【9/15】モーゼスの「霊訓」(下)第28節 古代エジプト人の宗教的生活

[1874年2月26日。この頃に催した交霊会で、わけのわからない直接書記の現象が出た。奇妙な象形文字で書かれていた。それについて尋ねると – ]

古代エジプトからの通信

そなたには解読できないであろうが、あの文章は大変な高級霊によるものです。その霊は、当時としては最も霊的に発達していた偉大なる国家エジプトに生をうけました。当時のエジプト人は霊の存在とその働きかけについて、今のそなたよりはるかに現実味のある信仰を抱いておりました。

死後の存続と霊性の永遠不滅性について、そなたたちが賢人と仰いでいる人たちよりはるかに堅固な信仰をもっていました。彼らの文明の大きさについてはそなたもよく知っていよう。その学識はいわば当時の知識の貯蔵庫のようなものでした。

まさしくそうでした。彼らには唯物主義の時代が見失っている知識がありました。ピタゴラス(1)やプラトン(2)の魂を啓発した知識、そしてその教えを通してそなたたちの時代へと受け継がれてきた知識がありました。

古代エジプト人は実に聡明にして博学であり、われわれの霊団のひとりがいずれ、そなたが知らずにいる多くのことを教えることになろう。地上にあってすでに神と死後について悟りを得ていた偉大なる霊が、三千有余年もの歳月を隔てて今、その地上時代の信仰の不変の本質の証人として参るのです。

その霊が霊界にて生活したその三千有余年、それはそなたの偏狭な視野をもってすれば大いなる時間の経過と思えるであろうが、その時代の流れが新たな真理の視野を開かせ、古い誤謬を取り除かせ、古い思索に新たな光を当てさせ、同時に、神と、人間の生命の永遠性についての信念をいっそう深めさせることになりました。

[私は、それにしても、いったい何のためにわれわれに読めない文字で書いてよこしたのかが理解できないと述べ、その霊の地上での名前を尋ねた。]

いずれ教える時も来よう。が、地上での身元を証明するものは早くから失われています。直接書記から何の手掛かりも得られないのと同じで、彼の名を知る手掛かりはありません。

その霊は地上時代からすでに、物的生活が永遠の生命のささやかな第1歩にすぎないことを悟っていました。そして死後、彼自身の信ずるところによれば、地上で信じていた太陽神ラー Ra のもとまでたどり着いたのです。

[彼も、ある一定期間の進歩の後に絶対神の中に入滅してしまうと信じているのかどうかを尋ねた。]

日常生活即宗教

古代エジプト人の信仰に幾分そうした要素がありました。思想家たちは、段階的進化の後に人間臭がすっかり洗い清められ、ついには完全無垢の霊になると信じました。その宗教は死後においては向上進化、現世では有徳の生活でした。

他人と自己に対する義務を忘れず、いわば日常生活が即宗教でした。この点に関しては、そなたの知識の進歩をみて改めて説くことになろう。差し当たり古代エジプト神学の最大の特質 – 肉体の尊厳 – 肉体の尊厳には、正しい面と間違った面とがあることを知れば十分です。

エジプト人にとっては、生きとし生けるものひとつひとつが神であり、したがって人間の肉体もまた神聖なものであり、死体も可能なかぎり長期間、自然の腐敗を防ごうとしました。その技術の証拠(ミイラ)が今なお残っております。

肉体の健康管理も度がすぎると感心しませんが、適切な管理は正しくもあり、賢明でもあった。彼らはすべての物に神が宿ると考えた。その信仰自体は結構でした。が、それが、神も人間的形体をそなえたものと信じさせるに至った時、死体の処理を誤らせることになったのです。

無限の時間をかけ、無数の再生を繰り返すという輪廻転生の教義は、永遠の向上進化を象徴するために作り出された誤りのひとつでした。こうした誤りがあらゆる動物的生命を創造主の象徴と見なし、数かぎりない転生の中において人間もそれに生まれ変るものとする信仰を生んだのですが、この信仰は死後の向上進化の過程の中で改めていかねばなりません。

