まずは昨日の山の撮影画像をUPですが、この地獄はいつまで続くんだ、いつまでやらされるんだ、恐るべき絶望感に襲われます。しかし撃つべきは撃たないといけません。これをやらなければ何のために物質界に残されているのか分からなくなってしまいます。

あー気が重い、これらインスピレーション全ての説明などもちろんできる訳がありませんのでかなりの量を削除して撃ち始める事になります。このまま僕は永遠に最悪の中に閉じ込められるというのか。もうイヤだ、地球圏物質界イヤだ。っとと、グチはあと、何とか撃ち始めましょう(祈)†

その山頂は本当にいつ行ってもガスに包まれている、今回もまたしてもガスの状態で、それでもその標高にとどまって撮影してやろうかと思ったのですが(気温が高いのでそれほど危険はないという判断)「先生(山の事を僕はこのように呼ぶのです)相手にムキになっても痛い目見るだけだ」という事で泣く泣く標高を下げての撮影としました。

撮影を速攻で済ませていつもより少しだけ早くゴールしました。予報が予報なので雨がドッカーンって降ってきたら道路が通行止めになる可能性がありますので早めに帰ってきました。

山を登攀中に霊団がいくつか気になる事を言ってきてまして、なぜわざわざクロッキーにメモできないタイミングを狙って言ってくるんだよ。100%イヤガラセだろ。明日の長文テキスト撃ちの事を考えるとユウウツです。まぁ何とか撃てるとは思いますが…。

今日の撮影画像のUPは明日。まずはダメージの回復に集中させて下さい。山よりロングドライブが超絶的にピンチです。ポケットラジオ、笑っちゃうほど全く何の役にも立ちませんでした(祈)†

コチラの書籍はパウロの晩年の伝道記となります。ほとんど牢屋に入れられっぱなし、鎖につながれっぱなし、サウロ時代にイエス様の使途を大勢殺すという大罪人でしたからその悪行の因果律としてそういう晩年だったと思われるものの、その苦難を耐えて最後までやらせた霊団がスゴイと思います。

こんなヒドイ目に遭わされれば普通逃げるだろと思うのですが、要所要所でパウロは天使の顕現に浴させて頂いており、それが抑止力、使命遂行への決意維持につながったのだろうと思います。

僕がいちばん印象に残っているシーンはイエス様の実母マリア(この時かなり高齢)がルカに連れられて獄中のパウロに面会したシーンです。その時、パウロはマリアのうしろに立つイエス様を霊視で見たそうです。これは素晴らしいシーンですね。(20章、21章)

Google翻訳の読みにくい文章かも知れませんがどうかそこはご勘弁頂いて、ぜひとも多くの方にお読み頂きたいと思います。近藤千雄先生も山本貞彰氏も翻訳しなかった書籍となります。まだ未翻訳の書籍を入手するつもりでいるのですが何をどうググってもどこにも存在しておらず、現状入手は絶望的状況です。

さぁもう明日の山のアタック準備ですので今日の作業はココまで。明日はグラデーション撮影は絶望的、しかし置かれた環境で撮れる限りのモノを撮ってきます。もはや僕の山での撮影は仕事であり使命遂行の一環なのです。どんなヒドイ状況だろうと何が何でも撮影しなければなりません。

帰還後の長文ブログの事を思うと気が重くてどうしようもありません。本当にテキスト撃ち続けるのが苦しくなっているからです。まさか本当に霊団はこの状態をいつまでもどこまでも続けさせるつもりじゃネィだろうな何の結果にも到達させずに。ジョォォダンじゃネィよ。ホンの10分でも自分を助ける作業をしましょう。霊団は何もしませんからね(祈)†

[思いつくまま反論を試みようとしたところ、制止されて、逆に次のような通信が届けられた。]

魂は自由であるべきもの

これまで述べてきたところをまとめる意味で、今少し述べてみたいと思う。そなたは宗教というものが人類全体としては大した影響力をもたないものであることを十分に理解していないようです。

われわれの述べる言説こそ人類の必要性と願望を満たす要素をもつことも理解していない。どうやら、今そなたが置かれている交友関係とその精神状態では明確に理解し得ないものを、ここで指摘しておく必要がありそうです。

人間界に蔓延している死後の問題への関心が実にいい加減であることも、そなたにはわかっていない。死後はどうなるかについて関心を示す者がたどりついた結論は、これまでの来世観では曖昧にして愚劣であり、矛盾撞着があり、とても得心がいかないということ、それだけです。

理性的にみれば、絶対的啓示として信じるよう教え込まれた“神の啓示”には人工の混ぜものが歴然としており、純然たる人間的産物に適用される判断基準にさえも耐え切れないこと、そして又、理性は啓示の判断基準ではないのだから知的追求の枠外に置き、ただひたすら信ぜよとの牧師の詭弁は、実は、決して誤らないはずの福音の中に数多く発見される誤りと矛盾を被い隠すための巧妙な言い逃れの手段であることは容易に知れます。

理性という試金石を使用すれば、それくらいのことは立ちどころに知れます。理性をもたない者のみが盲目的信仰へと避難し、狂信的、偏狭的、そして非合理きわまる盲目的信奉者となっていくのです。

そして、教え込まれた通りの因習的教義に凝り固まり、そこから1歩も出ようとしません。それもただ、それに疑念をはさむことが恐ろしいからに過ぎません。

宗教上の問題についての理知的思考を禁じることほど、精神を拘束し魂の発育を歪めるものはありません。それは思考の自由を完全に麻痺させ、魂の成長をほぼ完全に阻害します。魂が、その欲求を満たす満たさないに関わりなく、ひとつの因習的宗教によって縛りつけられてしまうからです。

これでは、魂の成長の糧をみずから選択する自由が皆無となります。遠い祖先にとってはそれで良かったかも知れないことも、時代を異にして苦悩する魂にとっては、まったく無意味なことも有りえます。ゆえに、その自由を奪われては、魂の栄養は誕生する時代と土地とによって決定づけられてしまうことになります。

キリスト教徒となるのも、マホメット教徒となるのも、あるいはそなたたちのいう異教徒となるのも、そこに本人の自由選択を行使する余地は皆無ということになります。

その神がインディアンのいう大霊となるも、未開人の呪物となるも、あるいはその予言者がキリストとなるも、マホメットとなるも、孔子となるも – 要するに、その宗教的概念が世界の東西南北いずれの地域のものであろうと、それが宿命的な拘束力をもつことになります。

何となれば、いずれの国にあっても、古来その国なりの神学を生み出し、それが子孫に対して、魂の救済において絶対不可欠の拘束力をもつに至っているからです。

真理のすべてを包含する宗教は存在しない

この事実は、そなたにとって熟考を要する問題です。いかなる宗教といえども、地上のある地域の民族に訴えることはあっても、唯一その宗教のみが神の啓示のすべてを包含すると考えるのは、人間の虚栄心と思い上がりが生む、作り話にすぎません。

今地上で全盛を誇っている宗教も、あるいはかつて全盛をきわめた宗教も、どれひとつとして真理を独占するものではありません。完全な宗教など、どこにも存在しません。

それが発生した土地、そして又、それを生み出した者の必要性を満たす、それなりの真理を幾つかそなえてはいても、同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけられるべきものではありません。

それは神からその民族のために与えられた霊的栄養なのです。それをもって普遍絶対性を主張すること自体が、すでに人間らしい弱点をさらけ出しております。

人間はとかく自分のみが特別の真理の所有者であると思いたがるものです。その妄想にしがみつき、われらこそは神の真理を授かれる者なりと思い上がり、世界各地に宣教師を派遣して、他の土地、他の民族にもその万能薬を広めねばならぬと真剣に思い込んでいる姿を見ていると、われわれは、その“けなげな”気持には微笑(ほほ)えまずにおれません。もっとも、その思い上がりを笑われ、その思想を蔑まれるのが落ちですが…。

すぐれた学識をそなえているはずの神学者が、自分に届けられた真理の光をもって唯一無二の真理と思い込み、それに無用の手を加えて折角の輝きを曇らせていますが、その光は、これまで地上に注がれた数多くの真理の太陽の光の一条にすぎないことに、今まで気づかず今なお気づかずにいることは、われわれにとって驚異というほかはありません。

神の真理は太陽のごとくあまりに強烈であり、そのままではとても人間の目では直視できません。それはぜひとも地上の霊媒を通すことによって和らげる必要があります。

つまり、光に慣れない目を眩まさないように、人間的伝達手段を通すことによって幾分か光度を落とさねばなりません。その中間的媒体を通さずに直接(じか)に真理の光を見出せるようになるのは、肉体を棄て、天上高く舞い上がった時でしかありません。

脚下照顧(きゃっかしょうこ)

地上のすべての民族にそれ相当の真理の光が授けられております。それを各民族それなりに最高の形で受け取り、それなりに立派に育て上げられたものもあれば、歪められてしまったものもあります。

いずれにせよ、結局はその民族固有の必要性に応じて変形されてきております。それゆえ、地上のいかなる民族といえども、真理独占を誇り、それを他民族に押しつけんとす無益な努力が許される道理はないのです。

これまで地上に発生したどの宗教も – バラモン教もマホメット教もユダヤ教もキリスト教も – それ独自の特異な真理を授かってきたのであり、ただ人間が勝手にそれを真理のすべてであると思い込み、わが宗教こそ神の遺産の相続人であると自負したにすぎません。

その過ちを最も顕著に示しているのが、ほかならぬキリスト教です。教会こそ神の真理の独占者であると思い込み、地上全土にそのランプの光を持ち歩かねばならぬと信じていながら、その実、教会内部において対立する宗派がいちばん多いのもキリスト教であるという事実が、その過ちを何よりも雄弁に物語っていると言えるでしょう。

内部の分裂、その支離滅裂の教義、互いに愛を独占せんとして罵(ののし)り合う狂気の沙汰の抗争、こうしたことは、キリスト教こそ神の真理の独占者であるという愚かな自負への絶好の回答です。

が、この人間的無知の霧に新たな光が射し込む日が近づきつつあります。その新しい啓示の普及による啓発によって、そうした宗閥的勢力争いも消滅するでしょう。人類はそなたが想像する以上にその啓示を受け入れる用意ができているのです。

その暁には、各宗教には中心的太陽ともいうべき神の光の一条のみが与えられているにすぎないこと、しかも、その光が人間の無知によって曇らされていること、しかしその奥には真理の芽が隠されていることを知ることでしょう。

それゆえ人間は、他民族の信仰の中にも真理を見出し、それなりの教訓を学び取り、邪を棄て善を摂取し、人間的過ちの中にも神を見出し、自分たちの欲求にそぐわないと思い込んでいたものの中にも、神聖なものを認識しなければいけません。

宗教としてあるまじき内部事情

われわれがその普及を使命として担わされている壮大な霊的教訓は、理性的観点からすれば合理的であると同時に崇高なものをそなえており、その普及によって、これまで宗教の名を辱しめ、神学を世間の物笑いのタネとしてしまった宗閥的嫉妬心と神学的暴言、憎悪と悪意、怨恨と偽善が地上から払拭(ふっしょく)される日も間近に迫っております。

それにしても、ああ、何たる醜態でしょう!本来ならば神の本性を明らかにし、神の愛を少しでも魂に吹き込むべき神学 – それが、事もあろうに宗派と分派の戦場と化し、児戯に類する偏見と見苦しい感情をむき出しにする不毛の地と化し、神についての無知を最もあらわに曝け出し、神の本質と働きについて激しく非難し合う、佗しい荒野と化してしまうとは!

