【8/10】モーゼスの「霊訓」(上)第6節 節度ある娯楽と嗜好の効用
[この頃ホーム氏(1)と会った。その日はたまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(5月29日)その点を質(ただ)してみたところ、いろんなことを述べたあと、次のように書いた – ]
ギャンブルの弊害
そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くします。そこには、われらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まった人間に取り入ろうとして、スキを窺うのです。昨日はそうした人間が大挙して集結しました。
邪霊たちにとって彼らは絶好の標的です。アルコールが入り、野獣のごとく肉欲に燃える者、大金を当てにして興奮する者、その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいます。
邪霊の誘いにもっとも乗りやすいのは、この最後に挙げた連中です。たとえそこまで落ち込まないまでも、道徳的感覚が狂い、感情を抑制し邪霊から守る盾となるべき冷静さと心の平衡がくずれ、つけ入るスキを与えることになります。
こうしたものは、絶対的悪とまではいわないとしても、自制心を失い狂乱状態に陥った精神が、攻撃の格好の条件を用意することになります。ですから極力避けねばなりません。
その種の心は霊的悪影響、未熟にして有り難からぬ低級霊にまんまと掛かりやすいのです。興奮のあまり節度と理性を失った精神には、くれぐれも用心されたい。
以上のような理由により、そなたが質したような催しの日は、善の使者の努力が、最大限、要請されることになります。総攻撃をしかけんとして集結した邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせるためです。
祝日のプラスとマイナス
– しかし、そうなると、祝日はすべていけないことになりませんか。
必ずしもそうではありません。祝日の雰囲気が感情の手綱(たずな)をゆるめさせ、のどを焼くアルコール、欲情の満足といった、霊性を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祝日は許し難いものと言えるでしょう。手綱を奪われた肉体が邪霊の思うがままの支配下に置かれることになるからです。
しかし、祝日が身体に休息を与え、魂に憩(いこ)いのひと時を与えることになれば、話はまた別です。過労によって疲弊(ひへい)した身体が心地よい、そしてほどよい休息によって生気を回復することでしょう。
毎日の気苦労と煩(わずら)わしさに苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐされ、しばしその煩わしさを忘れることになるでしょう。
そうした心地よい気分転換がむしろ精神を引きしめ、刺激することにもなります。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にもまして天使による暖かい支配を可能にします。かくして天界の使者の威力が強化され、いかにしつこい悪霊たちの計画も効を奏さぬことになります。
祝日を人間の堕落の日としないためには、人間側が善霊の働きと人間としての義務についての認識を深めねばなりません。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生み出さない祝日は、われわれにとって少しも祝うべき日ではなく、“恐るべき日”であり、警戒と祈りを忘れるわけにはいかない日です。神よ、無分別な愚行に耽る、理性なき魂を救い、そして守り給わんことを!
