インぺレーターの霊訓
インぺレーターの霊訓 続「霊訓」
W・S・モーゼス
近藤千雄訳
More Spirit Teachings
by W. S. Moses
Spiritualist Press London, England(1952)
【目次】
訳者まえがき
本書は英米をはじめとする西洋各国で“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれて100年以上もロングセラーを続けている「霊訓」の続編である。
正篇は昭和12年に浅野和三郎の抄訳によって本邦に紹介され、このたび(60年)潮文社からその復刻版が発行されている。それとほぼ時を同じくして私による実訳版が国書刊行会から出ている。
「霊訓」の第一の特徴はキリスト教の牧師だったステイントン・モーゼスと、紀元前に地上生活を体験したという身元不明の霊との熾烈(しれつ)な論争という形で霊的真理が説かれている事である。主としてキリスト教の教義がその論争のテーマとなっているために、読者の側にキリスト教に関する基礎的知識が要求される点が、本書を西洋人にくらべて東洋人にどこか取っつきにくくしている事実は否(いな)めない。
しかし、キリスト教を熱烈に信仰し、みずからもそれを説き聞かせる職にあるモーゼス(のちに辞職して教師となる)の手がひとりでに動いて綴った文章(自動書記通信)が自分の信仰と真っ向から対立する内容であり、その事に悩み、苦しみ、それに反論し、かくして“目に見えざる存在”との論争をえんえん10年間も続けながらまったく正常な人格者であり続けたという事実が、この五感の世界以外に知的で理性的で愛を知る存在が実在している事を何よりも雄弁に物語っていると言えよう。
その熾烈な論争 – 一時は霊側の総引上げという形での決裂寸前にまで至ったほどの遠慮容赦のない激論を闘わせながら、モーゼスの側はあくまでも真摯な真理探究心を、霊側は真実の光明へ導かんとする温かい愛を最後まで失っていないところが、本書に稀有(けう)の価値を与えていると私は考えている。
私はこれを1日数時間、ほぼ300日をかけて完訳したのであるが、その間、訳者としての立場を忘れて思わず情的にその内容に巻き込まれ、感涙の流れるに任せざるを得なかった事が何度あったか知れない。今でも心が落着きを失いかけた時は必ず繙(ひもと)く事にしているが、その度に勇気百倍、生きる意欲を鼓舞される。「シルバーバーチの霊訓」「ベールの彼方の生活」と並んでこれを私が“英国の3大霊訓”の1つに数えるのはそのためである。
さて、この続篇はモーゼスの死後、恩師である医師のスピーア博士 S・T・Speer の夫人が、博士宅で催された交霊会(自動書記は自宅の書斎で、交霊会は博士宅で行われた。博士一家との縁については巻末「解説」を参照されたい)の筆記録の中から、ぜひとも公表すべきであると思われるものを選んで心霊誌Lightに掲載し、それにモーゼス自身が同じ心霊誌に発表していた記事の中から参考になるものを精選して、それと一緒に1冊にまとめたものである。
本書の特徴は、正篇が自動書記通信だけで構成されているのに対して、霊言現象による通信が紹介されている事である。霊言と自動書記の違いは、霊言が霊媒の発声器官を使用し自動書記が霊媒の腕を使用するという、形の上から言えばそれだけの事であるが、表向きは単純のようで裏面の原理はそれぞれに何種類もあって複雑である。
そもそも霊界通信なるものの入手方法は右の霊言と自動書記のほかにもう1つ、幽体離脱によって霊界を探検したり指導霊からじかに教わったものを持ち帰って綴る、あるいは語る、という方法がある。これは言わば霊界旅行記であるが、霊言や自動書記において霊が行っている役割を自分が行う-言うなれば1人2役をするだけの事で、原理的には右の2つと同じである。
この場合でも本人の目には見えなくても大ぜいの背後霊が陰から指導し援助し、また危険から守ってくれている。この道の第一人者とも言うべきA・J・デービスは自分は霊の力をいっさい借りずに全部1人でやっているような事を述べているが、これはただ自分でそう思っていただけで、実際には蔭から指導と援助と保護を受けていたのである。本書の中でも通信霊の1人が、それには例外はないと断言している。
この事は地上と霊界との関係に限った事ではなく、霊界における上層界と下層界との関係においても同じである。「ベールの彼方の生活」の通信霊アーネルが部下とともに暗黒界を探検し、その間ずっと自分たちだけでやっていたと思っていたのが、帰還してみると、ことごとく上層界からの指示と加護を受けていた事を知る、という経緯が述べられている。
その点「私の霊界紀行」(潮文社)のスカルソープ氏は自分の行動はすべて背後霊団によって準備され案内され守られていると述べていて、デービスと対照的に実に謙虚である。見かけのスケールは小さいが、霊的にはひじょうに高い、あるいは深い事を述べていて、信頼度は抜群であると私はみている。
他に有名な人としてはスエーデンボルグが挙げられるが、実際に見たものを無意識のうちに潜在的な観念によって歪曲している部分が多すぎて、私はあまり、というよりほとんど価値を見出せずにいる。とくに初心者には妙な先入観念を植えつけられる危険性さえある。
この霊能において肝要なのは、異次元の世界で見たものをどこまで生(なま)のまま3次元の世界の言語で表現できるかであって、その純度が価値を決定づける。そこに背後霊団の援助と霊能者本人の霊格の高さが要求されるわけである。なおこの体外遊離現象はモーゼスも体験していて、わずかではあるが第3部で紹介されている。
次に霊言現象の原理であるが、これには4種類ある。
(1)直接談話現象 – これはエクトプラズムという特殊な物質によって人間の発声器官と同じものをこしらえ、それを霊が自分の霊的身体の口を当てがってしゃべる現象である。空中から聞こえる場合は肉眼には見えないほど希薄な物質でこしらえてある場合で、メガホンから聞こえる場合は、そのメガホンの中に発声器官がこしらえてある。
(2)霊媒の発声器官を使用する場合 – ふつう霊言現象というのはこれを指す場合が多い。この場合は霊媒の潜在意識(精神機能)の中の言語中枢を使用するので、霊媒自身の考えによって影響されないだけの訓練が要請される。モーリス・バーバネルを通じて50年にわたって霊言を送ってきたシルバーバーチ霊は、そのための訓練をバーバネルが母胎に宿った瞬間から開始したという。
(3)リモコン式に操る場合 – シルバーバーチのように霊媒の身体を占領するのではなく、遠距離から霊波によって操る。原理的にはテレビのリモコンやオモチャのラジコンと同じである。霊視するとその霊波が1本の光の棒となって霊媒とつながっているのが見られる。
(4)太陽神経叢を使用する場合 – みぞおちの部分にある神経叢が心霊中枢の1つとなっていて、そこから声が出てくる人がいる。また、なぜかこの霊能をもつ人がほとんどきまって米国のナイヤガラ瀑布の近辺の出身か、そこで修行した人であるという事実も興味ぶかい。
次に自動書記現象の原理であるが、これには大きく分けて3種類、細かく分けると4種類ある。
(1)ハンドライティング – 霊が霊媒の腕と手を使用する場合で、これはさらに2種類に分ける事ができる。
①霊媒の腕を直接使用する場合。ふつう自動書記といえばこれをさす。モーゼスの場合もこれである。
②リモコン式に操る場合。霊言の場合と同じで、霊波によって霊媒の言語中枢と筆記機能とを操作する。
(2)ダイレクト・ライティング(直接書記) – 紙と鉛筆を用意しておくと、いきなり文章が綴られる。スレートライティングもこの部類に入る。多量のエネルギーを必要とするので長文のものは困難で、簡単なメッセージ程度のものが多い。
(3)インスピレーショナル・ライティング(霊感書記) – 霊感で思想波をキャッチすると自動的に手が動いて書く。原理的にはふだんわれわれが考えながら書くのと同じで、ただその考えがインスピレーション式に送られてくるというだけの違いである。オーエンの「ベールの彼方の生活」がこの方法によって綴られている。
さて、本書の第1部は最高指導霊のインぺレーターをはじめとして、他に数人の霊による霊言が集められている。そのインぺレーターの言葉に「私はいま皆さんからはるか彼方にいます」とあるところから、その時はリモコン式にメッセージを送っていた事が推察される。それでもインぺレーターが語る時は交霊会の部屋に厳(おごそ)かさと力強さがみなぎったという。そのインぺレーターが冒頭で紹介している霊団の組織と役割分担についての説明はひじょうに興味ぶかい。
第2部は、自動書記による通信で正篇に盛られていないものの中から、スピーア夫人がぜひともと思うものを選び出したもので、正篇を補足する形になっている。注目すべき事としては、ここで初めて“再生”の問題が取り上げられている事で、多くは語っていないがインぺレーターがそれを肯定する立場から含蓄のある事を述べている。
私の推察では、この再生問題はインぺレーター霊団の役目の中に予定されておらず、いずれ、ほぼ半世紀後にシルバーバーチ霊団が再生説を基本概念とした霊的進化論を説く事になっているという、全体の予定表ができていたのであろう。
第3部はモーゼス自身をテーマとして、まず他界後、心霊誌ライトに載った追悼の言葉、続いて交霊会で起きた珍しい物理現象、さらに、入神中の体外遊離体験、そして最後に、生前モーゼスがライト誌に投稿した記事の中から興味ぶかいもの、参考になるものを抜粋して紹介している。
モーゼスの人となり、及びスピリチュアリズムに関する見解を知る上でそれが非常に参考になるが、私はそれをさらに補足する目的で、ナンドー・フォドーの《心霊科学百科事典》から<ステイントン・モーゼス>の項目を全訳して巻末に紹介した。その内容がそのまま「霊訓」ならびに霊媒としてのモーゼスの解説となっているからである。
インペレーターを初めとする背後霊団の地上時代の身元についての調査資料も一般の読者の方には興味ぶかいテーマであろう。
なお第1部の構成者(編者はスピーア夫人であるが本書の構成者は別人である。名前は公表されていないが、たぶん当時のサイキック・ニューズ社のスタッフの1人であろう)が『はじめに』の中で述べているように、本書に集録されたものは断片的に抄出したものであって内容に連続性がない。
そこでその「断片」の合間に正篇から抜粋を挿入して、理解を深める上で参考となるように私なりの配慮をした。時には長文に及ぶものもあるが、読者はいちいち正篇を藩く手間が省けるであろう。
また場合によっては内容の重大性に鑑みて、『シルバーバーチの霊訓』や『ペールの彼方の生活』から抜粋して紹介してある。要するに私は本書を英国のいわゆる「3大霊訓」のダイジェスト版のようなものに仕上げたつもりである。
今後ますます霊的なものが輩出することが予想される日本において、その真偽の判断の拠り所として、こうした時代の荒波にもまれながら生き延びてきた、真の意味での聖典(バイブル)と言えるものをぜひとも座右に置いておく必要があると考えるのである。
はじめに紹介した霊言現象および自動書記現象による霊からのメッセージの入手方法の原理とあわせて、霊についての正しい常識と知恵を身につけていただくことになれば幸いである。
最後にひとこと、翻訳の文体について述べておきたい。この『霊訓』の原文は正続ともに古めかしい文体で書かれており、それは霊言の場合でも同じである。そこで国書刊行会からの完訳版ではなるべくそれを訳文に反映させるように工夫したために古い堅苦しい文体となったが、本書では霊言が主体となっていることも考慮して、思い切って現代文で表現してみた。
インペレーター独特の重厚味が欠ける憾(うら)みが無きにしもあらずであるが、広く現代の読者に読んでいただくためにはこの方が親しみやすくて良いと判断した次第である。
1987年6月
近藤千雄
第1部 霊言による霊訓
この第1部に収録した霊訓は、医師スピーア博士の私宅で催された交霊会での霊言を博士夫人が筆録して保存しておられたものである。ステイントン・モーゼス氏の死後、夫人はそれを心霊誌ライトに寄稿された。その記事の中からさらに厳選して、ここに出版することにした。貴重な価値と興味あふれる資料が紛失することを惜しむがゆえである。
収録されたものは断片的に抄出したものであって、内容に連続性はない。同時に、原文では連続していないものでも内容に一貫性があれば並置したところもある。カッコ「」の部分が通信霊の述べた言葉で、その他はスピーア夫人の説明である。通信霊はほとんどの場合が最高指導霊のインペレーターで、とくに指摘されていない場合は、インペレーターと思っていただきたい。
ライト誌上での連載を終えるに当たってスピーア夫人はこう述べている。「交霊会における現象の美事さと品の良さ、またインペレーター霊の強烈にして威厳に満ちた雰囲気はとても言葉で尽くせるものではありませんでした」
– 構成者
(注) – この前書きは本書の構成者のものであるが、氏名は記されていない。なおスピーア夫人の文章は現在形と過去形とが入り乱れていて一貫性がない。実際にはモーゼスの死後のことであるから過去形である方が自然なので、私はすべてを過去形に統一した。☆
「私こと Imperator Servus Dei(神の僕(しもべ)インペレーター)は49名から成る霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は私の指導と指令によって仕事に当たります。
私は全智全能の神の意志を成就せんがために第7界(5頁参照)より参りました。使命達成の暁には2度と地上には戻れない至福の境涯へと向上して行くことでしょう。しかしそれはこの霊媒が地上での用を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において地上よりさらに大きな使命を与えられることでしょう。
私の下に私の代理であり副官であるレクター Rector がいます。彼は私の不在の折に私に代って指揮し、とりわけ物理的心霊現象にたずさわる霊団の統率に当たります。レクターを補佐する3番目に高い霊がドクター Doctor, the Teacher です。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。
次に控えるのが、地上の悪影響を避けあるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、よい雰囲気を醸(かも)し出すことを任務とする2人の霊です。この2人にとって抗し切れないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。
そこで霊界の悪の勢力 – 霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護する事を役目とする2人の霊が付いております。じきじきに霊媒に付き添うこの4人を入れた7人で第1の小霊団(サークル)を構成しています。われわれの霊団は7人ずつのサークルで構成されており、それぞれに1人の指揮官がいて6人を統率しております。
第1のサークルは守護と啓発を担当する霊-霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。
次のサークルは愛の霊のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほかに優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類いのものすべてを配慮します。
次のサークル – これも同じく1人が6人を主宰しています – は叡智を司(つかさど)る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直感的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します。叡智を吹き込み、かつ判断を誤らせんとする邪霊からの影響力を排除します。
次のサークルは知識 – 人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また霊媒のたどる困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身につけさせ、直感的知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行われます。
その次に来るのが芸術、科学、文学、教養、詩歌、絵画、音楽、言語等を指揮するグループです。彼らは崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練された教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的な潤(うるお)いを与え、気品あるものにします。
次の7人は愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。これがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想が良く心優しい、魅力あふれる霊たちです。
最後のサークルは物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上でぜひ必要とみた現象を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生を兼ねて、この仕事にたずさわっております。この霊媒およびわれわれ背後霊団との接触を通じて、更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類いに属し、心霊現象の演出の仕事を通じて浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。
このように、私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るく愛想のいい霊たち、この低い地上界の単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて低い界から高い界への進化という恩恵に浴さんとして働く霊たち – その霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。
いずれのグループの霊たちも、みずからも進歩を求めている霊たちです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩せんと志す者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによってみずからも向上せんとしているのです。
われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。全能の父なる神の祝福のあらんことを」
「私がこの地上を去ったのは遙か遠い昔のことになりますが、このたび戻ってまいりましたのは、この霊媒を通じて霊的啓示を届けんがためです。それが私の使命なのです。私の属する界層からこの地上へ戻ってくる霊はきわめて稀です。が、大神が特殊な使命のためにこの私を遣(つか)わされたのです」
「天界と地上との間の階梯(はしご)はつねに掛けられております。が、人間の側の不信心が天使の働きかけを遮断してまいりました」
– あなたは神の僕(しもべ)ですか。
「いかにも。神の僕として選ばれ使命を仰せつかることは、われわれ仲間の間にあってはただならぬことです。私はこの霊媒を通じての使命を終えたのちは2度と個的身体をまとって戻ることのできない境涯へと赴きます。他の霊を通じて影響力を行使するのみとなるでしょう。
皆さんはすべからく大神の導きを求めねばなりません。おのれを恃(たの)む者は滅びる、滅びる、滅びる…(とくに厳粛な調子で述べた)。神は光明と導きを求める者を決してお見捨てにはなりません。決して、決して、決して…」
霊言が始まった当初、インペレーターはモーゼスのほぼ全生涯を共にしてきたと述べた。そのころは第6界に所属していたが、のちに第7界へと向上しているという。そのインペレーターがモーゼスを入神させて語るとき、モーゼスの頭部の後方に大きな光の十字架と、それを取り巻く光線が列席者の目に映った。
やがてそれが数フィートにも及ぶ高さの、強烈な光輝を発する美しい“光の柱”となり、それが右に左にと動いていた。その光柱の背後にたくさんの光が楕円形に群がっていた。その状態が30分以上も続いた。そのことについて尋ねるとインペレーターが、光の柱はインペレーター自身で、それを取り囲んでいる光線は側近の者で、光の群れは霊団の他の者たちであると説明してくれた。
また霊媒の頭部のまわりの光輝は霊媒の霊的威力を示しているとのことだった。インペレーターが出現している時はかならずサークル全体に厳(おごそ)かな雰囲気がみなぎり、われわれは偉大にして善良な霊の前にいることを感じるのだった。インペレーター霊団の背後にはもう1人、強烈な影響力をもつ霊が控えていて(巻末“解説”参照)、霊団全体の指導と霊媒の守護の任に当たっていた。
その霊団の中でも高級な部類に属する霊たちは霊媒を教化する立場にあり、代わって霊媒が霊団の中でも未発達な霊を教化するという関係にあった。その大半が地上生活での成長が乏しかった者で、再教育のために、言うなれば地上という学校へもう1度戻ってきたのである。この仕事を通じて成長した者はやがて霊団を離れて上層界へと進み、代わって、同じ仕事を必要とする霊がその役目についた。
インペレーターの語り口と祈りは実に厳かで、聞く者の心に、ぜひともこの聖なる仕事を完遂したいとの真摯な願望を抱かせずにはおかなかった。われわれの祈りに対してもインペレーターは(自分みずからではなく)自分を通じて神の意志が直接伝えられるように嘆願してくれるのだった。
そして交霊会のしめくくりとしていつも、われわれが、神の御国がわが心の中にあることをこの地上にあって悟り、慈悲と穏やかさと優しさと哀れみの心を身につけるようにその祈りの言葉を述べた。その1つを紹介すると –
「願わくば全能なる大神の祝福と保護のもとに真理と安らぎへ導かれんことを。地上を去りてのち、苦しむことなく中間の界層を首尾よく通り抜け、喜びの境涯へと進むことができるよう、この今を生きられんことを」
「地上へ降りてくる高級な霊は一種の影響力であり、言わば放射性エネルギーです。人間が想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊的通信の非個人性に注目していただきたい。この霊媒との関わりをもった当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。
死後、首尾よく2段階3段階と上っていった霊は人間的な意味での個体性を失い、形体なき影響力となって行きます。私はいま地上へ戻れるぎりぎりの境涯までたどり着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することができます。いま私は皆さんからはるか彼方にいます」
エリオトソン Elliotson と名のる霊に代わる。
「(入神状態において宇宙の記憶層から)無意識のうちに回想するなどということは不可能なことです。無意識的回想説は笑止千万というべきです。すべてのカギは背後霊の働きにあります。またアイデンティティ(地上時代と同じ人物像)が不変であるかに考えるのも間違いです。
私の知るかぎり高級霊ほどアイデンティティをほとんど失っております。進化していくうちに個性が拡張し放散して、一種の影響力の中枢のような存在となるのです。この霊媒の守護に当たっておられるインペレーター霊はこの上なく高貴なるお方で、私をその影響力下に包み込んでおられます。
が、私にはそのお姿は見えないのです。しかも私が存在する空間に充満しておられます。命令と指示を受けておりますが、1度もお姿を拝したことがないのです。この霊媒には顕現の形で見えることがあります。その必要性があってのことで、私にはその必要性はありません。私にとっては、こうして地上へ戻ってくることは一種の試練です。
たとえてみれば、清らかで陽光あふれる大気の世界から濃霧の立ちこめる谷底へ下りて行くのにも似ていましょう。地上の雰囲気の中に入ると私はすっかり変わってしまうようです。かつての地上時代の思考の習性がよみがえってきますし、当時より鈍重な空気を呼吸するような感じがします」
「私たちはあなた方人間に神そのものが影響力の大中心であること、その影響力は中間的存在である霊を通じて人類へと行きわたることをお教えしたいのです。その霊的存在-あなた方が天使と呼んでおられる存在です – が人類に影響を行使しているのです。
光の大中心を取り巻いて存在する大天使が、それをさらに取り巻いて存在する天使に影響力を放散する-つまりそうした天使的存在を通路として最高神の霊力が、受け入れる能力のある者すべてに届けられるという仕組みをお教えしたいのです。
人間は無意識のうちに知識を受け取りそれを広める通路となっているのです。与えられた才能を開発し、与えられた仕事を助成することによって、人間界における神の霊の住処を開発していくことができるのです。神のお力は高き界層に発し、天使を通して降下し、選ばれた使者にしみ通り、いかにすれば人間が神の協力者たりうるかを示します」
インペレーターに代わる。
「かつては“大使”と呼ばれ今日では“霊”と呼ばれている存在が人間と神との間を取りもち、神の恩恵を地上へ送り届けると同時に、人間の祈りを神の玉座へ送り届けることもいたします。それが神と人間とを取りもつ手段であり、影響力の通路なのです。物質に宿る霊(人間)のまわりには常に天使の支配があると思われるがよろしい」
(注) – ここでエリオトソンとインペレーターが述べていることは、私が“まえがき”で述べたこととも関連して、霊能者をもって任じている人たちに猛省を促したいところである。「宇宙意識とか記憶の層から望みどおりの知識や情報が得られることは理屈の上でのみ言えることであって、実際にそれができる人は地上の人間にはまずいない。シルバーバーチは自分の過去世を知ることすら地上の人間には困難だと言っている。
この種の問題ではエドガー・ケーシーの名を思いうかべる方が多いことであろう。この人は宇宙意識が語るのを入神状態で取り次ぐのだそうであるが、実際はエリオトソンが言っている通り、それもすべて背後霊団がやっていることである。
ラジオのダイヤルを回すと次から次にいろんな放送が入ってくるが、宇宙にはそれとは比較にならない、無数といってよいほどの意識や観念が飛び交っている。高級霊からのものもあるが、それを妨害したり、それらしく装って実はニセの情報を流している低級霊の集団からのものもある。困ったことには、そうした低級霊の波長の方が人間には感応しやすいのである。そこに予言のハズレや霊言のいい加減さが生じる原因がある。
心霊治療の場合は治る治らないの形で結果が明確に出るからよいが、霊言、霊示、お告げの類いは、本当か否かを判断する手掛りは何1つない。たとえ間違いなく“霊”からのものであっても、こんどはこの霊の程度と質が問題となる。それを試す方法は2つある。
1つは徹底的に疑ってかかることである。唯々諾々(いいだくだく)として何でも有難がるのが一番危険である。疑われて機嫌を損ねるような霊は相手にしない方がよい。
もう1つは、その内容から判断して、それが“霊”から承(うけたまわ)らねばならないほどのものかどうか、あるいは、そんなことを知ってどうするのかということを常識的に検討してみることである。その尺度でいけば、最近マスコミを通じて霊言だ、予言だといって宣伝されているものに、どうでもいい、好い加減なものがいかに多いかがお分かりいただけるであろう。☆
スピーア博士がキリスト教の教義について質(ただ)したのに対してインペレーターが –
「キリスト教の説く教義には多くの誤りが見受けられます。神についての見解はそれを受け取った霊媒の先入観念によってとかく着色されているものです。人間の勝手な考えによって教説をこしらえ、それがドグマとして定着し、絶対的教義として教え込まれています。創造神と人間とのつながり、および罪についてのキリスト教の説は間違っております。
罪とは、本質的には、霊性を高めるべく意図された永遠不変の摂理に意識的に違反することです。神が人間の罪をご自身への侮辱と受けとめるようなことは有り得ません。われわれが幼児の無礼を受けとめるのと同じように(寛容的に)受けとめられます。自然の摂理によっていずれは悲しみと罰とがもたらせるようになっているのです。
罪それ自体は創造神への侮辱などではありません。したがって無力な人間に報復という形で罰が加えられるなどということは有り得ません。罪はそれ自体が不変の摂理の侵犯としての罰を含んでいるのです。
人間イエス・キリストの地上生活は、地上の人間が見習うべき1つの模範を垂れたものでした。が、それをもって人間の罪を贖ってくれるものと見なすことは赦し難い欺瞞(ぎまん)であり、それこそ神を侮辱し、その汚れなき霊性を侮辱し、盲目的信仰に安住している者を堕落させ、おのれの軽信をもって美徳と思わせることになりかねません。
そのうち、これほど好い加減な寓話が、よくも大まじめに信じられてきたものと呆れる日も来ることでしょう。われわれにその普及の権限が託されている真理は、いずれそうした人間的創作をすべて無用のものとすることでしょう。人間は神を自分に似せて想像したのです。その神はきわめて人間的です。人間らしさを幾つも具えております。もう少し崇高な概念が抱ける者ならばおよそ受け入れ難い性質を、人間は“神”の名のもとに説いてきました。
地上人類はようやく今、全知全能の父なる神の概念へ向けて近づきつつあります。やがて新たな啓示を得て、すべての古い誤謬(ごびゅう)を排除し、新しい神の概念を理解することになるでしょう。全能の神からわれわれが頂いてきた啓示は、これまでの古い教義と思索の産物を排除し、それに代わって、作り話ではなく、有るがままの真理を授けることになるでしょう。
霊的啓示はすべて神から届けられます。がしかし、それまで人間が信じ希望を託してきたものの多くを除去しなければならないために、必然的にそれは人間が“信仰”と呼んでいるものを覆すことになります。神は人間の理解力に応じたものを啓示されます。ゆえに、神の啓示は段階的進歩をたどることになります。
それを授けようとするわれわれの仕事を阻止せんとする邪霊が組織的策謀を弄していますが、こうした反抗は真理が完全に普及しつくすまでは途絶えることはないでしょう。それは信念の弱い者にとっては容易ならざる試金石となるでしょうし、信念強固な者にとっては油断ならない大敵となるでしょう。が、そこにこそ邪霊の存在意義もあるのです。
見えざる通信霊の指導を仰ぐ時は、はたしてその霊がみずから公言するとおりの存在であるか否かを見極めないで唯々諾々(いいだくだく)として承(うけたまわ)ることのないよう心していただきたい。われわれの立場から言わせていただけば、真摯にして純粋な探求心から発する調査には何ら恐れは覚えません。
この交霊会において皆さんが目のあたりにされている現象は、キリストが行った奇跡と本質において同じものです。その耳でお聞きになる言葉はヘブライの予言者たちの言葉と少しも変わるところはありません。スピリチュアリズムの知識はいずれ普及します。が、どこかの宗派の教義としてではありません。
われわれの啓示には主教も司祭も執事も必要としません。必要なのは守護・指導に当たる霊と、それを受ける人間の霊との交わりのみです。キリストも述べております-いずこかの土地、いずこかの人間が特に他より神聖であるかに説かれることのない時代が訪れるであろう、と」
(注) – 英国国教会のかつての大主教ウィリアム・テンプルの言葉にこうある – “わが国教会の最大の誤りは、神は紀元66年まで世界の一地域すなわちパレスチナにのみ働きかけ、それ以後は他のいかなる土地にいかなる働きかけもしていないという信仰を作り上げてしまったことである”と。
いつから何を根拠にこうした説が出来あがったのかは知らないが、もしもその通りだとすると、交霊会というものは有り得ないことになる。キリスト教徒が交霊会を毛嫌いする理由はそこにあるが、ここでインペレーターが言っているのは、交霊会を通じてのみならず日常生活においても霊は人間に働きかけており、それが一番大切だということである。☆
「われわれは人間に対して、自分をおいて他にいかなる救い主も説きません。胸をえぐられる思いの後悔の念と深甚なる償い-罪の結果はそれしかありません。悪いと知りつつ犯した罪が生み出すその結果から逃れられる者はいません。誰一人いません。お慈悲を求めていかに大げさに泣き叫んでみても、それだけで即座に神の御前に侍らせていただけるようなことは断じてありません。
また底無しの地獄図絵など、われわれは説きません。肉体的に、精神的に、そして霊的に、地上の人間としての義務を果たすことによって徐々に幸せに、少しずつ神らしく成長していきます。人間の勝手なドグマなどは肉体の死とともに死滅し、昇り行く太陽によって雲散霧消します」
スピーア博士「十字架上での盗人の懺悔の教訓は人を誤らせるものということになるわけですね」
「そうです。涙も絶叫も魂を清めることにはなりません。矯正のための永い過程をへなければなりません」
スピーア博士「御子イエスの血がすべての罪を清める、という聖書の文句を解説してください」
「その中身を汲み取ることです。人間はこれを神がその御子を地上へと身を落とさせ、その御子の血のほとばしりが、それによる贖(あがな)いへの信仰を告白した者のみを永遠の火炎地獄から救い出すと解釈しています。いったいその御子が何者であるかについて知らないままそう解釈しておりますが、そのような冷酷にして無情、邪険きわまる言説は打ち棄て、キリストの生涯と教えの底流にある霊的な意義を読み取ることです。
その人生は人間にとって模範とすべきものであり、至純にして至聖、苦難によって崇高さを増し、慈悲によって高揚された生涯でした。皆さんもぜひその生活を見習っていただきたい。そうした生活こそ罪より救い、気高いものへと導いてくれることでしょう。誤ることを免れない人間の言葉を字句どおりに受け取り、さらにその誤った土台の上に教理の体系という上部構造を築くという間違いを犯しております」
「ここで、神についての真実の概念を申し述べたいと思います。人間的属性を具えた人格神としてではありません。神々(こうごう)しい人間神としてでもありません。全宇宙に漏漫(びまん)し、普及する普遍的大霊としてです。今や人類は神についてより大きな概念を受け入れる用意ができました。
われわれは“愛”として顕現している神を説きます。愛-いかなる限界内にも閉じ込められない愛としてです。人間神の概念はかつての人類全体に行きわたっていた偶像崇拝の産物です。これを改めることもわれわれの使命の1つです。神は1個の人格を具えた存在などではありません。どこかの一地点に鎮座ましますのではありません。すべてに浸透し、無始無終に存在し、すべてを導き、すべてを愛されるのです。
肉体に宿る人間はどうしても限りある形体を具えた神を想像します。われわれが知り得たかぎりでは、神は限りある人格者ではなく、ましてや1個の人間となって誕生したこともなく、人間的影響力によって動かされることなど断じてありません。神は普遍的法則として働いています。祈ることは結構です。祈りは波動の原理で天上界へと送られ、神が直接働きかけられる天使のもとに届けられます。人間はすべからく祈ることです。祈ることを知らない頑な魂は天使も近づくことができません。祈る魂には、いついかなる時でも、天上界の使者が惹きつけられます。
一方においてわれわれは神を一種のエネルギーとして片づけんとする致命的な誤りを避けねばなりませんが、他方、神を人間的煩悩と必需品と権力欲とを具えた人間的存在とする擬人説の迷妄にも陥らぬよう注意しなければなりません。原初、人間は自分で勝手な神を作り上げました。暴君のごとき神、いえ、人間にも真似のできないほど極悪非道の神でした。
本当の神とは、生命の本質として、全存在に活力を与える“霊”です。全存在を美化する光と愛とを供給する始源です。その神の御心にかなった生活はキリストの生涯の中に体現されています。神は単なるエネルギーではありません。さりとて人間が大自然と呼んでいる非人格的存在でもありません。
神のことを宇宙に漏漫する根源的大霊と心得るがよろしい。“父なる存在”という言葉がその正しい概念を伝えております。大自然そのものは神ではありません。その大霊が顕現した相にすぎません。手がすなわち身体とは言えません。身体を構成するものの一顕現にすぎないのと同様です。