神学!これはもはやそなたらキリスト者の間でさえ侮蔑をもって語られるに至っています。神についての無知の証ともいうべき退屈きわまる神学書は、見苦しい悪口雑言(あっこうぞうごん)、キリスト者と
して最もあるまじき憎悪、厚顔無恥の虚言の固まりです。

神学!聖なる本能のすべてをかき消し、敵に向けるべき攻撃の刃(やいば)を同志に向け、聖者の中の聖者ともいうべき霊覚者を火刑に処し、あるいは拷問にかけて八つ裂きにし、礼遇すべきであった人々を流刑にし、あるいは追放し、人間としての最高の本能を堕落させ、自然の情緒をかき消すことを正当化するための口実とされてきたではありませんか。ああ、何たる醜態でしょう!

そこは今なお人間として最低の悪感情が大手を振って歩く世界であり、その世界から1歩でも出ようとする者を押し止めんとします。“退がれ!退がれ!神学のあるところに理性の入る余地などあるものか! – これが神学者の態度です。

真摯な人間を赤面させる人間的煩悩のほとんどすべてがそこにあり、自由な思索は息切れし、人間はあたかも理性なき操り人形と化しております。本来ならば神について語るべき叡知を、人間はそのような愚劣な目的のために堕落させてきたのです。

しかし友よ、われわれの目的成就の日も間近です。こうした風潮をいつまでも放置しておくわけにはいきません。今はまさにイエスの降臨前と同じです。夜明け前の漆黒(しっこく)の闇と同じです。

無知という名の夜が足早に過ぎ去りつつあります。聖職の権能によってがんじがらめにされた魂がその束縛を断ち切り、常軌を逸した愚行、無知が生み出す偽善、そして曖昧模糊(もこ)の思索の産物に代って、理性を得心させる宗教と信仰を手にする日が訪れるでしょう。

その時は神についてのより豊かな概念と、人間の義務と宿命についてのより正しい見解を手にすることでしょう。人間が死者と呼んでいる者も、地上時代と少しも変らず、否、むしろ、より実感をもって生きていること、しかも、地上時代に交わった時と変らぬ情愛をもって加護に当たっていることを知ることでしょう。

イエスは生命の本質と不滅性の真理を地上にもたらした、とバイブルにあります。その言葉は、筆録者が意味したものより、もっと広い意味において真実です。

イエスによる啓示の成就は – 今まさにそれが成就されんとしているところですが – 真実の意味における“死の観念”の撲滅であり、“生命の不滅性”の実証にほかなりません。

その偉大な真理、すなわち人間は永遠に死なないということ、たとえ死にたくても死ぬことはできないという事実の中に、未来へのカギが託されています。信仰のひとつとしてではなく、教義の一項目としてでもなく、生きた知識と現実の事実のひとつとして、生命の不滅性は未来の真実の宗教の基調であらねばなりません。

われわれの説く深遠な真理も、崇高な義務の概念も、壮大な宿命の観念も、人生の真実の悟りも、すべてその生命の不滅性の上に成り立っているのです。

今のそなたには理解できないことかも知れません。炎に慣れていないそなたの魂は、目が眩むことでしょう。が、友よ、よく心されよ、やがてわれわれの言葉の中に真理のしるし、神性の一面を認めるようになる日が必ずきます。

†インペレーター

[注釈]

(1)キリスト教についてこれほど遠慮容赦のない批判を、罵倒に近い調子で投げつけた節も珍しい。訳者としても訳語の選択に戸惑うほどである。

キリスト教に愛着をもたれる方にとっては不愉快きわまる言説かも知れないが、これが、オックスフォード大学で徹底的に神学を叩き込まれ、しかもそれを唯一絶対のものと信じ、みずからも説いてきた、ステイントン・モーゼスという牧師自身の手が本人の意志を無視して自動的に動いて綴ったものであるという事実が、ここで大きな意味をもつことになる。モーゼス自身がその内容に反発し、反論し、健康を害するほどまで悩まされたのである。

ところで、ここで“堕落させてきた”とインペレーターが言っているその源をたどっていくと、325年のニケア会議(ニケアはニケーアと表記されることもあり、古代ではニースといった)での“歴史上最大の陰謀”(一聖書学者の言葉)に至るというのが常識的結論であろう。

そのニケア会議の全容を記した古書 History of the First Council of Nice, by D. Dudley(第1回ニケア会議の真相・初版1886年)を英国の古書店に依頼しておいたのであるが、不思議にも、この一節を執筆している最中に、突如、届けられた。

1年近くも前に注文し、すっかり忘れていたので驚いたが、その内容を一読してさらに驚いた。どこかの国の乱闘国会よりもっと見苦しい醜態の中で、キリスト教を国教とする採択がなされた経緯が、非難攻撃といった態度でなしに、一種の学術的資料の公表といった形で、整然とまとめられている。

いずれバイブルとキリスト教に造詣の深い方によって全訳されることになろうが、その著書の第7版(1925)に寄せられた大学教授ヒルトン・ホテマ氏の“序”がその概要を簡潔に説明してくれているので、それを≪参考資料≫として巻末に掲げておいた。

■2021年9月15日UP■
「いよいよ存在価値がなくなっていく」お分かりですね、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事ですよ(祈)†
日航ジャンボ機を墜落させて自分たちの邪悪の正体を公言しようとした人間を一気に殺したのも、その他いくらでもある事と思いますが、それらの行動には全て「動機」があるという事になります。その動機こそ霊団が言ってきた「人生イコールS〇X」この言葉ひとつに集約されるのです。コイツらの人生の目的、行動の動機は「S〇X1本」です。幼い奴隷の女の子を「処刑遊び」で四肢切断、強姦殺人し続けるために全てのウソをついているのです。抵抗する術を知らない盗んできた(パレットから買ってきた)女の子たちをレイプし続けるために生まれてから死ぬまで自分の人生の全てをウソで塗り固めるのです。コイツらは何もかも全てがウソなのです。そこまでしてウソをつき続ける理由が「S〇Xを守るため」という事なのです…続きを読む→
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†■2021年11月10日UP■
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†
「この強姦殺人魔どもに対してこれ以外の感情が湧くというのであれば、どういう事なのか説明してもらいたい」という事になります。人間としてこれ以上当たり前の感情はないという意味です。その当たり前の感情がなぜこれほど長い年月にわたって公の場で語られる事が無かったのか、それが「洗脳」と「脅迫」と「視点外し」という事になると思います。まず「洗脳」ですが、世界中の強姦殺人魔は総じてメディアを牛耳っています。そのメディアを駆使して徹底的に自分が善人で国民に人気があって親しまれているという趣旨のニュースを休みなく流しまくり認識を捻じ曲げ続けてきます…続きを読む→
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†■2021年12月15日UP■
「間違いなく殺されるから」とにかく僕は何が何でも100%殺されるのだそうです(祈)†
とにかく何が何でも100%殺されるのだそうです。僕が赴くかも知れなかったその場所は、僕を殺したい人間(つまり「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁を何が何でも守り通そうとしている人間)であふれかえっていますから、みんなで一致協力して僕を完全に殺しにかかってくるのだそうです霊団によると。これは以前からずっと言われ続けていました。毒殺だのうしろから銃で撃って来るだの日本刀で切りつけてくるだの、これまでありとあらゆる映像を見させられてきています。何しろその敷地内の全員が僕を殺そうとしていますから霊団も到底かばいきれないという事のようなのです。もちろんその僕を殺そうとしているメンバーの中にピーチピチ(佳子)も含まれているという事になります…続きを読む→

山のアタック出発前にもしかしたらUPできるかも知れないのでチョト作業に集中します(祈)†

まず「Paul In Athens」英文見直し中ですが何とまだ5%完了中。恐ろしく進行が遅い。それくらいOCR変換文章がグチャグチャという事です。この書籍はUPまでとてつもなく時間がかかりそうです。僕は何という作業を始めてしまったのだろうか。

そして「I Appeal Unto Caesar」こちらも英文見直しに苦しみながらようやくここまでこぎつけました。間もなくWordPressに全文UPできる見通しです、って山のアタック帰還後になると思いますが。

えー今週はインスピレーション、まぁまぁ降っているのですが、それとブログで説明できるかは別問題で、今のところチョト書けそうもないものばかりの状態です。この毎週のテキスト撃ちが本当に苦痛になっていまして、いつまでコレをやらされるんだろうと思うと恐るべき絶望感が襲ってきます。まさか物質界生活中ずっとやらせるつもりじゃネィだろうな。