が、その中には、神を宇宙の大創造力と見なし、その象徴であるところのすべての生命が永遠に向上進化する、という大真理がこめられていることは事実です。

象徴と霊的核心

動物の生命を崇拝するということが、そなたには愚かしく浅はかに思えるとしたら – そう思うのも無理からぬことですが – 信仰というものは外面的な象徴的現象を通して、それが象徴するところの霊的本質へと向けられるものであること、そして真理を内蔵した誤謬はいわば外殻であり、それは、やがて時とともに消え失せ、あとに核心を残していくための保護嚢(のう)である場合もあることを忘れてはなりません。

中核の概念、つまり真理の芽は決して死滅しません。その概念が媒体によって歪められ、本来の姿とは異なる形をとることはあります。が、いったんその媒体を取り除けば、本来の姿を取り戻します。

さきに話題に上(のぼ)せたエジプトの霊も、またその時代の仲間たちも、今では地上世界の自然をすべて絶対神の一時的現象と見なし、したがって、いかなる形にせよ地上的生命を崇拝の対象とすることは感心しないが、そうした自然崇拝を通して神を求め模索する霊を、不当な批判の目をもって迎えるべきではないことを今では悟っています。その辺のところが、そなたには理解できるであろうか。

– ある程度できます。すべてが神を理解する上で存在価値を有していることは理解できますですが私は、エジプトの神学はインドの神学に比べて唯物的で土臭いところがあると思っていました。世界の宗教に関するあなたの通信を読むと、エジプトはインドから刺激を受けているような印象を受けます。思うに、すべての真理に誤りが混入しているように、どの誤りにもある程度の真理が含まれており、真理といい誤謬といい、両者は相対的なものであり絶対的ではないようです。

今ここでインドの神学の特質について詳しく述べるつもりはないが、そなたの述べるところは真実です。われわれとしては、ただ、真理というものが今の時点でのそなたには不快に思えるような形で存在していたこと、そして古代人には理解されていたそれらの真理も、近代に至ってその多くが完全に消滅してしまっていることを知ってもらおうとしているまでです。そなた自身の知識と古代人の知識とを評価するに当たっては、謙虚であることが大切です。

– わかります。そうした問題について近代人がこうまで無知であるとは知りませんでした。私自身も具体的には何も知りませんし、いかなる形にせよ、古代の宗教を軽蔑することこそ愚かであることがわかります。例の古代霊はそうした時代に生活したわけですが、彼はエジプトの司祭だったのでしょうか?

彼はオシリス Osiris に司える予言者のひとりであり、深遠にして一般庶民には説き聞かせられない神秘に通暁しています。オシリスとイシス Isis とホルス Horus – これが彼の崇拝した三一神(3)でした。

オシリスが最高神、イシスが母なる神、そしてホルスが人間の罪の犠牲者としての、子なる神でした。彼はその最高神を、そなたたちの歴史家がエジプトから借用した用語でいみじくも表現した I am the I Am、(4)すなわち宇宙の実在そのものであることを理解していた。生命と光の大根源です。それを意味するエホバ Jehovah という用語を、モーセがテーベ(5)の司祭たちから借用したのです。

– 原語ではどう表現されていたのでしょう?

NuK – PU – NUK. I AM THE I AM.

この通信を送ってきたのは例のラーの予言者です。“光の都”オン On 、ギリシャ人が“太陽の都”と呼ぶ都市ヘリオポリス Heliopolis の予言者で、そなたたちのいうキリスト教時代より1630年も前に生活しています。その名をチョム Chom といった。彼は遠い太古の時代からの霊魂不滅の生き証人です。このわたしがその真実性を保証します。

†インペレーター

– エジプト神学を勉強するよい記録は入手できないものかと尋ねるとプルーデンスが –

その必要はないでしょう。当時の記録もほとんど残っていません。ミイラの棺の中に納められた埋葬の儀式に関する書きものは、すべてその古記録からの抜粋です。前にも述べたように、死体の管理がエジプトの宗教の特徴でした。葬儀は長くかつ精細をきわめ、墓石ならびに死体を納めた棺に見られる書きものは、エジプト信仰の初期の記録から取ったものです。

