【8/31】モーゼスの「霊訓」(中)第19節 スピリチュアリズムの真髄

[くり返し反論したきた問題 – これまで再三にわたって言及してきたものが、8月31日になってようやく本格的な回答を得た。]

これまでにも何度か言及しながら本格的に扱わずにおいた問題について述べたく思います。そなたは、われわれの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めがなく、実体が感じられないという主張を固持し、それを再三にわたって表明してきました。

その主張によれば、われわれの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代る新たな合理的信仰を持ち合わせないという。その点に関しては、これまでも散発的には述べることがありましたが、大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に解説したことはありませんでした。それを、これより可能なかぎり述べることとします。

全知全能の神は御業(みわざ)によって知るのみ

まず、われわれは全創造物の指揮者であり審判者であるところの宇宙神 – 永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしましょう。その至高の尊厳の前にわれわれは厳粛な崇敬の念をもって跪(ひざまず)くものです。

その御姿を拝したことはありません。また、御前に今すぐ近づこうなどとも思いません。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることでしょう。それはもはや限りある数字で表わせるものではありません。

が、たとえ拝したことはなくとも、われわれはその御業を通して奥知れぬ完ぺきさをますます認識しております。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりなのです。それはそなたには叶わぬことですが、われわれは無数の方法によって、その存在を認識することができます。

地上という低い界層には届かない無数の形で認識しております。哀れにもそ
なたたちは、神の属性を独断し、愚かにも、人間と同じ形態をそなえた神を想像していますが、われわれにはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し、感受しております。われわれとの関係(つながり)の中に優しさと愛とを感受するのです。

過去を振り返っても、慈悲と思いやりに満ちあふれていることを知ります。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われております。未来は…これは、われわれも余計な憶測はいたしません。これまでに身をもって味わってきた力と愛の御手に、すべてを託します。

詮索好きな人間がするような、おのれの乏しい知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯しません。神への信頼があまりに実感あふれるものであるがゆえに、あえて思案をめぐらす必要を感じないのです。

われわれは神のために生き、神に向かって生きてまいります。神の意志を知り、それを実践せんと心がけております。そうすることが、自分のみならず全創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信じるからです。

また、そうすることが、神に対する人間的存在としての当然の敬意を表明するゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのです。われわれは神を敬愛します。神を崇拝します。神を敬慕します。神に絶対的に従います。が、神の御計画に疑念をはさみ、あるいは神の秘奥をのぞき見するような無礼はいたしません。

人間に明かすことを許されていない神秘もある

次に人間についてですが、われわれはまだ、知っていることのすべてを語ることを許されておりません。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、そなたの精神を惑わせることにしかならない知識を明かすことも、許されておりません。

人間の霊性の起原と宿命 – いずこより来ていずこへ行くのか – については、いずれそのすべてを語るべき時期が到来することを信じるに留めてもらいたい。さし当たっては、神学が事細かに語り広く受け入れられているところの“アダムとイブの堕罪”の物語は、根拠のない作り話であることを知られたい。

恐らくそなたたちキリスト者においても、これにまともな思考をめぐらせたならば、あのような伝説には理性がついていけないのが正直な事実でしょう。取りあえず人間が物質をまとった霊魂であることを認識し、支配する神の摂理にしたがって進歩していくことこそが、地上での幸せと死後の向上を導くものであることを理解すべく努力をすることです。

はるか遠く高き世界 – 洗練され浄化されつくした霊のみが入ることを許される天上界のことは、ひとまず脇へ置いておくことです。その秘奥は、限りある人間の目には見ることはできません。

天上界への門扉(もんぴ)は聖なる神霊にのみ開かれます。そして、いつの日かそなたにも、十分な試練と進化の暁にその列に加えられる時がきっと訪れることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたにとっては、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要でしょう。人間は、そなたも知るごとく、一時期を肉体に宿っている“霊魂”なのです。霊的身体を具えており、それは肉体の死後もなお生きつづけます。そのことについてはバイブルでも述べられています。

仔細の点では誤りも見られますが、一応正しいとみてよいでしょう。その霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばなりません。死後の生活は、人間の知性の届くかぎりにおいて無限です。

こういう言い方をするのは、人間には“無限”の意味は理解できないからです。さし当たってそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておきましょう。

その霊的存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿って生活するにすぎないとはいえ、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なされております。

肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心 – 往々にして粗末であり未熟ではあるが – を先天的にそなえております。各自、その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請がありしだい与えられる援助の手段も用意されています。

こうした事実についてはすでに述べました。こののちもさらに述べることもありましょうが、取りあえず地上という試練の場における人間の義務について述べたいと思います。

地上の人間としての理想の資質

人間は責任ある霊的存在として、自分と同胞と神に対する義務を有します。その昔、そなたたちの先師たちは、その時代の知識の及ぶかぎり、そして表現しうる能力のかぎりにおいて、霊的生活にとって適切な道徳的規範を説きました。