で、もういい加減ストーリーの線画を描き始めます。「I Appeal Unto Caesar」あとモチョイなので集中します(祈)†

「感謝の念は消えません」だからそれは帰幽後の話だろ、物質界の邪悪を滅ぼせよ(祈)†■2022年11月2日UP■
「感謝の念は消えません」だからそれは帰幽後の話だろ、物質界の邪悪を滅ぼせよ(祈)†
僕は「物質界は地球圏霊界の刑務所」と公言していますが、霊団の動きを見るほどに僕のこの言葉は本当に正解なんじゃないか?という気がしてなりません。つまり刑務所が住み心地良くなってしまったら刑務所としての機能が果たせなくなってしまうので邪悪を(今のところは)滅ぼすつもりがない。未熟霊の矯正に刑務所を活用し続けなければならないからだが、矯正する未熟者がすっかりいなくなった、つまり地球圏霊界全体がある程度のレベルまで向上を果たし、下層界にうごめく低級霊たちもほとんど向上を果たし姿を消し、下層界が空っぽになるくらいのところまで到達した暁には、刑務所である物質界の利用目的が消滅する事になるので、そうなって初めて物質界の邪悪を消滅させるとか、そういうアフォみたいに気の長い事を考えているのではないか、などと思ったりもするのです…続きを読む→
■2019年10月24日UP■
「入信資格は強姦殺人魔」以前書いたブログ「日本悪魔教」と関係ありそうな幽体離脱時の映像を拝しました(祈)†
その宗教が販売している「スプレーAタイプ」というものがあります。このスプレーはA~Dまであり、Aが軽い毒、Dが重い毒という感じで、ある有名イケメン俳優がテレビ番組の中で「イヤー私もこれ愛用してるんですよ、ちょっとやってみましょうか」と言って笑顔でスプレーAタイプを収録中の部屋全体に噴霧し始めるのです…続きを読む→
■2021年8月13日UP■
「死体切断はもったいないから」明仁、文仁、徳仁、悠仁が奴隷の女の子を四肢切断する理由です(祈)†
ブタ(奴隷の女の子)は死んだけど、この死体はまだオモチャとして遊べる、このまま捨てたり焼いたりしたらもったいない、最後の最後まで遊び倒さないといけない。世界中でこの遊びができるのは俺たちぐらいのもんだ、ホラ悠仁、お前もブタの胴体を切って遊べ、人間を殺すのは楽しいだろ、これが俺たちの仕事だぞ。これからも国民を殺しまくって遊ぶんだぞ。イーッヒッヒッヒッヒッヒ♪つまり奴隷の女の子たちの人生、人権、性格、夢、そして生命、それら全てをオモチャにして遊ぶ事ができるのは世界で俺たちぐらいのものだ、ただ殺すだけじゃもったいない、女の子が生きている間も、泣き叫んで助けを懇願している時も、四肢切断した後も、強姦殺人する時も、女の子が死んで死体となった後も、その死体を切り刻む時も「処刑遊び」の全シチュエーションをバッチリ撮影して記録に残し、最後の最後まで徹底的に遊び倒さないといけない…続きを読む→

[こうした議論がこの後もひじょうな迫力と強力な影響力のもとに、ほとんど途切れることなく続いた。私を支配し、私の思想を鼓舞し続けたその影響力がいかに強烈にして崇高なものであったか、それを正しく伝えることは、拙い私の筆ではとてもできない。]

そなたはわれわれの教説が理神論であるか、純粋な有神論であるか、はては無神論ではないのかとまで思いめぐらしているが、普段は正確な思考と知識とに事欠かぬ人間が、有神論を無神論と同列に並べるとは、まさしく人間の無知の見本をみる思いがします。

すべての人間の心に通じる神、いかに堕落した人間の魂でさえ感応しうる神の存在を否定せんとする、その佗(わび)しいかぎりの不毛な思想について、われわれはもはや言うべき言葉を知りません。

人間というものがみずからの目を被い隠すことすらするものであることを万一知らずにいれば、われわれは人間が一体なぜこうまで愚かなことを考えるのか、理解に苦しむところでしょう。

地上世界には絶対的真理は存在しない

申すまでもなく、われわれはすべての存在を支配する絶対神の存在を説きます。それは、人間が勝手に想像しているような気まぐれな顕現の仕方はしません。人間の理解力の進歩に応じて、その時代その時代に断片的に明かされてきた存在 – もっと厳密に言うならば、神の概念とその働きについての、より真実に近い見解を植えつけるべく働きかけてきた存在です。

イエスと同じくわれわれは、宇宙を支配する愛に満ちた至聖にして至純の神を説きます。人間が想像するような人格神ではありません。真の意味における父なる存在です。エネルギーの化身でも具現でもありません。真に生ける実在です。

ただし、その本質と属性は、その働きと、人間が心に描く概念としてしか捉えることはできません。そなたの抱いている概念の中から全知全能の神に対する侮辱と思えるものを可能なかぎり取り除き、かつ又、さし当たって問題とするに足らない神学的教説を一応残しつつ、われわれは神について以上のごとく説いてきたのです。

われわれの教説を読んで、そこに絶対的真理が見当たらないと言うのであれば、われわれはむしろ、われわれの教説がそこまで理解してもらえるに至ったことを有り難く思うくらいです。絶対的完全性が有りえないように、今の未完成の状態においては、絶対的真理などというものは望むべくもありません。

最高級の霊にしてもなお目を眩まされる宇宙の深奥の神秘を平然と見届けられるようになることを期待してはなりません。限りあるその精神で、無限なるもの、不可知なるもの – 地上よりはるかに懸け離れたわれわれにとってもなお遠くより拝(おろが)み奉(たてまつ)ることしか叶わぬ存在が今すぐ理解できると思うのは、とんでもないことです。

万一できると思うようであれば、それこそそなたの置かれている発達段階がまだまだ不完全であることの証左でしかありません。

そなたにとっては真理はまだまだ断片的であり、決して全体像を捉えうるものではなく、また細目まで行きわたることは叶わず、あくまでもベールを通して大まかな輪郭を垣間見る程度にすぎません。われわれとしても決して真理のすべてをそなたに啓示してあげようなどとは思いも寄りません。

われわれみずからがまだまだ無知であり、神秘のベールに被われた多くのものを少しでも深く理解したいと願っているところなのです。われわれに為しうることは、せいぜい、その神の概念 – これまでキリスト教において絶対的啓示として罷(まか)り通ってきた概念よりは、幾分か真実に近いものを仄(ほのめか)す程度にすぎません。

これまでのところわれわれは、そなたも筋の通った崇高なものと認め、かつそなたの精神に受け入れられる新たな神学体系を確立することに成功したと見ております。今のところそれ以上のものを求めてはおりません。

神についても、そなたにとって崇拝と敬意の対象となりうる神を啓示しました。神と人類とそなた自身に対する合理的かつ包括的義務を披露しました。道徳的規範として、そなたが聞き慣れた天国と地獄説による脅(おど)しの説教ではなく、無理じいせず自然に理解できる、しかも説得力のある見解を確立しました。

罪はみずから償うべきもの

われわれの教説を根拠のない宗教と決めつけるに至っては、奇々怪々な誤解というほかはありません。地上生活というこのタネ蒔きの時期のひとつひとつの行為が、それ相当の実りをもたらすとの教え – 悪と知りつつ犯した故意の罪が苦痛という代償のもとに悲しみと屈辱の中で償わねばならないという教え – 過ちを犯した魂が、それがいかに遠い昔のことであろうと、その自分の過ちゆえに生じた縺(もつ)れを、必ず“みずからの手で”解(ほど)かねばならないという教説の、一体どこをもって詰まらぬ言説というのであろうか!

われわれは、人間の言動は池に投げ入れた小石のごとく、その影響は波紋を描きつつ周囲に影響を及ぼすこと、そしてその影響には“最後まで自分が”責任を負わねばならないこと、ゆえに、ひとつの言葉、ひとつの行為には、その結果と影響とに計り知れない重要性があること、それが善なるものであればその後の生き甲斐となり、邪悪なるものであれば苦悩と悔恨のうちに責任を取らされると説くのですが、これが果たして下らぬ教説でしょうか。

また、その賞罰は、はるか遠い未来の、死にも似た休眠状態の末まで延ばされるのではなく(1)、因果律の法則によってその行為の直後から始まり、その行為の動機が完全に取り除かれるまで続くと説くのですが、これも愚にもつかぬ言説でしょうか。これでは清浄にして聖なる生活への誘因とはならないのであろうか。

そうしたわれわれの教説と、そなたたちの信じている教説、すなわち自分の思うがままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒瀆し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱(はずか)しめた人物が、たった1度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場かぎりの精神的変節によって、一気に、眠けを催すような天国への資格を獲得するとのキリスト教の説、しかもその天国での唯一の楽しみが、魂の本性が忌々しく思うはずのものでありながら、それが魔法的変化によって一気に永遠の心地よい仕事となるとの説の、一体いずれが神聖にして進歩的生活へ誘(いざな)ってくれるであろうか。

堕落した魂を動かすのはどちらであろうか。いかなる罪も、それが他人によって知られる知られないにお構いなく、いつかは悔い改めねばならない時がくること、そして、他力ではなく自力で償わねばならないこと、それによって少しでも清く正しく、そして誠実な人間となるまで幸せは味わえないとの教えの方であろうか。

それとも、何をしでかそうと、天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか1度の叫び声によって魔法のごとく魂が清められ、遠い未来に訪れる審判の日をへて神の御前に召され、そこで、今なら退屈この上なく思うはずの、礼拝三昧(ざんまい)の生活を送るとの教えの方であろうか。

そのいずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、それはわれわれとしても、そしてそなたにとっても、明々白々のことです。

なのにそなたは、われわれの説くところが確固たるものを曖昧なものに、明確な賞罰の体系を何の特色もないものに置き替えようとするものであると言う。

否!否!われわれこそ確固たる知性的賞罰体系を説き、しかもその中に夢まぼろしのような天国や、残酷非道の地獄や人間性まる出しの神などをでっち上げたりはしません。

キリスト教こそ、いつのことやら知れない遠い未来に最後の審判日などというものを設け、極悪非道の者でも、その者自身が信仰も有り難味も見出しえない教義に合意することによって、いつの日か、どこかで、どういう具合にてか、至純至高の大神の御前に侍(はべ)ることを得るなどと、不合理きわまることを説いている。

スピリチュアリズムは地球規模の啓示

あえて言おう。われわれの説く信仰の方がはるかに罪を抑制すべく計算され、人間に受け入れやすく説かれています。人間の死後についても、はるかに合理的な希望を与え、人類史上かつてない現実性に富む包括的信仰を説いています。

くり返しますが、これぞ神の教えです。神の啓示として今そなたに授けているのです。われわれは、これが今すぐ一般大衆に受け入れられるものとは期待も希望もしません。大衆の側にそれなりの受け入れ態勢ができていないかぎり、それは叶わぬことです。その時節の到来を、われわれは祈りのうちに忍耐強く待つとしよう。

いよいよその時節が到来し、理性的得心のもとに受け入れられた時は、人間はかつてのような、ケチ臭い救済を当てにしたがために犯す罪も減り、より知的にして合理的来世観によって導かれ、高圧的抑制も、人間的法律による処罰の必要性も減り、それでいてその動機の源は、甘い天国と恐ろしい地獄などというケチ臭い体系に劣らず強制力があり、永続的となるであろうことを断言します。

子供だましの地獄極楽説は、まともに考察すれば呆気(あっけ)なくその幼稚性が暴露され、効力を失い、根拠のない、非合理で愚劣なものとして、灰燼に帰されることでしょう。

[総体的にみてスピリチュアリズムの影響は好ましくない – 少なくとも複雑な影響を及ぼしているとの私の反論に対して、1873年7月10日に次のような回答が届けられた – ]

