モーゼスの「霊訓」(上)

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モーゼスの「霊訓」(上)

W・S・モーゼス著
近藤千雄訳

Spirit Teachings
by William Stainton Moses
(c)Spiritualist Press (1952)
(現 Psychic Press Ltd.)
20 Earlham Street, London, WC2H 9LW, England.

ウィリアム・ステイトン・モーゼス

William Stainton Moses(1839~1892)
ウィリアム・ステイトン・モーゼス
略歴は巻末《参考資料》参照。

モーゼスが受け取った自動書記通信の一部

タテに開く小型のノートに綴られていて、全部で24冊あり、2冊目が紛失した以外は、すべて The College of Psychic Studies に保管されている。

この「霊訓」が初めて公表されたのが、この機関発行の心霊誌 Light 誌上で、そこと特約を結んでいる写真家 Hilary Evans 氏に依頼して、モーゼスの肖像写真とともに撮影してもらったもの。

写真右は49名から成る霊団の最高指導霊インペレーターからの通信の一部。

左は同じくインペレーターと、その指揮下にある複数の指導霊が代わるがわる綴った通信の一部。

インペレーター霊サイン

IMPERATOR S.D.
S.D.= Servus Dei
(神の僕)

霊団メンバーサイン

Imperator S. D.
Rector
PRUDENS
Philosophus
Doctor
(各人物の地上時代の身元に
関しては巻末《参考資料》参照。)

改訳新版への序

「モーゼスの霊訓」と呼ばれて日本でも熱烈な愛読者をもつ Spirit Teachings は、インペレーターと名のる紀元前5世紀の霊が、英国の牧師だったモーゼスの腕を借りて、キリスト教の間違いを指摘しながら10年間にわたって霊的教訓を綴ったもので、1883年に刊行されてからほぼ1世紀をへた今日でもなお世界中でロングセラーを続けている、名実ともに人類史上まれにみる高等な霊界通信です。

日本では昭和12年に浅野和三郎氏が『霊訓』のタイトルで“抄訳”の形で紹介し、それが昭和60年に復刻されて潮文社から出版されていますが、同じ年に、私による“完訳版”が国書刊行会から、やはり『霊訓』のタイトルで出版されています。

その“あとがき”の中で私は、「今こうして上梓(じょうし)するに当たり、その名誉をよろこぶと同時に、こうした訳し方で良かったのだろうかという、一抹の不安と不満を禁じ得ない」と述べました。

翻訳というのは、訳者が原書の“生殺与奪(せいさつよだつ)の権”を握る仕事である、と言っても過言ではありません。たとえ英語力は万全であるとしても、読み取った内容をどういう文体で表現するかによって、読者の受け取る印象が大きく左右されるからです。難しい、と同時に、怖い、仕事であると言えます。

まして、それが本書のように、読む人の人生そのものを根本から揺さぶりかねない内容をもち、その拠ってきたる淵源(えんげん)が間違いなく高級な霊的次元にあるとの認識が固まり、しかも初版以来ほぼ1世紀という長い“時の試練”もへて、本格的な霊界通信の白眉と見なされているものとなると、よほどの覚悟なしには手がけられる仕事ではありません。

さて“不安と不満”を抱きつつ世に出してから今日までの4年間に、私の訳は次のような相反する2つの批評を得ました。“とても迫力があり、荘重(そうちょう)さと威厳(いげん)に満ちている”というのがひとつ。もうひとつは“文章が古くて固苦しく、取っつきにくい”というものでした。

モーゼスの原書が1世紀も昔のものというだけでなく、その通信霊が紀元前5世紀の人物ということもあって、その文章は当然古い英語で綴られており、それに霊格の高さも加わって、全体として重厚さと威厳がみなぎっております。

その雰囲気を訳文に出すためには、少なくとも現代人にも読める範囲で重厚な文語体を使用せざるを得なかったわけですが、右の感想のうち、前者はそれが成功していることを物語っており、後者はそうした文体に馴染めない人には、取っつきにくさを与える結果になっていることを物語っているわけです。

そのこととは別に、実はもうひとつ、訳者個人としての懸念(けねん)が、終始つきまとっておりました。それは、上製・貼函入という、書物として最高のものに仕上げてくださったことが、当然その価格を普通より高いものにし、さらに、書店置きでなく注文制だったために、広く一般の目にとまりにくく、かつ手の届かないものにしてしまったのではないかということです。

自分の訳書が豪華で高価なものになることは、訳者としてこれに過ぎる光栄はありません。が、それはあくまでも訳者個人の気持であり、霊的真理の普及という観点からすれば、そんな次元で満足していられない要素があるのです。

そんな懸念を抱きつづけていた時、本年初頭のことですが、コスモ・テン・パブリケーションの高橋社長からお電話があり、私の『霊訓』を読んで大変感動されたこと、そしてあの文体、あの雰囲気が堪(たま)らなく好きであるとの感想を述べられました。

そこで私は、そうおっしゃってくださるのは有り難いけれど、現代人にとっては文体が重厚すぎること、しかも書店置きでないことが、大勢の方に読んでいただくチャンスを少なくしている実情を申し上げました。そこから話が発展して、これを(上)(中)(下)3巻に分けて、口語体の平易な改訳版を出すことになったわけです。

4年前に完訳版を出してくださった国書刊行会へは、以前からこの件に関して私の希望を伝えてあり、《世界心霊宝典》全5巻(『霊訓』はそのうちの1冊)を担当された佐々木秀一氏の諒解を得てありました。その快(こころよ)い理解に対して、ここで改めて謝意を表したいと思います。

古来、“霊界通信”といわれるものは、洋の東西を問わず数多くありますが、自分の腕を使って、自分の信仰とまっ向から対立する思想を綴る目に見えない存在を相手に、熾烈にして壮絶な論争を延々10年にもわたって続けたという例は、世界に、そして人類史上にも類を見ません。霊からの通信を受け取る者の態度はかくあるべしとの、絶好の手本といえるでしょう。

口語体は文語体にくらべて荘重さに欠ける憾(うら)みはありますが、モーゼスが必死に訴えんとしたものは一応表現できたと確信します。が、原典のもつ荘重さと威厳にじかに触れてみたい方は、ぜひ国書刊行会発行の『霊訓』をお読みいただきたいと思います。

本書が1人でも多くの方の人生に、それまで思いもよらなかった新しい照明を当てることになれば、訳者としての年来の願いが叶えられることになります。

それは同時に、モーゼスが名誉と地位を捨て、見栄と打算を排して真実を求めた、ほぼ10年にわたる宗教家としての至誠を現代に蘇(よみがえ)らせるゆえんともなりましょう。

平成元年9月

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原著者まえがき

本書の大半を構成している通信は、“自動”書記ないし“受動”書記と呼ばれる方法によって得られたものです。これは“直接”書記とは区別する必要があります。

前者においては霊能者がペンまたは鉛筆を手に握るか、あるいはプランセット(1)に手を置くと、霊能者の意識的な働きかけなしにメッセージが書かれるのに対し、後者においては、霊能者の手を使わず、時にはペンも鉛筆も使わずに、直接的にメッセージが書き記されます。

自動書記というのは、われわれが漠然と“スピリット”(霊または霊魂と訳されるが、ここでは“霊”に統一する)と呼んでいる知的存在の住む、目に見えない世界からの通信を受け取る手段として広く知られています。

読者の中には、地上と交信するそんな得体(えたい)の知れない目に見えない存在 – 人類の遺物・かつて人間だった者の殻のような存在 – を“霊(スピリット)”と呼ぶことに違和感を抱かれる方がいるであろうことは承知しています。

が、私は“霊”という用語がいちばん読者に馴染みやすいと思うからそう呼ぶまでで、今その用語の是非について深く立ち入るつもりはありません。とにかく私に通信を送ってきた知的存在はみな自分たちのことを“霊”と呼んでいます。

多分それは私の方が彼らのことを”霊”と呼んでいるからでしょう。そして、少なくとも差し当たっての私の目的にとっては、彼らは“霊”でいいのです。

その霊からのメッセージが私の手によって書かれはじめたのは、ちょうど10年前の1873年3月30日のことで、スピリチュアリズムとの出会いからほぼ1年後のことでした。

もっとも、それ以前にも霊界からの通信はラップ(2)や霊言(3)によって数多く受け取っていました。私がこの自動書記による受信方法を採用したのは、この方が便利ということと同時に、霊的教訓の中心となるべく意図されているものを“保存しておくため”でもありました。

ラップによる方法はいかにもまどろこしくて、本書のような内容の通信にはまったく不適当でした。一方、入神した霊媒の口を使ってしゃべると、部分的に聞き落とすことがあり、さらに、当初のころはまだ霊媒(私)自身の考えが混じらないほど完全な受容性を当てにすることは、不可能でもありました。

そこで私は、ポケットブックを1冊用意し、それをいつも持ち歩くことにしました。すると私のオーラがそのノートに染み込んで、筆記がより滑らかに出てくることがわかったのです。

それは、使い慣れたテーブルの方がラップが出やすく、霊媒自身の部屋の方が新しい部屋よりも現象が起きやすいのと同じ理屈です。スレートを使った通信(4)の専門霊媒であるヘンリー・スレイドも、新しいスレートを使ってうまく行かない時は、使い古したものを使うとまず失敗がなかったといいます。が、今はこのことにこれ以上言及しません。その必要がないほど原理は明白だからです。

最初のころは文字が小さく、しかも不規則だったので、ゆっくりと、そしてていねいに書き、手の動きに注意しながら、書かれていく文章を後から追いかける必要がありました。そうしないとすぐに文意が通じなくなり、結局はただの落書きのようなものになってしまうのでした。

しかし、やがてそうした配慮も必要でなくなってきました。文字はますます小さくなりましたが、同時にひじょうに規則的で、字体もきれいになってきました。あたかも書き方の手本のような観のするページもありました。

ページの頭のところに書いた私の質問に対する回答にはきちんと段落をつけ、あたかも出版を意図しているかのように、きちんと整理されていました。God(神)の文字はかならず大文字で、ゆっくりと、うやうやしげに綴られるのでした。(巻頭グラビア参照)

その通信の内容はつねに純粋で高尚なものばかりでしたが、その大部分は私自身の指導と教化を意図したプライベートな色彩を帯びておりました。1873年に始まって80年まで(5)途切れることなく続いたその通信の中に、軽率な文章、ふざけた言葉、卑俗な内容、不条理な言語、不誠実な、あるいは人を誤らせるような所説の類いは、私の知るかぎり一片も見当たりませんでした。

それは当初から霊団側が公言してきた大目的、すなわち知識を授け、霊性を啓発し、正しい人の道を示すという目的にそぐわないものは、およそ見られなかったということです。

虚心坦懐(きょしんたんかい)に判断して私は、インペレーターを中心とする霊団の各霊はみずから主張していた通りの存在であったと断言して憚(はばか)りません。その言葉のひとつひとつに誠実さと実直さにあふれておりました。

初期の通信は、さきに説明した通り、きちんとした文字で書かれ、、文体も一貫しており、署名(サイン)はいつもドクター・ザ・ティーチャー(6)でした。通信の内容も、それが書かれつづけた何年かの間ずっと変わることがありませんでした。

いつ書いても、どこで書いても筆跡に変化がなく、最後の10年間も、私自身のふだんの書体は変わっても、自動書記の方はほとんど変化がありませんでした。文章上のクセもずっと同じで、それは要するに、通信全体を通してひとつの個性があったということです。

その存在は私にとって立派な実在であり、1人の人物であり、大ざっぱな言い方をさせていただけば、私がふだん付き合っている普通の人間とまったく同じように、文体および表現に明確な特徴と個性をもった存在でした。

そのうち別の通信がいくらか出はじめました。筆跡によっても、文体および表現上の特徴によっても、それぞれに区別がつきました。その特徴は、いったん定着すると、変わることがありませんでした。私は、その筆跡を一目見て、誰からの通信であるかが判断できたほどです。

そうしているうちに次第にわかってきたことは、私の手を自分で操作できない霊がほかにも大勢いて、それがレクター(7)と名のる霊に書いてもらっているということでした。確かにレクターは私の手をよく使いこなし、私の身体の負担もあまりありませんでした。

不慣れな霊が書くと、一貫性がない上に、私の体力の消耗が大きくなりました。そういう霊は自分が私のエネルギーを浪費していることに気づかず、それだけ私の疲労も大きかったわけです。

さらに、そうやって代書のような役になったレクターが書いたものは流暢で読みやすかったのに対して、不慣れな霊が書いたものは読みづらい上に、書体が古めかしく、いかにも書きづらそうに書くことがあり、ほとんど読めないこともありました。

そういうことから、当然の結果として、レクターがぜんぶ代書することになっていきました。しかし、新しい霊が現われたり、特殊なメッセージを伝える必要が生じた時は、当の本人が書きました。

念のために申し上げておきますが、私を通じて得られた通信のすべてがひとつの源から出ているわけではありません。ただし、本書で紹介したものにかぎって言えば、同じ源から出たものばかりです。すなわち本書は、インペレーター(8)と名のる霊が私と係わり合った期間中の通信の記録です。

といっても、インペレーター自身が直接書いたわけではなく、レクターが代書しています。その他の期間、とくにインペレーターとの関係が終わったあとは、明らかに別の霊団からの通信があり、彼らは彼らなりの書記を用意しました。その通信は、その霊団との係わりが終わる最後の5年間は、とくに多くなっておりました。

通信が書かれた時の環境条件は、その時々でみな異なります。原則としては1人きりになる必要があり、心が受け身になるほど通信が出やすかったのは事実ですが、結果的にはいかなる条件下でも受け取ることができました。

最初のころは努力を要しましたが、そのうち霊側が機械的に操作する要領を身につけたようで、そうなってからは、本書で紹介するような内容の通信が次から次へと書かれていきました。本書はその見本のようなものです。

本書に紹介したものは、初めて月刊誌に発表した時と同じ方法で校正を施してあります。最初は心霊誌“スピリチュアリスト”(9)に連載され、その時は筆記した霊側が校正しました。内容の本質が変えられたところはありません。

その連載が始まった時の私の頭には、今こうして行なっている書物としての刊行のことは、一切ありませんでした。が、多くの友人・知人からサンプルの出版を頼まれて、私はその選択に取りかかりました。もっとも、脈絡のことは考えませんでした。

その時の私を支配していた考えは、私個人の私的(パーソナル)な興味しかないものだけは絶対に出すまいということだけで、それは当然、まだ在世中の人物に言及した部分も避けることにもなりました。

私個人に係わることを避けたのは、ただそうしたいという気持からで、一方、他人に言及したものを避けたのは、私にそのような権利はないと考えたからです。結果的には、しかし、私にとってある意味でもっとも衝撃的で感動的な通信を割愛(かつあい)することになってしまいました。

本書に発表されたものは、そうした、今は日の目を見ることができないが、いずれ遠い将来、その公表によって私を含め誰1人迷惑をこうむる人のいなくなった時に公表を再考すべき膨大な量の通信の、ほんの見本にすぎないと考えていただきたいと思います。

通信の中に私自身の考えが混入しなかったかどうかは、たしかに一考を要する問題です。私としてはそれを避けるために異常なほどの配慮をしたつもりです。最初のころは筆致がたどたどしくて心もとなく、書かれていく文をあとから確かめるように読んでいかねばならなかったほどですが、それでも内容は私の考えとは違っていました。

しかし、間もなくその内容が、私の思想・信仰と正面から対立するような性格を帯びてきたのです。そこで私は、筆記中つとめて他のことがらを考えるコツを身につけ、難解な思想書を推理・分析しながら読むことさえできましたが、それでも通信の内容は一糸乱れぬ正確さで筆記されていきました。

こうした中で綴られた通信だけでも相当なページ数にのぼりますが、驚くのは、その間に一語たりとも訂正された箇所がなく、ひとつの文章上の誤りも見出せないことで、一貫して力強い美しい文体で綴られております。

だからと言って、決して私は、私自身の精神が使用されていないと言うつもりもないし、得られた通信が、それが通過した私という媒体の知的資質によって、形体上の影響を受けていないと言うつもりもありません。私の知るかぎり、こうした通信にはどこか霊媒の特徴が見られるのが常で、影響がまったく無いということは、まず考えられません。

しかし確実に言えることは、私に送られてきた通信の大部分は、私の頭の中にあることとはおよそ縁のないものばかりであり、私の宗教上の信仰とも概念上において対立しており、さらに、私の知らなかったことで、明確で確実で証明可能な、しかもキメ細かい情報がもたらされたことも幾度かあったということです。

テーブルラップによって多くの霊が自分の身元についての通信を送ってきて、それが後に確認されたことが多くの交霊会(10)でありましたが、私の自動書記によっても、その種の情報がくり返し送られてきました。

私はその通信のひとつひとつに議論の形で対処しています。そうすることで、ある通信は私にとってまったく新しい知識であることが明確となり、また別の通信では、私の考えとまったく異なる考えを述べる別個の知的存在と交信していることを確信することができるわけです。

本書に集録した通信の多くは、その本質をつきつめれば、多分まったく同じ結論に帰着するはずです。

通信はいつも予期していない時に来ました。私の方から要求して始まったことは1度もありません。要求しても、まず与えられませんでした。突如として、一種の衝動を覚えます。どういう具合にかは、私にも説明できません。とにかくその衝動で私は机に向かって書く用意をします。

一連の通信が規則正しく届けられている時は、1日の最初の時間をそれに当てました。私は早起きです。そして起きるとまず、私なりの朝の礼拝をします。衝動はしばしばその時に来ました。と言って、それを当てにしていると、絶対に起きませんでした。

自動書記以外の現象(11)もよく起きました。健康を損(そこ)ねている時(後半はよく損ねました)を除き、いよいよ通信が途絶えてしまうまで、何の現象も起きないということは滅多にありませんでした。

さて、膨大な量の通信の中でも、インペレーターと名のる霊からの通信が、私の人生における特殊な一時期を画(かく)しております。本書の中で私は、そのインペレーターからの通信を受け取った時の魂の高揚、激しい葛藤、その後、求めても滅多に得られない心の安らぎに包まれた時のことに言及してあります。

それは、私が体験した霊的発達のための教育期間だったわけで、結果的には、私にとって一種の霊的新生となりました。

その期間に体験したことは他人に伝えようにも伝えられる性質のものではありませんし、また伝えたいとも思いません。しかし、内的自我における聖霊の働きかけを体験したことのある方には、インペレーターという独立した霊が私を霊的に再教育しようとした、その厚意ある働きかけの問題は、それでもう十分解決されたと信じていただけるものと思います。

表面的にはあれこれと突拍子(とっぴょうし)もないことを考えながらも、また現に、問い質(ただ)すべきいわれは幾らでもあるにもかかわらず、私はそれ以来、インペレーターという霊の実在を真剣に疑ったことは、ただの1度もありません。

この“まえがき”は、私としてはまったく不本意な、自伝風のものとなってしまいました。私に許される唯一の弁解は、1人の人間の霊的体験の物語は、他の人々にとっても有益であることを確信できる根拠が私にあるということだけです。

これから披露するものを理解していただくためには、不本意ながら、私自身について語る必要があったのです。私はその必要性を残念に思いながらも、せめて本書に記載したことが、霊的体験のひとつの典型として、心の琴線に触れる人にとっては有益であると確信した上で、その必要性におとなしく従うことにしました。

真理の光を求めて2人の人間がまったく同じ方法で努力することは、まずないでしょう。しかし、私は人間各自の必要性や困難には、家族的ともいうべき類似性があると信じています。

ある人にとって、私が取った方法によって学ぶことが役立つ日が来るかも知れないのです。現にこれまでも、そうした方がおられたのです。私はそれを有り難いことと思っております。

こうしたこと、つまり通信の内容と私自身にとっての意義の問題以外にも、自動書記による通信の形式上の問題もありますが、これはきわめて些細(ささい)な問題です。通信の価値を決定づけるのは、その通信が主張する内容そのもの、通信の目的、それ本来の本質的真理です。

その真理が真理として受け入れられない人は多いことでしょう。愚か者のたわごととしか思えない人もいることでしょう。私は決して万人に受け入れてもらえることを期待して公表するのではありません。その人なりの意義を見出すことのできる人にとって本書が少しでも役立てば、それで私は満足です。

1883年3月30日

M・A(12)

[注釈]

(1)原理的にはコックリさんと同じで、エンピツで文字が綴られる仕掛けになっている点が異なる。

(2)Rapping 文字どおり叩く音によって通信する方法で、いちばん多いのはテーブルが傾斜し上下運動をしながら脚の1本が床を叩いて通信するもの。前もってモールス信号のような符丁を取り決めておく必要がある。

(3)Trance Speaking 入神(トランス)状態になった霊媒の発声器官を使って霊がしゃべる。世界的に有名なのが、モーリス・バーパネルを霊媒として60年間にわたって週1回の割で出現した、シルバーバーチと名のる霊による霊言。

(4)Slate Writing 2枚のスレートを合わせて置いておくだけで、その片面または両面に通信が書かれる。一種の直接書記現象。

(5)これは本書に収められた、インペレーター霊を中心とする霊信にかぎってのことで、最初のラップによる通信から最後の途切れとぎれの通信までを入れると、1871年から82年までとなる。

(6)Doctor,the Teacher 巻末《参考資料》参照

(7)Rector 巻末《参考資料》参照

(8)Imperator 巻末《参考資料》参照

(9)Spiritualist のちに Light と改名。

(10)自動書記は自分の部屋で1人で行なったが、モーゼスは他の霊媒によって行なわれていたテーブルラップや霊言等による交霊の場にもよく出席していた。インペレーターの身元に関する情報を得たいという気持からだったが、波動がよくないから行かないようにと忠告する文章が本文の後半によく出てくる。

(11)本書ではそれは紹介されていないが、モーゼスの死後にスピーア博士夫人(第4節注2参照)が編纂した More Spirit Teachings(日本語訳「インペレーターの霊訓」潮文社)には、かなり詳しく出ている。

(12)Master of Arts の略で、日本の文学修士号に相当する。モーゼスはオックスフォード大学を出ている。

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第1節 神と啓示

(原典では各節に番号がふってあるだけで見出しの語句がないが、理解の便を考慮して訳者が付した。)

霊的新時代の幕開け

[世界の歴史においても特異な意味をもつ今の時期とその特質についての対話が交わされたあと、次のように綴られた。]

今まさに、新しい真理の普及のための特別の努力が払われつつあるところです。神の使徒による働きかけです。それが敵対者の大軍による、かつてない抵抗に遭遇しております。世界の歴史はつねに善と悪との闘争の物語でした。

一方に神と善、もう一方に無知と悪徳と邪悪 – 霊的邪悪、精神的邪悪、そして物的邪悪です。そこで、時として – 今がまさにその時期のひとつなのですが – いつもとは異なる努力が払われることがあります。神の使徒が一段と勢力を強めて集結し、人間を動かし、霊的知識を広めます。目的達成の時も近づいております。

油断ならないのは真理からの逃亡者であり、生半可(なまはんか)者であり、日和見(ひよりみ)主義者です。そうした人種に惑わされてはなりません。しかし、神の真理のために惑わされることがあってもなりません。

– おっしゃることはわかります。しかし、何をもって神の真理とするか、その判断に迷う者はどうすればよいのでしょう?真剣に求めながら、なお見出せない者が多いのです。

切に求める者にして、最後まで見出せぬ者はいません。その道のりが遠く久しい者はいるでしょう。地上を去り、高い界へ至ってようやく見出す者もあるやも知れません。

神はすべての者を試されます。そして相応(ふさわ)しい者にのみ、真理を授けられます。一歩進むにも、それ相当の備えがなくてはなりません。それが進歩の鉄則です。適性あっての前進です。忍耐が必要であるゆえんはそこにあります。

– それはわかるのですが、教会内部の意見の衝突、証拠が納得してもらえないこと、偏見、その他もろもろの要因からくる障害はどうしようもないように思えます。

それは、“あなたにそう思える”というに過ぎません。いったい何ゆえに神の仕事に抵抗するのでしょう?もろもろの障害とおっしゃるが、われらが過去において遭遇した障害にくらべれば、現在の障害など、ものの数でないことをそなたはご存知ない。

あのローマ帝政の末期、放蕩(ほうとう)と肉欲と卑俗と悪徳とにひたりきった地域から、聖なるものすべてが恐れをなして逃げ去った、あの暗黒の時代にもしもそなたが生をうけておれば、悪が結束した時の恐ろしさを思い知らされたことでしょう。

その非常さは絶望のそれであり、その陰気さは墓場のそれでした。肉欲 – ただ肉欲のみでした。天使はその光景を正視できずにその場を去り、その喘(あえ)ぎを和らげてやることなどは及びもつきませんでした。

信心などは思いもよらず、それよりさらに悪質でした。世をあげて霊的なものを侮蔑(ぶべつ)し、われわれの行為を貶(さげす)み、すべての徳をあざ笑い、神を愚弄(ぐろう)し、永遠の生命をののしり、ただ食べて飲んでの放蕩三昧(ざんまい)の日を送るのみでした。まさしく、堕落しきった動物同然の生活でした。

それほどの悪の巣窟(そうくつ)さえ、神とその使徒は見事に掃(は)き清められたのです。それをあなたは、わずかな障害を前にして、“どうしようもない”と嘆くとは、情けないことです!

