【9/5】モーゼスの「霊訓」(中)第22節 天上界と地上界
[インペレーターがしばらく不在だったので、次に出た時にその理由を尋ねると、地上とは別の用事があって留守にしたということだった。そして、別に私のすぐそばに – という言い方が適切かどうかは別として – いなくても、影響力を行使することはできるがそのためには、いわば意念の操作を必要とするということだった。
そうなると他に急務が生じた時にはそれもできなくなる。今回も、そしてこれまでにも何度かあったが、霊界の上層部において、大神への厳かな崇拝と讃仰の祈りを捧げるため
に、数多くの神霊が一堂に集結したという。(1)その他の質問に対して長文の回答があったが、次に紹介するのはその一部である。(12月12日)]
背後霊も人間と苦楽を共にする
われわれは大神への礼拝と祈願のために、地上の使命につきまとう気遣いと苦心から離れ讃仰の境涯の安らかな調和の雰囲気に、しばし浸ってきました。使命に挫折と衰微をきたし、悲しみのあまり気弱となり、あるいは熱意に燃えて邁進する勢いを殺がれることのないよう、時には休息し、聖なる天使たちと交わることによって気分を一新するのです。
ああ、そなたはこれまで混雑した都会の細い裏通りを辛苦して歩み、慈悲の使命に燃えて悪徳の巣窟に踏み込み、むせ返る不潔な悪臭をかがされ、悲劇と罪悪の光景を目のあたりにしながら、それを取り除くことはおろか、幾分かでも軽減することすらできなかった。
ならば、われわれがいかなる気持を抱きつつそなたたち人間の中にあって使命に勤しんでいるか、ある程度は察しもつこうというものです。そなたも人の不幸に心を痛めたことがあった。施す術(すべ)もない無知と愚行と悪徳に思いあぐねたこともある。貧困と犯罪の世相の前に、おのれの無力を痛感したこともある。
身も心も、実りのない努力に疲れ果てたこともある。が、その時、われわれとて、平然として任務を遂行していたのではありません。その間、どれだけ地上の窮状を目撃し、どれほど心を痛めてきたことであろうか。
そなたはとかくわれわれのことを、そなたらの実生活には関心を抱かず、悲劇を知らず、日常の労苦に関わりをもたない、遠く離れた謎めいた存在のように想像しがちであるやに窺える。
われわれもそなたの心をのぞき込み、隠された悲しみを地上の“人間以上に実感をもって知ることができる”ことを知らないようである。われわれのことを俗世から掛け離れた存在のごとく想第像しているらしいが、実は地上の悲しみも喜びも、人間と共に実感をもって認識しているのです。
地上生活につきまとう物的悲劇も精神的悲劇も、われわれの視野に入らぬかのごとく想像しているようであるが、とんでもない誤解です。むしろわれわれの方が、そなたたちよりはるかに鮮明に、悲しみを生み出す要因、犯罪へ引きずり込む誘因、絶望へ追いやる悲劇、悪徳と罪悪に群がる邪霊の集団を見ているのです。
われわれの視野は物的悲劇にかぎられているのではありません。霊的誘因もありありと目撃できるのです。物的視野に映じる悲哀にかぎらず、人間が一向に知らずにいる隠れた悲哀もありありと見えます。
われわれが人間の悲劇や犯罪をみることも知ることもできないと思ってはなりません。さらに又、人間と交わり地上の雰囲気に浸ることによって、われわれもまた、その汚れに幾分かは染まることが避けられないことも知っていただきたい。
光の世界から闇の世界へ
比べてもみられよ。雑然とした都会の裏小路の息も詰まらんばかりの悪徳の生活 – 悲劇と罪悪の温床へと足を踏み入れた時のそなたの気持と、高き世界より低き世界へと降りてくる時にわれわれが味わう、冷たく寒々とした気持とを。われわれは光と無垢の美の界層から降りてくるのです。
そこには不潔なるもの、不浄なるもの、不純なるものは、ひとかけらもありません。その視野には目障りなものは何ひとつ見当たりません。暗闇もありません。目に入るものはすべて輝くもの、至純なるもののみです。完成された霊の住む世界、平和のみなぎる環境を後にするのです。
