コナン・ドイルが近代医学を修めて眼科医として開業したころは、折しも米国で勃興したスピリチュアリズムの潮流が英国へ流入して、第一線の科学者や知識人も黙視していられないほどに話題が沸騰していた。が、唯物的人間観で埋めつくされていた当時のドイルの頭には、霊的なものの入る余地はまったくなかった。
が、百の理論も1個の事実には敵わない。そのうち自分が主治医をしていた海軍将校に招かれて交霊会に出席し、物品引寄(アポーツ)という、物理法則を完全に無視した現象を目(ま)のあたりにして、それまでの唯物観に亀裂が生じた。ドイルにとっての人生の大転換はその時に始まり、スピリチュアリズムを真剣に勉強するようになっていった。
私事で恐縮であるが、私にとってのスピリチュアリズムとの出会いは18歳の時、高校3年生になりたての頃だった。
死とは何だろう、今なぜ自分はここにいるのだろうと、ひとり前に人生に疑問を抱き、当時人気の高かった『三太郎の日記』や『哲学入門』などを読みあさっていた時期に、本文の訳註でも述べたが、私の生涯を決定づけることになる間部詮敦(まなべあきあつ)という霊能者との出会いがあり、その直後にこんどは津田江山という、当時いちばん脂の乗り切っていた物理霊媒による実験会が福山市で開かれて、母の理解もあって、出席することができた。
百聞は一見に如(し)かず、とは言い古された諺であるが、やはり真理である。そのたった1回の心霊実験会での体験で、私は人間の能力をはるかに超えた目に見えない知的存在の実在を骨の髄まで思い知らされた。これまで世界の心霊現象に関する記録を読んできて、津田江山氏の能力は世界的にも遜色のないものだったことを知って、自分の幸運を感謝しているところである。
以来40年近い人生の中で、死後の実在を真剣に疑ったことは1度もない。20代にはふと疑念が頭をもたげかけたことがあったが、その実験会のことを思い起こすと、その疑念も立ちどころに消えた。それほど実験で見た心霊現象の印象が強烈だったのである。
しかし、今と同じ個性と意識をたずさえて死後にも存在し続けることは間違いない事実であるとしても、それで自分とは何か、人間とは何かという命題がすべて解決するわけではない。“生”と“死”の哲学が“生”のみの哲学となるだけのことである。
この“人間とは何か”という命題にはふたつのアプローチの仕方があるように思う。ひとつは、人間の構成要素はどうなっているのかという視点、もうひとつは、自我という意識の本体は何か、そしてどこにあるのか、という視点である。
このうち最初の構成要素の問題は訳註でイラストを掲げておいたのでご覧いただいたことと思う。スピリチュアリズムではこれが定説となっており、スピリチュアリズム以外の分野でも、霊視能力者は同じような説、いわゆる“四魂説”を説いている。私は、これはもはや間違いない確定的事実であると断定してよいと考えている。
が、誤解しないでいただきたいのは、この4つともあくまでも“媒体”であって“自我”そのものではないということである。では、その“自我”、こうして意識している“自分”とはいったい何なのであろうか。
生まれ出た時、われわれは泣くことと乳房に吸いつくこと以外、自力では何ひとつできなかった。それがやがて笑うようになり、寝返りをうつようになり、ハイハイができるようになり、お座わりができるようになり、やがてつかまり立ちができるようになって、親は大騒ぎをする。
大騒ぎして喜ぶということは、それが大変な日数と努力を要する、お目出たい、有り難いことであることを物語っている。確かに、不幸にして順調にそうは行かない子もいるのである。しかも、そうした一連の成長過程の何ひとつとして、親が教えたものはない – みな自然発生的にそうなった。一体その原動力となっているのは何なのであろうか。
さらにその後、まさに驚異といえる人間特有の才能が芽生えてくる。ことばが話せるようになる。文字が読めるようになる。数がかぞえられるようになる。絵をかき、歌をうたい、詩に感動し、恋を知り、理性に目覚める。
