まずは昨日のグラデーション撮影の画像をUPですが、昨日は本当に最悪の1日となってしまいました。正直お話したくないのですが、そういう訳にもいかないでしょうから少しだけ書かせて頂きますが、ちょっと今週はインスピレーションの説明もやる気が失せている感じです。
もう最悪、ホントに最悪。一応準備に入りますが自信はありません(祈)†
「皇族は強姦殺人魔」山を愛する霊覚者・たきざわ彰人です(祈)†
皇族などと自称する明仁、文仁、徳仁、悠仁は「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を四肢切断、強姦殺人しまくっています。死刑にしましょう(祈)†
まずは昨日のグラデーション撮影の画像をUPですが、昨日は本当に最悪の1日となってしまいました。正直お話したくないのですが、そういう訳にもいかないでしょうから少しだけ書かせて頂きますが、ちょっと今週はインスピレーションの説明もやる気が失せている感じです。
もう最悪、ホントに最悪。一応準備に入りますが自信はありません(祈)†
ちょっと書籍原稿執筆の事は頭から消しましょう、アタック帰還後に長文ブログのテキスト撃ちが待っていますのでまずはそちらを撃ち切る事に集中しないといけません。インスピレーションは若干枯渇気味ですが何とかネタはあるといった感じです。
絶版書籍の復刊だったら現在書こうとしている自伝書籍よりノリノリで作業できます。素晴らしい書籍だという事が分かっているからです。何とかして僕の物質界生活中に復刊を実現させたい、そう思っているから書籍テキスト化を休まずガンガン進めているのです。
さぁ山のアタックで頭を冷やして考えてきましょう、冷えないか気温高いもんな。僕という霊媒が機能して新規の霊言が降ってきてそれを書籍化するのがもっともモチベーションが高い、絶版書籍の復刊がその次にモチベーションが高い、僕が物的脳髄で書く書籍の出版はもっともモチベーションが低い。今日も自動書記テストやりましたが全然ダメ。このお話は一旦切ります(祈)†
近藤千雄
前巻の『イエスの少年時代』のあと、待望久しかった本書がついに刊行の運びとなって慶賀に堪えない。同時に、前巻に引き続いてこの私がその巻頭を飾る一文を訳者の山本貞彰氏から依頼されて、それをこの上ない光栄に思いつつ筆を執った次第である。
本書のもつ意義については2つの視点があるように思う。1つは、従来の聖書(バイブル)の記述を絶対としてそれのみに頼ってきたイエスの実像とその行跡を見直すという視点である。
が、これについては山本氏が“訳者あとがき”でご専門の立場から述べておられるので駄弁は控えたい。『主の祈り』についての“訳者メモ”などは永年の体験があって初めて気づかれるところであろう。
これは在来の聖書が、インペレーターやシルバーバーチその他の高級通信霊が異口同音に指摘しているように“人為的な意図に基づく寄せ集め”である事を“語るに落ちる”式に、はしなくも露呈されている興味深い証拠と言えよう。
もう1つの視点は、そうした通信霊が述べているイエス像とその行跡との比較という視点である。キリスト教の専門家でない私はどうしてもそこに視点を置いて読むところとなった。
私が“3大霊訓”と称しているモーゼスの『霊訓』(正続)、オーエンの『ベールの彼方の生活』(全4巻)、そして『シルバーバーチの霊訓』(全12巻)が申し合わせたように強調している事は、“スピリチュアリズム”の名のもとに進められている現代の啓示と人類の霊的覚醒事業の中心的指導霊が、かつて地上で“ナザレ人イエス”と呼ばれた人物だという事である。
これをすぐに“同一人物”とするのは早計である。1個の高級霊が幾段階にもわたる“波長低下”の操作の末に母マリヤの胎内に宿り、誕生後それが肉体的機能の発達とともに本来の霊的資質を発揮して、そこに人間性をそなえた“ナザレ人イエス”という地上的人物像をこしらえた。
その幼少時の“生い立ちの記”が前巻であり、いよいよ使命を自覚して当時のユダヤの既成宗教の誤りと、その既得権にあぐらをかいている聖職者の堕落ぶりを糾弾していく“闘争の記”が本巻である。
こうした救世主的人物の生い立ちや霊的悟りへの道程はとかく超人化され、凡人とはどこか違う扱いをされがちであるが“十字架の使者”と名のる通信霊の叙述するイエスの生涯は、どこの誰にでもあるような、いや、それ以上に人間臭い俗世的喧騒に満ちており、また苦難の連続であった。
兄弟間のいさかい、親の無理解、律法学者やパリサイ人による怒りと軽蔑、同郷の者による白眼視 – 最後は“浮浪者”扱いにされるまでに至っている。