しかし、彼らの知識の及ばぬところ、そして彼らには伝え得ないところにも、まだまだ広く深い真理の領域が存在します。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によって理解され始めたところです。

が、この事実によって、人間の向上進化を促す勢力と妨害する勢力とが存在することを窺い知ることができるでしょう。このことに関しては、こののちさらに述べる機会もあることでしょう。

それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は“向上進化”の一語 – おのれに関する知識をはじめとして、霊的成長を促すあらゆる体験を積むことに要約されましょう。

次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は“教養”の一語に要約されましょう。ひとつの枠に限られない幅広い教養を積むことです。地上生活のみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動です。

そして肉体に宿る一個の霊としての自分に対する義務は、思念と言葉と行為における“純粋”の一語に要約されましょう。以上の“進歩”と“教養”と“純粋”の3つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そして肉体的存在としての人間の、自己に対する義務が要約されていると言えるでしょう。

次に一単位として生をうけた民族、所属する共同社会の一員としての義務についてですが、これを強いて一語で表現するとすれば、その中心となるべき心掛けは“慈悲心”に要約されましょう。

意見の相違に対しては寛容心を、それを是正する時の言葉には同情心を、交わりには優しさをもって臨み、援助には見返りを求めず、日常の品行に礼儀と穏やかさを心掛け、誤解をうけても我慢し、正直で一途(ず)な目的意識に情愛と寛容を加味し、同情と哀れみと優しさに満ちた心をもち、所属する社会の公的義務は遵守し、同時に弱き者、意志薄弱なる者の権利も尊重する。

以上の、そしてこれに類する資質これぞまさしく“キリスト”(1)の名にふさわしい性格のエッセンスです – を、われわれは慈悲心もしくは能動的な愛の一語に要約します。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは、いかに低い界層の者といえども、“無始の光の泉”“万物の創造者”であり、“父”であるところの大神に近づく可能性をもつものであらねばなりません。

大神を目の前にした時の人間にふさわしい態度は、そなたたちのいう聖なる記録の中で“天使もその翼もて顔を被う”(2)と表現されていますが、まさにその通りです。それは人間の霊にとって最もふさわしい畏敬と崇拝の念を象徴しているのです。

敬(うやま)い畏(おそ)れるのです。奴隷的恐怖心ではありません。崇(あが)め拝(おろが)むのであって、屈従的恐怖心に身をすくめるのではありません。神と人とを隔てる計り知れない距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、かりそめにもその御前に今すぐ侍(はベ)ることを求めてはなりません。

ましてや、天使にしてなお知り得ない深い神秘をのぞき見せんとする傲慢(ごうまん)な態度は慎まなければなりません。“畏敬”と“崇拝”と“愛”、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性です。

きわめて大まかですが、以上が自分と同胞と神に対する人間の義務です。枝葉の点については追って付け加えることになりましょうが、以上の中に人間が知識を広め、良き住民となり、すべての階層の人間の手本となるべき資質が述べられております。

この通信ならびにこれまでの通信の中に、パリサイ派の学者が重んじた儀式的ないし形式的義務に関しての叙述が見られないのは、われわれがその必要性を認めないからではありません。人間が物的存在である以上、物的行事も当然大切です。

われわれがその点について詳しく言及しないのは、その重大性について、あえてわれわれが述べずとも事足りているとみたからです。われわれの中心的関心は霊性にあります。すべてを生み出すところの霊性です。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為もおのずと正しく行なわれるはずのものです。

われわれはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱ってまいりました。その原則とは、そなたの関心を真の自我であるところの“霊”に向けさせ、すべての行為をその内的自我の発現として捉えさせることです。その霊性こそが、地上を去ったのちの霊界生活のすべてを決定づけるからです。

そこに真の叡智が存在します。すべてを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移りゆく姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えます。現時点においてわれわれがそなたに示しうる義務は以上のごときものですが、次に、その義務を果たした時と怠った時にもたらされる結果について述べねばなりません。

満足は堕落の始まり

自己の能力のかぎりにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして、生き甲斐と向上が得られます。あえて“向上”を強調するのは人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すという不変の真理を見失いがちだからです。

“これでよし”との満足は、真の自我(魂)にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかありません。魂は過ぎ去ったものの中に腰を下ろすことは許されません。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかもちません。

過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向かう態度は一層の向上を求める、希望と期待の表われです。満足感に浸り、それで目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、その時の魂は退歩の危機にあります。

霊的存在としての正しい姿勢は、常により高い目標に向かって努力し続けることです。その絶え間のない向上の中にこそ真の幸せを見出すのです。これで終りという時は来ません。絶対に来ません。