光と愛、調和と崇敬の念に満ちた境涯を離れて冷ややかな地球、暗黒と絶望の地、反感と悲哀の気に満ちた世界、悲劇と罪悪の重苦しい雰囲気に包まれた世界 – 人々は従順でなく、信じることを知らず、物欲に浸り切り、霊的教唆に反応を示さない世界 – 悪徳の巣窟と化し、邪霊に取り囲まれ、神の声の届かぬ世界へと降りてくるのです。
神の光と真理の輝く世界から地球の暗黒へと向かいます。そこでは神の真理の光は、わずかに数えるささやかな交霊会を通して、ほんのりとした薄明かり程度にしか見られません。
調和と平和から騒乱と不和、戦争と不穏の中へと入り込むのです。純粋無垢の仲間に別れを告げて、懐疑と侮蔑に満ちた冷ややかなる集団、呑んだくれと好色家、あぶれ者と盗人にあふれる世界へと降りてくるのです。
天使がこぞって神を讃仰する神殿を後にして、人間の想像の産物である偶像の君臨する地上へと向かうのです。時にはそれすら無視され、人間は霊的なもの、非物質的なものへの信仰のすべてを失ってしまっております。
休息と気分一新をもとめて天上界へ
かくして、ようやく降りてきたって見出すのは、聞く耳を持たず、何の反応も示さない人間ばかりです。中には、自分に都合のよい言説、自分の想像と一致する言説には一応耳を傾ける者がいます。
が、その者たちも、その段階を超えて1段高い真理、より明るい光へ導いてあげようとすると、われわれに背をむけます。イエスと同じことをわれわれも体験させられるわけです。
つまり人間は、奇跡を演じてみせようとすると感心する。そして、自分の個人的興味がそそられ好奇心が満たされるかぎりは、ついてくる。が、その段階から引き上げ、自己中心的要素から脱して永遠の価値を有する本格的真理へ近づけんとすると、背を向けます。高すぎるものは受け入れられないのです。
そこで神の計画が挫かれ、神より託された人間への恩恵が、にベもなく打ち捨てられます。その時われわれの悲しみに加えて、将来の見通しに寒々とした挫折の懸念がよぎるのです。
こうした次第で、われわれは時として休息と気分一新を求めて地上界から引きあげ、調和の世界で気力と慰めを得て、ふたたび冷ややかな地球の恩知らずの群れの中へと戻ることになるのです。
[私がこれまでに得た通信で、これほど人間的脆(もろ)さに似たもの、絶望感に近いものを披瀝したものはなかった。これまでは、終始一貫して地上的なものを達観した、威厳の雰囲気が漂っていた。
インペレーターの存在とその言葉の中で最も特徴的だったのが、その人間的脆さと地上的なこせこせした心配事に対する超然的な雰囲気だった。常に別世界に悠然と構え、人間的視野の範囲にあるものは眼中になきがごとくであった。
そうしたものに超然としていた。視野が広く、絶対的な重要性をもつものにしか関心を示さなかった。しかも人間的弱点に対しては優しく寛容的で、こちらの激情にも平然としていた。
いわゆる“この世にあってしかもこの世のものに囚われない”(2)者であり、穏やかな平和の境涯からその安らぎをもたらしてくれる訪問者の風情(ふぜい)があった。それだけに右の通信の響きが印象的だったので、その点を指摘すると – ]
地上圏では高級霊も一時的に人間味を帯びる
われわれは、たとえ苦痛を訴えても挫けはしません。そなたと、そしてそなたの置かれた環境との触れ合いによって、やむなくそなたの人間的情念を摂取することになるまでのことです。
あのような苦痛を述べたのは、われわれも幾ばくかの犠牲を強いられていること、そしてそなたを動かしている情念と同じものによる影響を免れないことを知ってもらいたかったからです。
われわれとて精神的煩悶と霊的苦痛を味わうのです。人間の心を締めつけている心痛と同じものを、真に味わうのです。われわれがもし(そなたのいう)人間らしさを感じないとすれば、そなたにとって必要なものを見届けることができないことになります。
いずれそなたも知る日も来ようが、今のそなたがまだ知らずにいる摂理によって、地上へ降りてくる霊は一時的に純然たる人間味を帯びるのです。そして霊界へ戻ればそれを振り落とすのです。地上にあっては地上的雰囲気と地上的想念の中に融け込むのです。
