これは、紀元1世紀頃クリスチャンに改宗したクレオパスと名乗る霊から送られた通信をジェラルディン・カミンズ女史が書き綴ったものである。本書は3巻よりなるクレオパスの書と称する膨大な原稿群の最初の部分が収録されており、それ自体殆ど独立した完璧なものである。
カミンズ女史は、アイルランド、コーク州に住む故アシュレイ教授の娘で、スポーツ界と文学界にその名が知られている人物でもある。彼女はアイルランドでホッケーの選手でありテニスをよくする運動家である。
同時に彼女はアイルランドの農民の生活を描いた『彼らが愛した大地』(マクミラン社、1919年発行)の著者であり、更にスーザン・R・デイ女史と2人で著した2つの演劇『破壊された信仰』(ダブリン市、アベイ劇場にて上演された)及び『狐と鵞鳥』(ロンドン、コート劇場にて上演)の劇作家でもある。カミンズ女史はまた演劇関係の新聞論説に貢献し、文壇で話題となる小説や演劇の書評を掲載した。
本書の内容から察するに、さぞかし哲学、宗教に造詣深いと思われるであろうが、多読家の女史は、バーナード・ショウ、ゴールズワージー、ウィリアム・イェーツなど現代作家の作品だけに限られ、神学、神知学、キリスト教関係のものは一切読んだ事がないという事を銘記して頂きたい。
本書『クレオパスの書』の一語一語が綴られるにあたって、生き証人として、E・B・ギブス女史が立ち会った。彼女は、音楽、園芸、旅行に関心をもち、既にニュージーランド、北米、南米、インド、ギリシャ、日本、スイス等を旅行していたが、エジプトやパレスチナには行った事はない。ギブス女史は1923年の初め頃カミンズ女史と知り合った。
しかも初代教会の歴史には全く関心がなく、更に教会に行った事もなく、ましてや入信などとは全く無関係であった。ギブス女史立ち合いのもとに霊感書記が開始されたのは1923年の12月で、この時にはカミンズ女史の書記能力は極めて低く、せいぜい15分くらいで力つきてしまう程度だった。
暫くすると次第に時間が延長されて、邪魔が入らなければ2時間ぶっ通す事ができるようになった。2年後の1925年12月になって、2時間20分(140分)となった。普段のカミンズ女史は、書き直しが多く、2日間でやっと600から700語を生み出す程度だった。
自動書記が始まると、女史は左手で両目を被い、肘を机の上に置き、右手で鉛筆を握り、フールスキャップ判(日本のB4)用紙の束の上にもっていく。暫く入神状態が続き急速に鉛筆が走り出すと、実に明瞭な書体で1字の誤りもなく知的な原稿が出来上がる。
そばに居る者が書き終わる毎に原稿をめくって新しい用紙にする。次第に休む事なく正確に書き綴られていく。普段の女史の書記能力と較べてみて遥かに早い速度で記述されているのがわかる。
1926年2月16日には1時間38分もの間全く休みなしで、2230語が記述され、同年3月16日には4人の立ち合い人の目の前で、1時間5分の間に1750語が記述された(平均1時間に1615語)。ある時などは、詰め書きで2600語が1つの訂正もなく記述された事もある。書く速さや執筆時間は、肉体的精神的条件によってまちまちである。
通常は、邪魔が入らない限り、おおよそ1時間半を少し超えるくらいである。編纂者一同は、カミンズ女史と、彼女の記述に協力したギブス女史の私心のない誠実な人間性を大いに買っていた。
そもそもこの記述は、ドイツのオーガスチン女子修道院に所属するアンナ・カタリーナ・エメリック修女が啓示を受け、ローマ・カトリック教会が神聖なものとして広く容認した『主イエス・キリストの謙遜な生涯と苛酷な受難、及び聖母マリヤ』という霊感書記と比較される事が多い。
1833年にその内容が出版されて以来、ドイツ語による出版物が多く発行され、英語、イタリア語、スペイン語などにも翻訳された。著名なカトリック系神学者や聖職者は、記された内容が真に事実に基づいているか、そして啓示として主張し得るかどうかについて詳細に吟味した結果、これは全く疑う余地のない真正な啓示の書であるという判断を下した。
このような決断によって、本書への認識も一段と強化された。本書の至るところに散見されている内容は、実に正確である事が実証された。その幾つかの例を後に挙げてみよう。
