[1876年4月26日。本節で紹介する通信は、通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。
数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙されやすく、かつその可能性が十分に有り得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完ぺきな一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、それはまず不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。
ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会で、その友人の映像が写真に写り、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真が撮られた時、私は入神していた。
撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の“面影”が容易に見て取れた。
実はこのケースにはもうひとつ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られた、と述べるに止めさせていただく。
この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真を霊界側がどうやってこしらえているかということだった。それによると、ひとりの霊が私のまわりで活発に動いて、複数の技術者に指示を与えていたという。
像のまわりのあの被(おお)いのようなものは、時間とエネルギーを節約するための処置だそうで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば”スケッチ”程度のものだったという。
そうした部分的物質化の作業にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者がたずさわるという。ひとりの心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似通った傾向が見られるのはそのためだという。
インペレーターとしては2度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力したのは、どうしても協力せざるを得ない時のみにかぎったもので、この度のこともインペレーターの意志にそったものではないとの説明があった。
その友人の霊は生前ずっと私の仲間だった人物で、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。したがって彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易だった。もっとも私はふたりの友人を伴っていて、そのふたりのための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。
そういうわけで、友人はM霊の世話でその交霊会に出席し、M霊が技術者を指示して顔を整え、被いをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材でこしらえ、実際にポーズを取り、それから撮影したという。こうした通信のあと、インペレーターが次のように述べた – ]
これよりそなたの友人のことについて述べたいと思うが、その前に、われわれはそなたが再び物理的現象に関わるのを防ぐべく、出来るかぎりのことをしたことを一言申し添えておく。
ようやく落着いてきた正常なエネルギーが再びその方向へ駆り立てられるのを望まなかったからです。そこで、われわれはそなたがその気持にさせられるような環境に置かれるのを阻止せんとしました。
以前にも説明したが、われわれは、そなたがいつまでも物理的段階にとどまっているのを不可として、交霊会を中止させました。友人がそなたに付きまとうのも好ましくないと見ていました。彼は霊的状態が良くありません。ゆえに、なるべくなら彼のことを構わずにいてほしかったのです。
が、いったんこうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばなりません。M霊は、そなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りです。霊と霊との間の親和力の法則です。そなたも知っていよう。
自殺した者の身の上
– 知っています。ですが、親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろその通りの結果が現実に出るのは稀れのように見受けられます。で、彼は今、幸せではないのでしょうか。
どうして彼が幸せであり得よう。神が進歩と発展を願ってその魂を宿した聖なる神殿(肉体)に冒瀆行為(自殺)を働いたのです。霊的成長の機会を無駄にし、真の自我である神の火花の宿る聖殿を、思いのかぎりに破壊したのです。そして今、魂に何の用意も出来ていない見知らぬ土地へ、道連れもなしにひとりで旅立ったのです。
父なる神の前から逃亡したも同然です。その彼がどうして幸せであり得よう。死して不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、さらには、寿命を全うせずして他界することによって地上の縁故者に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。
無益に過ごした生活がその代償を求めます。永年にわたって培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せなくします。生活そのものが利己的であり、地上で目指したものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えていない。
哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚めて精神的再生に至るまで、心の安らぎは与えられません。彼は今、まさしく“宿無し”の身です。
– 向上の望みはあるのでしょうか。
ある。望みはあります。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつあります。霊的暗闇を通して、おぼろげながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつあります。かすかながらも、自分の置かれている荒廃した状態についての知識に目覚め、光を求めはじめています。そなたの近くに留まっているのはそのためです。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばなりません。
– それはもう喜んで…ですが、どういう具合にすればよいのでしょう?