[このあと私に、通信を求めることを控えて過去を振り返るように、との忠告がくり返し述べられた。物理的現象をやり過ぎると体力の消耗が激しいので危険であると述べた。とくに他の霊媒による交霊会に出て現象を観察するのは、研究発表のためによくよくの必要性のある時以外はいけないとの警告を受けた。
仕事においても、仕事以外のことにおいても、節度を守ることが大切であり、反省と休息の時間を取るようにとのことだった。そこで、われわれは交霊会を中止こそしなかったが、以前ほど頻繁に催すことは止めた。
その間にも私のために身元の証拠を提供しようとする努力が為されていることがわかった。とくに顕著なケースとして、10月14日に次のようなことが起きた。
それまで長期間にわたってよく出現していた霊に列席者のひとりが、その霊の在世中の事実が載っているある書物をもとに、細かく詰問した。その書物は出版されたばかりで、質問者のほかは誰も見ていない。
が、質問者の頭の中で、その書物に出ている他の氏名と日時が混乱していたらしく、質問された霊はその間違いをひとつひとつ叩音(ラップ)で強く指摘し、黙って見過ごすわけにはいかないと言って、氏名の読み方の間違いなどについては綴りまで述べて訂正してきた。
その時に霊が出した音には、困惑と苛立(いらだ)ちと腹立たしさが、ありありと感じられた。訂正の速さは、質問者が全部を言い終らないうちに為されるほどで、しかも正確だった。
その様子から判断して、その霊はたしかに地上時代と変わらぬ個性を留めており、記憶もすこしも損われておらず、特徴的だったバイタリティも失われていないことは疑う余地がなかった。
その夜の私の心に、それまで私に通信を送ってきた霊たちも、自称している通りの存在であろうとの確信がようやく芽生えてきた。
間違いを指摘する時のきっぱりとした強い調子、苛立ちを込めた抗弁と訂正の人間味あふれる自然な調子から、私は、それが他の霊による偽装的演出であるとはとても信じられないし、あれほど微妙な特徴を思いつくわけもないと考えたのである。翌朝その点を質してみた。]
– 昨夜のあなたの訂正ぶりには感嘆させられました。
あの本には誤りや不完全なところが多すぎます。私は○○氏とは、氏が私の弟子になる以前からの知り合いです。それに、私がパリで勉強したというのは本当です。
– 別に疑っているわけではありません。あなたがひどく真剣で腹立たしく思っておられる様子が、ありありと窺えたものですから。
いい加減な情報で、しかもいい加減な記憶で間違ったことを質問されるのは腹の立つものです。ずいぶん腹が立ったことは事実ですが、理性は弁(わきま)えていたつもりです。
– 実は私にとっては、むしろ感謝しなければならないことなのです。死後存続の証拠として、これまでにない最高のものを提供してくださったからです。
なるほど。でも、そうおっしゃりながら、スキあらば暴いてやろうと、チャンスを窺っておられるのでしょう。
– とんでもない!私はとにかく証拠がほしい一心なのですから…。
証拠なら、あなたはもうこれ以上増やせないほどのものを手にしておられます。
サークルの解散
[こうした中にも、それまでに得られた通信、とくに今回のテストの結果に対する信頼心は、何度も逆戻りした。言っていることはウソではなかろうか。通信は名のっている本人からのものではないのではなかろうか。
つまり自分は謎めいた話、あるいは一種の寓話のようなもので騙されているのではなかろうか。それとも単に理解できないものに振り回されているにすぎないのではなかろうか、といった疑念につきまとわれていた。それは漠然としたものではあったが、私にとっては真実味を帯びていた。
こうした霊界との交信にとって最も好ましくない精神状態が禍いして、ついに、われわれのサークルは解散するに至った。メンバー全員の意見もその方が賢明であるとの結論に固まっていたと思われるが、インペレーターもしきりにそれを促し、最後には強要してきた。