啓示は時代とともに変わる

[このあとも、地上人類のための計画が、人間の無知と強情ゆえに何度も挫折してきた経緯(いきさつ)が述べられた。そこで私は、この度も失敗に終りそうなのかと尋ねた。すると – ]

神はそなたの想像以上に働きかけを強めておられる。地上の各地に神の真理普及のための拠点ができ、魂の渇(かわ)きを潤(うるお)し、知性を納得させるような真理が、ふんだんに地上へ注がれています。

むろん、中には古い教えのみにて足れりとし、新たな真理を受け入れようとしない者もいることでしょう。われわれは、そうした人種をかまうつもりはありません。しかし、古い啓示を十分に学び尽くし、さらに深い真理を渇望している者が大勢いるのです。

そうした者に神はそれなりの手段をもって啓示を授けられます。それが彼らを通じて縁ある人へと波及し、やがて全人類へ向けて公然と啓示を垂れる日も来ることでしょう。

見るがよい!神の隠密は地上の低い階層にあって研鑽(さん)を重ね、その知識と体験とによって確信した真理を唱道します。その隠れた小さな泉がやがて多くの流れを集めて大河を成すのです。

測り知れないエネルギーを宿すその真理の大河は激流となって地上に溢れ、その時は、今そなたを悩ませている、無知も不信も愚かな思想も罪も、一気に押し流してしまうことでしょう。

– その“新しい啓示”ですが、それは“古い啓示”と矛盾していませんか。その点で二の足を踏む者が多いのですが…

啓示は神から授けられます。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有りえません。ただし、その真理は、かならず時代の要請と、同時代の人間の受け入れ能力に応じたものとなります。一見すると矛盾するかに映じるのは真理そのものではなく、人間の側に原因があります。

人間は単純・素朴では満足せず、何やら複雑なものを混入しては、せっかくの品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをしてしまいます。そして時の経過とともに、いつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものになりはてます。矛盾するばかりでなく、もはや不純であり、“この世”的なものとなりはてています。

そこでまた新しい啓示が与えられます。しかしその時はもはや、それをそのまま当てはめる環境ではなくなっています。そこで、古い啓示の上に築き上げられている迷信のかずかずをまず取り崩さねばなりません。新しいものを加える前に異物を取り除かねばならないのです。

啓示そのものに矛盾はありません。が、矛盾するかに思わせる古い夾雑物があります。まずそれを取り除き、その下に埋もれている真実の姿を顕(あらわ)す必要があります。

人間は自分に宿る理性の光によって物事を判断せねばなりません。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達した人間は、無知な者や偏見に固められた人間が拒絶するものを、喜んで受け入れます。

神はけっして真理の押し売りはいたしません。この度のわれらによる啓示も、地ならしとしての、限られた人間への特殊な啓示と思っていただきたい。これまでも常にそうでした。

モーゼは自国民のすべてから受け入れられたでしょうか。イエスはどうだったでしょう?パウロはどうだったでしょう?歴史上の改革者をごらんなさい。自国民のすべてに受け入れられた者が1人でもいたでしょうか。

神は常に変りません。神は啓示はしても、けっして押しつけはしません。用意ある者のみがそれを受け入れていきます。無知な者、備えのない者は拒絶します。そうでしか有りえないのです。あなたが嘆かれる意見の衝突も相違も、単なる正邪の選り分けの現われにすぎません。

しかも、取るに足らぬ原因から起こり、邪霊によって煽(あお)られています。結束した悪の勢力の働きかけも覚悟しなければなりません。しかし、足もとのみに囚われてはなりません。常に未来に目を向け、勇気を失わぬことが大切です。

背後霊とは

– 背後霊(1)のことですが、どういう具合にして選ばれるのでしょうか。

背後霊は必ずしも“指導すること”を目的として付くのではありません。そういう場合(ケース)がいちばん多いことは事実ですが、時には背後霊自身にとっての必要性から付くこともあります。

しかし、その場合でも、人間を導くという傾向は自然に出てきます。また時には特殊な使命を帯びた霊が付くこともあります。性格に欠けたものがあって、それを補ってやるために、その欠けたものを豊富に有する霊が選ばれることもあります。

反対に、霊の側に欠けたものがあり、それを身につけるために適当な人間を選ぶという場合もあります。これは高級霊が好む手段です。自分の霊的向上のために、あえて指導が困難で、不愉快な思いをさせられる可能性の大きい人間に付くことを、みずから希望するのです。その人間と苦労を共にしつつ向上していくのです。

中には霊的親和力によって結ばれるケースもあります。地上的縁の名残りで引きつけられることもあります。そして、特別な使命を帯びていない人間の背後霊は、魂が向上するにしたがい、しばしば入れ替わることがあります。

– そうやって地上へ戻ってくる霊はどの程度の霊ですか。

主として、地球にもっとも近い下層の3界(2)の者たちです。地上の人間との連絡が取りやすいからです。高級霊の場合は、いわゆる霊媒的素質に似たものをもつ者に限られます。このことについては多くは語りません。

われらの通信を正しく伝えることのできる霊媒を見出すことは至難の業(わざ)であるということを申し上げるにとどめます。通信を望む霊は実に多いのです。しかし、適切な霊媒が見当たらないこと、それを求めて、あたら無駄な時を費すのを嫌うゆえに、彼らは地上との接触を断念するのです。

ここにも霊界通信の内容に矛盾の生じる要因があります。時おり発見される間違いは、必ずしもわれらの側の落度とは限りません。そのうち、通信に影響を及ぼす事情について、さらに多くを語る時期もくることでしょう。

悪魔と邪霊集団

– 神に敵対する霊のことを述べられましたが、それはどういう霊ですか。

われらの使命を阻止せんとする邪霊集団のことです。彼らは、いかにもわれわれと同じ勢力、同じ仕事仲間であるかに装(よそお)いつつ、わざとしくじり、人間ならびに霊の、われらへの反抗心を煽ることをします。

悲しいかな、彼らは善性を求める心を魂の奥へ押し込めてしまい、邪悪な道に快感を求め、とくに悪の要素の強烈な霊を首領として集結し、われわれに増悪を抱き、仕事を邪魔しようとします。

彼らは悪戯(いたずら)に長(た)け、ある時は人間の悪感情を煽り、ある時はわれわれと同じ仲間であるかのごとく装いつつ、わざとヘマをやっては、半信半疑の真面目な人間を迷わせ、なかんずく、崇高にして高雅なものを授けんとするわれわれの努力の裏をかき、真摯(しんし)な学徒に、下劣にして卑俗なものを与えようと企(たくら)みます。神の敵であり、人間の敵というべきです。善の敵であり、悪の使者です。彼らに対して、われらは飽くなき闘いを挑むものです。

– そうした悪の組織の存在は聞くだに恐ろしいことですが、一方には悪の存在を否定し、すべて善であり、悪に見えるものも善が悪を装っているに過ぎないと説く人がいるのですが…。

ああ、哀(あわ)れなるかな!哀れなるかな!善なるものへ背を向け悪への道を選んだ者ほど哀れなものはありません。そなたは、その邪霊たちが群れをなしてわれらの使命を阻止しようとしていることが驚異だとおっしゃるが、それなど、まだまだ驚くには当たりません。実状はそれどころではないのです。

人間は霊界へ来たからとて、地上時代といささかも変るものではありません。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪(けんお)感をそのまま携(たずさ)えてくるのです。変るのは肉体を棄てたということだけです。低俗な趣味と不純な習性をもつ魂が、肉体を棄てたくらいでその本性が変るはずはありません。

それは、誠実にして純真な向上心に燃える魂が、死と同時に俗悪な魂に一変することが有りえないのと同じです。そなたがそれくらいのことを知らずにいることこそ、われわれにとっては驚異です。

考えてもみられよ。純粋にして高潔な魂が、視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できるであろうか。しかるに、あなたがたキリスト者は、神を憎み、善に背を向け、肉欲に溺れた罪深い魂も、懺悔(ざんげ)ひとつで清められて天国へ召されると説かれる。前者が有りえないごとく後者も絶対に有りえません。

魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれるのです。すぐに剥(は)げ落ちる上塗(うわぬ)りではないのです。魂の本性に織り込まれ、切り離そうにも切り離せない一部となりきること、それが向上であり成長というものです。

そうして築かれた本性がもしも崩れるとすれば、それは、長い年月にわたる誤った生活によって徐々に朽ちるのであって、織物を乱暴に切り裂くように、一夜にして崩れることはありません。

ありません!絶対にありません!習い性となり、魂に深く染み込んでいくのです。肉体の煩悩に負けた魂は、ついにはその奴隷となっていきます。そうなったが最後、純なるもの、聖なるものを嫌い、死後もなお、かつての地上の遊び場へ赴(おもむ)いて、肉の快楽に耽(ふけ)ります。魂の本性となり切っているからです。

これで納得がいかれるであろう。悪の軍団とは、そうした未発達・未熟の霊のことであり、それが、親和力の働きによって、善なるもの・聖なるものへの反抗心のもとに結束するのです。

彼らに残された更生への道はただひとつ、高級な霊の導きによって道義心が目覚め、懺悔のうちにひとつひとつ過去の罪を償(つぐな)いつつ、歪(ゆが)んだ心を正し、苦しみの中に1歩1歩向上することのみです。

こうした低級霊が実に多いのです。そのすべてがわれらの敵なのです。善に対抗し、真理の普及を妨げようとする悪の組織の存在を否定する言説こそ、人間を迷わせようとする彼らの策謀(さくぼう)であることを心すべきです。

– その首謀者というべき“悪魔”がいるのでしょうか。

彼らを煽動する悪玉は沢山います。しかし、キリスト教神学で説くような“悪魔”は存在しません。善良な霊も邪悪な霊も、すべて、善悪を超越した宇宙の大霊の支配下にあります。

[注釈]

(1)地上に生をうけた霊(人間)の天命の成就と罪障消滅を目的として、陰から守護・指導・援助する霊(複数)を指す、総称的な用語。本人の魂の親に当たる守護霊(ガーディアン)を中心として、複数の指導霊(ガイド)と支配霊(コントロール)が含まれる。その意図するところは各自まちまちであるが、守護霊の許しを得て、その監督のもとに働いている点においては同じ。したがって邪霊・因縁霊の類いは“背後霊”と呼ぶべきではない。

(2)インペレーターによると宇宙は大きく3階層に分かれていて、各階層がさらに7界ずつに分かれている。地球は最下層の階層の中の最上界に属するという。第3節でくわしい説明がでる。

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第2節 現世と来世

[本節の通信も、前節と同じくインペレーターからのものである。地上という養成学校における、もっとも望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。それに対してインペレーターは、頭脳と同時に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和のとれた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であるという。そこで私は、博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると – ]

真の博愛主義者・真の求道者

真実の博愛主義者、すべてに先んじて同胞の利益と進歩とをおもんぱかる人こそ、真実の人間、真の神の子です。神こそ無上の博愛主義者だからです。

真の博愛主義者とは、時々刻々、神へ近づきつつある者のことです。絶え間ない努力によって永遠・不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わいます。博愛主義者と求道(ぐどう)者、すなわち人類愛に燃える人間、偏見のない真理探究者こそ神の宝、比類ない価値と将来性に満ちた珠玉です。

前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁(いっしどうじん)、全人類を同胞として、その温かい心の中に抱き込みます。

すべての人間を友として、また兄弟として愛するのです。思想のいかんを問わず、ひたすらその者の必要とするものを洞察し、それに相応(ふさわ)しい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える – こういう人こそ真の博愛主義者です。

もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいます。自分の名声を広めんがために、自分に同調する者、媚(こ)びへつらい施しをする者のみを愛します。このような似非(えせ)博愛主義者は、その真実の印である“愛”の名を傷つける者というべきです。

一方求道者は、いっさいの宗教、いかなる教派の教義(ドグマ)にも媚(こ)びず、いっさいの偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものであれば潔(いさぎよ)く受け入れます。

すなわち、かくあるべし – したがってかくあらねばならない、という固定観念に捉われることなく、神的叡智の探究に邁進(まいしん)し、そこに幸せを見出します。

彼には、宝庫の尽きることを懸念する必要などありません。神の真理は無限だからです。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集(しゅうしゅう)に喜びを見出すのです。言いかえれば、神についての、より正しい知識の蒐集です。

この2者の結合、すなわち博愛主義者的要素と求道者的要素とが一体となったとき、そこに完璧な理想像ができあがります。両者を兼ねそなえた魂は、片方のみを有する魂より大きな進歩を遂げます。

– “生命の旅”と言われましたが、それは永遠ですか。

さよう、生命は永遠です。そう信じるに足る十分な証(あかし)があります。生命の旅には2つの段階があります。すなわち進歩的な“動”の世界と、超越的な“静”の世界です。

今なお“動”の世界にあって、人間の用語でいえば、幾十億年、限りある知性の範囲を超えた、事実上無限の彼方までの進化の道程を歩まんとしているわれらとて、超越界については何ひとつ知りません。

しかし、われわれは信じています – その果てしない未来永劫(えいごう)の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去のすべてを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙のいっさいの秘密に通じることになる、と。が、それ以上は何ひとつ語れません。あまりに高く、あまりに遠すぎるからです。

人間はそこまで背伸びすることはありません。生命には、事実上、終末はないものと心得るがよろしい。そして、その無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院へ通じる、はるか手前の門に近づくことを心がけておればよろしい。

– 無論そうであろうと思います。あなたご自身は、地上におられた時よりも神について多くのことを知られましたか。

神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く、温かいエネルギーの作用については、より多くを知ることができました。つまり“神について”は知ることができました。しかし、“神そのもの”を直接には知りえません。これより後も、かの超越界に入るまでは知りえないでしょう。われらにとっても、神は“その働きによって”知るのみです。

人間の無知が生み出す罪悪

[引き続いての対話の中で、私はふたたび善と悪との闘いに言及した。それに対して、というよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が綴られた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが10年ないし12年続いて、ふたたび一時的な凪(なぎ)が訪れると述べた。予言めいたことを述べたのはこれが初めてである。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返されたことであるが、その時に綴られたままを紹介しておく。]

そなたが耳にしたことは、これより後も続く、永くかつ厳しい闘いの“ささやき”ていどに過ぎません。善と悪との闘いは、時を隔てて繰り返し起きるものです。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されてきたことがわかります。

時には未熟な霊が支配した時期もありました。ことに大戦の後にそれがよく見られます。機が熟さないうちに肉体から離された戦死者の霊が、大挙(たいきょ)して霊界へ送り込まれるためです。

彼らはまだ霊界への備えができていません。しかも、戦いの中で死んだ霊の常として、その死に際(ぎわ)の心は憤怒(ふんぬ)に燃え、血に飢え、邪念に包まれています。死した後もなお永きにわたって、その雰囲気の中で悪のかぎりを尽くすのです。

霊にとって、肉体から無理やり離され、怒りと復讐(ふくしゅう)心に燃えたまま霊界へ送り込まれることほど危険なものはありません。いかなる霊にとっても、急激に、そして不自然に肉体から切り離されることは感心しません。

われらが死刑という手段を、愚かにして野蛮な行為であるとする理由もそこにあります。死後の存続と向上・進化についての無知が未開人のそれに等しいがゆえに野蛮であり、未熟な霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせ、さらに大きな悪行に駆(か)り立てる結果となっているがゆえに愚かというのです。

現在の地上人類は、みずから定めた道徳的ならびに社会的法律に違反した者の取り扱いにおいて、あまりに盲目的であり、あまりに無知です。幼稚にして低俗な魂が道徳に反することをする、あるいは法律を犯す。すると、すぐにその悪行の道を封じる手段に出る。

本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純な霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、すぐに牢獄に閉じ込めてしまう。

そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿な邪念に燃えています。それのみか、霊界の未熟な邪霊もそこにたむろし、双方の邪念と怨(おん)念とによって、まさに悪の巣窟(そうくつ)と化しています。

何たる無分別!何たる近視眼!何たる愚行!と叫びたくなります。その巣窟には、われらが入ろうにも到底入ることはできないのです。神の使徒は手の施しようもなく、ただ茫然(ぼうぜん)として立ちつくすのみです。

人間の無知と愚行の産物である、地上ならびに霊界の悪の集団を目(ま)のあたりにして、悲しみの涙を流します。人間が犯す罪の心はしょせん癒やせぬものと、そなたたちが諦(あきら)めるのも不思議ではありません。何となれば、人間みずからが、罪の道に堕(お)ちる者を手ぐすねひいて待ちうける悪霊に、まざまざと利用されているからです。

いかに多くの人間がみずから求めて、あるいは無知から悪霊の虜(とりこ)にされ、冷酷な心のまま牢獄から霊界へ送り込まれているか、そなたたちはご存知ないし、また知りえぬことでしょう。

しかし、もしも右のような事実を考慮して事に臨めば、必ずや効を奏し、道を踏みはずした霊たち、悪徳の世界に身を沈めている霊たちに、計り知れない救いを授けることになりましょう。

罪人は教え導いてやらねばなりません。罰するのはよい。こちらの世界でも処罰はします。が、それは、犯した罪がいかに自分自身を汚し進歩を遅らせているかを悟らせるための、一種の戒(いまし)めであらねばなりません。

神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償(つぐな)い、真理の泉で魂をうるおすことを体験させてやらねばなりません。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、温かい霊波を注ぎ込んでくれることでしょう。

ところが現実はどうでしょう。罪人を寄せ集めては、手を施す術(すべ)なき者として牢に閉じ込めてしまいます。その後さらに意地悪く、残酷に、そして愚かきわまる方法によって処罰します。

そうした扱いを受けた者は、刑期を終えて社会へ復したのちも、繰り返し罪を犯します。そしてついに、最後の、そして最も愚かな手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられます。すなわち死刑囚とされ、やがて斬首されます。

心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知な彼らは、その瞬間、怒りと増悪と復讐心に燃えて霊界へ来ます。それまでは肉体という拘束物がありました。が、今その拘束から放された彼らは、その燃えさかる悪魔のごとき邪念に駆られて暴れまわるのです。

人間は何もしりません!何ひとつ知りません!自分たちのしていることがいかに愚かであるか、一向に知りません。人間こそ人間の最大の敵であることを知りません。神とわれらと、そしてわれらに協力する人間を邪魔しようとする敵を利することになっていることを知らないのです。

知らないと同時に、愚かさの極みです。邪霊がほくそえむようなことに、あたら、努力を傾けています。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したにすぎない者に、報復的刑罰を与える。

厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化しているのです。断じて間違いです。しかも、こうして心を傷つけられた霊たちが霊界から報復に出ることを、地上の人間は知りません。

神の優しさと慈悲 – 堕落した霊を罪悪と憤怒(ふんぬ)の谷間から救い出し、聖純さと善性の進歩の道へ手引きせんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知る必要があります。右のごとき行為を続けるのは、神の本質についてまったく知らないからです。神学者たちは自分の本能的欲求にとって都合のよい神を勝手に作りあげています。

すなわち、どこか高い所から人間を座視し、自分の権威と名誉を守ることのみに汲々とし、自分の創造物については、自分に媚(こ)び自分への信仰を告白した者のみを天国へ召して、その他の者に対しては容赦(ようしゃ)も寛恕(かんじょ)もない、永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔のごとき神をでっち上げました。

そうした神を勝手にこしらえながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えのない言説を吐かせ、温かい神の御心には到底そぐわない律法を定めました。(1)

何と見下げ果てた神!一時の出来心から罪を犯した無知なわが子に、無慈悲な刑を科して喜ぶとは!作り話にしても、あまりにお粗末です。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟な心の産物にすぎません。

そのような神は存在しません!断じて存在しません!われらにはとても想像の及ばぬ神であり、人間の卑劣な心の中以外のどこにも存在しません。

父なる神よ!願わくは無明(むみょう)の迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身について悪夢を見ているにすぎないこと、御身についてのこれまでの愚かな概念を拭い去らぬかぎり、真の御姿を知りえぬことを悟らしめ給え。

しかり。友よ、人間が設けた牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方のすべてが、ことごとく誤りと無知の上に成り立っているのです。

戦争および大虐殺にいたっては尚のこと恐ろしいことです。本来なら同胞として手をつなぎ合うべき霊たち – われわれにとっては身体は眼中にありません。一時的に物的原子をまとった“霊”こそ関心の的です – その霊たちの利害の対立を、人間は戦闘的手段によって処理せんとします。

血に飢えた霊たちは、怨念(おんねん)と憤怒を抱きつつ肉体から引き裂かれ、霊界へと送り込まれます。肉体の束縛がなくなった霊たちは、燃えさかる激情にさらに油を注がれたような激しさをもって地上界を席巻(せっけん)し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心をいっそう駆り立てます。

しかし、その拠ってきたるそもそもの原因は、単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かな野望に類するものであったりします。

ああ、友よ、人間はまだまだ知らねばならぬことばかりです。しかもそれを、これまでに犯した過ちを償うためにも、苦(にが)くかつ辛(つら)い体験を通して知らねばなりません。

何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰にまさる叡智であることを知らねばなりません。かりにもし神が、キリスト者が想像するように、人間が同胞を処罰するごとくに人間を扱うとすれば、キリスト者みずからが、間違いなく自分の想像する地獄へ堕ちねばならなくなります。

神について、われら第使徒について、そして自分自身について、人間はまだまだ知らぬことばかりです。それを知った時はじめて人間としての真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使徒の使命達成のために協力することになりましょう。

友よ、もしもわれわれのメッセージの有用性と利益について問う者があれば、それは、無慈悲と残虐と怨念の産物に代わって、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げられよ。神への崇敬の念とともに、愛と慈悲と憐憫(れんびん)の情をもって人間のために尽くさんとする霊的存在について知らしめんがためであると告げられよ。

人間がみずからの過ちを悟り、神学的教義の他愛(たわい)なさに目覚め、知性をいかにして自分の進歩のために活用するかを学び、与えられた好機を自分の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞に再会した時に、社会の障害物・厄介者だったと非難されることのないよう、常に同胞のために役立つ生き方を教えるものであることを告げられよ。

それこそがわれらの栄(は)えある使命であることを、その者たちに告げられるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、それまでのお気に入りの説にて事足れりと自負するのであれば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的な魂の目を向けられよ。そして彼らに、地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを届けるがよい。

そして、真理に目覚めぬ者のためには、死してのち霊界にて目を覚ました時に、自分の惨憺(さんたん)たる姿に絶望することのないよう、祈ってあげるがよい。

[注釈]

(1)西暦325年に開かれたニケーア会議の舞台裏で、時の皇帝コンスタンチヌスは、宗教によって人心を縛るための得策として、かずかずの“しるしと不思議”つまり奇跡的心霊現象を起こしたナザレ人イエスが死後もなお根強い人気と話題をさらっている風潮に目をつけ、これを“神の子”に仕立てるために世界中の神話・伝説から適当なものを借用してもっともらしくつなぎ合わせ、今にいう“新約聖書”なるものをでっち上げた。

そして、それをもとに次々と教義をこしらえて“神学”という体系を築き、これに異議を唱える聖職者は処刑されたり追放されたりした。これがさらに教育・文化・芸術の分野にまで拡大され、西洋史にいう“暗黒時代”を迎える。

それは、西洋史ではルネッサンスつまり文芸復興期(14~16世紀)まで続いたとされているが、潜在的にはごく近代にまで尾を引いていたことを、インペレーターは指摘している。

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第3節 “試練”の境涯と“無”の境涯

[前節の通信が書かれた時の勢いは、これまでになく激しいものだった。1ページ1ページにきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけはかならず大文字で書いた。書き上がったものを見ると、まさに書き方の手本のようだった。

が、書き綴っている間は手がヒリヒリし、腕がガクガクして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終えた時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで、翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。前回と打って変ってひじょうに穏やかな筆致で、こう綴られた – ]

不幸のタネを蒔(ま)く人間的愚行

あの時の頭痛はエネルギーそのものの強さと、それをそなたから引き出す時の速さの度が過ぎたためです。あのような重大な問題については、熱烈さを伴わずしては書けません。

われわれが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題と当事者たちの関心を向けさせることにあるからです。われわれは神の定められた不変の摂理にしたがうことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは、おのれを危くすることになるからです。

戦争は、人間の欲望と野心、怒りと驕(おご)りと復讐心の産物にほかなりません。そして、その戦争のあとに残されるものは何であろうか。神の美(うる)わしき自然が破壊され、踏みにじられる。

人間の素晴らしい平和な勤勉の産物が、無残にも破壊される。いたるところが血の海となる。そうして、未熟で無知で未浄化の霊が、むりやり肉体から離されて、洪水(こうずい)のごとく霊界へと送り込まれる。

ああ、何たる愚行!何たる蛮行でしょう!地上みずから悪を生み、そして、つねに悲劇に終わる。その愚かさに目覚めぬかぎり、人類の進歩は遅々(ちち)として進まないでしょう。しかるに人間は、絶え間なく悪のタネを蒔きつづけ、それがわれわれの仕事の障害ともなっているのです。

地上の社会制度と機構には、改めねばならぬことが数多くあります。取り入れねばならぬものが数多く存在します。たとえば大衆のための法律とはいいつつ、その実、犯罪人を懲(こ)らしめるための法律でしかありません。もとより法律には懲罰(ちょうばつ)的要素もなくてはなりません。が同時に、厚生的要素も持たねばなりません。

しかるに当事者たちは、異常者とみたらすぐに逮捕し、他の者へ危害を及ぼさぬようにと、隔離します。数年前に大規模にそれを行ない、拷問にかけ、精神病棟をぎゅうぎゅう詰めにしました。

彼らのどこに罪があるというのであろうか。何のことはない、その口にすることが一般の常識と異なるというに過ぎません。あるいは – 古来、狂人とされた者の多くがそうであり、今なおよくあることですが – 単に未熟な霊にそそのかされたに過ぎないのです。

いつの日かその真相を知って後悔することでしょうが、常識の道から外(はず)れることが、かならずしも狂える証拠とはかぎりません。霊の教えの道具となることが精神に異常をきたすことにはならないはずです。

しかし現実は、為政者の愚行によって多くの神の使徒が公然とその使命を遂行する自由を奪われ、さらに、われらこそ精神病棟をあふれさせ霊媒を発狂させた元凶であるという、誤った認識が行なわれています。盲目にして無知な為政者が、われら霊の世界とその教えと関わりをもつ者すべてを精神病者と決めつけたからにほかなりません。

愚かにも彼らは、霊の世界と関わりをもつことそれ自体を狂気の証(あかし)と決めつけ、したがって霊的真理を口にする者はことごとく狂人であり、ゆえに精神病院に隔離せねばならぬと決定しました。そして偽りの供述書を作成することによって霊媒に狂人の汚名を着せ幽閉することに成功すると、こんどは、霊媒を狂わせたのは霊であるとの口実のもとに、その罪をわれらに押しつけたのでした。