これまで、“父なる神”についてあまりに誤った概念がはびこっていました。遠い昔にあっては、それは怒れる神であり、人間はお慈悲を求めて泣き叫ぶことによってその怒りを鎮めることを要しました。わが子を永遠の地獄へほうり込むことを愉快に思う神でした。
われわれが認識している神(想像する神ではありません)は、完全にして永遠なる愛の神、過ちを犯した人間も善良な人間もともにその御胸に抱かれる神-わが子すべてを等しく哀れみをもって見つめ、民族や土地によって区別することなく、神の御名を唱える者すべてに等しく優しさと愛の念をもって応えてくださいます。
もしも人間が、いかに身分の低い者をも、世間でいかに軽蔑されている者をも慈しみ慰め給う間断なき愛の証 – 天使の軍勢が神の子等を取り囲んでいる姿をわれわれと同じようにご覧になることができれば – たとえ一瞬でもその目で光り輝く存在の大軍勢を垣間みることができれば、誰しもきっと感動を覚え、鑽仰(さんぎょう)の声を発するに違いないのですが…。
願わくば石のごとく冷ややかな人間の心、高級界からの働きかけに何の反応も示さない心が神の御光に感動し、全てを与えたもう神、普遍的愛の神へ向けて讃仰の声を発することになってくれればと祈らずにはいられません。われわれはその天界の政庁の代表として参っている者です。
父なる大神は、子等の望みに応えるべく、慰安と導きと愛をたずさえた天使団を送られます。輝ける永遠の光明界よりわれわれは人類の経綸のために参っているのです。天使の群れ、霊の群れ、他界せる知友の群れが、後に残れる者の経綸に当たっているのです」
「各時代の人間の中から啓示の受信者が選ばれます。その者は言うなれば霊的影響力の預り人であり、現在と未来とをつなぐ連結の輪の1つです。後続の者に引きつぐべき真理がその者に預けられます。そして、その者には大神の特命を受けた高級霊が指導に当たります。大神がその万能の叡智をもって立てた計画の遂行に当たるべく、厳粛な意図をもって抜てきされた霊たちです。
やがてその受信者たちが使命に目覚めます。神の使者が天と地とを急がしく往き来します。閉ざされていた扉がふたたび開かれる時が到来したのです。エゼキエル(紀元前6世紀のヘブライの予言者)、パプテスマのヨハネ(イエスの洗礼者)、そして霊覚者ヨハネ(イエスの使徒)の耳に囁いた声がふたたび聞かれる時が到来したのです。霊界がかってない規模をもって連絡を密にし、全知全能の神の声が中継の天使群を通じて届けられる時が到来したのです。
では、人間は素直にその声に耳を傾けてくれるか – 否!かつてと同じく今日の時代においてもそれは同じことです。このたびもまた人間側の不信が、神の愛の意図を踏みにじっているのです。人間の頑迷さが神の計画の妨げとなっているのです」
(注) – 50年にわたってモーリス・バーバネルの口を使って語り続けたシルバーバーチの霊言の中には、ここでインペレーターが述べているのと同じことに言及しているものが何度も出てくるが、その中の1つに次のような箇所がある。
質問「今はスピリチュアリズムという形で霊界と地上界との間にコミュニケーションが開かれていますが、それ以前にも立派なコミュニケーションの時代があったのでしょうか」
シルバーバーチ「一時的にインスピレーションがあふれ出たことはありますが、長続きしていません。このたびのコミュニケーションは組織的であり、協調的であり、管理・監督が行き届いており、規律があります。一大計画の一環として行われており、その計画の推進はみなさん方の想像も及ばないほどの協調体制で行われております。背後の組織は途方もなく巨大であり、細かいところまで見事な配慮がなされております。すべてに計画性があるのです。そうした計画のもとに(19世紀半ばに)霊界の扉が開かれたのです。このたび開かれた扉は2度と閉ざされることはありません」
訳者は『霊訓』と『シルバーバーチの霊訓』と、もう1つオーエンの『ベールの彼方の生活』を英国の3大霊訓と呼んでいるが、このオーエンの霊訓全4巻の最終巻では通信霊のアーネルが右のインペレーターとシルバーバーチが指摘してい“神の計画”について、その発端から推進の過程までの全貌を雄大なタッチで描写している。
そのリーダーをキリストという名で表現している。その点はインペレーターもシルバーバーチも同じであるが、これは霊媒のモーゼスとオーエンがともにキリスト教の牧師であったこと、それからバーバネルの場合は本人は無宗教であっても交霊会のメンバーがかってのクリスチャン、あるいは牧師だった人たちで構成されていたことから当然そうならざるを得なかったまでのことで、要するに地球神界の政庁から派遣された最高級の霊と考えればよい。アーネルが“各天体にキリストがいる”と言っていることからも、そう理解してよいであろう。
地球神界の上には太陽神界があり、さらにその上に銀河系神界があり、その銀河系がいくつか集まった規模の神界がまた存在し、たぶん中間にいくつかの段階、現在の天文学では知られていない規模の組織があって、最後にようやく“造化の神界”がある。そこを始源として全大宇宙にシルバーバーチのいう“大霊”が漏漫している、ということなのであろう。もっともシルバーバーチはその最後というのは無いと言うのであるが、ここまでくるともう人間の脳を通しての知性では理解できなくなる。
それは別の問題として、こう観てくると地球などは宇宙のチリほどの存在にすぎないが、もったいないことに、その地球の浄化のために、地上の全人口をはるかに超えた数の霊の大軍が組織され、本格的な活動を行っていることは、以上の3大霊訓の支配霊が異口同音に語っていることで、どうやら間違いない事実のようである。☆
「人間とは何か?人間とはいかにもインスピレーションの媒体にすぎません。地上で崇められるいかに立派な人物も、神がその叡智のうち、人間にとって適切とみたごくわずかな一部を伝達するための手段にすぎません。その為すところのものは、偉大なるもの、気高きものもすべて、守護霊の影響でないものはありません。
霊媒が特別の能力ゆえに選ばれることは事実ですが、その能力とて、取り立てて崇めるべき性質のものではありません。ある啓示のために適当な道具として選ばれ、その啓示が託されたというにすぎません。霊媒の功績とすべきものではないのです。また真に忠実な僕としての心得のある者なら、そうは思わないものです。ただの媒体、神の啓示の栄誉ある道具にすぎません。
その栄誉も、霊界側から見ての栄誉であり、世俗的な意味での栄誉ではありません。神の僕 – 神のメッセージの受け皿としてとくに選ばれた者という点において、われわれの側にとって有難い存在という意味です。
その任務を忠実に遂行するにつれて霊媒も恩恵を受け、地上を去ってのち、こんどは自分が神のメッセンジャーとして、地上の霊媒にメッセージを届ける役目にふさわしい人物として成長していきます。その受け皿はおのずと気高い芳香に満ちております。そして神の僕として仕えれば仕えるほど、その気高さを増していきます。神の真理という名の宝石箱として、人間と天使の双方から敬意を受けるに足る存在となっていきます。
しかし、万が一にも不純なるもの、不正なるもの、臆病あるいは怠惰の要素を心に宿すようなことがあれば、あるいはもし神のみに帰すべき栄光を私(わたくし)せんとする傲慢無礼(ごうまんぶれい)を働くようなことがあれば、さらには又、世俗への迎合、高慢、不純なる動機を抱くようなことがあれば、その時は神の道具として選ばれた使命によって恩恵を受けるどころか、絶好の成長の機会を無駄にした不徳によって、大いなる害をこうむることになります。
それが不変の神の摂理なのです。大いなる栄誉は大いなる責任が伴うということです。善行の絶好機を手にしつつ無為に過ごした者、あるいはそれを故意に悪用した者には、神の意志を知りつつその実行を怠った僕としての禍いが降りかかります。前者が向上するところを彼は下降します。霊的能力は没収され、道徳的にもまた知的にも堕落していきます。栄誉を投げ棄て、そして、見よ、恩恵に代わって禍いが彼に降りかかります。
それ故、そうした経歴の持ち主が他界したのちに万が一にも通信を送ってくるとすれば、その通信の内容は、その人物の地上での評判から想像されるものよりは必然的に低いものとなりましょう。地上で彼が語った言葉は彼自身のものではなくインスピレーションによる言葉でした。が、今や神より授かった霊力は没収されています。彼の語る言葉は(親和力によって)引かれてゆく低次元の社会に似つかわしいものとなっています」
(注) – 正篇の『霊訓』で同じテーマを同じくインペレーターが別の角度から説いている箇所があるので、長文をいとわず引用しておく。自動書記によるものなので文体がやや異なる。
《われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受け取るにふさわしい霊媒を見出すことである。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければならない。受容性の限度以上のものは、所詮、伝え得ないのが道理だからです。次に、愚かな地上的偏見にとらわれぬ者でなければならない。若い時代の誤った思想をいさぎよく捨て去り、たとえ世間に受け入れられないものでも、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主でなければならない。
まだある。独断主義から解放されねばならない。この世的思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断と派閥と偏狭な教義から解放されなければなりません。おのれの無知に気づかない、一知半解の弊に陥ってはなりません。常にとらわれのない探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧れる者、洞察力に富む者であらねばなりません。常により多き真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。要するに真理の吸収に飽くことを知らぬ者でなければならないのである。
またわれわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では仕事らしい仕事は為し得ないし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を排除するのが精1杯ということになる。われわれが求めるのは有能にして真摯、そして飽くなき探求心に燃えた無欲の心の持ち主でなければならないのです。
そのような人材が発見困難であると述べたわけがこれで理解していただけるであろう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近い。さればわれわれは、見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛錬した上で採用する。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、おのれの知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養う。
そうすることで独断的偏見から脱け出させ、真理が多面性を有するものであり一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行う。そうして魂の成長に合わせて知識を着々と積み重ね、基礎さえ出来あがれば、安心して上部構造を築き上げていくことが出来る。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの所期の目標に調和させていく。
ここに至って多くの者が脱落して行く。そしてわれわれも、彼らは地上にては真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見と頑固な独断的信仰が容易に拭えないものであること、それゆえ時の流れに任せるほかはなく、われわれにとって用のない存在となったことを知って諦めるのです。
また真理への完全な忠誠心と、恐怖心も不安も宿さぬ信念は、われわれによる教化によって着実に培われていくものである。われわれは神とその使者たる指導霊への全幅の信頼へ向けて霊媒を導いていく。そしてわれわれが神より許された範囲での行為と霊的教訓を忍耐づよく待つ心構えを培う。
こうした心構えは、多くの霊媒に見うけられる苛立った、落着きのない不満と正反対である。この段階でまた多くの者が脱落して行く。恐怖と不安に駆られ、疑念に襲われる。古くからの神学を説く神は、自分のような人間の破滅を今か今かと見守っていると思い、悪魔が罠にかけんとして油断なく見張っていると思い込む。確かに、古い信仰の基盤が揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その間隙に邪霊がつけ入り、揺れ動く心を誘惑する。ついに恐怖にたまりかねた者が脱落し、われわれにとって用のない存在となって行く。
それでもなおわれわれは、人間のあらゆる利己心を払拭しなければなりません。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。さもないと、われわれは何も為し得ません。霊界からの指導にとって人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚れほど致命的なものはありません。小知を働かせてはなりません。われわれからの知的働きかけの妨げとなるからです。独断主義に偏った知性は使用しようにも使いものになりません。ましてそれが高慢と自惚れに満ちていれば、われわれには近づくことすら出来ません。
いつの時代にも自己犠牲こそが聖賢の徳であった。その時代相応の進歩的真理を旗印にした予言者たちはみな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。聖書にその名を留めるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。とくにイエスはその地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高なる模範であった。イエスという人物の中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることが出来るのです。
この世から誤りを駆逐し真理の光をもたらした人々はみな、おのれに課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った者であった。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者はみな無私無欲の人物 – 我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らぬ人たちであった。いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ等々の美徳を最高に発揮した人たちです。それなくしては彼らの仕事が成就されることはなかったであろう。もしも私欲にとらわれていたならば、その成功の核心が蝕まれていたことであろう。謙虚さと誠実さといちずさとがあったればこそ成就し得たのです。
われわれが求める人材とはそのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実にして己を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据え、いっさいの地上的打算を忘れた性格。こうした麗しい魂の持ち主が稀であることは確かです。
が、友よ、平静にしてしかも誠実かついちずな哲学者の心を心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時もすすんで救いの手を差しのべる博愛主義者の心を心とされよ。さらに、報酬を求めぬ神の僕としての無欲の心を心とされよ。神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいない。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬであろう。神より遣わされた天使も笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることであろう》☆
「皆さんは次のような間違った事実に気づいておられるでしょうか。すなわち大半のキリスト教徒は自分たちこそイエスが保証した天国の継承者であると思い込み、神は自分たちのために生き自分たちのために死すべく唯一の息子を送ってくださったと信じていること。また自分たちは神の直属の僕によって授けられたメッセージの啓示を受け、かってそれ以外のメッセージが人類に授けられたためしはないと信じていること、さらに又、その自分たちにのみ明かされた教義をインド、中国人、そのほかの異教徒すべてに説くことが自分たちの絶対的義務であると思い込んでいること。そして、その啓示は完全にして、神の最後のお言葉であるとまで信じていることです。
そのような、間違っていると同時に独善的な言説は即刻捨て去られるがよろしい。最高神がそのような偏ったえこひいきをなさることは有り得ぬことです。すべてを統率される永遠の存在が、地上の一地域の子等の陳腐な願いごとだけに耳を傾けるようなことはなさりません。いつの時代にも、それぞれの時代の特殊な事情に応じて神の啓示が授けられているのです。
そのいずれの啓示にも、中核をなす重大な思想が盛られております。スピリチュアリズムと呼ばれているものは、それらを1つにまとめた総合的思想なのです。これまで断片的に啓示されてきたものが集められ、スピリチュアリズムの名のもとに、偏りのない1個の集合体としたのです。純粋性および真実性において優るものもあれば劣るものもあります。が、イエス・キリストの説いた真理がもっとも真実味にあふれ、多分インドの古代宗教がそれに続くでしょう。真理の受け入れの最大の障害となるのは偏見です。
私が地上で生活した頃はそうした古い宗教については何の知識も存在しませんでした。そもそもユダヤ人の間には霊魂不滅の信仰と呼べるものは何ひとつ存在せず、単に憧れる程度に過ぎませんでした。そこヘイエス・キリストが出現して、真実の信仰として霊の不滅性を説いたのです。使命の一環がその真理を広めることにあったのです。
当時のユダヤ人は今日のクリスチャンとよく似た傾向にありました。いつしか来世についてあまり多くを考えないようになって行きました。そこヘイエスが出現して霊の不滅性と永遠性を説いたのです。それは、こうしてわれわれが他界した霊との交信の可能性を説きに来たのと同じです」
「皆さんが異教徒と呼んでいる者の運命について大部分のクリスチャンが、彼らは死後哀れな道をたどり、お慈悲を要求することを許されぬまま神の裁きに任される、と断じております。不思議でならないのは、イエス自身は同じオリに種類の異なる羊もいると述べ、彼らも同じ仲間として、その行いによって裁かれると教えている事実を忘れていることです。またパウロが神について語ったときも、神は地上のすべての民族を同じ血によってこしらえられたと言い、したがって人類はすべて同じ家系から生じ、神を慕い求める者は誰にでもその願いが叶えられることを説いております」
「キリストが所有していた強大な霊力はとうてい皆さんには理解し得ません。完全な自己滅却が人間の中にあって神のごとき生活を可能ならしめました。その奇跡は天使の背後霊団によって演出されました。そしてその思想はひとつの気高い目的に集中しておりました。すなわち人類の福祉への献身です。
キリストは悠久の前生(後注)を有する高級霊の一柱が宿ったものであり、その高い界層においてもなお高い位にありました。人類更生のための大事業はすべてそのキリストを淵源としております。その聖なる影響力は地上のいかなる暗き場所をも数多く啓発しております。これ以後も人類の霊的受容能力が開発されるにしたがってその影響力がますます広がって行くことでしょう。
われわれはそのキリストの名のもとに参ります。そのキリストの霊力のお陰をもって語ります。そしてそのキリストの祝福をみなさんにおあずけしてまいります。その上に安らぎを、安らぎを、安らぎを…」
(注) – ここでいう“前生”とは誕生前の霊界における生活であって、地上での生活ではない。これは神々の誕生にかかわる大問題で、日本の神話では寓話風に語られているが、シルバーバーチは“物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか”という質問に答えて次のように述べている。
《霊界の上層部つまり神庁には、1度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物質器官を通しての表現を体験しなくても成長進化を遂げることができるのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を帯びて地上へ降りてくることがあります。歴史上の偉大な霊的指導者の中には、そうした神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります》
これは次のインペレーターの霊言とも一致している。☆
「キリストの場合はかつて1度も物質界へ降りたことのない高級神霊が人類の向上と物的体験の獲得のために一時的に肉体に宿ったものです。そうした神霊は高い界層に所属し、人類の啓発のために特殊な任務を帯びて派遣されます。肉体に宿らずに、霊媒を見出して働きかける場合もあります(後注①)。その霊媒に対して、いまだかつて物質界に降りたことのない“真理の啓発者”から深遠な真理の幾つかが注ぎ込まれ、それについて霊媒は睡眠中に教えを受けることがあります(後注②)。
本人はそれと気づいていなくても吸収することはできております。この種の神霊は俗世的問題を問われる気遣いのない時をみて働きかけようとするのです。なぜかと言えば、彼らは俗世の問題についてはまったく無知であり、霊的知識以外は伝受し得ないのです。そうした神霊が時として自らの意志によって地上へ降誕してくることもあります。慈悲に発する使命感から率先して志願するのです。そして肉体に宿っている間は自己のアイデンティティ(本来の身元)の記憶を喪失します。こうした行為に出る神霊は数多く存在します。そして、地上生活を終えたのち、特殊な存在の側面についての体験と知識とをたずさえて、本来の界層へと帰還していきます」
(注)① – 『ベールの彼方の生活』第4巻で、ある“双子霊”が各種の天体を遍歴しながら向上していく話のあと、霊媒のオーエンとアーネル霊との間で次のような問答がある。
– 地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。
「再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう1度宿るということを意味するものと思われます。そうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を“再生”と呼ぶのは適切ではありません。というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、まったく同じ素材でできている天体は2つとなく、まったく異なるものもあります。
それゆえ貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質のものでないとして否定されることでしょう。そうではなくて、お2人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも、地上の場合と同じく、いま私が行っている方法で訪れたのです。
私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物的身体をまとうことはいたしません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく分かります。物的世界のことは、そこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりもはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです」
(注)② – これはわれわれ平凡人においても同じことで、肉体から脱け出て脳を通しての意識から解放されている間に、背後霊によっていろいろと指導を受けている。それが肉体に戻ってからどこまで脳の意識に反映されるかは霊的意識の発達程度(霊格)によるので、1人ひとり異なる。『シルバーバーチの霊訓』第7集の中で、ルースとポールという2人の子供(姉と弟)を相手にしてシルバーバーチが次のような話をしている。
ルース「あたしたちは眠っている間はどんなことをしているのでしょうか」
シルバーバーチ「みなさんは毎晩その身体をあとにして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は2種類に分けることができます。1つは教育を目的としたもので、もう1つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。いいですか、ルースちゃん、あなたは昨晩私の世界の庭園へ連れて行ってもらったのですよ。それからポール君は音楽を聞きに行ったのですよ」
ポール「2人ともそのことを覚えていないなんて、つまんないですね」
シルバーバーチ「たしかに、そう思うのも無理ないかも知れませんね。でも、それは肉体から離れている間の(異次元の)体験を肉体の脳で理解しようとするからなのです。ポットの水ぜんぶをグラスに入れようとしても入りませんね。それと同じです。でも夢を注意して見ていると好いヒントになるものが見つかるはずですよ」
ルース「わけの分からない夢はどう理解したらいいのですか」
シルバーバーチ「変な夢のことですか。あれは異次元での体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入りきれないのです。それをムリして押し込もうとするために、あのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません」☆
「われわれはキリストの降誕に関して新しい視点を披露しました。これからそれを敷延(ふえん)したいと思います。
キリストの霊は地上へ降りることの可能な霊の中でも最高次元の霊です。そのキリストが地上人類の霊的更生のために自ら降誕したのです。
霊が降誕するのは地球ばかりとはかぎりません。ただ、地球には地球ならではの特殊な体験がいくつかあります。いずれの天体にも霊的発達のための利用価値があり、すべての天体で生活が営まれております。そこへ時として高級霊が降誕して、教化と高揚に当たります。
キリストは新しい時代を切り開かんとして、単純素朴さと誠実さとを教えるために地上に参りました。いま皆さんが見とどけておられるのは、さらに一段と高等な真理、より神性に富んだ真理を霊界から届ける新世紀の夜明けです。決して一過性の現象ではありません。人類を霊的方向へ導き啓発せんがための首尾一貫した大計画の一端なのです。現世紀は主として霊団の活躍による影響を受けていますが、少ないながらも、身をもって降誕している“進化せる霊”が地上にも存在しています。
キリストの霊がそれ以前に地上へ降りたことは1度もありません。高級霊といえども肉体に宿ることによって前生の記憶を失うものです(後注①)。この種の降誕は一種の自己滅却です。もしくは“国籍離脱”にも似た行為です。皆さんがいま生活しておられる地球は、ほぼ最低に近い次元の存在の場です。地球よりはるかに発達した天体が数多く存在します。形成の段階にある天体もあります。(太陽系では)水星がもっとも低く、木星がもっとも進化しています。
キリストは“無”の境涯(超越界)へと入って行かれました(後注②)。が、われわれの仕事の完遂の暁にはみずからお出ましになられることでしょう。その刈り入れ時の到来までには幾多の為さねばならぬことがあります。種子まきと成育には長い期間を要するものです。いま遂行されつつある仕事の大きさ、開かれつつある眺望の広さは皆さんには理解できません。
神の愛がかくも強烈にほとばしり出たことはかつて1度もありません。地上人の心に静かな影響力が働きかけております。今こうしてお持ちしている教えの受け入れ態勢が地球上いたるところで準備されつつあります。さらに多くの援助が必要となれば、新たに偉大なる天使の軍勢が差し向けられ、その霊力が地球へ届けられることでしょう。今はまだその必要はありません。計画どおりに順調に進渉しているからです。
皆さんは今、地球の歴史上有数の画期的世紀のひとつに生きておられます。新たな教説が受け入れられるに先立って古い教説を一掃しなければなりません。が、そう易々と一掃されることはないでしょう。何となれば、その教説のまわりを、幾世紀にもわたる付着物が取り巻いているからです。しかし今や、それも急速に取り払われつつあります。そして2度と生き返ることはないでしょう。この時代に生をうけ、こうした新しい真理を学ぶことのできた皆さんは幸せ者です。もっともその恩恵を正しく理解し活用すればのことですが…。
私の教えは(同じく超越界に入っている)私の大先輩(紀元前9世紀ごろのヘブライの予言者だったエリヤの霊)から授けられます。私はその方と直接お会いすることができます。その方もまたその大先輩(紀元前12世紀ごろのヘブライの予言者モーセの霊)から教えを受けておられます(後注③)。
私はまだ瞑想界へ入ることはできません。が、その方が私のもとに降りてこられて、このたびの使命を私に授けられたのです。われわれの1人ひとりが大いなる系譜の1単位であり、その先をたどれば最高神にまで行きつきます。
私の指揮のもとにある霊団は私の命令をうけ、時おり私との交わりを求めて会合をもちます。われわれの仕事にとって秩序がすべてであり、身勝手は許されません。人間が思うがままに振舞えるのは、行為の及ぼす結果について人間が鈍感で、われわれと違って知らないでも平気でいられるからです。
もっとも人間は気づいていないようですが、人間も真の意味では自由ではありません。人間の意志は、良きにつけ悪しきにつけ、かならず何らかの霊的影響力によって導かれております。ひと口に霊といっても、その進化の程度によってさまざまな種類が存在します。他の天体に所属する霊がこの地球を訪れることは、あることはありますが、滅多にはありません。地球所属の霊にしても、地上より他界した人間の霊のほかに数々の種類が存在します。その中には自然界のエネルギーを支配する霊もいます(後注④)。
(注)① – 『霊訓』に次のような箇所がある。
《地上の救済のために遣わされる霊はそのほとんどが肉体をまとうことによって霊的感覚が鈍り、それまでの霊界での記憶が遮断されるのが常です。が、イエスは例外であった。その肉体の純粋さゆえに霊的感覚を鈍らせることがほとんどなく、同等の霊格の天使たちと連絡を取ることができました。天使たちの生活に通じ、地上への降誕以前の彼らの中における地位まで記憶していました。天使としての生活の記憶はいささかも鈍らず、1人の時はほとんど常時、肉体を離れて天使と交わっていました。長時間にわたる入神も苦にならなかったのです》
(注)② – 同じく『霊訓』の中で、魂が向上発達していく“試練”もしくは“浄化”の境涯と、そのあとにくるいわゆる超越界、いったん突入したらよくよくの場合を除いて2度と戻ることのない“無”の世界との間に大きな懸隔があると述べてから、さらに次のように綴られた。
《7つの試練界の最高界から超越界の最底界への突入は人間の死にも似ている。が、その超越界についてはわれわれもほとんど聞かされていません。ただ、われわれがこうして人間を見守っているごとく、その世界の至聖なる霊もわれわれを援助し導いてくださっていることは承知している。が、それ以外の具体的事実については何も知りません。分かっているのは、その世界の霊はいよいよ神性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、大神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。
われわれとてその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。霊といえども自分が得た経験と知識にしたがって語っていることを承知する必要があろう。奥深い問題についても、それまでに知り得たかぎりの範囲で解答を出します。ゆえに、真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはなりません。が、霊の世界について間違いなく言えることは、地上界が7つの下層界のうちの最高界であり、その上に7つの“動”の世界があり、さらにその上に7つの超越的“無”の世界が存在するということである。ただしその7つの各界には無数の“境涯”が存在する》
(注)③ – 古来“啓示”にも霊的系譜があることを、同じく『霊訓』の中でインペレーターが次のように述べている。
《古き時代においてわれわれと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた道程についてこれより述べようと思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にあっては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきました。その1人-神が人間に直接的に話しかけるとの信仰が今より強く支配していた時代の1人に、メルキゼデクの名で知られた人物がいた。(中略)
そのメルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者 – イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体とを確立した指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大な人物でした。すでに当時としては最高の学派において、すぐれた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していました。人を引きつける彼の強烈な意志が、支配者としての地位にふさわしい人物としたのです。彼を通じて強力な霊団がユダヤの民に働きかけ、それがさらに世界へと広がって行きました。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定しました。その時代はユダヤ民族にとっては、他の民族も同様に体験している段階、そして現代も重大な類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのです。(中略)
メルキゼデクがモーセの指導霊となったごとく、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼしました。断っておくが、今われわれはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示すために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。またその巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去ったのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を指摘せんとしているところです。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、今の貴殿には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な流れこそ最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するような、愚かにして狭隘(きょうあい)な宗閥心だけは捨て去ってもらわなければなりません。