スピリチュアリズムにも多くの側面がある

その点については、われわれの側にも述べたいことが多々あり、そなたが陥っている誤解を解くべく努力してみたく思います。まず第1に、そなたは人間の宿命ともいうべき限られた視野にとっては不可抗力ともいうべき過ちに陥り、その目に映った限られた結果のみを見て、それをスピリチュアリズムのすべてであると思い込んでいます。

その点においてそなたは、わずかな数の熱狂者による狂騒に幻惑され、その狂騒、その怒号をもってスピリチュアリズムのすべてであると見なす一部の連中と同類です。

見よ、彼らは結果によってのみ知られる静かな流れが、その見えざる底流を音もなく進行していることに気づきません。そなたの耳に入るのは騒々しい無秩序な連中のみです。さして多くはないが、よく目立つのです。

そなたが、あのような連中に世の中の再生ができるはずはないと言うのも、もっともなのです。そなたの知性はそうした無責任な言説にしりごみし、果たしてこんな程度のものが神のものであり善の味方であろうかと訝(いぶか)るのですが、実はそなたの目にはそうした一部のみが映り、しかもその一部についても明確な理解ができているとは言えません。

そうした連中にも彼らなりに必要な要素が幾つかあり、それが彼らにとって最も理解しやすい手段によって神から授けられている – そうした表に出ない静かな支持者たちの存在については、そなたは何も知りません。そなたの視界に入らないのです。

が、入らなくても現にそなたのまわりにも存在し、霊の世界と交わり、刻々と援助と知識を授かり、肉体に別れを告げたのちに、彼らもまた霊界からこのスピリチュアリズムの普及のために一役買う日が来るのを待ち望んでいるのです。

このように、そなたは一方に喧騒、他方に沈黙がありながら、限られた能力と、さらに限られた機会ゆえに、狭隘(きょうあい)な見解しか持ちえず、およそ見本とはいえない小さな断片をもって全体と思い違いをしています。

これよりわれわれは、そなたが下したスピリチュアリズムの影響についての結論を、細かく取りあげていきたいと思います。そうすることによって、そなたがその究極の問題について断定的な意見を述べる立場にないことを指摘したいと思います。

“真実”はひとりひとり異なるもの

と申すのも、そもそも“真実”とは何かということです。神の働きは、このスピリチュアリズムに限らず、他のすべての分野においても、不偏平等です。地上には善と悪とが混在しています。平凡な霊で事足りる仕事に偉大な霊を派遣するような愚は、神はなさいません。

未発達の地縛霊の説得に神々しい高級霊を当てたりはなさいません。絶対にしません。自然界の成り行きには、それ相当の原因があります。巨大な原因から無意味な結果が出るようなことはありません。

霊的関係においても同じことです。知能程度が低く、その求めるところが幼稚で、高尚なものを求めようとしない魂の持ち主には、その種の者にいちばん接触しやすい霊が割り当てられます。

彼らは目的に応じて手段を考慮し、しばしばその未熟な知性に訴えるために物理的手段を講じます。精神的・霊的に無教養で未発達な者には、その程度に応じた、最もわかりやすい言葉によって語りかけます。死後の生活の存在を得心させるためには、目に見える手段でないとだめな者がかなり、いや、大勢いるのです。

この種の人間は、高級な天使の声 – いつの時代にもその時代の精神的指導者の魂に語りかけてきた崇高な霊の声 – によって導かれるのではなく、その種の人間と類を同じくする霊たち – その欲求と性癖と程度をよく理解し、その種の者の心に訴え、最も受け入れやすい証拠を提供することのできる霊によって導かれます。

さらに、そなたによくよく心得ておいてほしいことは、知的に過ぎる者は往々にして霊的発達に欠けることがあることです。本来は進歩性に富める魂が、その宿った肉体によって進歩を阻害され、歪んだ精神的教育によって拘束を受けることも有りえます。

同じ啓示がすべての魂の耳に届くとはかぎりません。同じ証拠がすべての魂の目に見えるとはかぎりません。肉体的性向と精神的発達の欠陥によって、地上生活における発達を阻害された霊が、死後、その不利な条件が取り除かれた後に、ようやく霊的進歩を遂げるという例は決して少なくありません。

目的に応じて手段が講じられる

というのも、本性は魔法の杖によって1度に変えるわけにはいかないものなのです。性癖というものは徐々に改められ、1歩1歩向上していくものなのです。ゆえに、生まれつき高度な精神的才能に恵まれ、その後も絶え間なく教養を積んだ者の目には、当然のことながら、無教養で無修養の者のために用意された手段はあまりに粗野で愚劣に映じるでしょう。

否、その前に、彼らが問題としているもの自体が無意味に思えるでしょう。その声は耳障りでしょう。その熱意は分別に欠けるかも知れません。が、彼らは彼らなりに、その本性が他愛ない唯物主義、あるいはそれ以上に救い難い無関心主義に変化を生じ、彼らなりに喜びを感じる新たな視野に、一種の情熱さえ覚えるようになります。

彼らの洩(も)らす喜びの叫びは垢抜けしませんが、彼らなりに真実の喜びの声なのです。批判的なそなたの耳には不愉快に響くかも知れませんが、父なる神の耳には、親を棄てて家出した息子が放浪の末に戻ってきて発する喜びの声にも劣らず、心地よいものなのです。

その声には真実味がこもっています。その真実の声こそ、われわれの、そして神の期待するところなのです。真実味に欠ける声は、いかに上手に発せられても、われわれの耳には届きません。

このように、霊的に未発達な者に対して用いる証明手段は、神と人間との間を取りもつ天使の声ではありません。それでは無駄に終ります。まず霊的事象に目を向けさせる手段を用い、それを霊的に鑑識するように指導します。物理的演出を通じて霊的真理へと導くのです。

物理的現象についてはそなたもすでに馴染んでいる。そして、そうした物的手段が不要となる日は決して来ないでしょう。いつの時代にも、そうした手段によって霊的真理に目覚める者がいるからです。目的にはそれなりの手段を選ばなくてはなりません。

そうした知恵を否定する者こそ、その見解に知恵を欠く、視野の狭い者です。唯一の危険性はその物理的現象をもって事足れりとし、霊的意義を忘れ、そこに安住してしまうことです。それはあくまでも“手段”にすぎません。霊的発達への足がかりとして用意され、ある者にとっては価値ある不可欠の手段であるということです。

そこで、これより、右の例以上にそなたが腹に据えかねているもの、すなわち粗野にして無教養な低級霊の仕業について述べるとします。そなたにとってそうまで耳障りで不快を覚えさせる霊を、そなたは“悪の声”であると想像しているようであるが、果たしていかがなものであろうか。

悪の問題についてはすでに取りあげましたが、また改めて説くこともあるでしょう。が、ここでわれわれは躊躇なく断言しますが、邪霊の仕業であることが誰の目にも一目瞭然たる場合を除いて、大抵の場合、そなたが想像するような悪の仕業ではありません。

粗野な真実の叫びは厚化粧したお上品ぶりに勝る

悲しいかな、悪は多い。そして、善に敵対する者が一掃され、勝利が成就されるまでは、悪の途絶えることはないでしょう。ゆえにわれわれは、決してわれわれとそなたとを取り巻く危険性は否定しないし軽視もしません。が、それは、そなたが想像するような性質のものではありません。

見た目に常軌を逸するもの、垢抜けしないもの、粗野なものが、必ずしも不健全とは言えません。そうした見方は途方もない見当違いというべきです。真に不健全なものは、そう多くは存在しません。むしろ、そなたらの気づかないところに真の悪の要素が潜むものです。

霊的にはまだ未熟とはいえ、真剣に道を求める者たちは、無限の向上の世界がすぐ目の前に存在すること、そしてその向上は、この地上における精神的・身体的・霊的発達にかかっていることを理解しつつあります。それゆえ彼らは身体を大切にします。

酒びたりの呑んだくれとは異なり、アルコール類を極力控えます。そしてその熱意のあまり、同じことをすべての者に強要します。彼らは、人それぞれに細かい個人差があることまでは気が回りません。そして、往々にしてその熱意が分別を凌駕(りょうが)してしまうのです。

しかし、洗練された者に反発を覚えさせる、そうした不条理さと誇大な言説を振り回す気狂いじみた熱狂者が、果たして、心までアルコールに麻痺され、身体は肉欲に汚され、道徳的にも霊的にも向上の道を閉ざされた呑んだくれよりも、霊的に不健全であろうか。

そうでないことは、そなたにもわかるはずです。前者は少なくとも自分の義務と信念とに目覚めて、必死に生きています。今や、かつての希望も目的もない人間とはすっかり違っています。死者の中から蘇ったのです。

その復活が天使に喜びと感激の情を湧かせるのです。その叫びが条理を欠いていたとて、それがどうだというのであろうか。情熱と活気がそれを補って余りあるのではなかろうか。

その叫びは確信の声であり、死にもたとえるべき無気力状態からの目覚めた魂の叫びなのです。それは、生半可な信仰しか持たない者が紋切り型のキザな言い回しで厚化粧し、さらには、世間的に体裁の悪いことは、たとえささやき程度のものでも避けて通ろうとするお上品ぶりよりも、われわれにとって、また神にとって、はるかに価値あるものなのです。

何となればそれは、新たに勝ち得た確信を人にも知らしめんとする喜びの声であり、われわれの使命にとっても喜びであり、より一層の努力を鼓舞せずにはおかないからです。

そなたは、俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。きっぱり申し上げるが、それもまったくの見当違いです。的確さと上品さには欠けていても、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他のものよりも大衆に訴える力があります。

野蛮な投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石の方が、打算から慣習に
迎合し、体裁を繕(つくろ)う教養人の言説よりも、よほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのです。

現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのです。霊界から指導に当たる大軍には、ありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されています。

“物”にしか反応を示さない唯物主義者には、物的法則を超越した目に見えない力の存在の証拠を提供します。固苦しい摂理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦(むつ)み合いの生活への信念を培(つちか)います。

筋の通った論証の過程を経なければ得心できない者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していきます。

さらに、そうした霊的心理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越した、より深い神秘への突入を欲する者には、神の深い真理に通暁した高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせます。

このように、人間にはその発達程度に応じた霊と、それにふさわしい情報とが提供されます。これまでも神は、それぞれの目的に応じて手段を用意してこられたのです。

スピリチュアリズムは霊界を総動員した働きかけ

今一度くり返しておきます。スピリチュアリズムはかつての福音のような散発性のものとは異なります。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教であり、救済の手段でもあります。それを総合したものがスピリチュアリズムなのです。

が、実は、それだけと見なすのも片手落ちです。そなたにとって、そして又、そなたと同じ観点から眺める者にとってはそれだけでよいかも知れません。が、他方には意識程度の低い者、苦しみにあえぐ者、悲しみに打ちひしがれている者、無知な者がいます。