その反対の感情として、人を憎んだり怨んだり、怒ったり悲しんだりすることは、精神衛生上からいうと“不健康”なことかも知れないが、最初は目に見えないほど小さな精子と卵子の結合体にすぎなかったことを思うと、私にはそれも素晴らしいことに思えてくるのである。
一体どこからそういう意念や情念が湧いてくるのであろうか。自分の意識では抑え切れないことがあるところを見ると、どうやら今の意識そのものではなさそうである。
実はスピリチュアリズムとの出会いがあって間もないころに私は、日本におけるスピリチュアリズムの草分け的存在である浅野和三郎の著書で日本の古い資料を現代風にアレンジした『幽魂問答』というのを読み、それが“自我”に関する疑問にいろいろとヒントを与えてくれているような気がして、40年余り私の心の隅にひっかかっていた。それが4年前の昭和63年の春ごろから再び脳裏をかすめるようになった。

宮崎大門『幽顕問答』(表紙)
それまでの40年余り、スピリチュアリズム関係の著書を枚挙にいとまがないほど読んできて、私自身は、さきほども述べたように、“生と死”から“生”のみの生命観へと転換し、それを当たり前のように理幽解していたのであるが、なぜか『幽魂問答』だけは趣(おもむき)が違うような思いがしてならなかった。
それは多分、主人公の加賀武士の霊が由緒正しい大名の家柄で、武士道精神の固まりのような凜々(りり)しい青年であり、それが“数百年”もの歳月をかけて宿願を果たしたという、尋常な時間感覚を超えたドラマチックな物語だったからかも知れない。
ともかく私はそれを書棚の奥から引っぱり出して、もう1度読み直した。80ページばかりの短いもので、あっさりと読み通したが、読み終えて、ふと、浅野氏は何をネタにしてこれを書いたのだろうか – どこかに原典があって、それをアレンジしたに違いないから、その原典はどこかにあるに相違ないと思い、日本心霊科学協会をはじめとして、日本の心霊関係の機関に電話で問い合わせたが、そういうものはないし、もしあったらウチの方が欲しいくらいだといった返事ばかりだった。
そこで、そのドラマの舞台となった福岡県内の主な古書店に片っ端から電話で聞き合わせてみたが、見たことも聞いたこともないという返事ばかりなので、意を決して、五月の連休を利用して福岡の県立・市立両図書館を訪ねてみた。
そして、幸い郷土史家の協力もあって、それが、A3判ぐらいの和紙44枚をふたつ折にして綴じた、宮崎大門(おおかど)記『幽顕問答』であることが分かった。福岡県文化会館・太田資料No.281として保管されているもので、県立図書館の特別の厚意で全ページをコピーさせていただいた。
見出しは〈天保十年丁亥八月廿四夕陰靈出現發端之事〉となっていて、漢字とカタカナで綴られ、ところどころに小さい文字で“註”が施されている。
一種の憑依現象で、発端から一件落着までの時間は、延べにして20時間ほどにすぎないが、事の成り行き上“さにわ”の役をすることになった宮崎大門という宮司がよほど直観力の鋭い人だったらしく、最初からこれはただならぬ現象であると見抜いて細かくメモを取り、漢方医の吉富養貞にもメモを取らせておいて、帰宅してから徹夜でそれをつき合わせて整理し、清書したものだという。
概略を述べると、話は天保10年、西暦1839年のことで、米国におけるハイズビル事件の約10年前、ペリーが黒船来航する10数年前のことである。その7月4日のことであるが、筑前(福岡)の酒造家・岡崎伝四郎の若主人・市次郎が急に熱病にかかり、寝ついたきり2か月たっても一向に回復せず、からだはやせ衰える一方で、餓鬼のようになってしまった。
何人もの医者に診てもらったがまったく効果が見られないので、伝四郎は近くの神社の宮司で修法家の宮崎大門に依頼して、神道流の加持祈禱をしてもらうことにした。
その大門が訪れた時は、市次郎はもはや重態におちいっていて、数人の医者と家族・親戚、それに近所の人たち3、40人が集まって心配そうに見守っていた。
