【3/11】霊界通信 ベールの彼方の生活 2巻 「天界の高地」篇 2 “光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず”

1913年12月3日 水曜日

昨日取りあげた話題をもう少し進めて、私の言わんとするところを一層明確にしておきたい。改めて言うが、エネルギーの転換についてこれまで述べたことは“用語”の定義であり“本質”の説明ではないことをまず知って欲しい。

貴殿の身のまわりにある神的生命の顕現の様子をつぶさに見れば、幾つか興味ぶかいものが観察されるであろう。まず、人間にも視覚が具わっているが、これも外部に存在する光が地球へ向けて注がれなければ使用することは出来まい。

が、その光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで決して同じ性質を保っているのではない。と言うのも、人間は太陽を目に見えるものとしてのみ観察し、各種のエネルギーの根源とみている。

が、光が太陽を取りまく大気の外側へ出ると、そこに存在する異質の環境のために変質し、一たん人間が“光”と呼ぶものでなくなる。その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、たとえば地球の大気圏に突入すると、そこでまたエネルギーの転換が生じて、再び“光”に戻る。太陽から地球へ送られて来たのは同一物であって、それが広大な暗黒層を通過する際に変質し、惑星に衝突した時に再びもとの性質に戻るということである。

「光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず」(ヨハネ福1・5)この言葉を覚えているであろう。これは単なる比喩にはあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。しかも神は1つであり、神の王国も又1つなのである。

光が人間の目に事物を見せる作用をするには或る種の条件が必要であることが、これで明らかであろう。その条件とは光が通過する環境であり、同時にそれが反射する事物である。

これと同じことが霊的環境についても言える。吾ら霊的指導者が人間界に働きかけることが出来るのは、それなりの環境条件が整った時のみである。ある者には多くの真理を、それも難なく明かすことができるのに、環境条件の馴染まぬ者にはあまり多くを授けることが出来ないことがあるのはそのためである。かくて物的であろうと霊的であろうと、物事を明らかにするのは"光"であることになる。

この比喩を更に応用してお見せしよう。中間の暗黒層を通過して遥か遠方の地上へと届くように、高き神霊界に発した光明が中間の界層を経て地上へと送り届けられ、それを太陽光線を浴びるのと同じ要領で浴びているのである。

が、更に目を別の方角へ向けてほしい。地球から見ることのできる限りの、最も遠い恒星の更に向こうに、人間が観察する銀河より遥かに完成に近づいた美事な組織が存在する。そこにおいては光の強さは熱の強さに反比例している。

と言うことは、永い年月に亘る進化の過程において、熱が光を構成するバイブレーションに転換されていることを暗示している。月は地球より冷たく、しかもその容積に比例して計算すれば、地球より多くの光を反射している。

天体が成長するほど冷たくなり、一方、光線の力は強くなってゆく。吾々の界層から見るかぎりそうであり、これまでこの結論に反する例証を1つとして観察したことはない。

曽てそのエネルギーの転換の実例を私の界において観察したことがある。ある時、私の界へ他の界から一団の訪問者が訪れ、それが使命を終えてそろそろ帰国しようとしているところであった。吾々の界の一団 – 私もその一員であった – が近くの大きな湖まで同行した。

訪れた時もその湖から上陸したのである。いよいよ全員がボートに乗り移り、別れの挨拶を交わしていた時のことである。吾々の国の指導者格の天使の1人がお付きの者を従えて後方の空より近づき、頭上で旋回しはじめた。

私はこの国の慣習を心得てはいるものの、その時は彼ら – というよりはその天使 – の意図を測りかねて、何をお見せになるつもりであろうかと見守っていた。この界においては来客に際して互いに身につけた霊力を行使して、その効果をさまざまな形で見せあうのが慣習なのである。

見ていると遥か上空で天使のまわりを従者たちがゆっくりと旋回し、その天使から従者へ向けて質の異る、従って色彩も異るバイブレーションの糸が放たれた。天使の意念によって放射されたのである。

それを従者が珍らしい、そして実に美しい網状のものに編み上げた。2本の糸が交叉する箇所は宝石のような強烈な光に輝いている。またその結び目は質の異る糸の組み合わせによって数多くの色彩に輝いている。

網状の形体が完成すると、まわりの従者は更に広がって遠くへ離れ、中央に天使1人が残った。そして、出来あがった色彩豊かなクモの巣状の網の中心部を片手で持ち上げた。それがふわふわと頭上で浮いている光景は、それはそれは“美しい”の一語につきた。

さてその網は数多くの性質をもつバイブレーションの組織そのものであった。やがて天使が手を離すとそれがゆっくりと天使を突き抜けて降下し、足もとまで来た。そこで天使はその上に乗り、両手を上げ、網目を通して方向を見定めながら両手をゆっくりと動かして所定の位置へ向けて降下し続けた。

湖の上ではそれに合わせて自然発生的に動きが起こり、ボートに乗ったまま全員が円形に集合した。そこへ網が降りてきて、全員がすっぽりとその範囲内におさまる形でおおい被さり、更に突き抜けて網が水面に落着いた。そこで、その中央に立っている天使が手を振って一団に挨拶を送った。するとボートもろとも網がゆっくりと浮上し、天高く上昇して行った。

かくて一団は湖上高く舞い上がった。吾らの一団もそのまわりに集まり、歌声とともに道中の無事を祈った。彼らはやがて地平線の彼方へと消えて行った。
こうした持てなしは、他の界からの訪問者に対して吾々が示すささやかな愛のしるしの一例にすぎないもので、それ以上の深い意味はない。

私がこれを紹介したのは実際には以上の叙述より遥かに美しいものであったが – 強烈な霊力を有する天使の意念がいかにエネルギーを操り質を転換させるかを、実例によって示すためであった。

目を愉しませるのは美しさのみとは限らない。美しさは天界に欠かせぬ特質の1つにすぎない。例えば効用にも常に美が伴う。人間が存在価値を増せば増すほど人格も美しさを増す。

聖は美なりとは文字どおりであり真実である。願わくば全ての人間がこの真理を理解して欲しいものである。†

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†