法律事務所からの返事がなく、復刊のめどが未だに立たない状態での作業が続いています。テキストさえそろっていれば、AffinityPublisherへ流し込むのはだいぶ早くできるようになりました。電子書籍データの作成もそんなに難しいものではなさそうです、docxを制作するだけですので。

いちばん大変なのはOCR変換テキストの見直しなのです。これがまだ60冊近く残されています。現在「シルバーバーチの霊訓3巻」の見直し中ですが、とにかく時間がかかる。しかし新規の霊言が降ってこない以上やるしかない。フラーを描きたい衝動に苦しめられていますが今はこれをやるよりしょうがない。フラーをどれだけ描いても脱出につながりませんので。

霊団が、現在の僕の最悪の状況がペナルティであるようなニュアンスの事を言ってきてます。あぁそぉですか、そいつぁーおめでたい。自分の人生を破壊されても努力している人間をイジメるのがあなたたちの仕事ですか。んまぁご立派だこと。これだけヒドイ目に遭わされれば普通ならとっくに使命遂行やめているはずです。

っとと、このお話は深いレイヤーになってしまうので一旦止めて作業続行させましょう。イエスの少年時代、イエスの成年時代、イエスの弟子達、この3巻もデータ化を完了させましょう。そしてOCR変換テキストの見直しをガンバらないと、これが最大の障壁(祈)†

インスピレーションを読み返してますが、とにかく最悪がやってくるのです(祈)†■2022年3月2日UP■
インスピレーションを読み返してますが、とにかく最悪がやってくるのです(祈)†
この10年の努力は一体何だったのか。霊団におべっか使っていれば違う結末になったのか。霊界にはウソが存在しない事を知識として理解していたから僕は常に正直にブログを書いてきた。ウソを並べ立てて霊団を褒め称えておけば閉じ込められずに済んだとでもいうのか。1億歩譲って僕の事は仕方ないとしても、奴隷の女の子を全く助ける気がないというのは一体どういう事なのか。そもそも奴隷の女の子の存在を教えてきたのは霊団だ。教えてきたのに助けるつもりがない、ではなぜももちゃんの事を僕に教えてきたのか。ただの冷やかしだったのか。僕は「正直者がバカを見る」の状態にさせられます。真面目に使命遂行を続けてきた結果がこれですか。本当におもしろい…続きを読む→
「もうごまかしきれません」視点外しの洗脳はもう通用しないという意味です(祈)†■2022年1月12日UP■
「もうごまかしきれません」視点外しの洗脳はもう通用しないという意味です(祈)†
メディアと僕、皆さまがどちらを信じるかは皆さまの「理性、良心」にお任せ致しますが、霊団によると皆さまはメディアのウソ情報より僕のブログの方を信じて下さっているようにお見受け致します。とにかく「宇宙一のバカ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体の情報拡散を徹底的に続行し、完全に全国民周知の事実とする事で明仁、文仁、徳仁、悠仁の「退路」を断ちましょう。言い訳できなくするという事です。そして確実に滅亡させて世界に向けて胸を張って堂々と結果報告ができるようでなければなりません。どこか他の国の人がこの仕事をやってくれるのではありません僕たち日本国民の仕事です。その部分の自覚は持つべきでしょう…続きを読む→
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†■2021年11月10日UP■
「コイツらだけは絶対許さない」強姦殺人魔、天皇一族に対する皆さまの思念です(祈)†
「この強姦殺人魔どもに対してこれ以外の感情が湧くというのであれば、どういう事なのか説明してもらいたい」という事になります。人間としてこれ以上当たり前の感情はないという意味です。その当たり前の感情がなぜこれほど長い年月にわたって公の場で語られる事が無かったのか、それが「洗脳」と「脅迫」と「視点外し」という事になると思います。まず「洗脳」ですが、世界中の強姦殺人魔は総じてメディアを牛耳っています。そのメディアを駆使して徹底的に自分が善人で国民に人気があって親しまれているという趣旨のニュースを休みなく流しまくり認識を捻じ曲げ続けてきます…続きを読む→

こちらのテスト印刷書籍はテスト1発目で本の作り方もAffinityPublisherの使用法も全く何も分かっていなかった時の制作で、そこらじゅう穴だらけでとてもこのままでは使えませんので新たに作り直しているところです。テキストはありますのでそれを流し込んで、あとは表紙と復刊者コメントを用意すれば書籍完成となります。

その勢いを止めずにそのまま「イエスの成年時代」「イエスの弟子達」も一気に書籍化してしまいましょう、さらに電子書籍データも作成してしまいましょう。1秒たりとも止まっている時間はない。止まる理由がない。