大門は急いで加特に取りかかることにして、まず祝詞を上げて祈念したあと、大刀を振りかざして呪文を唱えながら振り下ろすことを何度か繰り返すうちに、重態だったはずの市次郎がむっくと起き上がって布団の上に正座し、眼光鋭い眼差(まなざ)しで、大門が大刀を右へ振れば右へ左へ振れば左へと、油断なくその切っ先を見つめ、まばたきひとつしない。
その時の様子を大門は傍註で、《この時の趣はなかなか短筆にては書き取り難し。その座に居合わせたる3、40人の人々、それを見てよく知るところなり。面色みな青ざめ、身の毛もよだちしと、のちに言えり》(漢字・仮名づかいなどは修正。以下同じ)
と解説している。2か月近くも病床にあって髷(まげ)も解け、ざんばら髪となった上にひげも伸び放題だったので、そのものすごい形相が目に浮かぶようである。
さて大門の加持が終ると、市次郎は両手をひざの上にきちんと置いて一礼し、ついに口を開いてこう述べた。
「これほどまで懇(ねんご)ろに正しき道筋を立てて申される上は、もはや何をか包み隠さん。元は加賀の武士にて、故あって父とともにこの地に至り、無念のことありて割腹せし者の霊なり。これまで当家に祟(たた)りしが、いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」いまだ時を得ずにまいった次第。一筋の願望あってのことでござる」
そこで大門が、何の目的あってこの地に来(きた)り、いかなる無念のことあってのことかと尋ねると、「余は父を慕いてはるばるこの地に来りし者なるが、父はこの地にて船を雇い、単身、肥前国(佐賀)唐津へ赴きたり。別れ際に父は余に向い、“汝は是非ともこのまま本国(加賀)へ帰れ。1歩たりとも余についてくることはならぬ”と言い放てり。このことには深きわけありて、今あからさまには告げ難し。さらに余が強いて乗船を乞うとも、父はさらに許さず、“どうしても帰国せぬとならば、もはや吾が子にあらず”と申せり。
かくまで厳しく言われては、子たる身の腸(はらわた)に徹して、その言に従うこととなれり。さりとて、本国へは帰り難き仔細あり。父が出船せしのち、取り残されたる吾が身はひとり思いを巡らせど、義に詰まり理に逼(せま)りて、ついに切腹して果て、以来数百年の間、ただ無念の月日を送りたり。吾が死骸は切腹したるまま土中に埋もれ、人知れず朽ち果てたり…」
そう述べた時には目に涙すら浮かべて、世にも悲しげな表情だったという。“国元へ帰り難き仔細”というのは、あとで武士みずから明かしたところによると、この武士の家は加賀の殿様から三振りの刀を下賜されたほどの誉(ほま)れ高い家柄だったのが、あるお家騒動で父親が濡れ衣を着せられ、殿の怒りを買って国外追放となったという。
その出国に際して当時17歳だったその武士も、ぜひお供をしたいと思い、再三そう申し出たのであるが、父親は断固としてそれを拒(こば)み、お前は我が家のたったひとりの男児なのだから居残っ家を再興してほしいと頼み、母親にもその旨を言い含めて出立したのだった。
が、その後も父を慕う思いを抑え切れないその武士は、ついに母親の制止を振り切って、伝家の宝刀を携えて出国し、諸国を訪ね歩いて、6年ぶりに父に再会した。右の話はその時のことである。そのあと大門と武士との間で次のような問答が続いている。

泉熊太郎の霊を祀る祠(階段の上)
大門「何のためにそれほどまで人(市次郎)を悩ましむるや」
「ひとつの願望あり。その事を果たさんとてなり」
大門「ひとつの願望とは何のことぞ。切腹したる時は何歳なりしや。姓名は何と名のられしぞ」
「余の願望は一基の石碑を建てていただくことにて、その一事さえ叶えてくださらば今夕にも当家を立ち退く所存なり。その一念を抱きつつ時と人とを得ぬまま、ついに数百年の歳月をへて、今ようやくその機に臨むことを得たり。切腹したるは22歳の7月4日。次の姓名の一儀にいたりては、何分にも今さらあからさまに明かし難し」
大門「姓名を名のらずして石碑の一儀をたやすく受け合うわけには参らぬ。姓も名もなしに敢えてその事をなすは、道にあらず。よって、そこもとの望みは承諾できぬ」