こうしたことに深入りする必要はないでしょう。今の貴殿に必要なのは、貴殿が軽蔑する古代の知識にも真理の芽が包蔵されていたという、厳粛な事実を直視しそして理解することです。それだけではありません。エジプト人にとって宗教は日常生活の大根幹であり、すべてがそれに従属していたのです。

芸術も文学も科学も、いわば宗教の補助的役割をもつものであり、日常生活そのものが精細をきわめた儀式となっていました。信仰がすべての行為に体現されていました。昇っては沈む神なる太陽が、生命そのものを象徴していました。

人間はふたつのソティス周期、(6)つまりおよそ3000年におよぶ向上の旅ののちに再び地球に戻ることを繰り返し、最後には生命の光の源泉たる神・ラーの純白の光の中に吸収されつくすと信じました。

純潔と質素と霊夜の生活

斎戒の儀式が日常生活に浸透し、家業にも霊的雰囲気が漂っていました。為すことすべてが死後の生活に関連づけられていたのです。1日1日に主宰霊または主宰神がおり、その加護のもとに生活が営まれるという信仰がありました。各寺院にすぐれた予言者、司祭、神官、士師、書記がいました。

そのすべてが神秘的伝承に通暁し、大自然の隠れた秘密と霊交の奥義をきわめるために、純潔と質素の生活に徹しました。古代エジプト人は実に純粋にして学識ある霊的民族でした。もとより、今の人間に知られている知識で彼らが知らなかったものが多々あるのは事実です。が、深い哲学的知識と霊的知識の明晰さにおいては、現代の霊覚者も遠く及びません。

また宗教の実践面においても、現代人はその比ではありません。われわれは、顕と幽にまたがるこれまでの長い生活を通じて、宗教とは言葉ではなく行動によって価値評価すべきであるとの認識をもっております。

天国へ上る“はしご”がどれであるかは大して構いません。誤った信仰が少なからず混入しているものです。今も昔も、人間はおのれの愚かな想像を神の啓示と思い込んでは、視野を曇らせています。

その点はエジプト人も例外ではありません。確かにその信仰には少なからず誤りがありました。が、同時に、それを補い、生活に気高さを与えるものも又、多く持っておりました。少なくとも物質一辺倒の生活に陥ることはありませんでした。常にどこかに、霊的世界との通路を開いていました。

神の概念は未熟ではありましたが、日常生活の行為ひとつひとつに神の働きかけがあるものと信じました。売買の取引きにおいても、故意に相手を出し抜くようなことは決してしませんでした。たしかに一面において、滅びゆくもの・物的なものに対する過度の執着が見られましたが、それ以外のものを無視したわけではありませんでした。

現代にも通じるものがあることに貴殿も気づかれるであろう。現代生活はあまりにも物質的であり、土臭く、俗悪です。思想も志向もあまりに現世的です。霊性に欠け、気高い志向に欠け、霊的洞察力に欠け、霊界の実在および霊界との交信の可能性についての信仰に現実味が欠けております。

われわれが指摘せずとも、貴殿には古代エジプトの相違点がわかるであろう。と言って、われわれは古代エジプトの宗教をそのまま奨揚するつもりはありません。ただ、貴殿の目に土臭く不快に思えるものも、彼らにとっては生きた信仰であり、日常生活を支配し、その奥に深い霊的叡智を包蔵していたことを指摘せんとしているまでです。

– わかります。ある程度そういうことが確かに言えると思います。あらゆる信仰形式について同様のことが言えるように思います。それはすべて、永遠の生命を希求する人間の暗中模索の結果であり、その真実性は当人の啓発の程度によって異なります。

それにしても、現代という時代についてあなたがおっしゃることは、少し酷(こく)です。確かに物質偏重の傾向はあります。しかし一方にはそれを避けんとする努力も為されております。好んで物質主義にかぶれている者は少ないと思います。