そうした人たちにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもちます。それは、死後における肉身との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安です。実質的には、五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋です。

肉体を棄てた者も、肉体に宿る者と同じく、その発達程度はさまざまです。そこで、地上の未熟な人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれます。ゆえに一口にスピリチュアリズムの事象といっても、程度と質を異にする種々様々なものが演出されることになります。

底辺の沈澱物が表面に浮き上がってくることもあり、それのみを見る者には、奥でひそかに進行しているものが見えないということにもなります。

今こそそなたも得心がいくことでしょうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生した“しるし”を見れば、その種の現象が決してこのたびの活動のみに限られたものとの誤解に陥ることもないでしょう。

それは、人間の魂を揺さぶるすべてのものに共通する、人間本来の性分が要求するのです。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、ヘブライの予言者の使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせない要素でした。

人類の歴史において新しい時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに、霊的知識の発達にもそれが付随しているのです。が、それをもって神の働きかけのすべてであると受け取ってはなりません。

政治的暴動がその時代の政治的理念のすべてではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれわれの仕事の見本と考えてはなりません。

何事にも分別を働かさねばなりません。その渦中にある者にとっては、冷静な分別を働かせることは容易なことではないでしょう。が、その後において、今そなたを取り囲む厳しい事情を振り返った時には、容易に得心がいくことでしょう。

そなたの提示した問題については、いずれ又の機会にさらに多くのことを述べるとしましょう。このたびは、ひとまずこれにて – ご機嫌よう。

†インペレーター

[注釈]

(1)死者はこの世の終末に神が下す“最後の審判”の日まで、休眠状態に置かれるとのキリスト教の信仰をさす。

死の直後は霊的調整のための無意識状態に入るのが通例であるが、この信仰を幼少時代から教え込まれ、そう信じきって死んでいった者は、やがて意識が戻っても、まだ最後の審判日は来ていないと知らされると、また眠りに落ちてしまうという。

西洋の高等な霊界通信はこの“最後の審判説”と“贖罪説”とを人間性を堕落させる最も悪質な教義として厳しくその間違いを指摘するが、これに似た弊害をもたらす教義ないし信仰としてすぐに私の念頭に浮かぶのが、仏教の“蓮のうてなの境涯” – いわゆる極楽浄土説である。

気候温暖、風光明美、病気も災害もなく、すべてが満ち足りた成果が存在することは事実で、これを西洋のある通信では“青い島”と呼んでいる。環境が青い色彩を帯びているのでそう呼ぶのであるが、実はそこは魂の慰安所ないしは療養所のような目的をもった世界で、そこで地上時代の悪戦苦闘の生活、胸をえぐられるような体験による魂の傷が癒やされる。

が、本来ならば、つまり地上時代に正しい霊的知識を身につけていれば、魂の自然な発露として、さらに向上進化を求めるようになる。その結果として、さらに次元の高い世界へと旅立つ者もいれば、指導霊として地上へ戻ってくる者もいる。それはひとりひとり事情が異なるので一概には言えないが、ともかく、そののんびりとした境涯からは去っていくべきところである。

問題は、地上時代の信仰の型から抜け切れずに、そこが自分が祈り求めていた極楽だと思い込み、半永久的に安住してしまう者が多いことである。それはそれで別に害はなさそうに思えるが、実は、霊的親和力によって結ばれている“類魂”に対してマイナスの影響を及ぼしていることを知らねばならない。つまり同じ霊系の地上の人間に無力感、非積極性、頑張りのなさとなって現れている。

おしなべて仏教には、キリスト教が“積極的”な害を及ぼす教義や信仰が多いのに対して、“消極的”な害を及ぼすものが多いようである。

「戦争」を正当化する理由などこの全宇宙に存在しない、という事を説明してみます(祈)†■2021年12月22日UP■
「戦争」を正当化する理由などこの全宇宙に存在しない、という事を説明してみます(祈)†
ひょっとしたら本当に「視点外し戦争」が勃発して僕たちが戦地に赴かされそうになるかも知れません。その時は皆さま「霊的知識」を絶対的よりどころとして戦争参加を全力で拒否せねばなりません。僕たちにはそんなものやる必要性がないからです。やる必要性があるのは一部のワガママな人間たちだけであり、やりたいならそいつらが勝手にやって勝手に死ねばいいのです。僕たちがその無知な人間のワガママのために死ぬ必要は1ミリたりともありません…続きを読む→
「守護霊様が大ピンチ」何も知らない人間が守護霊様を侮辱するのだそうです(祈)†■2022年4月20日UP■
「守護霊様が大ピンチ」何も知らない人間が守護霊様を侮辱するのだそうです(祈)†
あなたの愛する男性、女性は性格の優しい、正しい行いをする、あなたにとって愛すべき人物だとします。あなたはそれを長い年月にわたって共に生活してきた事によって知っており、その人物を愛するに至っています。また、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の、これまで歩んできた苦難の道のり、獲得してきた知識と叡智の深さ、経験から導き出される慈愛の態度を、これまでのお付き合いによって認識しており、あなたはその師に対して深い尊敬の念を覚えるに至っています。しかし、あなたの愛する人物、あなたが師と仰ぎ尊敬する人物の人格、性格、人となり、これまでの苦難の道程を全く理解していない赤の他人が、何も知らない分際であてずっぽうで「こいつはこういう最低の人間だ、こいつは頭の悪い、おかしな奴だ」と言いふらしたとしましょう。皆さまはそれをどのように受け止められますか…続きを読む→
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†■2022年7月27日UP■
「全目標達成」霊界から見るとそう見えるようですが肉眼には全くそうは見えません(祈)†
霊界側の真の目的は「霊的知識を物質界全土に普及させるためのインパクト」だったのではないかと思っているのです。確か以前どこかのブログで「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を霊団が「客寄せパンダ」として活用しているというのが真相なのではないか、といった趣旨の事を書きました。コチラ「ベールの彼方の生活 3巻8章 暗黒界の探訪」にありますように、霊界上層界の高級霊の方々は、圧倒的優位なポジションに立っている事を利用して下層界の低級霊の未熟さ、無能さ、愚かさを逆説的に自分たちの目的成就に活用する、といったお話が紹介されています。イエス様もこの暗黒界の探訪と同じように「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を手玉に取って自分たちの目的成就つまりスピリチュアリズム普及に徹底的に活用した、という事なのではないかと思ったりもするのです…続きを読む→

77冊超の霊関連書籍の全ページスキャン& OCR変換を完了させた時「ハァァやっとこれでこの地獄の作業をやらなくて済む」と思ったものでした。それがどうですか、ホワイトイーグル霊の英語書籍がスゴイたくさんある事が分かってしまって地獄継続…この物質界人生は一体何なんだ。なぜ絵のひとつも描けないんだ。

自分の心と正反対の状態に徹底的に閉じ込められて脱出も全くできない、これを刑務所と呼ばずに何と呼ぶのでしょうか。実は近藤千雄先生が「モーゼスの霊訓 下」のあとがきの中で「物質界が監獄とか言う御仁がいるが、とんでもない幼稚な発想である」と仰っています。はい、僕の事です笑。

近藤先生と僕では悟りのレベルが全然違いますので、僕には近藤先生の境地にはとても到達できそうもありません。先生にそう言われても僕は「物質界は地球圏霊界の刑務所」という言葉を前言撤回するつもりはありません。僕が置かれた状況から導き出される当然の心境だからです。

「I Appeal Unto Caesar」UP前の整形作業75%完了中、間もなくWordPressにUPできるかも知れません。カミンズ女史の書籍を最低あと3冊、できれば4冊入手するつもりなのですが、コレが何をどうググってもどこにもカケラすらない、入手できずに物質界人生を終える可能性も出てきました。まぁ無いものは努力のしようがありませんのでどうしようもない。手元の作業に集中中(祈)†

■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†■2024年3月23日UP■
■アナログ絵362「ベールの彼方の生活4巻」表紙UP。全4巻書籍データ化完了中(祈)†
オマケ – はい、今回の4巻は著者であり霊感書記霊媒であるオーエン氏の絵を描かせて頂きましたが、実は当初は別の表紙にするつもりだったのです。しかしその表紙の線画を描きながら「コリャどう考えてもマズいよなぁ」という事でボツにしたのです。そのボツの線画をせっかくですのでUPしてみましょうコチラです↓事実に反した絵という事が1発でお分かり頂けると思うのですがいかがでしょうか。霊体の僕がイエス様に怒られて泣いて逃げようとしてます。なぜこういう絵を描こうと思ったのかというと、僕なりに「霊的使命遂行のキビシさ」を表現しようと思っての事だったのですが、にしてもこれは宜しくないだろう、という事でボツにしたのです。何しろ僕は本気の本気で霊団に反逆しまくっていますので、その反逆をイエス様が怒っているという表現だったのですが、これは事実ではありません。高級霊であればあるほど、アタリがやわらかくなるはずです。心の中で僕の反逆に呆れ返っていたとしてもこのような叱責はしないはずです。僕の未熟をそっと悟らせるような手法を取ってくるはずです…続きを読む→
「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†■2024年3月27日UP■
「全て殺されてきました」3000年にわたり使命遂行者は殺され続けてきたという意味です(祈)†
「イエスの成年時代」の復刊書籍の表紙の線画を描くにあたってどうしてもそういうたぐいのモノを見ざるを得ない状況になってしまい、イエス様の磔刑(はりつけ)の宗教画とかを見ていたのです。するとイエス様が十字架を運ばされている絵が複数出てきます。自分が間もなく磔刑にされて殺される十字架を自分で背負って運ばされているのです。要するにイエス様が当時の民衆の人気者で、霊能がずば抜けていたために、それを当時の聖職者だの律法学者だのといった、自分の事をエライと勘違いしているバカヤロウどもが嫉妬して、イエス様にイヤガラセしてイジメて殺したと、そういう事だと思います。※「イエスの成年時代」の中に、逮捕、連行したイエス様を律法学者どもが取り囲んで取り調べをしている最中に、その中のひとりがイエス様に野獣のように飛び掛かって殴り倒すというシーンがあります。皆さまがどのようにお感じになられるか分かりませんが僕の考えをストレートに書きますと、聖職者だの律法学者だのといった人間は「原始人」です「原始的微生物」です。そういうおこないをして帰幽した先に、自分にどれほどの地獄が待ち受けているかを全く理解していない、宇宙最大級の近視眼の愚か者という事になります…続きを読む→
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†■2024年5月15日UP■
「何のために霊能やってるんだ」物的手段に訴えるな、霊団に従え、という意味です(祈)†
この地球、この宇宙は全て【神】のものです。今僕たちがまとっている肉体さえ僕たちのものではありません。全て神からの賜りものであり、僕たちの所有物などというモノは存在しません。物的金銭を蓄積する事ほど愚かな事はありません。肉体は100%朽ち果てるようにできているのですから人間は自動的に帰幽して物質界を離れます。その時、霊界に物質は持って行けません。100兆円稼いでも1円も霊界に持って行けないのです。物質界での金銭の蓄積は全く無意味である事を物質界生活者が理解するのはまだ1000年以上先の話かも知れません。物質界生活中に僕たちがやるべき事は「心を鍛える」という事です「自分を磨く」という事です。それが帰幽後の霊界生活に役立つのであって、霊界人生に何の役にも立たないおこないは、少なくとも僕、たきざわ彰人のブログをご覧の皆さまには慎んで頂きたい、その悟りの壁を突破して頂きたいと願わずにはいられません…続きを読む→