そして、過ぎ来し方をよく吟味すること、とくに自分が引きあげたあと、他の交霊会に出席したり勝手に交霊会を催したりすることは危険であるとの戒めを残して – 交霊会に関するかぎり – 引きあげてしまった。
自動書記通信も幾分気まぐれな現われ方をしだした。私は次々と質問を連ねたが、出される回答はそれまでのインペレーターと同じ、断固とした目標にそったもので、それは明らかに私の精神とは対立した別個の、厳然たる知的存在が働きかけていることの証左であった。
かつてない動かし難い証拠が与えられた。綿密な計画が練られ、実行に移され、それを弁護するための数々の納得のいく筋の通った言説が述べられ、私はその一貫性をどうしても認めざるを得ないところまで追いつめられた。
私の全生涯にわたる霊的使命に関する長文の通信(3)が届けられたのはその時だった。その内容に私は非常に驚いた。そして、それまで私を扱ってきた霊団の誠意と実在性を改めて確信するところとなった。
本来なら公表せずにおきたいことも相当披露することになりそうであるが、純粋に個人的なことだけは公表する気になれない。霊的実在に関する教訓を、証拠の全般的な流れに光を当てるものにかぎって公表しようと思う。〕
[注釈]
(1)神道の祝詞(のりと)の中に「八百万(やほよろず)の神等(たち)を神集(かむつど)へに集へたまひ…」とあるのはこのことであろう。
(2)Be in the world, but not of the world.“in”は“存在すること”を意味し“of”は“所属すること”を意味する前置詞で、言わば、この世を旅する者であれ、俗世の人間になり切ってはいけない、といった戒めであると私は解釈している。
むろんイエスは英語でしゃべったわけではない。その原典はバチカン宮殿に仕舞い込まれたままだということであるが、それに大々的な改ざんがなされたという現在のバイブルには、この文章は見当たらない。
(3)スピーア夫人が編纂した More Spirit Teachings に、その“長文の通信”というのはこのことではなかろうか、と推察される引用文がある。参考までに紹介しておく –
<“真理の太陽”の一条の光がそなたの魂に射し込んだ時、死せる者たち – とそなたが思い込んでいた人たち – も生者の祈りによって救われること、永遠の煉獄は神学的創作、あるいはそれ以上に愚かなたわごとであることを悟られました。
神は、神を求める子等すべてを等しく好意の目をもって見つめ給い、信仰と信条よりも正直さと誠実さの方を嘉納されることを学ばれました。
そなたは又、神はバイブル以外のいずこにおいても、また他のいかなる形でも人間に語りかけておられること – ギリシャ人にもアラブ人にもエジプト人にもインド人にも、その他、すべての子等に等しく語りかけておられることを学ばれた。
神は信条よりも誠心誠意を嘉納されることを学ばれた。そなたの心の中でプラトンの思想が芽を出し、その言葉が甦ったこともあります。が、その時はまだ、神の言葉はプラトンを通じて啓示されても、あるいはイエスを通じて啓示されてもその価値に変りはないとの理解ができておりませんでした。
その後そなたは、かの教父たち(1)の教理や信仰が本質的にいかなるものであったかを学ばれた。真相を理解し、それに背を向けられた。初期の教会時代の神学を精神的に超えたのです。
型にはまった神学に満足し、アタナシウス信経(2)の害毒に喜びを覚えた段階から一段と向上したのです。不合理なもの、神人同形同性説的な幼稚なものを思い切って棄てられました。
そなたにしてみれば、みずからの思索によってそうしたのだと言いたいところであろう。が、それは違うのです。われわれが手引きして、その結論を固めさせたのです。
やがてわれわれは、もはやそなたの知的ならびに宗教的水準に合わなくなった教会の牧師としての職から身を引かせるのが賢明と判断しました。所期の目的を果たした場から身を引かせ、地上での使命の次の段階のための準備へと歩を進めました。