宗教・神・死後などに関する思想が盛んな時代があるとすれば、現代こそその時代といえると考えます。あなたの酷評は過去の無関心の時代にこそ向けられるべきで、少なくとも無関心から目覚め、あなたの指摘される重大問題に関心を示している現代には当てはまらないと思うのですが…。

現代は過渡期

そうかも知れません。確かに貴殿が言うように、現代にはそうした問題に関心を示す傾向が多く見られます。その傾向があるかぎり希望も持てるというものです。が、他方には人間生活から霊的要素を排除しようとする強い願望があることも事実です。

すべてを物質的に解釈し、霊との交わりを求め、霊界の存在を探究しようとする行為を、幻想あるいは妄想とまでは言わないまでも、少なくとも非現実的なものとして粉砕しようとする態度が見られます。

ひとつの信仰形態から次の信仰形態へと移行する過渡期には、必然的に混乱が生じるものです。

古いものが崩れ、新しいものがまだ確立されていないからです。人間はどうしてもその時期を通過しなければなりません。そこには必然的に視野を歪める傾向が生じるものです。

– おっしゃる通りです。物事が流動的で移り変りが激しく、曖昧となります。むろんそうした時には混乱に巻き込まれたくないと望む者も大勢います。あまりに長いこと物質中心に物事を考えてきたために、物質はしょせん霊の外殻にすぎないという考え方にどうしても付いていけない者もいます。それは事実であるとしても、古代ギリシャは別格として、現代ほど霊的摂理と自然法則についての積極的な探究が盛んな時代は、私の知るかぎり、他になかったという信念は変りません。

貴殿がそう考えるのは結構であり、われわれとしても、いたずらにその信念を揺さぶりたいとは思いません。ただ貴殿の目に卑俗で土臭く見える信仰の中にも真理が包蔵されていることを、ひとつの典型をあげて指摘したまでのことです。

モーセの律法の基本はエジプト思想の複製

– モーセはエジプトの知恵をそっくり学んで、その多くを自分の律法の中に摂り入れたのだと思いますが…

まさしくその通りです。割礼の儀式もエジプトの秘法から借用したものです。ユダヤの神殿における斎戒の儀式も、すべてエジプトからの借用です。また司祭の衣服をリンネルで作ったのもエジプトを真似たものです。

神の玉座を護衛する霊的存在ケルビム(7)の概念もエジプトから来ています。いや、そもそも“聖域”だの“至聖所”だのという概念そのものが、エジプトからの借用にすぎない。

ただ、確かにモーセは、教えを受けた司祭から学び取ることには長(た)けてはいたが、惜しむらくは、その儀式の中に象徴されている霊的観念までは借用しなかった。霊魂不滅と霊の支配という崇高な教義は、彼の著述の中にその所を得ていません。貴殿も知るように、霊がたどるべき死後の宿命に関する言及は一切見られない。霊の出現も偶然に誘発された単なる映像と見なしており、霊の実在という大切な真理とは結びついていません。

– その通りです。エジプトの割礼の儀式はモーセの時代以前からあったのでしょうか。

ありましたとも。証拠が見たければ、今なお残されているアブラハム以前の、宗教的儀式によって保存されている遺体を見てみるがよい。

– それは知りませんでした。モーセは信仰の個々の条項まで借用したのでしょうか。

三一神の教義はインドのみならず、エジプトにも存在していた。モーセの律法には霊性を抜きにしたエジプトの儀式が細かく複製されました。

– それほどのエジプトの知恵の宝庫がなぜ閉じられたのでしょうか。孔子、釈迦、モーセ、マホメットなどは現代にも生き続けております。マーニー(8)はなぜ生き残らなかったのでしょう?