[そのころ催した実験会が、どうやら、いい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊はみずからはレクターと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の関係もない、いかがわしい霊で、出席者の誰も知らないことが判明した。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦(あきら)めた。
その翌日、いつもの受け身の精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに、霊側から通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合、われわれの方で為すべきことはどんなことか尋ねてみた。するとドクターが – ]
レクターは、あなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることができませんでした。あの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎるせいです。あの実験会での霊言はまったく当てになりません。あなたの精神状態は異常なほど反抗的でした。
写真に写った人物をレクターと思ったようですが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、あなたの度の過ぎた興奮が、今述べた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは、彼自身も気づいていません。
あのような精神状態の時は、いかなる話題についても通信を求めてはなりません。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもあります。
[私の当惑は大きかった。そこで、あのような現象をたびたび見せられては、私のささやかな信念がすっかり失われてしまう、と不平を述べた。それまでは1度も体験したことがなかったからである。すると – ]
あなたはこれまで、この私(ドクター)ないし、われわれのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与えうる時以外は、あのような実験会には出席していません。昨日の実験会には、物質的成分を操る霊しかいませんでした。その結果あのような混乱となったのです。
あの時も前もって注意を与えましたが、ここで改めて警告しておきます。あの時のあなたの反抗的精神状態では、とてもレクターには支配できません。あなた自身の興奮状態が通信を不可能にしたのです。
[それ以来私は、身体の調子の悪い時や、どこかに痛みを感じている時、あるいは精神的な悩みや心配ごとのある時、さらにそうした人が近くにいる時や混乱をきたしそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記はしないよう慎重を期した。
そのせいと思われるが、その後の通信は実に規則正しく、かつ落着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても(巻頭グラビア参照)1か所の削除も訂正も見当たらない。内容もまったくムラがなく、論旨が一貫している。]
可能なかぎり精神を受け身に、そして冷静に保つことです。仕事で過労ぎみの時、心配ごとで苛立(いらだ)っている時、あるいは気が滅入(めい)っている時は、われわれとの交信を求めてはいけません。交霊会に新たなメンバーを加えてもいけません。調子を狂わせ、妨げにしかなりません。
余計な干渉をせず、すべてを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところは、こちらから助言します。会合する部屋を変更しないように。そして、できるだけ受容性に富む心構えと健康体をもって出席してもらいたい。
– 確かに、1日中身体と頭を働かせたあとは、条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけられます。
日曜日の交霊会は不可
日曜日はわれわれにとって好ましくありません。なんとなれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めようとするために、われわれの働きかけに反応しなくなるのです。こうなると、われわれはそなたに新たな現象を試みることに恐れを感じるのです。危険を恐れて、物理的実験を控えるのです。
理由はそれだけではありません。物理現象はわれわれの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎないからでもあります。これまで述べてきたわれわれの使命の証(あかし)として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困ります。
日曜が好ましくない特殊な事情がもうひとつあります。人間には気づかないであろうが、平日と条件が変わることによってわれわれが被(こうむ)る困難です。前にも述べたことですが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは感心しません。
われわれが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性です。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものとは異なります。アルコールとともに腹いっぱい食した後の、あの眠気と無気力状態ほど、交霊会にとって危険なものはありません。
アルコールの刺激が物理現象を促す場合も無きにしもあらずですが、われわれの霊団にとっては障害にしかなりません。より物質性の強い霊の侵入を許し、われわれの霊力が妨害されるからです。
これまでも、そうした妨害を頻繁(ひんぱん)に受けてまいりました。そなたはその点をよく考慮し、われわれとの交信を求めるに際しては、何事につけ、度を過ごさぬよう注意を払ってもらいたい刺激物で身体がほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようではいけません。
精神が眠気を催し、不活発となるのも良くありません。いずれの状態もわれわれにとっては、思うように仕事ができません。状態そのものが醸(かも)し出す影響力がわれわれにも及び、われわれのエネルギーを大いに阻害します。出席者の中に1人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦痛を感じている者がいると、われわれは手の施しようのない状態が発生するのです。
– しかし、栄養不足による虚弱な心身では仕事にならないと思いますが…
中庸こそ大切
われわれは節制を説いているまでです。食事によって体力をつけなければなりませんが、食したものが消化するまでは、交霊を始めてはなりません。日常の仕事のためには適度の刺激物を取ることも必要ですが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われわれとの交霊は、さきに述べた条件を厳守した上でなければ、絶対に始めてはなりません。
心または身体が眠気を覚えたり注意を持続することができないような時、もしくは、どこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり、机に向かってはなりません。