「イエスの成年時代はこのようにして孤独の体験から始まった。イエスは故郷の人々に心を傾けて天の宝を与えようとしたのであるが、彼らはそれを拒絶したのである」
という一文には胸をしめつけられる思いがする。しかしイエスはそうしたものを全て“魂のこやし”として霊性を発揮していき、愚鈍で気のきかない平凡な少年から“威厳、あたりを払う”風格をそなえた青年へと成長していく。
そこには求道者としての極致を生き抜いた姿が彷彿として甦り、2000年後の今、こうして活字で読むだけでも、その意気込み、精神力、使命への忠誠心に圧倒される思いがする。
シルバーバーチが、人間的産物である“教義”を棄ててイエスの生きざまそのものを模範とするようにならない限り人類の霊的新生は望めないと述べている言葉が思い出される。そのイエスが死後、物質化現象でその姿を弟子たちに見せて死後の存在を立証してみせたあと、地上的なほこりを払い落として本来の所属界へと帰って行った。
マイヤースは『個人的存在の彼方』の中でイエスの死後に言及してこう述べている。「ナザレ人イエスにとって中途の界層での生活は必要でなかった。彼は一気に創造主と一体となった。彼は地上に生きながら既に神だった – 全宇宙をその意識、その愛の中に包摂するだけの霊力をそなえていたのである」
そのイエスが“私はまた戻ってくる”の預言どおりに、人類浄化の大事業の総指揮者として今その霊的影響力を全世界に行使しつつある。それが各種の霊界通信、奇跡的心霊治療、自由解放の運動となって現われているのである。
この2巻に描かれたイエス像は、私が理解した限りでは、高級霊界通信が述べている事と完全に付節を合わしている。その1つ1つについて解説している余裕はないが、1つだけ誤解を解く目的で付言しておきたい事がある。それはマリヤの処女懐胎である。
前巻の8章で“神秘の受胎”として語られているが、私はこの章を読んだ時“やはり”という印象を受けた。私は生命の発生は、人類も含めて、どの種においても2つの性の生じない段階で行われたと考えている。それは物質化現象というものが実在する事を見れば明らかに可能な事である。
両性(男女・雌雄)による発生・誕生の仕組みは、それぞれの性がそれを可能とする段階まで発達したのちの事であって、それまでは幾通りかの“霊の物質界への顕現”の仕方があったはずである。少なくとも心霊学的には処女のまま懐妊するという事は有得るのである。
ではなぜシルバーバーチはイエスも普通の人間と同じように生まれたと言い、そこに奇跡はなかったと述べているのかと言えば、それは“処女懐胎だから聖純”とする誤った考え、言いかえれば性(セックス)を罪悪視する間違った認識を増幅させないための配慮があると私は考えている。
『霊訓』のインペレーターは“人間に知らせぬ方がよい事、知らせると害がある事”がたくさんあると言っている。人生学校の1年生、もしかしたら幼稚園児にすぎないかも知れない我々地上の人間の事であるから、そういう事は当然考えられる事である。
シルバーバーチもある日の交霊会で“イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか”と聞かれて次のように答えている。「そんな事について私の意見をご所望ですか。どうでもいい事ではないでしょうか。大切な事はイエスが何を説いたかです。(中略)
私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせる事です。人間はどうでもよい事にこだわり過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。(後略)」
さて最後に注意を促しておきたいのは、ギブス女史の存在である。モーゼスにはスピーア博士夫人、バーバネルにはシルビア夫人、イエスにはおばのマリヤ・クローパスの存在が大きな意義をもったように、このギブス夫人の理解と協力なくしては、こうした価値あるものは生まれなかったであろう。
表にこそ出ないが、中心的人物よりも往々にして側近の人物の方が大きな存在意義をもつ事があるものである。いくら偉くても人間は1人では何もなし得ないのである。
本巻の最後にチラリと顔を出すクレオパスという弟子は、のちに“クレオパスの書”の題で一連の通信を送ってくる事になる。その第1巻がすでに『イエスの弟子達』と題されて刊行されている。何だか2000年前の大きなドラマが今になってビデオテープを見るように再現される感じがして、心躍る思いがする。山本貞彰氏の一層のご健闘を祈りたい。
