぶ進行した事に対する、霊団の一定の評価の言葉と受け取っていいのかも知れません。もっと突っ込んで言えば「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する仕事は、霊界側からすれば「どの霊能者にお願いしてもやってくれなかった仕事」なのでしょう。それを僕がやってくれたので感謝しているという意味もたぶん含まれているのではないでしょうか。もっとも「そう言うセリフは結果に到達させてから言ってくれ」と僕は言いたいですが。霊界上層界から霊眼で物質界を見下ろした時、今まで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の洗脳に完全にやられていた多くの人間が真実に目覚めていく様子がつぶさに観察できるのでしょう、それで「感謝」という言葉が出てくるのだと思いますが、物的肉眼には全く何の変化も映りません…続きを読む→
「無限なるものを有限なるもので判断してはいけません」苦しみが続くという意味です(祈)†■2022年11月23日UP■
「無限なるものを有限なるもので判断してはいけません」苦しみが続くという意味です(祈)†
僕たち人間は霊的身体(幽体、霊体等)をまとって霊界で生活している状態が通常であり、霊界で進歩向上を果たすための人生勉強の場、もっと言うと苦しい、悲しい、ヒドイ目に遭わされて心を魂を鍛える場として物質界は存在し、現在の自分に足りないものを自覚して自ら志願して苦難の人生を体験するために物質界というトレーニングセンターに降下してきているのです。物質というものは本来が腐食性のものであり、物質そのものには存在はありません。霊という生命力によって形態を維持しているだけのものであり、霊が引っ込めばたちまち分解して地球を構成する元の成分(土くれ)に帰っていきます。死体が腐敗していくのを見ればそれが一目瞭然でしょう。しかしそれは衣服が腐っているだけで本人は霊的身体に着替えて意気揚々としているのです…続きを読む→
「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†■2022年11月16日UP■
「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†
人の夢を破壊して、全然違う人生をやらせて、あげくの果てに何の結果にも到達せず元に戻れだと?だったら時間を返せ。お前らのちょっかいのせいで描けるはずだったのに描けなくさせられた作品の責任を取れ。何より奴隷の女の子を見殺しにする事を決定した、それを納得させる説明をしてみろ、できるものならやってみろ。おかしい、コイツら(霊団)完全におかしい。しかし霊団がこれほどおかしい事を言ってくるその理由は、それくらい僕に危機が迫っているという事の裏返しでもあるのです。普通なら自分を守ってくれているのですから感謝すべきなのでしょうが、僕は「帰幽カモン」です。この狂った腐った物質界に1秒たりとも残っていたくない男です。僕の生き死にはどうでもいいから仕事を達成させろよ!…続きを読む→