Amazonでペーパーバック、電子書籍というカタチで復刊させるつもりで全ての作業をおこなっていますが、著作権問題とAmazonガイドラインというふたつの問題が障壁となって復刊が実現しない可能性もやはり残念ながら高いのではないかと見ています。

そうなると最悪ストーリー「同人で出す」という事になってしまいます。しかしこの同人のアイデアは脱出こそできませんが本を作るという意味では限りなく自由で、イヤでどうしようもない最悪の場所から1歩も出られない事を別の方法で解決さえできれば、復刊本を自由に楽しくジャンジャン作れる事になります。その別の方法がないんですけども…。

4ヶ所目の法律事務所からの返信はありません、たった今5ヶ所目にメールしました。なぜここまでやるかと言えばおーふぁん回避という事です。おーふぁんをやりたくないんです。著作隣接権者と連絡が取れればおーふぁんを回避できるのでしつこくメールを出し続けているのです。

霊団から相当に絶望的な事を言われています。普通だったらそんな事言われたらもう何もやる気がなくなる、もう使命遂行なんかどうでもよくなる、そういうレベルのヒドイ事を言われています。人生を破壊されてもここまでやっている人間に対して、どういう神経ならそういうセリフが吐けるというのか、もう人格を疑いますよ。とにかく作業だけは続行中「感情と手は別レイヤー」(祈)†
「J9」アナログ絵123に描いたゴールに到達するという意味だと信じたいですが(祈)†■2022年6月22日UP■
「J9」アナログ絵123に描いたゴールに到達するという意味だと信じたいですが(祈)†
そして仕事を休んで遠くの会場まで足を運ばされ、訳の分からないトランスの真似事のようなものを集団でやらされて(今にして思えば僕の回りにいた連中はみんな僕を信者にするためのグルメンバーだったのかも知れませんが)僕はそもそも宗教臭の漂うモノが大キライ、頭にきて頭にきてもうガマンできなくて途中で帰ってしまったのです。これは霊関連書籍に精通しておられる方なら理解できる事と思いますが、要するに霊団が「僕をそういうところ(いかがわしい宗教)から遠ざけて真っ当な霊的活動をさせるためにわざとそこに行かせてキライにさせた」という事なのですが、そうと分かっていてもあの体験は人生最悪でした。もう死んでも行きたくありません…続きを読む→
「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†■2022年7月20日UP■
「私たちは始まっている頃に殺されました」何と「100の光の霊団」に関するメセです(祈)†
【神】から神性の火花を賜って個的存在を獲得した僕たち人間は「永遠の存在であり死はありません」僕たち人間は物質界生活後も霊界で霊的表現媒体をまとって永遠に生き続けるのです。その永遠の人生の中のホンの一瞬である物質界生活中に善いおこないをするか悪いおこないをするかによって、その後の人生に天と地ほどの差が生じます。皆さま、このふたりの人間、どちらが【かしこい】と思われますか。先ほど、王の生活をうらやましいと思う事が、霊的知識の無知から導き出される愚劣の極致の発言と書きました。近視眼という事です。どちらの人生が僕たちの歩むべき人生だと思いますか。もっと言いましょう【神】は僕たち子等に、どちらの人生を歩んでもらいたいと望んでおられると思いますか…続きを読む→

1913年12月8日 月曜日

前回のべた事柄について引き続き今夜も述べてみたい。前回はスミレ色の光の一団と吾々の界の一団が融合しそして繰り広げた人間の想像を絶する壮麗な光景を叙述した。その栄光が都の上に降りそそぎ、建物も樹木も住民も、全てがそのスミレ色と黄金色の雨の洗礼を受けて一段と輝きを増したのであった。

貴殿には理解がいくと思うが、その一団は吾らの界より一段と高い界からの訪問者であり、こうした際には例外なく贈物として何らかの恩恵を残して行くものなのである。

かくして彼らが去ったあと吾らは更に一段と向上するための力を授かり、都全体がそれまでとはどこか異る崇高さに輝くのであった。

さて、そのとき私はたまたま大聖堂への用事があったので、山道を通って行った。長い登り坂となっていたが、私はこうした時の常として、これから向かう仕事への準備のため、瞑想しつつ1歩1歩ゆっくりと歩んだ。

沿道の少し奥まったところに地上に見るのと同じような拝殿がそこここにあった。その1つ1つの前に少し離れて立ち、両手で目を蔽(おお)って瞑目し、主イエスの道を歩む者としての御力を授かるべく、主との霊的交わりを求めた。

それが終ってふと振り返ると、一見して私の界の者でなく、より高き界からの者と思われる、光り輝く2人の人物を見た。私はすぐに頭を垂れ、目を地面へ落とし、所用を言いつけられるのを待った。