幾度かくり返した身体上の病気も、それによってそなたの気質を調節する効果を意図したものであり、それは実は、われわれにとっては、霊力のエンジンの調節のようなものでした。それによってそなたの健全なコントロールを維持してきたのでした。
– 私のこれまでの人生はそのための準備だったわけですか。
その通りです。唯一その目的のためにわれわれは計画を立て導いてきたのです。何とかして十全な準備をした霊媒を確保したかったのです。まず精神が鍛えられていなければならない。それから、知識も蓄えていなければならない。そして生活そのものが真理の受け皿として、進歩的精神を培(つちか)うにふさわしいものでなければなりませんでした。
そのあげくにそなたは、ある時われわれにとって最も接触しやすい人物(スピーア夫人)によってスピリチュアリズムへの関心を持つよう手引きされることになりました。その際のわれわれの働きかけは強烈でした。計画を積極的に進めていきました。それまでの教説よりはるかに進んだ、神の福音を直接的に教えていきました。
今そなたが抱いている神の概念は、それまでのものに比べてどれだけ真実に近いことでしょう。ようやく理解してくれた豊かな神の愛は、どこかの一地方の一民族だけをひいきするような偏ったものではなく、宇宙と同じ無限にして無辺なのです。
いかなる教理にも縛られることなく、人類はすべてが兄弟関係で結ばれており、共通の神の子であり、その神はいつの時代にも必要に応じてご自身を啓示してこられているのです。
神人同形同性説が人間の無知の産物であること、“神のことば”としてまことしやかに喧伝(けんでん)されているものが、往々にして人間の勝手な想像の産物にすぎないこと、最高神が1個の人体に宿って降誕するなどという考えは人間の“たわごと”であること、そのような迷信は、知識が進歩すれば、それに由来する教義、神を冒瀆するような見解とともに、あっさりと打ち棄てられるものであるとの理解に到達されました。
また、“救い主”は自分以外には無用であること、自己と同胞と神に対する責務を忠実に遂行(すいこう)することこそ、幸福への唯一の道であることを学ばれました。そして今まさに、現在の罪に対する死後の懲罰、進歩と善行の結果としての霊界での充足感について、われわれ霊団が説く真理を理解しつつあります。
霊的教訓がそなたにどれほどの影響を及ぼしてきたかを知りたければ、かつて抱いていた思想を吟味し、それを現在の考えと比較対照し、いかにしてそなたが暗黒から神の真理の驚異的な光明へと導かれてきたかを見きわめることです。
そなたは、おぼろげながらも、人生が外部の力によって形づくられるものであることを認識し、霊が想像以上に人間界に働きかけているのではないかと思っておられる。事実その通りなのです。人類全体が、ある意味で霊界からの指導の受け皿なのです。
とは言え、われわれといえども、原因と結果の連鎖関係に干渉することだけはできません。人間の犯した罪の生み出す結果から救ってあげるわけにはいきません。愚かしい好奇心に迎合することもしません。試練の場としての地上を変えるわけにはいかないのです。
また、全知全能の神が秘しておくのが賢明と考えられたがゆえに謎とされているものを、われわれが勝手に教えるわけにもいきません。知識を押しつけることも許されません。提供することしか許されないのです。これを喜んで受け入れる者を保護し、導き、鍛え、将来の進歩のために備えさせることしか許されないのです。
われわれの使命についてはすでに述べました。それは、実は、人間と神との交わりの復活にすぎません。かつての地上の精神的指導者が今なお霊界において人類の指導に心を砕いており、このたびそなたを監督し守護し指導してきたのも、そなたがそうした指導者のメッセージを受けいれ、それを広く人類一般に伝えてくれること、ひとえにそれを目標としてのことでした。
そなたをその仕事にふさわしい人物とすることが、これまでのわれわれの仕事でした。これからは神の福音を受け取り、機が熟せばそれを世界の人々へ伝えることが次の仕事となるでしょう。