とにかく我々編纂陣は、エメリック修女によるドイツ語の啓示書が優れた神学者によって真正なる事を証明されたのと全く同じもの、あるいはそれ以上のものがカミンズ女史によって生み出されたものと思っている。ある観点では、本書の方が更に強力な実証力を持っているであろう。エメリック修女が受けた幻は、詩人クレメント・ブレンターノによって記述された。
その方法はまず表題だけを記述し、あとから回想しながら物語を埋めるというやり方であった。彼が書き終えてから修女に読んで聞かせるのではあるが、この方法では啓示の内容が多少歪められる可能性をもっている。本書の場合、このような媒介人物によって歪められる事はない。
カミンズ女史も編纂者も全く口をはさむ事がないからである。更に本書は記述されたメッセージである。従って実に厳格な検査や調査を加える事ができるメリットをもっている。編纂者は本書に特別な権威を与えようなどとは考えていない。更に又原本そのものについて論評するつもりもない。
確かにモートン・プリンス博士とその一派が言っているように、カミンズ女史の潜在意識に関する調査の問題はあるが、前述したように女史の受けた教育や関心事を知れば殆ど問題にはならないと思う。求められているものは、写本が正確であるかという一点である。
記述内容は「使者(メッセンジャー)」と称する霊によって送られてきたものであり、「使者」はあくまでも著者ではない。カミンズ女史にただ忠実に受け取って欲しいと願っているだけである。時々彼は他人が送ってよこす言葉を書きとめる書記役を果たす場合があり、送信する時に捻じ曲げられやしないかと文句を言う事もある。
しかし送信される言葉は直訳的なものではなく、むしろ言葉を媒介とする思想であり、作者の記憶の中に蓄えられたイメージである。「もし霊の手によって綴られたものであれば、それはまさに古代の出来事に関して真実を伝えるものである」と本文の中で語られている如くである。
通信の全ては、1人のクレオパス霊(クローパスとも言う)の指令によって送られてきたものであるが、この霊は、人間界からは遥かに遠い高次元の方であると言われている。
事実この霊界通信ではクレオパス霊の指示によって7人の書記が動員されていると言われている。彼らの働きによってクレオパス霊の用いる古代語の清らかさや誠実味が余す事なく現代思想によって表現されている。使者は、他の写本の殆どが消滅してしまった初代教会から始められていると述べている。
それと同時に彼はクレオパス霊が1つの記録だけではなく、色々な記録を自分で1本にまとめあげたものから引用しているとも言っている。使者が質問を始めると、クレオパス霊は、あらゆる知識がつまっている記憶の樹から必要なものを引き出してきて書記に与え、書記は使者にそれを伝え、使者は女史の思考の中に入っていく。
女史の思考の海に漂っている多くの言葉を集めて物語を綴っていく。それはまるでよく磨かれた鏡のように、反射されていく。しかし女史の中に使いたい言葉が見出せない時は、とても困る事になる。
彼女の記憶の中にない単語や固有名詞などを伝える事はとても難しい事である。時としてこのような困難にぶつかる事がある。後になって、使者からの通信により興味ある情報がよせられた。即ちこの記録のオリジナル(原文)はキリスト降誕後60年乃至70年間の出来事が集められているとの事である。
記録の作者はキリストの弟子達を直接目撃した人々であって、その大部分はエペソかアンテオケ執筆されており、主としてギリシャ語で記されている。所々にアラム語やヘブライ語も使われている。
いずれにしても、使者によって寄せられた一連の事実に関して編纂者が判断の基準を示さねばならない。使者が言うには、在世中に特殊な専門知識を身につけ、殊に東洋の言葉に造詣が深かったそうであるが、現在自分の考えを伝達するためにいわゆる人間の固い頭脳なるものを利用する事は滅多にないとの事である。
彼は非常に多くの旅をし、南の島々に住む野蛮人を対象に説教をし、ローマにもしばしば行った事があると言っている。唯一の問題は、彼があまり地上の諸条件を知らないように思われる点である。