まず祈ってあげることです。祈りの力によって、高い世界のあけぼのを招来してあげることです。不幸な魂に、働くことの楽しい雰囲気を味わわせてあげることです。彼の魂は、聖純にして爽快な雰囲気がどういうものであるかがわかりません。
そなたにとって彼の存在は不快かも知れませんが、そなたがそれを教えてやらねばなりません。そもそも彼を呼び寄せたのはそなた自身なのです。そして彼は、そなたの誘いに素直に従っています。
彼の存在は我慢してやらねばなりません。われわれの警告と願いを無視してやったことであり、もはや取り返しはつきません。せめてもの慰めは、そうした努力によって、そなたも神の聖なる仕事にたずさわることになるということです。
利己主義の罪悪
– 私が呼び寄せたというのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけにはいかないと思います。
責任に問われるべきであったし、今なお問われて然るべきです。彼自身も今そのことに気づきはじめています。彼がみずからを傷つけた最後の罪業の種子は、すでに怠惰な無為の生活の中で蒔かれていた。彼は病的ともいうべき内向的性癖を培い、助長していた。自己のみを考察していた。
それも進歩や発展のためにではなく、また欠点を反省し徳を養うためでもなく、利己的排他性の中で行なっていた。言わば、歪められた利己主義の暗闇に包まれていたのです。それが彼に病をもたらし、あげくには霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられたのです。霊界から鵜の目鷹の目で見張っている邪霊に身をさらしてしまったのです。
その意味において彼は、そなたの言うごとく“狂って”いました。が、その狂気の行為は、彼のそれまでの所業の結果にほかなりません。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に、同じ邪悪な影響を及ぼしています。自分自身への災禍(わざわい)が今や、他の愛する人たちへの災禍となっているのです。
– 本当に恐ろしいことです!天罰の厳しさを見せつけられる思いがします。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよくわかります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。
利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に、多くの魂がこれに蝕(むしば)まれております。まさしく魂を麻痺させるものです。その利己主義がさらに内向的となれば、いよいよもって致命的となります。利己主義にもきわめて毒性の少ないものがあります。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらあります。
たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。
余計な気遣いを避けるために、いかなる指図にも従うわけです。いずれも魂の進歩にとっては障害となるものであり褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とはいえない。
彼の場合は、いかなる善行も活動も伴わない卑劣な利己主義でした。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもありませんでした。いや、自己満足以上のものでさえあった。何となれば、全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が浸蝕されていたからです。
この種の利己主義は自己にとっても縁ある人にとっても残酷な影響を及ぼします。罪にも段階があります。彼の罪はとりわけ度が深かった。これは彼のことではあるが、他人事(ひとごと)としてではなく、そなた自身のこととして聞くがよい。
か、しばし休むがよい。その間にわれわれがそなたの心から邪気を取り除いておこう。
[私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間にある心なごむ光景を見せられ、目を覚ますと、すっかり気分が爽快になっていた。]
自殺は利己主義の極
今ここで彼の無益な人生を事細かに詮索する必要はないでしょう。魂が異常な利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊でした。そなたのいう意味では確かに狂っていた。が、その狂える精神が支配するかぎり、自殺の手を押し止めることは何者にもできなかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのです。
しかし、そなたの罪の評価は幼稚です。あの状態を誘発したのは彼自身なのです。魂そのものが自分を敵に売り渡し、破壊するに任せたのです。彼の場合は、遺伝的精神病が正しい判断と行為とを狂わせたのとは異なります。自殺は利己的怠惰の所産にほかなりません。
理性の力を奪い、自殺という行為へ追いやったのは、誘惑の魔手でした。その誘惑は人によって別の形を取ることもあります。が、自己破滅にせよ、他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足も、その根源においては同じです。
授かった才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛をみずから想像してそれに没入し病的快感を覚えるような魂は、間違いなく病を得ます。存在の原理は活動することにあります – 神のため、同胞のため、そして自己のためにです。
ひとりのためにでなくすべての人のためにです。その摂理を犯す時、必ず悪が生じます。停滞する生活は腐敗し、周囲へも腐敗をもたらします。邪悪であると同時に有害です。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢である堕落の素地を築いていきます。
悪がいかなる形態を取るかは問題ではありません。根源は同じなのです。彼の場合は個人的危害の形を取り、無益な生涯をご破算にしました。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心まで傷つけることになりました。
生命の糸(2)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることができなかった。みずから傷つけた魂の宮が墓地へ葬られたのちも、そのまわりを漂っていた。
無意識のまま、みずから動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる客には歓迎される場はないのです。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様みずから破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められている同類の霊が、次から次へと、薄ぼんやりとした姿を見せる。彼が近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていきます。
良心の目覚めが救済のカギ
その悲劇 – 本人は悲劇であることを半分も自覚していませんが – それを少しでも和らげ、魂を癒やすための手段が講じられることになったのは、初めて良心の心の呵責の身震いが、天使に届いた時でした。
暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいて、その麻痺した良心の回復を加速させ、悔恨の情を目覚めさせるべく、手段を講じたのです。はた目には残酷に映るかも知れませんが、天使はあえて彼の置かれた惨めな状態に気づかせ、その罪の深さを映像として眼前に映し出す手段に出たのです。
悔恨の門をくぐり抜けずして魂の安住の地へたどり着くことはできません。ゆえに苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならないのです。
その努力も、しばし効を奏しませんでした。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は、今や嫌悪感さえ覚えるようになったその悲劇から抜け出す道を手探りで求めはじめました。
が、しばしば元へ引き戻されもしました。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのです。が、実はそうした過程の中にも、彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのです。誘惑霊たちはそうとは気づきません。彼はただその低劣きわまる本能のおもむくままに動いているにすぎません。が、その実、彼らも又、因果律の行使者なのです。
彼が救出される道はただひとつ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じてみずからの救済に勤しむことです。そこにたどり着くまでには、悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばなりません。それをおいて他に魂の清められる手段はありません。利己主義の罪は自己犠牲によって拭わねばなりません。怠惰は労苦によって根絶せねばなりません。
彼の魂は苦難によって清められねばなりません。それが向上進歩の唯一の道です。その道が彼の場合は、過去の誤った生活によって歩行困難、いや、ほとんど不可能にされています。しかし、努力によってたとえ1歩でも進まねばなりません。
しばしば転倒することでしょう。後戻りすることもあるでしょう。が、それによって、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのです。1歩1歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばなりません。
しかも、あちたりを取り巻く誘惑 – 向上せんとする魂を挫折させてやろうと企む邪霊たちのささやきと闘いつつ歩まねばなりません。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばなりません。これをもって“罰”というのです。それが、他のいかなる手段によっても得られない、天国への唯一の道なのです。
罪はみずから償うべきもの
むろん、天使の援助の手は片時たりとも控えられることはありません。向上心の芽生えた霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、天使にとって光栄ある使命なのです。
とは言え、たとえ慰めることはできても、当人の痛みひとつたりとも代りに贖(あがな)うことはできません。摂理への背反の天罰を、ひとつたりとも和らげてやるわけにはいきません。代償として支払うべき余徳などもありません。
友人といえども重荷を肩代りしてやることはできないし、疲れ果てた背中から、それを下ろしてやるわけにもいきません。衰えゆく精力を補い扶助するための補助的援助は許されても、重荷そのものは、あくまでも罪を犯した本人が背負わねばなりません。
それは、無為に過してきた人生が生む避け難い天罰です。それに耐えることによって半ば消えかかった火花がふたたび点火され、魂を導く灯火として、大きく燃え上がることになるかも知れない。
あるいは、そうした天使の声に耳を貸さず、相も変らず暗闇と孤独の中をさ迷い歩き、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛にさいなまれることによってのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れない。
そうした罪障消滅に費やされる期間(とき)は、そなたたちには永遠のごとく感じられるかも知れません。あるいは、状況が固定化する前に魂が目覚め、奮い立つこともあります。そして、必死の努力によって光明へと近づき、みずから進んで浄化のための苦難を求め、残った気力でもって地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れません。
それは有り得ることではあります。が、そう滅多にあるものではありません。性癖はそう簡単に変えられるものではないのです。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものではありません。利己主義や不徳の中で死を迎えた者は、往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境がすなわち地上生活の証にほかならないのです。
かすかながらも向上心の芽生えはじめた彼のために、援助の力が授けられることを祈ってやるがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによって慰められるよう、祈ってやるがよい。彼の病にとっては、そうした祈りこそ最高の良薬です。
[右の通信を読んで私は、これでは向上のために努力しようとする者の気勢を殺(そ)ぐことになりはしないか – 人間にとっては理想があまりに高すぎる、と述べた。すると – ]
時々刻々の審判
とんでもない!われわれの述べたところでも、まだまだ実情のすべてではないのです。また、いささかの誇張も潤色も施しておりません。彼のような無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇的境遇の真の恐ろしさは、われわれにはとてもそのすべてを語ることはできません。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情がいかに痛烈なものであるかは、とても言葉で言い尽くせるものではありません。
その後に魂がたどる過程は、いかに立派な理想を言ってみたところで、われわれにも、いかんともし難いことです。ただ、永遠にして不変の因果律の働きを述べることしかできません。
身に染みた利己主義と犯した罪過が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることはできません。われわれがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる大神が定め給うた摂理なのです。そなたの身近かに証を見ることのできる法則の働きを指摘したまでです。
いつのことかもわからない死後の遠い遠い先のある日、全人類が招集されて“記録天使”とやらが“審判の書”を提出し、それを手にしたキリスト神がひとりひとりに判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられることなどということはありません。断じてありません。行為のひとつひとつが確実に魂に刻み込まれ、思念のひとつひとつが漏れなく記され、性癖のすべてが死後の性格的要素として持ち越されるという形での審判はあります。そのことを人間が忘れがちであるために指摘しておきたかったのです。
罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要りません。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えておきたいと思います。審判者は魂自身なのです。魂が自分と語り合い、おのれ自身の命運を読み取るのです。参考とすべき書類は、道義的分別の記録のみです。地獄とは、魂みずからが罪悪を焼き尽くそうとする悔恨の炎のことです。
しかもそれは、全人類が他界してしまった遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たな生命への蘇りと同時に始まるのです。気絶状態でもあるまいに、遠い彼方の、うっすらとしたモヤのような光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定(ひつじょう)なのです。
なぜこのようなことを申すかと言えば、われわれについて世間では、霊の教えは宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によってのみ支配され、いかなる行為をしようと、いかなる教義を信じようと、すべての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからです。
われわれはそのような無分別きわまる教理を説いているのではありません。そなたは、今はもうその点の理解ができていよう。が、そなたもそこに至るまでは、繰り返し繰り返し説き聞かさねばならなかった。
すなわち、人間は“みずから”の将来を“みずから”築き、“みずから”の性格に“みずから”押印し、“みずから”の罪悪の報いに“みずから”苦しみ、そして“みずから”救済していかねばならない、ということです。
われわれがこうした人生の暗黒面を取りあげたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからにすぎません。気品と美と天使の支配に満ちた明るい側面については、これまでたびたび言及してきました。
あふれんばかりの神の愛と慈悲、その神とそなたたちとの間を絶え間なく取りもつ天使の優しい心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗い側面 – 孤独と荒廃、邪悪による誘惑の存在について認識を改めておくのも無駄ではあるまい。
絶対的摂理の存在
理想が高すぎるとの意見であるが、そのようなことはない。もしも高すぎということになれば、高き理想は向上心に燃える魂を鼓舞するためにしか役に立たないことになります。
確かに向上心のない魂にとっては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪とによって蝕まれていない者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとっては決して高すぎることはない。
友よ、よくよく銘記されよ。人生には、いかなる者にも逃れ得ぬ摂理というものがある。人生とは旅であり、闘争であり、発展です。その旅は常に上り坂であり、しかも道中は茨(いばら)に満ち、難路の連続です。
闘争は目的成就まで絶え間なく続きます。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格からキリスト的大人の霊格への発達です。この摂理だけは絶対に曲げられません。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は望めません。
自分を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されていくのが、永遠に変らぬ必然性です。神より放たれた火花が、その父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのです。
真の幸福は、最高の理想を目指して生きることによってのみ獲得されるものであることを、そなたは今さら説き聞かされるまでもないと思うが、いかがであろうか。
怠惰な者、無精者はそれを知らないこと、邪悪な者、みずから望んで悪事を働く者には縁のないものであることは、改めて説くには及ぶまいと思われるが、いかがであろうか。
地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出るものであり、その道程において克服した危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも、改めて述べるまでもなかろうと思われるが、いかがであろうか。
天使は常にそうした魂を補佐しようとして見守っていること、天使はそのことを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害はこうむらぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが、いかがであろうか。
たとえ勝利の宣言がなされても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えません。勝利は葛藤の末に得られるもの、平和は艱難(かんなん)ののちに得られるもの、そして、発展は着実な成長の末に得られるものです。
[私は、当然そうであると思うと答え、人生の準備期においてはなるべく多くの知識を蓄積し、できるだけ多くの仕事をし、その上で叶えられるかぎりの安らぎを享受すべきであると思うと述べた。しかし、仕事と知識(とくに神そのものと神の未来についての知識)が安らぎまたは安息に先立つものである以上、瞑想の余地がないことになると思うと付け加えた。]
人生の3要素
違う。人生には3つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして3種の敵(3)との葛藤です。瞑想の生活は自己の認識にとって必須のものです。着実な成長の重要素です。それには当然祈りが伴います。すなわち肉体に閉じ込められた魂と、父なる神およびわれわれ神の使徒との霊的交わりです。
次に、魂がおのれを見出していく無数の局面 – 神の声なき声に耳を傾けるための静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえた厳(おごそ)かな神殿にて神を恭々しく讃える聖なる歌の斉唱、さらに又、言葉に出ず、他人の耳にも届かない魂の奥底からの、やむにやまれぬ向上心、こうしたものを通じて、神によって植えつけられた讃仰の本能がそのはけ口を求めるのです。
これは、絶え間ない悪との闘いには欠くべからざるものです。われわれはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張するものです。そなたも今少し安らかな思索の時を持つよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いております。
– 彼の無節操な行為の中には必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことはお認めになるでしょう?