彼の場合は、他へ及ぼした影響としてのみ生き残っているにすぎません。エジプトの宗教は特権階級のみにかぎられていました。ために、国境を越えて広がる勢いがなく、末永く生き残れなかったわけです。聖職者の一派の占有物としての宗教であり、その一派の滅亡とともに滅んでしまいました。ただし、その影響は他の信仰の中に見られます。

三一神の概念

– 三位一体(さんみいったい)の観念のことですが、あれは元はインドのものですか、エジプトのものですか。

創造力と破壊力とその調停者という三一神の概念は、インドにおいては Brahm, Siva, Vishnu、エジプトにおいては Osiris, Typhon, Harus となりました。エジプト神学には他に幾通りもの三一神がありました。ペルシャにも Ormuzd, Ahriman, Mithra というのがありました。

エジプトでは地方によってさまざまな神学が存在しました。最高神としての Pthah、太陽神すなわち最高神の顕現としての Ra、未知の神 Amun といったように、神にもかずかずありました。

– エジプトの三一神はオシリスとイシスとホラスであるとおっしゃったように記憶していますが…

生産の原理としてのイシスを入れたまでです。つまり創造主としてのオシリス、繁殖原理としてのイシス、そしてオシリスとイシスとの間の子としてのホルス、ということです。三一神の概念にもいろいろあったのです。大切なのは全体の概念であって、そのひとつひとつは重要ではありません。

– では、エジプトはインドから宗教を移入したということでしょうか。

部分的にはそういうことが言えます。この分野に関しては、詳しく語れる者がわれわれの霊団にはいません。

プルーデンス

– 以上は1874年2月28日に書かれたものである。4月8日にさらに回答が寄せられた。その間にも他の問題に関するものが数多く書かれた。以下はインペレーターによるもの。

“魂”の宗教と”身体”の宗教

さきにそなたはインドとエジプトとの関係について問うている。インドの宗教が“魂”の宗教であったのに対して、エジプトの宗教は本質的には“身体”の宗教でした。雑多な形式的儀式が多く、一方のインドでは瞑想が盛んでした。

インド人にとっては神とは肉眼では見出すことのできない霊的実在であり、一方エジプト人にとっては、すべての動物的形態の中に顕現していると信じられました。インド人にとっては時間は“無”、すなわち無窮であり、全体でした。

エジプト人にとっては、過ぎ行く時の一刻一刻に聖なる意味がありました。このように、エジプトはすべての面においてインドと対照的でした。が、ペルシャのゾロアスターがそうであったように、インドから最初の宗教的啓発を受けています。

前にも述べたように、エジプトの信仰の他に類を見ない良さは、日常生活のすべてがその信仰に捧げられたことです。信仰が日常生活のすべての行為を支配していたのです。そこに信仰の力がありました。すべての自然、とりわけ動物の生命を神の顕現とする信仰でした。

たとえばエジプト人が牛の偶像の前にひれ伏した時、彼らにとってそれは存在の神秘 – 神の最高の表現を崇拝したことになるのでした。そうした古代エジプトの教義を形成し、われわれの説く教義とも大いに共通する身体の管理、宗教的義務感、全存在に内在する神の認識等は、改めてそなたたちの時代に摂り入れられて然るべきものです。

– 結局エジプトの神学は、インドの神秘主義の反動だったと思うのです。あなたはエジプトの込み入った儀式を立派であるかのように述べておられますが、私から見れば、エジプトの聖職者の生活には大変な時間の浪費があったし、几帳面に沐浴とヒゲ剃りをしたのは愚かとしか言いようがありません。

そうとばかりも言えません。あの儀式にはあれなりに、あの時代と民族にとっては必要なものでした。もっとも、われわれが指摘せんとしているのは、その底に流れる概念です。エジプトにおいては、芸術も文学も科学も、すべて宗教のためのものでした。

と言って、日常の暮らしが礼拝によって窮屈に縛られていたわけではありません。むしろ生活の行動のすべてが、礼拝の行為の厳粛さの程度にまで高められたのです。そう理解してはじめてエジプトの宗教の良さを知ったことになります。

これほど崇高な信仰は他に見出せません。神の見守る中での生活、身のまわりのものすべてに神を認識し、すべての行為を神に捧げ、神が純粋であるごとく自分の心も霊も身体も潔く保ち、それを神に、ひたすら神に捧げる。これこそ神のごとき生活を送ることであり、たとえ細かい点において誤りがあろうと、それはあえて問われるほどのものではありません。