例えば、印刷の技術が発明されている事を知らないので、書記がたくさんのコピーを書かねばならないとか、書記が書いたものに多くの誤字がないかを注意深く見守るようにと心配をしているのである。しかし彼について最も賞賛に値する事は、彼が次のように語っている点であろう。
「我々は師なるキリストを仰いで生きぬいた兄弟のように、悲しみ、危機、驚異、清純の生涯をもう一度やり直すべきである」と。本書に収録されている記録について究極的にどんな説明が加えられようとも、これは実に興味津々たる内容がもりこまれ、示唆に富む記録である。
本書の接し方について読者は提供されている内容の証拠性よりも、内面的確信と対決されん事を勧める。ある方々は、これが超現実(霊界)からの通信であると見なすであろうし、又ある方々は、殊に現代心理学の立場から、純粋に人間自身の産物であり、無意識に働いているテレパシーのようなものによるものと考えるであろう。
いずれにしてもこの記録の最初の部分を発刊するにあたり、編纂者一同は本書が多くの異なった興味を提供し、あらゆる観点から調査研究されるであろうと確信するものである。
本書は、原稿に忠実に印刷されているが、まれに本文が不必要な古語が多すぎてフレーズが乱れている場合は手直しされている。あるいは又、内容そのものに直接関係のない、くどい文章や前述されたものの繰り返しなどは削除してあるが、多少なりとも本文の意味と関係しているものや、通信そのものについては一切手を触れず、そのままの文体を保存するように努めている。
本書の内容についていくつかの説明を添えておく。→この記録は、新約聖書中の『使徒行伝』及びパウロの手紙を補うものとして記されている。具体的には初代教会の様々な情況が語られ、更にキリストの死んだ直後からパウロがアテネに向かってペレヤを出発した頃までの弟子たちの情況が記されている。(新約聖書 使徒行伝17・15参照)
本書の中で新約聖書が別に存在している事をほのめかしているが、本書はそれとはほとんど関係がないようである。少なくとも使者と称する霊は、在世中に聖書なるものが存在している事を知らなかった。彼は「私は、この部分に関する聖書の記述は全く知らない」と言っている。
本書はまさに我々が知っている新約聖書の足りないところを補いかつ説明する材料を含んでいるだけでなく、聖書では得られない情報をふんだんに提供してくれるのである。
パウロの劇的回心(ユダヤ教からイエスに帰依する事)の経験について新約聖書では余り多くを記していないので、パウロの生涯を研究する者にとっては、実に興味深い資料を本書から得られると同時に使徒行伝9章<回心の記述>について非常に丁寧に記述された本書の記録とを比較研究する事ができる。
新約聖書について銘記すべき事は、使徒行伝の最初の12章の内容が9年にわたる経緯を語るのに、たった30日分の記録しかのっていない事である。これは新約聖書の編集者が明らかに膨大な聖書の歴史的資料を漏らしている事になる。
本書の記録がもし本当に信頼し得るものであるならば、それは使徒時代に関する知識について、非常に重大な貢献をしている事になる。もしも媒介者としてのカミンズ女史の生涯と精神構造を以って説明しようとするならば、本書を記述した人間の推測力について何と理解したらよいのであろうか。
小アジアのアンテオケに在住するユダヤ人社会の首長の名称について、すぐれた研究によると「アルコン」というタイトルが正しい事が分かってきた。クレオパスが当時の記録を語っている頃の首長のタイトルは、紀元11年、ローマ皇帝によって町全体の機構改革が実施され、「エスナルク」から「アルコン」(archon)に変わったばかりであった。
従って当時の記録に、殊にパレスチナ地方に住む人による記録に「エスナルク」と載っていても許さるべきミスであると言える。それなのに、その当時として比較的新しい名称の変更「アルコン」が本書に記されているという事は、これ以外の多くの細かい部分についても、この道の権威者を驚かせる程の正確な知識を伝える一例である。