WordPress霊関連書籍ヘッダーSPIRITUAL UNFOLDMENT FOUR

英文テキストと格闘するのが正真正銘の地獄で、ホワイトイーグル霊の英語書籍をできる限り翻訳するつもりでいるのですが、あまりの苦しさに途中で挫ける可能性も出てきました。

WordPress霊関連書籍ヘッダーPaulInAthens

というのも「Paul In Athens」の英文見直しを始めたのですが、もう行がガタガタのグチャグチャ、この行がアッチに飛んであの行がソッチに飛んで「コレもうムリとても見直せない…」という心境になってしまっているのです。

まぁこの書籍が特別に古くてボロボロの書籍だったからスキャン画像もグチャグチャだった、ホワイトイーグル霊の書籍はペーパーバックが多く新しいですからスキャン画像もキレイで、ここまでグチャグチャになる事はないのですが、とにかく絵を描く人生を送るつもりでいた僕が果てしなくテキストと格闘するハメになっているのがどうしても納得いきません。

ちなみに昨日ポケットラジオナンチャラカンチャラと書きましたが、さっそく車の運転中にテストしてみたところ、案外しっかり聞ける、これは使えるかも知れないという感触を得ました。(ロングドライブ時の眠気防止に使えるという意味)

イヤあの、このたきざわ彰人とかいう人は何言ってるんだろうなぁ、ラジオなんて車に付いてるだろう、と皆さまは思われる事でしょうが、イエイエ僕は使命遂行の影響でお金がありませんのでオプション的なモノは一切付いてない、ただ走るのみの素体みたいな車に乗っているのです。

ラジオもオーディオもナビも何にも付いてません。ナビが付くはずの運転席パネル部分は空洞になっていて中の配線が見えます。さっそく次回の山のアタックからこのポケットラジオで眠気防止のテストをします。効いてくれないと困ります。

「Spiritual Unfoldment」2、3、4まで手元に届きましたが「1」が来ない、注文して1ヶ月が経過しているのに発送もされていないようです。一体何がどうなっているのでしょうか。海外発送おそるべし。

さぁ霊団があぶないあぶない言ってきていますが、僕の現在の生活のどこをどう切り取ったらそういうセリフにつながるんだよ。あんたたちがああなるこうなる言ってきてその通りになった事がこの12年で1度もネィだろ。(もっとも危険を回避してくれているから1度もないという見方もできますが)

えー「十戒」DVDの中の主要シーンをキャプチャしてWordPress上に動画をUPするつもりでいたのですが、どうもそういう気になれずにいます。もっと霊的シーンがドッカンドッカン出てくるものとばかり思っていたのですが全然ないのでガッカリしているのです。

せめて有名な「海が割れるシーン」だけでもキャプりましょうか。この海が割れるシーンでも、神を賛美しつつ民が割れて出来た道を行進するのは賛成として、霊的説明のナレーションを挿入してくれよと僕は思うのです。例えば「宇宙刑事ギャバン」の蒸着シーンみたいに。

これは神の業だから何でもできるんだ、だから神を賛美するんだ、それは了解ですが現代は21世紀ですから合理的科学的説明をしてくれないと分かってもらえないじゃないですか。

モーセ氏の祈りによって海がドバァァァっと割れる、オォォォ!となって「説明しよう、この霊現象はモーセ氏の霊団メンバーが民から大量のエクトプラズムをあらかじめ収集しておいて、わざと民を逃げ道のない危機に追い込み、神への祈りを誘発させてからそのエクトプラズムを使用して物質(海の水)を操作したものである。危機なしにこの現象をおこなえば民の信仰心を醸成できなかったため危機的状況をあえて作り出したのである」みたいな。

さぁ困ったな、テキストと格闘するのでめいっぱいでストーリーの線画に着手できません。脱出を実現させて作業時間を増やす事を真剣に考えないといけません。先ほどロードランもおこないました。山には一生行き続けますから鍛え続けるのは必須となります(祈)†
「キビシイ試練をやらせる上司です」知識としては理解しているのですが、心は…(祈)†■2021年12月29日UP■
「キビシイ試練をやらせる上司です」知識としては理解しているのですが、心は…(祈)†
「イヤ、奴隷の女の子を強姦殺人し続ける事で日本の平和と安定が保たれているのだから、女の子は強姦殺人し続けるべきだ」とあなたは仰いますか。あなたのような人間の事を霊界、物質界問わず【神】が経綸するこの全宇宙で何と呼ぶか知っていますか「偽善者」というのです。自分の考えの正当性を主張なさるのであれば、あなたは目に入れても痛くないほどかわいがっている愛する自分の娘を笑いながら強姦殺人して下さい。近所に住む笑顔のカワイイ女の子を誘拐して強姦殺人して下さい。そうすればあなたは逮捕されますが、あなた以上に信じられない人数の女の子を殺しまくっている「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁が一向に逮捕されない事を全ての日本国民にどうやって納得させますか…続きを読む→
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†■2024年2月14日UP■
■アナログ絵360「ベールの彼方の生活2巻」復刊書籍表紙UP。どうしても復刊できない(祈)†
「ヨーロッパの妖精物語と東洋の魔法の物語」こちらは現代の人間にも広く知られているモチーフですよね。RPGゲーム等でよくみられる「剣と魔法のファンタジー」の世界観です。ファイ〇ルファン〇ジー等で多くの方がこのモチーフに親しんでいますが、この世界観も元はといえば過去の霊能者が見せてきた霊現象が元ネタなのだそうです。その霊能者の最大の人物がもちろん聖書に登場するイエス様、という事になります。RPGゲーム等で遊んでいる方がたくさんいらっしゃる事と思いますが、その時に頭のホンのかたすみにでも「あぁ、この剣と魔法の世界観は霊現象が元ネタなんだよなぁ」と思い出してもらえると、そして少しでも霊的なモノに興味を持ってもらえると僕的にはうれしいのですがどうでしょう。もっとも、歪められ具合がタダ事ではありません、長い世紀にわたって霊的な事を理解していない人間たちの手によって実際の霊的事象とは似ても似つかない物的商売臭の漂う世界観に完全に書き換えられてしまっており、もはや全く別物と言った方がいいのでしょう。「人間は本来が霊であり肉体はタダの衣服に過ぎない」という霊的真理などは完全に抜け落ちて形骸すら残っていません。だからこそ絶版状態の霊関連書籍の復刊が急務だと僕は思っているのですが……続きを読む→

[前節の通信は、私に少なからず影響を及ぼした。即座の反論ができず、次の交信まで何日かの間が必要だった。いよいよその交信をする気持になった時、私がまずこう反論した – ]

モーゼスの苦しい立場の開陳

キリストの時代と現代との対比は理解できます。サドカイ派の学者が軽蔑の目をもってイエスの言説に耳を傾けている図は、私にも容易に想像できます。今の時点から言えば、そのサドカイ派の学者たちは間違っていたことになります。それはわかります。しかし、思うに、それは実に無理からぬことだったのです。

理性の光だけで判断すれば、イエスの言説はとてつもないものに思えたことでしょう。超自然的なものを認めない当時のサドカイ派の学者連中が、虚言か妄想としか思えないものを拒否したのは無理もなかったでしょう。私から見れば、それ以外に取るべき態度は無かったとしか思えません。

ただ彼らの場合は、そのとてつもないことを言う人物が目の前にいたということ – 姿は目に見えるし、声は聞こえるし、説くところの崇高な教説が本人の実生活に体現されているかどうかも、調べようと思えば調べがついたということです。

その点、私の場合は、影も形もないただの影響力であり、もしかしたら自分の中だけの心と心との葛藤にすぎないかも知れない言説が展開されるだけです。まるで掴(つか)みどころがないのです。明けても暮れてもスピリチュアリズムで、それもきわめて曖昧で、しかも、往々にして軽蔑したくなるものばかりです。

啓示だと言われても、愚かというのが言い過ぎなら、得体(えたい)が知れないとでも言わざるを得ないもので、その名のもとで行なわれているものを見たら、ショックを受けることもしばしばです。

私はどうしてよいのかわかりません。あなたという存在についても、私は何も知らないばかりか、果たして1個の独立した存在なのかどうかもわかりません。あなたに関して得心のいく手掛かりは何ひとつありません。たとえ、かつて地上で生活をしたことがあると聞かされても、私には大した意味はありません。

一体あなたは個性をそなえた存在なのですか、それとも単なる影響力にすぎないのでしょうか。私からすれば、あなたをれっきとした個的存在として想像すれば、幾分かは救われる気がします。しかし、とにもかくにも、できることなら私のことはもう一切構わないでいただきたいという心境です。

[正直いって、その頃の私は、自分の強固な信仰と強烈にして首尾一貫した影響力との激烈な闘いに疲れ果てていた。感情の相克(そうこく)によって頭が混乱をきわめていた。そしてそれが来るべき段階へのひとつの準備としての体験であることは明らかであった。]

イエスを取り巻いていた条件との比較

友よ、そなたが疑問に思うことはよく理解できます。われわれとしても、その疑念を解く手助けをしてあげたく思います。

まずそなたは、例のサドカイ派の学者は目に見えるイエスを相手にしていただけに有利であると言う。なるほど、イエスは目に見える存在でした。が、そのことは有利であるどころか、むしろ困難を増すものだったのではなかろうか。

何となれば、目の前にいるイエスという若者はナザレの大工の息子です。それを神の新たな啓示者と結びつけるのは、そなたがわれわれを神の使者と結びつけること以上に困難だったのではなかろうか。

サドカイ派の学者にとって“この男は大工ではないか”という蔑(さげす)みの念は、そなたがわれわれのことを”果たしてこれが個的存在であろうか”と思う疑念以上に深刻な問題ではなかったろうか。