「武士たる者、故ありて密かに国を退(ひ)きては、姓名を明かさぬが道なり。さりながら、名のらずしてはその一儀受け合い難しとの御意(ぎょい)、一応もっともなり。受け合わずばこれまで人を悩ましたること、その甲斐なし。
されど、石碑建立(こんりゅう)の一儀を叶えてくださらば、さきに申せしごとく即刻引き上げ、市次郎も平癒に及び、以後は人を悩まさず、また当家への祟りも止むべし。祟りを止め当人平癒しさえすれば、明かし難き姓名を明かさでもよろしきにあらずや。かくまで懇ろに取り計らっていただくからには、申してもよき事ならば何故に包み隠しましょうぞ。武士道に外(はず)ればこそ隠すなり」
大門「そこもとの申す筋合は一応もっともなれど、姓名を刻まぬ石碑を建立するは神道の方式に適わず。よってそれに背きてまで石碑を建つわけには参らぬ」
「是非にも姓名を明かさざれば受け合えぬとのことか…今となりては如何にせん。姓名を偽るはいと易けれど、吾が本意(ほい)にあらず。実名を明かさでは、また道にあらず。君に仕えし姓名を私事(わたくしごと)の願いのために明かさではならざる身となり果てたるは、さても吾が身ながら口惜(くちお)しき次第なり。打ち開けざれば願望ならず、願望ならざればこれまで人を悩ましたる事みな徒労となるなり…」
と言って大きく嘆息する。そして、しばし俯(うつむ)いていたが、やがて内心ついに観念したとみえ、近くの者に、「紙と硯(すずり)とを貸せよ」と言い、それを受け取ると静かに墨をすり、紙面に〈泉熊太郎〉と書き、それを手にして、「石碑は高さ一尺二寸にして、正面には七月四日と書けばよろし。この姓名は決して他に漏らすまじきぞ」
と言い、改めて筆をとって石碑の形まで書き記し、さらに〈七月四日〉と書き添えた。

宮崎大門筆の“高峰大神”と熊太郎筆の“七月四日”が刻まれている
もっとも、最終的には写真でごらんの通りの大きなものとなり、祠(ほこら)までしつらえてもらっている。そして150年ほどたった今でも、7月4日には近隣の人々が集まってささやかな供養をしているという。
写真は私自身が現地を訪れて撮影したものである。武士特有の気概が全編にみなぎる、日本人にとって実に興味津々たる心霊譚で、その意味でも、世界に類を見ない貴重な資料であるといえる。同時に、焦点を“自我の本体”に置いて読むと、きわめて示唆に富む事実をいくつか見出すことができる稀有な資料であるとも言える。

熊太郎自筆の「誓約書」
そのひとつは、加賀の武士と名のる霊の書いた毛筆の文字が、衰弱しきった重態の市次郎にはとても書けないほどの筆勢あふれる達筆であると同時に、近代では見かけない古書体も混じっていることである。ここに紹介したのは“2度と憑依はいたしません”という約束を書いた“誓約書”で、これを宮崎はこう書き下している。
《此の度大門御剣を以て拙者立ち退く様、心苦仕る趣に相見、天保十年八月二十四日夜、御剣を奉拝、此の上の仕合せ過分に存じ、同夕此の家を立ち退き、以来此の家(に限らず、人を悩まし候儀、急度相慎み候)》
この事実は、毛筆で書くという一種の技術的ないし芸術的才能は“脳”にあるのではないことを物語ってはいないだろうか。
次に、熊太郎が6年にわたって父を求めて尋ね歩き、ようやく芸州(広島)で出会うまでの道中のことは一切述べられていないが、それからのち、父親が夜のうちにこっそりと宿を出て小倉へ向かったことを知って、すぐにそのあとを追い、3か月後に小倉で再び父の姿を見つけるが、非情にも父親は息子に一瞥もくれずに、こんどは唐津へ向けて舟で行ってしまう。
この時点で熊太郎は絶望的になり、死に場所を求めて博多湾沿いの村をいくつか通りすぎるのであるが、大門の問いに対して、熊太郎はその村々の名をきちんと答えている。ということは、数百年たった今もその地名を記憶していたことになる。
私も念のためにそのいくつかを確認してまわったが、村のたたずまいや岸辺の風景は熊太郎の叙述とはかなり異なり、村が町になり、小さな港町が交通の要衝となったりしてはいるが、地名そのものは今もそのまま残っている。このことから、“記憶”も脳にあるのではないということが言えるのではなかろうか。