同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われわれは近づけません。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行なわれる時のような品の良い、美しい現象は望めません。
われわれにとっては“極端”が困るのです。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事になりませんが、飽食によって動けないほど詰め込まれた身体もまた、用をなしません。節制と中庸、これです。
友よ、そなたが少しでもわれわれの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会にはぜひとも感覚明晰にして鋭敏な身体と、柔順にして受容性に富む精神状態で臨んでもらいたい。
そうすれば、そなたの期待以上のものが披露できましょう。列席者全員が調和し、構成が適切であれば、現象はいっそう上質となり、述べられる教訓もいっそうあか抜けし信頼性に富むものとなりましょう。
さきにそなたが言及した光 – [当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた] あれも、好ましい条件のもとでは淡く澄み、曇りが見られませんが、好ましくない状態の時は、鈍く、薄ぎたなく、曇って見えるでしょう。
[われわれの交霊会によく出現していた夫婦の霊が、別々の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆(きずな)は永遠のものではないのかと尋ねてみた – ]
霊的親和性が決める死後の絆
それは、ひとえに、霊的嗜好(しこう)の類似性と霊格の同等性にかかっています。その両者が同等であれば、2人は相寄り添って向上できます。われわれの世界では、共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者の間にのみ、交わりがあります。
こちらの生活では魂の教育がすべてに優先し、刻一刻と進化をしています。同質でなければ共同体は構成されません。したがって当然、互いの進化にとって利益にならない者同士の結びつきは永続きしません。
地上生活で互いに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみだった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げます。逆に、互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体から解放されたのちも、さらにその絆を強め、発展していきます。そして2人を結ぶ愛が、互いの発達を促します。
このように、両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからということではなく、相性の良さゆえに、互いが魂の教育に資するものがあるからです。そうした結婚の絆は不滅です。
ただし、その絆は、親友同士の関係ていどの意味です。それが互いの援助と進化によっていっそう強化されていきます。そして、互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されます。
やがて、もはや互いに資するものがなくなる段階にくると、両者は別れて、それぞれの道を歩み始めます。そこには、しかし、何の悲しみもありません。なぜなら、相変らず心は通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからです。
もしも地上的縁が永遠・絶対のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになります。そのような愚かしいことは何ものにも許されていません。
– それはわかります。しかし、私が見るかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者どうしが、互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが…
愛は時空を超越する
愛し合う者を引き裂くことは絶対にできません。そなたは、とかくわれわれ霊の世界の関係を時間と空間の観念で理解せんとするために納得がいかないのです。
霊は空間的に遠く離れていても親密に結び合うことができるということが理解できないのでしょう。こちらには時間も空間も存在しません。われわれは知性の発達程度が完全に同一レベルでないかぎり、直接の交流は有りえません。
しかし、知的には同等でなくても、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能です。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年たとうとも、兄弟愛はいささかも失われません。
たずさわる仕事は異なるかも知れません。物の考え方も違うでしょう。が、互いの愛は不変です。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛しつづける妻もいます。
肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれます。そして天国へと召されます。一方、地上の夫はさらに地獄への道を下りつづけるでしょう。が、たとえ2人は2度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅です。その愛の前に空間は消え失せるのです。
われらにとっても空間は存在しません。これでそなたも、おぼろげながらも理解がいくことと思いますが、霊にとっての結合関係とは、発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、人間の世界によくある“くされ縁”などというものは存在しません。
– では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかということはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は事実でしょうか。
通信内容に矛盾が生じる原因
その言葉どおりです。さきにわれわれは進歩の法則と交わりの法則について述べましたが、その法則は不変です。現在のそなたにとって立派に思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くあります。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのです。
そこで、われわれの側としては、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ないことが多々あります。それゆえ、われわれの世界にのみ存在して人間界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、したがって地上の言語によって“およそのこと”を伝えるしかない事情のもとで用いた字句に、あまりこだわりすぎてはいけないわけです。
– なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですね?