永遠の刑罰はない

このことは、人間が人生と呼んでいる地上の一時期のみに限りません。生命の全存在に関しても言えることです。そうです、肉体に宿って行なった行為は、肉体を捨てたのちの霊界の生活にも関わりをもつものです。その因果関係は、人間が死と呼んでいる境界には縛られません。

それどころか、霊界へ来て落着く最初の境涯は、地上の行為がもたらす結果によって定まるのです。怠惰と不純の生活に浸っていた霊は、当然の成り行きとして、霊界でそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになります。

犯した罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、1歩また1歩と高い境涯へと向上して行く – これが神の摂理を犯した者に与えられる罰です。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではありません。意識的生活の中で犯した違反が招来する不可避の悔恨と自責の念と懲罰です。

これは懲らしめのムチと言えなくもないでしょう。が、それは復讐心に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではありません。愛の神が我が子にその過ちを悟らせるために用意した因果律の働きなのです。

天国での安逸的生活もない

同様に、善行の報いは天国における“永遠の休息”などという、感覚的な安逸ではありません。神の玉座のまわりで讃美歌三昧に耽ることでもありません。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によって安易に得られる退屈きわまる、白日夢のような無為の生活でもありません。

義務を果たした充足感、向上した喜び、さらに向上できる可能性を得たという確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持したという自信 – こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に初めて味わえるものです。

休息の喜びは働かずしては味わえないように、食事の美味(おい)しさは空腹の者にしか味わえないように、一杯の水の有り難さは渇いた者にしか味わえないように、そして、我が家を目の前にした時の胸の高まりは、久しく家を離れていた者にして初めて味わえるように、善の報酬は、生活に刻苦し、人生の埃(ほこ)りにまみれ、真理に飢え、愛に渇いた者にして初めて、その真の味が賞味できるのです。

怠惰な感覚的満足は、われわれの望むところではありません。あくまでも全身全霊を込めて努力したのちにようやく得られる心の充足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのです。

贖罪(しょくざい)説は卑怯(ひきょう)な考えの産物

以上に見られるように、われわれは人間というものを、果たすべき義務と数かぎりない闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱っております。別の要素として背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もありますが、ここでその問題を取り上げる必要性を認めません。

取りあえずそなたの視野に映り、そなたみずから検討しうる範囲内の事柄にかぎって述べてきました。又、われわれとしては罪なき神の御子、というよりは、神との共同責任者としてのイエスにおのれの足らざるところをすべて償わせるような、都合のよい言説は説きません。

1度の信仰告白によって魔法のごとく罪を消すという、かの贖罪説は説きません。卑しい邪悪な魂も、死の床にて懺悔(ざんげ)すればイエスがその罪のすべてを背負ってくれて、立ちどころに“選ばれし者”の中に列せられ、神の国へ召されるなどという説は、とても認めるわけにはいきません。

われわれは、そのような卑屈にして愚劣な想像の産物に類することは一切述べたことはありません。援助はあります。常に身近かにあり、いつでも活用できる強力な霊力が控えております。

しかし、放蕩と貪欲と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くした人間が、その最期の一瞬に、聖者のひとりとして神の聖域に列せられるために自由に引き出せる、そのような都合のよい徳の貯えなどは、どこにも存在しません。

臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼びおこす死後の苦しみに怯(おび)えるあまりにすがろうとする身代りの犠牲など、どこにも存在しません。そのような卑怯な目的のためには、神の使者は訪れません。そのような者に慰めを
与えに参る霊など、ひとりもいません。

幸にしておのれの罪深さに気づいて後悔することになれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるでしょう。神の愛のムチを当てられるままに放置することでしょう。何となその苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからです。

しかるに神学者は、そのような者のために神は御子を遣わし、そしてすべての罪を背負って非業(ひごう)の死を遂げさせたのである!と説きます。それをもって最高の情けある処置である!神の慈悲の最高の表現である!と説きます。

そのような作り話は、われわれの知識の中には存在しません。徳の貯えは自分みずからひとつひとつ刻苦勉励の中に積み重ねたもの以外には存在しません。至福の境涯に至る道は、かつて聖者たちがたどった苦難の道と同じ道以外にはありません。

一瞬にして罪深い人間を聖者に変え、したたかな無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたたちのいう天国にふさわしい霊に変えてしまう魔法の呪文など、われわれは知りません。そのような冒瀆的想像の産物は、およそわれわれとは縁はありません。

霊的援助は身近かにある

人間は一方においてそのような無知が生み出す、到底あり得ない空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻くせっかくの霊的援助と加護にはまったく気づかずにいます。われわれは人間みずから果たすべきことを代って果たしてあげる力は持ち合わせません。