このような細部にわたる正確な知識以上にすぐれている事は、当時の時代的情況を示唆する鋭い洞察力である。12使徒(イエスの弟子)の性格についても、それぞれの人間性を深く理解し、暖かい眼を以て描き出している。ユダの事に至っては、現代作家も面目を失う程の明晰なタッチで描かれている。
ごく一般にユダは、貪欲からイエスを裏切ったと言われている。福音書の関係記事(マタイ伝26・14、15。マルコ伝14・10、11。ルカ伝22・3 – 6。ヨハネ伝13・2、27、30。使徒行伝1・16 – 25)をよく吟味してみれば、この考え方が全く正しいものではない事がわかる。
貪欲説は後世の推定であって、貪欲であった理由は1つも説明されてはいない。事実、何が彼を裏切りに追いやったのか説明する事は実に難しい事である。しかしクレオパスの記録が示しているように、野心が断たれた失望感が理由であるとすれば納得がいくのである。
何もユダに限らず、リーダー格の3人の使徒(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)もユダに劣らず野心家であったようである。ペテロはイエスの1番弟子たる事を求め、更にゼベダイ家の兄弟ヤコブとヨハネは、神の王国の栄光を求めイエスの右と左に座を占めようと願い出た。(マルコ伝10・35 – 37)
これを見ても解るように、ユダだけが野心的であったとは言えない。この記録は確かに聖書の内容を補い、役立つ説明を与えてくれるが、聖書を制定した教会の基準によって作られた訳ではない。
率直な読者の中には、魔術の存在や魔術の物語が出てくる事に驚かされ、聖書に示されている聖霊の働きではないと反対する者もいるかも知れない。しかしこの記録自体は、高邁な霊的、哲学的レベルから記されたものではない。時として、反感をかうような世俗的レベルを露呈する事もある。
使者は次のように言っている。「キリストのメッセージは、無学な人々に送られたものである。即ち大衆のためのものである。だから私が運ぶこの記録に当時のパリサイ人やサドカイ人は耳をかさなかっただろう」本書の全ての物語はクレオパス霊の素朴な喜びを特徴づける奇跡の物語である。
彼にとってキリスト教は偉大な霊の力の働きによって出現したものとみている。しかも同志を容認しない者を殺してしまう程の力が「同志」の掌中にあり、彼らだけが呪術を用いる事ができた。従って、純粋な霊性については余り問われず、総ての敵を粉砕してしまう突発的な力の方が優先していた。
このような魔術は、もちろん非常に低次な宗教的展開と言える。このような現象は、正典として認められている新約聖書の中にも、使徒たちの行為として収録されている。
使徒たちの本来の仕事は、純粋な霊的真理を多くの人々の心に叩き込む事であったのだ。確かにこのような形のものが本書の中に見られるとしても、これが本書の価値を損なうと反対する者がいれば、それは非常に人間臭い、時として非キリスト教的感情の露出がかえって心理的裏付けや歴史的価値を持っている事を知らないからであろう。
本書は正典として認められているものではなく、その価値を計測する事はできないかも知れない。しかし編纂者が本書を新約聖書と同じレベルにおいて判断していると考える事は、余りにも軽率である誹(そしり)を免れない。
初期のキリスト教文書は新約聖書よりも遥かに確かな基準を示している。最も伯仲している文書は、アポクリファ(※)使徒行伝(経外典)とか、紀元2世紀頃までの伝奇小説的なものであろう。(※ギリシャ語のアポクリュフォスからきたもので、「隠されたもの」という意味である)
(正典として聖書に入れられなかった経外文書をさし、旧約聖書からもれたものである。「旧約外典」は14巻、新約外典は約20巻がある)銘記すべき事は、使徒時代のキリスト教でさえ、異教の考え方や信仰と混合する事は避けられなかった事実である。
新約聖書には、迷信や冷淡な策略が無数にのせられている。ある意味で歴史的ではないとされているアポクリファ(経外典)は、初代教会のキリスト教社会の内情を知る上で非常に有効な手掛りを提供してくれる。
一例をあげれば、本書が非常に有名な初期キリスト教伝記小説『クレメンスの書』(※)と酷似している事である。(※ペテロの弟子、クレメンス(ローマの初代司教)が、コリントの信者にあてた書簡)ここでは残念ながら、宗教哲学、道徳律、教会組織などについて両者の類似点に詳しく触れる事はできない。