偉大なる指導者エリヤ – イスラエル民族が授かった最高の霊は、かつての指導者モーセの霊的指揮下にありました。(中略)そのエリヤもまた後の世に地上へ戻り、指導に当った。貴殿も知るごとく、かの“変容”の山上にてモーセとともにキリストの側にその姿を見せました。2人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとあります》
(注)④ – いわゆる“精霊”のことで、『ベールの彼方の生活』ではそれを“半理知的原始霊”という呼び方で次のように説明している。
《これは個性をもたない自然界の霊で、鉱物の凝縮力として働くもの、植物の新陳代謝を促進するもの、動物の種属ごとの類魂として働いているものとがあります。鉱物の霊はこの分野を担当する“造化の天使”によって磁力を与えられて活動する以外には、それ本来の知覚らしい知覚はもっておりません。が、植物の霊になるとその分野の“造化の天使”から注がれるエネルギーに反応するだけの、それ本来の確立された能力を具えております。鉱物にくらべて新陳代謝が早く、目に見えて生育していくのはそのためです。
同じ理由で、人間の働きかけによる影響が通常の発育状況にすぐ表れます。たとえば性質の相反する2種の鉱物、あるいは共通した性質をもつ2種の鉱物を化学実験のように溶解状態で混ぜ合わせると、融和反応も拒否反応も、ともに即座にそして明瞭な形で出ます。感覚性が皆無に近いからです。
ところが植物の世界に人間という栽培者が入ると、いかにも渋々とした故意的な反応を示します。ふだんの発育状態を乱されることに対して潜在的な知覚が不満をもつからです。しかし、これが動物界になると、その類魂も十分な知覚を有し、かつ又、少量ながら個性も具えています。また“造化の天使”も整然とした態勢で臨んでおります》☆
「他の天体に降誕した霊が、のちに地球へ降誕することもあります。地球上の生命の創造は霊力によって行われました。高級霊になれば、地球の大気から摂取した成分を加工し生命の要素を吹き込むことによって、新しい創造物を形成することが出来ます。霊の創造は今なお、地上においても霊界においても、絶え間なく続けられております。生殖本能は地球のみに限られているのではありません。
新しい生命、言うなれば魂を宿した動物的生命は、途切れることなく地上へ誕生しております。精神は物質の付属物ではなく、別個の誕生と創造の起原を有します。新しい霊の創造は大気中の成分を凝縮することによって行われます。その凝縮した成分がわれわれ霊的存在と人間的存在との連結の媒体となります。いずれ、その成分に宿った魂が人間として地上へ誕生するのに要する条件、および地上期間中にいかなる陶冶を受けるかが人類に語り明かされる日も到来しましょう。それは今みなさんが迎えつつある時代に属する課題です。そのためには多くの古い偏見が淘汰されねばなりません。が、人間の頑迷さが取り除かれ、敵対者の軍団(後注)を追い散らすことさえできれば、その後に訪れる光明は真昼の太陽のごとく皓々(こうこう)たる輝きに満ちていることでしょう」
(注) – 『霊訓』から邪霊集団の影響についての通信の一部を紹介する。
《すでに聞き及んでいようが、今貴殿を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈な反目がある。われわれの霊団と邪霊集団との反目であり、言い変えれば、人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせ挫折させんとする働きとの闘いです。
それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。逆行派の軍団には悪意と邪心と悪知恵と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟な霊の抱く憎しみに煽られる者もいれば、真の悪意というよりは、悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに、程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれます。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われわれを始めとする他の多くの霊団の仕事に対して、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中です。(中略)
そうした集団に集まるのは必然的に地縛霊・未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の利益ももたらさず、その意念のおもむくところは、彼らにとって愉しみの宝庫ともいうべき地上でしかなく、霊界の高尚な喜びには何の反応も示さない。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同類の地上の人間に憑依(ひょうい)し、哀れな汚らわしい地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとするのです。(中略)
こうした現実が身のまわりに実在するのです。それに人間は一向に気づかない。そうした悪疫の巣がある – あるどころか、ますます繁栄し、のさばる一方でありながら、それを批難する叫び声がいったい地上のいずこより聞こえるであろうか。なぜどこからも批難の声が上がらぬのであろうか。
なぜか。それも邪霊の働きに他なりません。その陰湿な影響力によって人間の目が曇らされ、真理の声が麻痺されているからに他ならないのです》
「皆さんは霊力のひとかたならぬ恩恵に浴しておられます。人類全体においても霊的感覚が増大しつつあり、一歩一歩、霊的影響力の存在が顕現されつつあります。今地上に行きわたりつつある霊力の波はキリストの時代のそれに類似しています。今明かされつつある教えがこれよりのち、キリストがもたらした教えのごとく(人間的夾雑物によって)汚されることがなければ幸いです。
今日キリストの御名のもとに教えを説いている者の多くが、キリストが実際に説いたものとは似ても似つかぬものを説いております。われわれが今あらたに神の始源からお持ちしている真理も、すべての真理が当初において必ず遭遇する運命に遭遇することでしょう。が、人間がそれを受け入れる時代も間近に迫っております。われわれが恐れるのはわれわれの使命への反抗よりも、むしろ無関心の方です。問い質すことをせず、疑念を抱くほどの関心すら持たない、感覚のマヒした、冷ややかな、生命のない無関心です」
このあとインペレーターは、この民主主義の時代においてはキリストのような巨大な予言者が1人だけ出現しても効果はないこと、これからの時代は真理がさまざまな手段でさまざまな人間に届けられること、精神構造が異なれば真理もまた異なった種類のものが必要であること、これからスピリチュアリズムに対する大きな反抗が予想されるので、それに対する備えがなければならぬこと、新しい真理の啓示に抵抗はつきものであることを語った。
セオフィラス Theophilus と名のる霊が語る。
「神はさまざまな表現形式をとり、さまざまな媒介者を通して顕現しておられます。そしてその顕現にあずかった者は、大ていその媒介者と啓示とを自分だけのものと思い込む間違いを犯します。時代ごとにそれ相応のメッセージが授けられているのですが、いずれの時代においてもそれを最終的な神のメッセージと受けとめる間違いを犯します。神は何度も語りかけて来られました。が、最後の語りかけというものはなさっておりません。すでに知っての通り、現人類のための啓示はメルキゼデクに始まり、今なお連綿として続いているのです。
またキリスト教界のみが神の啓示の唯一の受託者ではなく、他にも別の真理の受託者がいて諸国へ伝道していることも皆さんはご存知でしょう。いずれの宗教にも神の全真理のほんのひとかけらのみが授けられたのです。現代の学識ある者の中には、あたかもサドカイ派(ユダヤ教の一派で霊魂の実在を信じず律法を字句どおりに解釈した者たち)とよく似た者、キリスト教徒の中にはあたかもパリサイ派(サドカイ派と対立し儀式を重んじた者たち)とよく似た者が見うけられます。一方神学者の中には、結局は何の価値もない文献を仰々しくいじくり回している者が大勢いるようです。
今日のキリスト教の聖職者の宗教概念は、規範と教義とによって埋めつくされて、その底流にある霊的概念をなおざりにしています。信仰心が薄れてゆく第一の徴候はその霊的概念が忘れられることで、それが霊界などは存在しないと思わせ、まったく無意味な形式ばかりをいじくり回すようになります。かくして人間的発明品であるドグマや教説によって四方を囲まれ、肝心な霊的真理を度外視するようになり始めたら最後、信仰は衰微し始めることは確実です。
今人間が決断を迫られているのは、霊的啓示を受け入れるか拒否するかです。受け入れる者もいれば拒絶する者もいるでしょう。
これまでは真理が傑出した1人の人物に集中的に啓示されてきましたが、これからはそういうことはありません。1つの流れに偏り、こじつけられ、そして窮屈なものになるということはなくなり、大勢の霊媒を通じて与えられ、それだけ私的な偏りから免れ、世界中へ行きわたり、受け入れる魂を鼓舞するようになります。排他性の時代は過ぎ去りました。開かれたビジョンの時代 – 特権階級による一方的支配の時代から民主主義が主導的原理となる時代が到来したのです。神の真理はその流入の場を常に特権意識をもたない人達に求めます。そこには自尊心が少なく、見栄と高慢に振り回される可能性が少ないからです。
ペテロが“私には金銀はない”(使徒行伝3・3)と述べた時、彼は失われてしまった高等な真理を指摘したのです。当時の聖職者たちが金銭的に恵まれた地位を得ようと躍起になっている様を見て、ペテロが強く戒めたのです。霊的影響力は当時の教会からはすでに消え失せ、物的影響力が支配していました」
1875年のキリスト昇天祭におけるインペレーターの霊言。
「以前この席でも何度か語ったことのある祝祭日(後注①)の1つであるこの日に、われわれ霊団の者も集会を催すことを、よもやお忘れではありますまい。この祝祭日は“人の子”イエスの昇天を象徴するものです。宗教問題を考究している学者の大多数がキリストがこの日に肉体をたずさえたまま天国へ移り住んだとの信仰に同意しておまます。しかるに皆さんの先達の1人は、血と肉では神の御国を継ぐことはできないと説いております。
今世界各地において行われつつある物理的心霊現象がこの問題に大きな光を投げかけております。すなわちイエス・キリストほどの霊力を具えた霊が一時的に物質をまとって姿を見せることができて何の不思議もないということです。キリストの生涯は尋常なものではありませんでした。霊の世界と交わる者の生涯は得てしてそうなるものです。ただキリストにくらべて他の霊覚者の生涯はさほど知られておりません。そして華々しい脚光を浴びることもありません。しかし、だからといって、いつの時代にも霊の世界と交信できる者がそこここに存在している事実を疑ってはなりません。
キリスト教では主イエスは神人であり、人類とは異質のものであり、奇跡的な死を遂げ、死後さらに奇跡的な生命を得たと説いておりますが、真実の主はそのようなものではありません。死してのちに弟子たちに姿を見せたことは事実です。が、弟子たちとともに過した時のあの生身の肉体のまま現れたのではありません。また同じ日、弟子たちにやさしく別れを告げたあと一瞬にして姿を消し本来の天界へと帰って行ったことも事実です。
人間はイエスが物的身体をもって現れたことに困惑し、その解釈に頭を痛めていますが、その例証となるものを皆さんは(この交霊会で)すでに見ておられます。残酷な死を遂げたのちに見せたキリストの身体は物質化した霊体だったわけです。物質化に必要な条件が整った時に弟子たちに見せたのでした。
大気中には地上の物的存在物を形成する基本的成分が存在します。そして又、霊体にはその被いとなる原子を吸着する性質が具わっています。かくして生成された物質に霊力が形体を与え、人間の目に、あるいは感光板にも、印象を与えることが可能となります。磁気的な作用によって霊体のまわりにその霊的生成物が保持されるのです。
以上の説明に科学的用語は用いておりませんが、その意味するところをよく理解してほしく思います。1つのエネルギー(生命エネルギーと呼んでもよいでしょう)がその瞬間に出席者を1つに融合させ、連結し、そして調和状態を作り出します。そのエネルギーの源は皆さんの上方に位置し、そこから生み出されます。
かくして調和よく形成されたサークルにおいていわゆる心霊現象が発生します。それなくしては何ひとつ現象は起きません。そのエネルギーの発生には人間もさまざまな方法で援助することができます。たとえば手と手をすり合わせるのもよいし、歌をうたうのもよろしい。霊の側においても、楽音やそよ風を発生させたり芳香を漂わせたりして、心地よい雰囲気をかもし出し、そのエネルギーの活動を助けます。それなくしては物体を操ることは出来ないのです。
イエスの12人の弟子はみな霊媒的素質を具えており、何よりもその素質ゆえに選ばれたのであり、イエスとの交わりの中でそれがますます発達して行きました。中でもペテロとヤコブとヨハネがとくにイエスとの共鳴度において高いものを有しておりました。同じ意味においてモーセは霊媒的素質をもった70人の長老を選ぶようにとの霊示を受けておりました。(後注②)
イエスは画期的な霊的新時代の端緒を開くために地上へ派遣され、1度も地上へ生を受けたことのない高級霊団によってその生涯を指導されておりました。神が直接霊媒に働きかけることは絶対にありません。いかなる人間といえども神と直接交信することは出来ません。それは人間が足もとの草の葉と交信できないのと同じ程度において不可能なことです。
イエスの任務と使命について地上の人間がこれほどまでに誤解するに至ったことは、われわれにとって驚くべき事実です。もっとも、その事実から幾つかの学ぶべきことも見出すことはできます。たとえば同じく真理にも深遠な霊的真理と、人間の精神に受け入れられる範囲での真理とがあり、その間に大きな隔りがあることが人間には洞察できないことです。真理とは霊的栄養であり、精神の体質とその時どきの状態に合わせて摂取されるべきのです。それはちょうど肉体の体質のその時どきの状態に合わせて食事を取らねばならないのと同じです。忘れてならないことは、人間の精神は地上への誕生時の条件によって支配され、霊覚が開かれるまでは、その受け入れる真理はごく限られていることです。
イエスの再臨とは霊的な意味での再臨のことです。しかし物的偏重の時代はそれを物的再臨と考え、イエスは肉体のままいったん天国と呼ばれるところへ運ばれたあと、同じ肉体をまとって地上へ戻り、生者と死者ともどもに最後の審判を下すものと想像しました。
今日われわれが人間に祝ってほしく思うのは、イエスの純粋な霊的身体の荘厳な昇天です。これは今人間を取り囲み神の真理の光が魂を照らすことを妨げている物的環境からの、人間の霊の絶縁の模範なのです」
(注①) – キリスト教で祝う祭日の霊的な意味について『霊訓』に次のような説明がある。通信霊はインペレーターではない。
○クリスマス(キリスト降臨祭) – これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとして、人類愛から己れを犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。
○エピファニー(救世主顕現祭) – これはその新しい光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとって霊的啓発の祭日である。すなわち地上へ生まれてくるすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人ひとりに持ち運んで与えるのではなく、光明に目覚めたものがそれを求めに訪れるように、高揚するのである。
○レント(受難節) – これはわれわれにとっては、真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は、絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。
○グッドフライデー(聖金曜日) – これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。ただし新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生命の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。
○イースター(復活祭) – これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克った霊、そして又、打ち克つべき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた、蘇れる生命の祭りである。
○ペンテコステ(聖霊降臨祭) – キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生命の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさゆえに自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を受ける。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理のいっそうの豊かさを祝う日である。
○アセンション(昇天祭) – これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生命の終焉である。使命の完遂の祭りである。
(注②) – 同じ『霊訓』でインペレーターがこう述べている。《今日なお存続している「十戒」は変転きわまりない時代のために説かれた真理の一端にすぎない。もとよりそこに説かれている人間の行為の規範は、その精神においては真理である。が、すでにその段階を通りすぎた者に字句どおりに適用すべきものではない。「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ地上的煩悩の影響に超然としたシナイ山の頂上においてモーセの背後霊団によって授けられた。背後霊団は今日の人間が忘却しているもの、つまり完全な交霊のためには完全な隔離が必要であること、純粋無垢な霊訓を授かるためには低次元の煩雑な外的影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等から隔絶した人物を必要とすることを認識していたのである。これだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることができるのである。
モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として70人もの長老 – 高き霊性を具えた者 – を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高い者が役職を与えられたのである。モーセはそのための律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となったのちも、人類の恩人として末永くその名を地上に留めているのである》☆
イエスの生涯のうち記録にない青年時代について –
「イエスの若き時代は一貫して準備期でした。聖書にある悪魔による誘惑の話は、他の多くの記録と同じく、ただの作り話に過ぎません。“神の声”として受け取られている出所不明の記録の中の出来ごとをたどって行けば、そこに幾つかの矛盾撞着が見られます。そのひとつが荒野の誘惑の話(マタイ4)です。悪魔がイエスを荒野へおびき出し、断食によって体力を衰えさせておいて、自分の前にひれ伏せば天国を与えその主としてやると申し出たというのですが、実はこうした作り話が、向上しようとする魂の足枷となって人類を永いあいだ拘束してきました。すべて作り話であり、ただの想像の産物であり、光明へ向かわんとする魂を引き止めております。真の向上を得るためには、啓発の拠り所としているバイブルの中からそうした夾雑物を抹消しなければなりません。バイブルにも多くの真理の宝物が蔵されております。が、それを啓発の拠り所とする者は、真偽を見分ける判断力を身につけなければいけません。
主イエスは、かって一度も地上へ生をうけたことのない霊によって指導され鼓舞されておりました(後注①)。霊の影響力が今地上界へ浸透しております。その霊力はすべて主に発し、一大連動装置を形成する無数の霊を通じて地上へと届けられております。
高級霊が今われわれがこの霊媒を支配しているごとくに直接的に支配することは極めて稀なことです。もしあるとすれば、霊媒はよほど発達した者でなければならず、そのような霊媒は稀にしか存在しません。もっとも、直接的には支配せずとも、幾つかの連鎖関係を通じて支配することは出来ます。しかし、霊媒が(たとえ霊媒能力はあっても)精神的に未熟である場合は、高級霊はあえて努力して使用してみることはしません。
イエスほどの進化せる霊となれば、直接的に地上の霊媒を支配することは不可能です。イエスは神の意志の直接的表現が肉体をまとったのです。後継者は残しませんでした。これから以後も出現しないでしょう。今その全霊力がこの地球の啓蒙のために向けられております。天体のひとつひとつにそれぞれの霊的光明の淵源が割り当てられているのです(後注②)」
(注①) – 本来の所属界においてはイエスが“主”でその霊団が“従”の関係にあり、イエス自身もそのことを知っていたという。
(注②) – 各天体の守護神のことで、イエスは地球の守護神の直属の大天使の1人と考えられる。☆
「イエス・キリストのことを一般には全能なる神の命令を受けて、その神の化神として人類救済のために降誕し、かの磔刑(はりつけ)をもってその人類救済が成就されたと考えられておりますが、何というお粗末な思想でしょう。
しかし実はこの身代りの贖罪の概念は大切な真実に基づいているのです。と申しますのは、キリスト教原理と称しているものは全ての人間の霊的救済にあるのであり、各自の霊性が呼び覚まされるほどに霊界からの導きをうけ向上していくものだからです。人間キリストにおいてその霊的原理が最高に発揮され、まさしく“神の子”と呼ばれるにふさわしい人物でした。すなわち地上に生をうけた人間の中でもっとも神のごとき人間という意味において“神の子”でした。
仏陀の場合と同じように(後注①)イエスが神であるとの概念が生まれたのは死後かなりの年数がたってからのことでした。そしてそのことはイエス自身にとっては迷惑千万なことでした。イエスを慕う者たちが祭り上げてしまった神の座を、本人は一度も口にしたことはなかったのです。イエスは真の意味での神と人間との間の仲立ちでした。神の真理をその時代に、さらにその時代を通して後世にまで啓示したのです。
その生涯を通じてイエスは当時支配的だった思想と真っ向から対立する教えを説き、そうした者がかならず遭遇する運命をたどりました。まず貶(けな)され、つづいて見当違いの告発をうけ、有罪を宣告され、そして最後に死刑を執行されました。(後注②)
伝説は排除してもよろしいが、イエスの徳に満ちた生活、ならびにイエスが説いた福音は排除してはなりません。イエスの訓えの根底にある原理は神の父性とそれへの讃仰、全人類の同胞性と共同社会を構成する霊的な絆、祈願の法則と自己犠牲の法則、すなわち他人からしてもらいたいと思う通りのことを他人にしてあげなさいということ(黄金律)です」
(注①) – 『ベールの彼方の生活』から。《ガリラヤのイエスとして顕現したキリストが仏陀を通して顕現したキリストと同一人物であるとの説は真実ではありません。またキリストが数多く存在する(何度も生まれ変った)というのも真実ではありません。イエス・キリストは父なる神の一つの側面の顕現であり、仏陀・キリストはまた別の側面の顕現です。
人間も一人ひとりが造物主(父なる神)の異なれる側面の顕現です。が、すべての人間が共通したものを有しております。同じようにイエス・キリストと仏陀・キリストとは別個の存在でありながら共通性を有しております。しかし顕現の大きさからいうとイエス・キリストの方が優ります。が、真のキリストの顕現である点においては同じです。この2つの名前を持ち出したのはたまたまそうしたまでのことで、他にもキリストの側面的顕現が数多く存在し、そのすべてに右に述べたことが当てはまります》
(注②) – 『霊訓』から。《イエスに向けられた非難もまさにそれであった。モーセの訓えから難解きわまる神学を打ち立てた者たち – (中略)彼らは後生大事にその古い訓えを微に入り細を穿(うが)って分析し、ついに単なる儀式の寄せ集めとしてしまった。魂なき身体、さよう、生命なき死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に彼らの神の冒演者(イエス)はモーセの律法を破壊し神の名誉を奪うものであると絶叫しました。律法学者とパリサイ人、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその訓えを非難しました。かの偉大なる人類の指導者を十字架にかけるに至らしめたその怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです》
イエス・キリストを祈願の対象としてよいかとの問いに –
「父なる神、純粋無垢の光の中におわす永遠なる大霊の概念が理解できないうちは、イエスに祈るのも何ら差しつかえはありません。その神の概念が理解できた者なら直接神に祈ることです。が、それが出来ないのであれば、自分にとって最も身近かな信仰の対象を仲立ちとして祈るがよろしい。その仲立ちによって祈りが大神へ届けられます」
(注) – シルバーバーチは“霊界側は祈りをどうみておられるのでしょうか”との問いにこう答えている。
《祈りとは何かを理解するためには、その目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける者はいませんし、訴える力をもった波動を起こすことも出来ません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意がこもっておらず、それを口にする人みずから、内容に無とん着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなりません。
祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係をみじんも変えることはできません。人のためという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的(サイキック)ないし霊的(スピリチュアル)な行為であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応はかならずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
あなた方を悩ます全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時 – 解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る、完全な権利があるといえましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これはかならず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれにふさわしい当然の結果を招来するからです》☆
「ぜひとも理解していただきたいのは、スピリチュアリズムの本質は宗教性にあるということです。このことに異議をとなえる者がいることは、われわれには何とも不思議に思えてなりません。ある者はスピリチュアリズムと言えば他界した親戚・縁者との交信にすぎないと思いこんでおります。そういうところに、往々にして邪霊につけ込まれ、もっともらしく装った通信によって迷わされるスキがあることになります。
地上生活の根底にある1ばん大切な要素の1つは宗教性です。われわれのいう宗教性とは人間の霊と父なる神との交わりのことであり、それは無数の階梯をなして存在する天使的存在によって執(と)りなされます。すなわち人間が祈りを発すると、それを中継する霊が受け取り、その霊自身の判断による回答を届けます。
本当の霊的交わりは、宗教心に発した祈りの行為がその端緒となります。この事実が理解されないかぎり、スピリチュアリズムと関わりをもつことが必ずしも安全とは言えず、また有益とも言えません。その点を誤解している者が多く、そのために、あれこれとやってはみたが結局は真の満足が得られないということになります。
人間にはその人なりの何らかの宗教的形式が必要です。それなのにただ心霊現象をあれこれといじくってばかりいて、その宗教的側面を理解できずにいれば、好奇心が駆られるばかりで、何か物足りないというグチをこぼすことになります。
こうして、本来なら最大の魂の充足感が得られるはずのところを、彼らはいつしかわれわれに背を向けて、スピリチュアリズムは人を迷わすものだ、騙された、スピリチュアリストが関わっている霊は低級霊で悪魔の手先だ、と言い出す仕末です。こうしてわれわれのもとを去り、せっかくの神の真理を拒絶し、またぞろ人間的產物を信仰の対象とします。
神はつねに人間に語りかけております。そして人間と神との間には無数の中間的存在がいます。これまで2千年近くにもわたって人間を満足させてきた霊的食事が今日ではもはや満足できなくなり、そこで(スピリチュアリズムという名のもとに)新たな霊的流入が行われているところです。スピリチュアリズムは、それを最も必要とする時代への神のメッセージにほかなりません。本質において人生全般に関わる宗教性を帯びたメッセージです。
それは、人間がただ食べて飲んで寝てそして死んで行くというだけの存在ではなく、その内部に永遠に死滅することのない霊性を具えていること、そして又、この世で蒔いたタネは死後にかならず自分で刈り取らねばならないことを教えるメッセージです。われわれがスピリチュアリズムのことを、地上を再生せしめる唯一の力であると申し上げるゆえんはそこにあります。
今はまさに地上再生の大事業の開始時期なのです。その進行は地上でいう共和的なものとなるでしょうが、それを主導するのは霊的なものです。人間はつねに霊的な光を受け入れられるよう魂を準備していなくてはいけません。神はみずから暗闇を好む魂はけっして照らさないからです。
われわれは霊的真理を広めるための組織的な使命を帯びております。その霊的真理なくしては地上の霊的生命は死滅します。今日の地上には宗教といえるものはほとんど存在しません。わずかながら存在するものも、その大半がすでに影響力を失っております。生命力が抜け、形骸のみが残っております。イエスの時代がそうであったごとくに、今の時代もまさにその通りです。地上人類は次にもたらされるものをしきりに求めております。
腐敗が社会の全組織に行きわたっております。そして地雷がいつ爆発するかも知れない状態にあります。共産主義と社会主義は悪の勢力です。その潜在的魔力の恐ろしさを政治家は誰ひとりとして気づいておりません。この都市(ロンドン)においても、それがいつ爆発し、社会組織を全壊させるかも知れません。近い将来において不満分子が英国の国政を預る者を悩ませることになることが予想されますが、それもみなそうした勢力の影響です。
地上は社会的側面においても宗教的側面においても、まさに“いまわの際(きわ)”に立っており、生命力を与えてくれる新しい力を必要としております。スピリチュアリズムと呼んでいるものがその腐敗への唯一の矯正手段であり、解毒剤です。あからさまに言って今の時代は、空虚で見かけ倒しで真実味に乏しい時代です。何らかの宗教が必要です。
われわれとともに皆さんが関わっておられる大事業は大いなる進展を見せております。純粋な霊的真理の発展、寛容的精神の成長、頑固な障壁の崩壊、神学でなくキリスト精神の普及 – 進歩はこうしたものによってのみ達成されるものなのです。
心霊現象についてとかく噂(うわさ)されるニセモノや詐偽行為に皆さんは困惑し迷惑に思われることでしょうが、スピリチュアリズムの基盤はいささかも揺らいでおりません。不快な空気はいずれ一掃され、清潔にして純粋な霊的雰囲気が残ります。現代は物ごとをしつこく穿(せん)さくする時代です。と同時に、神の真理のタネ蒔きの時期でもあります。
かってわれわれは、各国において既存の秩序が攻撃の的とされる時期が到来すると申し上げたことがあります。スペイン、ドイツ、イタリアにおいてそうであり、ロシアにおいてはなおのことです。それが今現実となってきており、もっともっと恐ろしい混乱が生じることでしょう。社会主義、共産主義、無神論、ニヒリズム – これらはみな同じ陰湿な病弊を別の呼び方をしているに過ぎません。それが今地上に蔓延しつつあります。こうした勢力も、秘められた力を出しつくせば善の方向へ利用することも可能でしょうが、現在のところは混乱の原理を操る邪霊集団に振り回されております。われわれの大事業を阻止せんとしているのです。
偉大な指導者をごらんになれば、みな何らかの社会悪に対する憤りに燃えていることがお分かりでしょう。何らかの改革を真剣に求め、それに一身をなげうち、覚悟をもって臨んだのです。たしかに“悪”に対抗し“善”のために闘う上において強固にして真摯であるためには、何らかの目的意識をもたねばならないことは事実です。しかし断固たる信念と強烈な個性をもつ人間にとかくありがちな危険性は、いつしか自分の1個の目的意識に偏り、利己的になっていくことです。利己主義は霊的病弊の一大根源です。己れ自身のために闘う者は利己的になります。一方、真理のために闘う者は気宇壮大な同胞精神をもつに至ります」
エジプト人の霊に代わる。
「霊界においては地上の近い将来を恐怖の念をもって眺めております。戦争の可能性が見えます。すべてがヨーロッパの大混乱へ向けて進行しております。人間が完全になれば戦争はしなくなることでしょうが、それは肉体に宿っているかぎり有りえないことです」
インペレーターに代わる。
「苦難の時代が近づいております。いつの時代にも真理が顔を出せば必ずそれを目の敵(かたき)にする反抗勢力が結集するものです。平和が乱されることを嘆く者がいるのも無理からぬことですが、真実と虚偽との闘いの中に神の真理の火花を打ち出す好機を見出す才覚のある者には、混乱もまた喜ぶべき理由が無きにしもあらずなのです。
戦争と激動を覚悟しなければなりません。苦難と混乱を覚悟しなければなりません。そして又、キリストの再臨を地上への再生と信じる者が惹き起こすであろう抵抗も大いに覚悟しなければなりません。今、“キリスト的”と呼ばれる時代が終焉を迎えております。キリストは霊としてまた霊力として地上へ戻り、人類の魂を解放するための新しい啓示をもたらしつつあります。
それを受ける霊媒が背信あるいは不信心ではなかろうかと恐れているものは、実はこれより良き種子が蒔かれていく休閑地のようなものです。迷信的教義によってがんじがらめにされた精神の方が、何の先入観もない精神よりはるかに有害です。いわゆる信仰をもたぬ者が多いことを恐れることはありません。新しい真理が注ぎ込まれるためには、まず無垢な受容性がなければなりません」
「キリストの生涯には当時のエルサレム、キリストが涙を流して嘆かれた都市だけではなく、皆さんの住んでおられる都市(ロンドン)にも当てはまる予言めいた言葉があることに気づかれるでしょう。ご自身が生きられた時代だけでなく皆さんの時代も見通しておられたのです。エルサレムへの嘆きはそのまま皆さんが運命をともにされている人たちにも向けられてよいものです。今や金銭が神の座を占めております。蔓延する贅沢(ぜいたく)と怠惰の中に堕落の要因があります。今まさに英国の顔に“滅亡”の文字が記されております。
どうか、これからの最後の闘争に備えてください。それは善と悪との闘い、信仰心と猜疑心との闘い、“法と秩序”対“無法と放縦(ほうしょう)”の闘いです。キリストが予言した嘆かわしき不幸の時代となるでしょう。それが暗黒の勢力、つまり悪魔のしわざとされるでしょう。“聖霊を汚す罪”が横行することでしょう。