堕落の道へ誘う悪霊・邪霊の存在

もしこれを無知の産物というのでなければ、神への冒瀆といわねばならないでしょう。われわれは神の恵み以外の何ものもお持ちしておりません。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかなりません。

人間がその罪深い心と邪悪な生活によって同類の邪霊を引き寄せてその邪性を倍加すれば、その罪は人間みずから背負わねばなりません。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているにすぎないのです。

邪霊を咎(とが)める前に、まず人間みずからがその過ちを知らねばなりません。魂と身体の管理をおろそかにしたために邪道に迷い込んだのです。言い換えれば、神聖な霊の影響力から遠ざかったという意味において迷っているのです。

しかし、われわれはその種の人間には取り合いません。彼らはまだしも良いのです。彼らよりはるかに道を外しているのは、あなたたちが道を外している者とは思えない、飲んだくれの肉欲集団です。

彼らは快感に浸っておのれを忘れ、汚れた肉体の官能を飽くことなく刺激し、堕落者、不道徳者と交わり、あげくには、もう1度肉体的快楽を求めてうろつきまわる邪霊・悪霊の餌食(えじき)となっていくのです。

われわれの目から見れば、こうした邪心と不純の巣窟ほど恐ろしいものはありません。この上なく卑(いや)しく、この上なく恐ろしい堕落の巣窟です。言うなれば、人類の文明の汚点であり、知性の恥辱(ちじょく)です。

– もう1度肉体的快楽を求めるとは、どういう意味ですか。

こうした地縛の霊(1)は、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残しています。それを直接的に感取する器官はすでにありませんが、欲求だけは消えていません。飲んだくれは相変らず酒色の味が忘れられません。いや、むしろ一段と強く求めます。いくら耽っても満足が得られないためです。

魂の中で欲念が炎のごとく燃えさかります。その欲念に駆られて、かつて通いつめた悪徳の巣窟へ引き寄せられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑(つ)き、その者の堕落をいっそう深めていきます。

かくして再び地上生活を味わい、同時に、その人間が次第に深みにはまっていくのを見て、悪魔のごとく、してやったりと、ほくそえみます。こうして悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを生みつづけます。

魂を奪われたその哀れな人間は、目に見えぬ悪の使者に駆り立てられ、泥沼に深く、深く、沈んで行くのです。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れています。そのまわりを、打つべき手をすべて失った守護霊(2)が、為すすべもなく徘徊(はいかい)しています。

こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽(ふけ)る人間をとりこにして、今1度、地上的快楽を味わっている現実を知っていただきたいからです。1度酒色に溺(おぼ)れた者の更生が困難であるのは、このように、悪徳の悪循環が行われているためなのです。

その悪循環を断ち切るには、人類全体の道徳的意識の高揚と、物的生活の質の向上にまつほかはありません。それにはまず、よりあか抜けのした、真実の霊的知識の普及が必要です。つまり幅広い、真の意味での高等教育が要請されるのです。

– そうすることによって、今お述べになったような憑依が防げるということでしょうか。

さよう、最後には防げます。人間の側からエサをまくような愚行を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外に方法はありますまい。

貴重な地上的体験

– 幼くして他界した子供は、一気に高い世界へ行くのでしょうか。

そういうことは有りえません。地上生活ならではの体験はけっして免除されることはありません。確かに、汚れを知らないという利点のおかげで“浄化のための境涯”はすみやかに通過できましょう。

が、体験と知識の不足は、それを補いそして鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばなりません。ゆえに、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせて損失を招くのみ、と判断された場合を唯一の例外として、けっして得(プラス)にはなりません。

与えられた宿命に甘んじ、おのれの成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇(あが)め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直にしたがう者こそ、地上生活を最大限に活用している人といえましょう。

そうした地上生活を送った者には改めて学び直すものはなく、したがって霊界での向上もすみやかです。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類のうぬぼれと利己心、無精(ぶしょう)と怠慢(たいまん)、そして、わがままです。公然たる罪悪と悪徳、それに偏見から真理の受け入れを拒否する頑迷固陋(ころう)の態度 – こうしたものは申すまでもありません。

魂の肥やしは、愛と知識です。子供には愛はあるかも知れませんが、知識は教育されないかぎり、身につくものではありません。これは、霊媒の背後霊の1人となって生活を共にすることによって獲得されることがよくあります。

しかし、夭折(ようせつ)する子の中には、もしもそのまま地上生活を続けていれば、いたずらに悪徳と苦しみにさらされるであろうと見なされた子が少なくありません。そうした子は、知識の上での損失を純粋性で補ったことになります。

が、不利な環境の中で闘い、そして克服した者の方が、はるかに気高いものです。試練によって一段と清められていますから、そうした魂のために用意された境涯へと進むことができます。

地上的体験は貴重なのです。その体験を得るために大ぜいの霊が地上に戻り、霊媒の背後霊となって自分に必要な体験を積もうと努力しているのです。それは、ある者にとっては情愛の開発であり、ある者にとっては苦しみと悲しみの体験であり、またある者にとっては知性の開発であり、感情のコントロール、つまり心の平静の涵養(かんよう)であったりします。

このように、地上に戻ってくる霊には、われらのように特殊な使命を帯びた者を除いては、自分自身にとっての何らかの目的があるものです。つまり、われわれ並びにそなたとの接触を通じて向上進化を遂げんとしているのです。それは魂の自然の欲求です。より高き向上!より多くの知識!より深き愛!かくして不純物が一掃され、神に向かって高く、より高く向上して行くのです。

– 地上に戻ることだけが、進歩のための唯一の手段ではないと思いますが…

もちろんです。しかも、それが普通一般ということでもありません。こちらの世界には幾多の教育施設が用意されています。また、1度失敗した方法は、2度と採用しないものです。

霊の救済団によって救われる者・救われぬ者

[このあと、霊の世界の住居と仕事についての通信が続いたが、私には今ひとつ理解がいかないので、その霊(インペレーター)は自分の境涯以外のこと、というよりは、“その上の界”の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。

すると、霊にも霊界のすべてに通暁(つうぎょう)する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく“試練”もしくは“浄化”の境涯と、そのあとにくる超越界 – いったん突入したら、よくよくの場合を除いて、2度と戻ることのない“無”の世界 – との間には大きな懸隔(けんかく)があるということだった。そして続けてこう綴られた – ]

7つ(3)の試練界の最高界から超越界の最低界への突入は、人間界の死にも似ていましょう。が、その超越界については、われわれもほとんど聞かされていません。ただ、われわれがこうしてそなたたちを見守っているごとく、その世界の至聖なる霊もわれわれを援助し、そして導いてくださっていることだけは承知しています。が、それ以外の客観的な事実については何も知りません。

わかっているのは、その世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源にも通じて、神を身近に拝することができるらしい、ということのみです。(4)われらとて、まだまだその至福の境涯からはほど遠く、まだまだ為さねばならぬことがあります。その遂行の中に喜びを見出しているところです。

霊といえども、自分が得た経験と知識にもとずいて語っていることを承知しておく必要があります。奥深い問題についても、それまでに知り得たかぎりの知識で回答を出します。となれば、真実から外れたことを述べることも有りうるわけですから、そうした霊を咎め立てするのは感心しません。

霊の世界について間違いなく言えることは、そなたたちの住む地球が7つの下層界のうちの最高界であり、その上に7つの活動の世界があり、さらにそのあとに7つの超越界が存在するということです。(5)ただし、その7つの各界には数多くの“境涯”が存在します。

みずから好んで堕落の道を選んだ者が、ついに後戻りできない境涯にまで落ち込んでいく理由については、すでに少しばかり述べました。絶え間なく悪を求め善を拒絶していくことは、必然的に純粋なるもの・善なるものへの嫌悪(けんお)感をはぐくみ、邪悪なるものを求めさせることになります。

こうした性癖をもった霊は、ふつう、獣欲に支配された肉体に宿ることが多いものです。成長とともに獣欲の誘惑に負け、あげくの果てにその奴隷となっていきます。

高尚なものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代って肉体が完全に支配し、自分の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断基準も持ち合わせません。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていきます。

ここまで至った者は、危険この上ない状態にあると言わねばなりません。もはや背後霊は恐怖におののいて、その場を逃れます。その雰囲気に息が詰まるのです。すると代って別の霊たちが群がり寄ります。

かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちです。彼らは今1度官能の快楽を味わい、その人間を罪深い生活へと追い込んでは、快哉(かいさい)を叫びます。

こうした肉体的罪悪をふたたび繰り返したくなる性向は、自然の摂理を意識的に犯した報いの中でも、取りわけ恐ろしいもののひとつです。彼はついに肉体的快感のとりこになり果ててしまったのです。そして、見るがよい。その肉体が滅んだあとも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの場をうろつきまわります。

そうして、そこにたむろする同類の飲んだくれに憑依して、ふたたび酒色に耽ります。都会に軒をつらねる酒場、哀れな道楽者のたむろする悪徳の巣窟には、かつて地上で同じように酒色と悪徳に耽っていた霊がうろつきまわっております。

彼らは地上で飲んだくれの生活を送りました。今またそれを繰り返し、あまつさえ、そこに通いつめる人間を深みに引きずり込んでは、してやったりと、ほくそえむのです。

その邪霊の群がる場をひと目見れば、そなたも、悪のはびこる謎の一端を知ることができるでしょう。悪の道にはまった人間の更生を困難にし、地獄への堕落を容易にし、光明への帰還を妨げるのは、実にこれら邪霊たちなのです。地獄への坂道には、狂ったような勢いで破滅への道を急ぐ邪霊が、そこかしこにたむろしています。

その1人ひとりが邪霊集団の拠点であり、人間を次々と破滅へ追いやっては、彼らと同じ惨(みじ)めな境遇にまで引きずり下ろすことに、一種の快感を味わっているのです。

引きずり下ろされた者は、肉体から離れるとすぐさま、地上よりさらに下層の、同種の境涯に引き寄せられていきます。そして、誘惑者と暮らしつつ、肉体を失ったのちもなお消えやらぬ、激しい情念と酒色に耽るのです。

こうした境涯にある霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはありません。首尾よくその欲求の芽生えた時が、更生への第一歩となります。

地上にも、みずからを犠牲にして悪徳の世界へ飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生させている気高い人物がいるように、こちらの世界にも、そうした奈落の底に沈んだ霊の救済に身を投じている霊がいます。

そうした霊の努力によって善性が目覚め、堕落の生活から救済され、浄化の境涯における長く辛い試練をへて、ついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は、決して少なくありません。

かくして聖なるものへの欲求が鼓舞(こぶ)され、悪性が純化されていきます。それよりさらに深く沈んだ境涯については、われわれも多くのことは知りません。漠然とではあるが知り得たところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされているようです。

中には、善なるものへの欲求をすべて失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者がいます。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく – 少なくともわれわれはそう信じております。

ああ、何と悲しいことでしょう。が、有り難いことに、そうした霊は稀(まれ)にしか存在せず、よくよくの事情によって善と聖へ背を向けた者に限られます。これがイエスが弟子たちに語った“死にいたる罪”です。聖書にいう“聖霊に対する罪”です。

すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて、悪徳と不純の生活を選んだ罪です。動物性が霊性を駆逐し、身体までも蝕(むしば)み、情欲を刺激し、もっとも下賤な感情をさらに汚し、人間性を最下等の獣性にまで引き下ろしてしまう罪です。

そこまで至った者はもはや神性は消え失せ、野獣性が異常に助長され、強化され、発達し、すべてを支配し、霊の光を消し、向上心の息の根を止めます。悪徳の念のみが燃えさかり、魂を向上の道から遠くへ遠くへと押しやり、ついに動物性を病的なものにしてしまいます。もはや霊の声は届きません。魂は、一路、奈落の底へ深く深く沈んで行き、ついに底知れぬ暗闇の中へ消滅してしまいます。

罪そのものが罰を生み出す

これが聖書に言うところの“赦(ゆる)し難き罪”です。赦し難いとは、神が赦さないという意味ではありません。みずからその道を選んでいるという意味です。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じないためです。

罰は、つねに罪そのものが生み出すのです。それが罰の本質であり、けっして第三者によって割り当てられるものではありません。摂理を犯したことによる不可避の結果なのです。

その報いから免れることは絶対にできません。もっとも、悔い改めによってその苦痛が和らぐことはあり、その結果として罪悪への嫌悪(けんお)感と善への志向をつちかうことにもなります。これが誤った方向から引き戻し、過ちを償わせ、その結果として、魂に新たなる希望をはぐくんでいく、その第1歩といえましょう。

彼を包む霊的雰囲気はすっかり変わり、天使も気持よく近づき、援助の手を差し述べることができます。悪の影響から完全に隔離されます。そのうち悔恨と無念の情が湧(わ)いてきます。

性格は優しく温順となり、善の影響に感応しやすくなります。かつての、かたくなで冷酷で反抗的態度は消え失せ、魂が進化しはじめます。過去の罪の償いも終わり、良心の呵責(かしゃく)もすっかり和らいでいます。こうした過程はいつの時代でも同じなのです。

さきに、地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点にもとづいてのことでした。万一われわれが同じ要領で過ちを犯した霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯は、すっかり身を滅ぼした霊でひしめき合うことでしょう。

が、神はそうはさせません。そして、われわれはその神の命を受けて参った者なのです。

[注釈]

(1)earth-bound spirits 文字通り“地球に縛りつけられた霊”で、地上的雰囲気から脱け切れずにいる霊を総称する。いわゆる因縁霊も地上生活との業(ごう)が断ち切れない地縛霊といえる。

(2)Guardian 又は Guardian angel 地上に生を受けた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の1人で、誕 生時、あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。

英語もそうであるが、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る(ガード)”という意味があるために、とかく、守護霊とは何ごとにつけ守ってくれる霊と想像されがちであるが、本来の使命は、本人の地上での使命の達成と罪障消滅、つまり因果律を効果的に成就させることであって、それを挫折または阻止せんとする勢力からは守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気などの“魂の試練”まで免れさせることはしない。

ただ、人間の家庭でも親によって躾(しつけ)の仕方が違うように、守護霊によって考え方や方針が異なる。したがって守護霊とはこういう働きかけをするものと一概に論ずることはできない。

(3)死後の世界はビルの階のように段々に仕切られているものではなく、波動の原理による“次元”の問題なので、何を基準にするかによって、分け方が違ってくる。したがって他の通信の説と数字の上だけで比較するのは適当でない。

(4)このように、知らないことは知らないと正直に言えるところに、インペレーター霊とモーゼスの霊格の高さがうかがえる。最高界ないし究極の世界は、そこへ行ってみないことには分るはずがないのであるから、人間界とコンタクトできる範囲にいる霊にそれが知れる道理がない。

なのに、いかにもそれを知り尽くしているかの言語を吐く霊がいるが、その事実そのものが、その霊が、本人は大まじめでも、実際にはおめでたい低級霊であることを物語っている。

それは同時に、それを受ける霊媒も同質・同等の霊格しかないことを物語っている。神々のお告げと称するものを平気で語る霊媒は、霊能も人格もお粗末であることを、みずから証言しているようなものである。

(5)この“7つの界”についてインペレーターは何の説明もしていない。どこかで具体的に述べているはずなのであるが、モーゼスが本書で紹介してくれていない。

が、私の推察では、インペレーターのいう超越界というのは、日本で一般的となっている物質界・幽界・霊界・神界の分け方でいけば神界に当たり、それも地球圏内での話であって、かりに太陽圏へもって行けば、その霊界あたりに相当するのではないかと考えている。

太陽圏の神界となると、インペレーターも言うように知る手掛かりさえないが、それとても銀河系全体の規模の神界に較べれば、その霊界ていどに過ぎないはずで、こうして究極を求めてたどっていくうちに、人間の脳味噌の限界ゆえに、茫然自失してしまう。

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第4節 “読み取り”の実演

[以上の通信は、1873年の4月から5月にかけて受け取った厖大(ぼうだい)な量の通信からの抜粋である。このころには自動書記もラクに、そして流暢に書けるようになり、適切な用語も前ほど苦労せずに見つかるようになっていた。

私と関わっている何人かの霊の地上時代のことや正確な記録もいくつか明らかにされた。たとえば5月22日に、まったく別の問題について綴っていたところ、突如その通信が途切れて、トーマス・オーガスチン・アーン(1)という名が署名された。そしてスピーア博士(2)のご子息で、すばらしい才能の持ち主である私の生徒との縁で出られることになったと、その経緯(いきさつ)を書いてきた。

私はその自動書記通信に大いに関心を抱き、その内容にも注目した。そこでさっそく当時の筆記者のドクターにアーンの身元を証明する地上時代の事実があれば提供してもらいたいと頼んでみた。すると、間髪(かんぱつ)を入れず返答が書かれた。

生年(1710年)、学校名(イートン)、バイオリンの教師名(フェスティング)、作品集、ないしは少なくともそのうちの8曲ないし9曲の曲名。さらに彼の作曲した英国の愛国歌「ブリタニアよ、統治せよ」(3)が「アルフレッドの仮面劇」(4)の中に収められていること。その他、実に細かいことが数多く、しかもスラスラと書かれた。

そのすべてが私の知らないことばかりであるのみならず、私はその方面のことに関心がないので – 私は音楽のことに関してはまったく無知で、音楽に関する本は1冊も読んだことがなかった – それほど細かいことがなぜ分かるのか尋ねてみた。

すると、実際はそう簡単に書けるものではなく、霊媒がよくよく受容性の高い精神状態の時にのみ可能であると書かれた。同時に、霊界には知識の貯蔵所のようなところがあって、不明確なところはそこから情報を得ることができるとも述べた。

私は、それはどういう手段でやるのかと尋ねた。すると、ある条件のもとで、知りたい目標を心に描いて、“読み取る”のだという。人間がするように問い合わせる方法もあるが、それは読み取るのがあまり上手でない霊にかぎられるという。

では、あなたにもそれができるのかと尋ねると、自分にはできないと答え、そのわけは、地上を去ってからの期間が長すぎるからだという。(5)そう述べてから、地上の情報を蒐集することを得意とする2人の霊の名前をあげた。そこで私は、そのどちらか一方を呼んでほしいとお願いした。

その時に自動書記をしていた部屋は私自身の部屋ではないが、書斎として使用していたもので、まわりの壁はすべて書棚になっている。そこでいったん書記が中断した。そして数分後に、こんどはまったく筆跡の違う文章が出はじめた。そこでさっそく尋ねてみた – ]

– あなたは読み取りができますか。

いえ、私にはできません。が、ザカリ・グレーができますし、レクターにもできます。私には物的操作ができない…つまり物的要素を意念で操作することができないのです。

– そこにどちらか来ておられますか。

1人ずつ呼んでみましょう。まず…あ、レクターが来ました。

– あなたは読み取りがおできになると聞いていますが、その通りですね?書物から読み取れますか。

[筆跡が変わる]

できます、なんとか。

– 「アエネイス」(6)の第1巻の最後の1文を書いてみてくださいますか。

お待ちください – Omnibus errantem terris et fluctibus aestas.

[この通りだった]

– その通りです。でも、それが私の記憶にあったということも考えられますので、書棚の2番目の棚の最後から2番目の本の94ページの最後の1節を読み取ってみてください。私はその本を読んだことがありませんし、書名も知りませんので…

I will curtly prove, by a short historical narrative, that popery is a novelty, and has gradually arisen or grown up since the primitive and pure time of Christianity, not only since the apostolic age, but even since the lamentable union of Kirk and the state by Constantine.(7)

[調べてみたところ、面白いことにその本は、「僭称(せんしょう)的教皇長老主義者 – キリスト教をカトリック的因習と政治性と長老支配から解放・浄化するための一試論」(8)とあった。引用された文章は正確だった。ただ、narrativeがaccountとなっていた。(9)]

– 意味深長な本を選んだのには、何かわけがあるのでしょうか。

それは知りません。偶然でしょう。一語間違えました。書いた時すぐに気づいたのですが、あえて訂正しませんでした。

– どうやって読み取るのですか。さっきは今よりゆっくりと、しかも時おり思い出したように書いておられましたが…

記憶していた箇所もあり、はっきりしない箇所は見に行ったりしたからです。読み取るというのは特殊な操作であって、こうしたテストの時以外は必要でありません。昨夜ドクターが言っていた通り、われわれも幾つかの好条件が整わないとできません。もう1度試してみましょう。まず読み取ってから書き、それからあなたに印象づけてみます。

Pope is the last great writer of that school of poetry, the poetry of the intellect, or rather of the intellect mingled with the fancy.(10)

これは正確です。さっきと同じ書棚の11番目の本をとってきてください。

[それは「詩とロマンスとレトリック」(11)というタイトルの本だった。]

開いてみてください。ちょうど右の文章の書かれているページが開くはずです。われわれのこうした霊力をよく確かめ、物質的なものを超えた力を人間に啓示することを許された神の意図を、よく認識していただきたい。神に栄光あれ。アーメン。

[その本を開いたら145ページが出た。そこに書かれた通りの引用文が出ていた。私はその本を1度も見たことがないし、まして内容については何も知らなかった。]

[注釈]

(1)Thomas Augustine Arne(1710~78)

(2)Dr. Stanhope Templeman Speer モーゼスは30歳の時に重病を患い、医師のスピーア博士の治療を受け、療養期を博士宅で過ごした。博士の奥さんがスピリチュアリズムに関心があり、そのことが、その後のモーゼスの人生を決定づけることになる。博士の子息の家庭教師は7年間つづいた。

(3)Rule, Britannia ブリタニアは英国のことで、「アルフレッドの仮面劇」の中に劇中歌として出ている愛国歌。

(4)The Masque of Alfred ジェームズ・トムソンとデビッド・マレット共作の劇で、これにアーンが作曲した。1740年初演。

(5)地上圏から遠ざかるほど地上特有の生活文化、たとえば言語や歴史、それに自分の地上時代の名前や年令までも忘れ、かつ思い出しにくくなる。波動の原理で、霊格が高くなるほど、どうしてもそうなるのである。

最近、神々や歴史上の人物が出てきてペラペラと“現代の日本語”でしゃべったのが“霊言”と銘うたれて書店に並んでいるのを見て、その軽薄さに疑念を抱かれた方も多いことと思うが、有り得ないことなのであるから、これは浅い潜在意識で霊媒本人がしゃべったか、100歩ゆずって霊がしゃべったとしても、よほど見栄っ張りな低級霊の仕わざ、と断じて差しつかえない。“さにわ”を誰がやっているのか知らないが、よほど心霊常識に欠けた人であろう。

英国最大の心霊紙サイキックニューズの編集主幹であるトニー・オーツセンが、1987年8月22日号でこんなことを言っている。

「いかなる霊媒も、こちらから高級霊を呼び出すことはできない。あくまでも“霊の方から”親近性と愛を掛け橋として戻ってくるのである。依頼されればどんな霊でも呼び出してみせると豪語する霊媒は、今すぐ霊能養成会に戻って1からやり直すしかない。」

(6)Aeneid ローマの詩人バージルのラテン語の叙事詩で、全12巻ある。主人公アエネイスの冒険物語。

(7)大意 – 私はこれより、カトリック的制度などというものが本来のキリスト教にはなかったものであり、純粋な原始キリスト教時代 – 伝道者時代はもとより、コンスタンチヌスによる教会と国家との嘆かわしき結合の時代をへながら、徐々に台頭もしくは発生してきたものであることを、簡略に論証してみようと思う。

(8)Antipoporiestian-an attempt to liberate and purify Christianity from Popery, Politikirkality, and Priestrule, by Rogers.

(9)双方とも“記述”とか“論述”の意味がある。

(10)大意 – ポープはその流派、知性の詩もしくは詩的想像力と渾然一体となった詩の流派の最後の偉大な詩人であった。

(11)Poetry, Romance, and Rhetoric.

