小鳥に見つめられて
今回も例によって山にアタックしてきましたが、そこで一言では言い表せない出来事に遭遇しました。
僕はいつもトレイルを進みながら、野鳥の美しい鳴き声が近くから聞こえると「鳥チャン、ステキ♪」などとつぶやきつつ進むのですが(僕のアタック中のデフォルト風景です恥)そんな中、いきなり地面に小鳥がいるのを発見。えー♪こんな近くで野鳥を見られるなんてラッキー☆などと思い、逃げられないようにそーっと見ていると…逃げる様子が全くなく、よたよたしながら羽を膨らませている…あれ?様子がおかしいぞ…何か、明らかに苦しそうだぞ!!
よく観察してみると、さっきから全く鳴いていない。くちばしに何らかのダメージがあるもよう。これではエサも食べられないのでは…。そんな事を考える僕を、小鳥は目を細めながらじっと見てくるんです。小鳥に見つめられて、僕はドキッとしました。実はこの件には伏線があるのです。
ここ1ヶ月ほどの間に、実は2回「野鳥が逃げずにまっすぐ僕の方を見つめて鳴いてくる」という出来事が起きています。あまりに不自然だったのでよくおぼえているんです。さらに、僕の以前の飼い鳥だった白文鳥の「ユキ」も、若い時の艶のある羽で、真っ赤なくちばしを輝かせながら、ものすごく鮮明な映像で数回夢に登場しています。単なる夢と言ってしまえばそれまでですが。
今回もそれなのか?などと思っていると、何と小鳥の方から僕の手に乗らんばかりの勢いで近付いてきたのです。「野鳥」が自分に危害を加えるかも知れない人間に自ら近付いてくるなんて、よっぽどの事だったに違いありません。その苦しそうな表情を見て、よっぽど痛くて心細くて寂しかったから近付いてきたのではないか…そんな考えが瞬間的に頭をよぎり、僕は一気に…もう…(涙)
っと、そこにハイカーの鈴の音。僕は反射的に小鳥と距離を置き、道の反対側に移動して荷物をチェックする真似をしてハイカーの注意を自分に向けさせました。どうやらその作戦は成功したようで、ハイカーは小鳥のいる方を見向きもせず通り過ぎていきました。
ここは鳥獣保護区。野生動物に手出しは厳禁です。でもこのまま放っておいたらこの小鳥はどうなってしまうのか。せめて人の目に付かない場所に移動させてあげたい。僕はそう思い、ハイカーが遠くに行ったのを確認してから、両手で小鳥をそっと包み込むようにして、ルートを外れ森の中へ入っていき、緑が深くて目立たないポイントまで来たのを確認してからゆっくり小鳥を放しました。
「何もしてあげられなくてごめんなさい…」
そう言って僕が立ち去ろうとした時、小鳥はじっと、ただじっと僕をまっすぐに見つめ続けていました。
こんなに…こんなに見つめられたら…僕は…(涙考)
小動物が傷つく、こんな事は自然界で当たり前に行われている営みです。別に感傷に浸る必要などないんです。頭では解っています。でも、伏線絡みでこうも続くと、そこに潜む意味を考えずにはいられません。
小鳥の、あの傷ついた様子では、たぶん今夜は…(悲)この、駆け巡る感情は何なのでしょうか…(考)ただひとつ、これだけはハッキリ言えます。あの時、小鳥が僕をまっすぐに、本当にまっすぐに見つめてきたあの眼差しを…僕はこれからも忘れる事はないと思います…(祈)
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※追記 この過去ブログは2012年、霊性発現直後に書いたものです。この時出会った野鳥は「ノビタキ」ちゃんのオスで、羽毛のカラーリングが僕の山へのアタックのウェアのカラーリングと完全に一致するのです。(オレンジ&ブラックです)このノビタキちゃんとの出会いがあまりに衝撃的だったため、画家時代最後の作品、43作のモチーフをノビタキちゃんに決めたほどでした。
この時のノビタキちゃんとの出会いは、霊団からの「帰幽」のメッセージだった訳ですが、僕はこのノビタキちゃんと出会ってから3日ほど、制御不能の号泣状態に突入したのでした。あの瀕死状態のノビタキちゃんが小さな瞳でまっすぐ僕を見つめた、あのつぶらな瞳を思い出すほどに、とめどなく涙があふれたのでした。それはブログ「テリーフォックスラン(Terry Fox Run)」で書いた、美奈ちゃんの事を思って号泣した時と同じようなレベルの号泣でした。そしてノビタキちゃんの事で泣き疲れて机に突っ伏して目を閉じていた時です…。この時、初めて、初めて、霊視にてイエス様のお顔の顕現に浴させて頂いたのでした。これが人生初でした。肩に小鳥が止まっていそうな、森の守護者のような雰囲気を醸し出した、民族を超越したような荘厳なお顔立ちのイエス様の「笑顔」のイメージを初めて拝したのでした。
僕などという男に初めて顕現して下さったイエス様のご意思は…ノビタキちゃんの件で泣きまくっていた僕に対する、イエス様の「喜び」の気持ちであったという事なのです。僕の霊性発現後の霊的光栄、そして(残念ながらこう言ってしまいますが)霊的苦難は、このイエス様の初めての顕現から始まったと言ってもいいと思います(祈)†