そうした中にあって確固たる信念を失わずにいる者は幸いです。煩悩に負けて堕落していく者が多いのです。なかんずく、いったん霊的光明を見ながらそれを拒絶した者は、この地上においても、来るべき霊の世界においても、救いはありません」
「今まさにキリストの再臨の予言が現実となりつつあります。キリストは“助け主が訪れるであろう”と述べておりますが(ヨハネ)、“助け主”とはキリストの霊による影響力のことです。それが今、現実に成就されつつあります。地上を去って至福の境涯へとたどり着いた霊が、今ふたたび地上圈へと戻って活躍しております。その最初の余波は不協和音の増幅、邪霊集団による活発な反抗活動、既成権力の狼狽という形で現れます。霊力の流入は反抗勢力を活気づけ、また新しい真理の到来にかならず伴うところの頑迷と偏狭が、なりふりかまわずムキ出しにされます。
われわれは今2つの敵対勢力の真っただ中におります。片や光明より暗黒を好む悪霊集団であり、片や進歩的なものをすべて毛嫌いする地上の退嬰(たいえい)的人間です。人間界の日常の出来ごとがどのようにして霊によって支配されているかについての知識を世間一般に得心させることに、われわれはほぼ絶望的となっております。その作用が五感に感応せず、また霊の動きが目に映じないがために、そうした概念を捉えることが出来ないのです」
「われわれはこれまで、皆さんの注意を単なる一身上の興味の問題ではなく、神の真理と、霊界と物質界との内的交信の実在に向けさせようと努力してまいりました。身内の者からの私的なメッセージによって強い確信が得られる事実をけっして過小評価するわけではありません。ただ、その種の通信はとかく情愛による先入観によって歪められ、情緒的になって正確さを欠き、真実味よりも感情の吐露に終わる傾向があります。
そこでわれわれは、一身上のことよりも普遍的なことを基盤として証拠を披露するよう努めてまいりました。一個人の体験はささいで重要性がないかに思われますが、そうした1人ひとりの説得によって得られる霊的真理の進歩は実は絶大なのです。物的宗教から脱け出て霊的知識を受け入れるにいたった者が大勢います。新しい、真実味のある宗教を見出したのです。
それは、言い変えれば、最高神からのインスピレーションを受け取り、その神のふところに抱かれている宗教です。これからの宗教はそういう宗教となるでしょう。神の経綸とインスピレーションが受け入れられる宗教です。
来るべき時代をになう世代は、皆さんには理解できない方法でその働きかけを受けつつあります。地上各地に霊的影響力の中枢が形成されつつあります。他方、人間の霊性の衰退と邪霊集団のばっこが、われわれにとっての悩みのタネを次々ともたらしております。人間界において善なるものが進歩することに反抗的態度をつのらせている霊たちです。
しかし、いずれは神霊のほとばしりが地上のすみずみにまで浸透して、そうした勢力を内紛状態へと追いやり、受け入れ準備の整っている魂が渇望している真理のメッセージを届けることになるでしょう。
真摯な魂による祈願は、神の霊力の豊かなほとばしりを求め、信仰厚き魂が真理のために結束してくれることを求めるものであらねばなりません。
常に未来へ目をやり、けっして絶望してはなりません。敵対する勢力のすべてが結束しても、味方となってくれる神の勢力の方がはるかに大きいのです」
主イエスを信じるか否かによって霊の識別をしてよいかとの質問に –
「いかなる信仰の告白も、その真実性を保証することにはなりません。霊が地上を離れれば、地上時代の教義など雲散霧消してしまいます。ただ、中には地上時代からまとわりついている神学的モヤの中から脱し切れず、それを真実と思い込んで、とんでもない間違った教説を大まじめに通信する霊がよくいます。
また一方には、自分ではそうと気づかずに邪霊集団の手先となって通信している霊もいます。彼らは、われわれが全勢力を結集してその誤りを指摘せんとしている教義をわざと存続させようと企みます。われわれがこうして地上に降りてきたそもそもの目的は、真実の霊的真理を人間に啓示することにあります」
「もしも通信霊の述べることに気高さを感じ、知的に、道徳的に、あるいは霊的に高い次元へと昂揚してくれるものを感じ、意気盛んにしてくれるものがあれば、それを受け入れるがよろしい。反対に、低劣なものを感じ俗悪なものを指向していると思った時は、それは無視なさることです。その種のものは邪霊集団からのものだからです。交霊会をもっともらしく演出しながら、適当に茶化しては軽蔑と嘲笑の的とするのです」
(注) – 『霊訓』の中で同じインペレーターが次のように述べている。
《邪霊集団の暗躍と案じられる危険性についてはすでに述べたが、(59頁参照)それとは別に、悪意からではないが、やはりわれらにとって面倒を及ぼす存在がいます。元来、地上をあとにした人間の多くは格別に進歩性もなければ、さりとて格別に未熟とも言えない。肉体から離れていく人間の大半は霊性においてとくに悪でもなければ善でもないものです。そして、地上に近い界層を一気に突き抜けて行くほど進化せる霊は、特別の使命でもないかぎり地上へは戻って来ないものです。地縛霊の存在についてはすでに述べた通りである。
言い残したもう1種類の霊団があります。それは悪ふざけ、茶目っけ、あるいは人間を煙に巻いて面白がる程度の動機から交霊会に出没し、見せかけの現象を演出し、名を騙(かた)り、意図的に間違った情報を伝える。邪霊というほどのものではないが、良識に欠ける霊たちであり、霊媒と列席者を煙に巻いて、いかにも勿体ぶった雰囲気の中で通信を送り、いい加減な内容の話を持ち出し、友人の名を騙り、列席者の知りたがっていることを読み取って面白がっているに過ぎません。交霊会での通信に往々にして愚にもつかぬものがあると貴殿に言わしめる要因がそこにあります。
茶目っけやイタズラ半分の気持から、いかにも真面目くさった演出をしては、それを信じる人間の気持をもてあそぶ霊の仕業がその原因となっています。列席者が望む肉親を装っていかにもそれらしく応対するのも彼らである。誰にでも出席できる交霊会において身元の正しい証明が不可能となるのも、彼らの存在が原因である。(中略)彼らは真の道徳的意識は持ち合わせません。求められれば、いつでも、いかなることでも、ふざけ半分、イタズラ半分にやってみせます。その時どきの面白さ以上のものは何も求めません。人間を傷つける意図は持ちません。ただ面白がるのみです。
人の道を誤らせ、邪(よこしま)な欲望や想念を抱かせるのも彼らである。ひそかに霊媒を操り、高尚な目的を阻止せんとする。高尚にして高貴な目的が彼らには我慢ならず、俗悪な目的を示唆する。要するにその障害物、妨害となろうとするのです。かかわるのは主として物理現象で
す。通例その種の現象が得意であり、列席者を迷わせる魂胆をもって混乱を引き起こす現象を演出する。数々の奇策を弄(ろう)して霊媒を騙し、それによって引き起こされる当惑の様子を見て、ほくそえむのです。
憑依(ひょうい)現象をはじめとする数々の心霊的障害は彼らの仕業に起因する。いったん付け入れば、いかようにでも心理操作ができるのです。個人的に霊を呼び出して慰安を求める者たちを愚弄するのも彼らです。いかにもそれらしく応対し、うれしがらせるような言葉を述べて欺く。
間違いなく本人が出て、しっかりとした意志の疎通が行われることはあります。が、次の会では巧みに本人を出し抜いてイタズラ霊が出現し、名を騙り、それらしく応対しながら、その中に辻褄の合わない話を織り混ぜたり、まったくの作り話を語ったりする。そうした霊に付け入られないためにも、一身上の話題はなるべく避けるが賢明である》☆
“永遠の刑罰”について問われて –
「永遠の刑罰の教義を立論の典拠とすることは神を冒潰するものであると同時に、恐ろしい思想と言わねばなりません。ほんのわずかばかりの真理は含んでいても、それが大きく曲解され歪められております。地上には善良な人間もいれば邪悪な人間もいますが、身代りの贖罪を信じた者、あるいは洗礼を受けた者は善悪の区別なく祝福されて神のもとに侍り、それ以外の者は呪われた者として悪魔のもとに侍らされるというのは、人間の創作に過ぎません。魂はつねに進化の状態にあり、善でも悪でもないのですから、そのような尺度で人間を善と悪とに分けることは出来ません。
宇宙の大神がこの地上という低き界層から御子イエスの血によって贖(あがな)われた霊だけを救い出して側に侍らせるわけはありませんし、また、(宗教の違い等の)不可抗力のめぐり合わせから生じたにすぎないことを最大の言いがかりにして地獄へ蹴落とすようなこともなさるわけがありません。地上を去る者は、それぞれ誰も知らない条件のもとで地上へ誕生しております。不可抗力だった悪徳の犠牲となっている場合もあります。
地上を去ったのち一気に向上して行く優秀な霊がいると申し上げましたが、そうした霊も、すぐに最高神のもとに侍るようになるなどということは人間的精神による空想にすぎないと言うことでしょう。地獄はあります。が、それは、為すべきことを為さなかった悔恨の念に苦しめられる状態のことです。火炎地獄など、肉体をもたない霊の世界では何の効力もありません」
「霊そのものは無始無終の存在です。その霊が地上に生をうける前のことからお話しましょう。霊そのものは、この地上世界の基盤として、これを取り巻くように存在し支配している霊的界層に前もって存在しております。いかなる霊も、肉体を身につけるまでは空間を宿として存在しています。そして肉体に宿って誕生する時期に至るまでは、さまざまな過程を経ながら成長してまいります。その段階でミクロコズム、すなわち火花の形で宿した神性の具現体となり、かくして物質を支配する力を獲得します。物質の特質の1つは不活性です。みずからは何もできません。霊によって支配され活性を与えられ、一方、霊の方は人体をまとった段階で個別性をもつことになります。
このように、地球を包み込むように霊的界層があって、すべての霊はそこからやって来ては、またそこへ帰って行くわけです。それとは別に仕事の界層(動の世界)と瞑想の界層(静の世界)が地球を取り巻いており、個霊はすべてそのひとつひとつを通過しながら向上してまいります。地球全体を霊の大気が包み込んでおり、それが霊界です。皆さんは、その存在に気づいていなくてもその中で生きておられるわけです。地球とよく似た(主観と客観の)世界です。ただ、はるかに美しく、そして純化されているというだけの違いです。
霊界においても、自己を表現するためには何らかの媒体が必要であり、形体が必要です。ただし、霊質のものです。霊界にも地上と同じように植物、鉱物、動物、といった種別があります。ですから、そちらの世界からこちらの世界へ来ることは“環境条件”が変わるにすぎません。
「生まれつき目の不自由な人には光とは何かが分かりません。その人が仮に視力を得て光が見えるようになったとすれば、それは“状態”が変わったのであって“場所”が変わったのではありません。それと同じで、その肉体を脱ぎ棄てて霊界入りしても、それは場所が変わったのではありません。状態が変わったにすぎません」
インペレーターによれば瞑想的“静”の世界は7つあり、その下に7つの進歩的“動”の世界があり、さらに下に7つの“試練”の世界があり、地球はその最上界に属するという。
(注) – ここでいう界層とは霊的進化がほぼ同程度の者が集まって生じる“状態”のことであって、各界がどこかで仕切られていて、それに通路や階段がついているわけではない。強いて言えば小学校や中学校を知能の発達程度に応じて大ざっぱに6学年とか3学年に分けているのと同じで、学年が上がれば教室は変るが、さらに上がるとまた同じ教室を使用することもある。要は“知能”の問題であって、霊的界層の問題もそれを“霊格”に置き変えて考えればよい。インペレーターが“上”とか“下”とかの用語を用いているのは、地上の言語で表現しようとすればそうせざるを得ないからであって、現実には同じ一点に全界層が存在していると考えるべきである。☆
「人心を教化するにはゆっくりとした段階を経なくてはなりません。たとえば、もしも最初から低級霊の話を持ち出していたら、皆さんはこぞってわれわれを相手にするのを拒絶したことでしょう。またもし、本ものの霊的交信がそう易々と得られるものでないことを口にしたり、キリストについての信仰がまったく見当違いであることをいきなり切り出していたら、皆さんはきっと“この教えは聖書の福音に背反している。これこそ聖書が出現を警告している悪霊集団の仕業である。こんなのとお付き合いをするのはご免こうむる”とおっしゃったことでしょう。そこでわれわれは徐々に明るい見解、より高いレベルへと手引きしてまいりました。皆さんもそれに首尾よく付いて来られました。が、まだまだお教えするわけにはいかない真理がたくさん残っております。お教えしても皆さんには理解できないからです」
「最近この霊媒が、低級霊の影響 – 邪霊の誘いにすぐに乗ってしまう幼稚な霊、われわれは未発達霊と呼ぶ方を好むのですが – そうした霊の影響を受け易くなってきました。そのために、進歩の途絶えた邪霊集団によるまやかし行為が見抜けなくなっております。今その類いの霊がばっこしております。遠くない将来、そうした霊による敵対行為が盛んになることを厳粛な気持で警告しておきます。
その原因は地上に霊的知識が行きわたり、霊的交信の思想が進歩してきたことに邪霊集団がいらだちを覚えはじめたことにあります。とかく衝突が生じやすいのも、こちらでのそうした事情の反映にすぎません。彼らは霊的交信の事実をなんとかして抑止しようとし、そこにわれわれとの衝突が生じているのです。彼らにとっては地上に暗闇が広がるほど都合がよいのです。がしかし、意念の力を行使することによって、守護霊団との霊的交信の障害は克服されることでしょう」
「(地球を取り巻く)霊的大気が今ひじょうに乱れており、暗雲は容易に晴れそうにありません。暗雲の出どころは主として地上世界です。いよいよ困った事態が到来しそうです。が、人類は大きい、そして強烈な苦しみ – 産みの苦しみ – を体験せずして低い次元から高い次元へと向上することは絶対に不可能です」
「今はまさしく大混乱の時代です。未来には希望があります。が、その未来と現在との間には死にも似た暗い影があります。遠い将来には、聞く耳を持つ者は天使の声を聞くことができるでしょう。そしてその讃歌は平和の大合唱となることでしょう」
「まさに現代は、かつて主イエスが地上の人間と生活をともにした時代と同じく、霊力が奔流となって注ぎ込まれている時代です。(イエスの時代のあとに霊的衰退の時代が訪れたように)この霊的潮流が衰退することも絶対にないとは断言できませんが、実際問題として、そういうことにはならないとわれわれは考えております。それは、霊界が総力をあげて、かつてなかった規模で霊力を行使する時期がいよいよ間近に迫っているからです。それを契機として疑念と混乱とが生じることでしょう。地上は今(1875年5月)混乱の極にあります。それは、実はわれわれが代表している霊的勢力による影響の表れなのです。残念ながら低級霊でもわれわれが披露するのとそっくりのものを演出してみせることができるので厄介です。地球人類は道徳的に、精神的に、そして物質的に病的状態にあります。そして、これにはみな長期間にわたる治療を要します」
「キリストはいま“静”の世界から再び“動”の世界へ戻られ、とくに地球のために活発に働いておられます。前回みなさんと語り合ったのちにこちらで大きな動きが生じており、われわれは油断なく交信を取り合っております。(地球圏の)最高級の霊団が地球人類のための大事業を再開しました。みなさんは忍耐強く、真摯に、祈りに満ちた心を堅持し、真理を求め、そうした霊の大軍を神の使徒と仰ぐことです。その大軍が今、地球のまわりに待機しております。
願わくは全知全能の愛の神がわれわれを通じて皆さんにその恩寵をふんだんに垂れ給い、われわれともども、今たずさわっている仕事によって高揚され向上されんことを。そして又、これよりのち神の玉座の坐(ましま)す境涯へ首尾よくたどりつくことができますように。ではごきげんよう」
(注) – 『ベールの彼方の生活』第4巻に次のような問答がある。答えているのはルネッサンス時代に地上生活を体験したアーネルと名のる霊。
– その“尊き大事業”というのは何でしょうか。
「それについてこれから述べようと思っていたところです。(中略)いつの世紀においても、その当初に神界において審議会が催されると聞いております。まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去のことは簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀のことは詳しく披露されます。前世紀までの2、3年のことは全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とをいっしょにした聴聞会を催します。それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚せまらぬ雰囲気のうちに行われるとのことです」
(中略)
– それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。
「“それら”ではなく“その”と単数形で書いて下さい。審議会はたった1つだけです。が、会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同というわけではありませんが、変わるとしても2、3エオンの間にわずかに変動があるだけです。創造界の神格の高い天使ばかりです。その主宰霊がキリストというわけです」(エオンは地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える – 訳者)
(中略)
– どうも有難うございました。私なりに分かったように思います。
「それは結構なことです。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。
以上でお分かりのとおり、審議会の主宰霊たるキリストみずからその大事業を引き受けられたのです。(中略)今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真っ只中におられ、地球へ降下されたあと、すでにその半ばを成就されて、方向を上へ転じて父の古里へと向かっておられます。(後略)」☆
フィロソファス Philosophus と名のる霊が語る。
「地上世界の思想的指導者たちは祈りというものについての信仰を完全に失っております。今こそ祈りを必要としております。単に決まり文句を繰り返すことではありません。意念の傾注であり、高級霊の援助を求めるための祈りです。祈りとはきっと救いに来てくれることを信じた魂の真剣な叫びであり、型にはまった言葉の繰り返しではありません」
インペレーターに代わる。
「現代の危機は真剣な祈りを必要としております。祈りと言ってもクリスチャンの間で神ヘの挨拶として当然のごとく使用されている古くさい決まり文句(主の祈り)の繰り返しのことではありません。そうした外部へ向けての行為は必要でないのです。悩める魂の内なる叫び – それだけで、ここぞという時の援助と慰めを呼び寄せるのです。祈りとは要するに“切望”であればよいのです。背後霊による霊的援助のもとに高き理想を求める魂の努力です。ただし、祈りは瞑想界の内部までは届きません」
思念が客観性をもつことが有りうるかとの質問に対して –
「われわれにとっては思念こそが実体であり、考えたことがそのままあなた方にとっての形体と実質と同じものを形成します。崇高な魂を具えた人の中には、精神的には、地上にありながらみずからこしらえた観念の世界で暮らしている人が少なくありません。詩人、劇作家、小説家などは自分自身の世界を現実にこしらえます。皆さんも思念を投射していることは、ご自分で想像しておられるほど珍しいことではありません。
われわれの世界では思念の波長の合わない性質の霊とは生活を共にすることができません。交わる相手の霊的本性と個性とがすぐに知れます。“場所”は関係ありません。“状態”がすべてです。個性がそれ相応の環境をこしらえます。そして(瞑想界に至るまでの)試練の境涯において、霊としての個性が形成されていきます。行為のひとつひとつが永続性のある個性と、それ以後の生活の場をこしらえる働きをします。鍛錬のどの段階においても、それ相応の義務というものが割り当てられ、それを正しく遂行して行くことが、霊性を発達させ進化させます。かくして霊が鍛えられていく過程は地上においても霊界においても、形式こそ違っても実質的には類似しております」
「霊体にも肉体と同じ機能が具わっており、さらに地上とは縁のない別の能力も具わっております。霊体には神性が内在しており、祈りと内省の時を多くもち、実生活における義務を誠心誠意はたすことによって、その神性が発達します。“もの”は使用するほど強化されるという原理によってそうなるのです。それが普遍的な摂理なのです。
一段と高級な霊になると、地上の大気の中ではほんの短い時間しか滞在できません。時にはこの交霊会の場にも近づけないことがあります。私も今はこの霊媒から遠く離れた位置にいます。精神的ならびに肉体的条件のせいで、これ以上近づくことができません。体調を崩している時は近づけません。最近他界したばかりの霊の方が容易に近づけます。しかし、われわれは遠い距離からでも影響力を行使することができます。われわれ(高級なスピリット)にとっては時間も空間もありません」
死刑制度に関して –
「いかなる事情のもとでも許されるべきではありません。突如として肉体から切り離された魂は、やがて地上へ戻ってきて人間に恐ろしい仕打ちをはじめます。守護霊も近づくことができず、魂の進歩に重大な障害をもたらすことになります。残酷にして野蛮な処刑によっていかなる悪が生じているかは、霊界へ来てみてはじめて分かることです。
地上でいうところの生命(いのち)を奪う形での処罰は、無分別きわまる行為です。それは目には目を、歯には歯をの発想の時代の名残りです。罪人は矯正するか隔離するかの、いずれかにすべきであって、身体を奪ってはなりません。それは、せっかくの地上という存在の場での寿命を全うしないまま霊を身体から引き裂くことになります」
(注) – その死刑制度を激しい語気で非難した部分が『霊訓』の中に見える。その激烈さのためにモーゼスは、“手がヒリヒリし腕がガクガクして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりして横になるほど疲れはて、頭の奥に激しい痛みを覚えた”という。その一部を紹介すると –
《罪人は訓え導いてやらねばなりません。罰するのはよい。われわれの世界でも処罰はする。が、それは犯した罪がいかに自分を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための、一種の“みせしめ”であらねばなりません。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉によって魂を潤すことを体験させてやらねばなりません。そこに神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かい霊波を注ぎ込んでくれることでしょう。
しかるに人間は罪人を寄せ集めて、手を施す術(すべ)のない者として牢に閉じ込めてしまう。その後さらに意地悪く、残酷に、そして愚かきわまる方法で処罰する。そうした扱いを受けた者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かな手段に訴えられるべき罪人の名簿に書き加えられる。すなわち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れはて、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまではまだ肉体という足枷(かせ)があった。が、今はその足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔のごとき邪念に駆られて暴れまわるのである。
人間は何も知らない!何も知らない!自分たちのしていることがいかに愚かであるかを一向に知らない。自分こそ最大の敵であることを知らない。神とわれわれと、そしてわれわれに協力する人間を邪魔しようとする敵を利することになっていることを知らない。
知らないと同時に愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎない者に報復的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、こうして傷つけられた霊が霊界から復讐に出ることを人間は知らない。
神の優しさと慈悲 – 堕落した霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われわれ使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばなりません。右のごとき行為を続けるのは、神の存在を認識していないからです。
人間は自分の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら分からぬ高所より人間を座視し、自分の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、自分の創造物については、自分に媚(こ)び自分への信仰を告白した者のみを天国へ召し入れ、その他に対しては容赦も寛恕もない永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔のごとき神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像する一方、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えのない言葉を吐かせ、暖かい神の御心には到底そぐわない律法を定めた。
何たる見下げ果てた神!一時の出来心から罪を犯した無知なわが子に無慈悲な刑を科して喜ぶとは!作り話にしてもあまりにお粗末!お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟な心の産物にすぎない。そのような神は存在しません!絶対に存在しません!われわれには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣な心の中以外のいずこにも存在しません。
父なる神よ!願わくば無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているにすぎぬこと、御身について何ひとつ知らぬこと、これまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり、真の御姿は知り得ぬことを悟らしめ給え》☆
国家が退廃していく主な原因は不道徳(悪徳)にあるのではないかとの質問に対して –
「その通りです。不道徳こそ、人間を動物以下にまで堕落させ、悪魔と同類にしてしまう、罪の中の罪です。他のいかなる罪にもまして人間を天使の支配より遮断し、神より遠ざけるものです。ローマもそれにて滅び、スペインもしかりです。フランスも堕落しています。イギリスも同じ道を急速にたどりつつあります。
ああ、人間はなぜ気づいてくれないのでしょう。たとえ一瞬の間でも霊眼を開いて、不道徳から救い出さんとして待機する天使の集団の存在を垣間(かいま)見てくれればと思うのですが、人間は一向に気づかず、気づいた時は時すでに遅しです」
再生の問題についてインペレーターは、一般に信じられている形での再生説は間違っていると述べ、偉大なる霊が人類の啓発のためにみずから志望して地上へ降誕することは、これまでの地上の歴史に幾つかの例があること、また、霊性の汚れが極端な場合は最低界へ沈んで行き、いったん“霊の海”ヘ埋没してから改めて生まれてくることもあるという。ただし、その場合は多分この地上ではなく別の天体になる – 1度落第した学校は2度と通わないものです、という。
(注) – 『霊訓』の中で同じインペレーターが地上の悪徳を増幅させている邪霊集団の存在について述べたあと、その救済についてこう述べている。
《こうした霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求が芽生えた時こそ更生への第一歩である。その時より神聖にして気高い波長に感応するようになり、救済団による手厚い看護を受けることになる。
地上にもみずからを犠牲にして悪徳の世界へ飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生させている気高い人物がいるように、われわれの世界にもそうした奈落の底に沈んだ霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によって善に目覚め、堕落の生活から救い出され、浄化の境涯における辛い試練をへて、ついに悪の影響と断絶し清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくありません。
かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それよりさらに深く沈んだ境涯については、われわれも多くは知りません。漠然と知り得たところによれば、悪徳の種類と程度によってさまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求をすべて失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者がいます。そしてついには意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅して行く。少なくともわれわれはそう信じている》
「地上で極貧と悪徳の環境に生をうけ、善性を志向する機会が乏しかった者は、他界後に霊界にてその埋め合わせの教育が施されます」
「生命に終わりはなく、永遠に進化し続けます。魂は一瞬たりとも静止することはありません。進化するか、さもなくば退化します」
「地上の人間で直接神に近づける者は1人もいません。その中継者として、神は天使を遣(つか)わします」
霊による人間への働きかけは人間自身が想像する以上に多く、いかなる霊が働きかけているかによって、その人間の程度が知れるという。また物的存在物はみなオーラを発しており、その内部に霊が潜在しているという。
人間は死後もほとんど本性は変わっていない。また動物もそのまま生き続けている。1度創造された生命はけっして死滅しないという。
「地上近くをうろつきまわっている低級霊は交霊会にしばしば出現し、さまざまな人物の名を騙(かた)ってしゃべります」
「悪条件のもとで交霊会を催して万が一そうした低級霊とのつながりが生じると、かずかずの危険を覚悟しなくてはなりません。邪悪な影響力の侵入を許し、危険が生じます。交霊会のメンバーは純粋な心の持ち主 – 真理の探求者によって構成すべきです」
「霊が人間に影響力を行使する場合、人間の身体が見えているわけではありません。人間は視力というものを肉眼と結びつけて考える習性がありますが、われわれは、映像として見えなくても存在を認識することができます。霊と霊との関係は磁気的なものです」(22頁参照)
「霊界における霊の誕生は地上における赤子の誕生とよく似ております。誕生したばかりの霊はやはり育児と看護が必要です」
「霊界から人間に協力しているわれわれは、きわめてデリケートで不安定な条件のもとで働きかけていることを銘記していただかねばなりません。その際、物質はわれわれの視界から消えており、物質界にありながら物質はまったく映じません。見えるのは霊のみです。したがって写真に写ることはできません。が、他の(低級な)霊にわれわれの肖像を真似させることは、しようと思えばできます」
背後霊団の1人でメンター Mentor と名のる霊についてインペレーターは、この霊は霊界ではとても霊格の高い霊で、第4界に所属し、教育と自然界のエネルギーの支配を担当しており、教育の仕事はすでに完了していると語ってから、
「霊界での生活はそのように学ぶことと教えることの連続で、つねに前進であり、つねに向上なのです」
「われわれにとって神を崇めるということは、神の仕事と意志を実践することであり、人類を霊的に高揚させることにほかなりません」
「人間はつねに霊的生命に取り囲まれており、片時も孤独でいることはありません。絶対にありません」
ムーディとサンキー(後注)の教えとその影響について問われて –
「岩だらけの道を切り開くだけの道具を高等なものさしで採点しては、良識を欠くことになるでしょう。霊的なものが人間界に注入されていくに際して波風が立つのは、やむを得ないことです。冷たく陰うつな惰眠をむさぼらせるよりも、揺り起こして目を覚まさせる方がましです。今の人類に蔓延している自己満足の中の平穏無事に騒ぎを起こさせる働きに対して、われわれは否定的態度は取りたくありません。現代は霊的な影響力がさまざまな形で顕現しつつある過渡期なのです。
ムーディとサンキーの教えは知的レベルの低い階層に向けられたもので、それはそれなりに、その階層の者には適切だったことを知らなくてはいけません。霊的興奮の時期においては、波風の立つのは天使の到来の前兆と見るべきです。冷ややかさと無関心の状態から人類を目覚めさせるものであれば、われわれは何でも歓迎します。そうした問題についてわれわれが皆さんと違って高い観点から眺めることになるのも、立場上やむを得ないことでしょう」
(注) – D.L.Moody(1837~99)、I.D.Sankey(1840~1908)。ムーディは靴のセールスマンから牧師となった人物で、歌手のサンキーと組んで米国に3回目のリバイバルを起こした。☆
「人間が霊に出現してもらいたがるのはよいとしても、出現する霊にとっては、地上圏へ舞いもどることが再び煩悩を呼び覚ますことになりかねないことを知るべきです。地上へ戻ることが退歩となることがあり、進化の法則に逆行することになります。人間の情的な念によって引き戻されるケースが多いのですが、その霊にとっては大変まずいことがあります。人間の情念の方が強烈であるために、地上へ引き戻されることによって進歩の歩調が乱されるのです。それほど人間の念が1個の霊の道を制約するものなのです。
地上圏を去った者は2度と地上へ戻れなくなるケースが多いのですが、かりになんとか戻ることができても、人間も霊もともに意識過剰になり、一種の反発作用が生じ、交信を台なしにしてしまいます」
入神中のモーゼスについて –
「彼は今、教育担当の指導霊とともに天上界へ赴いております。彼のもつ霊力によって恩恵をうける霊もいます。ただし、そのためには霊性が高尚で誠実で非利己的でなければなりません。何よりもまず“小我”を滅却することです。そうすれば思いもよらないほどの霊力を授かります」
「地上でダニエルの名で知られた霊は大変な高級霊が降誕したもので、強力な霊媒的素質を具えておりました。時として偉大なる霊が地上へ降誕、ないしは再生することがあります。が、これは例外に属することで、一般的によくあることではありません」
(注) – ダニエルは紀元前6世紀のヘブライの霊覚者で、旧約聖者にそのダニエルについての書がある。彼もメルキゼデクに始まってイエスに至る系譜の中の1人で、たぶんインペレーター霊団の1人であろう。☆
1848年に勃興した近代スピリチュアリズムの満100年を記念して –
「今夜は大勢の霊が活発に動いております。本日が記念すべき日であるからにほかなりません。皆さんが近代スピリチュアリズムと呼んでいるものが勃興した当初、高級界より強力な影響力が地上へ差し向けられ、霊媒現象が開発されました。かくして地縛的状態にあった霊を解放し、新たな生活へ甦らせるための掛け橋が設けられました。そのことを記念してわれわれはこの日を祝うのです。
スピリチュアリズム – われわれとしては“神の声”と呼びたいところですが – これは真理に飢えた魂の叫びに応じて授けられるものです。