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第5節 霊媒の条件

[その翌日、私は現在地上にはびこっているといわれる邪霊の存在について長々と議論した。それが個人へ及ぼす影響について尋ねると、邪霊によって完全に憑依されてしまった例を幾つかあげた。

また、そうした力が広がりつつあるので、誠実で叡知に富む霊が働きやすい条件を配慮し、憑依しようとする低級霊を追い払い、あるいは近づきやすい環境を少なくしていく必要があると述べた。

さらに、霊力そのものは距離や地域に関係なく働くもので、したがって、善良な霊力を受けるか邪悪な霊力を受けるかは、その人の心がけひとつに掛かっていると述べた。そこで私は、では、どういう心がけがいちばん望ましいかと尋ねた – ]

霊的能力の目的と手段

霊的現象に多くの種類があることはご存知の通りですが、霊力の行使にもさまざまな方法があります。ある者は身体的特質のゆえに、身体そのものが霊力の支配を受けます。その人の身体的機能が、目に見える最も単純な形での霊力の証を提供するのに適しているのです。

この種の霊媒は知的な支配は受けません。よって彼らを通じて届けられる“情報”は取るに足らぬもの、あるいは、愚(ぐ)にもつかぬものさえあり、信頼性に欠けます。彼らはあくまで客観的現象を演出のさえあり、信頼性に欠けます。彼らはあくまで客観的現象を演出する霊力を立証する手段として使用されるのです。

要するに初歩的現象の演出のための道具であると認識してよろしいが、だからといって、その現象が他の種類の霊能力を通じて現われる霊能と比較して重要性が劣るわけではありません。霊力の存在を信じさせるための基盤を築くことが、その目的なのです。

一方、情愛に満ちた優しい性格ゆえに選ばれる者もいます。彼らは物的現象の道具とは違います。往々にして霊界との意識的通信の通路でもないことすらあります。それでいて常に霊的指導を受けており、その純粋にして優しい魂は、天使の監督のもとに、ますます洗練され向上していきます。

そうするうちに徐々に天使からの霊示を意識的に受ける能力が開発されていき、あるいは又、霊視能力によって死後に落ち着くべき住処(すみか)を垣間(かいま)見ることを許されることもあります。

霊界に住むかつての友が親和力によって彼らに近づき、昼となく夜となく、教化と指導に当たることもあります。彼らのまわりには平静と至純なる愛の雰囲気が漂います。実に、地上生活の輝ける模範であり、やがて寿命とともにその地上生活によって培われた霊性をそなえて、それに相応しい平和な境涯へと旅立ちます。

これとは別に、知的能力に優れているがゆえに、幅広い知識と奥深い真理の通路として訓練される者もいます。高級な霊が彼らの思考力に働きかけ、思想を示唆し、知識の獲得と普及の手段とを用意します。その働きかけの方法は実に複雑多岐をきわめます。初期の目的達成のために仕組む手順の配慮には、人間の想像も及ばない手段を行使することがあります。

理想的霊媒の条件

われわれにとっての最大の難事は、進化した高級霊からの通信を受けるに相応(ふさわ)しい霊媒を見出すことです。そうした霊媒はまず精神が受容性に富んでいなければなりません。受容性の限度以上のものは、しょせん伝え得ないのが道理だからです。

次に、愚かな地上的偏見に囚われることのない者でなければなりません。若い時代の誤った思想を潔(いさぎよ)く捨て去り、たとえ世間一般に受け入れられないものであっても、真理は真理として素直に受け入れる精神の持ち主であらねばなりません。

まだあります。独断(ドグマ)主義から解放されねばなりません。“この世的”思想から抜け出せないようではいけません。神学的独断主義と派閥主義と偏狭な教義から解放されねばなりません。自分の無知に気づかない、一知半解の弊に陥ってはなりません。

つねに囚われのない、探求心に燃えた魂であらねばなりません。進歩性のある知識に憧(あこが)れる者、洞察力に富んだ者であらねばなりません。つねに、より多い真理の光、より豊かな知識を求める者であらねばなりません。つまり真理の吸収に飽くことを知らない者でなければならないのです。

また、われわれの仕事は、頑固な敵対心からの自己主張、または高慢な出しゃばり根性と利己心によって阻害されることがあってはなりません。そのような霊媒では、われわれは仕事らしい仕事はできませんし、為し得たわずかな仕事というのも、利己主義と独断主義を取り除くことで精いっぱいということになります。

われわれが求めるのは、有能にして真摯、そして飽くことのない探求心に燃えた、無欲の精神の持ち主です。そのような人材が発見困難であると述べたわけが、これで理解していただけるでしょう。まさに至難のわざであり、まず不可能に近いといえます。

そこでわれわれは、見出し得るかぎりの最高の人材を着実に鍛練した上で採用します。まずその魂に愛の精神を吹き込み、同時に、自分の知的性向にそぐわぬ思想に対する寛容心を養います。そうすることで独断的偏見から超脱させ、真理が多面性を有するものであり、一個人の専有物でないとの悟りへの地ならしを行います。

その上で、魂の成長に合わせて知識を着々と賦与し、基盤さえできあがれば、安心して上部構造を築きあげていくことができます。かくして霊的真理と思想的性向を徐々に形成し、われわれの所期の目標に調和させていくわけです。

ここに至って多くが、実に多くの人材が、脱落していきます。そしてわれわれも、彼らは地上では真理を受け入れることが不可能であること、また古来の地上的偏見が固く、ドグマ的信仰が容易に拭(ぬぐ)えないものであること、それゆえ、時の流れに任せるほかはなく、われわれにとって用のない存在であることを悟って、諦(あきら)めるのです。

さらに、真理への完全な忠実性と、恐怖も不安も宿さない信念は、われわれの教化によって着実に培われていくものです。われわれは、神とその使者である背後霊への全幅の信頼へ向けて、霊媒を導いていきます。

そして、われわれが神より許されている範囲での行為と霊的教訓を忍耐づよく待つ心構えを培っていきます。こうした心構えは、多くの霊媒にありがちな、苛立(いらだ)った、落着きのない不満とは正反対のものです。

この段階において、また多くの者が脱落していきます。恐怖心と不安に駆られ、疑念に襲われます。古来の神学の説く神は自分のような人間の破滅を今か今かと見守っている – 悪魔が自分のような人間を罠(わな)にかけようと油断なく見張っていると説いていることが心をかすめます。

確かに、古い信仰の基盤は揺さぶられてはいても、まだ新しい信仰基盤は敷かれていない。その隙間に邪霊がつけ入り、動揺を誘発する。ついに、恐怖に堪(たま)りかねた者が脱落し、われわれにとって用のない者となっていきます。

それでもなお、われわれは人間のあらゆる利己心を払拭(ふっしょく)しなければならないのです。われわれの仕事には私心の出しゃばりは許されないのです。まずそれを取り除かないことには、われわれは何も為し得ないのです。霊界からの指導において、人間の身勝手、自己満足、自慢、高慢、自惚(うぬぼ)れほど致命的なものはありません。

“小知”を働かせるようではいけないのです。われわれによる知的働きかけの妨げとなります。ドグマに偏った知性は使用しようにも使いものになりません。まして、それが高慢と自惚れに満ちていれば、近づくことすらできません。

最大の要素 – 無私と献身

いつの時代にも、自己犠牲こそが聖賢の最大の徳でした。その時代相応の進歩性に富む真理を旗印にした予言者たちは、みな、我欲を滅却して使命に生きた人たちでした。バイブルにその名をとどめるユダヤの指導者たちは、無私の純心さをもって誠実な人生を送りました。

とくにイエスは、その地上生活を通して、使命のための最高の自己犠牲と誠実さを身をもって示した、偉大にして崇高な模範でした。イエスの中に、人類の全歴史を通して最大限の人間の可能性の証を見ることができます。(1)

地上的知識の誤りを駆遂して真理の光をもたらした人々は、みな、自分に課せられた使命のために無私と献身の生涯を送った人たちでした。ソクラテスにプラトン、ヨハネにパウロ、こうした真理の先駆者、進歩の先導者は、無私無欲の人物 – 我を張らず、尊大ぶらず、自惚れることを知らない人たちでした。

いちずな誠実さ、使命への献身、自己滅却、私欲の無さ、等々の美徳を最高度に発揮した人たちです。それなくしては、彼らの使命が成就されることはなかったでしょう。もしも私欲に囚われていたならば、その成功の核心が蝕(むしば)まれていたことでしょう。謙虚さと誠実さといちずさがあったればこそ、成就し得たのです。

われわれが求める人材とは、そのような資質の持ち主です。情愛にあふれ、誠実で、自分を出さず、しかも真理を素直に受け入れる性格。いちずに神の仕事に目を据(す)え、一切の地上的打算を忘れた性格。このような麗しい魂の持ち主が稀れであることは確かです。

しかし、友よ、平静にしてしかも頼れる、誠実にしていちずな求道者の心をもってわが心とされよ。情愛にあふれ、寛容性に富み、いついかなる時も進んで救いの手を差しのべる、博愛主義者の心をもってわが心とされよ。さらに、報酬を求めぬ神の僕(しもべ)としての無欲の心をもってわが心とされよ。

神聖にして崇高なる仕事は、そうした心の持ち主をおいて他に成就し得る者はいないでしょう。われわれもそうした人材を油断なく見守り、警戒を怠らぬようにします。神より遣わされた天使も、笑みを浮かべて見つめ、外敵より保護してくれることでしょう。

– でも、これでは完全な人格を求めることになります。

何と!これをもって“完全”とおっしゃる?そなたは“完全なる魂”がいかなるものか、まったくご存知ない – 知ろうにも知り得ないのです。想像することすら不可能です。忠実な魂が霊の教えによって培われ、刻一刻と守護霊に似ていくその過程も、そなたには知り得ません。

われわれが植えつけ手をかけてきた種子が次第に成長していく様子は、人間の目には見えません。人間に知り得るのは、魂が徐々に美徳を身につけ、より高潔に、より愛すべき人間となっていくことだけです。

さきに述べた人格の資質は、地上の用語で表現し得るかぎりのものを述べたにすぎず、まだまだ完全よりほど遠く、これより成就すべき完全さを思えば、漠然と“それらしき”程度のものにすぎません。

人間に“完全”は有り得ません。死後になお不断の進歩と発達と成長が待ち受けています。人間にとって完全と思えるものも、われわれの霊眼をもって見れば、欠点によって汚され曇らされているのです。

– そうかも知れません。でも、それほどの人物は極めて少ないでしょう。

少ない。確かに少ない。それも、ようやく芽を出した程度のものにすぎません。が、われわれはそれを地上への働きかけの大切な足がかりとして感謝して育てます。われわれは決して完全を求めているのではありません。

誠実さといちずな向上心、囚われのない、受容性に富む精神、清純にして善良な心の持ち主です。忍耐づよく待つことです。性急は恐ろしい障害となります。しょせん手の届かぬものへの過度の用心と不安を捨てられよ。われわれに任せられたい。今は外部との接触を避け、忍耐づよく、われわれがこれまでに述べたことを吟味してもらいたい。

瞑想の効用

– 都会の喧噪から隔絶した生活の方が、あなたたちの影響を受け易いのでしょう。

[ここで急に筆跡が変わり、ドクターの例の細かいキチンとした文字から、非常に変わった古書体になり、プルーデンス(2)と署名された。]

騒々しい世間はとかく霊的なものを拒絶するものです。人間は物的なもの、すなわち目に見え、手に触れ、貯えることのできるものに心を奪われ、死後に霊的生活が待ちうけていることを知りません。

あまりに地上的になりすぎ、われわれの働きかけに無感覚になっています。あまりに地臭が強すぎて、われわれも近づくことすらできません。暮らしがあまりに地上的打算に満ちているために、死後にも価値の残るものに心を配る余裕が持てなくなっています。

それだけではありません。心がいつもそうしたものに囚われ、心静かに瞑想する余裕を持たぬために霊的栄養が不足し、魂が衰弱しています。霊的雰囲気に力が見られません。おまけに身体も仕事の重圧と気苦労のために衰弱気味です。これでは、われわれもほとんど近づくことすらできません。

さらに、いがみ合いの情念と不平不満、ねたみ合いと口論のために、その場が不快な重苦しい雰囲気に包まれています。ことごとくわれわれにとって障害となるものばかりです。

無数の悪徳の巣、忌(いま)わしい誘惑、そしてその不徳と罪悪に魂を奪われた人間であふれる大都会には邪霊の群れがうろつきまわり、破滅の道へ引きずり込まんとして、虎視眈々(こしたんたん)、その機を窺っております。多くの者がその餌食(えじき)となって悲劇への道をたどり、それだけわれわれの悲しみを増し、手を煩わせることにもなっております。

瞑想の生活こそ、われわれとの交信にとって最も相応しいものです。もとより、行為の生活に取って代るべきものではありません。行為の生活の中に適度な瞑想の時を取り入れるのが望ましいといえます。煩わしい気苦労もなく、過労による体力の消耗もない時こそ、最も瞑想に入りやすいことは言うまでもありません。

しかし、魂の奥底にそれを求める欲求がなければなりません。その欲求さえあれば、日常の煩事も世間的誘惑も、霊界の存在の認識と霊交を妨げることは有り得ません。が、やはり、環境が清浄で平穏な時の方が、われわれの存在を知らしめることが容易であることに違いありません。

[注釈]

(1)イエスという名の人物に関しては、その実在を立証する確かな資料は何ひとつない。聖書学者の中にはイエスを架空の人物と断定している人もいるほどである。

確かに、今日のような“住民登録”などという制度のなかった時代のことであるから、そういう意味での証拠資料があるはずはないし、日本で“聖書”と呼ばれているバイブル、およびそれを土台にして体系づけられているキリスト教神学がまったく根拠のない、人間的創作物であることは、インペレーターやシルバーバーチといった古代霊から指摘されるまでもないことで、そのこと自体に異論をはさむ人はいない。

が、近代になって、もしかしたらこれがイエスではないか、と推察される人物のことを書き記した古文書が幾種類か発見されている。

当然のことながらそれらはキリスト教会からは否定もしくは黙殺されているが、私自身も直接その種の資料をいくつか入手して目を通し、原始キリスト教から今日のキリスト教へと発展していった過程を歴史的にたどり、その最大の転機となった325年のニケーア会議の舞台裏で行われた“歴史上最大の陰謀”(ある聖書学者の表現)、そして私の専門であるスピリチュアリズム関係の資料、たとえば霊言・自動書記等による霊界通信や、妖精・自然霊に関する霊視記録および日本古来の霊的資料、さらに最新の天文学の情報を照合した上での私個人の直観的確信を述べさせていただけば、現在イエス・キリストと呼ばれている人物は地球の守護神直属の高級自然霊、西洋流にいえば大天使の一柱が降臨したもので、その背景には2000年後の今の時代はおろか、何十世紀にもわたる遙か遠い未来を展望した遠大な計画があって、イエスはその端緒を開く目的をもって生身で地上に生まれてきた – それが死後2000年ほどたって、こんどは霊界側の総指揮者として地球浄化の事業を推進している – インペレーター霊団やシルバーバーチ霊団もその配下にある…そう理解している。

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第6節 節度ある娯楽と嗜好の効用

[この頃ホーム氏(1)と会った。その日はたまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(5月29日)その点を質(ただ)してみたところ、いろんなことを述べたあと、次のように書いた – ]

ギャンブルの弊害

そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くします。そこには、われらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まった人間に取り入ろうとして、スキを窺うのです。昨日はそうした人間が大挙して集結しました。

邪霊たちにとって彼らは絶好の標的です。アルコールが入り、野獣のごとく肉欲に燃える者、大金を当てにして興奮する者、その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいます。

邪霊の誘いにもっとも乗りやすいのは、この最後に挙げた連中です。たとえそこまで落ち込まないまでも、道徳的感覚が狂い、感情を抑制し邪霊から守る盾となるべき冷静さと心の平衡がくずれ、つけ入るスキを与えることになります。

こうしたものは、絶対的悪とまではいわないとしても、自制心を失い狂乱状態に陥った精神が、攻撃の格好の条件を用意することになります。ですから極力避けねばなりません。

その種の心は霊的悪影響、未熟にして有り難からぬ低級霊にまんまと掛かりやすいのです。興奮のあまり節度と理性を失った精神には、くれぐれも用心されたい。

以上のような理由により、そなたが質したような催しの日は、善の使者の努力が、最大限、要請されることになります。総攻撃をしかけんとして集結した邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせるためです。

祝日のプラスとマイナス

– しかし、そうなると、祝日はすべていけないことになりませんか。

必ずしもそうではありません。祝日の雰囲気が感情の手綱(たずな)をゆるめさせ、のどを焼くアルコール、欲情の満足といった、霊性を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祝日は許し難いものと言えるでしょう。手綱を奪われた肉体が邪霊の思うがままの支配下に置かれることになるからです。

しかし、祝日が身体に休息を与え、魂に憩(いこ)いのひと時を与えることになれば、話はまた別です。過労によって疲弊(ひへい)した身体が心地よい、そしてほどよい休息によって生気を回復することでしょう。

毎日の気苦労と煩(わずら)わしさに苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐされ、しばしその煩わしさを忘れることになるでしょう。

そうした心地よい気分転換がむしろ精神を引きしめ、刺激することにもなります。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にもまして天使による暖かい支配を可能にします。かくして天界の使者の威力が強化され、いかにしつこい悪霊たちの計画も効を奏さぬことになります。

祝日を人間の堕落の日としないためには、人間側が善霊の働きと人間としての義務についての認識を深めねばなりません。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生み出さない祝日は、われわれにとって少しも祝うべき日ではなく、“恐るべき日”であり、警戒と祈りを忘れるわけにはいかない日です。神よ、無分別な愚行に耽る、理性なき魂を救い、そして守り給わんことを!

[そのころ催した実験会が、どうやら、いい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊はみずからはレクターと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の関係もない、いかがわしい霊で、出席者の誰も知らないことが判明した。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦(あきら)めた。

その翌日、いつもの受け身の精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに、霊側から通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合、われわれの方で為すべきことはどんなことか尋ねてみた。するとドクターが – ]

レクターは、あなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることができませんでした。あの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎるせいです。あの実験会での霊言はまったく当てになりません。あなたの精神状態は異常なほど反抗的でした。

写真に写った人物をレクターと思ったようですが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、あなたの度の過ぎた興奮が、今述べた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは、彼自身も気づいていません。

あのような精神状態の時は、いかなる話題についても通信を求めてはなりません。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもあります。

[私の当惑は大きかった。そこで、あのような現象をたびたび見せられては、私のささやかな信念がすっかり失われてしまう、と不平を述べた。それまでは1度も体験したことがなかったからである。すると – ]

あなたはこれまで、この私(ドクター)ないし、われわれのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与えうる時以外は、あのような実験会には出席していません。昨日の実験会には、物質的成分を操る霊しかいませんでした。その結果あのような混乱となったのです。

あの時も前もって注意を与えましたが、ここで改めて警告しておきます。あの時のあなたの反抗的精神状態では、とてもレクターには支配できません。あなた自身の興奮状態が通信を不可能にしたのです。

[それ以来私は、身体の調子の悪い時や、どこかに痛みを感じている時、あるいは精神的な悩みや心配ごとのある時、さらにそうした人が近くにいる時や混乱をきたしそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記はしないよう慎重を期した。

そのせいと思われるが、その後の通信は実に規則正しく、かつ落着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても(巻頭グラビア参照)1か所の削除も訂正も見当たらない。内容もまったくムラがなく、論旨が一貫している。]

可能なかぎり精神を受け身に、そして冷静に保つことです。仕事で過労ぎみの時、心配ごとで苛立(いらだ)っている時、あるいは気が滅入(めい)っている時は、われわれとの交信を求めてはいけません。交霊会に新たなメンバーを加えてもいけません。調子を狂わせ、妨げにしかなりません。

余計な干渉をせず、すべてを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところは、こちらから助言します。会合する部屋を変更しないように。そして、できるだけ受容性に富む心構えと健康体をもって出席してもらいたい。

– 確かに、1日中身体と頭を働かせたあとは、条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけられます。

日曜日の交霊会は不可

日曜日はわれわれにとって好ましくありません。なんとなれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めようとするために、われわれの働きかけに反応しなくなるのです。こうなると、われわれはそなたに新たな現象を試みることに恐れを感じるのです。危険を恐れて、物理的実験を控えるのです。

理由はそれだけではありません。物理現象はわれわれの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎないからでもあります。これまで述べてきたわれわれの使命の証(あかし)として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困ります。

日曜が好ましくない特殊な事情がもうひとつあります。人間には気づかないであろうが、平日と条件が変わることによってわれわれが被(こうむ)る困難です。前にも述べたことですが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは感心しません。

われわれが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性です。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものとは異なります。アルコールとともに腹いっぱい食した後の、あの眠気と無気力状態ほど、交霊会にとって危険なものはありません。

アルコールの刺激が物理現象を促す場合も無きにしもあらずですが、われわれの霊団にとっては障害にしかなりません。より物質性の強い霊の侵入を許し、われわれの霊力が妨害されるからです。

これまでも、そうした妨害を頻繁(ひんぱん)に受けてまいりました。そなたはその点をよく考慮し、われわれとの交信を求めるに際しては、何事につけ、度を過ごさぬよう注意を払ってもらいたい刺激物で身体がほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようではいけません。

精神が眠気を催し、不活発となるのも良くありません。いずれの状態もわれわれにとっては、思うように仕事ができません。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれわれにも及び、われわれのエネルギーを大いに阻害します。出席者の中に1人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦痛を感じている者がいると、われわれは手の施しようのない状態が発生するのです。

– しかし、栄養不足による虚弱な心身では仕事にならないと思いますが…

中庸こそ大切

われわれは節制を説いているまでです。食事によって体力をつけなければなりませんが、食したものが消化するまでは、交霊を始めてはなりません。日常の仕事のためには適度の刺激物を取ることも必要ですが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われわれとの交霊は、さきに述べた条件を厳守した上でなければ、絶対に始めてはなりません。

心または身体が眠気を覚えたり注意を持続することができないような時、もしくは、どこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり、机に向かってはなりません。

同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われわれは近づけません。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行なわれる時のような品の良い、美しい現象は望めません。

われわれにとっては“極端”が困るのです。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事になりませんが、飽食によって動けないほど詰め込まれた身体もまた、用をなしません。節制と中庸、これです。

友よ、そなたが少しでもわれわれの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会にはぜひとも感覚明晰にして鋭敏な身体と、柔順にして受容性に富む精神状態で臨んでもらいたい。

そうすれば、そなたの期待以上のものが披露できましょう。列席者全員が調和し、構成が適切であれば、現象はいっそう上質となり、述べられる教訓もいっそうあか抜けし信頼性に富むものとなりましょう。

さきにそなたが言及した光 – [当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた] あれも、好ましい条件のもとでは淡く澄み、曇りが見られませんが、好ましくない状態の時は、鈍く、薄ぎたなく、曇って見えるでしょう。

[われわれの交霊会によく出現していた夫婦の霊が、別々の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆(きずな)は永遠のものではないのかと尋ねてみた – ]

霊的親和性が決める死後の絆

それは、ひとえに、霊的嗜好(しこう)の類似性と霊格の同等性にかかっています。その両者が同等であれば、2人は相寄り添って向上できます。われわれの世界では、共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者の間にのみ、交わりがあります。

こちらの生活では魂の教育がすべてに優先し、刻一刻と進化をしています。同質でなければ共同体は構成されません。したがって当然、互いの進化にとって利益にならない者同士の結びつきは永続きしません。

地上生活で互いに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみだった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げます。逆に、互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体から解放されたのちも、さらにその絆を強め、発展していきます。そして2人を結ぶ愛が、互いの発達を促します。

このように、両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからということではなく、相性の良さゆえに、互いが魂の教育に資するものがあるからです。そうした結婚の絆は不滅です。

ただし、その絆は、親友同士の関係ていどの意味です。それが互いの援助と進化によっていっそう強化されていきます。そして、互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されます。

やがて、もはや互いに資するものがなくなる段階にくると、両者は別れて、それぞれの道を歩み始めます。そこには、しかし、何の悲しみもありません。なぜなら、相変らず心は通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからです。

もしも地上的縁が永遠・絶対のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになります。そのような愚かしいことは何ものにも許されていません。

– それはわかります。しかし、私が見るかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者どうしが、互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが…

愛は時空を超越する

愛し合う者を引き裂くことは絶対にできません。そなたは、とかくわれわれ霊の世界の関係を時間と空間の観念で理解せんとするために納得がいかないのです。

霊は空間的に遠く離れていても親密に結び合うことができるということが理解できないのでしょう。こちらには時間も空間も存在しません。われわれは知性の発達程度が完全に同一レベルでないかぎり、直接の交流は有りえません。

しかし、知的には同等でなくても、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能です。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年たとうとも、兄弟愛はいささかも失われません。

たずさわる仕事は異なるかも知れません。物の考え方も違うでしょう。が、互いの愛は不変です。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛しつづける妻もいます。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれます。そして天国へと召されます。一方、地上の夫はさらに地獄への道を下りつづけるでしょう。が、たとえ2人は2度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅です。その愛の前に空間は消え失せるのです。

われらにとっても空間は存在しません。これでそなたも、おぼろげながらも理解がいくことと思いますが、霊にとっての結合関係とは、発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、人間の世界によくある“くされ縁”などというものは存在しません。

– では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかということはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は事実でしょうか。

通信内容に矛盾が生じる原因

その言葉どおりです。さきにわれわれは進歩の法則と交わりの法則について述べましたが、その法則は不変です。現在のそなたにとって立派に思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くあります。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのです。

そこで、われわれの側としては、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ないことが多々あります。それゆえ、われわれの世界にのみ存在して人間界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、したがって地上の言語によって“およそのこと”を伝えるしかない事情のもとで用いた字句に、あまりこだわりすぎてはいけないわけです。

– なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですね?