また、全体の調子から推測して、どちらが先に記されたのか、あるいはどちらが複製なのかを判断する事は不可能である。魔術、妖術への信仰、魔力を行使する事、使徒たちに与えられ行使されていた顕著な魔術的パワーは、両者にも等しく取り上げられ、しかも、それらは教会が否応なしに直面させられた社会的情況であったと言っている。
原始宗教に関する最近の研究によると、世界のどの宗教形態も魔術的信仰を抱いていた事がより明らかになっている。いかなる外観を呈しているにせよ、かかる基本的な信仰形態は教会が対決し論駁しなければならなかったものである。
従って本書において華々しく展開される魔術の記述があっても、真実性を損なう論拠とみなす必要はない。それよりもどんな作者でも迷信とか詭弁とか非難される事なく、初代教会を黄金時代として自然のままに表現できた事を多とすべきであろう。
更に本書と、真正なものとして知られている初期キリスト教の小説が、“様式の上でも酷似している”事に驚かされる。クレオパス霊は、文学的に生き生きと表現する事に並々ならぬ努力を払っている。読者がどれだけ汲み取る事に成功するかは別として、彼は意図的にロマンチックな、情緒的な物語をふんだんにもりこんでいる。
物語を活気づけるために1度ならず、ほんのりとした興味をそそるものを導入しようとしている。第3巻1章に描かれている1750文字で綴られた文章などは、まさに美麗そのものであり、中には誇張や冗長なところもある。
彼は人物描写を好む。怒り狂ったり、狼狽するピリピリの首長などを至極ユーモラスに描いており、対話の術にも長けている。彼は又エピソード(挿話)単位に本書を組み立てて読者の興味を先へ先へと引っ張っていく。
本書に関して非常に興味をそそられる事は、通信のために選び抜かれた霊媒が小説家であり、使者は彼女(カミンズ女史)の心に浮かぶイメージを最大限に利用しなければならないので、勢い彼の語る事が多くの小説を読んで洗練された表現法を身につけた女史の形態をとる事になる。
それで物語全体は、終始変わらない現代的表現形式となっている事に着目して頂きたい。例外として欽定訳聖書(1611年刊行された英訳聖書)や古語が用いられる事がある。従って本書の大部分は現代用語に変えられている訳である。しかし個々の物語の様式は、いわゆる使者の人格を通して伝えられたものである。
一般的に言えば、あたかも家族関係のように、本書と聖書に付属する外典や偽書との間には極めて緊密な興味ある類似性がある。最近その事に貴重な注意を向けた研究が、英国のチャルス博士及びドイツのカウチェ教授によって進められている。
それなのにこの文献が教会の権威によって承認された諸文書に付随した重要性がある事を主張しようとしない。これらはキリスト教の教義よりも、むしろ初期の教会歴史を研究する資料である。たいていは口伝によるもので、信頼すべき口伝の内容が急速に通俗化していった。
しかし、これは当時の一般大衆の宗教を知る上で重要な手掛りと証拠を提供してくれる。もしも、クレオパスの書と他の諸文書との比較研究が始められるならば、かなりの驚くべき暗示に富む類似性が発見されるであろう。
しかもエズラ書(旧約聖書)やユダヤ人キリスト教徒によって記された福音書やグノーシス文書(※)など及びもつかぬ程詳細に、価値ある研究がなされるであろう。(※初期キリスト教時代の神秘主義的宗教思想、即ち霊界の神秘を重視するグループによって記された文書)
奇跡的要素の流行については既に触れたように、キリスト教そのものが奇跡から出発している事を既に弁明しておりながら、最高の現代的論評では、奇跡がイエス自身によって行われたという疑う余地のない事実を放置している始末である。
更にその上に純粋なユダヤ教やキリスト教の宗教的要素が徐々に薄らいできて、世俗的思想が強く浸透してきた。これらの傾向は本書の中にも見られる事は既に指摘してきた通りである。粗末で懲罰的色彩の濃い異教的要素や主情主義的基調は、あらゆる種類の外典にも共通しており、その必然的結果として、キリスト教も世俗化していくのである。