無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそれに宿る魂の意志に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合もよくある。そうした場合には、魂に責任はありません。事故による傷害によって精神に異常をきたすこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もあります。
そうした原因に由来する時は誰にも咎められるいわれはありません。ましてや、公正なる神による咎めは絶対にありません。神は霊的動機と意図によって審判を下されるからです。
われわれがそなたの友人を咎めたのは、あの不幸な結末が、生涯にわたる罪悪の生み出したものであるからにほかなりません。それに関しては彼に責任があったし、今なお責任がある。そして彼も今そのことに気づきはじめております。
全能なる神よ、叡智を育み、そして授け給え。
†インペレーター
[注釈]
(1)F.A.Hudson 英国初の心霊写真霊媒で、本巻ならびに中巻の口絵写真の説明文を参照。
(2)霊的身体と肉体とを結び付けている帯状の紐。日本では古来“玉の緒”と呼び“魂の緒”と綴ることもある。霊視すると銀色(シルバー)に輝いて見えるので、英語ではシルバーコードと呼ぶことが多い。
(3)第30節“イースターメッセージ、1876年”を参照。
■2022年10月12日UP■「扱いは不当だからです」霊団が使命遂行を前進させようとしない理由がこれです(祈)†霊格がある一定以上まで高まると物質圏付近に降下する事さえできなくなるそうで、影響力を行使しようにもできなくなる、それで霊力に感応する僕のような人間に対して働きかけて間接的に仕事を前進させようとする訳です。霊界高級霊の方々は自分で最低界に降下して仕事をする事は基本的にできない(ごくまれに使命に燃えて肉体をまとって降下する神霊も存在するそうです、イエス様がその代表ですね)ですので霊力に感応する物質界の人間に仕事をやってもらう事になる訳ですが、僕の霊団に対する反逆ぶりを見ればお分かりのように、ああでもないこうでもないと文句ばかり言って高級霊の言う通りには動いてくれないものです。それで霊界側で作成した使命遂行ブループリントの全てを達成できず霊媒は帰幽し、残りの仕事は次の霊媒を見出してその人物にやらせるという事になるのですが、その霊媒が物質界に全くいないのです…続きを読む→ ■2022年10月5日UP■「あなたを守りたい」これがつまり奴隷の女の子を助けないという意味なのです(祈)†僕が奴隷の女の子を救出すると、その霊団が降らせて教えてきた物的攻撃に晒される事になり、霊団はその攻撃から僕を守るために奴隷の女の子の救出をあきらめざるを得ないといったような事を言っているのです。そして奴隷の女の子の事をあきらめさせるために交霊会の事をずっと言い続けてくるのです。「アキトくんの気持ちは分からないでもないが、奴隷の女の子たちは自らの罪障消滅のため、霊的向上のために自ら志願してその人生を選択し、奴隷の女の子として物質界に降下した人間なのだ。それよりキミは自分の使命遂行を成功させる事を考えなさい」とでも言っている霊団の声が聞こえてきそうです。要するに奴隷の女の子たちを見殺しにするのは非情というのとは違う、霊的視点に立って考えないと真実の理解には到達しない、という事なのですが、この心の中に渦巻く釈然としない気持ちはどうやっても拭う事ができません…続きを読む→ ■2023年6月7日UP■「これから闇の中へ出発します」明仁、文仁、徳仁、悠仁が地獄に赴くという意味です(祈)†実情はそれどころではない。人間は霊界へ来たからとて地上時代といささかも変わるものではない。その好み、その偏執、その習性、その嫌悪をそのまま携えてくるのである。変わるのは肉体を棄てたということのみである。低俗なる趣味と不純なる習性をもつ魂は、肉体を棄てたからとて、その本性が変わるものではない。それは誠実にして純真なる向上心に燃える魂が死とともに俗悪なる魂に一変することがあり得ぬのと同じである。汝らがその事実を知らぬことこそわれらにとって驚異というべきである。考えてもみるがよい。純粋にして高潔なる魂が汝らの視界から消えるとともに一気に堕落することが想像できようか。しかるに汝らは、神を憎み善に背を向けて肉欲に溺れた罪深き魂も、懺悔1つにて清められて天国へ召されると説く。前者があり得ぬごとく後者も絶対にあり得ぬ。魂の成長は1日1日、一刻一刻の歩みによって築かれていくのである…続きを読む→