– 確かに、われわれ人間は偏見が大きな障害となります。しかし、あなただって、人間の信仰が絶対に偏見がないということが有り得ないことは認めるはずです。たとえば、あなたが立派だとおっしゃるエジプト人の生活が今そっくり現代に再現されたとしても、それが必ずしもあなたが理想とされるものとはならないでしょう。

霊性に応じて責務が決まる

確かになりません。時代は常に進歩し、より高い知識を獲得していきます。発達段階の低い別の民族に適したものが、必ずしも現代に合うとはかぎりません。が、獲得したものがある一方には、失ったものもある。そして、その失ったものの中には、いかなる形式の信仰にも等しく存在すべきものがあります。

それが、おのれへの義務と神への献身です。これは決してエジプトの信仰のみの占有物ではありません。イエスの生涯とその教えの中では、むしろそれが高度に増幅されて具現されています。

しかるに、そなたたちはそれを忘れ去った – 真の宗教の証ともいうべきものを失った。その点において、そなたたちが軽蔑し批難している者の方が、そなたたちを凌いでいることを、とくと認識する必要があります。

常づね述べてきたことですが、人間の責務は、その人間の宿す内的な光によって大小が決まります。啓示を受けた者は、その質が高ければ高いほど、それだけ責務が小さくなるどころか、逆に大きくなるのです。

信じる教義のいかんにかかわらず、正直さと真摯さと一途(いちず)さとによって向上した者も多いし、その信仰にまつわる期待の大きさが重荷となって向上を阻害された者もまた多い。われわれにはその辺の真相がよく見て取れるのです。

信仰の形式 – そなたにはその形骸しか見えていないが – は大して重大ではありません。生まれついての宿命があり、それは否応なしに受け入れざるを得ない。問題はそれをどう理解するかにあり、それによって進化が決定づけられます。

地上でユダヤ人となるかトルコ人となるか、マホメット教徒となるかキリスト教徒となるか、バラモン教徒となるかパルシー教徒(9)となるか、それは生まれついての宿命的めぐり合わせといえます。が、その環境を向上進化の方向へ活用するか、それとも悪用して堕落するかは、その霊の本質に関わる問題です。

地上にて与えられる機会は霊にとってさまざまであり、それをいかに活用するかによって、死後の生活における向上進化に相応しい能力が増す者もあり、減る者もいるわけです。その辺のことはそなたにもわかるであろう。

ゆえに、パリサイ主義的クリスチャンが侮蔑をこめて見下す、慎ましく謙虚な人間にとっても、あるいは恵まれた環境と向上の機会の真っただ中に生をうけた人間にとっても、真の向上の可能性においては、いささかも差はないのです。

要は霊性の問題です。そなたはまだその問題に深く立ち入る段階に来ておりません。そなたは形骸にのみこだわっている。核心には到達しておりません。

霊的視野と人間的視野

– しかし、いくら真面目とはいえ、野蛮な呪物信仰者に比べれば、クリスチャンとして高度な知識と完全な行ないの中で、その能力と機会のかぎり精一杯生きている者の方が、はるかに上だと信じますが…

全存在のホンのひとかけらほどにすぎない地上人生にあっては、取り損ねたら最後、2度と取り返しがつかないというほど大事なものは有り得ません。そなたたち人間は視野も知識も、人間であるがゆえの宿命的な限界によって拘束されています。

本人には障害に思える出来事も、実は背後霊が必要とみた性質 – 忍耐力、根気、信頼心、愛といったものを植えつけるために用意した手段である場合があります。他方、ぜいたくな環境のもとで周囲の者にへつらわれ、悦に入った生活に自己満足することが、実は邪霊が堕落させようとして企んだワナである場合があります。

そなたの判断は短絡的であり、不完全であり、見た目に受けた印象のみで判断しています。背後の意図が読めず、また邪霊による誘惑と落とし穴であることが理解できない。こうした問題は今のそなたには正しい判断は不可能です。

なお、そなたの言い分についてであるが、人間はおのれに啓示され、そして理解し得た最高の真理に照らして受け入れ、そして行動するというのが絶対的義務です。それを基準として魂の進化の程度が判断されていくのです。

魂みずからが宿命の決定者

– “最後の審判”を説かれますか?