これに関連したことで実に興味ぶかいのは、在世中のおよその時代をつき止めようとして大門が出した質問に対する返答が、やはり市次郎の記憶では有り得ないことを物語っていることである。次がそれである。
大門「そこもとの在世中のことは極秘になされたき意向をくみて尋ねることを控えるが、当時の都(みやこ)は大和なるや山城なるや、はたまた近江なるや」
「すでに山城に定まりて後なり。延暦(えんりゃく)よりはるか隔ちたり」
大門「ご当代になりて後か」
「ご当代?」
大門「家康公ご治世の後か」
「家康公?さようなことはいまだ聞き申さず」
大門「頼朝公前後か」
「そのことはこれ以上お尋ねくださるな。年号と君父のことは決して語らずと、先夕申せしにあらずや」
脳が肉体の中枢器官であることに疑問の余地はないとしても、その奥に何かが存在して脳を操っていることになりそうである。それを宗教的には“霊(スピリット)”とか“魂(ソウル)”と呼び、心理学では“精神(マインド)”と呼んでいる。
これまではそれも脳の派生物として捉えようとしてきたが、右のいくつかの事実から明らかなように、脳や肉体とはまったく別個の意識体 – 本来の自我が存在するらしいのである。
もうひとつ指摘したい事実は – これは全編を通じて一貫して見られる特徴であるが – 熊太郎は“武士”であることに誇りを持ち、いずれは大名になる家柄であることを意識していた精神構造が随所に窺われることである。
たとえば、当時の加賀の殿様の名前を何度訊ねられても、自分のような恥さらしの人間の口から言うのは畏れ多いという一種の“主君への忠義”から、最後まで口を割らなかった。
現代人の常識からすれば、そもそも父親を国外追放処分にしたのはほかならぬ殿なのであるから、その殿に対して今さら忠義立てする必要はないのではないかと言いたくなるが、そこが武士道の世界なのであろう。
姿格好は病気でやせ細った市次郎でありながら、それが端座して、3、40人の者を前にして死後の世界についての人間の無知と誤解を諭(さと)す時などは、まるで大名が家臣の者たちに言って聞かせるような風情があり、家の者が湯茶などを差し出す時は思わず平伏してしまい、父親の伝四郎も、日頃息子に使用していた言葉がどうしても出なかったという。
こうした事実から、われわれが日頃の生活の中で身につけている精神上の性格や習性、教養、嗜(たしな)み、物の言い方なども、肉体が滅んだあともそっくりそのまま残っていることになりそうである。
ところで、この武士は自分が生きていた年代のことは“武士たる者の忠義”として最後まで明かさなかったが、問答の様子から判断して、どうやら源頼朝の時代(12世紀後半)より少しのちらしいことが推察される。
となると、少なくとも5、600年は経っていることになるが、本人が言うには、その間ずっと割腹自殺した場所にいて、時おり霊界を訪れたり地上界をのぞいたりしながらも、ひたすら石碑建立の願望の達成のために、岡崎家の親族・縁者に働きかけていたという。
れわれ生身の人間の時間感覚からすると、いい加減うんざりしそうなものだと言いたくなるこれは、肉体の生理的リズムと太陽の動きを基準にした地上の時間感覚がそう思わせるだけで、霊の世界には地上でいう時間は存在しないらしいのである。
さきにも述べたように、われわれは生まれ出た時から、否、母親の体内にいた時から地球という物理法則に支配された環境で生きていくための訓練をし、それが当たり前のこととなるまで体得してきている。従って、その感覚にそぐわないことは信じられないようになっている。
かといって、ではわれわれは人体のしくみ、たとえば“見える”とか“聞こえる”という現象のメカニズムが自分で理解できているかというと、一般の人間はおろか、専門に研究している人にとっても不思議なことだらけで、なぜそうなるのかとなるとひとつも分かっていないのが正直なところであろう。それでいてちゃんと“見え”、ちゃんと“聞こえて”いる。そこがまた不思議である。