ところが暫く待っても何のお言葉もない。そこで思い切って顔を上げ、まず腰のあたりに締められた帯へ目をやった。そして即座にその2人がその日の訪問団のリーダーに付き添った方であることを見て取った。貴殿らの言う将官付武官のようなものであった。

2人はなおも黙しているので、私はついにそのお顔に目を移した。笑みを漂わせた光り輝くお顔であった。愉しささえ感じられた。その時はじめてしっかりと見つめた。と言うのも、それまではお顔から発せられる光輝のために顔立ちまで見極めることができず、従って自分の知っている方であるか否かの判断がつきかねていたのである。

が、こうした時の手段としてよく行うのだが、そのお2人から霊力をお借りして、ついにはっきりと見極めることが出来た。そこで判った。実はお2人は私が地上近い界層での仕事に携わった時の僚友であった。暗黒界から多くの魂を救出し光明界へと案内した時にお2人に補佐役として仕えたのであった。

私の目にその記憶が蘇ったのを見て、お2人は近づいて両脇からそれぞれ手を取って下さって坂道を登った。そして大聖堂へ近づく途中でまず両頬に口づけし、続いて、それからの同行と会話のために更に霊力を授けて下さったのであった。

ああ、その道中の会話の喜びと愉しさ。曽て手を取り合って活躍した時代の話題に始まり、その日私の界を訪れるに至るまでの話、そして間もなく私が召されるであろう一段と明るく栄光に満ちた世界についての話を聞かせてくれたのであった。

やがて大聖堂に着いた。その道中はお2人の美しさと大いなる栄光の話に魅せられて、いつもより遥かに短かく感じられたことであった。実はお2人はその大聖堂の管理者へのメッセージを携えていた。

それは間もなく彼らのリーダーがその都の領主を伴って訪れ、大聖堂への表敬と礼拝を行い、同時に従者並びにこれより暫し逗留する都のために礼拝を捧げるというものであった。

– その大聖堂を説明していただけませんか。

私に駆使できる範囲の言葉で説明してみよう。聖堂の前面と断崖との間には何の仕切りも見当らない。それ故、都の城壁から少し外れた平地からでもその全容を拝することができる。岩場の平台に切り立つように聳え、アーチが下部から上方へ見事な調和(ハーモニー)を為し、その色彩が上部へ行くほど明るくなっていく。

中心的色彩は何と呼ぶべきか、地上に同じものが見当らないために言うことができない。強いて言えば、ピンクとグレーの調和したものとでも言うほかはない。それでも正確な観念は伝わらない。が、一応、外観はその程度にして、続いて構造そのものの叙述に入ろう。

地上の大聖堂には大きな柱廊玄関が1つ付いているのが普通であるが、それには5つある。1つ1つ構造が異り、色調も異る。それには実は礼拝者への配慮があるのである。もし全員が1つの玄関から入れば、霊力の劣る者が礼拝のためのエネルギーを奪われる虞(おそ)れがある。

そこで5つの出入口を設け、拝廊(ネーブ)において一たん霊力を整え、そこで最初の誓いと礼拝を行う。そのあと更に奥の聖殿の大ホールへと進み、そこで全員が合流する。その時はもはや霊力の弱い者も不快感を伴わなくなっているという次第である。

大ホールの上方は四角の塔になっており、天井が無く、空へ突き抜けている。そして上空には光輝性の雲状のもの、ユダヤ教で言うシェキーナ、つまり“神の御座”に似たものが動めいており、時おり聖堂の建物全体および礼拝者にキリストの生命と祝福を垂れる。

この大ホールのさらに奥にもう1つ、特別のネーブが設けてある。そこは特別の招待を受けた者が天使の拝謁を受ける場所である。そこにおいて招待者は天使より上級界の秘奥についての教えを受けるが、それを許されるのは余ほどの進化した者に限られる。

なぜなら、そこで教わることは神の属性に関する極めて高度なものだからである。しかもそれは僅かずつ授けられる。無節操に炎を求める蛾が身を滅ぼすごとく、神の高度な叡智は1度に多くを手にし、あるいは授かると、魂が危害をこうむることにもなりかねないからである。

私自身はまだその聖殿の内部を覗いたことはない。霊的進化がまだそこまで至っていないからである。その時が至れば、いつでもお呼びがあることであろう。十分な備えが出来るまでは召されぬであろう。

が、次の界へ進化する前には是非ともそこで教育を受けねばならないし、そこ以外には無いのである。目下私はそれに向けて鋭意奮闘しつつあるところである。

以上、その巨大な神殿を幾らかでも描写したつもりであるが、それも大いなる躊躇をもってようやく為し得たことである。何となれば、その実相は余りに荘厳すぎて人間の言葉では到底尽くせないのである。黙示録のヨハネが同志たちに語り聞かせたのも同じような光景であった。

