【9/22】モーゼスの「霊訓」(下)第33節 通信、終息へ

[第4節で作曲家アーンの生涯について綴られた細かい事実を紹介したが、1873年9月12日には他に3人の作曲家、ベンジャミン・クック Benjamin Cooke ヨハン・ペプシュ Johann Pepusch ウェレスリー・アール Wellesley Earl sの生前の事実や日時についても、同じように細かく、かつ正確な言及がなされた。

3人とも私の知らない名前だった。まるで人名辞典のような簡略な記述で、内容的には他愛もない些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容です。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれわれの目的です。地上生活のこまごましたことは今のわれわれには興味はない”と述べている。

1874年7月16日。病気で部屋に籠っていたところ、右の3人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていたひとりの人物と密接な関連のある内容だった。

この度の霊はジョン・ブロウ John Blow といい、“クリストファー・ギボン Christopher Gibbon の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル Henry Purcell の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。

生没年を質すと1648年~1768年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態で“たまたま”部屋に引き籠っていたから得られた情報である。

実はそれよりもっとプライベートな証拠が、1873年10月5日に届けられていた。4節で書物からの“読み取り”ができる霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは、およそのことは私も不案内というわけではなかった。

と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは、私には付いていけないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手なタチなのである。

生まれつきそうした細かいことを扱いきれないのと、幅広い視野で物事を総合的に把握することの方が実際的であるという信念から、私は常日頃からそういう習慣をつけるべく努力してきた。

その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんどすべてが顕微鏡的な細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。

同じ頃、中世の錬金術学者ノートン Norton の著書からの26行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をあとで校合(きょうごう)しようとしたが、困難をきわめた。と言うのは、関係書が乏しく、ノートンに関しては生没年すら曖昧なほどで、ほとんど知られていないからである。

通信によると古代のオカルト学者で霊媒的素質があり、それで地上へ戻りやすいということだった。そして彼の著作に、詩文で書かれた The Ordinal or Manual of Chemical Art(1)というのがあり、ヨーク大主教のネビル Richard Neville(2)に捧げられたものだった。

他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。

が、もうひとつだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊がみずからその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は、出席していた者の誰ひとりとして知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。

1874年3月25日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。すると – ]

無名の女性の出現

あの霊はシャーロット・バックワースと名のっていたが、その通りです。われわれとは特に関係はないのであるが、たまたまあの場に居合わせ、貴殿にとって証拠になると考えて、通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはありませんでした。

それをわれわれの手で改善することはできませんでした。非常に乱れていました。あのような日の後はえてしてそういうものです。貴殿が巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気が、われわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのです。

– 霊媒能力をもつ4人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。

貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようです。あの時に通信した女性霊は100年以上も前に地上を去った者で、1773年に急死し、何の備えもないまま霊界へ来た。

ジャーミン通りの友人の家で他界している。そこで娯楽パーティに出席していた。たぶん彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもありません。

[ここへ連れてきてほしいと言ったところ、それは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何かほかに知っていることがあるかと尋ねた。]

あります。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めて、しばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで、地上への雰囲気に近づいておりません。

雰囲気が調和性のある場所に引かれています。それは彼女の性格に愛らしさがあるからです。他界のしかたは急死だった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。

– 死因は?

心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しくて愛らしい性格ではあったが、いたって無頓着な娘だった。

– 何という人の家で、どこにありましたか。

われわれには分りません。彼女自身から告げることになろう。

[このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信が届けられた。私は忙しくて寛いだ気分になれないので、ペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされた。]

シャーロットが他界したのはドクター・ベーカー Dr.Baker とかいう人の家であったことを確認しました。12月5日です。それ以上のことは分りません。が、以上で十分であろう。

レクター

身元を確認

[通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で叶えられた。当初右の事実を確認する手掛かりはまず無いとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた3人で談笑したことがあった。

その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人 – A氏と呼んでおく – が1番上の棚の本を取り出すためにイスを運んでいった。

そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏はほこりの中から1冊を取り出し“1年1年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載ってないことは無いほどですよ”と言った。

それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある方ならよくご存知の、いわく言い難い閃きだった。内的感覚に語りかけられた声のようなもの、と言ってもよい。