そうした食い違いは、通信を送る霊の無知から生じる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などが考えられます。

他にも原因はあります。そのひとつが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい、霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合です。

– しかし、高級霊ならば“愚か者の愚かな質問に答える”ことをしないで、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。

むろん、できることならそうしたいものです。しかし、愚かしい精神構造はそうした配慮を受けつけようとしないものです。類は類を呼びます。いっときの気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいは、われわれを罠(わな)にはめんとする魂胆からしか質問しない者は、同程度の霊と感応してしまいます。

そのような心構えでは、われわれとの交信は得られません。敬虔(けいけん)にして真摯(しんし)な精神は、その受容性に似合った情報と教訓をみずから引き寄せます。うぬ惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかしない者は、似たような類いの霊しか相手にしません。

もとよわれわれは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておきます。その種の連中は避けるが賢明です。下らぬ愚か者ばかりだからです。

[注釈]

(1)D.D.Home(1833~86)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても、他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。

(2)モーゼスの背後霊団については、巻末の≪参考資料≫の(2)でくわしく紹介するが、この一節に関連した部分を簡単に説明しておくと、総勢49名が7人ずつ7つのグループに分かれていて、それぞれに“受け持ち”があり、そのひとつに、物理的現象を起こすことを担当しているグループがいる。

が、物理現象は物的波長を操るので、物質性の強い低級霊に任せられるのが普通で、ここでも第3節で述べられている“地縛霊”の状態からようやく目覚めたばかりの未熟霊が、罪滅ぼしの目的もかねて、“高級霊の監視のもとに”、いっしょうけんめい働いている。が、やはり波長が低いために、とかく邪魔が入りやすいことを、この一節は物語っている。

モーゼスほどの学問と教養を兼ねそなえた第一級の霊媒が高級霊の監視のもとに行なった交霊会でさえ、そんな次第である。心霊常識のカケラもない者が、少し超能力があるからということで霊言や自動書記を行なうことがいかに危険で信のおけないものであるかが、これでおわかりいただけるであろう。

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第7節 宗教と理性

[新プラトン主義思想(1)に関する通信があった。見覚えのある容貌をした霊の写真も撮れたが、衣服は見慣れないものだった。私の質問に対して、心霊写真に写るためには、ある程度の物質化が必要で、霊視能力に写る映像とは違うとのことだった。

新プラトン主義の特徴的な教義についての説明は実に克明で、私のまったく知らないことばかりだった。忘我の状態で神性に背くものすべて排除し、ひたすら神との合一を求めるスーフィズム(2)という恍惚的瞑想行為について長々と説明してから、その理想的人物として1人の名前を挙げた。

そのとき教わったもの、とくにその理想的新プラトン主義者の教説については、その後なるほどと思わせるものがある。もっとも、私自身はすでに体験していたこともあって、驚きの度合が和らげられてはいるが…。

その後、短期間ではあったが、通信が途絶えた。その間に出席してみたある交霊会でイタズラ霊による偽名行為がまた発覚し、私も大いに考えさせられた。その後の通信で、よその交霊会には絶対に出席しないようにとの忠告があった。

霊媒には強い磁力があり、他の霊媒の交霊会に出ると、私の磁力がそこでの現象に悪影響を及ぼし、同時に悪影響を持ち帰ることになるから、霊媒どうしの接触は絶対避けるようにとのことだった。

宮廷詩人だったリドゲート(3)のものを中心とする素晴らしい詩が、それによほど興味をもっているように見うけられる霊によって書かれた。その霊はただ詩を綴ること以外は何もしなかったが、その筆跡は見ごとで特徴があった。

その後1873年6月13日に開かれた交霊会で、神学に関する質問を数多く用意しておいたところ、それに対して入神談話の形で長々と回答が述べられた。当然その全部は筆記できず、部分的で不完全な筆跡しか残されていない。が、その翌日、その入神談話をした霊が、こちらからの要請もないのに、次のような通信を送ってきた。]

真理の受け入れを妨げるもの

昨夜述べたことの中には、先を急ぐあまり、十分に意をつくさなかったことが多く、筆録も正確とはいえません。あのような重大な問題は十分に念を入れ、ぜひとも正しく理解していただかないといけません。

そこで、意をつくせなかったことを、ここでより解り易く述べておきたいと思います。交霊会であなたの口を借りて語るのは、必ずしも、こうした方法(自動書記)で伝えるほど正確を期することはできません。完全に隔離された状態のほうが、緻密(ちみつ)さと正確さの得られる状態に入るのが容易です(4)。

昨夜は、われわれが神から託された使命について述べたつもりです。その使命の前途をさえぎる多くの困難の中でも最大のものは、その使命達成においてわれわれが何よりも頼りとしている気心の合った同志が、あまりに神学的先入観に囚われ、あるいは、それまで説き聞かされてきた信仰と相容(あいい)れないことに恐怖を覚えるために、われわれとしても為すすべがなく、あげくの果ては、悲しいかな、われわれの説く神の教えが邪霊の言葉とされ、その背後で操る強力な悪魔のさしがねと決めつけられてしまうことです。

われわれに敵対する者の中でも、こうした種類ほど嘆かわしいものはありません。

勝手に定めた条件のもとに、自分のお気に入りの手段でしか物事を判断しようとしない似非科学者たち – われわれを、単に人間をたぶらかす者、嘘つき、狂える者のたわごとと決めつける材料として以外には取り扱おうとしない科学者たち – 彼らは、われわれにとってまず用はありません。

その曇った目には真理は見えず、長年の偏見によって包まれ束縛された知性は、われわれにとって何の役にも立ちません。どう気張ったところで、霊界との交信の真相を垣間(かいま)見ることすらできません。

彼らが獲得する知識は、たとえそれ自身は有用であり、価値のあるものであっても、われわれの特殊な使命には、まずもって役に立ちません。われわれが目指しているものは、われわれの使命の一側面でしかない現象面にのみ目を向けたがる科学者がとやかく言うものとは、いささか方角が違うのです。

永いあいだ物理学的観察に馴らされてきた知能は、その分野の解明に向けるのが無難でしょう。われわれの分野はそれとはまた異なるのです。霊と霊との関係であり、霊のたどる宿命についての知識を扱うのです。

さらに、われわれが述べんとする真理についての知識をまったく持ち合わせず、その理解には、こののち長年にわたる人生の試練を必要とする、無知にして未熟な者たち – この種の者は、いずれは理解できる段階にまで向上してくることでしょうが、今の段階では用はありません。

いわんや高慢にして傲(ごう)慢な知識人、自分の世界でしか通用しない説を振り回す道学者、慣例と体面を守ることに汲々たる宗教家 – 彼らについては言葉もありません。

彼らを納得させるには、さらに多くの物的証拠を必要とします。今の段階では、われわれが述べる言葉は、たわごとにしか聞こえないでしょう。

最大の障害 – 神学的ドグマ

が真に頼りとするのは、神とその天使の存在を知り、愛と慈悲を知り、いずれ死後に自分がおもむく境涯について知りたいと思う人物です。が、悲しいかな、神によって植えつけられ、霊によって育(はぐく)まれた天賦の宗教的本能が、人間の勝手な宗教的教義―幾世紀にもわたって知らず識らずのうちに築き上げられた、無知と愚行の産物によって、がんじがらめにされております。

どこをどう突ついても、返ってくるのはおよそ真理から外れたことばかりです。父なる神の啓示を説き聞かせれば、神の啓示はすでにその全てを手にしていると言います。

そこでその啓示の矛盾点を指摘し、そこに終局性も不謬(ふびゅう)性もないことを説けば、教会がこしらえた取りとめもない決まり文句を繰り返すか、それとも“絶対に誤ることのない人”として選んだ人物の言葉を引用するのみです。

つまり彼らは、一時期・一地方の特殊な必要性に応じて授けられた、限られた啓示をもって普遍的真理と思い込み、それを唯一のものさしとして、われわれを裁こうとするのです。

また、古代において霊覚者を通じて行なったように、われわれが信頼に値する神の使者であることを表明し、その証拠として奇跡的現象を演出してみせても、彼らは、奇跡の時代は終わった、神の啓示の証として奇跡を行なうことを許されたのは聖霊のみである、と主張します。

そして、悪魔は – といっても彼らの勝手な想像の産物にすぎないのですが – 神を装うことができるとし、われわれ及びわれわれの使命を、神と善に対抗する外敵、暗黒界の使者であると決めつけます。

また、こうも言います – できることなら力になってあげたい、なぜなら、言っていること自体はなるほどと思わせるものばかりだからである。が、それが悪魔が使う誘惑の常套(じょうとう)手段だから困るのだ、と。確かに、彼らがそう思うのも無理はありません。

なぜなら、やがて善を装った邪霊集団がやってくることをバイブルが予言しているからです。われわれこそその邪霊集団なのでしょう。彼らにとってはそうであるに違いありません。神聖にして犯すべからざる古(いにしえ)の神学が、神の子イエスを否定しようとする勢力の到来を予言しているではありませんか。

現にわれわれの説はキリスト神の定めたイエスの位置とその使命を根底から否定しています。また、われわれは理性を信仰の上に置いています。われわれの説く福音は、信仰よりも善行をすすめる福音であり、忠実な信仰でなく善の実践こそ佳(よ)しとする教えです。

彼らにとっては、こうした教えを説く霊はすべて、光の天使を装う大悪魔の手先であり、魂を破滅に陥(おとしい)れようとする企(たくら)みにほかならないのです。

われわれにとっては、本来なら協力を期待したい真摯(しんし)な信心家からこうした態度に出られることこそ、痛恨のきわみなのです。彼らの多くは愛すべき真面目な人物です。ただ、その明るい魂の炎が地上の暗闇を照らすに至るには、ぜひとも“進歩性”を必要とします。

われわれとしては、彼らにぜひとも友好のメッセージを贈りたいところです。しかし、すでに築き上げられた神および人間の義務についての確固たる信仰基盤に建て増しをするには、その前に、進歩を阻む夾雑(きょうざつ)物を取り除かねばなりません。

宗教にも理性が必要

宗教がその名に値するためには、2つの側面をもたねばなりません。ひとつは神への信仰であり、もうひとつは人間についての教えです。その道の専門家によって“正統”と呼ばれている伝来の信仰は、その2点についてどう説いているのでしょうか。

その教えとわれわれの教えとは、どこがどう違うのでしょうか。その“違う”部分はどこまで理性を納得させるでしょうか。なぜそう問うかといえば、われわれは何よりもまず神が植えつけ給うた理性こそ唯一の判断基準であると主張するからです。

われわれは、あくまでも理性に訴えます。なぜなら、古(いにしえ)の聖賢がこれこそ神の唯一にして最後の啓示であると断定して聖典を編纂した時も、彼らなりの理性に訴えたのです。その断定に際して彼らなりに理性に訴えたのです。ゆえにわれわれもまた理性に訴えます。

われわれ霊団の同志は、啓示の永遠不変の支柱とすべきものを“神みずから”規定されたと主張しているであろうか。われわれも又、“神の使者”にほかなりません。

かのヘブライの予言者たちを導いた霊たち、そしてその啓示を神の言葉と断定した者たちを指導した霊たちと同様、われわれも又、神によって導かれている霊なのです。(6)

われわれも、彼らと同じ神の使者なのです。たずさえてきたメッセージも同じです。ただ、より“進んでいる”というまでです。われわれの説く神も、彼らが説いた神と同一です。ただその神性をより明確に説いているまでです。つまり人間臭が減り、より神々(こうごう)しい存在となっているということです。

こうしたわれわれの訴えを、その言葉どおりに神聖なものと受け取るか否かは、そなたたちの理性(背後霊の指導を受けることは間違いないが理性であることに変わりはない)が最後の判断を下すことです。

それでもなお拒否する者は、みずからの理性の愚昧(ぐまい)さを証言する者にほかなりません。盲信を理性的信仰と同等に見なすわけにはまいりません。信仰にも根拠のある信仰と根拠のない信仰とがあるからです。根拠のある信仰は論理的裏づけが可能であり、その場合にも理性が最終的判断を下します。

後者は論理的裏づけのない信仰であり、これでは人を動かすことはできません。まして、まったく根拠のない盲信にいたっては、われわれもその頼りなさと信用のなさについて、これ以上論ずる必要さえ認めません。

われわれは理性に訴えるのです。理性的に判断して、どこまでわれわれの言うことが悪魔性を証しているのか、われわれの説く教義がどこまで邪霊的であるのか、何をもってわれわれを悪魔的と断ずるのか – こうした点については、これよりのちに改めて説くことにしましょう。

[注釈]

(1)Neoplatonism 3世紀に始まったギリシャ哲学の一派で、プラトンの思想を中核として、これに東洋の神秘思想を加味したもの。その代表的思想家の1人が、第5節でプルーデンスの名で出ているプロティノス Plotinus。

(2)Souffism

(3)John Lydgate(1370~1451?)

(4)霊界通信の難しさを正直に述べている。49名からなるインペレーター霊団は、周到な計画のもとに役割分担を決めて、予備練習を重ねた上で実行しているにもかかわらず、なおこの難しさである。

またシルバーバーチ霊は霊媒のバーバネルが誕生する前から英語を勉強し、誕生の時点から言語機能の発育をつぶさに見届けながら準備し、人間としてのバーバネルのクセを知り尽くした上で、18歳の時にはじめて霊言現象(雲媒をトランス状態にして自分が語る)を実行に移した。それでもなお当初はぎこちなくて、何と言っているのかが分からなかったという。

インペレーターの場合もシルバーバーチの場合も、中継役として“霊界”の“霊媒”を置いていたので、それだけ普通よりは複雑だったという要素はあるにしても、そもそも独立したひとつの個体が他の個体を、そう簡単に、そして自由に操れるはずがない。

そうした点から言っても、死んで間もない、霊的意識がまるで目覚めていない霊が、そう簡単にしゃべれるものではないのであるから、高級霊によるご託宣と同じく、他界したばかりの身内や有名人が出てきて、いかにもそれらしく語り、それを聞いて感涙にむせぶといったシーンは、まずもって低級なイタズラ霊のしわざと思って間違いない。

そういうことが得意で、霊界をドサ回りしている霊団もいるので、用心が肝要である。

(5)ローマ法王のこと。ローマ・カトリック教会では、1870年の第1回バチカン会議で、法王(正式には教皇)は聖霊に導かれたキリストの代表者であり、信仰と道徳に関して宣言することは絶対に間違いはないという“教皇不謬説”を教義として認めている。

(6)ここでいう“古の聖賢”“ヘブライの予言者”はみなインペレーター霊団に属していたとみてよい。

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第8節 人間として守るべき生活規範

[翌日、前回の通信に関連した長い入神談話(1)があったあと、インペレーターと名のる、いつもと同じ霊が、例のレクターと名のる筆記者を使って、ふたたび通信を送ってきた。

それが終わってから交霊会が開かれ、その通信の内容についての議論が交わされた。その中で新たな教説が加えられ、私が出しておいた反論に対する論駁が為された。

当時の私の立場から見れば、その教説は論敵から無神論的ないし悪魔的と言われても致し方ないように思われた。私なら、少なくとも広教会的(2)と呼びたいところである。そこで、私はかなりの時間をかけて、キリスト教の伝統的教説により近い見解を述べた。

こうして始まった論争を紹介していくに当たって、当時の私の立場について少しばかり弁明しておく必要がありそうである。私はプロテスタント教会の厳格な教理を教え込まれ、ギリシャ正教会およびローマ正教会の神学をよく読み、アングリカン(3)と呼ばれる英国国教会の教義も、それまでに私が到達した結論にもっとも近いものとして受け入れていた。

当時の厳格な信仰もある程度は改められていたが、本質的には国教会の教義を厳格に守る人、いわゆる高教会派(4)の1人をもって任じていた。

ところが、このころから、ある強烈な霊的高揚を覚えるようになってきた。これに関してはこれ以後たびたび言及することになることと思うが、その高揚された霊的状態の中で、私は、1人の威厳に満ちた霊(インペレーター)の存在とその影響を強く意識するようになり、さらにそれが私の精神に働きかけて、ついに霊的再生とも言うべき思想的転換を引き起こさせることになる。]

神とは

そなたは、われわれの教説を伝統的教説と相容(あいい)れぬものとして反駁されました。それに関して、今少し述べるとしましょう。

そもそも魂の健全な在り方を示す立場にある宗教には、ふたつの側面があります。ひとつは“神”へ向けての側面であり、今ひとつは“同胞”へ向けての側面です。では、われわれの説く神とは一体いかなる神か。

われわれは、怒りと嫉妬に燃える暴君のごとき神に代わって、“父なる愛の神”を説きます。名のみの愛ではない。摂理において愛であり、その働きも、愛をおいて他の何ものでもありません。最下等の創造物に対しても公正と優しさをもって臨みます。

われわれの説く神には一片のおべっかも無用です。戒律を犯したものを意地悪く懲(こ)らしめたり、罪の償いの代理人を要求するような神の観念を拒否します。

いわんや天国のどこかに鎮座して、選ばれた者によるお世辞を聞き、地獄に落ちて光と希望から永遠に隔絶された霊の悶え苦しむ様を見ることを愉(たの)しみとする神など、絶対に説きません。

われわれの教義には、そのような擬人的な神の観念の入る余地はありません。“その働き”によってのみ知り得るわれわれの神は、完全にして至純・至聖であり、愛であり、残忍性や暴君性といった人間的悪徳とは無縁です。

罪はそれみずからの中にトゲを含むがゆえに、人間の過ちを慈(いつく)しみの目で眺め、かつその痛みを不変不易の摂理にのっとったあらゆる手段を講じて和らげんとします。

光と愛の根源たる神!秩序ある存在に不可欠の法則にのっとって顕現せる神!恐怖の対象ではなく、敬慕の対象である神!その神についてのわれわれの理解は、到底そなたたち人間には理解し得ぬところであり、想像すらできないでしょう。

しかし、神のお姿を拝した者は1人もいません。のぞき趣味的な好奇心と、度を過した神秘性に包まれた思索によって、神についての人間の基本的概念を“あいまいもこ”なものとする形而上的詭弁もまた、われわれは認めるわけにはまいりません。

われわれは真理をのぞき見するような態度は取りません。これまでに述べた神の概念ですら、そなたたちの神学より雄大にして高潔であり、かつ崇高です。それよりさらに深い概念は、告げるべき時期の到来を待つとしましょう。そなたも待つがよい。

神と人間

次に、神とその創造物との関係について述べることにしますが、ここにおいてもまたわれわれは、長い年月にわたって真理のまわりに付着した人間的発想による不純物の多くを、まず取り除かねばなりません。

神によって特に選ばれた数少ない寵愛(ちょうあい)者 – そのようなものはわれわれは知りません。“選ばれた者”の名に値するのは、おのれの存在を律する神の摂理にのっとって、みずからを、みずからの努力によって救う者のことです。

盲目的信仰ないしは軽信仰が、少しでも効力を見せた例をわれわれは知りません。ケチ臭い猜疑心に囚われない霊的理解力に基づいた信頼心ならば、われわれはその効力を大いに認めます。それは神の御心にそうものだからであり、したがって天使の援助を引き寄せましょう。

が、かの実に破壊的な教義、すなわち神学的ドグマを信じこれに同意すれば罪過が跡形もなく消される – 生涯にわたる悪徳と怠慢の数々もきれいに拭(ぬぐ)い去られる – わずかひとつの信仰、ひとつの考え、ひとつの思いつき、ひとつの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われわれは断固として否定し、かつ告発するものです。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ません。

また、われわれはひとつの信仰を唯一絶対と決めこみ、他のすべてを否定せんとする態度にも、一顧の価値も認めません。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねます。

いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に、誤った夾雑物も蓄積しています。人間自身は気づかないでしょうが、1個の人間を特殊な信仰へ傾倒させていく地上的環境が、われわれには手に取るようにわかります。

それはそれなりに価値があることをわれわれは認めます。優れた天使の中にも、かつては誤った教義のもとに地上生活を送った者が数多くいることを知っております。われわれが敬意を払う人間とは、たとえ信じる教義が真理から大きく外れていても、“真理の探求においては真摯”な人間です。

人間がよろこぶ枝葉末節の下らぬ議論には、われわれは関知しません。キリスト教的神学を色濃く特徴づけているところの、理性的理解を飛びこえた“のぞき趣味”には、われわれは思わず後ずさりさせられます。

われわれの説く神学は至って単純であり、理性的理解のいくものに限られます。単なる空想には価値を認めません。派閥主義にも興味はありません。いたずらに怨恨と悪意と敵意と意地悪な感情を煽(あお)るのみだからです。

生活 即 宗教

われわれは“宗教”というものを、われわれにとっても人間にとっても、もっとも単純な形で関わるものとして説きます。修行場としての地上生活の中に置かれた人間は、われわれと同じ永遠不滅の霊として、果たすべき単純な義務が与えられ、それを果たすことによって一段と高度な進歩的仕事への準備を整えます。

その間、不変の摂理によって支配されます。その摂理は、もし犯せば不幸と損失をもたらし、もし遵守すれば進歩と充足感を与えてくれます。

同時に人間は、かつて地上生活を送った霊の指導を受けます。その霊たち(5)は人間を指導・監督すべき任務を帯びているのです。ただし、その指導に従うか否かは、当人の自由意志に任せられています。

人間には善悪の判断を下す基準が先天的にそなわっており、その判断に忠実に従い、そして迷うことさえなければ、かならずや真理の道へと導いてくれるはずのものなのです。

善悪の判断を誤り、背後霊の指導を拒絶した時、そこには退歩と堕落があるのみです。進歩が阻止され、喜びの代りに惨(みじ)めさを味わいます。罪悪そのものが罰するのです。

正しい行為の選択には背後霊の指示もありますが、本来は霊的本能(良心)によって知ることができるものです。為すべきことをしていれば、進歩と幸福が訪れます。魂が成長し完成へ向けて新しい、より充実した視野が開け、喜びと安らぎをもたらします。

地上生活は生命の旅路の一過程にすぎませんが、その間の行為の結果は死後にもなお影響を残します。故意に犯した罪は厳しく裁かれ、悲しみと恥辱の中に償わねばなりません。

一方、善行の結果もまた死後に引き継がれ、霊界においてもその聖なる霊を導き、高級霊の指導教化を受け易くします。

生命はひとつにして不可分のものです。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点においてひとつであり、永遠にして不変の法則の支配下にあるという点においてもひとつです。

誰1人として特別の恩寵には与(あずか)りません。また誰1人として不可抗力の過ちのために無慈悲な懲罰を受けることもありません。永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にあります。

ただし、“お情け”は神の属性ではありません。そのようなものは不要です。なぜなら、お情けは必然的に“刑罰の赦免”を意味し、それだけは、罪障をみずから償った時以外には絶対に有り得ないことだからです。衰れみは神の属性ですが、情けは人間の属性です。

いたずらに沈思黙考に耽り、人間としての義務をおろそかにする病的信仰は、われわれは是認するわけにはいきません。そのような生活では、神の栄光はいささかも高められないことを知っているからです。

われわれは仕事と祈りと崇拝の宗教を説きます。神と同胞と自分自身の魂と身体)への義務を説きます。神学的虚構をいじくり回すのは、無明(むみょう)の暗闇の中であがく愚か者に任せましょう。われわれが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次のように要約できましょう。

地上生活の規範

父なる神を崇(あが)め敬う(崇拝)…神への義務

同胞の向上進歩を扶(たす)ける(同胞愛)…隣人への義務

身体を大切にする(肉体的養生)…自己への義務

知識を取得する(知的進歩)…自己への義務

より深い真理を求める(霊的開発)…自己への義務

善行に励む(誠実な生活)…自己への義務

祈りを通して背後霊との連絡を密にする(霊的修養)…自己への義務

以上の中に、地上の人間としての在(あ)るべきおおよその姿が示されています。いかなる教派にも偏ってはなりません。理性が容認できない教えに盲目的に従ってはなりません。

一時期にしか通用しない特殊な通信を無批判に信じてはなりません。神の啓示はつねに進歩的であり、一時代、あるいは一民族によって独占されるものではないことを、いずれそなたも理解することになるでしょう。

神の啓示は、1度たりとも“終わった”ことはないのです。その昔シナイ山において啓示を垂れたように(6)、神は今なお啓示を送り続けておられるのです。人間の理解力に応じてより進歩的な啓示を送ることを、神は決しておやめになりません。

完全な啓示は存在しない

また – これ又そなたには得心しかねることでしょうが – すべての啓示は人間を通路としてもたらされるために、多かれ少なかれ人間的誤謬(ごびゅう)によって脚色されることを免れないのです。したがって、いかなる啓示も、“絶対”ということは有り得ません。

信頼性の証は合理性の有無以外には求められません。ゆえに、新しい啓示が過去の一時期に得られた啓示と一致しないからといって、それは、必ずしも真実性を疑う根拠にはならないのです。いずれも、それなりに真実なのです。ただ、その適用の対象を異にするのみなのです。

正しい理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設(もう)けてはなりません。啓示をよく検討し、もし理性的に得心がいけば受け入れ、得心がいかない時は、神の名においてそれを捨てさるがよろしい。

そして、あくまでも、そなたの心が得心し、進歩をもたらしてくれると確信するものにすがることです。いずれ時が来れば、われわれの述べたことが多くの人々によってその価値を認められることになりましょう。

われわれは根気よくその時節を待ちます。そして同時に、そなたとともに、神が人種の隔てなく、真理を求める者すべてに、より高く、より進歩的な知識と、より豊かで充実した真理への洞察力を授け給わんことを祈るものです。

神の御恵みの多からんことを!