が、彼が伝え得たのは宝石と真珠と水晶と光のみであり、それ以上のものは語り得なかった。今の私がまさにそれである。ためらいを禁じ得ぬのである。そこで私は、残念ではあるが、これにて大聖堂の叙述は終りとする。

どう足掻(あが)いたところで、この第10界の山上に聳える真理と叡智と霊力と祝福の大聖殿に漲る燦然たる壮観を述べ尽くすことはできない。そこはまさに、それら全ての根源であるキリストへ向けての進化において必ず通過せねばならない関門なのである。

– ザブディエル様、私はあなたによる連日の要請がいささか苦痛となってまいりました。できれば1日置きにしていただければと思うのですが、このまま毎日でもやって行けるでしょうか。

貴殿の思うようにすればよい。ただ、このことだけは銘記してほしい。すなわち今は霊力が滞りなく働いているが、このあとどうなるかは測り知ることができない。私は許されるかぎりにおいて貴殿の支えとなる所存であるが、それがもし貴殿の限界ゆえに叶えられないことになれば、もはや何も為し得ない。

が、今の受容的精神状態を続けてくれるかぎり、この通路を可能なかぎり完璧なものに仕上げる所存である。しかし、貴殿の思うようにするがよい。もしも毎日続けることに意を決したならば、その時は貴殿の教会の信者ならびに関係者への必要最少限の書きもの以外は控えてもらいたい。

必要と思えば運動と気分転換のために戸外へ出るがよい。あとは私が力のかぎり援助を授けるであろう。が、受ける側の貴殿よりも与える側の私の方が能力が大である。

それ故、書けると思えば毎日、あるいは職務の許すかぎりにおいて、私の要請に応じてくれればよい。これまでは1日として計画が挫折したことはない。そして多分この後も続け得ることであろう。†

「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†■2023年6月21日UP■
「悔し涙を拭う必要はありません」これは帰幽後に悲しみが喜びに変わるという意味です(祈)†
次第にあの土地の光輝と雰囲気が馴染まなくなり、やむなく光輝の薄い地域へと下がって行った。そこで必死に努力してどうにか善性が邪性に勝(まさ)るまでになった。その奮闘は熾烈にしてしかも延々と続き、同時に耐え難く辛き屈辱の体験でもあった。しかし彼は勇気ある魂の持ち主で、ついに己れに克(か)った。その時点において2人の付き添いに召されて再び初めの明るい界層へと戻った。そこで私は前に迎えた時と同じ木蔭で彼に面会した。その時は遥かに思慮深さを増し、穏やかで、安易に人を軽蔑することもなくなっていた。私が静かに見つめると彼も私の方へ目をやり、すぐに最初の出会いの時のことを思い出して羞恥心と悔悟の念に思わず頭を下げた。私をあざ笑ったことをえらく後悔していたようであった。やがてゆっくりと私の方へ歩み寄り、すぐ前まで来て跪き、両手で目をおおった。鳴咽(おえつ)で肩を震わせているのが判った。私はその頭に手を置いて祝福し、慰めの言葉を述べてその場を去ったのであった。こうしたことはよくあることである。†…続きを読む→
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†■2023年6月14日UP■
「誰のせいでもない」そいつぁーおかしいだろう、あんたたち(霊団)が主原因だろう(祈)†
現在の苦難を耐え抜かなければその罪障消滅が達成されず、キミはまた物質界に再降下しなければならなくなるんだよ。我々はキミのためを思ってキミをその苦しみの中に閉じ込めているんだよ。罪障消滅が達成されなかったらキミがまた苦しい思いをする事になるんだよ。これで終わりにするためにその苦しみに耐えるんだ。という意味で霊団が僕を脅し続けているのかも知れません。イヤ、僕のこれまでの人生をよくよく振り返ってみた時に、僕はそういう理由で物質界に降下した人間じゃないと思う。幼少の頃から絵を描き続け、マンガ家も経験し、Dreamworkに突入して死ぬまで絵を描き続ける事を固く固く決断していた。僕はそういう罪障消滅目的の人間ではないと思う、そうだったら絵の才能を賦与されていないと思う。僕に関してはそれはちょっと違うと思う。現在の僕の状況は霊性発現によって「後説」で賜ってしまった追加試練だと思う。守護霊様の管轄内で生活していた時はこんな状況には全くならなかった。「100の光の霊団」の管轄に切り替わってから僕の人生が一気におかしくなった…続きを読む→
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†■2023年6月7日UP■
「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†
実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→