イエスを取り巻く環境は目に見え手に触れることのできる明白なもので、しかも、およそ好条件とはいえないものばかりが揃っていました。

生まれは(当時のユダヤ社会通念として)卑しく、交わる友は下層階級の者ばかりであり、世の軽蔑を浴び、その説くところがすべての民衆から背を向けられる – こうしたことはすべて現実であり、どうしようもない不利な条件でした。

あからさまに表現すれば、最後通牒をつきつけられても致し方ないほどでした。ゆえに、たとえサドカイ派の学者にイエスの言説が理解できず、イエスを神の使者として認めなかったとしても、その学者連中には何の咎もありません。それは単に彼らがより成長した後に再び訪れるであろう進歩の好機を逸したというに過ぎないと言えるでしょう。

そなたの場合はそれとは事情が違います。そなたには目を惑わす困難は何ひとつない。知的疑念と闘っていればよい。しかも、これまでそなたに語られた言葉が、神の使者からのものとして恥ずかしからぬものを有することは、そなたも認めるはずです。

そなたも必要性を痛感するものに満ちあふれ、そなたも認めるところの美しさにあふれ、しかもそれを受け入れる用意のある者には、強烈に訴える道徳的崇高さに満ちている。それがそなた以外の源から発していることは十分に得心しているはずです。

何となれば、もしもそなた自身の内部から無意識のうちに発したものであれば、それがそなた自身の教説と真っ向から衝突することが有り得ないことは、当然そなたも認めるはずだからです。

もしもわれわれの述べるところの言説がそなたの精神から自然に発するものであれば、そなたもその公表を控える余裕をもつこともできるでしょう。が、事実はそうではない。いかに工夫を凝らそうとも、これが自問自答の結果であるとの説は、そなたみずから納得できないでしょう。

そうでないことは、そなたもすでに得心しています。今まさにそなたが体験しつつある不審と疑念の段階は一過性のものであり、永続的影響を及ぼすものではありません。

やがてその時期を過ぎれば、きっとそなたは、なぜわれわれのことを、そなたと同じく“人間”と呼ぶ個体をそなえた知的存在であることを疑ったのであろうかと、不思議に思える日も到来するでしょう。

啓示そのものと啓示を届ける者との混同

さよう、今そなたに必要なのは“時間(とき)”です。根気よく考えるための時間、問題を比較考察するための時間、証拠を評価するための時間、そして結論をまとめるための時間です。

こうまでそなたの心を深く動かしている言葉 – その深さはそなたみずからの想像すら超えているが – それはそなたの思いに通じ、そなたの苦しい立場を理解し、さらには、それに劣らず、今そなたを悩ましている懐疑と疑問に理解をもつ者の言葉です。

地上時代、わたしはイエスの出現に先立つ苦難、今ふたたびくり返されつつある苦難の世相の中で使命を担わされた者のひとりでした。歴史は巡り来るものです。いつの時代にも人間はその精神構造においては少しも変わりません。意識が開発され、進歩し、より深く考えるようになります。

が、昼のあとに必ず夜が訪れるように、神の概念が薄れ、真実味のないものとなる時代が訪れます。すると、より明確な知識を求める内部の神の火の粉が、ふたたび炎となって燃えあがり、天に向かって神のメッセージを求めます。そこに新しい啓示の必要性が生じます。人間の魂がそれを希求するのです。

古いものはそれなりの役目を終え、その灰燼の中から新しいものが芽生えます。それは、受け入れる用意のある者にとってはまさに神の慰安と安寧の言葉にほかなりません。

いつの時代にもそうでした。そのことはそなたも知っていたはずです。こうした神と人間との関係は全歴史を通じてたどることができます。それが何ゆえに今の時代にそうであってはならないのであろうか。人類が最もそれを必要としているこの時代に、何ゆえに神の声を押し黙らせ、その耳を塞ごうとするのであろうか。

このわたしについて何も知らぬから、とそなたは言う。しかし、何ゆえにそなたは啓示そのものと啓示を届ける者とを混同するのであろうか。何ゆえに神の教えと、その教えを伝える通路にすぎない者とに同一価値を置かねば気が済まないのであろうか。

ぶり返すモーゼスの猜疑心

[こうした議論の末に、ようやく私は頑固に求めていたものを手にして、それまでの優柔不断の信仰にひとつの確信を得ることができた。その確信が深まるにつれて、それまで私がこれこそと思って求めてきたものがいかに空虚なものであるかを悟るようになった。

それまで理解できなかった霊訓の一連の流れも理解がいき、その霊訓と、それを伝える者(インペレーター)とを区別して考えることもできるようになった。
私はそうした一連の論議 – その一部だけで十分と思うので全部は公表しないが – を、再度、初めから目を通し、そこに、まさしく新しい啓示といえるものをやっと見出すことができた。

通信者が誰であるかは、その啓示の私自身にとっての重要性の中に埋没(まいぼつ)してしまった。私はその時に至ってはじめて、燃える炎のごとき強烈な確信を覚え、枝葉末節まで細かく分析せんとする気持が、その確信の炎にかき消されてしまった。

が、そう思ったのも束の間だった。やはり私の古い分析癖は、容易に衝動的熱中を許さなかった。さらに、私の若き日の宗教的修行もそれを許さなかった。私の脳裏にふたたび神学的見地からの反論が甦った。その最初の波が去り、2日間の間を置いて、再度その反論が心の中でぶり返した。

その間も私はこれまで公表した通信と、私的すぎて公表できないものを、くり返し丹念に読み返した。どうしても自分の厳格な信仰から離れないままの過去1年間にわたる交霊の体験の価値評価もしてみた。そして次の3つの明確な結論に到達した。すなわち –

(1)私に働きかけている“影響力”は私自身とは別個の存在である。

(2)その述べるところは真実であり首尾一貫している。

(3)その宗教的教説は純粋であり崇高さがある。

以上の3点は間違いないように思えた。そこでさらに私は、その身元の確認と主義・主張の問題を探ってみた。その他の問題は後回しにしてもよいように思えた。そして、以上の諸点について得心がいくと、古(いにしえ)の誠実な知性は今もなお誠実であるはずだと強く信じ込む気持になった。

が、そこで、ふと、猜疑心が頭をもたげた。これは、もしかしたら“天使を装ったサタン”が自分の信仰を覆(くつがえ)さんと企んでいるのでは?という猜疑心である。そこで私はこう綴った – ]

私の判断力の許すかぎりにおいて正直に批判させていただけば、あなたの教説は、取りようによっては理神論(1)にもなり、汎神論(2)にもなり、あるいは – これは言い過ぎでしょうが無神論にもなりうる性向をもっていると言えないでしょうか。それは、神をただのエネルギーの一種と見下げることになり、人の心に、絶対的なものの存在に疑念を抱かせることにならないでしょうか。

つまり神とは宇宙に瀰漫(びまん)する影響力につけた名称にすぎず、それを異なる民族が異なる時代に異なった形で想像したのだと人は考えはじめます。神の啓示といっても、それは神から真理が明かされたのではなく、内部から、つまり人間の心の中で想像したものにすぎないことになります。

キリスト教もそうして生まれた信仰のひとつにすぎず、したがって多かれ少なかれ誤りを含んだものであることになります。そして、これからも人類は、程度の差こそあれ、盲目的に自分で勝手に誤った考えを生み続けていくことになります。

神はそうした概念の中にのみ存在するわけですから、ひとりひとりが自分だけの特殊な神をもつことになります。絶対的な真理は数学以外には存在しないことになります。

結局人間というのは、せいぜい自分なりの霊を宿し、自分の問いかけに自分で回答しては当座しのぎの満足を得ながら、また新たな考えを生んでいく孤独な一単位にすぎないことになる – それも知性が硬直化しなければ、の話です。古き信仰はすでに変化することを止めているだけに不変性がある、という皮肉な理屈になります。

こうした味気ない思想は、絶対的な神性を有するキリスト教の福音に取って代ろうとするものです。キリスト教の教説にはいささかの誤りもなく、その道徳性はほとんど誰にでも理解のいく崇高性を帯びており、人間の行為に対処する上で欠かせない厳格な賞罰の規律もあります。

それほどしっかりとした裏打ちのある福音ですら、おっしゃる通り、人類に完全な道徳性を植えつけることができなかったのです。なのに、あなたが説くような“善の影”ていどしかない思想、まさに影のみの存在で、漫然として曖昧で掴みどころのない、しかも過去を破壊し、それに代る未来への建設力をもたない教説に、どうしてそれが可能でしょうか。

その程度のもので、道徳律が厳しく、人間的関心事に強く訴え、神に由来し、人類の模範として最高の輝きをもつ宗教ですら手を焼いた反抗的民衆の心を捉えることなど、とても出来るものではないと信じます。

あなたの教説の拠って来るところが不明瞭であることについては、すでに述べたので繰り返しません。また、それが一般に普及した場合の危険性についても、改めて指摘することは控えます。それはまだまだ遠い先の話であり、ここで詳しく論じる必要性を認めません。

同時に、あなたの教説が広まると、道徳的・社会的・宗教的に人類にとって欠かすことのできない健全な結びつきを、多くの点で緩(ゆる)める結果になるであろうことも見逃せない要素です。

万一スピリチュアリズムと呼んでいるものが一般民衆に広まれば、残念ながら社会は狂信者と熱狂者であふれ、確固とした支持を得るどころか、盲目的迷信と浅薄な軽信の風を巻き起こすことが懸念されます。

こうした危惧はまったく私の杞憂にすぎないかも知れません。が、今の私には切実にそう思われるのです。私にはあなたの教説がこれまでの宗教的信仰の代りになるものとは思えません。

たとえあなたの主張する通りの真正なものであるとしても、人間はエンゼルケーキ(スポンジケーキ)だけでは生きて行けないように、このような教説にしたがって生きることに耐え切れないでしょう。

その最も高尚な点を見ても、それを実生活に生かすとなると疑問がありますし、一方、その愚劣な面に至っては、ただ単に人心を害し徳性を堕落させるのみであるように思えます。]

インペレーターの再度の説諭

神の御名において、われわれはそなたを歓迎する。が、今のそなたはわれわれの手に余るものがある。われわれの述べたところの真意を正しく理解してないようである。襲いくる感情の激動が精神を混乱させ、微妙な点の理解を不可能にしている。

それが可能な状態になるためには、とにかく忍耐強く時を稼ぐことです。今のそなたにとっては、じっくりと時の経過に耐えていくことが何よりの修行です。今は理解できないことも、そのうちわかるようになります。

衝動と情熱が、経験的知識と静かな確信へと変っていくでしょう。これまでの、理解して受け入れるというよりは、ただ単に同意したにすぎなかった信仰は、いかに崇高で有り難そうに思えても、入念な吟味と論理的分析から生まれた知識の前には影が薄れるであろう。われわれの述べたところは、その吟味と分析に値するものばかりです。