そこで私は、1773年版の年鑑を探り出して、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。

その本は厚くほこりを被り、5年ほど前にそこに置かれてから1度も動かされた形跡がなかった。私の記憶では、その年鑑はきちんと配列されていた。そして1度も手を触れた跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰ひとりとして取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。

このことに関してひとつだけ付け加えておくと、1874年3月29日にあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じだった。

署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは、私には読めなかった。結局それは私の知らない老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で、100歳近い高齢で他界していることが分った。

姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。

メッセージを伝えたそもそもの日付(と思われるもの)は、その婦人が1872年12月に他界しているという注目すべき事実を伝えることで、“天寿を完うして、地上生活の疲れを癒やしてきた”ということであった。目覚めると同時にかつての家に引き寄せられ、それからすぐ近くのわれわれのサークルに引き寄せられたという次第である。(3)

通信の終息

この件にかぎらず、霊の身元に関するものはすべてインペレーターが指示しており、私がしつこく要求してきた身元の確認、というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。

そのいずれも、明らかに計画性をもって運ばれていることがわかる。私からの勝手な要求が容(い)れられたことは1度もなく、その計画を変更させることは、ついに出来なかった。通信の連続性がこの頃から途切れている。このあたりで一応区切りをつけるのが妥当であると考える。

時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて1879年(4)ごろを境に、この自動書記による通信は事実上終りを告げ、もっと容易で単純なものに代ってしまった。

私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取りあえず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。

本書を締めくくるに当たってあえて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。

しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めてきた一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在がたゆむことなく働きかけ、そしてついに成功したという事実をもし理解できないとしたら、その人は、本書の真の意義を捉え損ねたことになるであろう。](完)

[注釈]

(1)直訳すれば「化学的技法の手引き」

(2)15世紀の英国の貴族・政治家。

(3)震える文字で書かれたということは、晩年はそういう症状が出ていたことを示唆しているが、それは必ずしも、霊界で今も震えているということではない。地上界に戻ると、なぜか、死に際の身体的ならびに精神的な特徴が再現されるというのが一般的な傾向である。

(4)インペレーター霊団による通信が終ったということで、その後も残り火のような形で断片的な通信があったようである。幼児の落書きのようなもので始まってからの年数はほぼ十年にわたっていることは事実であるが、『霊訓』のエッセンス、つまりインペレーター霊団が意図したものが届けられたのは一九七三年から七五年にかけての三年間に集中している。それをモーゼスがすんなりと受け入れなかったというだけである。

なお本節に出てくる日付を見ると、モーゼスは必ずしも古いものから新しいものへという順序にこだわらずに、内容を中心にして編集していることがわかる。

「片手落ちというものがありません」あくまでも霊界側の視点でのお話です(祈)†■2022年6月1日UP■
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「続けられなくさせられる」霊的使命遂行を続けられなくさせられるという意味です(祈)†■2022年11月16日UP■
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「我々の言葉を信じなさい」帰幽後に全ての埋め合わせがおこなわれるという意味です(祈)†■2023年3月8日UP■
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2000年前のイエス様が物質界に降下しておこなった仕事はもちろん「霊的知識普及」であり「神のご意志遂行」であり、それが現在も「スピリチュアリズム普及」というカタチで継続しているのです。このスピリチュアリズム普及の霊界での総指揮官はイエス様です。どうか霊関連書籍でお勉強して頂きたいです。そのイエス様が、一体何がどうなっているのか僕などというよく分からない画家に「怒涛の連続顕現」で霊的仕事を猛烈にお願いしてきたのです。僕は激しく拒絶しましたが1週間近くイエス様に何とも言えない表情で怒涛にお願いされ続けて僕は根負けしてしまい、この使命遂行をやる“ハメに”なってしまったのです。それから10年(霊性発現が2012年6月、隔離フィールド発動(事実上の使命遂行開始合図)が2014年7月ですから正確にはほぼ9年という事になるでしょうか)僕はずっとそのイエス様と約束した仕事を続けてきたのです…続きを読む→

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Posted by たきざわ彰人(霊覚者)祈†