[注釈]

(1)Trance Speaking トランス(入神)状態の霊媒の口を借りて霊がしゃべる現象で、大きい会場で行なう場合を入神講演、小さな部屋で行なう場合を入神談話ないし霊言現象と呼んでいる。霊媒の教養と人格に応じて感応する霊の程度と種類もさまざまで、したがって“霊がしゃべった”という現象だけでご大層に思うのは禁物である。

ここでは入神して無意識状態にあるモーゼスの口を使ってインペレーターがしゃべるので、モーゼス自身はその内容がわからず、録音装置のなかった当時としては筆録されたものを読むか、それを聞いた列席者からおよその内容を教えてもらうしかない。

このあとに出ている“交霊会”というのは、そうした霊媒を通じて霊と交わる催しの総称で、ここでの出席者はスピーア博士夫妻を中心に、ごく親しい知人2、3人だけだった。

(2)Latitudinarian 英国国教会内の中道派で、伝統的儀式を重視しない。正式には Broad Church といい、Latitudinarianという時は軽蔑的なニュアンスが込められている。

(3)Anglican 英国国教会の別称で、前後に出ている広教会も高教会もこの中に入る。カトリックとプロテスタントの両要素をそなえながら、どちらにも偏らない。

(4)High Church 国教会の一派で、教義や儀式を重んじる。ローマカトリックと東方正教会に近い。

(5)第1節および第2節の各注(1)を参照

(6)旧約聖書の“出エジプト記”その他に出てくる“モーセの十戒”のこと。

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第9節 キリスト教神学の誤り

[前節で紹介した説には当時の私に訴えるものがまったく見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説とまったく相容れないものであること、しかも、畏(おそ)れ多くも、キリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。

そして、あの通信には途中で不純なものが混入しているのではないか、それに、私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあの程度のもので人生の指針として完ぺきだというのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた – ]

破邪は顕正(けんしょう)に先立つべきもの

前回述べたところはおよその指針にすぎないが、それなりに真実です。ただし、すべてを尽くしているとは言いません。きわめて大まかな原則であり、不鮮明な点、欠落していることが少なからずあります。が、本質的には間違っておりません。

確かに、そなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれた教義を、多くの点で侵していることは認めます。また、何の予備知識もない者には新しい説のように聞こえ、古い信仰形体を破壊するもののごとく思われるかも知れません。

が、実際はそういうものではありません。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ、新たな心理探求に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれわれの霊的教訓を受け入れることができるはずです。

古い偏見によって足枷(かせ)をはめられることさえなければ、すべての人間に薦められる性質のものであると信じます。さきにわれわれは、まず夾雑物を取り除かねばならないと述べました。

破邪が顕正に先立たねばならないと述べました。古いもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べました。要するに、建設のためにはまず地ならしが必要であることを述べたのです。

– その通りですが、私から見て、あなたが取り払おうとなさっている夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にもわたって信仰の絶対的基盤としてきたものです。

違います。かならずしもそうではありません。そなたの言い分には、いささか誇張があります。イエスの地上生活についての記録はきわめて不完全です。その記録を見ても、キリスト教会が無理やりに押しつけてきたイエスの位置、立場について、イエス本人は一言も語っていないことがおわかりになるはずです。

真実のイエスは、その名を戴く教会の説く人物より、はるかにわれわれの説く人物に近い存在だったのです。

– そんなはずはありません。それに、例の贖罪説、あれをどう思われますか。

贖罪説はこじつけ

ある意味では間違っておりません。それ自体は否定しません。われわれからみて許せないのは、神を見下げ果てた存在 – わが子の死によってご機嫌を取らねばならない残忍非情な暴君に仕立てあげている、幼稚きわまる言説です。

イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話 – そのためにかえってイエスの生涯の素朴な偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となっている誤ったドグマを否定したからとて、それは、いささかもイエスの偉大さを減じることにはなりません。

そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、あげくの果てに、それを否定あるいは拒絶することが大罪とされるに至った過程については、いずれ詳(くわ)しく語る時節も到来するでしょう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、すべてを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深い人間のためにわが子イエスに大権をゆだねて地上へ派遣した事実を否定することが、永遠の火刑もやむを得ない大罪とされても致し方ないかも知れません。

キリスト教のある大きな教派は、その最高位の座にある者の絶対的不謬性を主張し(1)、それを受け入れない者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説きます。

これなどはキリスト教会においても比較的新しい説です。が、すべてのドグマはこうして作られてきたのです。かくして人間の理性のみでは、神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となります。

同時にまた、その夾雑物を取り除こうとする勇気ある者が、攻撃の的とされます。いつの時代にもそうでした。われわれがより高い視点から人間的爽雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤った行為であると非難される筋合いはないのです。

– そうかも知れません。しかし、キリストの神性と贖罪の信仰は、人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも、署名の頭にかならず十字(クロス)を冠しておられます(†Imperator)。私の推測では、あなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。

通信者のレクターも同じように署名に十字を冠しています(†Rector)。あの方などは、絶対とは言いませんが、おそらくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。

つまり、もしもその教義が不要のもの、あるいは真理を履(は)き違えたもの、もしくは完全な誤りであるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後、ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。

もしそうでなかったのなら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしもクリスチャンだったのなら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それひとつに関わっています。

現在のあなたの言説と、地上時代に抱いておられた信仰とが、どこでどうつながるのか、そこがわからないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。また、どうみても、署名に十字を付ける人の説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きにすぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私には、あなたの言葉と態度以外に判断の拠(よ)り所がないのです。

私に判断しうるかぎりにおいて、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理性もあります。しかし、キリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示しねがいたいと申し上げるのみです。

いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとしたい。

[私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようとしたが、6月20日まで何も来なかった。右の通信は16日に来たものである。そして、ようやく届けられた返答は次のようなものだった – ]

バイブルの字句にこだわることが生む弊害

友よ、これより、そなたを悩ませてきた問題について述べることにしよう。十字架がわれわれの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしましょう。

そもそも、主イエス・キリストの教えとして今地上に流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応(ふさわ)しからぬものが少なからずあるという事実を、まず述べたいと思います。各派の狂信家はその字句にのみこだわり、意味をおろそかにする傾向があります。

執筆者1人ひとりの用語に拘泥(こうでい)し、その教えの全体の流れをおろそかにしています。真理の探求と言いつつも実は、あらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを“真理”と銘うっているにすぎません。

そなたたちのいう“聖なる書”(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中から断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図していない意味をもつに至っています。

またある者は、いささかの真理探求心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルの用語や文句を借用します。それはそれなりに目的を達するであろう。

が、そうすることによって徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立て、それをこじつけることをもって良しとする者たちによって、ひとつの体系が作り上げられていきます。いずれも、バイブルというテクストから1歩も踏み出してはいないのです。

さきにわれわれは、これから説くべく用意している教えは多くの点において、キリスト教でいう“神の啓示”と真っ向から対立すると述べました。

正統派のキリスト者たちは、1人の神秘的人物 – “完全なる三位一体”を構成する1人 – が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理のすべてを地上にもたらしたと説きます。それが全真理であり、完全であり、永遠の力を有するといいます。

神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されません。神の語った言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも、全真理がその語句と言い回しの中に収められているといいます。

ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の教えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであるといいます。

要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのです。英語に訳されたものであっても、やはりその一言一句が神の言葉であり、そのつもりで細かく分析・解釈するに値するものとされています。

なぜなら、その翻訳にたずさわった者もまた、その驚異的大事業の完成のために神の命を受けた者であると信じられているからです。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もない結論が打ち出されることになります。無理もないことかも知れません。なぜなら、彼らにとっては、その一言一句が人間的謬見(びゅうけん)に侵されることのない“聖なる啓示”だからです。

しかるに、その実彼らの為せることは、自分に都合のよい文句のみを引用し、不都合なところは無視して、勝手なドグマを打ち立てているにすぎません。が、ともあれ、彼らにとってはバイブルは神の言葉そのものなのです。

啓示は時代とともに変化する

他方、こうした考えを潔(いさぎよ)く捨てた者がいます。彼らは、バイブルの絶対性を打ち砕くことから出発し、ついにたどり着いたところが、ほかならぬ、われわれの説くところと同じ見解です。

彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意は払います。しかし同時に、それはその時代に相応しいものが啓示されたものであり、ゆえに今なお現代に相応しい啓示が与えられつつあると見ます。

バイブルは、神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとして読みます。無知と野蛮の時代には、神はアブラハムの友人であり、テントの入口でともに食し、ともに語り合った。次の時代には民族を支配する士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦った王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なった暴君であった。

それが時代の進歩とともに、優しさと愛と父性的慈悲心をそなえた存在となっていった…心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、真摯な探求の末に、その成長は決して終息することがないこと、神の進歩的啓示が閉ざされたことは1度もないこと、たとえ神についての知識が完全よりほど遠くても、それを求める人間の理解力が、その渇望を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着きます。

ゆえに真理を求める者は、少なくともその点についてのわれわれの教えを受け入れる用意はあるはずなのです。われわれが求めるのはそういう人物なのです。すでに完全な知識を手にしたと自負する者に、われわれは言うべき言葉を知りません。

彼らにとっては、まず神と啓示に関わる問題についての無知を悟ることが先決です。それなくしては、われわれが何と説こうと、彼らは固く閉じ込められた、無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることはできません。

彼らとしては、これまで彼らの霊的成長を遅らせ、未来の霊的進歩の恐ろしい障害となる、その信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされるほかに残された道はありません。以上のことをそなたが正しく理解してくれれば、さらに1歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べるとしましょう。

啓示に霊媒の主観の混入は不可避

われわれに言わせれば、バイブルを構成している数々の書、およびその中に含まれていない他のもろもろの書はみな、神が人間に啓示してきた神自身についての知識の、段階的発達の記録にすぎません。その底流にある原理はみな同じであり、ひとつなのです。

それと同じ原理が、そなたとのこうした交わりをも支配しているのです。人間に与えられる真理は、人間の理解力の及ぶ範囲のものに限られます。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられません。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのです。

さて、その真理は1個の人間を媒体として届けられます。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れることはできません。絶対にできません。通信霊は、必然的に、霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ないからです。

つまり所期の目的にそって、その素材に新たな形体を加えるのです。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになりますが、元になる材料は、霊媒が以前から宿していたものです。したがって通信の純粋性は、霊媒の受容性と、通信が送られる際の条件が大いに関わることになります。

バイブルのところどころに、執筆者の個性と、霊的支配の不完全さと、執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためです。それとは別に、その通信が授けられる民族の特殊な必要性による、独特の色彩が見られます。もともと“その民族のために”意図されたものだからです。

そうした例ならば、そなたにも幾らでも見出せるはずです。イザヤがその民に霊の言葉を告げた時、彼はその言葉に自分の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのでした。

申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念がありました。しかし、それを詩歌(しいか)と比喩(ひゆ)によって綴った時、それはエゼキエル(2)がその独特の隠喩(いんゆ)でもって語ったものとは、はるかに異なったものとなりました。

ダニエル(2)にはダニエル独自の神の栄光の心象がありました。エレミヤ(2)にはエレミヤを通じて語った“主”の観念がありました。ホセア(2)には神秘的象徴性がありました。そのいずれも同じ神エホバを説いていたのであり、知り得た通りを説いていたのです。ただ、その説き方が違っていただけなのです。

のちの時代の聖なる記録にも、同じく執筆者の個性が色濃く残されています。パウロ(3)しかリ。ペテロ(3)しかり。同一の真理をまったく異なった角度から見ているのも、やむを得ないことです。

真理というものは、2人の人間が異なる視点からそれぞれの手法によって説いても、いささかもその価値を減ずるものではありません。相違といっても、それは霊感の本質ではなく、その叙述の方法の違いにすぎないからです。霊感はすべて神より発せられます。が、受け取る霊能者は、あくまでも(肉体に宿った)人間なのです。

読む者は自分の心の投影しか読み取らない

ゆえに、バイブルを読む者は、その中に自分自身の心の投影を読み取るということになります。いかなる気質の人間でも同じです。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解があまりに乏しいゆえに、過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さないことになります。

彼はバイブルに自分の理想を見出さんとします。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神程度の者のための知識のみです。1人の予言者の言葉で満足しない時は、他の予言者の言葉の中から気に入った箇所を選び出し、他を捨て、その断片的知識をつなぎ合わせて、“自分自身の”啓示を作り上げていきます。

同じことがどの教派についても言えます。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証するためにバイブルから“都合のよい箇所”のみを抜き出します。もとより、バイブルのすべてをそのまま受け入れられる者は皆無です。

何となれば、すべてが同質のものとは限らないからです。各自が自分の主観にとって都合のよい箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって“啓示”と称します。

他の箇所を抜き出した者の啓示(と称するもの)と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易な意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図しなかった意味に解釈されていることが明らかとなります。

こうし折角の霊感の産物が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは、好みの武器を取り出す重宝(ちょうほう)な兵器庫とされ、神学は、誤った手前勝手な解釈によって都合よく裏づけされた、個人的見解となり果てたのです。

こうして組み立てられた独りよがりの神学に照らして、われわれの説くところがそれに相反していると非難されています。確かに違うでしょう。われわれはそのような神学とは一切無縁なのです。それはあくまでも地上の神学であり、俗世のものです。

その神の概念は卑俗であり低俗です。魂を堕落させ、“神の啓示”を標榜(ひょうぼう)しつつ、その実、神を冒潰しています。そのような神学とは、われわれは何の関わりも持ちません。

矛盾するのは当然至極であり、むしろ、こちらから関わり合いを拒否します。その歪んだ教えを修正し、代って神と聖霊について、より真実味のある、より高尚な見解を述べることこそ、われわれの使命なのです。

神の概念は言語を超越する

バイブルから出た神の概念がこうまではびこるに至ったもうひとつの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているにすぎないものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにあります。

人間の理解の及ばない観念を伝えるに当たっても、われわれは、人間の思考形式を借りて表現せざるを得ないことがあります。

正直のところ、その表現の選択においてわれわれもしばしば誤りを犯します。表現の不適切なところもあります。霊的通信のほとんどすべてが象徴性を帯びており、とくに人間がほとんど理解していない神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤る場合が生じるのは、やむを得ないことです。

いずれにせよ、しょせん象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈していただかねばなりません。神についての霊信を“字句どおり”に解釈するのは愚かです。

さらに留意すべきことは、それを授かる者の理解力の程度に合わせた表現方法で授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならないということです。

バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は、その一字一句を字句どおりに受け止め、その結果、誤った結論を下すことになります。

衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(4)の信者に説き聞かせた誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉とにおいて大いに、あるいは完全に異質の他民族に、その字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、いたずらに惑わせることになりかねません。

神についての誤った冒瀆的概念も、多くはそこに起因しているとわれわれは見るのです。そもそも言語なるものが不備だったのです。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠く外れます。

それが、われわれが指摘したように、後世の者によって字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着します。そうなってはもはや神の啓示とは言えません。それは神について人間が勝手にこしらえた概念であり、しかも、未開人が物神に対して抱いた概念と同じく、彼らにとってはきわめて真実味をもっているのです。

繰り返しますが、そのような概念にわれわれは同意できません。それどころか、あえてその誤りを告発するものです。それに代わる、より真実にしてより崇高な知識を授けることが、われわれの使命なのです。またその使命の遂行に当たっては、われわれは一つの協調的態勢で臨みます。

まず1人の霊媒に神の真理の一端を授けます。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をします。正しく発展する箇所もあれば、誤った方向へ発展する箇所もあります。若き日に培われた偏見と躾(しつけ)の影響によって歪められ曇らされる部分もありましょう。

では、より正しい真理を植えつけるに当たって、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか、精神から一切の先入観念を払拭(ふっしょく)すべきか – それはなりません。

われわれはそうした手段は取りません。万一その手段を取ろうとすれば、それには莫大な時間を要し、下手(へた)をすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛のまま放置することになりかねません。

新しい啓示も霊媒の潜在意識を利用する

そのようなことはできません。あらかじめ存在している概念を利用し、それを少しでも真理に近いものに形作っていくのです。いかなるものにも“真理の芽”が包蔵されているものです。

もしそうでなければ、一挙に破壊してしまうところです。が、われわれはそうしたささやかな真理の芽を大切にし、それを成長させ発達させようとします。人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なものかが、われわれにはよくわかっています。

それはわれわれが導く真理の光を当てれば自然崩壊していくものと信じて、他の重要な問題についての知識を提供していきます。取り除かねばならないのは排他的独断主義です。これが何より重大です。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、あえて取り合いません。

そういう次第ですから、在来の信仰のトゲトゲしさが和らげられてはいるものの、きわめて似た形で残っているものが多々あります。そこで人は言います – 霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎないではないか、と。

そうではありません。今こうしてそなたに説いていることが、その何よりの証拠です。

たしかに、われわれは霊媒の精神に以前から存在するものを利用します。が、そのまま使用するのではありません。それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的にそったものに適合させます。

しかも、それを目立たないように行ないます。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにドグマ的で、そのままでは使いものにならない時です。

かりにここに、神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めない者がいるとしましょう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信じると言い出せば、そなたもその変わりように目を見張ることでしょう。

それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しい信仰が色調を穏やかなものに塗り変えられていった場合、人間はその変化に気づかないでしょう。徐々に行なわれ、かつ微妙だからです。が、実はわれわれにとっては、着々と重ねた努力の輝かしい成果なのです。

荒々しさが和らげられた。頑固で冷酷、かつ陰湿なところが温められ、愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さがいっそう輝きを増し、善性が威力を増した。かくし真理を求める心が、神と死後の世界について、より豊かな知識を授けられることになるのです。

人間的見解を頭ごなしに押さえつけたのではありません。それに修辞を施し、変化を与えただけです。その霊的影響力は、現実にそなたのまわりに存在しているのです。そなたはまったくそれに気づいていませんが、われわれに課せられた霊的使命の中でも、もっとも実感のある、有り難い仕事なのです。

ですから、霊は人間の先入観を繰り返すだけではないかと人が言う時、それは、あながち誤りとも言えないのです。その先入観は、害を及ぼさないものであるかぎり、そのまま使用されているからです。ただ、気づかれない程度の修飾を施してあります。有害とみたものは取り除いて、抹消してしまいます。

信仰は形式より中身が大切

とくに神学上の教義の中でも特殊なものを扱うに当たっては、可能なかぎり除去せずに、新しい意義を吹き込むように努力します。なぜならば、そなたには理解できないかも知れませんが、信仰というものは、それが霊的であり生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたないものだからです。それゆえわれわれは、すでに存在している基盤の上に新たなものを築こうとするのです。

とは言え、その目的の達成のためには、今も述べたように真理の芽を留めている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存するものの、他方、ぜひ取り除かねばならない誤った知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なくありませんから、建設の仕事に先立って破壊の仕事もしなければならないことになります。

魂にこびり付いた誤った垢(あか)を拭い落とし、できうるかぎり正しい真理に磨きをかけ、純正なものにします。われわれが頼りとする人間に、まずその者が抱いている信仰の修正を説くのはそのためです。

さて、ここまで述べれば、今のそなたの苦悶のいわれが分かるはずです。われわれはそなたが抱いている神学上の見解を根こそぎにしようというのではありません。それに修正を加えようとしているのです。振り返ってみていただきたい。

かつての狭隘(きょうあい)な信仰基盤が、徐々に抱括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が分かるはずです。われわれの指導のもとに、そなたは数多くの教派の神学に触れてきました。そしてそれぞれに、程度こそ違え、真理の芽を見てこられました。ただ、その芽が人間的偏見によって被い隠されているに過ぎません。

またキリスト教世界の多くの著書を、みずからの意志で念入りに読んでこられました。そこにさまざまな形態の信仰を発見して、そなたの信仰の偏りが是正され、荒々しさが和らげられました。太古の思想の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこから自分に理解しうるものを吸収するまで、実に長く、そして遅々とした道程でした。

すでに生命を失い、呼吸することのないドグマで固められた東方正教会の硬直した教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に、待望久しい痛撃を浴びせてくれたドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思策の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々 – そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なものを身につけてこられた。

長く、そして遅々とした道程ではありましたが、われわれはこれよりさらに歩を進め、いよいよ理想の真理 – 霊的で捉えどころはなくても魂にとっては実感のあるものであり、これまでにそなたが学んできたものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思うのです。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在をお見せしたいと思うのです。

そこで、まずそなたに知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的思想は、神との和解だの、贖罪(しょくざい)だのという付帯的俗説も含めて、そなたの考えているものとは、およそ本質を異にするものであるということです。

それはあたかも古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ています。われわれはそなたの理解しうるかぎりにおいて、“救い主”“贖(あがな)い主”“神の子”として崇めるイエスの生涯の奥に秘められた霊的真実を知らしめたいと思います。

イエスがその地上生活で身をもって示そうとした真の意義を教え、われわれが取り除こうとする俗説がいかに愚劣で卑劣であるかを明らかにしたいと思うのです。

十字架が象徴するもの

そなたは、そうしたわれわれの教えがキリストの十字架の印とどう関わりがあるのかと尋ねられた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われわれが普及を宣言するところの根本的真理なのです。

自分の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛、これぞ純粋なキリストの精神であり、これこそわれわれが神のごとき心であると宣言するものです。

その心こそ、卑劣さと権力欲、そして身勝手な驕(おご)りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いです。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめるのです。

これこそ真実の贖罪(しょくざい)なのです。罪なき御子を犠牲(いけにえ)にして、怒れる神に和解を求めるのではありません。霊的本性を高め、魂を浄化する行為の中で償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(5) – 身は地上にあっても魂をよりいっそう神に近づけていくこと、これぞ真実の贖罪なのです。

キリストの使命も、その率先垂範にありました。その意味において、確かにキリストは神性のひとつの発現であり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主でした。

が、同じ意味においてわれわれもキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行してまいります。十字架の旗印のもとに働き続けます。キリストの敵 – たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとではあっても、無明(むみょう)のゆえに、あるいは強情のゆえに、キリストの名を汚す者には、われわれは敢然と闘いを挑みます。

ある程度まで霊的真理に目覚めた者にとっても、われわれの説くところには新しく、かつ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像されます。が、いずれは、キリストの教えがわれの説くところと、本質において一体であるとの認識に到達する時代(とき)が訪れることでしょう。

その暁には、それまで真実を被い隠していた愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中で崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳な真実の姿を見ることになりましょう。

その時のイエスへの崇敬の念はいささかも真実味を減ずるどころか、より正しい認識によって裏づけられることになります。すなわち、われわれが印す十字架は不変の純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのです。その認識をそなたに得さしめることこそ、われわれの真摯な願いです。

願わくばこれを基準としてわれわれの使命を裁いてもらいたい。われわれは神の使命をおびて参りました。その使命は神のごとく崇高であり、神のごとく純粋であり、神のごとく真実です。人類を地上的俗信の迷いから救い出し、汚れを清め、霊性と神性とにあふれた雰囲気へと導いていくことでしょう。

われわれの述べたところをよく吟味されたい。そして、導きを求めよ。われわれでなくともよい。その昔、神がかのイエスという名の、無垢と慈悲と滅私の霊を地上へ送られたように、今われわれを地上へ送られたイエスを通して祈るがよい。

イエスを今なおわれわれは崇める。
その御名をわれわれは敬う。
その御言葉をわれわれは繰り返す。
その御教えが再びわれわれの中に蘇(よみがえ)る。
イエスもわれわれも神の使いである。
そして、その御名のもとにわれわれは参る。

†インペレーター

[注釈]

(1)ローマカトリック教会には“教皇不謬説”というのがある。1870年の第1回バチカン公会議で教義として決定されたもので、教皇(法王)はキリスト教の代表者として聖霊に導かれているので、信仰と道徳について宣言することに絶対に誤りはない、とされる。

(2)いずれも旧約聖書に出てくる予言者。

(3)いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。

(4)Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。

(5)“贖い”を意味する英語 atonement が語源的には at-one-ment すなわち“ひとつになること”を意味することを示唆しながら説いている。

(6)現在スピリチュアリズムの名称のもとに広がりつつある地上の霊的浄化活動 – その一環としこうした霊的真理が説かれているのであるが – その総指揮を取っているのが、地上で“ナザレのイエス”と呼ばれた人物であることは、西洋の高等霊界通信が異口同音に指摘していることである。

30有余にわたって東西の霊的資料を吟味・検討してきた訳者個人の直観的結論として、イエスは、地球神界の最高政庁(ヒエラルキー)の1人、言いかえれば地球の守護神直属の神霊の一柱、西洋でいう大天使の1人が降臨したものと信じている。

Spiritualism(スピリチュアリズム)とか Silver Birch(シルバーバーチ)とか Imperator(インペレーター)といった横文字を見て、古い国粋主義的排他根性を抱くのは禁物である。これは地球規模の問題なのである。

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第10節 絶対にして不変の摂理の存在

[不服だったので、私は時間をかけて、書かれた通信の内容をじっくり吟味してみた。それは当時の私の信仰と正面から対立するものだったが、それが書かれている間じゅう私は、心を高揚させられる強烈な雰囲気を感じ続けていた。反論する前に、私は何とかしてその影響力を排除してしまいたいと思った。

その反論の機会は翌日訪れた。私はこう反論した。あのような教説はキリスト教のどの教派からも認められないであろう。またバイブルの素朴な言葉とも相容れない性質のものであり、ふつうならキリスト教的なものとして弾劾裁判にもかけられかねないところである。

さらに又、そのような、何となく立派そうな見解 – 当時の私にはそう映った – は信仰のバックボーンを抜き取ってしまう危険性がある、といった主旨のものだった。すると次のような回答が来た – ]

イエスとその弟子たち

友よ、よい質問をしてくれたことを嬉しく思います。よろこんで論議するとしよう。

われわれがいかなる権能を有する者であるかについては、すでに述べました。われわれは神の使命をおびて参った者であることを公言します。そして時が熟せば、いずれその真実性が認められることを信じ、自信をもってその日の到来を待ちます。

それまでに着実な準備をなさねばならないし、たとえその日が到来しても、少数の先駆者を除いては、われわれの教えをすべて受け入れることのできる者はいないであろうことも、先刻覚悟はできております。それは、われわれにとって格別の驚きではないことを表明しておきます。

考えてもみられよ!より進歩的な啓示が1度に受け入れられた時代があったであろうか。いつの時代にも、知識の進歩にはそれを阻止せんとする勢力はつきものなのです。

愚かにも彼らは真理は古きもので事足れりとし、すべては試され証明されたと絶叫します。一方、新しいものについては、ただそれが新しいものであること、古いものと対立するものであること以外に、何ひとつ知らないのです。

イエスに向けられた非難もまさにそれでした。モーセの教えから難解きわまる神学を打ち立てた学者たち – その教えはその時代に相応しい、それなりの意義があったとはいえ、時代とともにより高い、より霊性のある宗教へと生長していくべきものであったのに、彼らは後生大事にその古い教えを微に入り細を穿(うが)って分析し、ついに、ただの儀式の寄せ集めとしてしまいました。

魂のない身体 – そうです!生命のない死体同然のものにしてしまったのです。そしてそれを盾に、彼らの神の冒瀆者 – 不遜にも彼らは人類の宗教の“救い主”をそう呼んだのです – であるイエスはモーセの律法を破壊し、神の名誉を奪う者である、と絶叫しました。

律法学者(1)とパリサイ人(2)、すなわち伝統宗教の擁護派が一丸となってイエスとその教えを非難しました。かの偉大な人類の指導者を十字架にかけるに至らしめた、その怒号を真っ先に浴びせたのが彼らだったのです。

イエスが神の名誉を奪う者でなかったことは、今のそなたには明々白々のことです。イエスは神の摂理を至純なものとし、霊性を賦与し、生命と力を吹き込み、活力を与え、新たな生命を甦(よみがえ)らせんがために、人間的虚飾を破壊しようとしたにすぎません。

親へのうわべだけの義務 – 愛の心を欠き、わずかな、しかも渋々ながらの施しのみの義務 – を説く、わびしい律法に代って、イエスは愛の心から湧き出る、子としての情愛、からだの授け親と、父なる神に対する無償の、惜しみない施しの精神を説きました。

うわべだけの慣例主義に代って、衷心からの施しを説きました。いずれが正しく、いずれがより美しいでしょうか。

後者は果たして前者を踏みにじるものだったでしょうか。むしろ前者の方が、生命のない死体が生きた人間に立ち向かうのにも似て、後者にむやみに抵抗したにすぎなかったのではないでしょうか。

にもかかわらず、軽蔑をもって投げ与えられたわずかな硬貨で、子としての義務を免れてよろこぶ卑しい連中が、イエスを、旧(ふる)い宗教を覆(くつがえ)そうと企(たくら)む不敬者として、十字架にかけたのでした。カルバリの丘での処刑シーンは、まさに堕落した宗教の絶好の象徴と言えます。

その新しい福音をよろこばず、かつ、それを受け入れる用意のできていなかった世に敢然と立ち向かったイエス、そのイエスの弟子たちにしつこく向けられた非難も、やはり、新しい教義をもって旧い信仰を覆さんとしている、というものでした。