しかし、このスピリチュアリズムにも次第に致命的な悪弊が生じつつあります。すなわち現象のみをいじくりまわすことから生じる、言わば心霊的唯物主義です。現象を生ぜしめるエネルギーにのみ関心を向け、その背後で働く各種の知的存在を認識しようとしません。物質はあくまでも付帯的なものであり、実在は霊なのです。
地上のすべての宗教がその基盤を来世への信仰に置いております。にもかかわらず、地球を取り巻く唯物的雰囲気のために、せっかくの神の真理を心霊現象で埋めつくして窒息死させかねない状態となっております。もしもそれのみにて満足するのであれば、むしろ初めから一切の関わりをもたなかった方がよかったかも知れません。
われわれは、しかし、首尾よくそうした現象的段階を超えて、かつての真理より一段と高等な霊的真理を求めようとする者が多く輩出してくれることを期待しております。心霊現象はそのための手引きとしての価値しかありません」
「スピリチュアリズムは今まさに最後の試練の時期(後注)を迎えております。そして多分それを首尾よく通り抜けて、さらに新たな局面を迎えることになるでしょう。その時は、これまでより一段と内面的なスピリチュアリズムが前面に出てくることでしょう。が、今はまだその時期ではありません」
(注) – これはあくまで訳者個人としての見解であるが、このインペレーター霊団とちょうど入れ替るようにシルバーバーチ霊団その他、目的は同じでも手段を異にする霊団、たとえばハリー・エドワーズに代表される心霊治療団が地上への働きかけを開始しているところをみると、インペレーターのいう“最後の試練の時期”とは第2次世界大戦に象徴される混乱の時期で、“一段と内面的なスピリチュアリズム”というのは、“再生”を因果律の重大な要素として前面に押し出した思想と心霊治療活動をさすものと考えられる。
が、モーリス・バーバネルをして“イエス・キリストに勝る”と言わしめた心霊治療家のハリー・エドワーズもすでに亡く、その後を追うようにバーバネルも他界し、そして昨年(1986年)の12月にはやはり心霊治療家のテスターと、その恩人とも言うべきフリッカーの2人が申し合わせたように相次いで他界し、シルバーバーチがたびたび交霊会に招待していた治療家や霊媒もほとんどが姿を消してしまったことを思うと、実はこれまでがその“最後の試練の時期”で、これから“さらに新たな局面”を迎え、そして、“一段と内面的なスピリチュアリズム”が啓示されることになるのかも知れないと思ったりもしている。願わくばそうあってほしいものである。☆
第2部 自動書記による霊訓
ステイントン・モーゼスによる自動書記は1883年にモーゼス自身によって『霊訓』Spirit Teachings と題する1巻の書にまとめられている。その多くはすでに心霊誌“ライト”Light に掲載されたものであるが、それについてインペレーターはモーゼスに(自動書記で)こう述べている。
「あれは、受け入れる用意のできた者のために独立した一個の霊が貴殿の精神に働きかけることが可能であることを証明したものである。あの中に述べられていることを検証し得心しようとする意欲と、それとはまったく別個の知的存在とが交信している事実が明らかであろう。その事実はまた新たな立証を得ることになろう」
また1874年4月10日の発行の心霊誌“スピリチュアリスト”Spiritualist には次のような一節が見える。
「霊的教訓が授けられる通路となっている人物(モーゼス)は書物を読みその内容に注意を向けていても、霊側はその人物の手を借りて、それとはまったく異なる問題について書くことができる。かくして死後存続についての驚異的な証拠が彼の霊媒能力を通して次々と提供されつつあります」
その『霊訓』についてモーゼス自身は1874年9月にこう書いている。
「この1年と半年の間に明らかに私以外の始源から届けられており、その筆跡は整然として乱れることがなかった。通信霊の1人ひとりが、機械的正確さをもって、文体と筆跡を維持しつづけている。まったく乱れが見られないのである。書いている手にハンカチをかぶせたり、書きながら書物を読んだりしても、少しも変化が生じない。どんな場所で書いても、まとまったことを最後まで述べる。これは明らかに私以外の存在が書いている証拠である」
霊団側の話によると、通信を受けながら別の用事ができるということは、モーゼスの稀にみる霊媒的素質を示しており、あれだけの通信が得られるのは精神と肉体と霊的素質とが稀にみる一体関係にあったからだという。
– 構成者
(注) – とくに指摘がないかぎり通信霊はインペレーターで質問者はモーゼスである。霊言と異なり自動書記は古い文語体で書かれている。『霊訓』(完訳)ではそれを訳文に反映させる必要があったが、本書は断片の寄せ集めで構成されており前後のつながりが途切れるところが多いので、それぞれの内容によって現代的な文語体と口語体とを織り交ぜた文に訳した。☆
「われわれは霊力と才能と発達の程度を異にする知的存在 – さまざまな影響力と感化力をもつ霊の集団である。それゆえ、割り当てられる仕事は各自の能力に応じたものとなっている。命令を下す者がおり、それに従う者がいる。各分野に監督がおり、その指令にしたがって担当者が仕事に当たります。
すべてにおいて忠実さと正確さを旨としています。われわれは神の福音を説く者の集団です。計画遂行のために構成された49名の霊団の組織についてはすでに述べてある。(通信の末尾に記される)署名(サイン)はひとりであっても、その通信の中身については、多くの場合、複数の霊が関与している。その教説は従来の神学上の誤謬の修正と同時に、新たな真理の啓示も目的としており、真理の特殊な入手方法に心得のある者がその啓示に関わることになろう」
「本日の到着が遅れたのは私の出席を必要とする霊の集会があったためです。全能なる大神への讃仰の祈りを捧げるためによく開かれる集会の1つです。霊団どうしの協力を必要とする時、およびわれわれよりさらに高級にして賢明なる霊からの力をさずかる必要のある時に、そうした集会をもつのである」
「われわれは今、聖なる天使と霊の大集会に出席してきたばかりです。その集会において(地上での大事業の進展具合について)協議し、大神へ厳(おごそ)かなる讃仰の祈りを捧げてまいりました。われわれの声が一体となって讃仰の聖歌へと高まり、それに応えて大神が聖なる霊力をおさずけ下さり、それが(地上での大事業における)闘争の支えとなるのである」
– 具体的なことを教えていただけませんか。
「地上各地での使命にたずさわっている霊団の指導霊が一堂に召集され、最高神への讃仰の大集会が催されます。時折そうした集会をもって全能なる大神を讃美するのが、われわれの習わしなのです。それが、とかく過ちを犯しがちな魂を導く労多き仕事で疲弊しきったわれわれ自身の元気回復にもなります。エネルギーを一新し、神の恵み多き霊力を蓄えるのです。
その荘厳な讃仰と讃美の儀式には、第3界以下(幽界)の霊は参列を許されません。また、われわれと同じ界の者でも、さしあたって他の存在のための仕事にたずさわっていない者は参列しません。
その使命は地上だけとは限らない。すでに肉体を棄てていながら、地上的な情愛や、かつて宿っていた肉体の欲情による地縛的状態から脱け切れずにいる霊、あるいは又、天寿をまっとうせずして未熟な状態で霊界へ送り込まれ、看護と指導を必要とする霊の救済に当たることを使命としている者もいる。
地上時代ずっと指導に当たった霊が死後も引き続き指導霊として、地上時代に始まった教育を霊界においても担当することは、よくあることである」
– あなたはイエス・キリストの直接の影響力のもとに行動しておられると理解してよろしいか。
「よろしい。私は以前、私自身が試練の境涯を通過して超越界へと入って行かれた霊の影響下にあると述べたことがある。その霊こそ、かつて地上でイエスと名のった霊です。その方が今(超越界より再度降下されて)地上人類の霊的救済、新たな真理の啓示、そして積年の誤謬の一掃のための計画を用意されつつあります。そのための特使を神界にて選ばれ、その霊に地上の霊媒の選定を一任される。イエスこそ、このたびの大事業の最高指揮者であらせられる」
「地上の人間は内在する霊的資質の開発の必要性をつねに自覚していなければなりません。このたびのわれわれの(心霊現象演出の)活動も霊的啓示をさずけることを目的としたものであって、単に人間を面白がらせたり驚かせたりするためのものではない。教えを受けようとする心構えのない者には、われわれの教えも通じないものです。
その高等な霊的真理への関心の乏しさが、高級霊が地上と交信しようとしても満足のいく結果が得られない原因です。人間側に学ぼうとする姿勢が乏しいからです。好奇心の満足しか求めないからです。われわれとしては、一方において邪霊集団による絶え間ない策謀によって不利な条件を強いられ、他方において人間の冷えきった信仰心、あるいは未熟な受容性に乏しい霊性に手こずりつつも、われわれとして出来うるかぎりの努力をしているところである」
「われわれとしては、せめてわれわれの影響下に置かれた同志だけでも、魂の憧憬の崇高さに応じてそこに訪れる霊の霊格の程度が決まることを、実感として体験させてあげられればという気持です」
「純心無垢な人間が邪霊集団からの攻撃を受けることは有りうることです。が、その際は背後霊団の守護を得て首尾よく撃退せしめるでしょう。そうした場合は別として、親和力の法則に例外はありません。類は類を呼ぶ、ということです」
– 必ずしもそうとばかりも言えないのではないでしょうか。
「絶対不変というわけではないが、それが通則です。悪は悪を引き寄せる。好奇心ばかり旺盛で見栄っぱりで軽薄な人間のまわりには同じように軽薄で未発達な霊が寄って来ます。しかし、純心無垢な善人には必ずしもその通則が当てはまらないことがある。時として未発達霊からの攻撃にさらされることがあります。試練である場合もあり、邪霊集団の策謀である場合もある」
「高級霊による働きかけは声もなく音もなく、また往々にして何の兆候も見られないものです。結果を見てようやく知られるのみで、途中の過程にはそれが見られません。インスピレーションは人間が“神”と呼んでいるもの、すなわち宇宙にあまねく内在する大霊から流れてくるものです。
われわれと同じく人間も霊の大海の中に生きているのであり、すべての知識と叡智はそこから魂へと注ぎ込まれている。これがいわゆる聖霊の内在、すなわち神は人間とともにあり、人間の心の中に宿り給う(ヨハネ伝1・7)ということです。以前われわれが皆さんも神である – ひとりひとりが内部に普遍的大霊の一部を宿しているという意味において、人間はすべて絶対神の顕現である、と述べたのも、それと同じ真理を述べたのでした。
霊的身体はその霊の大海から養分を摂取し、存在を維持している。物的身体が呼吸によって大気中から生命素を摂取して存在を維持しているのと同じで、霊的大気と霊体との関係はまさに空気と肉体との関係と同じです。人間界の叡智もまたその霊的大気圏から得られる。主として霊による中継によって行われます。受容性の高い者、霊性の高い者ほど多くを摂取する。
いわゆる天才もその類いに入ります。有用な発見、人類の役に立つ発明をする者もみな、そのインスピレーションを霊の世界から得ています。その発明品は人間が思いつく以前から霊界に存在していたのである。天才のひらめきも、その根源的アイディアが芽生える霊界から放たれる光の反射にすぎません」
「霊媒能力は、別の分野なら(学問的・芸術的)天才という形で発揮されるものが、霊的な分野で発揮されたものである。霊の導きとインスピレーションに対して開かれた耳をもつ天才であり、それが次第に霊的現象へと移行したのです。教訓が忠実にそして明瞭に伝達されるためには、霊媒本人の個性は滅却しなければなりません。今の貴殿の場合がそうです。それゆえ今こうして与えられるメッセージは人間的誤謬を最大限排除した、霊の声ということです。
一言にして言えば、霊的存在である人間が霊的影響力の流入口を開く – それが霊媒能力である。あくまで霊的な目的のために使用しなければならない。営利目的のため、単なる好奇心の満足のため、あるいは低劣な、無意味な目的のために使用してはなりません。
霊媒能力を発揮する人間の特質はその人の霊にあるのであって、肉体にあるのではない。そのことは、霊媒現象がありとあらゆる体質と体格の霊媒において起きている事実を見ても分かるであろう。男性と女性、磁気的体質と電気的体質、背が低くて頑健な体質と細くてきゃしゃな体質、年輩の人と若い人、等々。こうした事実だけで霊媒能力が肉体だけの問題でないことが分かるであろう。
さらに、死後もなおその能力が存在しているという事実がそれを裏書きしている。地上で霊媒だった者は肉体の死後もその能力を維持していて、それをわれわれとの協力の中で使用する。地上へ派遣されるのはそうした霊が最も多い。交信が容易なのである。おかげでその種の能力を欠く霊も地上界と交信できる。貴殿が地上の霊媒であるごとく、その種の霊は霊界の霊媒というわけです。
忘れてならぬことは、すべての霊的才能、霊媒能力は、進化にとって測り知れない価値を有するということである。祈りにも似た注意をもって培い、大切にすべきものであり、それを誤用または悪用した時は恐ろしい代償を支払わねばならない。これを言いかえれば、霊能の所有者はふつう一般の者より神とその天使の近くに存在していることである。天使からの働きかけに反応しやすいということである。
しかし同時に、悪の勢力からの攻撃にもさらされやすいことになる。善を志向する影響力の感化を受けやすいのであるから、ふつう一般の人より一層強力な熱意をもってその才能を大事にし、守らねばならない」
「俗世的なものには、可能なかぎり、とらわれぬよう心がけることである。個人的見解というものも持たぬ方がよい。われわれにとって障害にしかなりません。ひたすらに永遠にして不変なるものへ向けて歩を進めることです。自分一個にかかわることは往々にして利己的でケチくさいものとなりやすい。そうしたものはまずわれわれは関心を向けません。これまでわれわれは貴殿を宗教的側面にかかわる教えに注意を向けさせてきた。すべてはわれわれの指導によって行われてきたことであり、これからも(現象的なものよりも)その種の問題に関心を向けてほしく思う」
– 確かに、あなたの計画のあとをたどってみますと、私のすることは何もかもご存知なので不思議でなりません。ようやく私も、すべての行為が導かれていること、全人生が目に見えない力によって形づくられて行っていることが分かってきました。
「貴殿はわれわれに絶対的真理を啓示することが可能であるか否かを問い、これまで数々の霊が述べたものには矛盾があるところから、絶対的真理などは有りえず、それを得ようとするのは時間の無駄であると述べている。
もしも貴殿のいう“真理”が本質的に人間的理解力を超えた問題についての正確無比な叙述を意味するとすれば、われわれには、否、他のいかなる者にも、絶対的真理を啓示することは不可能です。人間には到底理解できないからである。が、もしも人間が知っておくべき事実に関するより高度な啓示知性を発達させ、より次元の高い知識へと誘うものを意味するとすれば、われわれがこうして地上へ降りてきたそもそもの目的は、そうした真理の啓示が目的であると答えよう。それこそがわれわれの使命の目的なのです。
われわれはいたずらに人間をよろこばせたり驚かせたりするために参ったのではない。教訓を授け、向上させんがためです。われわれの為すことにはひとつひとつに目的がある。すなわち絶対的真理についてより高度にして幅広き見解を啓示することです」
(注) – モーゼスが述べたことと、それを受けてインペレーターが述べていることとが、一見、噛み合っていないように思える。が、それはこの一部分のみを抜粋するからそう映るのであって、インペレーターはこうした霊的通信がいずれ書物となって広く世界の人間に読まれることを考慮して、局所的な質問に対しても大局から見た答え方をすることが多い。それはシルバーバーチの場合も同じである。要するにスピリチュアリズムは地球全体にかかわる計画に基づいた霊的活動であり、したがってその霊媒となる人物のことは誕生時からすべてを知り尽くしていることを言っている。☆
– “私と父とはひとつである”というイエスの言葉を説明してください。
「その言葉には自分は神であるという意味は少しも含まれていません。とんでもない誤解というべきです。その意図はわれわれが主張するところとまったく同じです。すなわちわれわれは神の使者、特別なメッセージの証人として参っているのである。そして、イエスがそうしたように、そのメッセージの神性とその証拠としての現象に目を向けさせています。異論の多い問題はなるべく避けたい。たとえば貴殿は他の(キリスト教の)僚友と同様に、バイブルの中の用語に虚構の重要性を付すという過ちを犯している。また、ヨハネの書の翻訳の中の一語句を引っぱり出して、その上に不吉なドグマを築き上げている(後注)。バイブルも一般の書物と同じように公正な解釈を施すべきです。また神学で大げさに取り上げている言葉も、現代とは異なる時代の異なる民族に対して語られたもので、その伝えられ方の正確さもさまざまです。それらは思想においても必要性においても生活習慣においても、現代とはまったく異なる人間に対して語られたもので、しかも、そうでなくても欠点だらけであるところに、それを大なり小なり不正確な“翻訳”を通じて読むという新たな危険を冒してきている。
貴殿が引用した一文には本来、神とイエスという“ふたりの人物”が一体であるという意味はありません。抽象的な意味しかありません。“人物”による一体ではなく“目的”においてひとつ、意図することにおいてひとつということである。“イエスなる私は、授かれる仕事において父と一体である”ということである」
(注) – これはヨハネ黙示録に出ているハルマゲドンのことを言っていると思われる。元来は善と悪との最後の決戦場として出ているだけであるが、それが地球の壊滅的な動乱と救世主イエスの再臨ということに発展している。『シルバーバーチの霊訓』第2巻に次のような問答がある。
「ハルマゲドンが急速に近づきつつあるという予言は本当でしょうか」
「いいえ、そういう考えは真実ではありません。注意していただきたいのは、バイブルの編纂にあたった人たちは大なり小なり心霊能力をもっていて、そのインスピレーションをシンボルの形で受け取っていたということです。
そもそも霊的なものは霊的に理解するのが鉄則です。象徴的に述べられているものをそのまま真実として読み取ってはいけません。霊界から地上への印象づけは絵画的な翻案によって行います。それをどう解釈するかは人間側の問題です。いわゆるハルマゲドン、地球全土が破壊され、そこヘイエスが生身をもって出現して地上の王となるというのは真実ではありません。すべての生命は進化の途上にあります。物質界に終末はありません。これ以後もずっと改善と成長と進化を続けます。それとともに人類も改善され成長し進化していきます。生命の世界に始まりも終わりもありません」☆
– でも、そのほかにも自分のことを神であると言っているかに受け取れる言葉がたくさんありますが、それはどう解釈したらよろしいでしょうか。
「われわれの見るところによれば、イエスの言葉は地上時代においてすでに誇張されて伝えられていました。つまり弟子たちがイエスの言葉をイエスが意図した意味よりはるかに誇張して記録したのです。確かにイエスは自分が神の使いであることを宣言したし、事実そうだった。それを東方教会流の誇張した比喩を用いて表現した。それを無知にして教養に欠ける弟子たちが“十字架の死”と“復活”、およびそれに付随して起きたさまざまな不思議な現象と結びつけて、必要以上に大げさに表現した。それがついには理知的人間にはついて行けない驚異的な次元へと発展してしまったのである」
続いてモーゼスは通信の内容に(通信霊によって)矛盾するところがあることを指摘してからこう尋ねた。
– あなたはキリストの神性(神であること)、バイブルの不謬性(その内容はすべて神の絶対的な言葉であること)、および再生説を否定なさると理解してよろしいでしょうか。
「はじめの2つはつまるところ神学的教義に帰する問題であり、もう1つはその霊の未来への洞察力の問題である。イエスを神であるとし、バイブルをすべて神の声であるとするのは神学の領域内でそう考えているに過ぎません。そうした誤った信仰を抱いた霊が死後何百年何千年たってもそう思い続けていることは、けっして有り得ないことではない。致命的というほどの害にもならないので、指導霊は他のもっと大切なことを教えることに専念し、そうした地上時代の信仰や思想は取りあえず休眠状態に置いておきます。
ところが、その霊が地上圏へ連れてこられると、そうした休眠中の古い考えが目を覚まして、かつてと同じように支配しはじめる。これは古い記憶の世界へ戻ることによって生じる必然の結果で、交霊に出現する霊が面影や癖、衣服まで地上時代と同じものを再現するのと原理は同じです。
同じ原理は、地上生活でもお馴染みであろう。久しく忘れていた感覚に触れて、昔の記憶が呼び覚まされることがあるであろう。一輪の花、一場の光景を見て古い思い出が甦ってくることがある。霊が地上へ戻って思い出の中に浸ると、完全に拭い去られていない誤った教義や信仰が息を吹き返し、精神を支配してしまうのである。
であるから、霊が神学的な話を持ち出したからといって、それだけでその通信の価値をうんぬんすべきではない。よほど霊力のある、しっかりとした霊でないかぎり、列席者の思念によって影響され、霊媒の潜在意識にある強い思想・信仰に簡単に左右されます。
未発達霊は貴殿がすでに間違いであることを理解している教義を大まじめで説くことがある。霊とはいっても肉体を棄てたというに過ぎず、間違いになかなか気づかないものである」
– 間違った教理を信じきっている霊が何百年何千年とそう思い込んだままの状態でいると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか。
「そう滅多にあるものでもないが、霊媒を通じてしゃべりたがる霊は往々にして大して高度な悟りに到達していない者たちである。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻ってくるということ自体が、あまり進歩的でないことの証左といえよう。中でも、人間のこしらえた教理にがんじがらめにされたまま戻ってくる霊がもっとも進歩が遅い。
「真の啓示は人間の理解力に応じて神みずから啓示なさるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり誤りが見られる。ゆえに(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも、みずからはその誤りに気づかぬのである。そうした類いの霊が徒党を組み、その誤りがさらに新たな誤りを生んでいくことがよくある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、人間にとってのみならず、われわれ霊側にとっても厄介なことになっている。
と言うのも、彼らの集団も彼らなりの使者を送って人間界を攪乱(かくらん)せんとするのです。彼らは必ずといってよいほど敬虔な態度をよそおい、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を邪魔し真理を窒息させるように企んでいるのです。魂の自由を束縛し真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく敵対者の仕業である。
霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にしてはじめて論ずることのできる問題である。最高神のご臨席のもとに神庁において行われる神々による協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとってあまり深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。そのひとつが、霊の究極の運命である。神庁において神議(かむはか)りに議られしのちに一個の霊がふたたび肉体に宿って地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。すべては良きに計らわれるであろう。
すでに述べたように、地上で広く喧伝(けんでん)されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではありません。また偉大なる霊が崇高な使命と目的とをたずさえて地上へ降り、人間と生活を共にすることがあることは事実です。ほかにもわれわれの判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないと見ているからです。霊ならばすべての神秘に通じていると思ってはなりません。そう広言する霊は、みずから己(おの)れの虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」
「霊界での仕事は多種多様です。大神が教え給う崇高な真理をより多く学びより多く理解すること。礼拝と讃仰の祈りを捧げること。心優しき霊に真理と進歩を授けること。悩める心弱き霊たちへの援助活動。みずからの知性の開発。霊性の陶冶。愛と知識の進歩。慈悲の行為。宇宙の神秘の研究。宇宙エネルギーの操作。以上、要するに、不滅の存在である霊の渇望を知性と愛の両面において充実させることと言えよう」
「界層といえば人間は地上と同じような“場所”を想像する。多分それ以外には想像のしようがないのかも知れない。
が、ご承知のとおり、地上においても、道徳的ならびに知的には同じ生活環境にありながら、霊的徳行と精神的美質において他に抜きんでている人がいるものです。
霊性が自然に引き寄せられる状態ないし環境というものがあり、その環境ないし界層がさらに幾つもの区域に分かれている。魂どうしは互いが追求するものの共鳴性、気性の類似性、前生での体験の共通性、ないしは今たずさわっている仕事の同一性によって引かれ合う。思索より行動に重点を置く者もいれば、行動より思索に重点を置く者もいる。そうした違いはあっても、引かれ合う者どうしは霊格の高さにおいては同じなのです。
各界層に隔たりがあるのはもとよりのことで、それ独自の性格と特質を具えております。地上との違いほど大きくはないが、それぞれに相違点がある。肉体が無いことから仕事の種類は異なってくるが、ひとりひとりに為すべき仕事があります。地上世界のような時間も空間もない。身体のための必需品というものはない。霊体のエネルギーは肉体のそれより凝集性が強く、また、自己のためより他のために使用されます」
– 食事は取りますか。運動はどうなりますか。
「人間が摂取するものとは異なります。われわれの身体は空間に漏漫している霊的エーテルによって維持されており、その点は人間の霊的身体も同じです。普遍的な霊の養分、エネルギー源であり、肉体のあるなしには関係ありません。
運動は念力だけで事足ります。親和性があれば引かれ合い、なければ反発し合い、また、こちら側の欲求、ないしはこちら側の存在を望む相手側の欲求によっても引かれ合います。
霊的界層は“状態”であって、地上でいうところの“場所”ではない。そこに住む霊は人間のように時間と空間の条件には支配されません。住民は一地域に閉じ込められているのではない。住民のもつ道徳的、知的、ならびに霊的な状態によって、異なる界層が生じております。つまりアフィニティ(同じ霊系に属する親和性の強い霊どうし)が集まり、その共鳴性にあふれた交わりの中によろこびを味わっている。隣人だから、近所だからということで交わるのではなく、性向と目指す目的の類似性によって近づき合うのです。
高い界層には不浄な者は入れません。低い界層に集まるのは教育的指導を必要とする者たちであり、その指導は、地上的雰囲気の中で喘いでいる霊のために一筋の光明をもたらさんとして、光輝あふれる住処(すみか)をあとにして降下してくる高き界層の霊から授かります。
最初の3つの界は地上近くに存在する。そこにはそうした(地上的煩悩から脱し切れない)者たちがひしめいている。第1の界層は、もろもろの原因から、地上へ引きつけられている者です。地上生活ではほとんど進歩が得られなかった者たちで、かならずしも全面的に悪いわけではなく、ただ、せっかくのチャンスを利用しないまま無為に過ごしたために、今なお当てもなく迷い続けているのである。
さらには、地上に残した僚友への情愛と親和性のために、向上する可能性を有しながら敢えて地上圏に留まって援助している者もいる。それに加えて、霊的に若く、初歩的教育の段階にある者、不完全な身体をもって誕生したために十分な体験を積むことができず、学ぶべきだったことをこれから何とかして学ばねばならぬ者、不可抗力によって寿命を全うせずして地上を去った者がいる。みずからの責任ではないとは言え、向上するためにはその埋め合わせをしなければならないのです」
「われわれの所属する界の素晴らしさ – 漂う心地よい香気、咲き乱れる愛らしい花々、あたりに広がる嬉しさを誘う景色は、到底、人間的想像の及ぶところではありません」
– そちらの家屋もやはり“もの”で出来ているのでしょうか。
「そうです。ただし、人間が考える“もの”とは違います。われわれにとって実体が感じられるということであり、人間の粗末な感覚では実感は感じられないでしょう。われわれは人間と違って空間の束縛を受けません。光や空気のように自在であり、地上の家のように一定の場所に固定されていません。それでいて生活環境は洗練された霊的感覚のおかげで、人間が物的環境から受けるのと同じ、実体が感じられます」
他界して間もない知人が出現したのでモーゼスが尋ねた。
– そちらの世界は地上とよく似てますか。
「何もかもよく似ています。違いを生じさせているのは条件の変化だけです。花も果実も景色も動物も小鳥も、地上とそっくりです。ただ、その構成要素の条件が異なるだけです。人間のように食べものにガツガツすることがなく、したがって生きるために動物に殺生をすることもいりません。呼吸する空気とともに摂取するもの以外には、身体の維持に必要なものはありません。また行動が物的なものによって制約されることもありません。意のままに自在に動けます。私は今そうした新しい生活条件に少しずつ、それこそ赤ん坊のように、慣れていきつつあるところです。その現実の様子はとてもお伝えできません」
“S”の署名で通信を送ってきていた人物がモーゼスの友人だったウィルバーフォース William Wilberforce(英国の政治家・奴隷解放運動家)であることが判明。そのウィルバーフォースがこう綴った。
「こちらでも地上と同じく寄り集まって暮らしております。共同体を形成しており、やはり地上と同じように叡智と霊性の高い者によって統治されています。すべてがよく似ております。ただ、行為のひとつひとつが普遍的な愛の精神に発しております。摂理への背反は高級霊によるその結果の指摘および矯正のための教訓という形での罰を受けます。それを何度も繰り返していると、もう1段低い界層へ移動し、ふたたび霊格が相応しくなるまで上がれません」
このことに関連してインペレーターがこう付け加えた。
「貴殿の友人がいま述べたのは低界層で彼が見た印象を述べたに過ぎない。そこでは霊が共同体の形で生活しており、高級指導霊のもとで、より高い境涯への準備を行っている。そこは試練と準備の境涯で、より高度な仕事への訓練を受けるところである。いかなる霊も霊性の相応しくない境涯に存在することは出来ない」
– そうした境涯はどこに存在するのですか。
「それは“状態”のことである。貴殿の友人はまだ他界直後に置かれる地球圏の界層を脱け出ていない。似たような界層は他の惑星にも存在する。界層といっても“状態”のことであり、類似した状態はどこにでも存在できるし、現に存在している。人間が空間と呼んでいるところに無数の霊の住処(すみか)が存在している」
その友人のウィルバーフォースがインペレーターの容姿を次のように描写している。
「はじめ私は高級霊たちが身につけている光り輝く衣服を見て不思議でなりませんでした。たとえば今のインペレーター霊の外衣(ローブ)は目も眩まんばかりの白色をしており、まるで純粋無垢のダイヤモンドで出来ていて、それが鮮やかな光輝を当てられているみたいに見えます。肩のまわりにサファイヤブルーをしたものを掛けておられ、頭部には深紅の飾り環にはめ込まれた栄光の王冠が見えます。飾り環は愛を象徴し、サファイヤブルーの衣服は叡智を象徴し、光り輝くローブは聖純さと完全性の高さを象徴しております」
– すばらしい!王冠はどんなものですか。
「尖頭が七つあり、そのひとつひとつの先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星状のものが付いております」
リフォーマー Reformer と名のる霊からの通信。
「霊は愛と知識の進歩とともに光輝と美が増して行きます。頭(かしら)(インペレーター)の頭上の王冠はその崇高な霊格、純粋性、愛、犠牲心、そして神への真摯な献身の象徴です。よほど高貴にして神聖なる者しか授からない王冠です。
霊が身につけた叡智は、他の霊にはその衣装とサファイヤブルーのオーラに象徴されているのが見て分かります。また愛の深さは犠牲心と献身を象徴する深紅によって知れます。それを偽って見せる方法はありません。霊界ではすべての偽装がはぎ取られる。偽善も見せかけも不可能です。欠点も長所も偽ることが出来ません。真に自分のものでないものを自分のものであるかに装うことは出来ません。真に自分のものは霊という存在の生得の資質のみです。
今われわれの会議が終了し、大方の者はそれぞれの仕事に戻っています。インペレーター霊はまだ天上界に留まっておられるが、そのうち戻って来られるでしょう。頭(かしら)は所用でよく天上界へお帰りになります。頭ほどになられると地上の人間を特別に支配するということはなさりません。全体としての指揮・監督に当たられます」
– よほど高い地位の方なのでしょうか。
「さよう。高級神霊界においても指導的立場にあられる霊のおひとりです。それほどの方がこうして直接地上へ戻ってこられることは極めて稀なことです。大抵は中継者として他の霊に命令を下します。よほどの大事業においてのみ高級神霊が直接戻ってこられるが、それでも直接一個の人間を支配することはなく、総合的に指揮・命令を下し、計画をお立てになる。
その会議のため、そして又、聖なる霊力の摂取のために集結した壮大な光り輝く存在の群れがもしも人間の目に映れば、言い表せない喜悦を覚えることでしょう。が、他方にはその反対の勢力も控えています。邪霊の大軍が二重、三重に集結し、神の真理の啓示の進歩を阻止し、歪めんとして、手ぐすね引いて待機しています」
インペレーターは地上では旧約聖書に出ているマラキ(マラカイ)Malachi であるとの話について尋ねる。
– その名は象徴的な意味で用いているのでしょうか。(Malachi はユダヤ語で“使者”の意味がある – 訳者)
「いや、そうではない。述べられたことは事実であり、象徴的なものではありません」
– あなたはリフォーマーと名のっておられますが…(reformer には“改革者”の意味があり、これは象徴的に用いている – 訳者)
「地上時代の私はネヘミヤ Nehemiah と同一人物です。(旧約聖書ネヘミヤ記の筆者で紀元前5世紀のユダヤの指導者 – 訳者)同じ予言者と呼ばれた人物でも、モーセ、マリヤ、エレミヤ、エゼキエルに勝る霊覚者はいません。少なくとも記録に残されているユダヤ人の中にはいません。
エホバは、よく言われている通り、アブラハムとイサクとヤコブの神でした。唯一絶対神ではなく、言わば一家の守り神です」
モーゼスが通信霊の名のる名前と本人との同一性に疑念をはさんだところ、インペレーターが答えた。
「そうした名前は、貴殿に集中的にもたらされる影響力を代表したものに過ぎない。時にはその影響力は必ずしも一個の霊からのものとは限らぬもので、言うなれば非個人的である。一個の精神の産物ではなく、複数の精神の集約されたものである場合がむしろ多い。
と言うのも、貴殿にかかわっている霊の多くは、さらに高い霊格の霊より届けられる影響力の通路にすぎないのである。そうするよりほかに影響力が届けられる手段がないのである。われわれはよく会議を開き討議を重ねる。したがって貴殿が受け取るものはわれわれの思想の合体したものである場合が多いことになる。
貴殿は霊的資質の開拓を心掛け、肉体的欲望を抑制し、俗世的環境を超脱することが肝要である。外面的な物的生活を内面的な霊的生活、より実在に近い生活への準備と見なすべきである。こちらの世界こそ実在であり、そちらの生活はその影である」