これまで綴られたものを一続きのものとして繰り返し味読する機会をもっていただきたい。そして、そなたとの交信に、一貫して流れるものを読み取ってもらいたい。われわれがいかなる素性の者であるかは、ぜひとも、そなたとの関わり合いの中で判断してもらいたい。

前に述べたこととの食い違いを指摘するのも結構であるが、同時に、われわれの言葉と態度、われわれの説く教えの道徳的印象によって判断してもらいたい。細かい分析によって論理上のアラ探しをするのもよいが、それと同時に、われわれから受ける霊的雰囲気によって判断してもらいたく思うのです。

さし当たっては、われわれが神の使者であることを、厳粛な気持でくり返し主張するに留めておきます。われわれが述べる言葉は神の言葉なのです。それはそなたにもわかっているはずです。その弁明に改めて言葉を費やすこともありますまい。

そなたは決して病める脳の幻想によって誑(たぶら)かされているのではありません。悪魔に玩(もてあそ)ばれているのでもありません。悪魔なら、神についてわれわれのような説き方はしません。また、人間の脳からは、われわれの述べたような教説は出てこないし、われわれの与えたような証言も出てきません。精神が今少し穏やかになれば、そなたにもその事実が読み取れるようになります。

そなたの精神が今のような状態でさえなければ、神聖なものに悪魔的な要素を見出そうとしてしつこく探りを入れることの罪悪性について述べたいところです。それはちょうど、イエスが地上の腐敗と災禍の中にあった時、彼によって追い払われた悪魔(低級な邪霊)がユダヤ教の狂信家たちの口をついて、イエスは魔王の手先であると非難したのと同一です。

われわれはそのような他愛ない非難には関わりません。非難そのものの中に立派な反証が見え透いているからです。じっくりと時間を掛けて熟考すれば、おのずとそなたの疑念に対する回答が出てきます。今のそなたには瞑想と祈りが何より大切です。

祈る心が大切

友よ、祈るのです。真実への道を求めて一心に、そして真摯に祈るのです。

祈ることだけはそなたも拒絶できまい。たとえそれが、激情から発したものでもよい。とにかく、われわれとともに、啓発と耐える力を求めて祈ろう。真理を理解する力、そしてその真理に素直に従える気骨を求めて祈るのです。

光を切望するそなたの魂を縛りつけるドグマの足枷から解き放たれるよう祈るのです。そして解き放たれた後も堕落することなく、ひたすらに向上の道に導かれるよう祈るがよい。

そなたの求めるところが、低劣なものを求める者たちによって邪魔されることのないように祈るがよい。そなたにとって正しいものを選び出し、他人は他人なりに適切なものを選ぶに任せる、大らかな心を求めて祈られよ。

選択するにせよ拒絶するにせよ、その責任を明確に認識し、一方において頑固な偏見を避け、他方において安易な軽信に流れることのないよう祈られよ。なかんずく正直さと誠実さと謙虚さを求め、かりそめにも高慢と頑迷さと下劣さによって神の計画を損なうことのないよう祈るがよい。

かくしてわれわれの祈りは、神の真理の普及を心待ちにしつつ援助の手をさし延べんとして待機する、高級界の神の使者たちの愛と慰めを引き寄せることになるのです。スピリチュアリズムが一般社会にもたらす影響についてのそなたの批判に関しては、すでにその大半に答えてあるはずです。

表面的活動の底流には、そなたの目に映じない大切なものが存在することを指摘してあります。いつの時代であれ、神の知識の発達過程には、人目につかぬところで密かに新しい啓示をむさぼり求め、さらに高い真理を求めて着実に成長しつつある者が、必ずいるものです。

今の時代とて同じであることを述べているのです。そなたと同じく、酔狂に心霊現象をもてあそぶ者たちの存在を憂えつつも、それによっていささかも信念を揺るがされることなく、真摯にわれわれ霊の教えを心の支えとしている者がいる – 実に大勢いるのです。その信念には“事実”という基盤があるからです。(3)

交霊にも厳然たる摂理がある

さらにそなたに指摘しておきたいことは、われわれ霊界の者と地上との交霊は、地上の科学ではまだ捉えきれない法則によって支配されていることです。しかも、われわれの働きかけの妨げとなる原因には、そなたはもとよりのこと、われわれにすらよく分からないものが多々あるのです。

そなたの保護のために勝手に規則を定めるわけにはいかないのです。われわれ自身の保護すらままならないのです。そなたが関わっているこの仕事の遠大な重要性については、この仕事に興味を示す者にすら、本当のところはほとんど理解されておりません。多くの場合、ただの好奇心の程度を出ておりません。それよりさらに下劣な動機に動かされている者もいます。

霊媒の管理が適切さを欠いています。そのため、霊界との連絡がうまく取れていない者、調和を欠いている者、あるいは過労ぎみの者もいます。交霊会を取り巻く条件はそのつど異なります。

われわれもその条件の変化には必ずしも対処できるとはかぎりません。出席者の構成が適切さを欠いていることもあります。そうした諸条件の重なり合いが、交霊現象をつねに同質のものに保ち規則正しいものにすることを不可能にしているのです。

現象が時として気まぐれとなるのも、大方はこうした点に原因があるのであり、また、目立ちたがり屋の出しゃばりによって霊界の同類の霊を呼び寄せることになり、せっかくの交霊会を低劣なものにしてしまう原因もそこにあります。

この問題についてはまだまだ言うべきことがあるのですが、今はそれ以上に大切なものが迫っております。これまで述べたところによって、他の交霊会に見られる愚劣きわまる出来事や、多くの交霊会での下らぬ現象を寛恕の目をもって評価しなければならない理由の一端がわかってもらえると思います。

偽称霊の侵入する交霊会に至っては、今は述べる言葉を持ち合わせません。よほど低級な霊の仕業であり、すべて信じるに足らず、不愉快きわまります。

その点に関してそなたはわれわれの手助けができるはずです。愚かな好奇心と欺瞞とを打ち砕いてくれることくらいは、そなたに出来るはずです。と言うのは、そなたはわれわれのサークルにおいてわれわれの指図どおりに行ない、現象が次第に発展してきた経緯(いきさつ)を知悉(ちしつ)しているからです。

他の交霊会の者たちにも同じ指図を与えてほしいのです。やがて暗雲も晴れることでしょう。ともあれ、交霊会にまつわる問題の原因は、われわれの側と同様にそなたらの側にもあることだけは確かです。

†インペレーター

[注釈]

(1)Deism 理性と自然のみを拠りどころとする有神論で、宇宙は神によって創造されたが、創造後は法則のみで機能し、霊的啓示などはないとする説。18世紀のヨーロッパで流行した。

(2)Pantheism 森羅万象が神性の具現したものとする思想。スピリチュアリズムも汎神論と言えなくもないが、物質界は神性のごく一部の顕現にすぎず、内的世界でも無限の次元で神性が顕現し、今後も永久に顕現し続けるとするところが、従来の汎神論と異なる。

(3)スピリチュアリズムの基盤が心霊科学という実証性をもつ学問にあることを指摘している。人間が永遠不滅の霊性を有し、現在の個性をそのまま携えて死後もさまざまな次元で生活する – 地上生活はその出発点である、というのがスピリチュアリズムの基本思想であるが、もしもそれだけのものだったら世界中の太古の霊的思想もみなそうだったのではないかということになる。

が、1848年の米国ハイズビル村におけるスリラーもどきの心霊現象、俗にいうハイズビル事件をきっかけとして欧米の第1級の化学者・物理学者・天文学者・文学者・判事その他、あらゆる分野の専門家が大挙して、いわゆる“霊媒現象”の真偽性を追求し、調査・検討するという動きが起こり、それに真剣に取り組んだ人はひとりの例外もなくその真実性を確信するに至っている。

インペレーターのいう“酔狂に心霊現象を弄ぶ者”というのは、単なる好奇心から面白半分に交霊会を開く者たちのことで、その種の交霊会に呼ばれる霊媒は金儲けが目当てであるから、その背後で働く霊は低級霊であり、中には邪悪な考えをもつ者もいる。

ために、後でとかくの悪評(うわさ)が立つ。モーゼスがスピリチュアリズムを毛嫌いしたのは、その種の交霊会が念頭にあったからである。

現在のスピリチュアリズムの潮流は、世界的にみても現象的なものから霊言や心霊治療・因縁除去といった精神的なものへ移行しつつあるが、そうなったらそうなったで、その分野でもモノマネ専門や法外な金銭を要求する悪徳霊能者がのさばりつつあるので、警戒が肝要である。

「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†■2022年6月29日UP■
「どっちが勝つ?」このような近視眼の判断をしないよう神の因果律を正しく理解しましょう(祈)†
神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし(ガラテア6・7)神の摂理は絶対にごまかされません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染込んだ汚れが、それくらいの事で一度に洗い落とせると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言で全てが赦されるとしたら果たして神は公正であると言えるでしょうか…続きを読む→
「怒られる」とずっと霊団から言われ続けているのです。本末転倒の究極形(祈)†■2022年6月8日UP■
「怒られる」とずっと霊団から言われ続けているのです。本末転倒の究極形(祈)†
物質界での行いがそのまま帰幽後の霊界における境涯を決定します。善い行いをした者は幸福な美しい境涯(上層界)に、私利私欲に走り他人を傷つけた者は暗黒の惨めな境涯(下層界)に赴きます。「神の因果律」の働きにより機械的自動的にそうなるのです。物質界における邪悪発生の原因は「人間は肉体が死んだらそれで終わり」と思っている事に全て起因します。肉体の死後も霊界で人生が継続される事、物質界での行いの賞罰が寸分の狂いもなく自分に降ってくる、自分の行いに全て自分で責任を取らされるという霊的知識の基本中の基本を全く理解していない事から物質界の邪悪が発生しているのです。奴隷の女の子を強姦殺人し続け、国民に延々とウソニュースを流し続け、国民の宝物を搾取し続けたその先に、どれほどの地獄が待ち受けているか。それを全く理解していない事が全ての原因なのです…続きを読む→
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†■2022年5月18日UP■
「あなたは理解しなくてはなりません」何を言ってるのかサッパリ理解できません(祈)†
とにかく理不尽のレベルがタダ事ではない。努力すればするほどヒドイ状況にさせられていく。どれくらいのレベルの不自由な肉体をまとわされるのかは分かりませんが、義肢、義足ですからもちろん日常生活に支障が出るレベルでしょう。当然絵も描けない、そもそも絵の才能を剥奪され、現世での努力を全く無に帰せられる。そして使命遂行上必要と思われるテキスト撃ち、情報拡散等々の作業も満足にできない、そういう肉体をまとわされての再降下になるのかも知れません…続きを読む→