そうして、何とかして彼らを告発するための罪状を見出さんと策を弄(ろう)しました。が、“四面楚歌”の、新しい信仰に対するいかなる非難をも甘受する、その弟子たちの説く教えには、何ひとつ不埒(ふらち)千万なものを見出すことができませんでした。

彼らは確かに非合法の集団でした。が、ユダヤ教信仰と”時の権力”には忠実に従っていたために、告発せんとして見守る者たちも、そのいわれを見出すことができませんでした。彼らは次々と新しい無垢の信者を集めていきました。

愛の心に満ちた、心優しいイエスの後継者である彼らの教えには、何ひとつ不埒千万なものはありませんでした。今、われわれの教えと使命の信頼性を失墜させるものならよろこんで信じたがる者も、当時のそうした反抗者と大して選ぶところはありません。

進歩に抵抗はつきもの

しかし、いつの時代でもそうだったのではないでしょうか。新しいものが非難され、信頼が得られないのは、宗教において、科学において、そして有限な人間の為すことのすべてにおいて、いつの時代にも変らぬ物語です。それが人間的知性の特性のひとつなのです。

すなわち見慣れたものが気に入られ、目新しくて見慣れないものが、懐疑と不信の目で眺められるのです。それゆえわれわれは、スピリチュアリズム的キリスト教観を説くに当たって、劈頭(へきとう)から懐疑の目をもって迎えられることに、いささかも驚きの念を感じません。いずれは、すべての人がその教えの美しさと神聖さを認める日が到来することでしょう。

われわれの説くところが人間のこしらえた教説と衝突することは、別に驚くには当たりません。否、むしろ、遠い太古において霊能の発達程度を異にする霊媒を通じて得られた教えと矛盾しないことの方が不自然です。

バイブルの中にも、それが当時の霊媒を通じて得られた誤りだらけの混ぜものであるために、それらの教えを融合し得ないものが見出されて当然であることを指摘せずにおくわけにはいかないのです。この点についてはすでに述べましたので、繰り返す必要は認めません。

バイブルの啓示にも神についての知識に進歩のあとが見られないわけでもありませんが、細部において不合理きわまる自家撞着(じかどうちゃく)を少なからず含んでいます。その上、霊媒を通過する際にまぎれ込んだ人間的誤謬もまた、少なくありません。

その中から真相を読み取るには、バイブル全体の流れを読むほかはありません。その全体像を無視して選び出した個々の言説は、当人の個人的見解にすぎず、信仰の対象としての価値はいささかも認められません。

そもそも幾世紀も昔の教説を今なお金科玉条として永遠の至上命令のごとく考えること自体、愚かというほかはありません。その種の考えは自家撞着を含み、また同じバイブルの中の他の言説、あるいはそれと対立する言説とも矛盾します。

申すまでもなく、キリスト者が“神の声”と呼ぶ書を筆録者たちが記述した時代においては、“イエスは神なり”との信仰が広まり、それを否定せんとする者には厳しい批難が浴びせられたものでした。また、そう信じた者たちは、同時に、イエスが地上人類を裁くために霊妙不可思議な方法で雲間に姿を現わす – それも、その世紀の人類が滅びる前である、と信じました。

どちらの信仰も間違いでした。そうして、その時以来、少なくとも1800年が過ぎ去りましたが、イエスは再臨しておりません。このことに関連して、今少し述べておく必要がありそうです。

ぜひともそなたに理解を望みたいことは、神の啓示といえども、人間にそなわっている“光”つまり理性によって判断しなければならないということです。説教者の言葉を鵜呑(うの)みにすることなく、それを全体像の中で捉え、一言一句の言いまわしにこだわることなく、その精神、その流れを汲み取るよう心がけねばなりません。

われわれ自身、およびわれわれの教説について判断する際にも、得体の知れない古い予言に合うの合わぬだのといった観点からではなく、自分が真に求めるもの、自分と神とのつながり、そして自分の魂の進化にとって有益であるか否かを基準にして判断しなければなりません。

つまるところ、一体われわれが何を説かんとしているのか、その説くところがどこまで理性を納得させているか、神について何と説いているか、自分の魂にとってそれがどこまで為になるか、そう問いかけなければなりません。

理性が承服しないキリスト教のドグマ

正統派の教会が説く教義によれば、神はその一人子を犠牲(いけにえ)とすることで人間と和解し、さらにその中から選ばれた少数の者を天国へ招き入れ、そこで時の果てることもなく永遠に、単調この上なく、神を讃える歌をうたい続けるのだといいます。

その“恩寵”にあずかられない他の人類は、すべて天国に入ることを許されることなく、言語に尽くし難い苦しみを永遠に受け続けるといいます。

この“至福”にあずかれない哀れな者たちは、ある者はそういう信仰を受け入れないからそうなるのであり、ある者は邪霊と環境によって堕落させられたためであり、ある者は恐ろしい煩悩の誘惑に負けて罪を犯したためであり、さらにある者は、多情多淫の肉体をもって生まれ、その激情に抗しきれなかったためです。

また、もし知っていれば喜んで努力したであろうに、何を為すべきかを知らなかったための者もいます。救われたくば信じよ、と説かれた教義が知性的にどうしても受け入れられなかった者もいます。そして、さきに述べたように、死後、天国への保証を確保してくれると説く言説に同意しなかった者もいます。

こうした者たちは永遠に破滅の道を歩み続け、その哀れな者たちを、祝福された者たちが平穏無事の高所より眺め下ろし、心安らかな満足を得るのだといいます。その実、彼らの多くは、地上で悲しむべき堕落の生活を送りながら、ただドグマ的教説への信仰を告白しただけで救われたというに過ぎません。

肉欲と怠惰の生活、あらゆる法に違反した生活も、信仰の告白というひとつの行為によって、すべてが帳消しになる、とそなたたちは教え込まれてきました。

いかに粗暴で肉欲に狂った者でも、死の床でイエスへの信仰を告白すれば、それまでの生活そのものが冒瀆していたはずの神のもとへ一気に招かれるといいます。不純にして卑しい堕落者が、清純にして気高い聖人とともに、完全無垢の神のもとにかしずけるとは!

指摘すれば枚挙にいとまなしですが、われわれの説くところと比較対照するには、以上で十分でしょう。われわれは決してそのような神 – 理性が身ぶるいし、父性的本能が嫌悪の念を催すような神の概念は説きません。同じく愛の神とはいえ、そのような偏った愛の神をわれわれは知りません。

それは人間が発明した神であり、われわれは知りません。そのような人間的偶像は野蛮な精神の哀れな戯言(たわごと)にすぎないことは、われわれが指摘するまでもありますまい。

至純至聖の神を滑稽化する、その不敬きわまる無知と愚かさに、われわれとともにそなたも驚きを感じてほしく思います。

友よ、そうした言説に敢然と異議を唱える者こそ、われわれの説く福音を切望している者に相違ありません。

神は摂理を通して顕現する

われわれが知るところの神、そしてそなたたちに確信をもって説く神こそ、真の意味での愛の神 – その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲はすべての創造物に及び、尽きることを知りません。いかなる者にも分け隔てせず、すべてに絶対的公正をもって臨みます。

その神と人間との間には無数の天使が階悌をなして待機し、神の愛の言葉をたずさえ、神の意志を時に応じて啓示します。この天使の働きによって、神の慈悲は途切れることなく人類に及ぶのです。これぞわれわれが説く神 – 摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神です。

では、人間についてわれわれはどう説くか。たった1度の改心の叫び声、たったひとつの懺悔(ざんげ)の言葉、節の通らぬ恐ろしい教義への信仰の告白行為ひとつで、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の意味での“不滅の魂”なのか。

違います!断じて違います!人間はより高い霊的生活への鍛練を得るために、ほんのわずかな期間を、肉の衣に包まれて地上にいるにすぎません。その霊の世界にあっては、地上生活でみずから蒔(ま)いたタネが実をつけ、みずから育てた作物を刈り取るのです。

待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという、児戯(じぎ)に類する夢幻(ゆめまぼろし)のような世界ではなく、より価値ある存在を目ざし、絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのです。

本当の意味での天国と地獄

その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律です。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は堕落させ進歩を遅らせます。真の幸福とは、向上進化の中、すなわち1歩1歩と神に近づく過程の中にこそ見出されるのです。

神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂のよろこびを味わいます。ものぐさな怠惰をむさぼる者など1人もいません。より深く、より高い真理への探究心を失う者もいません。人間的情欲・物欲・願望のすべてを肉体とともに捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活に勤(いそ)しみます。これぞ真実の天国なのです。

地獄 – それは個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しません。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶(もだ)え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛にさいなまれる – これぞ地獄です。

その地獄から抜け出る道はただひとつ – たどってきた道を後戻りして、神についての正しい知識を求め、隣人への愛の心を培(つちか)う以外にはありません。

罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりですが、その罰とは、怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではありません。

悪と知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へと導くための、自然の仕組みにほかならないのであり、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしいドグマへの口先のみの忠誠を誓うような、そんな退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてありません。

幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性にかない宗教心に発する行ないを為す者なら誰もが手にすることができるものです。

神の摂理を意識的に侵す者にかならず不幸が訪れるように、正しい理性的判断はかならずや幸福をもたらします。そこには、肉体に宿る人間と、肉体を捨てた霊との区別はありません。

霊的生命の究極の運命については、われわれも何とも言えません。何も知らないのです。が、現在までに知り得たかぎりで申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間も、われわれ霊もともに、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守(じゅんしゅ)する者は幸福と生き甲斐を味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道をたどるということだけは間違いなく断言できます。

神への責務、同胞への責務、そして自分自身に対する責務、この3つの根本的責務については、すでにその大要を述べました。よってここでは詳説はしません。いずれ敷衍(ふえん)して説く日も到来するでしょう。

人知の限界を知ることが大切

以上述べたことを篤(とく)と吟味していただきたい。われわれが当初から宣言している主張、すなわち、われわれの教えが純粋にして神聖であり、イエスの教えの本来の意義を改めて説き、それを完成せしめるものであることを知っていただくには十分でしょう。

これが果たして正統派の教義と較べて明確さを欠き、曖昧でしょうか。たしかに、そなたに反発心を起こさせる箇所については詳細を欠いているかも知れません。

が、全体を通じて、より崇高にして清純な雰囲気が漂っているはずです。高尚にして神聖な宗教を説いているはずです。より神聖の高い神を説いているはずです。

実は教えそのものが曖昧でもなければ、明確さを欠くわけでもありません。そう映るのは、敬虔な心の持ち主ならば浅はかな詮索をしたがらないはずの課題を扱っているからにほかなりません。

知り得ないことは知り得ないこととしておき、決して勝手な憶測はしません。全知全能の神について、いい加減な人間的見解を当てはめることを恐れるのです。

もしも、人知を超えた神にベールを掛けることをもって曖昧と呼ぶのであれば、たしかにわれわれの教えは曖昧であり、明確さに欠けるでしょう。

しかし、もしも知り得たかぎりのこと、理解し得たかぎりのことしか述べないこと、憶測するより実践すること、盲目的に信じるより実行することの方が賢明な態度であるならば、われわれの態度こそ、叡智の命じるところに従い、理性を得心させ、神の霊感にあずかれるものであると言えましょう。

われわれの教えには、理性的批判と実験に耐え得るだけの合理性があります。遠い未来においてもその価値をいささかも失わず、数知れない魂を鼓舞し続けることでしょう。

一方、これに異議を唱える者は、その愚かさと罪の結果を悲しみと悔恨の中に償わざるを得ないことになりましょう。それは、その信念をたずさえて進んだ無数の霊を幸福と向上の道へ導き、他方、その導きを拒否し霊性を閉ざしてしまう者は、魂の抜けた肉体と同じ運命をたどることになりましょう。

愚かな無知からわれわれの教えを悪魔の仕業と決めつけ、それを信じる者を悪魔の手先と非難しようとも、その教えは存続し続け、信じる者を祝福し続けることでしょう。

†インペレーター

– おっしゃることは筋が通っており、立派な教えだと思います。また、曖昧であるとの批判に対しても納得のいく回答をいただきました。しかし、一般の人は、あなたの説くところを事実上キリスト教を根底から覆すものだと言うことでしょう。

そこでお願いしたいのは、スピリチュアリズム的思想が究極において言わんとするところ、とくにそれが地上および霊界の未発達霊へ及ぼす影響について述べていただきたいと思います。

それについては、いずれ時機をみて説くとしましょう。今は控えます。先を求める前に、これまでわれわれが述べたところを篤と吟味してもらいたい。

そなたを導く御力をわれわれに給わんことを!

[注釈]

(1)Scribes 旧約聖書の筆写・編集・解釈を仕事としたユダヤ教の学者。

(2)Pharisees 儀式・慣習等を重んじたユダヤ教の一派。独善的形式主義者を意味することがある。

(3)これは、第2節の注釈でも述べたように、イエスの死後、まだキリスト教という用語もできていない初期の時代のことで、その信仰に目をつけたローマ皇帝コンスタンチヌスによって例のニケーア会議(325年)が開かれ3か月に及んだ会期中に、その信仰を国策としての新しい宗教とするための大々的陰謀がなされ、そこから“キリスト教”と呼ばれるものが誕生した。

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第11節 “儀文は殺す。されど霊は生かす”

[この頃には、迫ってくる例の影響力が一段と強まり、他の通信が一切締め出されてしまった。7月24日に私の方からいつもの霊に通信を求めたが、ダメだった。その影響力には不思議と精神を高揚させるものがあり、それが私の精神活動を完全に支配していた。

日常生活はいつもの通りに行なっていたが、その合間に1分1秒でも割いて、その影響力と、私にとって目新しい教えのことを考えた。考えはじめると、すぐにその影響力が割り込んできて、かつて感じたことのない力と物静かな美しさで迫ってくる感じがした。

それまで私はキリスト教神学を長年にわたって広く深く勉強してきたが、数ある教説も、アラ探しをする意図のもとに読んだことは1度もなかった。辻褄の合わない点も、批判するよりむしろ、うまくつなぎ合わせるようにしたものである。

ところが今や私にとってまったく新しい考え – それまで金科玉条として受け入れてきたものの多くを根底から覆(くつがえ)しかねない思想を突きつけられている。

7月26日、私は前回のインペレーターの通信にふたたび言及してこう述べた – ]

[あなたの述べられた事柄についていろいろと考え、日ごろ尊敬している同僚に読んで聞かせたりもしました。何といっても、私たちが信仰の基本として教え込まれてきたキリスト教の教義が、事もあろうに、十字架の象徴(しるし)のもとに否定されていることに驚きを禁じ得ません。

私の置かれた窮地は言葉で尽くせるものではありませんが、あえて表現させていただけば、確かにあなたのおっしゃることは知的には理解できても、過去1800年以上もの長きにわたって存在し続けてきたキリスト教信仰が、たとえ理屈では納得できるとは言え、これといった権威ある立証もない教説によって軽々しく覆されては堪(たま)らないという心境です。

いったいあなたはイエス・キリストをどう位置づけるのか、また、イエスの名のもとに教えを説くかと思えば否定し、古い福音に代えて新たな福音を説いたりする行為を、一体いかなる権能のもとに行なうのか、お尋ねしたい。

また、あなた自身の地上での身元の確認と、あなたが広言される使命の真実性を証明する十分な証拠をお示し願いたい。合理的思考力をそなえた者なら誰もが得心する証拠です。

天使であろうと人間であろうと、あるいは霊であろうと、またそれが何と名のろうと、何の立証もない者から送られてきた言葉だけで、神の起源とその拘束力とについて、これほど致命的な変化を受け入れるわけにはいきません。

また、そのように要求されるいわれもないように思われます。その変化には、徐々にではあっても、歴然たる相違点が発見されます。あなたの同僚である複数の霊からの通信の内容にも食い違いがあるようです。そうした統一性のないものから送られてくる思想には団結性がないものと判断せざるを得ません。]

煩悶と懐疑は軽信に勝る

友よ、これほど真摯にして理性的な質問をそなたより引き出し得たことは、われわれにとって大いなる喜びです。真摯に、そして理知的に真理を求めんとする心 – その出所が何であろうと単なるドグマはこれを拒否し、すべてを正しい理性によって検討し、その理性的結論には素直にしたがう用意のある心、これこそ神意にかなうものであることだけは信じて欲しく思います。

われわれはそうした態度に異議を唱えるどころか、それを受容性のある真面目な心の証として称賛します。

従来の信仰をそれ相当の根拠なしには捨てず、一方、新しい言説は、形而上的ならびに形而下的に合理的な証拠さえあれば喜んで受け入れる…そうした懐疑と煩悶の方が、もっともらしく色づけされたものを無批判に鵜呑(うの)みする軽信的態度よりはるかに価値があります。

思想的風雨にさらされても何の反省も生まれず、そよ風にも能面のごとき無表情をほころばせることもなく、いかなる霊的警告も通じない無感動と無関心の魂よりも、はるかに貴重です。

そなたの抱く懐疑の念は、むしろわれわれの指導の成功の証として称賛します。そなたがわれわれに挑む論議は、神の使者として述べた言説を、分別心をもって検討してくれていることの証拠として歓迎します。そなたを煩悶させている問題については、いずれ、われわれの力の及ぶかぎりにおいて回答を授けるつもりです。

われわれには、証拠を提示することの不可能な、ある超えられない一線があります。それは、われわれも十分に承知しております。われわれは人間世界で言うところの“証人”を立てることができないという、大きな不利な条件のもとで難儀しています。

われわれは地上の人間ではありません。それゆえ、法廷に持ち出すたぐいの証拠を提示するわけにはまいりません。そなたには、ただわれわれの証言を聞いてもらい、理解してもらう – 証拠によって明らかにし得ないものは知性にまかせ、公正に判断してもらうほかはないのです。

木はその実によって知れる

それは、われわれの説くことが、われわれとともにこの仕事にたずさわる者を除いては、まずもって、これを支持してくれる者がいないからでもあります。実際には、われわれの霊団の者の多くが地上時代の身元を明かしております。(1)

そうして、その名前の歴史上の人物について、そなたは決定的ともいえるものを事細かく知り尽くしておられる。

あくまでもそれでは納得できないと言うのであれば – もしもそれを偽りの霊の仕業(しわざ)であるとし、そなたを欺くために集めた情報にすぎないというのであれば、われわれとしては、そなたとのこうした霊的な交わりのもつ霊的雰囲気に着目し、“木はその実によりて知らるべし。茨(いばら)より無花果(いちじく)を取らず、薊(あざみ)より葡萄を収めざるなり(2)”とイエスが述べた判断の基準を思い出していただきたい。

われわれの教えが神意に適うものであるとの証を、全体の雰囲気の中にかならずや見出されるであろうことを断言して憚りません。

しかし、これ以上この点について弁明していては、われわれの使命の沽券(こけん)にかかわりましょう。そなたがこの点を質されたことには、われわれはみじんも驚きを感じておりません。

が、もしも右の弁明でもなお得心がいかないとなれば、われわれとしてはもはやこれ以上つけ加えるものを持ち合わせず、あとはそなたがこれを納得してくれる日の到来を忍耐づよく祈るほかはありません。それまでは押しつけがましいことは言わずに、辛抱づよく待つことにしましょう。

人工の教義は、死後、無価値となる

われわれの霊団に所属する各霊 – 地上時代はそれぞれ異なる国家、異なる時代に生き、神および死後についての見解も異にした者たちの結びつきについては、語ろうと思えば多くを語ることができますが、それはまた別の機会に譲るとしましょう。

差し当ってここでは、地上生活には避け難い誤解を指摘しておきます。地上の人間はいわゆる自説(オピニオン)というものがほとんど無価値であることを知りません。

死の過程をへて肉体から離れる。すると、目隠しをされていたベールが取り払われたように、それまで金科玉条としていた信仰が、いかに愚にもつかぬ、他愛ない幻想に過ぎないものであったかを思い知らされます。

が、目隠しをされている今は、それがわからないのです。一方、程度こそ違え、すべての神学的教義には、その奥に本質的にきわめて類似した真理の芽が宿されていることも知りません。

友よ、人間はとかく宗教というものを難解なものにしたがりますが、本来宗教とは決して難解なものではありません。人間に授けられている限りある知性によっても、十分に理解し得るものです。

かの神学的産物 – 神の啓示を被い隠している気まぐれな人工的教義はいたずらに人間を迷わせ、当惑させ、真摯に道を求める者を無知と迷信の霧の中へ迷い込ませる以外に、何の役にも立ちません。

向上進化を求める魂の特徴である暗中模索の真理探求は、いつの時代も同じでした。目の見えない者が光を求めるように、迷える魂が必死に真理を求めますが、迷信という名の迷路があります。無知という名の霧があります。曲がりくねった道をよろめきつつ、躓(つまづ)きつつ進み、時には路上に倒れて踏みつけられます。が、すぐまた立ち上がり、手を差しのべつつ、なおも光を求めます。

こうした彷徨(さまよえ)る魂は、そなたの目にはみな同じように映るかも知れません。が、われわれ霊界の者の目には、実に多くの相違点があることがわかります。古来、人間的ドグマの迷路の中にあって必死に光源を求めて喘(あえ)ぎつつ進む魂は、外側より見た目にはみな一様に見えるでしょう。

が、われわれから見れば、“教会”と呼ばれる各教派を特徴づけている神学上の教説は、そなたが考えているほど同一ではありません。われわれの目にはその質的な差異が見て取れます。

また、われわれは未知なるものについてまったく同一の理解をもつ者は2人と存在しないことを知っています。いかなる魂も、大なり小なり、他の魂と同じような見解は抱いていても、決して同一ではありません。

その迷いの霧が晴れるのは、死のベールを通過したのちでしかありません。人間的詮索は肉体とともに滅び、個人的見解は取り除かれ、かくして曇りのない目に、それまでおぼろげに抱いていた真相が姿を現わし、鋭さを増した判断力によって地上生活の印象を修正していきます。

そのとき悟るのは、すべてに真理の芽が宿されていること、それが、ある者においては受容性豊かな心と霊的洞察力とによって生長を促進され、またある者においては、束縛された知性と卑しい肉体ゆえに生長を阻害されるということです。

しかし、神と、自分のたどる宿命についての真理を求めてやまない魂においては、死とともに地上時代の誤った信仰は速やかに影をひそめ、みな、その低劣さと非真実性を悟っていくものです。いつまでも地上時代のままを維持し続ける者は、真理への欲求を欠く者に限られます。

地上時代の信仰の相違は、死後は取るに足らぬものとなる

これでそなたにもわかるであろう。真理はいかなる人間、いかなる宗教の専有物でもないのです。それは古代ローマにおいて霊の浄化と禁欲を求めたアテノドラス(3)の思想の底流にも見出すことができます。

ギリシャのヒポリタス(3)がおぼろげながら垣間(かいま)見ていた実在の世界を信じて地上生活を犠牲にし、神との一体を求めたその信仰の中にも見出すことができます。

同じ真理への希求がローマの哲学者プロティノス(3)をして地上にありながらすでに地上界を超越せしめました。アラビアの神学者アルガザーリ(3)には、教説そのものには誤りがありながらも、その奥底に正しい理解がありました。

それと同じ真理の芽がアレッサンドロ・アキリーニ(3)の思想を照らし、その教説の言葉に力と真実を賦与したのでした。

このように、彼ら指導者の教説には同じ純粋な宝石が輝いているのです。その光が彼らをして、人間が神から授かった真理の堆積物(たいせきぶつ)を清め、神の概念および霊のたどるべき宿命についての、より霊的な解釈を施すことによって人間の歩むべき道をいっそう気高く、いっそう崇高なものにするという共通の目的のために、一丸となって邁進(まいしん)せしめたのでした。

彼らにとって今や地上時代の教説の相違は取るに足らないことなのです。そうした夾雑物はとうの昔にかなぐり捨て、かつて地上で魂の目を曇らせ進歩の妨げとなった人間的偏見などは、跡形もありません。

それは今や完全に葬り去られ、ひとかけらの悔いも残っておりません。“復活”の信仰も見当たりません。とうの昔に捨て去っております。が、その信仰の奥底に秘められた宝石は一段と輝きを増し、永遠にして不滅です。

その啓発的影響力 – ただ存在するだけで他の魂を鼓舞するその影響力に、かつて地上で大いに教説を異にした霊たちを結びつける、神秘的な親和力の絆が存在します。

今その彼らが、より崇高にして純粋な宗教的知識を広めるために共同の仕事に一丸となっていることが、決してそなたが考えるほど不可思議なことではないことの理由(わけ)が、これで得心がいくことであろう。

そのための地上の道具として最も適切とみて、そなたを選んだのです。その判断に誤りはないことは、われわれが1番よく知っています。われわれの述べたことを根気よく熟読玩味(じゅくどくがんみ)すれば、いずれそなたも、その合理性に得心がいくことであろうことを確信します。

その絶対的証拠は?と問うのであれば、それは、そなた自身が死のベールを突き破り、一点の曇りもない目をもってわれわれの仲間入りをするまで待つほかはありますまい。

今のわれわれとしては、精々、そなたが少しずつわれわれに対する確信を築き上げてくれることを望むのみです。どうかイエスが人を裁く時に使用した判断の基準 – おのれが裁かれんと欲するごとくに人を裁くべし、という神の摂理をわれわれにも適用して欲しく思います。

思想上の指導の難しさ

われわれの教説に矛盾があるように思うのは誤りです。これまでそなたと交信したさまざまな霊によって、いろいろな形での論議がなされ、取り挙げられた論点もまた多様でした。

確かにわれわれは、そなたをわれわれが伝えんとする根源的教説へ向けて徐々に導くために、取りあえずそなたの精神に深く根差し、われわれの教説と正面衝突することが明らかなものは無論のこと、差しあたって必須でないものは避けてきました。

そのことは否定しません。われわれの基本方針は、そなたの心に存在する特異な部分をいじくるよりも、その中に見出される真理の芽を発達させることにあったからです。それを目ざして、幾つかの接点を確保し、大切にして参りました。一方、それとは関わりのない問題点は避けてきました。

そうした、これまで見過ごしてきた点、論議を避けてきた諸点については、これ以後に取り挙げることになりましょう。が、これまでも、われわれから見て明らかに誤りがあり、いつまでも放っておけないとみた見解について、そなたの方から批判を求めてきた時は、遠慮なく啓発してきたつもりです。