んー、んー、グズッても霊団を憎んでも書籍は完成しません、手を動かす以外に方法はないのです。んー、設計図を見て眼前に広がる作業量を思うと絶望感がとめどなく広がります。こんなところから説明しなきゃいけないのかよ、こんなテキストまで撃たなきゃいけないのかよ、その事なら以前撃ってるよ、また撃たなきゃいけないのかよ、ウンザリだよ、こんな感じでかろうじて撃ち始めています。
全く撃ち切る自信がありません。挫折率99%ですが一応書籍原稿を撃ち始めています。んー、何かこの作業の先に物的人生の終わりがあるような気がすごくしてきた。まるで物質界のまとめをしているかのような気分だ。物質界卒業論文といったところか。やっぱり僕は殺されるのかも知れない、だから霊団はコレを書かせているのかも知れない。
先ほど「こんなもん書けネィヨ」とグズりましたが、もしこの原稿を最後まで撃ち切れるとしたら、あと500回ぐらいグズるでしょう間違いなく。んー、何なんだこの人生は、一生絵を描き続けると固く心に誓ったのに、何で僕はこんな事をやっているんだ。霊団「僕の人生を返せ!」(祈)†
書籍設計図を何とか固めようとしているのですが、やっぱりこれはムリかも知れない。テーマを絞ってそこを集中的に書くとか、そういう風にしないと。全部を網羅して書くのはムリな気がしてきた。
僕は毎週かなりヒーヒー言いながら長文を撃ってます。その長文ブログを続けつつ、それとは別枠で長文を48個撃つのはどう考えてもおかしいと思うのです。霊団の狙いが分かったような気がしてきた。霊団はずっと前から一貫して「スピードダウン」と言い続けています。
順調に進んでいた読書アプリ制作(ティラノビルダー)を止めてきたのもどうもおかしい。霊関連書籍の内容をアプリ化して霊的知識拡散に役立つんだから霊界側としても有り難いはずなのにそれを止めてくる。おかしい、腑に落ちない。(再開するかも知れません)
イヤ、本は書かないといけないという霊団の考えには賛成です。僕もぜひ書きたいですが、これまでの霊的体験を全網羅するのは無理がありすぎる。量が多すぎる、その作業をこなす作業時間とパワーを現在の生活では捻出できない。使命遂行のあの作業もこの作業も休止して書籍原稿1本に集中しないといつまで経っても書き終わらないという最悪ストーリーになる。霊団は逆にそれを狙っている、つまり「スピードダウン」という事なのではないか。
全部を網羅して書くのはムリ、全体の中のどこかをピンポイントで書くとか、そういう風にしないと絶対にまとめられない。どうしても全網羅で書くなら使命遂行を当分休止する必要がある、霊団の狙いはそれか。超スピードダウンという事か。既に撃ち終えているブログテキストを書籍化するならすぐできる。
全網羅じゃなくて複数に分割して書くとか、設計図を再構築しないととてもテキストを撃ち切れません。使命遂行を続行しながら書籍原稿を撃つのは絶対ムリ。サイキックニューズ方式(僕という霊媒から霊言が降ってきてそれを書籍化する方式)で本を制作するなら大賛成。だから自動書記テストをやっているのです、今日もやりましたが全然ダメ(祈)†
※以前考えていた「簡易的書籍」というものがあります。それなら全網羅より短い期間で書けると思います。その書籍用のイラストとしてこういうモノも描きました。そっちの原稿を撃つという選択肢もアリだと思います。そっちなら割と短期間で撃ち終えられる。考えるだけ考えてみようかな(祈)†↓
著者のジェラルディン・カミンズ(1890~1969)は、厳しくも美しい自然に恵まれたアイルランドで、大学の先生をしていたアシュレー・カミンズ教授の娘として誕生した。カミンズは、英国に於ける今世紀最大の霊能者の1人として欧米のスピリチュアリズムに貢献した人物である。
その代表的著書として『不滅への道』(国書刊行会、世界心霊宝典第2巻)があり、霊界を語った白眉として尊重されている。(抄訳としては浅野和三郎訳『永遠の大道』が潮文社から出ている)
イエスの伝記というものは、正確な意味で何ひとつ存在していないと言ってもよい。新約聖書中の福音書は、元来イエスの受難物語(十字架上の死と復活)に重点を置いて書かれたものであるから、イエスの重要な背景をなす「生いたちの記」が完全に欠落していることになる。
カミンズは、彼女の偉大なる霊能によって「母マリヤの背景」と「イエスの成育史」というもっとも重要な部分を提供してくれたのである。聖書に全く見られない人物や出来事をも加えながら、イエスの少年時代を中心に展開されている雄大なドラマは、読む者の魂をゆさぶり、救いに導く大切な霊的養分をふんだんに注入してくれる。