説きません。審判は霊がみずから用意した霊界の住処(すみか)に落着いた時に完了します。そこに誤審はありません。不変の摂理の働きによって落着くべきところに落着きます。そして一段と高い位置への備えが整うまで、その位置でしかるべき処罰を受け、それが完了すれば向上します。

その繰り返しが何回となく行なわれていくうちに鍛練浄化のための”動”の世界を卒業し、静なる瞑想界へと入寂(10)します。

– ということは、審判は1回きりでなく何回もあるということでしょうか?

そうとも言えるし、そうでないとも言えます。数かぎりなく審判されるとも言えるし、1度も審判されないとも言えます。要するに魂は絶え間なく審判されているということです。常に変化する魂にみずからを適応させているということです。そなたたちが考えているような、全人類を一堂に集めてひとりひとり審問するなどということはありません。あれは寓話にすぎません。

鍛練浄化の世界の各段階において、霊はそれまでの行ないによってひとつの性格を形成します。その性格にはそれなりに相応しい境涯があり、そこへ必然的に落着くことになる。そこには人間が考えるような審判というものはありません。

即座に結果が出るのです。討議もお裁きもなく、もろもろの行状の価値がひとまとめに判断されます。地上のような裁判のための法廷などは必要ありません。魂みずからが自分の宿命の決定者であり、裁判官なのです。このことは、進化についても退化についても例外なく当てはまります。

究極の世界のことはわからない

– ひとつの界層または境涯から次の界層へ行く時は、死に似た変化による区切りがあるのでしょうか?

似たようなものはあります。それは、霊体が徐々に浄化される – 低俗な要素が拭い去られるという意味で似ているということです。上層界へ行くほど身体が純化され、精妙となっていきます。

ゆえに、その変化はそなたたちが死と呼ぶものから連想するほど物的なものではありません。脱ぎ捨てるべき外衣を持たないからです。が、霊が浄化してゆく過程であること、つまり一段と高い境涯への向上という点においては同じです。

– そうやって不純物が拭い去られると、霊は瞑想界へと入り完全に浄化され尽くすということですか?

そうではない。すべての不純物が取り除かれ、最後に純粋無垢の霊的黄金のみが残る。それから内的霊界である瞑想界へと入って行くのですが、そこでの生活は、実は、われわれにも知ることができないのです。

わかっているのはただ、ひたすらに神の属性を身につけ、ひたすらに神に近づいて行くということのみです。友よ、完成された魂の最後にたどり着くところは、それまでひたすらに求めてきた大神 – 巡礼の旅路のためにその神性の一部を授かってしばしの間別れていた、父なる神の御胸であるのかも知れぬのですぞ!

が、それも、そなたと同様われわれにとっても単なる推測にすぎません。そのような高度な問題は脇へ置き、今のそなたにとって意義あることのみを知り得ることで、有り難き幸せと思うがよい。もしも宇宙の神秘のすべてに通暁してしまえば、そなたの精神はもはや活動の場が無くなるであろう。

ともかく、そなたが地上にて知り得ることは多寡が知れています。が、たとえ限りはあっても、より高きものを求めることは許されます。切望することによって魂を浅ましい地上的気苦労に超然とさせ、真にあるべき姿に一段と近づくことを得さしめることでしょう。

神の御恵みのあらんことを!