われわれの目には、そなたの心に想念の潮流が発生し、それがそなたの魂にとってもはや安全ではなくなった古い停泊所から運び出さんとする動きがよくみて取れます。それを見てわれわれは、そなたをその潮流と風のなすがままに放置し座礁(ざしょう)するにまかせておくに忍びず、われわれがその水先案内をしてきました。

その際われわれは、教説という名のロープを一本また一本と、少しずつ穏やかにゆるめ、より安全にして確実な港へ係留してきました。もしも一気にその港へ引っ張り込んでいたなら、古いロープは切れ、そなたの魂は疑念と煩悶の嵐の中に巻き込まれ、舵(かじ)を取る者もなく、立ち寄るべき港も見当たらず、ただ風波に翻弄(ほんろう)され、救われる見込みはなかったことでしょう。

われわれが衝突を避けられるものは避け、荒波を立てないよう配慮したことを咎(とが)めてはなりません。致し方のないことだったのです。そなたの思う方向へ向けて援助することは出来ないでもありません。

が、かりに援助してそのロープを締めることによって、そなたの魂を死物と化した遠い過去へいっそう強くつながれることにはしたくなかったのです。

そなたの心の態度ひとつで、われわれはそなたをその嵐から超然とさせ、新たな生命あふれる信仰をたずさえて、より静かでより広い海原に乗り出さしめ、地上という試練の場と、死後の安らぎの港との間に横たわる苦難の海を、首尾よく乗り切れるよう援助することが可能となるのです。

こうした作業においてわれわれは、そなたに過激な衝撃を与えぬようにと、慎重の上にも慎重を期してきました。いかなる点においても指導を誤ったことはないことを断言します。ごまかしたこともありません。そなたに与えたわれわれの教説には、あらかじめ徹底した吟味が為されております。

なるべくそなたの精神に宿る思想を取り出し、それを敷衍(ふえん)し発展させるよう心がけました。そうしてその中に、より新しい、かつより真実に近い見解を育み、導き、注入するよう努めましたが、いかなる点においても偽ったもの、歪められたもの、あるいは誤ったものは一点もありません。

また、われわれ霊団の者が個々に述べてきた教説には、実質上の齟齬(そご)は何ひとつありません。一見したところそう思えるものが存在しても、それは通信上の難しさと、そなたの精神による種々の影響のせいです。

つまり、通信霊の未経験に起因する場合もあるでしょうし、そなた自身の先入観の影響も大いに考えられます。そなたの精神が受けつけようとしないものは、われわれも伝えることはできません。

そこでわれわれとしては、いつかそなたが曇りのない目で見るであろうところの真理を、象徴的に大まかに伝えるしかありません。霊媒の魂があまりに煩悶している時、身体が苦痛にさいなまれている時、あるいは精神状態が病的になっている時には、明確な通信を伝えることはできません。

それどころか、荒れ模様の天気、電気的障害、あるいは近隣の人々の非友好的態度ですら、通信にいろいろと反映して、明確にそして十分に意を尽くすことを妨げるものです。そうしたことが、警戒心に満ちたそなたの目には“矛盾”として映るのでしょう。

が、それも些細(ささい)なことであり、また数の上でも取るに足りません。それらは障害が取り除かれると同時に雲散霧消することでしょう。そして又、ここぞという困難と危機に際して、高邁(こうまい)な霊的洞察力によって導かれていたことを知ることでしょう。

啓示には計画性がある

そなたはわれわれの説く教えが一般に受け入れられる見込みは乏しいとおっしゃるが、その点についてもそなたは真相をご存知ない。

お粗末なつぎはぎだらけの、朽ちかけた古い信仰が、より高尚にして崇高な信仰 – 本質的には対抗するものではなく補足ないし補充するもの – と置きかえられ、イエスの説いた福音が、より高い次元において理解されることになる日は、そなたが考えるよりもはるかに近い将来に迫りつつあります。

友よ、よく心されたい。今われわれが従事している神の計画が、人間の必要性との関連性を無視して不用意に届けられることは絶対にありません。われわれの仕事も神の一大計画のほんの一部門にすぎません。他にも数多くの霊団が、それぞれの使命に邁進しています。

その教えは徐々に、そして着実に、それを受け入れる用意のある者に受け入れられていくことでしょう。それが神の計画なのです。神の“時”を地上の“時”の概念で考えてはなりません。また、われわれの視界は人間の視界のような、狭く限られたものではありません。

いずれ、われわれの意図した通りの知識が地上に広まる日も到来することでしょう。その間、それに備えて、進歩的な魂は着々と教育を受けています。貴重な種子が蒔かれつつあります。やがてその収穫の時期も到来しましょう。その時を、そなたも、われわれとともに待たねばなりません。

われわれの述べたところを心して読めば、われわれが提供しつつある状況証拠などよりはるかに明確に、その本質を読み取ることができるはずです。繰り返しますが、神は決して福音の押し売りはしません。神はただ提供するのみです。それを受け入れるか拒否するかは、人間の選択に任されています。

が、そなたをはじめ、われわれが係わり合っている者のすべてが、いずれ、その神性を確信してくれることでしょう。あくまでも否定する者は、浅薄(せんぱく)な頑迷さの網にかかり、神学という名の足枷をはめられ、鉄のごときドグマによって束縛された者たちだけでしょう。

そうしたドグマ主義者、頑固な迷信家、偏狭な信者・独善家は、われわれは取り合うつもりはありません。魂にしみ込んだ古い信仰に何よりの安心立命を見出している者も又、われわれは取り合いません。神の御名にかけて、彼らには、そのまま古きものにすがらせておくことにしましょう。

彼らにもいずれ進歩の時が訪れることでしょう。今はその時ではないということです。そなた、およびそなたと志を同じくする進歩的求道者には、われわれが決して悪魔の使いでもなければ悪魔的意図も持たぬことを、これ以上弁明する必要はありますまい。

啓示には段階性がある

また、啓示についてのわれわれの言説を熟読玩味すれば、われわれの教説も、神に関する知識の段階的進歩の一つの階梯にすぎないことを理解されるでしょう。すなわち、神を人間と同一と考えた神人同形同性説の時代から、人間的煩悩と感情を神の属性とすることの不合理を悟りはじめた現在に至るまで、神の啓示も、人間の進化とともに徐々に向上してきているということです。

本質的には、われわれの啓示はそれに先立つ啓示と何ら異なるところはありません。ただ、人間の知識と同様に、前より一歩向上したというにすぎません。その拠ってきたる根源は同じであり、それを送り届ける手段も同じです。

それは、今も昔も人間であり、完ぺきは期し難く、時には誤りを犯します。人間を通信手段とする以上、それは免れないことです。さらには、われわれの取っている態度を振り返ってみていただきたい。

われわれは一貫して、かの伝承的教説 – 単に古い時代のものという意味での伝統的教義 – を金科玉条とする盲目的信仰に代って、あくまでもそなたの理性に訴えるという立場を取っていることがおわかりいただけるはずです。

軽信に代って合理的・知性的検討をすすめ、確信に基づいた容認を要求しているのです。神の使者であるというだけで、われらの教説 – 今の時代に授けられたという意味での新しい教説を信じていただこうなどとは、さらさら考えておりません。

理性の天秤(てんびん)にかけ、知性の光に照らし、得心がいかなければ拒絶すればよいのです。十二分に得心するまでは、決して同意することも行為に出ることも求めておりません。

それゆえ霊的教義の内容は、正しい理性を得心させるべきものであると同時に、われわれがそなたにその受け入れを求める根拠もまた、合理的かつ論理的思考を完全に満足せしめるものを有しております。

道を誤っているとはいえ真摯な求道者はもとよりのこと、進歩的人間の真面目な生活において、過去1800年以上もの永きにわたって後生大事にされてきたもののことで、われわれが結果を焦るあまり、いたずらに反目させることになることは、神が許しません。

それほど永きにわたって大事にされてきたという事実そのものが、彼らの崇敬を受けるに足る資格を物語っていると言ってよいでしょう。ただ、われわれの広い視野から見る時、その説くところが古い蒙昧(もうまい)な時代ならいざ知らず、この開け行く時代には、それなりに視野を広げ、霊性を賦与しなければならないと思うのです。

とは言え、われわれとしては急激な改革によって混乱を来(きた)すことは望みません。今あるものに磨きをかけ、新しい解釈を施したいと思います。引きずり下ろし、足で踏みにじるようなことは致したくありません。

シナイ山にて嵐のごとき口調で啓示された戒め(4)に代えて、イエスが慈悲と滅私の純心さをもって、より崇高な信仰を説いたように、われわれはそれをさらに新しいこの時代の受容能力と必要性にかんがみて説こうとするものです。

“そのようなものは今の時代でも受けつけない!”と申されるか。(5)なるほど、それもよろしかろう。われわれとしては、少なくともこうした見解の存在を知らしめるだけのことはしました。

ひとつの真理がはじめて語られ、それが最終的に受け入れられるに至るまでの道程は、しばしば永き年月を要するものです。収穫にはまずタネ蒔きの時期がなければなりません。

その後、雨にうたれ、霜に埋もれ、寒々とした冬の季節は、いかにも長く感じられることでしょう。が、やがて暖かい太陽の光に照らされてタネが芽を出し、真夏の恵みを受けて豊かに実(みの)り、そして収穫の季節を迎えます。

耕作の時期は長いかも知れません。タネを蒔いたあとの“待つ時期”は、暗く憂うつかも知れません。が、収穫の季節はかならず来ます。その到来を阻止することはできません。

収穫時に手を貸すことはできます。タネ蒔きに手を貸すことはできます。が、手を貸す貸さないに係わりなく、あるいは、たとえそれを阻止せんとしても、神の時節(とき)はかならず到来します。

その時、神の言葉を受け入れるか拒否するかの問題は、本質的には個々人の問題でしかありません。受け入れる者は進歩し、拒否する者は退歩する。そして、それに係わってきた天使が、あるいは喜び、あるいは悲しむ。それだけのことにすぎません。

イエスは空前絶後の霊覚者

次にそなたは、われわれがイエス・キリストをいかなる地位(くらい)に位置づけるかを問うておられる。われわれとしては、さまざまな時代に神によって派遣されたさまざまな指導者について、興味本位の比較をすることを控えたいと思います。まだその時期ではありません。

ただし、今、このことだけは明白に言えます。すなわち、人類の歴史においてイエスほど聖純にして気高く、神の祝福を受け、かつ同胞に祝福を与えた霊はいないということです。

その滅私の愛によって、イエスほど人類の敬愛を受けるに相応しい霊は他にいません。イエスほど人類に祝福をもたらした霊は、他にいません。要するに、イエスほど神のために働いた霊はいないということです。が、しかし、神より遣わされた偉大な指導者を比較して論じる必要性を、われわれは認めません。

われわれとしてはその1人1人に称賛を贈り、克己と犠牲の愛の生涯を、それぞれの時代が要請した手本として賞揚したく思います。

キリストの例にしても、もしも人類がその際(きわ)立った素朴さと誠実さ、愛に発した献身と真摯な目的、自己犠牲と聖純さの模範として仰いでいたならば、かの宗教的暗黒時代の神学者たち、後の世に呪(のろ)いの遺産ともいうべき愚かきわまる思索の産物を残した者たちも、少しは有意義な存在となり、人類の呪いとはならずに、むしろ祝福となったことでしょう。

神の尊厳を傷つけることもなく、キリストの素朴な教えを素直に受け入れていたことでしょう。しかるに彼らは、神人同形同性説的神学を丹念に築き上げ、それがキリストの素朴な教えからいっそう遠ざけることになりました。

今やその名と教義は、派閥間の争いの戦場と化し、その教えは滑稽な猿真似(パロディ)となり下がってしまいました。その有様を聖なるキリストの霊は衷心より悲しみ、哀れに思っておられます。

”儀文は殺す。されど霊は生かす”

友よ、神の摂理と人間的解釈とは、截然(さいぜん)と区別しなければなりません。われわれは主イエスの威厳の前にはひれ伏しますが、人間が勝手に解釈し、それをイエスの名において説く教説 – イエスみずからが否認なさるであろう教説を黙認することによって、イエスの面目を汚すようなことは潔(いさぎよ)しとしません。そのようなことだけは絶対にいたしません。

主はもとより、主の父であり全存在の父である神の面目を真に辱(はずか)しめるのは、バイブルを正しく理解せず、その心を掴みそこねて、ただ字句どおりの解釈に固執するあまり、無知のなせる業(わざ)とはいえ、逆に神への不敬を働いている者たちなのです。

われわれではなく、彼らこそ真に神の名誉を傷つけているのです。たとえ永年の慣用の歴史を有するとはいえ、また、たとえその字句を彼らが聖なるものと断定した書物(バイブル)からの引用によって飾ろうと、さらに又、それらの書に、そこに述べられていることに異議を唱える者への呪いの言葉が見出されようとも、真に神を冒瀆しているのはわれわれではなく、彼らなのです。

われわれはその呪いの言葉を、哀れの情なくしては見つめることができません。われわれとしては差し当たって実害のない誤りは、あえて覆そうとは思いません。しかし、神を冒瀆し魂の向上の妨げとなる言説は、赦しておくわけにはいきません。

本来ならば神に帰すべき名誉をイエスなる一人間に押しつけ、神に対する個人的敬意と愛をおろそかにすることは、神に対する人間としての義務を無視することにほかなりません。

狭隘(きょうあい)にして冷酷きわまるドグマを、その一言一句に至るまで頑(かたくな)に遵守せんとする態度は、魂を束縛し、霊性を歪(ゆが)め、進歩を遮(さえぎ)り、生長を止めます。

バイブルには“儀文は殺す。されど霊は生かす(6)”とあります。それゆえわれわれは、火炎地獄のような作り話に見られる神の観念を否定します。贖罪説のような伝統的教説に代ってわれわれは、より清き、より理性的教説を宣言します。

要するに、われわれは霊性を基盤とする宗教を説くものです。死物と化した形式主義、生命も愛も見られない教条主義からそなたを呼び戻し、霊的真理の宗教、愛に満ちた天使による象徴的教訓、高き霊の界層へと誘(いざな)わんとするものです。そこには物的なものの入る余地はなく、過去の形式的ドグマも永遠に姿を消します。

以上、われわれは事の重大性にかんがみて、細心の注意をもって語ったつもりです。そなたも細心の注意をもって熟読されたい。ひたすらに真理を求める心をもって検討し、隔てなき神の御加護を祈り求められんことを希望します。

†インペレーター

[注釈]

(1)巻末《参考資料》参照

(2)ルカ6-44

(3)ここに引用された古代の思想家および宗教家はすべてインペレーター霊団に属している。《参考資料》参照。

(4)モーセの「十戒」

(5)モーゼスの精神の中にそう反論する想念を見て取って、こう述べたもので、モーゼスが書いたのではない。

(6)コリント第2、3-6

上巻終

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《参考資料》

(1)モーゼスの略歴

1839年、小学校の校長を父として生まれる。小学生時代に時おり、俗にいう夢遊病的行動をしている。1度は真夜中に起きて階下の居間へ行き、そこで前の晩にまとまらなかった問題についての作文を書き、ふたたびベットに戻ったことがあったが、その間ずっと無意識のままで、書かれた作文は見事な出来だったという。しかし、それ以外には異常能力を見せた話はない。

オックスフォード大学を卒業後、国教会(アングリカン)の牧師としてマン島に赴任している。24歳の若さながら、教区民から非常な尊敬と敬愛を受けた。とくに当地で天然痘が猛威をふるった時の勇気ある献身的行為は、末永く語りつがれている。

1869年、30歳の時に重病を患い、S・T・スピーア博士の世話になったことが、生涯にわたるスピーア家との縁の始まりであると同時に、スピリチュアリズムとの宿命の出会いでもあった。

博士の奥さんが大変なスピリチュアリストだったのである。翌年、病気回復とともにドーセット州でふたたび牧師の職についたが、病気が再発し、ついに辞職して、以後、2度と聖職に戻ることはなかった。

翌年、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで教員となり、1889年に病気で辞職するまでの18年間教鞭をとった。その学識と人格によって、学生から大きな信望を得たという。

この霊界通信は、その教員時代の1871年から1882年にかけてのほぼ10年間に得られたもので、モーゼス自身にとっては死に物狂いで真理を求めた時期であり、人類にとっては大いなる霊的遺産を手にした、意義深い時期だったと言えよう。

(2)霊団の構成

右の(1)で紹介したスピーア夫人が、モーゼスの死後、ぜひとも公表すべきものとして編纂した続編 More Spirit Teachings の冒頭で、インペレーターが霊言で次のように語っている。

〈私こと Imperator Servus Dei(神の僕(しもべ)インペレーター)は、49名からなる霊団の頭(かしら)であり、監督と統率の任にあり、他のすべての霊は、私の指導と指示によって、仕事に当たります。

私は全知全能の神の意志を成就せんがために、第7界より参りました。使命達成の暁には、2度と地上には戻れない至福の境涯へと向上していくことでしょう。しかしそれはこの霊媒(モーゼス)が地上での用事を終えた後となるでしょう。そしてこの霊媒は死後において、地上よりさらに大きな使命を与えられることになりましょう。

私の下に、私の代理であり副官であるレクターがいます。彼は私の不在の折に私に代って指揮を取り、とりわけ物理的心霊現象にたずさわる霊団の統率に当たります。

レクターを補佐する3番目に高い霊が、ドクターです。彼は霊媒の思想を指導し、言葉を感化し、ペンを操る。このドクターの統率下に、あとで紹介する知恵と知識を担当する一団が控えています。

次に控えるのが、地上の悪影響を避け、あるいは和らげ、危険なものを追い払い、苦痛を軽減し、良い雰囲気をかもし出すことを任務とする2人の霊です。この2人にとって抗し切れないものはありません。が、内向的罪悪への堕落はどうしようもありません。

そこで霊界の悪の勢力 – 霊媒の心変わりを画策し、聖なる使命を忘れさせようとする低級霊の誘惑から保護することを役目とする2人の霊が付いております。

じきじきに霊媒に付き添うこの4人を入れた7人で、第1の小霊団(サークル)を構成しております。私たちの霊団は7人ずつのサークルで構成されており、それぞれに1人の指揮官がいて、6人を統率しております。

第1のサークルは、このように守護と啓発を担当する霊 – 霊団全体を統率し指揮することを任務とする霊から成ります。

第2のサークルは愛のサークルです。すなわち神への愛である崇敬、同胞への愛である慈悲、そのほか、優しさ、朗らかさ、哀れみ、情け、友情、愛情、こうした類いのものすべてを配慮します。

3番目のサークル – これも同じく1人が6人を主宰しています – は、叡智を司(つかさど)る霊の集団です。直感、感識、反省、印象、推理、といったものを担当します。直観的判断力と、観察事実からの論理的判断力とを指導します。叡智を吹き込み、かつ判断を誤らせようとする邪霊からの影響力を排除します。

次のサークルは知識 – 人間についての知識、物事についての知識、人生についての知識を授け、注意と比較判断、不測の事態の警告等を担当します。また、霊媒のたどる困難きわまる地上生活を指導し、有益な実際的知識を身につけさせます。直感的な知恵を完成させます。これはドクターの指揮のもとに行なわれます。

その次に来るのが、芸術・科学・文学・教養・詩歌・絵画・音楽・言語等を指揮するグループです。彼らは崇高で知的な思念を吹き込み、上品さと優雅さにあふれる言葉に触れさせます。美しいもの、芸術的なもの、洗練されたもの、教養あふれるものへ心を向けさせ、性格に詩的なうるおいを与え、気品あふれるものにします。

次のグループは、愉快さとウィットとユーモアと愛想の良さ、それに楽しい会話を受け持ちます。それがこの霊媒の性格に軽快なタッチを添えます。つまり社交上大切な生気あふれる明るさであり、これが日々の重々しい苦労から気分を解放します。愛想が良く、心優しい、魅力あふれる霊たちです。

最後のサークルは、物理的心霊現象を担当する霊たちです。高等な霊的真理を広める上で、ぜひ必要とみた物的証拠を演出します。指揮官代理であるレクターの保護・監督のもとに、彼ら自身の更生をかねて、この仕事にたずさわっております。

この霊媒ならびにわれわれ背後霊団との接触を通じて更生への道を歩むのです。それぞれに原因は異なりますが、いずれも地縛霊の類いに属し、心霊現象の演出の仕事を通じて、浄化と向上の道を歩みつつある者たちです。

このように、私の霊団は7つのグループに分かれており、それぞれに特殊な使命があります。

愛と叡智と知識の霊たち、洗練された高貴な霊たち、明るい愛想の良い霊たち、この低い地上界の、単調であくせくした生活に天上的な光輝をもたらす霊たち、地上界の皆さんとの交わりを通じて、低い境涯から高い境涯への進化という恩恵に俗さんとして勤しむ霊たち – この霊たちの演出する現象が地上の人間にはまだまだ必要なのです。

いずれのグループの霊もみな、みずからも進歩を求めているのです。霊媒に体験と啓発を与え、霊媒と生活を共にし、霊媒とともに進歩を望んでいる者たちです。霊媒に教えることによってみずからも学び、霊媒を向上せしめることによって、みずからも向上せんとしているのです。

われわれのこうした仕事は愛に発する仕事です。それみずからが報酬をもたらすのです。霊媒に祝福をもたらし、霊媒を通じて人類に祝福をもたらし、それがわれわれにとっての祝福となるのです。

全能の父なる神の祝福のあらんことを〉

以上がインペレーター自身による霊団の説明であるが、The Controls of Stainton Moses by A.W.Trethewy(モーゼスの背後霊団)によると、このインペレーターの上にさらにプリセプター Preceptor と名のる総指揮者が控えていたという。

私の推察ではこれがモーゼスの守護霊(類魂の中心霊)で、地球全体の経綸に当たる“地球の守護神”の命令を直接受け取り、それがインペレーターに伝えられる、という仕組みになっていたものと思う。

守護霊というのは表立った活動はしない傾向があり、たとえばインペレーターと並んで有名なシルバーバーチ霊の霊媒だったバーバネルには別に守護霊がいたはずであるが、60年間、そのことに言及すらされていない。

(3)霊団の身元

本文でインペレーターも繰り返し述べているように、霊の地上時代の身元を詮索することは、単なる好奇心の満足になるだけで、それによってその霊に対する信頼性がいささかも増すものではない。だからこそ、シルバーバーチ霊などは六十年間ほぼ週一回の割で出現しながら、ついに地上時代の名前も国籍も明かさなかったわけである。

とは言え、興味の対象であることには違いないので、おもな霊の地上時代の名前を紹介しておくが、これはみずから明かしたのではなく、モーゼスのしつこい追求にあって、霊団の他の霊が「実はあの方は…」という形で漏らしたものである。

インペレーターは紀元前5世紀のユダヤの予言者で、旧約聖書の“マラキ書”の編纂者マラキ Malachi(マラカイとも)。

レクターは初期キリスト教時代のローマの司教だった聖ヒポリタス Hippolytus。

ドクターは紀元2世紀ごろのギリシャの哲学者アテノドラス Athenodoras。

プルーデンスは新プラトン主義哲学の創始者プロティノス Plotinus。

その他、本書に登場していない人物で歴史上に名のある人物としてプラトン、アリストテレス、セネカ、アルガザーリ等の名が見られる。

ここで参考までに訳者の個人的見解を述べておきたい。スピリチュアリズムの発展にともなって守護霊・指導霊・支配霊等の、いわゆる背後霊の存在が認識されはじめたことは意義ぶかいことであり、背後霊の方でも、自分たちの存在を認識してくれるのと無視されるのとでは、霊的指導において大いに差がある、というのが一致した意見であるが、そのことと、その背後霊の地上時代の名声とか地位とかを詮索することとは、まったく別問題である。

地位が高かったとか名声があったとかいうことは、かならずしも霊格の高さを示すものではない。そのことは現在の地上の現実を見れば容易に納得のいくことである。

偉大なる霊ほど名声とか地位、権力、家柄といった“俗世的”なものとは縁のない道を選んで再生するというのが、多くの霊界通信が一致して指摘することで、したがってその生涯はいたって平凡であり、その死も身内の者を除いてほとんど顧(かえり)みられないことが多い。

したがって、そうした人物が死後、誰かの守護霊として、あるいは指導霊として働いた時、その身元をとやかく詮索して何になろう。満足のいく結果が得られるはずがないのである。しかも、霊は死後急速に向上し変化していくという事実も忘れてはならない。インペレーターの霊言に次のようなものがある –

<地上へ降りてくる高級霊は一種の影響力(インフルエンス)であり、いわば放射性エネルギーです。そなたたちが人間的存在として想像するものとは異なり、高級霊界からの放射物のようなものです。高等な霊信の非個人性に着目していただきたい。

この霊媒との係わりをもった当初、彼はしつこくわれわれの身元の証明を求めました。が、実はわれわれを通して数多くの影響力が届けられているのです。死後、首尾よく2段階、3段階と上がった霊は、そなたたちのいう個体性を失い、形体なき影響力となっていきます。

私は人間の世界に戻れる、ぎりぎりの境涯までたどり着きました。が、距離には関係なく影響力を行使することはできます。私は今、そなたたちからはるか彼方におります。>

西洋においても日本においても、営利に走る霊能者は軽々しく背後霊や前世のことを口にしすぎる傾向があるが、その正確さに問題があるばかりでなく、そのこと自体が本人にとって害にこそなれ、何の益にもならないことを強く主張しておきたい。たどればすべて神に行き着くのである。

その途中の階梯で“高い”だの“低い”だのと詮索して何になろう。霊的指導者の猛省を促したい。

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訳者 近藤千雄

訳者 近藤 千雄(こんどう かずお)(平成元年8月写す)
昭和10年生まれ。18歳のときにスピリチュアリズムとの出会いがあり浅野和三郎の訳書の影響を受けて、大学で翻訳論を専攻。現在までに訳したスピリチュアリズム関係の原典約40冊、著書2冊。広島県福山市在住。

Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†