多感な少年イエスが、あらゆる苦渋をなめさせられても、真の救いを求めて修業をつんで行く姿には、感涙相むせぶ場面が幾度もあり、読む者の魂を浄化してくれる不思議な力がこもっている。
歴史的には、マリヤに関する解釈が2つに分かれていて、未だに決着がついていない。ひとつは、ヘルヴィディアン説で、イエスの兄弟はマリヤが生んだとするものである。それに対してエピファニアン説があり、イエスの兄弟は夫ヨセフの先妻の子であると主張する。
どちらの説にせよ、マリヤに関して明確なことは、第1に、処女懐妊であり、第2は、重労働に耐えた女であったということである。水汲み、洗たく、粉ひき、はた織りは女の仕事で苛酷な労働であり、本書でのマリヤは多産(6人の子供)であるから、彼女はかなりがっちりとした体格の女性であったにちがいない。
さて本書は一体何を言わんとしているのであろうか。イエスは最初期待していた神殿(ユダヤ教)には救いが無いことを知らされた。ユダヤ教を代表する大祭司アンナスは、ローマの金権政治の犬になっており、ユダヤ教のラビ(教師)は徹底した教条主義で、少なくともイエスにとっては腹黒い偽善者であり、稀に見る善人として登場する老パリサイ人シケムでさえ、神殿という建造物にしがみついている憶病者であった。
結局イエスは、組織としての宗教や儀式的教条主義に救いが無いことを見抜いて、名もない異国の浮浪者ヘリを真の指導者と仰いで山野に於いて修業を続け、遂にアラビヤの「流浪の部族」、もとをただせば皮肉なことに脱ユダヤ教の人々に兄弟として迎えられるのであった。
では一体なにが救いであったのだろうか。学者の高邁な哲理でもなく、組織的伝統的宗教団体でもなく、…それは賢明なる読者にお委せするとしよう。
本書の中で、マリヤもイエスも「山野をよく“歩く人”」として描かれていることに気付いておられることと思う。ギリシャ語で歩くことを<ペリパテオウ>と言い、しっかり生きぬくという意味を持っている。
人生は旅であることを暗示している。“独りで”歩くのである。何のためか。瞑想のためである。しかも“日の出”に瞑想した。神と出逢い、神と語り、霊の力を得た。
これを基盤としていたからこそ、ミシュナ(ユダヤ教の細かな規程、例えば安息日など)など怖くなかった。逆にミシュナが少しでも差別や人間性無視の原因となったとき猛然と反対した。第18「最初の受難」で外国人ヘリをかばってリンチにあったように。
最後にこのようなすばらしい著書を進呈して下さり、翻訳に関するあらゆる御世話と忠告を与えてくださった近藤千雄氏に深甚の感謝と敬意を表したい。同氏は我が国に於ける数少ないスピリチュアリズムの研究者の1人であり、その正しい発展のために全力を尽しておられる方である。
更に拙い翻訳を出版にまでこぎつけて下さった潮文社の社長、小島正氏の御厚意にも心から感謝する次第である。このような一種の「幻の書」によって1人でも多くの方々が、霊的に豊かになっていただければ本当にうれしく思う。本書を読んだある英国人は、次のように述べている。
「予期せざる発想という列車に乗って、未知の国に向かい、此の世ならぬ旅をしているような美しい物語である」と。(1986年)
新装版発行にあたって
この世は愛によって創られ、愛によって支えられているにもかかわらず、人間だけが、この重大な真理を無視した生き方を続けている。この事実を最も露骨にえぐり出してくれたのが「イエスの少年時代」である。
テロや憎しみが世界中に広がっている今日、1人でも多くの人たちがイエスの生き様を知って、愛に目覚めた生き方を始めてほしいと願っている。「イエスの成年時代」と合わせて読んで頂きたい。
平成16年5月
山本貞彰
一応書籍原稿執筆をやってはいますが、Amazonでペーパーバックを出すという事であればタイトルに「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を連想させるものは使えない、本文もバキュンフォント(伏せ字)を使わないといけない。
自分で出版社を立ち上げるなり、そこまでしなくて同人で出すなりする場合は、書籍タイトルを「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を直接表現したものにでき、本文中にバキュンフォントを使う必要もなくなります。