「とくに留意してほしいことは、正常な霊的能力と異常な霊的能力の違いである。霊が外部から霊媒に直接的に働きかけて入神させ、その霊を肉体から一時的に退去させ、代わって別の霊がその身体的組織を操作するというやり方は異常手段であり、たとえてみれば催眠術で患者を催眠状態に導くのと同じである。
正常な霊的能力というのは霊が潜在的資質を開発し、それが背後霊からのインスピレーションによって一段と高められ補強されるという形のものをいう。そこには霊を退去させて入神状態へ導く必要はなく、魂がその霊的才能を補強されて、背後霊団との協議に参加することさえ可能となる。
魂が受動性の中で教育され、思惟活動の中庸性、行為と意図の純粋性と誠意を養成される。霊的感覚を全開させてインスピレーションの鼓吹を受け入れる。かつては異常手段によって苦痛の中に伝えられたものが、今や、ごく自然な形で流れ込む。本来の霊力が阻害されることも阻止されることもなく、のびのびと成長し豊かになっていく」
– “インスピレーション的霊能”というのは具体的にはどういうものですか。
「思想を言語に置きかえずに直接的に受信する能力のことである。これは霊能者の存在全体が霊の支配に浸り切れるようになってはじめて可能な、最高の交霊手段である。この場合、霊との交信は精神的に(以心伝心で)行われ、言語は必要としない。もともと霊界の上層においては声も言語も存在しない。霊と霊とが直接的に認識し合い、その交信は完璧であり、聞き落とすということがない」
「貴殿は今われわれが脳へ伝達した概念を、いつも使用している言語で書き表している。これにはいつも4人の霊がかかわっており、周囲を外敵より遮断し、適切な調和状態を確保してくれている。手書きの手段を選んだのは個性の証(あかし)としての意味以外には格別の意味はない。用語は貴殿がふだん使用しているものであり、思想だけがわれわれのものである」
「われわれは今、至上の大使命にたずさわっているところである。神の計画にもとづく仕事であり、それを人間が挫折させるようなことになってはならぬ。これまでわれわれは段階的経過のうちに霊的真理を明かすべく努力してきた。われわれが神の使徒であることをイエスと同様に“しるし”(心霊現象)によって証さんとしてきた。が、同時に心霊現象は大事業の補助的手段にすぎず、したがって、それにあまり熱心になりすぎるのも、あるいはそれでもって事足れりとするのも間違いであることを警告してきた。
現象はただの殻にすぎない。物理的と呼んでいる客観的現象の演出は、霊的真理の啓示というわれわれの使命を裏書きするものとしてのみ存在価値がある。現段階においてはまだ必要性があり、またそれを必要とする者はつねに存在するであろう。それゆえにこそ折にふれてわれわれは驚異的現象を演出して見せてきたが、同時に、それにあまり興味をもちすぎぬように警告し、時として危険でさえあると述べてきた。総じて心霊現象には副次的な価値しかないものである」
「霊媒能力も過度に使用すると体力を消耗させる。この種の現象(物理的現象)は、あくまでも、真理を渇望する魂のためにわれわれが系統だて整理して伝えている通信を受け取るという仕事の補助的な価値しかもたない」
「物理的現象に実在性があるかに思うのは間違いである。往々にして最低の手段にすぎないことがあり、霊媒にとって危険でもあり、霊的交信のアルファベット(最も基本的なこと)を学ぶ者のためにのみ有効であるに過ぎない」
「心霊写真に写る霊姿は霊的素材(エクトプラズムの一種)の映像であって、霊そのものではない。言わば“作られたモデル”であって、確認してもらうために輪郭を整えたにすぎない。白い霧状の物質で包んであるのも同じ理由からである。霊的素材をまとった状態を維持するのは容易でないので、そうやって位置と形を保つのである」
– その霊的素材は物質化現象で見られる物質と同じものでしょうか。
「いや、同類のものではあるが、物質化の程度が異る。むしろ実験中に見られるライトに近く、濃度を濃くも薄くもできる性質のものである」
– そうやって確認されても、その場にいた証拠にはならないとおっしゃいましたが…。
「それは“存在”の絶対的証拠とはならないということである。人間は存在の概念を物質的に考える。すでに述べたように、霊は遠距離からの操作も可能である。そこで、存在の証拠とはならなくても、他界した知人が地上へ戻って来た“しるし”として、そういうものをこしらえるのである。
心霊写真は認知を目的として霊的素材でこしらえる映像である。その霊自身がこしらえる場合もあるし、その霊の指図で複数の霊(霊界の技術者)がこしらえる場合もあろう。ただし、邪霊に騙されていなければ、の話である。邪霊集団にはよくよく注意するよう改めて警告しておく。ウヨウヨしているし、これからますます暗躍が活発となろう。貴殿はそうした霊からの攻撃も覚悟しておく必要がある。われわれの使命が重大なものであるだけに、彼らの嫉(ねた)みを買いやすく、攻撃を受けることは避けられないのである。強く警戒を要請しておく」
「真理を求める者は、肉を霊の支配下に置けるようでなければいけない。真実の霊的知識に憧れる者は生活のすべての面において純粋で、心身ともに勇猛果敢で、真理の追求において一途(いちず)で、足れるを知る人間でなければならない。純粋さ、素朴さ、一途さ、そして進歩と真理への憧憬 – こうしたものが霊的知識の領域へ導いてくれるのである。これに反し、肉体的煩悩が霊性を抑圧している者、霊的知識を卑俗な目的のために悪用せんとする利己主義者 – この種の者は深刻な危険にさらされていると言える。
移り気な人間はとかく神秘的なものに引かれる。神秘のベールが単なる好奇心でもって突き通せるものと安直に考えるのである。見栄(みえ)が強く、能力も知識もないのに、あたかもあるように見せかける。それが他人のものを“のぞき見”する悪趣味を生む。この種の人間には(邪霊集団の手先にされる)危険がつきまとう。真摯な探求者には何ひとつ危険はない」
「根っからの悪人とはいえないまでも、自制心と規律に欠ける者、節度と調和を失える者は、邪霊による攻撃の格好の的にされやすい。その種の人間との付き合いは避けるがよい。同じく霊的であっても、未発達の有難からぬ指導霊の都合のよい手先にされていることがよくあるからである。不節制で、非理知的で、興奮しやすい性格の持ち主には用心するがよい」
「われわれ(神の使者)からのメッセージを求める者は、冷静さと誠実さと祈りの心、それに穏やかにして健全な身体的条件をもって臨んでほしい」
「地上の人間は純粋な霊的交信を得るために微妙な条件をよく理解する必要がある。十分な条件が整わない時は、われわれはただ、人間がみずから招いた危険から守るために周囲の警戒態勢を維持するのが精一杯ということになる。しかも人間はそのことに一向に気づかずにいる。邪霊の姿が見えぬからに過ぎない。それはあたかも無知な人間が自分の無分別な振舞によって周囲の者に及ぼしている迷惑を、その鈍感さゆえ少しも気にしないのと同じである。人間の目に映じない – ゆえに気がつかない。それだけのことである」
「霊媒能力の開発には恩恵と同時に危険も伴うものである。よほど強力な霊団による守護がないと、未発達霊による侵入の危険性がある。用心と祈りとが肝要である」
「霊媒としての仕事は(使命をもつ霊団によって)選ばれた者以外は勝手に始めてはならない。選ばれた者ならば霊団による守護がある。そうした霊媒にかぎって安全といえる。それも、誠実にして真摯な心構えで“神の仕事と栄光のために”行うとの認識があってはじめて言えることである。自己中心の考え、いかなる形にせよ“小我”にとらわれることから生じる邪心 – 見栄、自惚れ、野心等は霊性を汚す致命的な誘惑である」
「低級な霊媒現象につきまとう危険は実に深刻である。そのわけは、まず第1に、その種の現象はとかく目を見張らせるような驚きと物珍しさの対象としてのみ扱われ、また金もうけの手段とされやすいからであり、第2は、出席者が種々雑多な思いを抱いて集まり、そこから生じる雑多な雰囲気による調和の欠如が物質性の強い低級霊を引き寄せるのである。その種の霊も、高級霊の監督のもとに働くのであれば、むしろ高級霊よりも物的現象を扱うのはうまい。が、指導と監督の欠如は霊媒の堕落につながる。侵入した低級霊のおもちゃにされがちだからである。
貴殿の交霊会でも雰囲気がわれわれにとって厚い壁のように思われることがよくあり、突き抜けることができず、毒々しささえ覚える。呼吸ができないほどである。低級霊にとってはそれが有難く、地縛霊もまたそれをよろこぶ」
– なぜそうした霊の侵入を阻止してくれないのですか。
「人間は災いを勝手に招いておいて、それをわれわれが阻止してくれないことに文句を言う。
それを阻止するには交霊会の出席者みんなが心掛けと生活と動機を清潔にするほかはないのである。電気は何にでも流れるのではない。良導体だから流れるのである。物事は原因があって結果が生じる。霊も同じである。邪霊の働きかけを疑うのは貴殿の目にそれが見えぬからにすぎない。いずれその愚かさを知って驚く日も来よう。どれほど暗躍しているか、どういう悪影響を及ぼしているか、どういうことにまで及んでいるか、貴殿はまだ何も分かっていない」
「われわれは有るがままの事実を述べているのであって、人間が勝手にこうであるに違いないと想像していることには関知しない。人間を騙そうと企む霊は間違いなく存在する。そして、これ以後も存在し続けるであろう。貴殿がそれを無視してかかることは、貴殿に対する悪企みの温床にしかならない」
「目を見張らせるような現象ばかり見せて“珍しがり屋”をよろこばせている霊媒は、知的にも道徳的にも低級な霊のおもちゃにされている。貴殿とて、いつも同じ霊が通信しているものと思い込んではならない。名前は何とでも名のれるし、見せようと思えばどんな霊の姿でも見せられる。そうやって人間を騙してはよろこんでいるのである」
「われわれは今、危惧の念をもって将来を見つめている。物質にとらわれないようにとの説得がはたして人間に通じるか、われわれは疑問を抱いている。それが果たせないかぎり純粋な霊的真理の普及は覚束ないであろう。われわれが嘆かわしく思うのは、人間が霊を物質界のレベルへ引きずり下ろしてしまうことである。万一そういうことになれば、引きずり下ろされた霊は災いのタネとなりかねない。それよりは逆に人間の側が霊のレベルまで霊性を高めるよう努力すべきである。そうすれば霊の証と真理の両方を手にすることができるであろう。
われわれとしては、なるべくなら物的な交信手段のすべてを排除してしまいたいところである。この方法(自動書記)とてインスピレーション的交霊(144ぺージ参照)にくらべれば至ってお粗末なものである。
どうかわれわれのことを“同志”と心得てもらいたい。そして貴殿の三位一体の存在(霊・精神・肉体)が有する能力のうちの最高のものを使用できるよう協力してもらいたい。退屈きわまる物的現象を何度も何度もくり返すことはいい加減にしてほしい。そして、われわれに託された使命に恥じない威厳をもっていただきたいのである。
霊的秘密を求め、真理の道具として選ばれた者が攻撃の矢面(やおもて)に立たされることは、必然のしからしむるところである」
「能力を物的レベルから(精神的レベルへ)引き上げること、知覚力を鋭敏にすること、内部の霊的能力を開発すること、われわれの存在の身近さを(現象という形でなしに)ごく自然に感識できるようになること、入神という危険性のある状態にならずにわれわれを認識し交信できるようになること、以上のことを心掛けてくれれば、われわれとしては申し分ないところである。これが人間として可能な最高の生活形態の手始めである。
貴殿がそろそろ現象的なものから手を引いて霊能をより高度なものに発展させようと考えていることを、われわれはうれしく思っている。すでに述べたように、成長過程のひとつとして、われわれも一時的に貴殿を物的現象のために利用されるのを許さざるを得なかった。その段階をストップさせてもよい時機を見計らって、われわれは今度は貴殿の存在そのものである霊の本質について学ばせるために、他の霊との接触を許したのである」
(注) – 《解説》で概略が述べられていることであるが、モーゼスは当初は霊の存在に懐疑的だったが、多くの交霊会に出席するうちに次第に信じるようになり、そのうち自分の身辺でも各種の心霊現象が発生するようになって、ようやく確信を得るに至った。その間もずっと自動書記は続けられていたのであるが、背後霊団の身元について確信を得たのは、自動書記を綴ったノートが14冊になったころからだという(全部で24冊)。“他の霊との接触を許した”というのは、それまでプライベートな身近な話題ばかりだったのが、こんどは霊団の中でも高級な霊が入れ代わり立ち代わり名のって出て高等な内容の通信を送りはじめたことを言っている。☆
「われわれの教えの中に新たな要素が見られるようになったことに貴殿も気づいている。これまで貴殿を取り巻いていたドグマの垣根が少しずつ取り壊され、かつては理解できなかった真理が把握できるようになった。神聖であると思い込んでいたものの多くを捨て去ることができるようになった。かつては不可解な謎とされていたものについて考究するようになってくれた。
われわれは貴殿の教育をまず物的レベルから始めた。物質に勝る霊の威力を見せつけ、貴殿を通じて見えざる知的存在が働いているその証拠を見せることができた。その初期の段階では物理的現象で十分であった。が、その後われわれは徐々にわれわれ自身の身元について語り、貴殿の精神に新たな啓示の観方を吹き込んだ。それによって貴殿は神の真理が一民族、一個人、一地方、一時代に限られるものでないことを理解することができた。人間が勝手にこしらえたとは言え、いかなる宗教にも真理の芽が内蔵されていることを示したのであった。
われわれの指導はふたつの平行線をたどったのである。ひとつは物質的ないし物理的現象であり、われわれが使用する隠れた霊力の目に見える証拠である。もうひとつはわれわれが届けるメッセージの内容とその意義である。人間が肉体という物質に包まれている以上は、現象的証拠に関心が行きすぎるのもやむを得ないことである。だからこそわれわれは、それがあくまで副次的なもの – われわれの本来の使命の証にすぎないとの見解の理解を貴殿に要請してきたのである」
モーゼスの使命に備えての霊団側の指導過程が明かされた。(『霊訓』の22節でモーゼスは“私の全生涯にわたる霊的使命に関する長文の通信が送られて来たのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた”と述べながら、プライベートすぎるからという理由で公表していないが、これから引用される部分が多分それではないかと推察している – 訳者)
「“真理の太陽”の一条の光が貴殿の魂に射し込んだとき、死せる者 – と貴殿が思い込んでいた者 – も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、あるいはそれ以上に愚かなたわごとであることを悟った。神は、神を求める子等すべてを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの方を嘉納されることを学んだ。
また貴殿は、神はバイブル以外のいずこにおいても、また他のいかなる形でも人間に語りかけておられること – ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、すべての子等に等しく語りかけておられることを学んだ。神は信条よりも誠心誠意を嘉納されることを学んだ。貴殿の心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が甦ったことがある。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、あるいはイエスを通じて啓示されても、その価値に変わりはないとの理解ができていなかった。
その後、貴殿は例の教父たち(後注①)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学んだ。真相を理解し、それに背を向けた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのである。型にはまった神学に満足し、アタナシウス教義(後注②)の害毒によろこびさえ覚えていた段階から一段と向上したのである。不合理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てた。
貴殿にしてみれば、みずからの思索によってそうしたと言いたいところであろう。が、それは違うのである。われわれが手引きしてその結論を固めさせたのである。やがてわれわれは、もはや貴殿の知的ならびに宗教的水準に合わなくなった教会での牧師としての職から身を引かせるのが賢明と判断した。所期の目的を果たした場所より身を引かせ、地上における使命の次の段階のための準備へと歩を進めた。幾度かあった身体的病気も、それによって貴殿の気質を調節する効果を目的としたものであり、それは実はわれわれにとっては霊力のエンジンの調節であった。それによって貴殿の健全なるコントロールを維持して来たのである」
(注)① – キリスト教初期の教会において教理・戒律となる著作をした人たち。
(注)② – 初期の神学には神人同形同性説を唱えるアタナシウス派と、それを否定するアリウス派とがあり、325年のニケーア宗教会議で後者が異端とされた。☆
– 私のこれまでの人生はそのための準備だったわけですか。
「その通りである。われわれは唯一その目的のために計画し導いてきたのである。何とかして十全な準備を整えた霊媒を確保したかったのである。まず精神が鍛えられていなければならない。それから知識を蓄えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として進歩的精神を培うにふさわしいものでなければならなかった。
そのあげくに貴殿は、ある時われわれにとって最も接触しやすい人物(スピーア夫人。《解説》参照)によってスピリチュアリズムへの関心をもつように手引きされた。その折のわれわれによる働きかけは強烈であった。計画を積極的に進めて行った。それまでの教説よりはるかに進んだ神の福音を直接的に教えて行った。
いま貴殿が抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれほど真実に近いことであろう。ようやく理解してくれた豊かなる神の愛は、どこかの一土地の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じく無限にして無辺なのである。いかなる教理にも縛られることなく、人類はすべてが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神はいつの時代にも必要に応じてご自身を啓示してこられているのである。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、神のことばであるとまことしやかに喧伝されているものが往々にして人間の勝手な現像にすぎないこと、最高神が一個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間のたわごとであること、そのような迷信は知識が進化すれば、それに由来する教義、神を冒潰するような見解とともに棄て去られるものであるとの理解に到達した。
また自分以外に“救い主”は無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行することこそ唯一の幸福への道であることを学んだ。そして今まさに貴殿は、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での幸福と充足感について、われわれ霊団の者が教えるところの真理を理解しつつある。霊の訓えが貴殿にどれほどの影響を及ぼしたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにして貴殿が暗黒より神の真理の驚異的光明へと導かれたかを見きわめることである。
貴殿は、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形づくられるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っている。事実その通りなのである。人類全体が、ある意味で、霊界からの指導の受け皿なのである。とは言え、われわれといえども原因と結果の連鎖関係に干渉することだけは出来ない。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけには行かない。愚かしい好奇心に迎合することもしない。試練の場としての地上を変えるわけには行かないのである。
また、全知なる神が、隠しておくのが賢明と考えられたが故に謎とされているものを、われわれが勝手に教えるわけにも行かない。知識を押しつけることも出来ない。提供することしか許されないのである。これを喜んで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩のために備えさせることのみ許されるのである。
われわれの使命についてはすでに述べた。それは、実は、人間と神との交わりの復活にすぎない。かつての地上の精神的指導者が今なお霊界において人類の指導に心を砕いており、このたび貴殿を監視し守護し指導してきたのも、貴殿がそうした指導者のメッセージを受け入れ、それを広く人類一般に伝えてくれること、ひとえにそれを目標としてのことであった。貴殿をその仕事にふさわしい人物とすることが、これまでのわれわれの仕事であった。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となろう」
– では、これは宗教的活動なのでしょうか。
「まさにその通りである。われわれが人間にとってぜひとも必要な福音を説きに来た“神の真理の伝道者”であることを、ここに改めて主張する。その使命にとって大切なこと以外は、われわれは何の関心もない。その点によく留意してほしい。さし当たってわれわれは貴殿が個人的な知友との交霊のための霊媒とされようとしている傾向は阻止する。その種のことに身をさらすのは危険この上ない。霊覚の発達した者は、地上の者と交信したがっている無数の霊に取り憑かれやすいことを貴殿は忘れている。感受性が発達するほど地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増える。実に恐ろしいことであり、貴殿をそういう危険にさらすわけには行かない。低級霊のすることは貴殿もすでに知っているはずである。その種の行為に貴殿は実に過敏である。そうなった時はもはやわれわれも手出しができぬかも知れない」
「交霊会は霊の目には光の中枢として映るもので、はるか遠方からでも見え、地上の縁者と語りたがっている無数の霊が寄り集まって来る。その中には物質を操る能力においては強力なのがいる。事実その点においては高級霊よりは上手なのである。霊は進化するほど物的エネルギーが扱えなくなり、精神的感応力に訴えて知的な指導と指揮にあたることになる」
「出席者の側に霊性が欠けている交霊会に群がる霊が死後一向に進化しない低級霊であることは、まぎれもない事実である。いわゆる地縛霊であり、列席者がかもし出す雰囲気に誘われて訪れ、他愛もないことを述べて戸惑わせたり困乱させたりして面白がり、あるいは悪徳や罪悪へ誘い込もうとする。
「そもそも霊的交信なるものは何のために行うのか、その存在意義を明確にわきまえ、それが今いかに堕落した目的のために行われつつあるかを、よく考えてみることである。何の警戒態勢もないまま行われる交霊会に集まる霊に操られはじめたら最後、遅かれ早かれ列席者も同じレベルまで引き下げられてしまう。つまり精神的に、道徳的に、そして肉体的に、堕落の一途をたどることになる。今の貴殿はあたかも伝染病の隔離病棟に入りながら病原菌だけは移されまいと期待するのにも似ている。いつの日かきっと大それたことをしたことを思い知らされることであろう。
以前から吸血鬼が貴殿をねらっている(後注)。さらに今は吐き気を催すような悪霊がつきまとっている。それはぜひとも払い除けねばならない。それは余ほど骨の折れることであろうが、もしそれが出来なければ、いつかはその餌食となるしかない」
(注) – “吸血鬼”という種属が実在するわけではない。“悪魔”が、そう呼びたくなるほど邪悪な性質をもつに至った存在という意味であるのと同じで、これも用語上の問題である。スカルソープの『私の霊界紀行』(潮文社)に次のような体験が紹介されている。
「ある時いよいよ離脱の状態に入り、間違いなく離脱しているのであるが、どこかしら不安がつきまとい、霊界へ行かずに寝室の中を漂っていた。やがて階下の店へ下り、カウンターのうしろに立った。なぜか辺りの波長が低く陰気で、全体が薄ぼんやりとした感じがする。かつてそのような雰囲気を体験したことがなかったので、もしかして離脱の手順を間違えたのかと思っていた。
すると突然、邪悪で復讐心に満ちた念に襲われたような気がした。その実感は霊的身体をもって感じるしかない種類のもので、言葉ではとても表現できない。とにかく胸の悪くなるような、そして神経がマヒしそうな感じがした。その念が襲ってくる方角を察して目をやると、20ャードほど離れたところに毒々しい煤けたオレンジ色の明かりが見えた。その輝きの中に、ニタニタ笑っている霊、憎しみを顔いっぱいに表している霊が見える。そして、自分たちの存在が気づかれたと知ると、とっさに思念活動を転換した。
すると代わって私の目に入ったのは骸骨、朽ちはてた人骨、墓地などが幽霊や食屍鬼(しょくしき)、吸血鬼、そのほか地上的無知とフィクションの産物と入り乱れている光景だった。(中略)
愚かしい概念も、何世紀にもわたって受け継がれてくると、各国の人民の精神に深く刻み込まれていく。未知なるものへの恐怖心もその影響のひとつである。暗黒を好み、地上の適当な場所を選んで、そうした低級霊がたむろし、潜在的な心霊能力でもって地上の人間に影響を及ぼす。彼らが集団を形成した時の思念は実に強烈で、幽霊話に出てくるあらゆる効果を演出することができる。未知なるものへの恐怖心も手伝って、そうした現象は血も凍るような恐怖心を起こさせる」☆
純正な物理現象が行われている最中に明らかに“ごまかし”と分かる愚にもつかぬ行為が見られることを述べると –
「物理現象にたずさわる低級霊は、ある目的を何とか達成しようとして、“ごまかす”意図からではなしに、手っ取り早い手段を使用することがあるものである。とくに完全物質化現象は低級霊にしかできない現象のひとつであるが、霊側は別にごまかすつもりからではなしに霊媒の身体を利用することがある。それが1番手っ取り早いからであるが、貴殿にはそれがせっかくの純正な現象の中にもごまかしが混じっているかに思われるのである。
現象によっては、高尚な心をもたない存在、したがって道義心というものをもたない存在による演出である場合もあろう。貴殿の目にはあたかも躾(しつ)けの悪い動物の行為のように映るであろう。が、低級霊は大目に見てやらねばならない。そして、霊力の証拠以外のものは期待せずに、それをふるいに掛け、よく検討して意義あるものだけを選び出し、本ものと偽ものとが混じっていることに動揺しないことである。
そもそも現象的なものは、そうした形での証拠しか受け入れられない者のために必要なだけであって、われわれが神の使者であることの証拠ではなく、また、われわれの教訓の道徳的高尚さのしるしでもない。唯物的観念にとらわれている者のために用意された手段にすぎないのである。
それにはその演出にもっとも適切な霊が当てられる。その種の霊はきわめて低級であり地上臭が強い。地上生活を何の進歩もなく終わったか、向上の意志だけはあったが実践するまでに至らなかった者のいずれかである。後者がもっとも強力な働き手となってくれるが、残念ながら彼らには道徳的な見極めがつけられない。
だからといって貴殿が“たかが家具を移動させる程度のもの”と軽蔑的に述べている種類の現象に、人類の大先輩たる高級霊を差し向けるのは不条理であり、愚かしいことであろう。大なる霊は、かつて肉体に宿っていた時も地上の啓発のために神によって派遣されていたのであり、そのような霊を、物質中心の物の考え方しか出来ない者のために、証拠として演出してみせるだけの仕事に使用するわけにはいかない。それほどの霊になればもはや鈍重な物質への影響力は持ちあわせず、直接的に働きかけることは不可能である」
「物理現象は、それを得意とする霊が最高の証拠を見せてくれる交霊会だけに限定すべきである。また、その際、現象的なもの以上のものを求めてはいけない。それは、高級霊に現象的な証拠を求めてはならないのと同じである。物的なもの、物理的なものを求める時は、原則として霊的進歩は犠牲にされるものである。それゆえ、交霊会というものは等級別にすべきであり、純粋に物理的なものは、それを必要とする場(科学的研究のための実験会など)に任せることである。高級霊は物的雰囲気に支配された場には出たがらぬもので、したがって、そういう場で高等な知識を求めてはならない。あくまで物的証拠しか求めてはならない。反対に現象的なものを要求されない交霊会では大いに知識を求めるべきであり、高級霊との交わりによって、また彼らの教育と啓発の使命を理解することによって、霊的雰囲気をできるだけ高めることを目的とすべきである」
– 物理現象は止めてしまうべきでしょうか。
「進歩を求める以上はそうすることが絶対に必要である。現象的なものを担当する霊からは真実の知識も教訓も得られない。物理的なものと霊的なものを截然(さいぜん)と区別する必要性をここに強調しておきたい。自分を霊的なものへ高めて行くことを目標としてほしい。霊的なものを物的なものへ引きずり下ろすことになってはならない」
「病気の時、あるいは心配事のある時は、高級霊との交信を求めてはいけない。列席者の中にひとりでも病気の者や精神的な悩みを抱えている者がいると、それが障害となる。オーラの本来の機能が低下していて、それが影響して室内の物が歪んだ様相を呈する。調和性に富み、愛に満ちた心、純粋で清潔な思念、健康で元気な身体、いちずな真理探求心、こうしたものがわれわれにとって最高の助けとなる。
何よりも障害となるのは猜疑心からくる不信、怒りに満ちた感情、心身の不健康な状態であり、とりわけ、いかなるものでも信じようとせず、すべてを手を込んだごまかしであると決めてかかる、“のぞき見的猜疑心”である」
モーゼスが低級霊に悩まされていた時にこう注意された。
「交信のための条件が充分に整っていない時にしつこく交信を求めすぎるからそういうことになるのである。警告したように、それでは必ず災いが生じる。心身が衰弱している時は信頼のおける通信は得られぬものと思うがよい。
しばしの間われわれとの交信は中止されよ。ぜひ中止されよ。と申すのも、貴殿の交信能力をわれわれの方でしばし預ることにしたのである。今の状態でわれわれの交信を求め続ければ、その能力が敵対勢力に乗っ取られ、憑依される危険性があるからである。貴殿もその可能性をいくらか感じているであろう。ただ、その危険性がいかに深刻なものであるかが分かっていないようである。われわれがその危険から救っておこう。貴殿はそうとは気づかぬであろうが…」
交霊会に関する心得。
「満腹の食事をした直後、あるいは精神的ないし肉体的に疲れがひどい時、または、会の雰囲気が調和に欠ける時は開かないこと。
会に先立って言い争いのような会話、あるいは心理的にエネルギーを消耗するようなことをしないこと。精神は受身的に、そして身体はラクにする。
部屋の空気がムンムンする状態で開かないこと。会に先立って新鮮な空気を通しておくこと。
なるべくなら開会する前に3、4時間ほど明かりを遮断しておく。ドアを閉じる前に芳香性の樹脂をほんの少量だけ焚くとよい。
開会中は物珍しさから勝手な要求をしてはならない。霊側で用意している計画を台無しにするからである。真剣で用心深い精神的態度を維持すること。とくに、まじめで祈りに満ちた心で、より高い知識を求めて素直に耳を傾けること。つねに霊的なものを求め、俗世間的なものは求めぬこと。
霊媒は自分の身を隔離してオーラへの影響を断った方がよいことがある。キャビネットを設けるのもひとつの方法である」
音楽の効用について尋ねると –
「良い音楽であれば使用しても結構であるが、無くてはならぬというものではない。われわれにとっては音楽よりもむしろ静粛と集中心の方が大切である。どちらかといえば音楽は低次元の現象や未熟な霊にとって有効なだけであって、われわれにとっては、いつも聞かされている音楽(サウンド)は何の効用もない。逆効果である場合すらある」
ある日の交霊会のあと不快な臭気が漂ったので、そのことを尋ねると –
「会の霊的状態が悪かったためである。これで出席者の方に分かっていただけると思うが、会に先立っての会話は議論になったりケンカ腰になったり興奮させるようなものは遅けるべきである。高級な交霊を求めるためには隔離された状態と瞑想と断食と祈りとが不可欠であるとされるのはそうした理由による。昔から霊覚者や霊能者はそれに気づいていた。われわれも貴殿にしばしば身体をじっと静かに保つこと、精神を安らかに保つことの大切さを説いてきた。それを欠くと交霊会は危険である」
「交霊現象においてわれわれが使用するエネルギーは、身体機能が(受身的状態であっても)正常に働いている時にのみ利用できるのである。(激論などしたあと)脳が活発に働いていると、エネルギーは脳へ動員されてしまうが、受け身の状態になるとそれが神経組織の方へ流れるので、われわれはそれを利用する。消化器官が活動している時はエネルギーはそこへ集中されてしまう。突然のショックを受けると神経のバランスが崩れ、エネルギーはしばらく散逸状態となる。
といって、受け身の状態が無活動・無関心の状態になってしまうと、それもまた困る。目の前で進行中のことへの関心を持続させること(集中力)が磁気性オーラ(後注)の流れを軽快で規則正しいものにし、それが霊側と人間側との連絡を完璧なものにする。公開交霊会で入神演説をする場合も、聴衆が一心に聞き入ることが、そうした磁気的調和状態を保たせることになる。
心配の念も禁物である。これには侵食する性質があり、受身的状態とは相反するものだからである。
(注) – 人体から発するオーラには磁気性のものと電気性のものの2種類がある。具体的なことは『母と子の心霊教室』(潮文社)を参照されたい。☆
2つの埋葬地の中間に位置する家に滞在したことを咎められたモーゼスが「それがなぜいけないのですか」と尋ねたのに対してレクター Rector と名のる霊が –
「最近の貴殿(あなた)は墓地に漂う臭気に一段と影響を受けやすくなっているからです。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、貴殿ほどに発達してくると有害です」
– でも、すぐ近くではありません。
「2つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気には貴殿の身体に有害なものが充満しています。
肉体が腐敗していく時に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに引かれて地縛霊がうろつきます。どこからどうみても感心しないものであるが、霊的感受性が過敏な人間にとっては尚さら有害です」
– 墓地を嫌っておられるようですが、埋葬より火葬の方が良いというお考えですか。
「朽ちて行く肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が毒されてしまいます。もう少し進歩すれば、生きた人間に害になるようなことはしなくなるでしょう」
モーゼスの知人が霊にまんまと騙されたことについてインペレーターが –
「その知人に、ひとりで勝手に霊と交信することを中止させないといけません。このままでは邪霊集団の餌食にされてしまう。われわれ(組織的計画に基づいて働いている霊団の者)は所属するサークル以外のことには関与しません。それぞれのサークルに支配霊がおり、その指示のもとに行動している。われわれとしては低級霊との交霊は絶対に避けるべきであると述べるのみです。危険に満ちています。その危険にわざわざこちらから近づくことはあるまい。ウソとごまかしばかりしている集団に関わりあってはなりません」