が、援助はできます。慰めることはできます。心の支えとなることはできます。われわれは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっているところです。

時として、あまりにあくどく、あまりに物質かぶれしすぎて、われわれの霊力に感応せず、霊的なものを求めようとしない者に手こずり、あるいは愚弄されることもありますが、霊的援助は常に用意されており、真摯な祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによって結びつきを強化することが可能なのです。

ああ!何たる無知でしょうか。至純・至聖・至善なる霊が常に援助の手を差しのべんと待機しているものを、祈ることを疎(おろそ)かにするために、その霊との交わりを得ることができないのです。

魂を神に近づける崇拝の心、そして天使を動かす祈りの心、この二つはいつでも実行可能な行為です。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手な信仰、教義、宣誓、身代り等々、事実とはほど遠い、根拠のない作り話に託しております。

信条より行為が大切

われわれは、そうした個々の信仰は意に介しません。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩、改められていくものだからです。狂気のごとき熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体から解放されれば、一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられます。

生涯抱きつづけた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散します。いかに誠意をこめて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われわれは“信条”にはさしてこだわりません。それよりもわれわれは、“行為”を重要視します。何を信じていたかは問いません。何を為したかを問います。

なぜなら、人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解しているからです。そうした性格は長い苦難の過程をへてようやく改められるものであり、それゆえにわれわれは、言葉より行ないに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのです。

われわれの説く宗教は、行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれな信仰の宗教ではありません。身体の宗教でもあり、魂の宗教でもあります。打算のない、進歩性に富む真実の宗教です。

その教えには終局というものはありません。信奉者は数知れない年月を掛けてひたすら向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨きつくされた霊 – 苦しみと闘争と経験によって磨き上げられた霊 – が、その純真無垢の姿で大神の足もとに跪(ひざまず)くのです。

この宗教には怠惰も安逸も見出せません。霊の教育の基調は真摯と熱意です。そこには、おのれの行為がもたらす結果からの逃避は見出せません。不可能なのです。罪科はそれみずからの中に罰を含むものだからです。

また、おのれの罪を背負ってもらう都合のよい身代わりも見出せません。みずからの背に負い、その重圧にみずから苦悶せねばならないからです。

神のお情けはない

さらに又、われわれの宗教には、これさえ信ずれば堕落した生活がごまかせるとか、これさえ信ずれば魂の汚れが覆い被せるなどという、卑怯な期待をもたせて動物的貪欲と利己主義を煽(あお)るような要素も、いずこにも見出せません。

われわれが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではありません。そのような気まぐれな隠れ蓑(みの)は死とともに一気にはぎ取られ、汚れた生活が白日のもとにさらされ、魂はそのみすぼらしい姿を衆目にさらします。

また、われわれの説く宗教には、そのうち神は情けを垂れて、すべての罪に恩赦を下さるであろうなどという、けちくさいお情けを求める余地など、さらさら見出せません。そのような人間的想像は、真理の光の前に呆気なく存在を失います。

神の情けは、それを受けるにふさわしい者のみが受けるのです。言いかえるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進歩がおのずとその報酬をもたらすのです。そこにはもはや情けも哀れみも必要としません。

以上が、われわれの説く霊と身体の宗教です。神の真理の宗教です。そして、人類がこれを理解する日も、ようやく近づきつつあります。(3)

[注釈]

(1)the Christ(ザ・クライスト)というのは語原からいうと“聖油を注がれた人”という意味の称号で、スピリチュアリズム的にいえば霊的真理を理解した人、すなわち“霊覚者”ということである。17節[注釈](5)参照。

(2)この引用句どおりの言葉は新約聖書・旧約聖書のいずれにも見当たらない。その前で“バイブル”と言わず“聖なる記録”と言っているところをみると、古代インドかどこかの聖典の中にあるのであろう。

(3)本節はタイトルどおりスピリチュアリズムの真髄を説いたもので、ほぼ半世紀後に出現したシルバーバーチ霊の教えと完全に付節を合している。これによっても、スピリチュアリズムの名のもとにおける地球浄化のためのさまざまな事業 – 物理的ならびに精神的心霊現象、奇跡的心霊現象、独裁者の失脚と自由思想の発展等々 – が、地上でイエスと呼ばれた霊を最高指揮者とする地球規模の霊団によるものであることが肯(うなず)かれる。その最大の基盤となるのが、本節で説かれている霊的真理である。

インペレーターとシルバーバーチの相違点を強いて指摘すれば、再生(生まれ変り)について双方ともその事実は認めながら、インペレーターは“人間が考えているようなものとは違う”と言うに留まっているのに対し、シルバーバーチは因果律を基本とした魂の向上進化にとって不可欠の要素として、思い切って前面に押し出して説いている点であろう。

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†