クレオパスの書について考察を加えていると、ちょうど外典の研究をしている篤信家が壁にぶつかるのと同様に編纂者は、霊感とは一体何を意味するものであるかという難問にぶつかる。
そしてこの文書の持っている重要性とは、初期のキリスト教が何であったかという事よりも、初期の主唱者たちがキリスト教をどのように見ていたかを明らかにする事ではないかと確信している。
注意深い読者ならば、迷信や誤った熱情の背景及び使徒や後継者を悩ませていた無知に強い印象を抱かれるであろう。本書に出てくる初期の改宗者で、教会の首脳や教師になった者は、教化するために過度な行為を発揮してはいない。
彼らは、ある程度の理解力を持っており、識者としての証しを持っている。それは地上の容器(肉体)に蓄えられた宝である。
最後に編纂者一同は、この記録を努めて公平な形で公開する。即ち立証を申し立てたり、個人的動機やくだらないもくろみをもって出版するのではない。印刷の原稿を用意するに当たって、全体的に変更を加えたり、組み替えたりしていない。
この短い序文の中で、読者に対して率直に事実の説明を加え、偏見の余地を与えないように努めた。本書によって提起される諸問題にある程度当惑するであろうが、我々は、わざと憶測や説明をほのめかす事を差し控えた。
本書は、注目や調査に値する作品であり、初期キリスト教の歴史及び文学において、思想的変遷あるいは高次元からの通信に関する専門家の調査を受ける事に躊躇しないであろう。 1927年12月21日 編纂者一同
編纂者一覧
モード博士(ロンドン、ケンシングトン教区主教)
エスタレー博士(キングス・カレッジ、ロンドン大学、名誉教授/ヘブル語、旧約聖書学の権威者)
パーシー・ディアマー神学博士(司祭)
ジョン・ラモンド神学博士(司祭)
ビカステス・オットレイ(カンタベリー大聖堂参事、司祭)
フリーマン(ブリッスル大聖堂参事、司祭)
A・H・リー(司祭)
ドレイトン・トーマス(司祭)
フィールディング・オールド(司祭)
アルフレッド・リトルヘール(司祭)
プリンス博士(元心霊科学協会、会長)
エドワード・ラッセル氏
R・カミング博士
J・G・ミラー博士
G・R・S・ミード氏
クレスピニー女史(作家)
セント・クレア・ストバード夫人
バーバラ・マッケンジー夫人
マーシー・フィルモア嬢
エドワード・アリソン夫人(元米国心霊科学協会秘書)
スザンナ・デイ嬢
N・トムギャロン嬢
アンダーヒル嬢
「霊体で会議に参加し続けてるんですよ」物的脳髄でその様子を全く反芻できません(祈)†
どの人間も例外なく物質界に降下するにあたり、指導霊と相談したうえで「こういう試練を体験すればこれだけ向上を果たせる」と考え、自分でその人生を選択して降下してくるのだそうで、つまり奴隷の女の子たちも「殺される人生をあえて選択して降下してきた人間たち」という事になるのですが、僕はそう言われて奴隷の女の子たちを見殺しにする気にはどうしてもなれません。これは僕の個人的意見ですが、物質界に降下するにあたり、基本的には「こういう人生を送る事になる」という概要は決まっているのでしょうが、中には例外もあるのではないかと思っているのです。僕の「霊性発現」はその例外に当たるのではないかと思っているからです…続きを読む→
「2度も神に仕えて働いた」これが強姦殺人魔を滅ぼすつもりがないという意味なのです(祈)†
そうそう、シルバーバーチ霊は「苦を苦と思わない段階まで霊格が向上すれば、苦難を味わわされても喜びしか湧き上がってこない」みたいな事を仰っています。さらに「ベールの彼方の生活」にも、上層界の天使たちが下層界の仕事に携わって大いに苦しい状態にさせられているのに笑顔になっているという記述があります。これは帰幽して十分に向上を果たし、俯瞰の視点で全体を眺められるポジションに立つ事ができて初めて到達できる精神状態だと思います。物質界生活中にこの精神状態に到達するのは、頭で知識としては理解する事ができても心の底から納得してそういう心境に到達するのはまず不可能と思われます。中にはそういう聖者のような方もいらっしゃるのかも知れませんが僕はデザインの人間ですのでそれはないです…続きを読む→