– 最近他界したばかりの人が2、3年で第7界(現象界の最高界)まで到達したというケースをご存知ですか。(多分どこかの交霊会に出席したら得体の知れない霊が2、3年前に他界したモーゼスの知人の名を騙って、もう最高界まで到達した、と自慢げに言ったのであろう。日本でもよくあるケースである – 訳者)
「知りません。そういうことは有り得ぬことです。何もかもデタラメです。そのようなことを言う霊と関わり合ってはなりません」
– 霊能が悪霊によって邪悪な目的のために開発されるということは有り得ますか。
「ある。大いにある。地上との関わりにおいては高級霊よりも低級霊の方が強力であるという事実から考えても、それが分かるはずである。彼らはその霊力を善のためには使おうとはしません。逆に、いずれは霊媒にとって害になるようなことをして、われわれの本来の仕事に対する不信感を誘おうと企む。危険です。実に危険です」
「ベンジャミン・フランクリンが叩音(ラップ)現象による通信手段を発見していたこと、スエーデンボルグのおかげで霊側が地上との交信の可能性を知り、関心をもつようになったことは事実です。その当時は地上と霊界のすべての住民がいつでも交信ができるようになると信じられたのである。しかし人間側の無知と、霊側にすぐに著名人の名前を騙りたがる者が多すぎることで、その可能性が大巾に縮少されました。さらには、指導に当たる霊の間で、たとえば貴殿の知人のように、地上に戻ることを許すと忘れかけていた快楽を思い出させることになって必ずしも為にならないという認識が行きわたりました。そこでそういう霊は他の天体ないしは他の境涯へ連れて行かれており、したがって地上との交信には出ません」
– その発見はこちらより先にそちらの世界でなされていたわけですね。
「すべてこちら側でなされたことで、地上では何ひとつなされておりません。霊が発見して地上へ伝えられたものです。古代においてはラップのような手段は知られておりませんでした。これは現代特有のものです。古い時代においてはもっと物質性の少ない手段で交信が行われていたものです。珍しいケースを除いては物的手段を通す必要がなかったのです。霊と霊との直接の交信でした。が、人間が物質的になるにつれてその種の交信が減少し、ほんのわずかな人に限られることになりました。そこで信号による物的手段が発明されたのです」(この通信にはレクターとフランクリンの2人の署名がついている)
(注) – フランクリンの没年は1790年であるから、スピリチュアリズムの発端とされるフォックス家におけるラップ現象より半世紀以上も前のことになる。が、その頃から霊界では着々と準備をしていたことがこれで分かる。☆
インペレーターに代わる。
「地上で精神病者とされている者が実は低級霊の道具にされているに過ぎないことがよくある。その人間の身体を勝手に操作しようとしてそれがうまく行かず、支離滅裂な話をしたり辻褄の合わないことを言ったりすることをすることになる」
「交霊会の雰囲気が乱れる時は、その原因となる人間なり霊なりが必ずその場に存在していると考えるのは間違いである。とくに霊感の鋭い人間は単なる思念の放射だけで調子を狂わされることがよくある。われわれにとっては思念こそが強力なエンジンなのである。それをいろいろな形で道具として使用するのである。直感がわれわれの感覚であり、思念は道具である」
「霊が肉体から離れると思念の行使がずっとたやすくなる。こちらでは思念の投射が会話の通常の方法であり、地上との通信や連絡のあたりまえの手段である。人間のように身体をたずさえてその場におもむく必要はない。霊と霊との交信は時間と空間を超越して行われる。時間と空間は地上だけの条件である」
「高級霊がみずから出頭せずに下級霊を通じて働きかけることは、よくあることである。実によくあることで、支配霊として交霊の場にいなくても、指示だけが送られて、それに従って会が進行する。が、われわれのサークルにおいては、誰それの霊が来ていると述べた時には、実際にその場に来ていると思ってよい。同志を無防備のまま放置しておくようなことはしないと思われよ。が、それでもなお、思念の投射によって会の霊的雰囲気が乱されることがある。どうも思い通りに会が進行できない時は、それが原因であることが少なくない。そのような時は会の中止を命じる。
出席者が多い場合も雰囲気が乱れやすい。霊が出現したがるその情念の強さが原因となることもあるし、あたりに集結した邪霊集団の策謀である場合もある。
人間の大半がまだその事実を理解する水準に達していない。そのためにスピリチュアリズムは悪魔との交わりであるとか、特殊な精神的ないし身体的病気であるとか、幻覚であるとか、イカサマであるとかの見方をされることにもなるわけである。
それとは別に、霊的真理を正しく理解した少数の者による地道なサークルもある。高次元の交霊の崇高さの確証を手にして、わずか2人ないし3人が信念と誠実さをもって会合し、授かる言葉に耳を傾ける。その種のサークルにおいては精神は純粋にして真摯であり、崇高なる憧憬にあふれ、霊的思想に満ちあふれている。会に先立っての然るべき準備も整えられ、高級霊が訪れるための環境条件が揃っている。かようなサークルにおいては、成果もまたそれ相応に高尚なものとなる。
会の雰囲気が純朴な情愛に満ちたものであれば、先に他界した知人もしばしば訪れて身元を明かすことができよう。あるいは霊的親和性に富む(見知らぬ)霊が訪れて慰安と励ましのメッセージを語ることもある。さらには又、われわれ同様に、真理を希求する者のための啓発と向上を任務とする霊が訪れて、他の分野にも及ぶ知識を授けることもあろう。
こうしたサークルは、用意周到ささえ怠らなければ、人類の大いなる啓発のための貴重な機関となるところである。ところが悲しい哉、人間の使命感はもろいものである。支えとなるベきいちずな憧憬にやがて倦怠感が訪れる。俗世に心が奪われる。仕事に追いまくられる。取り越し苦労と悩みが入り込む。こうなると、われわれの目指すものにとってその霊媒はもはや無用のものとなる。あるいはサークルの同志の理解力いっぱいのところまで学んで、関心が衰えてくることもある。
こうした次第で、サークル活動はよほど稀有な条件が整っていないかぎり長続きしないものである。なかなか進歩が見られぬし、いろいろな障害が邪魔するからである」
「本来、霊の衣服は人間の目には映じないものであり、したがって霊姿というものは確認できぬものである。そこでわれわれは人間側が期待しているような形体を装うことになる。かりに霊が地上の友人に姿を見せたければ、たぶん地上時代によく着ていた衣服に似たものを着て出現するであろう。そして、確証として特徴ある身ぶり、衣装、あるいは表情をとくに誇張して注意を引くことであろう。そうやってせっかく確認してほしいと思って苦心したのに、友人が得心してくれなかった時の無念さと悲しみは一通りのものではない。
これが、あとに残した愛する人のためを思って戻ってくる霊につきまとう無念残念のひとつである。付き添って何とか面倒を見ようとするのであるが、どうしても通じない。そこでどこかの霊媒を見つけて、そこへ出席してくれるように誘導する。ようやく出席してくれたので、ここぞとばかりに苦心して生前の姿を見せ、死後の存続を証明し、変らぬ愛を示そうとする。が、悲しい哉、その誠意が空しく物笑いの対象とされ、自分の存在が認めてもらえなかった時の傷心の深さは測り知れないものがある。そして多分、霊界との交信の事実そのものが根拠のない愚かな幻想であると決めつけられる。首尾よく自分が確認してもらえて変らぬ愛を確かめることができた霊の測り知れないよろこびとは対照的に、それは霊にとっての測り知れない心の傷みとなる」
モーゼスが自分のサークルにおいてそうしたプライベートな交信が少ないことに残念を表明すると –
「貴殿にはそれとは別の使命があるのである。われわれとしてはそうしたプライベートな交信にサークルが利用されることは許すわけにはいかない。好奇心の満足、たとえ愛に発するものであっても私情の混じったことの満足のためには絶対に許すわけにはいかない。貴殿のサークルはその程度の目的のために利用してはならない。もっともっと高尚な目的をもったものなのである。貴殿に託された使命の崇高さについて十分な自覚が芽生えるまで待つほかはない。その時になればわれわれがプライベートなものを拒絶する理由が分かるであろう」
– 私の使命は主イエス直々(じきじき)のご計画によるものなのでしょうか。
「すでに述べた通り、このたびの大事業には2人の偉大なる霊、すなわちモーセとエリヤが密接にかかわっておられる。私が直接うけるインスピレーションは私の守護霊であるエリヤからのものである。私が地上にあった時も(紀元前5世紀)エリヤが私を鼓舞し、今は私を通じて貴殿に影響力を行使しておられる。が、彼をはじめ、われわれはすべて人間がイエスと呼ぶ崇高なる霊の配下にある」
– イエスにお会いになったことがありますか。それからモーセとエリヤにも。
「いかにも。私の守護霊たるエリヤと偉大なる霊モーセとは早くからお会いしている。会話も交わし、同時に指示を仰いできている。
が、イエスと直接の接触にあずかったのは、このたびの使命とのかかわりが出来てからのことである。遠大なる大事業の計画を目的とした高級神霊の大集会へのお召しにあずかった時にはじめてお姿を拝した。
私が知るかぎり、主がふたたび試練の現象界まで降りて来られたのはごく最近のことである。またその大集会で拝見した高級神霊もやはり最近になって降りて来られた。多分、主がこのたびと同じ目的をもって地上へ降誕されて以来、久しぶりのことであろう」
– どの集会のことでしょうか。確かあなたはイエスは1度も戻ってきていないとおっしゃいましたが…
「大集会というのは、貴殿も知っての通り、私がサークルを留守にしていた時に開かれたものである。それから、私は自分が定かでないことについて断定的な言い方をしたことはないつもりである。イエスは人間に直接働きかけられる境涯の彼方(超越界)へ行っておられたが、地上時代に肉体に宿って着手された大事業を一段と進める必要があり、ふたたび現象界へと帰ってこられたのである」
– 私と同じようにその大事業のために準備された者は他にもいるのでしょうか。あなたが関わっておられる霊媒は他にもいますか。
「私が直接かかわっている人間は貴殿以外にはいない。が、使命を担った霊の指導によって着々と研さんを重ねつつある者は大勢いる。これまでにわれわれは貴殿の中に高級界と地上界との間に開かれた通路として最も貴重な要素を開発することに成功している。貴殿の精神が冷静になるにつれて他の多くの霊が訪れるようになるであろう。そして貴殿の疑念も晴れることであろう。現在の精神状態ではまだ他の霊には近づくことができぬ。
それはともかくとして、霊界ではさまざまな知識を人類に授けるための適切な人材を見出すべく、今後とも努力するであろう」
マグナス Magnus と名のる霊からの通信。
「教育と養成を任務とする霊は、それを授かる人間と霊的な意味において一体です。教師の霊的知識源から生徒が吸収し、そこで一体となる。これが霊と霊との融合です」
– その関係は死後も続くのですか。
「続きます。それは永遠の相互依存の法則です。霊の生活においては孤立という観念は存在しません。それは地上的錯誤です。霊は融和と共存の中で生活しており、互いに依存し合っております。教えた者と教えられた者とは親和関係で結ばれています」
モーゼスが“キリストの再臨”について尋ねたのに対してインペレーターが –
「聖書の記録の言いまわしにはあまりこだわらぬがよい。曖昧で、しかも誤って記されている場合が多いからである。つまりイエスが語った言葉の真意を理解できぬ者が、いい加減な印象を記録した。それがさらに拙劣な用語で(英語その他に)翻訳され、結局は間違った概念を伝えることになった。こうした制約を受けながらも、主イエスが地上時代に語ったことの中には、今まさに成就されつつあることが、とくに新たなる啓示について、概略ながら多く存在する。地上にありながら死後ふたたび地上世界へ帰ってくることについて語っていたのである」
– では帰ってくるというのは純粋に霊的な意味なのでしょうか。
「その通りである。今まさに主イエスが(新しい啓示をたずさえて)地上へ帰って来つつあるのである。それを、中継の霊団を通じて行っておられる。必要とあればみずから影響力を人間に行使されることもあるかも知れぬ。が、肉体に宿って再生されることは絶対にない。今はまさしく霊の時代であり、影響力も霊的である。その影響力は主が地上に降りられた時代のそれと類似している。
“変容の丘”(マタイ17ほか)において主は、影響力の通路となっていた2人の霊すなわちモーセとエリヤと“現実に”語り合った。その2人はこのたびのスピリチュアリズムおよび歴史上のいくつかの霊的活動に深く関わってきており、今なお関わっておられる。主イエスの指示のもとにこのたびの活動を鼓舞し指揮しておられる。これで、われわれがスピリチュアリズムの活動が宗教的なものであると述べた理由が分かるであろう」
レクター Rector、ドクター Doctor、プルーデンス Prudens の3人の署名のもとに次のように綴られた。
「ハルマゲドンと呼ばれている地上圏での善と悪との黙示的な戦いは今まさに進行中です。その真っ只中にキリストが立っておられる。われわれがこうして新しい霊的真理を告げに戻って来たのは、そのキリストのお出ましに備えるためです。と言っても、甦れるキリストが肉体をまとって出現なさるのではなく、霊的影響力としてのキリストの再来のための下準備です。
そこのところをよく理解してほしい。いま地上界に再生しつつあるのは、かの歴史上のイエスその人ではなく、“キリストの原理”なのである。これまでの物的概念を棄て去り、その黙示的な真理を学んでほしい。
地上の人間は“キリストの再臨”をイエスがもう1度肉体に宿って地上へ出現するかのごとく考えていますが、本当の意味はイエスが(2千年前に)地上へ降りて範を垂れた“キリストの原理”の甦りであり復興です。
イエスが身をもって範を垂れた原理が地上の人間に顕現されたのは決してそのベッレヘムに誕生した時が最初ではない。いつの時代にも、又いつの民族においても、神は御身を人間に顕現しておられる。救世主(メシヤ)出現の概念が生まれ、具体化し、さらにそこへその救済の方法として最後の審判という誤った観念が生まれた。今に至るも、これは変わっておりません。
現代のキリスト教徒も同じ信仰を抱いています。言いかえれば、キリストの再臨について同じ誤解をしています。その昔ユダヤ人はソロモンが再臨して、かつての栄耀栄華を取り戻してくれることを待ち望みました。現代のキリスト教徒は主イエスが天使の大群を従えて天空に現れ、思い通りの世界平和と栄光の治世を開始してくれるものと期待しています。そして又、そのユダヤ人がまさか身分卑しき大工の息子が彼らの待ち望むメシヤであることが信じられなかったごとく、現代の聖職者たちには今さかんに喧伝されている霊的真理(スピリチュアリズム)がその甦れるキリストからの福音であることが、どうしても信じ切れずにいます。
新しい霊的摂理が今まさに人類に浸透しつつあります。これぞまさしく“助け主”の治世であり、人間に理解しうる最高の真理の発展です。それは地上的天国の設立ではなく、見えざる霊的王国の設立です。
確かにわれわれが説くキリストの再臨も、キリス教徒が信じている通り、キリストが帰ってくるということにおいては同じです。ただ霊的な影響力として帰ってくるということであり、一方、キリスト教徒の考えは地上的であり物質的であるということです」
– イエスはこれまでのところその姿を見せておりませんが、これからそれが有り得ると私は考えるのですが…
「かつて地上に降誕したあのイエスと呼ばれた人物はもう2度と現れません。地上に誕生できる境涯の彼方へ行かれたからです」
– 影響力として帰ってくるのでしょうか。
「その通りです。高級神霊界からの霊的影響力として帰ってこられ、それが一時的に貴殿に集中している。それを、貴殿と接触できるわれわれが行っているところです。いま貴殿を取り巻いているさまざまな喧騒は真理の新たな発展に付随して起きる衝突の徴候(しるし)です。真理の誕生に苦痛と苦悩は付きものです」
「ささやかながらも地上に顕現している霊力の影響は、霊界において着々と進めらている霊的作業の反映にすぎません。オペレーションセンターは霊界にあります。われわれの努力は貴殿の周囲に調和と平安のための霊的条件を整えることに集中しているところです。霊の世界こそが原因の世界です。貴殿を嘆かせている喧騒は、霊界で巻き起こっている激しい闘争の微々たる反映にすぎません。
われわれは今、敵対勢力によって大々的に攻勢が仕掛けられる時代を通過しつつあります。その影響力がわれわれを、そして貴殿を悩ませ障害となっています。偉大にして崇高なる思想が霊の世界から発せられるごとく、地上に邪悪と混乱を巻き起こす影響力もまた霊の世界から発せられる。すべて霊的なものです」
「さきにわれわれは比喩の形で霊が7つの現象界を向上して行く話をしました。そうした過程の中でみずからを救済し、地上で蓄積した汚(けが)れを取り除くか、あるいは来るべき超越界での生活に備えて叡知を身につけるかのいずれかに努力する。真の実在界、無限と絶対の超越界には完全なる安寧が存在します。その世界の清純無垢なる霊は、その安寧の幾ばくかをもたらすための余ほどの必要性が生じぬかぎり、その境界線を越えて混沌たる現象界へと降りてくることは、まず有りません。絶無というわけではありません。地球の歴史における霊的大変動期に降臨してその深遠なる叡智により人心を鼓舞した霊は、幾例かあるにはある。しかし極めて稀です。貴殿としては今は、同じ神の火花が貴殿の魂にも宿っており、したがって無限の可能性が貴殿の掌中にあることを知るだけで十分です」
次の質問に答えているのはインペレーターである。
– 地上界のすぐ下の界にはどういう霊が住んでいるのでしょうか。
「人間界より一段低い界層には動物性が過度に発達してそれが霊性を圧倒してしまった者が存在する。彼らはもはや肉欲以外には何も求めぬ者たちであり、その動物的性向によって他人を傷つけた者たちであり、今なおかつての歓楽街をうろついている。食い道楽、ギャンブル狂、守銭奴もこの界にやってくる。
もう一段低い界にはさらに肉欲によって霊性が汚され、さらに徹底的に魂を見失える者たちが住んでいる。その界の各地で、その種の霊の救済を任務とする霊の監視下で、みずからを呪(のろ)い、肉欲によって生活を破壊せる飲んだくれや忌まわしき好色家が生活している。進歩を望まぬが故にいつまでもそこから向上しないのであるが、みずから望めば、待機せる霊の祈りによって更生の道へ導かれる。堕落の道へ深く沈み行く者を更生させ救済するには祈りしかないのである」
– 私たちは、死後、みずからの罪と過ちを償うことになるのでしょうか。
「いかにもその通りである。罪が償わされずに終わることは絶対にない。いかに怠惰な過ちも見逃されることはない。魂そのものによって、いずれは償わされる。すなわち過ちの所産が可能なかぎり拭い去られるということである。友よ、故意に犯せる罪は苦き涙という代償を支払わされることになることを心されよ。過ちの種を蒔けばいかに恐ろしき報いを刈り取ることになるか、貴殿は知らぬ。何としてもみずから刈り取らねばならぬのである。悲しみと恥辱の中に償わねばならぬのである」
モーゼスが当時さかんだったキリスト教のリバイバル運動の催しに出席したあと調子がおかしくなったことを述べると –
「地上の霊的浄化のために今さまざまな種類の霊が働いている。そしてその中には粗野で未熟なのもいる。さまざまな種類の人間に働きかけるためにさまざまな霊が利用されているのである。人間界の今の沈滞状況よりは、いかなる形にせよ、霊的騒乱の方がましである。未熟霊は多くの点で誤りを犯しがちである。が、それは構わぬ。大衆を霊的存在へ関心を向けさせてくれればそれでよい。死にも似た惰眠をむさばっている者を揺り起こして目覚めさせることは結構なことであり、そのためにいかなる手段が用いられようと構わぬ。
ロンドンの死せるがごとき大衆を揺り起こすために用いられている手段について、あまり神経質にならぬことである。貴殿を相手にしているわけではない。それを必要とする者のためであるから、いちいち構わぬがよい。それも、今地上にさまざまな形で広まりつつある霊的影響力の大波の1つなのである。全体としてみれば行き過ぎもあろう。が、それなりの効用もある。洗練された者にはショッキングに思えるかも知れぬが、それによって目を覚まされ、破滅より救われる者もいる。貴殿にはショッキングであろうが、われわれはよろこばしく思っている」
病床にあるアイルランドの知人(女性)を何とかしてあげられないものかと尋ねると –
「貴殿から得られる霊力はある一定の距離を超えると利用できなくなる。また、その霊力を受けつけない雰囲気を生じさせている障害を取り除いてやることも、われわれには不可能である。
が、貴殿の真摯なる祈りが大きな力となるであろう。と言って、願い通りになるという意味ではない。病床にある身体を善良なる天使が良きに計らう上での力となるという意味である。そう願って祈るがよい。それが病においても死に際しても強力な援助となろう。すなわち病においては、人間的看護が無力となった時に霊界の専門家が手を施す時の力となろう。患者とのつながりが出来さえすれば、霊はその強力な治癒力によって病状を和らげ、体力回復のための生命力を注ぐことになる。また、死して霊界へ赴くことになれば、尚のこと祈りの力を頼りとして、その霊を受け入れる霊団を差し向け、慣れぬ新しい環境の中での生活を指導してやることが望ましい。
いずれにせよ、霊界側からの援助を可能にしてくれる人間側の真摯にして積極的な祈念を怠らないでほしい。祈りの実際の威力を知れば、人間はもっともっとそれを活用することになるのであろうが…。人間が勝手にこうあってほしいと望む通りになると言うのではない。待機せる霊が悲しみを慰め、煩悩を和らげ、人間が想像するよりはるかに豊かな恵みをもたらす、その機縁となるということである」
– 人間は祈りの効用をほとんど知らずにいます。そのため、確かに、祈ることを怠りがちです。
「さよう。人間のまわりには善悪さまざまな霊が存在し、未熟な心が未熟な霊を呼び寄せるように、祈りに満ちた心が恵みの霊の援助を引き寄せるものであることを認識してくれれば有難いのであるが…」
その後その女性が他界したので、霊界での様子を尋ねると –
「彼女は今、徐々に他界直後のもうろうとした意識状態から回復しつつあるところである。現在の脆弱な状態はここ当分続き、霊的強健さを身につけるまでは、その状態から抜け出られないであろう。養護を必要とする者のために設けられた施設で専門の霊によって看護されているところである。若死にした者、あるいは乱暴な最期を遂げた者の多くは、それまで生活した地上に近いところに特別に設けられた場所で専門の霊の看護を受けることになる。
そこは中間境で、そこで休息しながら霊的機能の発達をはかり、不足しているものを補う。どの天体にもそうした境涯があり、弱っている者、苦しんでいる者、霊的に飢えている者、若くして地上での生命を断たれた者が集められ、専門霊によって養育と看護とを受ける。向上する準備が整うまでそこに留まらねばならない。整った時点でようやく本来の霊格に合った境涯へと赴き、そこで本格的な向上進化のための生活が始まり、次第に発展して行くことになる。嵐の航路のあとの休息の港である。その境涯にいる者は地上との交信は許されない。言うなれば“霊の庭”にかくまわれているようなものであり、地上の粗野な空気にさらされることは許されないのである。そちらより交霊を求めることは止めよ。その思いは本人にとって障害にしかならぬ。それよりも、守護天使のもとでの順調な回復を祈ってあげることである」
同じく女性の知人で、やはり最近他界したばかりの人について尋ねると –
「彼女も、霊界の生活に何の備えもないままやって来る人間の1人であった。彼女の背後霊が申すには、彼女の地上生活は調和と安らぎと喜びに満ちた霊界生活への準備としては気の毒なものだったとのことである。喜びの乏しい、調和に欠ける人生はど霊性を鈍らせ、餓えさせ、憧憬の念を殺ぐものである。
真の地上生活は調和と愛と進歩の生活である。愛に欠ける生活においては霊は拘束され、締めつけられ、そして傷ついていく。地上生活において調和と進歩を得ずに終わった霊が、自分と同じような境遇で苦しむ者のために地上へ戻り世話をするということはよくあることである。
われわれが思うに、彼女もいずれは戻ってきて、霊性の発育を妨げられて冷えびえとした生活を余儀なくされている地上の魂に愛の温(ぬく)もりを授ける仕事にたずさわることになろう。慰め、元気づけ、天上的な安らぎを注ぐのである。いつの日か彼女は愛の天使となっていくことであろう」
霊と物質について –
「霊こそ実在である。物質はその霊の数ある現象形態の1つにすぎない。人間は霊というものを極めて実体の乏しい、蒸気のような無形の存在と考えている。“モヤ”がそれをいちばんよく象徴していよう。が、霊は実体も形状もある実在なのである。したがって霊界は実在の世界であり、実体があり、それが物質の内側にも外側にも存在している。その霊の形態もさまざまであり、蒸気のような無形のものから密度の高いものまである。
霊界は地球全体にくまなく広がっており、全存在に生命を吹き込み、動物・植物・野菜に至るまで存在を与えている。人間が実体があるかに思っているものも、その霊という実在の影にすぎない。霊とは生命であり、実在であり、永遠不滅の根源的要素なのである。
この霊が人間に宿っているように、すべての物質に宿って生命を賦与している。天体をそれぞれの位置を保たせ軌道上を回転させているエネルギーもすべて霊的なものである。光といい、熱といい、磁気といい、電気というも、たったひとつの霊的エネルギーの外皮にすぎない。そのすべてに霊が内在しているのである。物的成分そのものには形態を整える力はない。物質の根源的特質のひとつは惰性(みずからは活動しないという性質)である。石切場の大理石の中から人間の形体をした彫像がひとりで転がり出てくることはあるまい。
まず霊による働きかけがあって物質が動くのである。法則というものも、このエネルギーの表現にすぎない。宇宙のいずこを見ても、大は天空を回転する天体から小はシダの植物に至るまで、霊の存在のあかしでないものはない。それがすべてを動かしており、霊妙な化学的過程によって露、雨、空気、光等々から甘美な分泌液と芳香とを放散させ、かくして自然界を美しく飾っている – それを人間は慣れきっていて不思議と思わぬだけである。
“自然”とは何か、どういう仕組みになっているのか、人間は何も知らずにいる。人間は勝手なものを想像し、それを“自然”と呼び、一定の作用をいくつか発見してそれを“定理”と呼び、それで事足れりとしている。が、裏を返せば、それは人間の無知の証明にはかならない。
自然とは霊であり、自然法則も霊的である。あらゆる物的形態は – 植物も動物も鉱物も – 霊を宿す仮面である。人間も本来が霊であり、霊的なものが肉体を支えているのである。激しい新陳代謝をくり返す細胞の固まりも、霊によって組成を保ち活力を与えられている。霊が引っ込めば腐敗の一途をたどり、他の組成へと変わって行く。霊こそ人間であり、逆の言い方をすれば、人間は霊であるからこそ自然界の全創造物に君臨できるのである。人間は他の創造物が所有していない霊的資質を賦与されているが故に、最も進化しているのである」
– すべてが一丸となって秩序ある発達過程をたどりつつあるように思えます。
「無論である!地球上の物質は、最も単純な組織である結晶から人間に至るまでの、無数の段階をたどっている。岩石や土から植物が成育する。つまり植物的生命が鉱物と入れ代わる。それに感性が加わり神経組織が与えられて、別の高等な有機的生命が生まれ、植虫類(イソギンチャク・サンゴ類)から人間へと進化してきた。一段また一段と進化し、その創造活動の頂点が人間である。人間は神性を宿しているが故に、程度において質においても、他の創造物とは異なる存在である」
「霊体こそ真の個体である。地上という一時期を、刻々と変化する物的原子をまとって生活するが、それが不要となった時にも霊体のアイデンティティは絶対に不変である。
われわれの目には霊体は鮮明で何のごまかしも利かない。われわれの視野も行動も地上に存在する物体によって妨げられることはない。人間にとって固いと思えるものも、われわれにとってはスケスケである。地上という一時期を霊体がまとう物的原子は個的存在の本質的要素ではない。地上期間においてすら永続性はなく刻一刻と変化しているが、人間にはそれが知覚できない。われわれの視覚は別である。地上的存在特有の物的原子は何の障害にもならない。われわれに見えるのは霊体である」
– 霊体は肉体から分離して別個の生活を送ることがあるのでしょうか。たとえば睡眠中などに…
「それはある。霊体は独立した存在である。そして肉体が滅びると異なった環境条件のもとで生活することになる。一般的に言えば、肉体の睡眠中は霊体も休息しているが、眠るということはしない。その間の体験を肉体に戻った時に回想しようとして、それがうまく行かなくて混乱したものが夢である。霊には霊体で見たものすべてが回想できず、精神に印象づけられたものが五感による印象(潜在意識)とごっちゃになり、そこに辻褄の合わない夢ができ上がる。
その夢の中には霊界での体験を正確に思い出しているものもあるし、予告や警告である場合もある。肉体に宿っている間は霊感が鈍るので、守護霊が睡眠中を利用して警告を与えることがあるのである。霊体に語りかけておいて、それが肉体に戻った時に(潜在意識の中の)他の印象と混同せぬよう保護し、その記憶を鮮明に保つ。こうした場合は正確に思い出せるし、実際によくあることである。が、普通はおぼろげにしか思い出さないものである。
珍しいケースとして、霊体が特殊な才能を与えられ、高級界へ案内されて未来の住処を見せてもらったり、使命を知らされたりすることがある。深遠な叡智を吸飲して地上へ持ち帰ることもある」
(注) – この項で述べていることは3次元の脳を焦点とした意識と、時空を超越したいわゆる異次元世界での霊的意識との関連性に言及した重大なもので、死後存続の事実の得心は煎じつめればその関連性の理解に尽きると言ってよい。コペルニクスが地動説を思いついたきっかけは、自分の位置を頭の中で太陽へ持って行き、そこから地球を眺めたことにあるという。死後存続も自分を霊の世界へ持って行き、人間は本来が霊的存在であって、それが一時的に物的原子をまとっているにすぎないと考えれば、あっさりと片づく。オリバー・ロッジの『幻の壁』の中に次のような一節がある。“われわれはよく肉体の死後も生き続けるのだろうかという疑問を抱く。(中略)私に言わせればこうした疑問は実に本末を転倒した思考から出る疑問にすぎない。と言うのは、こうして物質をまとってこの世にいること自体が驚異なのである。これは実に特殊な現象というべきである。私はよく、死は冒険であるが楽しく待ち望むべき冒険である、と言ってきた。そうに違いないのであるが、実は真に冒険というべきはこの地上生活の方なのである。地上世界というのは実に奇妙で珍しい現象である。こうして肉体をまとって地上へ出て来たこと自体が奇跡なのだ。失敗する者がいくらもいるのである”
インペレーターは幽体離脱という用語を用いていないが、それは当時まだ心霊学がそこまで発達していなかったということである。末尾で“珍しいケースとして”と述べているが、将来はこれが人類にとって“ごく当りまえのこと”となる時代が来るに違いない。☆
死後の霊体の変化について –
「地球圏を離れたあと霊体は浄化の過程に入り、その過程の中で死に似た変化をいくつも体験する。肉体を捨てた霊体が形体は同じでも肉体より洗練されているごとく、魂が向上すると、それまでの霊体を捨てて、さらに洗練された霊体に宿ることになる。かくして洗練の過程を続けて、ついには超越界へ突入するに相応しい段階に至る。そこに至るまでには霊的に合わなくなった身体を捨てて新しい身体をまとうことの繰り返しである。そのたびに死に似た変化が伴う。
肉体から離れるとすぐ霊は新しい環境から必要な要素を摂取して、肉体とそっくりの霊的身体をまとう。ある意味では霊はつねに物的身体に宿っていると言っても間違ってはいない。その物的要素が人間の五感に感応しない性質であるというだけである。人間にとって物質が実感があるように、われわれにとってはそれを実感をもって感識できるのである」
ドクターに代る。
「真の自分である霊体は、地上生活という一時期を、絶え間なく変化する物的原子をまとって過ごします。地上教育の課程を終了すると物的原子は捨て去られます。その時がいわゆる“復活”です。甦り – 物質に閉じ込められていた個性の蘇生、つぼみの発芽、幽閉され拘束状態にあった霊の解放 – それも永い永い眠りの後の遠い未来の話ではなく、即時・即刻に行われるのです。
キリスト教徒が、見当違いとはいえ、毎年イースター(復活祭)を祝うことには不滅の真理が内在しております。ただ人間は、愚かにも、いったん朽ち果てた肉体がふたたび修復され、蘇生されて、完全な元通りの身体になると想像し、そうした説をでっち上げる中で肝心な真理を見落してしまいました。部分的にはそれに近いものを含んではいますが…
肉体はいったん自然界へ戻ってしまったら最後、2度と元通りにはなりません。消散してしまえばそれ切りであり、いずれ将来は別の物的形態の構成要素となる。キリスト教で説くような復活はありません。人間にはもう一つの身体があるのです。霊的身体です。それを人間は忘れています。本当の自分であるその霊体が地上から蘇生して、本来の住処へと運ばれるのです」
– キリストの場合はどう解釈したらよいのでしょうか。
「死後に見せたあの姿も霊体だったのです。それを肉眼で見える程度まで物質化して見せたのです。肉体は絶対に蘇生しておりません」
死後の向上・進化についての質問にインペレーターが答える。
「宇宙の全存在が着実に進化しているか、さもなくば退化しているかのいずれかであることは貴殿も理解していよう。地上に生をうけた霊は、肉体に宿ってのその間の行為によって、死後、然るべき境涯に落ち着く。すなわち善なる行為をしたか邪なる行為をしたかによって、高い界へ行く者もいれば低い界へ行く者もおり、又、同じ界でも高い境涯に置かれる者もいれば低い境涯に置かれる者もいる。
さて、落ち着くべき所に落ち着くと、教育を担当する指導霊によって地上時代の誤った概念が一掃され、犯した罪悪についての内省を迫られ、それがもたらした結果に対して責任を取りたいという欲求をもつように導かれていく。これが進化の第一歩となる。そして浄化はさらに続き、より高い境涯へ進むと、そこでまた新たな浄化作用が行われ、こうした過程が続けられていくうちに、ついに“浄化”の境涯を通過して、こんどは“教育”の境涯へと入って行く。そこで一段と進んだ知識が授けられる。魂は一段と洗練され、ますます物的要素(後注)を振り落とし、さらに高度な純化の過程をへることになる。この過程は物的要素が完全に無くなるまで続けられる。そして、いよいよ超越界、“無”の境涯へと突入して行く。そこでわれわれの視界から消える」
(注) – ここでいう“物”は地上の物質のことではなく、霊が使用する形態のことである。霊が“有”の現象界に存在をもつためには何らかの形態を必要とする。それが無くなれば霊のみの“絶対無”の世界の存在となる。☆
– それから先どうなるかはご存知ないわけですね?個的存在を失うのでしょうか。
「それはわれわれにも分からぬ。当然のことながら人間が個的存在という用語から連想するものを多く失うことであろう。一個の人物から連想する形態を失うことであろう。霊はそれに比例して向上し、いよいよ光明と叡智の大根源へ近づけるだけの霊性を身につけるであろう。そして、おそらくは、個的存在がその大根源に融合して行くことであろう。
われわれに分かるのは、神へ向けての絶え間ない進化が霊性をいやが上にも神の霊性に近づけ、最後は文字どおり“神の子”となる – 神のごとく純粋、神のごとく無垢 – さよう、神の無限なる完全性にある程度まで匹敵する完全性を身につける、ということだけである。これがわれわれの栄光の未来像である」
– 生命の究極の目的が大根源への没入であるとすれば、それまでの努力は空しいものに思えるのですが…
「生命!いったい貴殿は、生命についてどれほど知ったつもりでいるのであろうか。その真実の意味が貴殿の中では、哀れなほど短い地上的生命にとらわれてケチ臭きものとなり果てている。超越界に至るまでの数々の境涯における生命の栄光ですら言語に絶するものを、生命の大根源における栄光が貴殿にどれほど知れようぞ!