そうした食い違いは、通信を送る霊の無知から生じる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などが考えられます。
他にも原因はあります。そのひとつが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい、霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合です。
– しかし、高級霊ならば“愚か者の愚かな質問に答える”ことをしないで、その質問者を諭(さと)せばいいでしょう。
むろん、できることならそうしたいものです。しかし、愚かしい精神構造はそうした配慮を受けつけようとしないものです。類は類を呼びます。いっときの気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいは、われわれを罠(わな)にはめんとする魂胆からしか質問しない者は、同程度の霊と感応してしまいます。
そのような心構えでは、われわれとの交信は得られません。敬虔(けいけん)にして真摯(しんし)な精神は、その受容性に似合った情報と教訓をみずから引き寄せます。うぬ惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかしない者は、似たような類いの霊しか相手にしません。
もとよわれわれは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておきます。その種の連中は避けるが賢明です。下らぬ愚か者ばかりだからです。
[注釈]
(1)D.D.Home(1833~86)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても、他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。
(2)モーゼスの背後霊団については、巻末の≪参考資料≫の(2)でくわしく紹介するが、この一節に関連した部分を簡単に説明しておくと、総勢49名が7人ずつ7つのグループに分かれていて、それぞれに“受け持ち”があり、そのひとつに、物理的現象を起こすことを担当しているグループがいる。
が、物理現象は物的波長を操るので、物質性の強い低級霊に任せられるのが普通で、ここでも第3節で述べられている“地縛霊”の状態からようやく目覚めたばかりの未熟霊が、罪滅ぼしの目的もかねて、“高級霊の監視のもとに”、いっしょうけんめい働いている。が、やはり波長が低いために、とかく邪魔が入りやすいことを、この一節は物語っている。
モーゼスほどの学問と教養を兼ねそなえた第一級の霊媒が高級霊の監視のもとに行なった交霊会でさえ、そんな次第である。心霊常識のカケラもない者が、少し超能力があるからということで霊言や自動書記を行なうことがいかに危険で信のおけないものであるかが、これでおわかりいただけるであろう。
「絶対やるとの使命感に燃えて下さい」そう思ってるから僕もここまでやってるんでしょ(祈)†
普段上層界で生活している高級霊の方々は波長が低すぎる物質圏付近には降下する事さえできず、降下したとしてもごく短時間しか滞在できないそうです。つまり高級霊であればあるほど最低界の物質界と縁が切れているという事です。で、そこまで上層界では無い境涯で生活している霊は物質圏付近に仕事で降下する事がありますが(僕は間違いなく降下の仕事をやらされるものと思われますが)インペレーター霊が書籍の中でお話しておられますように、物質圏付近に降下すると、地上生活時代の記憶がよみがえり、それが進歩の逆、退歩につながってその霊にとってマズい事になるという事があるそうです。たとえば霊体生活者はもう肉体がありませんが、物質圏に降下すると昔の肉体的煩悩がよみがえってきてそれが退歩につながるのだそうです。もうひとつ、物質界生活時に間違った霊的知識、宗教観等を学んでしまって、帰幽後にその自分の間違いを指導霊に修正してもらって向上を果たした人物が物質圏付近に降下すると、その過去の誤った概念がよみがえってきて霊界で学んだ内容が帳消しになってしまい、それがまた退歩につながるのだそうです…続きを読む→
「いま目の前にある観念と混同してはいけません」霊的視点で物事を見ろという事です(祈)†
そしてイエス様ですが、実の母を含めた家族全員からつまはじきにされ、ついにエルサレムにひとりで出稼ぎに出される寸前まで行きますが、そこでヘリが3年後にやってくるという約束を前倒しして2年でイエス様のもとにやってきて間一髪のところで助けてくれます。少年イエス様は家族から完全に離れてヘリとともに砂漠の流浪民族のもとに赴き、そこで成人します。このヘリとの生活の中で心霊治療能力等の霊能が完全の域を極めていきます。幼少期から成人するまでひたすら苦難、嫉妬、迫害の連続という事です。僕は霊能とは全く関係ない漫画家の人生を何の迷いもなく選び、そこから挫折と苦悩が始まりますが、僕が漫画界で味わった苦しみなどはイエス様が幼少期から受け続けた苦悩の1万分の1にも満たないでしょう。そして成人してからのイエス様は行く先々で病人を治しまくって「メシヤだ」と噂されて大騒ぎになりますが、慕ってくる人も多かったですが敵も多く、最後は皆さまご存じの通り嫉妬に駆られたバカども(律法学者、ローマの権力者等)によって磔刑(はりつけ)にされて殺されます…続きを読む→
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