– では、これは宗教的活動なのでしょうか。
まさにその通りです。われわれが、人間にとってぜひとも必要な福音を説きに来た“神の真理の伝道者”であることを、ここに改めて主張します。その使命にとって大切なこと以外は、われわれは何の関心もありません。その点によくよく留意していただきたい。
さし当たってわれわれは、そなたが個人的な(霊界の)知友との交霊のための霊媒にされようとしている傾向は阻止します。その種のことに身をさらすのは危険この上ないからです。
霊覚の発達した者は、地上の人間と交信したがっている無数の霊に取り憑かれやすいことをそなたは忘れております。感受性が発達するほど、地上近くをうろつく低級霊に憑依される危険性も増えます。
実に恐ろしいことであり、そなたをそういう危険にさらすわけにはいきませ
ん。低級霊のすることは、そなたもすでにご存知のはずです。その種のものにそなたは実に過敏です。そうなった時は、もはやわれわれも手出しができないかも知れません。>
中巻終
「戦争の可能性をすごく感じています」以前から何度も同じ意味の事を降らせていますが(祈)†
まず霊的知識をお勉強しておられる方には改めて言うまでもないと思いますが、戦争ほど愚かなおこないはありません。なぜかと言えば、人間とは「神」を共通の親とした霊的大家族、霊的同胞であり、戦争で敵国の人間を殺す事は自分の家族を殺す事と同義であるという霊的知識を全く理解していないという事になるからです。つまり戦争を起こす人間は霊的に全く無知の人間という事になるのです。霊的な事を理解している人間であれば戦争という愚劣行為はしないはずだからです。単純に物的側面だけを見ても何の問題解決にもなりません。一部の人間が利益を得るだけ、そいつらのために何千何万という人間が無意味に殺され、物質界で学ぶべきだった事を学べずに中途で強制帰幽させられて人生に大変なマイナスを背負う事になってしまうのです。戦争を続けているという事は、その種族、その文化がまだ全然霊的に成熟していない事を意味するのです。僕たち地球人類が宇宙全体から見た時にまだ全然進歩向上していない原始的種族という意味ですよ…続きを読む→
日本の象徴は「富士山」であり、断じて強姦殺人魔ではありません(祈)†
天皇の仕事は、奴隷の女の子をレイプし、四肢切断して強姦殺人し、その死肉を食べ続ける事です。Emperor ‘s job is to rape slave girls, cut limbs, rape and murder, continue to eat their dead meat. 日本の象徴は「富士山」であり、断じて強姦殺人魔ではありません。The symbol of Japan is “Mt. Fuji”, it is not a rape murderer at all.…続きを読む→
TrailMovie「血みどろ、お願いします」アナログ絵69をやれという霊団からのメセです。それは了解ですが霊団、とにかくこの人生をやらせた責任取れ(祈)†
この「血みどろ」はアナログ絵69で描いた一文ですが、霊団はその血みどろを僕にやって欲しいそうなのです。えー僕は「イエス様の怒涛の連続顕現」にかけて、イエス様と交わした鉄の約束、男と男の約束にかけてアナログ絵は「命をかけて」描いていますので、その一文にウソいつわりはありません。もちろんイエス様の御名にかけて、イエス様の名前を連呼している責任において地上に残された最後の1秒まで「血みどろになるまで闘う」覚悟ですが、ただ霊団、僕に画家の人生を捨てさせてここまでやらせたからには「強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の死刑、滅亡」にちゃんと到達してもらわなければ僕だって絶対に納得しませんよ、という事なのです…動画を見る→
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