すべての束縛から解放された霊が、神々しさと崇高さに満ちた霊との交わりの中で生活する高き境涯での生命活動が貴殿にどこまで想像できよう。ましてや、さらに荘厳さを増した超越界の生命活動、何もかも地上と正反対の世界、一切の形態による束縛から超脱した世界、真実の叡智の大道が無限に延び、“自己”その他、とらわれるもの一切が永遠に無くなった世界、個人的存在、人物像、その他“個”の観念のまとわりつくものすべてが永遠に消滅した世界、そうした世界がどうして今の貴殿に想像できよう。
そして、もしも有限なる精神には理解できぬ無限の時がついに尽き果てるとき – 有限なる叡智の泉が空となり、霊が感覚の世界をすべて体験しつくし、努力と苦悩を通して完全無欠となり、神の栄光の相続権を手中にし、完成せる霊のみの住処にて神と存在を共にする資格を得るに至る – その没我の時がかりに貴殿に寂滅と思えようと、個的存在の喪失と思えようと、あるいは永遠なる真理の太陽への没入と思えようと、それが今の貴殿にとって何の意味があろう。せいぜい、その真理の太陽に目を眩まされぬよう、目を伏せるがよい。
信じられよ – 果てしなく続く生命の旅路において獲得せる叡智は、それまでの努力を償いて余りあるものであることを」
インペレーターの祈り
永遠なる父よ!至高にして全能なる神よ!待ちこがれる子等に愛の心を注ぎたまえ。御身と、御身の直属の天使と一体たらしめんがためでございます。
真理の神よ!御身のものであり御身より出でる真理を求めて歩む子等が、最後まで挫けることのなきよう、気概を与えたまえ。
不変にして永遠なる神よ!子等に熱誠の精神を授けたまえ。不撓不屈の目的意識をもって永遠の光明の泉たる御身へ向けて向上せしめんがためでございます。
至純なる霊よ!何とぞ子等に汚れなき聖純さを保たせたまえ。思念を浄化し、動機を清め、願望を高めさせたまえ。
叡智の霊よ!子等の叡智と知識を増し、さらに多くを渇望するよう導きたまえ。
恵み深き神よ!子等にとって益ありと見なされる恵みを限りなく注ぎたまえ。
子等の過ちを取り除きたまえ。真理への愛を強めたまえ。叡智を吹き込みたまえ。慈愛を注ぎたまえ。進歩を促したまえ。子等の一人ひとりに、それなりの資格において、われら使者とともに御身への讃仰の聖歌に加わらしめんがためでございます。
至高にして至聖、愛の権化たる御身に、栄光と尊厳と崇敬の念を捧げ奉ります。
第3部 モーゼス自身の体験と所見 (1)珍しい現象
○音楽現象
ベンジャミン・フランクリンが初めて出現した時から聞かれはじめた鈴の音について、スピーア夫人が次のように述べている。
「それは何とも言えない妙なる音楽で、ちょうどオルゴールを聞くような、それを一段と霊妙にそして音色を甘美にしたようなものでした。その頃はよく私たちの身近なところで聞かれました。夜おそく庭に出ている時などにとくによく聞かれました。
交霊会が終ったあとは開き窓を開け放って芝生へ出るのが通例でしたが、そんな時、大てい真夜中でしたが、樹木の間から聞こえてきました。何とも言えない美しさで、この世のものとは思えませんでした」
別の記事でもこう述べている。
「今夜は交霊会を始める前に庭を散歩している時から例の鈴の音が聞こえていました。はるか遠くのニレの木のてっぺんから、まるで星とたわむれているかと思われるような感じで聞こえたかと思うと、こんどはすぐ近くまで近づいてきて、私たちが交霊の部屋へ入るのを後から付いてきました。(“私たち”は通常スピーア夫妻と友人のパーシバル氏の3人で、これに時おり招待客が加わる程度だった。《解説》参照 – 訳者)
私たちが着席したあともずっと部屋の四隅や、私たちが囲んでいるテーブルの上などで鳴り続けていました。こちらから音階や和音を要求するとすぐに応じ、主人(スピーア博士)が口ずさんだ曲をうまく真似て演奏しました。部屋には楽器類は何も置いてありませんでした。モーゼス氏が入神すると音が大きくなり、ピアノを弾いているような目覚ましい響きになりました」
○物品移動現象
空屋の家具や物品が移動する現象はとくにワイト島に滞在中に起きた。モーゼス自身次のように書いている。
「教会での礼拝から帰って1階の応接間に隣接した寝室に入ってみると、化粧用テーブルの上に置いてあったものが無くなって、ベッドの上に大ざっぱな十字形に置いてあった」
その日の午後にはこんどは旅行用の化粧道具入れの中からも幾つか取り出されて、その十字形が完全な形にされていた。ある時は王冠の形に置かれていたこともあったという。
○宝石類の製造
パーシバル氏が概略次のように叙述している。
モーゼス氏と食事を共にしたあとで開かれた交霊会でのことである。突然ガス灯が消され、2、3分してまたついた。その間の暗闇の中でテーブルの上に強い光が見えたのでモーゼス氏が近づいてみると、小さなルビーがあった。そのあとまたガス灯が消され、入神したモーゼス氏をメンターと名のる霊が支配した。そしてパーシバル氏の腕をつついてから、その手を取って何かを握らせて席に戻った。その席でメンターは“それはトルコ石であなたのために特別にこしらえたものです”と述べ、さらに、交霊会でこしらえる宝石類は人間界でいう“本物”ではなく、売り買いの対象になるようなものは霊は製造を許されていない、と付け加えた。またその次の交霊会ではその製造法にふれ、霊は大気中から自然な工程で結晶体をこしらえることができることを述べた。
これもパーシバル氏の話であるが、スピーア夫人の誕生日に4人で食事をしている最中にモーゼスが入神し、ソファまで歩いて行って掛け布の内側を探りはじめた。そして間もなく小さなルビーを見つけて、それを敬々しげにスピーア夫人にプレゼントした。それからまたソファへ行って、同じように手探りで2つ目を見つけた。そのあとさんざん探してようやく3つ目を見つけて席に戻り、そこで入神から覚めた。モーゼス自身はその間のことは何一つ知らなかったという。
それより以前の話であるが、交霊会のあとモーゼスが飲んでいたソーダ水のグラスの中にルビーが入っていたこともあった。
○芳香現象
ある日、交霊会が始まると、いきなり、大小さまざまなパールが雨のように降ったことがあり、明かりをつけて拾い集めるように言われた。その交霊会が終了した時のことである。モーゼスが列席者の一人一人をまわって片手を頭部に置くと、そこに芳香が漂った。
別の日の交霊会でさらにすばらしい芳香現象が起きた。その時はいろんな発生の仕方をしてみせた。まず列席者の頭のあたりに漂ったかと思うと、こんどはふいごで吹きつけているみたいに強烈な勢いで吹いた。続いてこんどは霧雨のように天井から降りそそいて来た。そして最後は列席者が上に向けていた手のひらに芳香を含んだ水滴が注がれた。これには大変な技術が要るという説明があり、その日の芳香現象には50名以上の霊がかかわったということだった。最後にパーシバル氏の手の上にティーポットの口から注いだみたいに芳香性の水が落ちてきた。あとで調べてみるとテーブルの上に幾つかのシミが見られたという。
(2)体外遊離による体験
○背後霊団との面会
ある日モーゼスが部屋を暗くしてベッドに横になると、例の鈴の音が聞こえ、続いて光球がいくつも見えた。と思っているうちに意識を失い、次に目が覚めた時は真夜中だった。彼はみずからの意志でなしに無理やりに起こされて、次のような記事を書いた。
「意識が消えていく時のことは何一つ記憶にない。が、暗さが次第に明るさを増し、徐々に美しい光景が展開しはじめた。私が立っていたのは確か湖のヘリで、その向うに真緑の小高い丘がいくつも連なり、ほのかなモヤが漂っていた。雰囲気はイタリヤにいる感じで、穏やかに澄みわたっていた。湖の水は波一つ立てず、見上げると雲一つない青空が広がっていた。
その岸辺を歩きながら景色の美しさに見とれていると、一人の男性が近づいて来た。メンターだった。モスリンのような薄い生地で出来た真珠のような白さのローブをまとっていた。肩に濃いサファイアブルーのマントを掛け、頭部には巾の広い深紅の帯のように見える宝冠をつけており、それに黄金の飾り環が付いていた。あごひげを生やし、顔に慈悲と叡智をたたえていた。
そのメンターが鋭い、きっぱりとした口調でこう述べた。“ここは霊界です。これより霊界の1シーンをご覧に入れよう”そう言って向きを変え、私とともに湖にそって歩いて行くと、山の麓の方へ行く道との分岐点に来た。その道にそって小川が流れており、その向こうには真緑の草原が広がっていた。地上のように畑で仕切られておらず、見渡すかぎりゆるやかな起伏が一面に広がっていた。
2人はイタリヤの田園でよく見かける邸宅に似た1軒の家に近づいた。地上では見かけない種類の木の繁みの中にある。木というよりは巨大なシダに近い。その玄関の前にさまざまな色彩と種類の花が咲き乱れている花園があった。メンターに促されて後について入り、大きなホールまで来ると、その中央に花とシダの植え込みがあり、その真ん中で噴水が盛んに水を散らせていた。ホール全体にすてきな香気が漂い、また、優しく慰めるような音楽が流れていた。
ホールのまわりにはバルコニーのようなものが付いていて、そこから住居へ通じる出入口がいくつか見えた。壁面に模様が描かれていて、よく見ると私がそこに来るまでに通って来た景色の延長になっていた。天井はなく、雲一つない青空が見えていた。
見るものすべてが美しいので私が見とれていると、出入口の一つのドアが開いて誰かが私の方へ近づいて来た。インペレーターだった。一度見たことがあるのですぐに分かった。頭部には7つの尖頭の付いた王冠をいただき、その尖頭の先端に目も眩まんばかりの光輝を発する星が付いており、一つ一つ色が違っていた。表情には真剣さと仁愛と高貴さが満ちあふれていた。私が想像していたような年老いた感じはなく、敬虔さと厳粛さに優しさと威厳とが交じり合った風貌だった。全体に漂う雰囲気と物腰には堂々あたりを払う威風があった。
身体にはまばゆいばかりの白の長いローブをつけていた。あたかも露のしずくで出来ていて、それが朝日に照らされているみたいであった。そうした容姿全体の光輝があまりに強烈で、私にはじっと見つめていることができなかった。イエスが変容した時の姿もかくばかりかと思った。私は本能的に頭を垂れた。すると柔和でしかも真剣な声が不思議な、憂いを込めた抑揚で私の耳にささやいた – “来るがよい。そなたの知人に会わせるとしよう。そしてその不信に満ちた心を癒やして進ぜよう”と。そう言って手を差し出した。見るとその手に宝石が散りばめてあり、内部から燐光性の光輝を発しているように思えた。
私が唖然として見つめていると、何とも言えない壮厳な調べが耳に入ってきた。続いて私のすぐわきの出入口が開かれ、その調べがいちだんと近づいて聞こえ、長い行列の先頭を行く者の姿が目に入った。純白のローブを着ており、それを深紅の帯で締めていた。行列の全員がそうだった。帯の色だけがさまざまで、ローブは全員が純白だった。先頭の者は黄金の十字架を高々と掲げもっており、頭部には“聖”の文字を記した飾り帯を巻いていた。そのあとを2列に並んだ聖歌隊が讃美歌をうたいながらやって来る。その行列がわれわれの前までさしかかると一たん停止し、インペレーターの方を向いて敬々しくお辞儀をした。インペレーターは私より2、3歩前でそれを受けた」
モーゼスはその行列の中に数人の見覚えのある顔を見つけた。指導霊のメンター、レクター、プルーデンス、フィロソファス、それにスエーデンボルグもいた。さらに友人のウィルバーフォース、ジョン・キーブル、アーネスト・ニール等々の顔も見えた。長い長い行列が続たあと、その中から6人が進み出てモーゼスの方へ近づいた。そのうちの5人は地上で顔見知りの人物だったという。ホールを取り囲むバルコニーはすでにいっぱいになっていた。モーゼスは最後にこう書いている。
「その全員がホールの中央のインペレーターの方へ顔を向けた。そこでインペレーターが敬々しく神への祈りを捧げた。と同時にふたたび厳かな讃美の調べが響きわたり、全員が行列を作って今来た方向へ戻って行った」
○右のシーンについてのインペレーターの解説(自動書記)
– あれは実際のシーンだったのでしょうか。
「今貴殿の目に映っている現実と同じく実際にあったことである。貴殿の霊が肉体から分離していたのである。その間わずかに一条の光によってつながっていた。その光線は生命の流れそのものである」
– 壁が少しも障害にならずに一瞬のうちに光景が展開したように思います。その場がそのまま霊界になりました。
「霊界は肉眼には映じなくても貴殿のいる場所に存在している。霊眼が開けば霊の世界のものが見え、地上のものが見えなくなる」
– では、霊の界層はわれわれ人間の身のまわりに存在するのでしょうか。
「人間のいる場所にも周囲にも存在している。空間と呼んでいるところには幾つもの界層が互いに浸透しあって存在している。このたびのことは貴殿に霊界の実在を見せんがために行ったことで、私の要請をうけてメンターがあれだけの霊を第2界に集めてくれたのである。さまざまな界層と境涯から特別の目的のために集まってもらったのである」
– 全員が白のローブだったのに、ひとり私の友人だけが緑色の混ざった紫のローブを着ていましたが…
「貴殿の目につくように、あのローブを着ていたのである。緑色はまだ完全に抜け切っていない地上的状態を表しており、紫色は進歩のしるしである。
われわれの世界ではすべてが象徴的に出来ている。天井のないあの建物は何一つ向上心を妨げるもののない霊の住処の象徴である。美しい花と景色は愛の神が各自の宿命に注がれる慰めとよろこびを表している。讃仰の行列は進歩的な霊の向上の行進を示している。先頭を行く者が掲げていた十字架は神聖さと自己犠牲の表象である。純白のローブは清浄の象徴であり、ハープの調べは不断の讃仰の象徴である。色とりどりの帯は各自の犠牲と、たずさわっている仕事を示し、頭部の王冠と飾り帯は霊格の象徴である」
– あなたはいつも私が拝見した通りの姿をしておられるのでしょうか。あのまばゆいばかりのローブは忘れようにも忘れられません。
「貴殿が見られたのは他の霊がいつも私を見ているのと同じ姿である。が、私はいつも同じ姿をしているわけではない。私が本来の界でまとう姿は貴殿には凝視できないであろう。現在の状態では無理であろう」
○自動書記をしている自分を観察
“サークルメンバーの向上心の高さが、訪れる霊の性格を決める。出席者の精神的波動は霊界まで波及し、その程度によって集まる霊の程度も決まる。このことをすべての人に分かってもらえれば有難いのであるが…”
これは直接書記によって綴られたインペレーターの通信で、書記役のレクターがそれを操作している様子をモーゼスが体外遊離の状態で観察した。この様子をモーゼスが次のように記述している。
「その日はひとりで自分の部屋にいた。ふと書きたい衝動を感じて机に向った。それほど強烈に感じたのはほぼ2ヶ月ぶりである。まず最初の部分をふつうの自動書記で書いた。どうやらその時点で無意識状態に入ったようである。
気がつくと、自分の身体のそばに立っている。例のノートを前にしてペンを右手にして座っている自分のそばである。その様子とあたりの様子とを興味ぶかく観察した。自分の身体が目の前にあり、その身体と自分(霊的身体)とが細い光の紐によってつながっている。部屋の物的なものがことごとく実体のない影のように見え、霊的なものが固くて実体があるように見えた。
その私の身体のすぐ後ろにレクターが立っていた。片手を私の頭部にかざし、もう一方をペンを握っている私の右手にかざしている。さらにインペレーターと、これまで永いあいだ私に影響を及ぼしてきた霊が数人いた。そのほかに私に目覚えのない霊が出入りして、その様子を興味ぶかそうに見守っていた。天井を突き抜けて柔らかい心地よい光が注がれており、時おり青味を帯びた光線が何本か私の身体へ向けて照射されていた。そのたびに私の身体がギクリとし、震えを見せた。生命力が補給されていたのであろう。さらに気がつくと、外の光も薄れて窓が暗く感じられた。したがって部屋の中が明るく見えるのは霊的な光線のせいだった。私に語りかける霊の声が鮮明に聞こえる。人間の声を聞くのと非常によく似ているが、そのひびきは人間の声より優美で、遠くから聞こえてくるような感じがした。
インペレーターが、これは実際のシーンで、私に霊の働きぶりを見せるために用意したとのベた。レクターが書いているのであるが、私の想像とは違って、私の手を操っているのではなく、また私の精神に働きかけているのでもなく、青い光線のようなものを直接ペンに当てているのだった。つまりその光線を通じて通信霊の意志が伝わり、それがペンを動かしているのだった。私の手は単なる道具にすぎず、しかも必ずしも無くてはならぬものでもないことを示すために、光線がそのペンを私の手から放し、用紙の上に立たせ、さらに驚いたことに、それが用紙の上を動きはじめ、冒頭に掲げた文章を綴ったのである。出だしの部分を除いて、ほとんどが人間の手を使用せずに書かれたものである。インペレーターの話によると、人間の手を使用せずに直接書くのは容易なことではなく、そのため綴りにいくつか誤りも見られるとのことだった。事実その通りだった。
そのあと私は、一体ここにいる(人種の異る)霊はどうやって通じ合うのだろうという疑問を抱いた。するとその疑問に答えて数人の霊が代わるがわる違う言語でしゃべってみせた。私にはさっぱり分からなかったが、インペレーターが通訳してくれた。その上さらに霊がいかなる要領で思念の移入によって通じ合うかを実演してみせてくれた。またインペレーターは音も物的媒体なしに出すことができることを説明してくれた。その時に例の鈴の音が聞こえ、また部屋中に霊妙な芳香が漂った。
その場にいた霊はみな前に見た時と同じ衣装をしていた。そして、まわりの物体には何の関係もなく動きまわっていた。そのうちの何人かは、私の身体が向かっている机を取り囲んでいた。私自身も白のローブに青の帯をしているように見えた。さらに、どうやらその上に紫の布、一種のオーバーローブを羽織っていたように思う。どの霊も自然発光的に輝いており、部屋の中は非常に明るかった。
そのうち私は、戻ってこのことを書き留めるように言われた。肉体に戻るまでのことは意識にないが、部屋で観察したことに関しては絶対に確信があり、それを素直に、そして誇張をまじえずに綴ったつもりである」
(3)心霊誌の記事から
1889年8月号のライト誌から –
「本誌で『霊訓』を公表しはじめてからというもの、私は無意識の自我の存在をさんざん聞かされ、私自身が気がつかなくともその潜在的自我のどこか奥深いところに隠されているかも知れない可能性について、多くの考察をお聞かせいただいている。が、私が受け取っている一連の通信がそういう曖昧な説によって説明できるとするか、それとも、もっと単純にそして自然に、つまり私を教化しようとしている知的存在が主張している通りであるとするかは、読者にお任せするほかはない。そうした存在は自分たちのことを霊と呼び、私の生命と意識とは別個の存在であるとしている。私もそのように受けとめている。
通信文は間違いなく私の意識とは何の関係もなしに綴られている。その多くは、綴られていくのをこの目で見ないように異常なまでの注意をしている中で筆記されたものである」
次も同じライト誌に掲載されたもので、日常生活における異常体験をある知人にこう書き送っている。
「私自身には何の記憶もないことをしていたり、とくに、言った記憶がないのに間違いなく言っていることがよくあります。たとえば、翌日の講話の準備をしないまま床につきます。翌朝目を覚ましていつものように行動し、いつもより流暢な講話をし、すべきことをきちんと済ませ、知人と談話まで交わしたのに、その記憶がまったくないということがあるのです。特別に親しい人だけが、目のうつろさから私が入神していることを察知しているだけです。講話を聞いてくださった人のノートを見るとその内容が実に緻密で正確で明快なのです。
知人たちは私がなんとなくボケッとしていたとか、ぶっきらぼうだったとか、言葉がぞんざいだったという程度には感じていても、他はふだんと少しも変らなかったと言います。私自身は意識が戻った時には何の記憶もありません。もっとも、時おり何となく思い出すことはあります。
こうした体験から私は、人間は完全に“パイプ役”になり切ることができること、つまり霊の道具にすぎないことを実感として理解しはじめているところです。それにしても、一見したところごく普通に行動している人間が実は霊界の知的存在の道具になっていて、個的存在をもたないということが有りうるものなのでしょうか。もしかしたら私の霊は遠くに行っていて、別個の霊的生活を送りながら、私の肉体の方は他の知的存在に憑依されて別の行動をしているということなのでしょうか。
たとえば最近のことですが、ワイト島にいる間に内部の霊的能力が目を覚まし、外部の肉体的感覚がいっさい失われてしまいました。私は一日と一晩、ずっと別の世界にいて、物的環境はおぼろげにしか意識しませんでした。知人も家も部屋も景色も見えることは見えるのですが、おぼろげなのです。身体の方はいつものように行動しているのですが、私の意識には霊的環境や他界した友人、あるいはまったく面識のない霊の姿の方がはるかに鮮明に感識されるのです。あたりに見える光景も地上の景色より鮮明に見えました。もっとも、どことなく両者が重複して見えることがありました。その間私は話す気になれず、そうした環境の中にいてただ見つめるだけで満足しておりました」
同じくライト誌に珍しい心霊写真の話が出ている。
モーゼスのもとにあるフランス人から一通の手紙が届き、米国にいる妹とその家族の心霊写真が睡眠中にパリで撮れたと述べてあった。妹の家族の写真を撮りたいと心の中で念じたところ、1枚の乾板には3人の娘といっしょに、もう1枚には2人の息子といっしょに写っていたというのである。
これにヒントを得て、モーゼスはパリの友人に日曜日の朝11時に写真を撮ってもらうように依頼し、その写真に自分も霊として写るようにしてみることにした。当日の朝、教会の鐘の音を聞いたころに無意識状態に入り、気がついたら11時47分だった。実験は成功で、モーゼスの顔が睡眠中と同じように目を閉じたまま写っていた。同じ乾板に霊団の1人でプルーデンスと名のる霊(地上では紀元3世紀の哲学者だったプロティノス)も写っていた。
そのあとの交霊会でインペレーターは、モーゼスを慎重に入神させ、複数の背後霊がロンドンからパリまで運んだと語った。霊体と肉体とをつないでいるコードもそれだけ延びていたとのことだった。
スピリチュアリズムの意義について –
「スピリチュアリズムは霊界の存在と霊との交信の可能性という2つの事実以外にも実に多くのことを教えている。間違いなく言えることとして私が付け加えたいのは、人間の運命の決定者は自分自身であり、自分の性格も自分が形成し、将来の住処(死後に落着く環境)を地上で築きつつあるということである。道徳的向上心を鼓舞するものとしてこれほどすばらしいものはないし、それをスピチュアリズムほど強烈に所有している宗教思想を私は他に知らない。
人間は地上生活で築いた人間性そのままをたずさえて死後の生活を開始すること、他界した肉親・友人・知人は今なお自分を愛し、見守ってくれていること、罪悪も過ちもかならず自分で償わねばならないこと、いかに都合のよい教義をでっち上げても無罪放免とはならないこと – 以上のことを立証し、さらにまた多くのことを立証して行けば、スピリチュアリズムは現代に対して計り知れない宗教的影響力の根源を秘めていることになる」
日常生活の大切さについて –
「人間は日常生活での行為と習慣によって刻一刻と魂を築いている。それが霊的本性であり、現段階でこそ幼稚で不完全であるが、永遠に不滅であり、未来永劫に進化する可能性を秘めている。それが真実の自分であり、永遠の存在である。死後の状態の責任はすべて、根元的に、そして何よりもまず、自分自身にある。自分の運命の決定者は自分であり、自分が自分の将来の開拓者であり、自分の人生の最後の裁き人も自分である。
こうした教えが説教壇から聞かされることが少なすぎる。が、その重要性は実に遠大である。これを知ることはすべての人間にとって極めて重要である。道徳と宗教の全分野において、その影響力は計り知れないものがある」
霊的知識の普及を祝して –
「霊界からの霊的真理普及のための働きかけがいよいよ頻繁となってきたことは慶賀に堪えない。このことは見えざる指導者たちが、思いもよらないさまざまな方面で、通信を地上へ送るための通路を求めているとの確信を与えてくれる。真理のすべてが1人の霊媒のみを通じてもたらされることは有り得ない。無数の側面をもつ真理がたった一個の精神で理解できるわけがない。そうしたさまざまなチャンネルを通じてもたらされる真理になるべく多く耳を傾ける者が一ばん多くを得ることになる。もうすべてを知り尽くしたと思う者が実は一ばん真理を学んでいない。
“真理の太陽”の光が千々に砕けてわれわれの周囲に輝いている。それを拾い集めて一つの思想的体系を整えるべき機が熟している。今ほとんど世界各地であらゆる観点から、その体系づくりのための作業が進行中である。
私がこの思想の将来に希望を託し、かつ信頼を抱いているのは、これからの宗教は今さかんに心霊学者やスピリチュアリストによって立証されつつある科学的知識の上に基礎を置くべであり、いずれは科学と宗教とが手をつなぐことになると信じるからにほかならないのである」
(注) – 原典にはこのほかに各種のテーマについてのモーゼスの意見が掲載されているが、そのすべてが、当然のことながら、インペレーターその他による通信の内容と同じなので割愛することにした。☆
(4)モーゼスへの賛辞
モーゼスの死に際して心霊誌ライトにモーゼスへの賛辞が寄せられた。
「氏は生まれついての貴族であった。謙虚さの中にも常に物静かな威厳があった。これは氏が手にした霊的教訓と決して無縁ではなかった。氏はどの文学的才能と、生涯を捧げた霊的教訓と、稀有の霊的才能は、氏を傲慢不遜にし苛立ちを生み嫌悪感を覚えさせても決しておかしくないところである。が、氏にとってそれは無縁だった。常に同情心に満ち、優しく、適度の同調性を具えていた」
スピーア博士の子息でモーゼスが7年間も家庭教師をしたチャールトン・スピーア氏は、モーゼスの人間性の深さ、性格の優しさ、真摯な同情心、そして今こそ自分を犠牲にすべきとみた時の徹底した没我的献身ぶりを称えてから、こう結んでいる。
「真理普及への献身的態度はいくら称賛しても称賛しきれない。氏はまさに燃える炎であり、輝く光であった。恐らくこれほどの人物は二度と現れないであろう」
モーゼスを最初にスピリチュアリズムへ手引きしたスピーア夫人はこう語っている。
「自然を愛する心と、気心の合った仲間との旅行好きの性格、そして落着いたユーモア精神が、地名や事物、人物、加えてあらゆる種類の文献に関する膨大な知識と相まって、氏を魅力ある人物に造り上げていました。
2年前の病さえなければ『霊訓』をもう1冊編纂して出版し、同時に、絶版となっている氏の他の著作が再版されていたことでしょう。健康でさえあったら、それはいずれ成就されていた仕事です。霊界の人となった今、氏は、あとに残した同志たちが、氏が先鞭をつけた仕事を引き継いでくれることを切望しているに相違ありません」
解説 W・S・モーゼス – 生涯と業績 –
ナンドー・フォドー
(Nandor Fodor : An Encyclopedia of Psychic Science より)
○青年牧師として赴任するまで
ウイリアム・ステイントン・モーゼスは1839年に公立小学校の校長を父親として、イングランド東部のリンカーン州ドニントンに生まれた。13歳の時にパブリックスクール(私立中・高等学校)へ入学するために家族とともにイングランド中部の都市ベッドフォードへ移転した。
「そのころ時おり夢遊病的行動をしている。一度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかったある課題についての作文を書き、ふたたびベッドに戻ったことがあった。が、その間ずっと無意識のままだった。書かれた作文はその種のものとしては第1級のものだったという。が、それ以外には幼少時代の心霊体験は残っていない。
その後オックスフォード大学へ進学したが、在学中に健康を害して一時休学し、ギリシャ北東部のアトス半島へ渡り、そこの修道院の一つで6ヶ月間の療養生活を送っている。やがて健康を回復したモーゼスはオックスフォード大学へ復学し、卒業後、英国国教会の牧師に任ぜられた。そして最初に赴任したのがマン島だった。(アイルランド海の中央に浮かぶ小さな島。政治的には自治区)
当時は24歳の青年牧師だったが、教区民から絶大な尊敬と敬愛を受け、とくに天然痘が猛威をふるった時の献身的な勇気ある行動は末永く語り継がれている。
○スピーア博士一家との縁
その後同じマン島内の別の教区へ移ったが、30歳の時に重病を患い、医師のスピーア博士 Dr. Stanhope Templeman Speer の治療を受け、回復期を博士宅で過ごした。これがその後のモーゼスとスピーア博士家との縁のはじまりである。
翌1870年にイングランド南西部のドーセット州へ赴任したが、すぐまた病気が再発し、それを機に牧師としての仕事を断念した。
病気が縁となってその後7年間にわたってモーゼスはスピーア博士の子息の家庭教師をすることとなった。その間にロンドンの学校教師の職を得て、他界する3年前までの18年間にわたって勤続したが、痛風を患っているところヘインフルエンザを併発し、それに精神的衰弱も加わって、ついに1892年9月に他界した。53歳の若さだった。
○スピリチュアリズムとの出会い
ロンドンの学校の教師となった翌年の1973年からの10年間は、インペレーターを最高指導霊とする霊団の霊力がモーゼスを通じて注ぎ込まれた時代であり、モーゼスのそれまでの偏狭なキリスト教的信仰と教理は完全に打ち砕かれてしまった。
当初モーゼスはスピリチュアリズムが信じられず、心霊現象のすべてをまやかしであると考えた。のちに親交をもっに至るD・D・ホームの霊現象に関する書物を読んだ時も、こんな退屈なたわごとは読んだことがない」と一蹴していた。が、スピーア夫人の勧めで、たまたまその年イギリスに来ていたロティ・ファウラー Lottie Fowler というアメリカの女性霊視能力者による交霊会に出席した。
交霊会への出席はそれが最初だった。が、その時の霊信の中に他界した友人についての生々しい叙述があり、心を動かされた。続いて同じくアメリカ人の物理霊媒ウイリアムズ夫人 H. A. Williams による交霊会に出席し、それからD・D・ホームによる交霊会に出席するなどして、半年後には死後の存続と交信の可能性について確信を得るに至っている。
○物理現象のかずかず
やがてモーゼス自身にも霊能の兆候が出はじめ、次第に驚異的に、かつ、ひんぱんになって行った。種類も実に多彩で、強烈なものとしては部屋中が揺れどおしということもあった。また、大人が2人してやっと1インチしか上げられないほどの重いテーブルが、白昼、軽々と宙に浮いて右に左に揺れていたこともある。
モーゼス自身が浮揚したことも何度かある。2度目の時は右に述べたテーブルの上にいったん乗せられてから、さらにその向うに置いてあるソファへ放り投げられた。が、モーゼスの身体には何の異状も起こらなかった。
アポーツ(物品引寄現象)もしばしば起きている。部屋を閉め切っていても、他の部屋に置いてある物品が運び込まれた。大ていモーゼスの頭越しだった。また、モーゼスの家に置いてない品、たとえば象牙の十字架像、サンゴ、真珠、宝石の類いが持ち込まれたこともある。
さまざまな形と強度の光がよく見られた。モーゼスが入神している時の方が強烈だった。ただし、出席者全員に見えたわけではない。
香気が漂うこともしばしばだった。ジャコウ、クマツヅラ、干草の香りがよく漂った。が、一つだけ得体の知れない香気があった。霊側の説明によると、これは霊界にある香りだという。時には香りをたっぷりと含んだそよ風が部屋中を流れることもあったという。
楽器類は何も置いていないのに、実にさまざまな音楽が演奏された。その他にも直接書記、直接談話、物体貫通現象、そして物質化現象と、多彩な現象が見られた。もっとも、物質化現象といっても発光性の手先とか、人体の形をした光がうっすらと見えるという程度にとどまった。
いずれにしても物理的心霊現象そのものは霊団としては二次的意義しか考えておらず、第一の目的はモーゼスならびに立会人に霊の存在と霊力のすごさを得心させることにあった。
○評価と中傷と
モーゼスの交霊会のレギュラーメンバーはスピーア博士夫妻ともう一人パーシバル F. M. Percival という男性の3人だけで、それに、時おりウイリアム・クルックス卿やD・D・ホーム、そのほか数名が入れ替わり立ち替わり出席する程度だった。勝手に新しい客を連れてくると霊側がひどく嫌がったという。
フレデリック・マイヤースは<S・P・R会報>の中で次のように述べている。
「道義上の動機を考えても、あるいはモーゼス氏が一人でいる時でもひんぱんに発生したという事実から考えても、これらの現象がスピーア博士および他の列席者によって詐術的に行われたものでないことは完全に立証されたと私はみている。モーゼス氏自身がやっていたのではないかという観方も、道義的ならびに物理的にみてまず有り得ないことと私は考えている。氏が前もって準備しておいてそれを入神状態で演出するなどということは物理的に考えてまず信じられないことで、同時にそれは、氏自身および列席者の報告の内容と相容れないものである。それゆえ私は、報告された現象が純粋な超常的な方法で実際に起きたものであると見なす者である」
モーゼスの人格の高潔さは誰しも認めるところであったために、心霊著述家のA・ラング Andrew Lang は詐術説を主張する者に対して“道徳的奇跡か物理的奇跡かのいずれかの選択である”(モーゼスが人を騙すという飛んでもないことをしたと決めつけるか、心霊現象が実在したと認めるかの2つに1つ)という警告まで発した。が、本気で道徳的奇跡の方を選んだのはポドモア Frank Podmore ただ一人だったようである。(訳者注 – ポドモアはマイヤースと同時代の心霊研究家で、S・P・Rの評議員を27年も勤めた人物であるが、最初の頃は霊魂説を信じていたのが次第に懐疑的になって行き、最後はすべてを詐術と決めつけるに至った。とくにモーゼスに対しては中傷的な態度が目立った)
○自動書記通信とその通信霊の身元
有名な自動書記通信は『霊訓』Spirit Teachings と『霊の身元』Spirit Identity の二著と、1892年から心霊誌 Light に公表を開始した詳細な報告記事が、その内容を知る手掛りの全てである。
自動書記現象は1873年に始まり、1877年ごろから少なくなり、1883年に完全に途絶えた。その記録は24冊のノートに筆記されており、そのうちの2冊目が紛失したほかは今なお The College of Psychc Studies に保管されている。(訳者注原典では London Spiritualist Alliance となっているが、今では The College に移されている。なお国書刊行会発行の拙訳『霊訓』のグラビヤに、そのノートか8ページが掲載されている。フォドーは自由にコピーが入手できる」と書いているが、それは今は許されない。掲載された8ページ4枚は私が The College 専属の写真業者に依頼して撮ってもらったもので、1枚につき幾らと使用料が定められている)
自動書記による霊信はそのほとんどがモーゼスが普通の覚醒状態にあるときに綴られたものである。その途中で直接書記で簡単なメッセージが入ることが時おりあった。
霊側のモーゼスに対する態度はあくまでも礼儀正しく、敬意に満ちていた。が、その通信の中に時おり当時生存していた人物に対する批判的な言及が見られた。モーゼスが24冊のノートを他人に見せたがらなかった理由はそこにある。
また、どうやらもう一冊、非常に暗示に富んだメッセージが盛られたノートがあったことを推測させる文章が見られるのであるが、そのノートは多分破棄されたに相違ない。
通信は対話形式で進められている。通信霊の身元はモーゼスの在世中は公表されなかった。公的機関に寄贈される前に通信ノートを預かったマイヤースも公表しなかった。それが The Controls of Stainton Moses <ステイントン・モーゼスの背後霊団>の題名で A. W. Trethewy によって出版されたのはずっと後のことである。
が、その多くがバイブルや歴史上の著名人であったことを考えると、モーゼスが生存中にその公表を渋ったのは賢明であったと言えよう。もし公表していたら、軽蔑をこめた非難を浴びていたことであろう。
それにもう一つ、実はモーゼス自身が永い間その身元に疑問を抱いていたことも、公表を渋らせた理由にあげられる。通信の中にはその猜疑心と信頼心の欠如を霊側がしばしば咎めている箇所がある。
それはともかく、明らかにされたかぎりでの霊団の主要人物の生前の氏名を幾つかあげれば、リーダー格のインペレーターは紀元前5世紀のユダヤの霊覚者で旧約聖書のマラキ書の筆者とされるマラキ(マラカイとも)、その指揮のもとにハガイ(同じく旧約聖書のハガイ書の筆者)、ダニエル(同じくダニエル書の筆者)、エゼキエル(同じくエゼキエル書の筆者)、洗礼者ヨハネ、等々がいた。その他にも、プラトン、アリストテレス、プロティノスなど、古代の哲学者や聖賢と呼ばれた人物が14人いた。
結局モーゼスは49名の霊団の道具であったことになるが、実はその上にもう一人、紀元前9世紀の霊格者エリヤが控えていて、インペレーターに直接的に指示を与え、同時にまた直接イエスと交信していたと言われる。
こうした背後霊団の身元についてモーゼスが得心するに至ったのは24冊のノートのうち14冊目に入ったころからだったという。
○通信の"質"の問題
『霊訓』の<序論>の中でモーゼス自身こう述べている。
「…神 God の文字はかならず大文字で、ゆっくりと恭しげに綴られた。通信の内容は常に純粋で高尚なことばかりであったが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びていた。1873年に始まって80年まで途切れることなく続いたこの通信の中に、軽卒な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言說、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たらなかった。知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという、当初より霊団側が公言してきた大目的にそぐわぬものはおよそ見かけられなかった。虚心坦懐に判断して、私はこの霊団の各霊が自ら主張した通りの存在(神の使い)であったと断言して憚らない。その言葉の一つ一つに誠実さと実直さと真剣さがあふれていた」
が、そのモーゼスも、現象が弱まりだしたころには再び懐疑心に襲われ、戸惑いを見せている。所詮、霊の身元というのは完全な立証は不可能なのである。インペレーターに言わせれば、立証不可能な(古代霊の)ケースも、他の(近代の)霊のケースが立証されれば、それで真実と受け止めてもらわないと困るという。確かにその通りで、近代の霊で身元が立証されたケースがいくつかあるのである。
通信の内容そのものについてモーゼス自身は、霊媒という立場から非常に慎重な観方をしている。同じ<序論>の中でこう述べている。
「通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、確かに一考を要する問題である。私としてはそうした混入を防ぐために異常なまでの配慮をしたつもりであるが、それでも内容は私の考えとは違っていた。しかも間もなくその内容が私の思想信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのである。でも私は筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を一行一行推理しながら読むことさえできたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていった。
こうしたやり方で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼるが、驚くのはその間に一語たりとも訂正された箇所がなく、一つの文章上の誤りも見出されないことで、一貫して力強く美しい文体で綴られているのである」
それほどの用心も潜在意識を完全に排除するに至らなかったことが、死後モーゼス本人からのメッセージによって裏書きされている。明らかに間違っている部分をいくつか指摘しているのである。しかし、そうした点を差し引いても、ステイントン・モーゼスの生涯とその業績はスピリチュアリズムに測り知れない影響を及ぼしている。いくつかのスピリチュアリズムの組織で指導的役割を果たし、1884年から他界するまでロンドン・スピリチュアリスト連盟の会長をつとめた。英国S・P・Rの設立もモーゼスによる交霊会が機縁となっており、モーゼス自身も評議員の一人として活躍した。が、霊媒エグリントン William Eglinton の調査において取ったS・P・Rのアラ探し的態度に抗議して辞仕している。
著書としては『霊訓』のほかに Spirit Identity(霊の身元)、The Higher Aspects of Spiritualism(スピリチュアリズムの高等な側面)、Psychograph(念写)がある。その他、2、3の心霊誌におびただしい量の記事を掲載して啓蒙につとめている。(それを1冊にまとめたのが本書である – 訳者)
インペレーターの霊訓 続『霊訓』<新装版>
近藤千雄(こんどう・かずお)
昭和10年生まれ。18歳の時にスピリチュアリズムとの出会いがあり明治学院大学英文科在学中から今日に至るまで英米の原典の研究と翻訳に従事。1981年・1984年英国を訪問、著名霊謀、心霊治療家に会って親交を深める。主な訳書 – M.バーバネル『これが心霊の世界だ』『霊力を呼ぶ本』、M.H.テスター『背後霊の不思議』『私は霊力の証を見た』、A.ウォーレス『心霊と進化と – 奇跡と近代スピリチュアリズム』、G.W.オーエン『霊界通信・ベールの彼方の生活』、『古代霊は語る – シルバー・バーチ霊訓より』、『シルバー・バーチの霊訓』(以上潮文社刊)、S.モーゼス『霊訓』、J.レナード『スピリチュアリズムの真髄』、H.エドワーズ『ジャック・ウェバーの霊現象』(以上国書刊行会刊)