†インペレーター

[注釈]

(1)Pythagoras ギリシャの哲学者・数学者・宗教家。

(2)Platon ギリシャの哲学者。本名アリストクレス Aristocles。

(3)Trinity 三位一体説。

(4)旧約聖書では I am that I am. となっている。他からの働きかけによって作られたものでなく、時を超越して、みずから存在し続けるもの、すなわち実在。

(5)Thebes ナイル河中流域の都市。

(6)Sothic cycle 古代エジプト暦によって古代エジプト史の絶対年代を決定する際の基準のひとつ。1周期が1460年。

(7)Cherubim 創世記 3・24 その他。

(8)前節参照

(9)Parsee ゾロアスター教の一派。

(10)第3節参照

霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†■2023年7月19日UP■
霊団はもう何もやる気がないそうですが、僕はうしろに戻るつもりはない前進あるのみ(祈)†
物質界に邪悪がはびこる、その根本原因は「霊的知識の無知」にあります。人間に死はなく、肉体の死後も霊的表現媒体(幽体、霊体等)をまとって霊界で永遠に生き続けるという霊的真理を知らず、物質界での人生のみが人間の人生だと考える事が全ての邪悪の出発点なのです。物質界で大量強姦殺人の人生を送ると帰幽後に霊界でどれほどの地獄をやらされるか、その「霊界と物質界の因果関係」もっと言うと【神の因果律】を全く理解していないから平然と犯罪をおこなう事ができるのです。神の因果律から逃れる方法はこの全宇宙に存在しません。なぜなら「宇宙は神の身体」だからです。僕たちは現時点で神の中に存在しているのですから、神の法則の効果範囲外に出るなどという事は有り得ないのです。自分のおこないが自分の帰幽後の人生にどれほど致命的欠陥、悲劇をもたらすかを知っていれば、おのずと自分のおこないに責任感が生じ、愚かな言動にブレーキがかかるはずなのです。邪悪なおこないをしている人間たちというのは「何も知らない人間」という事なのです。だから霊的知識の普及が急務なのです…続きを読む→
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†■2023年8月9日UP■
「助けてくれ」強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の宇宙最大の寝言の思念です(祈)†
霊界とは完全なる自己責任の世界であり、物質界生活時に果たさなかった仕事の責任を完全なカタチで取らされるようになっています。その責任を果たさないと高い境涯に向上する事は許されません。「身元の確認はしましょう」と言ってきたアナウンサー的男性も、天皇一族が強姦殺人魔だと知っていながらコイツらの事を善人だというニュースを流しまくり、自身も善人を装って物質界人生を送ったその自責の念、後悔の念が霊的向上の阻害となっており、その罪障中和の目的で「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言する僕の背後霊として仕事をする事になった男性ではないのか。僕はその可能性は十分にあると考えるのです。ちなみにテレビ業界には今回の「身元の確認はしましょう」の男性と同じように、心の中ではよくないと知りながら、仕事を失わないために「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の事を善人であると洗脳ニュースを流し続け、そのおこないに後悔し心を痛めている人間がスゴイたくさんいると思っているのです…続きを読む→
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†■2023年10月4日UP■
「死んだ人間にできるだけ真実を教えようとします」僕が霊界の仕事をしているという意味です(祈)†
【神】が経綸するこの全宇宙には目的があり、それは「進化」の一語に尽きると思います。全天体、全存在(生命)が進化を目的として永遠とも思える霊的向上の旅を続けています。霊的進化のゴールと言える至福の境涯ニルバーナは存在せず、神の御胸に向けての永遠の進化の旅が続くのですが、僕たちが現在在籍している地球圏は神が経綸する全宇宙の中のほぼ最低ランクの存在の場であり全く進化が足りません。イエス様を最高指揮官とした地球圏経綸の任に当たる天使の方々は、物質界の知的暗黒時代(特に中世ヨーロッパ)を打破して霊的知識を普及させるべく「スピリチュアリズム」を勃興させました。これまでの地球圏霊界でこれほど大々的な計画が実行に移された事はないそうです。イエス様がそこまでしなければならなかった理由は、物質界で学ぶべき事を何も学ばずに無知のまま帰幽して下層界にたむろする、シルバーバーチ霊の言葉を借りれば「難破貨物」ともいうべき低級霊があふれかえってそれがいよいよ上層界にまで悪影響を及ぼし始めてきた事が一因だそうです…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†