そう考えてくると、人間がこの肉体以外に目に見えない身体をそなえていて、死後はその身体で生活すること、しかも地上で身につけた精神的なものは何ひとつ失われることがないこと、それどころか、思いもよらなかった能力や感覚が現われて、地上生活にくらべたら夢のような世界が展開していることを知る、といった事実を前にして、これを頭から否定すべき根拠はどこにもないことになる。
とは言うものの、やはり死後の世界の存在は容易には信じ難いことも事実である。そこで私は、こう考えたらよいのではないかという、ひとつの見方を提案してみたい。
私は原子エネルギーについては、自分の身体のしくみについて知らないのと同じくらい、専門的なことはまるで知らないし、その道の書物を読んでも理解できないのであるが、常識的な捉え方として、原子が物質を構成する極微の粒子であること、そしてその中心にある核を分裂させたり融合させたりすることによって、途方もないエネルギーを発生させることができる、といった程度に理解して間違いないであろう。
こうした図式を人間の“自我”ないし“意識体”についても当てはめてみてはどうであろうか。肉体のほかに幽体・霊体・本体という目に見えない身体があることはまず間違いない事実であるとしても、それらもあくまで自我が使用する媒体であって、自我そのものではない。
自我の本体は肉眼では見えないし、いかなる計量器でも捉えることはできない。が、それが地上生活のすべてを支配すると同時に、物的環境による制約を受け、われわれはそれを当たり前のこととして、慣れ切っている。
それが1848年のハイズビル事件以来、数多くの霊媒と学者による科学的な研究によって、人生の終りと思っていた墓場の向こうにも想像を絶した世界が広がっていて、肉体から脱け出た自我は、肉体という物的制約によって発現を抑えられていた霊的能力や感覚を発揮して、今もなお、その広大無辺の世界で躍動に満ちた生活を送っていることが分かってきた。
物質を分析しながらつき進んでいったら原子という目に見えない基本粒子に行きつき、その核に莫大なエネルギーが潜在していることを知った人類は、こんどは脳のしくみの奥に目に見えない自我の本体があって、それにも無限の可能性が秘められていることを知るところまで来た、ということである。
本書で紹介されたものはスピリチュアリズムのごく一部 – 大ざっぱなスケッチにすぎない。
が、願わくは読者が、ドイルほどの知性と教養と名声をそなえた人物が、存在の不思議を意識しはじめた青年時代から40年余りをかけて調査・探求した結果、“死後の世界”は間違いなく実在する – しかもそこは地上よりはるかに素晴らしい世界である、ということを確信するに至ったその経過を取りあえず紹介した“序説(プロローグ)”として、本書を、人間とは、自分とは、人生とはという古今の大問題を真剣にお考えいただく縁(よすが)としてくだされば、書物としては古いものではあっても、紹介しただけの価値があったと、訳者としてうれしく思う次第である。
平成4年1月
近藤千雄
※表紙テキスト
“電話のベルが鳴る仕掛けは他愛もないが、それが途方もない重大な知らせの到来を告げてくれることがある。心霊現象は電話のベルにすぎなかったのだ” – ドイルはそう述べて、大切なのは現象そのものではなく、それが示唆している死後の世界の実在と、それを土台とした霊的人生思想、すなわち近代スピリチュアリズムであると主張する。
霊性を失った既成宗教ではもはや、悩める魂も、病める地球も救えないと断ずるドイルが、その破天荒の処方箋を本書で提示する…
訳者
※裏表紙テキスト
スピリチュアリズムの夜明け
山本貞彰(元牧師 スピリチュアリズム研究家)
これはコナン・ドイルの真相について我が国で初めて紹介される画期的な著作である。著者ドイルが他界して60年以上も経過しているのに、本来の彼の姿がよく知られていないことに驚かされる。