現在書籍タイトル候補が3つあって、どれを選択するかによって本文の内容が変化してしまう可能性があり、どうにもテキストを撃ち切れない状況にあります。販売ルートによっても書く内容が変化してしまうので先に販売方法を決めておかないとテキストが撃ちにくいという事があるのです。
まぁ理想形はバキュンフォントなしで使命遂行ど真ん中の内容を書くという事になります。自分で出版社を立ち上げて誰にも文句を言わせない状態でそれを書くというのがベストストーリーなのでしょう、霊団もそうしろと言っているようですし。
しかしその書籍は間違いなくAmazonで販売承認がおりません、販路が大きく制限される事になります。直販サイトは間違いなく立ち上げる事になるでしょう。んー、さぁどうするか。3つのタイトルのうち、もちろんもっとも破壊力のあるタイトルを使用したい、そうなると様々な制約が、しかし書くべきを書けずに不完全燃焼の書籍を出して何になる。考え中(祈)†
先週だったかなぁ、3~4ヶ月くらいかかる作業があると書きましたが、それが「家のお片付け」で、要するにアレコレ捨てて家の中をスッカラカンのカラッポにしようとしているのです。誤解のないようにお話しますが、僕の家は断じてゴミ屋敷ではありません。むしろ逆で、現時点で全然物がなくてカラッポの状態です。
しかしところどころに不必要な物がポツ、ポツ、と置いてありますので、それさえも処分(資源だの粗大だの)してウソみたいにカラッポにしようとしているのです。なぜそんな事をしようとしているのか。理由はこの3つ↓
はい、この3つの実現確率は【3】>【1】>【2】、汗ダックダクで超めんどいお片付けをやるモチベーションとしての順位は【1】>【2】>【3】といったところでしょうか。
まず実現確率は、殺される率がもっとも高い、その次に高いのが出版社設立、サークルメンバーが集まる確率がもっとも低いという意味です。
えーひとこと「ダルイ」作業です。急にはできませんので少しずつ片付けていきましょう。あと【1】【2】ですが、このどちらも霊団は推す感じの事を言ってきてます。【1】では「トランスビューやれ」的な事まで言ってきます。【2】では自動書記ではなくやはり僕を霊言霊媒として使用するつもりといった趣旨の事を言われています。
書籍原稿執筆、全然進んでません、毎週長文テキスト撃ってるのに何で別でさらに撃たなきゃいけないんだよ、って思うと超ユウウツなんですよ。途方に暮れる、という言葉がシックリくる。どぉぉしたもんかなぁ、撃たなきゃいけないかなぁ。自動書記テストは続行中。フラーのストーリーは一旦停止中。原稿執筆よりストーリー(絵)を描きたい気持ちが湧出中(祈)†
星屑が空で光を失い始めた頃、老人はむっくりと起き上った。音をたてないように、眠っている息子のそばを通り、部族のテントへ向かった。
誰も起きている者はいなかった。見張番の2人の男も、消えかかった焚火のそばでうたた寝をしていた。老人は足取りも軽やかに、雑魚寝している者の中にイエスを探し歩いた。イエスを見付けると腰をかがめ、耳元でささやいた。2人は静かにそこから離れ、砂漠を通って例の山に登った。
東の空が明るくなってきた頃、老人は立ち止まり、顔を東方へ向け、造り主なる神に感謝の叫び声をあげた。長い歳月の末に、自分の肉体の窓を開けて下さったこと、こうして日の出の栄光を崇めることができたことを深く感謝した。
「わたしは2度とあなたのことを疑うことはいたしません!!私は心からあなたを崇めます。私はあなたの御前にひれ伏します。聖にして、言葉に尽せぬ御方よ!!たとえ今この瞬間にお迎えが来ても、私は文句を言わず、喜んで参ります。
あなたの計り知れない慈悲によって、あの山々や、人々の顔、あらゆる美しい大自然を再び見させて下さったのですから。まことに私はあなたを信じ、心安らかに喜びをもって、眠りにつくことができます!」
これらのことを語り、祈ってから、2人とも沈黙を続けていた。畏敬の念が2人をすっぽりと包みこんでいた。東の空は燃え始め、大輪の花のように色付き、全天がきらきらと輝いていた。
突然、老人がイエスに向かって尋ねた。「あなたの名前を聞かせて下さい」「もう御存知ではありませんか!僕の名は、ナザレのイエスですよ」「そうそう、ナザレのイエスとは、救世主(キリスト)となられるイエスだね」
老人がこう言ったとき、若いナザレの少年の顔が暗くなった。「そうではないんです!今はまだそうではないんですよ!」少年は悲痛な声を出し、体を震わせながら、光が射しこんでくる東の方に向き直った。暫くして再び平和が戻ってきた。彼は、ぽつりと語った。
「あなたの御意志(みこころ)が行なわれますように!!私のではなく!!」