ドイルはかなり若い頃からスピリチュアリズム(地球浄化の原理)に接近し、40年近い研究と検証を重ねた結果を本書に著した。これによって多くの読者は、ドイルがいかに霊的洞察力に秀でた人物であったかを識ることができるであろう。
この度、我が国に於けるスピリチュアリズム研究の第一人者、近藤千雄氏の手によって翻訳され、ドイルの真の心が伝えられることは実に意義深いことである。
世におもねる心霊関係図書が氾濫し、マスコミが人々の好奇心をあおる中で、スピリチュアリズムの正道を地道に歩まれてきた孤高の訳者の努力が日の目を見ることに快哉を叫ぶものである。本書によって、我が国にスピリチュアリズムの夜明けが到来する有力な契機となってほしいと心から念じる次第である。
※著者紹介テキスト
アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)
エジンバラ大学医学部卒。26歳で医学博士号を取得。32歳で眼科医院を開業するがその年のうちに廃業。“ホームズ”シリーズで生計を立てながら心霊現象に関心を抱き、死後の生命を確信。晩年には世界各地でスピリチュアリズム思想を講演。スピリチュアリズム関係の著書としては本書に収められた2編のほかに、大著『スピリチュアリズムの歴史』を含む10数冊がある。
※訳者紹介テキスト
近藤千雄(こんどうかずお)
昭和10年生。高校時代にスピリチュアリズム思想を知り心霊実験会にも出席して、死後の世界の実在を確信。明治学院大学英文科に在学中から原典を読み、その翻訳を決意して4年次で“翻訳論”を専攻。これまで2度渡英して著名霊媒・心霊治療家と親交を深める。訳書44冊、編著書3冊。英語教室経営。
■2023年11月29日UP■「この道の方が正しかった」強姦殺人魔を滅ぼさない、人生破壊が正解という意味、断じて許せぬ(祈)†間もなく僕が公言している内容を一般の方々が恐怖に縮こまる事もなく暗殺の危機におびえる事もなく当たり前のように公言する時代がやってきます。なぜなら人々を永遠に脅迫で押さえつける事は絶対にできないからです。最終的には正義が必ず勝利を収めるようになっているのです。なぜなら僕たちの心には【神】がプレゼントして下さった「理性、良心」が具わっているからです。その理性、良心がイヤでも人々を正しい行動に駆り立て、遅かれ早かれ邪悪は滅ぼされるのです、単なる時間の問題です。ただ僕の希望としては「いつか皆さまも「宇宙一のバカ」大量強姦殺人魔、明仁、文仁、徳仁、悠仁の邪悪の正体を公言するようになる」のではなく、できれば今すぐに公言して頂きたい気持ちです。僕の使命遂行をご覧の方々の多くが「たきざわ彰人ガンバレ、強姦殺人魔をやっつけてくれ」と他力本願的に思っておられるかも知れませんが、イエイエ僕という人間には全く何のチカラもありません。社会は個人が集まってできています。ひとりひとりが行動を起こす事によって大きなムーブメントになっていきます…続きを読む→
■2024年1月10日UP■「小さな思い出」この苦しみも帰幽後に笑って懐かしむようになるという意味です(祈)†僕は物的情報は専門外ですので詳細説明は控えますが、あの大震災もこの大震災もコイツらがやった事であり、罪もない大勢の国民を無差別殺害しているのです。(地球深部探査船ちきゅう号という船を使って人工地震を引き起こしているのです、詳細はぜひググって頂きたいです。第2次世界大戦時の関東大震災も、アメリカの手による人工地震です)「行動には動機がある」明仁、文仁、徳仁、悠仁が人工地震を引き起こして無関係の国民を大量殺害している理由は、使命遂行開始ごく初期の頃に霊団が降らせてきたインスピレーション「人生イコールS〇X」これに帰着します。全ては「処刑遊び」と称して奴隷の女の子を強姦殺人する遊びを続けるためにおこなっている事なのです。イヤ他にもっと理由がある事と思いますが、物事というのは突き詰めていくとシンプルに行き着くというのが僕の持論です。コイツらの行動の動機の根源を辿るとS〇Xに行き着く、自分の日々のS〇Xを守るために国民を殺しまくっているという事になるのです。…続きを読む→